邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12
#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
★わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・1
◆邪馬台国説はすべてウソだ!
日本神話虚構説も 邪馬台国説と同じで
すべて真っ赤なウソだ!
悲しいじゃないか ダマされんなんて!
愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされんなんて!
バカにされるな コケにされるな 愛しき日本国民ョ!
――邪馬台国説も日本神話虚構説も
日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊す
デタラメ、インチキ、真っ赤なウソなんだ!
◆学者たちが「約1700年前、倭女王・卑弥呼が倭国を治めていた」と記述する文献史料は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。
「わが国が中国から漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、現在、「絶対的に正しい」とされる定説である。
この絶対的な定説は、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で詳細に解明したように、まぎれもなく空理空論・空想であった。
というのも、学界がなんら疑わない「わが国が中国から漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説に反して、『魏志倭人伝』は「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国にはすでに上古から受け継がれた漢字があった」と伝える記事が2ヵ所あり、下記のごとく説明しているからである。
「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初の記事は「倭国の占いで用いられる卜辞(占いに用いる言と文字)は令亀法(れいきのほう/中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字)であった」と説明する。
もう一つの記事は「倭国と中国の魏との国交において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では一字ずつテイネイに点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換して、女王卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように努めていた」と説明する。
◆「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった。
『魏志倭人伝』が「令亀法(れいきのほう)」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」は「銀河各部の形状が字源・字形・字義となる漢字」、つまり「銀漢文字」であった。
前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」では詳細に解説して証明したように――今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)にわが国が【夏音(かおん)文字の学芸を習得していたときに、今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成理論】をも習得していた。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡は【漢字作成理論】を発明した。
倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
上の【3】の掟のために、五帝時代の「書契(しょけい)」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は文字が書いた史料が出土しないことになった。
だから、上記した『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があった」と伝える二つの記事は「わが国は夏代初頭に【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論】を共に習得した」と説明していた。ゆえに、卑弥呼はじめ王や王女や巫女(みこ)や覡(げき/神官)などが用いた夏音文字を書いた史料は、【3】の掟のために出土しないことになった。
今から約3300年前から始まる殷代(いんだ)後半の甲骨文字は4000種(4000字)を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことになった。このため、甲骨文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、わが国が今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した以後、夏音文字(上古漢字・銀河文字)は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになったのである。
【倉頡が発明した漢字作成理論】は中国において王政(王道政治)の権力基盤であった。ゆえに、【倉頡の漢字作成理論】は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。だから、【倉頡の漢字作成理論】は現在における世界や国家を破壊すると恐れられている、ロシアのプーチンが脅迫する「核」のごとき絶大な威力があった。
だから、約4000年前、王朝も国家が樹立されていなかったわが国に伝来して習得された夏音文字は、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の法理にもとづいて中国と同様に、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑になると厳重に定められていたのである。
後漢後半期の1世紀ころに出現した楷書も「漢字」とよばれる「銀漢から作られた文字」であったため、楷書の字源・字形の原形・原義もまた【倉頡の漢字作成理論】に則(のっと)って「銀河各部の形状」であったのである。だから、『魏志倭人伝』が記述しているように、伊都国の役人たちは港にて海上に昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字(夏音文字)と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書の字源を研究して、夏音文字と楷書を変換するときに差錯(誤訳)が生じないように努めていたのである。
◆以上のごとき事情によって、『魏志倭人伝』は〔わが国が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を今から約4000年前に習得した事実〕を証言していたことになる。
現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
しかし、もしも過去に学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方を確立していたならば、そのときにすでに「倉頡伝説は真実を伝えていた」と断定されて逆転していたことになる。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」と指摘する漢字は『魏志倭人伝』にある二つの記事が伝えていた上古漢字であり、上の〔漢字生長史〕に表示したように、今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得した【夏音文字】であった。
中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
ところが、〔漢字生長史〕が示すように「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。だから、学界が定める漢字習得の絶対的な定説は根本的に誤っている、ウソ・錯覚・空想であったことになる。
◆上記したように――中国には現存する最古の漢字音は残っていないが、わが国には『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に現存する最古の漢字音「夏音文字の字音」が記載されて残った。この結果、漢字が起源した中国では【倉頡が発明した漢字作成理論】はまったく不明となったが、【1】わが国では夏音文字が記載された『魏志倭人伝』に1点も【誤読】を加えない考え方を確立し、また【2】太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の説明はじめ上巻の随所の〔音〕という注がつく夏音文字を注目して研究すると、【倉頡が発明した漢字作成理論】を証明できる遺物や遺跡はじめ数々の史料が存在することになる。この結果、「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字も学芸】は伝来し、しかも現在も明確に残っている事実」が科学的に具体的に証明できるという――学者たちがまったく想像しなかった逆転状況が現実となって存在することになる。
要するに、邪馬台国説をとなえた新井白石の死去以後(1725年以後)のわが国の漢字学に関するすべての学説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)に【多数の誤読を加えた産物の空想・虚偽】であったがために――わが国に歴史上事実として実在した【倉頡が発明した漢字作成理論】は学者たちによって排除され不明となったのである。
いっぽう、源頼朝はじめ室町幕府の将軍たちや織田信長・徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)に【誤読】を1ヵ所も加えずに正確に読解していたので【夏音文字と倉頡の漢字作成理論の知識】を有していた。現在、「源頼朝はじめ室町幕府の将軍たちや織田信長・徳川家康は【夏音文字と、倉頡の漢字作成理論の知識】を有していた」と証明されないのは、新井白石以後の漢字学に関する学説すべてが「学問」の体(てい)をなしていない空想の産物・空理空論・憶説(おくせつ)であったからである。
◆以上のごとく――〔A〕『魏志倭人伝』が「倭国には上古漢字があった」と記す2ヵ所と、〔B〕『古事記』上巻の〔音〕という注がつく漢字は、上に配した〔漢字生長史〕に示した〔今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得された夏音文字〕であった。
わが国が習得した夏音文字は〔今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【倉頡は発明した漢字作成理論】を保存していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』は【倭国の対馬国から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】をもって【倉頡は発明した漢字作成理論】と【わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の学芸】について説明していたのである。
『魏志倭人伝』と同様に、太安万侶が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)もまた、【倉頡は発明した漢字作成理論】と【わが国には夏代初頭に夏音文字が伝来し習得した事実】を指摘していたことになる。
再度くりかえす、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した。「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
下に「夏の銀河の写真」を示した。
上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【2】の「多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする」と定めた掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。
ゆえに、【『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に表示された夏音文字の秘密】と、【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の秘密】を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
◆これから、『古事記』上巻の随所に〔音〕と注がついて記される【現存する最古の漢字音となる、後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の秘密】を解明する。
『古事記』上巻の序は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
安万侶は「『古事記』上巻の序」を、「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題している。
つまり、安万侶は「古事記上巻 并せて序」にて「『古事記』の中巻と下巻には〔音〕という注がつく夏音文字を1字も記載していない。〔音〕という注がつく夏音文字は古事記上巻だけに記載した。この古事記上巻だけに記載した夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状である。また、夏音文字と同じく、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた夏の銀河各部の形状である。つまり、夏音文字・楷書はじめ殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)・周代に用いられた金文などすべての漢字は銀河から作られた。というのも、楷書以前のすべての漢字は【倉頡が発明した作成理論】にもとづいて【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義】と定めたからである。だから、古事記上巻だけにある夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、古事記上巻に記述された歴史の真相が解明できる――と、安万侶は【古事記上巻(日本神話)における歴史の解明方法】を説明するために、「古事記上巻 并せて序」と題することにしたのである。
ゆえに「現在の学者たちのごとく、文字面(もじづら)だけの表層レベルだけをとらえた安易な読解方法では、歴史はまったく解明できない」と、太安万侶は警告している。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭45字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫(そ)れ混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、気象(きしょう)未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其(そ)の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る。」
上記の書き下し文において「参神造化の首を作す」までは34字で構成され、後に続く「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は11字で構成される。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭の34字は、『古事記』を献上する元明天皇には読解できない、きわめて難解きわまりない文章でなぜ表現することになったのかについて、その秘密を下記のごとく説明している。
――天武天皇・持統天皇以後の朝廷と律令体制は、大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室がもっとも偉大な先祖・皇祖と定めて、天皇の権力の絶大化を図った。これゆえ、朝廷は「天照大神の聖性は絶対に汚してはならない」と厳重に禁止した。さらに、天武・持統天皇王朝は「天照大神を絶賛する偽書を作れ」と命令した。この命令に歯向かって、『古事記』の上巻では天照大神の聖性を汚す、後世に真実の歴史を伝えることにした。このため、『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字はじめ重要な楷書の字源・字義を銀河(夏の銀河)各部の形状に変換すれば、後世の人々が『古事記』上巻を読んで真実の歴史を知ることができる仕組みにした――と、【『古事記』上巻の歴史解明方法】を、『古事記』の最初となる「上巻の序」の冒頭34字で説明することにしたのである。
後半の11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文章は【『古事記』の作成目的】を下記のごとく説明していたことになる。
――『古事記』は断じて皇祖・天照大神を絶賛して神格化するための書物ではない。伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも偉大な、国民が最も偉大と敬愛する祖先である。ゆえに、伊耶那美命と伊耶那岐命による日本国(小国・日本)誕生史を後世に伝えることを作成目的にして、『古事記』を編纂した。このため、『古事記』上巻において皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史を記述した。天照大神の聖性を汚す歴史を直接的に容易に理解できるように記述すると『古事記』は焚書(ふんしょ)・抹殺される。ゆえに、『古事記』上巻ではわが国が夏音文字を習得した歴史の経緯を説明するつまり「造化の参神」と、そして伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】における密接な関連性に注目して――夏音文字と楷書の字源・字義を銀河(夏の銀河)各部の形状に変換する方法で真実の歴史を伝えることにした。
上記したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭からの45字は「時の律令体制の政策に真っ向から反逆する編纂スタッフの【後世に真実の歴史を伝える】という固い意志とゆるがない信念と熱い情念」をあらわしていた。ゆえに、この45字の文章は『古事記』を献上する第43代元明天皇には理解できないが、後世の学識者たちならば必ず理解できるにちがいないと――編纂スタッフは後世の学識者たちに期待して『古事記』を作成したことになる。
上記したように編纂スタッフは天武・持統両天皇の政策に真っ向から歯向かったゆえ、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文章は『古事記』を献上する元明天皇が有する学術知識では理解できない前期縄文時代初頭から後期縄文時代までに作られた土器・土偶にほどこされた代表的な意匠【渦巻文】について説明することにした。つまり、「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字の文中にある「然れども乾坤初めて分かれて」という文は、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの土器・土偶にほどこされた【渦巻文】は「乾坤」を表現する意匠であったと説明している。この「然れども乾坤初めて分かれて」という文は前期縄文時代から後期縄文時代の土器・土偶にほどこされた【渦巻文】について説明していると理解できれば――「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字は「『古事記』は反逆の歴史書である」と説明していることが理解することができる。
『古事記』は反逆の歴史書であった。ゆえに、元明天皇が編纂スタッフの企みを見抜けずに献呈を承認して正史となるか、それとも元明天皇が編集スタッフの企みに気づいて献呈を拒否して焚書するか――『古事記』は編纂スタッフが賭けに出た歴史書であったのである。このような切迫した状況を「古事記上巻 并せて序」の冒頭34で【『古事記』上巻の歴史解明方法】を、続く11字をもって【『古事記』の作成目的】を説明していたのである。
◆フリガナを除去すると、【『古事記』上巻・日本神話に記述された歴史解明方法】を説明する「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字までの書き下し文は、下記のごとくなる。
「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
上記の「参神造化の首を作す」という文は「夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った、前期縄文時代の首(初頭)・中期縄文時代の首(初頭)・後期縄文時代の首(初頭)における造化の参神、すなわち造形芸術の参神」と意味した。
ゆえに、「参神造化の首を作す」という文より前の、冒頭の「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ」までの文は、下記のごとく意味したことになる。
「天武・持統両天皇陛下の遺志を受け継いで律令体制を推進する元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。前期縄文時代より前の混沌とした元(はじめ)の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)の天頂にめぐってきた夏の銀河の形状はすでに凝(こ)り固まっていましたが、その形状には気(なにかの事象や事物をあらわす雰囲気)も象(かたち)もあらわれていませんでした。ゆえに、その混元の時代における天頂にめぐってきた銀河部の形状には何とも名づけようがなく、その形をどのように造形表現してよいかその技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂することになった現在、混元の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)の天頂にめぐってきた銀河の形を表現した図案(意匠)に関して知っている人物は一人もいません。」
そして、上記した「古事記上巻 并せて序」冒頭の「参神造化の首を作す」という文より前の「然れども乾坤初めて分かれて」という文は、下記のごとく意味した。
――前期縄文・中期縄文・後期縄文の三つの時代の天頂にめぐってきた夏の銀河の形状は〔壮麗な無数な銀河の粒が小さな星のごとく点々ときらめいてむらがって三つの輪の形となり、その三つの輪は北・中央・南の三つの輪に分かれ、三つ輪の銀河の満面を占める点々とした無数の銀河の粒は隣の点とつながって線となり、線はたちまち円弧となって〔大・中・小の様々の大きさの渦巻き〕が重なりもつれあっています。この「三つ輪の銀河」が現在(『古事記』が成立した現在)においても頭上高く天頂近くの北に位置しますと、南西の地平線近くには「巨大な渦を巻く銀河」が輝いています。これゆえ、縄文時代の芸術家たちは〔天頂の「三つ輪の銀河」〕における【大・中・小の様々な渦巻文】は「乾」つまり「天」をあらわすイメージ(気と象・かたち)、〔地平線近くの「巨大な渦を巻く銀河」〕は「坤」つまり「地」のイメージ(気と象・かたち)をあらわすと感じて土器・土偶を作って――【渦巻文】を「乾(天)」と「坤(地)」のイメージ(心象)をあらわす意匠(文様)としました。ですから、「前期縄文時代から後期縄文時代に天頂にめぐってきた「大・中・小の様々な渦巻きが重なりもつれあう三つ輪の銀河」と「地平線近くを通過する巨大な渦を巻く銀河」の両方の銀河部で共通する【渦巻文】は参神造化の首(前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭まで)の三時代における[乾(天)]と[坤(地)]をあらわす図象となりました。」
◆「古事記上巻 并せて序」の次は、「創世の神々」について説明する。
この「創世の神々」の冒頭は「古事記上巻 并せて序」冒頭の34字の文に登場「参神造化の首」という語について「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。」と説明する。
ゆえに、「古事記上巻 并せて序」冒頭34字の文に登場する「参神造化の首」という語はは――(1)前期縄文時代初頭の神は「天之御中主神」と名づけられた、(2)中期縄文時代初頭の神は「高御産巣日神」と名づけられた、(3)後期縄文時代初頭は「神産巣日神」と名づけられた――と意味したことになる。
わが国では関東地方において、前期縄文時代初頭から土器・土偶を作る芸術において革命がおき、そして中期縄文時代になると豊かな装飾性を生み出していった。中期縄文時代を代表する土器・土偶は新潟県信濃川流域や長野県や山梨県など、みな東日本で造られた。
この東日本における中央となる地域は北緯36度となる。
前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭まで、前述した「夏の銀河各部の名称図」の左上にある「三つ輪の銀河」が北緯36度の地所(東日本中央の地)の天頂にめぐってきた。
下に〔北緯36度の地所における、造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕を示した。つまり、下図の(1)は約6000年前の前期縄文時代初頭の天頂緯度線、(2)は約5000年前の中期縄文時代初頭の天頂緯度線、(3)は約4000年前の後期縄文時代初頭における天頂緯度線である。
上の〔造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕に示すように、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭まで、東日本の天頂緯度線は西の「十字の銀河」から東の「三つ輪の銀河」を貫通していた。
(1)の天頂緯度線は「三つの輪の形が連結する三つ輪の銀河のうちの、ほぼ中央」を貫通するゆえ、「天之御中主神」と名づけられた。
(2)と(3)の天頂緯度線を通過する輪の銀河は隣の輪の銀河に食い込んで、円形となるように観える。ゆえに、(2)と(3)の天頂緯度線が通過する輪の銀河は「上から見ると円形となる、鳥が卵を産み、ヒナを育てる巣の形」や「円い日輪の形」に相似するということで、「産巣日」と名づけられた。
(2)の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部中央」を貫通し、(3)の天頂緯度線は「十字の銀河の胸部の乳房」を貫通している。したがって、(2)の天頂緯度線のほうが「緯度が高い」ゆえ、(2)の神の名には[高]の字がついて「高御産巣日神」と名づけられた。
(3)の天頂緯度線は「神」となった「輪の銀河」の2ヵ所、つまり「南の輪の銀河」と「中央の輪の銀河」の2ヵ所を貫通する。ゆえに、「神産巣日神」というぐあいに[神]の字が二つ配される名となった。
下に、〔天の北極の位置を示す歳差状況図〕を配した。
下図に示すように、〔天の北極の位置〕は〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
天の北極は2万5,800年で〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
春分点もまた天の北極と同様に、2万5,800年で〔黄道の北極〕を中心にして一周する。
円周は360度である。ゆえに、25,800年割る360度は71.666となる。したがって、天の北極と春分点は71.666年ごとに〔黄道の北極〕を中心とする円周上を1度ずつ移動する。
前述した〔造化の参神を示す天頂緯度線の図〕における(1)は6000年前の天頂緯度線である。ゆえに、6000年割る71.666は83.72度四捨五入して84度となる。ゆえに、現在の天の北極の位置から84度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が前期縄文時代初頭の天の北極の位置となる。また、現在の春分点の位置から84度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が前期縄文時代初頭の春分点の位置となる。
したがって、(2)は5000年前の天頂緯度線であるゆえ、5000年割る71.666は69.76度となる。ゆえに、(2)の中期縄文時代初頭の天の北極は現在の天の北極より70度過去にもどった位置にあり、(2)の中期縄文時代初頭の春分点の位置は現在の春分点から過去のほうに70度もどった位置となる。
(1)と(2)の説明と同じく計算すれば、(3)の4000年前の後期縄文時代初頭の天の北極と春分点は55.81度、つまり56度過去にもどった〔黄道の北極〕を中心とした円周上の位置となる。
よって、銀河の形を正確に図示した(1)(2)(3)の〔天の北極と春分点の星座図や星座盤〕を作成すれば、前述した〔東日本における造化の参神を示す天頂緯度線〕は西の「十字の銀河」から東の「三つ輪の銀河」を貫通していた状況を再現することができて――「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文章の秘密が解明することができる。
◆前述した〔造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕における「三つ輪の銀河」は北・中央・南の3つの輪の形に区分けされるが三つの輪は連結して一つの統合体となる。
「三つ輪の銀河」の輪郭内には無数の砂粒のような銀河の粒がひしめき、ある箇所の点と点の連なりそしてその線は渦を巻く奔放(ほんぽう)な曲線となって大・中・小の様々な渦巻文となる。
ゆえに、【三つ輪の銀河の満面における大・中・小様々なの渦巻文】は【「古事記上巻 并せて序」の冒頭に「参神造化の首」と記された、つまり(1)天之御中主神、(2)高御産巣日神、(3)神産巣日神の参神をあらわす形(気象、つまり気と象・かたち)】となった。
だから、前期縄文時代の土器を代表する、山梨県笛吹市(旧東八代郡御坂町)に所在する花鳥山遺跡から出土した深鉢の胴部全体は「大きな渦巻文」で占められて構成されている。
下に、中期縄文時代を代表する、山梨県笛吹市に所在する桂野遺跡から出土した深鉢の写真を配した。下の写真が示すように、この深鉢の胴部全面は目がまわりそうなほど「大・中・小の様々な渦巻文」でびっしりと飾られている。
長野県茅野市に所在する尖石遺跡群の棚畑遺跡から出土した中期縄文時代初頭の「日本国最古の国宝」とされる縄文のビーナス(土偶)の頭部がかぶる帽子あるいは髪型と指摘される頂部には「渦巻文」が刻まれる。つまり、縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡は北緯36度であるからして、縄文のビーナスは「高御産巣日神」をあらわしていることになる。前述した〔北緯36度における、造化の参神を示す天頂緯度線の解説図〕の(2)の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部の中央よりやや北側」を貫通していた。ゆえに、縄文のビーナスがかぶる帽子あるいは髪型とされる、そのデザインは「十字の銀河の頭部を通過する天頂緯度線は三つ輪の銀河における北側の輪の銀河の南部を貫通している」と表現していたことになる。
また、長野県茅野市の尖石遺跡群の中ッ原遺跡から出土した後期縄文時代初頭の国宝・仮面の女神の両肩には「渦巻文」がほどこされ、背中の中央にも「渦巻文」が縦に二つならんでほどこされる。
群馬県吾妻郡東吾妻町に所在する郷原遺跡から出土した後期縄文時代のハート形土偶の正面の両肩・アゴの下に「三つの渦巻文」がほどこされ、背中の両肩・後頭部より下部・さらに下の部分・両足の付け根の部分と、背面には「計八つの渦巻文」が刻まれる。
このような前期縄文時代から後期縄文時代の土器・土偶の意匠となった【渦巻文】は、縄文人が「三つ輪の銀河」を観て感じた「乾いた天(夜空)」のイメージ、つまり「天頂にある三つ輪の銀河は、まるで空気が乾いた快晴日和の満天の星と鮮烈に夏の銀河が輝く美しい夜空」のごとくであると感じた心象(イメージ)をあらわしていたことになる。
◆上記したように、「三つ輪の銀河」の輪郭内には無数の砂粒のような銀河の粒たちがひしめき、ある箇所の点と点の連なりそしてその線は渦を巻く奔放な曲線となって大・中・小様々な「渦巻文」となる。ゆえに、「無数の砂粒のような銀河の粒が満面にきらめいている、その三つ輪の銀河の形状」は縄文人にとって「空気が乾いた快晴日和の満点の星と鮮烈に夏の銀河が輝く夜空のイメージ」となった。
ゆえに、太安万侶は「古事記上巻 并せて序」にて[天]の字を[乾]と表記したのである。
原始のとき以来縄文時代はじめ卑弥呼が生存した弥生時代にあっても、わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で詳細に解説して科学的に証明したように――人々は「天の北極」で緯度と方位を測定したのではなく、【天頂点と重なる夏の銀河の部位が天頂を西から東に移動するとき、4~6秒間でキャッチできる緯度線と子午線】をキャッチして緯度と方位を精確に測定していた。だから、「天頂にめぐってきた三つ輪の銀河」は、縄文人たちには「壮麗な満天の星と夏の銀河が鮮烈に美しく輝く、乾いた天空(夜空)、つまり天神の恵み」をあらわすことになったのである。
前期縄文時代から後期縄文時代までにおいて、村が滅びず存続し氏族の子孫が絶えずに受け継がれるためには、【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして遠くの地に旅して生活必需品にあって不足する物を確保し、新しい文化・知恵・発明などを手に入れないと、その村は滅亡し子孫も村とともに滅びて絶えるという、厳しい摂理(せつり)が人間社会を支配していた。
だから、原始のときの以来縄文時代も伊耶那美命や天照大神が生存した3世紀においても【天頂にある緯度線と子午線のキャッチ】は日々の生活の基軸であった。ゆえに「壮麗な満天の星と夏の銀河が鮮烈に美しく輝く、乾いた天空(夜空)」の心象(イメージ)となった「三つ輪の銀河」は「乾」と「天」をあらわすことになったのである。
◆前期縄文時代から後期縄文時代、縄文人たちが「乾」のイメージを抱いた「三つ輪の銀河」が天頂に位置したとき、地平線近くの南西に「夏の銀河の西端にして南端となる、巨大な渦を巻く銀河」が位置した。
この「夏の銀河の西端にして南端となる、巨大な渦を巻く銀河」は、下図に配した。この「巨大な渦を巻く銀河」は前述した〔夏の銀河各部の名称図のおける右下の銀河〕である。
上に配した巨大な楕円形の銀河各部の名称について、前述した〔夏の銀河各部の名称図〕では「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」ということになる。
前述した「夏の銀河」の写真を撮影した藤井旭氏が著作した『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)の115ページは、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」の様子を、下記のごとく説明する。
「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる。」
上記のごとく、藤井旭氏は「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河の形状」を「銀河の中心を中心にして無数の星と星間物資が入り乱れて迫力ある形状で渦を巻いて、あたかも入道雲のように観える」と表現する。
ゆえに、藤井氏の説明に登場する「入道雲」は「地上に雨を降らす、つまり地の神の威力で天から雨を降らす・地の神の恵み」をあらわすことになった。
ゆえに、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」を観て縄文人たちは、「日照りがつづいたときに雨乞い祈願すれば地の神の威力で恵みの雨が降ってきて地上の草木や食料となる穀物の命がよみがえり、食料となる動物たちの命も助かり、そして人も飢餓(きが)に瀕(ひん)して死なずにすむ。ゆえに、地の神は存在する」と信仰することになった。
だから、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「坤」と「地」のイメージとなった。また、「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河から生まれたイメージの地の神・地霊」は「坤」と「地」をあらわすことになった。
現在、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置するとき、縄文人たちの「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「地平線近くの、真南から30度西に寄る西南西」に位置する。
『古事記』が編纂された8世紀初頭、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置するとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は「地平線近くの、真南から40度西に寄る西南西」に位置した。
卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)、「造化参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂近くの北に位置したとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は地平線近くの、真南から45度西に寄った南西に位置した。
前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭においては、「造化の参神の名」となった「十字の銀河と三つ輪の銀河」が天頂に位置したとき、「坤」と「地」のイメージとなった「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は地平線近くの、真南から70度~80度西に寄った西南西に位置した。
ゆえに、縄文人たちには「大・中・小の様々な渦巻きが重なりもつれあう三つ輪の銀河」は[乾]と[天]のイメージとなり、「地平線の東南から昇って地平線の西南に没する、南の地平線の近くを運行する強大な渦を巻く、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は縄文人たちには「坤」と「地」のイメージとなったのである。
縄文人たちにとって――上記した〔夏の銀河各部の名称図〕における左上の「大・中・小の渦巻きが重なりもつれあう、三つ輪の銀河」は[乾(天)]、右下の「巨大な渦巻の、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」は[坤(地)]のイメージとなった。だから、前期縄文時代から後期縄文時代に作られた土器・土偶に造形された【渦巻文】は[乾(天)]と[坤(地)]のイメージを表現するものであった――と、太安万侶は伝えていたのである。
◆以上のごとく、672年の壬申の乱から9年後の681年3月17日、第40代・天武天皇は天皇の権力を絶大化し、天皇を神格化する律令体制を確立させるために、川島皇子以下十二人に「帝紀および上古の諸事の記定」を命じて「天照大神を絶賛する偽書(虚偽の歴史書)の編纂」を命令した。しかし、この天武天皇の「偽書の編纂」は反対する人々が多く実現しなかった。
天武天皇の「天照大神を絶賛する、偽書の編纂」の命令から31年後の712年正月28日に『古事記』が完成して、元明天皇に献上された。『古事記』という書名は天武天皇の「上古の諸事の記帝」という命令のうちの3字[古][事][記]から成立した。しかし、『古事記』は天武天皇の「偽書編纂」の命令に真っ向から歯向かむ反逆の歴史書であった。
というのも、『古事記』上巻は――倭女王・伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大神(崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)が倭女王・伊耶那美命の陵墓を築造したときに多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を陣頭指揮した。正妃・伊耶那美命を愛した伊耶那岐命(のちの第9代・開化天皇)は桃子三箇(もものみみつ/日本兵たちと熊野の戦士たち)の協力を得てクーデターを決行して、伊耶那岐命の第二后にして継母の天照大神に離縁を言い渡して倭女王から失脚させた――と、天照大神の聖性を汚す、朝廷が後世に伝えたくない不都合の歴史を記述している。
『古事記』上巻は「朝廷が最も偉大であると崇拝する天照大神よりも、国民にとっては【愛】を国家理念に掲げて小国・日本を誕生させた伊耶那美命と、この【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那美命のほうがより偉大である」と、編纂スタッフが主張する反逆の歴史書であったのである。
だから、太安万侶が書いた「反逆の歴史書『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并せて序」と表記されることになった。いままで詳細に解説してきたように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文章は「『古事記』上巻は随所に〔音〕という注がつく上古漢字・夏音文字といくつかの楷書の字源・字義を【夏の銀河の各部の形状】に変換すれば、歴史が明確となる」と【上巻における、歴史解明方法】を説明している。
太安万侶は34字で【上巻の、歴史解明方法】を説明して、文字面だけの表層レベルで読解する方法では「上巻に記述された歴史はまったく不明となる」と警告している。
しかし、学者たちは全員、『古事記』上巻の夏音文字といつかの楷書の字源・字義を【夏の銀河各部の形状に変換する作業】を怠って、文字面だけで読解する傲慢(ごうまん)に単純化する不完全きわまりない「学説」の体(てい)をまったくなしていないデタラメの方法を駆使して「『古事記』上巻は歴史書ではない」と大ボラ(大法螺)を吹いて国民をダマす。
次回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」では、引き続いて「古事記上巻 并せて序」における「『古事記』は皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書である」と説明する記事の秘密を解明する。
このブログの冒頭にて指摘したように、愛しき日本人よ――学者たちは全員グルとなって【誤読】をいうズルイ・デタラメの方法を駆使して真っ赤なウソの日本神話虚構説や日本神話学説などをデッチあげて、日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊しているのである! この劣悪きわまりない、国民をまんまとダマす卑怯な所業は絶対にゆるしてならない! 日本国民よ 立ち上がれ! 学者たちの真っ赤なウソを暴け 暴露せよ 戦うのだ ダマされるな 学者たちのウソを木っ端微塵にぶっ壊すのだ!
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