G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・5: 卑弥呼の逆襲

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2024年3月10日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・5

「卑弥呼」という名でも、今日の日本地図と異なって転回日本列島像となった

 

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、下に示す「夏の銀河各部の形状」を図案して「文字を作る方法・理論」を発明した。

「夏の銀河」は「天の川」あるいは「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

「夏の銀河」とは「夏に長時間見ることができる銀河」、あるいは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」のことである

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黄帝は【女性の生殖器官と出産の研究】をした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・4」で詳細に解説して証明したように――【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を造形して文字を作る方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】を合体して構築された。

 

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。

超音波装置によって、1980年代ごろからようやく胎児の羊水の中での様子が少しずつ明らかになってきた。

だから、約5000年前の黄帝時代、羊水の中で過ごす胎児の様子はまったく謎のうえに謎であった。

出産後の人間は1時間も水中にもぐったままでいれば確実に死ぬ。

にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中で過ごすが、胎児はなぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――黄帝は、この秘密を解明することができなかった。

それゆえ、この秘密を「八丁もぐりの、50秒ほど潜水することができるカンムリカイツブリ」に喩(たと)えることを、倉頡は思いついた。

というのも、下図に示すように、「女性の生殖器官の側身形」は「水鳥の側身形」に相似しているからである。

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倉頡は、「カンムリカイツブリ」をあらわす【爾()】の字を作った。

【爾】、のちに【弓偏】に【爾】を加えた【彌()】が「カンムリカイツブリ」」をあらわすことになった。

カイツブリ目カンムリカイツブリ属で最大の水鳥・カンムリカイツブリの全長は4661㎝、両翼を広げた長さは8590㎝である。

カンムリカイツブリの大きさと、体長2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。だから、「カンムリカイツブリ」は「胎児」体長に適合しない。

「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週から第40週の体長が4853㎝くらいの生子(せいし・赤ちゃん)」と同じくらいである。

ゆえに、【彌()】は「カンムリカイツブリ」と「出産予定日の第38週から第40週ころの赤ちゃん」に見立てられた。

 

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「第12週から第20週まで、水中(羊水)で生活する胎児」に喩えることにした。

鳰の全長は2529㎝である。第12週から第20週の胎児の体長は2030㎝くらいである。

これゆえ、倉頡は「第12週から第20週の水中生活者の胎児」を「鳰」に喩えることにした。

倉頡は【乎】の字で「鳰」をあらわしたが、のちに【口】に【乎】が加わる【呼】が「鳰」をあらわすことになった。

鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さな体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。

だから、倉頡は「鳰」を「第20週もの長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息死しない胎児」に喩えることにした。

『説文解字』は【呼】の字について「息を外()くなり」と解説する。

したがって、「鳰」は「子宮の中で息を外きつづけて、羊水を吸い込んで窒息死しない胎児」に見立てられたことになる。

 

◆『易経(えききょう)』は中国の五経の第一に挙げられる古典である。

『易経』の周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)の冒頭文は「天は尊く地は卑(いや)しくして、乾坤(けんこん)定まる。卑高(ひこう)をもって陳(つら)なり、貴賎位す」である。

この文は「天の尊い夏の銀河の象(かたち)と地の卑しい形(かたち)によって、天と地が定まる。地の【卑】と天の【高】をもって、【貴】と【賤】の位が定まる」と意味するのであろうか。

上記のように訳すると【卑】の字義は【貴】「尊い」の反対語「賤(いや)しい」ということになる。

 

しかし、【卑】の字源・原義は「賤しい」ではなかったと考えられる。

前記した『易経』周易繋辞上伝の冒頭の「卑高をもって陳なり、貴賤位す」という文とその後につづく幾つかの文を省略して、「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」という文を冒頭の「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる」という文に加えると、次のごとき文になる。

「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる。(中略)。天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」

上記の文は「天は地よりも高く尊い、地は天よりも卑つまり低い。ゆえに天と地に分かれて定まる。天の【銀河各部のかたち】は多種多様にさまざまな事物に相似するゆえ【象】ということになり、【地図における各地のかたち】は多くても三、四種の事物に相似するだけであるゆえ【形】ということになる」と解釈できる。

文字となった夏の銀河各部には名称が存在しないが、わたくしは幾つかに小分けして名称をつけた。たとえば、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河部は【天・人体・女体・男の体・妊婦・人体の正面形・人体の背面形・東から西へ歩く女性の側身形・西から東へ歩く男性の側身形・男女の交わり・木・木の枝・柱・聿()・港()・馬(フタコブラクダ)の側身形)・十字路・オス鹿の角・炎など多数の事例のかたち】に変わる。

だから、『易経』は「天に在りては象を成す」と表現した。

「中国の山東半島の地のかたち」は最初「オス鹿の横顔」に相似する、次に「天を飛翔する【彌()のカンムリカイツブリの横顔】に相似する、さらに「【馬】のフタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。

このように、【天の夏の銀河各部】よりも【地図における各地のかたちが相似すると想像される事例が少ない】。

ゆえに、『易経』は「地にありては形を成す」と表現した。

つまり、上記の『易経』周易繋辞上伝は【卑】の「賤しい」は字源・原義を失った用法であるが――【卑】の字源・原義は「天から下界を見下ろすと、中国大陸と大海の境となって、地(地図)の形をあらわす、海岸線の形」であったと伝えていると考えられる。

したがって、『易経』が成立した紀元前5世紀頃は、【卑】の字は字源・原義を失う「賤しい」と字源・原義を伝える「中国の海岸線」の二つの用法が併存(へいぞん)していたことになる。

 

712年正月に成立した『古事記』上巻并(あわ)せて序の後半には「名は文命よりも高く、徳は天乙(てんいつ)に冠(まさ)りたり」という文がある。

この文を訳すると「夏の始祖の帝禹()の裨益(補佐役)であった益の名前の尊さは禹よりも高く、殷(いん)の湯王(とうおう)の裨益であった伊尹(いいん)は湯王よりも徳が高くすぐれていた」となる。

だから、上記の文は【卑】の字源・原義が「賤しい」ではなく「帝王の次に尊い」と意味したことを示している。

 

卑弥呼が歴史上に始めて登場する約50年前の120年頃に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は【卑】の字を「賤しきものなり」と解説する。

ゆえに、2世紀前半の中国では【卑】の字源・原義は失われていたと考えると早合点・軽率(けいそつ)となる。

というのも、卑弥呼と同年代を生存した蜀(しょく)の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい・181234)が書いた、「それを読んで泣かない者は人間で非ず」とたたえられるほどの名文章「出師(すいし)の表(ひょう)」には、「裨補」という語が登場するからである。

わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【裨】の字について「裨補・裨益を原義とする」と解説する。

ゆえに、「裨補」・「裨益」の【裨】は「帝王を補佐する第二に偉大な尊い王」と意味した。

以上からして、【卑】の字源・原義は「天の夏の銀河各部の象(かたち)の次に尊い、中国の海岸線」であったと考えるべきことになる。

 

このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3回と4回で詳細に解説したように――倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北部の中国国土の地図における方位規定は、時計回りに90度転回して北は東・東は南・南は西・西は北に変ずる」と定めた。また、倉頡は【呉】の字を作って「淮河より南部の中国国土地図における方位規定は、逆時計回りに90度転回して北は西・西は南・南は東・東は北に変ずる」と定めた。

そうすると、下図の「中国の海岸線は地図に属するゆえ、淮河より北部の海岸線は【禾】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか、また淮河より南部の海岸線も【呉】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか」と疑われることになった。

しかし、下図に示した「中国の海岸線」を【禾】と【呉】の方位規定で曲げると「中国の海岸線ではなくなってしまう」――したがって、「中国の海岸線」は「【禾】と【呉】の方位規定で曲がり変ずることができない、【禾】と【呉】と無関係の独立した線」と定められた。

ゆえに、〔「中国の海岸線は【禾】と【呉】の方位規定には左右されない」と決める原理〕をあらわす【卑】の字が必要となった。

だから、【卑】の字源・原義は下図のごとく、「【禾】と【呉】の方位規定に左右されて曲がらない、中国の海岸線」ということになった。

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◆文字が作られた「夏の銀河各部」には「名称」が存在しない。『魏志倭人伝』が説明する【倉頡の文字作成理論】を解明・証明する際に、「夏の銀河各部の名称」が無いと非常に不便である。

それゆえ、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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『易経』周易繋辞上伝には、【卑】の字源・原義の「中国の海岸線」について――下記のごとく説明する記事がある。

「易は天地と準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯してもって地理を察す。」

 

上記の文は――易は天の夏の銀河各部の象と地の中国国土の形に準(なぞら)れて作られた。だから、天と地の道を弥綸する(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)ことになった。仰いでは天文を観、天から地上を俯瞰(ふかん・見下ろす)と地図の形を察(あきらか)になる――と意味する。

上記の「弥綸す」を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」という訳は、高田真治・後藤基己訳者『易経()(岩波書店発行)を転用した。

 

上記した「夏の銀河各部の名称図」の左上には、わたくしが「十字の銀河」、「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河がある。

下図に示すように、「十字の銀河」は【楷書の、之繞(しんよう)】となった。また「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「長方形の暗黒天体部とその南の銀河」は「鹿の首」の形に相似すると見立てられて【道】の字源・字形・字義となった。

下図に示した【道】の字源「オス鹿の首の形をした銀河」は、五帝時代初頭から現在まで、中国とわが国の全国各地の天頂を弥綸する(洩れなく包みこむ)

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下図に「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地図の形」を配した。

「廟島列島」は「オス鹿の角」に相似すると見立てられ、「山東半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「鹿の首」に相似すると見立てられた。

ゆえに、下図は【道】の字源「オス鹿の首の形をした地宜」となる。

したがって、上図の「[道の字源銀河]と下図の「[]の字源となる地宜」について、『易経』は「易は天地と準(なぞら)う」と表現した。

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下図に示す「山東半島の地宜」は【彌()】の字源「カンムリカイツブリの首(横顔)」に見立てられた。

そして、「山東半島の付け根より北の海岸線」と「山東半島の付け根より南の長江口までの海岸線」は【弥】の「カンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。

さらに、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)、さらに南方に伸びる海岸線」は【綸】の字義「長江口と杭州湾の陸側に食い込む海岸線の糸は解(ほど)けるかのごとくで解けずに、杭州湾の南岸からさらに円弧を描いて・つくろいおさめる糸のごとくの海岸線」をあらわすことになった。

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上記したように、【道】の字源銀河「オス鹿の首の形をした銀河」は「中国全土を弥綸す(洩れなく包みこむ)」。

そして「中国全土に造られた道路における各地の緯度」は「北と南に伸びる中国海岸線の天頂緯度線に弥綸す。つまり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線における緯度で表示される」。

したがって、『易経』は「故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と表現した。

だから、上図の「中国国土図と大海の図」は【卑】の字源・原義「中国全土を弥綸す」つまり、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」であったことになる。

 

下図に、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。

下図に示すように、「杭州湾」は〔南を上・北を下にする〕と「鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似すると見立てられた。

「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」。

ゆえに、「河口」の【口】に【乎】が加えられた【呼】の字は「鳰」をあらわすことになった。

鳰はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国の流れのゆるやかなみられる河川、湖沼、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。

【呼】の契文(けいぶん・甲骨文字)と金文の古代字形は【乎】と同一字形である。

『説文解字』は【呼】の字を「息を外()くなり」と解説する。

上記したように、「杭州湾」は「銭塘江の水が河口から外き出される」。

ゆえに、「銭塘江の水が外き出される、河口」が【口】になった。そして、【口】に【乎】が加えられる【呼】は「杭州湾の地宜」にもとづいて「鳰」をあらわすことになった。

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以上のごとく――【卑】の字源・原義は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」。

【彌()】の字源・原義は「山東半島とその付け根より北と南の長江口までの海岸線」。

【呼】の字源・原義は「杭州湾の海岸線」であった。

下図は【卑】・【弥】・【呼】つまり「卑弥呼」の語源となった「中国の海岸線」の解明図である。

『魏志倭人伝』は倭女王の名を「卑弥呼」と記す。

この「卑弥呼」という名は「中国の海岸線」を意味したのである。

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◆日本地図が示しているように、日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島が在り、東端には伊豆諸島の神津島(こうづしま)が在る。

下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度である。

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先史時代から現在まで、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出する。

黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(いしほうちょう・石器)として利用された。

神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。

神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期石器時代から使用されていたことが明らかととなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。

神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。

約3万年前の旧石器人たちは【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチする能力を有していた。これゆえ、旧石器人たちは30km以上隔たる海を往来でき、また北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができた。

この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。

人類は原始のときから、脳に【亠】をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。

だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した(旅した)原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない!死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀河輝く天文を地理代わりにして【亠】をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存していたのである。

 

【亠】の下に【幺(よう)】、すなわち「産道を通過する出産児のごとく、無欲になれば【亠】をキャッチすることができるという心得」をあらわす【幺】を加えると、【玄】の字となる。

したがって、上図の「同緯度の沖ノ島と神津島」は「古代の人々が【亠】をキャッチして1度の60分の1の1分以内の誤差で精密に緯度を測定して、大海を往来した航海方法」を現在に明確に科学的に伝えていることになる。

上図の左側に配した沖ノ島は【玄】の字が名につく「玄界灘」に浮かぶ。

ゆえに、魏・帯方郡と倭国の使節と船乗りたちは大海・玄界灘を、産道を通過する出産児のごとく無欲になって【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして往来したことになる。

上記したように、沖ノ島と神津島は日本列島の東西の端にあってはるかに遠く離れているが――沖ノ島は西の大海・沖ノ島に浮かび、神津島は東の大海に浮かんで、両島は太古以来、〔【亠】をキャッチする海洋航海〕で有名であったにちがいない。

『魏志倭人伝』は倭女王に就任する以前の「卑弥呼」を、「一女子」と記す。その一女子は太古からの〔【亠】をキャッチする習慣・伝統〕に因()り、上図のごとく沖ノ島と神津島が同緯度(北緯3415)であることを知っていたのである。

沖ノ島では、福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に所在する宗像大社の沖津宮(おきつみや)を祭る。

 

◆日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る。しかし、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端に在る神津島では冬になっても雪が降らない。

ゆえに、下図の右側に示したように、日本列島は「西冷東暖(せいれいとうだん)」となる。

中国の海岸線北部の気候は冷たく、中国の海岸線南部の気候は暖かい。

ゆえに、下図の左側に示したように、中国の海岸線地域は「北冷南暖(ほくれいなんだん)」となる。

このように、日本列島・沖ノ島の「西冷」と中国の海岸線北部の「北冷」は、「冷たい気候」で一致する。また、日本列島・神津島の「東暖」と中国海岸線南部の「南暖」は、「暖かい気候」で合致する。

したがって、倭女王に就任する一女子は――日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国の海岸線南部の暖かい気候の〔南〕の方に伸びている――と確信した。

だから、一女子は下図の右側に示したごとく――日本列島の方位規定は倉頡が作った【禾】の字源・原義のごとく「時計回りに90度転回している」と立論した。

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170年頃に上図における「転回日本列島像論」を立論した一女子は――大乱して諸国が互いに戦っている男王たちに、このまま戦争を続けていれば中国(後漢)では戦争で多数の人命が失われているきわめて残酷な状況からして、領土の拡大を図る大国の中国(後漢)はいずれ倭国を占領するにちがいないと訴えた。

この訴えに男王たちは当時の後漢の状況から反論できず、倭国内は「中国に占領される!」という恐怖が充満(じゅうまん)することになった。これゆえ、男王たちは反省して戦争の終息を決断したため、倭国の大乱は鎮圧(ちんあつ)されることになった。

だから、後期縄文時代以来長らく氏族共同体制であった倭国において、始めて国家が樹立され、王朝が創立されることになった。

この国家を統治する最高位の女王に「転回日本列島像」を立論した一女子が選ばれた。

 

「転回日本列島像」は「中国の海岸線における北冷南暖」を基軸にして立論された。

前述したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字をあらわした。

だから、倭女王は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。

卑弥呼王朝は【倭】の字源・原義となった「時計回りに90度転回する日本列島地図」を制定して、下図のごとく、34ヵ国の小国名で【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字の日本列島伝来】を表示する政策を推進した。

この政策は、中国の後漢、その後の三国時代における魏の戦略や呉・蜀の天下二分同盟の戦略によって倭人国が占領されないための防衛対抗策であったと考えられる。

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『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。

下図に示すように、「【倭】の字源にのっとる転回日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東に在る」。

しかし、邪馬台国説の立論基盤である「現在と同じ方位規定にもとづく日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東北に在る」ゆえ、不合理にして矛盾する。

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「【倭】の字源・原義にのっとる転回日本列島地図」は、『魏志倭人伝』に記される全ての方位記事に合致して一点も不合理ではなく矛盾しない。

他方、邪馬台国説の立論基盤の「現在の日本地図における方位」は、『魏志倭人伝』における全記事に合致せず、幾つかの方位記事に対して不合理・矛盾する。

 

◆以上のごとく、新井白石以来300年継続する学者たちの邪馬台国説はまったく科学に反する空理空論であった。

(1)というのも、「邪馬台国説の立論基盤である日本地図」は「天の北極」を基準にして「北」を「北」と定めるからである。

しかし、卑弥呼時代の北極星(こぐま座β星)は天の北極から半径約10度・直径1200分の円周運動していた。このため、北極星のかたよりを測量して天の北極の高度を緯度換算する方法では魏・朝鮮半島の帯方郡と倭人国の間の大海・玄界灘を渡る際に必須であった1度の60分の1の1分の精密さで緯度が測定できない。

したがって、魏と倭人国は国交を結ぶことができなかったゆえ、魏では倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった真っ白けの白紙にして空白であったことになる。

『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙ではない。『魏志倭人伝』は、約2000字で構成される。

だから、邪馬台国説が空理空論であったと断定すべきことになる。

 

(2)このブログで詳細に解説して証明したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義をあらわした。

原始時代以来、人類は【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチして大海を渡りまた遠くの地を旅していた。

ゆえに、【亠】の観測を日々鍛錬する卑弥呼時代の人々は日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端に在る伊豆諸島の神津島が同緯度であることを知っていた。

日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ「西冷」となり、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らないゆえ「東暖」となる。

いっぽう、「中国の海岸線北方地域の気候」は「冷たい」ゆえ「北冷」となり、「中国の海岸線南方地域の気候」は「暖かい」ゆえ「南暖」となった。

このため、「中国の海岸線」における「北冷」と日本列島の沖ノ島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、「中国の海岸線」の「南暖」と日本列島の神津島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する状況を注目した一女子によって「方位規定が時計回りに90度転回する、日本列島地理」が立論された。

上記したように、「転回日本列島地図」の基軸となった「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義となったゆえ、「転回日本列島地図」を立論した一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

魏・帯方郡と倭人国の使節は大海・玄界灘を、卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」の原理となった【亠(天頂緯度線と子午線)】をキャッチして往来した。

だから、魏と倭人国は国交を結ぶことができたゆえ、『魏志倭人伝』には約2000字をもって倭の様子が説明されることになった。

このように「魏・帯方郡・と倭人国の使者たちは【亠】をキャッチして大海・玄界灘を往来した」と考えると『魏志倭人伝』の全記事は合理で一ヵ所も矛盾しない。

いっぽう、「現在の同じ日本地図を立論基盤とする、邪馬台国説」は科学あるいは事実にまったく反する不合理・矛盾だらけの空理空論であると証明される。

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コメント

この様な書込大変失礼致します。日本も当事国となる台湾有事を前に 日本の国防を妨げる国内の反日の危険性が共有される事を願い書込ませて頂きます。

今や報道は無法国の代弁者となり、日本の国益は悪に印象操作、反日帰化の多い野党や中韓の悪事は報じない自由で日本人の知る権利を阻む異常な状態です。

世論誘導が生んだ民主党政権、中韓を利す為の超円高誘導で日本企業や経済は衰退する中、技術を韓国に渡さぬJAXAを恫喝し予算削減、3万もの機密漏洩など数知れぬ韓国への利益誘導の為に働きました。

当時の売国法に未だ後遺症を残し、今も内から中韓化侵略が進む中、再びメディアに踊らされ国を失わぬ為に、各党の傾向を見極め、改憲始め国の強化と成長が不可欠です。
しかし必要なのは、日本人として誇りを取り戻し 掛替えない自国を守る意識だと多くの方に伝わる事を願います。

投稿: aki | 2024年3月10日 (日) 18時06分

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