G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・7: 卑弥呼の逆襲

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2024年4月22日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・7

中国に占領されないための卑弥呼の国防政策

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在、学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

しかし、倉頡伝説は事実を語っていた。すなわち、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀河】、【銀漢】などと呼ばれる。

【銀漢各部の形状から作られた文字】であったから、中国でもわが国でも略して【漢字】と表記した。

【銀漢=夏の銀河】は【夏に最も長時間見られる銀河】である。

下は【夏の銀河の写真】であり、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

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◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』、すなわち、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』の主なる内容は――現代の学者たちが「荒唐無稽のウソ」と断定する【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に明確に説明する文献であった。

しかし、江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)が提唱した邪馬台国大和(畿内)説と邪馬台国九州説にもとづき、『魏志倭人伝』における主なる内容は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に体系的に説明する文献ではなくなった。

そして、白石以後現在までの約300年間のあいだに「『魏志倭人伝』には多数の誤った記事が存在する。だから、すべての記事は正しいなんて絶対に信用してはならない」という立論方法が確立された。

このような邪馬台国説の立論方法を全面否定して――『魏志倭人伝』のすべての記事に1ヵ所も誤読を加えずに信用して思慮深く思索(しさく)すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に伝えていた文献であったことが明白となる。

つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。

上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成される。

『古事記』の序は、きわめて特殊な序である。

つまり、「『古事記』の序」は「『古事記』上巻并(あわ)せて序」と記される。

「『古事記』上巻并せて序」とは、つまり「『古事記』の序は上巻だけの序」であって、「『古事記』の序は中巻・下巻の序ではない」とあらわしている。

というのも、『古事記』の上巻の随所だけに〔音〕という注がつく夏代黎明期の夏音文字は楷書を音符・意符に用いて記載されているゆえ、「『古事記』上巻并せて序」は「『古事記』の序は上巻だけの序」ということになる。

『古事記』上巻并せて序は、下記のごとく【夏音文字の習得と、そして倉頡の文字作成理論の一端】を説明する。

――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして【精密地図作製方法】を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得をもできた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書を音符・意符に用いて記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。だから、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は中国でもわが国でも国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻と『魏志倭人伝』にて証明できるように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学界はじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

上記したように【新井白石以後の近代・現代の学者たちは、『魏志倭人伝』に自説に都合のよいように多数の誤読・曲解を加え、また自説に都合の悪い記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】を駆使(くし)して〔邪馬台国説〕を主張する。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確な文献であった。

新井白石が邪馬台国大和説と邪馬台国説九州説を立論する17世紀以前、わが国の天皇家はじめ学問に精通した武将や高僧たちは、『魏志倭人伝』を【倉頡の文字作成理論を説明する聖典】として崇拝していた。

ゆえに、新井白石が1725年に没してから13年後の1738年に皇室は【大嘗祭(だいじょうさい)】を本格的に復興して【倉頡の作成理論】を演出・儀式化して後世に伝えた。

【令和元年(2019)1114日に行われた大嘗祭】は【新井白石以来約300年継続される、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論、真っ赤な大ウソである】と表明する大祭であった。

言いかえると、【令和の大嘗祭】は【『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】と【名門益氏の東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住して夏音文字を教え広めた――と読解できる文献であった】と表示する祭儀であったのである。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを予想し、独占管理して厳重に機密を保持した。

しかし、倭女王・卑弥呼は30の小国名をもって国家と王朝が独占管理して厳重に機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】が解明できる仕組みにした。

倭女王・卑弥呼は【「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」と定まる絶対的タブー(禁忌)】を犯して――なにゆえ、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に説明することにしたのであろうか。

卑弥呼が生存した170年~240年当時において、【倉頡の文字作成理論】は中国とわが国における【最高学問】であった。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃に、倭国は大乱したと考えられる。

上の記事が説明するように、170年頃、卑弥呼は、倭人国の女王に就任した。

上の記事は「卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた」と意味した。

というのも、上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「中心に(ひとつに」まとめる」であって、多数の学者たちが解釈するように「妖(あや)しく惑わす、だます」と意味するものではなかった。だから、「衆を惑わす」とは「民衆の心を一つにまとめて国を治めた」と意味した。

 

その証拠に、今年(2024)317日の21時から始まったNHKテレビの「最新古代史ミステリー・邪馬台国と卑弥呼の謎」というタイトルの放送において、上の「鬼道」とは――老子(紀元前5・4世紀)に生存した中国の思想家」が『老子』上篇(道経)で説く「道教」であった――と指摘した。

その証拠に、紀元前1世紀に成立した司馬遷著『史記』五帝本紀は「天子が天地山川をまつった封禅(ほうぜん)の儀式をおこなうのが常例であるが、古来の天子がおこなった封禅の儀式のうちで、黄帝のおこなった儀式がもっとも最も盛大であったといわれる」と記述している。

だから、「卑弥呼がまつった鬼道」は「黄帝がまつっていた鬼神への信仰」であった。

『魏志倭人伝』は【黄帝につかえた倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に説明する書物であった。ゆえに、当然、「卑弥呼は黄帝がまつった鬼神の道に精通していた」のである。

『魏志倭人伝』は【今から約5000年前に生存した倉頡の文字作成理論】と【今から約4070年前の夏代黎明期の夏音文字】について説明する書物であった。ゆえに、「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」の【惑】の字義は原義の「まとめる」であって、現在の原義を失った転義の「考えをみだす。あざむきだます」ではなかったことになる。

 

◆前ページにて紹介したように、『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にて倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道を事(まつり)て能()く衆を惑わす」という記事がある。

 

上の記事のごとく――卑弥呼は男王と共に国家(倭人国)を樹立した。

ところが、多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事りて能く衆を惑わす」という記事を、「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あや)しくまどわしていた(だましていた)」と訳する。

しかし、このようなオカルト的解釈が事実であったとしたならば――学問・文化を誇る中国は学問が劣る文化の低い野蛮な弱小の倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

卑弥呼は中国に「倭人国は学問が存在しない、文化が劣る弱小国」と解釈されて占領されることをおそれた。

だから、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論は国家と王朝を安定させるために、必ず厳重に機密にしなければならないという掟】を破って、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】をあらわすことにしたのである。

つまり、30の小国名をもって共に立つ卑弥呼と男王は、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

言いかえると、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明らかにすれば、中国は「倭人国は中国における【最高の学問、倉頡の文字作成理論】が存在する強国である」と察知するにちがいないと考えたことになる。

 

卑弥呼と共立国家体制を組織することにした男王は「九州・伊都国に居住する一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)記事の書き下し文は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀市であった。

上記したごとく、『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

前述したように――倭人国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。したがって、諸国の王たちが30の小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論の秘密】を容易に理解できるように説明して暴露する大罪を検察する刺史の役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚していたのである。

 

上の一大率についての記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字(楷書)は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し露わに)して、卑弥呼が用いる文字(夏音文字)に翻訳していた。つまり、帯方郡から送られる文書や賜物の名称に用いられる楷書は正確に夏音文字に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

このように、『魏志倭人伝』は――魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「隷書に近い原始的な楷書」であった。また、卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる文字は「夏代黎明期に用いられた夏音文字」であった――と伝えていたことになる。

【夏音文字の字源・字形・字義は、夏の銀河各部の形状】であり、【楷書の字源・字形の原形・原義も、夏の銀河各部の形状】であった。

だから、上の記事における「捜露」という語が示しているように――伊都国の港において、役人たちは魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる【夏の銀河各部の形状】合致する倭国の夏音文字の字源となる【夏の銀河各部の形状】を捜露(捜しあてて)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳していたことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたにちがいない。

だから、上の「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符に用いられた楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」という事実を伝えていたことになる。

その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【夏音文字と楷書が夏の銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする、倉頡の作成理論】を説明していた。

前述したとおり、当時、中国でもわが国でも【倉頡の文字作成理論】は【最高の学問】であった。

卑弥呼王朝は「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する、最高の学問を習得した国家」であると中国王朝に表示して、中国に占領されないように防衛していたのである。

 

220年、後漢が滅び、三国時代となった。

魏の曹操(そうそう・155220)が没し、子の曹丕(そうひ・187226)が後漢の献帝(けんてい)を廃して洛陽に都を置き、国を魏()と称した。

221年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび・玄徳・161223)がみずから漢中王と称して蜀漢を創建し、次いで献帝より帝位を譲られた。

223年、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)は蜀と呉が協力して魏を倒して中国を治める「天下二分の計」を企てた。

この「天下二分の計」に、呉の孫権(そんけん・182252)が承諾し、蜀と呉は軍事同盟を結んだ。

228年、赤壁(せきへき)の戦いで魏軍が大敗した。諸葛孔明も赤壁の戦いに参加した。

2009年5月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する映画「レッドクリフ」の1部と2部が上映された。この映画名は「赤壁」を英語で「レッドクリフ」と呼ぶことにしたもので、赤壁の戦いの様子を克明に描いていた。

わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な勝利をおさめた。呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割は2万の呉の水軍が担(にな)った。

229年、呉の孫権が自立して帝と称し、建業(今の南京)に都を置いた。

 

当時、魏の北側(背後)に4番目の国として公孫淵(こうそんえん)が魏の持節(じせつ)・揚烈(ようれつ)将軍・遼東大守(りょうとうたいしゅ)となって治める「燕(えん)」が所在した。

229年(呉の黄竜元年)、呉帝に即位した孫権は、魏の背後にある燕の軍が魏に反旗を翻(ひるがえ)し、「天下二分の計」を結んだ呉と蜀の軍が前面から攻撃すれば魏は滅亡すると考えた。それというのも、孫権は公孫淵が魏の配下の地位に不満を抱いているにちがいないと考えたからである。孫権は、密使に託して公孫淵に「燕王」の地位を約束した。しかし、公孫淵はこの説得に応じなかった。

というのも、燕の背後には、魏の出張機関の帯方郡庁を訪問して魏と国交を結ぶ、【倉頡の文字作成理論】を30の小国名であらわす学術強力国家・倭人国が存在したからである。

倭人国を「【倉頡の文字作成理論】を有する、東夷の大国」と解釈した公孫淵は、呉と蜀との同盟に参加した燕の動きを魏に察知されれば、魏と倭の挟(はさ)み討()ちにあってみずからの生命を失い燕が滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、孫権が派遣した密使の説得をことわった。

 

『後漢書』倭伝の末部に記載されているように――日本列島・倭人国の背後に秦(しん)の始皇帝の時代(紀元前246―同220)に方士の童〈どう・青年〉男女数千人をひきいた徐福(じょふく)一行が定住した東鯷人(とうていじん)国が存在した。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽(かいけい)にて交易をしていた。

孫権は――倭の背後の東鯷人国に1万の水軍を遠征させれば、東鯷人国が呉に占領されると背後の脅威になると倭人国は考えて、必ずや多数の兵を東鯷人国に出動させるにちがいない。そうなれば、魏の要請があっても倭人国は燕との戦いに少数の兵しか送ることができない。ゆえに、倭人国は燕の背後の脅威にはならず、公孫淵は安心して呉と蜀の連合軍側につくにちがいない――と考えて呉軍の東鯷人国遠征を決意した。

『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜(こうりゅう)2年(230)、皇帝の孫権は衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万」と説明する。

前述したように、228年の「赤壁の戦い」において、80万の魏軍を撃破して劇的な勝利をおさめた呉・蜀連合軍の中心的役割を担(にな)ったのは2万の呉の水軍であった。

この2万の半分の呉の精鋭1万の水軍が、日本列島に遠征しようとしたのである。

この呉の遠征軍は台湾と与那国島の海峡を渡ることができず、8割から9割の兵を失って壊滅した。この呉1万の水軍が日本列島遠征を失敗で呉の兵力はいちじるしく減退したために、8年後(238)、呉は天下取りの好機を逃すことになった。

 

◆呉の黄竜元年(229)に続いて、孫権は呉の嘉禾(かか)元年(232)にも、遼東の公孫淵へ使者を送った。このときの呉の使者のうちの数人を山東半島で拿捕(だほ)した魏は、公孫淵が孫権と軍事同盟を結ぶ気配を察知した。

234年、中国史上最高の軍事戦略家とされる蜀の名臣諸葛孔明が五丈原(ごじょうげん)にて享年54歳で病死した。

五丈原で孔明と対決した魏の将軍は司馬懿(しばい・175251)であった。

司馬懿は『史記』を著作した太史令(だいしれい)の司馬遷の後裔であった。「太史令」という役職は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳重にまもる長官」であり、「司馬」という姓の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。ゆえに、司馬懿は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

232年に公孫淵が呉の孫権と軍事同盟を結んだ気配を察知した魏は、237(魏の景初元年)の夏、幽州の長官・刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)による公孫淵の討伐を開始した。しかし、この年の公孫淵討伐は失敗した。公孫淵は、魏に背き「燕王」と称した。

 

翌景初2年(238)、魏軍のエースの司馬懿が公孫淵討伐の最高責任者となり、司馬懿は4万の兵を率いて春、首都の洛陽を出発した。6月には、司馬懿軍は遼東に到着した。

この景初2年(238)の6月、『魏志倭人伝』は「倭女王は難升米(なしめ)らを帯方郡に派遣して、魏の明帝(めいてい)に拝謁(はいえつ)して、朝献(ちょうけん)したいと申し出た」と記述する。

この「倭女王の難升米一行を帯方郡に派遣した」という記事は「倭と魏が軍事同盟を結んで、司馬懿の公孫淵討伐に協力した」と説明するものであったのである。

司馬懿軍が遼東に到着した2ヵ月後の8月24日、公孫淵は襄平(じょうへい)の城外で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

さらに4ヵ月後の12月、『魏志倭人伝』は「倭の使節の難升米一行が洛陽に到着した。魏の明帝は詔書を発し、倭女王卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)に任命するという返事を書いた」と記述する。

しかし、明帝は重病であった。ゆえに、難升米一行は明帝に面会できなかったはずである。しかし、司馬懿は重病な明帝と公孫淵討伐によって兵力がいちじるしく削減(さくげん)されて弱体化した魏都の様子を、呉の孫権に察知されまいと奇策(きさく)を企んでいた。

つまり、司馬懿は――倭人国から送られた文書に記述されていた「【倉頡の文字作成理論】をあらわす30の小国名」を洛陽に潜(ひそ)む呉の間者たちが知ることができるように手配し、しかも、難升米一行が重病で面会できないはずの明帝に面会する偽装をもって――8年前(230)に決行した1万の水軍の日本列島遠征に失敗して精神的ショックを負った孫権が魏と倭人国との軍事同盟に重視して慎重になるにちがいない。ゆえに、孫権は一気に兵力が弱体化した魏都を攻撃しないにちがいないと企んだことになる。

つまり、司馬懿は――英才・孫権ならば「倭人国の30の小国名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす。ゆえに、倭人国は東夷の大国にちがいない」と考え、「倭の使節一行が魏都に到着して明帝と面会した」という報告を間者たちから受けたならば、彼は慎重(しんちょう)に用心して魏に罠(わな)有りと考えて魏都を即刻に攻撃することに待ったをかけ、まず倭の国力の調査に時間をさくことを優先(ゆうせん)するにちがいない――と考えて、この奇策に賭()けたのである。

司馬懿の策略にはまった孫権は、魏を滅亡させる千歳一隅(せんさいいちぐう)の絶好のチャンスを逃(のが)して、司馬懿軍が留守した魏都の攻撃を呉軍に命令しなかった。

 

司馬懿が公孫淵を討伐して洛陽に凱旋(がいせん)したのは、景初3年(239)正月であった。明帝は危篤状態であり、司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間に合った。

魏は倭女王卑弥呼に外国の臣下に与える最高の爵位(しゃくい)の「親魏倭王」の金印紫綬(きんいんしじゅ)をさずけた。

この爵位は、卑弥呼と西域の大月氏(だいげっし)国の王の二人以外には与えなかった。

だから、公孫淵の討伐と呉軍に魏都が攻撃されずに魏の窮地を救った功績によって、卑弥呼は最高位の爵位を与えられたことになる。

以上のごとく、卑弥呼の「30の小国名で【倉頡の文字作成理論】をもって、倭人国を東夷の大国として認めさせて同盟を結んで、中国には占領されない」と計画した国防政略は成功したことになる。

 

前述したように、呉の孫権が魏を滅亡させる千歳一隅のチャンスを逃した原因は――倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強力の国家であると、魏・呉と燕では解釈されていたからである。

だから、魏は卑弥呼に中国の臣下に与える最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけた。

現在の絶対的定説の「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀であった」という意見が事実であったならば、3世紀における倭人国は「漢字知識・学問を有しない、野蛮で文化が劣る弱小国であった」と、魏・呉・燕では解釈したことになる。

そんな倭人国と魏が軍事同盟を結ぶはずもなく、巫術(魔術)をもって民衆を妖しくだました卑弥呼に最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけるはずもない。

しかし、『魏志倭人伝』における主なる記事の内容は【倉頡の文字作成理論】だったのである。

つまり、中国では対馬国から狗奴国までの30の小国名を知って、「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と察知していたことになる。

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