G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・序: 卑弥呼の逆襲

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2024年2月 7日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・序

邪馬台国説はイッサイガッサイ(一切合切)が空理空論

 

◆邪馬台国説は真っ赤なウソである。絶対に信じてならぬ。アホを見て損するから、信じるな。

 「邪馬台国説は正しい。空理空論ではない」というウソをまき散らし、デマを流す学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞社は日本国家と日本文化の土台をぶっ壊す最悪のガンだ。

 

 『魏志倭人伝』という文献は「倭女王卑弥呼は邪馬台国に居住した。邪馬台国は大和あるいは九州に所在した」なんて、イッサイ(一切)記述していない。

 『魏志倭人伝』の大半の記事は「卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住した。邪馬壱国は山陰出雲地方(現在の島根県東部)であった。今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論にのっとって――日本列島の東方の東海地方は南に伸び、東北地方は東北でなく東南に伸びていた。この時計回りに方位が90度転回して【東が南となり、東北が東南となる方位理論】は【倉頡の文字作成理論】によって成立した。この【時計回りに90度転回する方位論】は、【倭】の字源・原字(最初の字形)・原義(最初の字義)であった。ゆえに、卑弥呼は『倭人国』と【倭】がつく国家名にした――と説明していた。

 いいかえると、『魏志倭人伝』の大半の記事は【黄帝軍の遠征と、黄帝の医学研究(生命の誕生・産婦人科の医学)の業績を後世に伝えるために、倉頡が考案した文字作成理論】について詳細に正確に説明していた。

 2世紀末(170年頃)から3世紀中半(240年頃)に生存していた卑弥呼は約3200年前の【倉頡の文字作成理論】に精通する、当時における最高峰の文字学者であった。これゆえ、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】をもって34 の小国名や人名などを定めた。だから、倭女王に選ばれたのである。

 したがって、【漢字の起源・発明】について詳細にかつ正確に伝える『魏志倭人伝』は中国と日本はじめ人類にとって最も貴重で大切な至宝(しほう・宝もの)であった。

 

 だから、「大法螺吹(おおぼらふ)き! デタラメを言うな」と頭髪を逆立てて激怒するのは止めていただきたい。激髪(げきはつ)を逆立てる相手は邪馬台国説学者や「邪馬台国を正しい」と扇動するメディアにむけていただきたい。わたくしは今世紀最大の発見というべき【倉頡の文字作成理論】を探し当てたのです。ですから、「邪馬台国説は正しい」という、あなたの固い信念は一掃していただいて、「『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細にかつ正確に記述した書物であった」と完全証明する、この〔漢字の起源と発明を解明す〕というブログ・シリーズに興味を示して長時間のお付き合いをお願いしたい。

「短気は損気!」といいますから、「『魏志倭人伝』は【倉頡が考案した文字作成理論】であった」と証明するブログ・シリーズを楽しく読んで好意を抱いていただきい。

 

 倉頡(そうきつ)は【漢字作成における3つの基本アイディアを考案した。

この【アイディア】は下記の3つである。

★文字作成における3つの基本アイディア

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河の各部の形状】は「【黄帝軍の遠征と医学研究】をあらわす景色(データ)となることに気づいた。また、【夏の銀河の各部の形状】を注目すると、言葉や万物の事物・事象をあらわす図書(ずしょ・文字)が大量に図案することができることにも気づいた。ゆえに、倉頡は【夏の銀河各部の形状】を観察して造れば(図案すれば)、大量の文字が生まれる」という方法、つまり【文字作成理論】を発明した。

 【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河(銀漢)」である。「夏の銀河」は「銀漢」とも言う。「銀漢各部の形状を図案した文字」を略して、中国においても日本においても「漢字」と表記した。

 

Ⅱ 倉頡は「【女性の生殖器官(子宮)の正面形】と【花(朝顔)の生殖器官の側面形】は類似する。ゆえに、黄帝が研究した【女性の子宮の各部の構造・機能】は【花の生殖器官の構造・機能】を比較すると、よく理解できる」と説いた。また、倉頡は「長江(ちょうこう)の河口となる入江の形は花(朝顔)の形に相似する。「長江の河口となる入江」は「長江口(ちょうこうこう)」と名づけられる。この【長江口の形と朝顔の花の形が相似するという指摘】も、【倉頡の文字作成理論における、Ⅱの基本アイディア】に加えられた。

 これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝は江(こう・長江口)に至る」と記述している。江=長江口(北緯3130)の天頂には、「【子宮】のごとくに観える銀河部の中央」がめぐってきた。ゆえに、倉頡は「【子宮】のごとくに観える銀河部」と「【長江口】の地図の形」と【朝顔の花】の三者を比較して、「【黄帝の子宮の研究】をあらわす文字作成理論」を説いた。

 なお、わが国における「古語の朝顔」は「今の朝顔、今のキキョウ、今のムクゲなど」である。これらの花の側面形は地図における長江口の海岸線の形に相似する。

  「長江口の中央」には「崇明島(すうめいとう)」が在る。この「崇明島」は「朝顔の花冠(かかん)中央のめしべ・子房(しぼう)・胚(はい)のうの部分」に相当する。

 「女性の生殖器官の膣口(ちつこう・胎児が出産する出口)を「長江口の西端」に見立てても、またこの形を180度転回して「子宮底(しきゅうてい・子宮の底)に見立てても、「朝顔の花の形」に相似する。

だから、倉頡は「方位の北は180度転回して南となる」という転回方位論を立論した。つまり、倉頡は「天体においては南に多数の星が存在するゆえ南を正面としーー地図・地形においては、北を正面とする」と定めた。澄んだ水面や銅鏡の映像の向き(左右南北)180度転回する。ゆえに、『魏志倭人伝』には「銅鏡は倭人の好物なり」と説明する記事がある。

 また、前述したように倉頡は――【朝顔の側面形に相似する長江口】と【女性の生殖器官(子宮や産道)などの正面形】と比較する方法をもって、黄帝の女性の生殖器官の医学研究をあらわす文字作成理論を成立させた。この【女性の生殖器官】を【朝顔の側面形】に見立てる方法をもって、倉頡は「方位は時計回りに90度転回する。また、逆時計回りに90度転回する」と定めた。つまり、倉頡は「北は時計回りに90度転回して東となる。ゆえに、東は時計回りに転回して南となり、南は時計回りに90度転回して西となり、西は時計回りに90度転回して北となる」という方位論を定めて、この「時計回りに90度転回する方位論」をあらわす【禾(か・イネ)】の字を作った(【禾】の字源・原字・原義となった)。【禾】の字から【委】の字が作られ、また【倭】や【魏】の字が作られた。したがって、【禾】・【委】・【倭】・【魏】の4字は「時計回りに90度方位が転回して、北→東・東→南・南→西・西→北となる」をあらわすことになった。

 また、倉頡は【北は逆時計回りに90度転回して西となる。西→南・南→東・東→北となる】と定めて、【呉】の字を作った。後に【呉】から【誤】という字が生まれた。ゆえに、【呉】と【誤】は「逆時計回りに方位が90度転回する」をあらわすことになった。

 結局、倉頡は「()天体の正面の南は180度転回して地図の正面の北となる。()北は時回りに90度転回して東となる。()北は逆時計回りに転回して西となる」と定めた。この【複雑な3つの転回方位規則】は、「卑弥呼」の先頭字【卑】の字源となり、金文(周代に用いられた文字)の字形(図案)にて表現された。さらに「中国海岸線は大陸の東にあるゆえ、地図は天体の南を180度転回して北とし、中国大陸の海岸線は90度転回する東にある」と定められて、【卑】の字源・字義は「中国の海岸線」となった。

 

 次に、【臺()】と【壹()】の字源について説明する。

 『魏志倭人伝』の末部に「因()って臺に詣(もう)でる」(因詣臺)という文章がある。

この文中の【臺】は「魏都の洛陽(らくよう)」を意味する。【洛陽から黄河口(こうがこう・黄河の河口)中央部への方位】は【夏至の日の朝、太陽()出ずる地平線の東から30度の東北の地点】である。この【東北】を180度転回して【西北】にすると、【夏至の日の夕刻、日が没する西北の地点】となる。【洛陽から黄河口を結ぶ方角】は【夏至の日の朝、日が出ずる東北】となる。この【洛陽と黄河口を結ぶ東北】は【倉頡の180度転回方位規則】をあらわす「夏至の日の夕刻、日が没する西北を示す」と解釈されて、この「日が没する処(ところ)の基点となる【洛陽】は【臺】の字源」となった。だから、「洛陽」は「日が没する落陽(落日)」であった。というのも、【洛】の上に【草冠】を加えると【落】の字となる。ゆえに、「洛陽」すなわち「落陽」となるからである。

 【黄河口】は【渤海(ぼっかい)】に面する。【渤海の地図の形】は【朝顔の花冠の側面形】に類似すると見立てられた。これゆえ、【渤海の南岸の黄河口】は【朝顔の花冠の先端】と見立てられた。

 洛陽より東方の山東半島の南岸には、「日照(中国では「リーチャオ」と音する)市がある。日照は黄帝陵(こうていりょう・黄帝を祭る廟と墓)と同緯度の北緯3535分である。黄帝陵は以前において黄帝が居住した本拠地であり、黄帝の遠征軍の出発地点であったにちがいない。ゆえに、「黄帝陵と同緯度の日照」が「日が出ずる処(夏至の朝、日が出ずる東北の基点)」となって、【壹】の字源・字義となった。

 「山東半島の先端の南の東海岸」の地名は「石島(中国では「シータオ」と音する)」である。

 「日照の海岸から石島を結ぶ方位」は「夏至の日の朝、日が出ずる東から30度の東北(水平線上の箇所)」となる。つまり、「日照と石島を結ぶ山東半島の南岸」は「夏至の日の朝、水平線から日が出ずる東北を明確に示す処」となる。

 要するに、「黄帝時代はじめ三皇時代の人々にも、夏至の日の朝、日照から石島までの各地の海岸では、石島沖の30度の東北の水平線上から日(太陽)が昇る真っ赤な美しい朝焼けの景色が観察できた。というのも、日照から石島を結ぶ山東半島の海岸線は、緯度に対して30度に傾いているからである。だから、「日照・石島までの各地の海岸は、黄帝時代や三皇時代の人々が測量しなくても、夏至の日の朝に日が出ずる水平線上や地平線上の地点がキャッチできる処(場所)であった。

 だから、「洛陽が【臺】の字源あらわす聖地、黄帝陵と同緯度の日照(北緯3535)が【壹】の字源をあらわす聖地」となった。

 「黄河口と洛陽を結ぶ邪(なな)めの線」は「夏至の日の朝、日が出ずる処の東北」であるゆえ、「夏至の日の夕刻、日が没する処の西北」を表示しない。いっぽう、「日照と石島を結ぶ山東半島の南岸」は「夏至の日の朝、日が出ずる東北を明確に示す処」である。しかし、中国では東方が大海で西方が陸地であるゆえ「夏至の日の夕刻、洛陽から日が没する方角」は「中国の陸地の地平線上の地点」となる。このように、「水平線上」と「地平線上」では両者が異なるゆえ、「洛陽から日が没する西北の地点を結ぶ邪(なな)線」は、単純すぎて合理の上に合理を重ねる意見ではない。このために、【合理を超える超合理によって成立する、倉頡の文字作成理論】として認められなかった。だから、「日照と石島を結ぶ邪(なな)め線に合致する(平行となる)洛陽と黄河口を結ぶ線の先は水平線上(渤海の海上)」となるゆえ、【倉頡の文字作成理論】を表示する【合理を超える超合理】・【学問知識】と認められることになったのである。

  さらに、【渤海は「朝顔の花」に見立てられた】ゆえ、【渤海の北を180度転回する処となる洛陽】は【朝顔の臺(台・うてな・萼)に相当する土地測量基点となる。ゆえに、「洛陽」は【臺】の字源となった。

 だから、『魏志倭人伝』を著わした晋(しん)の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)は「因詣臺」つまり「因って臺・洛陽に詣でる」と表現することにしたのである。

 

 これから〔文字作成における3つの基本アイディアのⅢ〕について説明する。
★文字作成における3つの基本アイディア
Ⅲ 倉頡は「大量の文字を生む母体(万物の母)となる銀河」を定めた。この銀河を、わたくしは「十字の銀河」と名づけた。また、倉頡は「大量の文字を生む銀河部」も定めた。わたくしは、この銀河部を「十字の銀河の子宮」と名づけた。今から約5000年前の黄帝時代、「十字の銀河の子宮の中央」に長江口(北緯3130)の天頂緯度線(+赤緯3130)が貫通していた。つまり、黄帝時代、長江口の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってきた。
 下には「十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」を図示し、「今から約5000年前の黄帝時代の黄帝陵と長江口の天頂緯度線」を加えた。

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 上図の「十字の銀河の腰」には「十字の銀河の子宮」がある。上図に示すように、黄帝時代の黄帝陵(北緯3535)の天頂には「十字の銀河の頭部中央(+赤緯3535)」が貫通し、そして長江口(北緯3130)の中央部の天頂には「十字の銀河の子宮中央部(+赤緯3130)」が貫通していた。

  「十字の銀河の見かけの身長」は「成人女性の身長よりもずっと高く、成人男性の身長よりも少し高い180㎝くらいの大男」に見えた。

  倉頡は「十字の銀河の子宮」を「一大(いちだい)」と名づけた。「【一】の字源の子宮から大量の文字が生まれる」ゆえ、「一すなわち大(大量の文字)」と立論したのである。

  古代の人々が「字書の聖典」と呼んで尊重した、2世紀初頭に成立した後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は【天】の字を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説した。

「至高にして上なし」は「最も高くしてそれ以上の上が無い天頂」を意味する。「一大に従ふ」は「一すなわち大(大量の文字)の文字を生む十字の銀河の子宮」を説明していた。

つまり、「一大に従ふ」は上図に示す「十字の銀河の子宮の名」は「一大」であり、「黄帝時代、長江口中央部に一大の銀河部(十字の銀河の子宮)がめぐってきた」と後世に伝えるものであったことになる。

そして、倉頡は「十字の銀河の子宮」は「大量の文字が生まれる子宮」であり、「頭脳は考えて文字を生む(知る)箇所であるゆえ、結局、大量の文字が生まれる箇所」であるゆえ、【頭イコール子宮】と立論した。つまり、倉頡は「十字の銀河の子宮は大量の文字を知ることができる十字の銀河の頭(頭脳)に共通する」と定めた。【頭=子宮】と定める奇怪な理論をとなえたために、倉頡は「四つ目の怪人」と呼ばれた。

上図の「十字の銀河」の右隣(西隣)に、わたくしが「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた箇所がある。「鬼の横顔に似る銀河の顔」には「左右二つの【目】の銀河部」がある。また、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部」には「【目】の字源となった、【目】に酷似する銀河部」があり、さらに「鬼の横顔に似る銀河のアゴ」にも「細い切れ長の【目】の形をした銀河部」がある。

だから、「鬼の横顔に似る銀河の顔と、鬼の横顔に似る銀河の首」には「合計四つの【目】の銀河部」がある。だから、倉頡伝説において倉頡は「四つ目の怪人」と呼ばれることになった。

下図に示すように、「十字の銀河」は【天】と【大】の字源銀河(字源・字形モデル・字義)となった。

下図の【天】と【大】の契文(けいぶん・甲骨文字)と金文(きんぶん・周代に用いられた文字)は、「【天】と【大】の字源は【十字の銀河】である」と伝えている。ゆえに、契文と金文の【天】と【大】は「銀河文字」ということになる。このため、時々、わたくしは「銀河文字」とも呼ぶことにした。

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『魏志倭人伝』は「対馬国の次の小国は、一大国」であると記す。 前述したように「一大」は「十字の銀河の子宮の名称」であった。ゆえに「一大国」は「十字の銀河の子宮【一大】をあらわす小国」であったのである。

また『魏志倭人伝』は「伊都(いと)国に男王の一大率(いちだいそつ)が居住し、一大率は魏と倭の国交に用いる文字に精通し、【倉頡の文字作成理論】や大量の銀河文字の知識の持ち主であった」と読解できるように記述している。

この『魏志倭人伝』の記事は「倭女王卑弥呼は男王の一大率に諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。常に一大率は伊都国に居住して治めていた。国中において刺史(しし・罪を厳しく罰する警視庁の長官)のごときであった。

(魏・帯方郡と倭の王)たちが使者を遣わして、京都(けいと・洛陽)や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と倭国など諸国に詣(もう)でり、および帯方郡に倭国が使者を派遣するとき、伊都国の津()で捜露(そうろ・魏や帯方郡の楷書の字源となる銀河と倭の銀河文字の字源となる銀河が合致するように捜して露わ)にして、魏・帯方郡と倭国が文書を送り伝えあって賜(たまわ)る遺物を女王卑弥呼に届けたときに、差錯(ささく・点検し確認して相違)しないようにしている」と説明している。

したがって、「魏や帯方郡と倭の伝送の文書」というようにズバリ「文書」と記するゆえ――伊都国の役人たちは、伊都国の港で、倭の卑弥呼が用いる銀河文字の字源銀河と魏・帯方郡の楷書の字源銀河を捜露して差錯しないように、倭から送る銀河文字を楷書に書き換えた文書や魏・帯方郡が用いる文書の楷書を点検して正確に翻訳していたことになる。

だから、一大率は魏・帯方郡が文書に用いる楷書と卑弥呼が用いる銀河文字を大量に知っている頭脳の持ち主であったことになる。一大率は倭の諸国の王たちが〔倉頡が考案した漢字作成における3つの基本アイディア〕を暴露する大罪を検察し、あるいは〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕を検察して死刑にする大王であったのである。ゆえに、『魏志倭人伝』は「諸国の王たちは死刑となるのを恐れて、一大率を畏れ憚ってていた」と記述している。

あるいは、『魏志倭人伝』は「すなわち一女子を立てて王となす、名づけて卑弥呼という」と記す。この文章は「一大率と卑弥呼が共に立って、【倉頡が発明した文字作成理論】が国中に知れ渡り反体制たちに習得されて反乱や革命に利用されないように厳重な機密にして、倭国を統治していた」と説明していたことになる。

倭国では、書いた銀河文字が用済みになったならば必ず銀河文字を消さなければならなかった。というのも、これを怠(おこた)った王や女王や巫女(みこ)たちは【倉頡が死刑と定めた掟】にのっとって死刑となり、家族および一族全員までも死刑となったからである。その証拠に、『魏志倭人伝』には「倭人が法を犯したとき、軽いものでも、その妻子を没収する。重いものは門戸(もんこ・家族)および宗族(しゅうぞく・一族全員)を殺す」と記述する。ゆえに――書いた文字が用済みになったならば必ず消さないものや、難解な表現で【倉頡の文字作成理論】を説明せずに、容易に理解できるように率直に・単刀直入に【倉頡の文字作成理論】を説明するものは、最悪の大罪を犯したことになり、その大罪者の家族はじめ一族全員までも死刑となった――のである。

だから、卑弥呼時代(170年頃~240年頃)の銀河文字を書く史料は後世に発掘されず出土しないことになった。(ただし、銀河文字を書く史料は数例出土している。しかし、定説はわが国が漢字を最初に習得したのは5世紀ないし6世紀であると断定する。このため、出土した数例の銀河文字は文字ではない、史料価値の無いものであると断定されて廃棄されている)

だから、わが国には今から約4050年前頃の夏代(かだい)初頭、その黎明期(れいめいき)に帝王となった名門益(えき)氏を受け継ぐ王子はじめ若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方・男鹿半島地域に定住して、その北側の米代川(よねしろがわ)流域まで進出して三皇時代の結縄(けつじょう・易卜に用いる記号)と、五帝時代に作られた書契(しょけい・最初の文字)と、夏代黎明期の夏音(かおん)文字を伝えた。

夏音文字については、712年に編纂された『古事記』上巻并(あわ)せて序において難解な文章で説明され、『古事記』上巻の各部には「此の四字、あるいは十字は音を以(もっ)て」という注釈がついて多数の夏音文字は楷書で記されて残っている。そして、『魏志倭人伝』においても【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に伝える文字もまた夏音を楷書で記し改めて残っている。

わが国の学界は「わが国は5世紀あるいは6世紀に初めて漢字を習得した。この意見は絶対に正しい」と断定する。この定説は、『魏志倭人伝』の記事や『古事記』上巻并せて序の文章を誤読し、『古事記』上巻に多数残る夏音を無視した空理空論であったのである。

 

◆倉頡(そうきつ・ツンギ)はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であると気づき、もしも黄帝王朝を敵とする一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡(ツンギ)は下に記す3つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

★倉頡が死刑と定めた3つの掟

Ⅰ 倉頡は夏の銀河(銀漢)各部の形状から作られた文字の秘密を容易に理解できるように率直に説明して暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その者の家族そして一族全員皆(みな)殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称をつける工夫をした者はじめその家族および一族を皆殺しにすると、倉頡は定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族及び一族全員死刑にすると、倉頡は定めた

 

 「文字を作った銀河」は「夏に長時間見ることができる、夏の銀河」である。

下に「銀漢=夏の銀河の写真」を示した。この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。

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上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅡ〕は【倉頡の文字作成理論】が容易に習得できるようになるため、王朝の滅亡をふせぐ方法であった。だから、「夏の銀河各部の名称」は存在しない。

 しかし、夏音文字・契文(けいぶん・殷代後半に用いられた甲骨文字)・金文(きんぶん・周代に用いられた文字)はじめその後に作られた楷書などの字源は銀河各部の形状であったゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して中国でも日本でも「漢字」と呼んだ。この秘密を容易に理解できるように解説するためには「夏の銀河各部の名称」が必ず必要である。

  これゆえ、わたくしは下図のごとく「銀河各部の名称」を定めた。

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 〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅢ〕は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文によって破られた。というのも、契文の字数は4600(字の種類)以上となっていちいち消すのが大変面倒になった。さらに、銀河各部の形状を字源としない文字も相当数作られるようになり、この銀河各部の形状を字源としない文字は文章を作るにあって不可欠となったため、Ⅲの掟は殷代後半から破られて後世に発掘されることになった。

 しかし、〔倉頡が死刑と定めた掟のうちのⅠとⅡ〕は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられたため――現代の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられている。そして、中国には夏の銀河に漬()かる星宿(星座)の名称はいくつか存在する。しかし、夏の銀河の各部にはそれらをあらわす名称が一ヵ所も無い。なぜ、銀河部には名称が存在しないのか?」と誰も疑問をまったく抱かない。このために、わが国には今から約4070年前頃に夏音文字が伝来し、その夏音文字は『魏志倭人伝』に楷書に書き代えられて【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に伝え、『古事記』上巻の各部には多数の夏音が記載されて残っている事実に、誰もまったく気づかない。

 ところが、()紀元前3000年頃に【倉頡が漢字作成理論】を発明して作ったツンギ文字(倉頡文字)や五帝時代に書契(しょけい)と呼ばれた銀河文字と、()紀元前2090年頃~同2070年頃に帝禹()と帝益が治めた夏代黎明期に作られた夏音文字(銀河文字)と、()紀元前1600年頃~同1300年頃までの殷代前半に作られた銀河文字は、上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕を厳重にまもった。このため、『魏志倭人伝』に【倉頡の文字作成理論】が詳細に正確に説明されていても近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

また、夏代黎明期の銀河文字(夏音文字)が『古事記』上巻に多数残っているにもかかわらず、近世・現代の学者たちによって「わが国が最初に漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されることになった。

 

 【学】の字源は【倉頡の文字作成理論】である。したがって、「学問」の語源も【倉頡の文字作成理論】である。

だから、『魏志倭人伝』は「【学】の字源・原義(最初の字義)を説明する文献」、あるいは「ツンギ(倉頡)文字について詳細に説明する書物」、あるいは「倭女王卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】とツンギ文字に精通する偉大な女王であった説明する本」であったことになる。

紀元前5世紀・同4世紀に生存した中国の戦国時代の思想家の老子の教えは『老子』と呼ばれる書物によって今日に伝えられる。第一章から第三十七章までの『老子』上篇(道経)は「【倉頡の文字作成理論】はじめツンギ文字の秘密を説明し、またツンギ文字にもとづく老子の考えや思想を説明する書物」であった。

 『老子』第二十章の冒頭は「学を絶てば憂(うれ)い無し」である。この文は――【学】すなわち【倉頡の文字作成理論】やツンギ文字の研究をやめてしまえば役人につかまって死刑になる心配はまったく無くなる」と意味した。

『老子』第一章冒頭の「道の道とす可きは常の道に非ず」という文は――【道】の字源と「道」の語源は日常的に用いられる「人や車などが行き来するところ。道路」を意味しない。【道】の字源・「道」の語源は「天頂に通過する軌道。天頂緯度線」であると説明していたのである。その後に続く文は「名の名とす可きは常の名に非ず。天地の始めには名は無し。万物の母には名が有り。云々(うんぬん)」である。この文は――【名】の字源・「名」の語源は日常的に用いられる「名前。呼び名。姓に対して下の名前。あるいは姓名」では非ず。天地の始めすなわち【天】と【地】の字が生まれていない三皇時代より以前は【名】という文字・「名」という語は存在しなかった。倉頡が「万物を生む母の銀河の部分」を定めてから【名】の文字と「名」という語が存在することになった。云々――と説いていたのである。

だから、上記したように三十七の章で構成される『老子』上篇(道経)は「難解な文章で【倉頡の文字作成理論】について老子の意見や思想を語る書物」であった。

 

紀元前91年に完成した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には【黄帝の胎児の出産の研究と倉頡が発明した文字作成理論】ついて記述されていない。というのも【黄帝の医学研究と倉頡の文字作成理論】については「容易に明確に察知できるように説明する者は即刻に死刑、またその者の家族および一族を皆殺しにする」と決まっていたからであった。だから、司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)に【黄帝の胎児の出産の研究と倉頡の文字作成理論】について記述しなかった。

そのうえ、司馬遷は「太史公」でよばれ、「太史令」をつとめていた。「太史公」という呼称、「太史令」という職は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく取り締まる役職の長官」であった。「司馬」という姓も「【学】の字源【倉頡の文字作成理論】を厳しく取り締まる」と意味した。ゆえに、自らの職責を犯すわけにはいかず、【黄帝の生命の誕生=出産の研究と倉頡の文字作成理論】について記載しなかったのである。

このような事情により、司馬遷は二十歳になった紀元前126年に真っ先に江(長江口)――つまり、倉頡が長江口と朝顔の花をもって【黄帝が研究した女性の生殖器官】を比較して【倉頡が文字作成理論】を考案した――、その江(長江口)に旅し、その後に漢のほとんど全域に周遊し、つぶさに民情に接し、史蹟を見学している。

上記の「黄帝時代の天頂緯度の図」に明示したように――朝顔の花冠の形に相似する長江口中央(北緯3130)の天頂緯度線は「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。 【倉頡の文字作成理論の体系(組織)の基本】は「長江口・朝顔の花冠・十字の銀河の子宮、そして【黄帝の女性生殖器と出産の研究】の四体合一」であった。正確な史書を著述するためには【倉頡の文字作成理論】に精通することであったため、司馬遷は真っ先に長江口に旅し、文字が最初に作られた五帝時代初頭の黄帝時代の歴史を、『史記』の冒頭に記述することにしたのである。

上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎博士が執筆した「邪馬臺国の位置論」には――「内藤は、中国の古典では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることから、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべしとした」と指摘する文がある。

この文冒頭の「内藤」は「明治時代の歴史学者・内藤湖南博士」であり、文中の『後魏書』は6世紀(554)に成立した。だから、6世紀の中国でも、倉頡が立論した「方位が180度転回して〔南〕が〔北〕となり、また【禾】と【倭】の字源となった時計回りに90度転回して〔東〕が〔南〕になり、あるいは【呉】の字源となった逆時計回りに〔東〕が〔北〕となる」と定める【倉頡が定めた、長江口・朝顔の花冠・十字の銀河の子宮・黄帝の女性の生殖器官の研究の四体合一による転回方位規則】は失われていなかったことになる。

したがって、『魏志倭人伝』(『魏志』倭人の条)は「170年頃~240年頃に生存していた卑弥呼は、【禾】・【倭】の字源にもとづき、倉頡が考案した〔東〕は〔南〕になると定める転回方位規則にのっとり、日本列島における本州の〔東〕は〔南〕へ伸びると定めた」と説明していた。

 

  『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹(やまい)国」と記す。だから、「邪馬臺(やまたい)国」と記していない。

280年~289年に成立した『魏志倭人伝』より後世(398年~445)に成立した『後漢書』倭伝には――「邪馬臺国」という4字に「今、名を案ずるに邪摩惟(やまい)という音之訛(なま)り也」という注釈がつく。

 「邪摩惟」は「やまい」と音する。そして、「邪摩堆」ならば「やまたい」と音するゆえ、「邪馬臺=邪摩堆(やまたい)」となる。一方、「邪馬壹国」の「邪馬壹」は「邪摩思惟(やまい)」と音する。

したがって、『後漢書』倭伝は――今、『後漢書』が成立した398年~445年、邪馬臺国という名の「邪馬臺(邪摩堆)」は卑弥呼が居住した邪馬壹国の「邪馬壱(邪摩惟)」という音の訛り也」と注釈していたことになる。

そして、『後漢書』が成立した4世紀末~5世紀半ばは、「大和(奈良県)」に首都が所在していた。ゆえに、「邪馬臺国」は「大和」であった。しかし、『魏志倭人伝』に記載される2世紀後半~3世紀中半までの卑弥呼が居住した王国「邪馬壹国」は「大和」ではなく「山陰の出雲」であった。

だから、『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤記ではない。卑弥呼は邪馬壹()国に居住したのである。

強引に「邪馬壱()国は誤りで、邪馬台()国が正しい」と断定する邪馬台国説は「誤読の空論」となる。『魏志倭人伝』に登場する「一大国」は「今の長崎県北部の壱岐」である。「壱岐」は「いき」と読むゆえ、夏音では【壱()】は「い()」であったことになる。だから、『魏志倭人伝』に記されているように、卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壹()国」であったことになる。

1060年に編纂された『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す」といった――と書く記事がある。

 「後稍(稍々)夏音を習う」という文は「壬申(じんしん)の乱の後、夏音は楷書を字音に用いて稍々復興することにした」と意味した。ゆえに、第7回遣唐使が派遣された10年後の712年正月に『古事記』が成立した。『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、『古事記』上巻には多数の夏音が記載されている。『古事記』上巻の全体には大量の中国が用いる楷書が用いられているが、わが国の夏音をあらわす楷書(字音)の字数は上巻全体の大量の楷書の字数に比べると「稍々」となる。

ゆえに、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻并(あわ)せて序は「『古事記』上巻だけに記載した夏音には難解な文章で説明することにしました。夏音は【倉頡の文字作成理論】の色濃く残していますから、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕を厳重にまもって非常に難解な文章を作って説明することになりました」と表現していたことになる。

このように、『古事記』上巻には、わが国は夏代初頭に習得した夏音文字の字音だけが楷書を字音に用いて多数記載されて残っている。

 

◆わが国における古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は9ページの終わりの3行目~10ページの始めの3行目までで、【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘する。

 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原則的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

現存する中国における最古の字音は「上古音」とよばれ、この上古音において最古の紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の字音である。

上記した白川静著『字統』が「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のもので明らかになった」と指摘する字音は、『古事記』上巻に「音」という注がつく夏音である。夏音文字と夏音は、紀元前21世紀(紀元前2070)、夏代初頭に習得された。だから、わが国が最初に習得した夏音文字は、白川静著『字統』が指摘したとおり中国の最古の上古音よりも約1000年も古い。したがって、わが国には確かに紀元前21世紀に夏音文字は伝来して習得されていたことになる。

 『古事記』上巻だけでなく、『魏志倭人伝』にも小国名はじめ人名などで現存する最古の字音・夏音が多数残っている。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読み、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読めば夏音となる。夏音では「卑弥呼」は「ヒミコ」と読み、中国の上古音では「卑弥呼」を「ピミカ」と読んだ。

考古学が出土史料を最も重視して「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀であって、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばには漢字は習得されていなかった」と断定する絶対的な定説は、『魏志倭人伝』の記事を誤読して強引に単純化して結論を出した事実に反する空理空論・空想であったのである。

 『魏志倭人伝』は――夏代初頭に、名門益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて九州に上陸し、夏の始祖・帝禹()の都(現在の北京)と同緯度(北緯40)の男鹿半島・八郎潟の東岸にて到着して定住した。だから、わが国には夏代黎明期の夏音文字が伝来し、【倉頡の文字作成理論】も習得された。卑弥呼は夏音を楷書にてあらわし、統治する35の小国の名と卑弥呼王朝をささえる人物の名を【倉頡の文字作成理論】を用いて定め、鬼道(きどう)を祀って人心が一つになるように治めていた――と説明している。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に正確に伝える。ゆえに、『魏志倭人伝』はいまだ世界中にあって一例も文字の起源が具体的に明確になっていない現在、特別に重大な、世界的に第一級の人類にとって最高に貴重な文献であったのである。

 

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