家康くんと『魏志倭人伝』#2
◆現在、学界は「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対的に正しいと思い込んでいる。
しかし、この絶対的定説はいとも簡単に真っ赤なウソであると証明できる。
わが国は今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、【夏音文字(かおんもじ)】を習得していた。
この【夏音文字】は、『古事記』上巻に随所に〔音〕という目印(注)がついて多数残っている。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭であったことになる。
「わが国において、文字を書いた資料が出土した最古のものは5世紀あるいは6世紀のものである。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であったと断定できる」という意見は考古学の強引な単純化による思い違い・錯覚であった。
なぜかといえば、『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という注(目印)がついて多数残っているからである。つまり、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。
この〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。
マスメディアは考古学の研究成果を重視して「邪馬台国は九州にあった」、「いや邪馬台国は畿内にあった」などと論争に花を咲かせて夢中になる。
このような考古学の思い違いにマインドコントロール(洗脳)されて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であった」、あるいは「邪馬台国説は正しい」という幻想・空想を信じているかぎり――われわれ日本人はいちばん大事な真実を永久に知ることができない。
◆学界はじめマスメディアとわれわれ日本人は冷静に客観的になって――しばらく考古学の声高な「文字習得説」と「邪馬台国説」の意見に耳をふさいで――『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印(注)がつく【夏音文字】を注目し、考古学の「漢字習得説と邪馬台国説はおそらく錯覚であろう」と否定する、思い切った発想の転換が必要となる。
というのも、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を主張する学者たちの視座を注目すると、学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と主張して、自分の意見にあわない記事を片っ端から自分の言いなりになるようにしようとするが――この様子は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに加えている状況、つまり「意地悪なナンクセ(難癖)・勝手な言いがかり」をつけていると思えてならないないからである。要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、学者たちは300年前の新井白石の邪馬台国説をマネして【横暴な主観、無責任な誤読】を加えて『魏志倭人伝』を弄(もてあそ)んで楽しんでいるとしか思えてならない。
試(ため)しに、『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も【誤読】を加えないで読解すると――『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究のための書物」ではなく、「邪馬台国とは別の日本史のために必要不可欠な重大な史料であった」のではないかという事実がすぐに浮かびあがる。
だから、このブログ名を「家康くんと『魏志倭人伝』」とすることにした。
なにゆえ、徳川家康が『魏志倭人伝』と関係するのか? と思うかもしれないが――家康の一生をたどると――家康は幼少期から【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字を一生研究していた事実】が次から次へと明らかとなるからである。
わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、家康は卑弥呼が居住した女王国の名称は『魏志倭人伝』に記されているとおりに「邪馬壱国(やまいこく)」であった」と考え、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていた。だから、『魏志倭人伝』に記される「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読し、「邪馬台国は畿内に存在した」あるいは「邪馬台国は九州に存在した」という新井白石の邪馬台国説の伝統を受けつぐ今日の邪馬台国説と、家康の「邪馬壱国出雲地方説」は別物にして無関係となる。
◆家康は天下取り・帝王学のために幼少期から没する直前まで【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を研究していた。だから、家康にとって『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を考えるための書物」ではなかった。
上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく多数の【夏音文字】を、わが国が習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった。
わが国が中国の夏代初頭に夏音文字を習得した事実は、わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、(1)家康が有していた「漢字は銀漢から作られた」という教養と、(2)様々な確かな文献史料と、(3)科学的な音韻学の研究成果によって、いとも簡単に証明できる。
このような事情で、【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は共に夏音文字研究の教科書】であったと考えるべきことになる。ゆえに、家康にとって【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は、天下取りの夢を実現するための最良の教科書】、言いかえると【王道政治・天皇政治の権力基盤となった学問を学ぶための教科書】であったことになる。
邪馬台国説の出発点となった新井白石(1657-1725年)より約100年前に生存した家康(1542-1616年)は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を【徳川幕府を創設する天下取り】のために幼少期から没する直前まで研究していた。
家康の天下取りの夢の実現の一生にもとづくと――【新井白石以来300年、学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話説】は、【巧妙に学説のごとく見せかけた空理空論】であったことになる。
◆『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」から、最初に「対馬国」が登場して「狗奴(くな)国」が説明される30の小国記事までは約500字で構成される。
この冒頭から約500字の記事のうち――【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支(じはき)国までの記事は【倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に合理的に説明している。【二】11番目の伊邪(いや)国から20番目の華奴蘇奴(かなさな)国までの記事は[倭]の字源を解説する女性国グループの10ヵ国である。【三】21番目の鬼(き)国から30番目の狗奴国までの記事は[倭]の字源を解説する男性グループの10ヵ国である。そして――【二】女性グループと【三】男性グループに分かれる20の小国名は男女が穀霊(こくれい)をあらわす[禾](稲)の形の冠をかぶり、稲魂(いなだま)に扮して舞う農耕儀礼(収穫を祝う祭儀)をあらわしている。
中国の神話・古代伝説は「倉頡が漢字を発明した」と伝える。この「倉頡の漢字の発明」は〔1〕『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事と、〔2〕銀漢各部の形状と、〔3〕わが国の様々な遺跡・遺物と、そして〔4〕【科学】によって、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝時代初頭であったと証明される。
だから、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えていた」と記述していた、漢字が起源した学術を合理的に・体系的に・科学的に説明した古典であったことになる。
というのも、『魏志倭人伝』は【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支国までの10ヵ国の記事で(1)【黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究】について説明し、また(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明し、さらに(3)黄帝の政治スローガンをあらわすために倉頡は[禾](字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字を作ったと説明しているからである。
要するに、『魏志倭人伝』は――倭女王・卑弥呼は上記した【一】の【倉頡の漢字作成理論】を倭王朝の政権基盤と定めた。ゆえに、【二】と【三】で【倉頡が作った[禾]の字源をうけついだ[倭]の字源『五穀豊穣』の政治スローガン】を表示して、倭国を治めていた――と説明していたことになる。
このように邪馬台国説を否定すると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、[倭]の字源】を体系的に合理的に解説していることになる。
だから、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究のための史料】ではなかった。
『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論を知ることができる、朝廷が天下を治めるための教科書】であったことになる。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている事情は――わが国は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、夏の始祖の禹(う)帝の後を継いだ益帝の孫の王子と益氏の若者たちが中国から大海を渡って、日本列島の東北地方・秋田県に定住して【夏音文字の学芸】を教えひろめた。この【夏音文字】を習得した後期縄文時代初頭、当時より約1000年前の黄帝時代初頭の【倉頡の漢字作成理論】をわが国は習得した――という歴史上の出来事が、『魏志倭人伝』・『古事記』・『日本書記』はじめ後期縄文時代の秋田県の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡や大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)、そして縄文土器や土偶をもって証明される。
このため、『魏志倭人伝』の冒頭から約500字までの記事によって【倉頡の漢字作成理論と、[倭]の字源】を体系的に合理的に説明されることになったのである。
『魏志倭人伝』には「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読むことができ、「壱与」を「イヨ」と読むことができ、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読むことができる夏音文字の字音の人名はじめ、夏音文字の字音で読むことができる小国名、夏音文字の字音で読むことができる官職名が残っている。
また、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。
だから、縄文時代初頭、わが国は【夏音文字の学芸】を習得する時に、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも一緒に習得していたことになる。
現在、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡は歴史上の人物ではない。また、わが国に【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】を教え広めた名門益氏の王子・天祖・彦火能瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)も歴史上の人物ではない。しかし、『魏志倭人伝』によって、倉頡と天祖・彦火能瓊瓊杵尊は歴史上の人物であったと証明される。
◆『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を知ることができる教科書」であったのである。
ゆえに、天下取りの野望を抱いた家康にとって【『魏志倭人伝』は、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書・学術書】であった。
「漢字の字源を解説する字書」と言えば、100年ころに完成していたとされる後漢の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』が有名である。
『説文解字』の序に「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」という文がある。
上記したように、許慎は「倉頡によって発明された文字(漢字)は経(学問)と芸術の根本であり、王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に絶対に必要な政権基盤であり、前人たちが活躍した古(いにしえ)の歴史の真実・真相を後人が知ることができる方法である」と指摘している。
『説文解字』は「王政の始め」という語で「倉頡の漢字作成理論は王政の始め、つまり王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に必要な政権基盤である」と指摘している。
ということは、『魏志倭人伝』の冒頭から500字までの記事で「わが国は後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する――この【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が、『説文解字』の序は【王政の始め(天皇政治が真っ先に絶対に必要とする政権基盤)】であったと指摘していたことになる。
だから、『魏志倭人伝』は江戸中期の新井白石から始まった邪馬台国の所在地を研究するための文献史料でなかった。白石より約100年前に生存した家康が天下取り・帝王学のために熱心に研究したように――『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学習する教科書】であったのである。
家康は「漢字は銀漢から作られた」と認識していたが、白石は「漢字は銀漢から作られた」という知識を有していなかった。この差が原因で――家康は『魏志倭人伝』を【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書】として扱い、白石は『魏志倭人伝』を【邪馬台国はどこにあったのかを研究する書物】であると考えたのである。
◆晩年の新井白石は1716年・60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説を立論し、さらにその後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。白石は『古史通或問』で『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話説についても論じた。
『古史通或問』で立論した白石の邪馬台国説と日本神話説の両説は空理空論であった。
というのも、白石は「漢字が銀漢から作られた」という素養を有していなかったからである。このため、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を理解することができなかった。また、白石は太安万侶(おおのやすまろ)が「古事記上巻 并せて序」に書いた【歴史解明方法】を理解できず、その【『古事記』上巻の歴史解明方法】を無視して空理空論の日本神話説を立論した。
白石が無視した安万侶が【『古事記』上巻の歴史解明方法】について説明した『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭から34字の大意は――「漢字」は「銀河」つまり「銀漢から作られた字」であるから「漢字」とよぶことになった。このため、【漢字の字源・字形の原形・原義】は【銀漢各部の形状】であった。ゆえに、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された真実の歴史を知ることができる――と指摘するものであった。このような安万侶の【歴史を解明する方法の警告(注意書き)】を無視・排除して立論したゆえ、白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論となったのである。
太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字で構成された文章は、結局、「五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字と、また西暦100年ころに確立されたされる楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、夏音文字と幾つかの重要な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の歴史は解明できる」と、【歴史解明方法】と説明していた。
もしも白石が「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していたならば、安万侶の警告をまもって『魏志倭人伝』を読解したゆえ、家康と同じく白石は「邪馬壱国出雲地方説」をとなえ、また「『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の日本神話は歴史を語っている」と立論していたことになる。
上記した字書『説文解字』の「けだし文字は経芸の本」から始まって「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と終わる文もまた――「銀漢から作られた字」であるから「漢字」と名づけられた。五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代初頭の夏音文字、また楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。これゆえ、漢字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば古代の歴史の事実・真実を識ることができる――と解説していたのである。
下に「倉頡が漢字を作った銀漢」の写真、天文学で通称「夏の銀河」と呼ぶ写真を示した。「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河」からは漢字は作られなかった。
中国でもわが国でも、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」とよんだのである。
ここより以降、原則的に「夏の銀河」を「銀漢」とよぶことにする。
◆新井白石は114代・中御門(なかみかど)天皇の在位中の1725年に69歳で没した。
皇室は【『古史通或問』にて、白石が空理空論の邪馬台国説と日本神話説】を立論していることを知った。
この白石の空理空論に朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国は滅びる! わが皇室は滅びる! わが国の学問は滅びる! わが国の文化は土台から滅びる! わが国の上古史はことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、恐怖をも示した。
そこで、朝廷は「空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説」に対抗して、真実を伝える大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興することにした。
ところが、1466年に即位した103代・後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を家康以来江戸幕府に度々指摘され、朝廷は幕府に指摘されるごとに次第に心配になったため、1687年の113代・東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代・東山天皇の在位中、そして次の114代・中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ空論の邪馬台国説と日本神話説説を発表していなかった(前述したように、白石が邪馬台国説と日本神話説を発表したのは『古史通或問』を著作した1716年であった)。
40代・天武(てんむ)天皇は「大嘗祭は皇室最大の神事と定める。このため、天皇の即位式で新天皇が【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】をもって天下を治めると誓う大礼(たいれい)とする」と定めた。
この天武天皇の命令のため、【白石の空理空論の邪馬台国説と日本神話説】に気づいた朝廷は、中御門天皇の在位中には大嘗祭を復興しなかった。大嘗祭は、中御門天皇の次の115代・桜町(さくらまち)天皇の即位式で本格的に復興された。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の1738年11月におこなわれた。
家康は『古事記』上巻に記述された「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】」を復興するために【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を、天下を取る野望を成就するための教科書】として一生研究した。
家康の【日本建国の〔愛〕の理念の復興】の願い(遺志)は将軍と江戸幕府に受けつがれた。
皇室が最も偉大な先祖と崇拝する皇祖・天照大神(10代・崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視した。また、天武天皇は天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならないと命令した。このため、朝廷は江戸幕府の【伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】の復興の欲求を拒否しつづけた。
ところが、『魏志倭人伝』と『古事記』に記述されていた天皇政治の権力基盤【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を台無しにする【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】に激しいショックを受け、【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】を「皇室滅亡の原因になる」と脅(おび)えた朝廷は目覚めた。このため、朝廷は一大決心して江戸幕府の欲求【日本建国の〔愛〕の理念】を受け入れる新大嘗祭が復興することにした。
1738年11月、桜町天皇の即位式の大嘗祭は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。したがって、桜町天皇の大嘗祭は【従来の倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸】にあらたに家康・江戸幕府の欲求【『古事記』上巻に記述された伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】を加えて、【空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説】に対抗する皇室最大の神事となった。
以上のごとく、白石の死から13年後の1738年に復興した新大嘗祭から今日の2019年(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸と、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす、また【白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論である】と日本国民に表示する学問儀式であったのである。
◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・今から約3300年前に出現した甲骨文字」を意味した。わが国には甲骨文字のような夏音文字が存在した。
『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼が用いる文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
だから、「倭には【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】が存在した」ことは事実となる。
現在の学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない。このため、「令亀の法のごとく」と記述された殷代の後半に出現した【甲骨文字の多くの字形は銀漢各部の形状をリアルに図案する作品】であることに気づかない。ゆえに、学者たちは「倭には夏音文字はあった」と伝える『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には夏音文字は無い」と断定する。
しかし、上記の「令亀の法のごとく」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や、また上記したように【対馬国から狗奴国までの30の小国】をもって――『魏志倭人伝』は「漢字は銀漢各部から作られた。ゆえに、倭には【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と伝えていた。
『魏志倭人伝』の伊都国の記事が説明しているように、伊都国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書を正しく同義となるように変換することができた。というのも、【倉頡の漢字作成理論】にもとづいて夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に銀漢各部の形状であったからである。ゆえに、伊都国の役人たちは銀漢各部の形状を見て夏音文字から楷書へ・楷書から夏音文字へと正しく変換することができたのである。
太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部には――姓に用いた「日下(にちげ)」と「玖沙訶(くさか)」は同義、名に用いた「帯(たい)」と「多羅斯(たらし)」は同義である――という記事がある。
上記の安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部の記事は、『魏志倭人伝』の「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書に用いる楷書と倭女王の卑弥呼が文書に用いる夏音文字を、伊都国の港では、銀漢各部の形状に変換して同義になるように正しく訳することができた」という記事と同じ事実を証言していたことになる。
ゆえに、安万侶は――夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すると、楷書の「日下」は夏音文字の「玖沙訶」と同義となる、楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」と同義になる――と具体的に【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明していたのである。
考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定する。しかし、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は、現在でも夜となれば銀漢各部の形状で、あるいはプラネタリウムの銀漢各部の形状で存在する。夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っているため、夏音文字は楷書と同じく字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。このため、考古学の「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は、天上の銀漢に夏音文字と楷書の字源・字形・字義が存在するという事実に気づかない空理空論であったのである。
◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事がある。
その証拠に、上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と説明するものであった。
だから、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字は存在したことになる。
第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年より21年前の681年3月11日、第40代・天武天皇は川島皇子(かわしまおうじ)以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定』を命じた。
このとき、天武天皇は〔夏音、つまり夏音文字〕を稍々習う(復興する)ことにして『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作成せよ」と命令した。この天武天皇の「夏音文字の復興」を、第7回遣唐使は「後稍、夏音を習う」と中国王朝に説明したのである。
しかし、この天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は、人民たちを苦しめて弾圧した大和王朝の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を、皇室が最も偉大な先祖と定めて天皇の権力を絶対化するための偽書の作成を企むものであった。当時、壬申の乱から9年後であったゆえ、天武王朝はいまだ安定していなかった。また、当時は多数の人民たちは天照大神を憎悪・敵視していた。これゆえ、天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は人民たちが熱烈に敬愛する伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を抹殺する企みであることを察知して国中の反乱が起きると、朝廷は一気に崩壊する状況であった。このため、川島皇子以下十二人は〔伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を消滅して、天照大神が最も偉大な先祖であったと絶賛する偽書の作成〕に躊躇(ちゅうちょ)した。このため、天武天皇が命令した〔夏音文字を稍々復興して、『帝紀及び上古の諸事を記定する偽書』の編纂事業〕は実現しなかった。
そして、天武天皇が「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書の編纂」を命令してから31年後、あるいは第7回遣唐使が九州の港から出帆した10年後の――712年1月28日、天武天皇の「夏音文字を稍々復興する歴史書を作れ」という命令に従った書物が元明(げんめい)天皇に献上された。この書物は――天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定せよ』という命令における『帝紀及び』を省いた『上古の諸事の記定』における「上古」の[古]と「諸事」の[事]と「記定」の[記]の3字を抜粋して――書名を『古事記』と定めていた。
ということは、天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書を編纂せよ」と命令にもとづいて『古事記』は歴史を偽る書物であったと単純に考えると誤っていることになる。
『古事記』は天武天皇の「天照大神を絶賛する偽書を作成せよ」という命令を無視する、とんでもない反逆の歴史書であった。
というのも、天武天皇の「稍々(やや)、夏音文字を復興して天照大神を至上神とする偽書を作れ」という命令を逆手(さかて)にとって、天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を記述していたからである。つまり、『古事記』上巻は天武天皇が欲求した伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を消滅しない、「国民は皇祖・天照大神を崇拝していなかった」と記述した、天武天皇の偽書作成命令をつっぱねる反逆の歴史書であった。
◆反逆の歴史書『古事記』の序は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
安万侶は「『古事記』の序」を他に事例がない「古事記上巻 并(あわ)せて序」という、きわめて特殊な名称にした。というのも、『古事記』編纂スタッフ一同が謀った【反逆の企み】を説明する名誉ある役目に、安万侶が抜擢(ばってき)されたからである。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻からなる。しかし、〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されているのは、上巻だけである。ゆえに、安万侶は「『古事記』の序の名」を【古事記上巻 并せて序】と名づけた。というのも、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字義・字形を銀漢各部の形状に変換すれば、真実の歴史を知る仕組みになっていたからである。ゆえに、この【編纂の企み】をあらわして『古事記』の序は「古事記上巻 并せて序」というきわめて特殊な名称になったのである。
このように編纂スタッフの企みを説明することになった太安万侶が執筆した「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字目までの文をフリガナ無しで記すと、下記のごとくなる。
「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
上記のごとく「『古事記』編纂スタッフの反逆の企み」を要約しないで、34字の書き下し文に用いられた各文字に沿ってテイネイに現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。前期縄文時代より前の元(はじめ)の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに凝り固まっていたものの、その形状には気(なにかの事象や事物をあらわす雰囲気)も事象や事物の象(かたち)をあらわしていませんでした。ゆえに、その混元の太古における天頂にめぐってきた銀漢各部に名をつけることができず、その銀漢各部の形をどのように表現してよいかその技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、草創期縄文・早期縄文における天頂にめぐってきた銀漢の形を表現した図象・土器・土偶について知識を有する人物は、『古事記』が編纂することになった現在一人もいません。しかし、前期縄文・中期縄文・後期縄文の三つの時代の天頂にめぐってきた銀漢各部の形状は「乾坤(けんこん)」に分かれて、つまり「天と地」に相似する象(イメージ)となりました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る芸術革命が小国・日本の前身の東日本・関東地方にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた土器・土偶が多数作られました。そして、後期縄文時代初頭、中国から名門益氏の王子(天祖・彦火瓊瓊杵尊)と若者たちがわが国の東北地方の秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教え広めました。これを知った東日本の芸術家たちは、益氏が居住する秋田県の地所まで旅して、前期縄文初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの銀漢の形状をモデルにして土器・土偶を作った造化参神の伝統によって、【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。
◆安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」において、上記した冒頭から34字目の直後に続く11字で構成される文は「陰陽斯(いんよう・ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る」と表現された。
この11字「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文をもって、安万侶は【『古事記』編纂スタッフの企み】、言いかえると【『古事記』編纂目的】を表示した。
前述した「字書の聖典」と尊重された、銀漢各部の形状を観察して許慎が著作した『説文解字』は上記の「群品」の[品]の字を「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。したがって、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」と意味し、要するに「民衆、人民」と意味した。だから、上記の「群品の祖と為る」という文は「民衆に最も敬愛され崇拝された先祖である」と意味した。
よって、11字で構成される編纂スタッフの企みをあらわす「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は「【日本建国の〔愛〕の理念】を宣言した陰の伊耶那美命と伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ陽の伊耶那岐命は人民たちに最も敬愛されて崇拝される、天照大神よりも偉大な最も偉大な先祖である」と意味した。
【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と、伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を継承した伊耶那岐命(9代開化天皇)を――安万侶が「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」と書いたように、『古事記』編纂スタッフは「人民にとって、伊耶那美命と伊耶那岐命は皇祖・天照大神よりも最も偉大な先祖である」と絶賛していたのである。
◆だから、『古事記』上巻は皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書であった。
681年3月11日、天武天皇は川島皇子以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作って「皇祖・天照大神の聖性を汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は絶対に後世に伝えてならぬ」と命令した。
しかし、712年正月28日に献上された『帝紀及び』を削除する『上古の諸事を記定』から3字を抜粋して『古事記』という書名にした書物の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に書かれた「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字の文は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていた。この伊耶那美命の宣言した言における[阿]の字は「五帝時代初頭に生存した黄帝を祭る廟にして墓」を意味し、[那]の字は「陝西省(せんせいしょう)辺りが原産地とされる桃の実のように可愛い子」と意味し、[邇]の字は「たくさんの愛する子どもたちを生む」と意味した。だから、10字のうちの[那][邇][愛]などの字が示すように、「阿那邇夜志愛袁登古袁」は「親が子を思う心」を示して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
上記したように「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字で構成される文章を各文字に沿って解読すると、【編纂スタッフの反逆の企み】の表示は不明瞭となる。しかし、次の11字で「伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも偉大な先祖である」とあらわして【天照大神に対する明確な敵意】を示している。ゆえに、【『古事記』は反逆の歴史書】であった。
このため、【編集スタッフの反逆の企み】にもとづいて900余字で構成される「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を読み取ると【『古事記』上巻に記述された歴史解明方法】を「後期縄文時代初頭にわが国が習得した五帝時代の原初漢字の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。後漢時代の1世紀頃から出現した楷書の字源・字形・字義も銀漢各部の形状であった。だから、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状に変換すると、上巻に記述された歴史が解明できる」と説明していたことになる。
この「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字でコンパクトに表現していたことになる。
◆また、900余字構成される安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の大意は「皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大神よりも、伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と【『古事記』編纂スタッフの反逆の意思】を表現するものであった。
だから、「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、太安万侶は「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という11字でコンパクトに表現していたことになる。
このように冒頭で【歴史解明方法】と【天武天皇の命令に背く反逆の意思】をあらわし、さらに約900字の「古事記上巻 并せて序」の全文でもあらわす重層的に巧妙に仕組んだ説明は元明天皇にはまったく理解できなかったことになる。
それというのも、献上する元明天皇から献呈を許可されて『古事記』は政府が編纂した書物・正史となるからである。ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の【『古事記』上巻の歴史解明方法】とこの文に続く11字の【伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える編纂スタッフの反逆の意思】を、900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文でも重層的にあらわした説明は、元明天皇にはまったく読解できないように作文されていたことになる。
しかし、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話にある伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字を注目すると、元明天皇にも「『古事記』編纂スタッフの激しい反逆の情念」を察知できた。というのも、この「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は「男(おのこ)たちよ、中国の黄帝が慈愛をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のような可愛い子たちをたくさん生みましょうよ。小国・日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょうよ」と表明するものであった。すなわち、小国・日本が誕生した当時(3世紀前半)、中国の黄帝が万民を教化した〔慈愛〕の政策は「阿那邇夜志愛袁登古袁」と表現されて、小国・日本と倭国の国中の人民に語り継がれていた。当時、「漢字は銀河から作られた学術」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理するものであったゆえ、小国・日本及び倭国の人民たちには「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字における1字ずつの字源を知らせず、10字の大意を「親が子を思う心、夫が妻を思う心、乙女が好きな男子を恋する心」などとザックリと概略的にあらわした解釈が民間に伝わっていたことになる。このような伊耶那美命が宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちは尊重して伊耶那美命を熱烈に敬愛した。この人民を皇祖・天照大神は憎悪・敵視して弾圧して苦しめた。ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という夏音文字の10字は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す語でもあった。このため、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字を見逃さなかった元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶したことになる。
本来、『古事記』は消滅しなければならない反逆の史書であった。しかし、『魏志倭人伝』よりもはるかに多くの夏音文字が記されている『古事記』上巻は「皇室の権力基盤である【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学習する教科書として優れた機能」がそなわっていた。このため、『魏志倭人伝』同様に皇室が滅亡・衰退しないために保存しなければならない帝王学を学ぶための優れた書物、つまり『魏志倭人伝』と並ぶ名著でもあった。
このため、『古事記』は朝廷にまもられ、学問や真実を愛する皇族・貴族・豪族・巫女・神官・僧侶・武将、そして朝廷に対抗して天下を治めた鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府などにまもられて、結局、消滅されずに現在まで残ることになった。
しかし、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述する『魏志倭人伝』を教科書にして『古事記』上巻を読むと、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを天照大神が憎悪・敵視して苦しめた歴史が知られてしまう――朝廷にとって実に不都合で厄介(やっかい)な書物でもあった。このため、朝廷は『魏志倭人伝』と『古事記』を絶対に読んではならない・絶対に研究してはならない反乱・謀反を企む皇室と国家の転覆を謀る最も悪質な書物と定めた。
◆新井白石は【漢字は銀漢から作られたという、素養】を有していなかった。このため、白石は「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字が「夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換して歴史を解明せよ」と【歴史解明方法】を説明していると読解することができなかった。ゆえに、この【歴史解明方法の説明】を無視した白石の『古事記』上巻と『日本書記』神代紀から立論した日本神話説は空理空論となった。
白石同様に「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない現在の学者たちによる【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しないで立論する日本神話説】もまた空理空論であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと――この説話のヒロインの「黄泉国の伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)は「天照大神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であったと解明できる。というのも、この説話に登場する「八雷神(やくさのいかづちのかみ)」は「多数の奴婢を殺して倭女王・伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与)の墓に埋める、残虐な徇葬(じゅんそう)」を意味したからである。また、「黄泉国」について現在の字書は「死んだ人の魂が行くところ。あの世」と意味すると解説しているが、『古事記』における「黄泉国」は現在の字書の説明と異なって「熊野」を意味した。というのも、「黄帝が居住した本拠地」は「黄色(黄金色)に輝く[泉]の字源銀河周辺(つまり、銀河系宇宙の中心方向周辺の銀河)の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[泉]の字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち「熊野」と見立てられた。ゆえに、「黄泉国」は「熊野」を意味したことになる。
天照大神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元天皇(8代天皇)と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生んで、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)は10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。伊耶那岐命の第二后であった天照大御神・伊迦賀色許売命は熊野の神倉(かんのくら)神社の参道を塞(ふさ)ぐ巨大の岩の前で、伊耶那岐命に離縁された。離縁された天照大神は7代・孝霊(こうれい)天皇の娘の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を継いだ。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命は「孝霊天皇の娘は崇神天皇の姑(おば)」となったので、『日本書記』は「倭迹迹日百襲姫命は、崇神天皇の姑」と記している。
『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命」の名を「伊耶那美命」の「神」を加えて「伊耶那美神命」とした。だから、「残虐冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美神命」を「天照大神」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みを承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に離縁された「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」は熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社にて天照大神を祀っていたからである。伊耶那美命を熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神は残虐な徇葬を決行した」という伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた(現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている)。このような事情からして、上記した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言と同じく伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「千引石」を注目して、元明天皇は『古事記』の献呈を拒絶したにちがいない。
天照大神(伊耶那美神命、つまり10代崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)は、神倉神社のご神体の巨大な千引石の前で伊耶那岐命に離縁された。その時、天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)の言は「亡き伊耶那美命がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)』と宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の産道)をくぐりぬけるときに、そのせまくて堅い骨産道にて子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)りつぶして殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
この呪いに対して、伊耶那岐命(後の伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受けついで、吾は人民たちに一日に必ず千五百の産屋が立つように〔愛〕を尊ぶように説いて天下を治める」と意味した。
だから、「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する、歴史解明方法】をもって、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったと読解できる。
◆以上のごとく、「漢字は銀漢から作られた」という素養は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された真実の歴史を解明するために最初から知っていなければならない基本知識】であった。
この【上古史における真実を解明することができる基本知識】を有していなかったが原因で、新井白石の邪馬台国説は空理空論となった。
したがって、白石の邪馬台国説と同類の、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説もまた空理空論であったことになる。
【上古史の真実を解明することができる基本知識】を有していない現在の学者たちは「『魏志倭人伝』は邪馬台国がどこにあったかを説明した書物」であると思い込んでいる。
しかし、「漢字は銀漢から作られた事実」を知っていた徳川家康にとっては【『魏志倭人伝』には1ヵ所も〔誤読〕を加える必要がない】、【天下を治めるために、“い”のいちばん真っ先に必要な〔倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸〕を研究する教科書】であった。
現在の学者たちは「『古事記』上巻には歴史が記述されていない」と主張する。しかし、『古事記』上巻は〔なんとしても編纂スタッフのメンバーたちが【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えなければならないという使命と情念〕のもとに編纂した反逆の歴史書であった。
現在の学者の皆が皆【「漢字は銀漢から作られた」という基本知識】を有していない。このため、太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の900余字の文章を、正確に読解することができなかい。ゆえに、現在の学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国説を説明する史料」と錯覚し、『古事記』上巻は「日本神話は歴史を語るものでない」と断定する。
このような肝心な点を忘れて、上記したわたくしの「古事記上巻 并せて序」の解釈について、幾人かの学者たちはじめ、あるいは「邪馬台国説や日本神話の定説は正しい」と報道したNHKテレビや朝日新聞などが面目丸つぶれを挽回するために「その解釈がどうして正しいと証明できるのか。その証拠を示せ」と激怒・激高するかもしれない。
しかし、日本古代史の特徴は予想・思い込みが絶対に禁物の奇跡の歴史であったのだ!
【1】「古事記上巻 并せて序」の900余字による説明の大意と、【2】『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は【愛】を国家理念にした日本国(小国・日本)が誕生した歴史を語るものであったと現代人に正確に知ることができるように要約した、少数の字数でコンパクトに説明していた、奇跡の人物が存在した。この人物は――「古事記上巻 并せて序」の文について精通する、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
そして、現在、この人物の名を多くの日本人が知っている。この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は、『古事記』編纂目的は【3】381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話に記述された日本国誕生史を後世に伝えることであったと証言し、さらに淤能碁呂島の聖婚史における伊耶那美命が宣言した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という【日本(小国・日本)建国の〔愛〕の理念】は要するに「愛、つまり親が子を思う心」をあらわしていると――わずか25字の言(ことば)で現在の大半の日本国民が容易に理解できるようにして後世に残した。
この25字の言は有名で現在の多くの日本人が知っている。こんな馴染み深い1300年前の人物が、まさか現在の学者たちの誰一人も正確に解釈できない難解な「古事記上巻 并せて序」の説明文は、わたくしがこのブログに記述した解釈が正しいと指摘して、現在の学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞が正しいと胸をはって自信たっぷりに主張する「漢字習得の定説」と「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は真っ赤なウソ・デタラメ・空理空論であった――と証言する、そんな重要な人物であったのかと――誰しもがまったく想像しなかったのである。
この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は「実際に起きた日本国誕生史を記述した」と、赤裸々に語っている。
次回の「家康くんと『魏志倭人伝』#3」では、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物が没年より5年前頃に残した、死が近づいてきた焦燥に駆られて釈迦(しゃか)にすがるかのように必死に「日本国誕生史の真実が後世に伝わるように」と心願成就を願って、悲憤・悲嘆して遺した熱き歴史証言について話題にする。
この人物の証言によって「わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した】という事実が【科学】が成立して証明される。これゆえ、日本国民はわが国の学界やマスメディアが擁護した「漢字習得の定説」はじめ、新井白石の空理空論を受けつぐ「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は100パーセント・完全なる空理空論であったと断定することができて、300年ぶりに虚妄(きょもう)の学説から解放されて――われら日本人は真実に祝福されてほんものの日本人にようやくなれる。
万歳、万歳、万歳! われわれはとうとう『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を【歴史】として白石没後300年ぶりに語ることができるようになったのである。
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