G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・2: 卑弥呼の逆襲

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2024年2月14日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・2

新井白石の邪馬台国説は空理空論だった

 

◆中国には「黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説がある。

  この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」と断定される。

  しかし、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』は、「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は漢字を発明した」と説明している。

  言いかえると、『魏志倭人伝』において最も重大の記事は【倉頡が発明した文字作成理論】にのっとって構成されている。

『魏志倭人伝』は約2000字で書かれており、晋(しん)の歴史編纂官(著作郎)が著作した。

  江戸時代中期に生存した儒者(じゅしゃ)・政治家の新井白石(あらいはくせき・1657年~1725)は邪馬台国大和説をとなえ、さらに後年に邪馬台国九州説を提唱した。この邪馬台国説を絶賛し、現在の学者たちやメディアは「新井白石は、『魏志倭人伝』にはじめて学問的検討を加えた人物である」と賞賛する。

でも、しかし事実は、白石は日本史上において最初に『魏志倭人伝』に誤読の空理空論を加えて、【倉頡の文字作成理論】を抹殺(まっさつ)した実に愚かな人物であった。

『魏志倭人伝』は、白石が主張するように「倭女王卑弥呼は邪馬臺()国に居住した。邪馬臺()国は大和であり、あるいは九州に所在した」なんて、イッサイ(一切)記述していない。

『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壹()国に居住した。邪馬壹(やまい)国の中心は山陰出雲地方(現在の島根県東部)であった。今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明した漢字作成理論にのっとって――卑弥呼は日本列島の本州東方の東海地方は南に伸び、東北地方は東北ではなく東南に伸びていると立論する転回日本列島像論をもって倭人国を統治した。この時計回りに方位が転回して【東の東海地方が南となり、東北地方が東北ではなく東南となる転回方位理論】は【倉頡の文字作成理論】にのっとって成立した。この【時計回りに90度転回する方位論】は、【倭】の字源・原字(最初の字形)・原義であった。ゆえに、卑弥呼は〔倭人国〕と【倭】の字がつく国家名にした――と説明していた。

言いかえると、『魏志倭人伝』の主なる記事は【黄帝軍の遠征と、黄帝の医学研究(生命の誕生・女性の生殖器官、つまり産婦人科の医学)の業績を伝えることができる、倉頡が考案した文字作成理論】について詳細に正確に説明していた。

 

倉頡は【夏の銀河各部の形状】を図案して字形を作り、字形となる銀河各部が字源と字義となる文字を発明した。「夏の銀河」は「夏に長時間見ることができる銀河」である。

「夏の銀河」は「銀漢」とも呼ばれ、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

◆『魏志倭人伝』には「今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭の直前)、中国から名門益氏の王子と若者たちが大海を越えて、日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住して、夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)の学芸を教え広めた」と解釈できる記事がある。この益氏の定住によって――「夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする文字(漢字)」が習得された。この銀河文字は「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者も、氏族共同政治体制を滅亡させる死刑にあたいする最も重い大罪を犯したゆえ、神罰が下されて罪を犯した本人はじめその家族および一族全員をも死刑にする――と、倉頡は〔死刑とする掟〕を定めた。

ゆえに、益氏から習得した夏音文字の字形を書いた史料は後世に出土しないことになった。しかし、五帝時代に作られた文字(書契)と夏代黎明期に作られた夏音文字の字源と字義は、夏の銀河各部の形状となって残った。

五帝時代の書契と夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』に魏や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)が用いる楷書が〔音(音をあらわす文字)〕となって表記された。『魏志倭人伝』に記載された35の小国名と人名などを表記する楷書は、夏音文字の字音をあらわした。

712年正月28日に成立した『古事記』上巻の各部には、〔音〕という注がついて多数の夏音文字の字音が残っている。『古事記』上巻并(あわ)せて序は、非常に難解な文章をもって「夏音文字の習得と〔音(夏音)〕を記す楷書について」解説している。

  したがって、考古学はじめ学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する定説もまた、邪馬台国説と同様に空理空論であった。

  170年頃~240年頃に生存していた卑弥呼は約2200年前に名門益氏の王子一行が教え広めた【倉頡の文字作成理論】に精通する、当時における最高峰の文字学者にして歴史学者であった。

だからこそ、卑弥呼は倭女王に選ばれたのである。

 

  上記したように、紀元前2050年頃の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭直前に、東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住した益氏の王子と若者たちが【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を教え広めたため、わが国は今から約4070年前頃に始めて漢字を習得した。

このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕の末部で指摘したように――紀元前5世紀・同4世紀に生存した中国の戦国時代の思想家の老子の教えは『老子』と呼ばれる書物になって今日に伝えられる。第一章から第三十七章までの『老子』上篇(道経)は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を説明し、また【倉頡の文字作成理論】にもとづく老子の意見や思想を述べる書物」であった。

『老子』第二十章の冒頭は「学を絶てば憂(うれ)い無し」である。この文は――【学】すなわち【倉頡の文字作成理論】の研究や復興運動をやめてしまえば、王朝と国家を滅亡させる大罪を犯さないことになるゆえ、役人につかまって死刑になる心配はまったく無くなる――と意味した。

老子が伝えているように、【学】の字源は【倉頡の文字作成理論】であった。

そして、【爻(こう)】の字源もまた【倉頡の文字作成理論】であった。

というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、【爻】の契文形(殷代後半の甲骨文字の字形)と金文形(周代に用いられた字形)について「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説するからである。

白川静著『字統』は【学】の契文形と金文形について「もと屋上に千木のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文(契文)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律化の生活がなされたのであろう」と解説する。

『字統』が指摘するとおり――【爻】と【学】の契文形と金文形は両者とも「屋上に千木のある建物の形」を図案している。

ゆえに、『老子』第二十章冒頭の「学を絶てば憂い無し」の【学】の字源は【倉頡の文字作成理論】であった。

また、【爻】の字源も【倉頡の文字作成理論】であった。
 下の左図は「わが国の屋上に千木のある神社建築の絵」であり、その絵の右側に【爻】・【学】の契文(卜文)前期の字形を配した。

【爻】の契文前期の字形は「わが国の神社建築の屋上にある千木」を図案し、【学】の契文前期の字形は「わが国の神社建築の屋上にある千木と神社建築の形」をデザインしている。

契文前期の字は、今から紀元前1300年頃かあるいは同1200年頃の殷代(いんだい)後半に使用された。

だから、「わが国の屋上に千木のある神社建築」が証明するように――考古学はじめ学界が主張するように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ではない」。

わが国は――契文前期の字形が出現した紀元前1300年頃~同1200年頃より750年前~850年前の紀元前2050年頃の夏代初頭(後期縄文時代の直前)に、【学】と【爻】の字源【倉頡の文字作成理論】と、三皇時代の結縄(けつじょう・易卜に用いる記号)と五帝時代の書契(しょけい・最初の漢字)と夏代黎明期の夏音文字を習得していたのである。

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◆下図に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹(やまい)国」と記す。

 わがブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序と1〕で詳細に解説し証明したとおり――【臺()】の「日没する処」と、【壹()】の「日出ずる処」の字源は同じではなく、別々に独立する。

だから、新井白石や邪馬台国説学者のごとく、「邪馬壹国」を強引に「邪馬臺国であった」と断定する意見は即刻に空理空論となる。

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 『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が統治した国家名は「倭人国であった」と記す。

 【倭】の字源は「現在の日本列島の本州地図の方位を、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて時計回りに90度転回する方位規則」であった。

  下図に示すように、円の内側が現在方位名、円の外側が『魏志倭人伝』に記載される時計回りに90度転回する方位名である。

 下図のごとく、現在の北は転回方位の東、現在の東は転回方位の南、現在方位の南は転回方位の西、現在方位の西は転回方位の北となる。

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 下図に示す「現在の長崎県対馬」を『魏志倭人伝』は「対馬国」と記し、「現在の長崎県壱岐」を『魏志倭人伝』は「一大国」と記す。

 そして、『魏志倭人伝』は「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南」と説明する。ゆえに、対馬・一大国の方位は現在方位と同一である。

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 しかし、次の九州西部の末盧(まつろ)国から伊都(いと)国の旅程基点の方角は現在方位の「東北」でなく、転回方位の「東南」と記す。そして下の〔転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図〕に示すように、【末盧国以下32の小国が所在する本州西部の地図】は【倭】の字源「転回方位」にのっとって現在の日本地図の方位を90度転回して北は東、東は南、南は西、西は北に転回する形式となっている。

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  上図の右側に示すように、卑弥呼が居住した王国「邪馬壹()国は山陰出雲地方」、つまり「現在の島根県と鳥取県西部であり、旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」であった。

  上図の転回日本列島像論は卑弥呼が立論した日本列島地図の形と34の小国の位置をあらわしている。

この卑弥呼が考えた転回日本列島像論は、『魏志倭人伝』に記載された全方位名と一ヵ所も不合理ではなく一点も矛盾しない。

また、35の小国名と配置は互いに隣や他の小国名と密接に関連しあって合理を超える超合理が成立して、一つに系統的な合理的認識が構築されるようになっている。

言いかえると、上図の転回日本列島像論における34の小国名と配置は――現代の分子生物学でDNAという小さな場に大きな情報が入っていると事実に合致し、また、上図の転回日本列島像論は――記憶情報が大脳の全体にひろがっていて局所的ではないという現代の大脳論・ホログラフィーの科学にも適合する。

「現代科学批判に最も強力な力を秘めるという、【合理を超える超合理】」を、現代の西欧の先端科学者たちは『老子』から起源すると思ったが――『老子』上篇は【倉頡の文字作成理論】を説明するものであった。

したがって、【合理を超える超合理】は倉頡から起源する思考方法であった。【合理を超える超合理】の考え方は、【倉頡の文字作成理論】における神髄(しんずい)であった。

だから、上図の卑弥呼が考えた【倭】の字源にもとづいて立論した転回日本列島像は【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に説明する史料(地図)であったことになる。

 

◆名門益氏が東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めて習得された紀元前2050年頃から以後、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)まで【倉頡の文字作成理論】は失われずに残っていた。これゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通する卑弥呼は倭女王に選ばれ、卑弥呼によってわが国に初めて国家と王朝が樹立された。それ以後、【倉頡の文字作成理論】は大和王朝と国家が独占管理して厳重に機密が保持された。『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に説明する書物であるゆえ、朝廷が密かに秘蔵する書物となった。

しかし、その後台頭した天下を治めようとした武家・武将たちは朝廷が秘蔵する『魏志倭人伝』の存在に気づき、『魏志倭人伝』を手に入れて密かに【倉頡の文字作成理論】の知識を習得した。

  織田信長は『魏志倭人伝』に【倉頡の文字作成理論】が書かれていることを知っていた。彼は【倉頡の文字作成理論】を朝廷がおろそかにして衰退していることに嘆いた。信長はみずからが天下を手に入れて、【倉頡の文字作成理論】を長い間、厳重に機密保持してきた朝廷(天皇家)が本格的復興を着手する事業に協力して実現しようと夢見た。しかし、信長は158262日の未明、本能寺の変で明智光秀に討たれた。このため、信長は夢破れて、朝廷による本格的【倉頡の文字作成理論の本格的な復興】は成就しなかった。

 

  徳川家康は8歳の時(竹千代と名乗っていた時)、駿府(現在の静岡市)の今川義元の人質となり、義元の軍師の大原雪斎(たいげんせっさい)に【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について厳しく教育された。大原雪斎は臨済宗妙心派(りんざいしゅうみょうしんは)の高僧であり、【倉頡の文字作成理論】と夏音文字に精通していた。

 竹千代(家康)14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に教育係の雪斎が没した。

 1562年1月、織田信長と徳川家康(松平元康)は世に「清州(きよす)同盟」を結んだ。この清州同盟における信長がおこなった儀式の様子から、家康は「信長が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について研究しているにちがいない」と直観した。

だから、家康は信長の天下取りを助けて【倉頡の文字作成理論】と夏音文字の本格的復興を成就しようと夢みるようになった。ゆえに、家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされ仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちには「律儀な人よ」と皮肉られて陰口をたたかれた。家臣たちに信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、愚直にひたすら二〇年ものあいだ信長の補佐役に徹した。このように家康が忍耐強かったのは、信長の夢と理想は家康が抱く夢と理想でもあると確信できたからである。また、8歳から14歳までの7年間において、今川義元の補佐役に徹して忠義を尽くす心得を雪斎から厳しく教育されていたからである。

  家康は信長の死や武家に天下をとられた朝廷の恨みの深さを考えて、【倉頡の文字作成理論】の本格的復興は度重なる困難や邪魔に阻止されて、長生きして一生を賭けてようやく夢がかなうものと覚悟した。

  1590年、家康は江戸城の内濠に架かる和田倉門橋から呉服橋付近までの約1km余を開削(かいさく)して平川(日本橋川)に繋げた。この内濠は和田倉門付近の八重洲河岸で荷上げして江戸城に物資を運ぶ水路とされた。この内濠に対して、外濠は江戸城の外郭にめぐらされることになった。最初の天下普請は1606年~1607年頃に行われ日比谷入江で埋め立てられ、江戸前島の尾根筋の外側に外濠が掘られた。この水路は城の防衛を目的に造られたが、同時に排水路や運河の役割を果たしていたとされる。

  しかし、江戸城の内濠と外濠には、「『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であったと記述している」と表示する役目もあった。

 現在は外濠が埋められて失われている。

しかし、江戸城の水路のおける内濠と外濠は下図のごとくの形をしていた。

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  下図のごとく、【倭】の字源にもとづいて「江戸城から発する水路(内濠)は時計回りの渦巻となり、内濠に繋がる外濠は時計回りに90度転回して神田川となり、神田川は両国橋が架かる付近で隅田川と合流する。

ゆえに、江戸の水路(内濠と外濠)」は【雲】の初文(古文形)の字形に設計されていた。

「【雲】の古文形に合致する江戸の水路の水は、隅田川に出ずる」ゆえ、「出ずる」の【出】と【雲の字を加えると「出雲」となる。

ゆえに、家康は『魏志倭人伝』を読んで【倭】の字源「時計回りの90度の転回方位」にもとづいて「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていたことになる。

というのも、【倭】の字源にもとづいて「邪馬壱国は出雲地方であった」と記述した書物は、『魏志倭人伝』の以外に一書も存在しないからである。だから、家康は密かに『魏志倭人伝』を読んでいたことになる。

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◆新井白石(1657年~1725)が邪馬台国説を提唱した時、朝廷と家康の遺志を継ぐ江戸幕府は【学】の字源【倉頡の文字作成理論】の衰退滅亡を心配して、後世に『魏志倭人伝』に詳細に記述される【倉頡の文字作成理論】をどのようにして保存するか熱心に相談しあっていた。

 白石が邪馬台国説を発表する以前――つまり、幕政に当たっていた6代家宣(いえのぶ)・7代家継(いえつぐ)の代にあっても、天皇家と幕府は、『魏志倭人伝』に組織化されて説明される【学】=【倉頡の文字作成理論】の保存について連絡しあって検討していた。だから、幕政に当たっていた白石は天皇家と幕府の融和政策の動向に注目していれば――【学】すなわち【倉頡の文字作成理論】をあらわす祭儀をどのように演ずるか(芸能的に表現するか)について計画している様子を容易に察知できる境遇にあった。

 にもかかわらず、白石は【学】とはまったく無関係の荒唐無稽(こうとうむけい)の邪馬台国説を空想した。

 1466年における83代土御門(つちみかど)天皇即位以後から約220年ものあいだ、大嘗祭(だいじょうさい)は中断していた。土御門天皇即位以前の大嘗祭は、天皇が即位後、その年の新穀を献じてみずから皇祖天照大神と天地地祇を祀る大礼であった。ゆえに、この旧大嘗祭においては、 「大嘗」の祭儀【大】と【嘗】の字源となる銀河の様子を演出・表現していなかった。

 約220年間中断していた大嘗祭は、113代東山(ひがしやま)天皇が即位した1687年、いったん略儀で再興した。この略儀では、大嘗祭に【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出する儀式を新たに加えるものであった。しかし、【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた銀漢全域の形状】の表現はきわめて不明確・優雅さ・荘厳さに欠けて神聖な儀式の趣(おもむき)がとぼしく満足できなかった。

 この東山天皇の大嘗祭がおこなわれたとき、白石は邪馬台国説を立論する書物を著作していなかった。次の114代中御門(なかみかど)天皇(1709年~1735年在位)の代の東山天皇が即位した1709年は、6代家宣に登用された白石が幕政にあたった初年度であった。当時においても、白石は邪馬台国説を説明する著作物を作成していなかった。

1716年に、白石は幕府から罷免(ひめん)された。幕府に罷免される以前において、白石は邪馬台国説を論じる『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作していた。

さらに、その後に邪馬台国九州説を唱える『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』を著作した。

白石が邪馬台国大和説と九州説を唱えたときは、114代中御門天皇が在位期間であったゆえ、天皇の即位後におこなう大嘗祭を着手することができなかった。

しかし、白石が死から10年後の1735年の320日に中御門天皇は退位して、115代桜町(さくらまち・1735年~1747年在位)天皇が1735321日に即位して【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた銀漢全域の形状】を演出・表現する、新大嘗祭を準備することになった。

白石の死から13年後の115代桜町天皇の173811月卯日(うのひ・19)、旧来の大嘗祭に【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出が加えられる新大嘗祭が本格的に復興されることになった。この新大嘗祭は、8代将軍吉宗の協力によっておこなわれた。つまり、新大嘗祭は朝廷と幕府が協力しあって成立した。

 

上記したように、白石の死から10年後の1735年には、中御門天皇が退位して桜町天皇が即位している。この事情によって、桜町天皇即位から3年後の、白石の死から13年後の17381119日に、新大嘗祭が本格的に復興されることになった。つまり、桜町天皇が即位した1735年においては、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を荘厳に演出する儀式が完成していなかった。このため、3年後の17381119日に、完成した新大嘗祭の儀式が粛々(しゅくしゅく)と行われたことになった。

  上記したように、白石は1716年に幕府から罷免された。というのも、176313日に、空理空論の邪馬台国大和説を立論した『古史通或問』を幕府に呈していたからである。だから、同年516日に、白石は幕府から罷免された。

  白石が幕府から罷免された3カ月後の、1716813日に、吉宗が8代将軍に就任した。吉宗は朝廷の新大嘗祭の復興に積極的に協力した。

  白石は1716年に幕府に『古史通或問』を上呈したため、この書で立論した邪馬台国大和説は【学】では非(あら)ず、荒唐無稽の空理空論、国家と朝廷と幕府の土台を崩壊する暴論であると、幕府に知られることになった。

白石の邪馬台国説が空理空論であることは、幕府から朝廷に知らされた。

邪馬台国大和説は【学】(倉頡の文字作成理論)を消滅させるデタラメ(出鱈目)である。ゆえに、白石は死刑にするべきであった。しかし、死刑にする理由を公表せずに殺すと、絶対に隠さなければならない【学】の秘密が明らかになる危険性があった。というのも、新大嘗祭では夏の銀河が出現する夜間に【学】を演出・表現することになっているので、【学】の秘密に気づく人々も出現して世間に知れ渡る可能性があった。

したがって、白石は死刑にせずに、朝廷と幕府は白石の邪馬台国大和説が空論であることを後世の学者たちが知ることができる新大嘗祭の本格的な復興の完成を急いだにちがいない。

朝廷と幕府にとって、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が夏の銀河各部の形状から図案された事実】はその知識を厳重に機密にして隠さなければならない政権基盤であった。ゆえに、朝廷も幕府も『魏志倭人伝』は【学】(倉頡の文字作成理論)を詳細に正確に説明する文献であることを知っていた。というのも、【学】(倉頡の文字作成理論)を事細やかに正確に記述する書物は『魏志倭人伝』のみであったからである。

【学】を演出・表現する新大嘗祭をおこなう天皇家と新大嘗祭に協力した幕府は、『魏志倭人伝』に【学】(倉頡の文字作成理論)が詳細に正確に記述されていることを知っていたのである。

『魏志倭人伝』は天皇家と幕府が密かに所蔵していることが知られてはならない、第一級の機密書物であったのである。

 

◆徳川家康は1616年に没した。その前年の1615年には『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を制定した。

  『禁中並公家諸法度』の第一条は「天子御芸能ノ事、第一御学問也」であった。

この第一条の文は――天子(天皇)はわが国の芸能の研究に努力してください。わが国のもろもろの芸能は【学】すなわち【万物を生む母である倉頡の文字作成理論】からすべて誕生しました。したがって、第一番目に最も重大な知識は【学問=倉頡の文字作成理論】です――と、徳川家康は朝廷に願望していたことになる。

この第一条を、当時の108代後水尾(ごみずのお)天皇(1611年~1629年在位)は、はじめ幕府の干渉(かんしょう)と抑圧(よくあつ)であると反発した。

1629年、後水尾天皇は上皇となった。1663年以後、後水尾上皇は『禁中並公家諸法度』第一条の――【学】の字源・【学問】の語源となる【倉頡の文字作成理論】の衰退は、国家と朝廷と幕府の滅亡となる――と心配する幕府の真剣・誠実な忠告であると理解するようになった。

この1629年以後、朝廷と幕府は【学】(倉頡の文字作成理論)を保存事業に推進させるために融和することになった。

112代霊元(れいげん)天皇(1663年~1687年在位)は、朝廷(112代東山天皇・113代桜町天皇)を指揮して【学】(倉頡の文字作成理論)を表現する儀式の完成に努力した。1688年に、霊元天皇は上皇となり、上皇は173286日に享年79歳で没した。上皇は理想的な新大嘗祭の儀式を完成できなかった。

上記したように、114代桜町天皇の17381119日に、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を表現・演出する新大嘗祭が本格的に復興された

日本全国のテレビの画面に映し出された――2019(令和元年)1114日の午後630分から開始された夜間の祭儀の大嘗祭は、『魏志倭人伝』が詳細に伝える【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出する大祭(たいさい)であった。

  

◆前述したように、大嘗祭は天皇が即位後、その年の新穀を献じて天照大御神および天神地祇を祀る大礼である。

ゆえに、下図に示すように――【大の字源「十字の銀河の中央」に重なる「新穀」つまり「その年に収穫された新しい禾(イネ)の穂」を「鬼の横顔に似る銀河の舌」が嘗()める様子を祀る祭儀――が「大嘗祭」であった。

下図における「十字の銀河の中央」は【禾】(イネ・稲)の契文形(甲骨文字の字形)である。

なお、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は「夏の銀河の東端」にあり、「十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河」にはくちょう座の尾の部分が漬かっている。

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◆大嘗祭が開始された令和元年1114日の午後630分、すっかり辺りは暗闇と化し、大嘗宮に焚火(たきび)の灯がともされた。

  テレビの画面に――下図に示すように、白い布でおおわれた廊下に二名の侍従(じじゅう)が巻いた葉薦(はこも)をほどき延ばして先導する後ろに天皇陛下の頭上に御菅蓋(ごかんがい)を高く差しかかげて、東の悠紀殿(ゆきでん)に向かう天皇陛下一行の行列が現れた。先導の膝行(しっこう・膝を曲げて進む)する侍従が巻いてある葉薦をほどき延ばし、最後尾の膝行する侍従が巻き収めていく。この【葉薦】は【文字を作った夏の銀河全域】をあらわす。

  天皇陛下の頭上高く差しかかげた即位式の王冠は「菅蓋(かんがい)」と呼ばれる。菅蓋の材料は「菅(草のスゲ)」であり、「夏に、スゲ()の葉を刈って笠」を作ったゆえ、天皇即位に用いられる王冠の名は「菅蓋」となった。「夏に、スゲの葉を刈って作った菅蓋」は「夏の銀河。夏音文字。夏音」をあらわした。

  菅蓋の上部の飾りは、大鳥()の意匠である。

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  下に、文字作成銀河(夏の銀河)北半分の形状を示した。

  下図に示すように、「夏の銀河の北半分」は「大鳥の形」となる。「天皇陛下」は「鬼の姿に似る銀河」あるいは「人の横顔に酷似する銀河」に見立てられた。

S264

 

  上図における左の大鳥の羽の部分(左端の上部)に、銀河の名称を示さなかったが、この銀河をわたくしは「三つ輪の銀河」と名づけた。「三つの渦巻が重なるように見える銀河」であるゆえ「三つ輪の銀河」という名前にした。

  「三つの渦巻が重なるように見える銀河の、三つ輪の銀河」は上図の「先頭の膝行する二名の侍従が渦巻状に巻く葉薦の渦巻」で表現された。

  上図の「最後尾の膝行する二名の侍従が巻いてある渦巻状をほどき延ばす葉薦」は――下図の南部(下部)の「銀河の中心(銀河系の中心)、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河」を表現していた。

この銀河の形状は、「銀河の中心」を中心方向にして、圧巻的な大きな渦を巻く。

つまり、「先導する侍従が巻く葉薦から、最後尾の侍従がほどき延ばす葉薦まで」が「夏の銀河全域」を表現している。

言いかえると、前者(上図)「文字作成銀河北半分」の左上端の「三つ輪の銀河」から、後者(下図)南部の「銀河の中心、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河まで」が「夏の銀河全域」となる。

S192

 

上図の南部の銀河の様子を――藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光舎発行)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と表現する。

ゆえに、このブログの前ページで解説した「【雲】の古文形は、わきあがる入道雲のように迫力に満ちた姿でせまる」つまり、「銀河の中心の形状」を図案するものであった。

したがって、「【雲】の古文形に渦巻を巻く江戸の水路」は、上図における「銀河の中心、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河」を表現していたことになる。

前述したように、「江戸の【雲】の古文形に合致して渦を巻く水路」は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と、徳川家康の意見を設計するものであった。

 

悠紀殿(ゆきでん)から主基殿(すきでん)に続く廊下に敷かれる白い布は、今から約5000年前の黄帝時代にジャコウウシが生息していた白い雪でおおわれる凍土(とうど)地帯をあらわした。

「天皇陛下がまとう、最も清く神聖とされる純白な御祭服(ごさいふく)」と「純白の十二単(じゅにひとえ)をまとう皇后陛下」も、「白い雪が降る吹雪の中を食料()をもとめて働くジャコウウシ」と、「白い雪が吹きすさぶ吹雪や凍土地帯」をあらわした。

黄帝陵付近から北側の砂漠は、冬になるとジャコウウシの群れが集まる凍土地帯(ツンドラ地帯)となった。

そして、「吹雪の中を餌(食料)をもとめて働くジャコウウシ」は「勤勉に農作業をする男女」を象徴する聖獣となった。ゆえに、「雪をまとう白い姿になって餌を求めて働くジャコウウシ」に見立てられた真っ白な装束(しょうぞく)をまとう天皇陛下と皇后陛下」は「その年の禾(新穀)を収穫する男女」をあらわした。

また、「先導する二人の侍従と最後尾の二人の侍従の膝を曲げて歩く姿勢」もまた「水田に禾()の苗を植える姿」を演じるものであった。

ゆえに、前ページで図を用いて解説したように、祭儀名「大嘗」の語源は――【大】の字源の「十字の銀河」と、「十字の銀河」に重なる【禾】(新穀)と、【禾】を嘗()める「鬼の横顔に似る銀河の舌」であった。

そして、「ジャコウウシの餌」は「菅蓋の材料のスゲ」であった。ゆえに、「天皇の王冠、菅蓋」はスゲで作られた。

 

◆最後に、最も注目すべきは――大嘗祭に設営された悠紀殿と主基殿は「屋上に千木のある神社建築」である――この事実である。

前ページで図を用いて解説したように、「屋上に千木のある神社建築」は【学】の字源であり、ゆえに【倉頡の文字作成理論】をあらわした。

したがって、令和の大嘗祭においては「悠紀殿と主基殿の屋上にある神社建築」で【学】(倉頡の文字作成理論)を表現していた。また、「葉薦の先頭と最後尾の渦巻」をもって【文字は夏の銀河各部の形状から図案された事実】を芸能的に演出・表現していたことになる。
 【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を詳細に正確に説明する文献は、この世に『魏志倭人伝』の一書のみしか存在しない。

以上のごとく、令和の大嘗祭は『魏志倭人伝』にて詳細に説明されている【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を演出・表現する神事であった。

だから、新井白石の邪馬台国大和説と九州説はもとより、荒唐無稽の空理空論であったことになる。

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