G-T0XYQT12LL 家康くんと『魏志倭人伝』#1: 卑弥呼の逆襲

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2022年8月26日 (金)

家康くんと『魏志倭人伝』#1

◆このブログから始めて回を増すごとに「徳川家康は『魏志倭人伝』に記述された真実を知っていた事実」がますます具体的に詳細に科学的に証明できるようにすることにした。

 「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と表記した。
 今から約3300年前の殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ漢字は「甲骨文字」とよばれる。今から約3050年前の周代(西周時代)初頭から出現した漢字は「金文」と名づけられた。甲骨文字と金文の多数の字形は銀漢各部の形状を写実的にデザインする。また、多数の甲骨文字と金文の字源・字義は銀漢各部の形状によって成立する。だから、甲骨文字と金文は――「漢字は銀漢から作られた事実」が証明できる確かな史料となる。

◆「漢字は銀漢から作られた事実」にもとづくと――徳川家康は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないで、卑弥呼が居住した首都所在地の名は「邪馬壱国(やまいこく)であった」と考えていたことになる。また、家康は「邪馬壱国の中心地は旧国の出雲」と考えていたことになる。というのも、【家康が命を賭けて追い求めた一生の夢】をたどっていくと、家康は『魏志倭人伝』を密かに研究して「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えていたことが具体的に科学的に解明できるからである。それというのも、家康の一生を追いかけると「家康が『魏志倭人伝』を読んでいた」と明確に証明できる3つの科学的な遺跡が現存するからである。
 家康が「邪馬壱国出雲地方説論者」であった一つの理由・根拠となる遺跡として、下図に笹山晴生(他6名)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページににある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路の図〕を配した。
 なお、下図の「江戸の水路」は〔家康が『魏志倭人伝』を読んでいたと明確に・科学的に証明できる遺跡〕ではない。それら3つの遺跡は別にある。すなわち(1)『魏志倭人伝』と同じ3世紀後半に約30年間費やして作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」、(2)1600年の関ケ原合戦の3年後から20年間かけて作製された「3千万坪の大鳥の地上絵」である。もう一つは()家康の死後に江戸幕府によって作られた京都の桂離宮の庭園である。
 下図の「江戸の水路」は〔家康が邪馬壱国出雲説であった理由・根拠となる遺跡〕である。
 この「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路〕は、家康が設計した。
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◆上図は〔上を北・下を南とする、江戸の水路図〕である。
 下に、〔左の西を上の北・右の東を下の南とする、方位を時計回りに90度の転回する江戸の水路図〕である。
 下図の「転回方位にもとづく、江戸の水路の渦巻文」は、下図右側の[]の古代字形(古文形)に合致する。ゆえに、家康は「時計回り渦巻く[]の字源・字形・字義」を表現して「江戸の時計回りの渦巻文の水路」を設計したと考えられる。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)[]の古文形を「雲の初文」つまり「雲の最初の文字」と解説する。
 下図の〔転回方位の江戸の渦巻文の水路〕は「現在の隅田川へ出(いず)る」。だから、〔江戸の水路〕で、家康は「出る」の[]に「水路の渦巻文」の[]を加えて「出雲」とあらわしていたにちがいない。したがって、家康は「方位規定を時計回りに90度転回して、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていたことになる。
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 今から約5000年前に漢字が発明された。この時――[](か/字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字が作られた。この起源漢字の[]の字源は「時計回りに90度転回する方位規定」であった。ゆえに、[]は【漢字の作成理論をあらわす基軸字】であった。
 「漢字は銀漢から作られた」という素養を有した家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解して「卑弥呼王朝は日本列島における本州(本土)の地理方位を、【漢字作成理論の基軸字[]の字源】にもとづいて時計回りに90度転回していた」と考えていた。
 というのも、『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も【誤読】が加えない論法だと「邪馬壱国は出雲地方であった」ことになるからである。だから、家康は「[]の古文形をデザインする江戸の水路」で「邪馬壱国出雲地方説」を表現していたことになる。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】は加えないと、九州の末盧(まつろ)国以下の本州地理を説明する12か所の全方位記事は【本州の東は、本州の南になる】と説明していることになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭の「朝鮮半島の帯方郡から末盧国までの説明」には全7か所の方位記事がある。この7か所の方位記事は、現在の日本地図と同一となる。たとえば『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)の南に一海千余里を渡ると、一大国(現在の長崎県壱岐)に至る」と記すゆえ、この対馬国と一大国の方位は現在の日本地図と同じである。
 しかし、末盧国以下の本州地理を説明する方位記事は12か所ある。この全12か所の方位記事に1ヵ所も【誤読】は加えないと、下図のごとく【本州の東は南となる】。
 下図に示すように、対馬国を1番目と数えると「信長の生地の尾張」は13番目の「弥奴(みな)国」、「家康の生地の三河」は14番目の「好古都(こかた)国」、「三河の隣国の遠江」は15番目の「不呼(ふこ)国」であった。
 現在の日本地図だと弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は九州の東にある。しかし、『魏志倭人伝』の末盧国以下の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、下図に示すように弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は本州の南に所在する。
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 上図に示すように――『魏志倭人伝』が「投馬(とうま)国の南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県の西部」となる。
 『魏志倭人伝』には上図に示した34の小国が登場するが、一国だけ小国名を記さない。
 この名を記さない小国について、『魏志倭人伝』には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」と説明する。
 上図に示したように、「女王国(山陰出雲)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。「島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」という表現となる。また、「[]の字源・時計回りの90度の転回方位」の場合「北が東になる」。だから、「隠岐群島の島前」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国あり」と説明された地所であったことになる。
 また、「隠岐群島の島前と島後の中間の海」も転回方位だと「出雲の東」となる。
 だから、「[]の転回方位にもとづくと、古代出雲の中心地より【東】の海上となる位置に隠岐群島が所在する」ゆえ、家康は「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えたことになる。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した宮殿について「宮室・楼観(ろうかん/見張り櫓)・城の柵を厳重に設計し、常に兵器をもった人が守衛している」と説明する。
 このような倭女王の宮殿は、かつて「意宇(おう)郡」とよばれた地域に所在したと考えられる。出雲国の意宇郡は、古代の神群のひとつに数えられた。神郡とは有力な神の社(やしろ)が鎮座した地域であった。意宇郡は現在の松江市の南部と安来(やすぎ)市である。宍道湖東方の中海(なかうみ)の南(現在方位)には、意宇郡であった松江市東出雲町に揖夜(いや)神社が鎮座する。この揖夜神社の近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したとすると、転回方位で揖夜神社の〔真東〕となる千余里の地域は島前と島後の中間の海上となる。ゆえに、「女王国より千余里の東」は「海」であったゆえ、卑弥呼は「海と陸地の島前・島後の両者の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の様子をもあらわす、また「漢字が銀河から作られた」とあらわす女王の学識として威厳をあらわすことができる優れた小国名を考えつかなかったのであろう。だから、隠岐群島の小国名は記されないことになったのかもしれない。
 また、意宇郡であった松江市佐草町には八重垣(やえがき)神社が鎮座する。卑弥呼の宮殿の跡地に八重垣神社が建造されたとしたならば、八重垣神社の真東は隠岐群島の島前ということになる。
 ゆえに、わたくしは卑弥呼の宮殿地の第一候補は揖夜神社近辺であったと考える。そして、須佐之男命(すさのおのみこと)が新婚生活を過ごした八重垣神社の地にはかつて卑弥呼の宮殿が建てられていたと思われるゆえ、八重垣神社が卑弥呼の宮殿の第二候補地となる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国から東南五百里陸を行くと伊都(いと)国に到る。伊都国から奴()国に至るには東南百里である。奴国から東へ百里行くと不弥(ふみ)国に至る。不弥国から南に二十日水行(航行)すると投馬(とうま)国に至る。投馬国から南へ十日水行し一月陸行すると邪馬壱国に至る」と説明する。
 []の字源・転回方位にもとづく末盧国から不弥国までの旅程基点を下図に示した。
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 「末盧」は「まつろ」と読める。ゆえに、現在の長崎県の「松浦市」の「まつうら」は「まつろ(末盧)」という音に近い。ゆえに、上の〔[]の字源・転回方位による九州各小国の範囲と旅程基点の図〕に表示したように――末盧国の旅程基点を長崎県松浦市に比定した。
 伊都国は『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」であったと考えられる。伊都県は現在の福岡県糸島市の前原町(まえばるまち)に比定されるという説がある。ゆえに、転回方位にもとづくと末盧国・松浦市から東南五百里の地点は糸島市前原町に相当する。
 奴国については『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元二年(57)、倭の奴国は貢物を奉って朝賀した。後漢の光武帝が印綬を賜う」と記述する。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から「漢委奴国王」の金印が発見された。この志賀島の東方(現在方位)の福岡市東区には香椎宮がある。奴国の旅程基点を香椎宮に比定すると、転回方位だと糸島市前原町から東南百里行くと香椎宮となる。
 不呼国の旅程基点を宗像(むなかた)市の宗像大社の辺津宮(へつみや)に比定すると、香椎宮から転回方位の東へ百里行くと宗像大社の辺津宮となる。
 だから、卑弥呼王朝は【漢字作成理論の基軸字[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」】にもとづいて末盧国から不弥国までの地理方位を定めていたことになる。
 前述したように、漢字が起源した中国の五帝時代初頭において「時計回りに90度転回する方位規定」を字源とする[]の字が作られ、後に[][]が加わる[]の字が出現し、さらに後に[人偏][]の字が加えられて[]の字が作られた。『魏志倭人伝』は――対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって[][]の字は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ――と伝えている。だから、『魏志倭人伝』は「本州地理の全12か所の方位記事は、時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。その証拠に、「倭人国」という国名の[][]の字源もまた「時計回りに90度転回する方位規定」を有するものであった。
 だから、上記したように、家康は『魏志倭人伝』の記事のとおりに本州の地理方位を「時計回りに90度転回する」ようにして「邪馬壱国出雲地方説」を考えたゆえ、「江戸の渦巻文の水路」にて「邪馬壱国出雲地方説」を表現することにしたことになる。

◆不弥国の次の投馬国は山口県であった。山口県・投馬国の長門(ながと)市の港が投馬国の旅程基点となる。
 投馬国の旅程基点を山口県長門市の港に比定すると、長門港は不弥国の宗像大社辺津宮の南となる。辺津宮から宗像大社の沖津宮(おきつみや)がある沖ノ島に立ち寄り、沖ノ島から山口県萩市の見島(みしま)を経由して長門市の港に至るまでの迂回(うかい)海路を、『魏志倭人伝』は「水行二十日」と説明している。
 『魏志倭人伝』には五世紀の裴松之(はいしょうし)が「倭は中国の正歳四節、つまり中国の正歳つまり元日から大晦日までを一年と定め、また一年を春、夏、秋、冬に分ける四節(四季)を定めていない。ただし、春耕(田を耕す春)と秋収(穀物を収穫する秋)を一年とする、中国の一年を二年と計る二倍暦(にばいれき)があった」と加えた注がある。したがって、「水行二十日」という航行日数は「現在だと、十日」であったことになる。そして「辺津宮から沖ノ島を経て、沖ノ島から見島を経由して投馬国の旅程基点の長門港へ到着するまでの十日の海路」は、〈通常航路〉ではなく《学術海路》を説明するものであったと考えられる。
 この《二倍暦による不弥国から投馬国までの学術海路》は『魏志倭人伝』の「対馬国から南へ千余里渡って一大国に至る中間の海は、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」という記事と密接にかかわる。「瀚海」ははじめ「ゴビ砂漠」を意味し、のち「北海」を意味したとされる。「ゴビ砂漠」は「中国(中華人民共和国)より北方のモンゴルの砂漠の名称」である。ゆえに、「ゴビ砂漠は中国の北方にある大海のごとき砂漠」であるゆえ「瀚海」は「北海」、つまり「中国の北の海」を意味することになった。
 「対馬国と一大国の中間の海」が「ゴビ砂漠」であるはずがない。[][][]の字源とともに、(1)「瀚海」もまた「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割を有していた。さらに、(2)「不弥国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」と「投馬国東部(現在方位)の地宜」もまた「瀚海」という語源と[][][]の字源とともに「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割があった。
 だから、卑弥呼は上に示した「転回本州地理」を立論し、国名を「倭人国」と定め、「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名づけて、【漢字作成理論】にもとづいて倭人国を治めたていたことになる。その証拠に、「瀚海」の語源が「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしたことは、前述したように「不弥国の地宜と投馬東部の地宜」によって具体的に証明できるからである。ゆえに、卑弥呼は「不弥国から投馬国までの旅程」で「水行二十日」とする《学術海路》を表示して女王の徳と威厳を示して倭国を治めていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は「投馬国から南へ水行十日陸行一月で、女王が首都とする邪馬壱国に至る」と説明する。したがって、現在においては「投馬国から邪馬壱国までの旅程日数は半分の水行五日陸行半月」であったことになる。
 転回方位にもとづくと、投馬国の長門港から〔南〕には、島根県松江市がある。前述したように、卑弥呼が居住した宮殿は松江市東出雲町の揖夜神社近辺か、松江市佐草町の八重垣神社の跡地であったと考えられる。この両地所とも、投馬国・長門港から水行五日陸行半月に適合する。
 揖夜神社の社号に用いられる[]の字義は「集まる」である。ゆえに「揖夜」は「漢字の字源・字形の原形・原義となった銀漢の各部が出現する夜に神々が出雲に集合する」と意味することになる。ゆえに、「揖夜」は「陰暦十月に諸国の神々が出雲に集合する、神有月」また「出雲以外の国々は神々がいなくなる、神無月(かみなづき)」の由来に適合する。つまり、「神々」は「銀漢各部の形状が字源・字形・原義となる学術知識を有する倭国中の王・王女や巫女・覡(げき/神官)たち」のことであり、「諸国の王・王女や巫覡が陰暦十月に卑弥呼が居住する出雲に揖(あつ)まって会合した習慣」が出雲における「神有月」の語源、出雲以外の諸国における「神無月」の語源であったと推定される。
 だから、揖夜神社近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したのではあるまいか。

◆『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は「熊野の黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今(『古事記』が完成した712)出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂()ふ」と記す。この「出雲国の伊賦夜坂」は「熊野の和歌山県新宮市磐盾町の神倉(かみくら)神社の参道」であった。『古事記』が完成した712年当時、「熊野の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂」とよばれていたのである。
 幾人かの学者たちは『古事記』の黄泉国訪問説話末部の「出雲国の伊賦夜坂」を「島根県・出雲国の伊布夜坂」と解釈するが、この意見は誤っている。
 万葉歌人の第一人者とされる柿野本人麻呂は701629日に出立して710日に還幸(かんこう)した持統上皇の吉野宮行幸に参加していた。
 この701年の持統上皇の行幸において、伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与=9代開化天皇の正妃の竹野比売)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史の抹殺を企てて吉野宮に行幸する持統上皇に抗議して川に身を投げて溺死した出雲国・熊野に住む乙女たちと、人麻呂は遭遇した。
 吉野から山陰出雲は遥かに遠い。ゆえに、人麻呂が作った二首の和歌と山陰出雲は無関係であった。持統上皇が行幸した吉野は、伊耶那美命・伊耶那岐命・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭る熊野に近い。当時、吉野に近い熊野は「出雲」とよばれていたのである。ゆえに、人麻呂は「熊野」を「出雲」と表現したことになる。だから、『万葉集』429番と430番の「溺れ死しし出雲の娘子(をとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る和歌二首」という題詞に登場する「出雲国」は「和歌山県の熊野」であったことになる。
 人麻呂は、この名も無い出雲・熊野の乙女たちのいのちを捨てての激しい抗議に遭遇し、彼女たちの亡骸を火葬しながら、霧がかかったように視線をさえぎられて涙で潤む眼で吉野の山の嶺をながめ――激しい怒りにふるえた。体制側の横暴や不正や卑怯な陰謀などを見て見ぬふりして身をまもって宮廷歌人の席にしがみつく自分がどうしてもゆるせなくなり、深く恥じた。この二首は、人民たちが敬愛する伊耶那美命(竹野比売)と伊耶那岐命(若き日の開化天皇)が【愛】を国家理念とした小国・日本の誕生史を抹殺せんと企む持統上皇と律令国家体制を批判して抵抗を示す和歌であった。人麻呂は溺死した熊野・出雲の乙女たちを吉野で火葬する時に作った二首で、天照大神(10代崇神天皇母子)を至上神と崇拝して・国家権力の強大化を強引に推進する政策をおこなう持統上皇は誤っていると批判した。これゆえ、人麻呂は石見国(現島根県西部)へ流された。人麻呂は石見国の地で死去している。
 だから、この事件の11年後に『古事記』が元明(げんめい)天皇に献上された。ゆえに、8世紀前半において「熊野・和歌山県新宮市の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」とよばれていたことになる。

◆現在の学界にとって、『魏志倭人伝』は【倭女王・卑弥呼が治めた邪馬台国はどこに住んでいたのかを研究する書物】である。
 しかし、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【国家を治めるための学術基盤、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸を学習する最高峰の教科書】であった。だから、皇室と家康はじめ幕府にとって、『魏志倭人伝』は【王道政治の基盤である学術書、要するに帝王学を学ぶ書物】であった。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、漢字を発明した。五帝時代の漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。
 今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏后(かこう)時代初頭(夏代初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちが玄界灘を横断して北進して日本列島の東北地方・秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】を教えひろめた。ゆえに、『魏志倭人伝』には【今から約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と、今から約4000年前の夏代初頭の夏音文字の学芸】が記述されることになった。
 ゆえに、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を最も明確に伝える最高峰の学術書】であった。
 その証拠に、江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)1725年に死去すると、白石が邪馬台国大和説と邪馬台国九州説を立論していることを知った朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国が滅びる! わが皇室が滅びる! わが国の学問が滅びる! わが国の文化は根底から滅びる! わが国の上古史がことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、白石の邪馬台国説に対して「わが国を作ったすべてのものが台無しになって滅びる」とまで恐怖を抱いている。

 新井白石は114代中御門(なかみかど)天皇在位中の1725年に69歳で没した。673年に即位した40代天武天皇以後おこなってきた大嘗祭(だいじょうさい)は【倉頡から始まった五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の学芸をわが国は習得したと表示する学問儀式】であった。ところが、1466年に即位した103代後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡が発明した漢字作成理論や夏音文字の学術】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を心配した皇室は、1687年の113代東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代第東山天皇の在位中、そして次の114代中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ邪馬台国説を発表していなかった。上記したように、白石が邪馬台国説を発表したのは、中御門天皇の在位中であった。
 673年から686年に在位した天武天皇は「大嘗祭は――即位する天皇が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を政権基盤にして国家を治めると誓う儀式】とする」と定めた。ゆえに、「白石の邪馬台国説は誤読の空理空論である」と表示する大嘗祭は、中御門天皇の次の115代桜町(さくらまち)天皇の即位式にておこなわれることになった。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の173811月におこなわれた。
 前述したように、皇室と家康の遺志を継ぐ江戸幕府にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を知る最高峰の学術書】であった。だから、桜町天皇の即位式は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。
 以上からして、桜町天皇の大嘗祭は、本格的に【倉頡が発明した作成理論と夏音文字の学芸】を復興する学問儀式であった。したがって、1738年の桜町天皇の大嘗祭から今日の2019(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】をあらわす学問儀式であったのである。

◆天武天皇以後、朝廷は伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は皇祖・天照大御神の聖性を汚すゆえ、後世に伝えることを厳重に禁止した。しかし、天武天皇の命令に逆らって、『古事記』上巻に皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史が記述された。このため、『魏志倭人伝』も『古事記』同様に読むことも研究することも厳重に禁止された。というのも、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】によって「倉頡は銀漢各部の形状を文字(字源・字形・字義)と定めたこと」が解明されると、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する方法によって、朝廷にとって不都合な伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史が明らかとなるからであった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には――伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部の登場する倭女王の壱与)は伊耶那岐命と結婚したとき「小国・日本の建国理念は【愛】にしましょう」と提唱した。伊耶那美命の死後、伊耶那岐命は大王(9代開化天皇)となって愛妻・伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いで天下をおさめた。皇祖・天照大神(10代崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を弾圧して苦しめた。また、伊耶那美命の後を継いで倭女王に就任した皇祖・天照大神(10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍きわまりない徇葬(じゅんそう/八雷神・やくさのいかづちがみの儀式)を陣頭指揮した――と記述されていた。
 これゆえ、1738年の桜町天皇の本格的な大嘗祭の復興から今日の2019年までにおこなわれて大嘗祭は「夏音文字と楷書の字源・字義は銀漢各部の形状である」とあらわす学問儀式であった。ゆえに――桜町天皇から今上陛下までの大嘗祭は、家康の遺志を継ぐ将軍吉宗と江戸幕府が欲求した【皇祖・天照大神が憎悪・敵視した日本建国の〔愛〕の理念】が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば解明できる学問儀式」でもあったことになる。
 しかし、現在、学者たちは【『古事記』上巻の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する必要は無い】と考えているので――日本国民は日本国が【愛】を宣誓して建国されたことを知ることができない。

◆天武天皇以後、皇室が最も偉大な先祖と定めた皇祖・天照大神は三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮・皇大神宮(こうたいじんぐう)に祀られる。
 大嘗祭は天照大神を祀る大礼(たいれい)でもある。
 天照大神を祀る皇大神宮(内宮)は、X字形に交差させた木材・千木(ちぎ)を屋根の棟(むね)の両端に取り付けている。
 わが国の神社の建物は、天照大神を祀る伊勢神宮にかぎらず、屋根にX字形の千木を取りつける――「神社の屋上に千木がある」、これが神社建築の一般的形式である。
 千木を取り付けるわが国の神社建築様式は、わが国が夏代初頭に夏音文字を習得した証拠となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[(こう)]の字について「千木のある建物の形」、また「氏族の伝統と秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖のものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と解説しているからである。
 白川静著『字統』は、[]の契文(けいぶん/甲骨文字)と金文の字形について「もと屋上に千木のある建物」、あるいは「卜文(つまり甲骨文字)は千木形式の建物で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。卜辞(甲骨文字の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と解説する。
 下に、〔契文(甲骨文字)前期の[]の字形と、契文前期の[]の字形と、わが国の神社の千木図〕を示した。
 わが国は夏代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、天照大神を祀る伊勢神宮はじめわが国の神社建築は「学。学術。学問」をあらわす[][]の契文形に図案された「千木」が屋根のむねの両端に取り付けられることになった。
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 上記したように、白川静著『字統』が「卜辞(契文の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と指摘するように――中国では契文が出現した殷代後半・金文が出現した周代において、権力を有する王や高位につくにふさわしい人物が多数の王臣の子弟の中から卜されて選ばれ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもるように教育され、【銀漢各部の形状が字源・字形・字義となる学術】を厳しい戒律のもとで学習していたようである。
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は下記のごとくであった。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。ゆえに、【3つの掟】を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は文字が書いた史料が出土しないことになった。

 今から約3300年前から始まる殷代後半の契文(甲骨文字)4000(4000)を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことになった。このため、契文(甲骨文字)を書いた史料が多数出土することになった。
 だから、【わが国は甲骨文字以前の夏代初頭に夏音文字を習得していた】ため――「用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物、また、この掟を破った人物の一族全員も、死刑にする」という【3】の掟は夏代初頭以後も、厳重にまもられていたことになる。

◆白石以後の学者たちは「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた事実」に気づかない。このため、白石以後の学者たちは全員『魏志倭人伝』に記述された【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論の説明】が事実であると理解できい。
 いっぽう、白石以前の優れた中世や近世の学識者や高僧たちの中には【銀漢各部の形状が字源・字形・字義】となって五帝時代の書契と夏音文字は夜空に現存する事実を察知する人々がいた。しかし、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の伝統にもとづき、【銀漢から作られた漢字の研究は厳重な秘密のもとに研究しなければならない心得がルール】となった。中世や近世の高僧たちは仏教の経典に用いられる漢字の字源を研究するために、また天下を治めたいと夢見る武士たちの中には天下を治めるための帝王学を知得するために――誰にも研究していることが察知されないように家康のごとく直隠(ひたかく)しにして、また後世の歴史学者たちにも気づかれないように家康のごとく直隠しにして――『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を研究する人々もいたのである。

◆白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
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 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」と指摘する漢字は、今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得した【夏音文字】であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
 ところが、〔漢字生長史〕が示すように、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。
 だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した漢字習得の絶対的な定説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の「夏音文字を習得していた」と伝える記事を強引に無視・排除した傲慢(ごうまん)な空理空論、すなわち「5世紀以前に、漢字を書いた史料が出土しない。ゆえに、わが国は漢字を5世紀以前に習得していない」と断定する考古学の見解を正しいと思い込んだ幻想、錯覚であったことになる。
 わが国が約4000年前に習得した五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存する。
 というのも、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は銀漢各部の形状が字源・字形・字義となって、現在も夜空に存在しているからである。だから、音韻学による「わが国の国語として残る漢字の字音は中国の現存する上古音よりも古い、いま残されているもののなかで最古の漢字音である」という指摘は事実となる。
 「漢字は銀漢から作られた文字」であった。だからもしも学界が家康のごとく「漢字は銀漢から作られた事実」に気づいていれば、即座に学界は「考古学が主張する漢字習得説は空理空論である」と断定していたことになる。
 上記したように、前期の契文(甲骨文字)[][]の字形に合致してX字形の千木を屋根に取り付けるわが国の神社建築は「夏代初頭に夏音文字を習得していた」と考えるべき史料であった。だから「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は[]の字源を知らない・「学説」とは言えない空理空論であったことになる。

◆中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には――600年、わが国の推古天皇八年に倭国から派遣された遣隋使が「文字無し。ただ刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、初めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、もっとも巫覡を信ず」と言った――という記事がある。
 この記事に登場する「刻木」は「倉頡が作った五帝時代の書契」の別称であった。「書契」は太古より「木に文字を刻む」と意味すると伝えられていた。ゆえに、「書契」をわが国では「刻木」とよんでいたことになる。中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』には「上古は結縄によって治め、後世の聖人倉頡がこれを書契に代()える」という記事がある。「結縄」は「今から約6000年前の、三皇時代に易に用いられた記号」の名称であった。倉頡は三皇時代の易に用いた記号の結縄に代えて、書契つまり刻木を発明した。
 ということは、『隋書』倭国伝に記された「文字無し」という文は「仏教の経典に用いる画数の多く、銀漢各部の形状を見ても字源・字義の解釈が困難となる楷書は習得していない」と意味したことになる。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の文は「文字無し」から始まる文は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木がある。しかし、仏教の経典に用いる難しい楷書は無かった。仏教を敬い、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入して、はじめて仏教の経典に用いる楷書が読解できるようになった。というのも、五帝時代の刻木と夏代の夏音文字に精通する巫女と覡(男の神官)たちが中国の卜筮の書物に用いられる漢字を読解するために、仏教の経典に用いる難解な楷書の解読に挑戦して成功した。ゆえに、この偉大な業績をなしとげた巫覡を世の人々は最も信頼して尊敬した」と、遣隋使は説明していたことになる。
 上記した『隋書』倭国伝に記された600年に中国に渡った遣隋使の「文字無し」という言は江戸時代の学者たちはじめその後の学者たちに「わが国には文字が無かった」と誤訳された。このため、考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は正しいと思い込まれるようになった。ところが、この解釈は【誤読の産物】であった。遣隋使は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏代の夏音文字を有していた。刻木と夏音文字に精通する巫女と神官たちが、みごとに仏教の経典に用いる難解な楷書を解読した」と中国に事実を報告していたことになる。
 だから、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は誤読の産物・空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の卜辞(ぼくじ/占いに用いる言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・甲骨文字」を意味した。だから、わが国は【甲骨文字のごとく銀漢各部の形状に似せて写実的に図案する夏代初頭の夏音文字】を習得していた――したがって、『魏志倭人伝』の「令亀の法の如く」という記事は「わが国には、銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた甲骨文字のごとき夏音文字が存在した」と伝えていたことになる。
 〔注 上記したように、〈1〉契文・令亀の法(甲骨文字)前期の[][]の字形に合致する「神社建築の千木」はわが国が夏音文字を習得していた証拠となる。また、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀前半)、巫女や神官たちは夜な夜な銀河各部の形状を観察して字源・字形・字義を正しく知得する夏音の言と夏音文字をもって卜していた。ゆえに、〈2〉卑弥呼時代末から約250年後の推古天皇時代の600年頃の巫女と神官たちも夜な夜な銀漢を観察して字源・字形・字義の学術に励むものであったので、百済から輸入した仏教の経典に用いられる非常に難解な楷書を解読することができたのである。〕

 『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭の卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼の文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
 だから、「倭には【五帝時代の刻木と夏代の夏音文字】が存在した」ことが事実となる。
 学者たちは「倭には上古の漢字があった」と明記する『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には、上古の漢字は無かった」と断定した。しかし、上記の「令亀の法」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や「邪馬壱国」という首都名や、そして対馬国から狗奴国までの30の小国をもって――『魏志倭人伝』は「倭には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と証言していた。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という記事がある。
 上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べたという言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と意味した。
 第7回遣唐使が「わが国には、夏音文字が存在する」と述べた、この「夏音文字」は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名となって記されている。
 倭女王の名「卑弥呼」の3字を〔中国に現存する最古の上古音〕で読むと「ピミカ」となる。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、「ピミカ」より古い夏音文字の字音であったのである。『魏志倭人伝』には「卑弥呼(ヒミコ)」はじめ「難升米」を「ナシメ」、「壱与」を「イヨ」、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読める夏音文字の字音が残っている。「邪馬壱」を「ヤマイ」と読める女王国はじめ33の小国名にも夏音文字の字音が残っている。「卑狗」を「ヒコ」、「卑奴母離」を「ヒナモリ」と読める官職名にも幾つかの夏音文字の字音が残っている。
 だから、いままで証明してきたように、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在した。
 だいいち、【五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字】は「銀漢各部の形状】となって、銀漢輝く夜空に現在も存在する。だから、「五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存しない」と断定する考古学の【『魏志倭人伝』の記事】を無視し排除する意見は空理空論、重大な真実を抹殺する傲慢(ごうまん)な意見ということになる。

 そして、中国王朝に「わが国には、壬申の乱の後に稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と告げた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年から10年後の702年1月28日、『古事記』が43代元明(げんめい)天皇に献上された。
 この『古事記』上巻に現存する夏音文字によって、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は空理空論・真っ赤なウソであったという事実が一気に証明される。
 というのも、【『古事記』の上巻の随所には、〔音〕という注がつく多数の夏音文字が残っている】からである。
 たとえば『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話は合計381字で構成されるが――〔音〕という注がつくのは「許々袁々呂々邇」の7字、「淤能碁呂」の4字、「美斗能麻具波比」の7字、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字、「久美度邇」の4字の――5か所にして夏音文字は計32字である。
 ゆえに、上記したように、中国の正史『新唐書』日本伝に――第7回遣唐使が「壬申の乱の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と中国王朝に言ったとおり――壬申の乱の後に編纂された『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話には夏音文字が稍々(合計381字のうち、夏音文字は32)復興されている。
 だから、いままで詳細に解説し証明してきたように、わが国は中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に【夏音文字の学芸】を習得したときに、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得していたことになる。
 したがって、夏音文字は『古事記』上巻の随所に多数の多数の【夏音文字の字音】が記され、現在も銀漢輝く夜空で【夏音文字の字源・字形・字義】は存在している。このように、現在も、夏音文字は楷書と同じく【字源・字形・字義・字音】がそろって実在する。だから、考古学が断定したわが国の習得説は空理空論、空想・錯覚であったことになる。
 以上、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、学界が考古学に支配されて「わが国は夏代初頭に夏音文字を習得した」と記述していた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ様々な文献の記事を誤読して無視・排除した空理空論であったことになる。

◆後漢時代の100年ころ、字源を解説する字書『説文解字』を著作したとされる文字学者の許慎(きょしん)は、『説文解字』の序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と指摘している。
 許慎は「銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする文字は経(学問)と芸(芸術)の根本であり、王道政治にとって真っ先に必要とする絶対に必要な政権基盤となる知識であり、前人たちの歴史を記述する書物の文字を後世の人々が銀漢各部の形状を観察して、過去の歴史の真相・真実が解明できる方法である」と指摘していた。
 新井白石から現在までの邪馬台国説者たちと異なって――徳川家康の『魏志倭人伝』の研究目的は『説文解字』の序の「けだし文字は経芸の本、王政の始め、古(いにしえ)の歴史の事実・真実を識る」という説明と合致した。つまり、家康は『魏志倭人伝』を【王政の始め、天下を治める帝王学を知る最良の学術書】とし、「楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換して夏音文字の字源・字形・字義を知る学問」を一生研究したことになる。
 ゆえに、新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちの「女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の所在地を決める」という『魏志倭人伝』の研究目的とまったく異なっていた。

◆このブログをまとめると、下記のごとくなる。
【1】家康は「漢字は銀漢から作られた文字である事実」を知っていた。ゆえに、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となって存在する事実を、家康は知っていた。
 新井白石から始まる邪馬台国説の学者たちは、「漢字は銀漢から作られた事実」をまったく知らない。ゆえに、『魏志倭人伝』研究にとって必要とする素養を有していない。
【2】『魏志倭人伝』には()「倭には令亀の法のごとき夏音文字があった」という記事と、()「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いた楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字は相違していたが、倭の伊都国の港では楷書と夏音文字を正しく変換していた」と説明する二つの記事がある。この二つの記事のとおりに、家康は「倭には夏音文字があった」と考えた。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏音文字の字音が残っている。だから、家康の考えは事実を知っていたことになり、その研究はおのずと【科学】が成立することになった。
 「漢字は銀漢から作られた事実」を知らない新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の()「令亀の法のごとき夏音文字があった」と()「伊都国の港で魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書と卑弥呼が用いた夏音文字が同義になるように正しく変換できた」という二つの記事を徹底的に無視・排除する。これが原因で、邪馬台国説は【誤読の産物】となり、いっこうに【科学】が成立しない矛盾・不合理だらけの意見となる。
【3】家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない。この論法だと、【末盧国から邪馬壱国までの旅程記事の方位は時計回り90度転回していたこと】になり、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」と説明する小国は「隠岐群島」であったことになる。この「隠岐群島」による記事の合理によって、女王国は山陰・出雲であったと解明できる。したがって、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も加える必要がなかった正確な書物であった。その証拠に、『魏志倭人伝』に【誤読】を1ヵ所も【誤読】を加えないと【科学】が成立する。
 いっぽう、新井白石から現在までの邪馬台国学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事を軽々しく信用してはいけない」と定める。ゆえに、邪馬台国学者たちは『魏志倭人伝』の記事は「信用できない。誤っている」と指摘して、『魏志倭人伝』の記事よりも自分たちの考えのほうが正しいと決めつける主観的な意見・批判を多数加える。この論法が原因で――邪馬台国説には「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」という記事と合致する小国が存在しない。だから、邪馬台国説は【誤読の空論】であったことになる。というのも、『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば【科学】が成立する仕組みとなっているにもかかわらず、「なぜ信用してはいけないのか、信用できないのはどの点なのか、どのような考え方をしたならば信用できるか」などと批判を加えた主観的意見はすべて【誤読】ということになるからである。
【4】『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壹国」と記す。
 ところが新井白石から現在までの邪馬台国畿内説と九州説は、「女王国名は邪馬臺()国が正しい」と主張する。
 『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」の後に「今、名を案ずるに邪馬惟の音之訛(なま)り也」という注がつく。この注における「邪馬臺」の音をあらわす「邪馬惟」のうちの[]の漢音は「イ()」、呉音は「ユイ(ユヰ)」で、「タイ」という字音は存在しない。ゆえに、夏音文字で「邪馬」を「ヤマ」、漢音で[]を「イ」と読むと、「邪馬惟」は「ヤマイ」と読める。ところが邪馬台国学者たちは「邪馬臺()」を「ヤマタイ」と読むゆえ、「邪馬惟(ヤマイ)」は「邪馬臺()」ではなかったことになる。他方、「邪馬壹()」は「ヤマイ」と読める。というのも、夏音文字の一字一音読みにもとづくと[()]の「イチ」の字音は先頭の「イ」となるからである。だから、『魏志倭人伝』に記された女王名国の「邪馬壹()」は「ヤマイ(邪馬惟)」と読むべきことになる。
 しかし、字形にもとづくと『後漢書』倭伝は「邪馬臺」と記しているゆえ、『魏志倭人伝』の「邪馬壹」という表記は誤りとなる。
 このように、『後漢書』倭伝にある「邪馬臺国」という女王国名と注の「邪馬惟」という音だと、「邪馬臺」と「邪馬壹」のどちらが正しいか証明することができない。
 しかし、『魏志倭人伝』も末部には「因()りて臺()に詣(いた)る」という、魏都「洛陽」を[()]と略する記事がある。
 前述したように、『魏志倭人伝』の初頭部には「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海・ゴビ砂漠であった」と説明する記事がある。また、「不弥国から南へ水行二十日で投馬国に至る」という記事がある。この【「瀚海」と「不弥国から投馬国までの旅程記事」】は【「魏都の洛陽」を[()]と略すると、夏代初頭に「洛陽より東方の山東半島」を[()]と略することになった経緯】を伝える。だから、『魏志倭人伝』の「因りて臺()に詣る」という記事によって、女王国名は「邪馬壹()国が正しい事実」が具体的に科学的に証明される。
 以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹国」という表記は正しかったことになる。言いかえると『後漢書』倭伝の「邪馬臺国」は誤記であったことになる。
 この結果、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しなかったことになる。ゆえに、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の約2000字の全記事と1ヵ所も合致しない、真っ赤なウソを学説であると巧妙に見せかけた【誤読の産物】であったことになる。
【6】以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』の全記事は正しい事実は矛盾点も不合理な点もなく【科学】が成立して証明される。
 邪馬台国説学者たちは【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】を「3世紀後半に著作された原書が12世紀の刊本で残った『魏志倭人伝』には、当然、多数の誤記が混じりまた信用できない多数の記事が存在すると考えるべきことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を絶対に軽々間しく信用してはならない」と定める。この【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】は【「科学」を優先して考えなければならない歴史学の鉄則】を無視した空理空論、言いかえると「西欧近代科学の学術を習得した自分たちの意見がほうが正しく、学問が未発達な3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の説明に聞く耳を持つ必要はないと決めつけた傲慢から産まれた空理空論」であったことになる。

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