G-T0XYQT12LL 家康くんと『魏志倭人伝』#6: 卑弥呼の逆襲

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2022年11月13日 (日)

家康くんと『魏志倭人伝』#6

◆邪馬台国説は真っ赤なウソだ 絶対に信じてはならない アホみるから 信じるな
 邪馬台国説は正しい、誤っていないとウソをまき散らし・デマを流す学者たちはじめ NHKテレビと朝日新聞社は日本国家の土台と日本をぶっ壊す 最悪の日本のガンだ
 このままでは、日本は壊れてしまう 日本文化の学問の土台と 日本の伝統と歴史 日本の発展と前進力が 無責任な邪馬台国説学者たちや NHKテレビ・朝日新聞社のために衰弱して滅びる 
 邪馬台国説を正しいと思いこむ学者たち・NHKテレビ・朝日新聞社は単なるアホだ トンマで 大ウソつきだ
 邪馬台国説は完全なる空理空論 真っ赤なウソ 100パーセントのデタラメである事実がいとも簡単に容易に科学的に証明できる方法がある
 小学5年生でも 邪馬台国説が空理空論 真っ赤なうそ・デタラメである事実が簡単に わかる方法がある
 だから 邪馬台国説学者たち 邪馬台国が正しいとデマを流す無責任なNHKテレビと朝日新聞社は 小学5年生もわかるウソを見抜けないアホで トンマで ウソつきなんだ
 これから このブログは 小学5年生レベルで 邪馬台国説が空理空論 間違いなしのウソ・デタラメであると断定できる 【科学】が成立する方法を説明する

◆3世紀後半(280289)、中国の晋(しん)王朝につかえた著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は魏書・蜀書・呉書からなる『三国志』を著作した。この『三国志』魏書・東夷伝(とういでん)末部にある倭人伝を、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよぶ。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)として残っている。
 南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は、倭女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた地所(女王国)の名を「邪馬壹()(やまいこく)」として記す。ゆえに、学者たちやNHKテレビや朝日新聞が主張するごよく、「邪馬臺()国」と記していない。
 学者たちは3世紀後半に著作された原初が残っていないから、多分、学者たちは――12世紀の刊本は「邪馬臺()国」と記すべきところを「邪馬壹()国」と誤記した――と思っているのであろう。でも、本音(ほんね)は「邪馬臺()・やまたい」が「大和・やまと」や「山門・やまと」の音に近いから、卑弥呼が住んだ女王国名は「邪馬台国だった」と思い込んでいるにちがいない。
 古代史研究家の古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作した。『「邪馬台国」はなかった』にて、古田氏は『三国志』全体に記される[]()86個、[]()
56
字個一つ一つテイネイに調べ、[]()[]()のあいだには誤記の事例がないと指摘した。
 そして古田氏の指摘に合致して、約2000字構成される『魏志倭人伝』の全記事によって――卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壹()国であった」と証明できる。この「邪馬壹()国が正しい。邪馬臺()国は空理空論である」という事実を知るためには、このブログのテーマ「小学5年生レベルの科学」が第一歩となる。
 上記したように、小学5年生レベルの科学知識によって邪馬台国説は空理空論、真っ赤なウソ、デタラメであるという事実が明白になると、この延長線上に卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壹()国」が正しいことが証明される。
 NHKテレビ・朝日新聞社が「事実であるにちがいない」と無責任なデマを流す邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本列島地図を立論基盤にする――この論法は、小学5年生のレベルで即刻(そっこく)空理空論・即デッチアゲだと断定できる。こんな簡単明白な小学5年生でもわかるウソをNHKテレビ・朝日新聞社が見抜けないというテイタラクはとてもじゃないがジャーナリズムと呼べない、明確にジャーナリスト失格であると言わざるをえない。

◆邪馬台国説をとなえる学者たちは――【天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて、日本列島における九州以下の本州地図における方位を論ずる。しかし、この考え方は即刻に空理空論ということになる。というのも、邪馬台国説学者たちが主張するように現在の日本列島地図と同じ方位規定では、中国()や帯方郡が所在す朝鮮半島と日本列島と遠く隔たる大海を、倭国の使者たちが往来できなくなるからである。
 倭国の使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できなかったことになると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。したがって、中国は倭国の様子をまったく知らないことになるゆえ――『魏志倭人伝』には卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)の倭国の様子がまったく記述されていない、つまり『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになる。この結果、邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 要するに、中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔たる大海を倭の使節が往来して卑弥呼が書いた文書や使者たちの言によって倭国の様子を魏に伝えることができたゆえに『魏志倭人伝』が著作されたという事実が成立するためには――現在の日本列島地図における方位規定は通用しない。
 卑弥呼王朝は現在の日本列島地図の方位規定と異なり、【倭の死使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できる方位規定】で九州以下の本州における方位規定を定めていた。言いかえると、卑弥呼王朝は「倭国」の[]の字源にもとづいて九州以下の本州における方位規定を制定していた。
 つまり、国名「倭国」の[]の字源は「時計回りに90度に転回する方位規定」であった。このため、卑弥呼王朝は九州以下の本州における方位を現在の日本列島の地図における〔北〕を[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して〔東〕となる、また現在の日本列島地図の〔東〕は〔南〕となる、現在の日本列島地図の〔南〕は〔西〕となる、現在の日本列島地図の〔西〕は〔北〕となる――というぐあいに、九州以下の本州における方位を現在の本州地図の方位に対して時計回りに90度転回する方位を規定していたと、『魏志倭人伝』は記述していた。
 この「時計回りに90度転回する本州地理における方位論」は、上記したように、倭の使節が中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できる科学によって成立するものであった。

 上記したように【天の北極や北極星がある方角を〔北〕の基準とする、現在の日本列島地図の考え方】の場合――倭国の使節も、魏と魏の出張政庁機関の朝鮮半島の帯方郡の使節も、魏と倭国の中間の大海を往来することができなくなる。このため、魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には瞬時(しゅんじ)に文字が1字も書かれていない白紙であったことになる――だから、「『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない真っ白な白紙だった」という事態となる邪馬台国説はただちに空理空論、デッチアゲ、デタラメであったと証明されることになる。
 下図は、【25,800年で一周する天の北極(円周線上)と各時代の北極星の位置図】である。
 大地における各地あるいは大海における天の北極による緯度は、北極星が描く中心となる天の北極の高度(地平線・水平線から天の北極までの高さ)によって定まる。
 たとえば、天の北極の高度が北緯3515分である大海上の地点の緯度は、北緯3515分となる。
 下図の上部における「α」は「現在の北極星のこぐま座α星と、BC(紀元前)3000年ころの北極星のりゅう座α星」である。この二つの北極星は、天の北極と重ならずに、約0.75

(45)離れている。ゆえに、この二つの北極星は、天の北極に最も近づく北極星である。
 北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、西暦2100年ころのこぐま座α星は天の北極から約0.75(45)離れていた。ゆえに、この二つの北極星は天の北極を中心にして半径約0.75(45)・直径約1.5(90)の円を描いていることになる。
 だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極)をキャッチすることになるが、この方法では【人類の目は命を失わずにすむ1度の60分の11分の誤差内の精度】で測定できる能力を有していなかった。
 だから、古代においては、天の北極の高度を緯度換算する方法で大海を渡りあるいは遠くの地所まで旅すると、人々は必ず[]を失い絶たれて家族が待つ家へ帰還することができなかった。
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 上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10(1度=60分の10倍の、600)も離れていた。ということは、卑弥呼時代の北極星は天の北極を中心にして直径約1200分の円を描いていたことになる。約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置を人間の目は[]を失わずにすむ1分以内の精度で測定できる能力を有していない。だから、遠くの地に旅するときや大海を往来するとき、人々は北極星を目印にして天の北極の高度で緯度換算すると必ず[]を失うことになった。
 この科学的事実を無視・排除して、邪馬台国説は天の北極の方角を一括(いっかつ)して〔北〕を定める現在の日本列島地図を立論基盤とする。
 上記したように、もしも卑弥呼時代において現在と同じく天の北極を緯度や経度の基準に用いてたならば、倭国の使節も魏の使節も帯方郡の使節も[]を失って大海を往来できなかったことになる。したがって、邪馬台国説の論法だと『魏志倭人伝』の約2000字の全文字はパット白煙が立ち上って1字も残らず消えてしまうことになる。
 このように、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の論法だと「『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていない白紙であった」という現実離れの空理空論となる。
 小学5年生のレベルの科学によって、【天の北極の高度を緯度に換算する方法では、わの使節は中国と日本列島を遠く隔てる大海を往来できなかったこと】になる。
 にもかかわらず、邪馬台国説学者たちやはじめNHKテレビや朝日新聞社は【現在の日本地図を用いて立論する邪馬台国説の空理空論、デタラメ、真っ赤なウソとなる実体】にまったく気づかず、われわれ国民をマインドコントロールしようと躍起になっている。 
 このように、邪馬台国説を絶対に正しいと思い込む学者たちとNHKテレビと朝日新聞社は小学5年生レベルの科学知識を有していない。
 このような小学5年生レベルで即刻に空理空論と断定できる邪馬台国説の悪影響は、『魏志倭人伝』の研究はもちろん、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』の研究はじめ、あるいは日本古代史や日本古代漢字学・言語学にも甚大な損害・被害が及んで、日本の学問の土台を蝕(むしば)み日本の発展と前進力と創造力を衰弱させている。
 だから、邪馬台国説を正しいとデマを流して日本国民を洗脳することに夢中になるNHKテレビや朝日新聞社は一流ジャーナリズム気取りでいるが、小学5年生レベルで邪馬台国説の空理空論、デッチアゲ、デタラメに実体に気づかない実にお粗末な組織ということになる。なぜならば、小学5年生レベルの科学によって証明できる邪馬台国説のウソを暴露する任務がジャーナリズムの使命であって、邪馬台国説のお先棒をかついでデマを流す行為は自らが背負っている使命を放棄した愚かな自殺行為だからである。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者中国に詣(いた)るに皆、自(みずか)らを大夫(だいふ)と称す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子が会稽(かいけい)に封ぜられる」と伝える記事がある。
 この記事は「中国の夏后時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、“夏の始祖”と呼ばれる帝禹()の遺言によって益(えき)が帝位についた。この帝益の孫の王子と若者たちが帝禹の遺志である氏族共同体制を日本列島に根付かせるため、今から約4000年前、大海を横断して日本列島の東北地方に定住した」と説明するものであった。ゆえに「倭国の使者は大海を渡って中国に到着すると、皆、自らを“大夫”と称した」という記事の「大夫」が「夏代(かだい/夏后時代)初頭に日本列島の東北地方に定住した帝益の孫の王子と若者たち」であることを表示するために「夏后(夏王朝)の帝王少康の子(王子)が浙江省(せっこうしょう)の会稽に封ぜられた」という記事が補足説明されることになったのである。
 司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀には「帝禹は益に政治をまかせてこと十年、東に巡行して会稽に至って崩じ、天下を益にさずけた。三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の子の啓(けい)に譲(ゆず)って、箕山(きざん)の南に隠れ棲()んだ。禹は崩ずるときに帝位を益にさずけたが、益が禹の政治を補佐して政務にあたった日が浅かったので、天下はまだ益の徳をあまねく知らなかった。それゆえに、諸侯はみな益のもとを去って啓のもとに入朝した」と説明する記事がある。
 『史記』夏本紀に登場する「会稽」は、『魏志倭人伝』における「夏后の帝王・少康の子(王子)が封ぜられた会稽」と同じ浙江省の会稽ではなかった。『史記』夏本紀が「帝禹が崩じた」と記した「会稽」は「現在の中国の首都・北京市の東の天津市であった」と考えられる。つまり、夏代初頭・帝禹時代の首都は会計・北京市、帝禹の政治を補佐した王の益が住んでいた地が北京市の東の天津市・会稽であったと考えられる。というのも、帝益の孫の王子と若者たちは日本列島・東北地方の男鹿半島から米代川(よねしろがわ)流域に定住したからである。北京市・天津市と益氏が定住した男鹿半島から米代川流域は同緯度である。だから、益氏の王子と若者たちは帝禹が住んだ北京市・会計と補佐役の王・益が住んだ天津市・会稽と同緯度の男鹿・米代川流域圏に定住して日本列島移住の目的を達成したことになる。
 上記したように、益氏の王子と若者たちが日本列島に移住した夏代初頭は、後期縄文時代初頭に相当する。北京市・天津市と同緯度の東北地方における秋田県北秋田市に所在する伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡と秋田県鹿角市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)には、益氏がもたらした夏代初頭の学術の痕跡が残っている。

◆司馬遷著『史記』夏本紀には説明されていないが――帝禹は五帝時代以来の多数の氏族が共同して政治体制を組織し、多数の氏族の中でもっともすぐれた人物を帝王に選び、国家を樹立しない、いわゆる氏族共同政治体制の継続を願った。一方、帝禹の息子の啓は氏族共同体制を廃止して国家を創設して特定の家が世襲して天下を治める王朝体制を願った。このように、帝禹と息子の啓が望む政治体制は相いれず対立していた。ゆえに、帝禹は崩じるとき、益に氏族共同体制の継続を遺言して帝位をあたえることにした。しかし、諸侯たちは帝禹の遺志に反対し、啓の世襲王朝国家体制に賛同して啓のもとに入朝した。このため、帝益はもはや中国では氏族共同体制は継続できないと考えて禹の喪が終わると啓に帝位をゆずって、箕山の南に地に隠居した(隠れ棲んだ)。そして、帝益は禹の遺志・氏族共同体制の継続を新天地・日本列島で成就すると決意した。ところが、老いた帝益には中国と日本列島を隔てる大海を小舟で漕いで横断できる体力を失っていた。このため、たくましい若い孫の王子と若者たちによって大海横断がなされることになり、帝禹の遺志・氏族共同体制継続事業が決行されたのである。
 これゆえ、中国では今から約4000年前に国家が最初に創設された。しかし、益氏の王子一行が定住したわが国では中国よりも約2200年も遅れて・今から約1800年前の2世紀末、卑弥呼によって国家が最初に創設されることになったのである。

 益氏の王子の日本列島定住は、『魏志倭人伝』の記事の他に、『日本書紀』の巻第三・神武天皇紀初頭の〔天祖降臨記事〕にて指摘されている。したがって、「帝益の孫の王子」を『日本書紀』は「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)であった」と伝えている。
 帝益の孫の王子・彦火瓊瓊芸命は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論を教えひろめた。また、益氏は五帝時代末の帝舜(ていしゅん)に命じられ、代々約200250年間、中国の精密な海岸線地図を作製する「虞()」という要職に従事した。ゆえに、天祖と益氏の若者たちは、当時中国における最先端の中国の精密海岸線地図と正確な地図作製方法をわが国にもたらした。
 これゆえ、上記した北秋田市の伊勢堂岱遺跡と鹿角市の大湯環状列石には、〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕正確な地図作製方法が渡来した痕跡が現在も残っている。
 また、『魏志倭人伝』の大半の記事は益氏の王子一行が教え広めた〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】の両学術の説明で占められている。
 『魏志倭人伝』は「邪馬台国説」とはまったく無関係な古文献だったのである。
 『魏志倭人伝』は〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕益氏が教えひろめた【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献史料であったのである。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は新井白石(あらいはくせき/16571725)以来の邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献(学術書)であった。これについては、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」にて詳細に解説して証明した。
 前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」末部にて指摘したように――『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、以下の四つの要素を前もって知っていなければならない。
【一】「漢字」は「銀漢・夏の銀河」から作られた。「天の川・夏の銀河」の別称は「銀河」あるいは「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよぶことになったのである。『魏志倭人伝』は「銀漢から作られた文字」であるから「漢字」と名づけられた事実を【科学】が成立して証明できる書物であったのである。
【二】前述したように――邪馬台国説のごとく、現在の日本地図にもとづいて『魏志倭人伝』のおける九州以下の本州地図の方位を論ずるのは根本的に誤っており、ふつうではない異常な誤った考えということになる。卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、中国の王朝とわが国の卑弥呼王朝における学問では、地理の方位を倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で定めていた。
 その証拠に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は――明治時代の歴史学者・内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきち)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解するべきであるとした―と指摘している。
 上記の『後魏書』は6世紀半ばに著作された。したがって、中国では方向をいうとき、6世紀半ばまで――【倉頡が作った[][]の字源】にもとづいて、内藤湖南が指摘したように現在の地図における〔東〕を中国北部では倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定で〔南〕といい、あるいは〔南〕を中国南部では倉頡が作った[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で〔東〕と定めていたのである。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 わが国においては、新井白石以前の学問において、『魏志倭人伝』における「九州以下の本州列島地理の方位においては、倉頡が作った[]の字源を受け継ぐ[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して現在の日本地図における〔東〕は〔南〕であった」と考えなければならないと定まっていた。
 その証拠に、1568(永禄11)の織田信長書状における印判に用いた「天下布武」という語は現在の日本地図における九州以下の本州地理の〔東〕を〔南〕と定める倉頡が作った[][]の字源にもとづいて成立するものであった。また、徳川家康は関ケ原合戦の4カ月後の1601年正月に譜代大名の筆頭の井伊藩に[][]の字源にもとづく〔3000万坪の大鳥の形をした地図の作製〕を命じ、井伊藩は1603年から着工して20年後の1622年に現在の彦根市の行政区域を表示する地図、つまり〔3000万坪の大鳥の地上絵〕を完成させている。ゆえに、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形は[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を表示する遺跡であったことになる。
 また、このブログの「家康くんと『魏志倭人伝』」のテーマとなる遺跡「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」は、家康は[][]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわす遺跡であった。
 下に現在の日本地図にもとづく「家康が設計した江戸城から発する渦巻の水路」を示した。
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 家康は『魏志倭人伝』における九州以下の本州地理の方位は[][]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学術知識」を有していた。ゆえに、家康は「江戸城から発する隅田川までの水路」を「[]の古代字形」に合致するように、現在の日本地図の〔東〕(水路の出ずる隅田川)が時計回りに90度転回して〔南〕となるように設計して、家康は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表示した。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 下図が示すように、家康は『魏志倭人伝』の九州以下本州地図の方位は[]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学問知識」を有していた。だから、現在の日本列島地図の通りに考える邪馬台国説は空理空論であったのである。
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【三】現在、学者たちによって「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されている。しかし、学説に反して「倉頡伝説」はすべてほんとうであったのである。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に説論する学者たちの意見=主観をいっさい加えず、つまり1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えずに客観性に徹底して読解すると「倉頡伝説はすべてほんとうであった、学者たちの意見こそが荒唐無稽のデタラメであった」と【科学】が成立して証明されるからである。
【四】上記したように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・山陰の出雲に居住した。卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた夏代初頭の学芸】にもとづいて天下を治めた」と理路整然と説明する教科書であったのである。ゆえに、邪馬台国説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論、デタラメの産物であったことになる。

◆上記したように、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者は中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称す。夏后少康の子が会稽に封ぜられる」と説明する記事がある。
 上記の記事が伝えていたように、中国と倭国をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した倭国の使者たちは自らを「大夫」と称した。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、万葉仮名の「ますらを」は現在「益荒男」と記す。ゆえに、「益荒男」つまり「大夫」という語は「益氏の王子と若者たちが横断した、荒波が逆巻く中国と日本列島をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した男(おのこ)」と意味したことになる。「益氏の王子一行以後、大海を横断して中国に到着した日本列島の使者たち(住人たち)」は自らを「大夫、益氏の王子一行のごとくの立派な男児」と称(たた)えて、自画自賛していたことになる。ゆえに、司馬遷著『史記』が「夏王朝の4代帝王は少康であった」と伝える、その「少康の王子が浙江省の会稽に封ぜられた」という歴史が『魏志倭人伝』に記述されたのである。
 司馬遷著『史記』夏本紀には「少康の子が会稽に封ぜられた」という記事は存在しない。『史記』は「夏后啓帝が崩じて、その子の帝太康(たいこう)が立った。帝太康が崩じて、弟の中康(ちゅうこう)が帝位についた。帝中康が崩じて、帝相(しょう)が帝位についた。帝相が報じて、その子の少康が帝位についた」と伝える。夏王朝における初代啓帝から5代目の帝王が少康であった」のである。この「帝少康の子が会稽に封ぜられた歴史」が『魏志倭人伝』に記述されているということは、後期縄文時代に日本列島の住人は大海を渡ってはるか遠く隔たる中国(夏国)に到着して、用事をすませるとまた大海を渡って帰郷していたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡が発明した漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を理路整然と説明していた文献であった。このような学術知識が『魏志倭人伝』に記述されたのは――益氏が中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を横断でき、この大海を益氏以後においても日本列島の住人が往来できたからである。
 ゆえに、これからどのような方法で益氏は大海を横断し、日本列島の住人たちは益氏が横断した太海を往来したのか――この方法について【科学】にもとづいて解明し証明する。

◆益氏はじめ古代の倭国の使者たちが中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた方法は、下図に示す【天頂緯度線のキャッチ】であった。
 天頂緯度線をキャッチすれば、中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた。
 前述した【天の北極を羅針盤とする方法(天の北極の高度を緯度換算する方法)で、遠い地や大海を旅すると位置(緯度)が不明となり必ず命を落とした】が、【天頂緯度線をキャッチすれば遠い地や大海を旅しても、家族が待つ家へ帰還できるという、この真実】は、本来、小学5年生レベルでもわかる「科学知識」である。
 しかし新井白石以後の邪馬台国説のために、現在、『魏志倭人伝』の方位記事は天の北極がある方角を一律に〔北〕と定める現在の日本列島を立論基盤と定まっている。この邪馬台国説の基軸論法は、上記したように「小学5年生レベルの科学知識」によってただちに空理空論となる。
 このような「小学5年生レベルの科学知識」は中期江戸時代の新井白石以後の邪馬台国説によって排除されることになった。
 しかし、【天頂緯度線のキャッチ】によって倭の使節・帯方郡の使節が大海を往来できたのである。だから、倭と魏は国交を結ぶことができたため、倭国における様子を伝える卑弥呼が書いた文書はじめ倭国の使者たちの言が魏王朝に保管され晋王朝に受け継がれた。ゆえに、晋の歴史編纂官の陳寿によって『魏志倭人伝』に記述されることになったのである。
 下図は【原始から古代にあって、大海や遠くの地に旅する人々が出発地点となった家族が待つ家に帰還できる方法】であった【天頂緯度線のキャッチの説明図】である。
 ゆえに、下図に示すように【天頂緯度線】は【観測地点における最も高い天体部】ということになる。
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 【天頂緯度線】は【地上で天頂緯度測量する人が4~6秒でキャッチする線】である。【天頂点と重なる銀河部位(または天体部)】は天の北極を中心にして一日24時間(正確には23時間56分で、360度の大円を描いて一周する。天頂緯度線の一周は23時間56分・1時間は60分・1分は60秒であるゆえ、結局、天頂緯度線の1日の円周運動は86,160秒となる。86,160秒の微小の曲線のうちの4~6秒はほとんど「平らな線」となる。だから、【人が4~6秒でキャッチする天頂緯度線】は、上図の右上に示したように「平らな線」ということになる。
 要するに、地球が円い事実を目撃して察知することができないように、日本列島各地のせまい入江や港湾の水平線は「平らの線」となる。この事実と同様に【4~6秒間くらいでキャッチする天頂緯度線】は、日本列島各地のせまい入江や港湾における水平線のごとく「平らの線」となる。
 下図に示すように、【天頂点と重なる銀河部位の軌道】は天頂点に接近すると「天頂緯度線・天頂点・子午線」を形成する。この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字[(とう)]の字源・字形・字義となった。
 下図は、[]の字源・字形・字義の解説図である。
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 【4~6秒間でキャッチする天頂緯度線】は「1度の60分の11分の精度」で緯度が測定できた。
 原始のときから、人類は【日々眼力を鍛錬すると、4~6秒間で天頂緯度線をキャッチして1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と、そして頭脳に本能】がそなわっていた。この「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物を求めて移住生活していた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。人類は〔本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)な眼力〕を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫して磨いた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代やまた氷と雪でただ一面が真っ白な氷河期において絶滅していたことになる。人類は滅びなかったのは、目を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が眼にそなわり本能として頭脳にそなわっていたからである。
 先史時代や卑弥呼時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置を測定する方法は[]のキャッチのみ、ただ一つであった。前述したように、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと旅先で命を失って、家族が待つ家に帰ることができなかった。
 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島(こうずしま)からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に磨いて刃をつけると石槍や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、その後の縄文時代・弥生時代・古墳時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30キロメートル以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも遠く離れている。約3万年の旧石器人たちは[]をキャッチできる能力を有していたために30キロメートルも隔たる神津島と伊豆半島の中間の海を往来でき、約400キロメートルも離れる北陸の能登などの遠い地から旅した古代の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この約3万年前からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実体は謎のベールにつつまれて不明となる。というのも、学界は現在の日本列島地図の方位規定を立論基盤とする邪馬台国説が100パーセント空理空論である事実にまったく気づいていないからである。
 学界は現在の日本列島地図で思考する邪馬台国説の考えに賛同する。このため、中国と日本列島を隔てる大海を往来できる【[]のキャッチ】を、学界は排除していることになる。
 今まで解説・証明したように、『魏志倭人伝』の記事を学界・マスメディアは、真っ先に、【[]のキャッチ】を立論基盤にして考えなければならない。にもかかわらず、現在、学界とマスメディアは真っ先に【現在の日本列島地図を立論基盤】とする邪馬台国説を正しい意見と思い込んでいる。したがって、学界とマスメディアには小学5年生レベルの科学知識がそなわっていないため――空理空論の邪馬台国説のデマが日本国中に波及し、約3万年前の旧石器時代からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。
 原始のときから、人類は頭脳に[]をキャッチして精密に緯度を測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分・60秒の緯度差で測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀漢(銀河)輝く天文を地理代わりにして[]をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存したのである。

[]の下に[(よう)]が加わると[(げん)]の字となる。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場に登場する約80年前の100年ころに完成されていたとされる後漢の文字学者・許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「小さな、膣口(ちつこう)から頭が誕生したばかりの出産児」と解説していた。
 下図に示すように、[]の字源は「骨盤入口をくぐりぬけてせまい産道を通りぬけて、母体の膣口から頭が誕生して、母体の背・臀部(おしり)を正面に顔を向ける出産児」ということになる。
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 大海を渡る人、また遠くの地へ旅する人は「必ず[]をキャッチする」という欲を有すると、[]をキャッチできずに旅先で[]を失った。だから、[]の下に[]が加わる[]の字源は「産道を通りぬけて誕生する幺(出産児)のごとく無欲になれば、[]をキャッチできる」という、「天頂緯度線をキャッチする([]をキャッチする)ときの心得」をあらわしていた。
 いっぽう、わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静著『字統』(平凡社発行)は、上図の「[]の字源解説図」の右側の[]と同字形の[]の金文形を注目して「小さな糸たばの形。糸たばを拗()じて結んだもの。幼はこれに拗()じる棒を通した形で、拗の初文」と解説する。
 しかし、上記した『字統』の[]の解説だと「幼児」の[]([][]が加わる[])の字義「おさない」が不明となる。
 『魏志倭人伝』には「女王国の以北には特に一大率(いちだいそつ)を配置して諸国を検察させた。倭国における国々は一大率の諸国を検察する強力な権限を畏(おそ)れはばかった。一大率は常に伊都国の居て治めていた」と説明する記事がある。
 「一大率」の[]の上部は[]、中間の中央は[]の字である(注 この[]上部中央の[][]を加えると[]の字となる)
 白川静著『字統』は[]の古代字形(甲骨文字の字形と金文形)にもとづいて「糸をしばる形で、糸たばの上下に小さな横木を通して、これを拗()じて水をしぼる形」と解説する。このように、白川静著『字統』の[][]の古代字形の解説は共通点を有する。
 「[]のキャッチ=天頂緯度線のキャッチ」は「雨天の夜空」で不可能となる。「[]のキャッチ」は「水気をしぼったように、乾いた晴れた夜空」ならば、[]がキャッチできる。だから、上図の「[]の字源解説図」における右側に配した[]の金文形は「糸たばを拗()じって水気をしぼる形」をもって「水気がある雨天や曇天ではない、[]がキャッチできる水気の無い晴天の夜空」を表現したのである。
 出産児は、羊水で濡()れる産道を4回も身を拗()じって通りぬける。ゆえに、「産道を無欲で通りぬける出産児」を金文は「水に濡れた糸たばを拗じる形」に見立てたのである。そして「水気の無い乾いた晴天の夜空にておこなう[]をキャッチするときの産道を通過する出産児のごとく無欲になる心得」をあらわすために、[]の金文形は「水気の無い乾いた晴天」を表現して「水で濡れる糸たばを拗じて絞る形で水気の無い様子」をあらわしたのである。ゆえに、上記したように上部中央が[]となる[]の字も、白川静著『字統』が指摘するように「水で濡れる糸たばを拗じて水を絞る形」をあらわすことになったのである。

◆「一大率が常に居住した伊都国」は「現在の福岡県糸島市の前原(まえばる)町周辺地域」であったと考えられる。というのも、『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市の前原町周辺」であったからである。「糸島市前原町」は「糸島半島の付け根」に所在する。糸島半島は「玄界灘」に面する。「糸島半島」の[]と「玄界灘」の[]の字は、上記した[][][][]の字源の秘密を伝えていたのである。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼時代、倭の使者たちは糸島半島が面する玄界灘を渡って朝鮮半島の帯方郡や中国の魏都・洛陽に到着し、また玄界灘を渡って倭地に帰還した」と説明している。
 だから、前述したように「北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法」では【命】を失って玄界灘は往来できなかったが、「玄界灘」の[]の字が示すように「[]をキャッチする方法ならば【命】を失わずに、倭の使者たちは玄界灘を往来できた」ことになる。
 「玄界灘」という名称は「[]の字の上部の[]をキャッチする方法ならば1分・60秒の誤差内で精密に緯度(位置)が測定できたゆえ【命】を失わずに往来することができる、陸地から遠く離れる波の荒い海」と意味した。だから、現在の日本地図を立論基盤にする邪馬台国説は即刻に空理空論・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる
 3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチして伊豆半島から隔たる海を往来して神津島の黒曜石を手に入れていた。
 今から約4000年前の夏代初頭、益氏の王子と若者たち一行は[]をキャッチして玄界灘を渡って九州に上陸して北進して日本列島の男鹿半島・米代川流域に定住して【倉頡の漢字作成理論と、精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法などの学問】を教え広めて、帝禹が願った国家を作らない・氏族共同体制を日本列島に根づかせた。
 もしも、益氏の王子と若者たちが[]をキャッチできなかったとするならば、天の北極の高度を緯度に換算する方法では大海を横断できなかったゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 しかし、益氏の王子一行は[]がキャッチできたゆえ大海を横断して帝禹の遺志・氏族共同政治体制を日本列島に根づかせ、また【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を日本列島に教えひろめた。
 だから、『魏志倭人伝』には【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】が理路整然と詳細に説明されることになった。
 したがって、『魏志倭人伝』と「邪馬台国」はまったく無関係ということになる。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬壱国であった」と記す。そして、『魏志倭人伝』は、その大半の記事で【倉頡の漢字作成理論と、精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を理路整然と詳細に説明している。
 上記したように、倭人国の首都所在地の女王国名は「邪馬壱国」であった。また、「邪馬壱国」は「山陰・出雲」であった。前述したように、家康は「江戸城から発して隅田川に出る、古文[]の字形となる水路()」を設計して「卑弥呼が住んだ女王国・邪馬壱国の中心地は山陰・出雲であった」と表示している。家康は九州以下の本州地理における方位規定を現在の日本列島地図のように考えなかった。家康は「倭人国」という国名に用いられる[]の字源「時計回り90度転回する方位規定」にもとづいて「九州は本州の〔西〕に所在せず〔北〕に所在する、現在の日本列島地図の〔北〕となる日本海は〔東〕に所在する」と考えて、「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲である」と断定した。この家康の[]の字源にもとづく考え方は、新井白石以前における『魏志倭人伝』のふつうの読解方法・学問における定式であったのである。

◆『魏志倭人伝』には「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占うが、真っ先に行事を占うのか旅について占うのか雨乞いについて占うのかなど、占うテーマは何であるかを告げる。この卜占に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとし」と説明する記事がある。
 つまり、『魏志倭人伝』は「倭には令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のような原初漢字が存在した」と伝えている。しかし、このような甲骨文字のような原初漢字が書かれた史料が出土していない。ということは、中国でも倉頡が生存した五帝時代初頭から殷代前半の原書漢字を書いた文字史料が出土しないゆえ、『魏志倭人伝』の「令亀の法のごとし」と説明する原初漢字は「益氏が教え広めた夏代初頭の夏音(かおん)文字」であったことになる。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
 したがって、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定するが、この定説は空理空論であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「魏都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に倭国の使節が派遣されるとき、また魏の出張政庁機関がある帯方郡の使節が倭国に到着するとき、魏と倭が国交を結ぶための文書に用いる魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。このため、伊都国の港では捜露(そうろ)、つまり楷書と夏音文字の字源は共に銀漢(夏の銀河)各部の形状であったので、楷書と夏音文字の字源銀河を捜して露わにして、楷書と夏音文字が同義になるように伊都国の港で変換していた」と説明する記事がある。
 このブログで前述したように、『魏志倭人伝』の記事は正しく理解するためには、「漢字」は銀漢(夏の銀河)から作られた文字」であったゆえ、略して「漢字」と名づけられた学問知識が必要となった。
 わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」においても指摘・解説したように――倉頡はもしも反体制側が漢字作成理論密を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配して、倉頡は【死刑と定める3つの掟】を定めた。この【1】の掟は「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と容易に理解できるように直接的に暴露してはならない、【2】の掟は「多数の文字を容易に覚えることができるようにする」ため、銀漢各部に名称をつけてはならない、【3】の掟は「書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする」であった。
 これゆえ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために中国における五帝時代・夏代・殷代前半に用いられた原初漢字が書いた史料は出土しないことになった。わが国においても、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。また、『魏志倭人伝』に記述された伊都国の港で変換された魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書と倭国で用いられていた夏音文字を書いた史料も出土しないことになったのである。

◆しかし、『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の記事と、小国名が不明の1か国と裸()国・侏儒(しゅじゅ)国・黒歯(こくし)国などの4ヵ国、計34ヵ国の説明記事やその他の様々な記事は【倉頡の漢字作成理論と、益氏がもたらした精密中国の海岸線地図や正確な地図作製方法や夏音文字などの夏代初頭の学術】を伝えている。
 夏代初頭から卑弥呼時代まで【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の学術】は銀漢(夏の銀河)各部の形状や地図の形をあらわす地名によって保存され、また前記したように『魏志倭人伝』に「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占う」と記述されているように卜占や様々な習慣・習俗などによって保存されていたのである。

だから、わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#4」にて指摘したように、白川静著『字統』は9ページの終わり3行目から10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘することになったのである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 現存する中国における最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年ころ)の周代初頭の漢字音である。
 他方、上記した白川静著『字統』が【わが国の漢字音】と題して「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この漢字音は益氏の王子一行が日本列島に定住した紀元前21世紀ころの夏代初頭(後期縄文時代初頭)の漢字音である。したがって、『魏志倭人伝』における卑弥呼(ひみこ)はじめ壱与(いよ)や難升米(なしめ)や載斯烏越(そしあお)などの人名はじめ小国名や官職名に用いられて残った夏音文字は、中国の最古の上古音よりも約1000年前も古い漢字音となる。まあ、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて多数の夏音文字が現存する。
 下図に示すように、学界が「正しい」と太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下図における最下部に配置される。だから、わが国の漢字習得の定説は中国の上古音よりもずいぶん新しことになって、明確に「科学に反する空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
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◆つまり、新井白石以前の代々の天皇はじめ高僧や源頼朝・北条氏・足利氏・織田信長・徳川家康などにとって、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】を説明する、天下を治めるための王政・帝王学の教科書」であったのである。
 以上のごとく、これまで解説・指摘・証明したように『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図における方位規定を立論基盤とするとただちに空理空論となる、と断定することができる科学の書物」であり、「卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰・出雲地方であったと伝えていた、真っ先に[]のキャッチにもとづいて思考する書物」であったのである。
 『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】はわが国における学問の始まり・原点であった。だから、【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】は今日のグローバル化の時代にあって、日本の固有の文化と未来への前進と発展の原動力であり、そして人類の文字の発明を明確に伝える貴重な遺産ということになる。だから、小学5年生レベルの科学によって空理空論と断定できる邪馬台国説は日本をぶっ壊す、最悪の日本のガンということになる。

 邪馬台国説はすべてウソである
 邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は真っ赤なウソだったのである
 悲しいじゃないか 真っ赤なウソ・空理空論にまんまとダマされるなんて
 バカにされるな コケにされるな 愛しき日本国民よ
 ――邪馬台国説は 日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊す
 デタラメ、インチキ、日本を滅ぼす最悪のガンだ
 小学5年生レベルの科学によって 邪馬台国説は空理空論だと断定できる
 日本人よ 邪馬台国説にまんまとダマされるな
 日本人よ 真実に 目覚めよ 

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