漢字の起源と発明を解明す・15
奴国の志賀島の金印出土地の秘密の解明
◆倭女王・卑弥呼が登場することで有名な「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、【卑弥呼が居住した邪馬臺(台)国】を説明するための書物」であったという定説は100パーセント空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」に関する説明は存在せず――もっぱら【今から約5000年前に生存した、倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。
したがって、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説もまた、『魏志倭人伝』を誤読した産物の100パーセントの空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』は「2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代には、紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に習得した漢字(夏音文字)がわが国に存在していた事実」を具体的に説明しているからである。
ゆえに、『魏志倭人伝』によって「卑弥呼時代に、わが国には【倉頡の文字作成理論】が存在していた事実」も具体的に証明できる。
さらに、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて、楷書を意符・音符に用いた夏音文字、つまり夏代黎明期に習得した夏音文字が多数記されている。
このように、多数の夏音文字を『古事記』上巻の随所で実際に見ることができる。
ゆえに、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2050年頃の中期縄文時代末(夏代黎明期)であったことは確かな事実となる。
【漢字を発明した倉頡(そうきつ)】は、今から約5000年前(紀元前3000年頃)の中国の五帝時代に生存した黄帝につかえていた。
わが国は、今から約4050年前(紀元前2050年頃)に、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、【倉頡が発明した文字作成理論】と【夏代黎明期の漢字の夏音文字】を教え広めた。
ゆえに、今から4000年前(紀元前2000年頃)の後期縄文時代初頭に【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、わが国は習得していた。
だから、『魏志倭人伝』は邪馬台国とまったく無関係の、【卑弥呼が有していた倉頡の文字作成理論と夏音文字の伝来】について説明する文献史料であったのである。
以上からして、
(Ⅰ) 「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する文献である」という定説は空理空論であった
(Ⅱ) 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説も空理空論であった
わが国は紀元前2050年頃に最初の漢字・夏代黎明期の夏音文字をすでに習得していたからである
(Ⅲ) 「倉頡が漢字を発明したと説明する倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話である」という定説もまた空理空論であった
◆倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、あるいは「銀河」、ときには「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆このブログでは『魏志倭人伝』に記される対馬国(現在の長崎県北部の対馬)から5番目の小国・奴(な)国の位置と、西暦57年に後漢の光武帝(こうぶてい)から授与された「漢委奴国王」と文字を刻む金印の出土地の秘密を解明する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回において、下図に示す「対馬国・瀚海・一大国の秘密」を解明した。
上の「対馬国・瀚海・一大国の地図」は、下に配した「瀚海・ゴビ沙漠と長方形状に水が流れる黄河上流が包囲するムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概況地図」をあらわして、【倉頡の文字作成理論】を解明し証明するために必要な基本地図であった。
『魏志倭人伝』は「倭国には牛と馬は生息しない」と説明する。
【牛】の字源・原義は「ウシ」ではなく、上図の黄土高原・凍土(とうど)地帯に生息した「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、上図の瀚海・ゴビ砂漠とムウス沙漠に生息した「フタコブラクダ」であった。
ゆえに、「対馬国の地宜(平面的に図化した地図の形)は、北の上県(かみあがた)の地宜が「フタコブラクダの正面形」に相似し、南の「下県(しもあがた)」の地宜は「フタコブラクダの丈夫な足底の形」に、相似する。
したがって、「フタコブラクダの姿と足底と一対(いっつい)となって、【馬】の字源をあらわす」ことになり、
この「一対の馬の姿と足底」にもとづき、卑弥呼は小国名を「対馬」と定めたことになる。
上の「対馬国と一大国の地図」に示したように、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めた。
【牛】の字源・原義「ジャコウウシ」は瀚海・ゴビ砂漠の南の黄土高原・凍土地帯に生息した。
下に示すように、【瀚海の南に、一大国・壱岐】がある。
この【一大国・壱岐の地宜における西部の地宜は、瀚海・ゴビ沙漠とムウス沙漠に生息した馬・フタコブラクダの姿】に相似する。
また、【一大国・壱岐の東部の地宜は牛・ジャコウウシの姿】に類似する。
【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壱】の字源となり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
「一大国は「【壱】の字源の聖獣のジャコウウシとフタコブラクダの姿を東西に分ける岐(わかれみち)が存在する」。
ゆえに、後世、一大国は「壱岐」と呼ばれることになった。
◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う。一大国(現在の長崎県北部の壱岐)に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在方位と同じである。
しかし、一大国から末盧(まつろ)国までの方位について、『魏志倭人伝』は記していない。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の11回~14回までに詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』は「末盧国からの方位」を「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【方位名】を記していたからである。
「対馬国が北、一大国が南」に対して、いっぽう「末盧国以下の伊都(いと)国・奴(な)国・不弥(ふみ)国において北は東、南は西になる」。
ゆえに、「一大国より南にある末盧国」は【倭】の字源の方位規定にもとづくと「一大国より東に末盧国がある」ということになる。
つまり、【「対馬国と一大国における〔北〕は、末盧国・伊都国・奴国・不弥国にとっては北ではなく〔東〕となる」となるため――両者の方位は対立して矛盾する。
だから、「一大国から末盧国の方位」を明記することができなかったのである。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(14回)までに詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくであったことになる。
下図の下部に示したように――奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う「奴国の位置と金印出土地の秘密の解説と証明」には、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の左上に「鬼の姿に似る銀河」がある。
下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、「奴国」の【奴】の字源銀河であった。
「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は【又(ゆう)】と【右(ゆう)】の字源でもあった。
【又】の字音は【右】と同じく「ゆう」、【又】の字義も【右】と同じく「右手」である。
つまり、「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕すことができる筋肉隆々の、ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年の大きな手(腕)」を象徴して、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する太い右手」に見立てられた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の死体を葬る墓に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」という記事に登場する【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力が最も輝く、純粋な18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで、18歳の青年と13歳の乙女が徇葬の犠牲者に選ばれたのである。
また、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体のジャコウウシのごときの強大な力」をあらわした。
また、「子どもの出産において――母体(妊婦)が雷鳴や虎が吠えるがごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
その証拠に、「怒責」の【怒】の字は【奴】の下に【心】を加える字である。
要するに、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は
(1)「強大な力を有するジャコウウシ」、
(2)「ジャコウウシの強大な力を有する18歳くらいの青年」、
(3)「ジャコウウシのような強大な怒責の力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。
『魏志倭人伝』は「奴国には二万余戸有り」と記す。
下の図に示したように――二万余戸を有した奴国はその人口数からして、その範囲は「福岡湾・博多湾沿岸の福岡市から熊本県南端まで」(ただし、南端の〔南〕は現在方位)の「広大な範囲の、強大な力」をあらわす大国であったと考えられる。
あるいは「奴国の南端」は「鹿児島県の薩摩半島まで」であったかもしれない。
◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には、下記のごとく「奴国の海ノ中道と志賀島(しかのしま)」について説明する。
「建武中元二年(57年)、倭の奴国は貢物(みつぎもの)を奉(ほう)じて朝賀(ちょうが)した。その使人は自(みずか)ら大夫と称した。その国は倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜(たま)った。」
江戸時代に博多湾中の志賀島から発見された「漢委奴国王」の金印は、この時に与えられた印綬とされる。
下に、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」を配した。
下図に示したように、「海の中道の[南]は志賀島がある[西]の方に曲がるように陸繋(りくけい)して、時計回りに方位が90度転回する状況」をあらわす。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
また、「海ノ中道南端の足の形」は「ジャコウウシの足」に相似すると見立てられて、
この「南から西への曲線」は「ジャコウウシの強大な力」つまり「【奴】の字源・字義」をあらわしていると解釈された。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委奴】という国名をあらわすことになった。
これまでのわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」において毎回のごとく解説したように、
倉頡は「産道を通過する出産児の頭が旋回(せんかい)する、4回の回旋(かいせん)」に注目して、
「第1回旋と第4回旋」をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定」を字源・原義とする【禾(か)】の字を作り
また「第2回旋と第3回旋」をあらわす「逆時計回に90度転回する方位規定」を字源・原義とする【呉(ご)】の字を作った。
なお、「回旋」という語は、今日の産婦人科が用いる医学用語である。
前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」の左上に、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、黄帝時代において、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口がある湾)中央の天頂にめぐってきた銀河部とその銀河部を貫通した天頂緯度線を示した。
下図に示したように、黄帝陵(北緯35度35分)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部につく大きく見開いた【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
また、長江口の中央(北緯31度35分)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく切れ長の細い【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
上図の「黄帝時代の天頂緯度線の状況」にもとづいて
倉頡は下図の「【禾】の字源解説図と字形転回解説図」に示すように――「中国全土の天頂緯度線が貫通する、十字の銀河の中央」に「禾・稲」をあらわす図書を重ねた。
禾(稲)の育成に適する土地は、長江口周辺の中国南部である。
ゆえに、下図のごとく、「禾の穂」を「長江口の天頂を通過した、十字の銀河の子宮がある、南」の方に向くようにした。
そして、「禾の穂」が「鬼の横顔における口(くち)」に垂れるようにして、「時計回りに90度転回して、南が西になる方位規定」をあらわした。
「禾の穂に実る米」を炊くと「人が食べる飯(めし)」となる。
つまり、倉頡は「禾の穂」を「飯を食べる人の横顔の口」に相似する「鬼の横顔における口」の方へ向けて垂れるようにした。
上図の右上にある(1)の図書では「禾の穂は地面がある下方に向く」。
この「禾の穂が地面の方に向く形」は「地面に根を張って植わる禾の形」に合致せず不自然である。
ゆえに、「地面に植わる禾の形」になるようにした(1)の図書を180度転回した(2)の図書は、その上方に示したように、「禾の穂が北から西へと垂れる。」
しかし、この(2)「北から西へ禾の穂が垂れる図書」は「逆時計回りに90度転回する【呉】の字源」をあらわして矛盾する。
それゆえ、この(2)の図書の左右が反対になるように180度転回する(すなわち、裏返しにする)(3)の図書は「禾の穂が北から東へと垂れる、地面に植わる禾の形」となる。
だから、(3)の図書は「北が東となる、時計回りに90度転回する【禾】の字源・原義」をあらわした。
(3)の「禾」の図書は、下図の右側の「地面に植わる禾の形」と同じである。
下図の右側の(3)と同じ「禾の形」は、【禾】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)に合致する。
ゆえに、下図の右側の「地面に植わる禾の形」は、【禾】の字源・原義をあらわした。
下図の左側の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加わる【委】の字が作られた。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
ゆえに、前ページに配した「海ノ中道と志賀島の地図における[南]から[西]へ時計回りに90度転回する曲線」は【委】の字源・原義をあらわした。
そして前述したように、「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に見立てられ、「志賀島」は「強大な力を有するジャコウウシの足が掘った土」に見立てられて――「海ノ中道と志賀島」は【奴】の字源「強大な力」をあらわしていると解釈された。
だから、「海ノ中道と志賀島」は【委奴】という国名をあらわした。
◆現在は、「天の北極がある方向」を「北」と定める。
この「天の北極の高度を、緯度に換算する方法」だと、
原始や古代の人々は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できず――日々の山野における狩猟や穀物・野菜などの食料採集などの日常はじめ、遠くの地を往復する旅や大海の往来にあって位置(緯度)と方向が皆目(かいもく)不明となった。
だから、道に迷って命を失うことになり、無事に家族が待つ家に帰還することができなかった。
これゆえ、「天の北極」では緯度を測定しなかった原始や古代の人々は、「天の北極」を「北」の基準点としなかった。
下に、原始や古代の人々が「1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定できる方法」である「天頂緯度線のキャッチ」を示す図を配した。
つまり、下図は「天頂点と重なる銀河部位の軌道(きどう)」をあらわす。
下図の左上に示すように――「天頂点と重なる銀河部位の軌道」は「天頂点」に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線」となる。
下図における「天頂点」は「天頂点と重なる銀河部位の軌道において、最も[南]となる点」である。
この「天頂点を重力の方向(鉛直線)の地面へと伸ばした観測地点」が、「極南界」であった。
つまり、『後漢書』倭伝に「建武中元二年(57年)に倭の奴国の使者が、倭国の極南界なり」と述べたという、「極南界」は「香椎宮が鎮座する地点」であったことになる。
下に「男女一体となる、十字の銀河の図」を配した。
下図の「十字の銀河の東側の手」は「弓を持つ手」となる。
この「【弓】の字源となる銀河」は「【勿(ぶつ)】の字源銀河」でもあった。
【勿】の字について、白川静著『字統』は「弓体に呪飾(じゅしょく)をつけた字形。(中略)。犂(すき)をもって土を撥(は)ねる形」と解説する。
「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったのである。
その証拠に、偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を、『説文解字』は「牛を大物と為(な)す。天地の数は牽牛(けんぎゅう)より起こる。故に牛に従ふ」と解説する。
だから、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
ゆえに、白川静著『字統』の【勿】の「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったことになる。
下に、「【委】の転回方位が成立する海ノ中道・志賀島の図」を配した。
(1)この図は、前ページに配した「天頂点と重なる銀河部位の軌道図を平面的に図化した円弧図」である。
(2)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手がもつ【弓】をあらわす図」でもある。
(3)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手が持つ【弓】の字源銀河は【勿】の字源銀河でもある」と示す図でもある。
つまり「海ノ中道」が「ジャコウウシの足」をあらわし、「志賀島」が「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」をあらわす。
このように転回方位にもとづいても、「海ノ中道の端の西から志賀島がある北へと、90度転回する曲線」は【委】と【奴】の字源をあらわす。
また、上図に示したように、「香椎宮」は「極南界」となる。
さらに、上図においては「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に、「志賀島」は「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」に見立てることができる。
前ページでは、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」は【委奴】という国名が成立することを証明した。
上図のごとく、転回方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」でも、【委奴】という国名は成立する。
このような秘密があったゆえ、香椎宮と同緯度となる志賀島の地点に、光武帝から賜った「漢委奴国王」の金印が埋蔵されたことになる。
◆前述したように――【産道を通過する出産児の頭】は4回、回旋(かいせん)する。
【第1回旋と第4回旋】は【時計回りに90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの90どの旋回】となる。
倉頡は【第1回旋と第4回旋】をあらわす【禾】の字を作り、【第2回旋と第3回旋】をあらわす【呉】の字を作った。
倉頡が【禾】と【呉】の字を作って定義した【2種類の方位規定】は【学問(倉頡の文字作成理論)における基本】となった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて説明したように、奴国の隣の「伊都国の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
上図の「現在方位にもとづく、伊都国の地宜」を【倭】または【委】の字源にもとづき「時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背」が「下」となり、「ジャコウウシの足」が「上」となる。
あるいは、【呉】の字源のごとく「逆時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背となる部分」が「上」となり、「ジャコウウシの足となる部分」が「下」となる。
伊都国は倭人国に所在するが――上図の「【呉】の字源にもとづく伊都国の地宜」のほうが「ジャコウウシの足が地面につく」ように観えて合理となる。
いっぽう、「【倭】または【委】の字源にもとづく伊都国の地宜」は「ジャコウウシの足が地面につかずに、上空に浮く」ように観えて不自然である。
この【呉】の字源よりも劣る【倭】と【委】の字源にもとづく「ジャコウウシの姿の、伊都国の弱点」を補って倭国(つまり、伊都国)が栄えて強大な国となるように願って――志賀島に金印が埋められたと考えられる。
だから、『後漢書』倭伝にある「倭国の極南界なり」という文の「倭国」は、『魏志倭人伝』の「伊都国のみの一国」であったと考えるべきことになる。
言いかえると、『後漢書』倭伝の「倭国」は、『魏志倭人伝』に「旧百余国」または「使訳通ずる所三十国の対馬国から狗奴国までの地域」ではなかったにちがいない。
もしも『後漢書』倭伝の「倭国」が「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の範囲」であったとしたならば――西暦57年(建武中元二年)当時、委奴国王は対馬国から狗奴国までの30ヵ国を統治していたことになる。
そうすると、170年頃には、すでに対馬国から狗奴国までの30ヵ国は委奴国王の子孫の男王に統治されていたことになる。
したがって、170年頃から倭国の大乱は勃発(ぼっぱつ)するはずがなかったことになる。
上記したように、「【委】の字源にもとづく伊都国の、ジャコウウシの姿に相似する地宜にあって、ジャコウウシの足が地面につく形」には観えない。
この弱点を補うために、倭国、つまり伊都国の地霊にジャコウウシの強大な力の勢いを増大させるために、志賀島に金印が埋められと考えるべきことになる。
だから、『後漢書』倭伝の「倭国の極南界」という文の「倭国」は「伊都国」に限った表現であったにちがいない。
このように、【委奴国】の【委】には「不合理となる弱点」が存在するため、
卑弥呼は【委奴】から【委】の字を削除(さくじょ)して小国名を【奴】の1字だけであらわす「奴国」と定めたと考えられる。
以上のごとく、『魏志倭人伝』は「対馬国・瀚海・一大国という門」を入って奥へ奥へと進むほど、【倉頡の文字作成理論の全貌】が次第に次第に明らかになる仕組みになっている。
だから、『魏志倭人伝』は、邪馬台国について説明する書物ではなく――最初から、【倉頡の文字作成理論】についてもっぱら説明する文献史料であったのである。
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