G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・6: 卑弥呼の逆襲

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2024年4月17日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・6

卑弥呼は偉大な学者であり優れた政治家であった

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在の学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】とは【夏の全星座が漬()かる銀河】、言いかえると【夏に最も長時間見える銀河】である。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀漢】と呼ばれる。

中国でもわが国でも【銀漢各部の形状から作られた文字】を略して、【漢字】と表記した。

下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

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◆わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と証明できる文献であった。

つまり、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河各部各部の形状から文字を作成する理論を発明した」と詳細に解説する文献であった。

要するに、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国記事】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。『三国志』は魏書・蜀書・呉書の六十五巻で構成される。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝の末部の〔倭人伝〕である。『魏志倭人伝』は280289年に成立した。

『魏志倭人伝しん』』は計1983字から成り、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)56字の〔注〕を加える。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。

そのうち、【倉頡が発明した文字作成理論】を説明する【対馬国から狗奴国までの30の小国記事】は約4分の1(500)を占める。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する、76字の記事がある。

この76字の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(ぞうか・芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして精密地図作製方法を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字」をも習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻にて科学的に証明できるように「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

このような現在の学界における〔漢字習得の定説の誤り〕は、「文字を書いた史料が出土していない、すなわち文字を習得しなかった」と断定する考えが原因である。

また、上記の理由よりもさらに重大の過ちは【現在の学者たちは、『魏志倭人伝』のほとんどの記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加えて立論する方法】こそが学問的に最も正しい、「科学」が成立する最良の方法であると信じている。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確である。

したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると事実が明白となる。

【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】にもとづき、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読を加えなければ、【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ【今から約4070年前の夏代黎明期に夏音文字が習得された史実】が証明され、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在しないことも証明される。

だから、学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多い」と主張して、【〔倉頡の文字作成理論〕と直接にかかわる記事はじめ自説に都合悪い記事など多数の記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】は詐欺(さぎ)・ウソであったと言わざるをえない。

 

◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。

これゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

 

上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()の掟によって――現在に至っても、夏の銀河各部には名称が存在しない。

【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ殷代(いんだい)後半の用いられた契文(けいぶん・甲骨文字)、周代に用いられた金文、あるいは楷書の字源となった銀河を明示しなければならない。ゆえに、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。

だから、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。

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◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【()の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。

五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()()は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。

このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかない。

だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことにまったく気づかない。

このため、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っている事実にも気づかない。

さらに、上記したように、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に直接的に組織的に説明されている事実に、わが国の近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。

ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。

このため、近世・現在の学者たちは、【漢字の字源・原形・原義は夏の銀河各部の形状】である事実にまったく気づかない。

にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明したのであろうか?

というのも、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を中国に知らしめて、倭人国は文化の低い野蛮国ではあらず知性の高い学術国家にして強大な戦力を有することを誇示して、倭人国が中国に占領されない国防政策として必要であったからである。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃、倭国は大乱したと考えられる。

当時、倭地ではすでに銅鐸祭器を使用する政権勢力と武器型祭器を使用する政権勢力とに二分されていた。両政権勢力とも、政権のトップの大王は元々(もともと)男王であった。

ところが、銅鐸祭器を使用する政権政権には、前回のわがブログ〔漢字の起源と発明を解明す・5〕で詳細に解説したように――日本列島の本州における地図の方位は、【倉頡の文字作成理論】における基本的文字【禾()】の字源・原義に合致して、時計回りに90度転回している――と立論する一女子が出現した。人々は彼女を「卑弥呼」と名づけた。

「日本列島における本州の地図の方位は時計回りに90度転回している地理は事実である」と認められて――卑弥呼は銅鐸祭器を使用する政権勢力のトップの女王に就任した。

卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた。上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「ひとつにまとまる」であって「惑わす、だます」ではなかった。

武器型祭器を使用する政権勢力は、西の九州から東へ勢力(領地の拡大)を伸ばした。一方、銅鐸祭器を使用する勢力は東から西へと拡大していた。これゆえ、170年頃、両勢力は互いに攻撃して衝突することになった。だから、倭国は大乱することになったにちがいない。

多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」という記事を「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あやしげ)に惑わしていた(だましていた)」と訳する。しかし――このようなオカルト的解釈が正しければ、中国は文化の低い野蛮な倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

 

◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「建武中元二年(西暦57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」と記述する、

武器型祭器の政権における中心勢力は、上記した後漢の光武帝から金印を授与された男王の後裔(こうえい)であったと考えられる。

江戸時代に九州の福岡県博多の志賀島(しかのしま)から出土した金印が、57年に光武帝から賜った金印とされる。この金印には「漢委奴国王」の5字が刻まれていた。この「漢委奴国王」の金印は後漢王朝と九州の委()の奴国が友好関係を結んだ証(あかし)となる。

 

170年当時、後漢末期の桓帝や霊帝が治める時代であり、去勢(きょせい)によって後宮(后妃)につかえた宦官(かんがん)のために多くの学生や気骨の士が殺されていた。

後漢後期、外戚と宦官との政争がくりかえされていたが、宦官のほうが次第に優勢になっていた。このような後漢の政治状況を知った九州の武器型祭器の政権は約120年前の57年における後漢との友好関係を疑るようになり――もしかしたら後漢に占領されるのではないかと心配して、軍事力を増強するために銅鐸祭器の政権勢力圏への領土の拡大を図ったと考えられる。

ところが、銅鐸祭器の政権勢力は卑弥呼を女王に選び一致団結して九州の男王政権の領土拡大を阻止した。       

このため、九州の男王政権の東進は計画したとおりにはいかなかった。このため、むしろ――もしも後漢に攻撃されたときには後漢と卑弥呼政権の敵軍にはさまれ包囲され滅亡するかもしれないと心配するようになった。

このような九州の男王政権の苦境を見すかした卑弥呼は、共立国家体制の樹立を九州の男王に提起した。

九州の男王は後漢の軍に滅亡されないための防衛戦略として卑弥呼王権勢力の領地に攻め込むものであったゆえ、卑弥呼王権との共立国家体制は軍事力を一気に増大する願いがかなうことになった。

だから、九州の男王と卑弥呼が共立する「倭人国」と称する国家が樹立され、倭人国のトップの大王には卑弥呼が就任することになった。

というのも、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通する最も偉大な学者であり優れた政治家であったからにほかならない。

 

卑弥呼と九州の男王は倭人国を東夷における最大の大国と信頼させるため、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

つまり、卑弥呼王朝は中国との戦争を回避して、中国との国交を結ぶ友好関係を希望するために、対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を明確に表示することにした。

言いかえると、卑弥呼王朝は中国における最も強大な権力は【倉頡の文字作成理論】であると考えて――倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明示すれば「倭人国は大国である」と認めるにちがいないと考えて、中国との友好関係を結ぶことにした。

というのも、西暦57年に後漢に朝賀した使者は国名を「委奴国」と名乗ったゆえ光武帝から金印を与えられたと卑弥呼は考えたからである。

金印の最初の【漢】の字源・原義は「多数の漢字が作られた夏の銀河」であった。

倉頡は「十字の銀河」から【禾】の字を作った。

この【禾】の字源の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するため【女】の字源となったために、【禾】の下に【女】が加えられて【委】の字が形成された。

【奴】の字源は「出産第二期・娩出期に生じる怒責(どせき・いきみ、きばる妊婦の行為)と胎児を押して誕生させる強大な力」であった。この【奴】の字も【倉頡の文字作成理論】を表示する代表的な字であった。

ゆえに、国号に【漢】すなわち「漢字が作られた、夏の銀河」と表示する後漢王朝は【委奴国】には【倉頡の文字作成理論】が存在すると尊んで、金印を与えて国交を結んだことになる。

だから、卑弥呼は中国に占領されずに、中国と国交を結ぶ最良の手段は【倉頡の文字作成理論】と考えたことになる。

 

◆上記した後漢の光武帝から賜った金印における「漢委奴国王」にて解説したように――倉頡は【禾()】の字を作った。【禾】の字は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」をあらわした。

【禾】の下に【女】が加わる【委】の字は【禾】の字源・原義を受け継ぎ、字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」とされた。

「十字の銀河」は「人の姿」にも相似する。したがって、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。【禾】・【委】と同様に「倭国」の【倭】の字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」と定められた。

下図は【禾】【委】【倭】の字源解説図である。この図の上部に配した「十字の銀河」は、このブログの前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」において、左上にある。

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上図における「十字の銀河」の左となりに「南→西」と示したように、【倭】の字源は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」であるゆえ、「北→東、東は南、南→西、西→北」に方位が変わる。

だから、邪馬台国説はじめ学界やメディアは【倭】の字源を無視して、『魏志倭人伝』に記述された日本列島・本州における方位を現在の日本地図と同一とするが――この【倭】の字源を無視する意見は空理空論ということになる。

卑弥呼は下の下図に示したように、【倭】の字源・原義にもとづいて「本州地図の方位規定は、時計回り90度転回する」と定めた。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した倭人国地図では「本州の西に在る九州は北に在る」ことになった。

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下図に、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地図」と34か国の小国配置を示した。

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◆前ページで説明した卑弥呼と共立国家体制を樹立することにした九州の男王は「一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群(41)の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)の記事は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」に示したように、一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在する。

つまり、一大率が治めた伊都国は現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市・佐賀県吉野ヶ里町であった。

卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱(やまい)国の範囲は現在の島根県と鳥取県西部であった。邪馬壱国の中心部は山陰出雲地方(現在の島根県出雲市と松江市)であった。

島根県松江市は黄帝の霊廟と墓とされる黄帝陵と同じ北緯3535分に所在する。

つまり、卑弥呼は黄帝陵と同緯度の島根県松江市を倭国の首都と定めて「邪馬壱国」と名づけたことになる。

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」が示すように、『魏志倭人伝』の記事に合致して「一大率が常に治めた伊都国は女王国・邪馬壱国の北に在る」。

邪馬台国大和説の場合、「伊都国は邪馬台国・大和の西に在る」ゆえ、矛盾し不合理となる。

邪馬台国九州説の場合、佐賀県吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡が邪馬台国にふさわしい遺跡であると考える。しかし、吉野ヶ里遺跡は一大率が治めた伊都国に所在する。だから、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事に対してほんとうに合理的な意見であるとは思えない。

だいいち、『魏志倭人伝』は下記のごとく「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の名は、邪馬壹()国である」と記す。

したがって、今から約300年前の新井白石が誤読した「邪馬臺()国」という国は実際に所在せず、空理空論であった。

学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞などのメディアは下記のごとく「邪馬壹(やまい)国」と記す4字を億面(おくめん)もなく「邪馬臺国」と読み、この誤りを素知らぬ顔をして日本国民をまんまと騙(だま)す。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬臺国」ではなく、「邪馬壹国」と記している。

邪馬台国説学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多数存在する。ゆえに、すべての記事は正しいなんて絶対に信じてはならない」という、言い訳は最初の段階からウソッパチであり、空理空論だったのである。

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『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

というのも、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであったからである。したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。

一大率の役職名「刺史」は「前漢の武帝が各州を観察するために、州ごとに一名ずつ派遣した役人」あるいは「後漢末から魏時代では、中国の州における長官名」であった。このように、一大率の役職を「重大な要職名」であらわさないようにしたのは、卑弥呼の政略によるものと考えられる。

一大率のほんとうの役目は「刺史」のように軽いものではなく、「もしも中国の軍が倭国に襲来したときに、倭軍を指揮する軍王(いくさのおう)であった」にちがいない。

というのも、中国軍が倭人国に来襲したとき、伊都国は本土を防衛する前線基地であったからである。

一大率の役職を物々しく「軍王」とすると、中国が「もしや、中国と戦う軍王か?」と疑うことになる。ゆえに、中国と友好関係を結ぶことができなくなる。だから、卑弥呼は一大率の役職を「倭人国における一州の長官・刺史」と定めたと考えられる。

一大率のほんとうの役職は、もしも中国軍が来襲したときに倭の諸国が一致団結して彼の命令・指揮のもとに戦う軍王であった。だから、諸国の人々は軍王・一大率を畏れ憚ったのである。

 

上記した一大率が登場する記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭国の銅鐸祭器の政権の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。

だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて、楷書と夏音文字の字義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。

だから、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていたことになる。

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