漢字の起源と発明を解明す・11
新井白石から始まる300年続く邪馬台国説は
【原始から続く科学】に反する空理空論である
◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
現在、学界は「漢字を発明したと伝える、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」で証明したように、「倉頡伝説は荒唐無稽である」という定説は学者たちの早合点(はやがって)による憶説(おくせつ)であった。
倉頡は【夏の銀河の各部の形状から文字を作る理論(方法)】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXYA(ピクスタ)が撮影した。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が1回~10回まで繰り返して指摘しているように、また前回(10)で証明したように、
倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「邪馬台国について説明する史料」ではない。
というのも、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都は、邪馬壹(壱))国」と記しているからである。
また、『魏志倭人伝』には「邪馬臺(台)国」という記事は1ヵ所も存在しない。
「邪馬壹(壱)国が正しく、邪馬臺(台)国は偽り・空想である証明」は、このブログ「漢字の起源とは発明を解明す」では、多分、2ヵ月後の7月にて詳細に具体的におこなう予定である。
『魏志倭人伝』に登場する「対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明」は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を後世に伝える、最も貴重な文献であった。
江戸中期に生存した新井白石(1657―1725年)から約300年後の、現在の学者たちは、『魏志倭人伝』に幾つかの誤読を加え、その誤読で成立させた意見を誇示(こじ)して、「『魏志倭人伝』は邪馬臺(台)国について説明する書物である」という幻想を、日本国民が信じるように騙し続けている。
◆『魏志倭人伝』の記事を、【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて素直に読むとーー東へ延びているはずの日本列島の本州は南の方に延びていることになる。
そして、『魏志倭人伝』は初頭で、「対馬国の南の一海を渡る千余里して、一大国がある」と説明する。
対馬国は現在の長崎県北部にある対馬であり、一大国は対馬の南にある壱岐(いき)であった。
ゆえに、対馬国・北と一大国・南と定める方位規定は現在の日本地図の南北に合致する。
このため、学者たちはじめ多数の研究者たちは「対馬国と一大国の南北関係からして、東が南となるはずがない。だから、日本列島の本州は東ではなく南へ延びるという説明は誤っている」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』の「本州は東ではなく、南に延びる」という説明は、【倉頡の文字作成理論】を伝えるもので――【倭】の字源にもとづく卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理を語るものであった。
だから、『魏志倭人伝』においてはーー【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】を正当性の盾(たて)・つまり理由にする思考方法は、まったく通用しない。
◆邪馬台国説学者たちはまったく気づいていないが――【現在の日本地図のごとく、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方法】だと、倭人国の使者たちは魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏都の洛陽(らくよう)に到着できなくなる。
したがって、邪馬台国沖縄説の場合、倭の使者たちや船乗りたちは大海を越えて帯方郡や魏都に到着できなかったために、魏と国交を結べなかったことになる。
倭人国は魏と国交を結べなかったということは、魏は倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。
そうすると、約2000字で構成された『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
約2000字の『魏志倭人伝』は1字も文字が記されていなかった白紙に化けるという話は、まさにキツネにつままれるデタラメであり、空理空論ということになる。
さらに、『魏志倭人伝』における
「古(いにしえ)より以来、倭人国の使者が中国に詣(いた)るに皆自らを大夫(だいふ)と称した」という記事はじめ、
「倭人国の外相(外務大臣)の難升米(なしめ)は大海を渡って魏都に到着し、後年、倭人国に帰国していた」という説明と、また
「倭の載斯烏越(そしあお)は大海を渡って帯方郡に到着して、倭国における相攻撃(あいこうげき)し合う内乱の様子を説明して、倭人国に帰国した」という説明と、あるいは
「倭の掖邪狗(ややこ)等二十人は魏都・洛陽に到着した」という説明などは
すべてまったくウソであったことになる。
しかし、このような「倭の使者たちは大海を渡ることができなかった」という状況が事実であったとしたならば、
前述したように2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が記されなかった白紙であったことになりーーこのような結果は絶対に信じることはできない。
ゆえに、この点からしても邪馬台国学者たちの意見は空理空論であったと確信できる。
◆上記したように――【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、倭人国の使者たちや使者たちと行動を共にした船乗りたちは、帯方郡と魏を隔(へだ)てる大海を往来することができないことになる。
というのも、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと「倭人国の使者たちと船乗りたちは大海を往来できなかった」という事実が――下図の「歳差状況図(天の北極の位置図)」によって明確に証明することができるからである。
緯度を測る簡単な方法は、天の北極を中心に円を描く北極星のかたよりをキャッチして地平線(水平線)から天の北極までの高度を計測する方法である。
天の北極の高度が35度35分ならば、その観測地点は北緯35度35分ということになる。
しかし、この方法だと、原始や古代には精密に北極星のかたよりを計測できる器具がなかったので――原始や古代の人々には、北極星のかたよりが精密に測量することができなかった。
原始や古代の人々が大海を往来して生存していくためには、【1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測ることができなければならなかった】。
上図が示すように、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年(中国の五帝時代)のりゅう座α星と、現在から約76年後の西暦2100年頃のこぐま座α星である。
上記した二つの北極星が天の北極を中心として描く円の直径は1.5度(90分・満月の3個分)である。
ゆえに、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極の高度)をキャッチすることになるが――この方法では【人間の目は命を失わずにすむ、1度の60分の1の1分の精度】で測定することはできない。
したがって、北極星のかたよりで天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、人々は旅先で命を絶った。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使者たちは出港してまもなく、大海にて命を失った。
だから、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、『魏志倭人伝』は字が1字も記されていない白紙であったことになる。
上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10度離れていた。
ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約20度つまり1200分の円を描いていたことになる。
直径が約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置(高度)は命を失わずにすむ1分の精度で測量することは、人間の目では不可能である。
だから、原始や古代においては、遠くの地に旅して家族が待つ故郷に帰還するときや大海を往来するときに、人々が天の北極の高度を緯度に換算する方法では命を失うことになった。
このように、【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて、「『魏志倭人伝』の日本列島の東は南へ延びる地理は完全に間違っている」という主張・意見は【原始から続いた科学】、
いいかえると【『魏志倭人伝』が説明する卑弥呼時代の真実や事実を解明するために必ず前もって知っていなければならない根本的な科学】に反する空理空論ということになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』が「日本列島の東は南に延びる」と説明する転回日本列島地理には真実のカケラもない雲をつかむような作り話であると結論づけてしまうことは断じてできない。
◆下図は、【天頂点(てんちょうてん)と天頂緯度線】についての説明図である。
【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【観測者にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
上図に示した、銀河部位が天頂点に接近して西から東へ進む軌道は、「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」となる。
この「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」を4秒から6秒間でキャッチすると、【1度の60分の1の1分の精度】で緯度が測定できた。
原始のときから、人間の目には日々鍛錬すると【1分の精度で緯度がキャッチできる能力】を有することができ、人間の脳には「【亠】をキャッチすれば命を失わずに生存することができると感知して行動する本能」がそなわっていた。
1度の60分の1の1分の精度で緯度を測る方法は、天頂点と重なる銀河部位の運行(軌道)において最も高くなって平らな【一】の線となる天頂緯度線を寸時(4秒~6秒の間)にキャッチすればーー1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できる。
天頂緯度線の中央の天頂点は、【重力の方向を上方にのばして天球と交わる天頂点の角度をあらわす度数(距離)】となる。
ゆえに、天頂点と天頂緯度線の度数は、天の赤道から天頂点までの角距離である。
天頂緯度線をキャッチする観測地点は、地球の赤道からの角距離である。
地球の赤道の天頂は、天の赤道となる。
だから、観測地点の角距離と天頂点の角距離は同一となる。
この「緯度の測定の方法」は「赤道座標」と呼ばれ、「北緯」は「+赤緯(プラスせきい)」と表現される。
つまり、「地球の赤道より北の北半球の35度35分の地の緯度」は「+赤緯(せきい)35度35分」であり、「地球の赤道より北の北半球の31度30分の地の緯度」を「+赤緯31度30分」である。
だから、【赤道座標の方法】を用いると、人類は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた。
卑弥呼が統治した倭人国では【天の北極や北極星を緯度の測定の基準点】とせずに、【赤道座標における天頂点を緯度の測定の基準点とし、天頂緯度線を緯度の測定の基準線】とした。
ゆえに、【天頂緯度線をキャッチして緯度を測定していた卑弥呼王朝】は、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「日本列島の本州は東に延びずに、南へ延びている」と考えたのである。
ゆえに、卑弥呼王朝は「方位が時計回りに90度転回して東が南となる本州地図」を制定した。
以上のごとく、【『魏志倭人伝』の「日本列島は東に延びずに、南へ延びる」と説明する転回日本列島地理】は【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。
◆人類は【1度の60分の1の1分の緯度差を測定することができる、天頂緯度線をキャッチする方法】を、食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から受け継いだ。
というのも、人類は本能的に、【亠】の字源「天頂緯度線・天頂点・子午線」をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有し、そして【亠】をキャッチする技(わざ)を工夫(くふう)して磨いた。
だから、原始のときから卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばまで、人々は1分の精度で緯度が測定できた。
この【亠】をキャッチする能力(眼力)をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれた原始時代やまた氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において絶滅したことになる。
人類が滅びなかったのは、【亠】をキャッチできる能力が目に、【亠】をキャッチしようとする本能(本能行動)が頭脳にそなわっていたからである。
原始から卑弥呼時代まで、遠くの地を旅して家族が待つ家に帰還する人々や大海を往来した人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を測定する方法は【亠】のキャッチのみ、ただ一つであった。
北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法では、人類は原始の時にすでに絶滅していたことになる。
このように、原始から卑弥呼時代までは、「天の北極」は「緯度の測定の基準点」にはならなかったので、「天の北極」は「方位規定の基準点」にもならなかったのである。
卑弥呼時代は、「天頂点」が「緯度測定の基準点」であり、「天頂緯度線」が「緯度測定の基準線」であった。
これが原因で、卑弥呼は「日本列島の本州は東ではなく南に延びている」と考えた。
また、【倉頡の文字作成理論】の学芸を取得した倭人国の王たちや女王たちは卑弥呼が立論した「日本列島は東ではなく南に延びる転回倭地理」を真実と考えた。
◆上記した「日本列島の本州が時計回り90度回転して東が南となる方位規定」は、倉頡が作った【禾(か)】「稲(いね)」の字源・原義となった。
【禾】の下に【女】が加わる【委(い)】の字源・原義も、また【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭(わ)】の字源も「方位が時計回りに90度回転して、北→東・東→南・南→西・西→北に変位すると定まる方位規定」であった。
だから、『魏志倭人伝』の「日本列島の東は南へ延びる」という説明は、倉頡が作った【禾】の字源・原義を伝えるものであり、結局(けっきょく)、【倉頡が発明した文字作成理論】を語っていたことになる。
【学】の字源、「学問」の語源は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「日本列島は東ではなく南に延びる」という地理は「学問における定理」をあらわしていた。
だから、時計回りに90度転回して「東が南になる」という方位規定は、「民間における方位規定」、つまり「通常の方位規定」ではなかった。
倉頡は、下に示す3つの掟(おきて)を定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろんその家族そして一族全員をも死刑にする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
したがって、五帝時代に作られた文字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音(かおん)文字、殷代(いんだい)前半期の漢字は、
【神々の名】や、【物の名(鳥や獣の名、諸々の事象・事物の名)】や、【国名】や、【地名】、【氏族名】などで残ることになった。
つまり、五帝時代・夏代・殷代前半期の漢字は【神々の名】、【物の名】、【国名】、【地名】、【氏族名】などをあらわす、厳重な秘密にまもられる文字であったので――実際は文字として存在するものであった。
ゆえに、五帝時代・夏代・殷代前半の漢字を記した史料は発掘されていないが、
『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴国までの30の小国名によって、五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は失われずに保存されていたと証明される。
したがって、現代の学界の「文字を書いた史料が発掘されない、五帝時代の書契と夏代の漢字は文字として認めることはできない」と主張する定説は、錯覚・空想であったことになる。
『魏志倭人伝』には――
「紀元前2070年頃の夏代の黎明期(れいめいき)、
帝王になった益(えき)氏の王の孫の王子と若者たちが大海を越えて秋田県の男鹿半島・八郎潟の東方の地に定住して、
(1)【三皇時代の易占に用いた記号の結縄(けつじょう)】、
(2)【五帝時代の書契】、
(3)【夏音文字】、
(4)【倉頡の文字作成理論】、
(5)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、
(6)【精密な中国海岸線地図と精密に地図を作製する土地三角測量】などを
教え広めた」と説明する記事がある。
日本列島の海岸線を1本の線にしてつなぐと、日本列島の海岸線は中国の海岸線の約3倍も長いという。
ゆえに、【精密な日本列島の海岸線】は【倉頡の文字作成理論】はじめ【五帝時代の書契】、【夏音文字】を保存するのに適していた。
言いかえると、【日本列島の海岸線】は【字源・原義】を保存するのに適していた。
だから、卑弥呼時代において、わが国には【神々の名】・【物の名】・【地名】をあらわした文字によって【倉頡の文字作成理論】と【字源・原義】が失われずに保存されることになったのである。
ゆえに、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて証明したように――「対馬国」と「一大国」という小国名と、「瀚海(かんかい)」という沙漠名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす役目を有していた。
◆この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでは、【原始からつづく科学】にもとづく【倉頡が考えた天頂緯度線による方向規定】に注目してーー
『魏志倭人伝』の全記事は事実・真実を伝えており、1ヵ所も誤記がないことを証明する。
ゆえに、「軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」と定める
吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法の放射性炭素年代測定を手掛かりにして奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に空理空論であったことが明白となる。
西欧近代科学の合理思想にもとづく学問的成果による邪馬台国説に対して、
その証明方法が原始的で古びて幼稚であったとしても、『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も間違いが無い事実を証明したならばーー
卑弥呼が住んだ王国にふさわしい大型遺跡の吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法(放射性炭素年代測定)を用いて奈良県桜井市の纏向遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に明白に空理空論であったことになる。
上記した指摘が事実・真実であることは、下記の冤罪(えんざい)事件の事例によって証明される。
ある町で、5人を残忍きわまりなく方法で殺害した事件がおきた。
その町を担当する県警は、DNA型鑑定をもちいて一人の被害者の着衣に付着していた体液と容疑者Aの体液が一致したとして、容疑者Aを真犯人として逮捕した。
しかし、容疑者Aはアリバイを語って無罪を主張した。
でも、容疑者Aの言は無視され、最高裁で5人の殺人によって死刑が確定された。
容疑者Aの妻が夫の無罪を信じて、こつこつと数年がかりで様々な土地にめぐり、また様々な人々に会って、ついに夫のアリバイが成立する証人を発見した。
この結果、以前のDNA型鑑定は県警の思い込みによる冤罪・空論であったと証明されて、容疑者Aは釈放された。
以上のごとく、
地味(じみ)な【天頂緯度線による緯度測定の方法】を注目すると、
『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も誤記が存在しないことになる。
よって、「『魏志倭人伝』には幾つかの誤記がある」と主張する、現在の二つの華々しい有力説の、
邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は
共に明らかに空理空論であったことになる。
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