G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・16: 卑弥呼の逆襲

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2024年6月23日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・16

不弥国は朝日のただ刺す国、夕日の日照る国であった・1

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していた古文献が、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は学者たちの早呑(はやの)み込みによる臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されるからである。
『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に成立した。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河。夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、「夏の始祖」とよばれる帝禹()の後を継ぐ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが、帝禹の遺志・氏族共同政治体制を新天地にて継続(けいぞく)するため、中国から大海を越えて日本列島に定住することになり、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めて、帝禹の遺志・氏族共同空政治体制をわが国に植えつけたと示唆(しさ)する記事がある。

この益氏が定住した地は、日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)であった。
夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などで記されて残っている。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
このように、『魏志倭人伝』の「夏代黎明期に夏音文字が習得された」と示唆(しさ)する記事は事実を伝えていた。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

【中国とわが国における最古の漢字音】は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている、紀元前2050年頃の夏代黎明期の夏音文字の字音である。
また、【中国における最古の漢字の字形】として、殷代(いんだい)後半期の紀元前1300年頃の契文(けいぶん・亀の甲羅などに文字を刻んだ甲骨文字)が出土している。
この甲骨文字(契文)の字音は現在に残っていない。
中国における最古の字音として残るのは、紀元前1046年頃の周代初頭の「上古音」である。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から『魏志倭人伝』に記述された「対馬国・瀚海・一大国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について解明した後に、
そして、『魏志倭人伝』が説明する「末盧(まつろ)国、伊都(いと)国、そして前回(15)にて奴()国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について詳細に解明した。
このブログでは、対馬国から数えて6番目となる小国「不弥(ふみ)国における【倉頡の文字作成理論】の秘密」を解明する。

この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでいままで解説してきたとおり、『魏志倭人伝』は下図のごとく「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)は北、一大国(現在の長崎県北部の壱岐)は南、対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海(かんかい)」と記述して、【倉頡の文字作成理論の基本】を説明していた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と説明するのに対して、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国のおける北は東・南は西となる」と指摘する。
この「末盧国から奴国までの方位名」は、「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定」に則(のっと)っていた。
ゆえに「一大国から末盧国の方位」は「[][]とする方位規定と、[][]とする方位規定が衝突(しょうとつ)し、互いに対立するゆえ合理的に説明することができない」。
これゆえ、『魏志倭人伝』は「一大国から、一海を渡る千余里、末盧国に至る」と説明して、「方位名」を明記していない。
以上のごとく、「末盧以下狗奴国までの28の小国における方位」は「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)っている。
したがって、下図のごとく、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」の旅程基点の方位」を指摘していたことになる。
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『魏志倭人伝』は「奴国から、東行不弥国に至るには百里」と記す。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説し証明したように、奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
上図の【倭】の字源に則る「東行不弥国に至るには百里」に合致する旅程基点は福岡県の宗像市(むなかたし)の宗像大社の辺津宮(へつみや)となる。

現在方位だと香椎宮から[]に宗像大社の辺津宮が所在するゆえ、『魏志倭人伝』の説明は矛盾する。
しかし、『魏志倭人伝』は【倭】の字源にもとづいて「奴国の香椎宮から不弥国の宗像大社の辺津宮は[]に在る」と指摘していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「奴国から、東行不弥国に至るには百里」という記事は正しい。

前回までのブログで繰り返して解説したように、【倭】の字源は、倉頡が作った【禾()】の字源をそのまま受け継ぐ「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、「香椎宮から宗像大社の辺津宮の方位」は「【倉頡の文字作成理論】による産物」ということになる。

◆下の図は、現在方位にもとづく宗像地方の「不弥(ふみ)」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)の解説図】である。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)町の海岸線」を「水鳥の弥、つまりカンムリカイツブリの頭」に見立てて、
また、卑弥呼は「釣川から宗像平野部までの地宜」を「弥(カンムリカイツブリ)の首と胴体と翼」に見立てて、小国名を【弥】の字がつく「不弥国」と定めた。
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「不弥()国」の【彌()】の字源となった「カンムリカイツブリ」は海面または湖や沼にすむ水鳥である。
「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
この「銀白色の首から体下面」が、【爾()】の字源となった。
「水面に浮かぶ、カンムリカイツブリの翼をたたむ背中と体下面(胴体下部)」は「弓」の形に相似すると見立てられて、偏【弓】に【爾()】が加わって【彌()】という字になった。
【弥】の「カンムリカイツブリ」は「長時間水に潜(もぐ)ることができる」ゆえ、「八丁(はっちょう)もぐり」の俗称(ぞくしょう)がある。

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「八丁もぐりの、50秒ほどで潜水できるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることを思いついた。

【弥】の「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長4661㎝である。
この「カンムリカイツブリの大きさ」だと、体調が約2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。
しかし、「カンムリカイツブリの大きさ」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育った胎児と同じくらいである。
これゆえ、倉頡は「カンムリカイツブリの大きさ」は「産道」を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する出産児の大きさ」に適合すると注目して、
【爾(後の【弥】】「カンムリカイツブリ」を「産道を通過して誕生する出産児」に喩えることにした。
ゆえに、「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリ」は「4回の回旋をして誕生する出産児」をあらわした。

◆【弥】の字源「カンムリカイツブリ」は九州と瀬戸内海に飛来(ひらい)して繁殖(はんしょく)する。
「不弥国」の【不】の字源を、『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
この【不】の字源解説は、「不弥国」の説明においては――鳥(カンムリカイツブリ)が空を飛んで行く。カンムリカイツブリは【一】の字源「十字の銀河の子宮」に向かって去っていく。「十字の銀河の子宮」は【天】の字源の一部となる(つまり、天のごときなり)」と説明していることになる。
なお、「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」という解説文は「空を飛ぶ【弥】のカンムリカイツブリが地に下りて来ない」という否定・打消しに用いる「ず」が【不】の字義であると説明していることになる。
このような「不弥国の地宜」における【不】の字源解説の理由・根拠について、これから解説する。

下に、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を配した。
下図に示したように――「宗像地方の【弥】(カンムリカイツブリ)の地宜」は【一】の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐に向かって(つまり、【一】の字源地宜「壱岐」に向かって)、空を飛翔(ひしょうして、地に下()りて来ない姿、つまり「下りて来ない」の否定・打消しの【不】「ず」をあらわす姿――に観()える。
だから、下図は上記したように――『説文解字』の【不】の「鳥(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」という字源解説をあらわしている。
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カンムリカイツブリは、下図の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)を長方形状に水が流れる黄河上流が包囲する地域における、黄土高原に夏に飛来して繁殖する夏鳥(なつどり)である。
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◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう【「不弥国」という小国名の秘密】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
【倉頡の文字作成理論の秘密】が容易に明確に説明できるように――下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左側・中央よりやや上部に、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
下に、はくちょう座のε(エプシロン)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)、β(ベータ)の4つの星が三角形に囲む「人の横顔に酷似する銀河」の図を配した。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる、国際的に天文学界で名称が定められた銀河部がある。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。
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「北天の最輝部」は銀白色に輝く。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわす図である。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社j発行の143ページより転載した。)
この「脚で水面を蹴()って水しぶきを浴びてビショ濡れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」は、下の左側の「北天の最輝部の形状」に相似すると見立てられた。
というのも、上記したように「カンムリカイツブリ首より以下の体下面」は「北天の最輝部」同様に銀白色に輝いているからである。
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ゆえに、「カンムリカイツブリの銀白色の首より以下の体下面」は【爾()】の字源となった。
言いかえると、倉頡は【爾】の字を作って「カンムリカイツブリ」をあらわしたと考えられる。
しかし、後世、【爾】の字は通常「うつくしい。なんじ」などと意味することになり、「カンムリカイツブリ」という字源を失った。
それゆえ、「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの、オスとメスの首より以下の銀白色の体下面と背中は〔弓〕の形」に相似するということで――偏【弓】に【爾()】が加わった【彌()】が「カンムリカイツブリ」をあらわすことになったと考えられる。
なお、「銀白色に輝く北天の最輝部」は【漢】の字源と「銀漢」の語源であったことになる。

下図は、五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」である。
下図に示すように、今から約5000年前の黄帝時代における黄帝陵(北緯3535)の天頂には、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河頭部の中央」がめぐってきた。
また、当時、「長江口(ちょうこうこう・長江の河口)の中央(北緯3130)」には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
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下に、上図と異なる「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」を配した。
下図のおける北緯30度の地所は、長江口(北緯3130)より南の「杭州湾(こうしゅうわん)の南岸」である。
下図の右側に示したように、「杭州湾の南岸(北緯30)の天頂」には、「北天の最輝部における最南部」がめぐってきた。
黄帝時代、「北天の最輝部の最北部」にある「はくちょう座γ星とこの星を中心とする円環銀河部」は、黄帝陵(北緯3535)よりやや南部の地所の天頂にめぐってきた。
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下に「北天の最輝部のγ星・円環銀河部と【日】の金文形の図」を配した。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、下図における【日】の金文形を「太陽の形。中に小点を加えて、実体のあることを示す」と解説する。
つまり、下図の左側の「円環銀河部と、その円形中心のはくちょう座γ星」が、金文の【日】の「太陽の形」をあらわす字源であったことになる。
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下に、上図より前に配した「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」における中央部の「北天の最輝部周辺に限った、黄帝陵(北緯3535)・杭州湾南岸(北緯30)の天頂緯度線の図」を示した。
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下に示すように、黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」を「地平線、あるいは水平線」に見立てるために「水平」にして――【日】の金文形となった「太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)が地平線(水平線)より上へ昇って、東の空を赤く染める朝の光景」を表現するためには――芸術的センスを発揮(はっき)して想像力をたくましくするように求められた。
というのも、()「斜めの天頂緯度線」を「水平」になるようにすると「北天の最輝部」は「傾きが一層加わってあたかも真横に転がるようになる」――このため、「太陽が地平線(水平線)より上へ垂直に昇る景色」にはならない。
これゆえ、下図に示したように、()新たに「真横に延びる地平線(水平線)となる線」を描き、
さらに、()「垂直状に立つ北天の最輝部」を作図すればーー
(
)「赤く輝く日の出の太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)」が、下図のごとく「地平線(水平線)より上へ昇る景色の想像図」となる。
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上図に示した、複雑な工作を加える「想像」は、わたくしの独断・推測によるものではない。
というのも、上の「はくちょう座γ星と北天の最輝部の光景の想像図」は、
【旦(たん)】の字源「東の空を赤く染めて太陽が地平線(水平線)より上へ昇って姿をあらわす光景」をあらわすことになったからである。

上の「【旦】をあらわす想像図」は、【不】の字源をもあらわした。
前述したように、『説文解字』は【不】の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従うふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
ゆえに、上の「想像図」において――【弥】「カンムリカイツブリ」の字源「北天の最輝部」は「鳥が上の天空を飛翔(ひしょう)して、地に下りて来ない」ように観()える。
そして「地平線(水平線)」に見立てた「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部中央」は【一】の字源であった。ゆえに「一に従ふ」と説明された。
前ページの「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線」に示したようにーー【一大】の語源となった「十字の銀河の子宮中央の緯度線(北緯3130分の天頂緯度線)」は「北天の最輝部の最南部」を貫通した。ゆえに、「一はなほ天のごときなり」ということになる。
以上のごとく、「北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源であった。
したがって、「不弥国・宗像地方」は「【不】と【弥】の字源の、北天の最輝部の地霊が棲()む地」であったことになる。

また、上図における複雑な工作を加える「想像」は【倉頡の文字作成理論】において「特に難(むずか)しい作業」ということで――上図の「想像図」は【難】の字源となった。
「銀漢」の【漢】の右側が偏となり、この偏に【隹】が加わって【難】という字が成立した。
【難】における【隹(すい)】は「北天の最輝部」を指す。
「十字の銀河の子宮」もまた「小鳥の鳰(にお・カイツブリ)」をあらわす【隹】の字源銀河である。

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
鳰の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。
湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死(ちっそくし)しない胎児」に喩えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と「鳰」の両者をあらわすことにした。
そして、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになったため、
偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。
上記したように、「十字の銀河の子宮」が字源となる【隹】の字も「鳰」をあらわした。

前述したように、【弥】の字源は「全長が46㎝~61㎝の、カンムリカイツブリ」であった。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝に育った大きな胎児(つまり、出産間近い児の体長)」と同じぐらいである。
これゆえ、「十字の銀河の子宮(【隹】「小鳥」)よりもはるかに大きい、〔鳥〕と表現すべき北天の最輝部」を字源とする【弥】の「カンムリカイツブリ」もまた「鳰(十字の銀河の子宮)と同じく【隹】とあらわすことになった。
つまり、【呼】の「鳰」も【弥】の「カンムリカイツブリ」も「羊水の中に潜る、同じ水中生活者の胎児」をあらわしたゆえ、「カンムリカイツブリ」も【鳥】ではなく【隹】ということになったと考えられる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・1」で詳細に解説したように、
中国の山東省の呂県(チュウシエン)の陵陽河(りょうようが)の遺跡から「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる灰色の爆弾型の土器が出土した。
下に、「灰陶尊」と灰陶尊の胴部の口縁部(こうえんぶ)にほどこされた【旦】を表現する図書を配した。
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中国の学界は、上図の「灰陶尊」は今から約5000年前に作られたと定めている。
ということは、灰陶尊は今から約5000年前の黄帝時代に作られたことになる。
中国の学界は、上図の右側の図書は【旦】をあらわすと解釈する。

下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの首から上の横顔に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、黄帝時代、「山東半島」は【弥】の「カンムリカイツブリの頭(横顔から首までの姿」に見立てられたことになる。
また、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
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上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
この黄帝陵・日照の北緯3535分より少し高緯度に、【旦】の図書をほどこした灰色尊が出土した呂県陵陽河遺跡が所在する。
「黄帝陵と日照の緯度線」を「地平線(水平線)」に見立てると、「呂県陵陽河遺跡」は「地平線(水平線)より出ずる夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」に合致する。
ゆえに、「灰陶尊の胴部の口縁部にほどこされた最上部の円形」は「夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」を表現していたことになる。
「灰陶尊における【旦】中央の図書」は「地平線(水平線)と太陽の中間に浮かぶ底部が紫色に染まる雲の図案」であろうか?
「灰陶尊における【旦】の最下部の図書」は「地平線(水平線)より下の地下から東の空を赤く染める太陽の光線」を表現する図案と考えられる。

上図の「山東半島の【弥】「カンムリカイツブリ」の地宜」に表示したように、「石島」は「朝日(日の出)」をあらわし、「日照」は「夕日(日の入り)」をあらわす。
つまり、「縦長の頭の出産児が横長の骨盤入口に入りこむ、第1回旋の様子」を「地平線(水平線)下に没するときの夕日」に見立てて、「日照」という地名になった。
そして、「石島」は「産道を通過して、第4回旋しながら膣口(ちくこう)から頭が誕生する出産児の様子」に見立てられて「地平線(水平線)の上に昇る、朝日(日の出・【旦】)」をあらわすことになった。

◆だから、「山東半島の地宜」は――出産児が骨盤入口から頭が入りこみ、さらに産道を通過して、膣口(ちつこう)から誕生する、この出産児が八丁もぐりの【弥】「カンムリカイツブリ」のごとく息を外()きつづけて羊水を吸い込んで窒息死しない様子――あらわした。
このような「山東半島の地宜解釈」を伝えて、
『古事記』上巻の「天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨(こうりん)説話」の末部には――天孫(邇邇芸命)が「ここは韓国(からくに)に向かい、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて、朝日の直刺(ただ)す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉(いとよ)き処(ところ)なり」と称したーーという文がある。

上記した「ここは韓国に向かい、笠紗の御前を真来通りて、朝日の直刺す国」という文は、「山東半島北端の石島」に由来する表現であり、「夕日の日照る国」は「山東半島南部の付け根にある日照」に由来する表現である。
上図における「【弥】・カンムリカイツブリの横顔から首までの形に相似する、山東半島の前方(東方)」は「韓国」である。ゆえに、「韓国に向かい」ということになる。
そして、「笠紗の真来通る」という表現は上図の「山東半島の【弥】・カンムリカイツブリの地宜」における「黄河口と呂県陵陽河遺跡を結ぶ経度線」が「真来通る」、つまり「同経度となる」と意味する。
だから、「山東半島」が「笠紗(かささ)」ということになった。

なお、「真来通る」という古語は、「正午、南中する太陽に向かって複数の木の棒をならべ立てて、その数本の木の棒が重なって一本に見える状態」を表現するものであるゆえ、「経度を精確に測量できる。同経度である」と意味した。
それゆえ、「真来通る」は「真木立(まきた)つ」とも言った。
上記の「正午に南中する太陽」を利用する「真来通る・真木立つ」の他に――肉眼星が191個もあるヘルクレス座(夏の星座)には複数の星が南北・経度軸に合致して並ぶ箇所があるゆえ、「真来通る」を測量できた。
この他にも、夏の銀河に漬()かる幾つかの星座には、経度線上に複数の肉眼星が並ぶ箇所があるゆえ「真木立つ」を測量することができた。
また、「斜(なな)めとなる、十字の銀河における緯度の目盛り」を巧みに利用して、「経度」を精確に測定できる呪的(じゅてき)な眼力(神通力)を有する人々もいた。

上記したように、天孫は「韓国に向かい、笠紗の御前を真来通る、【弥】の首から上の横顔に相似する山東半島の地宜」と同じく【弥】の「カンムリカイツブリの横顔から首までの形」に相似する「福津市(ふくつし)の津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線」をも「笠紗の御前を真来通る処」と表現したことになる。
つまり、天孫は「宗像大社の辺津宮を貫通する経度線」を「御前(みさき)を真来通る」と表現した。
ゆえに、「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの山東半島」と同じく「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までとなる津屋崎町の海岸線」は「笠紗」ということになった。
「笠紗」は「【弥】のカンムリカイツブリが生息する水草の葦(あし)などを編んで作った笠」であると考えられる。

このような理由・根拠にもとづいて、天孫は「不弥国・宗像地方」を「朝日の直刺す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉き処」と表現した。
以上のごとく、「不弥国・宗像地方」は「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」であった。

◆上記したように、「不弥国・宗像地方における津屋崎町の海岸線」と「山東半島の海岸線」は共に「【弥】のカンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形」となる。
このため、不弥国・宗像地方には――夏代黎明期(紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが教え広めた「精密な中国の海岸線地図」の秘密が存在した。

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は猛獣の「トラ」ではなく、「地図作製を役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に似る三匹の豹(ひょう)が参加していた」と説明している。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図作製を役職の副官となった三氏族」を意味した。

だから、『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬、虎と豹、羊と鵲(かささぎ)は無い(つまり生息していない)」という記事がある。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では9回以降繰り返して証明しているように、【牛】の字源・字義「ジャコウウシ」のであり、【馬】の字源・字義は「フタコブラクダ」であった。
これゆえ、【虎】は「不弥国・宗像地方を治める男王の主なる役職の、精密な地図を作製する長官」を意味したことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」の末部は――不弥国・宗像の王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」であったと記す。
ゆえに、「天菩比命」は「精密な地図を作製する長官」であった。
この「天菩比命」には「七人の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がいた」という。
この「七人の子の建比良命」は――()出雲国造(いづものくにのみやつこ)()无耶志国造(むさしのみやつこ)()上菟上国造(かみつうなかみのみやつこ)()下菟上国造(しもつうなかみのみやつこ)()伊自牟国造(いじむのくにのみやつこ)()津島県直(つしまのあがたあたひ)()遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)たちの先祖である――と列記する。
つまり、上記した「天菩比命の子」と記された「七人の建比良鳥命」は「天菩比命と血のつながった息子」ではない。

つまり、「天菩比命に従属する分子の氏族」を「子」と表現したことになる。
だから、「七人の建比良鳥命」は「天菩比命の精密な地図を作製する役職を補佐する、倭人国の各小国に住んだ副官氏族たち」であったことになる。
言いかえると、「七人の建比良鳥命」は「七人の豹」であった。

次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」では、「不弥国・宗像の王の天菩比命は精密な地図を作製する長官の虎、つまり虞()であった秘密」を解明し、
わが国には五帝時代の五番目の帝舜(しゅん)の治世に代々200年~250年間も「虞()」の要職にあった益氏の王子と若者たちが「精密な中国海岸線地図」をわが国にもたらした史実を具体的に解説し証明することにする。
(
注 帝舜に益氏が「虞」の重職に就くように命令されたことは、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)に記述されている)

◆なお、上記したように、『魏志倭人伝』は――倭地には【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」、「地図を作製する長官と副官」を象徴する【虎】と【豹】、【羊】の字源となった「動物」と【鵲(かささぎ)】が生息しない――と説明する。
しかし、なぜ「倭地には【羊】は生息しない」と記す必要があったのであろうか?

【牛】の字源「ジャコウウシ」の別名は「ジャコウヒツジ」である。
おそらく、益氏の王子と若者たちは「倭地に生息しない、ジャコウウシ(ジャコウヒツジ)」を縄文人たちに理解させるために、【羊】の字源となった「動物」と比較して説明しようとしたが――倭地には【羊】も生息していなかったため、困惑したのであろう。
この困惑を伝えて、『魏志倭人伝』は「倭地には羊が生息しない」と記したのであろう。

【鵲(かささぎ)】の別字は【舃(せき)】である。
益氏の王子と若者たちは「秋田県の八郎潟の偏(ほとり)」に定住した。
「八郎潟」の【潟】の右側は【舃】である。
だから、夏音文字の【舃】は【潟】と密接にかかわる。
『魏志倭人伝』には「益氏が男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した」と示唆する記事が存在する。
ゆえに、「倭地には舃(かささぎ)は生息しない」と記す必要があったことになる。

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