漢字の起源と発明を解明す・12
卑弥呼王朝は日本列島の東は南へ延びる
転回日本列島地理を制定した
◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、
【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
ところが、現在、学者たちは「文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と憶測(おくそく)して断定する。
でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと証明した。
わが国における2世紀末~3世紀半ばの様子を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、
対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明によって、
【倉頡が発明した文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に解明できる仕組みになっている。
だから、倉頡伝説は事実を語っていたことになる。
上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬(つ)かる銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、通称「天の川」、または一般的に「銀河」、あるいは「銀漢」などと呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
◆【夏の銀河の帯】は、様々な形状となって変化する。
倉頡は、上の写真の形式を【文字を作成するときの定形】と定めた。
上の写真は、「全体を長方形に区切った夜空に、【夏の銀河の帯は東北から西南へと延びている】。
下に、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)を長方形状に包囲する黄河上流地域の図を配した。
下図における【ムウス沙漠と黄土高原】は共に、上の【夏の銀河の写真】と同じく【東北から西南へ延びている】。
倉頡は、藤井旭氏が撮影した【夏の銀河の写真】にて示したように――【字形(文字を作成するときの形)は、夏の銀河の南を正面にして、左(左手側)は東・右(右手側)は西】と定めた。
また、倉頡は上図に示したように、【黄帝陵を包囲する長方形状の黄河上流地域の地理形式は黄帝陵の真北の包頭を正面にして、左は西・右は東】と定めた。
したがって、【左東・右西の銀河形式と左西・右東の地理形式の両者が東北から西南へ延びる形】を互いに一本の線にして合体すると、両者は【X】字形に交わる。
この【X】字形に交差する図書は、下図の右上に配する【爻(こう)】と【学】の字源・字形・原義となった。
【爻】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)における上下二つの【X】は「(1)ムウス沙漠と夏の銀河との交差と、(2)黄土高原と夏の銀河との交差」を表現している。
そして、【学】の上の【X】は「ムウス沙漠と黄土高原を一つに合体した形と、夏の銀河との交差」を表現している。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は、【爻】の字源について、
「千木(ちぎ)のある建物の形。(中略)。
卜辞(甲骨文字の文)においては爻を学の初文(最初の文字)として用いている。
学はメンズハウスで、一定の年齢のものがここに隔離されて生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。
千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」
と解説する。
また、白川静著『字統』は、【学】の字源について、
「もと屋上に千木のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。
卜文(甲骨文字)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」
と解説する。
上図に示したように、わが国の神社建築は屋根のむねの両端に【X】字形に交差させた木材の千木を取り付ける。
前述したようにーー『魏志倭人伝』の対馬国から狗奴国までの30の小国の記事によって、
わが国は【倉頡の文字作成理論】を習得していたことが詳細に具体的に組織的に証明することができる。
わが国には、名門益(えき)氏によって紀元前2050年頃に【倉頡の文字作成理論】がもたらされ、約50年後の紀元前2000年頃に【倉頡の文字作成理論】が習得された。
それゆえ、当然――「【倉頡の文字作成理論】が【爻】と【学】の字源・原義となった」と伝える【X】字形の「千木」が、わが国の神社の屋上に取り付けられることになったのである。
◆さらに、倉頡は【字形の形式】を下図の【犬】「オオカミ」の亜字形のごとくに定めた。
亜字形の【亜】は「墓(はか)」をあらわした。
長方形状に西から東へ水が流れる黄河上流地域において、
黄土高原に棲む【牛】の字源・ジャコウウシが、襲ってくる天敵のオオカミをオスのジャコウウシが角(つの)でひっかけ肩ごしにはね上げ、他のジャコウウシが前足で踏みつけて殺した。
ゆえに、下図の【犬】の亜字形は、ジャコウウシに殺されたオオカミの墓(黄土高原における死に場所)」を表現している。
前ページの「瀚海と黄帝陵と黄河上流地域の地図」に示したように、「ジャコウウシに踏みつけられてオオカミが死んだ黄土高原は東北から西南へと邪(なな)めに延びる」。
この「邪めの黄土高原」を、上図に示したように【犬】の字源「オオカミの死体」は「長方形状の黄河上流地域の東側半分に、【南北を縦】にして配置している」。
つまり、倉頡は「邪めの物」を「縦長に図案する」ように字形の型式を定めた。
だから、上図の右側に配した【犬】「オオカミの姿」の契文形は邪(なな)めに図案されず――左側に配した亜字形の【犬】「オオカミの姿」と同じく縦長にデザインされている。
◆今日の日本人における「命を失う」という心配は、様々にあるにちがいがーー
(1)重い癌(がん)を患(わずら)えば近いうちに命を失うであろう、(2)何かの原因で心臓が突然止まれば命を失うであろう (3)酒に酔いスピード違反する人の車にはねられると、きっと命を失うであろう
と考える人々もいるにちがいない。
他方、今から約5000年前の黄帝時代の中国とわが日本列島の人々はじめ、今から約1800年前の卑弥呼時代の中国とわが国の人々は――
(1)天頂緯度線のキャッチに失敗したならば命を失う、(2)女性たちは産道を通過する子どもが出産できないと母子ともに命を失う、(3)日照りが続き食料が尽きて飢えると命を失う
と心配した。
ゆえに、上記した「人々の命を失うとおそれる、3つの心配の種(たね)」に注目して、
(1)「従来の方位規定(南を正面とする天理と、北を正面とする地理の方位規定)の他に、
倉頡は(2)【禾】と、(3)【呉】という、二つの新しい方位規定」を考案した。
黄帝時代より以前は、「黄帝陵の南を正面として左・東と右・西とする天理方位」と、「黄帝陵の北を正面として左西・右東とする地理方位」、
つまり「現在の東・西・南・北と同類の方位規定」であったにちがいない(ただし、現在と異なり、天の北極を「北」と定める基準点としなかった)。
したがって、(1)黄河上流地域における「現在と同類の東・西・南・北」と、
倉頡が考案した(2)【禾】「時計回りに方位が90度転回する方位規定」と、
(3)【呉】「逆時計回りに方位が時計回りに転回する」という、
3種の方位規定は対立することになった。
つまり、上記した(1)黄河上流地域における「現在と同類の東・西・南・北」は人民たちが用いる、民間用の方位規定であった。
それに対し
(2)「【禾】と(3)【呉】の転回方位規定」は、学問(倉頡の文字作成理論)として確立された方位規定であった。
(2)「【禾】の方位規定」は「大王や王たちの権力者たちが、人民たちが飢えないように、豊かに禾(穀物)が実るように努力する政策(事業)」をあらわすことになった。
(3)「【呉】の方位規定」は「大王や王の権力者たちが、国土に多数の子どもが無事に出産するように努力する政策(事業)」をあらわすことになった。
だから、(2)【禾】と(3)【呉】の方位規定は政事(まつりごと)と、学問(倉頡の文字作成理論)にて用いられた方位規定であった。
◆上記したように――黄帝時代の人々は、
(1)天頂緯度線のキャッチに失敗したならば命を失う、
(2)女性たちは産道を通過する子どもが出産できないと母子ともに命を失う、
(3)日照りが続き食料が尽(つ)きて飢えると命を失う
と常に心配していた。
上に記した「【(1)・(2)・(3)の三つの心配の種」を単一化して、倉頡は【禾】の字を作った。
また、「(1)・(2)の二つの心配の種」を単一化して、倉頡は【呉】の字を作った。
黄帝時代、日々、人々は下図の右上に示す【亠(とう)】における天頂緯度線をキャッチして、緯度を1度の60分の1の1分の精度で測定していた。
下に、黄帝時代のおける、約4~6秒間の寸時に1分の精度で天頂緯度線をキャッチする人の姿勢を示した。
人は天を仰いで後頭部を首のほうに倒して顔をあげ、おなかを前へ丸くつき出して、【無欲】になって天頂緯度を測定した。
というのも、「天頂緯度線を必ずキャッチする」という【欲を有する】と、天頂緯度線のキャッチに失敗して自分が居る場所も方向も不明となって道に迷って命を失ったからである。
だから、天頂緯度線をキャッチする骨(こつ)は「【無欲】になれ」であった。
この「天頂緯度線を1分の精度で測定するときの姿勢」と、「【無欲】になれという骨(こつ)」はーー「産道を通過して頭が誕生するまでの出産児の姿」に酷似(こくじ)すると見立てられた。
というのも「産道を通過して頭が誕生するまでの赤ちゃんの様子」は【無欲】に観えたからである。
出産児の頭は骨盤入口面では横向きに入る。しかし入口部は骨盤内でいちばん狭(せま)い空間があるので、通常、赤ちゃんはアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。この【時計回りの90度の旋回(せんかい)】を、現在、産婦人科では【第1回旋(かいせん)】と呼ぶ。
骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・横向きへと方向を変えながら下降(かこう)する。この赤ちゃんの【逆時計回りの90度の旋回】を【第2回旋】と呼ぶ。
【第3回旋】は第2回旋と同じく【逆時計回りの90度の旋回】となって恥骨(ちこつ)をくぐりぬけるように赤ちゃんの頭が産道から誕生する。
最後の【第4回旋】は【第1回旋】と同じく【時計回りの90度の旋回】となる。
このように、出産児の頭が骨盤入口を通りぬけてから頭が誕生するまでに、4回の回旋がおこなわれる。
この【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて頭が誕生するまでの4回の回旋】は、実際に膣口(ちくこう)から見える。
ゆえに、出産する光景を日常的に間近(まぢか)に見ていた古代の人々は【出産児の頭の、神秘的で感動的な骨盤入口から膣口(ちつこう)までの、命が誕生する4回の回旋】を知っていたのである。
上記したようにーー【第1回旋と第4回旋】は【時計回りに90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの90度の旋回】となる。
倉頡は、「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字を作った。
倉頡は「赤ちゃんが産道を通過して頭が誕生して【命】を得るまでの様子」と「【命】を得るために天頂緯度線を測定するときの骨(こつ)」が【無欲】で共通するゆえーー倉頡は【禾】と【呉】を作った。
だから、倉頡は【禾】と【呉】と名づけた【2種類の方位規定】は【学問(倉頡の文字作成理論)における定義】となった。
したがって、『魏志倭人伝』における「倭人国」という国名に用いられる【倭】の字源・原義は、倉頡が作った【禾】の字と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」であった。
だから、【倭】の字は学問上において「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
いっぽう、人民たちの方位規定は天の北極を方位規定の基準点とするものではなかったが、現在の東・西・南・北と共通することになった。
◆倉頡はみずから考案した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はもちろん、その家族および一族全員をも死刑にする」と定めた。
したがって、現在、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河各部の名称】が無いと、非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図が示すように、黄帝時代、北緯35度35分の黄帝陵の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯31度30分の長江口(長江の河口)中央を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。
したがって、「十字の銀河」は「中国全土の各地の天頂」にめぐってきた。
この「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央」に倉頡は「禾(稲)の形の図書」を重ねて、【長江口周辺地域で育つ禾の穂】を「十字の銀河の両足」がある「南」(すなわち、長江口の天頂周辺となる南)に配した。
そして、その「十字の銀河の南にある禾の穂」は「鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」がある「西」へと垂れると定めた。
これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
上図における「禾の穂」は「稲の穂に実る米を炊いた飯(めし)を食べるの人の口」に相似すると見立てられた「鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」の方に垂れる。
これゆえ、この様子は、倉頡伝説に登場する「天は祝福して禾(穀物)を降らせた」という文に適合して、
「天(十字の銀河)」から「禾の穂になる実の米」が「人の横顔の口へと降る様子」を示している。
「十字の銀河」には「子宮」に相当する銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「女体。女性」に見立てられた。
ゆえに、【禾】の下に【女】が加えられて【委】の字が作られた。
また「十字の銀河」は「男性」にも相似し、あるいは「人の姿」にも相似する。
ゆえに、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
だから、【委】と【倭】の字は【禾】と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
下図における【呉】の上部の【口】の字義は「食物を食べる口(くち)」ではない。
【呉】の上部の【口】の字音は「さい」である。
この【口(さい)】は「子どもの誕生を祈願し、子どもの出産を祝う、つまり祝祷(しゅくとう)するときに用いる土器」を図案するものであった。
したがって、下図の【呉】の字は「祝祷に用いる【口(さい)】を右側の肩の上方に挙(あ)げて、巫女(みこ)が身をくねらして舞う形」で、「巫女が子どもの出産の祈祷する儀式」をあらわし、また「骨盤入口から産道を4回も回旋しながら頭が誕生する、子どもの出産を祝福して巫女が舞う様子」をあらわした。
前述したようにーー倉頡は【呉】の字で「逆時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
だから、下図の上部に示したように、【口(さい)】は「北(十字の頭部)」から「西(十字の銀河の肩の上)」に移動する形となった。
下図の下部に示した【口(さい)】の「南(十字の銀河の両足)」から「東」への「逆時計回りに90度転回する方位規定」は「呉地における南から東にある大海にて子どもが誕生すること」になる。
だから、この図案は不合理ということで、【呉】の【口(さい)】は「十字の銀河の肩の上」に配置された。
◆そして、倉頡は下図に示すように、中国海岸線のほぼ中央に河口がある淮河(わいがわ)で中国全土を北部と南部に分けーー「北部地方」は【禾】と名づけ、「南部地方」は【呉】と名づけた。
卑弥呼は、『魏志倭人伝』の記事にもとづくと、多分、240年頃に死去したにちがいない。
ということは、卑弥呼は中国の三国時代(220-264年)に生存していたことになる。
三国時代は下図に示すように、魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)していた。
【委】に卑弥呼が祭った「鬼道」の【鬼】を加えると、【魏】という字になる。
ゆえに、その偏【委】が示すように、「魏」は「時計回りに90度転回する方位規定の国」であった。
【呉】は、「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、「呉」は、当然、「逆時計回りに90度転回する方位規定の国」であった。
「蜀(しょく)」の正式国名は「漢」であった。【漢】は「銀漢」つまり「夏の銀河」をあらわした。
だから、漢(蜀)でも、魏・呉と同じく【倉頡の文字作成理論】が保存されていた。
◆『後漢書』倭伝には「桓(かん)・霊(れい)の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐(あいこうばつ)し、歴年主(れきねんしゅ)無し」という記事がある。
つまり、倭国は後漢第11代の桓帝(147-167年)と第12代の霊帝(168-188年)の頃に大乱(たいらん)したことになる。
『魏志倭人伝』にも「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為(な)す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐して年を歴(ふ)。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰(い)う」という記事がある。
ということは――『後漢書』倭伝によると、倭国の大乱は167年~168年頃に始まったことになる。
『魏志倭人伝』の記事における最終年の250年頃であるゆえ、『魏志倭人伝』にもとづくと倭国の大乱は約80年前の170年頃に始まったことになる。
これゆえ、倭国の大乱は167年~170年頃に始まったと考えられる。
倭国の大乱について、『後漢書』倭伝は「歴年主無し」と説明し、『魏志倭人伝』は「相攻伐して年を歴」と説明する。
ゆえに、倭国の大乱は数年間も続いたことになる。
ところが、『魏志倭人伝』が伝えるように、卑弥呼によって、倭国の大乱は終息(しゅうそく)した。
上記した『魏志倭人伝』の文は「乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰う」と記しているからである。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭国最高位の女王に選ばれ、卑弥呼と男王のトップ(大王)が共に立つ国家と王朝が創設された」と説明していたことになる。
『魏志倭人伝』は冒頭にて「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余国。(中略)。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」と説明する。
卑弥呼が統治した対馬国から狗奴国までの小国の数は30である。
この30の小国が「使訳通ずる所三十国」である。
この「使訳通ずる所三十国」は「倭の使者の言や彼らが用いる夏音文字を、魏の外交官や帯方郡の役人たちが訳して通ずることができる三十国」ということになる。
だから、倭女王・卑弥呼は大乱で【百余国に分裂していた状況】を、【整理して三十の小国にまとめた】ことになる。
上記した『後漢書』倭伝と『魏志倭人伝』の倭国の大乱記事にもとづくと、
倭国の大乱が始まってから数年後に――卑弥呼は「日本列島の東は南に延びる」と立論したことになる。
というのも、『魏志倭人伝』は「日本列島の本州の東は南に延びる」と記述しているからである。
また「東が南になる、時計回りの90度転回する方位規定」は【倭】の字源をあらわす。
だから、卑弥呼は「日本列島の本州の東は南に延びて【倭】の字源が成立する状況」を証明する「転回日本列島地理」を立論したことになる。
以上からして、卑弥呼が立論した【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理」を知った男王たちは戦争を終結(しゅうけつ)させたと考えるべきことになる。
男王たちは「日本列島地理が【倭】の字源を成立する状況」も知らずに殺し合っていた。
しかし、日本列島における本州全土地理が【倭】の字源をあらわす事実を知った男王たちは、【神と崇(あが)めた倉頡】の厳(きび)しい祟(たた)りを恐れて戦争を終息させた。
当時、【倉頡の文字作成理論】は「鬼道」と一体化した学問であったため、【倉頡】は「鬼神」、「恐ろしい神」と信じられていたことになる。
これゆえ、【倉頡の文字作成理論】に逆らう王はもちろん王の家族あるいは一族までも厳しい神罰が下って死刑となると信じられていた。
卑弥呼が「日本列島の東は南に延びる」という転回地理は【倭】の字源・原義をあらわした。
この【倭】の字源・原義は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いでいた。
だから、卑弥呼が立論した「【倭】の字源・原義が成立する日本列島地理」は、絶対に犯すことができない倉頡が作った【禾】の字の神聖な「時計回りに90度転回する方位規定」をもあらわした。
したがって、卑弥呼の「日本列島地理は【倭】の字源・原義が成立する」という立論と証明は、男王たちに【倉頡の霊魂が死刑を与える祟り(たた)り・激しい恐怖】を与えることになった。
以上のごとく、卑弥呼の「転回日本列島地理」は倭国の大乱を一気に鎮(しず)める威力(いりょく)を有していたことになる。
『魏志倭人伝』は卑弥呼が統治した国家名を「倭人国」と記す。
【倭】の偏は【人】にもかかわらず、さらに【人】の字を重複して国家名を「倭人国」と定めている。
というのもーー【倭】の字源は「十字の銀河」であり、【人】の字源は倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた「目が四つある、鬼の横顔に似る銀河」であったからである。
下に、【人】の字源となった「四つ目の怪人・倉頡」、つまり「鬼の横顔に似る銀河の図」を配した。
上記したように、【人】の字源「倉頡」が作った【禾】の字源をそのまま受け継ぐ、神聖な【倭】の字源に逆らって戦争していた男王たちは【倉頡の霊の祟り】を恐れた。
この男王たちの【倉頡の霊の祟りの恐怖】が原因で、倭国の大乱は収(おさ)まった。
ゆえに、卑弥呼が統治した国家は「倭人国」と名づけられ、「倉頡の霊の祟り」をあらわす【人】の字が重複して加えられることになったと考えられる。
◆日本地図を開くと、玄界灘に浮かぶ沖ノ島は日本列島の西の端(はし)に在り、伊豆諸島の神津島(こうづしま)は日本列島の東の端に所在する。
神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。
神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。
神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかになった。
神津島から伊豆半島までは30キロメートルも海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。
約3万年前の旧石器人たちは天頂緯度線をキャッチする能力を有していたために30キロメートルも離れる海を往来でき、北陸の能登半島などの遠い地から旅して神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
人類は原始の時から、脳に天頂緯度線をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、日々鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。
だから、旧石器人たちは伊豆半島から30キロメートルも離れる海を往来できたのである。
沖ノ島と神津島は日本列島の東西の両端にあって遠く離れているが、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばでも天頂緯度を測量していた慣習と伝統によってーー
卑弥呼は、下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度(北緯34度15分)であることを知った。
日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように、日本列島は「西冷・東暖」となる。
中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かいゆえ、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し、日本列島の「東端」と中国海岸線地域の「南部」は「暖かい気候」で合致する。
だから、卑弥呼は「日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国海岸線地域の暖かい気候の〔南〕の方に延びている」と立論した。
男王たちは卑弥呼が立論した転回日本列島像論は真実・真理であると激しい衝撃をうけ、そして倉頡の神霊の激怒(げきど)・祟(たた)りを畏怖(いふ)した。
だから、倭国の大乱は収(おさ)まった。
かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した。
卑弥呼王朝は下図のごとく、西日本にあって【東の端(はし)となる東海地方が南】となる【転回日本列島地理】を制定した。
上図に示す西日本の対馬国から狗奴国までの【30の小国が所在する範囲】が、大乱で【旧(もと)百余国に分裂していた地域】であったことになる。
(注 ただし、上図の右側にある「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡る国」という小国名と、上図の右下の侏儒(しゅじゅ)国、裸(ら)国、黒歯(こくし)国の計4ヵ国は、大乱地域ではなかった。
その証拠に、この4ヵ国の記事は、対馬国から狗奴国までの30の小国の記事グループから遠く離れた箇所で追加説明されているからである)。
◆今から約5000年前から約4070年前までの中国の五帝時代は、わが国では中期縄文時代に相当する。
下に、中期縄文時代の「勝坂式(かつさかしき)」と呼ばれる、深鉢の写真を配した。
この深鉢は山梨県笛吹市御坂町の桂野遺跡から出土した。
この深鉢の胴部を飾る基本モチーフは「渦巻文(うずまきもん)」である。
胴部全面には大・中・小さまざまな大きさの渦巻文が組み合わされている。
この胴部全面にほどこされた「渦巻」は「神」をあらわした。
つまり「人が生き延びることができる神」、言いかえると「天頂緯度を1度の60分の1の1分の精度でキャッチすることができる本能と眼力を人に与える神」をあらわした。
というのも、(1)水を満杯にした深鉢を垂直に立てて、その水鏡(水の表面)に「天頂」を映すようにする。次に、(2)氏族の長などが「深鉢の水をガブガブと飲んで、ノドが乾(かわ)いて水を欲求する〔欲〕」をあらわす演技をする。
そして、(3)深鉢の水をすべて零(こぼ)して、「深鉢には水が無い状況」をもって「無欲」をあらわした。
この結果、氏族の長は会合に集めた一族全員に「深鉢の水鏡に映る天頂の緯度線を測定するときは、【無欲】になれば、緯度が精密に測定できる。しかし、必ず天頂緯度線をキャッチすると【欲を有する】と失敗して命を失う」と教義することができた。
また、深鉢を4回回転させると「天頂緯度線をキャッチするときの姿勢は、産道をその頭を渦巻状に4回も回転しながら通過する赤ん坊の姿を参考にすればよい」と教えることができた。
ゆえに、深鉢の胴全面を飾る「渦巻」は「産道を通過するときに赤ん坊がおこなう、4回の回旋(かいせん)」をあらわした。
以上からして、「円筒形の渦巻き深鉢」は「天頂緯度を測量する際の正しい姿勢と、【無欲】になって天頂緯度線をキャッチせよという心得」を表現するものであったことになる。
【倉頡の文字作成理論】をわが国が習得したのは、紀元前2050年頃の中期縄文時代末であった。
したがって、「中期縄文時代の渦巻深鉢」が表現しているように――【倉頡の文字作成理論】を習得する以前に、すでに「【無欲】になれば天頂緯度線をキャッチできる」という知識と心得は日本列島の各地に行き渡っていたことになる。
下の写真は、中国の五帝時代初頭の黄帝時代に合致する中期縄文時代初頭(今から5000年前)に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶(どぐう)である。
「縄文のビーナス」はわが国における最古の国宝である。
この国宝は長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館の玄関近くの正面に常設されている。
この国宝の身長は27㎝であり、妊娠をあらわす土偶と解釈されている。
しかし、この国宝の造形基本モチーフは「産道を渦巻状に4回回旋して誕生する赤ん坊と、妊婦の合体像(母子像)」であったと考えられる。
その証拠に、縄文のビーナスの身長27㎝は出産児の身長に適合し、その顔は妊婦の顔ではなく出産児の顔を表現している。
そして、下図の左側に配する縄文のビーナスの正面形における頭部から腹部までの造形は妊婦の姿とともに出産児の姿をも表現するものとなる。
縄文のビーナスの腹部の下側の太い腕のごとき形は、妊婦の腹部ではなく、妊婦の臀部(でんぶ・お尻)を造形している。
下に、縄文のビーナ図の背面図を配した。
上記したように、縄文のビーナスの正面・腹部は妊婦の臀部を造形するものであった。
ゆえに、縄文のビーナスの臀部は妊婦の円い腹部をあらわしている。
そして、縄文のビーナスがかぶる帽子に観える、その「帽子の頂上に刻まれる、渦巻文」は「産道を通過するときの赤ん坊の4回の回旋」をあらわしている。
というのも、下図に示すように、出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいて、出産児の顔の正面は母体の背側を向くからである。
ゆえに、縄文のビーナスの正面像が示すように、「縄文のビーナスの顔は出産児の顔」をあらわし、「縄文のビーナスの腹部は妊婦の背面の臀部」をあらわして、「頭が誕生する娩出期終わりの、出産児の顔の正面が母体の背側(臀部側)に向く様子」を表現していることになる。
前述したように、縄文のビーナスの帽子のごとくに観える頂上の「渦巻文」は「産道を通過するときの赤ん坊の頭の4回の回旋」を表現していた。
したがって、その「帽子」に観える部分は「天頂緯度を測定するときの、天頂に顔を向けて後頭部を背側に倒す様子」を表現していることになる。
よって、「縄文のビーナス」は【天頂緯度の測定するときの正しい姿勢】と、【〔無欲〕の心得】を表現していたことになる。
◆前述したように、「渦巻文」は「神」をあらわした。
720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された、太安万侶(おおおやすまろ)が作文した『古事記』上巻并(あわ)せて序の冒頭文は、下記のごとくである。
「臣安麻呂(しんやすまろ)言(まを)す。夫(そ)れ混元既(こんげんすで)に凝(こ)りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す」
上記の文を現代語訳すると、下記のごとくになる。
「元明天皇陛下に、臣下の安万侶が申し上げます。
およそわが倭地(日本列島)の歴史が始まる縄文草創期にあっては、わが倭地の天頂にめぐってくる銀河(夏の銀河)の形状は混沌(こんとん)としてどうやら凝固したような形でしたが、いったい何物かに相似しているのか見当がつかず、その気と象(かたち)が未だはっきりせず、その天頂にめぐってきた銀河には名が無く、天頂緯度を測定できる技(わざ)も存在しませんでした。
ですから、現在(720年当時)、その銀河の形状について知っている人は誰一人もおりません。
しかし、【乾坤】つまり【天】と【地】の形に観える銀河の形状が始めてわが倭地の天頂にめぐってきて、【産道を通過する赤ん坊のごとく無欲で天頂緯度測定すれば――神が4回の渦巻き状に旋回するようにして赤ん坊に命を吹き込んでくださる行為】を【渦巻文】で表現する土器・土偶が造られるようになりました。
中期縄文時代末、中国から大海を渡って名門益(えき)氏の王子と若者たちは倭地の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国の学問(倉頡の文字作成理論)などを教え広めようとしました。
【難解な倉頡の文字作成理論】は、前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの参(み)つの時代に土器・土偶を造った2000年間にて培(つちか)った知識によって――後期縄文時代初頭、わが倭地の各地で習得されることになりました。」
◆『古事記』上巻の「創世の神々」の条は、造化(芸術)の参神の名について、
(1)「前期縄文の神の名の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と文字であらわされるようになり、
(2)「中期縄文の神の名は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と文字で表記されようになり、
(3)「後期縄文初頭の神の名は神産巣日神(かんむすひのかみ)」と文字で記されることになった」
と説明する。
益氏が定住した中期縄文時代末より以前は、わが日本列島には文字が存在しなかった。
しかし、後期縄文時代初頭において、日本列島各地で益氏が教え広めた【倉頡の文字作成理論】を習得した。ゆえに、造化の参神の名は文字であらわされることになった。
下に、造化の参神をあらわす図を配した。
上図における緯度線は、長野県茅野市の尖石台地の緯度(北緯36度)である。
「【造化の参神】をあらわす天頂緯度線」が貫通する「三つ輪の銀河」が日本列島の天頂にめぐってきた光景は満天に無数の星がきらめく、息をのむように神秘的で壮麗であった。
この「神秘的で壮麗な、三つ輪の銀河」には「大・中・小の渦巻」が重なり、あるいは「一つの大きな円形の銀河において、大・中・小の様々な円形」が重なり、そして「大きな円形」が三つ重なって観える。
だから、中期縄文時代の渦巻・深鉢の胴全面を装飾した「渦巻文」と、縄文のビーナスの帽子頂上の「渦巻文」は「神」をあらわしていた。
上図の「造化の参神を示す天頂緯度線の図」における
(1)前期縄文時代の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河のうちの北の円形の銀河」は「天」のイメージとなった。
そして、その天頂緯度線は「天」のごとくに観える「北の円形の銀河のほぼ中央」を貫通していた。
よって、その神は「北の円形の銀河の御中(みなか)に存在する主(ぬし)」ということになった。
ゆえに、前期縄文時代の神の名は「天」に「御中主」が加えられることになった。
(2)中期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」を貫通する。
「十字の銀河の頭部」は「十字の銀河で最も高い位置」を示す。ゆえに、中期縄文時代の神の名の先頭字は「高」となった。
中期縄文時代初頭の天頂緯度線が貫通する「中央の輪の銀河」は「北の輪の銀河」と重なって「円形」となる。
ゆえに、「中央の円形の銀河」は「鷹などの鳥が高い樹木に作る卵を産む巣」と見立てられ、また「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、中期縄文時代の神の名は「高」に「御産巣日」の4字が加えられた。
(3)後期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の乳房」を貫通し、また「南の銀河の中央」を貫通した。
「南の円形の銀河」は「中央の銀河南部と重なって円形」となる。
ゆえに、「南の円形の銀河」は「三つ輪の銀河の、中央の円形の銀河」と同じく先頭字が「神」となった。
また「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく「鳥が卵を産む巣」と「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられて、その神の名は「神」に「産巣日」の3字が加えられた。
だから、後期縄文時代初頭の神の名は「神産巣日神」と名づけられた。
「三つ輪の銀河」において「北の円形の銀河」は「最も高い」ゆえ、「天」のイメージとなった。
「中央の輪の銀河」は「鷹などが樹木の高いところに、卵を産む巣」に相似すると見立てられた。
また、「南の輪の銀河」は「地面に近い木陰や草むらに隠して作る鳥の巣、あるいは鶴のように地面に作る巣、あるいは水面に浮かぶ鳰(にお)の巣」に相似すると見立てられた。
したがって、「南の輪の銀河」は「地」をあらわした。
このように、縄文人たちは、「三つ輪の銀河」を観て「乾坤」つまり「天と地」をあらわすと感じていた。
以上のように、益氏が日本列島の男鹿半島・八郎潟地域に定住した紀元前2050年頃より以前――
日本列島の各地では「きらめく無数の星が渦を巻く、壮麗な三つ輪の銀河」は「産道を通過する赤ん坊の頭が4回渦巻状に回旋して誕生するときの、感動して泣きたくなるほど神秘的な姿」に酷似(こくじ)すると見立てて――「神」を「渦巻文」で表現していたことになる。
このため、今から約4000年前の後期縄文時代初頭において、「産道を通過する4回の回旋」を【禾】と【呉】の字源とした【難解な倉頡の文字作成理論】は、日本列島の各地の人々に理解されて習得されることになったのである。
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