漢字の起源と発明を解明す・10
続・「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた
◆このブログは前回「漢字の起源と発明を解明す・9」における解説・証明が不十分であったので、その続きである。
前回のブログでは――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は真っ赤なウソで、わが国は現在(2024年)から約4070年前に漢字を初めて習得していた事実を解明した。
わが国が最初に漢字を習得した約4070年前は、中国では夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)であった。
夏代黎明期は、わが国の中期縄文時代末に相当する。
夏代黎明期の文字を、わが国では「夏音(かおん)」と呼んだ。
だから、このブログでは「夏代黎明期の漢字」を「夏音文字」と呼ぶことにした。
【わが国における夏音文字の習得】については、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」で詳細に証明し解説した。
また、前回のブログでも、簡単に解説・証明した。
夏音文字は『魏志倭人伝』と、そして『古事記』上巻の随所に失われずに残っている。
『古事記』上巻并(あわ)せて序は、【夏音文字の習得の歴史(状況)と夏音文字の音符・意符に用いた楷書(かいしょ)との関係など】を、きわめて難解な文章で説明している。
【夏音文字の習得】によって、
(1)【精密な中国海岸線地図と、精密な地宜(ちぎ・平面的に図化した地図)の作成方法】
(2)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(3)【倉頡が発明した文字作成理論】
(4)【三皇(さんこう)時代の易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)】
(5)【五帝時代に作られた漢字、つまり書契(しょけい)】など、わが国は約4070年前に習得した。
これゆえ、現在における「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。
◆今から約5000年前に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が文字(漢字)を発明した。
現在、「倉頡は文字を発明した」という伝説は、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と否定されている。
しかし、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって、倉頡伝説は事実を語っていた事実が明確となる。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】と、【夏代黎明期に夏音文字をわが国が習得した歴史】を具体的に説明していた文献であったのである。
倉頡は【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明した。
【倉頡が発明した文字作成理論】によって、【すべての物の名をあらわす文字】が作られた。
ゆえに、【五帝時代初頭以前に用いられたすべての物の名】は、【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って改められて新しく作り変えられたと考えるべきことになる。
今から約6000年前から約5000年前までに天下を治めた三つの時代の大王の名は、【倉頡の文字作成理論】によって包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた。
この状況を倉頡伝説は「死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現する。
つまり「死霊」は「包犠、女媧、神農の三時代に生きた人々」を意味する。
「包犠・女媧・神農が天下を治めた時代の歴史は倉頡が文字を作って後世に伝えることができるようにした。ゆえに、三皇時代の人々の死霊が感激し泣く声が夜な夜な空に輝く【夏の銀河各部の形状】から聞こえるようになった」と説明していたのである。
上記したように、
倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る方法】を発明した。
「夏の銀河」とは「夏の星座が漬(つ)かる銀河、夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【夏の銀河のカラー写真】を示した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
◆わが国には約4070年前に夏音文字が伝来して、【倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】が習得された。
夏音文字が習得された以前にあっても、【多数の物の名】があったはずである。
しかし、【夏音文字が習得された中期縄文時代末(紀元前2050年頃)より以前の物の名】は【倉頡の文字作成理論】によって、次第(しだい)に次第に新しく改められて消滅したことになる。
ということは――夏音文字の習得より約2300年後の3世後半に著作された『魏志倭人伝』に記された約2000字のうちの大半の文字は、【倉頡の文字作成理論】によって作られた文字であったことになる。
その証拠に、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・9」において証明したとおり――『魏志倭人伝』初頭に登場する、下に示す【対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地図の形】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていた。
上の【対馬国・瀚海・一大国の地図】は、下に配した【黄帝・倉頡が居住した本拠地の地図の状況】をあらわした。
倉頡は下図の【ゴビ沙漠・瀚海】と【ムウス沙漠と黄土高原を包囲して長方形状に水が流れる黄河上流地域の状況】にもとづいて【文字作成理論の基本原理】を発明した。
ゆえに、【対馬・瀚海・一大国の地図】は【ゴビ沙漠・瀚海と、長方形状の黄河上流地域の地図における概況】をあらわしていたことになる。
だから、【対馬・瀚海・一大の地図】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。
卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半)以前、中国では夏王朝の夏音文字以後に殷代後半の契文(けいぶん・甲骨文字)、周王朝の金文、秦(しん)王朝の隷書(れいしょ)、後漢王朝の楷書(かいしょ)と変化・進化していたために、かなり多くの文字が字源や原義が失った。
いっぽう、わが国では4070年前に夏音文字を習得してから卑弥呼時代まで、天下を治めた王朝が出現しなかった。だから、倭人国で使用され卑弥呼が精通した夏音文字は、その大多数の文字が夏代黎明期当時の状態のままで残ったため、多数の文字の字源と原義が保存されていたことになる。
このような状況について、『魏志倭人伝』は「一大率(いちだいそつ)が住む伊都(いと)国の港では、かなりの多くの文字が字源・原義を失った魏都・帯方郡(たいほうぐん)で用いる楷書(かいしょ)と、卑弥呼はじめ倭人国で用いる字源・原義をほとんど失わない夏音文字は差錯(ささく・相違)していたので、伝えたり送ったりする文書の文字を点検し・確認して間違わないようにしていた」と説明している。
これゆえ、『魏志倭人伝』に記され、倭人国の伊都国の港で楷書に書き代えられた夏音文字には字源・原義が保存されて失っていなかった。
この「漢字の起源発明を解明す」というブログによって、卑弥呼時代が生存した2世紀末から3世紀半ばにいて、中国には幾つかの文字が字源・原義を失っていた事実が明らかになる。
【ゴビ沙漠・瀚海】によって、『魏志倭人伝』に記された【馬】の字源・原義は「ゴビ沙漠に生息したフタコブラクダ」であったと考えるべきことになる。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ば、中国における【馬】の字義は字源を失う「ウマ」であって、「フタコブラクダ」ではなかった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、「ゴビ沙漠・瀚海に生息するフタコブラクダ」であったのである。
【長方形状に包囲する黄河上流地方の黄土高原】には【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息していた。
「ジャコウウシ」は「犠牲(いけにえ)」に用いられた。
ゆえに、「犠牲」の2字の偏は【牛】の字で、「ジャコウウシは犠牲に用いられた」とあらわしている。
『説文解字』は、【牛】の字源を「大牲なり」と解説する。つまり「大牲」は「大きな牲(いけにえ)」を意味する。
だから、【牛】の字源は「ウシ」ではなく、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
下に示すように、【瀚海の南にある一大国・壱岐の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】において、【西側の地宜は馬・フタコブラクダの姿】に相似し、【一大国・壱岐の東側の地宜は大きな牛・ジャコウウシの姿】に相似する。
以上のごとく、【一大国・長崎県北部の壱岐の地宜】は【ゴビ沙漠・瀚海の他に、漢字が発明された、長方形状に包囲される黄河上流地域における、西のムウス沙漠にも馬・フタコブラクダが生息していた。また、東の黄土高原に牛・ジャコウウシが生息していた状況】をあらわしている。
このように、卑弥呼は【対馬国・瀚海・一大国の地図】をもって、【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。
したがって、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に解説する文献であったのである。
◆『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。
卑弥呼は「現在の長崎県北部の壱岐」を「一大国」と名づけた。
卑弥呼は、【天】の字源は「至高にして上なし。一大に従ふ」と説明されることを知っていた。
ゆえに、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の(Ⅱ)「文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた掟のために――現在、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。
これから行う【字源解説】には、【夏の銀河各部の名称】が決めないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、黄帝陵は北緯35度35分であり、長江口の中央部は北緯31度30分である。
黄帝時代、「黄帝陵の天頂」を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ通過し、「長江口の天頂」には「十字の銀河の子宮中央」が通過した。
◆前述したように、『説文解字』は【天】の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
【天】の字源銀河は【大】字形の「十字の銀河」であった。
【一】の字源は「十字の銀河の円形の頭部中央を貫通した、黄帝陵の天頂緯度線」であった。
また、【一】の字源「十字の銀河の子宮中央を貫通した、長江口の天頂緯度線」であった。
だから、『説文解字』は【天】を「至高に上なし。一大に従ふ」と解説した。
【大】の上に【一】を加えると、【天】の字形となる。
ゆえに、「一大に従ふ」と解説されることになった。
倉頡は【「十字の銀河」を「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母」】と定めた。
倉頡は【「十字の銀河の子宮」を「万物の名を生む子宮」】と定めた。
ゆえに、倉頡は【一】の字源「小さな、十字の銀河の子宮」から「万物の名をあらわす全文字を生む子宮」と定めた。
したがって、倉頡は【「一即大、大即一」の文字作成理論】を発明した。
「一即大、大即一」の理論の【大】は「夏の銀河各部の形状から作られた大量の文字」にかぎらず、【大】は「万物の名」をもあらわした。
つまり、「一即大、大即一」は「一の小さい場(子宮)から大量(万物)の名とその名をあらわす文字が生まれる、あるいは大量(万物)の名とその名をあらわす文字は一の小さい場(子宮)に入っている」と定める理論であった。
だから、「十字の銀河の子宮」は「一大」と名づけられた。
また、「十字の銀河の子宮」は【一】と【壹(壱)】の字源でもあった。
『説文解字』は【物】の字源を「万物なり」と解説する。
前ページで証明したように、【物】の偏【牛】の字源は「ジャコウウシ」である。
【勿(ぶつ)】の字源は「ジャコウウシを射る弓」または「餌場(えさば)の凍ったスゲや苔(こけ)などの食料を掘る犂(すき)のようなジャコウウシの前足」であった。
つまり、【長崎県北部の壱岐における東部の、ジャコウウシに類似する地宜】は【万物。または万物の名】をあらわした。
だから、「壱岐」は【一】と【大】の字源をあらわしたので、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めたのである。
「一大国の地宜」は西のムウス沙漠に生息した【馬】の字源「フタコブラクダ」と、東の黄土高原に生息した【牛】の字源「ジャコウウシ」に相似する地域とに分かれる。
倉頡は「黄土高原に生息したジャコウウシ」を【物】の原義「万物なり」と定めたのである。
そして、倉頡は「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」を【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣(せいじゅう)と定めた。
ゆえに、「一大国には、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣に相似する地宜を区分する【岐】(わかれみち)が在る」ということでーー後世、「一大国」は【壱岐】という名に変わった。
下図に示すように、「ジャコウウシ」と「第5週はじめの胎児(たいじ)の側身形」は相似する。
ゆえに、「ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の姿」に相似するゆえ、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
下図に示すように、「フタコブラクダの両目」と「第7週ごろの胎児の両目」は、共に「顔の両端」にある。
「フタコブラクダの両目の睫毛(まつげ)」は「新生児の両目の睫毛」と同じく長い。
ゆえに、「フタコブラクダ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の両目」や「子宮から出産した新生児の睫毛」に相似するゆえ、「フタコブラクダ」も【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
以上のごとく、学者たちは「一大国」の「一大」は「一支」の誤記であると指摘するが、「一大国」という名称は正しく重大な【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていたことになる。
◆下に、再度、「ゴビ沙漠・瀚海と、ムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概略図」を配した。
「黄帝陵」の真北、黄河北岸側にある地所の名は「包頭(パオトウ)」である。
倉頡は「包頭から南の黄帝陵を正面とする、南上・下北を天の方式(天理)」と定めた。
また、「黄帝陵から北に所在する包頭を正面とする、上北・下南を地の方式(地理)」と定めた。
天理、すなわち南(黄帝陵)を正面として天体を観察する人の右手は西(右西)・左手は東(左東)となる。
地理、すなわち北(包頭)を正面とする人の右手は東(右東)・左手は西(左西)となる。
ゆえに、「天理の南上・下北の方式」と「地理の上北・下南」の両者は、上下が180度相反する対称的関係となる。
また、「天理の方式となる、南(南の空)を正面とする観察者の右西・左東」と「地理の方式となる、北(北の空)を正面とする観察者の右東・左西」の両者は、左右が180度相反する対称関係となる。
ゆえに、「南天を正面とする天理と北を正面とする地理の上下が180度相反する対称関係」に加える「南天を正面として観察する人と北を正面とする人の左右が180度相反する対称関係」は、「天頂点と重なる銀河部位の一日360度(180度の2倍)の円形の運行」と「太陽の一日360度の円形の運行」に相似すると――倉頡は見立てて、「字形も360度の運行」をあらわすようにした。
しかし、現在、「天理と地理における左右の手・東西の180度相反する対称関係」は、前ページに配した「天理をあらわす夏の銀河の写真と、地図(地理)の方位規定」で示されている。
その証拠に、【夏の銀河の場合は左東・右西となって、地図の左西・右東と180度相反する】。
あるいは、「天理と地理における左右の手と東西の180度相反する関係」は「鏡の実像(写る人)と虚像(鏡に写る映像)の関係」にて表示される。
だから、『魏志倭人伝』には「鏡は倭人の好物なり」という記事がある。
ところが、卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半まで)に存在した鏡は――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代には、発明されていなかった。
黄帝時代においては、「王妃たちが姿を写す鏡とした、清流の水飲み場の澄んだ平らな水面、つまり水鏡(みずかがみ)」が存在した。
【毎】の契文形(甲骨文字の字)や金文形(周代に用いられた文字の形)は「王妃が屈(かが)んで容姿を水鏡に写すときのポーズ」のごとくにデザインされている。
ゆえに、【海】の偏【三水(さんずい)】は「水鏡」をあらわした。
だから、偏【三水】に【毎】を加える【海】の字源は「王妃が蹲(つくば)って、姿を映す水飲み場の水鏡」であったことになる。
日本庭園の露地(ろじ)には、「つくばい(蹲踞、蹲)」が設置される。「つくばい」は「茶室に入る前に、蹲(つくば)って手を清めるために置かれた手水鉢(ちょうずばち)」である。
「石で作製する、蹲踞(つくばい)の頂上の中心にある、石を浅く彫る水を溜(た)める箇所」は「海」と呼ばれている。
この「つくばいの、水鏡となる海」には「天頂の景色」が映る。
このようには、日本の茶道には、現在においても【海】の字源・原義となった「蹲い(手水鉢)」が残っている。
◆下に、「長方形状に包囲する黄河上流地域における、黄土高原における川幅の狭い清流」を図示した。
この「黄土高原に流れる清流の水飲み場」が、【海】の字源・原義となったのである。
下は、「黄帝時代の天頂緯度線」の図である。
下図が示すように、「黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線」は下図の右側にある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の後頭部から頭頂部」を貫通し、「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。
この「人の横顔に酷似する銀河の輪郭(りんかく)」は上図の「黄土高原を包囲して黄河上流も水が西から東へ長方形状に流れる様子」に相似する。
「人の横顔に酷似する銀河」は「海(水飲み場の水鏡)に姿を写すために、俯(うつむ)く王妃の横顔」のイメージとなる。
ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」は【毎】の字源「海(水飲み場の水鏡)に姿を写す王妃の横顔」に見立てられた。
上図の左側に「長方形の暗黒天体部」がある。
この「長方形の暗黒天体部」は「長方形状の黄河上流地域」に見立てられた。
また、「長方形の暗黒天体部」は【海】の字源「水飲み場の水鏡」にも見立てられた。
下に、「ゴビ沙漠・瀚海」のイメージとなる「三つ輪の銀河」と、「美しく麗(うるわ)しい王妃の姿」に見立てられた「十字の銀河」の図を示した。
「十字の銀河の子宮」は、【隹(すい)】の字源となった。
『説文解字』は【隹】の字源を「鳥の短尾なるものの總名なり」と解説する。
要するに、「十字の銀河」が字源銀河となる【隹】の原義は「小鳥」であった。
【「三つ輪の銀河」は「円形に広がる波紋(はもん)」】に見立てられ、【「十字の銀河の子宮」に見立てられた小鳥」は「美しく麗しい、カワセミ(翡翠)」】をあらわすと定められた。
「カワセミ」は「餌の魚を捕らえるために水中に潜(もぐ)る」。
その「カワセミが水中に潜った直後、水面に円形の波紋がひろがる」。
ゆえに、「円形の、三つ輪の銀河」にもとづいて、上記したように【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられたのである。
カワセミは清流や地下から湧き出る泉から流れる川などの、水が澄み樹木が繁茂(はんも)する林や森に棲(す)む。
ゆえに、【海】の字源「水飲み場の水鏡」は、樹木の木陰となる場所が適している。
というのも、人間の目は、自動露出カメラのように、本人の意志の無関係に、明るさに応じて虹彩(こうさい・絞り)がはたらいて、瞳孔径(どうこうけい・瞳孔の直径)が約2mmから約8mmまで変化する仕組みになっているからである。
暗闇(くらやみ)では、瞳孔径は7mmぐらいまで拡大される。
夜の暗闇(くらやみ)における樹木の木陰では、瞳孔径が最大8mmぐらい拡大して【天頂にめぐってくる夏の銀河の各部分】が一段とよく見えるようになる。
だから、【海】の字源「水鏡となる場所」は、「カワセミが棲む清流・地下から水が湧く泉が池や川となる森林の樹木の暗い木陰」ということになった。
以上のごとく、「瀚海」の【瀚】の字源・字義は「カワセミ」であった。
【瀚】の偏【三水】を欠いた【翰】の字義は「やまどり」である。
ゆえに、【翰】は「山地の渓流付近に棲む、ヤマセミ」であったことになる。
だから、【翰】に偏【三水】が加わる【瀚】は「水鳥の、カワセミ」を意味した。
それゆえ、上記したように「カワセミのメス」に見立てられた「王妃」が化粧し着飾(きかざ)る、その美しい魅力を失わないように、姿を映した水鏡」は、【海】の字源であったことになる。
◆しかし、いままで説明してきた【海】の字源となった「水鏡の用途」は【見せかけ・騙(だま)しの用途】を説明するものであった。
というのも、注目すべきことには「カワセミの巣穴の近く」には「ダミー(見せかけ・騙し)の穴」が存在するからである。
ゆえに、いままでの【海】の解説は「ダミー・騙(だま)し」の字源解説であったことになる。
【倉頡の文字作成理論】は最も強大な権力を手に入れる方法となったため、【海】の字源「水鏡」の【真(ほんとう)の用途】)が察知されて反体制側の人々に文字の学芸を習得されて革命に利用されないように、王妃は【真の用途】について人目を騙して気づかれないようにしなければならなかった。
王妃は王朝の崩壊を防御し政権基盤を強固するために、毎夜、天頂とその付近の銀河の形状を映す「水鏡」の【海】で、文字を学ぶように求められた。
したがって、真の【海】の字源となる物は、「毎夜、王妃が字源・原義となった天頂付近にめぐってくる銀河各部の形状が撮影される【水鏡】の映像を観察して文字を学ぶための装置」であったことになる。
つまり、真の【海】の字源は、「毎夜、文字を学ぶために、王妃が住む宮殿の庭園に設置された、字源・原義となった銀河の形状を映す蹲(つくば)いや、せせらぎ(水が流れる、浅瀬)や池」であったことになる。
さらに、拡大解釈されて「【瀚・カワセミが棲(す)む平坦な川、池、湖」も「海」と呼ばれることになった。
その証拠に、滋賀県の「琵琶湖」の古称は「鳰のうみ(海)」であった。
わが国では、古代において「湖」を「海」と呼んでいた。
「カワセミが棲む平坦な川、池、湖」は、つまり「空から平坦な地面を見下ろした川、池、湖の形」は【且(そ)】という字であらわされることになった。
ゆえに、【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな板」つまり俎板(まないた)」を意味した。
そして、「空」をあらわす【宀(べん)】の下に【且】を加える【宜(ぎ)】の字義は「食材をのせる俎板の面のごとく、平面的な図形」となった。
よって、「地宜」という語は「平面的に図化した地図の形」と意味することになった。
前述したように、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
「ゴビ沙漠」には「オアシス(沙漠の中の水がわく池と樹木が繁茂する緑地)」がある。
「オアシスの池の水」は「清く澄んで、天頂の景色を映す」。
ゆえに、「オアシス」は「海」と呼ばれ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と呼ばれたことになる。
したがって、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したことになる。
このブログの前ページにて用いた「ゴビ沙漠・瀚海」の字源銀河「三つ輪の銀河」と、【馬】「フタコブラクダ」の字源となった「十字の銀河」の図を、再度、下に配した。
前述したように、下図における【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられた。
前述したように、黄帝時代、「北緯31度30分の長江口の中央の天頂」には「カワセミ」に見立てられた「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
前述したように、上図における左上の「三つ輪の銀河における、最上部の円形の銀河」は「カワセミがダイビング(潜水)した直後にできた円形の波紋」に見立てられた。
黄帝時代、この「三つ輪の銀河における、最上部の円形の中心」は「北緯42度のゴビ沙漠・瀚海の南部」の天頂にめぐってきた。
だから、「カワセミが水中に飛び込んでできた円形の波紋」は「ゴビ沙漠」に見立てられて、「ゴビ沙漠」は「カワセミ(瀚)の海」つまり「瀚海」と名づけられることになったのである。
◆下に、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
下図の最下部には、「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」。
つまり、「鬼の横顔に両目」、「鬼の横顔の後頭部」には「大きく開く目」、「鬼の横顔のアゴ」には「細長(ほそなが)の切れ目」があり、「目に相似する箇所」は合計四つある。
この「鬼の横顔にある、四つの目の銀河」を、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
下に示すように「十字の銀河」は「子宮に胎児が宿る、妊婦像」に見立てられて【文】の字源となった。
下図に示すように、「十字の銀河の子宮がある腹部」が【宀(べん)】の字源となり、「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)」が【子】の字源となった。【宀】に【子】が加わって【字】の字形が成立した。
下図に示す「小鳥」はじめ「カワセミ」をあらわす【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は、前述したように【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣の「のフタコブラクダとジャコウウシ」をあらわした。
だから、「十字の銀河の子宮」は「鳥と獣」をあらわした。
「十字の銀河の子宮」は「西から東へ歩いてきた、左手に弓を持つ男性の後ろ足」と重なる。
ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「足跡」に見立てられた。
これゆえ、倉頡伝説には「鳥獣の足跡」という語が登場する。
◆現在、学者たちは「人間には目が四つあるはずがない! 【四つ目の怪人・倉頡】は空想の産物だ、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話だ」と断定して、倉頡伝説を全面否定する。
前述したように、倉頡伝説は【子】の字源「出産児や胎児の顔」をあらわす「鬼の横顔に似る銀河」、言いかえると「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。
倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントをえて、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。
上記の倉頡伝説は、【夏の銀河における「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の形状】が現在に示しているように、下記のごとき事実を語っていたことになる。
――今から約5000年前の黄帝時代、「四つ目の銀河」に見立てられた倉頡は、「鳥獣の足跡」と呼ばれた「十字の銀河の子宮」を「万物の名をあらわす文字が生まれる子宮」と定めた。
ゆえに、文字は倉頡によって、はじめて文字が作られるようになった。
倉頡は、今から約6000年前の三皇時代の易占(うらない)に用いられた記号の結縄から文字(書契)へと代えたので、天(夏の銀河)は祝福するかのように慈雨(じう)を降らせたため、禾(稲や麦など)が豊かに実るようになった。
倉頡によって夜な夜なの空に輝く【夏の銀河各部の形状】は【後世に三皇時代の歴史を伝える文字】となったので、三皇時代に天下を治めた包犠(ほうぎ)と女媧(じょか)と神農(しんのう)の三氏族の死んだ霊魂は感激して泣いて慈雨を降らせ、また三皇氏族の子孫たちは感激して泣いたという。
中国の古代において、下図のごとく「顔に目を四つ描く倉頡の肖像画」が発見されている。
このような倉頡の肖像画は、騙(だま)し絵であったのである。
倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人の倉頡の正体」は「四つ目の銀河」であった。
【倉頡の文字作成理論】の中枢である「四つ目の銀河」のごとく、「顔に二つの目、後頭部に大きく見開いた目、アゴに切れ長の細い目を描く倉頡の肖像画」を描いた人物は、国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密を暴露した大罪を犯したことになって、その者はじめ家族および一族全員までも死刑となった。
だから、死刑をまぬがれるために「四つ目の銀河」と異なって、「倉頡の肖像画は「顔に目を四つ目描く騙し絵」となったのである。
その事実も知らないで、近代から現代までの学者たちは「倉頡伝説は荒唐無稽の話」と早合点(はやがってん)して見事に大失敗をして転(こけ)たのである。
以上、倉頡伝説は間違いなく事実を語っていたことになる。
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