G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2022年10月

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2022年10月

2022年10月27日 (木)

家康くんと『魏志倭人伝』#5

◆邪馬台国説はすべてデタラメ、インチキ、ウソであった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)が邪馬台国大和説、さらに邪馬台国九州説(筑後山門郡説)をとなえて以来、現在まで300年――学者たちは真っ赤なウソの邪馬台国説・悪質なたわごとをとなえて、われわれをマインドコントロールしてダマそうと躍起になっている。
 われわれ日本人は邪馬台国説に洗脳され、マインドコントロールされていた。
 われわれは空論の邪馬台国説にダマされ、日本人として尊厳を失っていた。
 日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人ヨ! 邪馬台国説にはもうダマされるな!
 日本国民は、もういいカゲンに 邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説に バカにされるな!
 愛おしき日本人ヨ! 目覚めヨ!

◆『魏志倭人伝』には「邪馬臺()(やまたいこく)」なんて名称は存在しない。
 『魏志倭人伝』は、下に示すように「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。
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 『魏志倭人伝』とは――中国の晋(しん)につかえる歴史編纂官(著作郎)の陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある倭人伝である。つまり、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称が『魏志倭人伝』である。
 古代史研究家の古田武彦氏は前年に著書した『「邪馬台国」ななかった』(朝日新聞社発行)にて、『三国志』全体に記されている[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つテイネイに調べ、「[]()には[]()と記した誤記が一例も存在しない」と指摘した。
 3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、12世紀の南宋紹煕(なんそうしょうき)の刊本(かんぽん)として現存する。
 この刊本『魏志倭人伝』には、上記したように「邪馬壹国」と記して「邪馬臺国」と記していない。
 学者たちは「3世紀後半に著作された原本が失われたゆえ、9世紀後(9000年後)の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は「邪馬臺国」と記すべきを「邪馬壹国」と誤記した」と断定するが――現存する南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』の記事を丹念(たんねん)に調べると「邪馬壹国」が正しく「邪馬臺国」と読むのは【誤読】であると証明される。

◆中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬臺()国」と記し、その後ろに小さい字で「案今名邪摩惟音之訛也」、つまり「案ずるに今の名は邪摩惟という音之訛(なま)り也」という注を加える。この注における「邪摩惟」の3字のうち[]の音は「い」である。ゆえに、「邪摩惟」は「やまい」であり、「やまたい」とは読めない。だから、南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬臺()国」と記していないと考えて、私は「邪馬壹()」を「やまい」と読むことにした。

◆『魏志倭人伝』には「倭地には牛・馬は生息していない」と説明する記事がある。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。約、5000年前の中国の五帝時代の初頭の黄帝時代、「ジャコウウシ」は黄帝が居住した本拠地の黄帝陵(こうていりょう/黄帝を祀る廟と墓)付近の凍土(とうど・ツンドラ)地帯に生息していた。黄帝陵は、陝西省(せんせいしょう)黄陵県(こうりょうけん)の橋山(きょうざん)に所在する。
 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文がある。この文は「黄帝の遠征軍の兵士たちは敵の襲来にそなえて、牛・ジャコウウシのごとく円陣を組んで駐屯(ちゅうとん)した」と説明していた。
 ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子を中心にして円陣を組んで防衛する。ゆえに、「営衛」の[]の字義は「牛・ジャコウウシはオオカミに襲撃されると、円陣の中心の子どもたちの命をまもって戦った、つまり防衛した」と意味することになった。
 牛・ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布生息して、百頭以上の群れがふつう見られた。ジャコウウシは約5000年前ころから、多くの地方で絶滅したとされる。ところが、黄帝時代においてジャコウウシは絶滅せず、秋から冬にかけてツンドラ地帯となる黄帝陵付近の餌場(えさば)に、百頭以上が一団となるジャコウウシの多数のグループの群れが集まった。黄帝時代が終わり2番目の帝顓頊(ていせんぎょく)の時代になると、ジャコウウシの群れは黄帝陵付近の餌場に集まらず絶命したにちがいない。このため、[(じゅつ)]の字義は「たたりをなす獣」となり、「たたり」を意味する[(すい)]の古代字形(甲骨文字と金文の字形)は「毛の長い呪霊(じゅれい)を有する獣の姿」を図案する。
 ジャコウウシは暗褐色(あんかっしょく)の足首までとどく長い毛(ウール)で分厚く全身をおおっている。ゆえに、ジャコウウシは凍()てつく凍土を荒れくるう猛吹雪(もうふぶき)にもたえることができる。
 黄帝陵付近の餌場に犇(ひし)めいて集まるジャコウウシを狩猟して解体した肉は、冬場において、黄帝陵付近に居住する諸々(もろもろ)の氏族にとって胃袋を満たしてくれる美味しい食物であった。
 現在、ジャコウウシは北極圏の特別保留地で保護されている。
 下に、ジャコウウシの写真を配した。このジャコウウシの写真は、星野道夫記念ライブラリーの絵葉書から転載した。
 『魏志倭人伝』には34の国々が登場するが、そのうち[]の字源「ジャコウウシ」をあらわす国々は次の11ヵ国――一大国、伊都国、そして[]の字を配する奴国(対馬国を倭国の1番目国と数えると5番目国となる奴国)、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、そして2度目の奴国(対馬国から29番目となる奴国)、狗奴国――最多である。
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 そして、『魏志倭人伝』が「倭地には牛・馬が生息しなかった」と記述する、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』における女王国名「邪馬壱国」における[]の字義は、[]の字源「ゴビ沙漠に生息する、フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』には[]の字源「フタコブラクダ」をあらわす国々は次の5ヵ国――対馬国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、邪馬国――と、二番目に多い。
 34の国々で構成された倭人国において、そのうち[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」をあらわす国名がなぜ計16ヵ国・47%も占めるのかと言えば――『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明した書物」ではなく、「今から約5000年前の黄帝時代初頭に発明された【漢字作成理論】を理路整然と説明する書物」であったからである。というのも、[]の「ジャコウウシ」と[]の「フタコブラクダ」は【漢字作成理論】を象徴する聖獣であったからである。
 だから、新井白石以来、学者たちが主張する邪馬台国説の実体は空理空論、デタラメ、真っ赤なウソであったことになる。
 『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は黄帝時代初頭に発明された【漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と理路整然と説明する、世界的に第一級の重大な「漢字の起源が【科学】が成立して解明できる書物」であったのである。

◆黄帝は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。
 この【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は、漢字が発明された動機と目的となった。つまり、今から約5000年前の黄帝時代、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作る――これが発明の動機となり目的となって、漢字が起源した。
 漢字は中国において起源し、〔倉頡(そうきつ)伝説〕が漢字の起源を説明していた。
 倉頡伝説は、下記のごとく〔漢字の起源〕について説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(今から約6000年前からはじまる三皇時代)の結縄(けつじょう/占いに用いる記号)に代えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、三皇時代の死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという。」

 倉頡伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡が文字(漢字)を発明した。ゆえに、文字が無かった三皇時代の氏族たちの死霊は自分たちの歴史が倉頡によって発明された文字によって後世に伝えられることになったと感激して、天から恵みの雨を降らせて地上に豊かな実り(豊作)をもたらした。倉頡が夜な夜な現れる銀河(天の川)各部の形状を字源・字形・字義と定めた」と説明していた。
 倉頡は通称天文学で「夏の銀河」と呼ぶ、「夏の星座が漬()かる銀河」から【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわす文字を発明した。
 下に、私が「文字作成銀河」と名づけた、倉頡が「漢字」を作った「夏の銀河」の写真を配した。
 下の写真「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。だから、漢字は下の写真の銀漢・夏の銀河から作られた。
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 倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、直接的に容易に理解できるように説明して王道政治の学問(帝王学)の秘密を暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部の形状を直接的に具体的に明確にあらわす名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れていつまでも残ることになった者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、今から約5000年前から始まる五帝時代、今から約4000年前から始まる夏后(かこう)時代(夏代)、今から約3600年前~約3300年前の殷代(いんだい)前半の漢字を書いた資料は出土しないことになった。
 今から約3300年前~約3050年前の殷代後半の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字は文字数が多数(解釈された字は1700余字、未解釈の異体字は2900余字もある)となったため、文字をいちいち消すのが面倒となったため、【3】の掟は守らないでもよいことになった。このため、殷代後半の甲骨文字が多数出土することになった。しかし、殷代後半においても王朝と国家は「漢字が銀漢から作られた学問・知識」を独占管理して【1】と【2】の掟を厳重にまもったゆえ、新井白石以後の学者たちは「漢字が銀漢から作られた事実」にまったく気づかない。しかし、新井白石以前の各代の天皇はじめ高僧たちや源頼朝・足利尊氏・足利義満・織田信長・徳川家康などは「漢字は銀漢・夏の銀河から作られた」から「漢字」と呼ばれることになったという学術知識を有していた。
 上記した【2】の掟のために、「銀漢・夏の銀河各部の名称」は存在しない。ゆえに、私は下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
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◆新井白石以前の「銀漢から作られた文字を、略して漢字という」、この事実を知っていた各代天皇はじめ学識者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は【倉頡の漢字作成理論における中枢部】を伝えているゆえ、倉頡伝説は事実を説明すると認識していた。
 ところが、「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた」と想像力をはたらかさない現代の学者たちは「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説の荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定した。
 このように「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた事実」を知らないために【「四つ目の怪人・倉頡」を荒唐無稽のデタラメと断定して、倉頡伝説は事実ではないと否定した錯誤(さくご)】が致命的な欠陥・原因となって、現代の学者たちは「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を理路整然と説明する教科書である事実」にまったく気づかない。
 もしも学者たちが「銀漢から作られた文字であるから、漢字と呼ばれた」と想像力をはたらかせて、丹念に銀漢・夏の銀河を見たならば「アッツ! 倉頡伝説は真実を伝えている。はくちょう座の尾の部分に四つ目の怪人・倉頡が居る!」と気づいたにちがいない。
 銀河を撮影する写真と言えば大半が「夏の銀河(銀漢)の写真」であり、また美しい印象ぶかい星座と言えば「はくちょう座」であるゆえ――銀河の写真と言えば「はくちょう座と、その背後の夏の銀河の写真」ということになる。
 私が銀河についての知識がほとんど無いに等しい40年前頃(1980年頃)、本屋の店頭の天文学コーナーに並ぶ銀河や星座に関する多くの本の表紙や口絵には「はくちょう座と背景に夏の銀河を撮影する写真」が用いられていた。この写真から、「はくちょう鳥の尾の部分に四つ目の怪人・倉頡が居る」ことに気づいた。

 「歳差(さいさ)」と名づけられた天文現象を利用すると、今から5000年前の中国の各地の天頂にめぐってきた銀漢の形状を表示することができる。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝の遠征軍は江(こう)に至った」と記述する。この「江戸」は「長江口(ちょうこうこう/長江の河口と中央に崇明島がある湾)」であったことになる。「長江口の中央」は北緯3130分である。
 下に、黄帝時代(今から5000年前)における中国各地の天頂にめぐってきた銀河の形状を図示した。
 この図の下部の「鬼の横顔に似る銀河」には〔目〕の形が四つある。この「四つ目の銀河」が「はくちょう座の尾の部分に居る、四つ目の怪人・倉頡」である。つまり、「漢字は銀漢から作られた事実」を直にあらわさずに隠すため、「頭に1本角がはえる、鬼の横顔に似る銀河」を倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と名づけたのである。
 下図の下部に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔に両目、その後頭部とアゴにも目の形をした銀河」があるゆえ「四つ目の銀河」ということになり、倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と呼んだ。
 だから、私は「四つ目の怪人・倉頡」を「四つ目の銀河」または「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
 下図が示すように、「四つ目の怪人・倉頡における後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部」は黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過し、「四つ目の怪人・倉頡におけるアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部位」は長江口(3130)の天頂にめぐってきたゆえ、黄帝時代、「四つ目の怪人・倉頡は中国各地の天頂緯度を精確に(160分の11分の誤差内)で測量できる、命を保持して生存していくことができる聖なる羅針盤となった。
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◆上図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡」の東隣にある「十字の銀河の腰の部分」には「子宮」に相当する銀河がある。この「十字の銀河の腰の部分に在る銀河」を、私は「十字の銀河の子宮」と名づけた。
 倉頡は「長江口の天頂を通過する、十字の銀河の腰部にある子宮に相当する銀河」を「女性の生殖器における子宮と産道」に見立てると定めた。
 だから、上図は、倉頡を発明した動機と目的は【黄帝の「女性の生殖器(子宮・産道など)と子どもの出産や子宮で育つ胎児」の研究】をあらわすことができる文字を作ることであった」とあらわしていることになる。
 というのも、下図に示すように、「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の形」は「女性の骨盤腔(こつばんこう/出産する赤ん坊の頭が通りぬける骨盤の穴)の形」にソックリだからである。ゆえに、「十字の銀河の腰にある、子宮に相当する銀河」を「女性の子宮と産道」と見立てると、「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部」によって、漢字は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわす文字として起源したことを表示することができた。言いかえると、【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】が原理となって組織されることになった。
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 前にて示した「黄帝時代、中国の各地の天頂にめぐってきた銀河の形状図」を、少し形を変えて表示すると、下図のごとくになる。
 下図が示すように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)のうち、横顔にある両目」は「女体に相似する、十字の銀河」を見上げている。また、「四つ目の銀河の後頭部につく目」は上図に示したように「女性の骨盤腔にソックリの、十字の銀河の頭部」と同緯度である。また、「四つ目の銀河のアゴにつく細い切れ長の目」は「十字の銀河の子宮」と同緯度である。
 ゆえに、下図は【1】倉頡の文字発明の動機と目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産と子宮で育つ胎児」の研究】であったと示している。また、【2】【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産など」の研究成果】をあらわす中枢部は「鬼の姿に似る銀河」、つまり「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)と、その西側に連結する鬼の身に相当する銀河」であるとあらわしている。さらに、【3】【倉頡の漢字作成理論】において、もっとも難しい箇所は「鬼の姿に似る銀河(四つ目の銀河と、その西側に連結する鬼の身に相当する銀河」における字源・字形・字義解釈であると示している。
 このように、《「四つ目の銀河」が【漢字作成理論の中枢部】となる》ため、倉頡伝説では特別視して「四つ目の怪人・倉頡」と名づけたのである。
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◆前述したように、[]の字源「ジャコウウシ」は「天敵オオカミに襲われると子どもを中心に隠して円陣を組む」という習性を注目して、倉頡は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤、ま出産児が通リぬける産道を包囲する骨盤」に見立てると定めた。つまり、[]の字源「ジャコウウシ」は【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
 []の字源「フタコブラクダ」を、倉頡は「子宮で育つ胎児、産道を通りぬける出産児、誕生したばかりの新生児」に見立てると定めた。うえに、[]の字源「フタコブラクダ」もまた【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。

 そして、倉頡は「十字の銀河」を「銀漢各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。また、「十字の銀河の子宮」を「銀漢各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮と産道」と定めた。
 【倉頡の漢字作成理論】をあらわして、下の上図に示すように、「文字」の[]の字形は「十字の銀河の母体と、十字の銀河の腹部の子宮に宿る胎児」の図案となった。また、下の下図に示すように、「文字」の[]の字形は「十字の銀河」の[(べん)]の下に「鬼の姿に似る銀河」の「胎児・出産児・新生児」をあらわす[]が加わる形となった。
 卑弥呼が始めて歴史上に登場する約80年前の100年頃に成立していたとされる、古代の学識者たちが尊重した“字書の聖典”と呼ばれた『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源を「乳(にゆう)するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は[]の字源「十字の銀河」を「子に乳をあたえる母親」に見立て、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」を「母親の乳房を吸う赤ん坊」に見立てて、[]の字源を「乳するなり」と解説したことになる。
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 『説文解字』は「邪馬壱国」の[]()の字源を「壺に従ひ、吉の聲なり」と解説する。
 ところが、[]の字は[]の中に[]が加わって形成される。壺中の[][]の原字(最初の文字)である。だから、[]の字における[]()は「産道する出産児の頭蓋骨」をあらわした。「壺中(こちゅう)、つまり子宮内で過ごした子が成長して産道を通過する出産児となって誕生する状況」が「吉」(吉なる状況)であるゆえ、『説文解字』は[]の字を「壺に従ひ、吉の聲なり」と解説したのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壹()国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記す。
 下に、「邪馬」の解説図を示した。
 女王国名の「邪馬壱」は、今日における産婦人科の医学知識「[]のせまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ね合わせることができる仕組み」をあらわす名称であった。
 下図に示したように「出産児の頭蓋骨」は「後頭骨・2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨の5枚」で構成され、この「5枚の頭蓋骨」は「小泉門・矢状縫合・大泉門の骨どうしの結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)で重ね合わせることができる仕組み」になっているために、せまい産道を通りぬけることができる。この「出産児の5枚の頭蓋骨を重ねあわせる仕組み」を、産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 下図の左側に示した「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」が「邪馬」であった。
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◆「出産児が骨盤入口を潜(くぐ)りぬけるときの頭蓋骨の形状」を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。
 つまり、「母親の骨盤入口は横長の楕円形であるため、縦長の出産児の頭の直径は小さくしなければならない。ゆえに、その小さくした直径の頭を斜(なな)めにして骨盤入口を潜りぬける」ゆえ、「小斜径」と名づけられている。
 白川静著『字統』は[]の字義は[]の字義と同じく「ななめ」であると定める。
 したがって、「邪馬」の[]は「ななめ(小斜径の出産児の頭蓋骨)」である。そして、前述したように[]の字源は「フタコブラクダ」であり、「邪馬」の[]は「フタコブラクダの草を食べる時の鼻・上アゴ・口・下アゴの形状に瓜二つ・ソックリの、小泉門・矢状縫合・大泉門の産道を通りぬける形状」であったのである。
 下に、「邪馬」の語源となった「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状に瓜二つ・ソックリとなる、草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」を示した。
 草をモグモグと食べるフタコブラクダの「鼻の形」は「小泉門」に相当し、「フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾの形」は「矢状縫合」に相当し、「フタコブラクダの口の形」は「大泉門」に相当し、「フタコブラクダの鼻・アゴ・口が動きゆがむ形」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の小斜径・骨重積の形」にソックリとなる。
 だから、下図に示した「草を食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口が動きゆがむ形」は、「邪馬」の語源となった。
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 下図に示すように、「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨をあらわす、邪馬の銀河」は「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」の後ろにある。
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 以上のごとく、女王国名の「邪馬壱」は「出産児が重ね合わせることができる頭蓋骨の直径を小さく斜めにして骨盤入口を潜りぬけ、狭い産道を通りぬけて、命が誕生するまでの神秘的な光景」をあらわす語であった。
 だから、邪馬台国説が主張するように卑弥呼が居住した女王国名「邪馬」は「大和」の「やま」と「山門」の「やま」ではなかった。
 その証拠に、下図に示すように、現在の地図方位を90度転回する「大和・奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「フタコブラクダが草をモグモグと食べる時の、鼻から下アゴまでの膨らんでゆがむ形」に相似する。だから、「大和・奈良県」は、対馬国を1番目国と数えると、24番目国の「邪馬国」であったことになる。
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◆上図における「転回方位」について解説する。
 倉頡は「出産児が産道を通り抜ける時に頭が周(まわ)りながら降り進んでいく様子」をあらわすために、[()]の字を作って「方位が時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。ゆえに、[]の字源は「時計回りに90度転回して南・北の経度軸が東・西の緯度軸となる、つまり北→東・東→南・南→西・西→北と化()るという、方位規定」を定義することになった。
 「出産児が産道を通りぬける時に頭が周りながら進む様子」は、産婦人科では「回旋(かいせん)」と呼ぶ。
 下図に示す「出産第一期 開口期(かいこうき)」は「分娩のはじまりから子宮口がすっかり開く・全開大(ぜんかいだい)までの時期」をいう。開口期の終わりに、出産児の頭の「第1回旋」がおこなわれる。つまり、骨産道(こつさんどう/骨盤内)にあって骨盤入口は横に長い楕円形であり、骨盤出口は縦長であるため、縦長の出産児の頭が骨産道を潜りぬけるためにはアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となって時計回りに90度周る。これを「第1回旋」と呼ぶ。出産第二期の娩出期(べんしゅつき)の始まりでは、出産児の頭は反時計回りに90度向きを変えながら下降する。この過程が「第2回旋」である。「第3回旋」では出産児の頭は反時計回りに90度周って産道()から娩出する。最後の「第4回旋」は時計回りに90度周って母体の背側(臀部)を正面にして(顔を向けて)誕生する。
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 倉頡は「四つ目の銀河」の後ろの「邪馬の銀河(出産児の頭蓋骨の銀河)」と、「四つ目の銀河」の前の「妊婦に相似する、十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」を観察して、「4回の回旋をあらわす文字」を作った。
 「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。
 「反時計回りの第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。

 []の字源は「稲、麦、穀物、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらわすとともに「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 下に配する上図は[][][]の字源解説図である。[]の下に[]が加わる[()]の字源は、[]の字源「時計回りに90度回旋(転回)する方位規定」を受け継いだ。人偏に[]を加える[]の字源もまた、[]の字源「時計回りに90度回旋(転回)する方位規定」を受け継いだ。
 下に配する上図における「禾()の穂が十字の銀河の両足の〔南〕から、四つ目の銀河の口がある〔西〕へ垂れる、南→西となる様子は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕に代わる方位規定」をあらわす。また、[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は「北→東、つまり時計回りに90度転回して〔北〕が〔東〕となる方位規定」をあらわしている。
 「倭国」の正式名は「倭人国」である。ゆえに、[]の字は「時計回りに90度回旋する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北に化ける方位規定」をあらわした。
 「倭人国」の[]の字源銀河は「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」である。倉頡は「鬼の横顔に似る銀河の両目」を「第2回旋と第3回旋」に見立て、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目」を「第1回旋」に、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開いた目」を「第4回旋」に見立てた。だから「鬼の横顔に似る銀河=四つ目の銀河=四つ目の怪人・倉頡」は[]の字源となった。その証拠に、[]の契文形(甲骨文字の字形)と金文形は「出産児が骨産道をくぐりぬけるときの、アゴを胸につけて膝(ひざ)を曲げる側身形」となる。だから、[]の字形は「骨盤入口から骨盤出口を潜りぬけるときのアゴを胸につけて膝を曲げる出産児の姿」であり、[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河=四つ目の銀河=四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
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 倉頡伝説において「四つ目の銀河」が特別視されて「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられたのは、倉頡が「産道を通過出産児の4回の回旋」をあらわすために、[][]の字を作ったからである。
 五帝時代から周代まで、中国では巫女(みこ)が出産を祝い、天に子授け祈祷して祈願した。
ゆえに、上図における[]の上部の[]は「人が言う、食べるときの口(くち)」ではない。この[]は「さい」と音し、[(さい)]の字源は「巫女が祝祷(しゅくとう)する土器」であった。前述したように、[()]の字形は[][]つまり「頭」が加わって成立するが、[]は「子宮を造形する土器」であるゆえ、「土器の口縁部(こうえんぶ)」は「骨盤入口から膣口(ちくこう)までの産道」に見立てられた。だから、「壺の口縁部」をあらわす[(さい)]は「4回の回旋がある産道をあらわす、巫女が出産を祝い・子授け祈祷して祈願するの時に用いる土器」をあらわすことになった。
 したがって、上図における[]の金文形は「祝祷に用いる[(さい)]・壺(つぼ)を右肩の上にあげて、巫女が産道を通過する子どもの姿を真似(まね)して身をくねらせて舞う姿」を表現していることになる。[]の字の上部は「北→西」をあらわしているゆえ、[]の金文形は「反時計回りに90度回旋(転回)する方位規定の定義」をあらわす。だから、[]の字源は「反時計回りに90度転回して、北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定」をあらわした。
 このように倉頡は[]を作って「時計回りに90度転回する方位規定」を定義し、[]の字を作って「反時計回りに90度転回する方位規定」を定義した。

◆卑弥呼は後漢時代末から三国時代半ばまでの180年頃~240年ころまで生存した。
 「後漢」という[]の字源は「銀漢・夏の銀河」である。
 下に、三国時代における「魏」・「呉」・「蜀(しょく)」の範囲を示した。
 「蜀」の正式名は「漢」であり、「漢」の字源は「夏の銀河」であった。「魏」の字の偏は[]であるから、「魏の範囲、中国の北部」は「方位が時計回りに90度転回する地域」であったことになる。そして「呉の範囲、中国の南部」は「反時計回りに90度転回する地域」であったことになる。
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 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)において、直木孝次郎教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」には――明治時代の学者の内藤湖南(こなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解すべきであるとした――と指摘する箇所がある。
 『後魏書』は6世紀半ばに成立した。ゆえに、内藤湖南は「6世紀半ばまで、中国では方向をいうとき、東は東ではなく、[]の字源に則(のっと)って東は時計回りに90度転回して南となる、また[]の字源にもとづいて北は反時計回りに90度転回して西となると定義していた」と指摘していたことになる。
 司馬遷著『史記』書における天官書・第五は――紀元前1世紀、「当時の北極星(こぐま座β星)」を「太一(たいいつ)」という――と記す。
 内藤湖南が指摘したように、中国では6世紀半ばにあっても、倉頡が作った[][]の字源にもとづいて、方位名がふつうに言われていた。ゆえに、北極星・太一は地図における「北」の方位をあらわす基準になると定まっていなかった。北極星・太一は周極星(しゅうきょくせい)であるゆえ、太一は一日に一度も地平線の下に潜らない。だから、太一は大地・地理・地図の方位とは無関係であると学問において定められていた。漢字が作られた銀漢・夏の銀河の全域は一日に一度地平線の下に隠れる。だから、大地・地理・地図における方位は、夏の銀河から作った倉頡の[][]に則ると学問において定まっていたのである。

 『魏志倭人伝』の冒頭は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国(長崎県北部対馬)南一海を渡る千余里に、一大国(長崎県北部の壱岐)に至る」と記す。ゆえに、「対馬国と一大国の方位」は「現在の日本列島の地図における方位名」と同じとなる。
 しかし、一大国の次の「末盧(まつろ)国」から以下の本州地図の方位は、下図に示すように、現在の日本地図と異なって、[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」で統一されていた。
 卑弥呼王朝は、下図に示す「対馬()・壱岐()と転回本州地理」を制定していた。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、下図の「転回本州地理における[]の字源にもとづく方位規定」は中国とわが国にあって学問におけるふつうの考え方であった。
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◆家康は、現在の日本地図のもとに『魏志倭人伝』を読解しなかった。家康は、上図の[]の字源を示す転回本州地図にもとづいて、卑弥呼が居住した女王国「邪馬壱国の中心部」は「山陰・出雲」であると考えた。
 上図が示すように、対馬国・一大国を除く32の小国がある本州地図は[]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」に則って、現在の日本地図における〔西・九州〕は〔北〕に位置し、〔東・東海地区と北陸地方〕は〔南〕に位置すると定められていた。
 []の字源「時計回りの90度転回する方位規定」だと、「本州の北にある日本海は本州の東にある」、つまり「北→東となる」ゆえ、上図の本州地図は卑弥呼時代の中国とわが国における学問のふつうの考え方であったことになる。
 「女王国・邪馬壱国」について『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」と記す。
 日本海には、萩市の見島、隠岐群島、佐渡島、新潟県の粟島、山形県酒田市の飛島など、一つの群島と4つの単独の島が在る。『魏志倭人伝』は「女王国の東の、海を渡る国」は「皆、倭種なり」と記す。ゆえに、〔100人や200人の人〕を呼ぶときには「皆の衆」というので、単独の見島・佐渡島・粟島・飛島の4島は「皆、倭種なりの国」ではなかったことになる。隠岐群島は4つの大きな島と約180の小島からなる。これゆえ、「隠岐群島」が「皆、倭種なりの国」であったことになる。
 だから、このブログのごとく[]の字源を解明すれば――上図のごとく「転回方位の隠岐群島の西(現在方位の南)にある山陰・出雲」が「邪馬壱国の中心部」であったと、いとも簡単に解明することができる。

 このブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて指摘したように、家康は[]の字源「転回方位」にもとづいて、下図の「江戸城(現在の皇居)から発する渦巻を描く水路()」を設計して「邪馬壱国は出雲地方」であったとあらわした。
 つまり、家康は「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()は、現在の隅田川に出()ずる」ようにして、[]の字を設計した。「江戸城から隅田川までの渦巻く水路」をもって、家康は「[]の字源にもとづき、時計まわりに渦巻く[]の字源・字形・字義」を設計した。白川静著『字統』は[]の古文形を「雲の初文」つまり「雲の最初の文字」と解説する。だから、下図に示す「江戸城から発する時計回りの渦巻を描く濠(水路)」をもって、[]の字源を知っていた家康は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」と説明する国は「隠岐群島」と理解して、「邪馬壱国は出雲地方である」と断定したことになる。
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◆下に、[]の字源にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を示した。
 下図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻4号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。
 下図の上部の「[]の地宜」と記した箇所の「島根半島の北端(現在方位の西端)の地宜」は「母親のフタコブラクダの横顔・首」と相似すると見立てると「足の形に相似する宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」と解釈できる。また、下図上部の「母親の馬・フタコブラクダ・横顔・首に見立てた、[]の地宜」に隣接する「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「足を踏ん張って立たんとする馬・フタコブラクダの誕生した直後の姿」に相似する。
 「馬・フタコブラクダの子の姿」に相似する「神門水海」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」である。だから、「神門水海」は「邪馬」という語をあらわす。
 前述したように、女王国名「邪馬壹()」の[]の字における[][]は「産道を通過する、吉なる出産児の頭」であったことになる。
 下図に「壱」と記した「松江市北部(現在方位)の地宜」を、卑弥呼は「壺の形」に相似すると見立て、また「出産児の頭が無事に通過して誕生する産道」に見立てた。ゆえに、「松江市北部の地宜」は[]()の字源をあらわす聖域となった。
 ゆえに、下図の「山陰・出雲の地宜」は「邪馬壹()」をあらわした。
 結局、下図の地域は『魏志倭人伝』が「邪馬壹国に至る。女王の都とする所なり」と記述した「邪馬壱国の中心部」であったことになる。
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 下図に、前述した「文字」の[]の字源銀河と金文形を配した。
 下図の「十字の銀河における妊婦のおなかの部分」は「右足」または「乳房(四つ目の銀河・赤ん坊が乳を吸う乳房)」に相似する。そして、[]()の字源銀河「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と隣接する。
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 上記した〔古代出雲の「邪馬壱」のあらわす松江市北部の地宜〕における「宍道湖の南端(現在方位の東端)の湖岸の形」は、下図に示すように「足首の形」となる。
 下図における「宍道湖の湖岸」を「十字の銀河の右足」に見立てると、「松江市北部(現在方位)」は[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」に合致する。前述したように、[]の字源銀河「十字の銀河の子宮」は「母親の子宮()と産道(壺の口縁部)」をあらわした。ゆえに、下図における「[](松江市北部)の地宜」を、卑弥呼は「母親の子宮と産道」に見立てた。
 下図に示すように「宍道湖南端(転回方位)の地宜」は「人の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕の方に向く。その「宍道湖の足の爪先が指差す西」には「意宇(おう)平野」がひろがる。
 下図に示すように、「意宇平野」は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に合致して「[]の地宜」の〔南〕から〔西〕の方向に所在する。
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◆『魏志倭人伝』は「倭国では、もと男子の王が天下を治めていた。七、八十年前(180年頃)に倭国は乱れて、何年ものあいだ国々は互いに攻めあって戦った」と記述する。また、「卑弥呼は、婢()千人を侍(はべ)らせる。唯々(ただ)男子一人が卑弥呼の飲食を給仕し、卑弥呼の辞(言葉)を伝えるために、卑弥呼が過ごす居間に出入りしている。女王が居処(きょしょ)する宮殿には、楼観(ろうかん/見張り櫓)があり、城の柵(さく)で厳重に設けられ、常に兵器を持った人が守衛している」と記述する。
 卑弥呼が婢千人を侍らせて居住した宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』に「千人侍らせた」と記された「婢」は「十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。前に示した「漢字が作られた、銀漢・夏の銀河の写真」は天体写真家で有名な藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。この「夏の銀河の写真」を私に提供してくださったとき、藤井氏は「十三歳くらいの女の子はもっとも瞳が澄んでいて、暗い天体部までよく見える。だから、銀河を撮影するときには、十三歳くらいの女の子を助士として連れていくことが度々ある」と語った。
 卑弥呼時代における「婢・十三歳くらいの乙女たちにあって暗い銀河部の形状がよく見える、特別に眼力に優れる魔力の持主」を「七、八十年前の倭国の乱における国々は、敵の呪的(じゅてき)戦力を奪う能力に優れる魔女」に選んだにちがいない。というのも、白川静著『字統』は「媚()はその媚飾(びしょく)を施(ほどこ)したもので、巫女(ふじょ)をいう。漢代に巫蠱媚道(ふこびどう)とよばれる呪詛(じゅそ)の法があって、宮中の暗闘にしばしば用いられた。(中略)。媚は敵の呪術者を殺すことによって、敵の呪的な能力を奪うことができた。(中略)。媚とは美しき魔女である」と解説するからである。ゆえに、中国の漢代・後漢時代末の180年代における倭国の乱にあっても、暗い銀河部までよく見える眼力に優れる十三歳くらいの乙女たちの婢は戦いの先頭に立つ敵の呪的戦力を奪う魔女であったにちがいない。これゆえ、卑弥呼は国々における優れる眼力を有する十三歳くらいの巫女・婢(乙女たち)を宮殿に集めて再び倭国が大乱しないように治めていたことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』の末部には「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」という文がある。この文初頭の「卑弥呼の宗女」は「卑弥呼を頂点とする巫女界を代表する女性」と意味したにちがいない。[]の上部[(べん)]の字源銀河は「十字の銀河」であり、「宗女」の[][]に「神」が原義の[]を加えた字である。だから、卑弥呼は「神につかえる巫女王」であったことになる。ゆえに、「卑弥呼の宗女の壱与、年十三なるを立てて王と為す」という文は「卑弥呼を頂点とする巫女界を代表する十三歳の婢であった美しき魔女の壱与は女王となった」と意味したことになる。
 以上からして、「卑弥呼が侍らした千人の婢」は「倭国の大乱をふせぐために卑弥呼が住む宮殿に集めた、戦いの先頭に立って敵の呪的戦力を奪う美しき魔女となる、優れた魔力(眼力)を有する十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。

 前述したように、倉頡伝説に登場する「禾」は「穀物」を意味し、「恵みの雨による豊かな実り」を意味するものであったゆえ、[]の字源は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」を意味した。ゆえに、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ[]の字源は「五穀豊穣」をも受け継いだことになる。
 []の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて「邪馬壱」という語が成立する。ゆえに、「邪馬壱」という女王国名は、[]の字源「五穀豊穣」を受け継いで「秋に豊かな実りに恵まれる国。五穀豊穣の国」と意味したことになる。
 また、「邪馬壱」という語は「[]の産道を、草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の区切りが歪(ゆが)む表情に瓜二つの出産児の頭蓋骨が通りぬける様子」となるゆえ、「邪馬壱国」は「安産の国、子孫繁栄の国、多数の人民が住む国」と意味したことになる。そうすると、「邪馬壱国」は、下図に示す[]の字源「出産を祝い、子授け祈祷を祈願する時に用いるの壺・口(さい)をかかげて、身をくねらせて産道を通りぬける出産児の姿を真似(まね)して舞う巫女」をあらわす国でもあったことになる。
 だから、邪馬壱国に巫女界の頂点に立つ卑弥呼が居住していたことになる。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国から、南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記す。
 下に〔対馬国・瀚海・一大国の図〕を示した。
 「瀚海」は「[]の字源・フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
 言いかえると、「瀚海」は「邪馬壱国」の[]の字源は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダであること」を明確に示す証拠となる。というのも、「対馬国」の[]の字源も「瀚海・ゴビ沙漠に生息する、フタコブラクダである」と証明することができるからである。
 前述したように、[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣であった。ゆえに、『魏志倭人伝』初頭部にある「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海・ゴビ沙漠であった」という記事は「『魏志倭人伝』は邪馬台国説を説明するための書物」ではなく、「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明するための教科書であった」と証明される、一撃で邪馬台国説は空理空論であると証明できる強烈なKO・パンチとなる。
 「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の形に相似する産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」をあらわして、邪馬台国説論者たちが主張する「大和」の「やま」や「山門」の「山(やま)」ではなかったのである。
 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」であったと記して、「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する書物であった」と鮮烈にあらわしている。
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 「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
 下に、〔「対馬」の地宜と[]の字源銀河の解説図〕を配した。
 「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。また「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、瀚海・ゴビ沙漠の砂に残るフタコブラクダの足跡」に見立てた。したがって、「上県郡と下県郡の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬国」と定めた。
 前述したように、「邪馬壱国・山陰出雲」において、卑弥呼は「島根半島北端(転回方位)の地宜」は「母親のフタコブラクダの横顔と首の形と、誕生した直後の両足を踏ん張って立たんとするフタコブラクダの子の姿(神門水海の地宜)」に相似すると見立てた。また、卑弥呼は「宍道湖の地宜」を「母親のフタコブラクダの足の形」に見立てた。
 よって、「対馬国の地宜」と「邪馬壱国中心部の地宜」は「フタコブラクダの姿と足の形」で共通するゆえ、[]の字源は「フタコブラクダ」であったと証明される。
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 「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。
 下に〔現在方位にもとづく一大国・壱岐の地宜〕を示した。
 下図に示したように、「一大国・壱岐の西端の海岸線の地図の形」は[]の字源「フタコブラクダの横顔とコブの形」に相似する。しかし「一大国・壱岐の中央部・東部の海岸線の形」は「[]の字源・ジャコウウシの横顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
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 下に転回方位にもとづく一大国・壱岐の地宜を示した。
 前述したように、[]の字源「ジャコウウシ」は天敵のオオカミに襲われると子どもを真ん中に隠して、円陣を組んで防衛する。これゆえ、「ジャコウウシ」は「子どもを育てる子宮と出産児が通過する産道を包囲する女性の骨盤」に見立てられた。
 下図における「一大国のフタコブラクダの横顔とコブに相似する地宜」は「子宮で育つ胎児と産道を通過する出産児」に見立てられ、「ジャコウウシの姿に相似する地宜」は「女性の骨盤」に見立てられた。
 下図における「ジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地図の形」は「骨盤から子宮の底(子宮底)がはみだす形」にソックリである。
 ゆえに、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「骨盤から子宮底がはみだす形」と見立てて、さらに「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。 
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「銀漢各部の形状から作られた、すべての文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河」は「大きな銀河部から作られた文字を生む子宮」となり、また「大きな銀漢全域各部の形状から生まれた全文字を生む子宮」ということにもなった。この「十字の銀河の子宮の原理」を立論するため、倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字形・字義と定めて、「一即大、大即一」という理論を考案した。このため、「十字の銀河の子宮」は「一大」と呼ばれることになった。卑弥呼は「十字の銀河の子宮」が「一大」と呼ばれた学識を有していたゆえ、「十字の銀河の子宮」に見立てた「壱岐」の小国名を「一大国」と定めたのである。
 前述したように、「十字の銀河の子宮」は[]の字源でもあった。「一大国の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。「一大国」は「子宮に宿る胎児に見立てた馬・フタコブラクダの地宜と、骨盤に見立てた牛・ジャコウウシの地宜に岐(わか)れる」ゆえ、[]の字をあらわすことになった。ゆえに、「一大国」は、後世、[][]が加わる「壱岐」と名づけられ、現在も「壱岐」とよばれている。

 地図で調べると、[]の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形に相似する地宜」の「対馬」は「経度線と緯度線と邪(なな)め」となる。このため、「対馬国」は「邪馬」という語をあらわす。「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわすゆえ、「対馬国・一大国」は女王国名の「邪馬壱」という語をもあらわす。
 前述したとおり、「山陰・出雲の地宜」における「邪馬」は「経度線と緯度線と邪めとなる誕生した直後の馬・フタコブラクダの子どもの姿に相似する、神門水海」、[]は「十字の銀河の子宮」に見立てた「現在の松江市北部の地宜」であった。
 このように「対馬国・一大国」と「邪馬壱国・出雲」の両地における「邪馬壱」は共に「[]の字源となる地宜が邪めとなる」と合致する。
 だから、女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかったと証明される。
 他方、新井白石以後の邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない。ゆえに、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は完全なる捏造(ねつぞう)100パーセントの空理空論、真っ赤なウソ、デタラメであったことになる。
 『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった」のである。
 以上のごとく、われわれ日本人は邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説にマインドコントロールされて真実が見えないように目隠しされている。
 われわれの日本人は空論の邪馬台国説にすっかりダマされ、日本人としての尊厳と誇りを奪われ、当然、アイデンティティも奪われていることになる。われわれは空論の邪馬台国のために日本人として生きる生活と遺伝子と心と魂を奪われ、にせものの日本人として生きてゆかねばならない。だから、これ以上、日本人は邪馬台国説にダマされ、絶対にバカにされてはならない。われわれは『魏志倭人伝』に記述された真実を知って、前進しなければならないのだ。

 以上のごとく『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、以下の四つの要素が必要となる。
【一】「漢字」は「銀漢・夏の銀河」から作られた
【二】現在の日本地図にもとづいて方位を論ずるのは異常で、ふつうではない考えとなり根本的な過誤となる。卑弥呼時代、中国とわが国の学問では地理の方位を、倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「反時計回りの90度転回する方位規定」で定めていたからである
【三】「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメではなかった。つまり、「倉頡伝説」はすべてほんとうで【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明していた
【四】『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と記す。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】を理路整然と説明する教科書であったのである 

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2022年10月 4日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#4

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
 「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」のことである。
 下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
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 中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝える。つまり、倉頡伝説は上記の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論】は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に具体的に記述されている。
 倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字(かおんもじ)の学芸】を教えひろめた。この噂を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の知識にもとづいて【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
 この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。

◆倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字は文字を書いた資料が出土しないことになった。
 上記した【2】の掟のために、「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。ゆえに、わたくしは下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
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 だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は完全なる空理空論であった。
 というのも、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、わが国が今から約4000年前(紀元前21世紀)に習得した【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムにおける銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存するからである。ゆえに、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字ということになる。
 考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定した。この考古学による偏見によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界までもが断定した定説は、五帝時代の書契と夏音文字の字源・字形・字義は天上の銀漢に現在も存在するという現実と事実に反する空想・幻想であったことになる。
 その証拠に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印()がつく文字を【あなたが目でしばらく見ている】という、この時間は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説が「真っ赤なウソ」である現実と事実を直(じか)に目撃している現場となるからである。
 だから、その随所に〔音〕という注がつく多数の夏音文字を記す『古事記』上巻もまた『魏志倭人伝』と同様に【倉頡の漢字作成理論】を伝えていた重大な史料であったことになる。

◆わが国の古代中国研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(じとう/平凡社発行)は9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 下図に示すように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
 上記した白川静著『字統』が「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この『古事記』上巻の随所の〔音〕という注がつく、紀元前21世紀頃の夏代初頭に習得した夏音文字は中国における最古の「上古音」よりも約1000年前も古い。
 そして、学界が正しいと太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下の図の最下部に配置される。だから、学界が正しいと思い込む「わが国が最初に習得した楷書の漢字音」は「中国の上古音」よりもずいぶん新しいことになって、明確に「空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
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◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力とする邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにして歪曲(わいきょく)する。
 このような横暴なご都合主義の論法は、新井白石から始まった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は、1716年・晩年の60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説と日本神話説を提示した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を提唱した。
 白石は「漢字は銀漢から作られた。わが国は紀元前21世紀に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という学問知識を有していなかった。
 これが致命的欠陥となって、白石が提唱した()邪馬台国大和説と、()邪馬台国九州説と、()日本神話説は〔誤読の産物〕にして〔空想の産物〕であったのである。
 その証拠に、下図に示すように、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と記して、「邪馬台国(やまたいこく)」と記していない。今から約300年前に新井白石が「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読して以来、女王国名は「邪馬台国」であったにちがいないと思い込まれている。
 〔注 女王国名は「邪馬壱国」が正しく、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記されていないという指摘は、先年、古代史研究家の古田武彦氏が、その著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)で詳細な調査の基におこなっている。〕
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◆『魏志倭人伝』に記された女王国名「邪馬壱国」における「邪馬壱」という語は、【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。言いかえると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える教科書(書物)であった。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなかった。
 要するに、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、上記したように「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という知識を最初から有していなければならなかった。
 その証拠に、最初から「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有していれば、『魏志倭人伝』には「倭には夏代初頭に【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸を習得した」と説明する二つの記事が存在することに気づいていた。
 『魏志倭人伝』が「わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字を習得した】と伝えていた一つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味するものであった。ゆえに、「わが国は甲骨文字が出現した殷代後半期より約1700年前の夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」ことになる。
 二つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にて「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の字源・字形・字義が銀漢各部のどの形状と合致するのかを一字一字ずつ捜して露わにして確認・点検)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明している。この記事もまた「わが国は夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」と指摘していた。

◆駿府の今川義元は駿府城と同緯度の三河の岡崎城主・松平広忠の長男・竹千代(後の徳川家康)を人質として求めた。というのも、義元は「漢字は銀河から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得していた」という学問知識を有していたからである。
 義元は、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀における黄帝と黄帝の政治を補佐した倉頡、夏本紀における帝禹()の政治を補佐した益(えき)を注目し、竹千代に【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教育して、成長した竹千代を倉頡や益のごとく補佐役にして、いずれ上洛して天下を統一すると計画した。
 6歳の竹千代は人質として駿府へ出発したが、途中、略奪されて織田信秀(信長の父)のもとへ送られた。
 竹千代が8歳の時、今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)を総大将とする七〇〇〇騎の今川軍は安城(あんじょう)城を攻め、織田信広(信長の兄、2年後に没する)を捕らえて、竹千代と信広の人質交換を行った。義元が【倉頡の漢字理論と夏音文字】を政権基盤にして天下を統一する野望を実現するために、補佐役とする竹千代がどうしても必要とであった。ゆえに、義元の軍師・大原雪斎が総大将となって大がかりな七〇〇〇騎による竹千代の奪還作戦が決行されたのである。
 軍師の大原雪斎は臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうじんじは)の高僧であり、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】に精通していた。というのも、枯山水(かれさんすい)の庭園として世界的に有名な石庭がある龍安寺(りょうあんじ)は臨済宗妙心寺派の寺であり、臨済宗の妙心寺の基礎教養は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】であったからである。
 その証拠に、京都市右京区に所在する龍安寺の石庭の5群、大小の15個の石と白砂の平庭は漢字が作られた銀漢(夏の銀河)をデザインする作品である。
 また、「龍安寺の石庭案内パンフレット」には「禅とは……」と題して「神()のない宗教である」、「老子の教え『吾れ唯だ足ることを知る』宗教である」、「『死に切る』即ち『断命根』の宗教である」と説明している。紀元前5、4世紀ごろに生存した中国の老子は中国で廃(すた)れて衰退していた【倉頡が発明した漢字作成理論の復興】を願って、自らの思想を「知足(つまり、漢字が銀漢から作られた学問)」、あるいは「吾れ唯だ足ることを知る(銀漢を観察して真理を追究する学問にもとづいて自己を深く掘り下げる修養こそがもっとも尊い)」と表現した。ゆえに、老子は中国王朝が独占管理して厳重に機密にした【倉頡の漢字作成理論】を暴露する、即刻に死刑と定められた大罪人と見なされたゆえ日々住所を変える逃亡者であった。わが国においても【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は朝廷の政権基盤にして存続基盤であったため、老子のごとく【倉頡の作成理論と夏音文字の研究】を公表する者は朝廷を崩壊させて天下を奪おうとする死刑に処すべき大罪を犯すものと見なされた。ゆえに、臨済宗妙心寺派の僧侶たちは死刑になるのを畏れて用心して慎重に「漢字は銀漢から作られた学芸」を常に秘めやかに難解に表現するように心がけていたものの、もしも「漢字が銀漢から作られた」という機密を容易にわかるように暴露したと朝廷に見なされた時には「死刑」に処せられる覚悟が必要であったため、「死に切る(つまり、常に死んでいると思い込む)」、即ち「断命根の(つまり、命を断たれるを覚悟する根性が必要となる)宗教」ということになったのである。
 竹千代は雪斎から【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学び、天下統一の野望を抱く今川義元の補佐役になるための心得を徹底的に教育された。
 竹千代は14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に、教育係の雪斎が没した。この後、1558年、17歳の時に元康(もとやす)と改名した。
 その2年後、19歳になった元康に先鋒を命じた義元は、二万五〇〇〇の大軍を率いて上洛の途についた。しかし、わずか二〇〇〇の織田信長の軍が桶狭間(おけはざま)で休憩をとる今川軍を急襲して義元の首を取った。松平軍は故郷岡崎城にめざして逃げた。元康は岡崎城に近い大樹寺で自害しようとしたが、その現場を住職の登誉上人(とうよしょうにん)に発見され、上人に説得されて思いとどまった。
 上記のごとく、徳川家康(15421616)は大原雪斎に「漢字は銀漢から作られた。中国の夏代初頭、わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した」と教育された。だから、徳川家康にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を説明する教科書】であった。このため、新井白石(16571725)以後の学者たちの邪馬台国大和説と邪馬台国九州説とまったく異なり、家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も〔批判(誤読)〕を加えない方法をもって「卑弥呼は邪馬壱国に居住した。邪馬壱国は山陰出雲であった」と解釈した。

◆わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」で指摘したように、徳川家康は下に示す「江江戸城(皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」を設計して、「邪馬壱国は山陰出雲であった」と表現した。
 下図は、笹山晴生(6)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページにある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路()の図〕から転載した。
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 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作して『字統』(平凡社発行)[(うん)]の字について「雲の形で、その古文。雲気のたなびく下に、竜が尾を巻いて姿がみえる形、のち雨を加えて雲となった」と解説し、[]の字について「云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった」と解説する。
 ゆえに、家康は「[][]の古文形」に合致するように、「時計回りに90度転回して、つまり北→東となるように、江戸城から発する渦巻文の水路」を設計したことになる。
 下図の「江戸の渦巻文の水路」は「隅田川に出(いず)る」。だから、「隅田川に出る江戸の水路」で、家康は「出る」の[]に「[]の古文形となる水路」で「出雲」と表現した。したがって、家康は「江戸の水路」で【卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた】と表示していたことになる。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』は白石以来の定説「邪馬台国について説明した文献史料」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】について説明していた書物であったのである。

言いかえると、『魏志倭人伝』に記された倭国の34の小国に用いられる漢字をもって【倉頡の漢字作成理論体系】を説明していた。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と説明していたことになる。
 だから、下図に示すように――卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】をあらわすプロローグとして、「対馬国と一大国(現在の長崎県壱岐)における南北」は現在の日本列島地理と同じであると定めた。しかし、「倭人国」という国名に用いる[]の字源にもとづいて「九州の末盧国(まつろこく)以下の本州地理の方位規定は、対馬国・一大国の南北軸に対して時計回りに90度転回して「北(日本海)が東となるように、つまり出雲の北の日本海に浮かぶ隠岐群島は出雲の東となる」と、卑弥呼は制定した――と、『魏志倭人伝』と説明していた。
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 『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」という記事がある。
 上図の「転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図」に示したように、女王国(邪馬壱国)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。隠岐群島は「出雲・島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北(現在方位)にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」と表現されることになる。また、家康が「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表現した「江戸城から発する渦巻の水路を、時計回りに90度転回して〔北〕を〔東〕と定めるに転回方位」にもとづくと、上図に示したように「隠岐群島」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」と説明された小国となって合理となる。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」という文に合致する小国は存在しない。

◆倉頡は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に正存した黄帝(こうてい)につかえる史官(記録官)であった。黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器官】を研究した。この【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究】をあらわすことができる文字を発明する――これが、倉頡が漢字を発明する動機であり、作成目的であった。
 出産児は5枚に分れた頭蓋骨を重ねあわせてせまい堅い骨産道(こつさんどう/骨盤産道)をくぐりぬけて軟産道(なんさんどう)つまり膣(ちつ)を通りぬけて、膣口(ちつこう)から頭が誕生した赤ん坊の顔は母体の臀部(でんぶ)のほうに向く姿勢となる。骨盤入口をくぐりぬける時の出産児の頭は膣口から見えるゆえ、黄金色の羊水に濡れる出産児の5枚の頭蓋骨が重なりあって産道を4回も転回してくぐり抜けて誕生する、その様子はまさに“生命の神秘”をあらわして、言葉で表現できないほどに驚異的な感動的なドラマである。
 倉頡は【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて膣口から頭が誕生するまでの神秘的な光景】にすっかり心うばわれて漢字を発明した。
 下図に示すように、骨産道と軟産道を通りぬける出産児の頭蓋骨は5枚(後頭骨、2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨)に分れる。この5枚の頭蓋骨はV字形の「小泉門(しょうせんもん)」、「矢状縫合(やじょうほうごう)」、菱形の「大泉門(だいせんもん)」と産婦人科で名づけられた結合組織性の膜(まく)によって重ねあわせることができる仕組みになっている。この「仕組み」を、産婦人科であは「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 赤ん坊は「小泉門・矢状縫合・大泉門」による頭蓋骨が重ね合わさる「骨重積」の仕組みによって、せまくて堅い骨産道をくぐりぬけ、さらに軟産道を通り抜けて膣口から頭が誕生することができる。下図の左側に示すように「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけた。
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◆『魏志倭人伝』には「倭には牛と馬が無い(牛と馬は生息していない)」という記事がある。
 []の字源は「黄帝が居住した本拠地付近にて生息したジャコウウシ」であった。
 []の字源は「フタコブラクダ」であった。

 牛・ジャコウウシの群れは、天敵のオオカミに襲われると、子どもを円陣の真ん中に隠し、背中を円陣の中心に向けて防衛する習性がある。この「円陣」を、倉頡は「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に、また「円陣の真ん中に隠す子ジャコウウシの子ども」は「子宮で育つ胎児」に見立てた。ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 司馬遷著『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、学者たちは「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と訳す。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシの習性に学んで円陣を組んで駐屯していたことになる。
 上記したように、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下図は「草をモグモグと食べるときの、フタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ()・口・下アゴの図」である。
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 上図における「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる」ゆえ、「骨盤入口をくぐりぬけて膣口にて達するまでの出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、そっくりである。つまり、「〔フタコブラクダの鼻〕は〔小泉門〕、〔フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾ〕は〔矢状縫合〕、〔フタコブラクダの口〕は〔大泉門〕に相当し、各パーツの仕切りが邪(なな)めになって重ね合わさる様子」は「出産児の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、ソックリである。
 だから、倉頡は「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に酷似(こくじ)する「フタコブラクダの顔(鼻・アゴ・口)の表情」を注目して[]の字源を「フタコブラクダ」と定めた。よって、「フタコブラクダ」は「子宮に宿る胎児、産道を通過する出産児」などに見立てられて、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 「産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門と5枚の頭蓋骨の形状」と瓜二つ、そっくりの「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる様子」にもとづいて――卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」を「邪め」の[][]を加えて「邪馬」と名づけた。
 『魏志倭人伝』において倭国における1番目に登場する小国名を「対馬国」と記す。24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」である。この「邪馬国」は「現在の奈良県、旧国の大和」であった。
 下図に示すように、「家康が設計した江戸の渦巻の水路の、時計回りに90度転回して北→東とする方位規定」にもとづくと、「奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)における鼻・ミゾ・口の部分」は「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの鼻・ミゾ・口の形状」と瓜二つゆえ、「邪馬」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と名づけた。したがって、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。
 だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した地所の名」を「邪馬壱国」と記す。だから、「邪馬台国」は学者たちがデッチあげたウソ・戯言(たわごと)であったことになる。
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◆「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると、〔過去と未来の天の北極と春分点の位置〕が算出でき、5000年前の黄帝時代や卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲・暗黒天体部などが自由自在に再現できる。
 下に、今から5000年前の黄帝と倉頡が生存した時代における中国の各地の天頂にめぐってきた図を示した。
 下図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に二つの目の形があり、後頭部にも見開く目の形の銀河部位があり、アゴにも細い切れ長の目の形の銀河部位があり、計四つの目」がある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」とすることにした。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であった。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」について「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定したが、【倉頡の漢字作成理論の中枢部】となる「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現して、「漢字が銀漢から作られた」と後世に伝えていたのである。
 下図における上部「十字の銀河の西半分」は「女性の乳房や子宮に相当する箇所」がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」は「銀漢各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「子宮に宿る胎児(の顔)、産道を通過する出産児(の顔)」に見立てられて[]の字源、あるいは「四つ目の怪人」から[]の字源、また「誕生するときのフタコブラクダ(の顔)」に見立てられて、あるいは「人(出産児)の顔」にも見立てられて[][]の字源となり、さらに【倉頡の漢字作成理論】を組織する様々な漢字の字源・字形・字義となった。
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 下の図に示すように、前述した〔出産児の「邪馬」、つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」〕(注 上図参照)は、「四つ目の銀河における後頭部とアゴにつく目の形」と隣接する西側に存在する(注 下図参照)
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 下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は[()]の字源である。
 下図における「邪馬の銀河(小泉門・矢状縫合・大泉門の銀河)」が示す「邪馬」に[]の字源銀河(十字の銀河)が加わって「邪馬壹()」という語が成立する。
 ゆえに、「邪馬壹()」という語は「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬける出産第一期・開口期(かいこうき)から、出産児の頭が膣口(ちつこう)を通りぬけて誕生するまでの出産第二期・娩出期(べんしゅつき)までの様子」をあらわしている。
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◆下に「邪馬壹()」という語源となる「出産第一期・開口期と出産第二期・娩出期における出産児の図」を配した。
 「邪馬壹」の[][(つぼ)]の中に[]が加わる字である。[]は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわし、[]は「骨盤入口から膣口までを4回、転回(回旋)して通りぬける出産児の『邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)』の頭蓋骨」をあらわす。
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 []における[]すなわち「出産児の転回」は4回となり、産婦人科では「産道における出産児の頭の転回」を「回旋(かいせん)」とよぶ。
 「出産第一期・開口期」は「分娩の始まりから子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて(全開大となって)、横長の骨盤入口に合わせて縦長の出産児の頭が横向きになって骨盤入口をくぐりぬけるまでの時期」をいう。この「出産第一期・開口期の終わりの横長の骨盤入口にあわせて縦長の出産児の頭がくぐりぬける時の時計回りの90度の転回」は「第1回旋」とよばれている。この「第1回旋」から「第2回旋」へ回る角度は90度であり、第2回旋は第1回旋の反対方向、つまり反時計回りとなる。第3回旋は第2回旋と同じく反時計回りの90度の転回となる。「第4回旋」、つまり「出産第二期・娩出期終わりの膣口から出産児の頭が誕生する時の第4回旋は、時計回りの90度の転回」となる。
 上記したように、開口期の終わりから娩出期終わりまでの出産児の頭の回旋は4回おこなわれ、「第1回旋と第4回旋」は「時計回りの90度の転回」、「第2回旋と第3回旋」は「反時計回りの90度の転回」となる。

 【出産児が生と死にわかれる命の山場(やまば)の重大局面】における「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 また、「反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「反時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
 下の図における上図に示すように、「十字の銀河」の中央に〔禾(稲や麦などの穀物)をあらわす図書(ずしょ)〕を重ね、「鬼の横顔に似る銀河における口」を「人の口」に見立てて、〔稲や麦などの穀物の実〕が「人が口に入れる食料」となるために、倉頡は【時計回りに禾の穂が南→西へ90度転回すると定める[]】の字を作った。
 よって、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をあらわした。[]の下に[]が加わる[()]と、人偏に[]の字が加わる[]は、倉頡が作った[]の「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 下の図における下図の[]の上部の[]は「人が言う食う器官の口(くち)」ではない。その[]の字音は「さい」であり、[(さい)]は「出産祝いや子授け祈願するときに、巫女(みこ)が用いる土器」である。つまり、[(さい)]は「骨盤入口と膣口における【口】」であるゆえ、[(さい)]は「骨盤入口から膣口までの産道をデザインする土器」であった。
 白川静著『字統』は[]の字形を「人が一手をあげる祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。下に配する下図における「口(さい)をかかげる、十字の銀河の右手(西側の手)」を、『字統』は「一手」と表現する。「一手(右側の手)の上の口(さい)」は「出産児の第2回旋と第3回旋の反時計回りの90度の転回、つまり北→西となる反時計回りの方位規定」をあらわす。[]の金文形における[(さい)]の下部の「人体」をあらわす図書は「産道を通過する出産児の様子を演じて身をくねらせて舞う巫女の姿」をデザインしている。
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◆倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」に対して学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定した。このように、全学者たちが否定・抹殺した倉頡伝説は、下記のごとくである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(三皇時代)の易に用いた記号の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代に生存した氏族の死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという。」
 三皇時代に生存した氏族たちの天に昇った霊魂は、倉頡の文字の発明によって自分たちの歴史が後世に伝えられることになったと感激して泣く、つまり天から恵(めぐみ)の雨の慈雨(じう)を降らせて禾(穀物)の豊作を地上にもたらした――と倉頡伝説は説明していた。そして、前述したように、「四つ目の怪人・倉頡」は「中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河」のことであった。
 だから倉頡伝説は事実を伝えるものであり、断じて荒唐無稽のデタラメではなかった。

 注目すべきは倉頡伝説が「倉頡が[]の字を作った」と伝えていることであり、上記したように[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」は、[]にも受け継がれた。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 だから、女王・卑弥呼は統治する国名を「倭人国」と定めたことになる。しかし、『魏志倭人伝』は倭人国における1番目に登場する「対馬国(つしまこく/現在の長崎県北部の対馬)と一大国(いちだいこく/現在の長崎県北部の壱岐)は南北であった」と記している。ゆえに、倭国の「対馬国と一大国の南北」は「現在の日本地図における、対馬と壱岐の南北」に合致して、[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていない。
 けれども、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国(まつろこく)までの方位」を記さない。ゆえに、「方位が記されない、一大国から末盧国の中間地」が分岐点になって――九州の「末盧国以下の本州におけるすべての方位」は、「倭人国」の[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る仕組みになっている。
 『魏志倭人伝』は「末盧国から東南へ陸行五百里、伊都国に到る」と記す。
 そうすると、[]の字源にもとづく「現在方位の東北」が「東南(時計回りの90度の転回方位が定める〔東南〕)」となる。つまり、伊都国の旅程基点は末盧国の旅程基点より東北へ陸行五百里離れて地所であったことになる。
 上記したように、『魏志倭人伝』における末盧国以下の方位は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則らなければならない。ゆえに、倭女王・卑弥呼が首都と定めた邪馬壱国は現在の日本地図にもとづいて九州の南の海上に所在せず、また九州にも所在せず、あるいは大和にも存在せず、上記したように「大和は邪馬国」であった。
 『魏志倭人伝』の末盧国以下本州における方位を、【倉頡が作った[]の字源】を受け継いだ[]の字源「時計回りの90度転回する方位」に変換すれば、女王国・邪馬壱国は山陰出雲であったことになる。というのも、前述したように「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆、倭種なり」という記事の「東」は現在方位だと「北」となるからである。邪馬壱国・出雲の松江市より真北となる日本海上には「皆、倭種なり」と表現された通りの多数の島々からなる隠岐群島が所在して合理となる。
 このように『魏志倭人伝』の末盧国以下の本州における方位は[]の字源にもとづけば1ヵ所も矛盾点がなく、すべて合理的に【倉頡の漢字作成理論】を説明している。
 『魏志倭人伝』は学者たちが主張する「邪馬台国を説明した文献」ではなかったのである。『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書」であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「一大国から海を渡ると末盧国に至る」と説明する。
 古代の人々が“字書の聖典”と尊重した100年頃に完成していたとされる『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
 ゆえに、下図に示すように、末盧国の東端(ただし、現在方位)の境は唐津湾に注ぐ松浦川と有明海に注ぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、松浦川と塩田川を境にすると、末盧国北部(現在方位)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、末盧国北部の地宜は前期縄文・中期縄文・後期縄文で作られた大型の深鉢(ふかばち)の形に相似するゆえ、深鉢の用途の一つは「飯器」であったにちがいない。
 末盧国南部の「西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く火炎のイメージ」となる。ということは「禾(穀物)の収穫が終了した時、また出産が終了した時」を[]とあらわし、「収穫と出産の終了を祝うために炊く飯器」を[]として――現在の「佐賀県西部と隣接する長崎県の地宜」を卑弥呼は「末盧国」と名づけたことになる。
 下図が示すように、「北」に在る地域は「東松浦」、「西」に在る地域は「北松浦」、「南」に在る地域は「西松浦」であるゆえ、「松浦」に関する方位名は矛盾して不合理となる。
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 前述したように、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった。
 ゆえに、[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定にもとづく末盧国の地宜」を下に配した。
 下図が示すように、[]の字源の「転回方位」にもとづくと「北松浦」は「北」、「西松浦」は「西」に、「東松浦」は「東」に在って、すべて合理となる。また、「西彼杵」は「西」に在り、「東彼杵」は「東」に在るゆえ、「彼杵(そのぎ)」に冠する方位名も合理となる。
 このように、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】をあらわす[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」は末盧国(佐賀県西部とその南隣の長崎県)において、約1750年後の現在においても消滅しないで残っている。
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 現在の佐賀県西部とその南隣の長崎県に現在も残っているように、【倉頡の漢字理論をあらわす基本字[]の字源をそのまま受け継ぐ[]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定」】に則って、『魏志倭人伝』の末盧国より以下の全方位記事は説明していたのである。
 『魏志倭人伝』は末盧国以下の全方位記事を[]の字源「転回方位」に統一して説明している。その証拠に、『魏志倭人伝』が「黒歯国の東南にある周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの倭の地」と説明する地域は、卑弥呼が統治した倭人国よりはるか遠くの地域、つまり【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教え広めた益氏が定住した秋田県である。このように「倭人国の範囲」ではない「秋田県」を、『魏志倭人伝』は「倭地」と記す。また「中国の会稽・東治の東に在るべし」という記事にあっても、[]の字源の「転回方位」にもとづいて説明している。
 上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国より東南(つまり、現在の東北)に陸を五百里行くと伊都国に到る」と説明する。次に、「伊都国から東南(つまり、現在の東北)の奴国(なこく)に至るには百里」と説明する。次に、「奴国より東(つまり、現在の北)に行くと、不弥国(ふみこく)に至るには百里」と説明する。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく「末盧国から不弥国までの旅程基点をあらわす図」を配した。この図が示す「[]の字源「転回方位」にもとづく各国の旅程基点の方位」は、『魏志倭人伝』の末盧国以下のすべての記事における方位と合致する。
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◆『魏志倭人伝』は「不弥国の南(つまり、現在の東)、投馬国(つまこく)に至る」と説明する。ゆえに、「不弥国、九州の旧国の筑前北部と豊前の宗像「むなかた)地方より東の、山口県(旧国の長門・周防)」が「投馬国」であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「投馬国から南(つまり、現在の東)は邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記述する。ゆえに、「山口県の東隣の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」が「邪馬壱国の範囲」であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が居住した宮殿は邪馬壱国の中央の「出雲」に所在したことになる。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜を示した。
 〔注 下図は新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。〕
 下図に示したように、「島根半島の北端(転回方位)の地宜」は「[]の字源・フタコブラクダの親の顔の形」に相似する。そして、「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「紙のようにペラペラした二つのコブがある、誕生したばかりの足を踏ん張って立ち上がろうとする馬・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。
 「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(ななめ)にして、[]の字源・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。したがって、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 「当時の宍道湖の地宜の南部(転回方位)」は「人の右足の形」に相似した。[]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、「十字の銀河の子宮の右隣(西側)」は「十字の銀河の右足(西側の足)、あるいは妊婦の腹部・乳房」に相似すると見立てられた。
 ゆえに、「十字の銀河の右足に見立てられた宍道湖より東隣(転回方位)の、現在の松江市北部(現在方位)」は、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
 だから、「卑弥呼が都とした邪馬壱国の中心部」は、下図の「山陰・出雲、現在の出雲市・松江市」であったことになる。
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 再度くりかえす、下図における「十字の銀河の子宮」は[]の字源銀河であった。「十字の銀河の子宮の西側の銀河部」は「妊婦の腹部、乳房」、そして「右足」に見立てられた。だから、「右足に相似すると見立てられた宍道湖の東(転回方位)」に隣接する「現在の松江市北部(現在方位)」は[]の字源をあらわした。
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 下図に示すように、宍道湖の南部(転回方位)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指差す方向に、意宇(おう)平野がある。
 []の字源地宜となる「松江市北部(現在方位)」の〔南〕(転回方位)から[]の字源「時計回りに90度転回する〔西〕(転回方位)の地所」は「意宇平野」となる。
 したがって、『魏志倭人伝』が「卑弥呼は女王になってからは彼女に会った人々は少なく、婢()千人を侍(はべ)らせ、唯々(ただ)一人の男子が卑弥呼の飲食を給仕し、女王の辞を伝えるために卑弥呼の居間に出入りしていた。卑弥呼が居住した宮殿は楼観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」と説明する宮殿は、意宇平野の一画に所在したと推定される。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記す。
 下に図示したように、『魏志倭人伝』が「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海」であったと記す。この「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
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 フタコブラクダは、瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
 下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を[]の字源「フタコブラクダ」と定めた。
 「長崎県の対馬の地宜」を、卑弥呼は瀚海・ゴビ沙漠に生息する【漢字作成理論を象徴する聖獣】の[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くに都合がよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底」あるいは「沙漠の砂に残る足跡」に見立てた。だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足底の一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬」とした。
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 卑弥呼は「対馬の地宜」を「馬・フタコブラクダの姿」に相似すると見立てたゆえ、出雲の「神門水海の地宜」を「馬・フタコブラクダの赤ちゃんの姿」に見立てた。そして、「対馬の下県の地宜」は「フタコブラクダの足」に相似し、「宍道湖の地宜」は「人の右足」に相似するゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダ」は「人」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダの赤ちゃん」を「人の赤ちゃん」に見立てて、「出雲市から松江市の地宜」を「邪馬」の「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」と、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する聖地と考えて、首都所在地の名を「邪馬壱国」と定めたことになる。

◆「現在の長崎県北部の壱岐」の小国名を、卑弥呼は「一大国」とした。
 『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。ゆえに、下図に示すように、『説文解字』は[]の字源は「天頂(天頂緯度線)、つまりそれ以上の上が無い・最も高い天体部となる緯度線」と解説していることになる。
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 下に示すように、[][]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)と金文形は「十字の銀河」から作られた。
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 下に示すように、「長崎県の壱岐の地宜」は[][]の字源「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てた。その証拠に、「壱岐」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。そして、「壱岐の地宜」は[]字形である。
 ゆえに、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。
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 下に示すように、現在方位にもとづく「一大国・壱岐の西端の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「フタコブラクダの地宜より東方の壱岐大半の地宜」は「南に顔を向ける[]の字源・ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
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 下に、[]の字源の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」を示した。
 「一大国・壱岐の地宜」は「大きなジャコウウシの全身と、ジャコウウシの背中越しに遠くにいて胴体や足の部分が見えないフタコブラクダの顔とコブに岐(わか)れる形」となる。
ゆえに、「一大国の地宜」は「ジャコウウシとフタコブラクダの形をした地宜(海岸線の形)に岐れる」ゆえ、[]の字を表示することになった。
 上記したように「一大国の地宜」は[]の字源の「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てられたゆえ、「一大国」は後に[][]を加えて「壱岐」とよばれることになった。
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◆前述したように、[]の字源の「ジャコウウシ」を倉頡は「胎児が宿る子宮を包囲して、胎児の命をまもる骨盤」に見立て、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 また、[]の字源の「フタコブラクダ」を「産道を通りぬける出産児」だけでなく、倉頡は「子宮に宿る胎児」にも見立てて、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 これゆえ、「一大国の地宜」に相似する「骨盤・ジャコウウシと子宮に宿る胎児・フタコブラクダ」もまた[][]の字をあらわす。ゆえに、「一大国」は後に「壱岐」とよばれることになったのである。
 地図で調べれば「なるほど」と納得できるように、「馬・フタコブラクダの姿」に相似す「対馬」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であるからして、[邪馬]ということになる。また、「一大国の地宜」は[]の字源を示す。ゆえに、「対馬国と一大国」もまた卑弥呼が首都とした女王国中心地の出雲の地宜と同じく「邪馬壱」をあらわす。
 だから、現存する12世紀の刊本『魏志倭人伝』が記しているように、女王国名は「邪馬壱国」であった。ということは、白石以来の女王国名は「邪馬台国であった」という定説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の1ヵ所の記事にも合致しない完全なる空理空論・空想・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海・ゴビ沙漠」であったと記述する。だから、[]の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であり、前述したように、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門と母体の産道」を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけたことになる。というのも、「産道を通りぬける小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ・口・下アゴの形」に瓜二つ・そっくりだからである。
 以上のごとく、【倉頡の漢字作成理論】は卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた「草をモグモグと食べるときの鼻・アゴ・口の形状に瓜二つの、産道を通過する出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の神秘的な光景」に感激して倉頡が発明した【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【基本字の[][]の字源】と【夏の銀河各部の形状】を合体して合理が成立するように考えて文字を作る方法であった。
 だから、卑弥呼は女王国名を「邪馬壱国」と定めて【倉頡が感動した、骨盤入口から膣口までの産道を通過して誕生する出産児の頭蓋骨の“生命の神秘の光景”】をあらわすようにしたため、「対馬国と一大国の中間の海の名」を「馬・フタコブラクダが生息する、瀚海」と名づける必要があったのである。
 以上のごとく、「邪馬台国」は『魏志倭人伝』とまったく無関係であった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。さらに、「邪馬台」の「邪馬」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」であって「大和」や「山門」とはまったく無関係であった。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する教科書であったのである。
 だから、邪馬台国説は「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有さないが致命的欠陥となる、100パーセントの誤読の産物、完全なる空理空論であったことになる。

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