漢字の起源と発明を解明す・9
「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた
◆中国の正史『三国志』における〔魏書東夷伝〕の末部にある「倭人伝」の通称は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれている。
『魏志倭人伝』は、その初頭に登場する「対馬国」から「狗奴(くな)国」までの30の小国名で――今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した【文字(漢字)作成理論】について詳細に・具体的に・体系的に解説していた。
しかし、近世(18世紀前半ころ)から現代までの学者たちによって「倉頡伝説は荒唐無稽の空想・虚偽」とされることになった。
というのも、江戸中期の新井白石(1757ー1725年)が晩年に提唱した邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)、そして白石以後現在まで約300年間続く邪馬台国畿内説と九州説によって――『魏志倭『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・学術的に解説する、奇跡的に優れた文献であった真価が抹殺(まっさつ)されてまったく不明となった。
この結果、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を明確に学術的に説明した文献ではないことになった。
『三国志』は晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)が280年~289年までに編修したとされる。『魏志倭人伝』に記される最終年は247年(魏の正始8年)である。ゆえに、陳寿はその247年の約40年後には、早くも『魏志倭人伝』を成立させていたことになる。
陳寿や女王卑弥呼が生存した3世紀後半において「倉頡伝説は事実を伝える」と認知されていた。そして、【倉頡が発明した文字作成理論】は【学】の字源・原義となって【中国と倭人国における最高の学問】であった。
ゆえに、陳寿が生存した3世紀における「優秀な歴史家や学者の条件」は「倉頡伝説は事実を伝える」と解釈できる、あるいは証明できる学識を有していることであった。
かつては、『三国志』は中国の正史のなかでも史料価値が高い良史として評価されていた。ゆえに、著者の陳寿は優れた歴史家であったとされた。
だから、優秀な歴史家にして晋の歴史編纂官であった陳寿はその役職がら晋王朝に秘蔵される【倭人国から送られた国交文書】を閲覧(えつらん)することができ、「倭人国には【倉頡の作成理論】が存在する」と察知したにちがいない。
それゆえ、陳寿は【倭人国から送られた文書】を1ヵ所も誤記しないように細心の注意をはらって点検し確認して『魏志倭人伝』を著作したと考えるべきことになる。
したがって、白石以後の学者たちによって「『魏志倭人伝』には多数の誤記が存在する」と主張されているが、著者の陳寿や『魏志倭人伝』を代々書写した人々の努力によって――『魏志倭人伝』は1ヵ所も誤記が存在しない特別に優秀な歴史書であったのである。
◆『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
『魏志倭人伝』の冒頭から138字目・139字目は「瀚海(かんかい)」である。
つまり、『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海の名は瀚海であった」と説明する。
この記事における「一大国」という小国名を、学者たちは誤記として「一支国」と改める。
しかし、「一大国」が正しく、「一支国」では【倉頡は発明した文字作成理論】がまったく解明できなくなる。
したがって、『魏志倭人伝』の著者の陳寿は「一大国」の「一大」は【倉頡の作成理論】をあらわしていると察知したにちがいない。
「一大国」は「一支国」は誤りで、「一大国」という小国名こそが正しかった。
「一大」は【倉頡の文字作戦方法における重大な理論「一即大、大即一」をあらわしていた。だから、「一大国」こそが正しいことになる。
さらに、すべての学者たちは「瀚海」にまったく注目せずに無視するが、この「瀚海」によって【漢字の起源と発明の秘密】が明白となる。
つまり、小国名「対馬」と「一大」と海の名の「瀚海」と、「『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴国までの30の小国名によってーー『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・体系的に・学術的に・解説する文献であったことが明白となる。
『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬壹(壱・やまい)国なり」と記す。
しかし、学者たちは「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬臺(台・やまたい)国」であったと断定する。
ところが、「対馬国」と「一大」と「瀚海」の記事を注目すると――「卑弥呼が居住した倭人国の首都は邪馬壹(壱)国であり、邪馬臺(台)国ではなかった事実」が証明される。
「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
陳寿は〔晋王朝が秘蔵する、倭人国から魏へ送られた国書(国交文書)〕に「瀚海(ゴビ沙漠)」という記述があることに注目したにちがいない。
常識にもとづくと、倭国の対馬国と一大国の中間は瀚海・ゴビ沙漠であるはずがない。
しかし、陳寿は【倉頡が発明した文字作成原理】を解説するためには、「対馬国と一大国の中間は瀚海と定めるべきである」という学識を陳寿は有していたにちがいない。ゆえに、陳寿は〔倭の国書〕のとおりに「一大国」と記し、また「瀚海(ゴビ沙漠)」という海の名を削除(さくじょ)しなかった。
これゆえ、『魏志倭人伝』には「瀚海(ゴビ沙漠)」という記事が残った。
以上のごとく、すべての邪馬台国説は【倉頡が発明した文字作成理論】が解明し、証明できるもっとも重大な記事をことごとく無視し抹殺(まっさつ)した空理空論であり――あるいは記述されていない事柄をもって捏造(ねつぞう)した虚妄(きょもう)であった。
◆倉頡は「夏の星座が漬(つ)かる、夏に最も長時間見ることができる、いわゆる【夏の銀河】の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。
【夏の銀河】は通称「天の川」、または「銀河」、「銀漢」と呼ばれた。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と、中国でもわが国でも表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆前述したように、『魏志倭人伝』には「(対馬国より)、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う」という記事がある。
下図に「対馬国と瀚海と一大国の地図」を配した。
『魏志倭人伝』には「牛馬は無し」という記事がある。
ゆえに、「倭人国」には、【牛】と【馬】は生息していなかった。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀中半当時、中国では【牛】の字義を日常的に「ウシ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
また、中国では【馬】の字義を日常的に「ウマ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
ゆえに、「対馬国」の【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
つまり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したゆえ、【馬】の字源・原義は「瀚海・ゴビ沙漠に生息し、沙漠に住む人々にとっては欠くことができない大切な家畜のフタコブラクダ」であった。
下に、「瀚海とムウス沙漠と黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の概略図」を配した。
上図の上部に「瀚海」があり、その南では「ムウス沙漠」を西から東へ長方形状に黄河が包囲する。
この長方形状となる地域の西部(ムウス沙漠)は東部より低い平原地帯であった。
黄帝時代、この【西部の平原地帯(ムウス沙漠)】には【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息していた。
そして、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域は高原地帯となる。
この高原地帯は、現在、「黄土高原」と呼ばれている。
この「黄土高原」は、秋になると【凍土(とうど)地帯(ツンドラ地帯)】となった。
この【凍土地域・黄土高原】に【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息した。
黄帝時代、【牛】の字源「ジャコウウシ」の群れが北のゴビ沙漠・瀚海から南進して黄河を渡った。さらに、【牛】の「ジャコウウシの群れ」は南へと進み、黄帝陵が所在する黄土高原(凍土地帯)にも進入して生息した。
いままで説明したように――黄河が包囲する長方形状の地域の西部の平原・ムウス沙漠に【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息し、東部の黄土高原・凍土地帯に【牛】の字源「ジャコウウシ」が生息した。この状況を――「一大国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」があらわしていた。
下に、一大国の地図の形(地宜)を示した。
上図に示すように、「一大国・長崎県壱岐の西部海岸線側の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する。
また、「一大国の東部側の地宜」は【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。
つまり、「一大国の地図(地宜)」は「黄河が長方形状に包囲する地域の西部のフタコブラクダが生息したムウス沙漠・平原地帯をあらわし、また東部にはジャコウウシが生息した高い黄土高原(凍土地帯)をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』の「対馬国・瀚海・一大国の記宜」は「ゴビ沙漠・瀚海の南に黄帝陵が所在した」ように、「黄帝につかえた倉頡は文字(漢字)を発明した史実」を伝えていたことになる。
◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳しい神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた【夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪をおかしたことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの(Ⅲ)は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん・甲骨文字)によって破られた。
というのも、契文(甲骨文字)の文字数(異なる字義をあらわす文字の数)は4600以上となり、亀の甲羅に刻んだ文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。
ゆえに、(Ⅲ)の掟は殷代後半から破られることになった。このために、後世に契文を書いた史料が発掘されることになった。
下に「漢字の生長史」を示した。
上の「漢字生長史」に示したように――今から約5000年前(紀元前3000年頃)から始まる五帝時代に作られ文字は「書契(しょけい)」と名づけられた。
今から約4090年前(紀元前2070年頃)から始まる夏代(かだい)の漢字を、わが国では「夏音(かおん)文字」と呼んだ。
殷代(いんだい)は今から約3600年前(紀元前1600年)から始まるとされる。
五帝時代に作られた漢字の書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。また、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の文字は、【様々な物の名や地名】や【字音】として存在した。
したがって、卑弥呼が考案した【「対馬」・「一大」という小国名】と、中国で成立した【「瀚海」という海の名】は【夏の銀河各部の形状】から作られたことになる。
◆『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り、皆倭種(みなわしゅ)なり」と説明する記事がある。この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸(ら)国、そして黒歯(こくし)国の3ヵ国がある」と説明する。
さらに、「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの地域(秋田県の男鹿半島・八郎潟)に参問至るべき(到着する)」と説明する。
このような記事は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」にて詳細に解説したように――今から約4070年前(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り、九州から北上して秋田県の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に居住した――と伝えていた。
名門益氏の王子と若者たちは
(1)【精密な中国海岸線地図と、精密な地図(地宜)の作成方法】
(2)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(3)【倉頡が発明した文字作成理論】
(4)【三皇時代の易占に用いられた記号、つまり結縄(けつじょう)】
(5)【五帝時代に作られた文字、つまり書契】
(6)【夏代黎明期(紀元前2050年頃)の夏音文字】などを教え広めた。
(注 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は――五番目の帝舜(しゅん)の時代に、益氏の王は「虞(ぐ)」という重職に命じられた――と記す。
「虞」は「中国の海岸線の精密地図作製の役職」であった。帝舜の治世は200年~250年間であったと考えられる。ゆえに、益氏は200年~250年間、代々、精密な中国海岸線地図作製の任務についていたことになる。だから、益氏は(1)【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】をわが国にもたらしたことになる。)
このような「名門益氏の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した歴史」について――前ページで解説した『魏志倭人伝』初頭の
(1)【対馬国、瀚海、一大国の地宜(地図)の秘密】と、
(2)【黄河上流が長方形状に包囲するムウス沙漠・黄土高原の地宜】との照合によって
(3)「女王国の東の海を渡ること千余里の名称不明の小国」についての記事と、
(4)「侏儒国・裸国・黒歯国」についての記事と、
(5)「黒歯国から東南の大海を航行して周旋五千余里ばかりの地域に参問する」という記事をもって
事実を伝えていたと証明することができる。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年(大宝2年)6月29日に中国に派遣された第7回遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と告げた――という記事がある。
遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」とは「672年(天武天皇元年)におきた壬申(じんしん)の乱の後、稍々(やや・少しだけ)夏音文字を復興することにした」と意味した。
第7回遣唐使が派遣された年(702年)から10年後の712年(和銅5年)1月28日に、『古事記』が元明天皇に献上された。この『古事記』の〔序〕は極めて珍しい。
わたくしは〔序〕を有する様々な本を読んだが、『古事記』のような〔序〕は『古事記』の一例のみである。
つまり、『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成されるが、『古事記』の〔上巻のみの序〕で〔中巻・下巻の序〕ではない。
それゆえ、『古事記』の〔序〕は「古事記上巻 序并」、すなわち〔『古事記』上巻并(あわ)せて序〕と表記された。
『古事記』には、上巻のみに、その随所に〔音〕という注がつけられて数々の夏音文字が保存されている。
したがって、『古事記』の序は「『古事記』上巻のみにある、〔音〕という注がつく夏音文字について解説する序」であった。
だから、「古事記上巻 并序(『古事記』上巻并せて序」ということになったのである。
『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は計381字で構成され、そのうち〔音〕という注がつく夏音文字の字数の計は、下記の32字である。
「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」
「淤能碁呂(おのごろ)」
「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」
「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」
「久美度邇(くみどに)」の五つの語に使用された文字は計32字である。
しかし、〔音〕という注を省略した「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」という10字の夏音文字がある。
ゆえに、夏音文字は合計42字となる。
楷書と夏音文字で構成される総字数は381字に対して、夏音文字は42字である。
ゆえに、第7回遣唐使が説明したとおりに、「壬申の乱の後に、稍々(11パーセント)、夏音文字を復興した様子」が示されている。
上記の淤能碁呂島聖婚説話はじめ『古事記』上巻の各説話においては、第7回遣唐使の言のとおりに「夏音文字が稍々(少数)記される状況」、つまり「稍々、夏音文字を習う構造」になっている。
このように、益氏(えきし)がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体は楷書で記されて(楷書を音符・意符に用いて)、多数残っている。
『古事記』上巻并せて序を要約・大略すると、下記のごとくになる。
――わが国は、【夏の銀河の各部の形状】をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭(夏代黎明期)までの約2000年間の三(参)時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。
この土器・土偶を造った参神造化(芸術の参神)の2000年の伝統によって、
益氏がもたらした
【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
【倉頡が発明した文字作成理論】
【三皇時代の易占に用いた記号(結縄)】
【五帝時代に作られた文字(書契)】
【夏代黎明期の夏音文字】などを、縄文の諸氏族は習得した。
『古事記』上巻の随所には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた【夏の銀河各部の形状】である。
ゆえに、【『古事記』上巻において〔音〕という注がつく夏音文字を記す楷書】もまた【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。
【倉頡の文字作成理論】を反体制側が手に入れ、革命に利用すると容易に王朝は崩壊する。だから、この学問知識は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得して保存された夏音文字については理解が容易ではないきわめて難解な文章を作って説明することにした。
◆『魏志倭人伝』にも、『古事記』上巻同様に多数の夏音文字が楷書で記されて残っている。
また、『魏志倭人伝』における【対馬国から狗奴国までの30の小国名記事】は【益氏が教授した、倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
にもかかわらず、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断言する。
しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が伝えているように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、現代(2024年)から約4070年前の中期縄文時代末(夏代黎明期)であった」。
江戸時代中期の新井白石(1657―1725年)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。全記事を絶対に信用してはならない」と主張する。
この学者たちが「多数の誤記」と断定した全記事こそが、【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。
学者たちは【『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解など】を加えて、【倉頡の文字作成理論と、夏音文字が伝来した歴史】を300年間も、抹殺(まっさつ)・無視してきた。
しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在せず、全記事は正確であった。
したがって、【『魏志倭人伝』は絶対に1ヵ所も誤読を加えてはならない文献】であったのである。
◆前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の(Ⅱ)の掟によって――現在に至っても、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。
これから着手する【字源解説】において、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の左上には、わたくしが「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」と名づけた両銀河がある。
この「三の輪の銀河」と「十字の銀河」の図を、下に配した。
「三つ輪の銀河」における小さな星々は円をえがき、渦を巻く。その円と渦は重なり合って「三つ輪」となる。
この「三つ輪の銀河の渦巻く無数の小さい星々」は、月光にきらめく沙漠の砂粒(すなつぶ)のようにキラキラと光る。
だから、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
上図に示したように――「三つ輪の銀河」の西側にある「十字の銀河の、両手を左右に広げる人間の姿に相似する部分」もまた月光にきらめく砂粒のごとくキラキラと光る。
ゆえに、「十字の銀河の全身」は「ゴビ沙漠・瀚海の砂粒のように、あるいは夜空の星々のように、キラキラ輝く壮麗な女性の姿や妊婦像」に相似する。
その証拠に「十字の銀河の腰の部分」には「子宮に相当する箇所」がある。
だから上記したように、「三つ輪の銀河」」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
この結果、「三つ輪の銀河」の東となりの「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられて【馬】の字源となった。
下図の左側は、「三つ輪の銀河」を「ゴビ沙漠・瀚海」に、「十字の銀河」を【馬】の字源「フタコブラクダ」に見立てた解説図である。
下図の右側は、【馬】の契文形(甲骨文字の字形)である。
上図に示したように、「十字の銀河」は「契文形における、【馬】の字源・字形の原形・原義」であった。
したがって、「十字の銀河」は「契文の上に配した〔楷書(かいしょ)における、【馬】の字源・字形の原形・原義」でもあったことになる。
もちろん、「十字の銀河」は「夏音文字における、【馬】の字源・字形・原義」でもあった。
下図は「対馬」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)と【馬】の字源銀河の解説図である。
下図が証明するように、卑弥呼は「対馬国の上県(かみあがた)地宜」を【馬】の字源「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
また、「対馬国の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「砂漠を歩くに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿(正面形)と、足底または足跡の一対(いっつい)の形」をあらわしているということで――「一対」の【対】に【馬】が加わって小国名を、卑弥呼は「対馬」と定めた。
『魏志倭人伝』には「対馬国」、「投馬(とうま)国」、「邪馬壱国」、「斯馬(しま)国」、「邪馬国」という5つの小国が登場する。
注目すべきことには――この5ヵ国のうちの4つの小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は【馬】の字源「フタコブラクダの姿や横顔の形」に相似し、あるいは「斯馬国」は「フタコブラクダに密接に関わる沙漠」に見立てられた「砂丘」で有名である。
◆下図の右側に、「十字の銀河の子宮」の図を配した。
下図の左側は、「一大国の地宜」である。「一大国は、今の長崎県北部の壱岐」であった。
卑弥呼は「壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は「字典の聖典(せいてん)」と尊重された。
『説文解字』は、卑弥呼が歴史上に始めて登場する年(170年頃)より約50年前の121年に成立していたとされる。
『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。
卑弥呼は現在の長崎県北部壱岐の小国名を、【天】の字源解説文「至高にして上なし。一大に従ふ」にある、「一大」と定めた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、当時、黄帝陵は北緯35度35分であった。
長江口の中央部は北緯31度30分であった。
長江口まで遠征した黄帝軍に同行した倉頡は、長江口中央の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってくることを知った。
この【「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央である様子」】にもとづいて、倉頡は【漢字作成理論】を考案した。
◆「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央」であることを知った倉頡が考案した【文字作成理論】をあらわした文が、前述した『説文解字』の【天】の字源解説の「至高にして上なし。一大に従ふ」であったのである。
だから、卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】をあらわすために「現在の長崎県壱岐」を「一大国」と名づけたのである。
ゆえに、『魏志倭人伝』に記された「一大国」を学者たちは誤記として「一支国」と改悪するが――前述したように、「一大国」という小国名は【倉頡の文字作成理論】を伝える正確な記事であった。
「一大国」だと『魏志倭人伝』の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に体系的にあらわしていることが確実に証明できる。
「一支国」に改めると、【倉頡の文字作成理論】を解明できる糸口・確証を失ってまったく不明となる。
◆倉頡は【ゴビ沙漠・瀚海と長方形状にムウス沙漠・黄土高原などを包囲する黄河上流地域の地宜】を【文字作成理論の基本】と定めた。
だから、「対馬国・瀚海・一大国」は【文字作成理論】の基本「ゴビ沙漠・瀚海と長方形状に包囲する黄河上流地域」の模型(基本)となり――『魏志倭人伝』のすべての小国名は【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って作られたことが解明できる仕組みになっている。
言いかえると、【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」の地図】を注目すれば、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明していた文献であった事実が証明される。
だから、すべての邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、空理空論であったことになる。
ここまでの【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」に関する解説・証明】はいまだ中途半端(ちゅうとはんぱ)で不十分である。
だから、次回「漢字の起源と発明を解明す・10」においても続けて解説し証明する。
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