G-T0XYQT12LL 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14: 卑弥呼の逆襲

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2022年8月13日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
★わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・3


◆あなたもそしてわたくしも 絶対に「日本人」とよべない
 あなたもわたくしも「ほんとうの日本人」じゃない
 というのも 日本国民は
 『古事記』上巻に書かれた日本国誕生史の真実を
 まったく知っていないからである
 現在 わが国のすべての学者たちは
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34字に
 書かれた【歴史を解明する方法】の警告を 無視して
 【多数の誤読】を駆使して 空理空論の日本神話説をデッチあげる
 現在 わが国の学者たちは全員
 虚偽・空想の日本神話説(古事記上巻に関する意見)を主張して
 真実の日本国誕生史を排除・抹殺する
 だから 全日本国民は真実の日本国誕生史を知っていない
 だから あたたもわたくしも「日本人」とよべない

◆現在、学者たちが主張する通説によって一般的に――702年に九州の港を出帆した第7回遣唐使が中国に渡り「倭国」から「日本国」という国号の改変の承認を中国の王朝に求めた――この702年頃に、日本国が誕生し起源したと思いこまれている。
 この「倭国」から「日本国」の国号改変の承認を中国王朝に求めた様子は、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記述されている。
 『旧唐書』倭国日本伝は「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」などと記述する。
 また、『新唐書』日本伝は「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」などと説明する。

 上記した『新唐書』日本伝は――第7回遣唐使は「後稍夏音を習う」と言った、つまり「壬申の乱の後に稍々夏音文字を復興することにした」――と記述するゆえ、わが国には夏音(かおん)文字が存在したことは確かな事実であったことになる。
 「銀河」つまり「銀漢から作られた文字」であったゆえ、中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶことになったという真実に則(のっと)ると――今から約4000年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏王朝の始祖・禹()帝の後を継いだ益(えき)帝の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して九州に上陸し、九州から日本海側の陸地を北上して、東北地方の男鹿半島・米代川流域文化圏に定住した。名門益氏の王子は、【今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。東国・関東地方の氏族たちは益氏の居住地に旅して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。このような【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】は現存する文献史料と様々な遺跡と遺物と、そして日本文化の特性などによって【科学】が成立して事実であったと証明することができる。

 前記した『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本伝は「大国倭を併合した、小国・日本は静岡県中部(旧国駿河)以東の関東地方の東日本であった」と伝えていた。
 この小国・日本(東日本)の氏族たちは、上記したように「益氏の居住地(秋田県の男鹿・米代川文化圏)に旅して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。
 ゆえに、「『万葉集』巻二十(最終巻)における4321番から4436番の116首の和歌を作った防人(さきもり)たちの出身国の東日本が、倭を併合した小国・日本であった」と伝えていた。つまり、防人歌作った人々の出身国の「遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、相模、上野、下野、武蔵、上総、下総、安房、常陸」が「小国・日本」であった。ただし、「遠江(現在の静岡県西部)」は『魏志倭人伝』に登場する倭国の一員「不呼国(ふここく)」であったゆえ、「遠江」は「小国・日本」ではなかった。というのも、不呼国・遠江の人民たちは皇室が最も偉大な先祖と定めた皇祖・天照大神が憎悪・敵視した小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)を敬愛した。これゆえ「遠江の人民は皇祖・天照大神を敵視している」と怒る朝廷(天智天皇王朝)は、遠江の人々に防人の任務を命じた。
 『万葉集』最終巻(巻二十)116首のすべての防人歌は「小国・日本が誕生した時、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】」をテーマにして作られている。
 つまり、小国・日本は〔愛〕を高らかに宣言して建国された。
 この〔愛〕を建国理念とした小国・日本は、『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼が生存した3世紀前半(233年、234年ころ)に誕生した。ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()し、国中遂に定まる」と記述されることになった。この「倭女王・壱与」が、人民たちが「伊耶那美命」と愛称した小国・日本の女王にして後年に倭女王となった「伊耶那美命」の夏音名(夏音文字の名称)であった。上記した『魏志倭人伝』の記事は「卑弥呼の宗女、つまり卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女の伊耶那美命は十三歳の時(233年、234年頃)に小国・日本に赴任して女王となり、249年、250年頃の三十一、三十二歳頃に倭女王に就任して倭国を遂に安定させた」と伝えていたのである。
 伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は、後の第9代開化(かいか)天皇であった。ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀冒頭は「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。開化天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひみ)を正妃とした。また、開化天皇の父孝元(こうげん)天皇と結婚して第10代崇神天皇(すじん)を生んだ継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)とも結婚して、第二后とした」と説明する。
 開化天皇の正妃の「竹野比売」、この「竹野比売」が「伊耶那美命の本名」であった。というのも、『魏志倭人伝』は「竹野比売の出身地の丹波の小国名」は「伊耶国(いざこく)」であったと記しているからである。小国・日本の人民たちは「竹野比売」を「伊耶国出身の美しい女王」と讃えて「伊耶那美命」と愛称した。したがって、若き日の開化天皇は「伊耶国出身の竹野比売の夫」であったゆえ、人民たちに「伊耶那岐命」と愛称されることになった。上記したように、『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた」と記述する。「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字は三者とも「伊耶」である。だから、伊耶河宮にて天下を治めた開化天皇は伊耶那岐命であった。開化天皇は倭女王壱与(伊耶那美命・竹野比売)の没後【日本建国の〔愛〕の理念】を継承して、大国・倭国と小国・日本を併合して天下を治めた。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝は「第7回遣唐使は、日本はもと()小国、倭国の地を併せたと云った」と伝え、また『新唐書』も「第7回遣唐使は、日本はすなわち小国、倭を并(あわ)す所であると云った」と伝えていたのである。
 
◆以上、702年頃に日本国が誕生(起源)したという学者たちが主張する一般論・通説は誤読の空論であったことになる。
 702年に九州の港を出帆した第7回遣唐使における最下位の幹部は万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)である。山上憶良の代表作は『万葉集』巻五・803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」と詠()む短歌である。この803番「わが子への〔愛〕こそが、この世において最も勝っている」と表現した和歌は、〔伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を讃える和歌〕であった。
 この803番は802番の長歌の反歌(はんか)である。
 この802番と803番の二首の前には、「子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序」という題詞がつく。ゆえに、802番と803番の二首の題詞は「子等を思ふ歌二首 并せて序」とすべきであるが、「一首」で正しいことになる。というのも、この題詞は太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』の序を「古事記上巻 并せて序」とした、この安万侶の「古事記上巻 并せて序」という題をあらわすものであったゆえ「子等を思ふ歌一首 并せて序」で正しいことになる。『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、『古事記』は《上巻にある淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理論】を後世に伝えるを作成目的とする歴史書》であった。ゆえに、《「古事記上巻 并せて序」という表題とこの「古事記上巻 并せて序」における約900字の記事内容》を、山上憶良は《「子等を思ふ歌一首 并せて序」と802番の長歌》に見立てた。
 太安万侶の900余字の「古事記上巻 并せて序」を要約した内容を詠む802番と、『古事記』作成目的であった淤能碁呂島の聖婚説話における【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む803番の秘密は、このブログの末部でも詳細に解説する。

◆「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の「安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」(振り仮名無し)という文は、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて詳細に解説したように、下記のごとく説明していた。
 「今から約4000年前の中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭、つまりわが国の後期縄文時代初頭、中国から【五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が伝来したとき、小国・日本の前身であった東日本において『乾坤(天地)』のイメージを【渦巻文】で表現した前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2千年間におよんで土器・土偶を作った芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が習得された。というのも、倉頡は夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義と定め、わが国における前期縄文から後期縄文までの土器・土偶も夏の銀河各部の形状をモデルにして造化(造形)されたからである。さらに、前漢時代から出現されたとされる楷書の字源・字形の原形・原義も夏の銀河各部の形状であった。だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の字源・字形・字義や、いくつかの重大な楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された真実の歴史を解明することができる。」
 このように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の記事は【『古事記』上巻の歴史解明方法】を具体的に説明していた、つまり「漢字は銀漢から作られた文字であるから、夏音文字の字源・字形・字義と重大な幾つかの楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換すれば歴史が解明できる」と警告していたことになる。
 にもかかわらず、現在、わが国の学者たちは全員「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明する文を徹底的に無視し、排除する。そして、【多数の誤読】を巧みにあやつって「『古事記』上巻は歴史を伝えていない」と断定する空想・空理空論を「学説である」と力説して日本国民をまんまとダマしている。
 上記したように、中国の正史『新唐書』日本伝には「第7回遣唐使が、後稍(のちやや)夏音を習うと伝えた」という文がある。この文は「わが国は壬申の乱の後、後期縄文時代初頭に習得した夏音文字を稍々(やや/少しだけ)復興することにした」と説明していた。
 したがって、「672年の壬申の乱から9年後の681317日、第40代・天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀及び上古の諸事を記定』させた。このとき、天武天皇は〔夏音、つまり夏音文字〕を稍々習うことに(復興)して、『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書を作成せよ』と命令した」。この天武天皇の「夏音文字の復興の命令」を、第7回遣唐使は中国王朝に「後稍夏音を習う」と説明したのである。
 しかし、この天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は、天照大神王朝(いわゆる大和朝廷)を強大化するために人民を苦しめて弾圧した歴史を削除し、皇室が最も偉大な先祖と定める皇祖・天照大神を絶賛して天皇の権力を絶大化するための偽書の作成を企むものであった。当時、壬申の乱から9年後であったゆえ天武王朝はいまだ安定していなかった。ゆえに、当時の状況は天照大神を憎悪・敵視する人民たちの反乱が起きると朝廷は一気に崩壊する可能性が大であった。だから、川島皇子以下十二人の編纂スタッフは〔人民たちを苦しめた天照大神の歴史を削除して、天照大神のほうが伊耶那美命と伊耶那岐命よりも偉大であったと絶賛する偽書の作成〕に躊躇(ちゅうちょ)した。このため、天武天皇の『夏音文字を稍々復興する、帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の編纂命令は実現しなかった。
 ゆえに、天武天皇が『帝紀及び上古の諸事を記定』を命令してから31年後、あるいは第7回遣唐使が九州の港から出帆した10年後の、712年正月28日、夏音文字を稍々復興して伊耶那美命と伊耶那美命の歴史を説明する歴史書が第43代・元明(げんめい)天皇に献上された。この歴史書は天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」という命令末尾の「上古の諸事を記定せよ」における「上古」の[]と「諸事」の[]と「記定」の[]の3字を抜粋して『古事記』という書名となった。
 ところが『古事記』は天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」の本意、つまり「天照大神を絶賛する偽書を作成せよ」という命令に反した反逆の歴史書であった。というのも、『古事記』は【夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・原義を夏の銀河の各部の形状に変換する方法】をもって真実の歴史を伝える――天照大神の聖性を汚す歴史書であったからである。

◆天照大神は伊耶那美命の没後に倭女王を継承した。天照大神は伊耶那岐命・開化天皇の第二后であり、伊耶那岐命の父の孝元(こうげん)天皇と結婚して第10代・崇神天皇(伊耶那岐命の異母弟にして伊耶那岐命の養子)を生んだ伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。伊迦賀色許売命・天照大神は伊耶那岐命に離縁されて後に崇神天皇の姑(おば)の名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。
 『古事記』上巻は随所に【〔音〕という注を加える夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換する方法】をもって読解すれば――『古事記』上巻は「伊耶那美命の没後、倭女王に就任した天照大神(伊迦賀色許売命)は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。また、天照大神は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】よりも【国家権力】のほうが勝ると定める国家権力重視政策を強行して人民たちを苦しめた」と記述していると解明できる。
 だから、『古事記』上巻は天照大神を皇祖と崇拝して天皇の権力の絶大化をはかる律令国家体制に真っ向から反逆する歴史書であった。これゆえ、『古事記』上巻は反逆の歴史書であることに気づいた元明天皇は献呈を拒否した。だから、『古事記』は政府が編修した歴史書・正史として承認されなかった。しかし、『古事記』は「日本人のアイデンティティ」を伝え、「日本人の命と魂の根源を伝える歴史書」であったため、朝廷は焚書に努めるものの焚書できずに世に密かに保存されることになった。ゆえに、朝廷は『古事記』を読むことも研究することも厳重に禁止したが、心ある人々や学問好きな人々によって朝廷に気づかれないように密かに読まれ研究されて消滅しなかったゆえ現在まで残ったのである。
 ところが、現在における我が国のすべての学者たちは「古事記上巻 并せて序」の冒頭より34字の「〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換せよ」という【『古事記』上巻の歴史を解明する方法を具体的に説明する、太安万侶の警告】を徹底的に無視する。
 太安万侶の警告を徹底的に無視する現在の学者たちは「漢字は銀河から作られたから、漢字とよばれることになった真実」に気づかないゆえ、【多数の誤読】や【多数の憶測】を巧みにあやつる空理空論を「学説である」と称して日本国民をまんまとダマしている。

◆「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった。
 こんないとも簡単な真理に、江戸中期の新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちはまったく未だに気づいていない。
 「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
 「夏の銀河」とは「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」である。そして、「夏の銀河の全像が見えなくても、一部ならば見える」という条件ならば、ほぼ一年中「夏の銀河」は見えることになる。
 夏の銀河の各部の形状は人間に造形芸術(いわゆる、美術)を創造する刺激を与える豊かなイメージに満ちている。ゆえに、【銀漢(夏の銀河)の各部を造化(造形)して文字が作られること】になり、この「銀漢から作られた文字」は「漢字」とよばれることになった。
 下に「漢字が作られた、夏の銀河の写真」を示した。
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 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡は「夏の銀河の各部を字源・字形・字義と定める漢字作成方法(理論)」を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝が滅びるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物に一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つ掟】
【1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露した者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称を付けた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上の【3】の掟のために、紀元前3000年頃から始まる五帝時代の「書契(しょけい)」とよばれた原初漢字、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字、紀元前1600年頃から始まる殷代(いんだい)前半の漢字においては文字を書いた史料が出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』では夏音文字は楷書を音符にして表記されたが、当時(2世紀末~3世紀半ば)に倭人国で用いられていた「銀漢各部の形状を図案した、殷代後半の甲骨文字のごとき字形をした夏音文字」は【倉頡が死刑と定めた掟】を厳重にまもった。だから、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 〔注 『魏志倭人伝』には「倭人国における易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり、わが国には殷代後半の亀の甲羅に刻む甲骨文字のごとき夏音の辞(ことばと文字)であった」と伝える記事が存在する〕。
 ゆえに、その後、5世紀、6世紀にわが国において用いられていた夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された紀元前1300年頃から出現した殷代後半に用いられた甲骨文字(契文・けいぶん)と紀元前1046年から始まる周(西周)時代に用いられた金文(きんぶん)の大多数の字形は銀漢(夏の銀河)各部の形状を写実的にデザインする。ゆえに、契文と金文の字形によって、【漢字は銀河(銀漢・夏の銀河)から作られた事実】を証明することができる。だから、『魏志倭人伝』の「倭人国の易卜に用いられた文字は令亀法の如く」という記事の基(もと)()【五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は銀河から作られた事実】と()「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得した事実」は【科学】が成立して証明することができる。
 上記した、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、現在においても、天文学においても夏の星座名は定められているものの――「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。
 ゆえに、〈『魏志倭人伝』に記載された33の小国名に表示された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】の秘密〉と〈『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論】の秘密〉を解明するためには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要となる。ゆえに、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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 なお、今から約3300年前から始まる殷代後半の甲骨文字(契文)4000(4000)を越えて多数となった。このため、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【3】の掟をまもるには非常に面倒となったゆえ、この掟はまもらなくてもよいことになった。だから、殷代後半から甲骨文字を書いた史料が多数出土することになった。
 しかし、甲骨文字にあっても【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、【1】「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったという――こんな簡単な真理を、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちは一人も気づかない。また、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された歴史を解明するために不可欠な「銀漢から作られた文字であったゆえ、漢字と名づけられたという真実」に気づく学者は一人も存在しないことになった。この結果、「銀漢各部の名称」は不要とされたため、「銀漢各部の名称」は存在しないことになった。

◆前述したように、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡によって漢字は発明された。
 このブログの前々回「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」の後半部で具体的に解説したように――「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると――今から約5000年前の中国全土各地の天頂にめぐってきた銀河部の様子を再現できる。
 つまり、〈現在の北極の位置〉から70度過去の方にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が《黄帝時代の天の北極の位置》となる。また、〈現在の春分点の位置〉から70度過去の方にもどった〔黄道の北極〕を中心とする円周上の点が《黄帝時代の春分点の位置》となる。
 このような《黄帝時代の天の北極と春分点の位置》にもとづくと――下図に示したように、黄帝時代初頭には「四つ目の銀河」と「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきた事実を解明することができる。
 「四つ目の銀河」は、すぐ前にて表示した「夏の銀河各部の名称図」における左上の「鬼の姿に似る銀河のうちの、鬼の横顔に似る銀河」の別称である。この「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河」の東隣が「十字の銀河」である。「十字の銀河」は「夏の銀河各部の名称図」における左上にある。
 下図〔黄帝時代の黄帝陵と長江口の緯度線と四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の図〕における北緯3535分は、黄帝を祭る廟にして墓とされる黄帝陵(こうていりょう/陝西省黄陵県橋山)の天頂緯度となる。黄帝陵は黄帝を祭る廟(びょう)にして墓とされる。
 下図における北緯3130分は、中国南部の長江口(ちょうこうこう/長江の河口となる湾)の天頂緯度線となる。というのも、紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝の箇所は「黄帝は、天下に順(したが)わない者があるとその度に征伐し、平定するとたち去った。山を開いて道を通じ、一度も安んじて生活したことはなかった。東のかた海に至って、丸山(がんざん)に登り、岱宗(たいそう)にもおよんだ。西のかた空桐(くうどう)に至り、鶏頭(けいとう)に登った。南のかた、江(こう)に至った」と記しているからである。この文末の「南のかた、江に至る」の「江」を、わたくしは「長江口」と解釈した。これゆえ、下図には長江口・北緯3130分の緯度線を表示することにした。
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◆上図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河図」に示したように、この銀河には【目の形が四つある】ゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」ということになる。
 倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という「四つ目の怪人」がいて、始めて文字(書契)を創(つく)り、古来(三皇時代)の結縄(けつじょう)に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇時代に生存した包犠(ほうぎ)氏・女媧(じょか)氏・神農(しんのう)氏の死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたというのである――と説明する。
 これゆえ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」という表現に衝動的に反応して思考停止した学者たちは「人間には目が四つ無い! だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定した。この早合点のため、現在の学界は「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれた学問におけるきわめて大事な真実を失った。
 倉頡伝説は「三皇時代に生存した氏族(包犠氏・女媧氏・神農氏)は倉頡が【夜な夜な空に輝く銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)】と定めた倉頡の発明によって、自分たちの歴史が後世に伝えられることになったことに感激して泣いて慈雨(じう)を降らせて地上に豊かな穀物()をもたらせた」と説明している。だから、「四つ目の怪人・倉頡」という表現は、上図における【三皇時代と五帝時代、中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河】を指していたことになる。したがって、早合点しないで倉頡伝説を慎重に読解していれば、倉頡伝説は「漢字は夜な夜な現れる銀漢から作られた文字であるから、略して漢字とよばれることになった」と伝えていたと解釈できた。ゆえに、現在の学界の「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである」という定説は空理空論、根本的に誤っている。
 「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論における最も重大な中核部】となる。だから、「倉頡が発明した漢字作成理論における重大な中核となる四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。

◆太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」は約900余字で構成される。
 「古事記上巻 并せて序」の中半記事は『古事記』という書名となった「天武天皇の『帝紀及び上古諸事の記定の歴史書編纂』の企て」について説明している。
 この記事の後半には――天武天皇が「朕(われ)が聞くことによると、諸家で承け伝え以ている帝紀及び本辞(ほんじ)は、云々(うんぬん)」と詔()りたまわった――という文がある。したがって、『日本書記』天武紀における天武天皇10(681)317日の記事は――天武天皇は川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した――と記述するものであったゆえ、「帝紀及び本辞」の「本辞」は「上古の諸事の記定」、つまり「本辞」とは「『古事記』上巻の原典」であったことになる。
 この時(681317)の天武天皇の命令の記事の後には、「時に舎人(とねり)がいて、その姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は二十八歳であった。生まれつき聡明であり、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」と記す文がある。
 この〔稗田阿礼の誦習記事〕における「目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す」という文は、下図に示したように「漢字は銀漢から作られた文字であるから、漢字とよばれることになった」という真実を伝えている。
 倉頡は「その西半分に乳房や子宮がある、十字の銀河」を「夏の銀河各部から作った全文字が生まれる母体」――言いかえると、下図に表示したように「十字の銀河」を「夏の銀河の全像に見立てる」いう法則を定めた。また、倉頡は「十字の銀河の子宮」は「夏の銀河から作られた全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 〔稗田阿礼の誦習記事〕を4つに分けると――()「目に度れば」、(2「)口に誦み」、()「耳に払るれば」、()「心に勒す」となる。
 〔稗田阿礼の誦習記事〕における()「目に度れば」という文は――「東の鬼の横顔に似る銀河にある両目から、西の鬼の横顔の後頭部とアゴにつく両目までの形状」を表現するものとなる。つまり「四つ目の怪人・倉頡の銀河の東の両目から西の両目までの状況」を「目に度れば」と表現している。
 次の()「口に誦み」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」のイメージを「阿礼が口から小声を出して吟じて夏音文字の詞の文章を暗誦した」と表現していたことになる。
 ()「耳に払るれば」という文は――「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」を〔耳〕に相似すると見立てたくも、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」は「鬼の横顔に似る銀河」に対して「耳」の位置から離れて外(はず)れているゆえ――「耳に払るれば」は「耳に雑音や雑念が入るのを払って、口に誦む小声が夏音文字の字源・字形・字義となる銀河の形状イメージをあらわすように吟ずる」と意味したと考えられる。
 ゆえに()「心に勒す」という文は、まず下図における「鬼の姿に似る銀河における心臓部」を「心」に見立てて、「吟ずる音声を噛みしめて心に記すようにした」と意味したことになる。というのも、[]の字義「獣の皮をなめした、かたいゴワゴワしたなめし皮」の段階は未だ完成するものなかったゆえ、人が口に咥(くわ)えてアゴを動かして上下の【歯の力】をふるしぼって何度も何度も噛んで、やわらかにして完成させたからである。だから、[]の字は「なめし皮の完成」をあらわして、[]に「歯の力」の[]を加えることになった。ゆえに、「心に記す」の「記(しる)す」という字は[]が用いられた。だから、「心に勒す」とは「口からもれる吟ずる小声を噛みしめて心に記した」と意味したことになる。
 現在の流行歌手が何百曲もの歌詞を暗誦していると同じく――稗田阿礼は小声で歌う(吟ずる)ようにして記憶力を増大させて、夏音文字が連なる詞の文章を暗誦していた。前述したように、【倉頡が死刑と定めた掟】にて「書いた文字が用済みになったならば必ず消さなければならない」と定められていた夏代の文字が連なる詞の文章は文字にして長年残すことができなかったゆえ、記憶力を増大するために小声(小さい音声)で歌うようにして短時間(数か月、または一年足らず)で覚えたならば書いた文字は消滅させなければならない「音文字」であった。だから、「夏代の文字の字音(吟ずる小声の歌)」には「記憶力を増大させる役目」があったゆえ、文字の名称には[]がつけられて「夏音文字」とよばれることになったにちがいない。
 以上のごとく、下図に示したように〔稗田阿礼の誦習記事〕は「銀漢から作られた文字」であったから略して「漢字」とよばれたという真実を説明していたことになる。
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◆伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島の聖婚説話〕に記述された。
 これゆえ、太安万侶は「古事記上巻 并せて序」の末部にて――楷書「日下(にちげ)と夏音文字「玖沙訶(くさか)」の同義をもって「淤能碁呂」という語を示唆し、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」と同義をもって【日本建国の〔愛〕の理念】があらわされることになった。
 下図に示したように――伊豆諸島の神津島(こうづしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「愛」が連想される「女性の子宮」に見立てられた「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
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 約3万年前の後期旧石器時代から、神津島からは皮はぎや肉切り用・稲の穂を刈り取る石器(石包丁)はじめ石槍・鏃(やじり)・斧(おの)や鉞(まさかり)の刃となった良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで、神津島の黒曜石は本土(関東地方、東海西部、近江・滋賀県、北陸・石川県能登半島)まで運ばれて利用されていた。ゆえに、「神津島」は「日下=玖沙訶」の語義、つまり「黒曜石」をあらわし、また「淤能碁呂」という語もあらわすことになった。
 日本列島地図に明確に示されているように――日本列島の西端には、九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島が所在する。そして、神津島は日本列島の東端に所在する。沖ノ島と神津島は北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて指摘したように
――下図の左側にある〔中国海岸線地域の北部〕は〔中国の海岸線地域の南部〕よりも〔冷たい気候区〕であり、〔中国海岸線地域の南部〕は〔中国海岸線地域の北部〕よりも〔暖かい気候区〕である。ゆえに、〔中国の海岸線地域〕は〔北冷南暖〕となる。
 他方、〔日本列島の西端にある沖ノ島〕では〔冬に雪が降る冷たい気候区〕であるゆえ〔西冷〕となり、〔日本列島の東端にある神津島〕は〔冬でも雪が降らない亜熱帯の暖かい気候区〕であるゆえ〔東暖〕となる。
 〔中国の北部海岸線地域〕の〔北冷〕と〔日本列島の沖ノ島〕の〔西冷〕は共に〔冷たい気候区〕、〔中国の南部海岸地域〕の〔南暖〕と〔日本列島の神津島〕の〔東暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 したがって、下図に示すように――〔冷たい気候区の、日本列島の西端の沖ノ島〕は〔冷たい気候区の、中国海岸線地域の北部〕に合致し、〔暖かい気候区の、日本列島の東端の神津島〕と〔暖かい気候区の、中国海岸線地域の南部〕は合致する。
 だから、卑弥呼王朝は「沖ノ島がある日本列島・本州の西端は中国海岸線地域の北部側にある、つまり西→北」、言いかえると「本州地理の方位は時計回りに90度転回する」と考え、また同様に「神津島がある日本列島・本州の東端は中国海岸線地域の南部側にある、つまり東→南」と「本州地理における方位は時計回りに90度転回する」と定理したのである。
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◆邪馬台国説学者たちが「『魏志倭人伝』は多数の誤記を有する」と主張する意見を全面否定して1ヵ所も【誤読】を加えなければ――『魏志倭人伝』は下図のごとく「日本列島・本州の方位は時計回りに方位が90度転回していた」と説明していたことになる。
 下図に示す【時計回りに方位が90度転回する、日本列島における本州】を、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話では「淤能碁呂島」と名づけた。
 その証拠に――[]の字義は「泥(どろ)」、[]は「能(くま)が冬ごもりする横穴(緯度)は竪穴(経度)となる」と意味し、[]は「碁石のような小さな沖ノ島と将棋の駒のような形をした神津島」をあらわし、[]は「[]の上の[]は沖ノ島、下の[]は神津島、上下の[]を連結する縦線は沖ノ島と神津島を結ぶ同一天頂緯度線」を示した。ゆえに、「淤能碁呂」という語は「日本列島・本州の地底は緯度軸が経度軸になるようにやわらかい淤(どろ)のようになっているゆえ、『魏志倭人伝』が説明するとおりに本州の方位は時計回りに90度転回する」と意味した。
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 前述した倉頡伝説が「天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇の氏族の死霊は夜な夜な感激して泣く声(つまり、天から降る慈雨)が空(銀河から)聞こえるようになったという」と伝えるように――倉頡は[]の字を作った。
 下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」の中央に[]の図書を重ね、〔禾の穂は、「十字の銀河」の南から時計回りに90度転回して西へと垂れる」と定めた。というのも、[]の「稲」の生育適性地域は「長江口がある、中国の南部」だからである。だから、倉頡は〔「十字の銀河」の南から西へと時計回りに90度転回して垂れる〕と定めた。というのも、〔禾の穂を時計回りに90度転回する〕と〔禾の穂は「人の口に相似する、四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口・舌」に向かって垂れる〕ようになるからである。
 ゆえに、[]の字は()「時計回りに90度転回する方位規定」と()「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、つまり人民たちの胃袋を食物で満たす状況」をあらわすことになった。
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 上図に示したように、倉頡が作った[]の字源・字義は「時計回りに90度方位が転回して、北→東・東→南・南→西・西→北となると定めた方位規定」、すなわち「緯度線が経度線へ代わる定義」をあらわした。
 上図に示したように、[]の字源の「転回方位規定」は、[]の下に[]が加わる[]の字に受け継がれ、また人偏に[]が加わる[]の字にも受け継がれた。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』は「対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)は南北となる」と記述する。現在の地図において対馬は壱岐の北、壱岐は対馬の南に在るゆえ、対馬国と一大国では[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」が成立しない。
 しかし、上の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に示したように、その「本州地理における方位規定」は[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」に合致する。
 だから、卑弥呼は国家名を「倭国」と定めた。「倭国」の正式名は「倭人国」である。「倭人国」の[]の字源銀河は「四つ目の銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)」であった。だから、倭国は()「倉頡が作った[]の字源の方位が時計回りに90度転回する本州地理」と、()[]の字源となった人民たちの胃袋を食物で満たす国家」であったゆえ、卑弥呼は国家の正式名を「倭人国」と定めたことになる。
 新井白石以後の邪馬台国説学者たちとわが国の学界は、『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は「時計回りに90度転回する、本州の方位規定」を制定していた――と記述するものではないと断定する。ゆえに、邪馬台国説学者たちと学界は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないと解明されて全体的に合理となる【科学】が成立する「転回本州地理」を無視して排除する空理空論の邪馬台国説を「学説」と称して正しいと思い込む。
 上図の〔[][][]の字源銀河解説図〕が示しているように、邪馬台国説は卑弥呼が統治した国家名「倭人」の字源・字形・字義に反する。だから、邪馬台国説は【誤読の空論】、真っ赤なウソ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しないすべてがインチキの、「学説」の体(てい)がまったくなしていないデタラメということになる。

◆前述したように、「古事記上巻 并せて序」の末部は――楷書「日下」は夏音文字「玖沙訶」と同義であると指摘する。
 「日下」の語源は下図における「三つ輪の銀河」であった。ゆえに、「日下」は「太陽()が没して真っ暗になる夜空の東の地平線(水平線)から昇る三つ輪の銀河」、あるいは「黒曜石の輝きのごとく、キタキラと煌(きら)めく無数の小さな星屑が集まる三つ輪」であった。
 下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は「日の銀河・三つ輪の銀河の下」にある。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13」にて詳細に解説したように――[]の右側の[]の字源は「お灸」のイメージとなる「十字の銀河の子宮」である。「三つ円が重なる、三つ輪の銀河」の「円」は[]をあらわすゆえ、「十字の銀河の子宮」の[]と組み合わさって[]の字を形成した。貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)[]の字義は「玉に次ぐ黒色の美石」であると指摘する。ゆえに、「玉に次ぐ黒色の美しい石」は〕「黒曜石」であったことになる。
 黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」であった。ゆえに、「黒曜石が放つガラス光沢の美しい輝き」は「夜の砂漠や砂浜においてキラキラと美しく煌めく沙(すな)の輝き」を意味した。ゆえに「三つ輪の銀河の小さな星屑の輝き」と「十字の銀河のキラキラと美しい輝く煌めき」は[]をあらわした。
 「十字の銀河の子宮」は「斧や鉞(まさかり)の刀身の形」に相似する。太古や上古において「黒曜石を刃とする斧や鉞の作成には、樹木を切る鋸(のこぎり)の刃となる黒曜石の剥片(はくへん)や木製の刀身や柄()を削るための鉋(かんな)の刃となる何種類かの黒曜石の剥片、また様々な最高の技術が必要となり、さらに一つ一つの作業を「可()、良し」と慎重に確かめて進めることになり、そして刀身の先端の黒曜石の刃の具合や柄と刀身の結合が不具合であった場合には作業を何度も何度も前にもどして成功するまでやりなおさなければならなかった。ゆえに、斧や鉞が完成した時には、思わず「歓声、歓喜・感激の訶(うた/歌)」がわき出た。
 だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は共に「禾の穂(稲穂)を刈り取る石包丁や、斧や鉞の刃となる黒曜石」を意味して同義となった。
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◆倉頡は「十字の銀河」を「夏の銀河各部から作られたすべての文字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮(女性の生殖器官)」と定めた。これゆえ、「十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」とで字源・字形・字義が成立した楷書の[]と夏音文字「多羅斯」は共に「子を思う親心、愛」をあらわした。
 下図に示したように、「十字の銀河」は「多数の文字を生む母体」であったゆえ、「十字の銀河」は「多数」の[]の字源・字形・字義となった。
 「多羅斯」という語の中央の[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)[(もう)]の下に[(すい)]が加わる。[]の字義は「網(あみ)」、[]の字義は「小鳥」である。ゆえに、[]の契文形は「糸で編んで作った、小鳥()を捕まえる目のこまかい道具の網」をあらわした。
 だから、[]の字源「十字の銀河」は「太古・上古において、天頂緯度線と子午線の網の目が細かい・精確に緯度と経度(子午線)が測量できる羅針盤」であったことになる。
 下図に示したように、「多羅斯」の[]の字源は「十字の銀河の胸部から四つ目の銀河の前頭部までに垂れる、長い帯状の銀河部」である。また、「十字の銀河の子宮と重なる腹部(乳房にも観える)から四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」も[]の字源となる。ゆえに、[]の字源「長い帯状の銀河部と短い帯状の銀河部の状況」は「垂()らし」ということになる。
 だから、「多羅斯」は「垂らし」であったゆえ、「多羅斯」は「母」と「父」の両親の枕詞(まくらことば)の「垂乳根(たらちね)」の語源であった。ゆえに、「多羅斯」は「母」を指す「垂乳女(たらちめ)」、「父」を指す「垂乳男(たらちを)」の語源であった。その証拠に、[]の字源「長い北側の帯状の銀河部」は「М39」とよばれる散開星団(さんかいせいだん)と重なる乳房から垂れ、[]の字源「短い帯状の銀河部もまた」もまた「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」と解釈できる部分から垂れる。したがって、「二本の帯状の銀河部」は「垂乳根」、「垂乳女」、「垂乳男」の語源であったことになる。
 だから、「垂らし」の[]の字源「二本の帯状の銀河部」が[]の字源であった。
 なお、「十字の銀河の子宮」と重なる「十字の銀河の腰部」は「着物の上から腰の上に巻いて結ぶ長い布の、帯」のイメージとなる。したがって、「十字の銀河の腰部」も[]の字源となったと考えられる。
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◆太安万侶は「古事記上巻 并せて序」の末部で――楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は共に「黒曜石」で同義である――と説く。ゆえに、この説明で、前述したように安万侶は「約3万年前から、良質な黒曜石が産出した神津島」が連想できるように仕組み、さらに『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話が連想できるように企てたことになる。
 また上記したように、太安万侶は――楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」の語義は共に「垂らし・垂乳根・垂乳女・垂乳男」であり、ゆえに「子を思う母と父の愛」をあらわす――と説いている。だから、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義であるという指摘は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記された〔伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】〕をあらわした。
 前述したように、『古事記』上巻は皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚した反逆の歴史書であった。だから、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶して焚書(ふんしょ)しようとした。
 『古事記』編纂スタッフの一員であった山上憶良は「『古事記』は元明天皇に焚書されて後世に残らずに消滅する」と悲嘆し、あるいは「焚書されてたまるか、『古事記』が後世に残るように何か方法を模索(もさく)しなければ」ならないと悲憤して――『万葉集』802番の長歌と803番の短歌を作った。
 憶良は802番の題詞を、太安万侶が作った「古事記上巻 并せて序」という題末尾の「并せて序」という語をそのまま拝借して「子等を思ふ歌一首 并せて序」と定めた。
 『万葉集』「子等を思ふ歌一首 并せて序」という題詞の後には、()説明文と()802番の長歌と()803番の反歌(はんか)がある。
 前述したように――「子等を思ふ歌一首」と題詞を定めながら、802番の長歌と反歌の803番の短歌の二首があるから「一首」という指摘は不合理・矛盾しなかった。というのも、太安万侶が作った「古事記上巻 并せて序」という題に見立てて、憶良は「子等を思ふ歌一首 并せて序」と題詞に定めたからである。また、憶良は「古事記上巻 并せて序」の末部に配した楷書「日下」は夏音文字「玖沙訶」と同義・楷書「帯」は夏音文字「多羅斯」と同義という説明を要約して、()802番の長歌を作ったからである。だから、「子等を思ふ歌一首 并せて序」という題詞と802番の長歌は共に「古事記上巻 并せて序」にもとづいて一セットとなるゆえ、「子等を思う歌一首」という題詞は合理となる。
 したがって、憶良は「古事記上巻 并せて序」と分かれて独立した「『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話」に記された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を具体的に明確にあらわすために、()『万葉集』803番の短歌を作ったことになる。
 釈迦如来(しゃかにょらい)には、「ラゴラ(羅睺羅」という名の子がいた。
 「子等に思ふ歌一首 并せて序」と題する文章は――お釈迦さまはその尊い口で「衆生(人民たち)を平等に思う気持ちはわが子ラゴラを思う愛情と同じである」とお説きになられた。また「愛は子に勝るものはないと」お説きになった。こんな至高の大聖人でさえも「わが子を思う愛情に勝るものはない」ということであるゆえ、ましてこの世の一般の人々にあっては誰が子を愛さずにおられようか――と説明している。
 この説明文をもって、憶良は「古事記上巻 并せて序」を要約すると――衆生・人民たちに敬愛された伊耶那美命は淤能碁呂島の聖婚儀式において「子等を思う愛」を小国・日本の建国理念に定めた――と表現するものであったことになる。
 ゆえに、憶良が作った『万葉集』802番は900余字からなる「古事記上巻 并せて序」の記事を要約する和歌であった。この802番の和歌で、憶良は「『古事記』上巻は伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために編纂された」と指摘した。
 この802番の長歌は、下記のごとくである。

  瓜(うり)()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより
  来(きた)りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ(802)
 〔子どもたちと遠く離れた地に旅して 瓜を食べていると 子どもらが思い出される 栗を食べていると さらにまして偲ばれる どこから 来たものなのか 目の前に しきりにちらついて 腹がへってひもじい思いをしていないか心配で心配で我を眠らせてくれない〕

 憶良は――小国・日本が誕生した伊耶那岐命(18)との淤能碁呂島の結婚式にあって、13歳の乙女・伊耶那美命は新郎の伊耶那岐命より先に夏音文字10字の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という言をもって宣言して「さあ、小国の日本の男(おのこ)たちよ妹(も/妻)を愛して子どもをたくさん生む、この【愛】を日本建国の理念といたしましょう」と提唱した――と指摘して、下記のごとくの803番の短歌を作った。

  銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも(803)

 だから、803番で憶良は「日本人にとって【日本建国の〔愛〕の理念】は何ものにも勝って最も尊いものであり、【愛】は永久不滅でなければならない」と述べている。

◆山上憶良は、神亀(じんき)五年(728)七月三日にも「并せて序」という語を題詞に用いる「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 并せて序」という題の、『万葉集』800番と801番の二首を作っている。ゆえに、800番と801番の二首は「古事記上巻 并せて序」にて解説する【小国・日本の誕生史】と淤能碁呂島聖婚説話に記された【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む。また、800番と801番は『古事記』が元明天皇に献呈拒否された712(和銅5)から16年後に作られたことになる。
 憶良の「子等を思ふ歌一首 并せて序」と題する802番と803番は、801番に続く二首ゆえ、憶良は728(神亀5)以後に作ったにちがいない。憶良は733(天平5)頃に74歳前後で没したと考えられている。ゆえに、801番と802番は死去する5年前後頃に作ったことになる。したがって、802番と803番は没年間近い年に作ったことになる。死去が近づいたことを察知した憶良は【日本国誕生史と、日本建国の〔愛〕の理念】を詠む802番と803番の二首を作ったのである。

 『万葉集』は大伴旅人(おおとものたびと)の長男の大伴家持(おおとものやかもち)が一人で編纂したという説が有力であるが――『万葉集』という書名となった事情を説明する『続日本記(しょくにほんぎ)』の736(天平8)1111日の記事はじめその後の経緯を追究すると、『万葉集』は橘諸兄(たちばなのもろえ)と大伴家持が共撰(きょうせん)するものであっことが手にとるように明らかとなる。これゆえ、『万葉集』は巻一から巻十六までを746(天平18)から753(天平勝宝5)までに橘諸兄が編纂し、大伴家持は巻十七以後を764(天平宝字8)正月までを編纂し、橘諸兄が編纂した巻十六に手を加えて778(宝亀9)1月に『万葉集』を完成させたことになる。
 『万葉集』815番から846番までの32首の題詞にも「并せて序」という語が加えられて、「梅花(ばいか)の歌三十二首 并せて序」と題されている。この題の冒頭は「天平二年(730)正月十三日に、大宰帥(だざいのそち)大伴旅人の邸宅に集まって、宴会をくりひろげた」と説明している。この説明の後に「時に、初春の令月(れいげつ/正月)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやはら)く」という文が続き、この文にある[][]によって、現在の「令和」という元号が定められた。
 なお、大宰帥の大伴旅人も山上憶良と同様に『古事記』編纂スタッフの一員であった。
 だから、「令和」という元号となった「梅花の歌三十二首」もまた【日本国誕生史と、日本建国の〔愛〕の理念】をテーマにして詠む和歌であったことになる。
 『万葉集』では「梅花」は「伊耶那美命」を象徴し、「伊耶那美命」を意味した。815番から846番までの「梅花の歌三十二首」には、「正月」、「春・春日」、「梅の花」、「雪」など「伊耶那美命」を象徴・意味する語が用いられて、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命を讃えている。
 以上のごとく、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字は――「銀漢から作られた文字」を省略して「漢字」と名づけられた。だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の字源・字形・字義と幾つかの楷書の字源・字義を銀漢各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる――と警告していたことになる。
 したがって、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけれたという真理を無視した本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した注釈書『古事記伝』にもとづいて立論する――現在の「『古事記』上巻は歴史を語るものではない」と主張する定説は学問の基本・基礎を知らない・学説の体(てい)をまったくなしていない、【多数の誤読】を駆使して立論した【科学】が成立しない空理空論、真っ赤なウソであったことになる。

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