G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年4月

« 2024年3月 | トップページ | 2024年5月 »

2024年4月

2024年4月28日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・8

『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地を「邪馬壱国であった」と記す

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定されている。

しかし、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」、言いかえると【漢字の起源と発明の秘密】を詳細に伝える文献であった。

つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と詳細に直接的に説明する史料であった。

『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住いた」と記す。ところが、多数の学者たちは「邪馬壱国」という記事を「邪馬台国」と誤読してさも事実がごとく平然と誤魔化(ごまか)す。

ゆえに、多数の国民は「卑弥呼が居住したのは邪馬台国であった」と思い込んでいる。

 

『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り(計4ヵ国の小国があり)」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。

上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約400年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

だから、益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符にして)多数残っている。

『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が教授する【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得できた。よって、益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】にもとづく精密地図作製地図方法の原理も習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

『魏志倭人伝』には【倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明され、『古事記』上巻には多数の夏音が残っている。

にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

というのも、江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。だから、全記事を絶対に信用してはならない」とする立論方法を定めているからである。

言いかえると、白石から現在までの学者たちは「『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加える立論する方法】こそが学問的に最も正しい」と主張する。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確であると証明できる。

したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると「『魏志倭人伝』の主なる内容は、【倉頡が発明した文字作成理論】」を具体的にこと細やかに説明する文献であったと証明される。

よって、新井白石以来300年、学者たちによって『魏志倭人伝』が説明した【漢字の起源と発明の秘密】は解明されずに抹殺(まっさつ)されていたことになる。

 

◆黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は「夏の銀河の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。

「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」、いいかえると「夏に最も長時間見える銀河」のことである。

「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれている。

「銀漢の各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。

Ginga01_20240428113301

 

倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。これゆえ、倉頡は下記に示

す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

 

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

 

◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【()の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。

五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()()は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかなかった。

だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことに――近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

このため、近世・現代の学者たちは――『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っているきわめて重大な事実も――まったく気づかなかった。

さらに、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明されている事実に、白石以来約300年間、学者たちはまったく気づかなかった。

したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。

ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の古代王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。

にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「【倉頡の文字作成理論】は厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、【倉頡の文字作成理論】について説明したのであろうか?

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・7」にて解説し証明したように――卑弥呼は「中国の王朝が、わが国(倭人国)は文字が存在しない、文化の低い弱小国ではなく、中国における【最高の学問】である【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と誇示するため、30の小国名をもってあえてタブーを犯して【倉頡の文字作成理論】をあらわし、中国には占領されない国防政策を積極的に推進したからである。

当時、【隷書に近い原始的な楷書(かいしょ)】を用いていた中国と友好関係を結ぶためには、【卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる夏音文字】を正しく翻訳する役所がどうしても不可欠となった。

ゆえに、『魏志倭人伝』には下記のごとき一群の(67字で構成される)記事がある。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。

つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀県佐賀市であった。

『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

前述したように、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。

したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。

上記したように、『魏志倭人伝』は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭人国の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。

だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と合致する倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて(捜露して)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。

このように、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていた。

それというのも、【楷書の字源・字形の原形・原義】は【倉頡の文字作成理論の産物】であり、【夏音文字の字源・字形・字義】も同様に【倉頡の文字作成理論の産物】であったうえに――【楷書も夏音文字も、夏の銀河各部の形状から作られた】からであった。

 

◆前述したように、『魏志倭人伝』には「邪馬臺(台・やまたい)国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。

下に示すように、『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)の都とする所」は「邪馬壹(壱・やまい)国」と記す。

0000169_20240428113601

 

中国の正史『後漢書』倭伝には「邪馬臺国〔今、案ずるに名は邪摩惟(やまい)という音の訛(なま)り也〕」という記事と〔注〕がある。

「邪馬臺国」の「邪馬臺」が正しければ、〔注〕は「邪摩堆」でなければならない。

しかし、〔注〕は【堆】ではなく【惟】であり、つまり「邪摩惟(やまい)」と記す。「壱岐」は夏音文字「いき」であるゆえ、夏音文字だと「邪馬壱」は「やまい(邪摩惟)」と音することになる。

したがって、上に示したように、『魏志倭人伝』における「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は【邪馬壹国】であった」と考えるべきことになる。

このような観点からしても、『魏志倭人伝』は倭人国の首都は邪馬壹()国であった」と記していたにちがいない。

だから、新井白石以来約300年間、学者たちが断定しつづけた【邪馬臺()国論】は『魏志倭人伝』に記述されていない虚偽をあたかも事実のごとく捏造(ねつぞう)する空理空論であったことになる。

 

◆『魏志倭人伝』は、対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の次は「末盧(まつろ)国」、その次は「伊都(いと)国」、さらに次は「奴()国」であったと列記する。

そして、特に注目すべきは「一大国から末盧国へ至る水行と方位」について記載していないことである。

 

『魏志倭人伝』は「末盧国から東南陸行五百里、伊都国に至る」、「伊都国から東南の奴国に至るに百里」と記す。

『古事記』における「末羅県(まつらのあがた)」は「現在の佐賀県唐津市呼子町、唐津市鎮西町、唐津市地方」であったと比定される。

しかし、「末盧国の中心地(旅程基点)は、現在の唐津市ではなく、唐津市の南南西の長崎県松浦市」であったと考えられる。

『日本書紀』の「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町近辺であった」と比定される。

『日本書紀』の「儺県(なのあがた)」は「現在の福岡市地域にあった」と比定される。

『後漢書』倭伝に「建武中元二(57)年、倭の奴国は貢物を奉じて朝賀(ちょうが)した。後漢の光武帝は印綬を賜った」と記す。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から発見された「漢委奴国王」と5字が」刻まれた金印は、この時に与えられた印綬とされる。

ゆえに、「儺県」の県都(旅程基点)は「志賀島の東方の福岡市東区香椎宮(かしいみや)であった」と考えられる。

 

上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国の旅程基点の佐賀県の松浦市(あるいは唐津市)から伊都国の福岡県糸島市前原町の方角は〔東南〕陸行五百里であった」と説明する。しかし「松浦市(あるいは唐津市)から糸島市前原町までは、現在方位で〔北北東〕」となる。

また、『魏志倭人伝』は「伊都国の糸島市前原町から奴国の福岡市東区香椎宮へ至る方角は〔東南〕」と記すが、現在方位では「糸島市前原町から〔北北東〕に香椎宮」が所在する。

ゆえに、幾人かの先人の学者たちは「『魏志倭人伝』の旅程基点の方角は」「『古事記』『日本書紀』の比定地の方位と約45度または約90度相違する」と指摘した。

九州地図を時計回りに90度転回すると、下図のごとくになる。

K241_20240428113701

 

上図に示したように、「末盧国の松浦市(または唐津市)から〔東南〕に伊都国の糸島市前原町が所在する」。ゆえに、『魏志倭人伝』の「末盧国から〔東南〕陸行五百里、伊都国に至る」という記事は合理となる。

また、上図が示しているように「伊都国の糸島市前原町から〔東南〕に奴国の福岡市香椎宮」が所在する。ゆえに、『魏志倭人伝』の「伊都国から〔東南〕奴国に至るは百里」という記事も合理となる。

 

◆前ページにて「特に注目すべき」と指摘したように、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国に至る方位」を記していない。この「方位を記さない原因」は、『魏志倭人伝』が「対馬国から、南一海を渡る千余里、一大国に至る」と説明しているからと考えられる。

というのも、「一大国と対馬国は〔南北〕」に対して、「末盧国以下、伊都国・奴国の旅程基点の方位」は「時計回りに90度転回する方位」となって――人々が疑問を抱き・また不合理となる。だから、「一大国から末盧国」の方位を『魏志倭人伝』は不明(不記載)としたのである。

 

「時計回りに90度転回する方位」は、「倭人国」の「【倭】の字源・字形の原形(字源となる夏の銀河部の形状)、原義」をあらわした。

このため、末盧国以下狗奴(くな)国までの28の各小国地図は「倭人国」の――【倭】の字源・字源となる「夏の銀河部の形状・原義」をあらわす、時計回りに90度転回する方位――に則(のっと)ることになった。

その証拠に、一大国と末盧国の旅程基点の方角を不明とした――その末盧国には【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定をあらわす地名」が現存する。

 

下図は、現在方位に則る末盧国の範囲を示す地図である。

「末盧国」の【盧】について、卑弥呼が歴史上に登場する約50年前の2世紀初頭に成立した「字書の聖典」と尊重される中国の『説文解字(せつもんかいじ)』は、「末盧国」の【盧】の字を「飯器なり」と解説する。「飯器具」とは「炊飯器、つまり飯を炊()く土器」を意味する。

000071_20240428164601

上図に示すように、「末盧国の東の境界線は、唐津湾にそそぐ松浦川と有明海(ありあけうみ)にそそぐ塩田川(しおたがわ)とを結んで区切られていた」と考えられる。これゆえ、末盧国北部の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「縄文時代の飯を炊く土器(飯器)の形」に相似する。

また、末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜は「飯器を炊く炎の形」に相似する。

したがって、「末盧国」は「松浦川と塩田川より以西の、佐賀県の西部(現在方位)と対馬と壱岐を除く長崎県全域)」であったことになる。

 

上図に示すように、「東松浦」は〔北〕に所在するゆえ「北松浦」と名づけるべきことになり不合理となる。また「北松浦」は〔西〕に在るので「西松浦」、また「西松浦」は〔南〕にあるので「南松浦」と名づけるべきことになる。

さらに、「東彼杵郡」は〔北〕に在るゆえ「北彼杵郡」と名づけるべきことになり、「西彼杵郡」は〔南〕に在るので「南彼杵郡」と名づけるべきことになる。

 

下図に【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国の地図を示した。

下図に示すように、「北松浦」は「東松浦の〔北〕」に在り、〔西松浦〕は「東松浦」の〔西〕に在り、「東松浦」は「西松浦の〔東〕」に在るので、「松浦地方」の方位名は【倭】の字源に合致して合理となる。

また、「東彼杵郡」の〔西〕に「西彼杵郡」と「西彼杵半島」が所在する。だから、「彼杵」という地名に冠する方位名も、【倭】の字源を表示して合理となる。

000072_20240428113901

 

以上のごとく、「末盧国」には、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」が失われずに現存する。

 

◆『魏志倭人伝』には、「倭人国地図(日本列島地図)」について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」と指摘する記事がある。

下に「中国の会稽・東治と、実際の日本列島像と【倭】の字源をあらわす転回日本列島像」を図示した。

下図が示すように、「実際の日本列島像(地図)は、会稽・東治の〔東北〕にある」。ゆえに、「実際の日本列島像」は「当に(当然)、会稽・東治の東に在るべし」ではなく、まさに不合理となる。

しかし、「【倭】の字源をあらわす転回日本列島像(地図)」は、会稽・東治の〔東〕にある。ゆえ、『魏志倭人伝』の「当に会稽・東治の東に在るべし」という記事に合致する。

K576_20240428114001

つまり、下に示す上図のごとく、卑弥呼王朝では「九州以下の倭人国地図」を「現在の日本地図」のごとく定めていなかった。

卑弥呼王朝が定めた「倭人国全土地図」は――下に示した下図のごとく、【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する地図」であった。

0000179_20240428114101

下に配する右図は、明(みん)の建文4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」における部分図をあらわす概略図である。

この地図の日本列島地図では【倭】の字源を示して「〔西〕の九州は90度転回して〔北〕となり、〔東〕に伸びる本州は90度転回して〔南〕へ伸びる」。

下の左図は、『魏志倭人伝』に登場する対馬国から黒歯(こくし)国までの34の小国の所在地をあらわす「転回日本列島地理論の図」である。

右図(転回日本列島地図)は左図の「混一疆理歴代国都之図における日本列島地図」に合致する。

だから卑弥呼王朝は、下図のごとく倭人国地図を定めていたことになる。

48001

上の左図に示したように――「卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国」は、「現在の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)」であった。

九州は末盧国・伊都国・奴国・不弥(ふみ)国の4小国と詳細不明の余白の国(現在の大分県・宮城県・鹿児島県)から成る。

そして、邪馬台国九州説の根拠とする吉野ヶ里遺跡は伊都国に所在するゆえ、卑弥呼が居住した女王国ではなかった。

したがって、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論であった。

上の左図に示したように――旧国の大和(現在の奈良県)は「邪馬(やま)国」であった。

だから、箸墓(はしはか)古墳や纏向(まきむく)遺跡を根拠とする邪馬台国畿内(大和)説もまた『魏志倭人伝』の記事と全く無関係の空理空論・捏造であった。

 

『魏志倭人伝』には「女王国より以北は、その戸数・道里を得可(うべ)きも、其の余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)して詳を得可からず」という記事がある。

上の左図における「現在の大分県・宮城県・鹿児島県」は「女王国・邪馬壱国から以北」にある。また、「大分県・宮城県・鹿児島県」は「其の戸数・道里を得られた(記された)末盧国・伊都国・奴国・不弥国を除く九州全土から余る(余白の)(かたわら)の国」である。さらに、「其の余の旁国(大分県・宮城県・鹿児島県)」は「女王国・邪馬壱国から遠く絶えて詳を得可らずの(詳細が不明となる)地域」である。

 

また、『魏志倭人伝』には「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国は畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」という記事がある。

上の左図に示したように、「一大率が常に居住し治めていた伊都国(現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市)」は、『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国より以北」に所在する。

 

さらに、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」という記事がある。

上の左図に示したように、島根県の隠岐群島は転回方位に則ると女王国・邪馬壱国の〔東〕にあり、海を渡ること千余里の小国でもある。また、隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、最も大きな島・島後(どうご)の4つの大島と約180の小島からなる。ゆえに、『魏志倭人伝』は「隠岐の群島」を「皆倭種なり」と記したのである。

 

上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)において、直木孝次郎氏は「邪馬臺国の位置論」と題して執筆した研究論文にて「内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解すべきであるとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」と指摘している。

上の記事に登場する「内藤」とは「明治時代の歴史学者・内藤湖南(こなん)博士」である。

上の記事末部の「これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝(の陸行)とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という批判・否定は完全に誤っていたのである。上図の「実際の日本列島像と転回日本列島図」などで表示したように、倭人の条(『魏志倭人伝』)に記述された日本陸地図(九州以下の本州の陸地図)における「南」は今日の日本地図のである。

『後魏書』勿吉伝は6世紀半ばに成立した。

したがって、卑弥呼が没してから約300年後においても、中国では「東と南をかね、西と北とをかねる」・【倭】の字源「時計回り90度転回する方位規定」が保存されて失っていなかったことになる。

 

以上のごとく、邪馬台国説学者たちが「『魏志倭人伝』には多数の誤記がある」という主張は真っ赤なウソで――これらの記事はすべて【倭】の字源を伝える当時の学問上における事実であった。

『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記がなく、全記事が正しかったのである。

 

◆考古学者たちは、放射性同位元素をてがかりにして「奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡にある箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓である」と主張する。

この「箸墓古墳が卑弥呼の墓である」であると主張する学者たちは「卑弥呼が居住した王国は邪馬台国であった」と断定する。

しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国が、女王(卑弥呼)が都する所なり」と明記する。

前ページでも指摘したように――『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地域は現在の出雲市と松江市であった」と記す。

だから、大和の箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。

『日本書紀』巻第五・崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と明記する。だから、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではありえない。

邪馬台国・箸墓卑弥呼の墓説は、【『魏志倭人伝』の全記事のほとんどを自説に都合のよいように誤読・曲解するという詐欺やウソ】を駆使(くし)して立論する。

しかし、【『魏志倭人伝』】に1ヵ所も誤読・曲解・偏見を加えずに正確に読むと――卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地は現在の島根県出雲市と松江市であったことになる。

【2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、出雲市には「邪馬」と表示する地図の形が、また松江市は「壹()」の字源を示す地域となる。

だから、先端科学の放射性同位元素を駆使(くし)しても――『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も誤読・歪曲・偏見・無視を加えないように読解しなければ、『魏志倭人伝』にまったく記述されていない虚偽を捏造(ねつぞう)した空理空論であるゆえ、いっこうに【科学】が成立せず真実をつきとめることはできない。

結局、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とは全く無関係の【非科学】きわまりない空理空論であったのである。

 

◆次回から、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、〔対馬国から狗奴国までの30の小国名に秘める【倉頡が発明した文字作成理論】を逐一(ちくいち)詳細に具体的に【全体的合理】が成立するように解明して――『魏志倭人伝』の全記事は正しかった事実を完全証明する。

この30の小国名に秘められる【倉頡が発明した文字作成理論の解説・証明】によって、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論・100パーセントのデタラメであった事実が完全証明される。

| | コメント (0)

2024年4月22日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・7

中国に占領されないための卑弥呼の国防政策

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在、学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

しかし、倉頡伝説は事実を語っていた。すなわち、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀河】、【銀漢】などと呼ばれる。

【銀漢各部の形状から作られた文字】であったから、中国でもわが国でも略して【漢字】と表記した。

【銀漢=夏の銀河】は【夏に最も長時間見られる銀河】である。

下は【夏の銀河の写真】であり、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

Ginga01_20240422155901

 

◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』、すなわち、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』の主なる内容は――現代の学者たちが「荒唐無稽のウソ」と断定する【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に明確に説明する文献であった。

しかし、江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)が提唱した邪馬台国大和(畿内)説と邪馬台国九州説にもとづき、『魏志倭人伝』における主なる内容は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に体系的に説明する文献ではなくなった。

そして、白石以後現在までの約300年間のあいだに「『魏志倭人伝』には多数の誤った記事が存在する。だから、すべての記事は正しいなんて絶対に信用してはならない」という立論方法が確立された。

このような邪馬台国説の立論方法を全面否定して――『魏志倭人伝』のすべての記事に1ヵ所も誤読を加えずに信用して思慮深く思索(しさく)すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に伝えていた文献であったことが明白となる。

つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。

上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成される。

『古事記』の序は、きわめて特殊な序である。

つまり、「『古事記』の序」は「『古事記』上巻并(あわ)せて序」と記される。

「『古事記』上巻并せて序」とは、つまり「『古事記』の序は上巻だけの序」であって、「『古事記』の序は中巻・下巻の序ではない」とあらわしている。

というのも、『古事記』の上巻の随所だけに〔音〕という注がつく夏代黎明期の夏音文字は楷書を音符・意符に用いて記載されているゆえ、「『古事記』上巻并せて序」は「『古事記』の序は上巻だけの序」ということになる。

『古事記』上巻并せて序は、下記のごとく【夏音文字の習得と、そして倉頡の文字作成理論の一端】を説明する。

――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして【精密地図作製方法】を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得をもできた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書を音符・意符に用いて記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。だから、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は中国でもわが国でも国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻と『魏志倭人伝』にて証明できるように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学界はじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

上記したように【新井白石以後の近代・現代の学者たちは、『魏志倭人伝』に自説に都合のよいように多数の誤読・曲解を加え、また自説に都合の悪い記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】を駆使(くし)して〔邪馬台国説〕を主張する。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確な文献であった。

新井白石が邪馬台国大和説と邪馬台国説九州説を立論する17世紀以前、わが国の天皇家はじめ学問に精通した武将や高僧たちは、『魏志倭人伝』を【倉頡の文字作成理論を説明する聖典】として崇拝していた。

ゆえに、新井白石が1725年に没してから13年後の1738年に皇室は【大嘗祭(だいじょうさい)】を本格的に復興して【倉頡の作成理論】を演出・儀式化して後世に伝えた。

【令和元年(2019)1114日に行われた大嘗祭】は【新井白石以来約300年継続される、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論、真っ赤な大ウソである】と表明する大祭であった。

言いかえると、【令和の大嘗祭】は【『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】と【名門益氏の東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住して夏音文字を教え広めた――と読解できる文献であった】と表示する祭儀であったのである。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを予想し、独占管理して厳重に機密を保持した。

しかし、倭女王・卑弥呼は30の小国名をもって国家と王朝が独占管理して厳重に機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】が解明できる仕組みにした。

倭女王・卑弥呼は【「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」と定まる絶対的タブー(禁忌)】を犯して――なにゆえ、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に説明することにしたのであろうか。

卑弥呼が生存した170年~240年当時において、【倉頡の文字作成理論】は中国とわが国における【最高学問】であった。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃に、倭国は大乱したと考えられる。

上の記事が説明するように、170年頃、卑弥呼は、倭人国の女王に就任した。

上の記事は「卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた」と意味した。

というのも、上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「中心に(ひとつに」まとめる」であって、多数の学者たちが解釈するように「妖(あや)しく惑わす、だます」と意味するものではなかった。だから、「衆を惑わす」とは「民衆の心を一つにまとめて国を治めた」と意味した。

 

その証拠に、今年(2024)317日の21時から始まったNHKテレビの「最新古代史ミステリー・邪馬台国と卑弥呼の謎」というタイトルの放送において、上の「鬼道」とは――老子(紀元前5・4世紀)に生存した中国の思想家」が『老子』上篇(道経)で説く「道教」であった――と指摘した。

その証拠に、紀元前1世紀に成立した司馬遷著『史記』五帝本紀は「天子が天地山川をまつった封禅(ほうぜん)の儀式をおこなうのが常例であるが、古来の天子がおこなった封禅の儀式のうちで、黄帝のおこなった儀式がもっとも最も盛大であったといわれる」と記述している。

だから、「卑弥呼がまつった鬼道」は「黄帝がまつっていた鬼神への信仰」であった。

『魏志倭人伝』は【黄帝につかえた倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に説明する書物であった。ゆえに、当然、「卑弥呼は黄帝がまつった鬼神の道に精通していた」のである。

『魏志倭人伝』は【今から約5000年前に生存した倉頡の文字作成理論】と【今から約4070年前の夏代黎明期の夏音文字】について説明する書物であった。ゆえに、「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」の【惑】の字義は原義の「まとめる」であって、現在の原義を失った転義の「考えをみだす。あざむきだます」ではなかったことになる。

 

◆前ページにて紹介したように、『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にて倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道を事(まつり)て能()く衆を惑わす」という記事がある。

 

上の記事のごとく――卑弥呼は男王と共に国家(倭人国)を樹立した。

ところが、多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事りて能く衆を惑わす」という記事を、「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あや)しくまどわしていた(だましていた)」と訳する。

しかし、このようなオカルト的解釈が事実であったとしたならば――学問・文化を誇る中国は学問が劣る文化の低い野蛮な弱小の倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

卑弥呼は中国に「倭人国は学問が存在しない、文化が劣る弱小国」と解釈されて占領されることをおそれた。

だから、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論は国家と王朝を安定させるために、必ず厳重に機密にしなければならないという掟】を破って、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】をあらわすことにしたのである。

つまり、30の小国名をもって共に立つ卑弥呼と男王は、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

言いかえると、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明らかにすれば、中国は「倭人国は中国における【最高の学問、倉頡の文字作成理論】が存在する強国である」と察知するにちがいないと考えたことになる。

 

卑弥呼と共立国家体制を組織することにした男王は「九州・伊都国に居住する一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)記事の書き下し文は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀市であった。

上記したごとく、『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

前述したように――倭人国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。したがって、諸国の王たちが30の小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論の秘密】を容易に理解できるように説明して暴露する大罪を検察する刺史の役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚していたのである。

 

上の一大率についての記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字(楷書)は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し露わに)して、卑弥呼が用いる文字(夏音文字)に翻訳していた。つまり、帯方郡から送られる文書や賜物の名称に用いられる楷書は正確に夏音文字に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

このように、『魏志倭人伝』は――魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「隷書に近い原始的な楷書」であった。また、卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる文字は「夏代黎明期に用いられた夏音文字」であった――と伝えていたことになる。

【夏音文字の字源・字形・字義は、夏の銀河各部の形状】であり、【楷書の字源・字形の原形・原義も、夏の銀河各部の形状】であった。

だから、上の記事における「捜露」という語が示しているように――伊都国の港において、役人たちは魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる【夏の銀河各部の形状】合致する倭国の夏音文字の字源となる【夏の銀河各部の形状】を捜露(捜しあてて)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳していたことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたにちがいない。

だから、上の「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符に用いられた楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」という事実を伝えていたことになる。

その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【夏音文字と楷書が夏の銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする、倉頡の作成理論】を説明していた。

前述したとおり、当時、中国でもわが国でも【倉頡の文字作成理論】は【最高の学問】であった。

卑弥呼王朝は「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する、最高の学問を習得した国家」であると中国王朝に表示して、中国に占領されないように防衛していたのである。

 

220年、後漢が滅び、三国時代となった。

魏の曹操(そうそう・155220)が没し、子の曹丕(そうひ・187226)が後漢の献帝(けんてい)を廃して洛陽に都を置き、国を魏()と称した。

221年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび・玄徳・161223)がみずから漢中王と称して蜀漢を創建し、次いで献帝より帝位を譲られた。

223年、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)は蜀と呉が協力して魏を倒して中国を治める「天下二分の計」を企てた。

この「天下二分の計」に、呉の孫権(そんけん・182252)が承諾し、蜀と呉は軍事同盟を結んだ。

228年、赤壁(せきへき)の戦いで魏軍が大敗した。諸葛孔明も赤壁の戦いに参加した。

2009年5月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する映画「レッドクリフ」の1部と2部が上映された。この映画名は「赤壁」を英語で「レッドクリフ」と呼ぶことにしたもので、赤壁の戦いの様子を克明に描いていた。

わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な勝利をおさめた。呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割は2万の呉の水軍が担(にな)った。

229年、呉の孫権が自立して帝と称し、建業(今の南京)に都を置いた。

 

当時、魏の北側(背後)に4番目の国として公孫淵(こうそんえん)が魏の持節(じせつ)・揚烈(ようれつ)将軍・遼東大守(りょうとうたいしゅ)となって治める「燕(えん)」が所在した。

229年(呉の黄竜元年)、呉帝に即位した孫権は、魏の背後にある燕の軍が魏に反旗を翻(ひるがえ)し、「天下二分の計」を結んだ呉と蜀の軍が前面から攻撃すれば魏は滅亡すると考えた。それというのも、孫権は公孫淵が魏の配下の地位に不満を抱いているにちがいないと考えたからである。孫権は、密使に託して公孫淵に「燕王」の地位を約束した。しかし、公孫淵はこの説得に応じなかった。

というのも、燕の背後には、魏の出張機関の帯方郡庁を訪問して魏と国交を結ぶ、【倉頡の文字作成理論】を30の小国名であらわす学術強力国家・倭人国が存在したからである。

倭人国を「【倉頡の文字作成理論】を有する、東夷の大国」と解釈した公孫淵は、呉と蜀との同盟に参加した燕の動きを魏に察知されれば、魏と倭の挟(はさ)み討()ちにあってみずからの生命を失い燕が滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、孫権が派遣した密使の説得をことわった。

 

『後漢書』倭伝の末部に記載されているように――日本列島・倭人国の背後に秦(しん)の始皇帝の時代(紀元前246―同220)に方士の童〈どう・青年〉男女数千人をひきいた徐福(じょふく)一行が定住した東鯷人(とうていじん)国が存在した。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽(かいけい)にて交易をしていた。

孫権は――倭の背後の東鯷人国に1万の水軍を遠征させれば、東鯷人国が呉に占領されると背後の脅威になると倭人国は考えて、必ずや多数の兵を東鯷人国に出動させるにちがいない。そうなれば、魏の要請があっても倭人国は燕との戦いに少数の兵しか送ることができない。ゆえに、倭人国は燕の背後の脅威にはならず、公孫淵は安心して呉と蜀の連合軍側につくにちがいない――と考えて呉軍の東鯷人国遠征を決意した。

『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜(こうりゅう)2年(230)、皇帝の孫権は衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万」と説明する。

前述したように、228年の「赤壁の戦い」において、80万の魏軍を撃破して劇的な勝利をおさめた呉・蜀連合軍の中心的役割を担(にな)ったのは2万の呉の水軍であった。

この2万の半分の呉の精鋭1万の水軍が、日本列島に遠征しようとしたのである。

この呉の遠征軍は台湾と与那国島の海峡を渡ることができず、8割から9割の兵を失って壊滅した。この呉1万の水軍が日本列島遠征を失敗で呉の兵力はいちじるしく減退したために、8年後(238)、呉は天下取りの好機を逃すことになった。

 

◆呉の黄竜元年(229)に続いて、孫権は呉の嘉禾(かか)元年(232)にも、遼東の公孫淵へ使者を送った。このときの呉の使者のうちの数人を山東半島で拿捕(だほ)した魏は、公孫淵が孫権と軍事同盟を結ぶ気配を察知した。

234年、中国史上最高の軍事戦略家とされる蜀の名臣諸葛孔明が五丈原(ごじょうげん)にて享年54歳で病死した。

五丈原で孔明と対決した魏の将軍は司馬懿(しばい・175251)であった。

司馬懿は『史記』を著作した太史令(だいしれい)の司馬遷の後裔であった。「太史令」という役職は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳重にまもる長官」であり、「司馬」という姓の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。ゆえに、司馬懿は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

232年に公孫淵が呉の孫権と軍事同盟を結んだ気配を察知した魏は、237(魏の景初元年)の夏、幽州の長官・刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)による公孫淵の討伐を開始した。しかし、この年の公孫淵討伐は失敗した。公孫淵は、魏に背き「燕王」と称した。

 

翌景初2年(238)、魏軍のエースの司馬懿が公孫淵討伐の最高責任者となり、司馬懿は4万の兵を率いて春、首都の洛陽を出発した。6月には、司馬懿軍は遼東に到着した。

この景初2年(238)の6月、『魏志倭人伝』は「倭女王は難升米(なしめ)らを帯方郡に派遣して、魏の明帝(めいてい)に拝謁(はいえつ)して、朝献(ちょうけん)したいと申し出た」と記述する。

この「倭女王の難升米一行を帯方郡に派遣した」という記事は「倭と魏が軍事同盟を結んで、司馬懿の公孫淵討伐に協力した」と説明するものであったのである。

司馬懿軍が遼東に到着した2ヵ月後の8月24日、公孫淵は襄平(じょうへい)の城外で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

さらに4ヵ月後の12月、『魏志倭人伝』は「倭の使節の難升米一行が洛陽に到着した。魏の明帝は詔書を発し、倭女王卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)に任命するという返事を書いた」と記述する。

しかし、明帝は重病であった。ゆえに、難升米一行は明帝に面会できなかったはずである。しかし、司馬懿は重病な明帝と公孫淵討伐によって兵力がいちじるしく削減(さくげん)されて弱体化した魏都の様子を、呉の孫権に察知されまいと奇策(きさく)を企んでいた。

つまり、司馬懿は――倭人国から送られた文書に記述されていた「【倉頡の文字作成理論】をあらわす30の小国名」を洛陽に潜(ひそ)む呉の間者たちが知ることができるように手配し、しかも、難升米一行が重病で面会できないはずの明帝に面会する偽装をもって――8年前(230)に決行した1万の水軍の日本列島遠征に失敗して精神的ショックを負った孫権が魏と倭人国との軍事同盟に重視して慎重になるにちがいない。ゆえに、孫権は一気に兵力が弱体化した魏都を攻撃しないにちがいないと企んだことになる。

つまり、司馬懿は――英才・孫権ならば「倭人国の30の小国名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす。ゆえに、倭人国は東夷の大国にちがいない」と考え、「倭の使節一行が魏都に到着して明帝と面会した」という報告を間者たちから受けたならば、彼は慎重(しんちょう)に用心して魏に罠(わな)有りと考えて魏都を即刻に攻撃することに待ったをかけ、まず倭の国力の調査に時間をさくことを優先(ゆうせん)するにちがいない――と考えて、この奇策に賭()けたのである。

司馬懿の策略にはまった孫権は、魏を滅亡させる千歳一隅(せんさいいちぐう)の絶好のチャンスを逃(のが)して、司馬懿軍が留守した魏都の攻撃を呉軍に命令しなかった。

 

司馬懿が公孫淵を討伐して洛陽に凱旋(がいせん)したのは、景初3年(239)正月であった。明帝は危篤状態であり、司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間に合った。

魏は倭女王卑弥呼に外国の臣下に与える最高の爵位(しゃくい)の「親魏倭王」の金印紫綬(きんいんしじゅ)をさずけた。

この爵位は、卑弥呼と西域の大月氏(だいげっし)国の王の二人以外には与えなかった。

だから、公孫淵の討伐と呉軍に魏都が攻撃されずに魏の窮地を救った功績によって、卑弥呼は最高位の爵位を与えられたことになる。

以上のごとく、卑弥呼の「30の小国名で【倉頡の文字作成理論】をもって、倭人国を東夷の大国として認めさせて同盟を結んで、中国には占領されない」と計画した国防政略は成功したことになる。

 

前述したように、呉の孫権が魏を滅亡させる千歳一隅のチャンスを逃した原因は――倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強力の国家であると、魏・呉と燕では解釈されていたからである。

だから、魏は卑弥呼に中国の臣下に与える最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけた。

現在の絶対的定説の「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀であった」という意見が事実であったならば、3世紀における倭人国は「漢字知識・学問を有しない、野蛮で文化が劣る弱小国であった」と、魏・呉・燕では解釈したことになる。

そんな倭人国と魏が軍事同盟を結ぶはずもなく、巫術(魔術)をもって民衆を妖しくだました卑弥呼に最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけるはずもない。

しかし、『魏志倭人伝』における主なる記事の内容は【倉頡の文字作成理論】だったのである。

つまり、中国では対馬国から狗奴国までの30の小国名を知って、「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と察知していたことになる。

| | コメント (0)

2024年4月17日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・6

卑弥呼は偉大な学者であり優れた政治家であった

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在の学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】とは【夏の全星座が漬()かる銀河】、言いかえると【夏に最も長時間見える銀河】である。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀漢】と呼ばれる。

中国でもわが国でも【銀漢各部の形状から作られた文字】を略して、【漢字】と表記した。

下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

Ginga01_20240417104101

 

◆わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と証明できる文献であった。

つまり、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河各部各部の形状から文字を作成する理論を発明した」と詳細に解説する文献であった。

要するに、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国記事】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。『三国志』は魏書・蜀書・呉書の六十五巻で構成される。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝の末部の〔倭人伝〕である。『魏志倭人伝』は280289年に成立した。

『魏志倭人伝しん』』は計1983字から成り、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)56字の〔注〕を加える。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。

そのうち、【倉頡が発明した文字作成理論】を説明する【対馬国から狗奴国までの30の小国記事】は約4分の1(500)を占める。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する、76字の記事がある。

この76字の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(ぞうか・芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして精密地図作製方法を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字」をも習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻にて科学的に証明できるように「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

このような現在の学界における〔漢字習得の定説の誤り〕は、「文字を書いた史料が出土していない、すなわち文字を習得しなかった」と断定する考えが原因である。

また、上記の理由よりもさらに重大の過ちは【現在の学者たちは、『魏志倭人伝』のほとんどの記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加えて立論する方法】こそが学問的に最も正しい、「科学」が成立する最良の方法であると信じている。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確である。

したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると事実が明白となる。

【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】にもとづき、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読を加えなければ、【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ【今から約4070年前の夏代黎明期に夏音文字が習得された史実】が証明され、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在しないことも証明される。

だから、学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多い」と主張して、【〔倉頡の文字作成理論〕と直接にかかわる記事はじめ自説に都合悪い記事など多数の記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】は詐欺(さぎ)・ウソであったと言わざるをえない。

 

◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。

これゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

 

上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()の掟によって――現在に至っても、夏の銀河各部には名称が存在しない。

【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ殷代(いんだい)後半の用いられた契文(けいぶん・甲骨文字)、周代に用いられた金文、あるいは楷書の字源となった銀河を明示しなければならない。ゆえに、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。

だから、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。

00003_20240417104401

 

◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【()の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。

五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()()は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。

このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかない。

だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことにまったく気づかない。

このため、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っている事実にも気づかない。

さらに、上記したように、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に直接的に組織的に説明されている事実に、わが国の近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。

ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。

このため、近世・現在の学者たちは、【漢字の字源・原形・原義は夏の銀河各部の形状】である事実にまったく気づかない。

にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明したのであろうか?

というのも、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を中国に知らしめて、倭人国は文化の低い野蛮国ではあらず知性の高い学術国家にして強大な戦力を有することを誇示して、倭人国が中国に占領されない国防政策として必要であったからである。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃、倭国は大乱したと考えられる。

当時、倭地ではすでに銅鐸祭器を使用する政権勢力と武器型祭器を使用する政権勢力とに二分されていた。両政権勢力とも、政権のトップの大王は元々(もともと)男王であった。

ところが、銅鐸祭器を使用する政権政権には、前回のわがブログ〔漢字の起源と発明を解明す・5〕で詳細に解説したように――日本列島の本州における地図の方位は、【倉頡の文字作成理論】における基本的文字【禾()】の字源・原義に合致して、時計回りに90度転回している――と立論する一女子が出現した。人々は彼女を「卑弥呼」と名づけた。

「日本列島における本州の地図の方位は時計回りに90度転回している地理は事実である」と認められて――卑弥呼は銅鐸祭器を使用する政権勢力のトップの女王に就任した。

卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた。上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「ひとつにまとまる」であって「惑わす、だます」ではなかった。

武器型祭器を使用する政権勢力は、西の九州から東へ勢力(領地の拡大)を伸ばした。一方、銅鐸祭器を使用する勢力は東から西へと拡大していた。これゆえ、170年頃、両勢力は互いに攻撃して衝突することになった。だから、倭国は大乱することになったにちがいない。

多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」という記事を「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あやしげ)に惑わしていた(だましていた)」と訳する。しかし――このようなオカルト的解釈が正しければ、中国は文化の低い野蛮な倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

 

◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「建武中元二年(西暦57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」と記述する、

武器型祭器の政権における中心勢力は、上記した後漢の光武帝から金印を授与された男王の後裔(こうえい)であったと考えられる。

江戸時代に九州の福岡県博多の志賀島(しかのしま)から出土した金印が、57年に光武帝から賜った金印とされる。この金印には「漢委奴国王」の5字が刻まれていた。この「漢委奴国王」の金印は後漢王朝と九州の委()の奴国が友好関係を結んだ証(あかし)となる。

 

170年当時、後漢末期の桓帝や霊帝が治める時代であり、去勢(きょせい)によって後宮(后妃)につかえた宦官(かんがん)のために多くの学生や気骨の士が殺されていた。

後漢後期、外戚と宦官との政争がくりかえされていたが、宦官のほうが次第に優勢になっていた。このような後漢の政治状況を知った九州の武器型祭器の政権は約120年前の57年における後漢との友好関係を疑るようになり――もしかしたら後漢に占領されるのではないかと心配して、軍事力を増強するために銅鐸祭器の政権勢力圏への領土の拡大を図ったと考えられる。

ところが、銅鐸祭器の政権勢力は卑弥呼を女王に選び一致団結して九州の男王政権の領土拡大を阻止した。       

このため、九州の男王政権の東進は計画したとおりにはいかなかった。このため、むしろ――もしも後漢に攻撃されたときには後漢と卑弥呼政権の敵軍にはさまれ包囲され滅亡するかもしれないと心配するようになった。

このような九州の男王政権の苦境を見すかした卑弥呼は、共立国家体制の樹立を九州の男王に提起した。

九州の男王は後漢の軍に滅亡されないための防衛戦略として卑弥呼王権勢力の領地に攻め込むものであったゆえ、卑弥呼王権との共立国家体制は軍事力を一気に増大する願いがかなうことになった。

だから、九州の男王と卑弥呼が共立する「倭人国」と称する国家が樹立され、倭人国のトップの大王には卑弥呼が就任することになった。

というのも、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通する最も偉大な学者であり優れた政治家であったからにほかならない。

 

卑弥呼と九州の男王は倭人国を東夷における最大の大国と信頼させるため、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

つまり、卑弥呼王朝は中国との戦争を回避して、中国との国交を結ぶ友好関係を希望するために、対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を明確に表示することにした。

言いかえると、卑弥呼王朝は中国における最も強大な権力は【倉頡の文字作成理論】であると考えて――倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明示すれば「倭人国は大国である」と認めるにちがいないと考えて、中国との友好関係を結ぶことにした。

というのも、西暦57年に後漢に朝賀した使者は国名を「委奴国」と名乗ったゆえ光武帝から金印を与えられたと卑弥呼は考えたからである。

金印の最初の【漢】の字源・原義は「多数の漢字が作られた夏の銀河」であった。

倉頡は「十字の銀河」から【禾】の字を作った。

この【禾】の字源の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するため【女】の字源となったために、【禾】の下に【女】が加えられて【委】の字が形成された。

【奴】の字源は「出産第二期・娩出期に生じる怒責(どせき・いきみ、きばる妊婦の行為)と胎児を押して誕生させる強大な力」であった。この【奴】の字も【倉頡の文字作成理論】を表示する代表的な字であった。

ゆえに、国号に【漢】すなわち「漢字が作られた、夏の銀河」と表示する後漢王朝は【委奴国】には【倉頡の文字作成理論】が存在すると尊んで、金印を与えて国交を結んだことになる。

だから、卑弥呼は中国に占領されずに、中国と国交を結ぶ最良の手段は【倉頡の文字作成理論】と考えたことになる。

 

◆上記した後漢の光武帝から賜った金印における「漢委奴国王」にて解説したように――倉頡は【禾()】の字を作った。【禾】の字は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」をあらわした。

【禾】の下に【女】が加わる【委】の字は【禾】の字源・原義を受け継ぎ、字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」とされた。

「十字の銀河」は「人の姿」にも相似する。したがって、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。【禾】・【委】と同様に「倭国」の【倭】の字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」と定められた。

下図は【禾】【委】【倭】の字源解説図である。この図の上部に配した「十字の銀河」は、このブログの前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」において、左上にある。

K171_20240417104701

 

上図における「十字の銀河」の左となりに「南→西」と示したように、【倭】の字源は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」であるゆえ、「北→東、東は南、南→西、西→北」に方位が変わる。

だから、邪馬台国説はじめ学界やメディアは【倭】の字源を無視して、『魏志倭人伝』に記述された日本列島・本州における方位を現在の日本地図と同一とするが――この【倭】の字源を無視する意見は空理空論ということになる。

卑弥呼は下の下図に示したように、【倭】の字源・原義にもとづいて「本州地図の方位規定は、時計回り90度転回する」と定めた。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した倭人国地図では「本州の西に在る九州は北に在る」ことになった。

0000179_20240417104801

 

下図に、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地図」と34か国の小国配置を示した。

K181_20240417104901

 

◆前ページで説明した卑弥呼と共立国家体制を樹立することにした九州の男王は「一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群(41)の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)の記事は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」に示したように、一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在する。

つまり、一大率が治めた伊都国は現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市・佐賀県吉野ヶ里町であった。

卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱(やまい)国の範囲は現在の島根県と鳥取県西部であった。邪馬壱国の中心部は山陰出雲地方(現在の島根県出雲市と松江市)であった。

島根県松江市は黄帝の霊廟と墓とされる黄帝陵と同じ北緯3535分に所在する。

つまり、卑弥呼は黄帝陵と同緯度の島根県松江市を倭国の首都と定めて「邪馬壱国」と名づけたことになる。

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」が示すように、『魏志倭人伝』の記事に合致して「一大率が常に治めた伊都国は女王国・邪馬壱国の北に在る」。

邪馬台国大和説の場合、「伊都国は邪馬台国・大和の西に在る」ゆえ、矛盾し不合理となる。

邪馬台国九州説の場合、佐賀県吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡が邪馬台国にふさわしい遺跡であると考える。しかし、吉野ヶ里遺跡は一大率が治めた伊都国に所在する。だから、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事に対してほんとうに合理的な意見であるとは思えない。

だいいち、『魏志倭人伝』は下記のごとく「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の名は、邪馬壹()国である」と記す。

したがって、今から約300年前の新井白石が誤読した「邪馬臺()国」という国は実際に所在せず、空理空論であった。

学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞などのメディアは下記のごとく「邪馬壹(やまい)国」と記す4字を億面(おくめん)もなく「邪馬臺国」と読み、この誤りを素知らぬ顔をして日本国民をまんまと騙(だま)す。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬臺国」ではなく、「邪馬壹国」と記している。

邪馬台国説学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多数存在する。ゆえに、すべての記事は正しいなんて絶対に信じてはならない」という、言い訳は最初の段階からウソッパチであり、空理空論だったのである。

0000169_20240417105001

『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

というのも、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであったからである。したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。

一大率の役職名「刺史」は「前漢の武帝が各州を観察するために、州ごとに一名ずつ派遣した役人」あるいは「後漢末から魏時代では、中国の州における長官名」であった。このように、一大率の役職を「重大な要職名」であらわさないようにしたのは、卑弥呼の政略によるものと考えられる。

一大率のほんとうの役目は「刺史」のように軽いものではなく、「もしも中国の軍が倭国に襲来したときに、倭軍を指揮する軍王(いくさのおう)であった」にちがいない。

というのも、中国軍が倭人国に来襲したとき、伊都国は本土を防衛する前線基地であったからである。

一大率の役職を物々しく「軍王」とすると、中国が「もしや、中国と戦う軍王か?」と疑うことになる。ゆえに、中国と友好関係を結ぶことができなくなる。だから、卑弥呼は一大率の役職を「倭人国における一州の長官・刺史」と定めたと考えられる。

一大率のほんとうの役職は、もしも中国軍が来襲したときに倭の諸国が一致団結して彼の命令・指揮のもとに戦う軍王であった。だから、諸国の人々は軍王・一大率を畏れ憚ったのである。

 

上記した一大率が登場する記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭国の銅鐸祭器の政権の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。

だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて、楷書と夏音文字の字義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。

だから、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていたことになる。

| | コメント (0)

« 2024年3月 | トップページ | 2024年5月 »