G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年3月

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2024年3月

2024年3月10日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・5

「卑弥呼」という名でも、今日の日本地図と異なって転回日本列島像となった

 

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、下に示す「夏の銀河各部の形状」を図案して「文字を作る方法・理論」を発明した。

「夏の銀河」は「天の川」あるいは「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

「夏の銀河」とは「夏に長時間見ることができる銀河」、あるいは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」のことである

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黄帝は【女性の生殖器官と出産の研究】をした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・4」で詳細に解説して証明したように――【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を造形して文字を作る方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】を合体して構築された。

 

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。

超音波装置によって、1980年代ごろからようやく胎児の羊水の中での様子が少しずつ明らかになってきた。

だから、約5000年前の黄帝時代、羊水の中で過ごす胎児の様子はまったく謎のうえに謎であった。

出産後の人間は1時間も水中にもぐったままでいれば確実に死ぬ。

にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中で過ごすが、胎児はなぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――黄帝は、この秘密を解明することができなかった。

それゆえ、この秘密を「八丁もぐりの、50秒ほど潜水することができるカンムリカイツブリ」に喩(たと)えることを、倉頡は思いついた。

というのも、下図に示すように、「女性の生殖器官の側身形」は「水鳥の側身形」に相似しているからである。

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倉頡は、「カンムリカイツブリ」をあらわす【爾()】の字を作った。

【爾】、のちに【弓偏】に【爾】を加えた【彌()】が「カンムリカイツブリ」」をあらわすことになった。

カイツブリ目カンムリカイツブリ属で最大の水鳥・カンムリカイツブリの全長は4661㎝、両翼を広げた長さは8590㎝である。

カンムリカイツブリの大きさと、体長2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。だから、「カンムリカイツブリ」は「胎児」体長に適合しない。

「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週から第40週の体長が4853㎝くらいの生子(せいし・赤ちゃん)」と同じくらいである。

ゆえに、【彌()】は「カンムリカイツブリ」と「出産予定日の第38週から第40週ころの赤ちゃん」に見立てられた。

 

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「第12週から第20週まで、水中(羊水)で生活する胎児」に喩えることにした。

鳰の全長は2529㎝である。第12週から第20週の胎児の体長は2030㎝くらいである。

これゆえ、倉頡は「第12週から第20週の水中生活者の胎児」を「鳰」に喩えることにした。

倉頡は【乎】の字で「鳰」をあらわしたが、のちに【口】に【乎】が加わる【呼】が「鳰」をあらわすことになった。

鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さな体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。

だから、倉頡は「鳰」を「第20週もの長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息死しない胎児」に喩えることにした。

『説文解字』は【呼】の字について「息を外()くなり」と解説する。

したがって、「鳰」は「子宮の中で息を外きつづけて、羊水を吸い込んで窒息死しない胎児」に見立てられたことになる。

 

◆『易経(えききょう)』は中国の五経の第一に挙げられる古典である。

『易経』の周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)の冒頭文は「天は尊く地は卑(いや)しくして、乾坤(けんこん)定まる。卑高(ひこう)をもって陳(つら)なり、貴賎位す」である。

この文は「天の尊い夏の銀河の象(かたち)と地の卑しい形(かたち)によって、天と地が定まる。地の【卑】と天の【高】をもって、【貴】と【賤】の位が定まる」と意味するのであろうか。

上記のように訳すると【卑】の字義は【貴】「尊い」の反対語「賤(いや)しい」ということになる。

 

しかし、【卑】の字源・原義は「賤しい」ではなかったと考えられる。

前記した『易経』周易繋辞上伝の冒頭の「卑高をもって陳なり、貴賤位す」という文とその後につづく幾つかの文を省略して、「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」という文を冒頭の「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる」という文に加えると、次のごとき文になる。

「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる。(中略)。天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」

上記の文は「天は地よりも高く尊い、地は天よりも卑つまり低い。ゆえに天と地に分かれて定まる。天の【銀河各部のかたち】は多種多様にさまざまな事物に相似するゆえ【象】ということになり、【地図における各地のかたち】は多くても三、四種の事物に相似するだけであるゆえ【形】ということになる」と解釈できる。

文字となった夏の銀河各部には名称が存在しないが、わたくしは幾つかに小分けして名称をつけた。たとえば、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河部は【天・人体・女体・男の体・妊婦・人体の正面形・人体の背面形・東から西へ歩く女性の側身形・西から東へ歩く男性の側身形・男女の交わり・木・木の枝・柱・聿()・港()・馬(フタコブラクダ)の側身形)・十字路・オス鹿の角・炎など多数の事例のかたち】に変わる。

だから、『易経』は「天に在りては象を成す」と表現した。

「中国の山東半島の地のかたち」は最初「オス鹿の横顔」に相似する、次に「天を飛翔する【彌()のカンムリカイツブリの横顔】に相似する、さらに「【馬】のフタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。

このように、【天の夏の銀河各部】よりも【地図における各地のかたちが相似すると想像される事例が少ない】。

ゆえに、『易経』は「地にありては形を成す」と表現した。

つまり、上記の『易経』周易繋辞上伝は【卑】の「賤しい」は字源・原義を失った用法であるが――【卑】の字源・原義は「天から下界を見下ろすと、中国大陸と大海の境となって、地(地図)の形をあらわす、海岸線の形」であったと伝えていると考えられる。

したがって、『易経』が成立した紀元前5世紀頃は、【卑】の字は字源・原義を失う「賤しい」と字源・原義を伝える「中国の海岸線」の二つの用法が併存(へいぞん)していたことになる。

 

712年正月に成立した『古事記』上巻并(あわ)せて序の後半には「名は文命よりも高く、徳は天乙(てんいつ)に冠(まさ)りたり」という文がある。

この文を訳すると「夏の始祖の帝禹()の裨益(補佐役)であった益の名前の尊さは禹よりも高く、殷(いん)の湯王(とうおう)の裨益であった伊尹(いいん)は湯王よりも徳が高くすぐれていた」となる。

だから、上記の文は【卑】の字源・原義が「賤しい」ではなく「帝王の次に尊い」と意味したことを示している。

 

卑弥呼が歴史上に始めて登場する約50年前の120年頃に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は【卑】の字を「賤しきものなり」と解説する。

ゆえに、2世紀前半の中国では【卑】の字源・原義は失われていたと考えると早合点・軽率(けいそつ)となる。

というのも、卑弥呼と同年代を生存した蜀(しょく)の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい・181234)が書いた、「それを読んで泣かない者は人間で非ず」とたたえられるほどの名文章「出師(すいし)の表(ひょう)」には、「裨補」という語が登場するからである。

わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【裨】の字について「裨補・裨益を原義とする」と解説する。

ゆえに、「裨補」・「裨益」の【裨】は「帝王を補佐する第二に偉大な尊い王」と意味した。

以上からして、【卑】の字源・原義は「天の夏の銀河各部の象(かたち)の次に尊い、中国の海岸線」であったと考えるべきことになる。

 

このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3回と4回で詳細に解説したように――倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北部の中国国土の地図における方位規定は、時計回りに90度転回して北は東・東は南・南は西・西は北に変ずる」と定めた。また、倉頡は【呉】の字を作って「淮河より南部の中国国土地図における方位規定は、逆時計回りに90度転回して北は西・西は南・南は東・東は北に変ずる」と定めた。

そうすると、下図の「中国の海岸線は地図に属するゆえ、淮河より北部の海岸線は【禾】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか、また淮河より南部の海岸線も【呉】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか」と疑われることになった。

しかし、下図に示した「中国の海岸線」を【禾】と【呉】の方位規定で曲げると「中国の海岸線ではなくなってしまう」――したがって、「中国の海岸線」は「【禾】と【呉】の方位規定で曲がり変ずることができない、【禾】と【呉】と無関係の独立した線」と定められた。

ゆえに、〔「中国の海岸線は【禾】と【呉】の方位規定には左右されない」と決める原理〕をあらわす【卑】の字が必要となった。

だから、【卑】の字源・原義は下図のごとく、「【禾】と【呉】の方位規定に左右されて曲がらない、中国の海岸線」ということになった。

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◆文字が作られた「夏の銀河各部」には「名称」が存在しない。『魏志倭人伝』が説明する【倉頡の文字作成理論】を解明・証明する際に、「夏の銀河各部の名称」が無いと非常に不便である。

それゆえ、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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『易経』周易繋辞上伝には、【卑】の字源・原義の「中国の海岸線」について――下記のごとく説明する記事がある。

「易は天地と準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯してもって地理を察す。」

 

上記の文は――易は天の夏の銀河各部の象と地の中国国土の形に準(なぞら)れて作られた。だから、天と地の道を弥綸する(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)ことになった。仰いでは天文を観、天から地上を俯瞰(ふかん・見下ろす)と地図の形を察(あきらか)になる――と意味する。

上記の「弥綸す」を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」という訳は、高田真治・後藤基己訳者『易経()(岩波書店発行)を転用した。

 

上記した「夏の銀河各部の名称図」の左上には、わたくしが「十字の銀河」、「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河がある。

下図に示すように、「十字の銀河」は【楷書の、之繞(しんよう)】となった。また「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「長方形の暗黒天体部とその南の銀河」は「鹿の首」の形に相似すると見立てられて【道】の字源・字形・字義となった。

下図に示した【道】の字源「オス鹿の首の形をした銀河」は、五帝時代初頭から現在まで、中国とわが国の全国各地の天頂を弥綸する(洩れなく包みこむ)

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下図に「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地図の形」を配した。

「廟島列島」は「オス鹿の角」に相似すると見立てられ、「山東半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「鹿の首」に相似すると見立てられた。

ゆえに、下図は【道】の字源「オス鹿の首の形をした地宜」となる。

したがって、上図の「[道の字源銀河]と下図の「[]の字源となる地宜」について、『易経』は「易は天地と準(なぞら)う」と表現した。

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下図に示す「山東半島の地宜」は【彌()】の字源「カンムリカイツブリの首(横顔)」に見立てられた。

そして、「山東半島の付け根より北の海岸線」と「山東半島の付け根より南の長江口までの海岸線」は【弥】の「カンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。

さらに、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)、さらに南方に伸びる海岸線」は【綸】の字義「長江口と杭州湾の陸側に食い込む海岸線の糸は解(ほど)けるかのごとくで解けずに、杭州湾の南岸からさらに円弧を描いて・つくろいおさめる糸のごとくの海岸線」をあらわすことになった。

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上記したように、【道】の字源銀河「オス鹿の首の形をした銀河」は「中国全土を弥綸す(洩れなく包みこむ)」。

そして「中国全土に造られた道路における各地の緯度」は「北と南に伸びる中国海岸線の天頂緯度線に弥綸す。つまり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線における緯度で表示される」。

したがって、『易経』は「故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と表現した。

だから、上図の「中国国土図と大海の図」は【卑】の字源・原義「中国全土を弥綸す」つまり、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」であったことになる。

 

下図に、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。

下図に示すように、「杭州湾」は〔南を上・北を下にする〕と「鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似すると見立てられた。

「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」。

ゆえに、「河口」の【口】に【乎】が加えられた【呼】の字は「鳰」をあらわすことになった。

鳰はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国の流れのゆるやかなみられる河川、湖沼、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。

【呼】の契文(けいぶん・甲骨文字)と金文の古代字形は【乎】と同一字形である。

『説文解字』は【呼】の字を「息を外()くなり」と解説する。

上記したように、「杭州湾」は「銭塘江の水が河口から外き出される」。

ゆえに、「銭塘江の水が外き出される、河口」が【口】になった。そして、【口】に【乎】が加えられる【呼】は「杭州湾の地宜」にもとづいて「鳰」をあらわすことになった。

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以上のごとく――【卑】の字源・原義は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」。

【彌()】の字源・原義は「山東半島とその付け根より北と南の長江口までの海岸線」。

【呼】の字源・原義は「杭州湾の海岸線」であった。

下図は【卑】・【弥】・【呼】つまり「卑弥呼」の語源となった「中国の海岸線」の解明図である。

『魏志倭人伝』は倭女王の名を「卑弥呼」と記す。

この「卑弥呼」という名は「中国の海岸線」を意味したのである。

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◆日本地図が示しているように、日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島が在り、東端には伊豆諸島の神津島(こうづしま)が在る。

下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度である。

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先史時代から現在まで、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出する。

黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(いしほうちょう・石器)として利用された。

神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。

神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期石器時代から使用されていたことが明らかととなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。

神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。

約3万年前の旧石器人たちは【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチする能力を有していた。これゆえ、旧石器人たちは30km以上隔たる海を往来でき、また北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができた。

この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。

人類は原始のときから、脳に【亠】をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。

だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した(旅した)原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない!死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀河輝く天文を地理代わりにして【亠】をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存していたのである。

 

【亠】の下に【幺(よう)】、すなわち「産道を通過する出産児のごとく、無欲になれば【亠】をキャッチすることができるという心得」をあらわす【幺】を加えると、【玄】の字となる。

したがって、上図の「同緯度の沖ノ島と神津島」は「古代の人々が【亠】をキャッチして1度の60分の1の1分以内の誤差で精密に緯度を測定して、大海を往来した航海方法」を現在に明確に科学的に伝えていることになる。

上図の左側に配した沖ノ島は【玄】の字が名につく「玄界灘」に浮かぶ。

ゆえに、魏・帯方郡と倭国の使節と船乗りたちは大海・玄界灘を、産道を通過する出産児のごとく無欲になって【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして往来したことになる。

上記したように、沖ノ島と神津島は日本列島の東西の端にあってはるかに遠く離れているが――沖ノ島は西の大海・沖ノ島に浮かび、神津島は東の大海に浮かんで、両島は太古以来、〔【亠】をキャッチする海洋航海〕で有名であったにちがいない。

『魏志倭人伝』は倭女王に就任する以前の「卑弥呼」を、「一女子」と記す。その一女子は太古からの〔【亠】をキャッチする習慣・伝統〕に因()り、上図のごとく沖ノ島と神津島が同緯度(北緯3415)であることを知っていたのである。

沖ノ島では、福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に所在する宗像大社の沖津宮(おきつみや)を祭る。

 

◆日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る。しかし、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端に在る神津島では冬になっても雪が降らない。

ゆえに、下図の右側に示したように、日本列島は「西冷東暖(せいれいとうだん)」となる。

中国の海岸線北部の気候は冷たく、中国の海岸線南部の気候は暖かい。

ゆえに、下図の左側に示したように、中国の海岸線地域は「北冷南暖(ほくれいなんだん)」となる。

このように、日本列島・沖ノ島の「西冷」と中国の海岸線北部の「北冷」は、「冷たい気候」で一致する。また、日本列島・神津島の「東暖」と中国海岸線南部の「南暖」は、「暖かい気候」で合致する。

したがって、倭女王に就任する一女子は――日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国の海岸線南部の暖かい気候の〔南〕の方に伸びている――と確信した。

だから、一女子は下図の右側に示したごとく――日本列島の方位規定は倉頡が作った【禾】の字源・原義のごとく「時計回りに90度転回している」と立論した。

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170年頃に上図における「転回日本列島像論」を立論した一女子は――大乱して諸国が互いに戦っている男王たちに、このまま戦争を続けていれば中国(後漢)では戦争で多数の人命が失われているきわめて残酷な状況からして、領土の拡大を図る大国の中国(後漢)はいずれ倭国を占領するにちがいないと訴えた。

この訴えに男王たちは当時の後漢の状況から反論できず、倭国内は「中国に占領される!」という恐怖が充満(じゅうまん)することになった。これゆえ、男王たちは反省して戦争の終息を決断したため、倭国の大乱は鎮圧(ちんあつ)されることになった。

だから、後期縄文時代以来長らく氏族共同体制であった倭国において、始めて国家が樹立され、王朝が創立されることになった。

この国家を統治する最高位の女王に「転回日本列島像」を立論した一女子が選ばれた。

 

「転回日本列島像」は「中国の海岸線における北冷南暖」を基軸にして立論された。

前述したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字をあらわした。

だから、倭女王は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。

卑弥呼王朝は【倭】の字源・原義となった「時計回りに90度転回する日本列島地図」を制定して、下図のごとく、34ヵ国の小国名で【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字の日本列島伝来】を表示する政策を推進した。

この政策は、中国の後漢、その後の三国時代における魏の戦略や呉・蜀の天下二分同盟の戦略によって倭人国が占領されないための防衛対抗策であったと考えられる。

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『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。

下図に示すように、「【倭】の字源にのっとる転回日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東に在る」。

しかし、邪馬台国説の立論基盤である「現在と同じ方位規定にもとづく日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東北に在る」ゆえ、不合理にして矛盾する。

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「【倭】の字源・原義にのっとる転回日本列島地図」は、『魏志倭人伝』に記される全ての方位記事に合致して一点も不合理ではなく矛盾しない。

他方、邪馬台国説の立論基盤の「現在の日本地図における方位」は、『魏志倭人伝』における全記事に合致せず、幾つかの方位記事に対して不合理・矛盾する。

 

◆以上のごとく、新井白石以来300年継続する学者たちの邪馬台国説はまったく科学に反する空理空論であった。

(1)というのも、「邪馬台国説の立論基盤である日本地図」は「天の北極」を基準にして「北」を「北」と定めるからである。

しかし、卑弥呼時代の北極星(こぐま座β星)は天の北極から半径約10度・直径1200分の円周運動していた。このため、北極星のかたよりを測量して天の北極の高度を緯度換算する方法では魏・朝鮮半島の帯方郡と倭人国の間の大海・玄界灘を渡る際に必須であった1度の60分の1の1分の精密さで緯度が測定できない。

したがって、魏と倭人国は国交を結ぶことができなかったゆえ、魏では倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった真っ白けの白紙にして空白であったことになる。

『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙ではない。『魏志倭人伝』は、約2000字で構成される。

だから、邪馬台国説が空理空論であったと断定すべきことになる。

 

(2)このブログで詳細に解説して証明したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義をあらわした。

原始時代以来、人類は【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチして大海を渡りまた遠くの地を旅していた。

ゆえに、【亠】の観測を日々鍛錬する卑弥呼時代の人々は日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端に在る伊豆諸島の神津島が同緯度であることを知っていた。

日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ「西冷」となり、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らないゆえ「東暖」となる。

いっぽう、「中国の海岸線北方地域の気候」は「冷たい」ゆえ「北冷」となり、「中国の海岸線南方地域の気候」は「暖かい」ゆえ「南暖」となった。

このため、「中国の海岸線」における「北冷」と日本列島の沖ノ島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、「中国の海岸線」の「南暖」と日本列島の神津島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する状況を注目した一女子によって「方位規定が時計回りに90度転回する、日本列島地理」が立論された。

上記したように、「転回日本列島地図」の基軸となった「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義となったゆえ、「転回日本列島地図」を立論した一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

魏・帯方郡と倭人国の使節は大海・玄界灘を、卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」の原理となった【亠(天頂緯度線と子午線)】をキャッチして往来した。

だから、魏と倭人国は国交を結ぶことができたゆえ、『魏志倭人伝』には約2000字をもって倭の様子が説明されることになった。

このように「魏・帯方郡・と倭人国の使者たちは【亠】をキャッチして大海・玄界灘を往来した」と考えると『魏志倭人伝』の全記事は合理で一ヵ所も矛盾しない。

いっぽう、「現在の同じ日本地図を立論基盤とする、邪馬台国説」は科学あるいは事実にまったく反する不合理・矛盾だらけの空理空論であると証明される。

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2024年3月 3日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・4

産道を通過する赤ちゃんの姿が地図の転回方位規定となった

 

◆下に「夏の銀河」の写真を示した。

今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、「夏の銀河各部の形状から文字を作る方法・理論」を考案した。

「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河」であり、または「すべての夏の星座が漬()かる銀河」である。

「夏の銀河」は「天の川」や「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

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◆上の「銀漢(夏の銀河)の写真」には、「天の北極」と「北極星」は撮影されていない。

したがって、「天の北極」と「北極星」は字源・字形・字義にはならなかった。

というのも、倉頡は「いのちあってのものだね」、なにはさておき「この世に生存している」という命の保証が得られる事柄・事象のみを文字にした。

ところが、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・3」で指摘・証明したように、「天の北極」と「北極星」は「この世に生存している」と命を保証しない・死を招く天体であった。

『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究社発行)は「緯度の測定」と題して、次のごとく()「天の北極の高度を緯度に換算する方法」と、()「天頂緯度線と子午線による緯度の測定方法」の2種のみがあると指摘する。

「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星は天の北極からのかたよりが計算できるので、精密ではないが天の北極の高度で緯度を換算することができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度線と子午線による測定である。」

上の記事における「もっと精密に測る」という文は――黄帝時代はじめ古代、遠くの地に旅しなければならない人々や大海を渡らなければならない人々は、1度の60分の1の1分の精密さによる緯度測定が必要であった。このように精密に緯度測定できない人々は、家族が待つ家へ帰還することができず、旅先で命を失った――と指摘していることになる。

黄帝時代、正確な日付をあらわす暦と精密な時刻を示す時計は存在しなかった。

ゆえに、当時、北極星の天の北極からのかたよりは精確に計算できなかったので、精密な天の北極の高度を測定することができなかったことになる。

今から約5000年前の黄帝時代の北極星は「りゅう座α星」であった。

黄帝時代の北極星・りゅう座α星は天の北極を中心にして半径45分・直径1.5(90分・満月の3個分)の円を描いていた。当時は正確な日付精密な時刻をあらわす時計が存在しなかったため、さまざまな技(わざ)や道具・装置を用いても――満月の3個分の直径(距離)の円の中心となる天の北極の高度を1分(90分の1)以内の精密さで測定することができなかった。

だから、黄帝時代の北極星・りゅう座α星はこの世に生存するための保証が得られない、旅先で命を失って死ぬことになる天体であった。

 

原始時代から黄帝時代まで、旅する人々は各地で1度の60分の1の1分の精度で測量できる天頂緯度線と子午線をキャッチして緯度を精密に測定していた。

原始時代から、人間の目は日々「天頂緯度線と子午線のキャッチ(測量)」を鍛錬すると1分以内の誤差内で緯度を測定できた。また、人間の頭脳には「この世に生存するために、天頂緯度線と子午線を測定する本能」がそなわっていた。だから、密林でおおわれる原始時代や氷でただ一面真っ白な氷河期においても緯度が不明になって地上をさまよいついに命を失って、人類は絶滅することがなかった。

正確な暦と精密に時刻を示す時計が存在しなかった黄帝時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を精密に測定できる方法は、「天頂緯度線と子午線のキャッチ」、ただ一つのみであった。

 

◆倉頡が「文字を作った、夏の銀河の各部」には名称が存在しない。

【倉頡の文字作成理論】はじめ契文(けいぶん・殷代後半に用いられた甲骨文字)・金文(周代に用いられた文字)・夏音(かおん)文字・楷書などの字源は「夏の銀河の各部の形状」であった。このため、「字源となった銀河各部」を表示するためには、「夏の銀河各部の名称」が不可欠となる。

それゆえ、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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今から約6000年前の三皇時代初頭に作られた「易占(うらない)に用いる記号」の古称は「結縄(けつじょう)」であり、現在の中国では「陶文(とうぶん)」と名づけている。

上図の「夏の銀河各部の名称図」の左上には――「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。

下図に示すように、「十字の銀河」には「縦線状(経度線のごとき縦線)の暗黒天体部」があり、「この縦線に緯度の目盛り」を加えて――下図の右上に配したように、三皇時代初頭頃の易占の記号・結縄【玉】の字源となった。

また、「鬼の姿に似る銀河の背中」にも「横線状(緯度線のごとき横線)の暗黒天体部」があり、「この横線上に経度の目盛り」を刻んだ図書も、三皇時代初頭頃の【玉】の結縄となった。

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三皇時代時代以来、上図の「十字の銀河にある縦線」に限らず、様々な夏の銀河各部や夏の星座の星々をつなげて人々は「南北の経度線」を想像して、その経度線の上に「各地における天頂緯度の目盛り」を加えて南北に離れる地を旅した。また、上図の「鬼の姿に似る銀河の背中にある、東西・横線の暗黒天体部」に限らず、様々な夏の銀河各部や夏の星座の星々をつなげて人々は「東西の緯度線」を想像して、その緯度線上に「各地点における経度の目盛り」を加えて、東西に離れる地を旅した。

この旅の習慣にもとづく「経度線と緯度線の交合」によって、地(地図)において【時計回りに90度転回して経度の「北」が緯度の「東」】となり、また【逆時計回りに90度転回して経度の「北」が緯度の「西」】となる、2種の方位規定が存在するのではないかと提唱されるようになった。

ゆえに、この意見に応えて倉頡は()【禾()】の字を作って「地(地図)における、時計回りに90度転回する方位規定」と、()【呉】の字を作って「地(地図)における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。

下図に示すように、倉頡は「淮河より北部地域の地図における方位規定」を【禾】と名づけて「時計回りに90度転回する、つまり北は東、東は南、南は西、西は北となる」と定めた。

また、倉頡は「淮河より南部地域の地図における方位規定」を【呉】と名づけて「逆時計回りに90度転回する、つまり北は西、西は南、南は東、東は北となる」と定めた。

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下図は、【禾】【委】【倭】の字源解説図である。

黄帝時代において旱魃(かんばつ)で禾(穀物)が不作となり、人々が飢えて生存することが保証されない状況が最もおそれられた。ゆえに、【禾】の字は「人の姿に似る、十字の銀河」の上に「禾(イネ)」をあらわす図書を重ね、「十字の銀河の南にて、禾の穂が西の人の横顔に相似する鬼の横顔に似る銀河の口に垂れる様子」を表現することになった。

したがって、【禾】の字は「人々が豊かな穀物の実りに恵まれる状況」を表現している。

また、【禾】の字は「禾の穂が〔南〕から〔西〕に垂れる、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。

淮河より北部の地域は人口が南部より多数であったが、禾()の生育適性地域ではない。ゆえに、人々が禾()はじめ麦などの穀物の豊かな実りにめぐまれる状況を願って、倉頡は「淮河より北部の地(地図)における方位規定」を【禾】の「時計回りに90度転回する」と定めた。

【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ。 

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下図は【呉】の字源解説図である。

倉頡の【呉】の字を「女性の姿に似る、十字の銀河」を「巫女(みこ)」に見立て、「子どもの出産を祈祷するときや、子どもの出産を願うときに用いる土器・口(さい)を北(十字の銀河の頭上)から西(十字の銀河の肩の上)に移してささげ、そして産道を赤ちゃんが容易に進んで出産する様子を巫女が身をくねらせて踊る姿に見立てる」と定めた。

ゆえに、【呉】の字は「多数の子どもが産道を無事に出産して、人口が増加する状況」をあらわす。

また、【呉】の字は「躍る巫女が子どもの出産を願うときや子どもの出産を祝う祭器・口(さい)を〔北〕(十字の銀河の頭上)から〔西〕(十字の銀河の右肩)に移してささげる様子で、逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。

淮河より南部の地域は禾()の生育適性地であったが、人口は北部地域よりも少数であった。ゆえに、多数の子どもが出産する状況を願って、倉頡は「淮河より南部の地(地図)」における方位規定を【呉】の「逆時計回りに90度転回する」と定めた。

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以上のごとく、「精密に緯度が測定できる、天頂緯度線と子午線の測量」は「この地(この世)に生存していくことができる保証」となった。

また、【禾】の「豊かな穀状物の実り」も「この地に生存していくことができる保証」となった。

また、【呉】の「多数の子どもが産道を容易に通過する出産」も「この地に生存していくことができる保証」となっった。

だから、倉頡は「天頂緯度線と子午線の測量」と【禾】の「豊かな穀物の実り」と【呉】の「子どもが産道を容易に通過する出産」の三者は「この地に生存していくことができる」という点で共通する。この共通点を注目して――倉頡は【禾】の「〔北〕が〔東〕となる・時計回りに90度転回する、地(淮河より北部地域)における方位規定」と、【呉】の「〔北〕が〔西〕となる・逆時計まわりに90度転回する、地(淮河より南部地域)における方位規定」を定めたのである。

◆『魏志倭人伝』は「女王が都とする所は、邪馬壱(やまい)国であった」と記述する。また、対馬国から数えて25番目の小国は「邪馬(やま)国」であったと伝える。

「邪馬壱国」と「邪馬国」とが共通する【邪馬】という名称は「邪(なな)めの馬」と意味する。【馬】の字源は「砂漠に生息する、フタコブラクダ」である。

「邪馬壱国」の【邪馬】は「経度線と緯度線と邪(なな)めとなって、出産したばかりの馬・フタコブラクダがたくましく四本の足で立ち上がる側身形となる地図の形」である。【壱】は「十字の銀河の子宮に合致する、倭人国の首都所在地」と意味した。

「邪馬国」の【邪馬】は「地(地図)の形が経度線と緯度線に邪(なな)めとなる。また、地(地図)の形が草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの横顔の形をしている」とあらわしていた。

そして、【邪馬】という名称は「せまい産道(子宮口から膣口まで)を通過するときの、出産する生子(せいし)の頭蓋骨の仕組みとその(頭の)旋回」をあらわしていた。

今日において、産婦人科では「産道を通過する生子の頭の旋回」を「回旋(かいせん)」と呼称する。

下図に「女性の生殖器の側身形」を示した。

下図に示したように、「産道」は「子宮口(外子宮口)から膣口(ちつこう)まで」である。

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医学が未発達の黄帝時代、産道を無事に通過できない生子やそのために母親も死ぬという事故が度々あった。ゆえに、黄帝は【女性の生殖器官と出産】を研究した。

倉頡が【禾】と【呉】の字を作って「地(地図)における方位規定」を2種にした。この意見には【黄帝の出産の研究における、生子が産道を容易に通過するための頭蓋骨の仕組みと頭の回旋】が大きく影響している。

下図に示すように、【産道を通過する子どもの頭蓋骨】は「骨どうしの間が結合組織性の膜(まく)となる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって、頭蓋骨の骨は5枚に分かれる。ゆえに、5枚の頭蓋骨の骨は重ね合わせることができる仕組み」になっている。

下図の左側に示したように、【邪馬】は「産道を容易に通過することができるように、生子(赤ちゃん)の5枚の頭蓋骨の骨を重ね合わせて小さくすることができる小泉門・矢状縫合・大泉門」をあらわした。

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「出産第1期」を「開口期(かいこうき)」という。

出産第1期・開口器の終わりにおいて胎児の頭が骨盤入口を通りぬけると、膣の入口から生子(赤ちゃん)の頭蓋骨が見えるようになる。

上図の左側に示したように、産道を通過する生子が誕生するまでの――【小泉門・矢状縫合・大泉門がある出産児の頭蓋骨の4回、回旋する様子】は【邪馬】と呼称された。

医学が未発達の黄帝時代、【生子の頭が骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときに4回の回旋をして頭が誕生するまで】が【出産第2期・娩出期(べんしゅつき)における最大の山場(やまば)】であった。

下図は、【邪馬】の解説図である。

前述したように、【邪馬】の【馬】の字源は「砂漠で生息する、フタコブラクダ」である。

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「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの顔」は「産道を通過する生子の顔のごとく無邪気」であり――そのときには「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの区切りの間と間が重なり合う」。

つまり、上図における「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情」は「小泉門・矢状縫合・大泉門によって5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて直径を小さくして骨盤入口を通りぬけて、産道を容易に通過して出産する赤ちゃんの頭蓋骨の形状」に酷似する。

ゆえに、「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口の区切りの間と間が重なりあって邪(なな)めに歪む表情」は、【邪馬】と呼ばれることになった。

また、「小泉門・矢状縫合・大泉門によって5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて、頭蓋骨の直径を小さくして産道を円滑に通過して出産する赤ちゃんの頭蓋骨」も、【邪馬】と名づけられた。

だから、上図の「草をモグモグと食べる時の、馬(フタコブラクダ)の鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって歪(ゆが)む表情」は【邪馬】と名づけられた。

 

◆赤ちゃんが産道を通過するとき、下記のごとく4回の回旋をする。

まず骨盤入口面では、児頭(じとう・赤ちゃんの頭)は横向きに入る。しかも入口部は骨盤内で一番狭い空間があるので、通常、赤ちゃんはアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。これを「第1回旋」と呼ぶ。

骨盤出口面は縦長(たてなが)なので、赤ちゃんは横向きから次第に正面・横向きへ方向を変えながら下降する。この過程を「第2回旋」と呼ぶ。

「第1回旋(横向き)」から「第2回旋(縦向き)」へ回る角度は90度である。

第1回旋は先に進む小泉門が時計回りに90度回り、第2回旋は先に進む小泉門が逆時計回りに90度回る。

第3回旋は第2回旋と同じく逆時計回りに90度回る。

最後の第4回旋は第1回旋と同じく時計回りに90度回って、赤ちゃんの頭は膣口から誕生する。

 

倉頡は「第1回旋と第4回旋」にもとづき、【禾】の字を作って淮河より北部の地域の方位規定を「時計回りに90度転回する」と定めた。

また、「第2回旋と第3回旋」にもとづいて、【呉】を作って淮河より南部の地域の方位規定を「逆時計回りに90度転回する」と定めた。

【禾】の字から【委】が生まれ、また【倭】の字が生まれた。ゆえに、【委】も【倭】の字は【禾】の字と同じく「地図における、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・3」で詳細に解説し証明したように、対馬国から狗奴(くな)国なでの28ヵ国が所在する日本列島・本州西部地図は現在の地図と相違し――下図における下部に示したように【倭】の字にのっとって方位規定が「時計回り90度転回する地図」となる。

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◆産婦人科では「骨盤入口部は一番狭い空間となる」ので、「第1回旋=邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

つまり「赤ちゃんが頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「小斜径」と呼ばれている。

現在は、申し込めば夫は妻の出産に立ち会うことができる。分娩室において、骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときの子どもの頭の回旋の神秘的な光景を、夫は膣口から目撃できる。

【一番狭い産道を通りぬける、赤ちゃんの「小斜径=邪馬」の健気(けなげ)の努力】は「ものスゴク神秘的な感動的な、「命」の尊さをあらわす光景」である。「赤ちゃんはアゴを胸につける屈位の姿勢になって後頭部の最小の周囲径(最小径)で骨盤入口を通りぬけない」と、生まれることができずに「命」を失う。

下図に、骨盤入口の図を配した。

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上図に示すように、赤ちゃんの頭が通過する骨盤入口は横長である。

いっぽう、赤ちゃんの頭は縦長である。

下図に示すように、骨盤入口を通過できる平均的な最小径の小斜径は32㎝である。アゴを胸につける屈位の姿勢になれない、赤ちゃんの頭の前後径は平均34㎝だという。

ゆえに、わずか2㎝の差で生まれてくることができない。

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下図は【命】の字源解説図である。

【命】の上部は【亼(しゅう)】である。【亼】の下部の左側は【口(さい)】である。【亼】の下部の右側は【卩(せつ)】である。

【亼】の字形は「骨盤入口を通りぬけるときに先進(せんしん・先に進む)する小泉門の∨の形は、反転した∧の形」となる。

ゆえに、下図に示すように、【亼】の字形は「先進する小泉門の反転した【∧】の下部」に「骨盤入口の【一】」を加えた合体形・Α字形となる。

【亼】の下の左側の【口(さい)】は「産道、つまり子宮口から膣口(ちつこう)までの膣」をあらわす。

【亼】の下の右側の【卩】は「屈位(くつい)(アゴを胸につけた)姿勢となって骨盤入口を通りぬける赤ちゃんの姿」を表現している。

ゆえに、【命】の字形は「赤ちゃんがアゴを胸につける屈位の姿勢になって後頭部の小さい周囲径(最小径)で骨盤入口を通りぬける、第1回旋の様子」を表現している。

だから、【命】の字源は「横長の楕円形の骨盤入口を、縦長の赤ちゃんの頭蓋骨が後頭部の最小径で通りぬける、第1回旋の様子」であったことになる。

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◆下図は、出産第2期・娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する赤ちゃんの図である。

この図では、母体の足は下部にある。

「母体の足」を「地」と見立てると、下図は「地を俯瞰(ふかん・地を見下ろす)する図」となる。

下図を反転して「母体の足」を「天頂」に見立てると、下図の「赤ちゃんの姿勢」は「天頂緯度線と子午線をキャッチする人々の姿勢」に相似する。

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下図は【亠(とう)】の字源「天頂緯度線と子午線」をあらわす解説図である。言いかえると「緯度が1分の精密に測定できる天頂点と重なる銀河部位の軌道」の解説図である。

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下図に示すように、【亠】の字形は「天頂緯度線と子午線」とで構成される。

「天頂緯度線と子午線」を測量すれば、地(観測地点)の緯度が1度の60分の1の1分の精密さで測定できる。ゆえに、遠くの地に旅する人々や大海を渡る人々は【亠】を測量すれば、旅先にて命を失わずに家族が待つ家に帰還できた。

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下図に示すように、古代の人々はいわゆる「門」の原型となった装置を作って、【亠】を測量した。

日々鍛錬した王たちや【亠】の測量に特殊能力を有する人々は「門」の装置を無くても、精密に緯度が測定できた。

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【亠】を観測する人々は、「必ず、【亠】をキャッチする」という欲を有すると失敗した。

【亠】を観測する人々は、無事に誕生する出産児が産道を通過するときのように【無欲】になれば【亠】が測定できた。

ゆえに、【亠】をキャッチするコツは「【無欲】になれ」であった。

紀元前5・4世紀頃に生存した中国の戦国時代の思想家の老子の教えを伝える『老子』上篇・第一章の末部の文は――故に常に無欲にして以て其の妙(みょう)を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以て其の皦(きょう)を観る。此の両者は、同じく出でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄(げん)と謂う。玄の又た玄、衆妙(しゅうみょう)の門――である。

この『老子』上篇・第一章の末部の文を現代語に訳すると――ゆえに常に無欲になれば不思議なことに【亠】を測定できる、しかし常に「必ず、【亠】をキャッチする」と欲を有すると皦つまり「血の気を失い白くなって出産できずに死ぬ子ども」となる。この【妙】と【皦】は同じ字源銀河から生まれて、名が異なり、そして【玄】の字源銀河も【妙】と【皦】の字源銀河と同じである。その不思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、民衆が【亠】をキャッチすることができる「門」と呼ばれる装置を用いると不思議なことに【亠】、つまり「天頂緯度線と子午線」が測定できる――ということになる。

(注 【妙】・【皦】・【玄】の字源は()「十字の銀河」、()「鬼の姿に似る銀河」、()「激流の銀河」、()「長方形の暗黒天体部」とで構成される)

 

【玄】の字源は――()「産道を湿潤(しつじゅん)にして赤ちゃんの産道通過を容易にする羊水(ようすい)」に見立てた「激流の銀河」と、()「膣口(ちつこう)・女陰」に見立てた「長方形の暗黒天体部」と、()「黄帝時代に長江口(ちょうこうこう)の【亠】、つまり天頂緯度線と子午線」に見立てた「十字の銀河の子宮」と、()「出産第2期・娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する赤ちゃん」に見立てた「鬼の姿に似る銀河」とで――成立した。

下図は、【玄】の字形解説図である。

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上図の【玄】の字形解説図では――()【亠】に見立てた「十字の銀河の子宮」と、()「鬼の姿に似る銀河」に見立てた「娩出期終わりの頭が誕生した生子」とで構成される。しかし、「生子・赤ちゃんの産道通過を容易にする羊水」に見立てた「激流の銀河」と、「膣口」に見立てた「長方形の暗黒天体部」については省略している。

結局、上図の【玄】の字形は【亠】の下に【幺(よう)】が加えられて成立する。

「字書の聖典」と呼ばれて尊重された『説文解字』は【幺】の字を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、【幺】の字形は「この世に初めて生まれる子の姿を象る図案」、つまり「娩出期終わりの頭が誕生する生子の姿の図案」ということになる。

【亠】を観測する人々は、【無欲】になって顔を上に向ける姿勢、つまり出産第2期・娩出期終わりの【無欲】になって産道を通過した頭が誕生する生子のような姿勢となった。

だから、上図に示したように、【玄】の字形は【亠】の下に【幺】「娩出期終わりの、この世に初めて生まれた子の姿」が加えられて成立した。

 

◆以上のごとく、【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を図案する方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】が結合して組織された。

なお、下図に示すように、「【邪馬】の銀河」つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」は「鬼の横顔に似る銀河の首の西となり」に存在する。

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『魏志倭人伝』は対馬国を1番目の小国とすると、25番目の小国は「邪馬国」であったと記す。

下図に示すように、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと、「大和・奈良県の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「草をモグモグと食べるときの頬をふくらませる、鼻・アゴ・口の区切りの間と間が邪(なな)めに重なり合った歪(ゆが)む馬・フタコブラクダの横顔」に相似する。したがって、「大和・奈良県の地図」は「馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪めに重なり合う【邪馬】の形」をしている。

ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。

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だから、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。

邪馬台国大和説は空理空論であった、この事実は絶対に確実で否定できない。

というのも、『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という名の記事が1ヵ所も存在しないからである。

また、邪馬台国大和説は――魏・帯方郡と倭人国の使者たちは、大海を【亠】「天頂緯度線と子午線」を測定して往来した――と考えない。ゆえに、倭国=日本列島・本州の地図は現在と同じで「北」は「北」と定めたと断定する。このような意見だと、魏・帯方郡と倭人国の使者たちは天の北極の高度で緯度を換算して大海を渡ったことになる。しかし、この方法だと魏・帯方郡と倭人国の使者たちは大海を渡れずに命を失った。そうすると、魏では倭人国の様子をまったく知ることができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

このような約2000字の『魏志倭人伝』が忽然(こつぜん)と白紙になるという事実は絶対に信じられない。だから、邪馬台国説は空理空論だったと断定できる。

 

これまで解説したとおり、『魏志倭人伝』は邪馬台国について語る書物ではなく、【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に説明していた貴重な文献であったのである。

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