漢字の起源と発明を解明す・8
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない
『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地を「邪馬壱国であった」と記す
◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。
この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定されている。
しかし、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」、言いかえると【漢字の起源と発明の秘密】を詳細に伝える文献であった。
つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と詳細に直接的に説明する史料であった。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住いた」と記す。ところが、多数の学者たちは「邪馬壱国」という記事を「邪馬台国」と誤読してさも事実がごとく平然と誤魔化(ごまか)す。
ゆえに、多数の国民は「卑弥呼が居住したのは邪馬台国であった」と思い込んでいる。
『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸(ら)国・黒歯(こくし)国の3か国が有り(計4ヵ国の小国があり)」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。
上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4070年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。
名門益氏の王子と若者たちは(1)【精密な中国海岸線地図】、(2)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、(3)【倉頡が発明した文字作成理論】、(4)「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、(5)「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)」(6)「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。
だから、益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符にして)多数残っている。
『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三(参)時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が教授する【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得できた。よって、益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】にもとづく精密地図作製地図方法の原理も習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。
『魏志倭人伝』には【倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明され、『古事記』上巻には多数の夏音が残っている。
にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
というのも、江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。だから、全記事を絶対に信用してはならない」とする立論方法を定めているからである。
言いかえると、白石から現在までの学者たちは「『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加える立論する方法】こそが学問的に最も正しい」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確であると証明できる。
したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると「『魏志倭人伝』の主なる内容は、【倉頡が発明した文字作成理論】」を具体的にこと細やかに説明する文献であったと証明される。
よって、新井白石以来300年、学者たちによって『魏志倭人伝』が説明した【漢字の起源と発明の秘密】は解明されずに抹殺(まっさつ)されていたことになる。
◆黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は「夏の銀河の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。
「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬(つ)かる銀河」、いいかえると「夏に最も長時間見える銀河」のことである。
「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれている。
「銀漢の各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。
倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。これゆえ、倉頡は下記に示
す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた
Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた
◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの(Ⅲ)は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)は4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【(Ⅲ)の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。
五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの(Ⅰ)と(Ⅱ)は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかなかった。
だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことに――近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。
このため、近世・現代の学者たちは――『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っているきわめて重大な事実も――まったく気づかなかった。
さらに、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明されている事実に、白石以来約300年間、学者たちはまったく気づかなかった。
したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。
ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。
◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の古代王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。
にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「【倉頡の文字作成理論】は厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、【倉頡の文字作成理論】について説明したのであろうか?
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・7」にて解説し証明したように――卑弥呼は「中国の王朝が、わが国(倭人国)は文字が存在しない、文化の低い弱小国ではなく、中国における【最高の学問】である【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と誇示するため、30の小国名をもってあえてタブーを犯して【倉頡の文字作成理論】をあらわし、中国には占領されない国防政策を積極的に推進したからである。
当時、【隷書に近い原始的な楷書(かいしょ)】を用いていた中国と友好関係を結ぶためには、【卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる夏音文字】を正しく翻訳する役所がどうしても不可欠となった。
ゆえに、『魏志倭人伝』には下記のごとき一群の(67字で構成される)記事がある。
「女王国自(よ)り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」
一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。
つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀県佐賀市であった。
『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。
前述したように、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。
したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。
だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。
上記したように、『魏志倭人伝』は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。
つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭人国の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。
だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と合致する倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて(捜露して)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。
ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。
このように、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67字)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていた。
それというのも、【楷書の字源・字形の原形・原義】は【倉頡の文字作成理論の産物】であり、【夏音文字の字源・字形・字義】も同様に【倉頡の文字作成理論の産物】であったうえに――【楷書も夏音文字も、夏の銀河各部の形状から作られた】からであった。
◆前述したように、『魏志倭人伝』には「邪馬臺(台・やまたい)国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
下に示すように、『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)の都とする所」は「邪馬壹(壱・やまい)国」と記す。
中国の正史『後漢書』倭伝には「邪馬臺国〔今、案ずるに名は邪摩惟(やまい)という音の訛(なま)り也〕」という記事と〔注〕がある。
「邪馬臺国」の「邪馬臺」が正しければ、〔注〕は「邪摩堆」でなければならない。
しかし、〔注〕は【堆】ではなく【惟】であり、つまり「邪摩惟(やまい)」と記す。「壱岐」は夏音文字「いき」であるゆえ、夏音文字だと「邪馬壱」は「やまい(邪摩惟)」と音することになる。
したがって、上に示したように、『魏志倭人伝』における「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は【邪馬壹国】であった」と考えるべきことになる。
このような観点からしても、『魏志倭人伝』は倭人国の首都は邪馬壹(壱)国であった」と記していたにちがいない。
だから、新井白石以来約300年間、学者たちが断定しつづけた【邪馬臺(台)国論】は『魏志倭人伝』に記述されていない虚偽をあたかも事実のごとく捏造(ねつぞう)する空理空論であったことになる。
◆『魏志倭人伝』は、対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の次は「末盧(まつろ)国」、その次は「伊都(いと)国」、さらに次は「奴(な)国」であったと列記する。
そして、特に注目すべきは「一大国から末盧国へ至る水行と方位」について記載していないことである。
『魏志倭人伝』は「末盧国から東南陸行五百里、伊都国に至る」、「伊都国から東南の奴国に至るに百里」と記す。
『古事記』における「末羅県(まつらのあがた)」は「現在の佐賀県唐津市呼子町、唐津市鎮西町、唐津市地方」であったと比定される。
しかし、「末盧国の中心地(旅程基点)は、現在の唐津市ではなく、唐津市の南南西の長崎県松浦市」であったと考えられる。
『日本書紀』の「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町近辺であった」と比定される。
『日本書紀』の「儺県(なのあがた)」は「現在の福岡市地域にあった」と比定される。
『後漢書』倭伝に「建武中元二(57)年、倭の奴国は貢物を奉じて朝賀(ちょうが)した。後漢の光武帝は印綬を賜った」と記す。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から発見された「漢委奴国王」と5字が」刻まれた金印は、この時に与えられた印綬とされる。
ゆえに、「儺県」の県都(旅程基点)は「志賀島の東方の福岡市東区香椎宮(かしいみや)であった」と考えられる。
上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国の旅程基点の佐賀県の松浦市(あるいは唐津市)から伊都国の福岡県糸島市前原町の方角は〔東南〕陸行五百里であった」と説明する。しかし「松浦市(あるいは唐津市)から糸島市前原町までは、現在方位で〔北北東〕」となる。
また、『魏志倭人伝』は「伊都国の糸島市前原町から奴国の福岡市東区香椎宮へ至る方角は〔東南〕」と記すが、現在方位では「糸島市前原町から〔北北東〕に香椎宮」が所在する。
ゆえに、幾人かの先人の学者たちは「『魏志倭人伝』の旅程基点の方角は」「『古事記』『日本書紀』の比定地の方位と約45度または約90度相違する」と指摘した。
九州地図を時計回りに90度転回すると、下図のごとくになる。
上図に示したように、「末盧国の松浦市(または唐津市)から〔東南〕に伊都国の糸島市前原町が所在する」。ゆえに、『魏志倭人伝』の「末盧国から〔東南〕陸行五百里、伊都国に至る」という記事は合理となる。
また、上図が示しているように「伊都国の糸島市前原町から〔東南〕に奴国の福岡市香椎宮」が所在する。ゆえに、『魏志倭人伝』の「伊都国から〔東南〕奴国に至るは百里」という記事も合理となる。
◆前ページにて「特に注目すべき」と指摘したように、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国に至る方位」を記していない。この「方位を記さない原因」は、『魏志倭人伝』が「対馬国から、南一海を渡る千余里、一大国に至る」と説明しているからと考えられる。
というのも、「一大国と対馬国は〔南北〕」に対して、「末盧国以下、伊都国・奴国の旅程基点の方位」は「時計回りに90度転回する方位」となって――人々が疑問を抱き・また不合理となる。だから、「一大国から末盧国」の方位を『魏志倭人伝』は不明(不記載)としたのである。
「時計回りに90度転回する方位」は、「倭人国」の「【倭】の字源・字形の原形(字源となる夏の銀河部の形状)、原義」をあらわした。
このため、末盧国以下狗奴(くな)国までの28の各小国地図は「倭人国」の――【倭】の字源・字源となる「夏の銀河部の形状・原義」をあらわす、時計回りに90度転回する方位――に則(のっと)ることになった。
その証拠に、一大国と末盧国の旅程基点の方角を不明とした――その末盧国には【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定をあらわす地名」が現存する。
下図は、現在方位に則る末盧国の範囲を示す地図である。
「末盧国」の【盧】について、卑弥呼が歴史上に登場する約50年前の2世紀初頭に成立した「字書の聖典」と尊重される中国の『説文解字(せつもんかいじ)』は、「末盧国」の【盧】の字を「飯器なり」と解説する。「飯器具」とは「炊飯器、つまり飯を炊(た)く土器」を意味する。
上図に示すように、「末盧国の東の境界線は、唐津湾にそそぐ松浦川と有明海(ありあけうみ)にそそぐ塩田川(しおたがわ)とを結んで区切られていた」と考えられる。これゆえ、末盧国北部の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「縄文時代の飯を炊く土器(飯器)の形」に相似する。
また、末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜は「飯器を炊く炎の形」に相似する。
したがって、「末盧国」は「松浦川と塩田川より以西の、佐賀県の西部(現在方位)と対馬と壱岐を除く長崎県全域)」であったことになる。
上図に示すように、「東松浦」は〔北〕に所在するゆえ「北松浦」と名づけるべきことになり不合理となる。また「北松浦」は〔西〕に在るので「西松浦」、また「西松浦」は〔南〕にあるので「南松浦」と名づけるべきことになる。
さらに、「東彼杵郡」は〔北〕に在るゆえ「北彼杵郡」と名づけるべきことになり、「西彼杵郡」は〔南〕に在るので「南彼杵郡」と名づけるべきことになる。
下図に【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国の地図を示した。
下図に示すように、「北松浦」は「東松浦の〔北〕」に在り、〔西松浦〕は「東松浦」の〔西〕に在り、「東松浦」は「西松浦の〔東〕」に在るので、「松浦地方」の方位名は【倭】の字源に合致して合理となる。
また、「東彼杵郡」の〔西〕に「西彼杵郡」と「西彼杵半島」が所在する。だから、「彼杵」という地名に冠する方位名も、【倭】の字源を表示して合理となる。
以上のごとく、「末盧国」には、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」が失われずに現存する。
◆『魏志倭人伝』には、「倭人国地図(日本列島地図)」について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」と指摘する記事がある。
下に「中国の会稽・東治と、実際の日本列島像と【倭】の字源をあらわす転回日本列島像」を図示した。
下図が示すように、「実際の日本列島像(地図)は、会稽・東治の〔東北〕にある」。ゆえに、「実際の日本列島像」は「当に(当然)、会稽・東治の東に在るべし」ではなく、まさに不合理となる。
しかし、「【倭】の字源をあらわす転回日本列島像(地図)」は、会稽・東治の〔東〕にある。ゆえ、『魏志倭人伝』の「当に会稽・東治の東に在るべし」という記事に合致する。
つまり、下に示す上図のごとく、卑弥呼王朝では「九州以下の倭人国地図」を「現在の日本地図」のごとく定めていなかった。
卑弥呼王朝が定めた「倭人国全土地図」は――下に示した下図のごとく、【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する地図」であった。
下に配する右図は、明(みん)の建文4年(1402年)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」における部分図をあらわす概略図である。
この地図の日本列島地図では【倭】の字源を示して「〔西〕の九州は90度転回して〔北〕となり、〔東〕に伸びる本州は90度転回して〔南〕へ伸びる」。
下の左図は、『魏志倭人伝』に登場する対馬国から黒歯(こくし)国までの34の小国の所在地をあらわす「転回日本列島地理論の図」である。
右図(転回日本列島地図)は左図の「混一疆理歴代国都之図における日本列島地図」に合致する。
だから卑弥呼王朝は、下図のごとく倭人国地図を定めていたことになる。
上の左図に示したように――「卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国」は、「現在の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)」であった。
九州は末盧国・伊都国・奴国・不弥(ふみ)国の4小国と詳細不明の余白の国(現在の大分県・宮城県・鹿児島県)から成る。
そして、邪馬台国九州説の根拠とする吉野ヶ里遺跡は伊都国に所在するゆえ、卑弥呼が居住した女王国ではなかった。
したがって、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論であった。
上の左図に示したように――旧国の大和(現在の奈良県)は「邪馬(やま)国」であった。
だから、箸墓(はしはか)古墳や纏向(まきむく)遺跡を根拠とする邪馬台国畿内(大和)説もまた『魏志倭人伝』の記事と全く無関係の空理空論・捏造であった。
『魏志倭人伝』には「女王国より以北は、その戸数・道里を得可(うべ)きも、其の余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)して詳を得可からず」という記事がある。
上の左図における「現在の大分県・宮城県・鹿児島県」は「女王国・邪馬壱国から以北」にある。また、「大分県・宮城県・鹿児島県」は「其の戸数・道里を得られた(記された)末盧国・伊都国・奴国・不弥国を除く九州全土から余る(余白の)旁(かたわら)の国」である。さらに、「其の余の旁国(大分県・宮城県・鹿児島県)」は「女王国・邪馬壱国から遠く絶えて詳を得可らずの(詳細が不明となる)地域」である。
また、『魏志倭人伝』には「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国は畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」という記事がある。
上の左図に示したように、「一大率が常に居住し治めていた伊都国(現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市)」は、『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国より以北」に所在する。
さらに、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)倭種なり」という記事がある。
上の左図に示したように、島根県の隠岐群島は転回方位に則ると女王国・邪馬壱国の〔東〕にあり、海を渡ること千余里の小国でもある。また、隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、最も大きな島・島後(どうご)の4つの大島と約180の小島からなる。ゆえに、『魏志倭人伝』は「隠岐の群島」を「皆倭種なり」と記したのである。
上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)において、直木孝次郎氏は「邪馬臺国の位置論」と題して執筆した研究論文にて「内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解すべきであるとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」と指摘している。
上の記事に登場する「内藤」とは「明治時代の歴史学者・内藤湖南(こなん)博士」である。
上の記事末部の「これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝(の陸行)とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という批判・否定は完全に誤っていたのである。上図の「実際の日本列島像と転回日本列島図」などで表示したように、倭人の条(『魏志倭人伝』)に記述された日本陸地図(九州以下の本州の陸地図)における「南」は今日の日本地図のである。
『後魏書』勿吉伝は6世紀半ばに成立した。
したがって、卑弥呼が没してから約300年後においても、中国では「東と南をかね、西と北とをかねる」・【倭】の字源「時計回り90度転回する方位規定」が保存されて失っていなかったことになる。
以上のごとく、邪馬台国説学者たちが「『魏志倭人伝』には多数の誤記がある」という主張は真っ赤なウソで――これらの記事はすべて【倭】の字源を伝える当時の学問上における事実であった。
『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記がなく、全記事が正しかったのである。
◆考古学者たちは、放射性同位元素をてがかりにして「奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡にある箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓である」と主張する。
この「箸墓古墳が卑弥呼の墓である」であると主張する学者たちは「卑弥呼が居住した王国は邪馬台国であった」と断定する。
しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国が、女王(卑弥呼)が都する所なり」と明記する。
前ページでも指摘したように――『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地域は現在の出雲市と松江市であった」と記す。
だから、大和の箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。
『日本書紀』巻第五・崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と明記する。だから、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではありえない。
邪馬台国・箸墓卑弥呼の墓説は、【『魏志倭人伝』の全記事のほとんどを自説に都合のよいように誤読・曲解するという詐欺やウソ】を駆使(くし)して立論する。
しかし、【『魏志倭人伝』】に1ヵ所も誤読・曲解・偏見を加えずに正確に読むと――卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地は現在の島根県出雲市と松江市であったことになる。
【2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、出雲市には「邪馬」と表示する地図の形が、また松江市は「壹(壱)」の字源を示す地域となる。
だから、先端科学の放射性同位元素を駆使(くし)しても――『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も誤読・歪曲・偏見・無視を加えないように読解しなければ、『魏志倭人伝』にまったく記述されていない虚偽を捏造(ねつぞう)した空理空論であるゆえ、いっこうに【科学】が成立せず真実をつきとめることはできない。
結局、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とは全く無関係の【非科学】きわまりない空理空論であったのである。
◆次回から、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、〔対馬国から狗奴国までの30の小国名に秘める【倉頡が発明した文字作成理論】を逐一(ちくいち)詳細に具体的に【全体的合理】が成立するように解明して――『魏志倭人伝』の全記事は正しかった事実を完全証明する。
この30の小国名に秘められる【倉頡が発明した文字作成理論の解説・証明】によって、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論・100パーセントのデタラメであった事実が完全証明される。
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