漢字の起源と発明を解明す・17
不弥国には中国の海岸線地図が秘められていた・2
◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。
倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
◆今から約4090年前(紀元前2070年頃)、「夏の始祖」とよばれる帝禹(う)の息子の啓(けい)によって、
国家を樹立して啓の氏族の子孫が代々帝となる――世襲国家政治体制の夏王朝が創設された。
司馬遷(しばせん)著『史記』夏本記(第二)は、〔世襲国家政治体制の夏王朝の創設における成立と、帝禹(う)と帝益(えき)について〕、下記のごとく説明する。
――父の帝禹は息子の啓の世襲王朝国家政治体制に猛反対し、臨終の際に黄帝時代以来の氏族共同政治体制の継続を願って、禹の政権を補佐した益(えき)氏の首長に帝位を継承させた。
「氏族共同政治体制」とは「多数の氏族が集まって協力し、その氏族たちの首長の中で最も優秀な人物を大王に選んで国家を樹立しない政治体制」であった。
諸侯(しょこう)たちは亡き禹の遺志を無視して啓のもとに入朝し、帝益に従わなかった。
ゆえに、帝益は禹の三年の喪(も)が明けると、中国では氏族共同政治体制の継続はもはや不可能であると判断して、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して、箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。
箕山の南に隠棲した益は、禹の遺志・氏族同政治体制を新天地で継続する事業を計画したが、
彼は年老いていたために中国と日本列島の中間の大海を小舟で漕いで横断する体力を失っていた。
それゆえ、この事業は、小舟を漕いで荒波逆巻く大海を横断できる体力を有する益の孫の青年王子と若者たちによって行われた。
『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(4)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めて、帝禹の遺志・氏族共同政治体制をわが国に植えつけた。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などが記されて残った。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」では、「『魏志倭人伝』が説明する対馬国から数えて6番目の小国の不弥(ふみ)国は、宗像(むなかた)大社の辺津宮(へつみや)を中心とする福岡県宗像市周辺であった」と証明した。
下図は、「不弥国の宗像地方の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」である。
上の図は、【現在方位にもとづく宗像地方の「不弥」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)の解説図】である。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)町の海岸線」を「水鳥の【弥】」、つまり「カンムリカイツブリの頭(横顔)」に見立てた。
また、「釣川から宗像平野部までの地宜」を「【弥】(カンムリカイツブリ)の首と胴体と翼」に見立てた。
このような「宗像地方の【弥】・カンムリカイツブリの姿に相似すると見立てられた地宜の形状」は【不】の字源解説文の「鳥(カンムリカイツブリ)飛んで上翔し、下り来らざる」という否定・打消しの「ず」をあらわしていると解釈された。
ゆえに、卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。
「不弥(彌)国」の【彌(弥)】の字源となった「カンムリカイツブリ」は海面または湖や沼にすむ水鳥である。
「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
この「銀白色の首から体下面」が、【爾(尓)】の字源・字形となった。
「水面に浮かぶ、カンムリカイツブリの翼をたたむ背中と体下面(胴体下部)」は「弓」の形に相似すると見立てられて、偏【弓】に【爾(尓)】が加わって【彌(弥)】という字になった。
【弥】の「カンムリカイツブリ」は「長時間水に潜(もぐ)ることができる」ゆえ、「八丁(はっちょう)もぐり」の俗称(ぞくしょう)がある。
胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「八丁もぐりの、50秒ほどで潜水できるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることを思いついた。
【弥】の「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長46~61㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育った胎児と同じくらいである。
これゆえ、倉頡は「カンムリカイツブリの大きさ」は「産道」を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する出産児の大きさ」に適合することに注目した。
ゆえに、倉頡は「カンムリカイツブリ」を「産道を通過して誕生する出産児」に喩えることにした。
だから、「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリ」は「4回の回旋をして誕生する出産児」をあらわした。
◆【弥】の字源「カンムリカイツブリ」は九州と瀬戸内海に飛来(ひらい)して繁殖(はんしょく)する。
「不弥国」の【不】の字源を、『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来(こ)らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
この【不】の字源解説は、「不弥国の地宜(ちぎ)が鳥(カンムリカイツブリ)が天に上って飛んで行く。そのカンムリカイツブリは【一】の字源「十字の銀河の子宮」に向かって去っていく。「十字の銀河の子宮」は【天】の字源の一部となる(つまり、天のごときなり)」と説明していることになる。
結局、【不】は「鳥(カンムリカイツブリ)が空を飛翔(ひしょう)して、地に下りて来ない」という否定・打消しの「ず」を意味していることになる。
下に、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を配した。
下図に示したように――「宗像地方の【弥】(カンムリカイツブリ)の地宜」は【一】の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐に向かって(つまり、【一】の字源地宜「壱岐」に向かって)、空を飛翔して、地に下りて来ない姿――に観(み)える。
だから、下図は上記したように――『説文解字』の【不】の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」という字源解説をあらわしている。
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう――【「不弥国」における南北に伸びる津屋崎町の海岸線】が【中国海岸線地図の秘密】を有して、結局、【倉頡の文字作成理論】を説明している状況」を解明するためには、
【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
だから、下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
◆上図の左側・中央よりやや上部に、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
下に、はくちょう座のε(エプシロン)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)、β(ベータ)の4つの星が三角形に囲む「人の横顔に酷似する銀河」の図を配した。
この4つの星のうち、γ星を結ばずにε・δ・βの3つの星を結ぶと、三角形となる。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
上図が示すように、「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる、国際的に天文学界で名称が定められた銀河部がある。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。
「北天の最輝部」は銀白色に輝く。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわす図である。
(注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社j発行の143ページより転載した。)
この「脚で水面を蹴(け)って水しぶきを浴びてビショ濡れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」は、下の左側の「北天の最輝部の形状」に相似すると見立てられた。
というのも、上記したように「カンムリカイツブリ首より以下の体下面」は「北天の最輝部」同様に銀白色に輝くいているからである。
ゆえに、「カンムリカイツブリの銀白色の首より以下の体下面」は【爾(じ)】の字源となった。
言いかえると、倉頡は【爾】の字を作って「カンムリカイツブリ」をあらわしたと考えられる。
しかし、後世、【爾】の字は通常「うつくしい。なんじ」などと意味することになり、「カンムリカイツブリ」という字源を失った。
それゆえ、「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの、オスとメスの首より以下の銀白色の体下面と背中が〔弓〕の形に相似する」ということで――偏【弓】に【爾(尓)】が加わった【彌(弥)】が「カンムリカイツブリ」をあらわすことになった。
◆下に、「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」を配した。
下図のおける北緯30度の地所は、「中国南部の呉地の、杭州湾(こうしゅうわん)の南岸」である。
下図の右側に示したように、「杭州湾の南岸(北緯30度)の天頂」には、「北天の最輝部における最南部」がめぐってきた。
黄帝時代、「北天の最輝部の最北部」となる「はくちょう座γ星とこの星を中心とする円環銀河部」は、黄帝陵(北緯35度35分)よりやや南部の地所の天頂にめぐってきた。
下に「北天の最輝部のγ星・円環銀河部と【日】の金文形の図」を配した。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は、
下図における【日】の金文形を「太陽の形。中に小点を加えて、実体のあることを示す」と解説する。
つまり、下図の左側の「円環銀河部と、その円形中心のはくちょう座γ星」が、金文の【日】の「太陽」の字源であったことになる。
下に示すように、黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」を「地平線、あるいは水平線」に見立てるために「水平」にして――【日】の金文形となった「太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)が地平線(水平線)よりの上の空へ昇って、東の空を赤く染める朝の光景」を表現するためには――特別に想像力をたくましくするように求められた。
というのも、(1)「斜めの天頂緯度線」を「水平」にすると「北天の最輝部」は「傾きが一層加わってあたかも真横に転がるようになる」――このため、「太陽が地平線(水平線)より上へ垂直に昇る景色」にはならない。
これゆえ、下図に示したように、(2)新たに「真横に延びる地平線(水平線)となる線」を描き、
さらに、「垂直状に立つ北天の最輝部」を作図すればーー
(4)「赤く輝く日の出の太陽(はくちょう座γ星と北天の最輝部)」が、下図のごとく「地平線(水平線)より昇る景色の想像図」となる。
このような複雑な工作を加える「想像」は、わたくしの独断・推測によるものではない。
というのも、前回の「漢字の起源と発明を解明す・16」にて詳細に明したように――下の「はくちょう座γ星と北天の最輝部の光景の想像図」は、【旦(たん)】の字源「東の空を赤く染めて太陽が地平線(水平線)より上へ昇って姿をあらわす光景」をあらわすことになったからである。
だから、上の「【旦】をあらわす想像図」は、【不】と【弥】の字源をあらわした。
前述したように、『説文解字』は【不】の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来(こ)らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説するからである。
ゆえに、上の「想像図」において――【弥】「カンムリカイツブリ」の字源「北天の最輝部」は「鳥が空を飛翔して、地に下りて来ないよう」に観(み)える。
そして「地平線(水平線)」に見立てた「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部中央」は【一】の字源であった。ゆえに「一に従ふ」と説明された。
前ページの「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線」に示したようにーー【一大】の語源となった「十字の銀河の子宮」の緯度線は「北天の最輝部の最南部」を貫通していた。ゆえに、「一はなほ天のごときなり」ということになる。
以上のごとく、上図の「【旦】をあらわす北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源をあらわした。
下に、前ページにて取り上げた、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を、再度配した。
下図の〔【倭】に字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづく一大国・壱岐と宗像地方の地図〕は、「【旦】をあらわす北天の最輝部」に因(ちな)んで――「鳥(弥・カンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、地に下りて来らざるなり」と解説された【不】と【弥】の解説図である。
だから、卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。
◆前ページに配した「太陽が地平線(水平線)より上の空に昇る【旦】の想像図」は、【難】の字源となった。
というのも、前述したように複雑な工作を加える「【旦】の太陽が東の地平線(水平線)より上の空に昇る景色の想像図」は【倉頡の文字作成理論】において「特に難(むずか)しい作業」ということで――【難】の字源となったからである。
『魏志倭人伝』は、「倭人国の外相(外務大臣)の名は難升米(なしめ)」であったと記す。
上記したように、「難升米」の【難】の字は「【旦】の太陽が地平線(水平線)より上の空に昇る景色の想像図作成は、特に難しい作業」を指していた。
「難升米」の【升】は【昇】の初文(最初の文字)である。
つまり、【升(昇)】は上記した「【旦】の字源解説における、太陽が地平線(水平線)から昇るの、升(のぼ)る」をあらわした。
「難升米」の【米】は【中国南部の長江口(長江の河口)・杭州湾周辺地域で育つ禾(稲)の穂に実る米】をあらわした。
下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、黄帝時代、「山東半島」は【弥】の「カンムリカイツブリの横顔から首までの形」に相似すると見立てられたことになる。
また、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝(つまり、【旦】)、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯35度35分)」である。
以上のごとく、「不弥国における津屋崎の海岸線」と「山東半島の北端から付け根での地宜」は共に「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形」で合致する。
前述したように、「山東半島の付け根の日照より少し西にある呂県陵陽河遺跡から出土した灰陶尊の口縁部にほどこされた〔【旦】の想像図〕」は【難】の字源をあらわし、
この【旦】は「地平線(水平線)より太陽が升(昇)る光景」であるゆえ、【升】の字源をあらわし、
【米】は「中国の南部の長江口・杭州湾付近で育つ禾(稲)の穂の実」をあらわした。
要するに、倭人国の外相「難升米」という名は「山東半島から杭州湾の南岸までの海岸線」をあらわした。
だから、「難升米」は「精密な中国海岸線地図の知識を有する、精密な地図を作製する役職の長官」をあらわす名称であった。
◆このため、難升米が住む不弥国・宗像地方における津屋崎町の海岸線には――夏代黎明期(紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが教え広めた「精密な中国の海岸線地図の秘密」が保存されていることになった。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は猛獣の「トラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官に戦闘術を教えた」と伝えるものであったことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも数えて記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味した。
これゆえ、『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬、虎と豹は生息していない)」という記事がある。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では9回以降繰り返して証明しているように、【牛】の字源・字義「ジャコウウシ」のであり、【馬】の字源・字義は「フタコブラクダ」であった。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀同様に【虎】は「不弥国・宗像地方を治める男王(難升米)の主なる役職」の、「精密な地図を作製する長官」を意味したことになる。
この【虎】「精密な地図を作製する長官」を補佐するのが、【豹】の「副官たち」であったことになる。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」の末部は――不弥国・宗像の王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」であったと記す。
つまり、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相「難升米(なしめ)」は、不弥国・宗像地方を治める「天菩比命」であった。
というのも、前述したように、はくちょう座のγ星をのぞく、ε・δ・βの三つの星は精密な地図を作製する基礎となる三角形を形成し、
この三角形は「北天の最輝部」を包囲しているからである。
前述したように「北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源となった。
ゆえに、【不】と【弥】の不弥国・宗像王の難升米(天菩比命)は「三角形測量にもとづいて精密な地図を作製する長官」であったことになる。
だから、和名「天菩比命」の夏音名(夏音文字であらわす名)は「難升米」であったことになる。
以上からして、『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部に記される「天菩比命」は「難升米」であり「精密な地図を作製する長官」であった。
『古事記』は「天菩比命(難升米)」には「七人の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がいた」と記す。
この「七人の子の建比良命」は「(1)出雲国造(いづものくにのみやつこ)、(2)无耶志国造(むさしのみやつこ)、(3)上菟上国造(かみつうなかみのみやつこ)、(4)下菟上国造(しもつうなかみのみやつこ)、(5)伊自牟国造(いじむのくにのみやつこ)、(6)津島県直(つしまのあがたあたひ)、(7)遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)たちの先祖である」と列記する。
上記した「天菩比命の子」と記された「七人の建比良鳥命」は「天菩比命と血のつながる息子」ではなかった。
つまり、『古事記』上巻は「天菩比命に従う分子の氏族」を「子」と表現したことになる。
だから、「七人の建比良鳥命」は「難升米(天菩比命)の精密な地図を作製する長官を補佐する、倭人国の各地に住んでいた副官氏族たち」であったことになる。
言いかえると、「七人の建比良鳥命」は「七人の豹」であったのである。
◆益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、「虞(ぐ)」の重職に就任するように命令された。
ゆえに、「夏の始祖」の帝禹(う)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は「虞」の役職に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事して【精密な中国海岸線地図の作製】に努めた。
【虞】の字は【虎】の下に【呉】が加わって構成される。
ゆえに、代々の益氏の首長は「虎」つまり「精密な中国海岸線地図を作製する長官」であった。
益氏は、「米の産地の中国の南部の呉地から海岸線測量を始めた」。
これゆえ、「精密な中国海岸線を作製する長官の益氏」は【虎】の下に【呉】を加える【虞】の字であらわされて「ぐ」と呼ばれることになった。
(注 益氏が帝舜に命じられて「虞」の重職に就いたことは、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記述されている)。
『易経(えききょう)』は中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典である。
「中国全土の海岸線地図」について、『易経』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は
下記のごとく説明する。
「易は天地と準(なぞら)う。故に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察す」
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「易は天と地になぞられて作られた。ゆえに天と地の道を弥綸する(天と地の道が途中において破れ目・裂け目の状況になっても、つくろいおさまって洩れなく包みこむ)。仰いで天頂緯度線をキャッチして、天から俯(うつむ)いて地に緯度原点を設置して、この経緯度原点の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って三角点を埋設(まいせつ)し、測量して図化作成すれば地図が察(あきら)かとなる」
下に示したように、「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「十字の銀河より南の銀河の形」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下に示したように「十字の銀河と鹿の横顔に似る銀河」は「オス鹿の横顔に似る銀河」ということになる。
よって、下の左側に配した【道】の金文形の字源銀河は右側の「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
下図が示すように、「廟島列島(びょうとうれっとう)の地宜」を「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「山東半島の地宜」は「鹿の横顔」に観える。
したがって、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜であった。
だから、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準(なぞら)う」と表現したのである。
『説文解字』は、【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」と解説する。
「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには「必ずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。
つまり、遠くの地を往復する人も大海を往来する人も天頂緯度が測定できれば必ず家族が待つ家に帰還することができた。
この「天頂緯度線をキャッチして帰家する方法」を「トカゲの帰家性」に見立てて、『説文解字』は【易】の字源を「蜥蜴なり」と解説した。
だから、「遠くの地の往復や大海の往来の道(道中)において、所々にて観測した地点の緯度はその観測地点における天頂緯度と定まっている原理」を、
『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」と表現したことになる。
下に示すように、「山東半島の地宜」は【弥】「カンムリカイツブリの頭(横顔)と首までの形」に相似する。
また、「山東半島の付け根から南と北へとつながる海岸線」は「空を飛ぶ、【弥】のカンムリカイツブリの翼の形」に相似する。
この「【弥】の南の翼」は「長江口と杭州湾にて、破れ目や裂け目となる」が、「杭州湾の南岸からはなめらかな円弧(カーブ)を描いてつくろいおさまる」。
このように、「中国の海岸線」は「中国全土を洩れなく包みこんでいる」。
だから、『易経』繋辞上伝は「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
以上からして、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、
上記の現代語訳のごとく「天頂緯度測定して経緯度原点を設置して、三角測量の基に地図を作製する方法」を簡略化して説明していたことになる。
◆前述したように、「山東半島の付け根の日照より少し西にある呂県陵陽河遺跡から出土した灰陶尊の口縁部にほどこされた〔【旦】の想像図〕」は【難】の字源をあらわし、
この【旦】は「地平線(水平線)より太陽が升(昇)る光景」であるゆえ、【昇】の初文(最初の文字)の【升】をあらわし、
【米】は「中国の南部の長江口・杭州湾付近で育つ禾(稲)の穂の実」をあらわした。
要するに、上図の「中国全土を弥綸する海岸線」をあらわす「難升米」という夏音名は、「倭人国各地の地図を作製する役職の長官名」をあらわしていた。
これゆえ、不弥国・宗像地方の王・難升米(天菩比命)は「精密な地図を作製する長官」であった。
◆前述したように、『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は「宗像王の天菩比命(難升米)には七人の副官・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従っていた」と説明する。
この記事における、七人目の副官は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の先祖の建比良鳥命」であった。
「遠江」は「現在の静岡県西部」であり、対馬国から数えて15番目の「不呼(ふこ)国」であった。
「不弥国・宗像地方」の【不】について、前述したように『説文解字』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
他方、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下の上図「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかんさい)と卵管の役割」は、
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、花のおしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と、下図の「花の生殖器官図」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台となる、萼拊(がくふ)の役割」は類似せず両者はたがいに別の役割となる。
この「出産児が通過する産道と花の台(うてな・萼拊)の役割は同じでは非(あら)ず」という否定・打消しをあらわして、【不】の字源・字義が成立した。
このため、【不】の契文と金文の字形は「花の台(うてな)」を表現する図案となった。
ゆえに、白川静著『字統』は、【不】の字源を「もと花の萼拊の形である」と解説した。
「近江」は「都に近い江の琵琶湖」、「遠江」は「都から遠い江の浜名湖」を意味した。
下に図示したように、「卑弥呼時代の浜名湖の地宜」は遠州灘とつながっていなかった。
「現在の浜名湖」は遠州灘とつながる汽水湖(きすいこ)である。
下図に示したように解釈すると、「卑弥呼時代と現在の浜名湖の地宜」は「花の形」に類似する。
下図に右下にある「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」は「花の萼・台(うてな)」に相当する。上記したように、「花の台」は【不】の字源である。
『説文解字』は、「不呼国」の【呼】の字源を「息を外(は)くなり」と解説する。
下に、【不】の字源「花の台」となる「浜名湖の支湖の、引佐細江」とその周辺の地宜を示した。
下の右側の「大崎半島の付け根から都田川(みやこだがわ)の河口まで」が「人の横顔」に相似するゆえ、「引佐細江」は「人が息を外く口(くち)」に観える。
ゆえに、【不】の「花の台」となる「引佐細江」は【呼】の字源をも示すことになった。
なお、「都田川の水は土砂を運んで引佐細江に吐(は)く(息を外く)」ゆえ、「都田川の河口と引佐細江」もまた【呼】の字源をあらわした。
下の左側の「村櫛(むらくし)半島の地宜」は「人の長い横顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)東方の内浦」も「息を外くなり」の【呼】の字源をあらわす。
「内浦の北隣の地宜」は「鳥の頭と翼の形」に相似する。ゆえに、【不】の「鳥飛んで上翔する。下り来らざるなり」という否定・打消しの「ず」をあらわすことになったのであろう。
上図の「浜名湖と引佐細江と、その湖岸の形」が示す【不】と【呼】の地宜にもとづいて、
卑弥呼は「遠江」を「不呼国」という小国名に定めた。
しかし、上図の地宜にもとづく「不呼」という名称は要領を得ず不明確である。
◆ゆえに、遠江の豪族の建比良鳥命とその一族は「遠江」の小国名は「不呼」であったことを明示する「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」を作製した。
この「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」は、『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝』の成立時代(280年~289年)と同時代の260年頃から着手され、約30年後の290年頃に完成した。
『魏志倭人伝』に記述された最終年は「250年頃」と推定されるゆえ、「遠江の1千万坪の大鳥の地上絵の作製」はその10年後には早くも着手されていたことになる。
前述したように、「遠江、不呼国」の【不】の字は「鳥の【弥】・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざるなり(地上に下りて来ない)」という否定・打消しの「ず」をあらわしている。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・16」で解説したように、「不呼国」の【呼】の字源は「鳰(にお・カイツブリ)」であった。
倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
鳰の全長は25㎝~29㎝である。
第12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外(は)きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死(ちっそくし)しない胎児」に喩えることにした。
倉頡は【乎(こ)】の字を作って「羊水の中に潜って息を外(は)きつづける小さな胎児」と「鳰(にお)」の両者をあらわすことにした。
しかし、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになった。
このため、偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。
下の図は、現在の静岡県西部の遠江の一画の浜松市浜名区細江(ほそえ)町の行政区画を表示する地図である。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km2)である。
かつては、1989年(平成元年)頃の細江町は「静岡県引佐郡細江町」であり、つぎに細江町は「静岡県浜松市北区細江町」と変わり、現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」である。
現在の地図帳には下の地図は消滅しているかもしれないが、
細江町が「引佐郡細江町」あるいは「浜松市北区細江町」であった・つい最近までは、下に示した「1千万坪の細江町の地図は地図帳に存在していた。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」あるいは「建比良鳥(たけひらとり)の地上絵」と呼ぶことにした。
上の地図における「細江町の地図における東の境界線」は【不】の字源「鳥・(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、下り来らざるなり」と否定・打消しの「ず」の形状をあらわしている。
下の右上の「引佐町(浜名区)の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は「鳰(にお)の横顔と浮巣(うきす)の形」となって【呼】の字源を明示する。
ゆえに、「1千万坪の卑弥呼の地上絵」は「遠江は不呼国であった」と明確に示している。
◆下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って、その頂に三角点を埋設し、1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精密に地宜を作成できる光波測距儀による三角測量が行うことができなかった。
ゆえに、地図作製係の副官・建比良鳥命とその一族は260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させたことになる。
上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、前述した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。故に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文の秘密を明確に説明する遺跡である。
言いかえると、上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、
紀元前2050年頃の夏代黎明期に男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、200年~250年間、「虞」の重職に従事していた益氏の王子一行がもたらした「精密な地図作製方法」をあらわしている。
再々、くりかえすが、下の図に示したように――「はくちょう座のγ星をのぞく、ε・δ・βの3つの星を結ぶと三角形となり、この三角形は北天の最輝部」を包囲する。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法」を考案したと考えられる。
前述したように、「三角形に包囲される、北天の最輝部」は【不」と【弥】の字源となった。
上図の「卑弥呼の地上絵における大鳥の頭部(横顔)」は「不弥国の津屋崎町の海岸線の形」に設計されている。
だから、上図の「卑弥呼の地上絵における大三角形」は益氏がもたらした「精密な地図作製方法」をあらわしていることになる。
現在まで、卑弥呼の地上絵内(細江町内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どうたく)が出土している。
この銅鐸を用いて、ちょうど1千万坪にする卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作製されたことになる。
◆下に、「夏の銀河における〔鳥〕の形の解説図」を配した。
「鬼の姿に似る銀河」(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)は「生子(せいし・出産児)」に見立てられ、「北アメリカ星雲」は「象の横顔と鼻の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、下図に示したように、「卑弥呼の地上絵」は「大鳥・生子(出産児)・象の横顔と鼻の三要素」から構成されている。
下図に示したように、卑弥呼の地上絵は「象が引佐細江から吸い込んだ水をはきだす強大な力」で「【弥】のカンムリカイツブリの頭が〔南〕から〔東〕へ移動する(転回する)仕掛け」になっている。
下に示したように、〔南(西南)〕にある【弥】の「カンムリカイツブリ」の頭を〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵」は、下の左図が示すように「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」をあらわす。
ゆえに、下図が明確に示しているように、卑弥呼の地上絵を作成した遠江の豪族の建比良鳥命は、精密な中国海岸線地図を知っている不弥国・宗像地方を治める難升米(天菩比命)に従う、
副官であった七人の建比良鳥命のうちの一人であったことになる。
なにゆえ、上図に示した【弥】の「〔南(西南)〕あるカンムリカイツブリの頭を〔東〕へ移動する仕掛け」が必要となったかと言えば――
「卑弥呼の地上絵」は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密とした【倉頡の文字作成理論】を表示するものであり、
この【倉頡の文字作成理論の機密】を暴露した建比良鳥命とその家族および一族までが死刑となったからである。
多くの人々が「卑弥呼の地上絵」が最も重大な大罪を犯していることが容易に気づくような形に作成すると、たちまち噂になって大騒ぎになって時の天照大御神・大和王朝に報告されて、
建比良鳥命とその家族および一族全員、即刻死刑となる。
当時、強大な権力と武力を誇示(こじ)して人民を弾圧(だんあつ)する天照大御神・大和王朝が反逆分子たちを敵視して国家統一を目指していた。
この天照大御神・大和王朝の強行政策を憎悪した遠江の建比良鳥命と一族は、
子々孫々・後世まで大和王朝の人民を弾圧した横暴な歴史を語り受け継ぐために卑弥呼の地上絵の作成を決意したのである。
そして、卑弥呼の地上絵の作成途中の280年~290年ころになると――
人民を愛(いつく)しむ政治をおこなっていた邪馬壱国・出雲王権の大国主命(おおくにぬしのみこと)を敵視して、
天照大御神・大和王朝は武力で出雲王権を討伐し滅亡しようとしていた。
このように、当時は、反逆する勢力を武力で徹底的に滅亡させる天照大御神・大和王朝が天下を治めていたため、
卑弥呼の地上絵は一目(ひとめ)で【倉頡の文字作成理論】を表示する地図であると察知できないように、工夫を加えて得体の知れない形にする必要があったのである。
卑弥呼の地上絵において「東の境界線の両翼を広げる大鳥の形」は「鳥・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざる」という否定・打消しの「ず」をあらわす【不】の字源を示し、
下に示したように、卑弥呼の地上絵の北に隣接する「浜松市浜名区引佐町の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【呼】の字源「鳰(にお)の横顔と浮巣の形」となる。
だから、「遠江」は【不】と【呼】とで成立する「不呼国」であったことになる。
前ページに配した、「〔南(西南)〕にある【弥】「カンムリカイツブリ」の横顔を〔東〕へ移動する仕掛けの卑弥呼の地上絵の東の境界線」は、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」となる証明図を、再度、下に示した。
上図の右側「卑弥呼の地上における東の境界線」は、左側「中国全土を弥綸(びりん)す(洩れなく包みこむ)海岸線地図」を設計している。
ゆえに、上図は「『易経』繋辞上伝(けいじじょうでん)にある
「易は天地と準(なぞら)う。故に能(よ)く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらかに)す」
という文があらわす「中国全土の海岸線地図」を作製する遺跡であったことになる。
このように、「弥綸す」の【弥】は「不弥国(宗像地方)」の【弥】であり、
また、上図における「卑弥呼の地上絵の頭部」が「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリの頭部の形」に設計されていることから証明されるように、
不弥国・宗像地方の福津市・津屋崎町の【弥】「カンムリカイツブリの頭部と南北の海岸線」には「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の秘密」が保存されていたことになる。
だから、遠江の建比良鳥命は「精密な地図を作製する副官」であり、
宗像王の難升米(天菩比命)は「精密な地図を作製する長官」であったことになる。
最近のコメント