G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・14: 卑弥呼の逆襲

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2024年6月 7日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・14

現在の「漢字習得の絶対的定説」は
伊都国の記事によって「すべてウソだった」と証明される

◆今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
この【倉頡の文字作成理論】は、倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国記事で具体的に組織的に説明されていた。

ところが、現在、学者たちは「倉頡が文字を発明した」と伝える倉頡伝説は「荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、「倉頡伝説は史実を語るものであったこと」は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて簡単容易に証明できることを解説した。
この今回のブログでは、『魏志倭人伝』が説明する漢字67字で構成される「伊都(いと)国」の記事によっても、【倉頡が漢字を発明した事実】が簡単容易に証明できることを明らかにする。

江戸中期の新井白石(16571725)以来今日まで300年間、わが国の学者たちは「『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した邪馬台国について説明する文献史料である」と断定する。
しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した倭人国の王国は邪馬壱(やまい)国であった」と記す。

そして、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す箇所は1ヵ所も存在しない。
だから、学者たちが最も信頼する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の完全なる空理空論であった。
つまり、もともと『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的に詳細に組織的に説明する文献史料であった。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが国民を洗脳しようとしてする、邪馬台国について一切(いっさい)説明する文献ではなかったのである。

◆倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
「夏の銀河」は「夏に最も長時間見ることができる銀河の帯」である。
「夏の銀河」は通称「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を示した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、冷酷で恐ろしい地に棲む神(つまり、地霊)】と認識した。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)は南北に米穀を買い入れている。対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
ゆえに、下図に示すように、「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南」となる。
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次に『魏志倭人伝』は「又、一大国から一海を渡る千余里、末盧(まつろ)国に至る。(中略)。末盧国から東南陸行五百里、伊都(いと)国に到る。(中略)。伊都国から東南奴()国に至るには百里」と説明する。
『古事記』に記される「末羅県(まつらのあがた)は現在の佐賀県唐津市」であったと比定される。
『日本書紀』に記される「伊都県(いとのあがた)は現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町」であったと比定される。
『日本書紀』に登場する「儺()国は現在の福岡市地方にあった国」と比定される。
これゆえ、わたくしは「伊都国の旅程基点の糸島市前原町から百里に相当する奴国の旅程基点(後の儺国の中心地)」を、「福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった」と考えた。

しかし、『魏志倭人伝』の「東南陸行五百里」という記事に対して、「末盧県の佐賀県唐津市から伊都県の福岡県糸島町前原町まで」は、
『魏志倭人伝』が「東南陸行五百里」と説明する記事に相違して、現在方位にもとづくと()「東北」となり、()「陸行五百里」という距離よりも短いことになるので、両記事は矛盾する。
さらに、現在方位にもとづくと、「伊都県の福岡県糸島市前原町から儺国の福岡県福岡市東区の香椎宮の方角は東北となる」ゆえ、矛盾する。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて、詳細に解説して証明したように、
「末盧国から奴国までの旅程基点の方位」は、「倭人国」の【倭】の字源・原義に則(のっと)っていた。
ゆえに、「対馬国と一大国の南北」に対して――【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国から奴国までの旅程基点の方位は対立して合致しない。
この対立が原因で――卑弥呼王朝は魏や帯方郡へ送る文書に「一大国から末盧国までの旅程」において「一海を渡る千余里、末盧国に至る」と記して「方位」を明記しなかったのである。

上記したように、末盧国の旅程基点を佐賀県唐津市にすると、唐津市から伊都国の旅程基点の福岡県糸島市前原町は、『魏志倭人伝』の「陸行五百里」より短い。
それゆえ、「末盧国の旅程基点」が「五百里」になるように――わたくしは末盧国の旅程基点を「長崎県松浦市」であったと考えることにした。

この結果、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくなる。
下図が示しているように、現在方位の「東北」が【倭】の転回方位の場合「東南」となる。
だから、『魏志倭人伝』の「末盧国から〔東南〕陸行五百里、伊都国に到る。伊都国から〔東南〕奴国に至るには百里」という記事は正しかったことになる。

このように、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する文献であった。
以上のごとく、末盧国以下の日本列島本州における方位は、【倉頡の文字作成理論】で確立された【禾()】の字源をそのまま受け継ぐ【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則って記述されていたのである。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・9」で証明したように、
下図に示すように、一大国・現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、西方が【馬】の字源「フタコブラクダ」の姿に相似し、東方が【牛】の字源「ジャコウウシ」の姿に類似する。
壱岐東方の【牛】の字源「ジャコウウシ」は、「一大率(いちだいそつ)という名の男王が住む伊都国がある南(現在方位)に向かって進む姿」となる。
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というのも、前ページに配した「対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地図」に示したように、
『魏志倭人伝』は「対馬と一大国の中間の海の名」を「瀚海」であったと説明しているからである。
「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
ゆえに、【馬】の字源は一大国の西方の地宜に相似する「ゴビ沙漠(瀚海)に生息する、フタコブラクダ」であると解釈すべきことになる。
【馬】「フタコブラクダ」は、瀚海・ゴビ沙漠だけでなく、下図に示す「長方形状に水が流れる黄河上流が包囲する、ムウス沙漠に」にも生息した。
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一大国東方の地宜は、【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に類似する。
【牛】「ジャコウウシ」は、上図に示す「瀚海・ゴビ沙漠の南の、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄土高原・凍土(とうど)地帯にて生息した。
倉頡がつかえた黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵(こうていりょう)は、牛・ジャコウウシが生息した黄土高原に所在する。
ゆえに、「一大国・壱岐東方の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの姿に類似する」と解釈すべきことになる。

以上のごとく、対馬国と一大国の中間の「瀚海」という海の名は、【倉頡が発明した文字作成理論】を解明し証明するために必要な、絶対に欠いてはならない重大なキーワードであった。
「瀚海」の2字は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』のほとんどの全記事と関連するキーポイントにして要(かなめ)である。
邪馬台国説学者たちのごとく「瀚海」の2字を無視すると、『魏志倭人伝』が語る【倉頡の文字作成理論】は消滅して、その意見は一気に空理空論となる。

その証拠に、江戸中期に生存した新井白石(16571725)は「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読し、
さらに「瀚海」という2字を無視して、
「邪馬台国は大和であった」、また「邪馬台国は九州の筑後国山門(やまと)郡であった」と立論する空理空論を後世に残した。
このため、現在、学者たちは【「瀚海」という2字を無視する、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説が空理空論である事実】にまったく気づかない。

◆下に、「一大率(いちだいそつ)が居住した伊都国の地宜」を配した。
「福岡県の糸島半島の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの横顔」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「現在方位にもとづく、糸島半島より南部の地宜」は「ジャコウウシの胴体」に相当する。
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下図のごとく、「伊都国の地宜」を【倭】の字源「時計回りに90度転回する地宜」にすると、〔逆(さか)さ絵〕になって、ジャコウウシの姿に相似する状況が不明確となる。
つまり、「ジャコウウシの足は地面につかず、足が上空に浮いて見える」ため、不自然な形となる。
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下図のごとく「伊都国の範囲を示す地宜の[][]にし・[西][]にする【呉】の字源「逆時計回りに90度転回する方位規定」に則ると、「ジャコウウシの足が地面につく、自然な形」となる。
倭人国にあって「伊都国の地宜は【倭】の字源」を示さずに、「伊都国の地宜は【呉】の字源」に適合する、この不合理の弱点から、
伊都国は倭人国の王国(首都国)として不合格となったのである。
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ジャコウウシは黄土高原・ツンドラ地帯のきびしい寒さに耐えられる毛糸の特性の防寒具で身をかためている。
暗い褐色(かっしょくく)の足元まで伸びる毛足が長いコートによって、すさまじい凍土地帯の無吹雪にも耐えられることができる。
「ジャコウウシ」という名前は、彼らがはなつジャコウ(麝香)の匂いからきている。
匂いは100m先から香(かお)るという。
ジャコウウシは、わが国に生息していなかった。
したがって、「毛足が長いコートの防寒具で身をかためるジャコウウシの姿に地宜が相似する伊都国」は「【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣・ジャコウウシの地霊が棲む地」であったことになる。

ゆえに、「伊都国の地宜」は「厳寒の冬、ジャコウウシの大群が集まった黄帝陵付近の餌場(えさば))」に見立てられたことになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「伊都国に居住する男王の名は「一大率であった」と記す。
つまり、「伊都国の男王」は「一大国東部の地宜が示すジャコウウシの大群を率(ひき)いる、オスのジャコウウシの頭(かしら)に相当する君主」ということで、「一大率」という名になった。

「伊都国の北部」は「現在の福岡県糸島市と福岡県福岡市の西部」であった。
「伊都国の南部」は「現在の佐賀県佐賀市と佐賀県東部の市町村である」。
邪馬台国九州説が根拠・理由とする佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町に所在する吉野ヶ里遺跡は、伊都国に所在した。
ゆえに、吉野ヶ里遺跡の周辺には倭女王・卑弥呼は居住していなかった。
したがって、吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説は、「瀚海」という2字を無視した空理空論であったことになる。

◆前ページの「【呉】の字源にもとづく伊都国の地宜」が示しているように、
「ジャコウウシの横顔となる、糸島半島の地宜」は「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢」をあらわしている。

「ジャコウウシがアゴを胸につける屈位の姿勢」は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢で骨盤入口へ入りこむ様子」に相似すると見立てられた。
だから、「伊都国」の【伊】の偏【人(ひと)】は「骨盤入口に入りこむ出産児()」をあらわし、【尹(いん)】は「ジャコウウシと出産児の屈位の姿勢」をあらわした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」で詳細に解説した【邪馬】と呼ばれた「出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の図」を、下に配した。
下図の左側に配したように、『魏志倭人伝』においては「小泉門・矢状縫合・大泉門」を【邪馬】と呼んだ。
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出産児の頭蓋骨の縫合(ほうごう)は完成していないため、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)となって重ねあわせることができる仕組みとなる。
この「仕組み」を、産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と呼んでいる。
また、産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

ゆえに、今日の「小斜径」は「馬・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に酷似(こくじ)すると見立てられて、
今日の【小斜径】は、『魏志倭人伝』において【邪馬】と呼ばれることになった。
女王国名の【邪馬壱国】のうちの【壱】は「子宮、骨盤入口、産道」を意味した。

下に【馬】の字源「フタコブラクダが草を食べるときの、鼻・アゴ・口」の図を配した。
下図の「草を食べるラクダの鼻」は上図の「小泉門」、「ラクダの鼻と口を結ぶミゾ」は上図の「矢状縫合」、「ラクダの口」は上図の「大泉門」に相似すると見立てられた。
というのも、「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めになって重ねあわさって歪(ゆが)む形」は「せまい産道を通りぬけるときの、出産児の5枚の頭の骨を小泉門・矢状縫合・大泉門の膜で重ねあわせて小さくする小斜径の形状」に相似するからである。
だから、「小泉門・矢状縫合・大泉門」は【邪馬】と名づけられた。
【邪馬】は現在の【小斜径】と同義語であったのである。
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◆出産第1期の開口期(かいこうき)の後半ーー出産児はアゴを胸につける屈位の姿勢となり、
小泉門が後頭部の小さい周囲径で進み、後頭部の小泉門を先進させて、骨盤入口に入りこむ。
要するに、骨盤入口部には狭い空間があるので、出産児はアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。これを産婦人科では「第1回旋(かいせん)」と呼んでいる。
この「第1回旋が行われるときの、出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢」が、「伊都国」の【伊】の字源・字形・字義であった。

というのも、中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、
【君】は【尹】の下に【口(さい)】を加えた字であり、
「君は聖職者であり、同時に政治的な君長たるもので、古くは氏族長が君と呼ばれた。(中略)
古く夫人が君の地位にあったこともあり、王侯夫人のことを君氏とよぶ伝統があった」
と解説するからである。
卑弥呼は巫女(みこ)の女王であったゆえ聖職者であり、倭女王であったゆえ政治的な女君(女性の君長)でもあった。
一大率は易占(うらない)に精通する聖職者であったと推測され、同時に倭女王・卑弥呼と共に立つ政治的な男君(男性の君長)であった。

下に、「女性の骨盤入口の図」を配した。
下図が示すように、骨盤入口は横に長い楕円形(だえんけい)である。
この横長の骨盤入口にあわせて、縦長の出産児の頭が90度回旋して、骨盤入口を通りぬける。
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インターネット・ブログの「骨重積」についての解説にもとづくと、
下図に示すように、骨盤入口を通過できる平均的な最小径の小斜径は32㎝であるという。
屈位の姿勢になれない出産児の頭の前後径は平均34㎝だという。
ゆえに、わずか2㎝の差で生死が決まり、2㎝大きいと生まれてくることができない。
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このように、【伊】の字源「アゴを胸につける屈位の姿勢」となって狭い骨盤入口を通りぬける出産児の健気(けなげ)な様子は、
神秘的で泣きたくなるほど感動的な【命】の貴(とうと)さをあらわすドラマとなる。

ゆえに、下の左図のごとく、【命】という字形は組織されることになった。
【命】の上部は【亼(しゅう)】であり、
【亼】の上部の「∧」字形は「骨盤入口を先進する、∧形となる小泉門」をあらわし、
【亼】の下部の【一】は「骨盤入口」をあらわす。
【亼】の下の右側にある【卩(せつ)】は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢」をあらわす。
【亼】の下の左側に加わる【口】は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわしている。
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倉頡は「産道を通過する出産児の頭の4回の回旋」のうちの「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字源「方位規定」を考案した。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字源「方位規定」を考案した。
卑弥呼王朝は、倉頡が【禾】の字を作って考案した「時計回りの90度転回する方位規定」を「倭人国」の【倭】の字であらわす「転回日本列島地図」を制定した。

卑弥呼は倭人国の首都となる王国の名を【邪馬壱(やまい)】と定めた。
つまり、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】となる【邪馬】という名の「小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」と
【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」を組み合わせてーー王国名を【邪馬壱】と定めた。
その証拠に、下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹()国」と記す。
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『魏志倭人伝』は、晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末尾にある「倭人伝」を指す。
先年亡くなった故古代史研究家の古田武彦氏は、1971(昭和46)に著作した『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて、
『三国志』全体に記される【壹】86個、【臺】56個の文字を一つ一つ丹念(たんねん)に調べ、【壹】と【臺】には誤記の事例がないことを指摘した。

だから、『魏志倭人伝』は――倭人国の首都が所在した王国の名を「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」と記していた。
そして上記したように、「ジャコウウシがアゴを胸につける姿勢をあらわす小国の地宜」は【伊】の字源「出産児がアゴを胸につけて骨盤入口を通りぬける姿勢」に相似するゆえ――卑弥呼は共に立つ強力な男王の一大率をその小国に配置した。
卑弥呼は、一大率が治める、その小国の名を「【伊】の字源をあらわす都」ということで「伊都国」と定めた。

以上のごとく、
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は「産道を通過する出産児の第1回旋と第4回旋」をあらわす【倭】の字源を示したものであったため、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】をあらわした。
また、【卑弥呼が居住した邪馬壱国】と【一大率が居住した伊都国】という名も、【倉頡の文字作成理論の基軸理論】をあらわしていた。

◆『魏志倭人伝』の冒頭文は、
「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り、山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時に朝見(ちょうけん)する者あり。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」である。

上記の冒頭文にもとづくと――170年頃に、倭国は百余国に分裂して、各国が戦いあった大乱が始まったと考えられる。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と説明する記事が存在するからである。

『魏志倭人伝』の記事における最終年は250年頃であるゆえ、倭国の大乱は250年から80年前の170年頃に始まったということになる。
そして、『魏志倭人伝』の冒頭文に登場する「倭国の大乱で分裂していた旧百余国」は
倭女王に就任した卑弥呼が、整理して三十の小国にまとめた対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国であったことになる。

倭国の大乱は数年間も続いたことになる。
上記した『魏志倭人伝』の記事は「相攻伐して年を歴()」と記しているゆえ、
この文は「百余国は互いに攻撃し討伐しあった倭国の大乱が、数年続いた」と意味するからである。
ところが、上記した『魏志倭人伝』が「乃ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰う」と記しているようにーー
卑弥呼は倭国最高位の女王に選ばれ、伊都国に配置した強力な男王・一大率と共に立つ国家と王朝を創設した。

上記した『魏志倭人伝』の「倭国の大乱」の記事にもとづくと、
倭国の大乱が始まってから数年後に、卑弥呼は「倭地(つまり、日本列島)の東は南に延びる」と立論したことになる。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に解説したように、
そして、下図に示したように――卑弥呼は日本列島の西端(にしはし)にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東端(ひがしはし)にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることに注目した。
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日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯気候区の神津島は冬になっても雪は降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように――日本列島は「西冷・東暖」ということになる。
下図の左側に示すように――中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かい。
ゆえに、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国の海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し
日本列島の「東端」と中国海岸線の「南部」は「暖かい気候」で共通する。
だから、卑弥呼は「倭地(日本列島)における暖かい気候の〔東〕は中国の暖かい気候の〔南〕の方に延びる」と立論した。
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卑弥呼の「日本列島の東は南に延びるゆえ、【倭】の字源・原義が成立する」という立論と証明は、戦争に夢中になる男王たちはじめ諸々の氏族の長たちに【倭地全土に棲む倉頡の地霊が、倭国の大乱で戦いあった全員を祟(たた)って、その家族及び一族全員をも死刑にするにちがいないと脅(おび)える、激しい恐怖】を与えることになった。
したがって、卑弥呼が提唱した「転回日本列島地理」は倭国の大乱を一気に鎮(しず)める強力な威力(いりょく)を有していたことになる。

かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、わが国最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した。
倭女王・卑弥呼は倭国の大乱で分裂していた百余国を三十の小国に整理してまとめ、
そして、下図に示すように、卑弥呼王朝は転回倭地図を制定した。
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◆『魏志倭人伝』は、伊都国と一大率について、漢字67字をもって下記のごとく説明する。
「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。国中に於()いて刺史(しし)の如(ごと)きところ有り。王、使()を遣(つか)わして京都(けいと)・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津()に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王に詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「女王国より以北には特別に一大率を配置して諸国を検察させた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。一大率は常に伊都国に居住して治めている。国中において刺史のごときである。倭国の王たちが使者を派遣した魏都と、朝鮮半島北部にある魏の出張機関の帯方郡政庁と、諸韓国にゆくとき、および――帯方郡が使者を倭国に派遣するときには、すべて伊都国の港で、魏と倭国の国交でやりとりする文書や賜物を捜(さが)して露(あら)わにして(つまり、賜物とその品書きが合致しているかを照合・点検し、確認して)、女王の卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしている。」

前ページに配した「卑弥呼王朝が制定した【倭】の字源にもとづく転回日本列島地理」だと、一大率が居住する伊都国は女王国・邪馬壱国の以北に所在する。
したがって、『魏志倭人伝』の「女王国より以北には特別に一大率を配置して諸国を検察させた」という記事は正しい。

倭人国の王や使者が用いる文字は「夏の銀河各部の形状を図案する契文(甲骨文字)や金文のような絵文字」の【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】であった。
魏都・帯方郡・諸韓国が用いる文字は秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)であった。
しかし、両者の字形は異なっても、倭の夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国の字源・原義は同じ【夏の銀河各部の形状】であった。
だから、倭人国の夏音文字と魏都・帯方郡・諸各国の楷書を通じあうことができ、倭人国の使者が使う言(ことば)も魏都の外交官や帯方郡の長官(太守)・役人(通訳)たちや諸韓国の古代文字・古代語を知っている豪族や人々に通じて正しく訳することが理解できたのである。

前述したように、『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り、山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時に朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国なり」であった。
上記の冒頭文最後の「今、使訳通ずるところ三十国なり」という文もまた、「今、卑弥呼が統治する倭人国の対馬国から狗奴(くな)国までの三十国の使者が用いる言葉と文字は、魏都と帯方郡において訳し通じて理解できた」と説明している。

都国の港の役所には、【倉頡の文字作成理論】の学芸知識はじめ【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の知識】を有する人々が務めていたにちがいない。
ゆえに、彼らは魏・帯方郡からの伝送の文と賜物の品書きに用いられる楷書における難解な文字の字源・字義は【夏の銀河のどの部分が示すことになるのか】と捜し当てて(露わにして)、卑弥呼が用いる絵文字のような夏音文字に変換して正しく訳していたことになる。

上記した「伊都国と一大率について」の説明には「一大率は、国中において刺史の如きところ有り」という文がある。
「刺史」の【刺】について、『説文解字』は「君、大夫を殺すを刺といふ」と解説する。
よって、【刺】は「男君の一大率が大罪を犯した倭人国の国中の大夫を殺す」と意味したことになる。
『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、其の使()中国に詣(いた)るに皆自(みずか)らを大夫と称す」という文がある。
ゆえに、中国に渡る倭国の使者は皆「大夫」であった。
倭国の使者「大夫」は【倉頡の文字作成理論の学識】を有していた。
このため、中国の言葉や文字が理解できたのである。

だから、倭人国では「【倉頡の文字作成理論】を知っている知識者】は全員「大夫」と呼ばれていたことになる。
いっぽう、伊都国の一大率は倭人国における諸国の大夫が【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるようにして暴露する大罪を検察して、犯した大夫とその家族および一族全員を皆殺しにする男君の「刺史」であった。
だから、『魏志倭人伝』は「諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)った」と記述したのである。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と説明し、
そして「末盧国の東南に伊都国があり、伊都国の東南に奴国がある」と説明する。
ゆえに、「末盧国の北は東、南は西」となる。
このため、『魏志倭人伝』は「一海を渡る千余里、末盧国に至る」と記述しているように、「一大国から末盧国へ至る方位」を明記しない。
「対馬国・一大国の南北」に対して、「末盧国の南北」は対立して矛盾するからである。
この対立と矛盾の原因は、【倉頡の文字作成理論】によって成立した【倭】の字源・原義であった。
ゆえに、対馬国・一大国・末盧国・伊都国などに住む人民や玄界灘の漁師たちが「対馬国・一大国と末盧国の方位の対立と矛盾」に気づいて騒いだとき――
諸国の大夫たちが【倉頡の文字作成理論】や【文字は夏の銀河各部の形状から作成された秘密】を人民が容易に理解できるように説明するのを検察して処罰する刺史が、一大率であった。

「大夫」という語は、『万葉集』では「ますらを」と読む。
現在、「ますらお」は、漢字で「益荒男」と表記される。
「益荒男」は「荒波逆巻く中国と日本の中間の大海を渡った名門益氏の王子と若者たち」を省略した語であったのである。
だから、「夏代黎明期の紀元前2050年頃に、わが国は最初に漢字を習得した」ことは、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国と一大国の記事」が説明していたとおり、事実であったのである。

上記した67字で構成される「伊都国と一大率」の記事に注目すると――
現在の学界の絶対的定説「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、明らかに空理空論であると簡単容易に証明される。
もしも、現在の学界の漢字習得の定説が事実であったとしたならば――
2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、わが国には文字が存在しなかったことになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「伊都国と一大率の記事」は全部ウソであったことになる。
しかし、「伊都国と一大国」の記事は事実ではなく虚偽だとすると、倭人国と魏都・帯方郡は国交を結ぶことができなかったことになり、
2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

「『魏志倭人伝』が白紙であった」ならば、なにゆえ「『魏志倭人伝』に「邪馬台国」の4字が残り、
さらに、「これこれの記事は邪馬台国に関する事実を伝える記事として残った」と学者たちは都合よく軽々しく主張できるのか?
このように、学界やメディアが最も正しいと思い込む新井白石以来300年続く邪馬台国説は論理がまったく成立しない、支離滅裂(しりめつれつ)な空理空論であったことになる。  

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