G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年5月

« 2024年4月 | トップページ | 2024年6月 »

2024年5月

2024年5月26日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・12

卑弥呼王朝は日本列島の東は南へ延びる
転回日本列島地理を制定した

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、
【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
ところが、現在、学者たちは「文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と憶測(おくそく)して断定する。
でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと証明した。

わが国における2世紀末~3世紀半ばの様子を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、
対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明によって、
【倉頡が発明した文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に解明できる仕組みになっている。
だから、倉頡伝説は事実を語っていたことになる。

 

上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬()かる銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、通称「天の川」、または一般的に「銀河」、あるいは「銀漢」などと呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
Ginga01_20240526104501

◆【夏の銀河の帯】は、様々な形状となって変化する。
倉頡は、上の写真の形式を【文字を作成するときの定形】と定めた。
上の写真は、「全体を長方形に区切った夜空に、【夏の銀河の帯は東北から西南へと延びている】。

下に、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)を長方形状に包囲する黄河上流地域の図を配した。
下図における【ムウス沙漠と黄土高原】は共に、上の【夏の銀河の写真】と同じく【東北から西南へ延びている】。
0000190_20240526104601

倉頡は、藤井旭氏が撮影した【夏の銀河の写真】にて示したように――【字形(文字を作成するときの形)は、夏の銀河の南を正面にして、左(左手側)は東・右(右手側)は西】と定めた。
また、倉頡は上図に示したように、【黄帝陵を包囲する長方形状の黄河上流地域の地理形式は黄帝陵の真北の包頭を正面にして、左は西・右は東】と定めた。
したがって、【左東・右西の銀河形式と左西・右東の地理形式の両者が東北から西南へ延びる形】を互いに一本の線にして合体すると、両者は【X】字形に交わる。

この【X】字形に交差する図書は、下図の右上に配する【爻(こう)】と【学】の字源・字形・原義となった。
【爻】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)における上下二つの【X】は「()ムウス沙漠と夏の銀河との交差と、()黄土高原と夏の銀河との交差」を表現している。
そして、【学】の上の【X】は「ムウス沙漠と黄土高原を一つに合体した形と、夏の銀河との交差」を表現している。
0000168_20240526104701

わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、【爻】の字源について、
「千木(ちぎ)のある建物の形。(中略)
卜辞(甲骨文字の文)においては爻を学の初文(最初の文字)として用いている。
学はメンズハウスで、一定の年齢のものがここに隔離されて生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。
千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」
と解説する。
また、白川静著『字統』は、【学】の字源について、
「もと屋上に千木のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)
卜文(甲骨文字)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」
と解説する。

上図に示したように、わが国の神社建築は屋根のむねの両端に【X】字形に交差させた木材の千木を取り付ける。
前述したようにーー『魏志倭人伝』の対馬国から狗奴国までの30の小国の記事によって、
わが国は【倉頡の文字作成理論】を習得していたことが詳細に具体的に組織的に証明することができる。
わが国には、名門益(えき)氏によって紀元前2050年頃に【倉頡の文字作成理論】がもたらされ、約50年後の紀元前2000年頃に【倉頡の文字作成理論】が習得された。
それゆえ、当然――「【倉頡の文字作成理論】が【爻】と【学】の字源・原義となった」と伝える【X】字形の「千木」が、わが国の神社の屋上に取り付けられることになったのである。

◆さらに、倉頡は【字形の形式】を下図の【犬】「オオカミ」の亜字形のごとくに定めた。
亜字形の【亜】は「墓(はか)」をあらわした。
長方形状に西から東へ水が流れる黄河上流地域において、
黄土高原に棲む【牛】の字源・ジャコウウシが、襲ってくる天敵のオオカミをオスのジャコウウシが角(つの)でひっかけ肩ごしにはね上げ、他のジャコウウシが前足で踏みつけて殺した。
ゆえに、下図の【犬】の亜字形は、ジャコウウシに殺されたオオカミの墓(黄土高原における死に場所)」を表現している。
0000194

前ページの「瀚海と黄帝陵と黄河上流地域の地図」に示したように、「ジャコウウシに踏みつけられてオオカミが死んだ黄土高原は東北から西南へと邪(なな)めに延びる」。
この「邪めの黄土高原」を、上図に示したように【犬】の字源「オオカミの死体」は「長方形状の黄河上流地域の東側半分に、【南北を縦】にして配置している」。
つまり、倉頡は「邪めの物」を「縦長に図案する」ように字形の型式を定めた。

だから、上図の右側に配した【犬】「オオカミの姿」の契文形は邪(なな)めに図案されず――左側に配した亜字形の【犬】「オオカミの姿」と同じく縦長にデザインされている。

◆今日の日本人における「命を失う」という心配は、様々にあるにちがいがーー
(
)重い癌(がん)を患(わずら)えば近いうちに命を失うであろう、()何かの原因で心臓が突然止まれば命を失うであろう ()酒に酔いスピード違反する人の車にはねられると、きっと命を失うであろう
と考える人々もいるにちがいない。

他方、今から約5000年前の黄帝時代の中国とわが日本列島の人々はじめ、今から約1800年前の卑弥呼時代の中国とわが国の人々は――
(
)天頂緯度線のキャッチに失敗したならば命を失う、()女性たちは産道を通過する子どもが出産できないと母子ともに命を失う、()日照りが続き食料が尽きて飢えると命を失う
と心配した。

ゆえに、上記した「人々の命を失うとおそれる、3つの心配の種(たね)」に注目して、
(
)「従来の方位規定(南を正面とする天理と、北を正面とする地理の方位規定)の他に、
倉頡は()【禾】と、()【呉】という、二つの新しい方位規定」を考案した。

黄帝時代より以前は、「黄帝陵の南を正面として左・東と右・西とする天理方位」と、「黄帝陵の北を正面として左西・右東とする地理方位」、
つまり「現在の東・西・南・北と同類の方位規定」であったにちがいない(ただし、現在と異なり、天の北極を「北」と定める基準点としなかった)
したがって、()黄河上流地域における「現在と同類の東・西・南・北」と、
倉頡が考案した()【禾】「時計回りに方位が90度転回する方位規定」と、
(
)【呉】「逆時計回りに方位が時計回りに転回する」という、
3種の方位規定は対立することになった。

つまり、上記した()黄河上流地域における「現在と同類の東・西・南・北」は人民たちが用いる、民間用の方位規定であった。
それに対し
(
)「【禾】と()【呉】の転回方位規定」は、学問(倉頡の文字作成理論)として確立された方位規定であった。

(
)「【禾】の方位規定」は「大王や王たちの権力者たちが、人民たちが飢えないように、豊かに禾(穀物)が実るように努力する政策(事業)」をあらわすことになった。
(
)「【呉】の方位規定」は「大王や王の権力者たちが、国土に多数の子どもが無事に出産するように努力する政策(事業)」をあらわすことになった。
だから、()【禾】と()【呉】の方位規定は政事(まつりごと)と、学問(倉頡の文字作成理論)にて用いられた方位規定であった。

◆上記したように――黄帝時代の人々は、
(
)天頂緯度線のキャッチに失敗したならば命を失う、
(
)女性たちは産道を通過する子どもが出産できないと母子ともに命を失う、
(
)日照りが続き食料が尽()きて飢えると命を失う
と常に心配していた。

上に記した「【()()()の三つの心配の種」を単一化して、倉頡は【禾】の字を作った。
また、「()()の二つの心配の種」を単一化して、倉頡は【呉】の字を作った。

黄帝時代、日々、人々は下図の右上に示す【亠(とう)】における天頂緯度線をキャッチして、緯度を1度の60分の1の1分の精度で測定していた。
0000157_20240526104901
下に、黄帝時代のおける、約4~6秒間の寸時に1分の精度で天頂緯度線をキャッチする人の姿勢を示した。
人は天を仰いで後頭部を首のほうに倒して顔をあげ、おなかを前へ丸くつき出して、【無欲】になって天頂緯度を測定した。
というのも、「天頂緯度線を必ずキャッチする」という【欲を有する】と、天頂緯度線のキャッチに失敗して自分が居る場所も方向も不明となって道に迷って命を失ったからである。
だから、天頂緯度線をキャッチする骨(こつ)は「【無欲】になれ」であった。
この「天頂緯度線を1分の精度で測定するときの姿勢」と、「【無欲】になれという骨(こつ)」はーー「産道を通過して頭が誕生するまでの出産児の姿」に酷似(こくじ)すると見立てられた。
というのも「産道を通過して頭が誕生するまでの赤ちゃんの様子」は【無欲】に観えたからである。
0000132_20240526105101

出産児の頭は骨盤入口面では横向きに入る。しかし入口部は骨盤内でいちばん狭(せま)い空間があるので、通常、赤ちゃんはアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。この【時計回りの90度の旋回(せんかい)】を、現在、産婦人科では【第1回旋(かいせん)】と呼ぶ。
骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・横向きへと方向を変えながら下降(かこう)する。この赤ちゃんの【逆時計回りの90度の旋回】を【第2回旋】と呼ぶ。
【第3回旋】は第2回旋と同じく【逆時計回りの90度の旋回】となって恥骨(ちこつ)をくぐりぬけるように赤ちゃんの頭が産道から誕生する。
最後の【第4回旋】は【第1回旋】と同じく【時計回りの90度の旋回】となる。

このように、出産児の頭が骨盤入口を通りぬけてから頭が誕生するまでに、4回の回旋がおこなわれる。
この【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて頭が誕生するまでの4回の回旋】は、実際に膣口(ちくこう)から見える。
ゆえに、出産する光景を日常的に間近(まぢか)に見ていた古代の人々は【出産児の頭の、神秘的で感動的な骨盤入口から膣口(ちつこう)までの、命が誕生する4回の回旋】を知っていたのである。

上記したようにーー【第1回旋と第4回旋】は【時計回りに90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの90度の旋回】となる。

倉頡は、「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字を作った。
倉頡は「赤ちゃんが産道を通過して頭が誕生して【命】を得るまでの様子」と「【命】を得るために天頂緯度線を測定するときの骨(こつ)」が【無欲】で共通するゆえーー倉頡は【禾】と【呉】を作った。
だから、倉頡は【禾】と【呉】と名づけた【2種類の方位規定】は【学問(倉頡の文字作成理論)における定義】となった。

したがって、『魏志倭人伝』における「倭人国」という国名に用いられる【倭】の字源・原義は、倉頡が作った【禾】の字と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」であった。
だから、【倭】の字は学問上において「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
いっぽう、人民たちの方位規定は天の北極を方位規定の基準点とするものではなかったが、現在の東・西・南・北と共通することになった。

◆倉頡はみずから考案した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はもちろん、その家族および一族全員をも死刑にする」と定めた。
したがって、現在、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河各部の名称】が無いと、非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240526105201
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図が示すように、黄帝時代、北緯3535分の黄帝陵の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯3130分の長江口(長江の河口)中央を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。
0000159_20240526105301

したがって、「十字の銀河」は「中国全土の各地の天頂」にめぐってきた。
この「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央」に倉頡は「禾()の形の図書」を重ねて、【長江口周辺地域で育つ禾の穂】を「十字の銀河の両足」がある「南」(すなわち、長江口の天頂周辺となる南)に配した。
そして、その「十字の銀河の南にある禾の穂」は「鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」がある「西」へと垂れると定めた。
これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
K423

上図における「禾の穂」は「稲の穂に実る米を炊いた飯(めし)を食べるの人の口」に相似すると見立てられた「鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」の方に垂れる。
これゆえ、この様子は、倉頡伝説に登場する「天は祝福して禾(穀物)を降らせた」という文に適合して、
「天(十字の銀河)」から「禾の穂になる実の米」が「人の横顔の口へと降る様子」を示している。

「十字の銀河」には「子宮」に相当する銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「女体。女性」に見立てられた。
ゆえに、【禾】の下に【女】が加えられて【委】の字が作られた。
また「十字の銀河」は「男性」にも相似し、あるいは「人の姿」にも相似する。
ゆえに、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
だから、【委】と【倭】の字は【禾】と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

下図における【呉】の上部の【口】の字義は「食物を食べる口(くち)」ではない。
【呉】の上部の【口】の字音は「さい」である。
この【口(さい)】は「子どもの誕生を祈願し、子どもの出産を祝う、つまり祝祷(しゅくとう)するときに用いる土器」を図案するものであった。
したがって、下図の【呉】の字は「祝祷に用いる【口(さい)】を右側の肩の上方に挙()げて、巫女(みこ)が身をくねらして舞う形」で、「巫女が子どもの出産の祈祷する儀式」をあらわし、また「骨盤入口から産道を4回も回旋しながら頭が誕生する、子どもの出産を祝福して巫女が舞う様子」をあらわした。

前述したようにーー倉頡は【呉】の字で「逆時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
だから、下図の上部に示したように、【口(さい)】は「北(十字の頭部)」から「西(十字の銀河の肩の上)」に移動する形となった。
下図の下部に示した【口(さい)】の「南(十字の銀河の両足)」から「東」への「逆時計回りに90度転回する方位規定」は「呉地における南から東にある大海にて子どもが誕生すること」になる。
だから、この図案は不合理ということで、【呉】の【口(さい)】は「十字の銀河の肩の上」に配置された。
K433_20240526105501

◆そして、倉頡は下図に示すように、中国海岸線のほぼ中央に河口がある淮河(わいがわ)で中国全土を北部と南部に分けーー「北部地方」は【禾】と名づけ、「南部地方」は【呉】と名づけた。
000030_20240526105501  

卑弥呼は、『魏志倭人伝』の記事にもとづくと、多分、240年頃に死去したにちがいない。
ということは、卑弥呼は中国の三国時代(220264)に生存していたことになる。
三国時代は下図に示すように、魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)していた。
S212

【委】に卑弥呼が祭った「鬼道」の【鬼】を加えると、【魏】という字になる。
ゆえに、その偏【委】が示すように、「魏」は「時計回りに90度転回する方位規定の国」であった。
【呉】は、「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、「呉」は、当然、「逆時計回りに90度転回する方位規定の国」であった。
「蜀(しょく)」の正式国名は「漢」であった。【漢】は「銀漢」つまり「夏の銀河」をあらわした。
だから、漢()でも、魏・呉と同じく【倉頡の文字作成理論】が保存されていた。

◆『後漢書』倭伝には「桓(かん)・霊(れい)の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐(あいこうばつ)し、歴年主(れきねんしゅ)無し」という記事がある。
つまり、倭国は後漢第11代の桓帝(147167)と第12代の霊帝(168188)の頃に大乱(たいらん)したことになる。
『魏志倭人伝』にも「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事がある。

ということは――『後漢書』倭伝によると、倭国の大乱は167年~168年頃に始まったことになる。
『魏志倭人伝』の記事における最終年の250年頃であるゆえ、『魏志倭人伝』にもとづくと倭国の大乱は約80年前の170年頃に始まったことになる。
これゆえ、倭国の大乱は167年~170年頃に始まったと考えられる。
倭国の大乱について、『後漢書』倭伝は「歴年主無し」と説明し、『魏志倭人伝』は「相攻伐して年を歴」と説明する。
ゆえに、倭国の大乱は数年間も続いたことになる。

ところが、『魏志倭人伝』が伝えるように、卑弥呼によって、倭国の大乱は終息(しゅうそく)した。
上記した『魏志倭人伝』の文は「乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰う」と記しているからである。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭国最高位の女王に選ばれ、卑弥呼と男王のトップ(大王)が共に立つ国家と王朝が創設された」と説明していたことになる。

『魏志倭人伝』は冒頭にて「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。(中略)。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」と説明する。
卑弥呼が統治した対馬国から狗奴国までの小国の数は30である。
この30の小国が「使訳通ずる所三十国」である。
この「使訳通ずる所三十国」は「倭の使者の言や彼らが用いる夏音文字を、魏の外交官や帯方郡の役人たちが訳して通ずることができる三十国」ということになる。
だから、倭女王・卑弥呼は大乱で【百余国に分裂していた状況】を、【整理して三十の小国にまとめた】ことになる。

上記した『後漢書』倭伝と『魏志倭人伝』の倭国の大乱記事にもとづくと、
倭国の大乱が始まってから数年後に――卑弥呼は「日本列島の東は南に延びる」と立論したことになる。
というのも、『魏志倭人伝』は「日本列島の本州の東は南に延びる」と記述しているからである。
また「東が南になる、時計回りの90度転回する方位規定」は【倭】の字源をあらわす。
だから、卑弥呼は「日本列島の本州の東は南に延びて【倭】の字源が成立する状況」を証明する「転回日本列島地理」を立論したことになる。

以上からして、卑弥呼が立論した【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理」を知った男王たちは戦争を終結(しゅうけつ)させたと考えるべきことになる。
男王たちは「日本列島地理が【倭】の字源を成立する状況」も知らずに殺し合っていた。
しかし、日本列島における本州全土地理が【倭】の字源をあらわす事実を知った男王たちは、【神と崇(あが)めた倉頡】の厳(きび)しい祟(たた)りを恐れて戦争を終息させた。

当時、【倉頡の文字作成理論】は「鬼道」と一体化した学問であったため、【倉頡】は「鬼神」、「恐ろしい神」と信じられていたことになる。
これゆえ、【倉頡の文字作成理論】に逆らう王はもちろん王の家族あるいは一族までも厳しい神罰が下って死刑となると信じられていた。
卑弥呼が「日本列島の東は南に延びる」という転回地理は【倭】の字源・原義をあらわした。
この【倭】の字源・原義は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いでいた。
だから、卑弥呼が立論した「【倭】の字源・原義が成立する日本列島地理」は、絶対に犯すことができない倉頡が作った【禾】の字の神聖な「時計回りに90度転回する方位規定」をもあらわした。

したがって、卑弥呼の「日本列島地理は【倭】の字源・原義が成立する」という立論と証明は、男王たちに【倉頡の霊魂が死刑を与える祟り(たた)り・激しい恐怖】を与えることになった。
以上のごとく、卑弥呼の「転回日本列島地理」は倭国の大乱を一気に鎮(しず)める威力(いりょく)を有していたことになる。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が統治した国家名を「倭人国」と記す。
【倭】の偏は【人】にもかかわらず、さらに【人】の字を重複して国家名を「倭人国」と定めている。
というのもーー【倭】の字源は「十字の銀河」であり、【人】の字源は倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた「目が四つある、鬼の横顔に似る銀河」であったからである。
下に、【人】の字源となった「四つ目の怪人・倉頡」、つまり「鬼の横顔に似る銀河の図」を配した。
00009_20240526105801

上記したように、【人】の字源「倉頡」が作った【禾】の字源をそのまま受け継ぐ、神聖な【倭】の字源に逆らって戦争していた男王たちは【倉頡の霊の祟り】を恐れた。
この男王たちの【倉頡の霊の祟りの恐怖】が原因で、倭国の大乱は収(おさ)まった。
ゆえに、卑弥呼が統治した国家は「倭人国」と名づけられ、「倉頡の霊の祟り」をあらわす【人】の字が重複して加えられることになったと考えられる。

◆日本地図を開くと、玄界灘に浮かぶ沖ノ島は日本列島の西の端(はし)に在り、伊豆諸島の神津島(こうづしま)は日本列島の東の端に所在する。

神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。

神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。
神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかになった。
神津島から伊豆半島までは30キロメートルも海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。
約3万年前の旧石器人たちは天頂緯度線をキャッチする能力を有していたために30キロメートルも離れる海を往来でき、北陸の能登半島などの遠い地から旅して神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。

人類は原始の時から、脳に天頂緯度線をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、日々鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。
だから、旧石器人たちは伊豆半島から30キロメートルも離れる海を往来できたのである。

沖ノ島と神津島は日本列島の東西の両端にあって遠く離れているが、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばでも天頂緯度を測量していた慣習と伝統によってーー
卑弥呼は、下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度(北緯3415)であることを知った。
K202_20240526105901

日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように、日本列島は「西冷・東暖」となる。
中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かいゆえ、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し、日本列島の「東端」と中国海岸線地域の「南部」は「暖かい気候」で合致する。
だから、卑弥呼は「日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国海岸線地域の暖かい気候の〔南〕の方に延びている」と立論した。
K201_20240526110001

男王たちは卑弥呼が立論した転回日本列島像論は真実・真理であると激しい衝撃をうけ、そして倉頡の神霊の激怒(げきど)・祟(たた)りを畏怖(いふ)した。
だから、倭国の大乱は収(おさ)まった。
かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した。
卑弥呼王朝は下図のごとく、西日本にあって【東の端(はし)となる東海地方が南】となる【転回日本列島地理】を制定した。
K274_20240526110101
 
上図に示す西日本の対馬国から狗奴国までの【30の小国が所在する範囲】が、大乱で【旧(もと)百余国に分裂していた地域】であったことになる。
(
注 ただし、上図の右側にある「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡る国」という小国名と、上図の右下の侏儒(しゅじゅ)国、裸()国、黒歯(こくし)国の計4ヵ国は、大乱地域ではなかった。
その証拠に、この4ヵ国の記事は、対馬国から狗奴国までの30の小国の記事グループから遠く離れた箇所で追加説明されているからである)

◆今から約5000年前から約4070年前までの中国の五帝時代は、わが国では中期縄文時代に相当する。
下に、中期縄文時代の「勝坂式(かつさかしき)」と呼ばれる、深鉢の写真を配した。
この深鉢は山梨県笛吹市御坂町の桂野遺跡から出土した。
Photo_20240526110201
この深鉢の胴部を飾る基本モチーフは「渦巻文(うずまきもん)」である。
胴部全面には大・中・小さまざまな大きさの渦巻文が組み合わされている。
この胴部全面にほどこされた「渦巻」は「神」をあらわした。
つまり「人が生き延びることができる神」、言いかえると「天頂緯度を1度の60分の1の1分の精度でキャッチすることができる本能と眼力を人に与える神」をあらわした。

というのも、()水を満杯にした深鉢を垂直に立てて、その水鏡(水の表面)に「天頂」を映すようにする。次に、()氏族の長などが「深鉢の水をガブガブと飲んで、ノドが乾(かわ)いて水を欲求する〔欲〕」をあらわす演技をする。
そして、()深鉢の水をすべて零(こぼ)して、「深鉢には水が無い状況」をもって「無欲」をあらわした。

この結果、氏族の長は会合に集めた一族全員に「深鉢の水鏡に映る天頂の緯度線を測定するときは、【無欲】になれば、緯度が精密に測定できる。しかし、必ず天頂緯度線をキャッチすると【欲を有する】と失敗して命を失う」と教義することができた。
また、深鉢を4回回転させると「天頂緯度線をキャッチするときの姿勢は、産道をその頭を渦巻状に4回も回転しながら通過する赤ん坊の姿を参考にすればよい」と教えることができた。
ゆえに、深鉢の胴全面を飾る「渦巻」は「産道を通過するときに赤ん坊がおこなう、4回の回旋(かいせん)」をあらわした。
以上からして、「円筒形の渦巻き深鉢」は「天頂緯度を測量する際の正しい姿勢と、【無欲】になって天頂緯度線をキャッチせよという心得」を表現するものであったことになる。

【倉頡の文字作成理論】をわが国が習得したのは、紀元前2050年頃の中期縄文時代末であった。
したがって、「中期縄文時代の渦巻深鉢」が表現しているように――【倉頡の文字作成理論】を習得する以前に、すでに「【無欲】になれば天頂緯度線をキャッチできる」という知識と心得は日本列島の各地に行き渡っていたことになる。

下の写真は、中国の五帝時代初頭の黄帝時代に合致する中期縄文時代初頭(今から5000年前)に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶(どぐう)である。
「縄文のビーナス」はわが国における最古の国宝である。
この国宝は長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館の玄関近くの正面に常設されている。
この国宝の身長は27㎝であり、妊娠をあらわす土偶と解釈されている。
Photo_20240526110401

しかし、この国宝の造形基本モチーフは「産道を渦巻状に4回回旋して誕生する赤ん坊と、妊婦の合体像(母子像)」であったと考えられる。
その証拠に、縄文のビーナスの身長27㎝は出産児の身長に適合し、その顔は妊婦の顔ではなく出産児の顔を表現している。
そして、下図の左側に配する縄文のビーナスの正面形における頭部から腹部までの造形は妊婦の姿とともに出産児の姿をも表現するものとなる。
縄文のビーナスの腹部の下側の太い腕のごとき形は、妊婦の腹部ではなく、妊婦の臀部(でんぶ・お尻)を造形している。
S285

下に、縄文のビーナ図の背面図を配した。
上記したように、縄文のビーナスの正面・腹部は妊婦の臀部を造形するものであった。
ゆえに、縄文のビーナスの臀部は妊婦の円い腹部をあらわしている。
そして、縄文のビーナスがかぶる帽子に観える、その「帽子の頂上に刻まれる、渦巻文」は「産道を通過するときの赤ん坊の4回の回旋」をあらわしている。
0000156_20240526110601

というのも、下図に示すように、出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいて、出産児の顔の正面は母体の背側を向くからである。
ゆえに、縄文のビーナスの正面像が示すように、「縄文のビーナスの顔は出産児の顔」をあらわし、「縄文のビーナスの腹部は妊婦の背面の臀部」をあらわして、「頭が誕生する娩出期終わりの、出産児の顔の正面が母体の背側(臀部側)に向く様子」を表現していることになる。
K154_20240526110701

前述したように、縄文のビーナスの帽子のごとくに観える頂上の「渦巻文」は「産道を通過するときの赤ん坊の頭の4回の回旋」を表現していた。
したがって、その「帽子」に観える部分は「天頂緯度を測定するときの、天頂に顔を向けて後頭部を背側に倒す様子」を表現していることになる。
よって、「縄文のビーナス」は【天頂緯度の測定するときの正しい姿勢】と、【〔無欲〕の心得】を表現していたことになる。

◆前述したように、「渦巻文」は「神」をあらわした。
720
年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された、太安万侶(おおおやすまろ)が作文した『古事記』上巻并(あわ)せて序の冒頭文は、下記のごとくである。
「臣安麻呂(しんやすまろ)(まを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」

上記の文を現代語訳すると、下記のごとくになる。
「元明天皇陛下に、臣下の安万侶が申し上げます。
およそわが倭地(日本列島)の歴史が始まる縄文草創期にあっては、わが倭地の天頂にめぐってくる銀河(夏の銀河)の形状は混沌(こんとん)としてどうやら凝固したような形でしたが、いったい何物かに相似しているのか見当がつかず、その気と象(かたち)が未だはっきりせず、その天頂にめぐってきた銀河には名が無く、天頂緯度を測定できる技(わざ)も存在しませんでした。
ですから、現在(720年当時)、その銀河の形状について知っている人は誰一人もおりません。
しかし、【乾坤】つまり【天】と【地】の形に観える銀河の形状が始めてわが倭地の天頂にめぐってきて、【産道を通過する赤ん坊のごとく無欲で天頂緯度測定すれば――神が4回の渦巻き状に旋回するようにして赤ん坊に命を吹き込んでくださる行為】を【渦巻文】で表現する土器・土偶が造られるようになりました。
中期縄文時代末、中国から大海を渡って名門益(えき)氏の王子と若者たちは倭地の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国の学問(倉頡の文字作成理論)などを教え広めようとしました。
【難解な倉頡の文字作成理論】は、前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの参()つの時代に土器・土偶を造った2000年間にて培(つちか)った知識によって――後期縄文時代初頭、わが倭地の各地で習得されることになりました。」

◆『古事記』上巻の「創世の神々」の条は、造化(芸術)の参神の名について、
(
)「前期縄文の神の名の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と文字であらわされるようになり、
(
)「中期縄文の神の名は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と文字で表記されようになり、
(
)「後期縄文初頭の神の名は神産巣日神(かんむすひのかみ)」と文字で記されることになった」
と説明する。
益氏が定住した中期縄文時代末より以前は、わが日本列島には文字が存在しなかった。
しかし、後期縄文時代初頭において、日本列島各地で益氏が教え広めた【倉頡の文字作成理論】を習得した。ゆえに、造化の参神の名は文字であらわされることになった。

下に、造化の参神をあらわす図を配した。
S923

上図における緯度線は、長野県茅野市の尖石台地の緯度(北緯36)である。
「【造化の参神】をあらわす天頂緯度線」が貫通する「三つ輪の銀河」が日本列島の天頂にめぐってきた光景は満天に無数の星がきらめく、息をのむように神秘的で壮麗であった。
この「神秘的で壮麗な、三つ輪の銀河」には「大・中・小の渦巻」が重なり、あるいは「一つの大きな円形の銀河において、大・中・小の様々な円形」が重なり、そして「大きな円形」が三つ重なって観える。
だから、中期縄文時代の渦巻・深鉢の胴全面を装飾した「渦巻文」と、縄文のビーナスの帽子頂上の「渦巻文」は「神」をあらわしていた。

上図の「造化の参神を示す天頂緯度線の図」における
(
)前期縄文時代の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河のうちの北の円形の銀河」は「天」のイメージとなった。
そして、その天頂緯度線は「天」のごとくに観える「北の円形の銀河のほぼ中央」を貫通していた。
よって、その神は「北の円形の銀河の御中(みなか)に存在する主(ぬし)」ということになった。

ゆえに、前期縄文時代の神の名は「天」に「御中主」が加えられることになった。

(2)中期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」を貫通する。
「十字の銀河の頭部」は「十字の銀河で最も高い位置」を示す。ゆえに、中期縄文時代の神の名の先頭字は「高」となった。
中期縄文時代初頭の天頂緯度線が貫通する「中央の輪の銀河」は「北の輪の銀河」と重なって「円形」となる。
ゆえに、「中央の円形の銀河」は「鷹などの鳥が高い樹木に作る卵を産む巣」と見立てられ、また「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、中期縄文時代の神の名は「高」に「御産巣日」の4字が加えられた。

(
)後期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の乳房」を貫通し、また「南の銀河の中央」を貫通した。
「南の円形の銀河」は「中央の銀河南部と重なって円形」となる。
ゆえに、「南の円形の銀河」は「三つ輪の銀河の、中央の円形の銀河」と同じく先頭字が「神」となった。
また「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく「鳥が卵を産む巣」と「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられて、その神の名は「神」に「産巣日」の3字が加えられた。
だから、後期縄文時代初頭の神の名は「神産巣日神」と名づけられた。

「三つ輪の銀河」において「北の円形の銀河」は「最も高い」ゆえ、「天」のイメージとなった。
「中央の輪の銀河」は「鷹などが樹木の高いところに、卵を産む巣」に相似すると見立てられた。
また、「南の輪の銀河」は「地面に近い木陰や草むらに隠して作る鳥の巣、あるいは鶴のように地面に作る巣、あるいは水面に浮かぶ鳰(にお)の巣」に相似すると見立てられた。
したがって、「南の輪の銀河」は「地」をあらわした。
このように、縄文人たちは、「三つ輪の銀河」を観て「乾坤」つまり「天と地」をあらわすと感じていた。

以上のように、益氏が日本列島の男鹿半島・八郎潟地域に定住した紀元前2050年頃より以前――
日本列島の各地では「きらめく無数の星が渦を巻く、壮麗な三つ輪の銀河」は「産道を通過する赤ん坊の頭が4回渦巻状に回旋して誕生するときの、感動して泣きたくなるほど神秘的な姿」に酷似(こくじ)すると見立てて――「神」を「渦巻文」で表現していたことになる。

このため、今から約4000年前の後期縄文時代初頭において、「産道を通過する4回の回旋」を【禾】と【呉】の字源とした【難解な倉頡の文字作成理論】は、日本列島の各地の人々に理解されて習得されることになったのである。

| | コメント (0)

2024年5月16日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・11

新井白石から始まる300年続く邪馬台国説は
【原始から続く科学】に反する空理空論である

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
現在、学界は「漢字を発明したと伝える、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」で証明したように、「倉頡伝説は荒唐無稽である」という定説は学者たちの早合点(はやがって)による憶説(おくせつ)であった。

倉頡は【夏の銀河の各部の形状から文字を作る理論(方法)】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXYA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240516130701

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が1回~10回まで繰り返して指摘しているように、また前回(10)で証明したように、
倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「邪馬台国について説明する史料」ではない。
というのも、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都は、邪馬壹())国」と記しているからである。
また、『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しない。
「邪馬壹()国が正しく、邪馬臺()国は偽り・空想である証明」は、このブログ「漢字の起源とは発明を解明す」では、多分、2ヵ月後の7月にて詳細に具体的におこなう予定である。

『魏志倭人伝』に登場する「対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明」は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を後世に伝える、最も貴重な文献であった。

江戸中期に生存した新井白石(16571725)から約300年後の、現在の学者たちは、『魏志倭人伝』に幾つかの誤読を加え、その誤読で成立させた意見を誇示(こじ)して、「『魏志倭人伝』は邪馬臺()国について説明する書物である」という幻想を、日本国民が信じるように騙し続けている。

◆『魏志倭人伝』の記事を、【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて素直に読むとーー東へ延びているはずの日本列島の本州は南の方に延びていることになる。
そして、『魏志倭人伝』は初頭で、「対馬国の南の一海を渡る千余里して、一大国がある」と説明する。
対馬国は現在の長崎県北部にある対馬であり、一大国は対馬の南にある壱岐(いき)であった。

ゆえに、対馬国・北と一大国・南と定める方位規定は現在の日本地図の南北に合致する。
このため、学者たちはじめ多数の研究者たちは「対馬国と一大国の南北関係からして、東が南となるはずがない。だから、日本列島の本州は東ではなく南へ延びるという説明は誤っている」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』の「本州は東ではなく、南に延びる」という説明は、【倉頡の文字作成理論】を伝えるもので――【倭】の字源にもとづく卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理を語るものであった。

だから、『魏志倭人伝』においてはーー【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】を正当性の盾(たて)・つまり理由にする思考方法は、まったく通用しない。

◆邪馬台国説学者たちはまったく気づいていないが――【現在の日本地図のごとく、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方法】だと、倭人国の使者たちは魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏都の洛陽(らくよう)に到着できなくなる。
したがって、邪馬台国沖縄説の場合、倭の使者たちや船乗りたちは大海を越えて帯方郡や魏都に到着できなかったために、魏と国交を結べなかったことになる。
倭人国は魏と国交を結べなかったということは、魏は倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。
そうすると、約2000字で構成された『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

2000字の『魏志倭人伝』は1字も文字が記されていなかった白紙に化けるという話は、まさにキツネにつままれるデタラメであり、空理空論ということになる。

さらに、『魏志倭人伝』における
「古(いにしえ)より以来、倭人国の使者が中国に詣(いた)るに皆自らを大夫(だいふ)と称した」という記事はじめ、
「倭人国の外相(外務大臣)の難升米(なしめ)は大海を渡って魏都に到着し、後年、倭人国に帰国していた」という説明と、また
「倭の載斯烏越(そしあお)は大海を渡って帯方郡に到着して、倭国における相攻撃(あいこうげき)し合う内乱の様子を説明して、倭人国に帰国した」という説明と、あるいは
「倭の掖邪狗(ややこ)等二十人は魏都・洛陽に到着した」という説明などは
すべてまったくウソであったことになる。
しかし、このような「倭の使者たちは大海を渡ることができなかった」という状況が事実であったとしたならば、
前述したように2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が記されなかった白紙であったことになりーーこのような結果は絶対に信じることはできない。
ゆえに、この点からしても邪馬台国学者たちの意見は空理空論であったと確信できる。

◆上記したように――【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、倭人国の使者たちや使者たちと行動を共にした船乗りたちは、帯方郡と魏を隔(へだ)てる大海を往来することができないことになる。
というのも、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと「倭人国の使者たちと船乗りたちは大海を往来できなかった」という事実が――下図の「歳差状況図(天の北極の位置図)」によって明確に証明することができるからである。

緯度を測る簡単な方法は、天の北極を中心に円を描く北極星のかたよりをキャッチして地平線(水平線)から天の北極までの高度を計測する方法である。
天の北極の高度が3535分ならば、その観測地点は北緯3535分ということになる。
しかし、この方法だと、原始や古代には精密に北極星のかたよりを計測できる器具がなかったので――原始や古代の人々には、北極星のかたよりが精密に測量することができなかった。
原始や古代の人々が大海を往来して生存していくためには、【1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測ることができなければならなかった】。
K51_20240516130801

上図が示すように、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790(中国の五帝時代)のりゅう座α星と、現在から約76年後の西暦2100年頃のこぐま座α星である。
上記した二つの北極星が天の北極を中心として描く円の直径は1.5(90分・満月の3個分)である。
ゆえに、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極の高度)をキャッチすることになるが――この方法では【人間の目は命を失わずにすむ、1度の60分の1の1分の精度】で測定することはできない。
したがって、北極星のかたよりで天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、人々は旅先で命を絶った。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使者たちは出港してまもなく、大海にて命を失った。
だから、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、『魏志倭人伝』は字が1字も記されていない白紙であったことになる。

上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10度離れていた。
ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約20度つまり1200分の円を描いていたことになる。
直径が約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置(高度)は命を失わずにすむ1分の精度で測量することは、人間の目では不可能である。
だから、原始や古代においては、遠くの地に旅して家族が待つ故郷に帰還するときや大海を往来するときに、人々が天の北極の高度を緯度に換算する方法では命を失うことになった。

このように、【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて、「『魏志倭人伝』の日本列島の東は南へ延びる地理は完全に間違っている」という主張・意見は【原始から続いた科学】、
いいかえると【『魏志倭人伝』が説明する卑弥呼時代の真実や事実を解明するために必ず前もって知っていなければならない根本的な科学】に反する空理空論ということになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』が「日本列島の東は南に延びる」と説明する転回日本列島地理には真実のカケラもない雲をつかむような作り話であると結論づけてしまうことは断じてできない。

◆下図は、【天頂点(てんちょうてん)と天頂緯度線】についての説明図である。
【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【観測者にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
0000157_20240516130901

上図に示した、銀河部位が天頂点に接近して西から東へ進む軌道は、「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」となる。
この「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」を4秒から6秒間でキャッチすると、【1度の60分の1の1分の精度】で緯度が測定できた。
原始のときから、人間の目には日々鍛錬すると【1分の精度で緯度がキャッチできる能力】を有することができ、人間の脳には「【亠】をキャッチすれば命を失わずに生存することができると感知して行動する本能」がそなわっていた。

1度の60分の1の1分の精度で緯度を測る方法は、天頂点と重なる銀河部位の運行(軌道)において最も高くなって平らな【一】の線となる天頂緯度線を寸時(4秒~6秒の間)にキャッチすればーー1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できる。
天頂緯度線の中央の天頂点は、【重力の方向を上方にのばして天球と交わる天頂点の角度をあらわす度数(距離)】となる。
ゆえに、天頂点と天頂緯度線の度数は、天の赤道から天頂点までの角距離である。
天頂緯度線をキャッチする観測地点は、地球の赤道からの角距離である。
地球の赤道の天頂は、天の赤道となる。
だから、観測地点の角距離と天頂点の角距離は同一となる。
この「緯度の測定の方法」は「赤道座標」と呼ばれ、「北緯」は「+赤緯(プラスせきい)」と表現される。

つまり、「地球の赤道より北の北半球の3535分の地の緯度」は「+赤緯(せきい)3535分」であり、「地球の赤道より北の北半球の3130分の地の緯度」を「+赤緯3130分」である。
だから、【赤道座標の方法】を用いると、人類は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた。

卑弥呼が統治した倭人国では【天の北極や北極星を緯度の測定の基準点】とせずに、【赤道座標における天頂点を緯度の測定の基準点とし、天頂緯度線を緯度の測定の基準線】とした。
ゆえに、【天頂緯度線をキャッチして緯度を測定していた卑弥呼王朝】は、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「日本列島の本州は東に延びずに、南へ延びている」と考えたのである。
ゆえに、卑弥呼王朝は「方位が時計回りに90度転回して東が南となる本州地図」を制定した。
以上のごとく、【『魏志倭人伝』の「日本列島は東に延びずに、南へ延びる」と説明する転回日本列島地理】は【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。

◆人類は【1度の60分の1の1分の緯度差を測定することができる、天頂緯度線をキャッチする方法】を、食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から受け継いだ。
というのも、人類は本能的に、【亠】の字源「天頂緯度線・天頂点・子午線」をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有し、そして【亠】をキャッチする技(わざ)を工夫(くふう)して磨いた。
だから、原始のときから卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばまで、人々は1分の精度で緯度が測定できた。

この【亠】をキャッチする能力(眼力)をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれた原始時代やまた氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において絶滅したことになる。
人類が滅びなかったのは、【亠】をキャッチできる能力が目に、【亠】をキャッチしようとする本能(本能行動)が頭脳にそなわっていたからである。

原始から卑弥呼時代まで、遠くの地を旅して家族が待つ家に帰還する人々や大海を往来した人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を測定する方法は【亠】のキャッチのみ、ただ一つであった。

北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法では、人類は原始の時にすでに絶滅していたことになる。
このように、原始から卑弥呼時代までは、「天の北極」は「緯度の測定の基準点」にはならなかったので、「天の北極」は「方位規定の基準点」にもならなかったのである。
卑弥呼時代は、「天頂点」が「緯度測定の基準点」であり、「天頂緯度線」が「緯度測定の基準線」であった。
これが原因で、卑弥呼は「日本列島の本州は東ではなく南に延びている」と考えた。
また、【倉頡の文字作成理論】の学芸を取得した倭人国の王たちや女王たちは卑弥呼が立論した「日本列島は東ではなく南に延びる転回倭地理」を真実と考えた。

◆上記した「日本列島の本州が時計回り90度回転して東が南となる方位規定」は、倉頡が作った【禾()】「稲(いね)」の字源・原義となった。
【禾】の下に【女】が加わる【委()】の字源・原義も、また【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭()】の字源も「方位が時計回りに90度回転して、北→東・東→南・南→西・西→北に変位すると定まる方位規定」であった。
だから、『魏志倭人伝』の「日本列島の東は南へ延びる」という説明は、倉頡が作った【禾】の字源・原義を伝えるものであり、結局(けっきょく)、【倉頡が発明した文字作成理論】を語っていたことになる。

【学】の字源、「学問」の語源は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「日本列島は東ではなく南に延びる」という地理は「学問における定理」をあらわしていた。
だから、時計回りに90度転回して「東が南になる」という方位規定は、「民間における方位規定」、つまり「通常の方位規定」ではなかった。

倉頡は、下に示す3つの掟(おきて)を定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろんその家族そして一族全員をも死刑にする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

したがって、五帝時代に作られた文字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音(かおん)文字、殷代(いんだい)前半期の漢字は、
【神々の名】や、【物の名(鳥や獣の名、諸々の事象・事物の名)】や、【国名】や、【地名】、【氏族名】などで残ることになった。
つまり、五帝時代・夏代・殷代前半期の漢字は【神々の名】、【物の名】、【国名】、【地名】、【氏族名】などをあらわす、厳重な秘密にまもられる文字であったので――実際は文字として存在するものであった。
ゆえに、五帝時代・夏代・殷代前半の漢字を記した史料は発掘されていないが、
『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴国までの30の小国名によって、五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は失われずに保存されていたと証明される。
したがって、現代の学界の「文字を書いた史料が発掘されない、五帝時代の書契と夏代の漢字は文字として認めることはできない」と主張する定説は、錯覚・空想であったことになる。

『魏志倭人伝』には――
「紀元前2070年頃の夏代の黎明期(れいめいき)
帝王になった益(えき)氏の王の孫の王子と若者たちが大海を越えて秋田県の男鹿半島・八郎潟の東方の地に定住して、
(
)【三皇時代の易占に用いた記号の結縄(けつじょう)】、
(
)【五帝時代の書契】、
(
)【夏音文字】、
(
)【倉頡の文字作成理論】、
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、
(
)【精密な中国海岸線地図と精密に地図を作製する土地三角測量】などを
教え広めた」と説明する記事がある。

日本列島の海岸線を1本の線にしてつなぐと、日本列島の海岸線は中国の海岸線の約3倍も長いという。
ゆえに、【精密な日本列島の海岸線】は【倉頡の文字作成理論】はじめ【五帝時代の書契】、【夏音文字】を保存するのに適していた。
言いかえると、【日本列島の海岸線】は【字源・原義】を保存するのに適していた。
だから、卑弥呼時代において、わが国には【神々の名】・【物の名】・【地名】をあらわした文字によって【倉頡の文字作成理論】と【字源・原義】が失われずに保存されることになったのである。

ゆえに、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて証明したように――「対馬国」と「一大国」という小国名と、「瀚海(かんかい)」という沙漠名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす役目を有していた。

◆この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでは、【原始からつづく科学】にもとづく【倉頡が考えた天頂緯度線による方向規定】に注目してーー
『魏志倭人伝』の全記事は事実・真実を伝えており、1ヵ所も誤記がないことを証明する。

ゆえに、「軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」と定める
吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法の放射性炭素年代測定を手掛かりにして奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に空理空論であったことが明白となる。

西欧近代科学の合理思想にもとづく学問的成果による邪馬台国説に対して、
その証明方法が原始的で古びて幼稚であったとしても、『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も間違いが無い事実を証明したならばーー
卑弥呼が住んだ王国にふさわしい大型遺跡の吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法(放射性炭素年代測定)を用いて奈良県桜井市の纏向遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に明白に空理空論であったことになる。

上記した指摘が事実・真実であることは、下記の冤罪(えんざい)事件の事例によって証明される。

ある町で、5人を残忍きわまりなく方法で殺害した事件がおきた。
その町を担当する県警は、DNA型鑑定をもちいて一人の被害者の着衣に付着していた体液と容疑者Aの体液が一致したとして、容疑者Aを真犯人として逮捕した。
しかし、容疑者Aはアリバイを語って無罪を主張した。
でも、容疑者Aの言は無視され、最高裁で5人の殺人によって死刑が確定された。
容疑者Aの妻が夫の無罪を信じて、こつこつと数年がかりで様々な土地にめぐり、また様々な人々に会って、ついに夫のアリバイが成立する証人を発見した。
この結果、以前のDNA型鑑定は県警の思い込みによる冤罪・空論であったと証明されて、容疑者Aは釈放された。

以上のごとく、
地味(じみ)な【天頂緯度線による緯度測定の方法】を注目すると、
『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も誤記が存在しないことになる。
よって、「『魏志倭人伝』には幾つかの誤記がある」と主張する、現在の二つの華々しい有力説の、
邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は
共に明らかに空理空論であったことになる。

| | コメント (0)

2024年5月13日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・10

続・「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた

◆このブログは前回「漢字の起源と発明を解明す・9」における解説・証明が不十分であったので、その続きである。
前回のブログでは――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は真っ赤なウソで、わが国は現在(2024)から約4070年前に漢字を初めて習得していた事実を解明した。
わが国が最初に漢字を習得した約4070年前は、中国では夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)であった。
夏代黎明期は、わが国の中期縄文時代末に相当する。
夏代黎明期の文字を、わが国では「夏音(かおん)」と呼んだ。
だから、このブログでは「夏代黎明期の漢字」を「夏音文字」と呼ぶことにした。

【わが国における夏音文字の習得】については、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」で詳細に証明し解説した。
また、前回のブログでも、簡単に解説・証明した。
夏音文字は『魏志倭人伝』と、そして『古事記』上巻の随所に失われずに残っている。
『古事記』上巻并(あわ)せて序は、【夏音文字の習得の歴史(状況)と夏音文字の音符・意符に用いた楷書(かいしょ)との関係など】を、きわめて難解な文章で説明している。

【夏音文字の習得】によって、
(
)【精密な中国海岸線地図と、精密な地宜(ちぎ・平面的に図化した地図)の作成方法】
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(
)【倉頡が発明した文字作成理論】
(
)【三皇(さんこう)時代の易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)
(
)【五帝時代に作られた漢字、つまり書契(しょけい)】など、わが国は約4070年前に習得した。

これゆえ、現在における「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。

◆今から約5000年前に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が文字(漢字)を発明した。
現在、「倉頡は文字を発明した」という伝説は、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と否定されている。
しかし、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって、倉頡伝説は事実を語っていた事実が明確となる。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】と、【夏代黎明期に夏音文字をわが国が習得した歴史】を具体的に説明していた文献であったのである。

倉頡は【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明した。
【倉頡が発明した文字作成理論】によって、【すべての物の名をあらわす文字】が作られた。
ゆえに、【五帝時代初頭以前に用いられたすべての物の名】は、【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って改められて新しく作り変えられたと考えるべきことになる。

今から約6000年前から約5000年前までに天下を治めた三つの時代の大王の名は、【倉頡の文字作成理論】によって包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた。
この状況を倉頡伝説は「死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現する。
つまり「死霊」は「包犠、女媧、神農の三時代に生きた人々」を意味する。
「包犠・女媧・神農が天下を治めた時代の歴史は倉頡が文字を作って後世に伝えることができるようにした。ゆえに、三皇時代の人々の死霊が感激し泣く声が夜な夜な空に輝く【夏の銀河各部の形状】から聞こえるようになった」と説明していたのである。

上記したように、
倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る方法】を発明した。
「夏の銀河」とは「夏の星座が漬()かる銀河、夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を示した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240513120701 

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

◆わが国には約4070年前に夏音文字が伝来して、【倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】が習得された。
夏音文字が習得された以前にあっても、【多数の物の名】があったはずである。
しかし、【夏音文字が習得された中期縄文時代末(紀元前2050年頃)より以前の物の名】は【倉頡の文字作成理論】によって、次第(しだい)に次第に新しく改められて消滅したことになる。

ということは――夏音文字の習得より約2300年後の3世後半に著作された『魏志倭人伝』に記された約2000字のうちの大半の文字は、【倉頡の文字作成理論】によって作られた文字であったことになる。
その証拠に、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・9」において証明したとおり――『魏志倭人伝』初頭に登場する、下に示す【対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地図の形】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていた。
000012_20240513120801

上の【対馬国・瀚海・一大国の地図】は、下に配した【黄帝・倉頡が居住した本拠地の地図の状況】をあらわした。
倉頡は下図の【ゴビ沙漠・瀚海】と【ムウス沙漠と黄土高原を包囲して長方形状に水が流れる黄河上流地域の状況】にもとづいて【文字作成理論の基本原理】を発明した。
0000190_20240513121001

ゆえに、【対馬・瀚海・一大国の地図】は【ゴビ沙漠・瀚海と、長方形状の黄河上流地域の地図における概況】をあらわしていたことになる。
だから、【対馬・瀚海・一大の地図】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。

卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半)以前、中国では夏王朝の夏音文字以後に殷代後半の契文(けいぶん・甲骨文字)、周王朝の金文、秦(しん)王朝の隷書(れいしょ)、後漢王朝の楷書(かいしょ)と変化・進化していたために、かなり多くの文字が字源や原義が失った。
いっぽう、わが国では4070年前に夏音文字を習得してから卑弥呼時代まで、天下を治めた王朝が出現しなかった。だから、倭人国で使用され卑弥呼が精通した夏音文字は、その大多数の文字が夏代黎明期当時の状態のままで残ったため、多数の文字の字源と原義が保存されていたことになる。
このような状況について、『魏志倭人伝』は「一大率(いちだいそつ)が住む伊都(いと)国の港では、かなりの多くの文字が字源・原義を失った魏都・帯方郡(たいほうぐん)で用いる楷書(かいしょ)と、卑弥呼はじめ倭人国で用いる字源・原義をほとんど失わない夏音文字は差錯(ささく・相違)していたので、伝えたり送ったりする文書の文字を点検し・確認して間違わないようにしていた」と説明している。
これゆえ、『魏志倭人伝』に記され、倭人国の伊都国の港で楷書に書き代えられた夏音文字には字源・原義が保存されて失っていなかった。
この「漢字の起源発明を解明す」というブログによって、卑弥呼時代が生存した2世紀末から3世紀半ばにいて、中国には幾つかの文字が字源・原義を失っていた事実が明らかになる。

【ゴビ沙漠・瀚海】によって、『魏志倭人伝』に記された【馬】の字源・原義は「ゴビ沙漠に生息したフタコブラクダ」であったと考えるべきことになる。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ば、中国における【馬】の字義は字源を失う「ウマ」であって、「フタコブラクダ」ではなかった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、「ゴビ沙漠・瀚海に生息するフタコブラクダ」であったのである。

【長方形状に包囲する黄河上流地方の黄土高原】には【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息していた。
「ジャコウウシ」は「犠牲(いけにえ)」に用いられた。
ゆえに、「犠牲」の2字の偏は【牛】の字で、「ジャコウウシは犠牲に用いられた」とあらわしている。
『説文解字』は、【牛】の字源を「大牲なり」と解説する。つまり「大牲」は「大きな牲(いけにえ)」を意味する。
だから、【牛】の字源は「ウシ」ではなく、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
下に示すように、【瀚海の南にある一大国・壱岐の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】において、【西側の地宜は馬・フタコブラクダの姿】に相似し、【一大国・壱岐の東側の地宜は大きな牛・ジャコウウシの姿】に相似する。
000019_20240513121101

以上のごとく、【一大国・長崎県北部の壱岐の地宜】は【ゴビ沙漠・瀚海の他に、漢字が発明された、長方形状に包囲される黄河上流地域における、西のムウス沙漠にも馬・フタコブラクダが生息していた。また、東の黄土高原に牛・ジャコウウシが生息していた状況】をあらわしている。
このように、卑弥呼は【対馬国・瀚海・一大国の地図】をもって、【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。
したがって、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に解説する文献であったのである。

◆『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。

卑弥呼は「現在の長崎県北部の壱岐」を「一大国」と名づけた。
卑弥呼は、【天】の字源は「至高にして上なし。一大に従ふ」と説明されることを知っていた。
ゆえに、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
0000157_20240513121301 

前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()「文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた掟のために――現在、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。
これから行う【字源解説】には、【夏の銀河各部の名称】が決めないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240513121301
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、黄帝陵は北緯3535分であり、長江口の中央部は北緯3130分である。
黄帝時代、「黄帝陵の天頂」を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ通過し、「長江口の天頂」には「十字の銀河の子宮中央」が通過した。
0000159_20240513121501

◆前述したように、『説文解字』は【天】の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
【天】の字源銀河は【大】字形の「十字の銀河」であった。
000017_20240513121601

【一】の字源は「十字の銀河の円形の頭部中央を貫通した、黄帝陵の天頂緯度線」であった。
また、【一】の字源「十字の銀河の子宮中央を貫通した、長江口の天頂緯度線」であった。
だから、『説文解字』は【天】を「至高に上なし。一大に従ふ」と解説した。
【大】の上に【一】を加えると、【天】の字形となる。
ゆえに、「一大に従ふ」と解説されることになった。

倉頡は【「十字の銀河」を「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母」】と定めた。
倉頡は【「十字の銀河の子宮」を「万物の名を生む子宮」】と定めた。
ゆえに、倉頡は【一】の字源「小さな、十字の銀河の子宮」から「万物の名をあらわす全文字を生む子宮」と定めた。
したがって、倉頡は【「一即大、大即一」の文字作成理論】を発明した。

「一即大、大即一」の理論の【大】は「夏の銀河各部の形状から作られた大量の文字」にかぎらず、【大】は「万物の名」をもあらわした。
つまり、「一即大、大即一」は「一の小さい場(子宮)から大量(万物)の名とその名をあらわす文字が生まれる、あるいは大量(万物)の名とその名をあらわす文字は一の小さい場(子宮)に入っている」と定める理論であった。
だから、「十字の銀河の子宮」は「一大」と名づけられた。
また、「十字の銀河の子宮」は【一】と【壹()】の字源でもあった。

『説文解字』は【物】の字源を「万物なり」と解説する。
前ページで証明したように、【物】の偏【牛】の字源は「ジャコウウシ」である。
【勿(ぶつ)】の字源は「ジャコウウシを射る弓」または「餌場(えさば)の凍ったスゲや苔(こけ)などの食料を掘る犂(すき)のようなジャコウウシの前足」であった。
つまり、【長崎県北部の壱岐における東部の、ジャコウウシに類似する地宜】は【万物。または万物の名】をあらわした。
だから、「壱岐」は【一】と【大】の字源をあらわしたので、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めたのである。

「一大国の地宜」は西のムウス沙漠に生息した【馬】の字源「フタコブラクダ」と、東の黄土高原に生息した【牛】の字源「ジャコウウシ」に相似する地域とに分かれる。
倉頡は「黄土高原に生息したジャコウウシ」を【物】の原義「万物なり」と定めたのである。
そして、倉頡は「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」を【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣(せいじゅう)と定めた。
ゆえに、「一大国には、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣に相似する地宜を区分する【岐】(わかれみち)が在る」ということでーー後世、「一大国」は【壱岐】という名に変わった。

下図に示すように、「ジャコウウシ」と「第5週はじめの胎児(たいじ)の側身形」は相似する。
ゆえに、「ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の姿」に相似するゆえ、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
K62_20240513121701

下図に示すように、「フタコブラクダの両目」と「第7週ごろの胎児の両目」は、共に「顔の両端」にある。
「フタコブラクダの両目の睫毛(まつげ)」は「新生児の両目の睫毛」と同じく長い。
ゆえに、「フタコブラクダ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の両目」や「子宮から出産した新生児の睫毛」に相似するゆえ、「フタコブラクダ」も【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
K32

以上のごとく、学者たちは「一大国」の「一大」は「一支」の誤記であると指摘するが、「一大国」という名称は正しく重大な【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていたことになる。

◆下に、再度、「ゴビ沙漠・瀚海と、ムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概略図」を配した。
「黄帝陵」の真北、黄河北岸側にある地所の名は「包頭(パオトウ)」である。
0000190_20240513121901

倉頡は「包頭から南の黄帝陵を正面とする、南上・下北を天の方式(天理)」と定めた。
また、「黄帝陵から北に所在する包頭を正面とする、上北・下南を地の方式(地理)」と定めた。
天理、すなわち南(黄帝陵)を正面として天体を観察する人の右手は西(右西)・左手は東(左東)となる。
地理、すなわち北(包頭)を正面とする人の右手は東(右東)・左手は西(左西)となる。
ゆえに、「天理の南上・下北の方式」と「地理の上北・下南」の両者は、上下が180度相反する対称的関係となる。
また、「天理の方式となる、南(南の空)を正面とする観察者の右西・左東」と「地理の方式となる、北(北の空)を正面とする観察者の右東・左西」の両者は、左右が180度相反する対称関係となる。

ゆえに、「南天を正面とする天理と北を正面とする地理の上下が180度相反する対称関係」に加える「南天を正面として観察する人と北を正面とする人の左右が180度相反する対称関係」は、「天頂点と重なる銀河部位の一日360(180度の2倍)の円形の運行」と「太陽の一日360度の円形の運行」に相似すると――倉頡は見立てて、「字形も360度の運行」をあらわすようにした。
しかし、現在、「天理と地理における左右の手・東西の180度相反する対称関係」は、前ページに配した「天理をあらわす夏の銀河の写真と、地図(地理)の方位規定」で示されている。
その証拠に、【夏の銀河の場合は左東・右西となって、地図の左西・右東と180度相反する】。

あるいは、「天理と地理における左右の手と東西の180度相反する関係」は「鏡の実像(写る人)と虚像(鏡に写る映像)の関係」にて表示される。
だから、『魏志倭人伝』には「鏡は倭人の好物なり」という記事がある。

ところが、卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半まで)に存在した鏡は――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代には、発明されていなかった。
黄帝時代においては、「王妃たちが姿を写す鏡とした、清流の水飲み場の澄んだ平らな水面、つまり水鏡(みずかがみ)」が存在した。
【毎】の契文形(甲骨文字の字)や金文形(周代に用いられた文字の形)は「王妃が屈(かが)んで容姿を水鏡に写すときのポーズ」のごとくにデザインされている。

ゆえに、【海】の偏【三水(さんずい)】は「水鏡」をあらわした。
だから、偏【三水】に【毎】を加える【海】の字源は「王妃が蹲(つくば)って、姿を映す水飲み場の水鏡」であったことになる。

日本庭園の露地(ろじ)には、「つくばい(蹲踞、蹲)」が設置される。「つくばい」は「茶室に入る前に、蹲(つくば)って手を清めるために置かれた手水鉢(ちょうずばち)」である。
「石で作製する、蹲踞(つくばい)の頂上の中心にある、石を浅く彫る水を溜()める箇所」は「海」と呼ばれている。
この「つくばいの、水鏡となる海」には「天頂の景色」が映る。
このようには、日本の茶道には、現在においても【海】の字源・原義となった「蹲い(手水鉢)」が残っている。

◆下に、「長方形状に包囲する黄河上流地域における、黄土高原における川幅の狭い清流」を図示した。
この「黄土高原に流れる清流の水飲み場」が、【海】の字源・原義となったのである。
0000191

下は、「黄帝時代の天頂緯度線」の図である。
下図が示すように、「黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線」は下図の右側にある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の後頭部から頭頂部」を貫通し、「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。
この「人の横顔に酷似する銀河の輪郭(りんかく)」は上図の「黄土高原を包囲して黄河上流も水が西から東へ長方形状に流れる様子」に相似する。
「人の横顔に酷似する銀河」は「海(水飲み場の水鏡)に姿を写すために、俯(うつむ)く王妃の横顔」のイメージとなる。
ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」は【毎】の字源「海(水飲み場の水鏡)に姿を写す王妃の横顔」に見立てられた。
000124_20240513122101


図の左側に「長方形の暗黒天体部」がある。
この「長方形の暗黒天体部」は「長方形状の黄河上流地域」に見立てられた。
また、「長方形の暗黒天体部」は【海】の字源「水飲み場の水鏡」にも見立てられた。

下に、「ゴビ沙漠・瀚海」のイメージとなる「三つ輪の銀河」と、「美しく麗(うるわ)しい王妃の姿」に見立てられた「十字の銀河」の図を示した。
「十字の銀河の子宮」は、【隹(すい)】の字源となった。
『説文解字』は【隹】の字源を「鳥の短尾なるものの總名なり」と解説する。
要するに、「十字の銀河」が字源銀河となる【隹】の原義は「小鳥」であった。
【「三つ輪の銀河」は「円形に広がる波紋(はもん)」】に見立てられ、【「十字の銀河の子宮」に見立てられた小鳥」は「美しく麗しい、カワセミ(翡翠)」】をあらわすと定められた。
000013_20240513122401

「カワセミ」は「餌の魚を捕らえるために水中に潜(もぐ)る」。
その「カワセミが水中に潜った直後、水面に円形の波紋がひろがる」。
ゆえに、「円形の、三つ輪の銀河」にもとづいて、上記したように【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられたのである。
カワセミは清流や地下から湧き出る泉から流れる川などの、水が澄み樹木が繁茂(はんも)する林や森に棲()む。
ゆえに、【海】の字源「水飲み場の水鏡」は、樹木の木陰となる場所が適している。

というのも、人間の目は、自動露出カメラのように、本人の意志の無関係に、明るさに応じて虹彩(こうさい・絞り)がはたらいて、瞳孔径(どうこうけい・瞳孔の直径)が約2mmから約8mmまで変化する仕組みになっているからである。
暗闇(くらやみ)では、瞳孔径は7mmぐらいまで拡大される。
夜の暗闇(くらやみ)における樹木の木陰では、瞳孔径が最大8mmぐらい拡大して【天頂にめぐってくる夏の銀河の各部分】が一段とよく見えるようになる。
だから、【海】の字源「水鏡となる場所」は、「カワセミが棲む清流・地下から水が湧く泉が池や川となる森林の樹木の暗い木陰」ということになった。

以上のごとく、「瀚海」の【瀚】の字源・字義は「カワセミ」であった。
【瀚】の偏【三水】を欠いた【翰】の字義は「やまどり」である。
ゆえに、【翰】は「山地の渓流付近に棲む、ヤマセミ」であったことになる。
だから、【翰】に偏【三水】が加わる【瀚】は「水鳥の、カワセミ」を意味した。
それゆえ、上記したように「カワセミのメス」に見立てられた「王妃」が化粧し着飾(きかざ)る、その美しい魅力を失わないように、姿を映した水鏡」は、【海】の字源であったことになる。

◆しかし、いままで説明してきた【海】の字源となった「水鏡の用途」は【見せかけ・騙(だま)しの用途】を説明するものであった。
というのも、注目すべきことには「カワセミの巣穴の近く」には「ダミー(見せかけ・騙し)の穴」が存在するからである。
ゆえに、いままでの【海】の解説は「ダミー・騙(だま)し」の字源解説であったことになる。
【倉頡の文字作成理論】は最も強大な権力を手に入れる方法となったため、【海】の字源「水鏡」の【真(ほんとう)の用途】)が察知されて反体制側の人々に文字の学芸を習得されて革命に利用されないように、王妃は【真の用途】について人目を騙して気づかれないようにしなければならなかった。

王妃は王朝の崩壊を防御し政権基盤を強固するために、毎夜、天頂とその付近の銀河の形状を映す「水鏡」の【海】で、文字を学ぶように求められた。
したがって、真の【海】の字源となる物は、「毎夜、王妃が字源・原義となった天頂付近にめぐってくる銀河各部の形状が撮影される【水鏡】の映像を観察して文字を学ぶための装置」であったことになる。
つまり、真の【海】の字源は、「毎夜、文字を学ぶために、王妃が住む宮殿の庭園に設置された、字源・原義となった銀河の形状を映す蹲(つくば)いや、せせらぎ(水が流れる、浅瀬)や池」であったことになる。

さらに、拡大解釈されて「【瀚・カワセミが棲()む平坦な川、池、湖」も「海」と呼ばれることになった。
その証拠に、滋賀県の「琵琶湖」の古称は「鳰のうみ()」であった。
わが国では、古代において「湖」を「海」と呼んでいた。

「カワセミが棲む平坦な川、池、湖」は、つまり「空から平坦な地面を見下ろした川、池、湖の形」は【且()】という字であらわされることになった。
ゆえに、【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな板」つまり俎板(まないた)」を意味した。
そして、「空」をあらわす【宀(べん)】の下に【且】を加える【宜()】の字義は「食材をのせる俎板の面のごとく、平面的な図形」となった。
よって、「地宜」という語は「平面的に図化した地図の形」と意味することになった。

前述したように、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
「ゴビ沙漠」には「オアシス(沙漠の中の水がわく池と樹木が繁茂する緑地)」がある。
「オアシスの池の水」は「清く澄んで、天頂の景色を映す」。
ゆえに、「オアシス」は「海」と呼ばれ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と呼ばれたことになる。
したがって、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したことになる。

このブログの前ページにて用いた「ゴビ沙漠・瀚海」の字源銀河「三つ輪の銀河」と、【馬】「フタコブラクダ」の字源となった「十字の銀河」の図を、再度、下に配した。
前述したように、下図における【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられた。
前述したように、黄帝時代、「北緯3130分の長江口の中央の天頂」には「カワセミ」に見立てられた「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
000013_20240513122601

前述したように、上図における左上の「三つ輪の銀河における、最上部の円形の銀河」は「カワセミがダイビング(潜水)した直後にできた円形の波紋」に見立てられた。
黄帝時代、この「三つ輪の銀河における、最上部の円形の中心」は「北緯42度のゴビ沙漠・瀚海の南部」の天頂にめぐってきた。
だから、「カワセミが水中に飛び込んでできた円形の波紋」は「ゴビ沙漠」に見立てられて、「ゴビ沙漠」は「カワセミ()の海」つまり「瀚海」と名づけられることになったのである。

◆下に、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
下図の最下部には、「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」。
つまり、「鬼の横顔に両目」、「鬼の横顔の後頭部」には「大きく開く目」、「鬼の横顔のアゴ」には「細長(ほそなが)の切れ目」があり、「目に相似する箇所」は合計四つある。
この「鬼の横顔にある、四つの目の銀河」を、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
0000162_20240513122701

下に示すように「十字の銀河」は「子宮に胎児が宿る、妊婦像」に見立てられて【文】の字源となった。
K96

下図に示すように、「十字の銀河の子宮がある腹部」が【宀(べん)】の字源となり、「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)」が【子】の字源となった。【宀】に【子】が加わって【字】の字形が成立した。
K101

下図に示す「小鳥」はじめ「カワセミ」をあらわす【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は、前述したように【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣の「のフタコブラクダとジャコウウシ」をあらわした。
だから、「十字の銀河の子宮」は「鳥と獣」をあらわした。
「十字の銀河の子宮」は「西から東へ歩いてきた、左手に弓を持つ男性の後ろ足」と重なる。
ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「足跡」に見立てられた。
これゆえ、倉頡伝説には「鳥獣の足跡」という語が登場する。

◆現在、学者たちは「人間には目が四つあるはずがない! 【四つ目の怪人・倉頡】は空想の産物だ、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話だ」と断定して、倉頡伝説を全面否定する。
前述したように、倉頡伝説は【子】の字源「出産児や胎児の顔」をあらわす「鬼の横顔に似る銀河」、言いかえると「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。

倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントをえて、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。

上記の倉頡伝説は、【夏の銀河における「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の形状】が現在に示しているように、下記のごとき事実を語っていたことになる。
――今から約5000年前の黄帝時代、「四つ目の銀河」に見立てられた倉頡は、「鳥獣の足跡」と呼ばれた「十字の銀河の子宮」を「万物の名をあらわす文字が生まれる子宮」と定めた。
ゆえに、文字は倉頡によって、はじめて文字が作られるようになった。
倉頡は、今から約6000年前の三皇時代の易占(うらない)に用いられた記号の結縄から文字(書契)へと代えたので、天(夏の銀河)は祝福するかのように慈雨(じう)を降らせたため、禾(稲や麦など)が豊かに実るようになった。
倉頡によって夜な夜なの空に輝く【夏の銀河各部の形状】は【後世に三皇時代の歴史を伝える文字】となったので、三皇時代に天下を治めた包犠(ほうぎ)と女媧(じょか)と神農(しんのう)の三氏族の死んだ霊魂は感激して泣いて慈雨を降らせ、また三皇氏族の子孫たちは感激して泣いたという。

中国の古代において、下図のごとく「顔に目を四つ描く倉頡の肖像画」が発見されている。
このような倉頡の肖像画は、騙(だま)し絵であったのである。
S64_20240513123101
倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人の倉頡の正体」は「四つ目の銀河」であった。
【倉頡の文字作成理論】の中枢である「四つ目の銀河」のごとく、「顔に二つの目、後頭部に大きく見開いた目、アゴに切れ長の細い目を描く倉頡の肖像画」を描いた人物は、国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密を暴露した大罪を犯したことになって、その者はじめ家族および一族全員までも死刑となった。
だから、死刑をまぬがれるために「四つ目の銀河」と異なって、「倉頡の肖像画は「顔に目を四つ目描く騙し絵」となったのである。
その事実も知らないで、近代から現代までの学者たちは「倉頡伝説は荒唐無稽の話」と早合点(はやがってん)して見事に大失敗をして転(こけ)たのである。
以上、倉頡伝説は間違いなく事実を語っていたことになる。

| | コメント (0)

2024年5月12日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・9

「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた

◆中国の正史『三国志』における〔魏書東夷伝〕の末部にある「倭人伝」の通称は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれている。
『魏志倭人伝』は、その初頭に登場する「対馬国」から「狗奴(くな)国」までの30の小国名で――今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した【文字(漢字)作成理論】について詳細に・具体的に・体系的に解説していた。

しかし、近世(18世紀前半ころ)から現代までの学者たちによって「倉頡伝説は荒唐無稽の空想・虚偽」とされることになった。
というのも、江戸中期の新井白石(17571725)が晩年に提唱した邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)、そして白石以後現在まで約300年間続く邪馬台国畿内説と九州説によって――『魏志倭『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・学術的に解説する、奇跡的に優れた文献であった真価が抹殺(まっさつ)されてまったく不明となった。
この結果、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を明確に学術的に説明した文献ではないことになった。

 

『三国志』は晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年までに編修したとされる。『魏志倭人伝』に記される最終年は247(魏の正始8年)である。ゆえに、陳寿はその247年の約40年後には、早くも『魏志倭人伝』を成立させていたことになる。
陳寿や女王卑弥呼が生存した3世紀後半において「倉頡伝説は事実を伝える」と認知されていた。そして、【倉頡が発明した文字作成理論】は【学】の字源・原義となって【中国と倭人国における最高の学問】であった。
ゆえに、陳寿が生存した3世紀における「優秀な歴史家や学者の条件」は「倉頡伝説は事実を伝える」と解釈できる、あるいは証明できる学識を有していることであった。
かつては、『三国志』は中国の正史のなかでも史料価値が高い良史として評価されていた。ゆえに、著者の陳寿は優れた歴史家であったとされた。
だから、優秀な歴史家にして晋の歴史編纂官であった陳寿はその役職がら晋王朝に秘蔵される【倭人国から送られた国交文書】を閲覧(えつらん)することができ、「倭人国には【倉頡の作成理論】が存在する」と察知したにちがいない。
それゆえ、陳寿は【倭人国から送られた文書】を1ヵ所も誤記しないように細心の注意をはらって点検し確認して『魏志倭人伝』を著作したと考えるべきことになる。
したがって、白石以後の学者たちによって「『魏志倭人伝』には多数の誤記が存在する」と主張されているが、著者の陳寿や『魏志倭人伝』を代々書写した人々の努力によって――『魏志倭人伝』は1ヵ所も誤記が存在しない特別に優秀な歴史書であったのである。

◆『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
『魏志倭人伝』の冒頭から138字目・139字目は「瀚海(かんかい)」である。


つまり、『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海の名は瀚海であった」と説明する。
この記事における「一大国」という小国名を、学者たちは誤記として「一支国」と改める。

しかし、「一大国」が正しく、「一支国」では【倉頡は発明した文字作成理論】がまったく解明できなくなる。
したがって、『魏志倭人伝』の著者の陳寿は「一大国」の「一大」は【倉頡の作成理論】をあらわしていると察知したにちがいない。

「一大国」は「一支国」は誤りで、「一大国」という小国名こそが正しかった。
「一大」は【倉頡の文字作戦方法における重大な理論「一即大、大即一」をあらわしていた。だから、「一大国」こそが正しいことになる。
さらに、すべての学者たちは「瀚海」にまったく注目せずに無視するが、この「瀚海」によって【漢字の起源と発明の秘密】が明白となる。
つまり、小国名「対馬」と「一大」と海の名の「瀚海」と、「『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴国までの30の小国名によってーー『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・体系的に・学術的に・解説する文献であったことが明白となる。
『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬壹(壱・やまい)国なり」と記す。
しかし、学者たちは「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬臺(台・やまたい)国」であったと断定する。
ところが、「対馬国」と「一大」と「瀚海」の記事を注目すると――「卑弥呼が居住した倭人国の首都は邪馬壹()国であり、邪馬臺()国ではなかった事実」が証明される。

「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
陳寿は〔晋王朝が秘蔵する、倭人国から魏へ送られた国書(国交文書)〕に「瀚海(ゴビ沙漠)」という記述があることに注目したにちがいない。
常識にもとづくと、倭国の対馬国と一大国の中間は瀚海・ゴビ沙漠であるはずがない。
しかし、陳寿は【倉頡が発明した文字作成原理】を解説するためには、「対馬国と一大国の中間は瀚海と定めるべきである」という学識を陳寿は有していたにちがいない。ゆえに、陳寿は〔倭の国書〕のとおりに「一大国」と記し、また「瀚海(ゴビ沙漠)」という海の名を削除(さくじょ)しなかった。
これゆえ、『魏志倭人伝』には「瀚海(ゴビ沙漠)」という記事が残った。

以上のごとく、すべての邪馬台国説は【倉頡が発明した文字作成理論】が解明し、証明できるもっとも重大な記事をことごとく無視し抹殺(まっさつ)した空理空論であり――あるいは記述されていない事柄をもって捏造(ねつぞう)した虚妄(きょもう)であった。

◆倉頡は「夏の星座が漬()かる、夏に最も長時間見ることができる、いわゆる【夏の銀河】の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。
【夏の銀河】は通称「天の川」、または「銀河」、「銀漢」と呼ばれた。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と、中国でもわが国でも表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。

Ginga_kara1_20240512145801

◆前述したように、『魏志倭人伝』には「(対馬国より)、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う」という記事がある。
下図に「対馬国と瀚海と一大国の地図」を配した。
000012_20240512145901

『魏志倭人伝』には「牛馬は無し」という記事がある。
ゆえに、「倭人国」には、【牛】と【馬】は生息していなかった。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀中半当時、中国では【牛】の字義を日常的に「ウシ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
また、中国では【馬】の字義を日常的に「ウマ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。

ゆえに、「対馬国」の【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
つまり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したゆえ、【馬】の字源・原義は「瀚海・ゴビ沙漠に生息し、沙漠に住む人々にとっては欠くことができない大切な家畜のフタコブラクダ」であった。

下に、「瀚海とムウス沙漠と黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の概略図」を配した。
0000190

上図の上部に「瀚海」があり、その南では「ムウス沙漠」を西から東へ長方形状に黄河が包囲する。
この長方形状となる地域の西部(ムウス沙漠)は東部より低い平原地帯であった。
黄帝時代、この【西部の平原地帯(ムウス沙漠)】には【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息していた。

そして、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域は高原地帯となる。
この高原地帯は、現在、「黄土高原」と呼ばれている。
この「黄土高原」は、秋になると【凍土(とうど)地帯(ツンドラ地帯)】となった。
この【凍土地域・黄土高原】に【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息した。

黄帝時代、【牛】の字源「ジャコウウシ」の群れが北のゴビ沙漠・瀚海から南進して黄河を渡った。さらに、【牛】の「ジャコウウシの群れ」は南へと進み、黄帝陵が所在する黄土高原(凍土地帯)にも進入して生息した。
いままで説明したように――黄河が包囲する長方形状の地域の西部の平原・ムウス沙漠に【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息し、東部の黄土高原・凍土地帯に【牛】の字源「ジャコウウシ」が生息した。この状況を――「一大国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」があらわしていた。
下に、一大国の地図の形(地宜)を示した。
000019_20240512150201

上図に示すように、「一大国・長崎県壱岐の西部海岸線側の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する。
また、「一大国の東部側の地宜」は【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。
つまり、「一大国の地図(地宜)」は「黄河が長方形状に包囲する地域の西部のフタコブラクダが生息したムウス沙漠・平原地帯をあらわし、また東部にはジャコウウシが生息した高い黄土高原(凍土地帯)をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』の「対馬国・瀚海・一大国の記宜」は「ゴビ沙漠・瀚海の南に黄帝陵が所在した」ように、「黄帝につかえた倉頡は文字(漢字)を発明した史実」を伝えていたことになる。

◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた【夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪をおかしたことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん・甲骨文字)によって破られた。
というのも、契文(甲骨文字)の文字数(異なる字義をあらわす文字の数)4600以上となり、亀の甲羅に刻んだ文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。
ゆえに、()の掟は殷代後半から破られることになった。このために、後世に契文を書いた史料が発掘されることになった。
下に「漢字の生長史」を示した。
Photo_20240512150301

上の「漢字生長史」に示したように――今から約5000年前(紀元前3000年頃)から始まる五帝時代に作られ文字は「書契(しょけい)」と名づけられた。
今から約4090年前(紀元前2070年頃)から始まる夏代(かだい)の漢字を、わが国では「夏音(かおん)文字」と呼んだ。
殷代(いんだい)は今から約3600年前(紀元前1600)から始まるとされる。
五帝時代に作られた漢字の書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。また、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の文字は、【様々な物の名や地名】や【字音】として存在した。
したがって、卑弥呼が考案した【「対馬」・「一大」という小国名】と、中国で成立した【「瀚海」という海の名】は【夏の銀河各部の形状】から作られたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種(みなわしゅ)なり」と説明する記事がある。この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸()国、そして黒歯(こくし)国の3ヵ国がある」と説明する。
さらに、「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの地域(秋田県の男鹿半島・八郎潟)に参問至るべき(到着する)」と説明する。
このような記事は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」にて詳細に解説したように――今から約4070年前(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り、九州から北上して秋田県の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に居住した――と伝えていた。
名門益氏の王子と若者たちは
(
)【精密な中国海岸線地図と、精密な地図(地宜)の作成方法】
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(
)【倉頡が発明した文字作成理論】
(
)【三皇時代の易占に用いられた記号、つまり結縄(けつじょう)
(
)【五帝時代に作られた文字、つまり書契】
(
)【夏代黎明期(紀元前2050年頃)の夏音文字】などを教え広めた。
(
注 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は――五番目の帝舜(しゅん)の時代に、益氏の王は「虞()」という重職に命じられた――と記す。
「虞」は「中国の海岸線の精密地図作製の役職」であった。帝舜の治世は200年~250年間であったと考えられる。ゆえに、益氏は200年~250年間、代々、精密な中国海岸線地図作製の任務についていたことになる。だから、益氏は()【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】をわが国にもたらしたことになる。)

このような「名門益氏の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した歴史」について――前ページで解説した『魏志倭人伝』初頭の
(
)【対馬国、瀚海、一大国の地宜(地図)の秘密】と、
(
)【黄河上流が長方形状に包囲するムウス沙漠・黄土高原の地宜】との照合によって
(
)「女王国の東の海を渡ること千余里の名称不明の小国」についての記事と、
(
)「侏儒国・裸国・黒歯国」についての記事と、
(
)「黒歯国から東南の大海を航行して周旋五千余里ばかりの地域に参問する」という記事をもって
事実を伝えていたと証明することができる。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702(大宝2)629日に中国に派遣された第7回遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と告げた――という記事がある。
遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」とは「672(天武天皇元年)におきた壬申(じんしん)の乱の後、稍々(やや・少しだけ)夏音文字を復興することにした」と意味した。
第7回遣唐使が派遣された年(702)から10年後の712(和銅5)1月28日に、『古事記』が元明天皇に献上された。この『古事記』の〔序〕は極めて珍しい。
わたくしは〔序〕を有する様々な本を読んだが、『古事記』のような〔序〕は『古事記』の一例のみである。
つまり、『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成されるが、『古事記』の〔上巻のみの序〕で〔中巻・下巻の序〕ではない。
それゆえ、『古事記』の〔序〕は「古事記上巻 序并」、すなわち〔『古事記』上巻并(あわ)せて序〕と表記された。

『古事記』には、上巻のみに、その随所に〔音〕という注がつけられて数々の夏音文字が保存されている。
したがって、『古事記』の序は「『古事記』上巻のみにある、〔音〕という注がつく夏音文字について解説する序」であった。
だから、「古事記上巻 并序(『古事記』上巻并せて序」ということになったのである。
『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は計381字で構成され、そのうち〔音〕という注がつく夏音文字の字数の計は、下記の32字である。
「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)
「淤能碁呂(おのごろ)
「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)
「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)
「久美度邇(くみどに)」の五つの語に使用された文字は計32字である。
しかし、〔音〕という注を省略した「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」という10字の夏音文字がある。
ゆえに、夏音文字は合計42字となる。
楷書と夏音文字で構成される総字数は381字に対して、夏音文字は42字である。
ゆえに、第7回遣唐使が説明したとおりに、「壬申の乱の後に、稍々(11パーセント)、夏音文字を復興した様子」が示されている。
上記の淤能碁呂島聖婚説話はじめ『古事記』上巻の各説話においては、第7回遣唐使の言のとおりに「夏音文字が稍々(少数)記される状況」、つまり「稍々、夏音文字を習う構造」になっている。

このように、益氏(えきし)がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体は楷書で記されて(楷書を音符・意符に用いて)、多数残っている。
『古事記』上巻并せて序を要約・大略すると、下記のごとくになる。
――わが国は、【夏の銀河の各部の形状】をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭(夏代黎明期)までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。
この土器・土偶を造った参神造化(芸術の参神)2000年の伝統によって、
益氏がもたらした
【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
【倉頡が発明した文字作成理論】
【三皇時代の易占に用いた記号(結縄)
【五帝時代に作られた文字(書契)
【夏代黎明期の夏音文字】などを、縄文の諸氏族は習得した。
『古事記』上巻の随所には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた【夏の銀河各部の形状】である。
ゆえに、【『古事記』上巻において〔音〕という注がつく夏音文字を記す楷書】もまた【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。
【倉頡の文字作成理論】を反体制側が手に入れ、革命に利用すると容易に王朝は崩壊する。だから、この学問知識は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得して保存された夏音文字については理解が容易ではないきわめて難解な文章を作って説明することにした。

◆『魏志倭人伝』にも、『古事記』上巻同様に多数の夏音文字が楷書で記されて残っている。
また、『魏志倭人伝』における【対馬国から狗奴国までの30の小国名記事】は【益氏が教授した、倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
にもかかわらず、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断言する。
しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が伝えているように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、現代(2024)から約4070年前の中期縄文時代末(夏代黎明期)であった」。
江戸時代中期の新井白石(16571725)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。全記事を絶対に信用してはならない」と主張する。
この学者たちが「多数の誤記」と断定した全記事こそが、【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。

学者たちは【『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解など】を加えて、【倉頡の文字作成理論と、夏音文字が伝来した歴史】を300年間も、抹殺(まっさつ)・無視してきた。
しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在せず、全記事は正確であった。
したがって、【『魏志倭人伝』は絶対に1ヵ所も誤読を加えてはならない文献】であったのである。

◆前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()の掟によって――現在に至っても、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。

これから着手する【字源解説】において、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240512150501

上図の左上には、わたくしが「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」と名づけた両銀河がある。
この「三の輪の銀河」と「十字の銀河」の図を、下に配した。
「三つ輪の銀河」における小さな星々は円をえがき、渦を巻く。その円と渦は重なり合って「三つ輪」となる。
この「三つ輪の銀河の渦巻く無数の小さい星々」は、月光にきらめく沙漠の砂粒(すなつぶ)のようにキラキラと光る。
だから、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
000013_20240512150601

上図に示したように――「三つ輪の銀河」の西側にある「十字の銀河の、両手を左右に広げる人間の姿に相似する部分」もまた月光にきらめく砂粒のごとくキラキラと光る。
ゆえに、「十字の銀河の全身」は「ゴビ沙漠・瀚海の砂粒のように、あるいは夜空の星々のように、キラキラ輝く壮麗な女性の姿や妊婦像」に相似する。
その証拠に「十字の銀河の腰の部分」には「子宮に相当する箇所」がある。
だから上記したように、「三つ輪の銀河」」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
この結果、「三つ輪の銀河」の東となりの「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられて【馬】の字源となった。

下図の左側は、「三つ輪の銀河」を「ゴビ沙漠・瀚海」に、「十字の銀河」を【馬】の字源「フタコブラクダ」に見立てた解説図である。
下図の右側は、【馬】の契文形(甲骨文字の字形)である。
000014_20240512150701

上図に示したように、「十字の銀河」は「契文形における、【馬】の字源・字形の原形・原義」であった。
したがって、「十字の銀河」は「契文の上に配した〔楷書(かいしょ)における、【馬】の字源・字形の原形・原義」でもあったことになる。
もちろん、「十字の銀河」は「夏音文字における、【馬】の字源・字形・原義」でもあった。

下図は「対馬」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)と【馬】の字源銀河の解説図である。
下図が証明するように、卑弥呼は「対馬国の上県(かみあがた)地宜」を【馬】の字源「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
また、「対馬国の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「砂漠を歩くに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
000015_20240512150801

だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿(正面形)と、足底または足跡の一対(いっつい)の形」をあらわしているということで――「一対」の【対】に【馬】が加わって小国名を、卑弥呼は「対馬」と定めた。

『魏志倭人伝』には「対馬国」、「投馬(とうま)国」、「邪馬壱国」、「斯馬(しま)国」、「邪馬国」という5つの小国が登場する。
注目すべきことには――この5ヵ国のうちの4つの小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は【馬】の字源「フタコブラクダの姿や横顔の形」に相似し、あるいは「斯馬国」は「フタコブラクダに密接に関わる沙漠」に見立てられた「砂丘」で有名である。

◆下図の右側に、「十字の銀河の子宮」の図を配した。
下図の左側は、「一大国の地宜」である。「一大国は、今の長崎県北部の壱岐」であった。
卑弥呼は「壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
000016_20240512150901

後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は「字典の聖典(せいてん)」と尊重された。
『説文解字』は、卑弥呼が歴史上に始めて登場する年(170年頃)より約50年前の121年に成立していたとされる。
『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。
卑弥呼は現在の長崎県北部壱岐の小国名を、【天】の字源解説文「至高にして上なし。一大に従ふ」にある、「一大」と定めた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
0000157_20240512151001

下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、当時、黄帝陵は北緯3535分であった。
長江口の中央部は北緯3130分であった。
長江口まで遠征した黄帝軍に同行した倉頡は、長江口中央の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってくることを知った。
この【「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央である様子」】にもとづいて、倉頡は【漢字作成理論】を考案した。
0000159_20240512151101

◆「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央」であることを知った倉頡が考案した【文字作成理論】をあらわした文が、前述した『説文解字』の【天】の字源解説の「至高にして上なし。一大に従ふ」であったのである。
だから、卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】をあらわすために「現在の長崎県壱岐」を「一大国」と名づけたのである。
ゆえに、『魏志倭人伝』に記された「一大国」を学者たちは誤記として「一支国」と改悪するが――前述したように、「一大国」という小国名は【倉頡の文字作成理論】を伝える正確な記事であった。

「一大国」だと『魏志倭人伝』の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に体系的にあらわしていることが確実に証明できる。
「一支国」に改めると、【倉頡の文字作成理論】を解明できる糸口・確証を失ってまったく不明となる。

◆倉頡は【ゴビ沙漠・瀚海と長方形状にムウス沙漠・黄土高原などを包囲する黄河上流地域の地宜】を【文字作成理論の基本】と定めた。
だから、「対馬国・瀚海・一大国」は【文字作成理論】の基本「ゴビ沙漠・瀚海と長方形状に包囲する黄河上流地域」の模型(基本)となり――『魏志倭人伝』のすべての小国名は【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って作られたことが解明できる仕組みになっている。
言いかえると、【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」の地図】を注目すれば、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明していた文献であった事実が証明される。
だから、すべての邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、空理空論であったことになる。
ここまでの【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」に関する解説・証明】はいまだ中途半端(ちゅうとはんぱ)で不十分である。
だから、次回「漢字の起源と発明を解明す・10」においても続けて解説し証明する。

| | コメント (0)

« 2024年4月 | トップページ | 2024年6月 »