G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・1: 卑弥呼の逆襲

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2024年2月14日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・1

わが国は約4000年前に漢字を習得した


◆中国には「黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定されている。
 
 しかし、わが国の2世紀末~3世紀中半までの様子を説明する『魏志倭人伝』には、35ヵ国の小国名や人名などで【倉頡が発明した文字作成理論】が詳細に正確に伝えられている。
  前回のブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――わが国には紀元前21世紀に名門益氏の王子と若者たちが東北地方・男鹿半島・八郎潟地域に定住して、【倉頡の文字作成理論】と三皇時代の結縄(けつじょう・占いに用いる記号)と五帝時代に作られた書契(最初の漢字)と夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字を伝えた。
  
この新しい「夏の銀河から文字を作る」という革命的な学芸は、男鹿半島・八郎潟地域および東北地方一帯の氏族たちや遠くは長野県の尖石(とがりいし)台地に住む氏族たちなどによって習得された。それから約2200年後に歴史上に始めて登場した倭女王の卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。
  
夏代黎明期の夏音は、『古事記』上巻にて「音」という注がついて多数残っている。太安万侶(おおろやすまろ)が記述した『古事記』上巻并(あわ)て序は――わが国は、夏の銀河をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において土器・土偶(どぐう)を作った参神造化(芸術)の伝統によって、益氏が伝える【倉頡の文字作成理論や結縄・書契・夏音文字などの学芸】を習得した。『古事記』上巻には夏音を楷書で記したが、夏音は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残すゆえ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】にしたがって、わが国が習得した夏音文字について難解な文章で説明することにした――と記述していたのである。
 
だから、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前21世紀の後期縄文時代初頭直前であった。
  『魏志倭人伝』に【倉頡の文字作成理論】が詳細に正確に記述され、『古事記』上巻に多数の夏音が残っているにもかかわらず、現在、考古学はじめとする学説によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されている。
 
このような現在の学界における〔漢字習得の定説の誤り〕は、文字を書いた出土史料を優先して重視する考えが原因であり、また前回の〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて説明した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】が原因となる。

倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵とする一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。これゆえ、倉頡は下に示す3つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。
★倉頡が死刑と定めた3つの掟
Ⅰ 倉頡は夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた事実を容易に理解できるように説明してその秘密を暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その者の家族そして一族全員皆殺しにすると定めた
Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族を皆殺しにすると定めた
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族及び一族全員死刑にすると、倉頡は定めた

 
「文字を作った銀河」は「夏に長時間見ることができる、夏の銀河」である。
  
下に「銀漢=夏の銀河の写真」を示した。この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。
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上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は【倉頡の文字作成理論】が容易に習得できるようになるため、厳(きび)しく取り締まって王朝の滅亡をふせぐ方法あった。だから、「夏の銀河各部の名称」は存在しなかった。
 
しかし、さまざまな文字の字源の秘密を解明するとき、各々の文字の字源銀河を明示しなければならない。だから、「夏の銀河各部の名称」が存在しないと、非情に不便である。
 
ゆえに、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん)によって破られた。というのも、契文の文字数(文字の種類)4600以上となり、いちいち消すのが非情に面倒となった。また、夏の銀河各部の形状を字源とないで図案した文字も相当数作られるようになり、この銀河各部の形状を字源としない文字は文章を作るにあたって不可欠となった。このため、の掟は殷代後半から破られて後世に発掘されることになった。
 
しかし、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は、殷代後半以後の王朝によって厳重まもられたため――近世・現代の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった事実に気づかない。さらに、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅢ〕によって後世に出土しない文字となった事実にも気づかない。このため、近世・現代の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ある」と断定する。
 
しかし、『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼は「今から約5000年前頃に発明された【倉頡の文字作成理論】にのっとって35の小国名や人名などを決めた。また、紀元前21世紀に名門益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟地域に定住して、三皇時代に用いた結縄(けつじょう・易占に用いる記号)と五帝時代の書契(最初の漢字)と夏代黎明期の夏音文字を普及させた」と伝えている。

また、『古事記』上巻の随所に「音」という注がついて、夏音が楷書で記されて多数残っている。さらに、『古事記』上巻并(あわ)せて序では「夏音について」難解な文章で詳細に説明されている。

◆上に示した「夏の銀河各部の名称の図」における左上の端に、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河+鬼の身に相当する銀河)」がある。
 
下の上図に示すように、「十字の銀河」は【文】の字源となり、金文形(周代に用いられた文字)となった。 また、下の下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河」は【字】の字源となり、金文形となった。【字】の上部の【宀(べん)】は「十字の銀河の子宮がある腰・骨盤の部分」が字源となり、【字】の下部の【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
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下図に示すように、「十字の銀河の身体部」には「線状の暗黒天体部」があり、この「線状の暗黒天体部」は「十字の銀河の背骨」に見立てられた。また、「鬼の姿に似る銀河」にもある「線状の暗黒天体部」は「鬼の姿に似る銀河の背骨」に見立てられた。
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下図に示したように、「線状の暗黒天体部」は【玉】の結縄や契文(甲骨文字)の字形になった。「結縄」は「三皇時代の易卜に用いられた記号(符合)」であり、中国では幾つか出土した結縄に「陶文(とうぶん)」と名づけている。
 わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【玉】について「(中国だけでなく)、わが国においても縄文文化中期のころに、玉人や玉作りたちがすぐれた玉制作の技術をもち、当時の政治権力と地域的に深く結合する存在であったことは、かなり詳しく解明されている」と解説している。(注 文中の「縄文文化中期」は中国の「五帝時代」に相当する。ゆえに、後期縄文時代初頭、益氏の王子や若者たちが【倉頡の文字作成理論】・結縄・書契・夏音文字を説明するにあたって、わが国の土器・土偶を作る芸術家たちや玉人や玉作りたちにとって【玉】は同義であったことになる)
 
【玉】はわが国の将棋盤における「王将よりも位が高い、最高位の王将」の「玉」のことである。
 
下の【玉】の字源解説図は「肉眼で位置(天頂緯度)と方位・時間の経過(経度)が精密に計測できる人物・幾つかの氏族たちが集合した政治体制における最高位の王、すなわち氏族共同政治体制をささえる王たちの中で最も優れる最高位の王」をあらわした。ゆえに、【玉】は「緯度と経度の目盛り、つまり天頂緯度と方位・時間の経過をあらわす目盛り」をあらわすことになった。

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下の図に示すように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は共に【木】の字源となった。また、上の図における【文】の字源「十字の銀河単独」でも【木】の字源となり、【字】の下部となる【子】の字源「鬼の姿に似る銀河単独」でも【木】の字源となった。
 
中国では「五帝時代に用いられた漢字」を「書契(しょけい)」または「契刻(けいこく)」と名づけ、わが国では「刻木(こくぼく)」と呼んだ。そして、中国では「書契(契刻)」は「木に刻む文字である」と言い伝えられた。つまり、下の図に示すように、「木に【玉】の緯度・経度の目盛りを刻んだ文字」すなわちこのブログの前ページで図を用いて解説したように、「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」は【文】と【字】の字源となった。ゆえに、「書契」は「木に刻まれた文字」と言い伝えられた。わが国の呼び名の「刻木」も「木に刻まれ文字」の略称であったことになる。
 
したがって、書契(刻木)は「木に刻まれる文字」として〔後世に文字を書いた史料〕が発掘される文字ではなかった。書契(刻木)は、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅢ〕によって〔後世に文字を書いた史料が出土しない文字〕となった。

ただし、書契(刻木)は「夏の銀河各部の形状」が字源・字形・字義となって残った。

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下に、邪(なな)め立体図となる〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕を示した。
 
〔天頂点と重なる銀河部位〕は東から45度の東北から地上へ出現して、また西から45度の西北の地下に潜(もぐ)った。
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下に〔上図を平面的に図化した図〕を示した。

  この下図が示すように、「天頂点の緯度と観測地点の緯度は一致する」。ゆえに、遠くの地に旅する人々が各地で観測する地点の緯度は天頂緯度(天頂点が横一直線となる線)をキャッチすれば正確に測定できた。
  北緯36度の土地(集落)の人が、遠い北緯40度の土地(集落)へ旅したとき――北緯37度の土地や北緯39度の土地において、天頂点と重なる銀河部位(天体部)が地上へ出現する方角は故郷と同じく変わらずに東から45度の東北であり、天頂点と重なる銀河部位(天体部)が地下へもぐる方角は西から45度の西北である。
 
下図は、「北緯36度の土地はじめ北緯37度の土地・北緯39度の土地・北緯40度の土地にても観測される、天頂点と重なる銀河部位が東から45度の東北から出現して、西から45度の西北の地下にもぐる様子をあらわす平面図である。

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上図では故郷の北緯36度の旅の出発地点の土地における天頂点と重なる銀河部位(天体部)は東から45度の東北の地上から出現し、西から45度の西北の地下にもぐると同じく――北緯37度の土地でも北緯39度の土地でも目的地の北緯40度の集落おいても、天頂点と重なる銀河部は東から45度の東北から出現し、西から45度の西北にもぐる事実――を示している。

 つまり、上図は北緯36度・北緯37度・北緯39度・北緯40度の土地でも、つまり中国や日本の中緯度圏の全域では――天頂点と重なる銀河部位は東から45度の東北の地上から出現し、西から45度の西北の地下へもぐる。ゆえに、各々の土地から見える天頂点と重なる銀河部位の軌道は【太い線――で示すことにした。

  つまり、「故郷の天頂緯度を計測することができる軌道の円弧線」を「一本の縄」と想定し、上図に示した「太い線は各地の天頂緯度を計測できる複数の円弧線=複数の縄をねじって一つに結んだ(からみあわせた)太くなった縄」を表現した。

 だから、「数本の縄を一本に結ぶ」を略して「結縄」という名になり、「三皇時代の易占に用いられた記号」は「結縄」と呼ばれることになったのである。

  
上記した事実によって、遠くの地に旅する人々は各地で精確に天頂緯度線をキャッチすれば目的地に到着し、家族が待つ家に帰還することができた。
 
だから、太古において、常に精確に天頂緯度線をキャッチする人物は精確に緯度を計測できる最高の能力を示すことになり、最も偉大な王()と崇拝された。よって、「玉(円い球形の宝石)」は「天頂緯度を精密にキャッチする、特別に偉大な能力を有する王を象徴する勲章」となった。
  だから、前ページにおける「[玉の字源解説図」の右上に配した【玉】の結縄は「円形の玉(宝石)」を図案するものではないが――前記した〔立体形の、天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕と上図の〔平面図となる、天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕から「円形の玉」が想像される図案となった。したがって、【玉】の結縄は「円形の玉」を表現することになったのである。
 
「字書の聖典」と尊敬される後漢の許慎(きょしん)が著した『説文解字(せつもんかいじ)』は【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)である」と解説する。「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。トカゲは【必ずもとの巣にもどることができる、帰家性の習性】を有する。これゆえ、「易」は「遠くの地へ旅する人が目的地に到着して用事をすませ、トカゲのごとく故郷の家族が待つ家へ帰還できるように占う術」であった。だから、「三皇時代に作られた結縄」は「易に用いられた記号(符合)」の呼称であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹(やまい)壱国」と記す。しかし、多くの学者たちやメディアは「邪馬壹国は邪馬臺国の誤記である」とこぞって主張する。この〔漢字の起源と発明を解明す・序〕で根拠・理由を挙げて詳細に証明したように、「邪馬壹国は邪馬臺国の誤記ではなく、倭女王卑弥呼は邪馬壹国に居住していた事実」を伝えていたことになる。
 
もしも学者たちがずっと以前に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と読むのは誤読による暴論だと気づいていたならば――「空白の四世紀」とか「空白の150年」と呼ばれる時代の土台は卑弥呼時代であったゆえ――その時代の歴史もきっと空白でなく明らかになっていたにちがいない。
  これより、「邪馬臺国」の【臺】と「邪馬壹国」の【壹】の相違を解明し証明する。
  
『魏志倭人伝』の末部に「因()って臺に詣(もう)でる」(因詣臺)という文がある。
 
この文中の「臺」は「魏都の洛陽」を意味する。
 
下図に示すように、【洛陽から黄河口(黄河の河口)への方角】は【夏至の日の朝、日が出ずる水平線(渤海)上の東から30度の東北】である。この【方角】は【夏至の日の夕方、日が没する水平線(渤海)の西から30度の西北】を表現している。というのも、【洛陽】の【洛】の上に「朝顔」をあらわす【艸冠(くさかんむり)】を加えると【落】の字となる。ゆえに、【洛陽】は【落陽】となって【夏至の日の夕刻、日が没する西から30度の西北】を表示するからである。
 
しかし、【黄河口の中心と洛陽を結ぶ邪(なな)めの線】は【夏至の日の朝、日が出ずるときの方角】を示して矛盾する。
 
【洛陽】の東方には日照(中国では「リーチャオ」と音する)」がある。日照は黄帝陵と同緯度(北緯3535)である。【日照の北の、山東半島先端の南岸には石島(中国では「シータオ」と音する)がある。【日照と石島を結ぶ邪(なな)めの線は、夏至の日の朝、日が出ずる東から30度の東北】を射当(いあ)てる。
 
下図に示すように、【洛陽】が【臺()】の字源となり、【日照】が【壹()】の字源となった。
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上図の左上に示すように、【渤海(ぼっかい)の地図の形】は【夏至の日、日が没する夕方の朝顔の花】に相似すると見立てられた。この【夏至の日の夕刻の朝顔の花に形似(けいじ)すると見立てられた渤海の地図の形】を渤海の南岸で180度転回すると、上図の左下に示すように【夏至の日、日出ずる朝の朝顔の花】となる。この【朝顔の花の臺(うてな・台・萼)】は【洛陽の位置】となる。ゆえに、【洛陽】は【臺()】の字源となった。
 
【朝顔の冠をささえる土台】は【萼(がく)】であるゆえ、【萼】は【臺(台・うてな)】と名づけられたのである。
 
上図の左上の「渤海の地図の形」に相似する「夏至の日、日が没する夕方の朝顔の花はうつむいてしおれて元気がない」。一方、上図の左下の「夏至の日、日出ずる朝の朝顔の花は天をあおいで開きはじめ艶(あで)やかに元気に咲き誇る。ゆえに、【臺()=洛陽】は「常に朝の太陽の陽射しに照らされて艶やかに元気に満ち溢れて栄える都」を意味するものであったことになる。
 
注目すべきは、上図に示したように黄河の水は〔【臺】の黄河口と洛陽を結ぶ邪(なな)め線〕に沿って流れる。また、上流から流れてくる黄河の川幅は狭い(細い)が、洛陽の辺りから一気に広く(太く)なる。したがって、洛陽は、五帝時代において黄河の洪水・氾濫によって土は泥状にやわらかくなり、原始的な軽い木製の鋤(すき)を使って、たやすく耕すことができた。また、黄河の上流で大量の雨が降ると、黄河の両岸の肥沃(ひよく)な土を下流の洛陽のほうに押し流して、洛陽の台地に豊かな実りをもたらした。だから、洛陽は禾(小麦・とうもろこし・こうりゃん・粟などの穀物)の豊作にめぐまれる一大穀倉地であったことになる。
 
以上のごとく、【洛陽】が【臺()】の字源となり、【日照】が【壹()】の字源となった。
 
ゆえに、「邪馬壹()国」を強引に「邪馬臺()国である」と断定する邪馬台国説は空理空論であったことになる。

 
そして、「黄帝時代より以前の三皇時代の人々」が正確に測量しなくても、「夏至の日の朝、日照から石島までの各地の海岸から日が出ずる方角と、その朝焼けの景色」が観察できた。
 
山東省チュウシエンの陵陽河(りょうようが)というところから、下図に示す「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる、灰色の爆弾型の土器が出土した。灰陶尊が出土した陵陽河は黄帝陵・日照と同じ北緯3535分である。
 
灰陶尊は黄帝時代と同じ約5000年前の遺物と測定された。
 
灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くには、下図の右上に配置した図書がある。この図書を、中国の学界は「漢字の原型」と考えている。
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上図の右上の図書のうち、()最上部は円、()中央は細長く平らな山形の図柄、()最下部は最大の真っ赤に燃える火炎のような図柄である。そして、この三者の図柄は一体化している。
 
ということは、()最上部の図柄は「夏至の日の朝、朝焼けの日輪・太陽」をあらわす。
  (
)中央の図柄は「真っ赤に燃え盛る火炎が土器の底を焼く紫焔(朝顔の花の紫)、つまり雲の底を染める紫色?」を図案するものと推理される。
  ()最下部の図柄は「真っ赤に燃え盛る火炎」を表現しているにちがいない。
 
したがって、【灰陶尊の口縁部に近い箇所の図柄】は【夏至の日の朝、石島越しに見える水平線上に太陽()が真っ赤に照らす、朝焼けの光景】を表現していることになる。ゆえに、【壹()】の字源となった地名は「日が真っ赤に照らす」をあらわす「日照」となった。
 
上図の右上に配置した「三つの図柄」を、上記したように、中国の学界では【旦】をあらわす図書と考えている。【旦】の字義は「日が出ずる、東の空が真っ赤に焼ける朝」である。
 
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)における帝尭(ぎょう)紀には「春分点・夏至点・秋分点・冬至点の精確な四時の星空状況」が詳細に記されている。この「春分点の位置」を【歳差(さいさ)】と呼ばれる天文現象で年代を算出すると、帝尭の時代は黄帝時代初頭から500年後の、今から約4500年前であったことになる。
  
帝王名の【尭】の字に【火】の偏を加えると【焼】という字になる。【焼】は「朝焼け」「夕焼け」の【焼】である。【尭】に【日】の偏を加えると【暁】の字となり、【暁】の字義は「朝明け。あかつき」である。【暁】は【旦】の字義とも共通する。
  以上からして、前ページに示した〔【臺()】と【壹()】の解説図〕は、五帝時代の四番目の帝尭の時代に精確に土地測量して、【臺()】の字源を「洛陽」と定めた事業を伝えるものであったにちがいない。
  
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)には「益氏は、帝尭の時代から挙用された」という記事がある。だから、約4000年前の夏代初頭、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟東方の地に定住した益氏の王子と若者たちは「【臺()】の字源は【洛陽】、【壹()の字源は【日照】である学問知識】を有し、「灰陶尊の【旦】の図書の秘密」を知っていたことになる。
  このような事情によって、卑弥呼は倭人国の中心地の王国名を「邪馬壹()国」と定めた。また、『魏志倭人伝』を著わした晋(しん)の歴史編纂官(著作郎)の陳述寿(ちんじゅ)は【臺()】の字源は【洛陽】であることを知っていたからこそ「「因詣臺」と記しつまり「因って臺に詣でる」と記述したのである。

 

◆中国の正史、628年に成立した『隋書(ずいしょ)』倭国伝には――600年、わが国の推古天皇八年に倭国から派遣された遣隋使が「文字無し。ただ刻木・結縄のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」と言った――という記事がある。
 
上記した遣隋使が告げた言の冒頭「文字無し」は「文字有り」と解釈するのが正しい。また、その言の後ろにある「始めて文字有り」という言もまた「読解するのに非常に難解な楷書を多数羅列(られつ)する仏教の経典に用いられる文字(楷書)を解読して、わが国には始めて大量の楷書が有るようになった(読解することができるようになった)」と解釈するのが正しい。
 
というのも、「文字無し」に続く「ただ刻木・結縄のみ」は「ただ五帝時代の最初の文字の刻木(書契)と三皇時代の易に用いる結縄のみが有る」と意味するからである

  それゆえ、刻木は最初の漢字であるので「文字有り」と解すべきことになる。また、わが国には銀河文字の刻木と夏音文字があり、夏音は楷書で表記するゆえ、文字は有ったことになる。さらに――わが国の朝廷は百済から仏教の経典を輸入し、刻木と夏音文字と夏音を楷書で表記する文字に精通する巫女と覡(げき・神官)が中国の楷書を用いる書物が説明する卜筮を学ばんとして、仏教の軽典に用いられる難解な楷書の全解読に成功した。ゆえに、世間の人々(皇族と貴族)は仏経の全楷書解読に成功した巫覡を最も信頼して尊敬した――と説明するものであったゆえ、わが国には確かに「文字が有った」ことになる。

 
『隋書』倭国伝の後半には――607年、推古天皇は大礼の小野妹子(おののいもこ)を隋へ派遣した。小野妹子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々(うんぬん)」と聖徳太子が書く国書を、隋の煬帝(ようだい)に届けた。煬帝はこの国書の文を見て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい・隋の外相)に「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり、復()た以聞(いぶん)すなかれ(このような国書は二度と上表するな)」と怒った――いう文がある。
 
しかし――暴君であったが若い時に学問好きであった煬帝は、【学】の字源「倉頡の文字作成理論」を熱心に研究した。だから、怒りがおさまって【学】の字源を思い出した煬帝は、600(推古天皇八年)の「文字無し」という遣隋使の言を「文字有り」と解釈した。また、煬帝は「倭国が仏経の楷書を解読できたのは、巫覡たちが三皇時代の結縄や【倉頡の文字作成理論】や書契に精通していたにちがいない」と判断した。
 
さらに、煬帝は「蛮夷の書(野蛮人の書)」と酷評した倭の国書の文を、このブログの前ページで詳細に解説したように――山東半島南岸の日照・石島の日出ずる処の【壹()】の天子が、書を洛陽・黄河口の日没する処の【臺()】の天子に国書を送ります。きっとご健康でありましょう――と、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】に適(かな)う最高最良の礼を示して挨拶していることに気づいた。したがって、煬帝は倭の国書が「最も聖なる徳の【学】に精通する天子」と絶賛したいた――事実・真意に気づいた。

 
仏教では「死没」の【死】の字義を「しぬ。殺す」と定め、【没】の字義を「死ぬ」とする。しかし、仏教における【死】と【没】は字源と原義を失う歪曲字であった。
 
倉頡が作った【花】の原字は、その右下にある【ヒ】であった。ゆえに、【ヒ】の字源・原義は「花」であった。【ヒ】の図書がつく【比】の字義は「くらべる」であるゆえ、【比】の原義は「長江口と朝顔の花の形を比べて、女性の生殖器官各部の構造や機能を考える」であった。この【比】の【ヒ】の字源・字義が「死ぬ」であるならば、【比】の「比べる」という字義に矛盾し不合理となる。
  
【没】の原義は、前述したように「夏至の日の夕方、日が没するときの朝顔の花のしおれた元気の無い状態」をあらわした。ゆえに、【没】の字源・原義は「死ぬ。死亡する」という深刻な状態までをもあらわさなかった。
 
殷代――黄帝時代と同じく黄帝陵の天頂緯度線は「十字の銀河の中央」を貫通せず、「十字の銀河の首」のあたりを貫通していた。ゆえに、殷代における黄帝陵の天頂緯度線(+赤緯3535)の様子にもとづいて、殷代において【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を破っていない人々(罪人)や死刑に処すべきでない人々(罪人)など多数の人々の首を斬って殺した。だから、【死】の字は「死ぬ。殺す」となり、【没】の字までも「夏至の日の夕方に、朝顔の花はしおれて元気がない状態なれども枯れて死んでしまわない」にもかかわらず、「死ぬ」と歪曲されることになった。
 
仏教の経典における【死】と【没】は字源・原義を失った歪曲字であることに気づいて煬帝は600年・推古天皇八年の遣隋使の「文字無し。云々」という言は「倭国には【倉頡の文字作成理論】が存在するゆえ、倭の巫覡は仏経の難解な楷書を解読できた」と伝えていることに気づいた。

  もしも遣隋使が「文字有り。云々」と言ったとすると、この言は正直に率直に「倭には【倉頡の文字作成理論】と夏の銀河各部の形状を文字とする書契が有る」と説明していることになる。したがって、遣隋使の言は【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を犯していることになるゆえ、煬帝は最も重い大罪を犯したと怒って遣隋使を死刑にしなければならなかった。煬帝は遣隋使の言は正しく礼に適う挨拶であったと察知した。
 
よって、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。云々」と書く倭の国書は、前述した「洛陽」は【臺()】の字源となり・「日照」が【壹()】の字源となる学問知識にもとづく、大いなる礼をつくした文であることに、煬帝は気づいた。だから、この国書を届けた遣隋使の役職名は「大礼」であり、「大礼」は「大いなる礼をつくす国書の使者」と意味したことになる。
 
このため、『隋書』倭国伝は「大礼の小野妹子を遣隋使に派遣した翌年の608年、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国へ渡る使者にした」と記述する。「裴清」の名は中国において「裴世清」であった。【倉頡の文字作成理論】によって「地形も字源・原字・原義となった」ゆえ、中国から地形が異なる倭地の使者になる場合、名を変えるが礼儀であった。だから、煬帝は裴世清に「【世】の字を欠く名の裴清とせよ」と命令して、倭の国書を誤読した無礼をわびたのである。
 
その証拠に、『古事記』は推古天皇の名を「豊御食炊屋比売(とよみけかしきやひめ)」と記し、『隋書』倭国伝は「姓は阿毎(あめ)、字は多利比孤(たりしひこ)」と別の夏音の名で記している。
  607
年の遣隋使の大礼「小野妹子」という名は、地形の異なる中国へ渡るための変名であった。つまり、「推古天皇は崇峻(すしゅん)天皇の妹である」から「妹」とし、「皇太子の聖徳太子」の「子」を用いて、「妹子」とした。「小野」という姓の【小】の字源は「小さな砂粒(すなつぶ)」であり、【野】の字源は「砂の野原。つまり砂漠」であった。時の大臣「蘇我馬子(そがのうまこ)」の【馬】の字源・原義は「砂漠を往来する聖獣のフタコブラクダ」であった。「妹子」の【子】は「馬子の子、つまり蝦夷(えみし)」をも意味したと推定される。したがって、「蘇我蝦夷」が地形の異なる中国に渡るために「小野妹子」と変名していたのではあるまいか。

  592
年、推古天皇が即位した。
 
推古天皇の即位よりおそらく10数年前、用明天皇・崇峻天皇のいずれかが仏教を敬うために百済から仏教の経典を求得した。朝廷は仏教の経典に用いられる全楷書の解読を、【倉頡の文字作成理論】や夏音を楷書で表記する学術に精通する巫覡たちに命令した。この巫覡たちは、「夏の銀河の各部の形状から文字が作られた秘密」が明白にならないように朝廷が体制のなかに組み入れて保護する人々であった。巫覡たちは仏経に用いられる全楷書解読事業に成功した。よって、皇族・貴族たちは巫覡たちを最も信頼して尊敬した。
  594
年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅ)せよ」と詔(しょう)し、積極的な崇仏(すうぶつ)政策の方向を示した。
 
巫覡たちによって中国が用いる楷書を恣(ほしいまま)に正確に読解できるようになった。このため、摂政(せっしょう)の聖徳太子は――巫覡たちが精通する【学】の「倉頡の文字作成理論」と書契と夏音文字と夏音を楷書で表記する知識はもはや必要ないと考え、さらに巫覡たちが祀る鬼道(きどう・神道の前身)は崇仏政策の最大の障害になる――と考えた。

  ゆえに、聖徳太子は朝廷がもはや巫覡たちを保護して生活をまもる必要がないと考え、巫覡たちを朝廷から追放する政策に着手した。

  朝廷から追放されることになって生活基盤を失った巫覡たちは、聖徳太子は勝手で理不尽(りふじん)で横暴であると訴えて大臣蘇我馬子に庇護を願い出た。
  
皇族・貴族たちは、太子の巫覡追放について――夏の銀河各部の形状から文字を作った【倉頡の文字作成理論】は朝廷が独占管理して厳重に機密を保持する必要があるからこそ、巫覡たちの生活を朝廷が保護しなければならなかったのである。この政策に対し摂政はあまりにも愚か! 巫覡たちを庇(かば)う蘇我家の権力が、これから朝廷の権力に勝ることになるにちがいない。巫覡たちが精通する【学】(倉頡の文字作成理論)が最も強大な権力であるから、完全な【学】の知識を失った朝廷の権力は一気に弱体化するにちがいない。こんな容易に察知できる常識つまり朝廷の衰退を、摂政は思いつくことができないのか!――と陰口(かげぐち)をたたいて、聖徳太子を虚仮(こけ)にして馬鹿にした。
 
ゆえに、天寿国繍帳(てんじゅこくしょうちょう)の銘文によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
  
太子は「皇族と貴族たちは吾を虚仮にしてあざ笑うが、ただ仏のみが真実である。巫覡たちの【学】(倉頡の文字作成理論)と彼らが祀る鬼道は偽りでまったく必要がない」と空しく自己弁護していたことになる。

 
蘇我馬子は皇族・貴族一同から信を失った聖徳太子の天皇即位に反対した。だから、聖徳太子は天皇に就任することはできなかった。
 
蘇我馬子家に保護されることになった巫覡たちは、朝廷が秘蔵する天皇紀・国記、また珍しい宝などを持ち出して聖徳太子に復讐した。
 
この事情は、『日本書紀』皇極(こうぎょく)天皇紀末部の645613日の記事にて明らかになる。その前日の12日、中大兄皇子(なかのおおえおうじ)・後の天智天皇は蘇我入鹿(いるか)を大極殿(だいごくでん)において殺した。この事件を「乙巳(おつし)の変」という。
 
父蝦夷は入鹿の死を聞き戦う準備を進めたが、中大兄の使者が蝦夷の兵たちに順逆の理を説いて聞かせると、兵たちはみな蘇我氏を見限って逃走した。孤立無援となった蝦夷は翌13日に自殺し、蘇我大臣家はあっけなく倒れた。
 
蘇我蝦夷は殺される前、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はその時に素早く、国記を取り出して中大兄にたてまつった。

  天皇記と国記は天皇家が保存しなければならない文献であった。このような大事な天皇記と国記を巫覡たちは持ち出して蘇我馬子に庇護を願ったのである。だから、乙巳の変の翌13日には、蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていた。

  焼かれずに船史恵尺に救われた『国記』が『古事記』上巻の原典であった。『国記』は夏音(字音を楷書)で記述する歴史書であったゆえ、『古事記』上巻には楷書を「音」に用いる多数の夏音が残されることになったのである。
 
以上のごとく、わが国は今から約4070年前(紀元前2050年頃・後期縄文時代初頭直前)から、名門益氏がもたらした【学】の字源・原字・原義の「倉頡の文字作成理論」jはじめ三皇時代の結縄・五帝時代の刻木(書契)・夏代黎明期の夏音文字が存在することになった。
 
だからこそ、3世紀後半(280年~289)に成立した『魏志倭人伝』は、【学】の字源「倉頡の文字作成理論」を詳細に正確に説明する特別に重大な良書であったのである。

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