漢字の起源と発明を解明す・3
卑弥呼が定めた日本列島・本州の地図は90度転回する
◆3世紀後半(280年~289年)に成立した陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』東夷伝の倭人条、すなわち通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は――江戸時代中期に生存した新井白石(1657年~1725年)が主張するがごとく「邪馬臺(台)国は大和であった」、あるいは「邪馬臺(台)国は九州に存在した」と、イッサイ(一切)説明していない。
『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は邪馬壹(壱・やまい)国・山陰出雲地方に居住していた」と記述する。
また「倭の小国の対馬国から狗奴国までの30ヵ国の名称」で「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論」を詳細に正確に今日に伝えている。
そして、『魏志倭人伝』」は、(1)「女王国(邪馬壱国)より東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆倭種なり」という名称が不明の小国と、(2)「侏儒(しゅじゅ)国、裸(ら)国、黒歯(こくし)国」の3か国の名称」と、(3)「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」という3つの記事で――「今から約4000年前(紀元前2050年頃)に、夏代黎明期(かだいれいめいき)に帝に就任した益(えき)の孫の王子と益氏を受け継ぐ若者たち一行が中国から大海を越えて九州に上陸して北進して東北地方の男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域に定住した。
この益氏の王子(天祖)と若者たちは
(Ⅰ)【精確な中国海岸線地図】
(Ⅱ)【倉頡の文字作成理論】
(Ⅲ)【黄帝の医学研究【女性の生殖器官と出産の研究】
(Ⅳ)三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)
(Ⅴ)五帝時代に作られた書契(しょけい・最初の漢字)
(Ⅵ)夏代黎明期の夏音文字
などの学芸を教え広めた」と伝えている。
だから、『魏志倭人伝』には「卑弥呼」を「ヒミコ」、「難升米」を「ナシメ」、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読む夏代黎明期の夏音を楷書が音符となって記載している。『古事記』上巻并(あわ)せて序では「夏音文字を楷書で表記する秘密が、非常に難解な文章」をもって解説され、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
中国に現存する最古の漢字音は「上古音(じょうこおん)」と名づけられる。中国の上古音は今から約3070年前(紀元前1046年)頃の周代初頭から始まるとされる。
中国の上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。
わが国の「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む夏代黎明期(今から約4070年前頃)紀元前の夏音は、現存する中国における最古の周代初頭(今から約3070年前頃)の上古音よりも約1000年も古い漢字音である。このような現存する最古の漢字音が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数現存する。
したがって、わが国の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は空理空論であったことになる。
◆倉頡は下に示す「夏の銀河各部の形状を図案して文字(漢字)を作る理論」発明した。
「夏の銀河」は「夏に長時間見える銀河」であり、また「夏の星座の全部が漬(つ)かる銀河の帯」である。
「夏の銀河」は「銀漢」と呼ばれ、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
「夏の銀河の範囲(一部分、夏の星座も含む)」は北緯0度(赤道)から北緯42度~北緯43までの土地に住む人々の天頂(頭上の真上)にめぐってきた。
ところが、「冬の銀河に漬かるぎょしゃ座・おうし座・昴(すばる)」をモデルにして図案された【夏】の異体字という特殊な一例が存在する。
しかし、それ以外全ての漢字は「夏の銀河各部の形状」から作られた。
「春の銀河」、「秋の銀河」は北緯30度~北緯43度の土地に住む人々の天頂にはめぐってこない。また、前述したように「冬の銀河」において「ぎょしゃ座・おうし座・昴が漬かる銀河」は北緯30度~北緯43度までの土地に住む人々の天頂にめぐってきた。ゆえに、「ぎょしゃ座・おうし座・昴の形」は【夏】の金文形(きんぶんけい・周代に用いられる文字)の異体字となった。
しかし、注目すべきは【夏】の金文形には「夏の銀河の80パーセントくらい概略形」を図案する文字がある。
上記したように、「冬の銀河に漬かる、ぎょしゃ座・おうし座・昴などの星座の形」が字形となった事例は特殊で、この【夏】の金文形以外一例も存在しない。
◆前ページに配した「夏の銀河の写真」において、上部が「北」、下部が「南」となった。
そして、南に多数の星や銀河が存在するゆえ「南が正面」となった。ゆえに、「東」は「左側」に配し、「西」は「右側」に配することになった。
この「上・北、下・南、左・東、右・西の形式」は「現在の星座版の定式」と同じである。
現在の地図のおける方位規定は「天の北極を北」と定め、「東を右側、西を左側に配し、北を上、南を下に配置する」。
しかし、中国でもわが国でも、古代において「天の北極」を基準にして位置(緯度)を測定すると【必ず、命を失った】。
このため、古代の地図においては、「天の北極」を「北の方角」と定める現在のような方位規定は成立しなかった。
古代においては――天頂緯度線をキャッチして緯度線と経度線(子午線)を測定した。
ヒトは「いのちあってのものだね」、なにはさておき先ず「生きている」という命の保証が必要となる。
天の北極、また北極星は命を保証しない天体であった。
ゆえに、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代においては、地図において「命を保証する天頂緯度線」を基準にして方位規定が定められた。
倉頡が「漢字を発明した、夏の銀河の各部」には名称が存在しない。
しかし、夏音文字・契文(けいぶん・甲骨文字)・金文、あるいは楷書などの字源は「夏の銀河各部の形状」であった。このため、「字源となった銀河」を表示するためには「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要となった。
それゆえ、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図に示すように、「十字の銀河の西となり」は「鬼の横顔に似る銀河」である。
下に「黄帝時代の黄帝陵(こうていりょう・黄帝を祀る廟と墓)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口)の天頂緯度線の図」を配した。
黄帝時代、黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線は「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部の目の形をした銀河部の中央」と「十字の銀河の頭(あるいは顔)の中央」を貫通していた。
また、当時、長江口(北緯31度30分)の天頂緯度線は「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部の中央」と「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。
下図に示すように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」には「背骨」に見立てられた「線状の暗黒天体部」がある。
下図に示すように、「十字の銀河における線状の暗黒天体部」は「経度線」に見立てられて「緯度の目盛り」が刻まれて――右上の【玉】の結縄(けつじょう・三皇時代の易占に用いられた記号)となった。
また、「鬼の姿に似る銀河における線状の暗黒天体部」は「緯度線に見立てられて「経度の目盛り」が加えられて――右上に配した【玉】の結縄となった。
◆上図が示すように、今から約6000年前頃から始まる三皇時代には、「経度軸に緯度の目盛り」あるいは「緯度軸に経度の目盛り」を加えていた。
この「経度軸と緯度軸の交わり」によって「地(地図)には、2種類の方位規定がる」と考えられるようになった。
その1種類の方位規定は「時計回りに90度回転して経度軸は緯度軸となるゆえ、北は東となり、東は南となり、南は西となり、西は北となる」と考えられることになった。
もう1種類の方位規定は「逆時計回りに90度転回して経度軸は緯度軸となって、北は西となり、西は南となり、南は東となり、東は北となる」と考えられることになった。
三皇時代以来、倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝時代にあっても、大多数の人々が地(地図)には、「(1)時計回りに90度転回する方位規定と、(2)逆時計回りに90度転回する方位規定が存在する」と考えるようになっていた。
ゆえに、倉頡は【禾(か)】(字義は稲)と【呉】の字を考案した。
【禾】は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
【呉】は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
下に配する上図は【禾】【委】【倭】の字源銀河図である。この字源銀河図は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。
下に配する下図は【呉】の字源銀河図図である。
白川静著『字統』(平凡社発行)は【呉】の金文の字形を「人が一手をあげて祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。つまり、倉頡は「十字の銀河」を「巫女」に見立て、「子どもの出産を祈祷し祝う土器の口(さい)を肩の上にささげ、巫女が身をくねらせて踊る姿」をもって「逆時計回りに90度転回する方位規定」を表現した。
下図に示すように、倉頡は「淮河より北部地域の地図における方位規定」を【禾】と名づけて「時計回りに90度転回する、つまり北は東、東は南、南は西、西は北となる」と定めた。
また、倉頡は「淮河より南部地域の地図における方位規定」を【呉】と名づけて「逆時計回りに90度転回する、つまり北は西、西は南、南は東、東は北となる」と定めた。
下図に示すように、卑弥呼が生存した三国時代においても、「淮河より北部地域の国」は【魏】と名づけられ、【魏】の偏【委】は「時計回り90度転回する、魏の地図の方位規定」をあらわした。
また、「淮河より南部地域の国」は【呉】と名づけられ、「逆時計回りに90度転回する、呉の地図の方位規定」をあらわした。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいて、【禾】の「時計回りに90度転回する方位規定」と【呉】の「逆時計回りに90度転回する方位規定」の2種が存在するという意見は、中国とわが国(倭国)における地理学における定説であったのである。
このブログ・シリーズ「漢字の起源と発明を解明す・序」の後半で紹介したように、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎博士が執筆した「邪馬臺国の位置論」には――「内藤は、中国の古典では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることから、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべしとした」と指摘する文がある。
この文先頭の「内藤」は「明治時代の歴史学者の内藤湖南」である。
また、文中の『後魏書』は6世紀(554年)に成立した。
だから、6世紀の中国にあっても、倉頡が立論した――【禾】の「時計回り」と【呉】の「逆時計回り」に90度転回する方位規定は失われていなかったことになる。
◆このブログにおける前ページで用いた「[禾][委][倭]の字源解説図」では、【禾】の字源銀河は「十字の銀河」であった。
下図に示すように、「十字の銀河」は「女の姿。女体」に相似する。
ゆえに、倉頡より以後、【禾】の下に【女】が加えられる【委(い)】という字が作られた。また、「十字の銀河」は【人】の字源となった。このため、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられる【倭】の字が作られた。
上記したように、【委】と【倭】の字は倉頡が作った【禾】と同じ「十字の銀河」から作成された。
ゆえに、【委】と【倭】は【禾】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼が統治した国の名は「倭人国」であったと記す。
「倭人国」のうち【人】の字義は「十字の銀河の身長の半分大(約4尺)となる、禾(イネ)の身の丈(たけ)」をあらわした。つまり、「禾(イネ)の身の丈」を「人」と暗号化して表現するものであった。
『説文解字』は【夫】の字源を「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一はもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、(中略)、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。
下図に示すように、「十字の銀河の頭上にある簪(かんざし)を挿す頂部までの見かけの大きさ」は「周制において、一丈・十尺・十度」と定められた。
そして、「二尺・二度の簪」を【一】と図案した。ゆえに、『説文解字』は「一をもって簪に象るなり」と解説した。だから、【夫】の契文と金文の字形は【十尺・十度の大字形の「十字の銀河の頭上に、【一】の簪を加える図書】となった。
したがって、【人】の字源となった「十字の銀河の見かけの長(たけ)」は「八尺・八度」となる。ゆえに、『説文解字』は「周制で、人の長八尺なり」と解説した。
「周制で、八尺となる身長(たけ)の【人】」は、【倭】の字の左側の人偏(にんべん)の【人】である。
「倭人」という名詞の【人】は、上記したように「禾(イネ)の身の丈」を暗号化した「周制、人の長八尺の半分大の四尺」であった。
この「禾の身の丈四尺」について、これから解説する。
そのために、このブログの前ページに配した「黄帝時代における黄帝陵と長江口の天頂緯度線」を再度、下に示した。
上図に示すように、黄帝時代、【黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線】は「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「十字の銀河の頭部(顔)の中央部」を貫通していた。
また、当時、【長江口(北緯31度30分)の天頂緯度線】は「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部中央」と「十字の銀河の子宮の中央」を貫通していた。
上図における「鬼の横顔の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「鬼の横顔に似る銀河の細い切れ長の目の形をした銀河部中央」は「緯度差が約四度、ゆえに見かけの大きさは約四尺の長(たけ)」となる。
また、「十字の銀河の頭部中央」と「十字の銀河の子宮中央」は「緯度差が約四度、ゆえに見かけの大きさは約四尺の長(たけ)」となる。
この「四尺」は「十字の銀河の見かけの身長八尺の半分大」となる。
周制、つまり「周代の一尺」は「22.5㎝」であった。ゆえに、「四尺」は「90㎝」となる。
穂が実る禾(イネ)の長(たけ)は、約四尺・約90㎝である。
だから、「禾(イネ)の長(たけ)の四尺・90㎝」は「倭人国」という名における【人】の字源となった。
したがって、黄帝時代の「十字の銀河の頭部中央と十字の銀河の子宮中央までの距離」の「四度、四尺」は「倭人国」という名における【人】の字源となった。
ということは、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「鬼の姿に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部中央部までの距離」の「四度、四尺」もまた「倭人国」という名における【人】の字源となった。
このような「黄帝時代における黄帝陵と長江口までの緯度差、四度、四尺」は、黄帝時代以後の後世において、【倉頡の文字作成理論】において不可欠の重大な基本知識となった。
ゆえに、「禾(イネ)の身の丈の四尺」を【人】と暗号化して、「黄帝時代における黄帝陵と長江口の天頂緯度線」を忘れないように記憶されることになったのである。
卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。
これゆえ、卑弥呼は黄帝陵が北緯35度35分、長江口が北緯31度30分であることを知っていた。
そして、卑弥呼が統治した「対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国は、【人】の字源となった長江口の北緯31度30分~黄帝陵の北緯35度35分までの緯度圏内に所在した。
『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)は一大国(長崎県北部の壱岐)の北、一大国(現在の長崎県壱岐)は対馬国の南」と説明する。
しかし、九州西部に所在する末盧(まつろ)国から狗奴国までの28ヵ国の所在する日本列島・本州西部の地図における方位は、【倭】の字源にのっとって「現在の本州西部の方位規定と異なり、時計回りに90度転回して北(山陰地方)は東、東の東海地方(愛知県と静岡県西部)は南となり、南の四国は西となり、西の九州は北となる」と、『魏志倭人伝』は記述いている。
だから、卑弥呼は国名を【倭】に【人】を加える「倭人国」と定めた。
◆下の上図は、「現在の日本列島・本州西部(東海地方より西側)の地図の形」である。
下の下図は、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が定めた倭人国(本州西部)全域の地図の形」である。
下図は【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度転回する末盧国から狗奴国までの28ヵ国が所在する本州西部の地図の形」である。また、この全域は「禾(イネ)の身の丈(たけ)」をあらわす【人】の字源「北緯31度30分~北緯35度35分までの圏内」におさまっている。
下に、『魏志倭人伝』が【倉頡の文字作成理論】を今日に詳細に正確に伝える対馬国から黒歯国までの34ヵ国の小国を配置する地図――【倭】の字源や「倭人国」という国名になった本州が時計回りに90度転回する日本列島像論・邪馬壱国山陰出雲説の地図を示した。
この地図の右側は東となり、現在の日本地図では「北」となる「旧国の山陰の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」つまり「現在の島根県と鳥取県西部」は、卑弥呼が居住した邪馬壱国であったことになる。
『魏志倭人伝』は「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆倭種なり」と記述する。
上図の、【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度方位が転回する地図」における「女王国・邪馬壱国の東(現在の日本地図の北)、海を渡ること千余里にして復た国有り」という小国名が不明の地域は隠岐群島の島前(どうぜん)である。
隠岐群島は出雲の北方(現在方位)約40kmの日本海上に浮かぶ島々をいう。島根半島・出雲に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成する島前と、その東北(現在方位)にある最も大きな島・島後(どうご)の4つの大島と、約180の小島からなる。
だから、『魏志倭人伝』は「4つの大島と約180の小島」を「皆」と表現した。
「隠岐群島の地図における方位規定」も【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度転回する」ゆえ、『魏志倭人伝』は「皆倭種なり」と説明した。
島前の南端は北緯36度、島前の北端は北緯36度10分ぐらいである。ゆえに、「倭人」と定義される「北緯31度30分~北緯35度35分」よりも高緯度に所在する。このため、『魏志倭人伝』には「隠岐群島」は「倭人」の「人」の字が削除されて「皆倭種なり」と記述されることになった。
『魏志倭人伝』は「皆倭種なり」という文に続いて、「又、侏儒国(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。(中略)。女王を去ること四千余里。又、裸(ら)国・黒歯(こくし)国有り」と説明する。
上図の右下に示したように、「隠岐群島より南に在り。女王が居住する邪馬壱国・出雲から去ること四千余里の、侏儒国・裸国・黒歯国」は北陸の三旧国であった。
「侏儒国」は「加賀」、「現在の石川県南部」である。
「裸国」は「越中」、「現在の富山県」である。
「黒歯国」は「能登」、「現在の石川県北部」である。
「侏儒国・裸国・黒歯国」は「倭人」の「北緯31度30分~北緯35度35分」より高緯度の「北緯36度10分(加賀の南端)~北緯37度30分(能登半島の北端)に所在する。
だから、「侏儒国・裸国・黒歯国」は「隠岐群島と同じく、皆倭種なりの国々」であったことになる。
◆『魏志倭人伝』はは「又、裸(ら)国・黒歯(こくし)国有り」という文の後に、「復た其の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文を続ける。
下図に示すように、「黒歯国の東南」には「船で行くと一年で参問(訪問)至るべき」という、「男鹿半島はじめ東北地方が有る」。
「黒歯国の七尾湾から佐渡への船行」は「倭の地を参問するに、海中洲島」ということになる。
「佐渡から粟島(あわしま)への船行」は「海中洲島の上に絶在し」と表現された。
「粟島から飛島(とびしま)までの船行」は「或いは絶え」となった。
「飛島から船越水道・男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域」は「或いは連なり、黒歯国から周旋五千里可りの後期縄文文化圏」ということになる。
上記したように、【倭】の転回方位規定だと「黒歯国の東南」には「男鹿半島・東北地方がある」。
だから、『魏志倭人伝』は「倭の地を参問する」という文を挿入した。
というのも、「黒歯国・能登の七尾湾」は「北緯37度12分」、「佐渡の中央」は「北緯38度06分」、「粟島」は「北緯38度30分」、「飛島」は「北緯39度12分」、そして「男鹿半島の北端(現在方位)」は「北緯40度」だからである。これら各地は、「倭人」という語の条件「長江口の北緯31度30分から黄帝陵の北緯35度35分」よりも高緯度に所在る。
ゆえに、「倭人」のうちの「人」の字は削除されて「倭の地を参問する」と表現された。
「男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域」は「今から約4070年前(紀元前4050前頃)に、中国から名門益氏の王子と若者たちが大海を渡って定住して、【倉頡の文字作成理論】と【黄帝の女性生殖器と出産の研究】や【精確な中国海岸線地図】・三皇時代の結縄・五帝時代の書契・夏代黎明期の夏音文字を教え広めた後期縄文文化圏であった。
上図の「男鹿半島から黒歯国までの船行」、そして「黒歯国から隠岐群島の船行」、さらに「隠岐群島から邪馬壱国・出雲の船行」は「卑弥呼時代における益氏が普及させた学術の渡来経路」であったことになる。
だから、女王国・邪馬壱国は倭人国における最高最大の学術都市であったことになる。
大和や九州地方の大都市を有する小国は経済的に邪馬壱国・出雲地方より優っていたかもしれないが?――邪馬壱国は大和や九州の大都市よりも学術都市として優っていたのである。
だから、卑弥呼は山陰出雲地方を倭人国の首都所在地と定めたのである。
以上のごとく、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倭】の字源「転回方位規定」にのっとって、下図のように――東北地方が東南に伸びる、転回本州地図を定めた」と説明していた。
下図は、明(みん)の建文(けんぶん)4年(1402年)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」の概略図である。
この地図には、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にのっとって「東北地方が黒歯国・能登の東南に在る、日本列島・本州地図」が描かれる。
15世紀初頭(1402年)にあっても、【倭】の字源を知っていれば「倭地図」は、当然、下図のごとく東北地方は東南に伸びることになった。
◆天の北極の水平線あるいは地平線からの高度(高さ)が31度30分ならば、その観測地点の緯度は北緯31度30分である。また、天の北極の水平線あるいは地平線からの高度が35度35分ならば、その観測地点の緯度は北緯35度35分である。
したがって、天の北極の高度は緯度に換算できる。
原始時代から現代まですべての時代、天の北極は真っ暗な闇であった。
しかし、現在は真っ暗な闇の一点である天の北極の高度を、天の北極を中心にして円を描く北極星のかたよりを計算して精確に計測することができる。
というのも、現在は正確な日付けの暦と精密に時刻を示す時計が存在するので、北極星の天の北極からのかたよりが誤差なく精密に測量できる。ゆえに、現在は天の北極の高度で精密に緯度が換算できる。
しかし、原始時代から古代においては、正確な日付への暦と精密に時刻を示す時計が存在しなかった。ゆえに、北極星の天の北極からのかたよりは精確に計算できなかったので、精密な天の北極の高度をキャッチすることができなかった。
下図における「円(の線)」は「天の北極」の位置である。
下図示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。
下図の天の北極を示す円の上に、りゅう座α星とこぐま座α星が重なって重なっているように見える。しかし、この二つの北極星は天の北極から離れて円を描いていた。
ゆえに、上記したように、原始時代から現代まですべての時代、天の北極は真っ暗な闇であった。
下図において、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から74年後のこぐま座α星である。
この二つの北極星は、天の北極を中心にして半径45分・直径1.5度(90分・満月の3個分)の円を描く。この二つの天の北極に最も近づく北極星でも、様々な技(わざ)や道具を用いてもヒトの肉眼では――満月の3個分(90分・1.5度)の直径(距離)の円の中心となる天の北極の位置を1分(90分の1)以内の精度で測定することができなかった。
上図の右上に示すように、3世紀(卑弥呼時代)の北極星は、こぐま座β星であった。
この北極星は、天の北極から半径10度・直径20度(1200分)で円周していた。したがって、直径20度・1200分の円を描く北極星で精確に1度の60分の1の1分以内の緯度差で測定することは不可能であった。
中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して、「こぐま座β星」を「太一神(たいいちしん)」と呼ぶようになった。
『魏志倭人伝』には「魏の正始元年(240年)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)が建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)らを派遣し、先の詔書・印綬を奉じて(持たせて)、倭国に詣(いた)った」という記事がある。
この帯方郡の使節は、天の北極やシナ天文で「太一神」と尊重する北極星(太一)で緯度測定して倭国に到着したのではなかった。
もしも、一行が天の北極・太一神にて緯度測定する方法を用いたならば、出発して間もなく一行は全員命を失っていた。
一行は、旅路の各地点で、原始時代以来の天頂緯度線をキャッチして精密に緯度を測定して、玄界灘をわたって倭地に到着したのである。
上記したように、正確な暦や精密な時刻を示す時計が存在しなかった古代においては、天の北極・北極星で緯度と経度測定する方法だと、人々は旅先で命を必ず失った。
原始時代からすべての古代において、天の北極・北極星を緯度計測の目安にすると、1度の60分の1の1分の精度で測量が求められた大海を渡ることができなかった。
したがって、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半ば)、天の北極・北極星で緯度測定する方法では、九州沖の大海・玄界灘を渡ることができなかった。
シナ天文が尊重した太一神・北極星を重視して「北」を「北」と定める現在の日本地図で、『魏志倭人伝』の本州地図の方位規定を考える現在の学者たちの意見の場合――倭と帯方郡の使者たちは九州の陸地から遠く離れる大海・玄界灘を渡ることができなかったことになる。
したがって、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかった。この結果、魏では倭国の様子について「知らぬ権兵衛(ゴンベエ)」つまりまったく知っていなかったことになる。
そうすると、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかったことになる。
実際には約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかった白紙に化ける――こんなキツネにつままれるびっくり仰天(ギョウテン)真っ白けとなる事態に対して、「なるほど! そうだったのか」と呑気(ノンキ)に感心して邪馬台国説学者たちの冗談(じょうだん)に賛成するわけにはいかない。
約2000字が太一神・北極星で「パッ」と白煙があがって1字も無くなる白紙になる、こんな白紙が『魏志倭人伝』の実体であったなんていう事実は、この世では絶対に存在するはずがない。
だから、本州地図の方位規定が【倭】の字源にのっとって時計回り90度に転回しない――「本州地図の〔北〕は現在の日本地図の地図の同じ〔北〕であった」と考えるすべての邪馬台国説は空理空論であったことになる。
◆原始時代から卑弥呼時代、さらにその後の古代において、旅する人々は旅先の各地で1度の60分の1の1分の緯度を測定できれば、家族が待つ家に帰還することができた。
下図の右上に示す「天頂緯度線」をキャッチすれば、1度の60分の1の1分以内の精度で緯度が精密に測定できた。
原始時代から、下図の右上に配する、人間の目は鍛錬すると1分以内の緯度差で「天頂緯度線と子午線」をキャッチする本能がそなわっていた。
「天頂緯度線と子午線」は【亠(とう)】の字源となり、【亠】の下に【幺(よう)】が加わって【玄】の字となった。
卑弥呼時代はもちろんその以前の夏代黎明期あるいは原始時代、人々は中国大陸から朝鮮半島から、また倭地から【玄】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡っていた。
「【玄】をキャッチすれば往来できる灘(なだ)、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であるから、「玄界灘」と名づけられた。つまり、「【玄】をキャッチすれば往来できる大海」であるゆえ、「玄界灘」と呼ばれることになったのである。
「1分以内の精度で緯度を精密に測定できる能力」を、人類は食料となる獲物を求めて旅(移住生活)をしていた原始時代から日々鍛錬して受け継いだ。
人類は本能的に、上図の右上に示した〔【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有する眼力〕を有していた。また、人類は〔【亠】をキャッチする技(わざ)〕を工夫して進歩させた。
だから原始時代や卑弥呼時代、人々は1分以内の精度で緯度が測定できた。
この〔【亠】をキャッチする眼力〕をもしも人類が有していなかったならば――人類は密林でおおわれる原始時代や氷でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。
人類が滅びなかったのは、日々鍛錬すれば〔【亠】をキャッチすることができる眼力〕と、その能力が本能として頭脳にそなわっていたからである。
原始時代や卑弥呼時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置を精確に測定できる方法は、〔【亠】のキャッチ〕、ただ一つのみであった。
北極星の高度で緯度を測量すると出発して間もなく位置(緯度)と経度(方角)が混乱して迷って命を失い、家族が待つ家に帰ることはできなかった。
だから、日々天頂緯度観測して眼力を鍛錬していた黄帝時代、前ページで「【玉】の字源解説図」を用いて解説したように――「経度と緯度の交合の習慣」つまり「経度軸に緯度の目盛りをつけ、緯度軸に経度の目盛りを加える、天頂緯度線測定する習慣」によって、地(地図)における方位規定は2種類存在するにちがいないと――多くの人々が考えるようになった。
それゆえ倉頡は、【禾】の字を作って「地(地図)における、時計回りに90度転回する方位規定」と、「地(地図)における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定義した。
倉頡以後、【禾】から【委】の字が作られた。さらに、【人偏(にんべん)】に【委】を加えられる【倭】の字が作られた。また【委偏】に【鬼】の字が加えられる【魏】の字が作られた。
前ページで証明したとおり――【委】・【倭】・【魏】の字は、倉頡が作った【禾】と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
◆『万葉集』巻一・45番は、「軽皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの)に宿られた時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌」という題名がつく、長歌である。
この長歌の後ろに、46番・47番・48番・49番の4首の短歌が続く。
これら長歌一首と短歌四首は、軽皇子(のちの文武天皇)の成年式が行われたときに作られた。
この軽皇子の成人式は――人麻呂が軽皇子とともに安騎野(奈良県宇陀郡大宇陀町一帯の山野)に宿泊して、人麻呂が【倉頡の文字作成理論】の学問を軽皇子(のちの文武天皇)に教授して行われた。
『万葉集』巻一・48番は、柿本人麻呂作の有名な和歌である。
この和歌は「東の 野にかげろひの 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」である。
都合よいことに、この歌の光景は、具体的に何年何月何日の何時何分であるかとつきとめようとした人が、二人いる。この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』53号で、わたくしは知った。これは、大和(おおわ)岩雄著『柿本人麻呂の安騎野の歌をめぐって』で説明され、その概要は次のごとくである。
――画家の中山正実氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂の曙の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統6年11月17日の午前5時55分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉集の旅(上)』にかかげる写真のため、彼の友人伊藤銀造氏が冬の阿騎野へ数年がかりで通われて、ついに昭和36年12月24日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間を撮影することに成功した。そして、この12月24日は、旧暦(太陰暦)に換算すると中山氏と同じ11月17日になる。
この二人の調査を理由として、阪下圭八氏は、『万葉集』48番の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいないと」と考えた。
また、この歌は、持統6年の天皇の伊勢行幸に関連する歌群と、持統8年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統6年か7年の冬の作歌と推定されている。
結局、『万葉集』巻一・48番の短歌は、持統6年(691年)か持統7年(692年)の冬至の午前5時55分前後の光景を詠む歌であったことになる。
冬至の午前5時55分頃、太陽は東南の地平線下に潜って出現していなかったが、東南の空は炎のように赤く染まっていた。
下図は――前ページで解説した〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕にもとづいて、持統6、7年の冬至の日の午前5時55分頃の東北の空に輝く銀河の様子を再現したものである。
当時、太陽が昇る東南より遠く離れる東北の空の地平線上には、上図に示すように、「三つ輪の銀河」・「十字の銀河」・「鬼の横顔に似る銀河」が輝いていた。
『万葉集』巻一・48番の原文は「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」である。
上図における「三つ輪の銀河」は【野】の字源である。ゆえに、人麻呂は「東北の地平線上に昇る三つ輪の銀河」を眺めて「東の野に」と詠んだ。
【炎】と【立】の字源は「十字の銀河」であった。それゆえ、人麻呂は「三つ輪の銀河の西となりの、赤くキラキラ輝く十字の銀河」「炎(かぎろひ)の 立つ」と表現した。
【反】と【見】の字源は「十字の銀河の西となりの、鬼の横顔に似る銀河の、後頭部とアゴにつく両目の銀河」であったから、人麻呂は「反(かへ)り見すれば」と詠んだ。
その時、「地平線近くの西空に月が見えた」ので、「月西渡」つまり「月かたぶきぬ」と表現した。
だから、48番の初句から3句目までの「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて」は「東の野原の地面から、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が立ちのぼる景色が見える」と詠む和歌ではなかった。
上図に示したように、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の南には「春の雪解けの河川の水に見立てられる銀河」と「春の雪解けの水が流れる池・湖に見立てられる銀河」が存在するが――この48番の和歌は冬至の午前5時55分頃の光景を詠むものであった。
「地面からゆらゆらと立ちのぼる陽炎」は春や夏などに見られるが、冬至の日の早朝には出現しないはずである。
ゆえに、48番の短歌は上図に示した東北の地平線から昇り始めた「三つ輪の銀河」・「十字の銀河」・「鬼の横顔に似る銀河」を詠むものであったことになる。
だから、人麻呂は「地図」とは無関係の「天体・天空の景色」を詠んだので、地図における【倭】の字源の転回方位規定にのっとって〔東〕を〔南〕と記さず、〔西〕も〔北〕と記さなかった。
「天体・天空」の「東・西・南・北」は「現在の星座版はじめ、天体の方位規定」と同一であった。ゆえに、48番の「東」と「西」の表記は正しいことになる。
以上のごとく、48番の和歌を注目して、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定は存在しなかった」と反論・否定する意見は早合点(はやがてん)・言いがかり・錯誤(さくご)ということになる。
このブログの前ページにて、〔十字の銀河の見かけの大きさ〕と名づけて、【夫】の字源を解説した。
【夫】の字源銀河は「十字の銀河」であった。
『説文解字』は、【夫】の字源を「丈夫なり。大に従ふ。一をもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、(中略)、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。
【人】の字源「十字の銀河の見かけの長は、周制で八尺(180㎝)」である。
『説文解字』が「簪(かんざし)」と指摘する「十字の銀河の頭上部分の二尺(45㎝)」は、「簪」よりも「成年式の時に、頭上にかぶる帽子や冠」に相似する。
ゆえに、48番の和歌は「軽皇子」を「十字の銀河」に見立てて、人麻呂は「軽皇子が成年式の冠をかぶると十尺・一丈となり、皇子の身長は八尺となって丈夫となった」と称えていたことになる。
よって、「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題する『万葉集』巻一・45番・46番・47番・48番・49番の5首は、持統天皇の愛孫・軽皇子の成年式が691年(持統6年)か692年(持統7年)の冬至の日の午前5時55分頃に行われた様子を詠む作品であったことになる。
◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究社発行)は「緯度の測定」と題して、次のごとく説明する。
「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、精密ではないが天の北極の高度で緯度を換算することができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度線と子午線による測定である。」
上記したように――正確な日付をあらわす暦や精密な時刻を示す時計が存在しなかった卑弥呼時代、北極星の天の北極からのかたよりで天の北極の高度を計算する方法では、1度の60分の1の1分の精密さで測定できなかった。だから、この方法だと、朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡ることができず人々は全員命を失った。
魏・帯方郡と倭の使者たちは、1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測定できる【亠】つまり「天頂緯度線と子午線」をキャッチして、朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡った。
上記したように――「天頂緯度線と子午線」による測定における「緯度と経度(子午線)の交合」によって、三皇時代にすでに地(地図)における方位規定は2種存在するにちがいないと提唱されるようになった。ゆえに、黄帝につかえた倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北方の地図における、時計回りに90度転回する方位規定」と、【呉】の字を作って「淮河より南方の地図における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。
卑弥呼は「日本列島・本州地図は時計回りに90度転回している」と立論して、国号を「倭人」と定めた。この【倭】は【禾】と同じく「時計回りに90度転回する、本州地図の方位規定」をあらわした。「倭人」の【人】は「長江口の北緯31度30分~黄帝陵の北緯35度35分までの4度の範囲内」をあらわし、た。つまり、この【人】の字で「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国は長江口から黄帝陵までの緯度内におさまっている」とあらわした。
にもかかわらず、新井白石以来今日までの300年間、学界やメディアは『魏志倭人伝』が説明する本州地図の方位規定は「現在の日本地図と同じであった」と断定する。
上記したように――「倭地図の方位規定は現在の日本地図と同じであった」と断定する天の北極・北極星を緯度の測定に用いると、倭と魏・帯方郡の使者たちは朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡ることができなかったことになる。
したがって、魏・帯方郡と倭は文書を送って伝える国交を結ぶことができなかったことになる。
この結果、魏では倭の様子をまったく知らなかったことになる。しかし『魏志倭人伝』は約2000字で構成され、倭の様子が詳細に記述されている。
邪馬台国説学者たちは――約2000字で倭の様子を伝える『魏志倭人伝』は、実は1字も文字が書かれていなかった――ことになる意見を、新井白石以来300年も主張し続けている。
こんなキツネにつままれたような冗談に呑気(のんき)に「ああそうですか」といつまでも賛成するわけにはいかない。
邪馬台国説は、白石が立論したハナ(最初)からリッパ(立派)な空理空論だったのである。
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