G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年7月

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2024年7月

2024年7月30日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・22

「出産」をあらわす斯馬国と巳百支国の解説

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
この〔漢字習得の絶対的定説〕は考古学の見解にもとづく。
漢字が書かれている最も古い史料となる鉄剣や銅鏡が出土した年代は5世紀あるいは6世紀である。
ゆえに、考古学では埋蔵史料から、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。

しかし、この〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていた。
というのも、『魏志倭人伝』には下記のごとく記事が存在するからである。
「魏都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国の文書に用いられる文字(楷書)と、倭女王はじめ倭人国の王たちが文書に用いる文字(夏音文字)は字義が差錯(ささく・相違)していた。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書も、倭人国の夏音文字も共に【夏の銀河各部の形状】を字源・原義とするものであった。ゆえに、倭人国の伊都(いと)国の港では、外交に用いる文書や賜遺(しい)の物の品書きに用いる文字が差錯しないように【夏の銀河各部の形状】を観察して捜露(そうろ・一字一字ずつ点検し、確認して)、楷書と夏音文字の両者の間に差錯(相違)が生じないように正確に翻訳し変換していた。」

『魏志倭人伝』は2世紀末~3世紀半(なか)ばまでの倭人国の様子を記述する。
だから、5世紀より以前の、2世紀末~3世紀半ばにはすでに夏音文字が存在していた。
ゆえに、学界が断定する〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていたことになる。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)の9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までが【わが国の漢字音】と題して、下記のごとく指摘する。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」

下図の「漢字生長史」に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、
この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
上記した白川静著『字統』が「わが国の国語といて残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する「上古音」よりも古い、わが国に残った最古の漢字音は――
下図に示すように、中国の夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字であった。
わが国には紀元前21世紀(紀元前2050年頃)に、中国から夏音文字が伝来した。
したがって、紀元前11世紀の周代初頭の中国に現存する最古の上古音の漢字音よりも、紀元前21世紀の夏代黎明期にわが国に伝来して習得された夏音文字の字音は約1000年も古い。
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◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には「後稍(のちやや夏音を習う)という記事がある。
この記事は――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「壬申の乱(672)の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した――と説明するものであった。
この遣唐使の「後稍夏音を習う」という報告から10年後の712(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)は――きわめて難解な文章で『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の伝来史や夏音文字に保存された【倉頡の文字作成理論】について説明している。

『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いて夏音文字が多数残っている。
また、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国の記事」は「倭人国には夏音文字が存在した」と説明していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭女王「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音文字の字音であった。
また、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相(がいしょう・外務大臣)の「難升米」を「ナシメ」、さらに帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)に倭人国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将の「載斯烏越」を「ソシアオ」、13歳で王となり後年に倭女王となった「壱与」を「イヨ」と読むと夏音文字の字音となる。
また、わたくしが示した「対馬国」から「邪馬壱国」までの8ヵ国の読み(字音)には「夏音」と呼べないものもあるかもしれないが、
でもこの8ヵ国の読みは中国の魏以前の中古音や魏の字音ではないことは確かであるゆえ、
きっと『魏志倭人伝』における33ヵ国の小国名には夏音で読むものが多数存在したにちがいない。
また、『魏志倭人伝』における倭人国の官職名も夏音で読むものが存在したにちがいない。

前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が解明したように、
夏音文字の【卑】は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」、【弥】は「カンムリカイツブリ」、【呼】は「鳰(にお・カイツブリ)」を意味した。
また、夏音文字では、【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」、【投】は「松の木」を意味した。
ゆえに、『古事記』上巻の随所に残っている多数の夏音文字が表示しているように、
夏音文字が伝来した中期縄文時代末~卑弥呼時代まで、「様々な物の名」は夏音文字で記されていたことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、男鹿半島・八郎潟が所在する東北地方全域にも棲()む、冷酷で恐ろしい神(つまり、地霊)】と認識したにちがいない。
〔注 「日本列島の東北地方にも倉頡の死霊が棲んでいる」と縄文人たちが考えた根拠・理由は、
このブログの後半にて解説して証明する。〕

上記した【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字は消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
上記したように、【書かれた文字は消滅して後世に残らないことがなった】が、
しかし、【夏音文字は様々な物の名を記し用いられて残った】ゆえ
『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に楷書で記されて多数残った。

以上のごとく、考古学の【文字を書いた史料が発見されないものは、文字とは言えない】と単純に断定した意見は偏見(へんけん)であり根本的に誤っていたことになる。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(21)までに、
『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの8ヵ国の位置と範囲を解明して証明した。
この結果、『魏志倭人伝』における全方位記事は正確であったことを証明し、
(
)邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』の記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」という指摘は空論であったことを証明した。

(
)また、邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるので、中国の史料研究の観点から思考・立論しなければならない」という指摘も空論であったことを証明した。
「『魏志倭人伝』の史料」は「卑弥呼が魏との対等外交を求めて、魏の最高学問である【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも保存されて残っている状況について夏音文字を用いて説明した文書を、伊都国の港で魏が用いる楷書に翻訳して作った文書」であった。
だから、「『魏志倭人伝』に用いられた史料は倭人国の伊都国の港で作られた文書」あった。
ゆえに、結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』は「わが国にて保存されていた【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について説明する史料」であったことになる。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の19回と20回にて、
(
)「倭女王・卑弥呼が倭人国の首都とした王国の名」は『魏志倭人伝』が記したとおり「邪馬壹()国」であり、
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)の晩年から今日までの約300年間、多数の学者たちが信じた「邪馬臺()国」ではないことを詳細に解説して証明した。
したがって、「邪馬臺()国説」は「この世に存在しなかった邪馬台国を存在した」空想した、空理空論であったことになる。

◆『魏志倭人伝』における倭人国の最初に登場する小国は対馬(つしま)国、8番目が倭人国の首都となる邪馬壱(やまい)国、9番目が斯馬(しま)国、10番目が巳百支(じはき)国、11番目が伊邪(いや)国である。

このブログでは、対馬国から9番目の「斯馬国」と、10番目の「巳百支国」の位置と範囲を解説し証明する。

下図に、斯馬国・巳百支国・伊邪国の三小国の地宜(範囲)をあらわした。
「斯馬国」は現在方位にもとづくと「邪馬壱国東部の鳥取県西部(旧国の伯耆)に隣接する、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」である。
「斯馬国」を旧国でいうと「因幡(いなば)と但馬(たじま)」である。
「巳百支国」は「現在の京都府の北部」である。
「巳百支国」は旧国の「丹後(たんご)」である。
「伊邪国」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部」である。旧国の「丹波(たんば)」である。
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下図に、【倭】の字源の「転回方位」にもとづく「斯馬国の地宜(範囲)」を示した。
旧国の因幡であった鳥取市にわが国最大の砂丘「鳥取砂丘」がある。
「鳥取砂丘」は「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)」が連想される。
ゆえに、「鳥取砂丘がある因幡」が「斯馬国」の「【馬】・フタコブラクダ」をあらわした。

2世紀前半に成立していた「字典の聖典」とたたえられた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【斯()】の字について「柝()くなり」と解説する。
つまり、【斯】の字は「母体から子どもが裂けて勢いよく出産する」を意味した。
陣痛(じんつう)が長時間つづく女性の苦しむ様子を伝えるテレビを見ていたとき、その母親は大声で「大砲の弾丸が発射されるように、わが子よ早く生まれて頂戴(ちょうだい)よ」とさけんでいた。
下図の「斯馬国の地宜」は、その時に母親が願った「発射される大砲の弾丸のように、斯馬国南部の先端が勢いよく出産する胎児の頭の形」となる。
ゆえに、「斯馬国(因幡・但馬)の地宜」は「順調に胎児が母体の子宮から柝()けて膣口(ちくこう)から【邪馬】の頭蓋骨を有する出産児が無事に誕生する、安産の様子」をあらわしている。
だから、上図の「現在の鳥取県東部と兵庫県北部(因幡と但馬)」の小国名を、卑弥呼は「斯馬国」と定めたことになる。
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上記したように、「斯馬国・因幡」には「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠が連想される、日本一広い鳥取砂丘」が所在する。
『魏志倭人伝』において、小国名で【馬】の字がつくのは「斯馬国」のほかに、「対馬国」、「投馬国」、「邪馬壱国」、「邪馬国」の計5ヵ国である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、今回までをもって、『魏志倭人伝』に記される「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の5ヵ国のすべての【馬】の字義は「フタコブラクダ」であることを証明した。
だから、【馬】の字源は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」であったことになる。

◆下図に、「巳百支国の地宜(範囲)」を示した。
「旧国の丹後(現在の京都府北部)の地宜」は「頭の大きな出産児の姿」に相似する。
つまり「丹後半島の地宜」は「出産児の頭」、「丹後半島の付け根から大浦(おおうら)半島までの地宜」は「出産児の首から足までの形」に相似する。
下図の「旧国の丹後の地宜」は古代字形の【巳】の字形に相似する。
ゆえに、「丹後の地宜」を【巳】をあらわした。
下図の「天橋立(あまのはしだて)と阿蘇海(あそかい)を周囲する湖岸」が【百】をあらわしたと考えられる。
そして、「丹後半島東部の大浦半島の地宜」が【支】をあらわした。
つまり、「大浦半島は大きな丹後半島から支(えだわか)れてつながる小さな半島」であるゆえ、「大浦半島は【支】をあらわした。
したがって、卑弥呼は小国名を「巳百支国」と定めたことになる。
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下図に示すように、「丹後半島の付け根(首の部分)」にある「天橋立と阿蘇海」は「母体の子宮やへその緒()の形」となる。
上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
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安芸(あき)の宮島・陸奥(むつ)の松島とならぶ日本三景の一つに数えられる「天橋立」は、
宮津湾北西岸から与謝(よさ)ノ海(宮津湾)と西方の阿蘇海を真一文字にたち切り、南西につき出した全長3.6kmの砂嘴(さし)である。
天橋立南部の文珠(もんじゅ)寄りは東西二か所で切れている。
この二か所で与謝ノ海(宮津湾)と阿蘇海がつながり、回旋橋(かいせんきょう)と大天橋(だいてんはし)がかけられて、歩いて渡れるようになっている。
上図に示したように、「与謝ノ海南部の宮津湾の地宜」は「子宮に宿る胎児の頭の形」に相似し、
「宮津港より北部の与謝ノ海の地宜」は「胎児の首から足までの形」に相似する。
そして、「天橋立南部の阿蘇海から宮津湾までの狭い水道」は「母体の臍(へそ)と胎児の臍の緒()の形」に相似する。

これゆえ、「阿蘇海」は「女性の生殖器官(子宮、産道など)」に見立てられた。
女性の生殖器官の多くは、骨盤内にある。
よって、「阿蘇海」が「女性の生殖器官」に見立てられ、「天橋立と阿蘇海の周辺地域」が「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
下図は、「女性の骨盤図」である。
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上図の「女性の骨盤」は「子宮を包囲して胎児の命をまもる」ということで――つまり「天敵のオオカミに襲われると、中心に子を隠し子の命をまもるために、円陣を組むジャコウウシの群れ」に見立てられた。
ジャコウウシは【百頭以上】で群れていたという。
つまり、「ジャコウウシの【百頭以上】の群れ」が【百】をあらわした。
ゆえに、上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
前述したように、「丹後半島から支(えだわか)れる形の大浦半島」が【支】をあらわした。
以上からして「現在の京都府北部の丹後」が「巳百支国」であったことになる。

◆前ページにて説明したように、【倉頡が死刑と定めた3つ掟(おきて)】における()は、
「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員をも死刑にする」であった。。
この()の掟のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう小国名「【巳百支】をあらわす銀河の解説」を容易に理解していただくためには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の右下に、わたくしが「胎児の姿に似る銀河」、「巨龍の顔の銀河」、「銀河の中心」と名づけた――銀河系の中心方向がある。
下に、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心の図」を配した。
0000213

上図の「胎児の姿に似る銀河」は、前ページにて【巳】の古代字形に相似すると指摘した「丹後半島から大浦半島までの、胎児の姿を形成する地宜」に類似する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河」は【巳】をあらわした。

前ページの「夏の銀河各部の名称図」における左上の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」を「女性の横顔」に見立てると、
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心周辺」は「女性の生殖器官を周囲する骨盤」に相当する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心方向」が「百頭以上の群れで円陣を組むジャコウウシ」に見立てられるゆえ、【百】をあらわすことになる。

また、下図に示すように「第5週ころの胎児の姿」は「胎児の姿に似る銀河の形」に相似する。
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さらに、下図に示すように「第5週頃の胎児の姿(側身形)」は「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てられて、
「ジャコウウシ」は「骨盤」に見立てられた。
というのも、「円陣の中心に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられた。
ゆえに、「【百頭以上】のジャコウウシの群れが作る円陣」は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
ゆえに、「胎児の姿に相似するジャコウウシ」は【百】をあらわすことになった。
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下図に示すように、「巳百支」のうちの【支】をあらわす「大浦半島」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、「巨龍の顔の銀河」が【支】をあらわした。
以上のごとく、「銀河系の中心方向の銀河」は「【巳百支】の銀河」であったことになる。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」はこれまで、「対馬国から巳百支国までの10ヵ国の位置や範囲」を詳細に具体的に解説し、矛盾点が一点も無く、
「これら10ヵ国の名称」は「すべて【倉頡の文字作成理論】について説明していること」を証明した。

そして、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の名は「邪馬壹()国」であって、「邪馬臺()国」ではないことを詳細に具体的に明確に証明した。
つまり、邪馬台国説においては【邪馬】は「大和(やまと)」の「やま」や、「山門(やまと)」などの地名の「山」であると主張する。
しかし、このブログが詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の「対馬国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・邪馬国」の5ヵ国名共通する【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
したがって、下図に示す「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって重なりあう、その表情」は【邪馬】と名づけられた。
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そして、下図に示す「草を食べるフタコブラクダの【邪馬】の表情にそっくりの、産道を通過する出産児の頭蓋骨(後頭骨・頭頂骨・前頭骨)の5枚の骨が重なりあって小さくすることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性の膜(まく)」もまた、【邪馬】と名づけられた。
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「産道」は【壹()】の字源であった。
ゆえに、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊(出産児)」は「【壹()】の産道を通過して誕生する」ので――卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名を【邪馬壹()】と定めたことになる。

白川静著『字統』は【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形」であると解説する。
「花の萼拊」とは「花の臺(台・うてな)」のことである。
白川静著『字統』が解説する【不】の字源「花の台(萼拊)」は「花の生殖器官における花弁を支(ささ)える役割」を有する。
いっぽう、「女性生殖器官における産道」は「出産児が通過して誕生する通路である」ゆえ、両者の役割は同じではない

上記したように、【臺()】の字源は「花の台」であり、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊」は【臺()】の字源「花の台(うてな)」を通過して誕生しない。
以上のように、【邪馬】と【臺()】が結ばれる【邪馬臺()国】という王国名は「人間の赤ん坊は花の台(うてな)を通過して誕生する」ということになるので――きわめて非理・不条理きわまりないナンセンスな意見であったことになる。.

下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が倭人国の首都が所在した王国名は「邪馬壹()国」であったと記し、「邪馬臺()国」であったと記していない。
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だから、学者たちがもっとも正しいと信頼した「邪馬臺()国説」は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、完全なる空理空論であったことになる。

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漢字の起源と発明を解明す・22

「出産」をあらわす斯馬国と巳百支国の解説

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
この〔漢字習得の絶対的定説〕は考古学の見解にもとづく。
漢字が書かれている最も古い史料となる鉄剣や銅鏡が出土した年代は5世紀あるいは6世紀である。
ゆえに、考古学では埋蔵史料から、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。

しかし、この〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていた。
というのも、『魏志倭人伝』には下記のごとく記事が存在するからである。
「魏都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国の文書に用いられる文字(楷書)と、倭女王はじめ倭人国の王たちが文書に用いる文字(夏音文字)は字義が差錯(ささく・相違)していた。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書も、倭人国の夏音文字も共に【夏の銀河各部の形状】を字源・原義とするものであった。ゆえに、倭人国の伊都(いと)国の港では、外交に用いる文書や賜遺(しい)の物の品書きに用いる文字が差錯しないように【夏の銀河各部の形状】を観察して捜露(そうろ・一字一字ずつ点検し、確認して)、楷書と夏音文字の両者の間に差錯(相違)が生じないように正確に翻訳し変換していた。」

『魏志倭人伝』は2世紀末~3世紀半(なか)ばまでの倭人国の様子を記述する。
だから、5世紀より以前の、2世紀末~3世紀半ばにはすでに夏音文字が存在していた。
ゆえに、学界が断定する〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていたことになる。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)の9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までが【わが国の漢字音】と題して、下記のごとく指摘する。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」

下図の「漢字生長史」に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、
この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
上記した白川静著『字統』が「わが国の国語といて残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する「上古音」よりも古い、わが国に残った最古の漢字音は――
下図に示すように、中国の夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字であった。
わが国には紀元前21世紀(紀元前2050年頃)に、中国から夏音文字が伝来した。
したがって、紀元前11世紀の周代初頭の中国に現存する最古の上古音の漢字音よりも、紀元前21世紀の夏代黎明期にわが国に伝来して習得された夏音文字の字音は約1000年も古い。
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◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には「後稍(のちやや夏音を習う)という記事がある。
この記事は――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「壬申の乱(672)の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した――と説明するものであった。
この遣唐使の「後稍夏音を習う」という報告から10年後の712(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)は――きわめて難解な文章で『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の伝来史や夏音文字に保存された【倉頡の文字作成理論】について説明している。

『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いて夏音文字が多数残っている。
また、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国の記事」は「倭人国には夏音文字が存在した」と説明していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭女王「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音文字の字音であった。
また、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相(がいしょう・外務大臣)の「難升米」を「ナシメ」、さらに帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)に倭人国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将の「載斯烏越」を「ソシアオ」、13歳で王となり後年に倭女王となった「壱与」を「イヨ」と読むと夏音文字の字音となる。
また、わたくしが示した「対馬国」から「邪馬壱国」までの8ヵ国の読み(字音)には「夏音」と呼べないものもあるかもしれないが、
でもこの8ヵ国の読みは中国の魏以前の中古音や魏の字音ではないことは確かであるゆえ、
きっと『魏志倭人伝』における33ヵ国の小国名には夏音で読むものが多数存在したにちがいない。
また、『魏志倭人伝』における倭人国の官職名も夏音で読むものが存在したにちがいない。

前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が解明したように、
夏音文字の【卑】は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」、【弥】は「カンムリカイツブリ」、【呼】は「鳰(にお・カイツブリ)」を意味した。
また、夏音文字では、【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」、【投】は「松の木」を意味した。
ゆえに、『古事記』上巻の随所に残っている多数の夏音文字が表示しているように、
夏音文字が伝来した中期縄文時代末~卑弥呼時代まで、「様々な物の名」は夏音文字で記されていたことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、男鹿半島・八郎潟が所在する東北地方全域にも棲()む、冷酷で恐ろしい神(つまり、地霊)】と認識したにちがいない。
〔注 「日本列島の東北地方にも倉頡の死霊が棲んでいる」と縄文人たちが考えた根拠・理由は、
このブログの後半にて解説して証明する。〕

上記した【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字は消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
上記したように、【書かれた文字は消滅して後世に残らないことがなった】が、
しかし、【夏音文字は様々な物の名を記し用いられて残った】ゆえ
『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に楷書で記されて多数残った。

以上のごとく、考古学の【文字を書いた史料が発見されないものは、文字とは言えない】と単純に断定した意見は偏見(へんけん)であり根本的に誤っていたことになる。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(21)までに、
『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの8ヵ国の位置と範囲を解明して証明した。
この結果、『魏志倭人伝』における全方位記事は正確であったことを証明し、
(
)邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』の記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」という指摘は空論であったことを証明した。

(
)また、邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるので、中国の史料研究の観点から思考・立論しなければならない」という指摘も空論であったことを証明した。
「『魏志倭人伝』の史料」は「卑弥呼が魏との対等外交を求めて、魏の最高学問である【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも保存されて残っている状況について夏音文字を用いて説明した文書を、伊都国の港で魏が用いる楷書に翻訳して作った文書」であった。
だから、「『魏志倭人伝』に用いられた史料は倭人国の伊都国の港で作られた文書」あった。
ゆえに、結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』は「わが国にて保存されていた【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について説明する史料」であったことになる。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の19回と20回にて、
(
)「倭女王・卑弥呼が倭人国の首都とした王国の名」は『魏志倭人伝』が記したとおり「邪馬壹()国」であり、
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)の晩年から今日までの約300年間、多数の学者たちが信じた「邪馬臺()国」ではないことを詳細に解説して証明した。
したがって、「邪馬臺()国説」は「この世に存在しなかった邪馬台国を存在した」空想した、空理空論であったことになる。

◆『魏志倭人伝』における倭人国の最初に登場する小国は対馬(つしま)国、8番目が倭人国の首都となる邪馬壱(やまい)国、9番目が斯馬(しま)国、10番目が巳百支(じはき)国、11番目が伊邪(いや)国である。

このブログでは、対馬国から9番目の「斯馬国」と、10番目の「巳百支国」の位置と範囲を解説し証明する。

下図に、斯馬国・巳百支国・伊邪国の三小国の地宜(範囲)をあらわした。
「斯馬国」は現在方位にもとづくと「邪馬壱国東部の鳥取県西部(旧国の伯耆)に隣接する、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」である。
「斯馬国」を旧国でいうと「因幡(いなば)と但馬(たじま)」である。
「巳百支国」は「現在の京都府の北部」である。
「巳百支国」は旧国の「丹後(たんご)」である。
「伊邪国」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部」である。旧国の「丹波(たんば)」である。
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下図に、【倭】の字源の「転回方位」にもとづく「斯馬国の地宜(範囲)」を示した。
旧国の因幡であった鳥取市にわが国最大の砂丘「鳥取砂丘」がある。
「鳥取砂丘」は「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)」が連想される。
ゆえに、「鳥取砂丘がある因幡」が「斯馬国」の「【馬】・フタコブラクダ」をあらわした。

2世紀前半に成立していた「字典の聖典」とたたえられた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【斯()】の字について「柝()くなり」と解説する。
つまり、【斯】の字は「母体から子どもが裂けて勢いよく出産する」を意味した。
陣痛(じんつう)が長時間つづく女性の苦しむ様子を伝えるテレビを見ていたとき、その母親は大声で「大砲の弾丸が発射されるように、わが子よ早く生まれて頂戴(ちょうだい)よ」とさけんでいた。
下図の「斯馬国の地宜」は、その時に母親が願った「発射される大砲の弾丸のように、斯馬国南部の先端が勢いよく出産する胎児の頭の形」となる。
ゆえに、「斯馬国(因幡・但馬)の地宜」は「順調に胎児が母体の子宮から柝()けて膣口(ちくこう)から【邪馬】の頭蓋骨を有する出産児が無事に誕生する、安産の様子」をあらわしている。
だから、上図の「現在の鳥取県東部と兵庫県北部(因幡と但馬)」の小国名を、卑弥呼は「斯馬国」と定めたことになる。
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上記したように、「斯馬国・因幡」には「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠が連想される、日本一広い鳥取砂丘」が所在する。
『魏志倭人伝』において、小国名で【馬】の字がつくのは「斯馬国」のほかに、「対馬国」、「投馬国」、「邪馬壱国」、「邪馬国」の計5ヵ国である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、今回までをもって、『魏志倭人伝』に記される「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の5ヵ国のすべての【馬】の字義は「フタコブラクダ」であることを証明した。
だから、【馬】の字源は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」であったことになる。

◆下図に、「巳百支国の地宜(範囲)」を示した。
「旧国の丹後(現在の京都府北部)の地宜」は「頭の大きな出産児の姿」に相似する。
つまり「丹後半島の地宜」は「出産児の頭」、「丹後半島の付け根から大浦(おおうら)半島までの地宜」は「出産児の首から足までの形」に相似する。
下図の「旧国の丹後の地宜」は古代字形の【巳】の字形に相似する。
ゆえに、「丹後の地宜」を【巳】をあらわした。
下図の「天橋立(あまのはしだて)と阿蘇海(あそかい)を周囲する湖岸」が【百】をあらわしたと考えられる。
そして、「丹後半島東部の大浦半島の地宜」が【支】をあらわした。
つまり、「大浦半島は大きな丹後半島から支(えだわか)れてつながる小さな半島」であるゆえ、「大浦半島は【支】をあらわした。
したがって、卑弥呼は小国名を「巳百支国」と定めたことになる。
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下図に示すように、「丹後半島の付け根(首の部分)」にある「天橋立と阿蘇海」は「母体の子宮やへその緒()の形」となる。
上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
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安芸(あき)の宮島・陸奥(むつ)の松島とならぶ日本三景の一つに数えられる「天橋立」は、
宮津湾北西岸から与謝(よさ)ノ海(宮津湾)と西方の阿蘇海を真一文字にたち切り、南西につき出した全長3.6kmの砂嘴(さし)である。
天橋立南部の文珠(もんじゅ)寄りは東西二か所で切れている。
この二か所で与謝ノ海(宮津湾)と阿蘇海がつながり、回旋橋(かいせんきょう)と大天橋(だいてんはし)がかけられて、歩いて渡れるようになっている。
上図に示したように、「与謝ノ海南部の宮津湾の地宜」は「子宮に宿る胎児の頭の形」に相似し、
「宮津港より北部の与謝ノ海の地宜」は「胎児の首から足までの形」に相似する。
そして、「天橋立南部の阿蘇海から宮津湾までの狭い水道」は「母体の臍(へそ)と胎児の臍の緒()の形」に相似する。

これゆえ、「阿蘇海」は「女性の生殖器官(子宮、産道など)」に見立てられた。
女性の生殖器官の多くは、骨盤内にある。
よって、「阿蘇海」が「女性の生殖器官」に見立てられ、「天橋立と阿蘇海の周辺地域」が「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
下図は、「女性の骨盤図」である。
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上図の「女性の骨盤」は「子宮を包囲して胎児の命をまもる」ということで――つまり「天敵のオオカミに襲われると、中心に子を隠し子の命をまもるために、円陣を組むジャコウウシの群れ」に見立てられた。
ジャコウウシは【百頭以上】で群れていたという。
つまり、「ジャコウウシの【百頭以上】の群れ」が【百】をあらわした。
ゆえに、上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
前述したように、「丹後半島から支(えだわか)れる形の大浦半島」が【支】をあらわした。
以上からして「現在の京都府北部の丹後」が「巳百支国」であったことになる。

◆前ページにて説明したように、【倉頡が死刑と定めた3つ掟(おきて)】における()は、
「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員をも死刑にする」であった。。
この()の掟のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう小国名「【巳百支】をあらわす銀河の解説」を容易に理解していただくためには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の右下に、わたくしが「胎児の姿に似る銀河」、「巨龍の顔の銀河」、「銀河の中心」と名づけた――銀河系の中心方向がある。
下に、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心の図」を配した。
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上図の「胎児の姿に似る銀河」は、前ページにて【巳】の古代字形に相似すると指摘した「丹後半島から大浦半島までの、胎児の姿を形成する地宜」に類似する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河」は【巳】をあらわした。

前ページの「夏の銀河各部の名称図」における左上の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」を「女性の横顔」に見立てると、
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心周辺」は「女性の生殖器官を周囲する骨盤」に相当する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心方向」が「百頭以上の群れで円陣を組むジャコウウシ」に見立てられるゆえ、【百】をあらわすことになる。

また、下図に示すように「第5週ころの胎児の姿」は「胎児の姿に似る銀河の形」に相似する。
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さらに、下図に示すように「第5週頃の胎児の姿(側身形)」は「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てられて、
「ジャコウウシ」は「骨盤」に見立てられた。
というのも、「円陣の中心に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられた。
ゆえに、「【百頭以上】のジャコウウシの群れが作る円陣」は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
ゆえに、「胎児の姿に相似するジャコウウシ」は【百】をあらわすことになった。
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下図に示すように、「巳百支」のうちの【支】をあらわす「大浦半島」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、「巨龍の顔の銀河」が【支】をあらわした。
以上のごとく、「銀河系の中心方向の銀河」は「【巳百支】の銀河」であったことになる。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」はこれまで、「対馬国から巳百支国までの10ヵ国の位置や範囲」を詳細に具体的に解説し、矛盾点が一点も無く、
「これら10ヵ国の名称」は「すべて【倉頡の文字作成理論】について説明していること」を証明した。

そして、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の名は「邪馬壹()国」であって、「邪馬臺()国」ではないことを詳細に具体的に明確に証明した。
つまり、邪馬台国説においては【邪馬】は「大和(やまと)」の「やま」や、「山門(やまと)」などの地名の「山」であると主張する。
しかし、このブログが詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の「対馬国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・邪馬国」の5ヵ国名共通する【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
したがって、下図に示す「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって重なりあう、その表情」は【邪馬】と名づけられた。
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そして、下図に示す「草を食べるフタコブラクダの【邪馬】の表情にそっくりの、産道を通過する出産児の頭蓋骨(後頭骨・頭頂骨・前頭骨)の5枚の骨が重なりあって小さくすることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性の膜(まく)」もまた、【邪馬】と名づけられた。
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「産道」は【壹()】の字源であった。
ゆえに、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊(出産児)」は「【壹()】の産道を通過して誕生する」ので――卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名を【邪馬壹()】と定めたことになる。

白川静著『字統』は【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形」であると解説する。
「花の萼拊」とは「花の臺(台・うてな)」のことである。
白川静著『字統』が解説する【不】の字源「花の台(萼拊)」は「花の生殖器官における花弁を支(ささ)える役割」を有する。
いっぽう、「女性生殖器官における産道」は「出産児が通過して誕生する通路である」ゆえ、両者の役割は同じではない

上記したように、【臺()】の字源は「花の台」であり、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊」は【臺()】の字源「花の台(うてな)」を通過して誕生しない。
以上のように、【邪馬】と【臺()】が結ばれる【邪馬臺()国】という王国名は「人間の赤ん坊は花の台(うてな)を通過して誕生する」ということになるので――きわめて非理・不条理きわまりないナンセンスな意見であったことになる。.

下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が倭人国の首都が所在した王国名は「邪馬壹()国」であったと記し、「邪馬臺()国」であったと記していない。
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だから、学者たちがもっとも正しいと信頼した「邪馬臺()国説」は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、完全なる空理空論であったことになる。

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2024年7月23日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・21

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた()

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明は、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

また、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」という定説も空理空論、すべて学者たちの軽率(けいそつ)な早合点(はやがってん)による臆説(おくせつ)であった。
というのも、上記したように――『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の記事と、後に追加した小国名が不明の1小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国の4小国の記事にて、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下の【夏の銀河のカラー写真】は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆学者たちは、『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。

しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて指摘したように、
『魏志倭人伝』の史料は、倭人国の伊都国の港で魏都が用いる楷書に書き直した――つまり、倭人国が魏との外交に用いた文書であった。
この倭人国の外交文書が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。
というのも、『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明しているからである。

たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(20)までに詳細に解説し証明したように、
(
)「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国」という名称は、陳寿が知らない「8小国すべての地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」に合致して理にかなっていた。
また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、
(
)『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名はすべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて合致して理にかなっていることを証明する。
(
)また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この小国名不明の点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
(
)さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。

ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(
)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜(地図の形)」を詳しく知っているはずもなく、
(
)「小国名が不明の隠岐群島の事情」をくわしく知っていたはずもなく、
(
)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
詳しく知っていたなんてことはあり得ない。

上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

このように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国人の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

以上のごとく、邪馬台国説学者たちが主張するがごとく、『魏志倭人伝』は中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
魏が最高学問と崇(あが)める【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも存在することを説明して、
卑弥呼が魏国に対等外交を求めた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
したがって、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を基盤にして思考する意見であったゆえ、当然、邪馬台国説は空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(20)までに詳細に解説し証明してきたように、
(
)『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡が発明した文字作成理論】について説明する古文献であった。
(
)「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事は1ヵ所も存在しないことになる。

前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに【倭】の字源に則(のっと)って「末盧(まつろ)国から邪馬壱(やまい)国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。
倉頡(そうきつ)は、【禾()】「稲」の字を作って「時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。
この【禾】の下に【女】を加える【委】の字は【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
さらに、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭】の字も【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

上記のごとき【倭】の字源はこのブログにおける独特の意見であり、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は実在しなかったと思うかもしれないが――
上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上 邪馬臺国を中心に』(光文社発行)の直木孝次郎(なおきこうじろう)教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は、
「内藤は、中国の古書で方向をいうとき、東と南をかね、西と北をかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべきであるとした。これに対して、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。」と指摘している。

上記の文の先頭に登場する「内藤」は、明治時代の歴史学者の「内藤湖南(ないとうこなん)博士」である。
内藤湖南教授が指摘したように、6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に記述されているごとく――6世紀半ばにおいても、中国には3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記述されていた同じ【倭】の字源・原義が保存されていた。
上記したように、内藤博士は『後魏書』勿吉伝には「中国の古書で方向をいうとき、ふつうに東と南をかね、西と北をかねていた。ゆえに、『魏志倭人伝』における〔南〕は現在方位では〔東〕と解するべきである」と指摘した。
ゆえに、3世紀に成立した『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字義は6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝と同じ「〔東〕を〔南〕と解する、現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていた。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~17回までに詳細に解説して証明したように、
末盧(まつろ)国から伊都(いと)国、伊都国から奴()国、奴国から不弥(ふみ)国までの陸行の方向における〔南〕は現在方位の〔東〕であった。
だから、陸行でも【倭】の字源をあらわす方向に則っていたゆえ、
学者たちの「倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない」という批判は憶測(おくそく)によるもので誤っていたことになる。

6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が記述されている。
ゆえに、6世紀半ばより以前の3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は
当然、中国においてもわが国においても実在したことになる。
だから、【倭】の字源「現在方位を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると、
末盧国から邪馬壱国までの方位名はすべて正しいことになり、
「日本列島の九州以下の本州の〔東〕は〔南〕へ延びる」と説明に合致する、下図に示す「転回日本列島地理は【倭】の字源にもとづいて成立するものであった」と組織的に説明していたことになって、『魏志倭人伝』の全記事は正確であったことになる。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・11」にて詳細に解説して証明したように、
学者たちが「航海者が大切な方位を誤るはずがない」と批判した根拠・理由の【天の北極を〔北〕と定める方位規定】だと、
倭の使者たちは全員、中国と倭国との中間の大海を往来できず、大海で命を失うことになった。
ゆえに、魏と倭はまったく外交をむすぶことができなかったので『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
しかし『魏志倭人伝』は約2000字で構成されている。
ゆえに、倭の使節は大海を越えて帯方郡庁(たいほうぐんちょう)や魏都に到着して帰還できたと考えるべきことになる。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の前々回(19)と前回(20)にて詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源にもとづいて『魏志倭人伝』の記事を読解すると、
卑弥呼が倭人国の首都とした「邪馬壱国」は現在の「島根県と鳥取県西部」であり、旧国の「石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」であった。

そして、「邪馬壱国の中心地域」は【倭】の字源の「転回方位」で示す下図のごとき、
「現在の出雲市と松江市が所在する島根半島と、斐川(ひかわ)町と宍道湖(しんじこ)」であったことになる。
〔注 下図の転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、わたくしがトレーシングペーパーで複写して作成した図である。)
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上図の上部に示したように、「出雲大社が所在する島根半島北端(転回方位、現在方位だと島根半島西端)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「【馬】・フタコブラクダの母親の横顔の形」に相似すると見立てられた。
「この母親の【馬】・フタコブラクダの横顔」のとなりには「神門水海(かんどのみずうみ)」が在る。
「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に邪(なな)めとなる、産後まもない【馬】・フタコブラクダの子が両足でたつ姿」に見立てられた。
したがって、「神門水海」が【邪馬】をあらわした。

上図の下部の「島根県の県都の松江市東端(転回方位)」は「中国の黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】を研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は【女性の生殖器官と出産】を【一】の字源と定めた。
後世、【一】は【壱】の字でもあらわすことになったため、【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】は【壱】の字源をあらわすことになった。

だから、「黄帝陵と同緯度の松江市」は【壱】の字源をあらわした。
したがって、倭人国の首都に所在する王国の名は、「神門水海」の【邪馬】に、「松江市」の【壱】が加わる【邪馬壱(やまい)国】であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国の中心地域は、現在の出雲市と松江市であった」と説明していたのである。

◆下に、【邪馬】の「神門水海の地宜」を配した。
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下図に示すように「神門水海の地宜」は、「日本全国に生息する日本最大(全長90mm)のトンボ・オニヤンマが池や水田や浅い河岸の水底の泥(どろ)に産卵する姿」に酷似(こくじ)する。
「ヤンマトンボ」は「大形のトンボの総称」である。
「神門水海」の【邪馬】は「ヤマ」と読むゆえ――「ヤンマトンボ」は「邪馬」を「ヤンマ」という訛(なま)りに由来するものであったのかもしれない。
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日本に生息するオニヤンマをはじめとするヤンマトンボの成虫は、「夏」に出現する。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が序から前回まで繰り返して解説し証明したように、
夏代黎明期(かだいれいめいき・中期縄文時代末の紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【夏音文字】を教え広めた。
このため、卑弥呼時代には夏音文字が用いられていた。
ゆえに、「夏に出現するヤンマトンボ」は「夏音文字」を象徴する聖なる昆虫となったであろう。
というのも、ヤンマトンボの成虫が多数現れて飛び交()う夏季に適量の降水量()にめぐまれれば、イネ()は豊作となるからである。
ゆえに、ヤンマトンボは「秋における、イネの豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。
ヤンマトンボはじめとするトンボの水中に浮かぶ卵は、イネの穂にたわわに実る一粒(ひとつぶ)一粒の籾殻(もみがら・米のかたい外皮)の形に相似する。

下部に、「羽根を左右両側にひろげたトンボの絵」を配した。
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前ページに配した「【邪馬】をあらわす神門水海の地宜」に示したように、
「神門水海」の東となり(転回方位、現在方位だと北となり)に、現在、出雲大社が所在する。
下図における「出雲大社の裏山の、円形の八雲山(やくもやま)」を「トンボの頭部」に見立てると、
「出雲大社と神園(しんえん)」は「トンボの胴体と尾の形」に相似することになり、
その両側の「亀山と鶴山」は「トンボの羽根の形」に相似する。
したがって、下図の「出雲大社周辺の航空写真の映像や俯瞰図(ふかんず)」は「聖なるヤンマトンボの形」となる。

この「ヤンマトンボの頭部と体の形」となる「出雲大社の裏山と境内(けいだい)の跡地」こそが、
「毎年の稲の豊作によって国家が繁栄する」を祈願して築造された「卑弥呼が葬られた陵墓」であったと考えられる。
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◆『魏志倭人伝』の末部は、卑弥呼が葬られた陵墓について下記のごとく記す。
「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径(けい)百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず、更に相攻伐(あいこうばつ)す。時に当たりて千余人を殺す。復()た卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為(なり)しを立てると、国中が遂(つい)に定まる。」という記事がある。

この記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼は(250年頃より以前の240年頃に)すでに死んでいた。大きな円墳(えんふん)が作られた。円墳の直径は百余歩(150)である。卑弥呼を葬る陵墓に埋葬された徇葬者は、奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらいの乙女)の百余人であった。卑弥呼の死後に男王が倭の大王として就任したが、国中の人民は奴婢百余人の徇葬はあまりも冷酷非情(れいこくひじょう)だと憎悪して、武器を持って倭人国の政府軍と戦った。この反乱において、政府軍は千余人の人民を殺した。この反乱を鎮(しず)めるために、男の大王が失脚(しっきょく)して――13歳で王位につき、卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表となった壱与(は国中の人民たちが尊崇して信頼して愛されていたため)、壱与が倭女王に選ばれた。壱与が倭女王に就任すると(国中の人民は壱与が徇葬を廃止するにちがいないと信じて、武器を捨てたので)、遂に倭人国は平定された。」

「百余人の奴婢」は「卑弥呼の陵墓に埋められた犠牲(いけにえ)」である。
卑弥呼が歴史上に始めて登場した(170年頃)より約50年前(120年頃)に成立していた、後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は
「犠牲」の【犠】の字源を「宗廟(そうびょう)の牲(せい)なり」と解説する。
また、『説文解字』は「犠牲」の【牲】の字源を「牛、完全なるなり」と解説する。
【犠】も【牲】も偏は【牛】であるゆえ、
『説文解字』の【牲】の「完全なるなり」という【牛】は「若いジャコウウシ」を意味した。

ゆえに、「人生で最も若々しく輝く、完全なる18歳くらいの青年たちと13歳の乙女たち」は殺されて、卑弥呼の墓に埋められた「奴婢」であったのである。
18歳くらいの青年」は「日照りで堅くなった田を耕すことができる強大な腕力と体躯を有し、大海を小舟で漕いで往来できるたくましくて強大な力の持主」であるゆえ、「若いオスのジャコウウシ」のごとく「完全なる犠牲(いけにえ)にふさわしい」と解釈されたのである。
また、「13歳の乙女たち」は「最も澄んだ瞳(ひとみ)を有して、暗い銀河部もよく見える呪的(じゅてき)な眼力の持主が多数存在し、彼女たちは花のように艶(つや)やかで美しく輝いている」ということで、「完全なる徇葬者」にふさわしいことになったのである。

注目すべきは――下図に示した「出雲大社の平面図」における「出雲大社の裏山の、八雲山の直径」は卑弥呼が葬られた冢(円墳)の「径百余歩」と同じく「直径が約150m」ということでである。
「現在の出雲大社の境内の平面図」は、前方墳(ぜんぽうふん)の左右対称の形が少し歪(ゆが)んでいるが――
よく見ると「かつては前方墳であった」と感じられる形となる。
ゆえに、卑弥呼の死後の240年代~250年頃に築造された「前期古墳・卑弥呼の陵墓」(八雲山が後円墳、出雲大社の境内が前方墳)であったと考えられる。

「後円墳」となる「八雲山」は「自然丘陵(しぜんきゅうりょう)」である。
上田宏範(うえだひろのり)著『前方後円墳』(学生社発行)61ページは、
「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に方形の前方墳をつけたものが多い」と指摘する。
上記したように、出雲大社の裏山・八雲山は前期古墳の特徴の円い自然丘であり、
出雲大社の境内は八雲山より低い前方墳の形に相似する。
ゆえに、「出雲大社の裏山・八雲山と後年に境内となった跡地」は、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼の陵墓」であったと考えられる。

上記したように、『魏志倭人伝』は、
「卑弥呼の墓に百余人の奴婢が徇葬者となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造を決行した卑弥呼の後を継いだ男の大王に国中の人民たちは残忍な徇葬を憎悪して服従せず反乱し、武器を持って政府軍と戦った。ゆえに、倭王朝は千余人の反乱人民を殺した」と記述する。
したがって、徇葬がおこなわれた卑弥呼の墓は人民たちに憎悪されて、結局、250年からまもない3世紀後半頃に破壊されたであろう。
この「破壊された卑弥呼陵墓の前方墳の跡地」に、出雲大社が創建されたことになる。

『古事記』上巻の「葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話」における、「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲り(くにゆずり)の条(くだり)」は、
「天照大御神・大和王朝は横暴な武力をもって出雲・大国主神王朝を滅亡させた。大国主神に国譲りして(邪馬国・大和王朝が邪馬壱国・出雲王朝にかわって倭人国を統治することになり)、その代償として大国主神は天照大御神・大和王朝に壮大な出雲大社を創建させた」と記述している。

大国主神は、勝ち誇る邪馬国・大和王朝がすっかり上機嫌(じょうきげん)になるように平伏(へいふく)して、
破壊された卑弥呼の陵墓の跡地の高天原(たかののはら・倭人国の首都・邪馬壱国の空)に、千木(ちぎ)が高くそびえる壮大な宮殿を、天照大御神・大和王朝が建造するように、企(たくら)んだ。
つまり、天照大御神・大和王朝による邪馬壱国・出雲王朝の滅亡は、国中の人民たちが憎悪した百余人の奴婢を殺して埋めた徇葬と同じ横暴きわまりない暴挙であると――
大国主神は国中の人民たちに訴え、後世に歴史が伝わるように報復(ほうふく)した。
敗北者の大国主命(おおくにぬしのみこと)の名に、「勝利者の天照大御神」と同じ「神」がつくのは、
「大国主命は大和の天照大御神王朝を騙(だま)して、壮大な出雲大社を創建させた英雄」であったからにちがいない。

上記したように、『古事記』上巻の「葦原中国のことむけ説話」における「大国主神の国譲りの条(くだり)」は、「出雲」は「大和以前の高天原(たかまのはら)であった」と伝えている。
当時、「天頂緯度のキャッチ」をもっとも尊重するゆえ「天頂緯度」を「高天」とし、「首都所在地」を「原」と表現した。
ゆえに、「高天原」は「倭国の首都所在地」をあらわした。
『古事記』上巻の「大国主神の国譲りの条」は、「卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばまでは邪馬壱国・出雲が高天原」であった、また「卑弥呼の死後に須佐之男命、その後に大国主神が邪馬壱国・出雲を統治したゆえ、須佐之男命と大国主神の時代までは邪馬壱国・出雲が高天原であった。そして大国主神が国譲りした3世紀末~4世紀初頭から、遷都されて邪馬国・大和が高天原となった」と伝えていたことになる。
だから、2世紀末~3世紀半ばまで、卑弥呼は邪馬国・大和には居住していなかった。
この点からしても、「卑弥呼は大和に居住していた」と主張する邪馬台国説は空理空論であったことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「中国の海岸線が【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源となった秘密】を解明するためには、
【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
だから、下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上の「夏の銀河各部の名称図」の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「鬼の姿に似る銀河」のうちの東側の「横顔」となる銀河部は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけることにした。

下に、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(北緯3535)と長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の湾中央)の天頂緯度線の図を配した。
下図の下部には「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」の「横顔には両目(二つの目)の形」があり、「横顔の後頭部には大きく見開いた目の形」があり、「横顔のアゴには切れ長の細い目の形」がある。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」の別名を、わたくしは「四つ目の銀河」と定めた。
「四つ目の銀河」は、倉頡伝説においいて「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
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『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。

医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。
【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
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餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は
【邪馬】と呼ばれることになった。
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白川静著『字統』は【不】の古代字形(契文形・金文形)にもとづいて「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
この白川静著『字統』の【不】の解説は「女性の生殖器官の子宮・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管・卵巣(らんそう)と、花の生殖器官のめしべ・おしべ・花糸(かし)・子房・胚珠(はいしゅ)・胚のう・花弁などの両者の機能は相似する」が、「女性の産道と花の台(うてな・萼拊)の機能は相似しない」という否定・打消しの「ず」を意味した。
だから――【邪馬】の頭蓋骨からなる出産児は【壹()の字源の「女性の生殖器官の産道」を通過して誕生するゆえ、【邪馬】と【壱】が合体する【邪馬壱】という国名は合理となる。
しかし、「【邪馬】の頭蓋骨からなる人・出産児は【臺()】の字源の「花の台(うてな・萼拊)からは誕生しない」ゆえ、当然、【邪馬】と【台】を合体させる【邪馬台国】という国名は無理矢理(むりやり)にくっつけたきわめて不合理・幻想・空理空論の産物であったことになる。
だから、卑弥呼が倭人国の首都所在地と定めた王国名は【邪馬壱国】であり、明白に【邪馬台国】ではなかった。

◆下の「黄帝時代の黄帝陵と長江口の天頂緯度線の図」に示したように、
「四つ目の銀河のうちの後頭部とアゴにつく両目」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に隣接して、「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の銀河」がある。
この「【邪馬】の銀河」は、13歳の瞳がもっとも澄んだ乙女たちならば肉眼でキャッチできる、暗くかすかに見える銀河部であった。
ゆえに、「【邪馬】の銀河」は【婢】の字源をあらわすことになった(「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」が【婢】の字源となった)
上記したように、【婢】は「瞳がもっとも澄んだ、暗い銀河部も見える13歳くらいの乙女」を意味した。
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下図は「睥睨(へいげい)」という語の解説図である。
「四つ目の銀河の後頭部とアゴにつく両目」は「天下を睥睨する」という文における「睥睨」の語源となった。
「睥睨」は「まわりをにらみつけて、威力(いりょく)を示す両目」である。
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上図に示したように、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は【兒()】・【睨】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は「膣口(ちくこう)から誕生した【兒(出産児)】が空を仰ぐつぶらな目」と見立てられて、【兒()】の字源となった。
また、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は【婢】・【卑】・【睥】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は「アゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となって、骨盤入口に入りこむ出産児の様子」に見立てられて、【卑】の字源となった。
ゆえに、【卑】の字源は「天から俯()して観る地宜(地図の形)」をあらわした。

「四つ目の銀河のアゴにつく切れ長の細い目」に隣接する「激流の銀河」は「中国の国土の東方の大海(黄海・東シナ海)」に見立てられた。
「激流の銀河」に隣接する東側の「波の銀河」は「東の海から西の中国の海岸に寄せる波」に見立てられた。
そして上図に示したように、「鬼の姿に似る銀河」は「中国全土」に見立てられ、
「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国の海岸線」に見立てられた。
だから、「波の銀河」・「激流の銀河」・「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国全土をもれなく包む海岸線」に見立てられた。
上記したように、「中国の全土の海岸線に波が寄せる大海」に見立てられた「激流の銀河」に隣接する「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細目の銀河」は【卑】の字源をあらわした。
だから、【卑】の字源は「天から俯して観る、中国全土を洩れなく包む海岸線の地図の形」ということになった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」で詳細に解説したように、
中国の五経の第一にあげられる古典の『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は、
「中国全土を洩れなく包む海岸線」を「弥綸(びりん)す」と表現する。
つまり、『易経』の繋辞上伝は、下記のごとく説明する。
「易は天地と準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「易は天と地になぞられて作られた。ゆえに天と地の道を弥綸する(天と地の道が途中において破れ目・裂け目の状況になっても、つくろいおさまって洩れなく包みこむ)。仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河()から俯瞰(ふかん)する地図を作製した。」

下に示したように、「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「十字の銀河より南の銀河の形」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下に示したように「十字の銀河と鹿の横顔に似る銀河」は「オス鹿の横顔に似る銀河」ということになる。
よって、下の左側に配した【道】の金文形の字源銀河は右側の「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
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上図に示したように、「廟島列島(びょうとうれっとう)の地宜」を「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「山東半島の地宜」は「鹿の横顔」に観える。
したがって、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜であった。
だから、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準(なぞら)う」と表現したのである。

『説文解字』は、【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」と解説する。
「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには「必ずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。
つまり、遠くの地を往復する人も大海を往来する人も天頂緯度が測定できれば必ず家族が待つ家に帰還することができた。
この「天頂緯度線をキャッチして帰家する方法」を「トカゲの帰家性」に見立てて、『説文解字』は【易】の字源を「蜥蜴なり」と解説した。
だから、「遠くの地の往復や大海の往来の道(道中)において、所々にて観測した地点の緯度はその観測地点における天頂緯度と定まっている原理」を、
『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」と表現したことになる。

下に示すように、「山東半島の地宜」は【弥】「カンムリカイツブリの頭(横顔)と首までの形」に相似する。
また、「山東半島の付け根から南と北へとつながる海岸線」は「空を飛ぶ、【弥】のカンムリカイツブリの翼の形」に相似する。
この「【弥】の南の翼」は「長江口と杭州湾にて、破れ目や裂け目となる」が、「杭州湾の南岸からはなめらかな円弧(カーブ)を描いてつくろいおさまる」。
このように、「中国の海岸線」は「中国全土を洩れなく包みこんでいる」。
だから、『易経』繋辞上伝は「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
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以上からして、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、
上記の現代語訳のごとく「仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河()から俯瞰(ふかん)する地図を作製した」と説明していたことになる。

『説文解字』は【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下図に示すように、中国南部の海岸にある「杭州湾(こうしゅうわん)」には、「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」ゆえ、「杭州湾」は【呼】の字源となった。
また、下図に示すように、「杭州湾の地宜」は「水鳥の鳰(にお)の姿」に相似すると見立てられた。
「鳰」は【呼】の字源となった。
だから、「杭州湾」は【呼】の字源地宜であった。
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いままで説明して解明したように、下図に示す「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」でも解説したように、
沖ノ島と神津島は日本列島の東西の両端にあって遠く離れている。
しかし、2世紀末から3世紀半ばでも天頂緯度を測量していた慣習と伝統によって――
下図に示すように、一女子が沖ノ島と神津島は同緯度(北緯3415)であることに気づいた。
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日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように、日本列島は「西冷・東暖」となる。
中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かいゆえ、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し、日本列島の「東端」と中国海岸線地域の「南暖」は「暖かい気候」で合致する。
だから、一女子は「日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国海岸線地域の暖かい気候の〔南〕の方に延びている」と立論した。
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前述したように、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方へ延びている」と唱えられた立論基盤の「中国全土の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
ゆえに、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方に延びている」と立論して倭女王に選ばれた一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになったのである。

男王たちは卑弥呼が立論した転回日本列島像論は真実・真理であると激しい衝撃をうけ、そして倉頡の神霊の激怒(げきど)・祟(たた)りを畏怖(いふ)した。
だから、倭国の大乱は収(おさ)まった。
卑弥呼王朝は下図のごとく、西日本にあって【東の端(はし)となる東海地方が南】となる【転回日本列島地理】を制定した。
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「日本列島の〔東〕」は〔南〕となる方位」は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位」であった。
ゆえに、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。
前述したように、6世紀半ばに成立した中国の『後魏書』の勿吉伝には【倭】の字源「方位規定に則る方位」が記述されていたゆえ、
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいては、中国においても【倉頡の文字作成理論】が最高学問として保存されていた。
だから、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めて、「倭人国にも【倉頡の文字作成理論】が存在する」と伝える文書を魏に送って、魏との対等外交を求めた。
かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した次第である。

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2024年7月14日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・20

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた()

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(19)まで、逐一(ちくいち)、詳細に具体的に組織的に解説し証明してきたように、
学者たちは「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記が存在せず――
また、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する古文献であった。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」という定説もまた空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であったことになる。

◆上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。

というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源「現在の方位規定を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【末盧国以下、日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した日本列島地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
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◆学者たちは、『魏志倭人伝』という史料について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。

しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(19)までに証明したように、
『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も誤りがなく、【倉頡が発明したの文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。

『魏志倭人伝』における伊都(いと)国を説明する記事は――
卑弥呼が統治していた2世紀末~3世紀半ばにおいて、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき・わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字が存在し、
卑弥呼はじめ諸国の王や大夫(だいふ)たちは夏音文字を使用していた。
中国の魏の都はじめ、魏の出張政庁が所在する朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国では字形が秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)を用いていた。

このため、倭人国の多数の字源・原義を保存する夏音文字と幾つかの字源・原義を失った魏都・帯方郡・諸韓国の楷書においては、字義が差錯(ささく・相違)するものがあった。
ゆえに、伊都国の港では魏・帯方郡・諸韓国と倭人国との外交に用いた伝送の文書や、賜遺(しい)の物の品書きに用いた文字を誤読(差錯・相違)しないように、
夏音文字と楷書の字源・原義を示す【夏の銀河各部の形状】を観察して点検・確認して正しく翻訳(ほんやく)していた。

この伊都国の港で正確に楷書に直した倭人国の外交に用いた文書(国書)が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して史料にし、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。

『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明している。
たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(19)までに詳細に解説し証明したように、
「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国という8ヵ国の名称用いられる文字の字源・原義」は、すべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、
また「8ヵ国の名称に用いられる文字の字源・原義は各小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」とすべて理にかなっていた。

また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて適合して理にかなっていることを証明する。
また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。
ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(
)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜」を詳しく知っているはずもなく、
(
)「小国名が不明の隠岐群島の事情」を知っていたはずもなく、
(
)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
すべて知っていたなんてことはあり得ない。

上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は学者たちが考えたごとく、中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
卑弥呼が夏音文字で書いた文書を倭人国の伊都国の港において魏が用いる楷書に書き改められた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
言いかえると、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を思考基盤とする意見であったゆえ、邪馬台国説は空理空論であった。
その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」について説明する記事が1ヵ所も存在しない。

◆というのも、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が都とした所の名」を、下記のごとく「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していないからである。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて、詳細に具体的に解説して証明したように、
下図に示したように、「邪馬壱」の【邪馬】という語は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと「島根半島北部の神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」があらわした。
というのも、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であり、
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、
「神門水海」は「産後まもなくして【馬】・フタコブラクダの子が両足で立つ姿」に相似するゆえ、【邪馬】となったからである。
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上図における【邪馬】「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地域」であるゆえ、「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「子宮口がすっかり開き、骨盤入口に入り込んで産道を通過する出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた「神門水海」の【邪馬】は、【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」と密接に関連する。だから、【邪馬】という語と【壱】の字源は結合して、【邪馬壱国】という卑弥呼が居住した王国名となった。

【邪馬壱】の【壱】の字源は「島根県の松江市の地宜」があらわした。
というのも、上図における「島根県の松江市北部(現在方位、転回方位では東部となる)は、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と同緯度(北緯3535)であるからである。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮、骨盤入口、産道)と出産】を研究した。
黄帝が研究した【女性の生殖器と出産】は【壱】の字源となった。
ゆえに、「黄帝陵」と同緯度の「松江市」は【壱】の字源を示すことになった。
〔上図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(鳥取埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース複写して転回方位のもとづくようにした図である〕。

◆『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。

医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。

【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
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上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」とよばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜によって、出産児の頭蓋骨の5枚の骨は【小斜径】となるように重ねあわせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【小斜径となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。

餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は【邪馬】と呼ばれることになった。
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上記したように、「子宮口がすっかり開くと、【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門から成る出産児の頭蓋骨が骨盤入口に入りこんで産道を通過して膣口(ちつこう)から出産児の頭が誕生した」。
ゆえに、「子宮、骨盤入口、産道」は【壱】の字源となった。
また、【邪馬】の【馬】の字源の「フタコブラクダ」も【壱】の字源をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

◆下に、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説した「一大国、現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
下に図示したように、「一大国・壱岐の西部の地宜は【馬】の字源のフタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の東部の地宜は【牛】の字源のジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
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上記したように、【馬】の字源の「フタコブラクダ」は【壱】の字源となった。
というのも、「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の頭蓋骨の【小斜径】の仕組み」は【邪馬】と呼称したゆえ、
【邪馬】の【馬】「フタコブラクダ」は【一】の字源をあらわすと、倉頡が定めたからである。
【一】は後世に【壹()】となったゆえ、【馬】「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわすことになった。

【牛】の字源の「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れは円陣を作り、子を円陣の中心に隠して防御(ぼうぎょ)した」。
この「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性の骨盤」に見立てられ、「円陣で包囲されるジャコウウシの子たち」は「女性の骨盤で包囲される子宮、産道」に見立てられてたため、「ジャコウウシ」もまた【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、後世、「一大国」は「【壱】の字源の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの地宜が東西に分かれる岐(わかれみち)がある」ということで、「壱岐」と呼ばれることになった。

下に、前ページにて【邪馬】と解した島根半島西部(現在方位)に所在した卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」を配した。
「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、産後まもなく両足で立つ【馬】・フタコブラクダの子の姿」に相似すると見立てられて、【邪馬】をあらわすことになった。
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上記したように、「神門水海の地宜」に相似すると見立てられた【馬】・フタコブラクダの子」は【壹()】の字源をあらわすが、【臺()】の字源をあらわさない。
というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説するからである。
「花の萼拊」は、つまり「花の花弁の集合体の花冠(かかん)をささえる台(うてな)」である。

上記した白川静著『字統』の【不】の字源解説は――【臺()】の字源「花の生殖器官における台(うてな)」と【壹()】の字源「女性の生殖器官における産道の機能・役割」は同じでは非(あら)ず――と、否定・打消しの「ず」をあらわす。
だから、「神門水海」は【壹()】の字源「【馬】・フタコブラクダの子」をあらわし、【馬】の字源「フタコブラクダ」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の【邪馬】(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわした。
ゆえに、「松江市の地宜」は、【馬】「フタコブラクダ」と密接に関連する【壹()】の字源「女性の生殖器官の子宮・産道」をあらわすことになった。
要するに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわす【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣であった。

上記したように、「神門水海」の「【邪馬】のフタコブラクダの子」と【臺()】の「花の台(うてな)」は、白川静著『字統』の【不】の字源解説が示しているように――
【邪馬のフタコブラクダ】と【花の台(うてな)】の両者は相似せず、また両者には関連性が無い。
ゆえに、【邪馬】と【臺()】が結びつく【邪馬臺()】という国名は、本来(ほんらい)、不条理であるゆえ成立してはならない空想の産物であったことになる。
しかし、新井白石以来現在まで約300年間、学界において【邪馬】に【臺()】が加わる、理にまったくかなわない【邪馬臺()】という名称が空想上にて存在することになった。
このように、邪馬台国説は不条理きわまりない空理空論であった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説したように、
倉頡は「出産児」を【弥】の字源「カンムリカイツブリ」に見立てた。
胎児(たいじ)は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごすが、なぜ胎児は窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究した黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この未解明の秘密を【文字作成理論】に取り入れることにした倉頡(そうきつ)は、「出産児」を「人間よりも長いあいだ水中に潜(もぐ)ることができるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。

【弥】の字源「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長46㎝~61㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育つ出産児と同じくらいである。
ゆえに、倉頡は「骨盤入口に入りこんで産道を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの出産児」を、【弥】の「カンムリカイツブリ」に喩えることにした。


◆下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
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これゆえ、上図に示したように、「石島」は「朝日」をあらわす地となり、「日照」は「夕日」をあらわす地となった。
上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
ゆえに、前述したように【壱】の字源「女性の生殖器官と出産を研究した黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵」は【壱】の字源をあらわしたため、
上図に示したように、「黄帝陵と同緯度の日照」は【壱】の字源をあらわすことになった。

また、「日照」は「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の出産児の頭が入りこむ骨盤入口」に見立てられ、「石島」は「出産児の頭が誕生する膣口(ちつこう)」に見立てられた。
ゆえに、「山東半島」は【壱】の字源「産道」に見立てられ、
そして、「日照」は【壱】の字源の「骨盤入口」に見立てられることになった。

◆『魏志倭人伝』の末部に「因臺詣」、つまり「因()りて臺()に詣(いた)る」という記事がある。
この「臺()」は「魏都の洛陽(らくよう)」を意味した。
かつて五帝時代――下図における「洛陽の東北にある渤海(ぼっかい)」は「夏至の日、日が没する夕方に咲く、朝顔の花の形」に相似すると見立てられた。
そして、「夏至の日、日が没する夕方に咲く朝顔の花」に見立てられた「渤海」を「黄河口(こうがこう・黄河の河口)」を中心軸にして洛陽が所在する南へ転回して、
「洛陽は、夏至の日、日出ずる朝の美しく咲き誇る朝顔の花の、その台(うてな・萼拊)の位置に合致する」と解釈されることになった。
だから、『魏志倭人伝』を著作した晋の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は「魏都の洛陽」を「因りて臺()に詣る」と記した。
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では、なにゆえ、「洛陽」は「朝顔の台(うてな)」に見立てられたかというと――
いわゆる「銀河ブルー」と名づけられた「美しく艶(つや)やかに吸い込まれるような青紫(あおむらさき)、つまり朝顔の花の色の銀河(暗黒天体部)」が、洛陽の夜空に輝いたからである。
五帝時代の大都会の洛陽の夜間は灯下でほのかに明るかったゆえ、新月の夜には暗い黒色に見える銀河部は毎夜、朝顔の花の色、つまり「吸い込まれるように魅力的な美しい銀河ブルー」となって輝いた。
だから、「洛陽」は「銀河ブルーの美しい青紫(あおむらさき)の朝顔の花の、台(うてな)に相当する聖なる位置に在る」と定められて、【臺()】の字源となった。

◆前述したように、白川静著『字統』は【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下に配した上図の「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかいさい)と卵管の役割」は
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、おしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と
下図の「花の生殖器官」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台(うてな・萼拊)の役割」は類似せずに別々の役割となる。
だから、白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊である」という字源解説は、「女性の産道と花の台の役割は同じで非(あら)ず」と否定・打消しの「ず」をあらわしていたことになる。

以上のごとく、【邪馬】つまり「子宮口がすっかり開いて、小斜径となって骨盤入口に入りこむ出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」が――【臺()】の字源「花の台(うてな)」と結びつくのは理にかなわず不条理であるゆえ、【邪馬臺()】という名称は成立してはならない空虚(くうきょ)な産物であった。
いっぽう、「産道する出産児の頭蓋骨の【邪馬】」と「産道の【壹()】」は密接に関連する。
だから、【邪馬】と【壹()】が結びつく【邪馬壹()】という名称は合理・正しいゆえ成立することになった。
このように、【邪馬臺()国】という名称は錯誤(さくご)・空想の産物であった。
だから、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国名は【邪馬壹()国】であったことになる。


前述したように、【邪馬】という語は「【馬】のフタコブラクダが草を食べるときの、鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りがたがいに邪(なな)めに食い込むように見える表情」を意味した。
というのも、「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜は重なり合って小さくなって(小斜径となって)、骨盤入口に邪(なな)めに入りこむことができるからである」。
したがって、この「出産児の頭蓋骨の仕組み」をも、【邪馬】と名づけられた。

下の上図は、「転回方位の邪馬国」、つまり「現在の大和・奈良県のは地宜(白地図の形)」である。
下の上下の2図が示すように、「大和・奈良県の地宜」は「草を食べて、ふくらむ頬(ほほ)が邪(なな)めになる横顔」に相似する。
ゆえに、「草を食べて動くアゴが重なりあってふくらむ、【邪馬】のフタコブラクダの横顔に相似する奈良県・大和の地宜」にもとづいて――卑弥呼は「奈良県・大和」を「邪馬国」という小国名にした。
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『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。
新井白石が最初に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と誤読した――この誤読の伝統を今日まで多数の学者たちは改めなかったので、空想上にて300年間も存在することになった。
白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊の形である」という解説が示すように、
【邪馬】と【臺()】が結ばれて【邪馬臺()】という女王国名は、元来(がんらい)、成立して存在してはならない空虚な名称であったのである。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』が記していたとおり、「邪馬壱国」が正しかったのである。

『隋書(ずいしょ)』倭国伝は「邪靡堆(やまたい)、すなわち『魏志』の所謂(いわゆる)邪馬臺国というものである」と注を加えるが、
正しくは「邪馬惟(やまい)、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬壹国というものなり」と注を加えなければならなかった。

『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「邪馬臺国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)の音之訛(なま)り也」と注を加える。
しかし、「邪馬壹国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)という音なり」と注を加えるのが正しかったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧国以下の倭人国における全地図の方位」を【倭】の字源「現在の方位名を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)れば、
『魏志倭人伝』のすべての記事は正確であったと証明される。
したがって、邪馬台国説学者はじめとする学者たちが「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されている。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を信用してはならない」と主張する意見は誤っていたことになる。

『魏志倭人伝』に記される「東治(とうじ)」は「東冶(とうや)」が正しいのか誤っているのか知らないが、
もしも「東冶」が正しかったならば、「東治」の「治」は誤字となる。
この他に、『魏志倭人伝』には「掖邪狗」を「掖邪拘」と記す箇所が1ヵ所存在するゆえ、「掖邪拘」の「拘」は誤字となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』には2~3か所の誤字があるかもしれないが、誤った記事は1ヵ所も存在しない。

また前述したように、『魏志倭人伝』の史料は晋王朝に秘蔵されていた「倭人国が魏国と対等外交を結ぶために、わが国には【倉頡の文字作成理論の学芸】が存在することを魏に伝えた国書(文書)」であった。
したがって、学者たちが『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない―と、前もって定めた立論・思考条件は誤っていたことになる。

上記したように、()【倭】の字源に則って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事が1ヵ所も存在しないことになる。
また、()『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に説明した古文献であった。
このような事実は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序から前回(19)までにおいて、『魏志倭人伝』の全小国名の秘密を未だ解明していないが、すでに詳細に具体的に解明して証明したことになる。
というのも、学者たちが「誤っている」と指摘した記事は「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」であったからである。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。

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2024年7月10日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・19

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた()

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回にて、下図に示す「対馬(つしま)国・瀚海(かんかい)・一大(いちだい)国の秘密」を詳細に解明した。
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上の「対馬国・瀚海・一大国の地図」は、
下に配した「瀚海・ゴビ沙漠と長方形状に水が流れる黄河上流が包囲するムウス沙漠・黄土高原、そして黄帝陵(こうていりょう・黄帝の墓と廟)」についてあらわしている。
ゆえに、学者たちは「なぜだ! 対馬国と一大国の中間の海は、どうして瀚海・ゴビ沙漠なのだ?」となんら疑問を抱かずに徹底的に無視するが――
しかし、下にて指摘したように、必ず疑問を抱くべきことになる。

というのも、上図の「対馬国・瀚海・一大国」と下図の「瀚海(ゴビ沙漠)と長方形状に水が流れる黄河上流地域と黄帝陵」の比較と照合によって、
【倉頡の文字作成理論における基礎知識】を手に入れることができるからである。
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この【倉頡の文字作成理論の基礎知識】によって、
『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を詳細に説明する史料であった事実」が証明され、
結局、『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する記事は1ヵ所も存在しないことも証明されて、
邪馬台国説は空理空論であったことが決定的となる。

『魏志倭人伝』は「倭国には牛と馬は生息しない」と説明する。
【牛】の字源・原義は「ウシ」ではなく、上図の黄土高原・凍土(とうど)地帯に生息していた「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、上図の瀚海(ゴビ沙漠)とムウス沙漠に生息した「フタコブラクダ」であった。

これゆえ、「対馬国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
北の上県(かみあがた)の地宜が「フタコブラクダの正面形」に相似し、
南の下県(しもあがた)の地宜は「フタコブラクダの丈夫な足底の形」に相似する。
したがって、「フタコブラクダの正面形と足底の地宜が一対(いっつい)となって、【馬】の字源をあらわす」ことになり、
この「一対の【対】」と、「【馬】の形の地宜」にもとづいて、
卑弥呼は「現在の長崎県北部の対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。

『魏志倭人伝』は、「瀚海の南に、一大国がある」と説明する。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐(いき)」であった。
下に「一大国・壱岐の地宜」を示した。
「一大国の西部の地宜」は、「瀚海(ゴビ沙漠)とムウス沙漠に生息した【馬】・フタコブラクダの姿」に相似する。
また、「一大国の東部の地宜」は「黄土高原・凍土地帯に生息した【牛】・ジャコウウシの姿」に相似する。
【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壱】の字源となり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
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「一大国」は「【壱】の字源となる聖獣の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの姿を東西に分ける岐(わかれみち)が存在する」。
ゆえに、後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。

◆倉頡はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「倭女王・卑弥呼が都(首都)とした所は邪馬台国ではなく、邪馬壱(やまい)国であった」を証明するための説明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代おける、黄帝陵(北緯3535)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口がある湾中央・北緯3130)」の天頂を通過した緯度線」を、下図に示した。
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上図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は、「鬼の姿に似る銀河における東部」である。
上図に示すように、「黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した緯度線」は西の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく、大きく開いた目の形の銀河中央」から、東の「十字の銀河の頭部中央」を貫通(かんつう)していた。
また、「長江口(北緯3130)の天頂を通過した緯度線」は西の「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく、切れ長の細い目の形の銀河中央」から、東の「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。

黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」は「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。
「十字の銀河の頭部」は「ほぼ円形、円陣の形」である。
【牛】の字源・原義の「ジャコウウシの群れ」は「天敵のオオカミに襲われると円陣をつくり、子を円陣の中心に隠して、角(つの)を外に向け、その角でオオカミをひっかけ肩越(かたご)しに投げとばし、他のジャコウウシが足で踏みつぶして殺す」。

ゆえに、「十字の銀河の円形の頭部」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」に見立てられた。

また、下図の右側の「十字の銀河の頭部の暗黒天体部の形」、は左側の「女性の骨盤口(こつばんこう)の形」に相似する。
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女性の生殖器の多くは骨盤内にある。
したがって、「子宮と、産道の多く」は「骨盤内」にある。
「子宮」と「産道」は【一】と【壱】字源となった。
ゆえに、「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立てられた「ほぼ円形の、十字の銀河の頭部」は、
【一】と【壱】の字源となった。
また、「ジャコウウシ」も【一】と【壱】の字源となり、
前述したように、「ジャコウウシ」は【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて詳細に解説したように、
下図に示したように、「一大率(いちだいそつ)が常に居住して治めていた伊都(いと)国」は
「現在の福岡県糸島市(いとしまし)と佐賀県佐賀市とその周辺地域」であり、
その地宜は【牛】の字源「ジャコウウシの横顔と胴体の形」に相似すると見立てられた。
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上図の「ジャコウウシの横顔となる糸島(いとしま)半島の地宜」は「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢」をあらわす。
「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位の姿勢」は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢で骨盤入口へ入りこむ様子」に相似すると見立てられた。
だから、「伊都国」の【伊】の偏【人】は「骨盤入口へ入りこむ出産児()」をあらわし、【尹(いん)】は「ジャコウウシと出産児の屈位の姿勢」をあらわした。
結局、【伊】の字源は「()ジャコウウシと、()出産児のアゴを胸につける屈位の姿勢」をあらわした。
このような、【伊】の字源「骨盤入口に入りこむ出産児は産道を通過する際に4回の回旋(かいせん)をおこなって、膣口(ちくこう)から頭が誕生する」。
ゆえに、前述したように、()「産道」と()「ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源となった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に解説した【邪馬(やま)】と呼ばれた「出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の図」を、下に配した。
下図の左側に配したように、『魏志倭人伝』では「出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門」を【邪馬(やま)】と呼んだ。
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出産児の頭蓋骨の縫合(ほうごう)は完成していないため、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)となって重ねあわせることができる仕組みとなる。
そして、「出産児は頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を、
産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

ゆえに、今日の「小斜径」は「【馬】・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に相似すると見立てられた。
だから、今日の産婦人科の用語の「小斜径」は、『魏志倭人伝』において【邪馬】と呼ばれることになった。
『魏志倭人伝』に記された「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の邪馬壹()国」の【壹()】の字源は、前述した「子宮、骨盤入口、産道」であった。

下に、【馬】の字源「フタコブラクダが草を食べるときの、鼻・アゴ・口の図」を配した。

下図に示す「草を食べるラクダの鼻・アゴ・口の各パーツの仕切りが歪(ゆが)んで重なりあう」。
ゆえに、「ラクダの鼻」は「小斜径」における「小泉門の形状」、「ラクダの鼻と口を結ぶミゾ」は「小斜径」における「矢状縫合の形状」、「ラクダの口」は「小斜径」における「大泉門の形状」に相似する。
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上記したように、「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めになって重なるあわさって歪む形」は
「せまい産道を通りぬけるときの、出産児の5枚の頭の骨を小泉門・矢状縫合・大泉門の膜で重ねあわせて小さくする小斜径の形状」に相似する。
だから、()「草をたべるときの【馬】・フタコブラクダの顔」と、()「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」は、共に【邪馬】と名づけられた。
つまり、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」の【邪馬】は、現在の【小斜径】と同義語であった。

前述したように、【邪馬】の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。
前述したように、卑弥呼が居住した王国名の【邪馬壹()国】の【壹()】の字源は「子宮、骨盤入口、産道」であった。
ゆえに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【邪馬】という語にもとづいて【一】と【壹()】の字源となり、
【牛】の字源の「ジャコウウシ」と共に、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

◆前ページに配した「対馬国・瀚海・一大国の地図」を、再度、下に配した。
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であることを示す「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(なな)め」である。
ゆえに、「対馬国の地宜」は【邪馬】という語をあらわした。
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下に、再度、「一大国・壱岐の地宜」を配した。
「一大国の西部の地宜」は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に、
「一大国の東部の地宜」は【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。
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「一大国」は後に「壱岐」と呼ばれることになったので、【壹()】の字源をあらわした。
また、前述したように、【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は「子宮、骨盤入口、産道」に見立てられて、【壹()の字源】となった。
だから、「対馬国と一大国の地宜」は『魏志倭人伝』に記されているとおり「【邪馬壹()国】という名称こそが正しい」と証明することができる理由・根拠の一つに挙げられる。

下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していない。
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江戸中期の新井白石(16571725)より以来300年間、学者たちは「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」といとも簡単に安易(あんい)に、なんら躊躇(ちゅうちょ)せずに読むが――
上記したように、卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」をもって倭人国の首都がある地所の名称を「邪馬壹()国」と表示したと考えられる。
これから、今回と次回をもって「邪馬壹()国」が正しく――
「邪馬臺()国」は「誤読の産物、空想の産物であったたこと」を詳細に証明する。
だから、白石以来の300年間の伝統を有する邪馬臺()国説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国(現在の長崎県北部の壱岐)」に至る」と説明する。
ゆえに、対馬国は「北」、一大国は「南」となって――現在の地図における南北と同じである。
しかし、次の末盧(まつろ)国から邪馬壱国までの方位は、現在方位と同じではなく異なる。

というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回~18回までに詳細に解説して証明したように――
『魏志倭人伝』は「末盧国から邪馬壱国まではじめとする日本列島本州地図における方位」を
倉頡が作った【禾()】「稲」の字源をそのまま受け継ぐ【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って説明しているからである。
下に、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る「九州の末盧国、伊都(いと)国、奴()国、不弥国までの旅程基点図」を配した。
下図の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る各旅程基点間の方位は、
『魏志倭人伝』が説明する方位に全部合致する。
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対馬国が「北」、一大国が「南」になる現在方位と同じ方位規定に対して、
「倭人国」の【倭】の「現在方位を、時計回りに90度転回させる方位規定」とが重なる「一大国から末盧国に至る方位」は
現在方位と【倭】の字源方位が対立して、どちらか一方に決めることができない。
だから、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国に至る方位名」を記していない。


前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』が「不弥国から、南投馬(とうま)国に至るには水行(すいこう)二十日」と説明する航路は、
「不弥国、現在の福岡県の宗像(みなかた)市の神湊(こうのみなと)を出発して、宗像市の沖ノ島を経て、さらに投馬国・現在の山口県の萩(はぎ)市の見島(みしま)を経由して、見島と同経度の投馬国・山口県の長門(ながと)市の港までの海路」であったことになる。

この「水行二十日」と説明される海路は、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が『魏志倭人伝』の記事に加えた注で説明する、現在の一年を二年とする二倍暦(にばいれき)にもとづく日数である。
ゆえに、「水行二十日」は、現在でいうと「二十日の半分の、十日の海路」であったことになる。
なお、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて詳細に解説したように、
「水行二十日の海路」は小国「投馬国」の【投馬】という名称を説明した、【倉頡の文字作成理論】をあらわすための【学術航路】であって、一般的な通常航路ではない。

下に、現在方位と【倭】の字源の転回方位に則る「投馬国・山口県の地図」を配した。
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◆『魏志倭人伝』は、「投馬国から、南邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月」と説明する。
この「水行十日、陸行一月」は、上記したように、
裴松之が加えた二倍暦の注にもとづくと――現在では「水行五日、陸行半月」であったことになる。

投馬国・現在の山口県長門港から五日の航海距離となる港は、日本海に面する島根県浜田(はまだ)市の港であったであろう。
浜田港から陸を歩いて半月かかる所は、島根県の県庁所在地の松江市であったと考えられる。

この松江市が、『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と説明する、「邪馬壹()国」という王国名における【壹()】の字源を示す中心地域であった。
というのも、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」と説明する記事が存在するからである。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」において詳細に解説し証明したように――
卑弥呼王朝は「日本列島の九州以下の本州における東は南へ延びる」と考える、
下図に示す「転回日本列島地理」を制定した。
下図に示したように、「邪馬壱国の範囲」は「現在の島根県と鳥取県の西部」であった。
旧国でいうと、「邪馬壱国の範囲」は「石見(いわみ)、出雲、伯耆(ほうき)」であった。
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上図に示すように、【倭】の字源「現在方位を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると、
「女王国・邪馬壱国における現在方位の北」が【倭】の字源「転回方位における、東」となる。
ゆえに、「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の小国は、現在の隠岐群島であったことになる。
というのも、隠岐群島は四つの大きな島と約180の小さい島々で構成されるからである。
ゆえに、結局(けっきょく)、隠岐群島の「四つの大島と180の小島」は「皆」という語でまとめられた。
だから、「隠岐群島」は「皆、倭種なり」と表現された。

日本地図の地図帳にて示されているように――
【倭】の字源の転回方位に則ると、女王国・邪馬壱国の中心地・松江市の真東(現在方位の真北)に、日本海上に浮かぶ隠岐群島のうちの島前(どうぜん)がある。
島前は、知夫里島(ちぶりじま)、西ノ島、中ノ島の三つの島で構成される。
だから、「島前」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして有る国」となる。
この島前と、島後(どうご)180の小島で構成される隠岐群島は、上記したように「復()た国有り。皆、倭種なり」と表現された。
ところが――邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」と説明される小国が存在しない。

この「女王国の東、海を渡ること千余里の小国」が存在しない点と、
『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壹()国」と記す――この二点が、
邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は空論であったと断定できる致命的欠陥(ちめいてきけっかん)となる。

『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
したがって、白石以来約300年間も、多くの学者たちが最も正論であると信じた邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、
「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」と誤読して、「邪馬臺()国こそが正しい」と思い込む空想から始まっていた。
言いかえると、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は立論する最初の段階から空想だったのである。

◆下に、【倭】の字源の転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)の邪馬壱国の中心地域となる出雲地方の島根半島の地宜を配した。
下図の右上に、「転回方位と、現在方位の方角」をあらわすようにした。
邪馬壱国の中心地域は、現在の島根県の出雲市と、松江市と、斐川(ひかわ)町と、宍道湖(しんじこ)であった。
〔注 下図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻4号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース図化して転回方位にもとづくようにあらわした図である〕。
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上図の「島根半島の北端・東部(転回方位)の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの母親の横顔の形」に相似する。
また、上図の「島根半島の北端西部(転回方位)の、神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの子が誕生してまもなく両足で立ち上がる姿」に相似する。
この「神門水海の地宜」が【邪馬】をあらわした。
つまり、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの子の姿」をあらわす。
ゆえに、「神門水海の地宜」は「邪(なな)めの馬」、すなわち【邪馬】をあらわす。

前ページで解説したように、【邪馬】は「出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」である。
出産児の頭蓋骨は縫合(ほうごう)が完成していないので、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしくせい)の膜(まく)は重ねあわせることができる仕組みになっている。
今日、産婦人科では「出産児が頭蓋骨を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
この「小斜径」は【邪馬】と呼ばれたのである。
つまり、「小斜径」は【邪馬】は同義語であった。

また、前述したように「馬・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に酷似(こくじ)すると見立てられて、【邪馬】と呼ばれた。
(
)「小泉門・矢状縫合・大泉門」と、()「馬・フタコブラクダが草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪む表情」は、共に【邪馬】と呼ばれていたのである。

上図における「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる神門水海の地宜」は「産後間もなくして両足で立つ、馬・フタコブラクダの子の姿」だけでなく、
さらに、「神門水海と、その周辺地域」は「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」にも見立てられて、【邪馬】と解釈された。
というのも、「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地帯」であったからである。
ゆえに、「神門水海と、その周辺地域」は「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられて、【邪馬】と解釈された。

上図に示したように、「島根半島南部(転回方位)の松江市」は【壱】の字源をあらわした。
というのも、松江市の東端(転回方位、現在方位の北端)は、北緯3535分である。
前ページにて示したように、黄帝陵は北緯3535分である。

前ページにて証明したように――五帝時代初頭の黄帝時代において、黄帝陵の天頂には「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきていた。
「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部の形」は、「女性の骨盤口(こつばんこう)の形」に酷似(こくじ)する。
下に、前ページに配した「女性の骨盤口と十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部の図」を、再度、配した。
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「女性の生殖器の子宮と、産道の多くの部分」は骨盤内にある。
「子宮と産道」は【壹()】の字源となった。
上図に示したように――「女性の骨盤口の形」に酷似する「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が天頂にめぐってきた「黄帝陵」は【壹()】の字源となった。
というのも、黄帝は【壱】の字源となった「女性の子宮や産道、骨盤口を通過する子の出産」を研究したからである。
ゆえに、「黄帝陵と同緯度(北緯3535)の松江市」は【壹()】の字源をあらわした。
以上のごとく、「神門水海」は【邪馬】という語をあらわし、「松江市」は【壱】の字源をあらわした。
これゆえ、「神門水海と松江市が所在する島根半島」は【邪馬壱国】の中心地域であったことになる。

◆そして、「出雲の島根半島と宍道湖の地宜」は、前ページにて解説した「対馬国・瀚海・一大国の地図」をあらわした。

前ページにて解説したように――「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めの、【馬】・フタコブラクダの正面形と足底の形に相似する対馬国の地宜」は【邪馬】をあらわした。
「一大国の西部の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの姿」に、「一大国の東部の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの姿」に相似する。
この「【馬】・フタコブラクダと、【牛】・ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源となって、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、「一大国」は「【壱】の字源の牛・ジャコウウシと馬・フタコブラクダの姿に分かる岐(わかれみち)がある」ということで、後世に「壱岐」と呼ばれことになった。
ゆえに、「対馬国の地宜」は【邪馬】、「一大国の地宜」は【壱】をあらわすことになり、
前述したように、「対馬国と一大国の地宜」は【邪馬壱】という語をあらわした。

◆上記したように、「出雲の神門水海の地宜」は「対馬国」と同じく【邪馬】の語をあらわし
「黄帝陵と同緯度(北緯3535)の松江市」は「一大国」と同じく【壱】の字源をあらわした。

だから、「出雲の宍道湖の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの足」をあらわした。
というのも、下図に示すように、「卑弥呼時代の宍道湖の地宜」は「足の形」に相似するからである。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
下図に示す「奴()国、現在の福岡県福岡市の博多湾北部の海ノ中道」は「【牛】・ジャコウウシの足の形」に相似すると見立てられた。
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この「海ノ中道とつながる志賀島(しかのしま)には――西暦57(建武中元2年)に、後漢の光武(こうぶ)帝から賜(たまわ)った「漢委奴国王」と刻まれる金印が埋蔵された。
というのも、志賀島に金印が埋められたのは、
下図に示す「ジャコウウシの横顔と胴体の形をした伊都(いと)国の地霊の勢いが盛んになって栄える」ように願望するものであったからと考えられる。
この願望を成就するために、伊都国・奴国の九州勢力は東に進出した――
ゆえに、倭地の西方諸国の勢力と戦争することになり、西暦170年頃から倭国は大乱したのであろう。
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『魏志倭人伝』は「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と説明する。
ゆえに、倭国の大乱を平定した卑弥呼は、伊都国の一大率(いちだいそつ)と共立して、わが国における最初の国家と王朝を創設した。

だから、「邪馬壱国の宍道湖の地宜」は「奴国の海ノ中道の、ジャコウウシの足」に見立てられたことになる。
つまり、「ジャコウウシの足」に見立てられた「宍道湖」は、
「倭国の大乱を鎮(しず)めて、卑弥呼と一大率が共立して国家と王朝を創設した」とあらわしていることになる。

「宍道湖の清く澄んだ青色の水面」は「夜になると、美しい銀河ブルーを映す鏡(水鏡)」と見立てられた。
「銀河ブルー」とは「月光やあるいは灯下の影響で夏の銀河がうっすらと見える状況における、吸い込まれるような澄んだ青紫(あおむらさき)やカワセミの羽根のような夜空の色――つまり、夏の銀河の暗黒天体部や夏の銀河の背景となる夜空の色」である。
「対馬国と一大国の中間の、瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味するが――
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説して証明したように、
「瀚海」の【瀚】の字は「カワセミ」を意味し、「【瀚】・カワセミが棲()む平坦な川、池、湖、水清きせせらぎや浅瀬」は「海」と呼ばれることになった。

だから、「瀚海」の【瀚】の字は「背面から尾までの羽の色が、美しい翡翠(いすい)色のカワセミ」を意味し、「湖の、宍道湖」は「海」ということになった。
その証拠に、「琵琶湖」の古称は「鳰(にお)の海」である。
つまり、卑弥呼は「宍道湖」を、「カワセミの精霊が棲()む海」と考えたのであろう。

ゆえに、『魏志倭人伝』には「男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む。(中略)。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞を伝えて出入りす」という記事がある。
カワセミは求愛あるいは給餌(きゅうじ)行為において、メスがオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。メスとオスが交替して(30分間隔)で雛(ひな)を育てる。 
卑弥呼は、再度、倭国が大乱しないように願って――
カワセミの生態に注目して、多分、男の弟であろう、男子に飲食を給じさせていたと考えられる。
卑弥呼は国中の男王はじめ氏族の長や男たちが再(ふたた)び戦争せずに――日々、農作業に勤(いそ)しんで豊かな食料を女性や子どもたちに与えるように願って――カワセミのメスのごとくに、男子に飲食を給じさせていたにちがいない。

◆次回は『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹()国」という王国名が正しく、
この「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」と読むのは誤読であって、しかも空想であることを、
今回のブログよりも一層(いっそう)明確になるように詳細に解説して証明する。
この証明によって――多くの学者たちが最も正しいと信じた邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、『魏志倭人伝』の記されていない「邪馬臺()国」を「必ず記されている」と頑強(がんきょう)に思い込む空理空論であったことが明白になる。

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2024年7月 4日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・18

投馬国の地宜は赤く輝く北アメリカ星雲の形に相似する

◆現在から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
この【文字作成理論の発明】については倉頡伝説で語られることになったが――
現在、学者たちは倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は学者たちの軽率(けいそつ)な単純化による臆説(おくせつ)であった。

というのも、晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)が著した『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、
対馬国から黒歯(こくし)国までの34の小国名を用いて、【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的に詳細に組織的に説明しているからである。

江戸中期の新井白石(16571725)が最初に邪馬台国大和説、そのあとに邪馬台国筑後山門(ちくごやまと)郡説を立論して以来現在までの約300年間、『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明している文献史料であると定まっているが――
『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が都とする所は邪馬壹()(やまいこく)であった」と記す。
「邪馬臺()国」と「邪馬壹()国」のどちらかが正しいのか、学者たちは地道(じみち)な研究を怠(おこた)り、軽率に短絡的(たんらくてき)な意見を優先して「邪馬臺()国が正しい。邪馬壹()国は誤っている」と結論を出した。
しかし、『魏志倭人伝』は対馬国と狗奴国までの34の小国名を用いてもっぱら【倉頡の文字作成理論】を説明しているゆえ、
この観点にもとづいて慎重(しんちょう)に研究すると「邪馬壹()国が正しく、邪馬臺()国が誤っていること」になる。
つまり、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」とはまったく無関係の文献であった。
したがって、「『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する文献史料である」という定説は空理空論であった。

前述したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏の全星座が漬()かる銀河の帯」である。
【夏の銀河】は通称「天の川」、あるいは「銀河」、時には「銀漢(ぎんかん)」ともいう。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真はPIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』には――わが国は、今から約4070年前(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、名門益(えき)氏の青年王子と若たちが中国から大海を越えて男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代に作られた、最初の漢字の書契(しょけい)
(
)黄帝が研究した女性の生殖器官と出産の研究
(
)倉頡が発明した文字作成理論
(
)夏代黎明期の夏音文字
(
)精密な中国海岸線地図と精密な地図の作製方法
を教え広めた――と示唆(しさ)する記事がある。

ゆえに、わが国は今から約4000年前(紀元前2000年頃)の後期縄文時代初頭、【倉頡が発明した文字作成理論】と【夏代黎明期の夏音文字】を習得した。
したがって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた空理空論であった。

以上からして
(
)「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する文献であった」という定説は空理空論であった
(
)「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説も空理空論であった
(
)「倉頡が漢字を発明したと説明する倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」という定説も空理空論であった

『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名や事物の名称などに夏音を用い、あるいは夏音文字を示すものがある。
たとえば「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読むと「夏音」となり、夏音文字の「牛」は「ジャコウウシ」を意味し、夏音文字の「馬」は「フタコブラクダ」を意味した。
また、720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いた夏音文字が多数記されて、現在まできちっと残った。

◆『魏志倭人伝』は――「現在の長崎県北部の対馬(つしま)」の小国名を「対馬国」と記し、「現在の長崎県北部の壱岐(いき)」の小国名を「一大国」と記す。
そして、『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南である」と説明する。この「対馬国と一大国における北と南の関係」は現在の方位規定と同じである。

しかし、『魏志倭人伝』においては――次の末盧(まつろ)国以下、伊都(いと)国、奴()国、不弥(ふみ)国、そして今回のブログで取り上げる投馬(とうま)国と、次のブログの邪馬壱(やまい)国の方位名は現在と異なる方位規定に則(のっと)っている。
つまり、末盧国以下邪馬壱国までの方位名は、倉頡(そうきつ)が考案した【禾()】「稲」を字源とする「現在の方位名(対馬国・一大国の方位)を、時計回りに90度転回する方位規定」に則っている。
倉頡が作った【禾】の字の字源を、「倭人国」の【倭】の字源はそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

つまり、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回~前回(17)まで繰り返して詳細に解説したようにーー
末盧国から邪馬壱国までの方位は【倉頡の文字作成理論における基礎知識】となる【禾】・【倭】の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する方位規定」に則っていた。

産道を通過する出産児は4回、回旋(かいせん)して膣口(ちつこう)から頭が誕生する。
出産第1期の開口期(かいこうき)の後半――出産児はアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、
後頭部の小泉門(しょうせんもん)を先進して、骨盤入口に入りこむ出産児の頭は「時計回りに90度旋回(せんかい)する」。
これを、産婦人科では「第1回旋(だいいちかいせん)」と呼んでいる。
次に出産児の頭は「逆時計回りに90度旋回する第2回旋、第3回旋」をおこない、
最後に「時計回りに90度旋回する第4回旋」をおこなって、出産児の頭が膣口から誕生する。

倉頡は「出産児の頭が、時計回りに90度回旋する第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
また、倉頡は「出産児の頭が、逆時計回りの90度旋回する第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉()】の字を作った。
【禾】の下に【女】が加わる【委】の字源と、【人偏(にんべん)】に【委】が加わる【倭】の字源は、
倉頡が作った【禾】の字源をそのまま受け継いで「第1回旋と第4回旋に因(ちな)んで、【時計回りの90度転回する方位規定】」をあらわした。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が統治した国名は「倭人国」と記す。
ゆえに、前述したように、末盧国・伊都国・奴国・不弥国までの方位名は、【禾】・【倭】の字源に則っていた。
下図は、『魏志倭人伝』が【倭】の字源にもとづいて説明する末盧国から不弥国までの各小国の旅程基点と範囲をあらわす地図である。
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◆前回の、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」では、
『魏志倭人伝』は「不弥国の旅程基点は福岡県宗像(むなかた)市の宗像大社の辺津宮(へつみや)であった」と説明していることを証明した。
『魏志倭人伝』は「不弥国から南、投馬(とうま)国に至るには水行(すいこう)二十日」と説明する。
この「不弥国から南に水行二十日の距離にある投馬国の旅程基点」は
下図に示す「現在の山口県長門市の港」であったと考えられる。
下図に示すように、「投馬国」は「現在の山口県」であり、旧国の「長門(ながと)と周防(すほう)であった」。
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下図の上部に、転回方位に則る本州日本列島地理における「不弥国・宗像地方から南となる投馬国」を示した。
つまり、「不弥国・宗像市の神湊(こうのみなと)から出発し、宗像市の沖ノ島に立ち寄って、山口県萩市の見島(みしま)を経由(けいゆ)して、【倭】の字源の転回方位の真西(現在方位の真南)となる長門港までの航路」が、「二十日の水行(海路)」であったことになる。
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萩市の見島と長門港は東経13111分で同経度である。
ゆえに、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、【見島・長門港は経度が精確に計測できる航路】として、注目されていたにちがいない。
したがって、「見島に門柱が立ち、長門港にも門柱が立つ」と想像されて――「見島と長門港」には「長い距離の門が立つ」ということになり、これゆえ「長門」と略称されたと考えられる。

『古事記』中巻の景行(けいこう)天皇の〔ヤマトタケルノミコトの東国征伐説話〕には――ミコトガ甲斐(かい・現在の山梨県)に出でて、酒折宮(さけおりのみや)に滞在(たいざい)したとき、ミコトは「新治(にいばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾代(いくよ)か寝()つる」という和歌を詠()んだ。すると夜警の火をたく老人(おみな)が、ミコトの御歌(みうた)に続けて「日日並(かかな)べて 夜()には九夜(ここのよ) 日()には十日(とをか)を」と歌った――という記述がある。
老人は「夜を一日、日中を一日と数える方法で、夜は九夜、日中は十日でした」と答える二倍暦(にばいれき)の歌を作った。

『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が、
「倭は中国の正歳四節(せいさいしせつ・つまり元日から大晦日までを一年とする暦が無い。また、春・夏・秋・冬の四節・四季を定めていない)。但(ただ)し、春耕(しゅんこう・田を耕作する春)を一年、秋収(しゅうしゅう・穀物を収穫する秋)を一年とする、中国の一年を二年とする二倍暦がある」と説明する注がある。

この二倍暦だと、「不弥国の港から出発して宗像市の沖ノ島を経て、沖ノ島から萩市の見島を経由して、投馬国・長門港に至るまでの水行(航海)日数」は、今日の「二十日の半分の十日」であったことになる。
つまり、「不弥国の港から出発して沖ノ島を経て、沖ノ島から見島を経由して長門港までの航海日数」は「今日の十日が妥当(だとう)」で、「二十日も費(ついや)した」とは思えない。

そして、漁師はじめ人民たちの不弥国から投馬国の長門港までの通常の水行航路は「沖ノ島や見島を経由しない距離が短い近道」であったにちがいない。
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を説明する学術書】であった。
これゆえ、「不弥国の神湊から出発して沖ノ島と見島を経由して迂回(うかい)して長門港に到着する水行」は【倉頡の文字作成理論について説明する学術海路】であったことになる。
言いかえると、この【学術航路】は小国名「【投馬】の秘密」を補助的に説明する役目を有していた。

◆『魏志倭人伝』には「元日から大晦日までを一年とする暦法」と「二倍暦」が混在しているゆえ、注意する必要がある。

『魏志倭人伝』は「住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)する」という記事がある。
『魏志倭人伝』が記述する最終年は250年頃と推定されるゆえ、250年から80年を差し引いた170年頃に倭国の大乱は始まったことになる。
『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「後漢の第11代の桓(かん)(147167)と第12代の霊(れい)(168188)の間、倭国は大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐する」と説明する。
ゆえに、『後漢書』倭伝が説明する倭国の大乱は『魏志倭人伝』の記述とほぼ同じ168年~170年ころに始まったことになる。

『魏志倭人伝』の倭国の大乱が始まった年を、二倍暦を用いて250年から80年の半分の40年を差し引いた210年頃であったと考えると――『後漢書』倭伝の倭国の大乱が始まった年と40年間くらい隔(へだ)たりがあって一致しない。
だから、『魏志倭人伝』の倭国の大乱が始まった年は元日から大晦日までを一年とする暦法で考えるべきことになる。

『魏志倭人伝』の末部には、「卑弥呼の没後、卑弥呼の後を継いだ男王が大王に就任して、百余人の奴(ぬ・18歳くらいの青年)と婢(ひ・13歳くらいの乙女)を卑弥呼の墓に埋める徇葬(じゅんそう)が決行された。しかし、国中の人々は徇葬を憎悪して男王に服従せず、武器をもって反乱した。この戦争において、政府軍は千余人の反乱人民を殺した」と説明した後にーー
「復()た卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三にて王と為()りしを立てて、国中遂に定まる」と説明する。

壱与が王となった年を二倍暦で考えると、6.5歳で壱与は王となったことになる。
6.5
歳の少女の壱与が、徇葬を憎悪して反乱した人民たちの怒りを鎮(しず)めることができた能力を有していたとは思えない。

13
歳の乙女は、最も澄んだ瞳を有して、暗い銀河部までもよく見える特別に優れた眼力を有している。
特別に優れた眼力と【倉頡の文字作成理論】に精通する聡明な天才的な乙女を、卑弥呼時代の人民たちは「偉大!」と尊崇(そんすう)して、王に就()くことを強く望んだ。
つまり、「卑弥呼の宗女の壱与」とは「壱与は卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表する女性であり、最も澄んだ瞳を有する眼力の持ち主にして【倉頡の文字作成理論】に精通する天才的に聡明な乙女」であったことになる。
ゆえに、徇葬を憎悪して国中の人民が服従しない男王が倭の大王から失脚し、新たに男王に代わって倭女王に選ばれた壱与が、「今後、徇葬は行わないようにする。武器を捨てて戦争は終わりにしよう」と必死に呼びかければ、壱与を尊崇する国中の人民たちは壱与を信じて戦争を中止したにちがいない。

だから、壱与の13歳は元日から大晦日までを一年する暦法によるもので――二倍暦だと壱与は26歳であったことになる。
現在においても、13歳くらいの乙女は暗い銀河部がよく見える、最も澄んだ瞳の持主である。
これゆえ、天体写真家たちのなかには、銀河や星の写真を撮影するときに13歳くらいの乙女を連れてゆき、彼女が説明する助言に従って、撮影する人々がいる。

◆『魏志倭人伝』には「倭の木には投(とう)がある」と指摘する記事がある。
夏音文字「投」は「現在の松の木」を意味した。

松毬(まつかさ)は葉的器官と種子を含む種となる鱗片(りんぺん)が軸に螺旋状(らせんじょう)についている。
松毬は山火事になると松の木から投げ飛ばされて、投げ飛ばされた松毬は裂開(れっかい)し、種子をまき散らす。
地面に投げ飛ばされた種子は山火事のあとの焼け野原にて発芽し、森林が再生する。
松毬から得られる種子は「松の実」と呼ばれ、食用となる。
ゆえに、上記したように夏音文字【投】の字は「山火事になると松毬(まつかさ)を投げ飛ばす松の木」をあらわした。

前述した「不弥国から投馬国までの水行二十日の海路」は、夏音文字の【投】をあらわした。
その証拠に、下図に示すように、「沖ノ島の地宜は、松毬(まつかさ)の一片の鱗片の形」に相似する。
また下図に示すように、「萩市の見島の地宜は、松の実の形」に酷似(こくじ)する。
(
ただし、沖ノ島と見島の寸法は同一倍寸ではない。見島を強調して大き目の倍寸図とした)
0000205

つまり、「不弥国から投馬国までの水行二十日の海路」は「投()が子孫を保存する生態」をあらわした。
ということは、「投馬国」の「投馬」という小国名もまた「種の保存、つまり子孫繁栄」をあらわしていると考えられる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う「投馬国の地宜の秘密」を解明するためには、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に「鬼の姿に似る銀河」がある。

下図の上部に示すように、
「鬼の姿に似る銀河の首」に、
「北アメリカ大陸の形」に相似する「北アメリカ星雲」がある。
「北アメリカ星雲」の右隣には――「ペリカンの姿」に相似するという「ペリカン星雲」がある。
「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」は天文学界で定められた名称である。
S124

「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は肉眼で見える。
空気が澄んで月が出ていない新月の夜ならば、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は月よりもやや大きい部分が明るくなって見える。
卑弥呼時代は、公害もなく空気が澄みきっており、地上灯下も乏(とぼ)しかった。
ゆえに、卑弥呼時代には、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は現在よりも鮮やかに明確に見えた。

下に、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」のカラー写真を配した。
このカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
下の写真における向かって左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
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「北アメリカ星雲」も「ペリカン星雲」も「真っ赤」である。
つまり、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「山火事において、松の木から投げ飛ばされて地面に降りそそぐ、松の葉や枝が燃える炎の塊(かたまり)」と同様に「真っ赤」である。

下図に示すように、「北アメリカ星雲における南部の形状」は、「投馬国西部(現在方位)における豊関(ほうかん・下関市豊浦町と下関市)地区の地宜」におおよそ似ていると見立てられた。
(
「北アメリカ星雲の南部」に相当する中央アメリカには、メキシコはじめベリーズ・グアテマラ・ホンジュラス・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカ・パナマの諸国がある)
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下図に示すように、「投馬国・山口県の下関市南端(現在方位)にある彦島(ひこしま)の地宜」は、【馬】の字源「フタコブラクダの横顔(頭部)の形」に相似する。
この「彦島」が「投げ飛ばされる馬(フタコブラクダ)」、つまり「投馬」という小国名になった。
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「彦島」の【彦】は「彦星・牽牛星(けんぎゅうせい)の彦」である。
ゆえに、「彦島」は「牽牛星」の【牛】の字源「ジャコウウシの顔(頭部)に属すること」になった。
つまり、「投馬国の地宜」は「顔を真っ赤にして怒るジャコウウシの顔(頭部)」に見立てられた。
ゆえに、上図における「彦島」は「ジャコウウシが強大な力で投げ飛ばす馬(フタコブラクダ)の巨体」をあらわすことになった。
したがって、「投馬国の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の巨体を投げ飛ばすことができる、強大な力を発揮するジャコウウシの怒りの顔」に見立てられた。
だから、「山口県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)を投げ飛ばす、怒るジャコウウシの横顔(頭部)の形」に相似すると見立てて――

卑弥呼は小国名を「投馬国」と定めた。

◆「ペリカン星雲」は「ペリカンの姿」に相似するとされるが――
下図に示すように――「ペリカン星雲」は「ペリカンの姿」よりも、むしろ「角(つの)を生やすジャコウウシの子の顔と胴体の形」により相似する。
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「山口県の東部(現在方位)」の旧国名は「周防(すほう)」である。
前述したように、【投】の字は「山火事になると、松の木が松毬(まつかさ)を投げ飛ばし、松毬が裂開(れっかい)して種子を地面にまき散らし、種が滅亡しないように保存する松の木の生態」をあらわした。
この「松の木の種の保存の生態」の観点からして――
「周防」という旧国名は「円周と防御」の略称であると考えられる。
つまり、「周防」という旧国名は「危険を察知すると、子を中心にしてジャコウウシの群れが円周を描いて鼻を外側に向けて並ぶ防御方法」の略称であったと考えられる。
したがって、「周防」という旧国名は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れが円を描いて防御して子の命をまもる、種を保存する生態」をあらわしていることになる。

ゆえに、「北アメリカ星雲」は「子の命を守らんとして、怒るジャコウウシの顔」に、
「ペリカン星雲」は「ジャコウウシの子」に見立てられた。
だから、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「ジャコウウシが滅亡しないための子の命をまもって種を保存する生態をあらわしている」と見立てられたことになる。

◆ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布していたが、5000年前の黄帝時代直後から多くの地域で絶滅したとされる。
しかし、現在は北極地方に分布する。
凍土(とうど)・ツンドラ地帯に生息し、以前は100頭以上の群れがごくふつうに目撃できたと伝えられている。
驚くと鼻声をだして、前足で地面をたたき、頭を低める屈位(くつい)の姿勢となる。
興奮したオスは咆哮(ほうこう)し、前足の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)から麝香(じゃこう)の香りを放つ。

襲ってくる天敵のオオカミを、強大な力を有するジャコウウシのオスが角(つの)でひっかけて肩(かた)ごしにはねあげ、他のジャコウウシが足でふみつぶして殺す。
夏に絶え間なくスゲなどを食べ、脂肪をたくわえて冬にそなえる。
夏が、ジャコウウシの繁殖期間である。
2年に1回、7~8月に妊娠期間9ヵ月の後に、一般的に1産1子を生む。
出産した子は1~2時間後に歩ける。
3~5才で性的に成熟し、寿命は20年ぐらいだとされる。
冬が近づくと、群れは雪の浅い、風で雪がふき飛ばされた地表の露出(ろしゅつ)した餌場(えさば)へと向かう。
餌場の凍ったスゲや苔(こけ)を食べて脂肪の蓄積をおぎない、厳寒(げんかん)の冬の真昼の薄明りのなかでも絶えず動きまわる。

下に、「メスをめぐって闘うジャコウウシのオスの姿の写真」を配した。
この写真は、星野道夫記念ライブラリーにて買った絵葉書の写真である。
この写真には――「投馬国」という小国名となった「馬・フタコブラクダの巨体を投げ飛ばす強大の力を有する、怒るジャコウウシの顔」が撮影されている。
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以上のごとく、まず【投】は「松の木が投げる松毬」を意味することを示し、次に「不弥国の神湊から投馬国の長門市までの【学術海路】」をもって補助説明して、「投馬国」という小国名は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の形状」から成立したこと示していたことになる。

なお、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には――
「師兵(しへい)を以(もって営衛(えいえい)と為())」という文がある。

この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円周を描いて自衛した」と意味する。
つまり、黄帝軍は駐屯するとき、ジャコウウシの群れが組む円陣を作って敵の襲来にそなえていたことになる。
ゆえに、益氏の王子と若者たちは「北アメリカ星雲とペリカン星雲」をもって、縄文人たちに「黄帝軍の駐屯の様子」と「ジャコウウシ」について説明したにちがいない。

◆前述したしょうに――「松毬(まつかさ)は山火事になると裂開(れっかい)し、種子を地面にまき散らして種を保存する」ゆえ、『魏志倭人伝』に記される夏音文字【投】は「松の木」を意味した。
小国名「投馬」は「天敵のオオカミに襲われたとき、円陣を組んで中心に子をかくし、怒るジャコウウシは角(つの)で馬(フタコブラクダ)の巨体を投げ飛ばすことができる強大な力でオオカミを肩越(かたご)しにはねあげ、他のジャコウウシがオオカミを足で踏みつぶして子の命をまもって種を保存する生態」をあらわした。

これゆえ、小国名の「投馬」は――妊婦が子をなんとしても出産しようとして頑張(がんば)る、「怒責(どせき・いきみ、きばる動作)と腹圧」を意味するものであったと考えられる。

陣痛(じんつう)が強くなるにつれ、子宮口が開いていくと、出産児の頭はしだいにおし下げられていく。このときに直腸をおさえるために反射的に、妊婦は大声をあげて怒責(どせき)し、このころから腹圧が加わるようになる。
この「妊婦の怒責と腹圧によって骨盤入口に入りこんだ出産児は、産道を通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する」。
このような「妊婦が子をなんとしても産まんとする気力と頑張りによる生命の誕生」によって「人類の種は保存され滅亡せずに、子孫が繁栄した」。
だから、「投馬」という小国名には「子孫繁栄」という意味も有していたのではあるまいか。

次回は、卑弥呼が居住した王国「邪馬壱(やまい)国」に秘められる【倉頡の文字作成理論】について詳細に解説する。
『魏志倭人伝』は、下図に示すように「邪馬臺()国」とは記さず、「邪馬壹()国」と記している。
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