家康くんと『魏志倭人伝』#4
◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬(つ)かる銀河」のことである。
下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝える。つまり、倉頡伝説は上記の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
この【倉頡が発明した漢字作成理論】は3世紀後半(280~289年)に著作された『魏志倭人伝』に具体的に記述されている。
倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字(かおんもじ)の学芸】を教えひろめた。この噂を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の知識にもとづいて【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。
◆倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字は文字を書いた資料が出土しないことになった。
上記した【2】の掟のために、「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。ゆえに、わたくしは下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は完全なる空理空論であった。
というのも、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、わが国が今から約4000年前(紀元前21世紀)に習得した【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムにおける銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存するからである。ゆえに、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字ということになる。
考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定した。この考古学による偏見によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界までもが断定した定説は、五帝時代の書契と夏音文字の字源・字形・字義は天上の銀漢に現在も存在するという現実と事実に反する空想・幻想であったことになる。
その証拠に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印(注)がつく文字を【あなたが目でしばらく見ている】という、この時間は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説が「真っ赤なウソ」である現実と事実を直(じか)に目撃している現場となるからである。
だから、その随所に〔音〕という注がつく多数の夏音文字を記す『古事記』上巻もまた『魏志倭人伝』と同様に【倉頡の漢字作成理論】を伝えていた重大な史料であったことになる。
◆わが国の古代中国研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(じとう/平凡社発行)は9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
下図に示すように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
上記した白川静著『字統』が「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この『古事記』上巻の随所の〔音〕という注がつく、紀元前21世紀頃の夏代初頭に習得した夏音文字は中国における最古の「上古音」よりも約1000年前も古い。
そして、学界が正しいと太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下の図の最下部に配置される。だから、学界が正しいと思い込む「わが国が最初に習得した楷書の漢字音」は「中国の上古音」よりもずいぶん新しいことになって、明確に「空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力とする邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにして歪曲(わいきょく)する。
このような横暴なご都合主義の論法は、新井白石から始まった。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657-1725年)は、1716年・晩年の60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説と日本神話説を提示した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を提唱した。
白石は「漢字は銀漢から作られた。わが国は紀元前21世紀に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という学問知識を有していなかった。
これが致命的欠陥となって、白石が提唱した(1)邪馬台国大和説と、(2)邪馬台国九州説と、(3)日本神話説は〔誤読の産物〕にして〔空想の産物〕であったのである。
その証拠に、下図に示すように、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と記して、「邪馬台国(やまたいこく)」と記していない。今から約300年前に新井白石が「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読して以来、女王国名は「邪馬台国」であったにちがいないと思い込まれている。
〔注 女王国名は「邪馬壱国」が正しく、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記されていないという指摘は、先年、古代史研究家の古田武彦氏が、その著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)で詳細な調査の基におこなっている。〕
◆『魏志倭人伝』に記された女王国名「邪馬壱国」における「邪馬壱」という語は、【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。言いかえると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える教科書(書物)であった。
だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなかった。
要するに、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、上記したように「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という知識を最初から有していなければならなかった。
その証拠に、最初から「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有していれば、『魏志倭人伝』には「倭には夏代初頭に【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸を習得した」と説明する二つの記事が存在することに気づいていた。
『魏志倭人伝』が「わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字を習得した】と伝えていた一つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味するものであった。ゆえに、「わが国は甲骨文字が出現した殷代後半期より約1700年前の夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」ことになる。
二つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にて「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の字源・字形・字義が銀漢各部のどの形状と合致するのかを一字一字ずつ捜して露わにして確認・点検)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明している。この記事もまた「わが国は夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」と指摘していた。
◆駿府の今川義元は駿府城と同緯度の三河の岡崎城主・松平広忠の長男・竹千代(後の徳川家康)を人質として求めた。というのも、義元は「漢字は銀河から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得していた」という学問知識を有していたからである。
義元は、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀における黄帝と黄帝の政治を補佐した倉頡、夏本紀における帝禹(う)の政治を補佐した益(えき)を注目し、竹千代に【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教育して、成長した竹千代を倉頡や益のごとく補佐役にして、いずれ上洛して天下を統一すると計画した。
6歳の竹千代は人質として駿府へ出発したが、途中、略奪されて織田信秀(信長の父)のもとへ送られた。
竹千代が8歳の時、今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)を総大将とする七〇〇〇騎の今川軍は安城(あんじょう)城を攻め、織田信広(信長の兄、2年後に没する)を捕らえて、竹千代と信広の人質交換を行った。義元が【倉頡の漢字理論と夏音文字】を政権基盤にして天下を統一する野望を実現するために、補佐役とする竹千代がどうしても必要とであった。ゆえに、義元の軍師・大原雪斎が総大将となって大がかりな七〇〇〇騎による竹千代の奪還作戦が決行されたのである。
軍師の大原雪斎は臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうじんじは)の高僧であり、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】に精通していた。というのも、枯山水(かれさんすい)の庭園として世界的に有名な石庭がある龍安寺(りょうあんじ)は臨済宗妙心寺派の寺であり、臨済宗の妙心寺の基礎教養は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】であったからである。
その証拠に、京都市右京区に所在する龍安寺の石庭の5群、大小の15個の石と白砂の平庭は漢字が作られた銀漢(夏の銀河)をデザインする作品である。
また、「龍安寺の石庭案内パンフレット」には「禅とは……」と題して「神(仏)のない宗教である」、「老子の教え『吾れ唯だ足ることを知る』宗教である」、「『死に切る』即ち『断命根』の宗教である」と説明している。紀元前5、4世紀ごろに生存した中国の老子は中国で廃(すた)れて衰退していた【倉頡が発明した漢字作成理論の復興】を願って、自らの思想を「知足(つまり、漢字が銀漢から作られた学問)」、あるいは「吾れ唯だ足ることを知る(銀漢を観察して真理を追究する学問にもとづいて自己を深く掘り下げる修養こそがもっとも尊い)」と表現した。ゆえに、老子は中国王朝が独占管理して厳重に機密にした【倉頡の漢字作成理論】を暴露する、即刻に死刑と定められた大罪人と見なされたゆえ日々住所を変える逃亡者であった。わが国においても【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は朝廷の政権基盤にして存続基盤であったため、老子のごとく【倉頡の作成理論と夏音文字の研究】を公表する者は朝廷を崩壊させて天下を奪おうとする死刑に処すべき大罪を犯すものと見なされた。ゆえに、臨済宗妙心寺派の僧侶たちは死刑になるのを畏れて用心して慎重に「漢字は銀漢から作られた学芸」を常に秘めやかに難解に表現するように心がけていたものの、もしも「漢字が銀漢から作られた」という機密を容易にわかるように暴露したと朝廷に見なされた時には「死刑」に処せられる覚悟が必要であったため、「死に切る(つまり、常に死んでいると思い込む)」、即ち「断命根の(つまり、命を断たれるを覚悟する根性が必要となる)宗教」ということになったのである。
竹千代は雪斎から【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学び、天下統一の野望を抱く今川義元の補佐役になるための心得を徹底的に教育された。
竹千代は14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に、教育係の雪斎が没した。この後、1558年、17歳の時に元康(もとやす)と改名した。
その2年後、19歳になった元康に先鋒を命じた義元は、二万五〇〇〇の大軍を率いて上洛の途についた。しかし、わずか二〇〇〇の織田信長の軍が桶狭間(おけはざま)で休憩をとる今川軍を急襲して義元の首を取った。松平軍は故郷岡崎城にめざして逃げた。元康は岡崎城に近い大樹寺で自害しようとしたが、その現場を住職の登誉上人(とうよしょうにん)に発見され、上人に説得されて思いとどまった。
上記のごとく、徳川家康(1542-1616)は大原雪斎に「漢字は銀漢から作られた。中国の夏代初頭、わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した」と教育された。だから、徳川家康にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を説明する教科書】であった。このため、新井白石(1657-1725)以後の学者たちの邪馬台国大和説と邪馬台国九州説とまったく異なり、家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も〔批判(誤読)〕を加えない方法をもって「卑弥呼は邪馬壱国に居住した。邪馬壱国は山陰出雲であった」と解釈した。
◆わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」で指摘したように、徳川家康は下に示す「江江戸城(皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路(濠)」を設計して、「邪馬壱国は山陰出雲であった」と表現した。
下図は、笹山晴生(他6名)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)の77ページにある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路(濠)の図〕から転載した。
わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作して『字統』(平凡社発行)は[云(うん)]の字について「雲の形で、その古文。雲気のたなびく下に、竜が尾を巻いて姿がみえる形、のち雨を加えて雲となった」と解説し、[雲]の字について「云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった」と解説する。
ゆえに、家康は「[云]と[雲]の古文形」に合致するように、「時計回りに90度転回して、つまり北→東となるように、江戸城から発する渦巻文の水路」を設計したことになる。
下図の「江戸の渦巻文の水路」は「隅田川に出(いず)る」。だから、「隅田川に出る江戸の水路」で、家康は「出る」の[出]に「[雲]の古文形となる水路」で「出雲」と表現した。したがって、家康は「江戸の水路」で【卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた】と表示していたことになる。
◆前述したように、『魏志倭人伝』は白石以来の定説「邪馬台国について説明した文献史料」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】について説明していた書物であったのである。
言いかえると、『魏志倭人伝』に記された倭国の34の小国に用いられる漢字をもって【倉頡の漢字作成理論体系】を説明していた。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と説明していたことになる。
だから、下図に示すように――卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】をあらわすプロローグとして、「対馬国と一大国(現在の長崎県壱岐)における南北」は現在の日本列島地理と同じであると定めた。しかし、「倭人国」という国名に用いる[倭]の字源にもとづいて「九州の末盧国(まつろこく)以下の本州地理の方位規定は、対馬国・一大国の南北軸に対して時計回りに90度転回して「北(日本海)が東となるように、つまり出雲の北の日本海に浮かぶ隠岐群島は出雲の東となる」と、卑弥呼は制定した――と、『魏志倭人伝』と説明していた。
『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)、倭種なり」という記事がある。
上図の「転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図」に示したように、女王国(邪馬壱国)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。隠岐群島は「出雲・島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北(現在方位)にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」と表現されることになる。また、家康が「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表現した「江戸城から発する渦巻の水路を、時計回りに90度転回して〔北〕を〔東〕と定めるに転回方位」にもとづくと、上図に示したように「隠岐群島」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」と説明された小国となって合理となる。
邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」という文に合致する小国は存在しない。
◆倉頡は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に正存した黄帝(こうてい)につかえる史官(記録官)であった。黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器官】を研究した。この【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究】をあらわすことができる文字を発明する――これが、倉頡が漢字を発明する動機であり、作成目的であった。
出産児は5枚に分れた頭蓋骨を重ねあわせてせまい堅い骨産道(こつさんどう/骨盤産道)をくぐりぬけて軟産道(なんさんどう)つまり膣(ちつ)を通りぬけて、膣口(ちつこう)から頭が誕生した赤ん坊の顔は母体の臀部(でんぶ)のほうに向く姿勢となる。骨盤入口をくぐりぬける時の出産児の頭は膣口から見えるゆえ、黄金色の羊水に濡れる出産児の5枚の頭蓋骨が重なりあって産道を4回も転回してくぐり抜けて誕生する、その様子はまさに“生命の神秘”をあらわして、言葉で表現できないほどに驚異的な感動的なドラマである。
倉頡は【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて膣口から頭が誕生するまでの神秘的な光景】にすっかり心うばわれて漢字を発明した。
下図に示すように、骨産道と軟産道を通りぬける出産児の頭蓋骨は5枚(後頭骨、2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨)に分れる。この5枚の頭蓋骨はV字形の「小泉門(しょうせんもん)」、「矢状縫合(やじょうほうごう)」、菱形の「大泉門(だいせんもん)」と産婦人科で名づけられた結合組織性の膜(まく)によって重ねあわせることができる仕組みになっている。この「仕組み」を、産婦人科であは「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
赤ん坊は「小泉門・矢状縫合・大泉門」による頭蓋骨が重ね合わさる「骨重積」の仕組みによって、せまくて堅い骨産道をくぐりぬけ、さらに軟産道を通り抜けて膣口から頭が誕生することができる。下図の左側に示すように「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけた。
◆『魏志倭人伝』には「倭には牛と馬が無い(牛と馬は生息していない)」という記事がある。
[牛]の字源は「黄帝が居住した本拠地付近にて生息したジャコウウシ」であった。
[馬]の字源は「フタコブラクダ」であった。
牛・ジャコウウシの群れは、天敵のオオカミに襲われると、子どもを円陣の真ん中に隠し、背中を円陣の中心に向けて防衛する習性がある。この「円陣」を、倉頡は「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に、また「円陣の真ん中に隠す子ジャコウウシの子ども」は「子宮で育つ胎児」に見立てた。ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
司馬遷著『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、学者たちは「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と訳す。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシの習性に学んで円陣を組んで駐屯していたことになる。
上記したように、[馬]の字源は「フタコブラクダ」であった。
下図は「草をモグモグと食べるときの、フタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ(溝)・口・下アゴの図」である。
上図における「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる」ゆえ、「骨盤入口をくぐりぬけて膣口にて達するまでの出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、そっくりである。つまり、「〔フタコブラクダの鼻〕は〔小泉門〕、〔フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾ〕は〔矢状縫合〕、〔フタコブラクダの口〕は〔大泉門〕に相当し、各パーツの仕切りが邪(なな)めになって重ね合わさる様子」は「出産児の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、ソックリである。
だから、倉頡は「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に酷似(こくじ)する「フタコブラクダの顔(鼻・アゴ・口)の表情」を注目して[馬]の字源を「フタコブラクダ」と定めた。よって、「フタコブラクダ」は「子宮に宿る胎児、産道を通過する出産児」などに見立てられて、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
「産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門と5枚の頭蓋骨の形状」と瓜二つ、そっくりの「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる様子」にもとづいて――卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」を「邪め」の[邪]に[馬]を加えて「邪馬」と名づけた。
『魏志倭人伝』において倭国における1番目に登場する小国名を「対馬国」と記す。24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」である。この「邪馬国」は「現在の奈良県、旧国の大和」であった。
下図に示すように、「家康が設計した江戸の渦巻の水路の、時計回りに90度転回して北→東とする方位規定」にもとづくと、「奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)における鼻・ミゾ・口の部分」は「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの鼻・ミゾ・口の形状」と瓜二つゆえ、「邪馬」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と名づけた。したがって、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。
だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した地所の名」を「邪馬壱国」と記す。だから、「邪馬台国」は学者たちがデッチあげたウソ・戯言(たわごと)であったことになる。
◆「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると、〔過去と未来の天の北極と春分点の位置〕が算出でき、5000年前の黄帝時代や卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲・暗黒天体部などが自由自在に再現できる。
下に、今から5000年前の黄帝と倉頡が生存した時代における中国の各地の天頂にめぐってきた図を示した。
下図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に二つの目の形があり、後頭部にも見開く目の形の銀河部位があり、アゴにも細い切れ長の目の形の銀河部位があり、計四つの目」がある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」とすることにした。
倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であった。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」について「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定したが、【倉頡の漢字作成理論の中枢部】となる「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現して、「漢字が銀漢から作られた」と後世に伝えていたのである。
下図における上部「十字の銀河の西半分」は「女性の乳房や子宮に相当する箇所」がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」は「銀漢各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「子宮に宿る胎児(の顔)、産道を通過する出産児(の顔)」に見立てられて[子]の字源、あるいは「四つ目の怪人」から[人]の字源、また「誕生するときのフタコブラクダ(の顔)」に見立てられて、あるいは「人(出産児)の顔」にも見立てられて[顔]と[彦]の字源となり、さらに【倉頡の漢字作成理論】を組織する様々な漢字の字源・字形・字義となった。
下の図に示すように、前述した〔出産児の「邪馬」、つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」〕(注 上図参照)は、「四つ目の銀河における後頭部とアゴにつく目の形」と隣接する西側に存在する(注 下図参照)。
下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は[壹(壱)]の字源である。
下図における「邪馬の銀河(小泉門・矢状縫合・大泉門の銀河)」が示す「邪馬」に[壹]の字源銀河(十字の銀河)が加わって「邪馬壹(壱)」という語が成立する。
ゆえに、「邪馬壹(壱)」という語は「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬける出産第一期・開口期(かいこうき)から、出産児の頭が膣口(ちつこう)を通りぬけて誕生するまでの出産第二期・娩出期(べんしゅつき)までの様子」をあらわしている。
◆下に「邪馬壹(壱)」という語源となる「出産第一期・開口期と出産第二期・娩出期における出産児の図」を配した。
「邪馬壹」の[壹]は[壺(つぼ)]の中に[豆]が加わる字である。[壺]は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわし、[豆]は「骨盤入口から膣口までを4回、転回(回旋)して通りぬける出産児の『邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)』の頭蓋骨」をあらわす。
[壹]における[豆]すなわち「出産児の転回」は4回となり、産婦人科では「産道における出産児の頭の転回」を「回旋(かいせん)」とよぶ。
「出産第一期・開口期」は「分娩の始まりから子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて(全開大となって)、横長の骨盤入口に合わせて縦長の出産児の頭が横向きになって骨盤入口をくぐりぬけるまでの時期」をいう。この「出産第一期・開口期の終わりの横長の骨盤入口にあわせて縦長の出産児の頭がくぐりぬける時の時計回りの90度の転回」は「第1回旋」とよばれている。この「第1回旋」から「第2回旋」へ回る角度は90度であり、第2回旋は第1回旋の反対方向、つまり反時計回りとなる。第3回旋は第2回旋と同じく反時計回りの90度の転回となる。「第4回旋」、つまり「出産第二期・娩出期終わりの膣口から出産児の頭が誕生する時の第4回旋は、時計回りの90度の転回」となる。
上記したように、開口期の終わりから娩出期終わりまでの出産児の頭の回旋は4回おこなわれ、「第1回旋と第4回旋」は「時計回りの90度の転回」、「第2回旋と第3回旋」は「反時計回りの90度の転回」となる。
【出産児が生と死にわかれる命の山場(やまば)の重大局面】における「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[禾(か)]の字を作った。ゆえに、[禾]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
また、「反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[呉(ご)]の字を作った。ゆえに、[呉]の字源・字形・字義は「反時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
下の図における上図に示すように、「十字の銀河」の中央に〔禾(稲や麦などの穀物)をあらわす図書(ずしょ)〕を重ね、「鬼の横顔に似る銀河における口」を「人の口」に見立てて、〔稲や麦などの穀物の実〕が「人が口に入れる食料」となるために、倉頡は【時計回りに禾の穂が南→西へ90度転回すると定める[禾]】の字を作った。
よって、[禾]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をあらわした。[禾]の下に[女]が加わる[委(い)]と、人偏に[委]の字が加わる[倭]は、倉頡が作った[禾]の「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をそのまま受け継いだ。
下の図における下図の[呉]の上部の[口]は「人が言う食う器官の口(くち)」ではない。その[口]の字音は「さい」であり、[口(さい)]は「出産祝いや子授け祈願するときに、巫女(みこ)が用いる土器」である。つまり、[口(さい)]は「骨盤入口と膣口における【口】」であるゆえ、[口(さい)]は「骨盤入口から膣口までの産道をデザインする土器」であった。
白川静著『字統』は[呉]の字形を「人が一手をあげる祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。下に配する下図における「口(さい)をかかげる、十字の銀河の右手(西側の手)」を、『字統』は「一手」と表現する。「一手(右側の手)の上の口(さい)」は「出産児の第2回旋と第3回旋の反時計回りの90度の転回、つまり北→西となる反時計回りの方位規定」をあらわす。[呉]の金文形における[口(さい)]の下部の「人体」をあらわす図書は「産道を通過する出産児の様子を演じて身をくねらせて舞う巫女の姿」をデザインしている。
◆倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」に対して学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定した。このように、全学者たちが否定・抹殺した倉頡伝説は、下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(三皇時代)の易に用いた記号の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代に生存した氏族の死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという。」
三皇時代に生存した氏族たちの天に昇った霊魂は、倉頡の文字の発明によって自分たちの歴史が後世に伝えられることになったと感激して泣く、つまり天から恵(めぐみ)の雨の慈雨(じう)を降らせて禾(穀物)の豊作を地上にもたらした――と倉頡伝説は説明していた。そして、前述したように、「四つ目の怪人・倉頡」は「中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河」のことであった。
だから倉頡伝説は事実を伝えるものであり、断じて荒唐無稽のデタラメではなかった。
注目すべきは倉頡伝説が「倉頡が[禾]の字を作った」と伝えていることであり、上記したように[禾]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」は、[倭]にも受け継がれた。
『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
だから、女王・卑弥呼は統治する国名を「倭人国」と定めたことになる。しかし、『魏志倭人伝』は倭人国における1番目に登場する「対馬国(つしまこく/現在の長崎県北部の対馬)と一大国(いちだいこく/現在の長崎県北部の壱岐)は南北であった」と記している。ゆえに、倭国の「対馬国と一大国の南北」は「現在の日本地図における、対馬と壱岐の南北」に合致して、[禾][倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていない。
けれども、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国(まつろこく)までの方位」を記さない。ゆえに、「方位が記されない、一大国から末盧国の中間地」が分岐点になって――九州の「末盧国以下の本州におけるすべての方位」は、「倭人国」の[倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る仕組みになっている。
『魏志倭人伝』は「末盧国から東南へ陸行五百里、伊都国に到る」と記す。
そうすると、[倭]の字源にもとづく「現在方位の東北」が「東南(時計回りの90度の転回方位が定める〔東南〕)」となる。つまり、伊都国の旅程基点は末盧国の旅程基点より東北へ陸行五百里離れて地所であったことになる。
上記したように、『魏志倭人伝』における末盧国以下の方位は[倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則らなければならない。ゆえに、倭女王・卑弥呼が首都と定めた邪馬壱国は現在の日本地図にもとづいて九州の南の海上に所在せず、また九州にも所在せず、あるいは大和にも存在せず、上記したように「大和は邪馬国」であった。
『魏志倭人伝』の末盧国以下本州における方位を、【倉頡が作った[禾]の字源】を受け継いだ[倭]の字源「時計回りの90度転回する方位」に変換すれば、女王国・邪馬壱国は山陰出雲であったことになる。というのも、前述したように「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り、皆、倭種なり」という記事の「東」は現在方位だと「北」となるからである。邪馬壱国・出雲の松江市より真北となる日本海上には「皆、倭種なり」と表現された通りの多数の島々からなる隠岐群島が所在して合理となる。
このように『魏志倭人伝』の末盧国以下の本州における方位は[倭]の字源にもとづけば1ヵ所も矛盾点がなく、すべて合理的に【倉頡の漢字作成理論】を説明している。
『魏志倭人伝』は学者たちが主張する「邪馬台国を説明した文献」ではなかったのである。『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書」であったのである。
◆『魏志倭人伝』は「一大国から海を渡ると末盧国に至る」と説明する。
古代の人々が“字書の聖典”と尊重した100年頃に完成していたとされる『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[盧]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
ゆえに、下図に示すように、末盧国の東端(ただし、現在方位)の境は唐津湾に注ぐ松浦川と有明海に注ぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、松浦川と塩田川を境にすると、末盧国北部(現在方位)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、末盧国北部の地宜は前期縄文・中期縄文・後期縄文で作られた大型の深鉢(ふかばち)の形に相似するゆえ、深鉢の用途の一つは「飯器」であったにちがいない。
末盧国南部の「西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く火炎のイメージ」となる。ということは「禾(穀物)の収穫が終了した時、また出産が終了した時」を[末]とあらわし、「収穫と出産の終了を祝うために炊く飯器」を[盧]として――現在の「佐賀県西部と隣接する長崎県の地宜」を卑弥呼は「末盧国」と名づけたことになる。
下図が示すように、「北」に在る地域は「東松浦」、「西」に在る地域は「北松浦」、「南」に在る地域は「西松浦」であるゆえ、「松浦」に関する方位名は矛盾して不合理となる。
前述したように、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった。
ゆえに、[倭]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定にもとづく末盧国の地宜」を下に配した。
下図が示すように、[倭]の字源の「転回方位」にもとづくと「北松浦」は「北」、「西松浦」は「西」に、「東松浦」は「東」に在って、すべて合理となる。また、「西彼杵」は「西」に在り、「東彼杵」は「東」に在るゆえ、「彼杵(そのぎ)」に冠する方位名も合理となる。
このように、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】をあらわす[禾][倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」は末盧国(佐賀県西部とその南隣の長崎県)において、約1750年後の現在においても消滅しないで残っている。
現在の佐賀県西部とその南隣の長崎県に現在も残っているように、【倉頡の漢字理論をあらわす基本字[禾]の字源をそのまま受け継ぐ[倭]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定」】に則って、『魏志倭人伝』の末盧国より以下の全方位記事は説明していたのである。
『魏志倭人伝』は末盧国以下の全方位記事を[倭]の字源「転回方位」に統一して説明している。その証拠に、『魏志倭人伝』が「黒歯国の東南にある周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの倭の地」と説明する地域は、卑弥呼が統治した倭人国よりはるか遠くの地域、つまり【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教え広めた益氏が定住した秋田県である。このように「倭人国の範囲」ではない「秋田県」を、『魏志倭人伝』は「倭地」と記す。また「中国の会稽・東治の東に在るべし」という記事にあっても、[倭]の字源の「転回方位」にもとづいて説明している。
上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国より東南(つまり、現在の東北)に陸を五百里行くと伊都国に到る」と説明する。次に、「伊都国から東南(つまり、現在の東北)の奴国(なこく)に至るには百里」と説明する。次に、「奴国より東(つまり、現在の北)に行くと、不弥国(ふみこく)に至るには百里」と説明する。
下に、[倭]の字源「転回方位」にもとづく「末盧国から不弥国までの旅程基点をあらわす図」を配した。この図が示す「[倭]の字源「転回方位」にもとづく各国の旅程基点の方位」は、『魏志倭人伝』の末盧国以下のすべての記事における方位と合致する。
◆『魏志倭人伝』は「不弥国の南(つまり、現在の東)、投馬国(つまこく)に至る」と説明する。ゆえに、「不弥国、九州の旧国の筑前北部と豊前の宗像「むなかた)地方より東の、山口県(旧国の長門・周防)」が「投馬国」であったことになる。
『魏志倭人伝』は「投馬国から南(つまり、現在の東)は邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記述する。ゆえに、「山口県の東隣の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」が「邪馬壱国の範囲」であったことになる。
ゆえに、卑弥呼が居住した宮殿は邪馬壱国の中央の「出雲」に所在したことになる。
下に、[倭]の字源「転回方位」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜を示した。
〔注 下図は新人物往来社『歴史読本』第52巻4号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。〕
下図に示したように、「島根半島の北端(転回方位)の地宜」は「[馬]の字源・フタコブラクダの親の顔の形」に相似する。そして、「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「紙のようにペラペラした二つのコブがある、誕生したばかりの足を踏ん張って立ち上がろうとする馬・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。
「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(ななめ)にして、[馬]の字源・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。したがって、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
「当時の宍道湖の地宜の南部(転回方位)」は「人の右足の形」に相似した。[壱]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、「十字の銀河の子宮の右隣(西側)」は「十字の銀河の右足(西側の足)、あるいは妊婦の腹部・乳房」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「十字の銀河の右足に見立てられた宍道湖より東隣(転回方位)の、現在の松江市北部(現在方位)」は、[壱]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
だから、「卑弥呼が都とした邪馬壱国の中心部」は、下図の「山陰・出雲、現在の出雲市・松江市」であったことになる。
再度くりかえす、下図における「十字の銀河の子宮」は[壱]の字源銀河であった。「十字の銀河の子宮の西側の銀河部」は「妊婦の腹部、乳房」、そして「右足」に見立てられた。だから、「右足に相似すると見立てられた宍道湖の東(転回方位)」に隣接する「現在の松江市北部(現在方位)」は[壱]の字源をあらわした。
下図に示すように、宍道湖の南部(転回方位)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指差す方向に、意宇(おう)平野がある。
[壱]の字源地宜となる「松江市北部(現在方位)」の〔南〕(転回方位)から[倭]の字源「時計回りに90度転回する〔西〕(転回方位)の地所」は「意宇平野」となる。
したがって、『魏志倭人伝』が「卑弥呼は女王になってからは彼女に会った人々は少なく、婢(ひ)千人を侍(はべ)らせ、唯々(ただ)一人の男子が卑弥呼の飲食を給仕し、女王の辞を伝えるために卑弥呼の居間に出入りしていた。卑弥呼が居住した宮殿は楼観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」と説明する宮殿は、意宇平野の一画に所在したと推定される。
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰(い)う。一大国に至る」と記す。
下に図示したように、『魏志倭人伝』が「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海」であったと記す。この「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
フタコブラクダは、瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を[馬]の字源「フタコブラクダ」と定めた。
「長崎県の対馬の地宜」を、卑弥呼は瀚海・ゴビ沙漠に生息する【漢字作成理論を象徴する聖獣】の[馬]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くに都合がよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底」あるいは「沙漠の砂に残る足跡」に見立てた。だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足底の一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[対]に[馬]が加わる「対馬」とした。
卑弥呼は「対馬の地宜」を「馬・フタコブラクダの姿」に相似すると見立てたゆえ、出雲の「神門水海の地宜」を「馬・フタコブラクダの赤ちゃんの姿」に見立てた。そして、「対馬の下県の地宜」は「フタコブラクダの足」に相似し、「宍道湖の地宜」は「人の右足」に相似するゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダ」は「人」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダの赤ちゃん」を「人の赤ちゃん」に見立てて、「出雲市から松江市の地宜」を「邪馬」の「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」と、[壱]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する聖地と考えて、首都所在地の名を「邪馬壱国」と定めたことになる。
◆「現在の長崎県北部の壱岐」の小国名を、卑弥呼は「一大国」とした。
『説文解字』は[天]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。ゆえに、下図に示すように、『説文解字』は[天]の字源は「天頂(天頂緯度線)、つまりそれ以上の上が無い・最も高い天体部となる緯度線」と解説していることになる。
下に示すように、[天]と[大]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)と金文形は「十字の銀河」から作られた。
下に示すように、「長崎県の壱岐の地宜」は[一]・[壱]の字源「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てた。その証拠に、「壱岐」の[壱]の字源は「十字の銀河の子宮」である。そして、「壱岐の地宜」は[大]字形である。
ゆえに、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。
下に示すように、現在方位にもとづく「一大国・壱岐の西端の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「フタコブラクダの地宜より東方の壱岐大半の地宜」は「南に顔を向ける[牛]の字源・ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
下に、[倭]の字源の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」を示した。
「一大国・壱岐の地宜」は「大きなジャコウウシの全身と、ジャコウウシの背中越しに遠くにいて胴体や足の部分が見えないフタコブラクダの顔とコブに岐(わか)れる形」となる。
ゆえに、「一大国の地宜」は「ジャコウウシとフタコブラクダの形をした地宜(海岸線の形)に岐れる」ゆえ、[岐]の字を表示することになった。
上記したように「一大国の地宜」は[壱]の字源の「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てられたゆえ、「一大国」は後に[壱]に[岐]を加えて「壱岐」とよばれることになった。
◆前述したように、[牛]の字源の「ジャコウウシ」を倉頡は「胎児が宿る子宮を包囲して、胎児の命をまもる骨盤」に見立て、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
また、[馬]の字源の「フタコブラクダ」を「産道を通りぬける出産児」だけでなく、倉頡は「子宮に宿る胎児」にも見立てて、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
これゆえ、「一大国の地宜」に相似する「骨盤・ジャコウウシと子宮に宿る胎児・フタコブラクダ」もまた[壱]と[岐]の字をあらわす。ゆえに、「一大国」は後に「壱岐」とよばれることになったのである。
地図で調べれば「なるほど」と納得できるように、「馬・フタコブラクダの姿」に相似す「対馬」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であるからして、[邪馬]ということになる。また、「一大国の地宜」は[壱]の字源を示す。ゆえに、「対馬国と一大国」もまた卑弥呼が首都とした女王国中心地の出雲の地宜と同じく「邪馬壱」をあらわす。
だから、現存する12世紀の刊本『魏志倭人伝』が記しているように、女王国名は「邪馬壱国」であった。ということは、白石以来の女王国名は「邪馬台国であった」という定説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の1ヵ所の記事にも合致しない完全なる空理空論・空想・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
その証拠に、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海・ゴビ沙漠」であったと記述する。だから、[馬]の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であり、前述したように、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門と母体の産道」を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけたことになる。というのも、「産道を通りぬける小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ・口・下アゴの形」に瓜二つ・そっくりだからである。
以上のごとく、【倉頡の漢字作成理論】は卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた「草をモグモグと食べるときの鼻・アゴ・口の形状に瓜二つの、産道を通過する出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の神秘的な光景」に感激して倉頡が発明した【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【基本字の[禾]と[呉]の字源】と【夏の銀河各部の形状】を合体して合理が成立するように考えて文字を作る方法であった。
だから、卑弥呼は女王国名を「邪馬壱国」と定めて【倉頡が感動した、骨盤入口から膣口までの産道を通過して誕生する出産児の頭蓋骨の“生命の神秘の光景”】をあらわすようにしたため、「対馬国と一大国の中間の海の名」を「馬・フタコブラクダが生息する、瀚海」と名づける必要があったのである。
以上のごとく、「邪馬台国」は『魏志倭人伝』とまったく無関係であった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。さらに、「邪馬台」の「邪馬」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」であって「大和」や「山門」とはまったく無関係であった。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する教科書であったのである。
だから、邪馬台国説は「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有さないが致命的欠陥となる、100パーセントの誤読の産物、完全なる空理空論であったことになる。
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