G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・13: 卑弥呼の逆襲

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2024年6月 2日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・13

末盧国の記事には前期縄文の芸術の神が登場していた

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国説明は、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」という定説も空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であった。
というのも、上記したように――『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国記事によって、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆今回のブログでは、『魏志倭人伝』に記される対馬国から3番目の小国・末盧(まつろ)国の位置と範囲、その他の秘密を解明し証明する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回では、下図に示す「対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の秘密」を解明し証明した。
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『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。

というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源に則(のっと)って【末盧国以下の日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
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『魏志倭人伝』は、上に示した【転回日本列島地図】のごとく、【倭】の字源の【時計回りに90度転回する方位規定】にもとづいて、
【末盧国から「東南」陸行五百里に伊都(いと)国に到る。伊都国から「東南」奴()国に至るに百里】と説明する。

『古事記』に記される「末羅県(まつらのあがた)」は現在の佐賀県唐津市地方であったと比定される。
『日本書紀』には「伊都県(いとのあがた)」が記され、現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町付近であったと比定される。
『日本書紀』に記される「儺()国」は現在の福岡市にあった国と比定される。
ゆえに、「奴国の旅程基点」は、『魏志倭人伝』の「伊都国から東南、奴国に至るには百里」という記事にもとづいて、わたくしは「奴国の旅程基点は、現在の福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった」と考えた。

末盧国の旅程基点は唐津市、伊都国の旅程基点は糸島市前原町、奴国の旅程基点は香椎宮であったとすると、【現在の方位規定】にもとづくと唐津市から糸島市前原町は「東北」、糸島市前原町から香椎宮は「東北」となって、『魏志倭人伝』の方向記事に合致しない。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』は【末盧国から「東南」陸行五百里に伊都(いと)国、伊都国から「東南」奴()国に至るに百里」と記しているからである。

現在の日本地図における末盧国・伊都国・奴国までの旅程基点の方向だと「東北」であるのに対して、
『魏志倭人伝』は「東南」であったと記す。
現在方位の「東北」に対して、『魏志倭人伝』が記す「東南」は「時計回りに90度、方位が転回することになる」。
だから、『魏志倭人伝』は「末盧国・伊都国・奴国の旅程基点の方向」を、上図に示した【転回日本地図】にもとづき、【倭】の字源に則って説明していたことになる。

ゆえに、『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と指摘した方位規定に対して、
『魏志倭人伝』は「末盧国における方位規定は、【時計回りに90度転回して「北」が「東」となった】。
対馬国と一大国における方位規定は「北」が「北」であるが、【末盧国における方位規定は「北」が「東」となる】。
このため、両者の方位規定は対立して一致しない。
だから、〔現在方位と同類の方位規定と【倭】の字源の転回方位が合致せずに対立して矛盾しあう〕が原因で、『魏志倭人伝』には【一大国から末盧国に至る方向】が記されていなかったのである。

『魏志倭人伝』は「末盧国から東南陸を行くと五百里、伊都国に至る」と記す。
「末盧国の旅程基点」を「現在の佐賀県唐津市にする」と、【伊都国までの距離が五百里より短い】。
ゆえに、【末盧国の旅程基点は、伊都国の旅程基点(福岡県糸島市前原町)から遠くなる、長崎県松浦市であった】と、わたくしは考えた。
それゆえ、【倭】の字源に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくであったことになる。
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◆『説文解字(せつもんかいじ)」は「末盧」の【盧】の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
『説文解字』は卑弥呼が歴史上に始めて登場する170年頃より約50年前の120年頃に成立していた。
『説文解字』は後漢の許慎(きょしん)が著作し、古代の人々が「字書の聖典」と尊重した。

下図は、「現在方位にもとづく末盧国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」である。
下図に示したように、末盧国の東の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海(ありあけかい)にそそぐ塩田川(しおたがわ)の上流を結んで区切られる。
したがって、「末盧国の北部の地宜」は「飯器」、つまり「縄文時代の飯(めし)を炊()く土器の形」に相似する。
また、「末盧国の南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「飯器を炊く竃(かまど)の炎の形」に相似する。
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上図の「現在方位にもとづく末盧国の地宜」に示したように、「東松浦」は「北」に所在するゆえ、「東松浦」という地名は矛盾する。
また、「北松浦」は「東松浦の、西」に在るので、「北松浦」という地名も不合理となる。
また、「西松浦」は「東松浦の、南」にあるので「西松浦」という地名も矛盾する。
さらに、「東彼杵(ひがしそのぎ)」は「西彼杵と西彼杵半島の、北」に位置する。ゆえに、「東彼杵」という地名も不合理となる。

下に、【倭】の字源【時計回りに90度転回する方位規定】にもとづく「末盧国の地宜」を配した。
下図が示すように、「北松浦」は「東松浦と西松浦の、北」にある。
ゆえに、「北松浦」と「東松浦」と「西松浦」という地名は合理となる。
また、「東彼杵」は「西彼杵と西彼杵半島の、東」に在る。ゆえに、「東彼杵」と「西彼杵」と「西彼杵半島」という地名も合理となる。
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上図の「松浦地方」と「彼杵地方」における地名は、
倉頡が作成した【禾】の字源をそのまま受け継いだ【倭】の字源を、現在に伝えている。
だから、前述したように、「末盧国の【倭】の字源に則る転回方位規定は「対馬国は北、一大国は南」と説明した方位規定」と対立して矛盾する。
ゆえに、『魏志倭人伝』には「一大国から末盧国までの中間の方向」が記されていなかったのである。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明・11」にて、詳細に説明したように、「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、
原始や古代の人々は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できず――日々の狩猟や穀物・野菜など食料の採集はじめ、遠くの地を往復する旅や大海の往来にあって位置(緯度)と方向が皆目(かいもく)不明となった。
だから、彼らは道に迷って命を失うことになり、無事に家族が待つ家に帰還できなかった。
このため、原始や古代の人々は、現在のごとく「天の北極」を「北」の基準点としなかった。

下に、原始や古代の人々が「1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定できる方法」である「天頂緯度線のキャッチ」を示す図を配した。
下図に示すように、【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【緯度を測定する人にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字の【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
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下に、【亠】の拡大図を配した。
前ページに配した「転回方位にもとづく末盧国の地宜解説図」における「北松浦」という地名は、下図の「【亠】の字源・字形の解説図における子午線の上端の【北】」をあらわした。
また、「東松浦」は下図における「天頂緯度線の左の端の【東】」を、「西松浦」は下図における「天頂緯度線の右の端の【西】」をあらわした。
下図が示すように、「天頂点」は【南】となった。
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というのも、上図の「天頂点と重なる銀河部位の軌道図」に示したように、「天頂点」は「その軌道において、最も【南】となる点」であるからである。
「天頂点」には「面積が存在しない」という解釈を示して、
松浦地方には「南松浦」という地名は存在しない。
以上からして、「末盧国における方位規定」は「天頂緯度線をキャッチして、原始や古代の人々が緯度を1度の60分の1の1分の精度で測定して生きのびた方法」を伝え、また【倉頡が作った【禾】の字源をそのまま受け継ぐ【倭】の字源をあらわす方位規定】を伝えていた。

◆これから、倉頡が作った【禾()】の字と【倭】の字源・原義について解説する。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字を習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う【倭】の字源解説には【夏の銀河各部の名称】を決めないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
下図に、黄帝時代において、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と長江口(長江の河口)中央の天頂にめぐってきていた銀河部とその銀河部を貫通した緯度線を示した。
下図に示したように、黄帝陵(北緯3535)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部につく【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
また、長江口中央(北緯3130)の天頂には、「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく【目】の字源銀河中央」と「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。

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上図の「黄帝時代の天頂緯度線図」の状況にもとづいて、
倉頡は下図の「【禾】の字源解説図と字形転回解説図」に示すように――「中国全土の天頂緯度線が貫通する、十字の銀河の中央」に「禾・稲」をあらわす図書を重ねた。
()の育成に適する土地は、長江口周辺の中国南部である。
ゆえに、下図のごとく、「禾の穂」を「長江口の天頂を通過した、十字の銀河の子宮がある、南」の方に向くようにした。
そして、「稲の穂」が「鬼の横顔に似る銀河における口(くち)」に垂れるようにして、「時計回りに90度転回して、南が西になる方位規定」をあらわすようにした。
「稲の穂に実る米」を炊くと「人が食べる飯(めし)」となる。
ゆえに、倉頡は「禾()の穂」は「飯を食べる人の横顔の口」に相似する「鬼の横顔における口」の方に向けて垂れるように定めたのである。
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上図の右上にある()の図書では「禾()の穂は地面がある下方に向く」。
この「禾の穂が地面の方に向く形」は「地面に根を張って植わる禾の形」に合致せず不自然である。
ゆえに、「地面に植わる禾の形」になるようにした()の図書を180度転回した()の図書は、その上方に示したように「禾の穂が北から西へと垂れる」。
しかし、この()「北から西へ禾の穂が垂れる図書」は「逆時計回りに90度転回する【呉】の字源」をあらわして矛盾する。
それゆえ、()の図書の左右が反対になるように180度転回する(すなわち、裏返しにする)()の図書は「禾の穂が北から東へと垂れる、地面に植わる禾の形」となる。
だから、()の図書は「北が東となる、時計回りに90度転回する【禾】の字源・原義」をあらわした。

(
)の「禾」の図書は、下図の右側の「地面に植わる禾の形」に合致する。
下図の右側の()と同じ「禾の形」は、【禾】の契文形(甲骨文字の字形)に合致する。
ゆえに、下図の右側の「地面に植わる禾の形」は、【禾】の字源・原義をあらわした。
「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加わる【委()】の字が作られた。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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上図の右側の【禾】の字に示したように――「禾・稲の穂」は「北が東となる、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。
だから、前ページに配した【末盧国における「北」に位置する松浦地域は「東松浦」という名】になって、「【倭】の字源・原義にもとづく、時計回りの90度の転回方位、つまり、北が東に変位する」とあらすことになったのである。

前ページに示したように、【末盧国の範囲】は、「松浦川と塩田川で結ばれる東の境界線以西の、現在の対馬・壱岐を除く長崎県南部と佐賀県西部の一部」であった。
前述したように、『説文解字』は「末盧」の【盧】の字を「飯器なり」と解説する。
そして、前ページに示したように「末盧国北部の地宜」は【盧】「飯器の形」に相似し、「末盧国南部の地宜」は「飯器を炊く竃(かまど)の炎の形」に相似する。

ということは、「末盧」の【末】は「穀物の終わりに、飯を炊いて来年の豊作を願った農作業の末(すえ)の食事会」をあらわしていたと考えられる。
また、【末】は「子どもの出産期の末(後産期)が完了して、飯を炊いて無事にこの世に誕生した子どもを祝福した行事」をあらわしていたと考えられる。

だから――前ページに配した「【倭】の転回方位に則って時計回りに90で転回して、北が東となる末盧国の地宜」は、「竃(かまど)の火」を消して、「大きなピンセットのような道具で飯器の口縁を挟んで北が東になるように90度方向転換して竃から飯器を下ろす儀式」をあらわしていたと推測される。
この儀式は「末盧」の「末」の字義「農作業の末(すえ)・終わり」において、「来年も豊作に恵まれるようにという願望」、あるいは「村に丈夫な子どもがたくさん生まれるようにという願望」をあらわすものであったにちがいない。

◆「末盧国の飯器をあらわす地宜」は、下に示す「縄文前期の渦巻き深鉢の形」に類似する。
縄文前期は、中国の三皇時代に相当する。
この深鉢の高さは25.8㎝、口径は27.1㎝であり、山梨県笛吹市御坂町の花鳥山遺跡から出土した。
この深鉢の中央部分はくびれ、そこから波状口縁(はじょうこうえん)に向かって「朝顔」のごとく大きく外側に反()る器形である。
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上の写真が示すように、この渦巻き深鉢の胴部全面にはほぼ等間隔で渦巻文がほどこされている。
この深鉢の大きさ(高さ)25.8㎝は、出産児の身長に合致する。

だから、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で
(
)山梨県笛吹市御坂町の桂野遺跡から出土した中期縄文時代の深鉢の胴部全面を飾る「渦巻文」と、
(
)中期縄文時代初頭のわが国最古の国宝「縄文のビーナス」の頭にかぶる帽子頂上の「渦巻文」は、「神」をあらわしていたことを詳細に解説して指摘した。

(
)「渦巻文の深鉢」の「中期縄文時代」は「中国の五帝時代」に相当し、()「縄文のビーナス」の「中期縄文時代初頭(今から5000年前)」は「中国の五帝時代初頭の黄帝時代」に相当する。
「縄文のビーナス」の高さ(身長)27㎝、上の写真の「前期縄文の渦巻き深鉢」の高さは25.8㎝である。
「縄文のビーナス」は「この世に誕生した出産児」を表現していることを、前回のブログで詳細に証明した。
ゆえに、「縄文のビーナス」と高さがわずか「1.2㎝」しか違わない「前期縄文の渦巻き深鉢」は、
上記したように、出産児の身長に合致する。

下に、原始のときから古代の人々がおこなっていた、約4~6秒間の寸時に1度の60分の1の1分の精度で天頂緯度線をキャッチした正しい姿勢を示した。
人は天頂に顔を向けて、つまり後頭部を後ろの首のほうに傾けて、
おなかを前へ丸くつき出して、「必ず天頂緯度線をキャッチする」という欲を有さないで、【無欲】なって天頂緯度を測量した。
この「天頂緯度線を1分の精度で測定するときの姿勢」と、「【無欲】になれという骨(こつ)」は――「出産児が産道を【無欲】で通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの姿勢」に酷似(こくじ)すると見立てられた。
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◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」で詳細に説明したようにーー
出産児の頭が骨盤入口を通りぬけ、産道を通過して、膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでにする「4回の頭の旋回(せんかい)」を、現在の産婦人科では「回旋(かいせん)」と呼ぶ。
【第1回旋と第4回旋】は【時計回りの90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの回旋】となる。
倉頡は「時計回りに90度旋回する、第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
それゆえ、【禾】の字は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
前述したように、【委】と【倭】の字は倉頡が作った【禾】の字の「時計回わりに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
また、倉頡は「逆時計回りに90度旋回する、第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉】の字を作った。
【呉】は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

だから、上記した「前期縄文の深鉢」と「中期縄文の深鉢」の胴部全面を飾る「渦巻文」と、「中期縄文時代初頭に作られた、縄文のビーナス」がかぶる帽子の頂上にほどこされる「渦巻文」は「産道を通過する出産児の4回の回旋」を表現していたことになる。

この「渦巻文」にはーー前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」では説明が複雑となるゆえ、「産道を通過する出産児の神秘的で不思議な頭蓋骨(ずがいこつ)の仕組みも一緒に秘められる」という説明を省略した。

「産道を通過する出産児の神秘的で不思議な頭蓋骨の仕組み」を、『魏志倭人伝』では女王国名に用いて【邪馬壱(やまい)】という語であらわされた。
女王国名の【邪馬壱】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ね合わさることができる仕組み】をあらわす語であった。

出産第1期の開口期(かいこうき)の後半期において――出産児の頭が骨盤入口を通りぬけると、膣(ちつ)の入口から出産児の頭が見えるようになる。
そして、【邪馬】の語源は【産道を通過する出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門】であり、【壱】の字源は【子宮、そして骨盤入口と、出産児が通過する産道】である。ゆえに、この【邪馬】に【壱】が加わって【邪馬壱】という語になった。
医学の未発達の前期縄文時代や黄帝時代(中期経文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときの4回の回旋をして頭が誕生するまでにおいて事故が多発した】。
「邪馬壱国」の【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】の、【今日における医学用語の「小斜径(しょうしゃけい)」によって最小径となる頭蓋骨の仕組み】をあらわした。

「小斜径」という語は「骨盤入口を通りぬける時の出産児の斜(なな)めになって小さくなる頭の直径」を意味する。
ゆえに、【小斜径】は「草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情に酷似(こくじ)する、小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨が邪(なな)めとなって骨盤入口を通りぬける時の小さい直径」を意味した。
したがって、【邪馬】と現在の医学用語の【小斜径】は同義語であった。
下図は、【邪馬】の解説図である。
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上図は【邪馬】という語をあらわす「小斜径となる、出産児の5枚に分かれる頭蓋骨が重ねあわせることができる、骨どうしの間の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわしている。
上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」と呼ばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
このような出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜によって、出産児の5枚の骨は小斜径となるように重ね合わせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【「小斜径」となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。

4年前のある日の正午、食事をしながらテレビを見ていたら――突然、鳥取砂丘の観光用に飼われるフタコブラクダが草をモグモグと食べる顔が大写しとなり、その面相の鼻・上アゴ・口・下アゴの区切りの間と間が重なって見えた。
そのとき、わたくしは数年前から気になっていた「産道を通過する出産児の5枚に分かれる頭蓋骨が重なりあう仕組み」をとっさに思い出した。
そして、その「頭蓋骨の重なりあうことができる、神秘的で不思議な仕組み」は『魏志倭人伝』に記される女王国名「邪馬壱国」の【邪馬壱】があらわすと直感した。

草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの顔は、出産児の顔のごとく無邪気となり、鼻・上アゴ・口・下アゴの間と間が重ね合うがごときに観えた。
ゆえに、中国の五帝時代初頭の黄帝時代では――「草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の様子」は「5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて骨盤入口を小斜径で通りぬけて、産道を4回も回旋しながら通過して出産する赤ちゃんの頭の小泉門・矢状縫合・大泉門の形」に酷似(こくじ)すると見立てられたことになる。
ゆえに、2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代では、下図の【草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの表情】を【邪馬】と呼んでいたことになる。
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◆前述したように、「前期縄文の渦巻き深鉢」の胴部全面を飾る「渦巻文」は「神」をあらわした。
だから、前期縄文の深鉢の器面一面を飾る「渦巻文」は、
(
)【産道を通過する出産児の4回の回旋】と、
(
)【邪馬】すなわち【小泉門・矢状縫合・大泉門の5枚の結合組織性の膜】を一緒に表現して、
「神」を表現するものであったことになる。

この縄文時代の「神」について、720128日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻并(あわ)せて序の冒頭文は、下記のごとく説明する。
「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す。夫(それ)混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず、名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」

この『古事記』上巻并せて序の冒頭文を、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」では下記のごとく現代語に訳した。
「元明天皇陛下に、臣下の安万侶が申し上げます。
およそ倭地(日本列島)における歴史が始まる縄文草創期にあっては、倭地の天頂にめぐってくる銀河(夏の銀河)の形状は混沌(こんとん)として、いったい何物かに相似しているのか見当がつかず、その銀河の気と象(かたち)も未だはっきりせず、その銀河には名も無く、天頂緯度を測量する技(わざ)も存在しませんでした。
ですから、現在(720)、その銀河の形状について知っている人は一人もいません。
しかし、【乾坤】つまり【天と地】に分かれる形に観える銀河の形状が始めて倭地の天頂にめぐってきて、【産道を通過する出産児のごとく無欲になって、天頂緯度測定をすれば――神が出産児に4回の渦巻き状に旋回するようにして命を授(さず)けてくださる行為】を【渦巻文】で表現する土器・土偶が造られるようになりました。
中期縄文時代末、中国から大海を渡って名門益(えき)氏の王子と若者たちは倭地の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国の学問(倉頡の文字作成理論)などを教え広めようとしました。
【難解な倉頡の文字作成理論】は前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの参(みっ)つの時代に土器・土偶を造った2000年間にて培(つちか)った知識によって――後期縄文時代初頭、わが倭地の各地で習得されることになりました。」

◆『古事記』上巻の「創世の神々」の条は、造化(芸術)の参神の名について、
(
)「前期縄文の神の名の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と文字であらわされるようになり、
(
)「中期縄文の神の名は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と文字で表記されようになり、
(
)「後期縄文初頭の神の名は神産巣日神(かんむすひのかみ)」と文字で記されることになった」
と説明する。
益氏が定住した中期縄文時代末より以前は、わが日本列島には文字が存在しなかった。
しかし、後期縄文時代初頭において、日本列島各地で益氏が教え広めた【倉頡の文字作成理論】を習得した。ゆえに、造化の参神の名は文字であらわされることになった。

下に、造化の参神をあらわす図を配した。
下図における「参神をあらわす緯度線」は――わが国の最古の国宝「縄文のビーナス」が出土した長野県茅野市の尖石(とがりいし)台地の緯度(北緯36)の天頂緯度線であるが
前述した「前期縄文の渦巻き深鉢」が出土した山梨県笛吹市御坂町の花鳥山遺跡は北緯3537分くらいである。ゆえに、わずか23分しか違わない。
これゆえ、下図における()「前期縄文の天之御中主神」をあらわす天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」にわずかに近寄り、「三つ輪の銀河の最も北の円形の銀河の中心部に近寄った箇所」を貫通していた。
以下、()と同様に、()()の神をあらわす天頂緯度線は少しだけ南を貫通していたことになる。
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「【造化の参神】をあらわす天頂緯度線」が貫通する「【三つ輪の銀河】が日本列島の天頂にめぐってきた光景」は満天に無数の星がきらめく、息をのむように神秘的で壮麗であった。
この「神秘的で壮麗な三つ輪の銀河」には「無数の星が大・中・小の渦巻き」となって重なり、あるいは「無数の星で構成される、一つの大きな円形において大・中・小の様々な円形」となって重なり、そして「無数の星は三つの大きな円形」を構成し、その三つの大きな円形は重なって観える。
ゆえに、「大きな円形が互いの輪に重ね合わさる、三つ輪の銀河」は前述した「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門がある頭蓋骨の5枚の骨が【邪馬(小斜径)】となって重ね合わさることができる仕組み」に酷似(こくじ)すると――縄文の人々は直感した。
このため、縄文人たちは「出産児の4回の回旋」と、「重ね合わさって小さくなる頭蓋骨の仕組みの【邪馬】」は「神がなせる業(わざ)である」と感知した。
ゆえに、「渦巻となって無数の星がきらめく三つ輪の銀河を貫通する天頂緯度線は、人々が【命】がキャッチできる線」となるゆえ、「渦巻文」は「神」をあらわす図書となった。
だから、「前期縄文の渦巻き深鉢」・「中期縄文の渦巻き深鉢」の胴全面を装飾した「渦巻文」と、「縄文のビーナス」の帽子頂上の「渦巻文」は「神」を表現していたことになる。

上図の「造化の参神を示す天頂緯度線の図」における
(
)前期縄文時代の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河のうちの北の円形の銀河」は「天」のイメージとなった。
そして、その天頂緯度線は「天」のごとくに観える「北の円形の銀河のほぼ中央」を貫通していた。
よって、その神は「北の円形の御中(みなか)に存在する主(ぬし)」ということになった。

ゆえに、前期縄文時代の神の名は「天」に「御中主」が加えられることになった。

(2)中期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部」を貫通する。
「十字の銀河の頭部」は「十字の銀河で最も高い位置」を示す。ゆえに、中期縄文時代の神の名の先頭字は「高」となった。
中期縄文時代初頭の天頂緯度線が貫通する「中央の輪の銀河」は「北の輪の銀河」と重なって「円形」となる。
ゆえに、「中央の円形の銀河」は「鷹などの鳥が高い樹木に作る卵を産む巣」と見立てられ、また「日論(太陽)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、中期縄文時代の神の名は「高」に「御産巣日」の4字が加えられた。

(
)後期縄文時代初頭の天頂緯度線は「十字の銀河の乳房」を貫通し、また「南の銀河の中央」を貫通した。
「南の円形の銀河」は「中央の銀河南部と重なって円形」となる。
ゆえに、「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく先頭字が「神」となった。
また「南の円形の銀河」は「中央の円形の銀河」と同じく「鳥が卵を産む巣」と「日輪(太陽)の形」に相似すると見立てられて、その神の名は「神」に「産巣日」の3字が加えられることになった。
だから、後期縄文時代初頭の造化・芸術の神の名は「神産巣日神」と名づけられた。

「三つ輪の銀河」において、「北の円形の銀河」は最も高いゆえ、「天」のイメージとなった。
「中央の輪の銀河」は「鷹などが樹木の高いところに、卵を産む巣」に相似すると見立てられた。
また、「南の輪の銀河」は「地面に近い木陰や草むらに隠して作る鳥の巣、あるいは鶴のように地面に生む鳥の巣、あるいは水面に浮かぶ鳰(にお)の巣」に相似すると見立てられた。
したがって、「南の輪の銀河」は「地」をあらわした。
このように、縄文人たちは「三つ輪の銀河」が「乾坤」つまり「天と地」をあらわすと感じた。

以上のごとく、益氏が日本列島の男鹿半島・八郎潟地域に定住した紀元前2050年頃より以前――
すでに(1900年前頃の)前期縄文時代において、
日本列島の各地では「渦が巻くように観える、壮麗な三つ輪の銀河」を
(
)「産道を通過する赤ん坊の頭が4回渦巻状に回旋して誕生する、泣きたくなるほど感動的な神秘的な姿」と、
(
)「赤ん坊の頭蓋骨の不思議で巧妙な仕組み、小泉門・矢状縫合・大泉門の重ね合わせて小さくなる【邪馬】の結合組織性の膜」に酷似すると見立てて、
この()()を合体して、「神」を「渦巻文」で表現した。
また、「三つ輪の銀河を貫通する天頂緯度線」を「参神造化の神」と認識していた。

このため、今から約4000年前の後期縄文時代初頭において、「産道を通過する4回の回旋」を【禾】と【呉】の字源とした【難解な倉頡の文字作成理論】は日本列島の各地の人々に理解されて習得されることになったのである。

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