家康くんと『魏志倭人伝』#3
◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
「銀漢から作られた文字」を略して、字書で調べてわかるように、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬(つ)かる銀河」のことである。
下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝えていた。つまり、倉頡伝説は上の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字においては文字を書いた資料が出土しないことになった。
◆上記した【3】の掟によって、五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字(かおんもじ)の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。
ゆえに、現在においても、五帝時代の書契と夏代の夏音文字は、夜な夜な輝く銀漢各部の形状となって存在することになった。
そして、殷代(いんだい)後半の甲骨文字(こうこつもじ)、周代の金文(きんぶん)、金文以後の大篆(だいてん)・小篆(しょうてん)・隷書(れいしょ)・そして後漢時代の1世紀頃に確立されたとされる楷書(かいしょ)は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて作られた。このため、これらの字源・字形の原形・字義は銀漢各部の形状となった。
したがって、五帝時代の書契・夏代の夏音文字と甲骨文字以後の金文・大篆・小篆・隷書・楷書の字源・字形・字義は、銀漢各部の形状となって永遠に存在することになった。
このような【倉頡が発明した漢字作成理論】は、なんと! 3世紀後半(280~289年)に著作された『魏志倭人伝』に記述されていた。
学者たちが主張するように――『魏志倭人伝』は「邪馬台国がどこにあったか」と決定するための書物ではなかった。
『魏志倭人伝』が記述される【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)ると「卑弥呼が首都とした地所の名」は「邪馬壱国(やまいこく)」であったことになる。また、現存する12世紀の刊本には「邪馬壹(壱)国」と記し、「邪馬臺(台)国」と記していない。学者たちは「邪馬壱国」と書いてある事実を無視して「邪馬台国と書いてある」とウソをつき、一般市民を洗脳(マインドコントロール)してまんまとダマしつづけている。今から300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき/1657-1725年)以来、学者たちは300年もの長き間、【倉頡の漢字作成理論】を無視し排除して『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と書いてあると、一般市民をダマし続けている。
「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【倉頡の漢字作成理論における基本理論】をあらわす語であり、また「邪馬壱」は[学]と[知]の字源・字義をあらわした。
したがって、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】は〔卑弥呼が天下を統治するための真っ先に必要となった学問にして知識〕であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めていた」と伝えていたことになる。
このブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#3」から以後数回のブログにて説明・指摘するように、ついにわれわれ国民(一般市民)は「邪馬台国説は空理空論であった」と【科学】の基(もと)に明確に完全証明できるようになったのである。
もはや学者たちにまんまとダマされずに、マインドコントロールされずにすむようになったのである。とうとう、一般市民は邪馬台国説の空理空論・真っ赤な大ウソから解放されて〔自由な[学]と[知]の翼〕を手に入れることができる時が訪れたのである!
ようやく、白石以来300年も思考停止して一歩も進歩しなかった学者たちを尻目(しりめ)に見て、一般市民は「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明していた書物」として扱うことができる時が到来したのである。
◆倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代黎明期(れいめいき)、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。この噂(うわさ)を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の神々(つまり、参神造化の伝統による知識)にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。ゆえに、わが国は今から約4000年前に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
そして、『魏志倭人伝』の他に、なんと『古事記』上巻にも【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】に記述されていたのである。
この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。
上記したように【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、五帝時代の書契と夏代の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。このため、現在でも夜な夜な現れる銀漢(夏の銀河)各部の形状で、また上記した「夏の銀河(銀漢)の写真における各部の形状」で、あるいはプラネタリウムにおける銀漢各部の形状で存在することになった。
だから、現在の「わが国が最年初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。この絶対的な定説は,そもそも「後漢時代の1世紀頃から出現されたとされる楷書を書いた資料が出土した事例において、最古のものは5世紀あるいは6世紀であった」と、学界は認識しなければならなかったのである。
他方、【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムの銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
だから、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。
『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印(注)がついて多数残っている。したがって、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。
言い換えると、『古事記』上巻を開いて、随所の〔音〕という注がつく文字が何か所あるかと数えていく――この時間は「4000年前にわが国に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」、この現場を目撃していることになる。
◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力である考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力となる邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにしようとする――この立論方法は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに積み重ねる状況、つまり【意地悪なナンクセ(難癖)】と【勝手な言いがかり】をつけていたことになる。
要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、邪馬台国説学者たちは【300年前の新井白石の邪馬台国説から一歩も進歩しないナンセンスなイチャモン】をつけて弄(もてあそ)んで楽しんでいることになる。
前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で指摘したように――江戸時代中期に生存した新井白石は、1716年・晩年60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国説大和説と日本神話説を記述した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を記述した。
このような白石の(1)邪馬台国大和説と、(2)邪馬台国九州説と、(3)日本神話説は空理空論であった。というのも、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の中心地域は山陰出雲であり、邪馬壱国の範囲は旧国の石見・出雲・伯耆(現在の島根県と鳥取県西部)であった」と記述しているからである。そして、上記したように、「邪馬壱」という語は【倉頡の漢字作成理論の基本理論】をあらわしていた。
前述したように、『古事記』上巻には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印(注)がついて多数残っている。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字を【目で見る行為】によって、白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は「無知無学の産物」であった事実を見ぬくことができる。
というのも、上記したように[学]と[知]の字源は【倉頡の漢字作成理論の基礎理論】であったゆえ、『古事記』上巻に多数記される夏音文字を【目で見る行為】によって、「白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は、[知]と[学]の字源を知らない無知無学の産物であった」という事実を知ることができるからである。
【『古事記』上巻に、多数の夏音文字が記されている事実】に気づくと、『魏志倭人伝』は冒頭記事から狗奴(くな)国が登場するまでの約500字までの記事をもって「倉頡は文字作成目的であった【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす【漢字作成理論】を発明した」と説明していた重大な歴史書であったと証明されることになる。また、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住した」と説明していたとおり、この首都名に用いられた「邪馬壱」という語は「【倉頡の漢字作成理論の基本論】をあらわしている」と証明することができる。だから、白石以来学者たちは300年もまもりつづけた邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。
白石は「漢字は銀漢から作られた知識」を有していなかった。これゆえ、白石は『魏志倭人伝』が記述された事実と真実を見抜く眼力を失っていた。だから、白石の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説と、そして日本神話説の実体は[知]と[学]の字源を知らない無知無学の産物であったのである。
◆上記したように、当然、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を最初から有していなければならない。
白石はじめ現在の学者たちが、最初から「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば「わが国は最初に漢字を習得したの5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実を、下記の『魏志倭人伝』の二つの記事を読んで直(ただ)ちに察知できた。
『魏志倭人伝』には「倭には夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明していた二つの記事が存在する。
この一つ目は、『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」と説明する記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん)・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味したことになる。
二つ目の記事は、『魏志倭人伝』の中半にある「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する――このような「倭には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡の漢字作成理論】と、【夏代初頭の夏音文字】が存在した」と伝えている記事が存在する。
上記の記事にある、「捜露(そうろ)」という語は――前述したように、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、「夏音文字と楷書を同義するには、夏音文字と楷書の一字一字の字源・字形・字義は銀漢のどの箇所と合致するのか捜(さが)し露(あらわ)にしなければならなかった。だから、『魏志倭人伝』は「夏音文字と楷書を同義にする伊都国の港で行われていた作業」を「捜露」と記したのである。
◆上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるにもかかわらず――『古事記』の序は「上巻だけの序」と限定するきわめて風変りな・特殊な序である。
太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』の序は900余字で構成される。
『古事記』は上巻・中巻・下巻のうち、上巻のみに〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されている。この【夏音文字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換する作業を中心にして上巻に記述された歴史を解明する方法】を説明するために、「古事記上巻 并せて序」という名称にしたのである。
それというのも――681年3月、40代・天武天皇は「大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を絶賛する最も偉大な至上神にするための偽書を作れ」と命令した。しかし、681年から31年後の712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻は、天武天皇の偽書作成命令を無視する反逆の歴史書であった。その証拠に、『古事記』上巻には伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記述されている。この伊耶那岐命と伊耶那美命説話には【朝廷が後世に伝えることを厳重に禁止した、皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史】が記述されている。
要するに、「古事記上巻 并せて序」という名称になったのは、『古事記』上巻が【天武天皇の天照大神を絶賛する偽書作成命令に背(そむ)く、反逆の歴史書】であったからである。
白石と現在の学者たちは、個性的な「古事記上巻 并せて序」という名称にまったく奇異を感じず、無関心・無頓着(むとんちゃく)である。
これゆえ、学界は、新井白石の日本神話説と同様に「『古事記』上巻は歴史を語っていない」と考える日本神話説が正しいと断定する。
『古事記』は上巻・中巻・下巻から構成されているのに、なにゆえ〔『古事記』の序〕は〔『古事記』上巻だけの序〕なのか――現在の学者たちは誰一人、疑問を抱かない。
太安万侶は「古事記上巻 并せて序」という名称をもって「漢字は銀漢から作られた。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換すれば上巻に記述された歴史が明らかとなる。『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明していた。
だから、【序】を「古事記上巻 并せて序」という奇異な個性的な名称にした『古事記』上巻は反逆の歴史書であったのである。
『古事記』上巻は反逆の歴史書であったからこそ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶し、『古事記』を政府が編纂した書物・正史として認めなかった。また、『古事記』が編纂された持統天皇・文武天皇・元明天皇の治世のおける出来事を記述する正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「『古事記』に関するすべての記事を削除・消滅して、『古事記』という書物は実際に編纂されなかった」のごとく偽装している。
だから、「古事記上巻 并せて序」という個性的な「『古事記』の序」を見て「エっ! なんで上巻だけの序なんだ」と注目していたなられば「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と解明できる仕組みになっていた。なんのことはない、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったために、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」という名称になったのである。
◆『古事記』を開くと、最初に「古事記上巻 并序」と記す7字がある。この「古事記上巻 并序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と読まれている。
「古事記上巻 并せて序」の本文冒頭から45字目までの書き下し文は、振り仮名をつけると煩雑(はんざつ)となる。ゆえに、振り仮名無しだと下記のごとくなる。
「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
上記の文を、現代語に訳すると下記のごとくになる。
「臣下の安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。その混元の草創期縄文時代・早期縄文時代において、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに一塊(ひとかたまり)に凝り固まっていましたが、その形状にはなにかの事象や事物をあらわす気(雰囲気)や象(かたち)をとらえることができませんでした。ゆえに、この混元の草創期縄文時代・早期縄文時代に天頂にめぐってきた銀漢には名称も無く、この銀漢の形を表現する技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、混元期(草創期縄文・早期縄文)に天頂にめぐってきた銀漢の形について、『古事記』を編纂することになった現在、誰も知っていません。しかしながら、前期縄文時代の首(はじめ/初頭)に天頂をめぐってきた銀漢の形状は「乾坤(けんこん)」すなわち「天と地に分れるイメージ」をあらわしました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る造化・芸術革命が小国・日本の東国(関東地方)にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた作品が多数作られました。そして、後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちがわが国の東方地方(秋田県)に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめました。これを知った東国の芸術家たちは、益氏が居住する遠く離れる地所まで旅して、前期縄文時代の初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代の初頭までの銀漢各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った参神造化の2000年間の知識にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。これゆえ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しますと――陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命と結婚した時に伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ歴史が解明できます。この【日本建国の〔愛〕の理念】を群品(ぐんぴん)つまり倭国と小国・日本の国中の人民たちは感激して日々の生活(くらし)の中心におき心の糧(かて)として尊重しました。いっぽう、国中の人民たちは強大な権力でおさえつけて治める天照大神(10代・崇神天皇母子)に反発して抵抗しため、天照大神は人民たちを敵視しますます弾圧しました。これゆえ、群れる民衆と群れる庶民、つまり国中の人民たちはこぞって伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも優る最も偉大な先祖と敬愛し尊重しました。」
上記のごとく、『古事記』上巻はまさしく反逆の歴史書であったのである。
〔注 「字書の聖典」と尊重された100年ころに完成していたとされる後漢時代の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は、上記の文末に登場する「二霊群品」の[品]の字ついて「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。ゆえに、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」ということになる〕。
◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚した時に宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を10字の夏音文字で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記す。
この宣言のうちの[阿]を、『説文解字』は「大陵を阿と曰(い)う」と解説し、次の[那]の字を「陝西(せんせい)の地名」と解説する。ゆえに「阿那」は「陝西省黄陵県に所在する大きな陵墓の黄帝陵」と意味する。桃の原産地は、[那]の「陝西省辺り」とされる。[邇]の字源銀河は「子」の字源銀河でもあるゆえ、「那邇」は「桃のように可愛いたくさんの子供たち」と意味することになった。
ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言をもって伊耶那美命は「日本の袁登古袁(おとこ・男たち)よ、中国の黄帝が慈愛つまり【愛】をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のように可愛い子たちをたくさん生んでください。日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょう」と表明したことになる。
この夏音文字10字の「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚する以前にすでに、「阿那邇」つまり【愛】(慈愛)をそなえて人民たちを教化した中国の黄帝の歴史を伝えて小国・日本と倭国のあちこちで流行していたことになる。当時は、「夏音文字の字源・字形・字義」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理していた。ゆえに、小国・日本及び倭国の人民たちは「阿那邇夜志愛袁登古袁」の各々1字ずつの字源・字形・字義を知る由(よし)もなかった。しかし、学識者たちから「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語意を入手した人民たちは「親が子を思う心」、「父母を敬って孝養を尽くす心」、「妻と子を愛する心」、「乙女が男子を恋する心」などとザックリと簡略化して解釈していたことになる。
だから、小国・日本が建国された時、伊耶那美命がとなえた「阿那邇夜愛袁登古袁」という宣言は人民たちにとって夢みるような幸福感がまばゆく光の中を花吹雪のようなきらめいて輝く聖なる語となった。ゆえに、一気に爆発的・情熱的に小国・日本と倭国の国中の隅々に行き渡って、今日でいう「愛はすべてに勝る」、つまり「阿那邇夜志愛袁登古袁はすべてに勝る」と人民たちは口々にとなえるようになり、群品すなわち人民たちの生きる希望・日々の生活を支える原動力となった。そして、小国・日本と倭国の人民たちは伊耶那岐命を心から尊敬し熱烈に愛したのである。
◆前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」でも指摘したように――伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと、下記のごとく説明したことになる。
現在の字書は「黄泉国」を「死んだ人の魂が行くところ。あの世」を意味すると解説するが、『古事記』における「黄泉国」は「熊野」を意味した。というのも、「黄色(黄金色)に輝く[泉]の字源銀河周辺(つまり、銀河系中心方向周辺の銀漢)」の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[泉]の(地下から湧出する湧水泉に相似する)字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち略して「熊野」という地名となり、「和歌山県南東部と三重県南部の地域」は「熊野」とよばれることになったのである。
倭女王の伊耶那美命は、『魏志倭人伝』末部に登場する倭女王・壱与であり、伊耶那岐命・9代開化天皇の正妃・竹野比売(たかのひめ)であった。9代開化天皇・伊耶那岐命の第二后の天照大神は10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
倭女王・伊耶那美命が死去すると、10代崇神天皇の生母の天照大神が倭女王に就任した。
これゆえ、「伊耶那岐命があとを追っていた、黄泉国の伊耶那美命」は「熊野本宮大社の旧社地の大斎原に建てた仮住まいの宮殿に住む天照大神」と解釈しなければならない。というのも、『古事記』編纂スタッフは「黄泉国の伊耶那美命」という表現をもって、天武天皇の「天照大御神を絶賛する偽書を作れ」という命令に従ったと見せかけていたからである。
黄泉国の伊耶那美命、言いかえると天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元(こうげん)天皇と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生み、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。
ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)は10代崇神天皇の実父ではなく、伊耶那岐命は10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。
伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)を築造する時、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して、伊耶那美命がもっとも嫌悪した多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐冷酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した〔注 『古事記』は「徇葬」を「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す〕。天照大神は伊耶那岐命が愛妻・伊耶那美命の亡骸(なきがら)を奪うクーデターを予想して「倭の千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」つまり、「倭の大軍」に伊耶那美命の陵墓を衛(まも)らせた。
真夜中、伊耶那岐命は少数の日本兵を引き連れて、伊耶那美命陵の墓室に忍び込んで伊耶那美命の亡骸を収める棺を奪い、棺は日本兵が神輿(みこし)にして担いで、伊耶那岐命一行は桃子三箇(もものみみつ/日本軍と熊野の戦士たちが集合する伊耶那岐命軍の本隊)が隠れて待機する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」、すなわち「現在の熊野速玉大社の境内(和歌山県新宮市)」に目指して逃走し、追跡する倭の大軍を速玉大社の境内に誘き寄せ、「桃子三箇所をとりて持ち撃てば(身を潜めて隠れていた伊耶那岐命軍の本隊が急襲して)」、倭の大軍を一挙に壊滅させた。
おどろくべきことに、夜の真っ暗な長い熊野路を倭女王・天照大神は怒りで身を焦がして憎い伊耶那岐命を追跡してきて、日本兵の捕虜となった。日本兵に捕まった天照大神は、速玉大社から約1km真南の「黄泉比良坂(神倉神社の急坂の参道)」を塞(ふさ)ぐ「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」の前にいる伊耶那岐命のもとに連行された。
天照大神は巨大な千引石の前で、伊耶那岐命に事戸(ことど/絶妻の誓)を言い渡されて離縁された。すると、倭女王からの失脚と離縁との屈辱を怒った天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)は「亡き前の倭女王(伊耶那美命)がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁』と宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の参道)をくぐりぬけるとき、そのせまくて堅い骨産道で子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)り殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
この呪いに対して、伊耶那岐命(後に伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受け継いで、吾は万民に一日に必ず千五百の産屋が立つように、〔愛〕を尊ぶように日々説いて天下を治める」と意味した。
『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命の名」を、黄泉国訪問説話の冒頭では「黄泉国に追いかけた伊耶那美命」と記し、末部では「伊耶那美命」に「神」の一字を加えて「伊耶那美〔神〕命」と記すようにした。「伊耶那美〔神〕命」という名から「残忍冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、編纂スタッフは天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと、『古事記』を献上した元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし、元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美〔神〕命」を「天照大〔神〕」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みに同意して承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に事戸(離縁)された場所「巨大な岩・千引石」は熊野の神倉(かみくら)神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社に天照大神を祀って「黄泉国の伊耶那美〔神〕命の正体は天照大神である」と伝えていたからである。伊耶那美命に熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神が残虐な徇葬を決行した歴史」の伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた。
現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている。また、神倉神社の二月六日夜の火祭り「お燈(とう)祭り」は「天照大神は残酷な徇葬を陣頭指揮し、伊耶那岐命はクーデターを決行し、追跡してきた倭の大軍を速玉大社の境内で壊滅して、天照大神を倭女王から失脚させた」と伝える祭典であったのである。
このように「古事記上巻 并せて序」という「『古事記』の序」という名称をもって「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明するものであったゆえ、元明天皇は反逆の歴史書『古事記』の献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史になれなかったのである。
◆『古事記』が元明天皇に献上された702年より11年前の701年1月23日――「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務につく第7回遣唐使が8人選ばれた。遣唐使の中で最高位の遣唐執節使(けんとうしっせつし)には粟田真人(あわたのまひと)が選任され、最下位の幹部は万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)であった。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年6月29日、九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事が存在する。
つまり、上記した第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」と述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の〔後〕、〔稍々〕〔夏音(夏音文字)〕を〔習う〕ことにした」と説明していたことになる。だから、第7回遣唐使が中国王朝に報告したように、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っているゆえ、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在したことになる。
上記したように、第7回遣唐使が「倭の名を悪(にく)み」と中国王朝に報告した言は――「『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の墓を作る時と、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された伊耶那美命(壱与)の墓を作る時と、二度も倭王朝は残忍冷酷の徇葬を決行した――だから、倭国と小国・日本の人民たちは二度の徇葬を憎悪して「倭」という国号を憎んだとあらわしていたことになる。
中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』と倭国日本伝は――第7回遣唐使の言動について「その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実をもって対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う」――などと記述している。というのも、下記に示した事情にもとづき、中国では日本国の使節(第7回遣唐使)の言動について疑ったからである。
日本国の使節は漢字(楷書)を用いて「倭」から「日本」への国号の改変の承認を求めた。したがって、日本国の使節は漢字(楷書)の知識を有してているにもかかわらず、「倭」から「日本」への国号改変の事情を説明する文書を作成せず、のん気に手ブラでやって来て国号の改変を中国王朝に承認を求めるのかと――真っ先に中国の外交官と王朝は疑った。「国号の改変」は「中国王朝の承認無し」で「日本国」にて独自で決定できる。だから、わざわざ大海を渡って中国側に承認を求める必要は無い。〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作成して、中国王朝に報告すれば、それで済む。にもかかわらず、なぜ〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作らずに手ブラで入朝したのか――と、中国側は真っ先に疑った。ゆえに、中国側は日本国の使者たちの様子は事実を答えずにウソを言っていると考えた。さらに中国側には、日本国の使者たちは国号改変の詳しい事情の説明を嫌がっているように見える言動は矜大(尊大)に映った。
持統(じとう)上皇(天武天皇の皇后)は「天照大神を絶賛する偽書作成」を催促しても一向に実行されない状況にシビレを切らした。そこで、上皇は「天照大神」は「日神」であるゆえ、「日神」と「日本」は一字違いであることに注目した。「日本」という国号を中国が承認したならば、後世の学者たちは「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と考えるにちがいないと――上皇は「偽の歴史の捏造(ねつぞう)」を企んで、第7回遣唐使に「倭」から「日本」への国号改変の承認を中国王朝から入手してくるように命令したのである。
ところが、中国王朝は真っ先に日本国の使節は国号改変を説明する文書を作らずに手ブラで中国に渡って来たのかと疑問を抱いた。第7回遣唐使は「天照大神が日本国を誕生させた」という偽の歴史を捏造するために中国に派遣された。このため、中国の要望に応えて正直に事実を語って帰還したならば、持統上皇に即刻死刑にされるゆえ事実を語ることはできなかったのである。
◆第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年6月より21年前の681年3月に、天武天皇は川島皇子以下十二人に「稍、夏音文字を習う」、また「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と指示する『天照大神を絶賛する偽書の作成』を命令した。この681年から702年までの21年間、天武天皇・持統天皇・文武天皇の3代において、偽書を作成することができなかった。ゆえに、持統上皇はシビレを切らして「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と偽の歴史の捏造を企んで第7回遣唐使を中国に派遣した。しかし、朝廷が偽書作成を願望するものであったから、【偽書作成の環境】はすこぶるめぐまれていたことになる。にもかかわらず、21年間も偽書を作成できかったということは、朝廷側(体制側・天照大神崇拝派)には【偽書を編纂する能力を有する歴史家】がいなかったことになる。
708年、体制側・天照大神崇拝派の藤原不比等の長男にして藤原南家の武智麻呂(むちまろ)は図書頭(ずしょのかみ)であった。武智麻呂は壬申の乱以後に散逸(さんいつ)した図書寮(ずしょりょう)で保管すべき書籍について、民間の協力を求めて採集し充実をはかった。ゆえに、武智麻呂には歴史書を編纂できる能力があった。しかし、武智麻呂は父不比等を裏切って、反体制側・伊耶那美命崇拝派の頭領の舎人(とねり)皇子を尊敬し、堅い熱い友情で結ばれていた。武智麻呂は伊耶那美命を崇拝していたのである。
武智麻呂だけでなく、不比等の後妻の県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなみちよ)も伊耶那美命を崇拝し、舎人皇子を尊敬して反体制側・伊耶那美命崇拝派を支援した。
733年1月に県犬養橘三千代は死去したが、最後まで彼女は舎人皇子を支援しつづけた。
737年に武智麻呂は当時流行した天然痘により没したが、彼もまた733年に舎人皇子が死去した後も4年間、舎人皇子が遺した伊耶那美命崇拝運動が終焉しないように尽力した。
『古事記』と『日本書紀』は舎人皇子(676-735年)が指揮して編纂された。舎人皇子は天武天皇の第三皇子であった(多数の天武天皇の子どもにあって、皇位継承順位が第三番目。『続日本紀』による)。
特に注目すべきは、元明天皇の長女の44代・元正(げんしょう)天皇は舎人皇子を一途に愛し、朝廷が反逆児・舎人皇子に死刑を下すのを懸命に防いで一生独身を通した。
舎人皇子が頭領、舎人皇子の異母弟の天武天皇の第七皇子の新田部(にいたべ)皇子が副頭領となって、時の律令体制への伊耶那美命を崇拝する抵抗運動が組織された。舎人皇子の異母兄の天武天皇の第九皇子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人皇子の異母兄の天武天皇の第五皇子の穂積(ほづみ)親王も、舎人皇子の伊耶那美命崇拝運動に加担した。左大臣まで出世した辣腕(らつわん)政治家の長屋王(ながやおう)も伊耶那美命崇拝運動に参加した。
701年1月、持統上皇・文武天皇政権の重臣の大伴御行(おおともみゆき)が没し、大伴氏の後継者は御行の弟の安麻呂(やすまろ)となった。安麻呂は御行と違って朝廷に忠誠を誓わず、舎人皇子を主君と仰いだ。翌702年、安麻呂は兵部省の長官に任命された。安麻呂の長男の旅人(たびと)も父安麻呂とともに舎人皇子に忠誠を誓った。
もちろん、「古事記上巻 并せて序」を書いた太安万侶も舎人皇子を尊敬して主君と仰ぐ、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
そして、第7回遣唐使の最下位の幹部・山上憶良も舎人皇子を主君と仰ぐ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであり、伊耶那美命崇拝派の急先鋒であったにちがいない。
735年11月14日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武(しょうむ)の6代の天皇の時代を生きた反逆児・舎人親王は死去した。享年60歳であった。聖武天皇は皇族の男女すべて舎人親王の葬儀の場に参列させた。というのも、律令体制に歯向かえば最後はどのように惨(みじ)めになるか、その結果を示すために全皇族を葬儀に参列させたのである。聖武天皇は律令国家体制に歯向かった反逆児の舎人親王の墓を作ることを厳重に禁じた。
だから、身分高き天武天皇の第三皇子の舎人親王には墓は無い。舎人親王には、冬の荒野で大雪に埋もれて死んだオオカミのごとく、墓は存在しない。
◆山上憶良は『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
『万葉集』に収められる憶良が作った和歌には憶良が『古事記』編纂スタッフであったと証明できる歌が数多くある。その証拠に、憶良は伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語、つまり【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマに詠む歌を多く残している。
第7回遣唐使は、702年6月29日に九州の港を出帆した。
『万葉集』63番の題詞は「山上臣憶良、太唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」である。だから、『万葉集』63番は、山上憶良が唐に滞在中に作った和歌である。
いざ子ども 早く日本へ 大伴(おほとも)の 三津の浜松 待ち恋ひねらむ(83番)
〔さあ 日本建国の〔愛〕の理念のもとに生まれた子どもである遣唐使と船乗り諸君 一刻も早く日本へ帰ろうよ 本郷(もとつくに)・日本の最初の出発港であった三津(大伴氏の所領となる大阪の港の先端)に生える松も さぞ待ちわびているであろう(つまり、伊耶那美命崇拝運動を推進する舎人皇子と舎人皇子に忠誠を誓った大伴安麻呂と旅人父子の三人が、持統上皇・文武天皇に討伐されずに、吾の帰国を今か今かと待っているにちがいない〕
前述したように、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記される。
庶民的な山上憶良は、人民たちが「阿那邇夜志愛袁登古袁」を「親が子を思う心」と簡略化して解釈しているのを知っていた。だから、憶良は、「大きく育った大人(おとな)の遣唐使と船乗りたち」は【「阿那邇夜志愛袁登古袁」にもとづいて生まれた子どもたち】であると考えて、上に配した『万葉集』63番の初句を「いざ子ども」と表現したのである。
◆前述したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文をもって、太安万侶は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史が解明できる」と【『古事記』上巻の歴史解明方法】を伝えた。この「古事記上巻 并せて序」の秘密は、憶良は知っていた。
また安万侶は、次の11字で「皇室が崇拝する皇祖・天照大神よりも伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と表現した。この秘密をも、憶良は知っていた。
「古事記上巻 并せて序」は、合計約900字で構成される。
現在の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を正しく読解できる「漢字は銀漢から作られた」という基本的学術知識を有していない。このため、「古事記上巻 并せて序」は「漢字は銀漢から作られた。後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得した」と説明していると解釈することができない。これが致命的な要因となって、現在の定説・日本神話説は空理空論となり、真実の歴史を抹殺する空想となった。
ところが、山上憶良と安万侶は共に「漢字は銀漢から作られた」という素養(学術知識)を有していた。また憶良と安万侶と共に『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。だから、憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」を書いた時の詳しい事情・状況を知っていた。また、憶良は安万侶と共に〔『古事記』を編纂するという現場〕に立ち会っていたゆえ、憶良は安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の正しい解釈を詳しく知っていた。
憶良は900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文は要するに「『古事記』は反逆の歴史書である」と説明するものであったと伝えて、人民たちが尊重した「阿那邇夜志愛袁登古袁」(【日本建国の〔愛〕の理念】)を詠む4首の和歌を作っている。
4首のうちの最初の『万葉集』800番に「神亀(じんき)五年(728年)七月二十一日、筑前国守山上憶良、上(たてまつ)る」と記し、「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 并せて序」という題詞をつけている。
つまり、憶良は800番の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」とした。
いっぽう、安万侶は「古事記上巻 〔并せて序〕」と名づけた。
このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」における「并序(并せて序)」をそっくり真似(まね)して、憶良の800番の題詞「惑へる情を反さしむる歌一首」の後ろに「并せて序」という語を加えた――だから、「800番の題詞」は、「安万侶が書いた「古事記上巻 【并せて序】」の900余字の説明文を要約する和歌として、憶良は『万葉集』800番を作った」とあらわしていることになる。
『万葉集』の800番の説明文は「当世、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】はすっかり廃(すた)れて軽んじられ、皇祖・天照大神を尊重する強大な権力が世を支配することになったため、誰よりも親不幸であり下品で下劣で俗物であることを自慢する人々がはびこる情けない世となった」と、下記のごとく嘆いている。
――ある人がいて、父母を尊敬することは知っているが、親孝行することを忘れ、妻子のことを考えない。この、ある人は「イザナミのアバズレがほざいた結構な宣言はぬぎ捨てた履物(はきもの)よりも役立たず」とさも得意げに自慢して、自らを「倍俗先生(俗がさらに二倍となる、ひどい俗物となる、この生き方こそがこの世を生きる最良の方法であると世の人々に教育する先生)と称している。云々――と説明する。
この和歌が作られた728年(神亀五年)は45代・聖武(しょうむ)天皇の時代であった。当時は天照大神を皇祖に祀って天皇の権力の絶大化を目指した律令体制の最盛期であったと同時に、律令制の基礎が根底から崩れる時期の直前でもあった。これゆえ、憶良が「ぬぎ捨てた使い物にならない履物(草履)よりも【日本建国の〔愛〕の理念】は役立たずと軽んじられていた」と表現したとおりの倫理・真理・正義が無視された退廃とした世となり、人々は「倍俗(ばいぞく)先生」と誰よりも俗物であることを誇示するようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】を嘲(あざけ)る人々が思うままにふるまう世相となっていたのである。
800番の和歌で、憶良は「天照大神を皇祖と祀る皇室の権力の強大化・天皇の神格化に加担する人々の声が大となり、貧窮(ひんきゅう)する人民がさらに不幸になる冷酷・非情な世となった」と嘆いている。
801番の反歌(はんか)では「ひさかたの天路(あまじ)は遠い、つまり天照大神を尊ぶ世の中は〔愛〕からはるかに遠い冷酷非情の世の中であるから、皇室・政府におとなしく従ってどんなに貧窮していても家業につとめて皇室や政府の富が豊かにしなければならない世になった」と表現して、憶良は悲憤している。
このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」と定めた、その後ろにある〔并せて序〕という部分を利用して、憶良は「800番の一首」の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」と定め、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の説明文〕を要約する『万葉集』800番を作っている。
次の「801番の反歌」では、憶良は「【日本建国の〔愛〕の理念】を軽視し排除して、天照大神を祀って天皇の権力が絶大になった律令体制によって、一段と人民が貧窮して苦しむ世の中になった」と悲嘆・悲憤している。
◆801番の次となる憶良が作った802番には、「子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序」という題詞がつく。
上記したように、安万侶『古事記』の序を「古事記上巻 〔并せて序〕」という名にした。
憶良は、『万葉集』800番と同様に802番の題詞に〔併せて序〕という語をつけ加えて「子等を思ふ歌一首 〔并せて序〕」とした。
つまり、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の文による説明」に見立てて、憶良は『万葉集』802番の題詞を「子等を思ふ歌一首 并せて序」と定めたことになる。
この憶良が作った「802番の説明文と和歌」は明確に安万侶が「古事記上巻 并せて序」にて「『古事記』上巻は反逆の歴史書ある」と説明した、その「反逆の歴史書」である事実を証明する「天照大神が敵視し憎悪した【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわしている。
安万侶の「古事記上巻 并せて序の900余字の説明文」に見立てた憶良の『万葉集』802番「子等を思ふ歌一首 并せて序」の説明文には、下記のごとく「釈迦如来(しゃこにょらい)の息子の「ラゴラ(羅睺羅)」が登場する。
【憶良の「子等に思ふ歌一首 并せて序」の説明文】
――お釈迦さまはその尊い口で「衆生(人民たち)を平等に思う気持ちはわが子ラゴラを思う愛情と同じである」とお説きになられた。また「愛は子に勝るものはないと」お説きになった。こんな至高の大聖人でさえも「わが子を思う愛情に勝るものはない」ということであるゆえ、ましてこの世の一般の人々にあっては誰が子を愛さずにおられようか。
太安万侶が書いた【900余字の「古事記上巻 并せて序」の説明文】を要約して憶良が作った802番の和歌は下記のごとくである。
瓜(うり)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより
来(きた)りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ(802番)
〔子どもたちと遠く離れた地に旅して 瓜を食べていると 子どもらが思い出される 栗を食べていると さらにまして偲ばれる どこから 来たものなのか 目の前に しきりにちらついて 腹がへってひもじい思いをしていないか心配で心配で我を眠らせてくれない〕
憶良は、東国から徴発(ちょうはつ)されて筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備にあたった兵士・防人(さきもり)の気持ちになって、802番を作った。だから、802番は「故郷から遠く離れた東国の防人が子を思う歌」となった。憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文で「東国における前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの2000年間に及ぶ参神造化の神の伝統によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が習得された」と指摘していたのを知っていた。この「縄文の土器・土偶を作る芸術革命が花開いた東国」と「防人の任務が命じられた東国」は、共に「小国・日本」であった。
憶良は安万侶と同じ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。安麻呂が書いた「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字の文章は【前期縄文時代初頭に芸術革命の花が開いて後期縄文時代初頭までの約2000年間、優れた土器・土偶を作った東国(小国・日本)の芸術家たちの参神造化の知識によって、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸が習得された】と説明するものであったことを知っていた。
「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務についた第7回遣唐使の最下位の幹部であった憶良は、小国・日本の範囲をも知っていた。つまり、小国・日本は「現在の静岡県の中部(駿河)と東部(伊豆)、山梨県(甲斐)、長野県(信濃)、神奈川県(相模)、東京都・埼玉県(武蔵)、群馬県(上野)、栃木県(下野)、千葉県(下総・上総・安房)、茨城県(常陸)」であった。
憶良は「『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁」と記された【日本建国の〔愛〕の理念】を容易に理解できるように、現在の多くの日本人が知っている、憶良の代表作で有名な和歌、下記の803番の和歌を作った。
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも(803番)
憶良は上記した803番の和歌で「日本人にとって【親が子等を思う、日本建国の〔愛〕の理念】は何ものにも勝って最も尊い。【愛】は永久不滅でなければならない」と表現した。
803番の原文・万葉仮名は「銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母」という25字である。25字中4字は[母]を用いて【日本建国の〔愛〕の理念】を明確にあらわす。憶良は25字の万葉仮名で、381字で構成される『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史を象徴する、伊耶那美命が「阿那邇夜志愛袁登古袁」と宣言した、小国・日本と倭国の万民が尊重した「親が子を思う心」をあらあわす愛の歌を作った。
上記したように、憶良は『万葉集』800番の題詞に「神亀五年七月二十一日」と記して、この和歌を作った年は「728年」であると示した。憶良は733年頃に74歳前後で没したと考えられている。ゆえに、『万葉集』800番と801番の二首は没する5年前頃に作った。したがって、801番の後ろにある「子等を思ふ歌」の802番と803番は没年より5年前よりさらに間近い頃に作ったと考えられる。だから、多分、802番と803番は憶良が70歳を過ぎた時に作ったと思われる。当時の70歳は、今日の90歳、100歳に相当する。
死が間近かに迫っていた憶良は「愛の歴史書『古事記』は焚書されて消滅する。世はますます非情冷酷となって人民たちは貧窮して苦しむ」と涙(なみだ)して嘆き、あるいは「なにくそ! 『古事記』を焚書されてたまるか」と魂をふりしぼって怒り、あるいは「愛の歴史書『古事記』が後世に残るように何か方法を模索(もさく)しなければならない」と必死にもがき苦しみ、そして余命いくばくもない心身に残る【日本建国の〔愛〕の理念】への情熱をふりしぼって、「子等に思ふ歌一首 并せて序」と題する『万葉集』802番と803番の二首を作ったことになる。
◆今日、多くの日本人が知っている『万葉集』803番の25字の和歌は、単に「親が子を思う愛の和歌」ではなかったのだ。803番は「日本国誕生史は滅びるな!」と必死に願った憶良が残る余命を奮い立てた魂の叫びであったのである。だから、日本神話説と邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の三説は〔憶良の魂の叫び〕を抹殺する空理空論であったのである。
その証拠に憶良は、「後稍、夏音を習う」と中国に「わが国は、壬申の乱の後に稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した現場に立ち会った第7回遣唐使の最下位の幹部であった。
ゆえに、死に近づいた憶良が作った803番の25字にこめた余命いくばくもない老体を奮い立てて魂をふりしぼった叫び(和歌)によって、現在の学界が定める下記の三つの絶対的定説は空理空論であったことになる。
憶良の803番の25字の和歌によって、(1)「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説と、(2)「『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国がどこであったかを伝えている文献であった」という絶対的定説と、(3)「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」という絶対的定説、この三つの定説は「漢字は銀河から作られた学術知識」を有さないが原因による空理空論・空想であったことになる。
憶良が参加していた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年6月29日から10年後の712年1月28日に元明天皇に『古事記』は献上された。「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文で安万侶が「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明している事実を、憶良は知っていた。というのも、憶良は安万侶と同じく『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであったからである。
『魏志倭人伝』は憶良が学術知識として有していた【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】について説明する書物であった。したがって、新井白石以後300年も続けて学者たちが主張する「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」ではなかったのである。
白石以後から現在までの学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を有していないために「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」と思い込む。だから、白石以後現在までの邪馬台国説は300年も日本国民をダマしつづける似非(えせ)学説、憶測(おくそく)、真っ赤なウソであったのである。
山上憶良は(1)今から約4000年前に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史を無視・排除して「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と錯覚した定説と、(2)新井白石以来300年も「『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する書物である」と主張つづける定説と、(3)新井白石以来300年も「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」と断定する定説――この三大定説が空理空論、デタラメ、憶説であった事実を直(じか)に目撃できる現場へ案内するキーパーソン(決定権を持っている人物)であったのである。
◆要するに、次のごとき〔誘拐事件の事例〕に譬(たと)えて考えると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であった仕組み(実体)が容易にわかる。
「ある誘拐事件が起き、容疑者が逮捕された。担当刑事は“お前が犯人だ。ウソつくな”
と問いつめて容疑者のアリバイ証言をいっさい聞き入れなかった。しかし、この事件は誘拐された児童が数日後に犯人から逃れて無事に保護された。この結果、容疑者が語っていたアリバイ証言はすべて事実であったことが証明された。よって、刑事の容疑はすべて空理空論、捏造(ねつぞう)であったことになる」という、このような冤罪事件にもとづいて考えれば、上記した三大定説は空理空論、捏造であったことが容易に理解できる。
最初から容疑者のアリバイ証言をいっさい無視・排除した刑事のごとく、白石はじめ邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の記事は信用できないと言って無視・排除して、自分の意見が正しく『魏志倭人伝』の記事が誤っていると断定する。だから、白石以後の邪馬台国説は最初の段階から空理空論、憶説、デタラメ、捏造であったことになる。
「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使であった山上憶良の『万葉集』800番・801番・802番・803番の4首の「并序(并せて序)」という語がつく題詞・説明文・和歌を注目すると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であったことが証明される。
わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた。このため、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述されて残った。
だから、【A】約4000年前にわが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた、【B】『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した学術書であった、【C】『古事記』上巻は歴史書であったことになる。
◆以上のごとく、学者たちが主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説と「邪馬台国説」と「日本神話説」の三説は正真正銘の空理空論・空想であった。
というのも、一般市民が『古事記』上巻を開いて、その随所に〔音〕という目印(注)がつく文字を何か所あるのかと数えてしばらく見ていると――この時間はまさしく4000年前にわが国が習得した夏音文字を目撃している現場となるからである。
このように、われわれは『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく4000年前に習得した夏音文字を目撃すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された事実と真実を知ることができる。
われわれ一般市民は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という学説はじめ「邪馬台国説」と「日本神話説」に洗脳(マインドコントロール)されて見ることができなかった真実の歴史が、ついに目撃でき知ることができることになったのである。
『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「わが国は4000年前に【夏音文字と倉頡の漢字作成理論】を習得していた」と伝えていた書物であった。
したがって、白石以来300年も続く「邪馬台国説」と「日本神話説」は【『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を記述する文献であった事実】を抹殺する空理空論、空想、憶説であったのである。
一般市民はもう学者たちにダマされずにすむことになったのである。
憶良が作った「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という〔愛〕の短歌が新しい視座になって、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した文献であった」と【科学】が成立して完璧に証明できる世紀が革(あらたま)る時がとうとう到来したのである。
われわれ一般市民は、〔憶良が真実の歴史を伝えるキーパーソン〕となって、空理空論の邪馬台国説と日本神話説にこれからはダマされないですみ、ついに真実の歴史を知ることができるようになったのである。
最近のコメント