G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年6月

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2024年6月

2024年6月28日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・17

不弥国には中国の海岸線地図が秘められていた・2

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆今から約4090年前(紀元前2070年頃)、「夏の始祖」とよばれる帝禹()の息子の啓(けい)によって、
国家を樹立して啓の氏族の子孫が代々帝となる――世襲国家政治体制の夏王朝が創設された。
司馬遷(しばせん)著『史記』夏本記(第二)は、〔世襲国家政治体制の夏王朝の創設における成立と、帝禹()と帝益(えき)について〕、下記のごとく説明する。

――父の帝禹は息子の啓の世襲王朝国家政治体制に猛反対し、臨終の際に黄帝時代以来の氏族共同政治体制の継続を願って、禹の政権を補佐した益(えき)氏の首長に帝位を継承させた。
「氏族共同政治体制」とは「多数の氏族が集まって協力し、その氏族たちの首長の中で最も優秀な人物を大王に選んで国家を樹立しない政治体制」であった。
諸侯(しょこう)たちは亡き禹の遺志を無視して啓のもとに入朝し、帝益に従わなかった。
ゆえに、帝益は禹の三年の喪()が明けると、中国では氏族共同政治体制の継続はもはや不可能であると判断して、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して、箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。

箕山の南に隠棲した益は、禹の遺志・氏族同政治体制を新天地で継続する事業を計画したが、
彼は年老いていたために中国と日本列島の中間の大海を小舟で漕いで横断する体力を失っていた。
それゆえ、この事業は、小舟を漕いで荒波逆巻く大海を横断できる体力を有する益の孫の青年王子と若者たちによって行われた。
『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めて、帝禹の遺志・氏族共同政治体制をわが国に植えつけた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などが記されて残った。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」では、「『魏志倭人伝』が説明する対馬国から数えて6番目の小国の不弥(ふみ)国は、宗像(むなかた)大社の辺津宮(へつみや)を中心とする福岡県宗像市周辺であった」と証明した。
下図は、「不弥国の宗像地方の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」である。
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上の図は、【現在方位にもとづく宗像地方の「不弥」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)の解説図】である。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)町の海岸線」を「水鳥の【弥】」、つまり「カンムリカイツブリの頭(横顔)」に見立てた。

また、「釣川から宗像平野部までの地宜」を「【弥】(カンムリカイツブリ)の首と胴体と翼」に見立てた。
このような「宗像地方の【弥】・カンムリカイツブリの姿に相似すると見立てられた地宜の形状」は【不】の字源解説文の「鳥(カンムリカイツブリ)飛んで上翔し、下り来らざる」という否定・打消しの「ず」をあらわしていると解釈された。
ゆえに、卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。

「不弥()国」の【彌()】の字源となった「カンムリカイツブリ」は海面または湖や沼にすむ水鳥である。
「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
この「銀白色の首から体下面」が、【爾()】の字源・字形となった。
「水面に浮かぶ、カンムリカイツブリの翼をたたむ背中と体下面(胴体下部)」は「弓」の形に相似すると見立てられて、偏【弓】に【爾()】が加わって【彌()】という字になった。
【弥】の「カンムリカイツブリ」は「長時間水に潜(もぐ)ることができる」ゆえ、「八丁(はっちょう)もぐり」の俗称(ぞくしょう)がある。

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「八丁もぐりの、50秒ほどで潜水できるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることを思いついた。

【弥】の「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長4661㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育った胎児と同じくらいである。
これゆえ、倉頡は「カンムリカイツブリの大きさ」は「産道」を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する出産児の大きさ」に適合することに注目した。
ゆえに、倉頡は「カンムリカイツブリ」を「産道を通過して誕生する出産児」に喩えることにした。
だから、「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリ」は「4回の回旋をして誕生する出産児」をあらわした。

◆【弥】の字源「カンムリカイツブリ」は九州と瀬戸内海に飛来(ひらい)して繁殖(はんしょく)する。
「不弥国」の【不】の字源を、『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
この【不】の字源解説は、「不弥国の地宜(ちぎ)が鳥(カンムリカイツブリ)が天に上って飛んで行く。そのカンムリカイツブリは【一】の字源「十字の銀河の子宮」に向かって去っていく。「十字の銀河の子宮」は【天】の字源の一部となる(つまり、天のごときなり)」と説明していることになる。
結局、【不】は「鳥(カンムリカイツブリ)が空を飛翔(ひしょう)して、地に下りて来ない」という否定・打消しの「ず」を意味していることになる。

下に、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を配した。
下図に示したように――「宗像地方の【弥】(カンムリカイツブリ)の地宜」は【一】の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐に向かって(つまり、【一】の字源地宜「壱岐」に向かって)、空を飛翔して、地に下りて来ない姿――に観()える。
だから、下図は上記したように――『説文解字』の【不】の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」という字源解説をあらわしている。
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◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう――【「不弥国」における南北に伸びる津屋崎町の海岸線】が【中国海岸線地図の秘密】を有して、結局、【倉頡の文字作成理論】を説明している状況」を解明するためには、
【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
だから、下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左側・中央よりやや上部に、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
下に、はくちょう座のε(エプシロン)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)、β(ベータ)の4つの星が三角形に囲む「人の横顔に酷似する銀河」の図を配した。
この4つの星のうち、γ星を結ばずにε・δ・βの3つの星を結ぶと、三角形となる。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
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上図が示すように、「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる、国際的に天文学界で名称が定められた銀河部がある。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。

「北天の最輝部」は銀白色に輝く。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわす図である。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社j発行の143ページより転載した。)
この「脚で水面を蹴()って水しぶきを浴びてビショ濡れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」は、下の左側の「北天の最輝部の形状」に相似すると見立てられた。
というのも、上記したように「カンムリカイツブリ首より以下の体下面」は「北天の最輝部」同様に銀白色に輝くいているからである。
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ゆえに、「カンムリカイツブリの銀白色の首より以下の体下面」は【爾()】の字源となった。
言いかえると、倉頡は【爾】の字を作って「カンムリカイツブリ」をあらわしたと考えられる。
しかし、後世、【爾】の字は通常「うつくしい。なんじ」などと意味することになり、「カンムリカイツブリ」という字源を失った。
それゆえ、「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの、オスとメスの首より以下の銀白色の体下面と背中が〔弓〕の形に相似する」ということで――偏【弓】に【爾()】が加わった【彌()】が「カンムリカイツブリ」をあらわすことになった。

◆下に、「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」を配した。
下図のおける北緯30度の地所は、「中国南部の呉地の、杭州湾(こうしゅうわん)の南岸」である。
下図の右側に示したように、「杭州湾の南岸(北緯30)の天頂」には、「北天の最輝部における最南部」がめぐってきた。
黄帝時代、「北天の最輝部の最北部」となる「はくちょう座γ星とこの星を中心とする円環銀河部」は、黄帝陵(北緯3535)よりやや南部の地所の天頂にめぐってきた。
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下に「北天の最輝部のγ星・円環銀河部と【日】の金文形の図」を配した。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
下図における【日】の金文形を「太陽の形。中に小点を加えて、実体のあることを示す」と解説する。
つまり、下図の左側の「円環銀河部と、その円形中心のはくちょう座γ星」が、金文の【日】の「太陽」の字源であったことになる。
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下に示すように、黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」を「地平線、あるいは水平線」に見立てるために「水平」にして――【日】の金文形となった「太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)が地平線(水平線)よりの上の空へ昇って、東の空を赤く染める朝の光景」を表現するためには――特別に想像力をたくましくするように求められた。
というのも、()「斜めの天頂緯度線」を「水平」にすると「北天の最輝部」は「傾きが一層加わってあたかも真横に転がるようになる」――このため、「太陽が地平線(水平線)より上へ垂直に昇る景色」にはならない。
これゆえ、下図に示したように、()新たに「真横に延びる地平線(水平線)となる線」を描き、
さらに、「垂直状に立つ北天の最輝部」を作図すればーー
(
)「赤く輝く日の出の太陽(はくちょう座γ星と北天の最輝部)」が、下図のごとく「地平線(水平線)より昇る景色の想像図」となる。

このような複雑な工作を加える「想像」は、わたくしの独断・推測によるものではない。
というのも、前回の「漢字の起源と発明を解明す・16」にて詳細に明したように――下の「はくちょう座γ星と北天の最輝部の光景の想像図」は、【旦(たん)】の字源「東の空を赤く染めて太陽が地平線(水平線)より上へ昇って姿をあらわす光景」をあらわすことになったからである。
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だから、上の「【旦】をあらわす想像図」は、【不】と【弥】の字源をあらわした。
前述したように、『説文解字』は【不】の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説するからである。
ゆえに、上の「想像図」において――【弥】「カンムリカイツブリ」の字源「北天の最輝部」は「鳥が空を飛翔して、地に下りて来ないよう」に観()える。
そして「地平線(水平線)」に見立てた「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部中央」は【一】の字源であった。ゆえに「一に従ふ」と説明された。
前ページの「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線」に示したようにーー【一大】の語源となった「十字の銀河の子宮」の緯度線は「北天の最輝部の最南部」を貫通していた。ゆえに、「一はなほ天のごときなり」ということになる。

以上のごとく、上図の「【旦】をあらわす北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源をあらわした。
下に、前ページにて取り上げた、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を、再度配した。
下図の〔【倭】に字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづく一大国・壱岐と宗像地方の地図〕は、「【旦】をあらわす北天の最輝部」に因(ちな)んで――「鳥(弥・カンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、地に下りて来らざるなり」と解説された【不】と【弥】の解説図である。
だから、卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。
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◆前ページに配した「太陽が地平線(水平線)より上の空に昇る【旦】の想像図」は、【難】の字源となった。
というのも、前述したように複雑な工作を加える「【旦】の太陽が東の地平線(水平線)より上の空に昇る景色の想像図」は【倉頡の文字作成理論】において「特に難(むずか)しい作業」ということで――【難】の字源となったからである。

『魏志倭人伝』は、「倭人国の外相(外務大臣)の名は難升米(なしめ)」であったと記す。
上記したように、「難升米」の【難】の字は「【旦】の太陽が地平線(水平線)より上の空に昇る景色の想像図作成は、特に難しい作業」を指していた。
「難升米」の【升】は【昇】の初文(最初の文字)である。
つまり、【升()】は上記した「【旦】の字源解説における、太陽が地平線(水平線)から昇るの、升(のぼ)る」をあらわした。
「難升米」の【米】は【中国南部の長江口(長江の河口)・杭州湾周辺地域で育つ禾()の穂に実る米】をあらわした。

下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、黄帝時代、「山東半島」は【弥】の「カンムリカイツブリの横顔から首までの形」に相似すると見立てられたことになる。
また、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝(つまり、【旦】)、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
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上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
以上のごとく、「不弥国における津屋崎の海岸線」と「山東半島の北端から付け根での地宜」は共に「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形」で合致する。

前述したように、「山東半島の付け根の日照より少し西にある呂県陵陽河遺跡から出土した灰陶尊の口縁部にほどこされた〔【旦】の想像図〕」は【難】の字源をあらわし、
この【旦】は「地平線(水平線)より太陽が升()る光景」であるゆえ、【升】の字源をあらわし、
【米】は「中国の南部の長江口・杭州湾付近で育つ禾()の穂の実」をあらわした。
要するに、倭人国の外相「難升米」という名は「山東半島から杭州湾の南岸までの海岸線」をあらわした。
だから、「難升米」は「精密な中国海岸線地図の知識を有する、精密な地図を作製する役職の長官」をあらわす名称であった。

◆このため、難升米が住む不弥国・宗像地方における津屋崎町の海岸線には――夏代黎明期(紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが教え広めた「精密な中国の海岸線地図の秘密」が保存されていることになった。

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は猛獣の「トラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官に戦闘術を教えた」と伝えるものであったことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも数えて記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味した。

これゆえ、『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬、虎と豹は生息していない)」という記事がある。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では9回以降繰り返して証明しているように、【牛】の字源・字義「ジャコウウシ」のであり、【馬】の字源・字義は「フタコブラクダ」であった。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀同様に【虎】は「不弥国・宗像地方を治める男王(難升米)の主なる役職」の、「精密な地図を作製する長官」を意味したことになる。
この【虎】「精密な地図を作製する長官」を補佐するのが、【豹】の「副官たち」であったことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」の末部は――不弥国・宗像の王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」であったと記す。
つまり、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相「難升米(なしめ)」は、不弥国・宗像地方を治める「天菩比命」であった。
というのも、前述したように、はくちょう座のγ星をのぞく、ε・δ・βの三つの星は精密な地図を作製する基礎となる三角形を形成し、
この三角形は「北天の最輝部」を包囲しているからである。
前述したように「北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源となった。
ゆえに、【不】と【弥】の不弥国・宗像王の難升米(天菩比命)は「三角形測量にもとづいて精密な地図を作製する長官」であったことになる。
だから、和名「天菩比命」の夏音名(夏音文字であらわす名)は「難升米」であったことになる。

以上からして、『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部に記される「天菩比命」は「難升米」であり「精密な地図を作製する長官」であった。
『古事記』は「天菩比命(難升米)」には「七人の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がいた」と記す。
この「七人の子の建比良命」は「()出雲国造(いづものくにのみやつこ)()无耶志国造(むさしのみやつこ)()上菟上国造(かみつうなかみのみやつこ)()下菟上国造(しもつうなかみのみやつこ)()伊自牟国造(いじむのくにのみやつこ)()津島県直(つしまのあがたあたひ)()遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)たちの先祖である」と列記する。
上記した「天菩比命の子」と記された「七人の建比良鳥命」は「天菩比命と血のつながる息子」ではなかった。

つまり、『古事記』上巻は「天菩比命に従う分子の氏族」を「子」と表現したことになる。
だから、「七人の建比良鳥命」は「難升米(天菩比命)の精密な地図を作製する長官を補佐する、倭人国の各地に住んでいた副官氏族たち」であったことになる。
言いかえると、「七人の建比良鳥命」は「七人の豹」であったのである。

◆益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、「虞()」の重職に就任するように命令された。
ゆえに、「夏の始祖」の帝禹()が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は「虞」の役職に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事して【精密な中国海岸線地図の作製】に努めた。
【虞】の字は【虎】の下に【呉】が加わって構成される。
ゆえに、代々の益氏の首長は「虎」つまり「精密な中国海岸線地図を作製する長官」であった。
益氏は、「米の産地の中国の南部の呉地から海岸線測量を始めた」。
これゆえ、「精密な中国海岸線を作製する長官の益氏」は【虎】の下に【呉】を加える【虞】の字であらわされて「ぐ」と呼ばれることになった。
(
注 益氏が帝舜に命じられて「虞」の重職に就いたことは、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記述されている)

『易経(えききょう)』は中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典である。
「中国全土の海岸線地図」について、『易経』の繋辞上伝(けいじじょうでん)
下記のごとく説明する。
「易は天地と準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「易は天と地になぞられて作られた。ゆえに天と地の道を弥綸する(天と地の道が途中において破れ目・裂け目の状況になっても、つくろいおさまって洩れなく包みこむ)。仰いで天頂緯度線をキャッチして、天から俯(うつむ)いて地に緯度原点を設置して、この経緯度原点の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って三角点を埋設(まいせつ)し、測量して図化作成すれば地図が察(あきら)かとなる」

下に示したように、「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「十字の銀河より南の銀河の形」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下に示したように「十字の銀河と鹿の横顔に似る銀河」は「オス鹿の横顔に似る銀河」ということになる。
よって、下の左側に配した【道】の金文形の字源銀河は右側の「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
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下図が示すように、「廟島列島(びょうとうれっとう)の地宜」を「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「山東半島の地宜」は「鹿の横顔」に観える。
したがって、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜であった。
だから、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準(なぞら)う」と表現したのである。

『説文解字』は、【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」と解説する。
「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには「必ずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。
つまり、遠くの地を往復する人も大海を往来する人も天頂緯度が測定できれば必ず家族が待つ家に帰還することができた。
この「天頂緯度線をキャッチして帰家する方法」を「トカゲの帰家性」に見立てて、『説文解字』は【易】の字源を「蜥蜴なり」と解説した。
だから、「遠くの地の往復や大海の往来の道(道中)において、所々にて観測した地点の緯度はその観測地点における天頂緯度と定まっている原理」を、
『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」と表現したことになる。

下に示すように、「山東半島の地宜」は【弥】「カンムリカイツブリの頭(横顔)と首までの形」に相似する。
また、「山東半島の付け根から南と北へとつながる海岸線」は「空を飛ぶ、【弥】のカンムリカイツブリの翼の形」に相似する。
この「【弥】の南の翼」は「長江口と杭州湾にて、破れ目や裂け目となる」が、「杭州湾の南岸からはなめらかな円弧(カーブ)を描いてつくろいおさまる」。
このように、「中国の海岸線」は「中国全土を洩れなく包みこんでいる」。
だから、『易経』繋辞上伝は「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
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以上からして、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、
上記の現代語訳のごとく「天頂緯度測定して経緯度原点を設置して、三角測量の基に地図を作製する方法」を簡略化して説明していたことになる。

◆前述したように、「山東半島の付け根の日照より少し西にある呂県陵陽河遺跡から出土した灰陶尊の口縁部にほどこされた〔【旦】の想像図〕」は【難】の字源をあらわし、
この【旦】は「地平線(水平線)より太陽が升()る光景」であるゆえ、【昇】の初文(最初の文字)の【升】をあらわし、
【米】は「中国の南部の長江口・杭州湾付近で育つ禾()の穂の実」をあらわした。
要するに、上図の「中国全土を弥綸する海岸線」をあらわす「難升米」という夏音名は、「倭人国各地の地図を作製する役職の長官名」をあらわしていた。
これゆえ、不弥国・宗像地方の王・難升米(天菩比命)は「精密な地図を作製する長官」であった。

◆前述したように、『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は「宗像王の天菩比命(難升米)には七人の副官・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従っていた」と説明する。
この記事における、七人目の副官は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の先祖の建比良鳥命」であった。
「遠江」は「現在の静岡県西部」であり、対馬国から数えて15番目の「不呼(ふこ)国」であった。

「不弥国・宗像地方」の【不】について、前述したように『説文解字』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
他方、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。

下の上図「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかんさい)と卵管の役割」は、
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、花のおしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と、下図の「花の生殖器官図」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台となる、萼拊(がくふ)の役割」は類似せず両者はたがいに別の役割となる。
この「出産児が通過する産道と花の台(うてな・萼拊)の役割は同じでは非(あら)ず」という否定・打消しをあらわして、【不】の字源・字義が成立した。
このため、【不】の契文と金文の字形は「花の台(うてな)」を表現する図案となった。
ゆえに、白川静著『字統』は、【不】の字源を「もと花の萼拊の形である」と解説した。
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「近江」は「都に近い江の琵琶湖」、「遠江」は「都から遠い江の浜名湖」を意味した。
下に図示したように、「卑弥呼時代の浜名湖の地宜」は遠州灘とつながっていなかった。
「現在の浜名湖」は遠州灘とつながる汽水湖(きすいこ)である。
下図に示したように解釈すると、「卑弥呼時代と現在の浜名湖の地宜」は「花の形」に類似する。
下図に右下にある「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」は「花の萼・台(うてな)」に相当する。上記したように、「花の台」は【不】の字源である。
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『説文解字』は、「不呼国」の【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下に、【不】の字源「花の台」となる「浜名湖の支湖の、引佐細江」とその周辺の地宜を示した。
下の右側の「大崎半島の付け根から都田川(みやこだがわ)の河口まで」が「人の横顔」に相似するゆえ、「引佐細江」は「人が息を外く口(くち)」に観える。
ゆえに、【不】の「花の台」となる「引佐細江」は【呼】の字源をも示すことになった。
なお、「都田川の水は土砂を運んで引佐細江に吐()(息を外く)」ゆえ、「都田川の河口と引佐細江」もまた【呼】の字源をあらわした。
下の左側の「村櫛(むらくし)半島の地宜」は「人の長い横顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)東方の内浦」も「息を外くなり」の【呼】の字源をあらわす。
「内浦の北隣の地宜」は「鳥の頭と翼の形」に相似する。ゆえに、【不】の「鳥飛んで上翔する。下り来らざるなり」という否定・打消しの「ず」をあらわすことになったのであろう。
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上図の「浜名湖と引佐細江と、その湖岸の形」が示す【不】と【呼】の地宜にもとづいて、
卑弥呼は「遠江」を「不呼国」という小国名に定めた。
しかし、上図の地宜にもとづく「不呼」という名称は要領を得ず不明確である。

◆ゆえに、遠江の豪族の建比良鳥命とその一族は「遠江」の小国名は「不呼」であったことを明示する「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」を作製した。
この「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」は、『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝』の成立時代(280年~289)と同時代の260年頃から着手され、約30年後の290年頃に完成した。
『魏志倭人伝』に記述された最終年は「250年頃」と推定されるゆえ、「遠江の1千万坪の大鳥の地上絵の作製」はその10年後には早くも着手されていたことになる。

前述したように、「遠江、不呼国」の【不】の字は「鳥の【弥】・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざるなり(地上に下りて来ない)」という否定・打消しの「ず」をあらわしている。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・16」で解説したように、「不呼国」の【呼】の字源は「鳰(にお・カイツブリ)」であった。

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
鳰の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死(ちっそくし)しない胎児」に喩えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と「鳰(にお)」の両者をあらわすことにした。
しかし、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになった。
このため、偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。

下の図は、現在の静岡県西部の遠江の一画の浜松市浜名区細江(ほそえ)町の行政区画を表示する地図である。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
かつては、1989(平成元年)頃の細江町は「静岡県引佐郡細江町」であり、つぎに細江町は「静岡県浜松市北区細江町」と変わり、現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」である。
現在の地図帳には下の地図は消滅しているかもしれないが、
細江町が「引佐郡細江町」あるいは「浜松市北区細江町」であった・つい最近までは、下に示した「1千万坪の細江町の地図は地図帳に存在していた。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」あるいは「建比良鳥(たけひらとり)の地上絵」と呼ぶことにした。
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上の地図における「細江町の地図における東の境界線」は【不】の字源「鳥・(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、下り来らざるなり」と否定・打消しの「ず」の形状をあらわしている。
下の右上の「引佐町(浜名区)の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は「鳰(にお)の横顔と浮巣(うきす)の形」となって【呼】の字源を明示する。
ゆえに、「1千万坪の卑弥呼の地上絵」は「遠江は不呼国であった」と明確に示している。

◆下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って、その頂に三角点を埋設し、1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精密に地宜を作成できる光波測距儀による三角測量が行うことができなかった。
ゆえに、地図作製係の副官・建比良鳥命とその一族は260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させたことになる。
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上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、前述した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文の秘密を明確に説明する遺跡である。
言いかえると、上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、
紀元前2050年頃の夏代黎明期に男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、200年~250年間、「虞」の重職に従事していた益氏の王子一行がもたらした「精密な地図作製方法」をあらわしている。

再々、くりかえすが、下の図に示したように――「はくちょう座のγ星をのぞく、ε・δ・βの3つの星を結ぶと三角形となり、この三角形は北天の最輝部」を包囲する。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法」を考案したと考えられる。
前述したように、「三角形に包囲される、北天の最輝部」は【不」と【弥】の字源となった。
上図の「卑弥呼の地上絵における大鳥の頭部(横顔)」は「不弥国の津屋崎町の海岸線の形」に設計されている。
だから、上図の「卑弥呼の地上絵における大三角形」は益氏がもたらした「精密な地図作製方法」をあらわしていることになる。
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現在まで、卑弥呼の地上絵内(細江町内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どうたく)が出土している。
この銅鐸を用いて、ちょうど1千万坪にする卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作製されたことになる。

◆下に、「夏の銀河における〔鳥〕の形の解説図」を配した。
「鬼の姿に似る銀河」(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)は「生子(せいし・出産児)」に見立てられ、「北アメリカ星雲」は「象の横顔と鼻の形」に相似すると見立てられた。
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ゆえに、下図に示したように、「卑弥呼の地上絵」は「大鳥・生子(出産児)・象の横顔と鼻の三要素」から構成されている。
下図に示したように、卑弥呼の地上絵は「象が引佐細江から吸い込んだ水をはきだす強大な力」で「【弥】のカンムリカイツブリの頭が〔南〕から〔東〕へ移動する(転回する)仕掛け」になっている。
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下に示したように、〔南(西南)〕にある【弥】の「カンムリカイツブリ」の頭を〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵」は、下の左図が示すように「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」をあらわす。
ゆえに、下図が明確に示しているように、卑弥呼の地上絵を作成した遠江の豪族の建比良鳥命は、精密な中国海岸線地図を知っている不弥国・宗像地方を治める難升米(天菩比命)に従う、
副官であった七人の建比良鳥命のうちの一人であったことになる。
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なにゆえ、上図に示した【弥】の「〔南(西南)〕あるカンムリカイツブリの頭を〔東〕へ移動する仕掛け」が必要となったかと言えば――
「卑弥呼の地上絵」は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密とした【倉頡の文字作成理論】を表示するものであり、
この【倉頡の文字作成理論の機密】を暴露した建比良鳥命とその家族および一族までが死刑となったからである。

多くの人々が「卑弥呼の地上絵」が最も重大な大罪を犯していることが容易に気づくような形に作成すると、たちまち噂になって大騒ぎになって時の天照大御神・大和王朝に報告されて、
建比良鳥命とその家族および一族全員、即刻死刑となる。
当時、強大な権力と武力を誇示(こじ)して人民を弾圧(だんあつ)する天照大御神・大和王朝が反逆分子たちを敵視して国家統一を目指していた。

この天照大御神・大和王朝の強行政策を憎悪した遠江の建比良鳥命と一族は、
子々孫々・後世まで大和王朝の人民を弾圧した横暴な歴史を語り受け継ぐために卑弥呼の地上絵の作成を決意したのである。
そして、卑弥呼の地上絵の作成途中の280年~290年ころになると――
人民を愛(いつく)しむ政治をおこなっていた邪馬壱国・出雲王権の大国主命(おおくにぬしのみこと)を敵視して、
天照大御神・大和王朝は武力で出雲王権を討伐し滅亡しようとしていた。
このように、当時は、反逆する勢力を武力で徹底的に滅亡させる天照大御神・大和王朝が天下を治めていたため、
卑弥呼の地上絵は一目(ひとめ)で【倉頡の文字作成理論】を表示する地図であると察知できないように、工夫を加えて得体の知れない形にする必要があったのである。

卑弥呼の地上絵において「東の境界線の両翼を広げる大鳥の形」は「鳥・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざる」という否定・打消しの「ず」をあらわす【不】の字源を示し、
下に示したように、卑弥呼の地上絵の北に隣接する「浜松市浜名区引佐町の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【呼】の字源「鳰(にお)の横顔と浮巣の形」となる。
だから、「遠江」は【不】と【呼】とで成立する「不呼国」であったことになる。
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前ページに配した、「〔南(西南)〕にある【弥】「カンムリカイツブリ」の横顔を〔東〕へ移動する仕掛けの卑弥呼の地上絵の東の境界線」は、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」となる証明図を、再度、下に示した。
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上図の右側「卑弥呼の地上における東の境界線」は、左側「中国全土を弥綸(びりん)(洩れなく包みこむ)海岸線地図」を設計している。
ゆえに、上図は「『易経』繋辞上伝(けいじじょうでん)にある
「易は天地と準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらかに)す」
という文があらわす「中国全土の海岸線地図」を作製する遺跡であったことになる。

このように、「弥綸す」の【弥】は「不弥国(宗像地方)」の【弥】であり、
また、上図における「卑弥呼の地上絵の頭部」が「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリの頭部の形」に設計されていることから証明されるように、
不弥国・宗像地方の福津市・津屋崎町の【弥】「カンムリカイツブリの頭部と南北の海岸線」には「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の秘密」が保存されていたことになる。
だから、遠江の建比良鳥命は「精密な地図を作製する副官」であり、
宗像王の難升米(天菩比命)は「精密な地図を作製する長官」であったことになる。

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2024年6月23日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・16

不弥国は朝日のただ刺す国、夕日の日照る国であった・1

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していた古文献が、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は学者たちの早呑(はやの)み込みによる臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されるからである。
『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に成立した。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河。夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、「夏の始祖」とよばれる帝禹()の後を継ぐ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが、帝禹の遺志・氏族共同政治体制を新天地にて継続(けいぞく)するため、中国から大海を越えて日本列島に定住することになり、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めて、帝禹の遺志・氏族共同空政治体制をわが国に植えつけたと示唆(しさ)する記事がある。

この益氏が定住した地は、日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)であった。
夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などで記されて残っている。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
このように、『魏志倭人伝』の「夏代黎明期に夏音文字が習得された」と示唆(しさ)する記事は事実を伝えていた。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

【中国とわが国における最古の漢字音】は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている、紀元前2050年頃の夏代黎明期の夏音文字の字音である。
また、【中国における最古の漢字の字形】として、殷代(いんだい)後半期の紀元前1300年頃の契文(けいぶん・亀の甲羅などに文字を刻んだ甲骨文字)が出土している。
この甲骨文字(契文)の字音は現在に残っていない。
中国における最古の字音として残るのは、紀元前1046年頃の周代初頭の「上古音」である。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から『魏志倭人伝』に記述された「対馬国・瀚海・一大国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について解明した後に、
そして、『魏志倭人伝』が説明する「末盧(まつろ)国、伊都(いと)国、そして前回(15)にて奴()国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について詳細に解明した。
このブログでは、対馬国から数えて6番目となる小国「不弥(ふみ)国における【倉頡の文字作成理論】の秘密」を解明する。

この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでいままで解説してきたとおり、『魏志倭人伝』は下図のごとく「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)は北、一大国(現在の長崎県北部の壱岐)は南、対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海(かんかい)」と記述して、【倉頡の文字作成理論の基本】を説明していた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と説明するのに対して、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国のおける北は東・南は西となる」と指摘する。
この「末盧国から奴国までの方位名」は、「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定」に則(のっと)っていた。
ゆえに「一大国から末盧国の方位」は「[][]とする方位規定と、[][]とする方位規定が衝突(しょうとつ)し、互いに対立するゆえ合理的に説明することができない」。
これゆえ、『魏志倭人伝』は「一大国から、一海を渡る千余里、末盧国に至る」と説明して、「方位名」を明記していない。
以上のごとく、「末盧以下狗奴国までの28の小国における方位」は「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)っている。
したがって、下図のごとく、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」の旅程基点の方位」を指摘していたことになる。
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『魏志倭人伝』は「奴国から、東行不弥国に至るには百里」と記す。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説し証明したように、奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
上図の【倭】の字源に則る「東行不弥国に至るには百里」に合致する旅程基点は福岡県の宗像市(むなかたし)の宗像大社の辺津宮(へつみや)となる。

現在方位だと香椎宮から[]に宗像大社の辺津宮が所在するゆえ、『魏志倭人伝』の説明は矛盾する。
しかし、『魏志倭人伝』は【倭】の字源にもとづいて「奴国の香椎宮から不弥国の宗像大社の辺津宮は[]に在る」と指摘していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「奴国から、東行不弥国に至るには百里」という記事は正しい。

前回までのブログで繰り返して解説したように、【倭】の字源は、倉頡が作った【禾()】の字源をそのまま受け継ぐ「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、「香椎宮から宗像大社の辺津宮の方位」は「【倉頡の文字作成理論】による産物」ということになる。

◆下の図は、現在方位にもとづく宗像地方の「不弥(ふみ)」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)の解説図】である。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)町の海岸線」を「水鳥の弥、つまりカンムリカイツブリの頭」に見立てて、
また、卑弥呼は「釣川から宗像平野部までの地宜」を「弥(カンムリカイツブリ)の首と胴体と翼」に見立てて、小国名を【弥】の字がつく「不弥国」と定めた。
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「不弥()国」の【彌()】の字源となった「カンムリカイツブリ」は海面または湖や沼にすむ水鳥である。
「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
この「銀白色の首から体下面」が、【爾()】の字源となった。
「水面に浮かぶ、カンムリカイツブリの翼をたたむ背中と体下面(胴体下部)」は「弓」の形に相似すると見立てられて、偏【弓】に【爾()】が加わって【彌()】という字になった。
【弥】の「カンムリカイツブリ」は「長時間水に潜(もぐ)ることができる」ゆえ、「八丁(はっちょう)もぐり」の俗称(ぞくしょう)がある。

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「八丁もぐりの、50秒ほどで潜水できるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることを思いついた。

【弥】の「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長4661㎝である。
この「カンムリカイツブリの大きさ」だと、体調が約2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。
しかし、「カンムリカイツブリの大きさ」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育った胎児と同じくらいである。
これゆえ、倉頡は「カンムリカイツブリの大きさ」は「産道」を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する出産児の大きさ」に適合すると注目して、
【爾(後の【弥】】「カンムリカイツブリ」を「産道を通過して誕生する出産児」に喩えることにした。
ゆえに、「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリ」は「4回の回旋をして誕生する出産児」をあらわした。

◆【弥】の字源「カンムリカイツブリ」は九州と瀬戸内海に飛来(ひらい)して繁殖(はんしょく)する。
「不弥国」の【不】の字源を、『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
この【不】の字源解説は、「不弥国」の説明においては――鳥(カンムリカイツブリ)が空を飛んで行く。カンムリカイツブリは【一】の字源「十字の銀河の子宮」に向かって去っていく。「十字の銀河の子宮」は【天】の字源の一部となる(つまり、天のごときなり)」と説明していることになる。
なお、「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」という解説文は「空を飛ぶ【弥】のカンムリカイツブリが地に下りて来ない」という否定・打消しに用いる「ず」が【不】の字義であると説明していることになる。
このような「不弥国の地宜」における【不】の字源解説の理由・根拠について、これから解説する。

下に、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を配した。
下図に示したように――「宗像地方の【弥】(カンムリカイツブリ)の地宜」は【一】の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐に向かって(つまり、【一】の字源地宜「壱岐」に向かって)、空を飛翔(ひしょうして、地に下()りて来ない姿、つまり「下りて来ない」の否定・打消しの【不】「ず」をあらわす姿――に観()える。
だから、下図は上記したように――『説文解字』の【不】の「鳥(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」という字源解説をあらわしている。
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カンムリカイツブリは、下図の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)を長方形状に水が流れる黄河上流が包囲する地域における、黄土高原に夏に飛来して繁殖する夏鳥(なつどり)である。
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◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう【「不弥国」という小国名の秘密】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
【倉頡の文字作成理論の秘密】が容易に明確に説明できるように――下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左側・中央よりやや上部に、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
下に、はくちょう座のε(エプシロン)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)、β(ベータ)の4つの星が三角形に囲む「人の横顔に酷似する銀河」の図を配した。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる、国際的に天文学界で名称が定められた銀河部がある。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。
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「北天の最輝部」は銀白色に輝く。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわす図である。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社j発行の143ページより転載した。)
この「脚で水面を蹴()って水しぶきを浴びてビショ濡れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」は、下の左側の「北天の最輝部の形状」に相似すると見立てられた。
というのも、上記したように「カンムリカイツブリ首より以下の体下面」は「北天の最輝部」同様に銀白色に輝いているからである。
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ゆえに、「カンムリカイツブリの銀白色の首より以下の体下面」は【爾()】の字源となった。
言いかえると、倉頡は【爾】の字を作って「カンムリカイツブリ」をあらわしたと考えられる。
しかし、後世、【爾】の字は通常「うつくしい。なんじ」などと意味することになり、「カンムリカイツブリ」という字源を失った。
それゆえ、「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの、オスとメスの首より以下の銀白色の体下面と背中は〔弓〕の形」に相似するということで――偏【弓】に【爾()】が加わった【彌()】が「カンムリカイツブリ」をあらわすことになったと考えられる。
なお、「銀白色に輝く北天の最輝部」は【漢】の字源と「銀漢」の語源であったことになる。

下図は、五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」である。
下図に示すように、今から約5000年前の黄帝時代における黄帝陵(北緯3535)の天頂には、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河頭部の中央」がめぐってきた。
また、当時、「長江口(ちょうこうこう・長江の河口)の中央(北緯3130)」には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
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下に、上図と異なる「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」を配した。
下図のおける北緯30度の地所は、長江口(北緯3130)より南の「杭州湾(こうしゅうわん)の南岸」である。
下図の右側に示したように、「杭州湾の南岸(北緯30)の天頂」には、「北天の最輝部における最南部」がめぐってきた。
黄帝時代、「北天の最輝部の最北部」にある「はくちょう座γ星とこの星を中心とする円環銀河部」は、黄帝陵(北緯3535)よりやや南部の地所の天頂にめぐってきた。
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下に「北天の最輝部のγ星・円環銀河部と【日】の金文形の図」を配した。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、下図における【日】の金文形を「太陽の形。中に小点を加えて、実体のあることを示す」と解説する。
つまり、下図の左側の「円環銀河部と、その円形中心のはくちょう座γ星」が、金文の【日】の「太陽の形」をあらわす字源であったことになる。
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下に、上図より前に配した「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」における中央部の「北天の最輝部周辺に限った、黄帝陵(北緯3535)・杭州湾南岸(北緯30)の天頂緯度線の図」を示した。
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下に示すように、黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」を「地平線、あるいは水平線」に見立てるために「水平」にして――【日】の金文形となった「太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)が地平線(水平線)より上へ昇って、東の空を赤く染める朝の光景」を表現するためには――芸術的センスを発揮(はっき)して想像力をたくましくするように求められた。
というのも、()「斜めの天頂緯度線」を「水平」になるようにすると「北天の最輝部」は「傾きが一層加わってあたかも真横に転がるようになる」――このため、「太陽が地平線(水平線)より上へ垂直に昇る景色」にはならない。
これゆえ、下図に示したように、()新たに「真横に延びる地平線(水平線)となる線」を描き、
さらに、()「垂直状に立つ北天の最輝部」を作図すればーー
(
)「赤く輝く日の出の太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)」が、下図のごとく「地平線(水平線)より上へ昇る景色の想像図」となる。
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上図に示した、複雑な工作を加える「想像」は、わたくしの独断・推測によるものではない。
というのも、上の「はくちょう座γ星と北天の最輝部の光景の想像図」は、
【旦(たん)】の字源「東の空を赤く染めて太陽が地平線(水平線)より上へ昇って姿をあらわす光景」をあらわすことになったからである。

上の「【旦】をあらわす想像図」は、【不】の字源をもあらわした。
前述したように、『説文解字』は【不】の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従うふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
ゆえに、上の「想像図」において――【弥】「カンムリカイツブリ」の字源「北天の最輝部」は「鳥が上の天空を飛翔(ひしょう)して、地に下りて来ない」ように観()える。
そして「地平線(水平線)」に見立てた「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部中央」は【一】の字源であった。ゆえに「一に従ふ」と説明された。
前ページの「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線」に示したようにーー【一大】の語源となった「十字の銀河の子宮中央の緯度線(北緯3130分の天頂緯度線)」は「北天の最輝部の最南部」を貫通した。ゆえに、「一はなほ天のごときなり」ということになる。
以上のごとく、「北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源であった。
したがって、「不弥国・宗像地方」は「【不】と【弥】の字源の、北天の最輝部の地霊が棲()む地」であったことになる。

また、上図における複雑な工作を加える「想像」は【倉頡の文字作成理論】において「特に難(むずか)しい作業」ということで――上図の「想像図」は【難】の字源となった。
「銀漢」の【漢】の右側が偏となり、この偏に【隹】が加わって【難】という字が成立した。
【難】における【隹(すい)】は「北天の最輝部」を指す。
「十字の銀河の子宮」もまた「小鳥の鳰(にお・カイツブリ)」をあらわす【隹】の字源銀河である。

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
鳰の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。
湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死(ちっそくし)しない胎児」に喩えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と「鳰」の両者をあらわすことにした。
そして、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになったため、
偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。
上記したように、「十字の銀河の子宮」が字源となる【隹】の字も「鳰」をあらわした。

前述したように、【弥】の字源は「全長が46㎝~61㎝の、カンムリカイツブリ」であった。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝に育った大きな胎児(つまり、出産間近い児の体長)」と同じぐらいである。
これゆえ、「十字の銀河の子宮(【隹】「小鳥」)よりもはるかに大きい、〔鳥〕と表現すべき北天の最輝部」を字源とする【弥】の「カンムリカイツブリ」もまた「鳰(十字の銀河の子宮)と同じく【隹】とあらわすことになった。
つまり、【呼】の「鳰」も【弥】の「カンムリカイツブリ」も「羊水の中に潜る、同じ水中生活者の胎児」をあらわしたゆえ、「カンムリカイツブリ」も【鳥】ではなく【隹】ということになったと考えられる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・1」で詳細に解説したように、
中国の山東省の呂県(チュウシエン)の陵陽河(りょうようが)の遺跡から「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる灰色の爆弾型の土器が出土した。
下に、「灰陶尊」と灰陶尊の胴部の口縁部(こうえんぶ)にほどこされた【旦】を表現する図書を配した。
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中国の学界は、上図の「灰陶尊」は今から約5000年前に作られたと定めている。
ということは、灰陶尊は今から約5000年前の黄帝時代に作られたことになる。
中国の学界は、上図の右側の図書は【旦】をあらわすと解釈する。

下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの首から上の横顔に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、黄帝時代、「山東半島」は【弥】の「カンムリカイツブリの頭(横顔から首までの姿」に見立てられたことになる。
また、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
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上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
この黄帝陵・日照の北緯3535分より少し高緯度に、【旦】の図書をほどこした灰色尊が出土した呂県陵陽河遺跡が所在する。
「黄帝陵と日照の緯度線」を「地平線(水平線)」に見立てると、「呂県陵陽河遺跡」は「地平線(水平線)より出ずる夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」に合致する。
ゆえに、「灰陶尊の胴部の口縁部にほどこされた最上部の円形」は「夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」を表現していたことになる。
「灰陶尊における【旦】中央の図書」は「地平線(水平線)と太陽の中間に浮かぶ底部が紫色に染まる雲の図案」であろうか?
「灰陶尊における【旦】の最下部の図書」は「地平線(水平線)より下の地下から東の空を赤く染める太陽の光線」を表現する図案と考えられる。

上図の「山東半島の【弥】「カンムリカイツブリ」の地宜」に表示したように、「石島」は「朝日(日の出)」をあらわし、「日照」は「夕日(日の入り)」をあらわす。
つまり、「縦長の頭の出産児が横長の骨盤入口に入りこむ、第1回旋の様子」を「地平線(水平線)下に没するときの夕日」に見立てて、「日照」という地名になった。
そして、「石島」は「産道を通過して、第4回旋しながら膣口(ちくこう)から頭が誕生する出産児の様子」に見立てられて「地平線(水平線)の上に昇る、朝日(日の出・【旦】)」をあらわすことになった。

◆だから、「山東半島の地宜」は――出産児が骨盤入口から頭が入りこみ、さらに産道を通過して、膣口(ちつこう)から誕生する、この出産児が八丁もぐりの【弥】「カンムリカイツブリ」のごとく息を外()きつづけて羊水を吸い込んで窒息死しない様子――あらわした。
このような「山東半島の地宜解釈」を伝えて、
『古事記』上巻の「天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨(こうりん)説話」の末部には――天孫(邇邇芸命)が「ここは韓国(からくに)に向かい、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて、朝日の直刺(ただ)す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉(いとよ)き処(ところ)なり」と称したーーという文がある。

上記した「ここは韓国に向かい、笠紗の御前を真来通りて、朝日の直刺す国」という文は、「山東半島北端の石島」に由来する表現であり、「夕日の日照る国」は「山東半島南部の付け根にある日照」に由来する表現である。
上図における「【弥】・カンムリカイツブリの横顔から首までの形に相似する、山東半島の前方(東方)」は「韓国」である。ゆえに、「韓国に向かい」ということになる。
そして、「笠紗の真来通る」という表現は上図の「山東半島の【弥】・カンムリカイツブリの地宜」における「黄河口と呂県陵陽河遺跡を結ぶ経度線」が「真来通る」、つまり「同経度となる」と意味する。
だから、「山東半島」が「笠紗(かささ)」ということになった。

なお、「真来通る」という古語は、「正午、南中する太陽に向かって複数の木の棒をならべ立てて、その数本の木の棒が重なって一本に見える状態」を表現するものであるゆえ、「経度を精確に測量できる。同経度である」と意味した。
それゆえ、「真来通る」は「真木立(まきた)つ」とも言った。
上記の「正午に南中する太陽」を利用する「真来通る・真木立つ」の他に――肉眼星が191個もあるヘルクレス座(夏の星座)には複数の星が南北・経度軸に合致して並ぶ箇所があるゆえ、「真来通る」を測量できた。
この他にも、夏の銀河に漬()かる幾つかの星座には、経度線上に複数の肉眼星が並ぶ箇所があるゆえ「真木立つ」を測量することができた。
また、「斜(なな)めとなる、十字の銀河における緯度の目盛り」を巧みに利用して、「経度」を精確に測定できる呪的(じゅてき)な眼力(神通力)を有する人々もいた。

上記したように、天孫は「韓国に向かい、笠紗の御前を真来通る、【弥】の首から上の横顔に相似する山東半島の地宜」と同じく【弥】の「カンムリカイツブリの横顔から首までの形」に相似する「福津市(ふくつし)の津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線」をも「笠紗の御前を真来通る処」と表現したことになる。
つまり、天孫は「宗像大社の辺津宮を貫通する経度線」を「御前(みさき)を真来通る」と表現した。
ゆえに、「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの山東半島」と同じく「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までとなる津屋崎町の海岸線」は「笠紗」ということになった。
「笠紗」は「【弥】のカンムリカイツブリが生息する水草の葦(あし)などを編んで作った笠」であると考えられる。

このような理由・根拠にもとづいて、天孫は「不弥国・宗像地方」を「朝日の直刺す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉き処」と表現した。
以上のごとく、「不弥国・宗像地方」は「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」であった。

◆上記したように、「不弥国・宗像地方における津屋崎町の海岸線」と「山東半島の海岸線」は共に「【弥】のカンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形」となる。
このため、不弥国・宗像地方には――夏代黎明期(紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが教え広めた「精密な中国の海岸線地図」の秘密が存在した。

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は猛獣の「トラ」ではなく、「地図作製を役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に似る三匹の豹(ひょう)が参加していた」と説明している。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図作製を役職の副官となった三氏族」を意味した。

だから、『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬、虎と豹、羊と鵲(かささぎ)は無い(つまり生息していない)」という記事がある。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では9回以降繰り返して証明しているように、【牛】の字源・字義「ジャコウウシ」のであり、【馬】の字源・字義は「フタコブラクダ」であった。
これゆえ、【虎】は「不弥国・宗像地方を治める男王の主なる役職の、精密な地図を作製する長官」を意味したことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」の末部は――不弥国・宗像の王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」であったと記す。
ゆえに、「天菩比命」は「精密な地図を作製する長官」であった。
この「天菩比命」には「七人の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がいた」という。
この「七人の子の建比良命」は――()出雲国造(いづものくにのみやつこ)()无耶志国造(むさしのみやつこ)()上菟上国造(かみつうなかみのみやつこ)()下菟上国造(しもつうなかみのみやつこ)()伊自牟国造(いじむのくにのみやつこ)()津島県直(つしまのあがたあたひ)()遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)たちの先祖である――と列記する。
つまり、上記した「天菩比命の子」と記された「七人の建比良鳥命」は「天菩比命と血のつながった息子」ではない。

つまり、「天菩比命に従属する分子の氏族」を「子」と表現したことになる。
だから、「七人の建比良鳥命」は「天菩比命の精密な地図を作製する役職を補佐する、倭人国の各小国に住んだ副官氏族たち」であったことになる。
言いかえると、「七人の建比良鳥命」は「七人の豹」であった。

次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」では、「不弥国・宗像の王の天菩比命は精密な地図を作製する長官の虎、つまり虞()であった秘密」を解明し、
わが国には五帝時代の五番目の帝舜(しゅん)の治世に代々200年~250年間も「虞()」の要職にあった益氏の王子と若者たちが「精密な中国海岸線地図」をわが国にもたらした史実を具体的に解説し証明することにする。
(
注 帝舜に益氏が「虞」の重職に就くように命令されたことは、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)に記述されている)

◆なお、上記したように、『魏志倭人伝』は――倭地には【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」、「地図を作製する長官と副官」を象徴する【虎】と【豹】、【羊】の字源となった「動物」と【鵲(かささぎ)】が生息しない――と説明する。
しかし、なぜ「倭地には【羊】は生息しない」と記す必要があったのであろうか?

【牛】の字源「ジャコウウシ」の別名は「ジャコウヒツジ」である。
おそらく、益氏の王子と若者たちは「倭地に生息しない、ジャコウウシ(ジャコウヒツジ)」を縄文人たちに理解させるために、【羊】の字源となった「動物」と比較して説明しようとしたが――倭地には【羊】も生息していなかったため、困惑したのであろう。
この困惑を伝えて、『魏志倭人伝』は「倭地には羊が生息しない」と記したのであろう。

【鵲(かささぎ)】の別字は【舃(せき)】である。
益氏の王子と若者たちは「秋田県の八郎潟の偏(ほとり)」に定住した。
「八郎潟」の【潟】の右側は【舃】である。
だから、夏音文字の【舃】は【潟】と密接にかかわる。
『魏志倭人伝』には「益氏が男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した」と示唆する記事が存在する。
ゆえに、「倭地には舃(かささぎ)は生息しない」と記す必要があったことになる。

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2024年6月16日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・15

奴国の志賀島の金印出土地の秘密の解明

◆倭女王・卑弥呼が登場することで有名な「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、【卑弥呼が居住した邪馬臺()国】を説明するための書物」であったという定説は100パーセント空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」に関する説明は存在せず――もっぱら【今から約5000年前に生存した、倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

したがって、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説もまた、『魏志倭人伝』を誤読した産物の100パーセントの空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』は「2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代には、紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に習得した漢字(夏音文字)がわが国に存在していた事実」を具体的に説明しているからである。
ゆえに、『魏志倭人伝』によって「卑弥呼時代に、わが国には【倉頡の文字作成理論】が存在していた事実」も具体的に証明できる。

さらに、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて、楷書を意符・音符に用いた夏音文字、つまり夏代黎明期に習得した夏音文字が多数記されている。
このように、多数の夏音文字を『古事記』上巻の随所で実際に見ることができる。
ゆえに、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2050年頃の中期縄文時代末(夏代黎明期)であったことは確かな事実となる。

【漢字を発明した倉頡(そうきつ)】は、今から約5000年前(紀元前3000年頃)の中国の五帝時代に生存した黄帝につかえていた。
わが国は、今から約4050年前(紀元前2050年頃)に、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、【倉頡が発明した文字作成理論】と【夏代黎明期の漢字の夏音文字】を教え広めた。
ゆえに、今から4000年前(紀元前2000年頃)の後期縄文時代初頭に【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、わが国は習得していた。
だから、『魏志倭人伝』は邪馬台国とまったく無関係の、【卑弥呼が有していた倉頡の文字作成理論と夏音文字の伝来】について説明する文献史料であったのである。

以上からして、
(
) 「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する文献である」という定説は空理空論であった
(
) 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説も空理空論であった
わが国は紀元前2050年頃に最初の漢字・夏代黎明期の夏音文字をすでに習得していたからである
(
) 「倉頡が漢字を発明したと説明する倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話である」という定説もまた空理空論であった

◆倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、あるいは「銀河」、ときには「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆このブログでは『魏志倭人伝』に記される対馬国(現在の長崎県北部の対馬)から5番目の小国・奴()国の位置と、西暦57年に後漢の光武帝(こうぶてい)から授与された「漢委奴国王」と文字を刻む金印の出土地の秘密を解明する。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回において、下図に示す「対馬国・瀚海・一大国の秘密」を解明した。
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上の「対馬国・瀚海・一大国の地図」は、下に配した「瀚海・ゴビ沙漠と長方形状に水が流れる黄河上流が包囲するムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概況地図」をあらわして、【倉頡の文字作成理論】を解明し証明するために必要な基本地図であった。
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『魏志倭人伝』は「倭国には牛と馬は生息しない」と説明する。
【牛】の字源・原義は「ウシ」ではなく、上図の黄土高原・凍土(とうど)地帯に生息した「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、上図の瀚海・ゴビ砂漠とムウス沙漠に生息した「フタコブラクダ」であった。

ゆえに、「対馬国の地宜(平面的に図化した地図の形)は、北の上県(かみあがた)の地宜が「フタコブラクダの正面形」に相似し、南の「下県(しもあがた)」の地宜は「フタコブラクダの丈夫な足底の形」に、相似する。
したがって、「フタコブラクダの姿と足底と一対(いっつい)となって、【馬】の字源をあらわす」ことになり、
この「一対の馬の姿と足底」にもとづき、卑弥呼は小国名を「対馬」と定めたことになる。

上の「対馬国と一大国の地図」に示したように、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めた。
【牛】の字源・原義「ジャコウウシ」は瀚海・ゴビ砂漠の南の黄土高原・凍土地帯に生息した。
下に示すように、【瀚海の南に、一大国・壱岐】がある。
この【一大国・壱岐の地宜における西部の地宜は、瀚海・ゴビ沙漠とムウス沙漠に生息した馬・フタコブラクダの姿】に相似する。
また、【一大国・壱岐の東部の地宜は牛・ジャコウウシの姿】に類似する。
【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壱】の字源となり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
「一大国は「【壱】の字源の聖獣のジャコウウシとフタコブラクダの姿を東西に分ける岐(わかれみち)が存在する」。
ゆえに、後世、一大国は「壱岐」と呼ばれることになった。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(現在の長崎県北部の壱岐)に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在方位と同じである。
しかし、一大国から末盧(まつろ)国までの方位について、『魏志倭人伝』は記していない。

というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の11回~14回までに詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』は「末盧国からの方位」を「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【方位名】を記していたからである。
「対馬国が北、一大国が南」に対して、いっぽう「末盧国以下の伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国において北は東、南は西になる」。
ゆえに、「一大国より南にある末盧国」は【倭】の字源の方位規定にもとづくと「一大国より東に末盧国がある」ということになる。
つまり、【「対馬国と一大国における〔北〕は、末盧国・伊都国・奴国・不弥国にとっては北ではなく〔東〕となる」となるため――両者の方位は対立して矛盾する。
だから、「一大国から末盧国の方位」を明記することができなかったのである。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(14)までに詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくであったことになる。
下図の下部に示したように――奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
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◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う「奴国の位置と金印出土地の秘密の解説と証明」には、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上に「鬼の姿に似る銀河」がある。
下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、「奴国」の【奴】の字源銀河であった。
「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は【又(ゆう)】と【右(ゆう)】の字源でもあった。
【又】の字音は【右】と同じく「ゆう」、【又】の字義も【右】と同じく「右手」である。
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つまり、「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕すことができる筋肉隆々の、ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年の大きな手()」を象徴して、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する太い右手」に見立てられた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の死体を葬る墓に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」という記事に登場する【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力が最も輝く、純粋な18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで、18歳の青年と13歳の乙女が徇葬の犠牲者に選ばれたのである。

また、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体のジャコウウシのごときの強大な力」をあらわした。
また、「子どもの出産において――母体(妊婦)が雷鳴や虎が吠えるがごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
その証拠に、「怒責」の【怒】の字は【奴】の下に【心】を加える字である。
要するに、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」、
(
)「ジャコウウシの強大な力を有する18歳くらいの青年」、
(
)「ジャコウウシのような強大な怒責の力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

『魏志倭人伝』は「奴国には二万余戸有り」と記す。
下の図に示したように――二万余戸を有した奴国はその人口数からして、その範囲は「福岡湾・博多湾沿岸の福岡市から熊本県南端まで」(ただし、南端の〔南〕は現在方位)の「広大な範囲の、強大な力」をあらわす大国であったと考えられる。
あるいは「奴国の南端」は「鹿児島県の薩摩半島まで」であったかもしれない。
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◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には、下記のごとく「奴国の海ノ中道と志賀島(しかのしま)」について説明する。
「建武中元二年(57)、倭の奴国は貢物(みつぎもの)を奉(ほう)じて朝賀(ちょうが)した。その使人は自(みずか)ら大夫と称した。その国は倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜(たま)った。」
江戸時代に博多湾中の志賀島から発見された「漢委奴国王」の金印は、この時に与えられた印綬とされる。

下に、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」を配した。
下図に示したように、「海の中道の[]は志賀島がある[西]の方に曲がるように陸繋(りくけい)して、時計回りに方位が90度転回する状況」をあらわす。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
また、「海ノ中道南端の足の形」は「ジャコウウシの足」に相似すると見立てられて、
この「南から西への曲線」は「ジャコウウシの強大な力」つまり「【奴】の字源・字義」をあらわしていると解釈された。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委奴】という国名をあらわすことになった。
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これまでのわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」において毎回のごとく解説したように、
倉頡は「産道を通過する出産児の頭が旋回(せんかい)する、4回の回旋(かいせん)」に注目して、
「第1回旋と第4回旋」をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定」を字源・原義とする【禾()】の字を作り
また「第2回旋と第3回旋」をあらわす「逆時計回に90度転回する方位規定」を字源・原義とする【呉()】の字を作った。
なお、「回旋」という語は、今日の産婦人科が用いる医学用語である。

前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」の左上に、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、黄帝時代において、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口がある湾)中央の天頂にめぐってきた銀河部とその銀河部を貫通した天頂緯度線を示した。
下図に示したように、黄帝陵(北緯3535)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部につく大きく見開いた【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
また、長江口の中央(北緯3135)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく切れ長の細い【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
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上図の「黄帝時代の天頂緯度線の状況」にもとづいて
倉頡は下図の「【禾】の字源解説図と字形転回解説図」に示すように――「中国全土の天頂緯度線が貫通する、十字の銀河の中央」に「禾・稲」をあらわす図書を重ねた。
()の育成に適する土地は、長江口周辺の中国南部である。
ゆえに、下図のごとく、「禾の穂」を「長江口の天頂を通過した、十字の銀河の子宮がある、南」の方に向くようにした。
そして、「禾の穂」が「鬼の横顔における口(くち)」に垂れるようにして、「時計回りに90度転回して、南が西になる方位規定」をあらわした。
「禾の穂に実る米」を炊くと「人が食べる飯(めし)」となる。
つまり、倉頡は「禾の穂」を「飯を食べる人の横顔の口」に相似する「鬼の横顔における口」の方へ向けて垂れるようにした。
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上図の右上にある()の図書では「禾の穂は地面がある下方に向く」。
この「禾の穂が地面の方に向く形」は「地面に根を張って植わる禾の形」に合致せず不自然である。
ゆえに、「地面に植わる禾の形」になるようにした()の図書を180度転回した()の図書は、その上方に示したように、「禾の穂が北から西へと垂れる。」
しかし、この()「北から西へ禾の穂が垂れる図書」は「逆時計回りに90度転回する【呉】の字源」をあらわして矛盾する。
それゆえ、この()の図書の左右が反対になるように180度転回する(すなわち、裏返しにする)()の図書は「禾の穂が北から東へと垂れる、地面に植わる禾の形」となる。
だから、()の図書は「北が東となる、時計回りに90度転回する【禾】の字源・原義」をあらわした。

(
)の「禾」の図書は、下図の右側の「地面に植わる禾の形」と同じである。
下図の右側の()と同じ「禾の形」は、【禾】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)に合致する。
ゆえに、下図の右側の「地面に植わる禾の形」は、【禾】の字源・原義をあらわした。
下図の左側の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加わる【委】の字が作られた。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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ゆえに、前ページに配した「海ノ中道と志賀島の地図における[]から[西]へ時計回りに90度転回する曲線」は【委】の字源・原義をあらわした。
そして前述したように、「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に見立てられ、「志賀島」は「強大な力を有するジャコウウシの足が掘った土」に見立てられて――「海ノ中道と志賀島」は【奴】の字源「強大な力」をあらわしていると解釈された。
だから、「海ノ中道と志賀島」は【委奴】という国名をあらわした。

◆現在は、「天の北極がある方向」を「北」と定める。
この「天の北極の高度を、緯度に換算する方法」だと、
原始や古代の人々は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できず――日々の山野における狩猟や穀物・野菜などの食料採集などの日常はじめ、遠くの地を往復する旅や大海の往来にあって位置(緯度)と方向が皆目(かいもく)不明となった。
だから、道に迷って命を失うことになり、無事に家族が待つ家に帰還することができなかった。
これゆえ、「天の北極」では緯度を測定しなかった原始や古代の人々は、「天の北極」を「北」の基準点としなかった。

下に、原始や古代の人々が「1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定できる方法」である「天頂緯度線のキャッチ」を示す図を配した。
つまり、下図は「天頂点と重なる銀河部位の軌道(きどう)」をあらわす。
下図の左上に示すように――「天頂点と重なる銀河部位の軌道」は「天頂点」に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線」となる。
下図における「天頂点」は「天頂点と重なる銀河部位の軌道において、最も[]となる点」である。
この「天頂点を重力の方向(鉛直線)の地面へと伸ばした観測地点」が、「極南界」であった。
つまり、『後漢書』倭伝に「建武中元二年(57)に倭の奴国の使者が、倭国の極南界なり」と述べたという、「極南界」は「香椎宮が鎮座する地点」であったことになる。
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下に「男女一体となる、十字の銀河の図」を配した。
下図の「十字の銀河の東側の手」は「弓を持つ手」となる。
この「【弓】の字源となる銀河」は「【勿(ぶつ)】の字源銀河」でもあった。
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【勿】の字について、白川静著『字統』は「弓体に呪飾(じゅしょく)をつけた字形。(中略)。犂(すき)をもって土を撥()ねる形」と解説する。
「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったのである。
その証拠に、偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を、『説文解字』は「牛を大物と為()す。天地の数は牽牛(けんぎゅう)より起こる。故に牛に従ふ」と解説する。
だから、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
ゆえに、白川静著『字統』の【勿】の「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったことになる。

下に、「【委】の転回方位が成立する海ノ中道・志賀島の図」を配した。
(
)この図は、前ページに配した「天頂点と重なる銀河部位の軌道図を平面的に図化した円弧図」である。
(
)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手がもつ【弓】をあらわす図」でもある。
(
)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手が持つ【弓】の字源銀河は【勿】の字源銀河でもある」と示す図でもある。
つまり「海ノ中道」が「ジャコウウシの足」をあらわし、「志賀島」が「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」をあらわす。
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このように転回方位にもとづいても、「海ノ中道の端の西から志賀島がある北へと、90度転回する曲線」は【委】と【奴】の字源をあらわす。
また、上図に示したように、「香椎宮」は「極南界」となる。
さらに、上図においては「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に、「志賀島」は「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」に見立てることができる。

前ページでは、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」は【委奴】という国名が成立することを証明した。
上図のごとく、転回方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」でも、【委奴】という国名は成立する。
このような秘密があったゆえ、香椎宮と同緯度となる志賀島の地点に、光武帝から賜った「漢委奴国王」の金印が埋蔵されたことになる。

◆前述したように――【産道を通過する出産児の頭】は4回、回旋(かいせん)する。
【第1回旋と第4回旋】は【時計回りに90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの90どの旋回】となる。
倉頡は【第1回旋と第4回旋】をあらわす【禾】の字を作り、【第2回旋と第3回旋】をあらわす【呉】の字を作った。
倉頡が【禾】と【呉】の字を作って定義した【2種類の方位規定】は【学問(倉頡の文字作成理論)における基本】となった。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて説明したように、奴国の隣の「伊都国の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
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上図の「現在方位にもとづく、伊都国の地宜」を【倭】または【委】の字源にもとづき「時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背」が「下」となり、「ジャコウウシの足」が「上」となる。
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あるいは、【呉】の字源のごとく「逆時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背となる部分」が「上」となり、「ジャコウウシの足となる部分」が「下」となる。
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伊都国は倭人国に所在するが――上図の「【呉】の字源にもとづく伊都国の地宜」のほうが「ジャコウウシの足が地面につく」ように観えて合理となる。
いっぽう、「【倭】または【委】の字源にもとづく伊都国の地宜」は「ジャコウウシの足が地面につかずに、上空に浮く」ように観えて不自然である。
この【呉】の字源よりも劣る【倭】と【委】の字源にもとづく「ジャコウウシの姿の、伊都国の弱点」を補って倭国(つまり、伊都国)が栄えて強大な国となるように願って――志賀島に金印が埋められたと考えられる。

だから、『後漢書』倭伝にある「倭国の極南界なり」という文の「倭国」は、『魏志倭人伝』の「伊都国のみの一国」であったと考えるべきことになる。
言いかえると、『後漢書』倭伝の「倭国」は、『魏志倭人伝』に「旧百余国」または「使訳通ずる所三十国の対馬国から狗奴国までの地域」ではなかったにちがいない。
もしも『後漢書』倭伝の「倭国」が「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の範囲」であったとしたならば――西暦57(建武中元二年)当時、委奴国王は対馬国から狗奴国までの30ヵ国を統治していたことになる。
そうすると、170年頃には、すでに対馬国から狗奴国までの30ヵ国は委奴国王の子孫の男王に統治されていたことになる。
したがって、170年頃から倭国の大乱は勃発(ぼっぱつ)するはずがなかったことになる。

上記したように、「【委】の字源にもとづく伊都国の、ジャコウウシの姿に相似する地宜にあって、ジャコウウシの足が地面につく形」には観えない。
この弱点を補うために、倭国、つまり伊都国の地霊にジャコウウシの強大な力の勢いを増大させるために、志賀島に金印が埋められと考えるべきことになる。
だから、『後漢書』倭伝の「倭国の極南界」という文の「倭国」は「伊都国」に限った表現であったにちがいない。

このように、【委奴国】の【委】には「不合理となる弱点」が存在するため、
卑弥呼は【委奴】から【委】の字を削除(さくじょ)して小国名を【奴】の1字だけであらわす「奴国」と定めたと考えられる。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は「対馬国・瀚海・一大国という門」を入って奥へ奥へと進むほど、【倉頡の文字作成理論の全貌】が次第に次第に明らかになる仕組みになっている。
だから、『魏志倭人伝』は、邪馬台国について説明する書物ではなく――最初から、【倉頡の文字作成理論】についてもっぱら説明する文献史料であったのである。

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2024年6月 7日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・14

現在の「漢字習得の絶対的定説」は
伊都国の記事によって「すべてウソだった」と証明される

◆今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
この【倉頡の文字作成理論】は、倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国記事で具体的に組織的に説明されていた。

ところが、現在、学者たちは「倉頡が文字を発明した」と伝える倉頡伝説は「荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、「倉頡伝説は史実を語るものであったこと」は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて簡単容易に証明できることを解説した。
この今回のブログでは、『魏志倭人伝』が説明する漢字67字で構成される「伊都(いと)国」の記事によっても、【倉頡が漢字を発明した事実】が簡単容易に証明できることを明らかにする。

江戸中期の新井白石(16571725)以来今日まで300年間、わが国の学者たちは「『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した邪馬台国について説明する文献史料である」と断定する。
しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した倭人国の王国は邪馬壱(やまい)国であった」と記す。

そして、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す箇所は1ヵ所も存在しない。
だから、学者たちが最も信頼する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の完全なる空理空論であった。
つまり、もともと『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的に詳細に組織的に説明する文献史料であった。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが国民を洗脳しようとしてする、邪馬台国について一切(いっさい)説明する文献ではなかったのである。

◆倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
「夏の銀河」は「夏に最も長時間見ることができる銀河の帯」である。
「夏の銀河」は通称「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を示した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、冷酷で恐ろしい地に棲む神(つまり、地霊)】と認識した。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)は南北に米穀を買い入れている。対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
ゆえに、下図に示すように、「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南」となる。
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次に『魏志倭人伝』は「又、一大国から一海を渡る千余里、末盧(まつろ)国に至る。(中略)。末盧国から東南陸行五百里、伊都(いと)国に到る。(中略)。伊都国から東南奴()国に至るには百里」と説明する。
『古事記』に記される「末羅県(まつらのあがた)は現在の佐賀県唐津市」であったと比定される。
『日本書紀』に記される「伊都県(いとのあがた)は現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町」であったと比定される。
『日本書紀』に登場する「儺()国は現在の福岡市地方にあった国」と比定される。
これゆえ、わたくしは「伊都国の旅程基点の糸島市前原町から百里に相当する奴国の旅程基点(後の儺国の中心地)」を、「福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった」と考えた。

しかし、『魏志倭人伝』の「東南陸行五百里」という記事に対して、「末盧県の佐賀県唐津市から伊都県の福岡県糸島町前原町まで」は、
『魏志倭人伝』が「東南陸行五百里」と説明する記事に相違して、現在方位にもとづくと()「東北」となり、()「陸行五百里」という距離よりも短いことになるので、両記事は矛盾する。
さらに、現在方位にもとづくと、「伊都県の福岡県糸島市前原町から儺国の福岡県福岡市東区の香椎宮の方角は東北となる」ゆえ、矛盾する。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて、詳細に解説して証明したように、
「末盧国から奴国までの旅程基点の方位」は、「倭人国」の【倭】の字源・原義に則(のっと)っていた。
ゆえに、「対馬国と一大国の南北」に対して――【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国から奴国までの旅程基点の方位は対立して合致しない。
この対立が原因で――卑弥呼王朝は魏や帯方郡へ送る文書に「一大国から末盧国までの旅程」において「一海を渡る千余里、末盧国に至る」と記して「方位」を明記しなかったのである。

上記したように、末盧国の旅程基点を佐賀県唐津市にすると、唐津市から伊都国の旅程基点の福岡県糸島市前原町は、『魏志倭人伝』の「陸行五百里」より短い。
それゆえ、「末盧国の旅程基点」が「五百里」になるように――わたくしは末盧国の旅程基点を「長崎県松浦市」であったと考えることにした。

この結果、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくなる。
下図が示しているように、現在方位の「東北」が【倭】の転回方位の場合「東南」となる。
だから、『魏志倭人伝』の「末盧国から〔東南〕陸行五百里、伊都国に到る。伊都国から〔東南〕奴国に至るには百里」という記事は正しかったことになる。

このように、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する文献であった。
以上のごとく、末盧国以下の日本列島本州における方位は、【倉頡の文字作成理論】で確立された【禾()】の字源をそのまま受け継ぐ【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則って記述されていたのである。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・9」で証明したように、
下図に示すように、一大国・現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、西方が【馬】の字源「フタコブラクダ」の姿に相似し、東方が【牛】の字源「ジャコウウシ」の姿に類似する。
壱岐東方の【牛】の字源「ジャコウウシ」は、「一大率(いちだいそつ)という名の男王が住む伊都国がある南(現在方位)に向かって進む姿」となる。
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というのも、前ページに配した「対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地図」に示したように、
『魏志倭人伝』は「対馬と一大国の中間の海の名」を「瀚海」であったと説明しているからである。
「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
ゆえに、【馬】の字源は一大国の西方の地宜に相似する「ゴビ沙漠(瀚海)に生息する、フタコブラクダ」であると解釈すべきことになる。
【馬】「フタコブラクダ」は、瀚海・ゴビ沙漠だけでなく、下図に示す「長方形状に水が流れる黄河上流が包囲する、ムウス沙漠に」にも生息した。
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一大国東方の地宜は、【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に類似する。
【牛】「ジャコウウシ」は、上図に示す「瀚海・ゴビ沙漠の南の、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄土高原・凍土(とうど)地帯にて生息した。
倉頡がつかえた黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵(こうていりょう)は、牛・ジャコウウシが生息した黄土高原に所在する。
ゆえに、「一大国・壱岐東方の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの姿に類似する」と解釈すべきことになる。

以上のごとく、対馬国と一大国の中間の「瀚海」という海の名は、【倉頡が発明した文字作成理論】を解明し証明するために必要な、絶対に欠いてはならない重大なキーワードであった。
「瀚海」の2字は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』のほとんどの全記事と関連するキーポイントにして要(かなめ)である。
邪馬台国説学者たちのごとく「瀚海」の2字を無視すると、『魏志倭人伝』が語る【倉頡の文字作成理論】は消滅して、その意見は一気に空理空論となる。

その証拠に、江戸中期に生存した新井白石(16571725)は「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読し、
さらに「瀚海」という2字を無視して、
「邪馬台国は大和であった」、また「邪馬台国は九州の筑後国山門(やまと)郡であった」と立論する空理空論を後世に残した。
このため、現在、学者たちは【「瀚海」という2字を無視する、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説が空理空論である事実】にまったく気づかない。

◆下に、「一大率(いちだいそつ)が居住した伊都国の地宜」を配した。
「福岡県の糸島半島の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの横顔」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「現在方位にもとづく、糸島半島より南部の地宜」は「ジャコウウシの胴体」に相当する。
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下図のごとく、「伊都国の地宜」を【倭】の字源「時計回りに90度転回する地宜」にすると、〔逆(さか)さ絵〕になって、ジャコウウシの姿に相似する状況が不明確となる。
つまり、「ジャコウウシの足は地面につかず、足が上空に浮いて見える」ため、不自然な形となる。
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下図のごとく「伊都国の範囲を示す地宜の[][]にし・[西][]にする【呉】の字源「逆時計回りに90度転回する方位規定」に則ると、「ジャコウウシの足が地面につく、自然な形」となる。
倭人国にあって「伊都国の地宜は【倭】の字源」を示さずに、「伊都国の地宜は【呉】の字源」に適合する、この不合理の弱点から、
伊都国は倭人国の王国(首都国)として不合格となったのである。
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ジャコウウシは黄土高原・ツンドラ地帯のきびしい寒さに耐えられる毛糸の特性の防寒具で身をかためている。
暗い褐色(かっしょくく)の足元まで伸びる毛足が長いコートによって、すさまじい凍土地帯の無吹雪にも耐えられることができる。
「ジャコウウシ」という名前は、彼らがはなつジャコウ(麝香)の匂いからきている。
匂いは100m先から香(かお)るという。
ジャコウウシは、わが国に生息していなかった。
したがって、「毛足が長いコートの防寒具で身をかためるジャコウウシの姿に地宜が相似する伊都国」は「【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣・ジャコウウシの地霊が棲む地」であったことになる。

ゆえに、「伊都国の地宜」は「厳寒の冬、ジャコウウシの大群が集まった黄帝陵付近の餌場(えさば))」に見立てられたことになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「伊都国に居住する男王の名は「一大率であった」と記す。
つまり、「伊都国の男王」は「一大国東部の地宜が示すジャコウウシの大群を率(ひき)いる、オスのジャコウウシの頭(かしら)に相当する君主」ということで、「一大率」という名になった。

「伊都国の北部」は「現在の福岡県糸島市と福岡県福岡市の西部」であった。
「伊都国の南部」は「現在の佐賀県佐賀市と佐賀県東部の市町村である」。
邪馬台国九州説が根拠・理由とする佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町に所在する吉野ヶ里遺跡は、伊都国に所在した。
ゆえに、吉野ヶ里遺跡の周辺には倭女王・卑弥呼は居住していなかった。
したがって、吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説は、「瀚海」という2字を無視した空理空論であったことになる。

◆前ページの「【呉】の字源にもとづく伊都国の地宜」が示しているように、
「ジャコウウシの横顔となる、糸島半島の地宜」は「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢」をあらわしている。

「ジャコウウシがアゴを胸につける屈位の姿勢」は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢で骨盤入口へ入りこむ様子」に相似すると見立てられた。
だから、「伊都国」の【伊】の偏【人(ひと)】は「骨盤入口に入りこむ出産児()」をあらわし、【尹(いん)】は「ジャコウウシと出産児の屈位の姿勢」をあらわした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」で詳細に解説した【邪馬】と呼ばれた「出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の図」を、下に配した。
下図の左側に配したように、『魏志倭人伝』においては「小泉門・矢状縫合・大泉門」を【邪馬】と呼んだ。
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出産児の頭蓋骨の縫合(ほうごう)は完成していないため、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)となって重ねあわせることができる仕組みとなる。
この「仕組み」を、産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と呼んでいる。
また、産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

ゆえに、今日の「小斜径」は「馬・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に酷似(こくじ)すると見立てられて、
今日の【小斜径】は、『魏志倭人伝』において【邪馬】と呼ばれることになった。
女王国名の【邪馬壱国】のうちの【壱】は「子宮、骨盤入口、産道」を意味した。

下に【馬】の字源「フタコブラクダが草を食べるときの、鼻・アゴ・口」の図を配した。
下図の「草を食べるラクダの鼻」は上図の「小泉門」、「ラクダの鼻と口を結ぶミゾ」は上図の「矢状縫合」、「ラクダの口」は上図の「大泉門」に相似すると見立てられた。
というのも、「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めになって重ねあわさって歪(ゆが)む形」は「せまい産道を通りぬけるときの、出産児の5枚の頭の骨を小泉門・矢状縫合・大泉門の膜で重ねあわせて小さくする小斜径の形状」に相似するからである。
だから、「小泉門・矢状縫合・大泉門」は【邪馬】と名づけられた。
【邪馬】は現在の【小斜径】と同義語であったのである。
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◆出産第1期の開口期(かいこうき)の後半ーー出産児はアゴを胸につける屈位の姿勢となり、
小泉門が後頭部の小さい周囲径で進み、後頭部の小泉門を先進させて、骨盤入口に入りこむ。
要するに、骨盤入口部には狭い空間があるので、出産児はアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。これを産婦人科では「第1回旋(かいせん)」と呼んでいる。
この「第1回旋が行われるときの、出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢」が、「伊都国」の【伊】の字源・字形・字義であった。

というのも、中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、
【君】は【尹】の下に【口(さい)】を加えた字であり、
「君は聖職者であり、同時に政治的な君長たるもので、古くは氏族長が君と呼ばれた。(中略)
古く夫人が君の地位にあったこともあり、王侯夫人のことを君氏とよぶ伝統があった」
と解説するからである。
卑弥呼は巫女(みこ)の女王であったゆえ聖職者であり、倭女王であったゆえ政治的な女君(女性の君長)でもあった。
一大率は易占(うらない)に精通する聖職者であったと推測され、同時に倭女王・卑弥呼と共に立つ政治的な男君(男性の君長)であった。

下に、「女性の骨盤入口の図」を配した。
下図が示すように、骨盤入口は横に長い楕円形(だえんけい)である。
この横長の骨盤入口にあわせて、縦長の出産児の頭が90度回旋して、骨盤入口を通りぬける。
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インターネット・ブログの「骨重積」についての解説にもとづくと、
下図に示すように、骨盤入口を通過できる平均的な最小径の小斜径は32㎝であるという。
屈位の姿勢になれない出産児の頭の前後径は平均34㎝だという。
ゆえに、わずか2㎝の差で生死が決まり、2㎝大きいと生まれてくることができない。
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このように、【伊】の字源「アゴを胸につける屈位の姿勢」となって狭い骨盤入口を通りぬける出産児の健気(けなげ)な様子は、
神秘的で泣きたくなるほど感動的な【命】の貴(とうと)さをあらわすドラマとなる。

ゆえに、下の左図のごとく、【命】という字形は組織されることになった。
【命】の上部は【亼(しゅう)】であり、
【亼】の上部の「∧」字形は「骨盤入口を先進する、∧形となる小泉門」をあらわし、
【亼】の下部の【一】は「骨盤入口」をあらわす。
【亼】の下の右側にある【卩(せつ)】は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢」をあらわす。
【亼】の下の左側に加わる【口】は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわしている。
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倉頡は「産道を通過する出産児の頭の4回の回旋」のうちの「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字源「方位規定」を考案した。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字源「方位規定」を考案した。
卑弥呼王朝は、倉頡が【禾】の字を作って考案した「時計回りの90度転回する方位規定」を「倭人国」の【倭】の字であらわす「転回日本列島地図」を制定した。

卑弥呼は倭人国の首都となる王国の名を【邪馬壱(やまい)】と定めた。
つまり、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】となる【邪馬】という名の「小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」と
【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」を組み合わせてーー王国名を【邪馬壱】と定めた。
その証拠に、下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹()国」と記す。
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『魏志倭人伝』は、晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末尾にある「倭人伝」を指す。
先年亡くなった故古代史研究家の古田武彦氏は、1971(昭和46)に著作した『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて、
『三国志』全体に記される【壹】86個、【臺】56個の文字を一つ一つ丹念(たんねん)に調べ、【壹】と【臺】には誤記の事例がないことを指摘した。

だから、『魏志倭人伝』は――倭人国の首都が所在した王国の名を「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」と記していた。
そして上記したように、「ジャコウウシがアゴを胸につける姿勢をあらわす小国の地宜」は【伊】の字源「出産児がアゴを胸につけて骨盤入口を通りぬける姿勢」に相似するゆえ――卑弥呼は共に立つ強力な男王の一大率をその小国に配置した。
卑弥呼は、一大率が治める、その小国の名を「【伊】の字源をあらわす都」ということで「伊都国」と定めた。

以上のごとく、
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は「産道を通過する出産児の第1回旋と第4回旋」をあらわす【倭】の字源を示したものであったため、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】をあらわした。
また、【卑弥呼が居住した邪馬壱国】と【一大率が居住した伊都国】という名も、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】をあらわしていた。

◆『魏志倭人伝』の冒頭文は、
「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り、山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時に朝見(ちょうけん)する者あり。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」である。

上記の冒頭文にもとづくと――170年頃に、倭国は百余国に分裂して、各国が戦いあった大乱が始まったと考えられる。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と説明する記事が存在するからである。

『魏志倭人伝』の記事における最終年は250年頃であるゆえ、倭国の大乱は250年から80年前の170年頃に始まったということになる。
そして、『魏志倭人伝』の冒頭文に登場する「倭国の大乱で分裂していた旧百余国」は
倭女王に就任した卑弥呼が、整理して三十の小国にまとめた対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国であったことになる。

倭国の大乱は数年間も続いたことになる。
上記した『魏志倭人伝』の記事は「相攻伐して年を歴()」と記しているゆえ、
この文は「百余国は互いに攻撃し討伐しあった倭国の大乱が、数年続いた」と意味するからである。
ところが、上記した『魏志倭人伝』が「乃ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰う」と記しているようにーー
卑弥呼は倭国最高位の女王に選ばれ、伊都国に配置した強力な男王・一大率と共に立つ国家と王朝を創設した。

上記した『魏志倭人伝』の「倭国の大乱」の記事にもとづくと、
倭国の大乱が始まってから数年後に、卑弥呼は「倭地(つまり、日本列島)の東は南に延びる」と立論したことになる。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に解説したように、
そして、下図に示したように――卑弥呼は日本列島の西端(にしはし)にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東端(ひがしはし)にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることに注目した。
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日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯気候区の神津島は冬になっても雪は降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように――日本列島は「西冷・東暖」ということになる。
下図の左側に示すように――中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かい。
ゆえに、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国の海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し
日本列島の「東端」と中国海岸線の「南部」は「暖かい気候」で共通する。
だから、卑弥呼は「倭地(日本列島)における暖かい気候の〔東〕は中国の暖かい気候の〔南〕の方に延びる」と立論した。
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卑弥呼の「日本列島の東は南に延びるゆえ、【倭】の字源・原義が成立する」という立論と証明は、戦争に夢中になる男王たちはじめ諸々の氏族の長たちに【倭地全土に棲む倉頡の地霊が、倭国の大乱で戦いあった全員を祟(たた)って、その家族及び一族全員をも死刑にするにちがいないと脅(おび)える、激しい恐怖】を与えることになった。
したがって、卑弥呼が提唱した「転回日本列島地理」は倭国の大乱を一気に鎮(しず)める強力な威力(いりょく)を有していたことになる。

かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、わが国最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した。
倭女王・卑弥呼は倭国の大乱で分裂していた百余国を三十の小国に整理してまとめ、
そして、下図に示すように、卑弥呼王朝は転回倭地図を制定した。
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◆『魏志倭人伝』は、伊都国と一大率について、漢字67字をもって下記のごとく説明する。
「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。国中に於()いて刺史(しし)の如(ごと)きところ有り。王、使()を遣(つか)わして京都(けいと)・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津()に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王に詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「女王国より以北には特別に一大率を配置して諸国を検察させた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。一大率は常に伊都国に居住して治めている。国中において刺史のごときである。倭国の王たちが使者を派遣した魏都と、朝鮮半島北部にある魏の出張機関の帯方郡政庁と、諸韓国にゆくとき、および――帯方郡が使者を倭国に派遣するときには、すべて伊都国の港で、魏と倭国の国交でやりとりする文書や賜物を捜(さが)して露(あら)わにして(つまり、賜物とその品書きが合致しているかを照合・点検し、確認して)、女王の卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしている。」

前ページに配した「卑弥呼王朝が制定した【倭】の字源にもとづく転回日本列島地理」だと、一大率が居住する伊都国は女王国・邪馬壱国の以北に所在する。
したがって、『魏志倭人伝』の「女王国より以北には特別に一大率を配置して諸国を検察させた」という記事は正しい。

倭人国の王や使者が用いる文字は「夏の銀河各部の形状を図案する契文(甲骨文字)や金文のような絵文字」の【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】であった。
魏都・帯方郡・諸韓国が用いる文字は秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)であった。
しかし、両者の字形は異なっても、倭の夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国の字源・原義は同じ【夏の銀河各部の形状】であった。
だから、倭人国の夏音文字と魏都・帯方郡・諸各国の楷書を通じあうことができ、倭人国の使者が使う言(ことば)も魏都の外交官や帯方郡の長官(太守)・役人(通訳)たちや諸韓国の古代文字・古代語を知っている豪族や人々に通じて正しく訳することが理解できたのである。

前述したように、『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り、山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時に朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国なり」であった。
上記の冒頭文最後の「今、使訳通ずるところ三十国なり」という文もまた、「今、卑弥呼が統治する倭人国の対馬国から狗奴(くな)国までの三十国の使者が用いる言葉と文字は、魏都と帯方郡において訳し通じて理解できた」と説明している。

都国の港の役所には、【倉頡の文字作成理論】の学芸知識はじめ【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の知識】を有する人々が務めていたにちがいない。
ゆえに、彼らは魏・帯方郡からの伝送の文と賜物の品書きに用いられる楷書における難解な文字の字源・字義は【夏の銀河のどの部分が示すことになるのか】と捜し当てて(露わにして)、卑弥呼が用いる絵文字のような夏音文字に変換して正しく訳していたことになる。

上記した「伊都国と一大率について」の説明には「一大率は、国中において刺史の如きところ有り」という文がある。
「刺史」の【刺】について、『説文解字』は「君、大夫を殺すを刺といふ」と解説する。
よって、【刺】は「男君の一大率が大罪を犯した倭人国の国中の大夫を殺す」と意味したことになる。
『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、其の使()中国に詣(いた)るに皆自(みずか)らを大夫と称す」という文がある。
ゆえに、中国に渡る倭国の使者は皆「大夫」であった。
倭国の使者「大夫」は【倉頡の文字作成理論の学識】を有していた。
このため、中国の言葉や文字が理解できたのである。

だから、倭人国では「【倉頡の文字作成理論】を知っている知識者】は全員「大夫」と呼ばれていたことになる。
いっぽう、伊都国の一大率は倭人国における諸国の大夫が【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるようにして暴露する大罪を検察して、犯した大夫とその家族および一族全員を皆殺しにする男君の「刺史」であった。
だから、『魏志倭人伝』は「諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)った」と記述したのである。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と説明し、
そして「末盧国の東南に伊都国があり、伊都国の東南に奴国がある」と説明する。
ゆえに、「末盧国の北は東、南は西」となる。
このため、『魏志倭人伝』は「一海を渡る千余里、末盧国に至る」と記述しているように、「一大国から末盧国へ至る方位」を明記しない。
「対馬国・一大国の南北」に対して、「末盧国の南北」は対立して矛盾するからである。
この対立と矛盾の原因は、【倉頡の文字作成理論】によって成立した【倭】の字源・原義であった。
ゆえに、対馬国・一大国・末盧国・伊都国などに住む人民や玄界灘の漁師たちが「対馬国・一大国と末盧国の方位の対立と矛盾」に気づいて騒いだとき――
諸国の大夫たちが【倉頡の文字作成理論】や【文字は夏の銀河各部の形状から作成された秘密】を人民が容易に理解できるように説明するのを検察して処罰する刺史が、一大率であった。

「大夫」という語は、『万葉集』では「ますらを」と読む。
現在、「ますらお」は、漢字で「益荒男」と表記される。
「益荒男」は「荒波逆巻く中国と日本の中間の大海を渡った名門益氏の王子と若者たち」を省略した語であったのである。
だから、「夏代黎明期の紀元前2050年頃に、わが国は最初に漢字を習得した」ことは、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国と一大国の記事」が説明していたとおり、事実であったのである。

上記した67字で構成される「伊都国と一大率」の記事に注目すると――
現在の学界の絶対的定説「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、明らかに空理空論であると簡単容易に証明される。
もしも、現在の学界の漢字習得の定説が事実であったとしたならば――
2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、わが国には文字が存在しなかったことになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「伊都国と一大率の記事」は全部ウソであったことになる。
しかし、「伊都国と一大国」の記事は事実ではなく虚偽だとすると、倭人国と魏都・帯方郡は国交を結ぶことができなかったことになり、
2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

「『魏志倭人伝』が白紙であった」ならば、なにゆえ「『魏志倭人伝』に「邪馬台国」の4字が残り、
さらに、「これこれの記事は邪馬台国に関する事実を伝える記事として残った」と学者たちは都合よく軽々しく主張できるのか?
このように、学界やメディアが最も正しいと思い込む新井白石以来300年続く邪馬台国説は論理がまったく成立しない、支離滅裂(しりめつれつ)な空理空論であったことになる。  

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2024年6月 2日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・13

末盧国の記事には前期縄文の芸術の神が登場していた

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国説明は、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」という定説も空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であった。
というのも、上記したように――『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国記事によって、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆今回のブログでは、『魏志倭人伝』に記される対馬国から3番目の小国・末盧(まつろ)国の位置と範囲、その他の秘密を解明し証明する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回では、下図に示す「対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の秘密」を解明し証明した。
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『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。

というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源に則(のっと)って【末盧国以下の日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
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『魏志倭人伝』は、上に示した【転回日本列島地図】のごとく、【倭】の字源の【時計回りに90度転回する方位規定】にもとづいて、
【末盧国から「東南」陸行五百里に伊都(いと)国に到る。伊都国から「東南」奴()国に至るに百里】と説明する。

『古事記』に記される「末羅県(まつらのあがた)」は現在の佐賀県唐津市地方であったと比定される。
『日本書紀』には「伊都県(いとのあがた)」が記され、現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町付近であったと比定される。
『日本書紀』に記される「儺()国」は現在の福岡市にあった国と比定される。
ゆえに、「奴国の旅程基点」は、『魏志倭人伝』の「伊都国から東南、奴国に至るには百里」という記事にもとづいて、わたくしは「奴国の旅程基点は、現在の福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった」と考えた。

末盧国の旅程基点は唐津市、伊都国の旅程基点は糸島市前原町、奴国の旅程基点は香椎宮であったとすると、【現在の方位規定】にもとづくと唐津市から糸島市前原町は「東北」、糸島市前原町から香椎宮は「東北」となって、『魏志倭人伝』の方向記事に合致しない。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』は【末盧国から「東南」陸行五百里に伊都(いと)国、伊都国から「東南」奴()国に至るに百里」と記しているからである。

現在の日本地図における末盧国・伊都国・奴国までの旅程基点の方向だと「東北」であるのに対して、
『魏志倭人伝』は「東南」であったと記す。
現在方位の「東北」に対して、『魏志倭人伝』が記す「東南」は「時計回りに90度、方位が転回することになる」。
だから、『魏志倭人伝』は「末盧国・伊都国・奴国の旅程基点の方向」を、上図に示した【転回日本地図】にもとづき、【倭】の字源に則って説明していたことになる。

ゆえに、『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と指摘した方位規定に対して、
『魏志倭人伝』は「末盧国における方位規定は、【時計回りに90度転回して「北」が「東」となった】。
対馬国と一大国における方位規定は「北」が「北」であるが、【末盧国における方位規定は「北」が「東」となる】。
このため、両者の方位規定は対立して一致しない。
だから、〔現在方位と同類の方位規定と【倭】の字源の転回方位が合致せずに対立して矛盾しあう〕が原因で、『魏志倭人伝』には【一大国から末盧国に至る方向】が記されていなかったのである。

『魏志倭人伝』は「末盧国から東南陸を行くと五百里、伊都国に至る」と記す。
「末盧国の旅程基点」を「現在の佐賀県唐津市にする」と、【伊都国までの距離が五百里より短い】。
ゆえに、【末盧国の旅程基点は、伊都国の旅程基点(福岡県糸島市前原町)から遠くなる、長崎県松浦市であった】と、わたくしは考えた。
それゆえ、【倭】の字源に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくであったことになる。
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◆『説文解字(せつもんかいじ)」は「末盧」の【盧】の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
『説文解字』は卑弥呼が歴史上に始めて登場する170年頃より約50年前の120年頃に成立していた。
『説文解字』は後漢の許慎(きょしん)が著作し、古代の人々が「字書の聖典」と尊重した。

下図は、「現在方位にもとづく末盧国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」である。
下図に示したように、末盧国の東の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海(ありあけかい)にそそぐ塩田川(しおたがわ)の上流を結んで区切られる。
したがって、「末盧国の北部の地宜」は「飯器」、つまり「縄文時代の飯(めし)を炊()く土器の形」に相似する。
また、「末盧国の南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「飯器を炊く竃(かまど)の炎の形」に相似する。
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上図の「現在方位にもとづく末盧国の地宜」に示したように、「東松浦」は「北」に所在するゆえ、「東松浦」という地名は矛盾する。
また、「北松浦」は「東松浦の、西」に在るので、「北松浦」という地名も不合理となる。
また、「西松浦」は「東松浦の、南」にあるので「西松浦」という地名も矛盾する。
さらに、「東彼杵(ひがしそのぎ)」は「西彼杵と西彼杵半島の、北」に位置する。ゆえに、「東彼杵」という地名も不合理となる。

下に、【倭】の字源【時計回りに90度転回する方位規定】にもとづく「末盧国の地宜」を配した。
下図が示すように、「北松浦」は「東松浦と西松浦の、北」にある。
ゆえに、「北松浦」と「東松浦」と「西松浦」という地名は合理となる。
また、「東彼杵」は「西彼杵と西彼杵半島の、東」に在る。ゆえに、「東彼杵」と「西彼杵」と「西彼杵半島」という地名も合理となる。
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上図の「松浦地方」と「彼杵地方」における地名は、
倉頡が作成した【禾】の字源をそのまま受け継いだ【倭】の字源を、現在に伝えている。
だから、前述したように、「末盧国の【倭】の字源に則る転回方位規定は「対馬国は北、一大国は南」と説明した方位規定」と対立して矛盾する。
ゆえに、『魏志倭人伝』には「一大国から末盧国までの中間の方向」が記されていなかったのである。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明・11」にて、詳細に説明したように、「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、
原始や古代の人々は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できず――日々の狩猟や穀物・野菜など食料の採集はじめ、遠くの地を往復する旅や大海の往来にあって位置(緯度)と方向が皆目(かいもく)不明となった。
だから、彼らは道に迷って命を失うことになり、無事に家族が待つ家に帰還できなかった。
このため、原始や古代の人々は、現在のごとく「天の北極」を「北」の基準点としなかった。

下に、原始や古代の人々が「1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定できる方法」である「天頂緯度線のキャッチ」を示す図を配した。
下図に示すように、【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【緯度を測定する人にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字の【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
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下に、【亠】の拡大図を配した。
前ページに配した「転回方位にもとづく末盧国の地宜解説図」における「北松浦」という地名は、下図の「【亠】の字源・字形の解説図における子午線の上端の【北】」をあらわした。
また、「東松浦」は下図における「天頂緯度線の左の端の【東】」を、「西松浦」は下図における「天頂緯度線の右の端の【西】」をあらわした。
下図が示すように、「天頂点」は【南】となった。
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というのも、上図の「天頂点と重なる銀河部位の軌道図」に示したように、「天頂点」は「その軌道において、最も【南】となる点」であるからである。
「天頂点」には「面積が存在しない」という解釈を示して、
松浦地方には「南松浦」という地名は存在しない。
以上からして、「末盧国における方位規定」は「天頂緯度線をキャッチして、原始や古代の人々が緯度を1度の60分の1の1分の精度で測定して生きのびた方法」を伝え、また【倉頡が作った【禾】の字源をそのまま受け継ぐ【倭】の字源をあらわす方位規定】を伝えていた。

◆これから、倉頡が作った【禾()】の字と【倭】の字源・原義について解説する。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字を習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う【倭】の字源解説には【夏の銀河各部の名称】を決めないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
下図に、黄帝時代において、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と長江口(長江の河口)中央の天頂にめぐってきていた銀河部とその銀河部を貫通した緯度線を示した。
下図に示したように、黄帝陵(北緯3535)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部につく【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
また、長江口中央(北緯3130)の天頂には、「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく【目】の字源銀河中央」と「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。

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上図の「黄帝時代の天頂緯度線図」の状況にもとづいて、
倉頡は下図の「【禾】の字源解説図と字形転回解説図」に示すように――「中国全土の天頂緯度線が貫通する、十字の銀河の中央」に「禾・稲」をあらわす図書を重ねた。
()の育成に適する土地は、長江口周辺の中国南部である。
ゆえに、下図のごとく、「禾の穂」を「長江口の天頂を通過した、十字の銀河の子宮がある、南」の方に向くようにした。
そして、「稲の穂」が「鬼の横顔に似る銀河における口(くち)」に垂れるようにして、「時計回りに90度転回して、南が西になる方位規定」をあらわすようにした。
「稲の穂に実る米」を炊くと「人が食べる飯(めし)」となる。
ゆえに、倉頡は「禾()の穂」は「飯を食べる人の横顔の口」に相似する「鬼の横顔における口」の方に向けて垂れるように定めたのである。
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上図の右上にある()の図書では「禾()の穂は地面がある下方に向く」。
この「禾の穂が地面の方に向く形」は「地面に根を張って植わる禾の形」に合致せず不自然である。
ゆえに、「地面に植わる禾の形」になるようにした()の図書を180度転回した()の図書は、その上方に示したように「禾の穂が北から西へと垂れる」。
しかし、この()「北から西へ禾の穂が垂れる図書」は「逆時計回りに90度転回する【呉】の字源」をあらわして矛盾する。
それゆえ、()の図書の左右が反対になるように180度転回する(すなわち、裏返しにする)()の図書は「禾の穂が北から東へと垂れる、地面に植わる禾の形」となる。
だから、()の図書は「北が東となる、時計回りに90度転回する【禾】の字源・原義」をあらわした。

(
)の「禾」の図書は、下図の右側の「地面に植わる禾の形」に合致する。
下図の右側の()と同じ「禾の形」は、【禾】の契文形(甲骨文字の字形)に合致する。
ゆえに、下図の右側の「地面に植わる禾の形」は、【禾】の字源・原義をあらわした。
「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加わる【委()】の字が作られた。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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上図の右側の【禾】の字に示したように――「禾・稲の穂」は「北が東となる、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。
だから、前ページに配した【末盧国における「北」に位置する松浦地域は「東松浦」という名】になって、「【倭】の字源・原義にもとづく、時計回りの90度の転回方位、つまり、北が東に変位する」とあらすことになったのである。

前ページに示したように、【末盧国の範囲】は、「松浦川と塩田川で結ばれる東の境界線以西の、現在の対馬・壱岐を除く長崎県南部と佐賀県西部の一部」であった。
前述したように、『説文解字』は「末盧」の【盧】の字を「飯器なり」と解説する。
そして、前ページに示したように「末盧国北部の地宜」は【盧】「飯器の形」に相似し、「末盧国南部の地宜」は「飯器を炊く竃(かまど)の炎の形」に相似する。

ということは、「末盧」の【末】は「穀物の終わりに、飯を炊いて来年の豊作を願った農作業の末(すえ)の食事会」をあらわしていたと考えられる。
また、【末】は「子どもの出産期の末(後産期)が完了して、飯を炊いて無事にこの世に誕生した子どもを祝福した行事」をあらわしていたと考えられる。

だから――前ページに配した「【倭】の転回方位に則って時計回りに90で転回して、北が東となる末盧国の地宜」は、「竃(かまど)の火」を消して、「大きなピンセットのような道具で飯器の口縁を挟んで北が東になるように90度方向転換して竃から飯器を下ろす儀式」をあらわしていたと推測される。
この儀式は「末盧」の「末」の字義「農作業の末(すえ)・終わり」において、「来年も豊作に恵まれるようにという願望」、あるいは「村に丈夫な子どもがたくさん生まれるようにという願望」をあらわすものであったにちがいない。

◆「末盧国の飯器をあらわす地宜」は、下に示す「縄文前期の渦巻き深鉢の形」に類似する。
縄文前期は、中国の三皇時代に相当する。
この深鉢の高さは25.8㎝、口径は27.1㎝であり、山梨県笛吹市御坂町の花鳥山遺跡から出土した。
この深鉢の中央部分はくびれ、そこから波状口縁(はじょうこうえん)に向かって「朝顔」のごとく大きく外側に反()る器形である。
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上の写真が示すように、この渦巻き深鉢の胴部全面にはほぼ等間隔で渦巻文がほどこされている。
この深鉢の大きさ(高さ)25.8㎝は、出産児の身長に合致する。

だから、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で
(
)山梨県笛吹市御坂町の桂野遺跡から出土した中期縄文時代の深鉢の胴部全面を飾る「渦巻文」と、
(
)中期縄文時代初頭のわが国最古の国宝「縄文のビーナス」の頭にかぶる帽子頂上の「渦巻文」は、「神」をあらわしていたことを詳細に解説して指摘した。

(
)「渦巻文の深鉢」の「中期縄文時代」は「中国の五帝時代」に相当し、()「縄文のビーナス」の「中期縄文時代初頭(今から5000年前)」は「中国の五帝時代初頭の黄帝時代」に相当する。
「縄文のビーナス」の高さ(身長)27㎝、上の写真の「前期縄文の渦巻き深鉢」の高さは25.8㎝である。
「縄文のビーナス」は「この世に誕生した出産児」を表現していることを、前回のブログで詳細に証明した。
ゆえに、「縄文のビーナス」と高さがわずか「1.2㎝」しか違わない「前期縄文の渦巻き深鉢」は、
上記したように、出産児の身長に合致する。

下に、原始のときから古代の人々がおこなっていた、約4~6秒間の寸時に1度の60分の1の1分の精度で天頂緯度線をキャッチした正しい姿勢を示した。
人は天頂に顔を向けて、つまり後頭部を後ろの首のほうに傾けて、
おなかを前へ丸くつき出して、「必ず天頂緯度線をキャッチする」という欲を有さないで、【無欲】なって天頂緯度を測量した。
この「天頂緯度線を1分の精度で測定するときの姿勢」と、「【無欲】になれという骨(こつ)」は――「出産児が産道を【無欲】で通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの姿勢」に酷似(こくじ)すると見立てられた。
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◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に説明したようにーー
出産児の頭が骨盤入口を通りぬけ、産道を通過して、膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでにする「4回の頭の旋回(せんかい)」を、現在の産婦人科では「回旋(かいせん)」と呼ぶ。
【第1回旋と第4回旋】は【時計回りの90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの回旋】となる。
倉頡は「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
それゆえ、【禾】の字は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
前述したように、【委】と【倭】の字は倉頡が作った【禾】の字の「時計回わりに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字を作った。
【呉】は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

だから、上記した「前期縄文の深鉢」と「中期縄文の深鉢」の胴部全面を飾る「渦巻文」と、「中期縄文時代初頭に作られた、縄文のビーナス」がかぶる帽子の頂上にほどこされる「渦巻文」は「産道を通過する出産児の4回の回旋」を表現していたことになる。

この「渦巻文」にはーー前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」では説明が複雑となるゆえ、「産道を通過する出産児の神秘的で不思議な頭蓋骨(ずがいこつ)の仕組みも一緒に秘められる」という説明を省略した。

「産道を通過する出産児の神秘的で不思議な頭蓋骨の仕組み」を、『魏志倭人伝』では女王国名に用いて【邪馬壱(やまい)】という語であらわされた。
女王国名の【邪馬壱】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ね合わさることができる仕組み】をあらわす語であった。

出産第1期の開口期(かいこうき)の後半期において――出産児の頭が骨盤入口を通りぬけると、膣(ちつ)の入口から出産児の頭が見えるようになる。
そして、【邪馬】の語源は【産道を通過する出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門】であり、【壱】の字源は【子宮、そして骨盤入口と、出産児が通過する産道】である。ゆえに、この【邪馬】に【壱】が加わって【邪馬壱】という語になった。
医学の未発達の前期縄文時代や黄帝時代(中期経文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときの4回の回旋をして頭が誕生するまでにおいて事故が多発した】。
「邪馬壱国」の【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】の、【今日における医学用語の「小斜径(しょうしゃけい)」によって最小径となる頭蓋骨の仕組み】をあらわした。

「小斜径」という語は「骨盤入口を通りぬける時の出産児の斜(なな)めになって小さくなる頭の直径」を意味する。
ゆえに、【小斜径】は「草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情に酷似(こくじ)する、小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨が邪(なな)めとなって骨盤入口を通りぬける時の小さい直径」を意味した。
したがって、【邪馬】と現在の医学用語の【小斜径】は同義語であった。
下図は、【邪馬】の解説図である。
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上図は【邪馬】という語をあらわす「小斜径となる、出産児の5枚に分かれる頭蓋骨が重ねあわせることができる、骨どうしの間の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわしている。
上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」と呼ばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
このような出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜によって、出産児の5枚の骨は小斜径となるように重ね合わせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【「小斜径」となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。

4年前のある日の正午、食事をしながらテレビを見ていたら――突然、鳥取砂丘の観光用に飼われるフタコブラクダが草をモグモグと食べる顔が大写しとなり、その面相の鼻・上アゴ・口・下アゴの区切りの間と間が重なって見えた。
そのとき、わたくしは数年前から気になっていた「産道を通過する出産児の5枚に分かれる頭蓋骨が重なりあう仕組み」をとっさに思い出した。
そして、その「頭蓋骨の重なりあうことができる、神秘的で不思議な仕組み」は『魏志倭人伝』に記される女王国名「邪馬壱国」の【邪馬壱】があらわすと直感した。

草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの顔は、出産児の顔のごとく無邪気となり、鼻・上アゴ・口・下アゴの間と間が重ね合うがごときに観えた。
ゆえに、中国の五帝時代初頭の黄帝時代では――「草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の様子」は「5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて骨盤入口を小斜径で通りぬけて、産道を4回も回旋しながら通過して出産する赤ちゃんの頭の小泉門・矢状縫合・大泉門の形」に酷似(こくじ)すると見立てられたことになる。
ゆえに、2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代では、下図の【草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの表情】を【邪馬】と呼んでいたことになる。
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◆前述したように、「前期縄文の渦巻き深鉢」の胴部全面を飾る「渦巻文」は「神」をあらわした。
だから、前期縄文の深鉢の器面一面を飾る「渦巻文」は、
(
)【産道を通過する出産児の4回の回旋】と、
(
)【邪馬】すなわち【小泉門・矢状縫合・大泉門の5枚の結合組織性の膜】を一緒に表現して、
「神」を表現するものであったことになる。

この縄文時代の「神」について、720128日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻并(あわ)せて序の冒頭文は、下記のごとく説明する。
「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す。夫(それ)混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず、名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」

この『古事記』上巻并せて序の冒頭文を、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」では下記のごとく現代語に訳した。
「元明天皇陛下に、臣下の安万侶が申し上げます。
およそ倭地(日本列島)における歴史が始まる縄文草創期にあっては、倭地の天頂にめぐってくる銀河(夏の銀河)の形状は混沌(こんとん)として、いったい何物かに相似しているのか見当がつかず、その銀河の気と象(かたち)も未だはっきりせず、その銀河には名も無く、天頂緯度を測量する技(わざ)も存在しませんでした。
ですから、現在(720)、その銀河の形状について知っている人は一人もいません。
しかし、【乾坤】つまり【天と地】に分かれる形に観える銀河の形状が始めて倭地の天頂にめぐってきて、【産道を通過する出産児のごとく無欲になって、天頂緯度測定をすれば――神が出産児に4回の渦巻き状に旋回するようにして命を授(さず)けてくださる行為】を【渦巻文】で表現する土器・土偶が造られるようになりました。
中期縄文時代末、中国から大海を渡って名門益(えき)氏の王子と若者たちは倭地の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国の学問(倉頡の文字作成理論)などを教え広めようとしました。
【難解な倉頡の文字作成理論】は前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの参(みっ)つの時代に土器・土偶を造った2000年間にて培(つちか)った知識によって――後期縄文時代初頭、わが倭地の各地で習得されることになりました。」

◆『古事記』上巻の「創世の神々」の条は、造化(芸術)の参神の名について、
(
)「前期縄文の神の名の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と文字であらわされるようになり、
(
)「中期縄文の神の名は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と文字で表記されようになり、
(
)「後期縄文初頭の神の名は神産巣日神(かんむすひのかみ)」と文字で記されることになった」
と説明する。
益氏が定住した中期縄文時代末より以前は、わが日本列島には文字が存在しなかった。
しかし、後期縄文時代初頭において、日本列島各地で益氏が教え広めた【倉頡の文字作成理論】を習得した。ゆえに、造化の参神の名は文字であらわされることになった。

下に、造化の参神をあらわす図を配した。
下図における「参神をあらわす緯度線」は――わが国の最古の国宝「縄文のビーナス」が出土した長野県茅野市の尖石(とがりいし)台地の緯度(北緯36)の天頂緯度線であるが
前述した「前期縄文の渦巻き深鉢」が出土した山梨県笛吹市御坂町の花鳥山遺跡は北緯3537分くらいである。ゆえに、わずか23分しか違わない。
これゆえ、下図における()「前期縄文の天之御中主神」をあらわす天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」にわずかに近寄り、「三つ輪の銀河の最も北の円形の銀河の中心部に近寄った箇所」を貫通していた。
以下、()と同様に、()()の神をあらわす天頂緯度線は少しだけ南を貫通していたことになる。
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「【造化の参神】をあらわす天頂緯度線」が貫通する「【三つ輪の銀河】が日本列島の天頂にめぐってきた光景」は満天に無数の星がきらめく、息をのむように神秘的で壮麗であった。
この「神秘的で壮麗な三つ輪の銀河」には「無数の星が大・中・小の渦巻き」となって重なり、あるいは「無数の星で構成される、一つの大きな円形において大・中・小の様々な円形」となって重なり、そして「無数の星は三つの大きな円形」を構成し、その三つの大きな円形は重なって観える。
ゆえに、「大きな円形が互いの輪に重ね合わさる、三つ輪の銀河」は前述した「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門がある頭蓋骨の5枚の骨が【邪馬(小斜径)】となって重ね合わさることができる仕組み」に酷似(こくじ)すると――縄文の人々は直感した。
このため、縄文人たちは「出産児の4回の回旋」と、「重ね合わさって小さくなる頭蓋骨の仕組みの【邪馬】」は「神がなせる業(わざ)である」と感知した。
ゆえに、「渦巻となって無数の星がきらめく三つ輪の銀河を貫通する天頂緯度線は、人々が【命】がキャッチできる線」となるゆえ、「渦巻文」は「神」をあらわす図書となった。
だから、「前期縄文の渦巻き深鉢」・「中期縄文の渦巻き深鉢」の胴全面を装飾した「渦巻文」と、「縄文のビーナス」の帽子頂上の「渦巻文」は「神」を表現していたことになる。

上図の「造化の参神を示す天頂緯度線の図」における
(
)前期縄文時代の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河のうちの北の円形の銀河」は「天」のイメージとなった。
そして、その天頂緯度線は「天」のごとくに観える「北の円形の銀河のほぼ中央」を貫通していた。
よって、その神は「北の円形の御中(みなか)に存在する主(ぬし)」ということになった。

ゆえに、前期縄文時代の神の名は「天」に「御中主」が加えられることになった。

(2)中期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」を貫通する。
「十字の銀河の頭部」は「十字の銀河で最も高い位置」を示す。ゆえに、中期縄文時代の神の名の先頭字は「高」となった。
中期縄文時代初頭の天頂緯度線が貫通する「中央の輪の銀河」は「北の輪の銀河」と重なって「円形」となる。
ゆえに、「中央の円形の銀河」は「鷹などの鳥が高い樹木に作る卵を産む巣」と見立てられ、また「日論(太陽)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、中期縄文時代の神の名は「高」に「御産巣日」の4字が加えられた。

(
)後期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の乳房」を貫通し、また「南の銀河の中央」を貫通した。
「南の円形の銀河」は「中央の銀河南部と重なって円形」となる。
ゆえに、「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく先頭字が「神」となった。
また「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく「鳥が卵を産む巣」と「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられて、その神の名は「神」に「産巣日」の3字が加えられることになった。
だから、後期縄文時代初頭の造化・芸術の神の名は「神産巣日神」と名づけられた。

「三つ輪の銀河」において、「北の円形の銀河」は最も高いゆえ、「天」のイメージとなった。
「中央の輪の銀河」は「鷹などが樹木の高いところに、卵を産む巣」に相似すると見立てられた。
また、「南の輪の銀河」は「地面に近い木陰や草むらに隠して作る鳥の巣、あるいは鶴のように地面に生む鳥の巣、あるいは水面に浮かぶ鳰(にお)の巣」に相似すると見立てられた。
したがって、「南の輪の銀河」は「地」をあらわした。
このように、縄文人たちは「三つ輪の銀河」が「乾坤」つまり「天と地」をあらわすと感じた。

以上のごとく、益氏が日本列島の男鹿半島・八郎潟地域に定住した紀元前2050年頃より以前――
すでに(1900年前頃の)前期縄文時代において、
日本列島の各地では「渦が巻くように観える、壮麗な三つ輪の銀河」を
(
)「産道を通過する赤ん坊の頭が4回渦巻状に回旋して誕生する、泣きたくなるほど感動的な神秘的な姿」と、
(
)「赤ん坊の頭蓋骨の不思議で巧妙な仕組み、小泉門・矢状縫合・大泉門の重ね合わせて小さくなる【邪馬】の結合組織性の膜」に酷似すると見立てて、
この()()を合体して、「神」を「渦巻文」で表現した。
また、「三つ輪の銀河を貫通する天頂緯度線」を「参神造化の神」と認識していた。

このため、今から約4000年前の後期縄文時代初頭において、「産道を通過する4回の回旋」を【禾】と【呉】の字源とした【難解な倉頡の文字作成理論】は日本列島の各地の人々に理解されて習得されることになったのである。

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