G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・19: 卑弥呼の逆襲

« 漢字の起源と発明を解明す・18 | トップページ | 漢字の起源と発明を解明す・20 »

2024年7月10日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・19

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた()

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
Ginga_kara1_20240710144801

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回にて、下図に示す「対馬(つしま)国・瀚海(かんかい)・一大(いちだい)国の秘密」を詳細に解明した。
000012_20240710144901
上の「対馬国・瀚海・一大国の地図」は、
下に配した「瀚海・ゴビ沙漠と長方形状に水が流れる黄河上流が包囲するムウス沙漠・黄土高原、そして黄帝陵(こうていりょう・黄帝の墓と廟)」についてあらわしている。
ゆえに、学者たちは「なぜだ! 対馬国と一大国の中間の海は、どうして瀚海・ゴビ沙漠なのだ?」となんら疑問を抱かずに徹底的に無視するが――
しかし、下にて指摘したように、必ず疑問を抱くべきことになる。

というのも、上図の「対馬国・瀚海・一大国」と下図の「瀚海(ゴビ沙漠)と長方形状に水が流れる黄河上流地域と黄帝陵」の比較と照合によって、
【倉頡の文字作成理論における基礎知識】を手に入れることができるからである。
0000190_20240710145001

この【倉頡の文字作成理論の基礎知識】によって、
『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を詳細に説明する史料であった事実」が証明され、
結局、『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する記事は1ヵ所も存在しないことも証明されて、
邪馬台国説は空理空論であったことが決定的となる。

『魏志倭人伝』は「倭国には牛と馬は生息しない」と説明する。
【牛】の字源・原義は「ウシ」ではなく、上図の黄土高原・凍土(とうど)地帯に生息していた「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、上図の瀚海(ゴビ沙漠)とムウス沙漠に生息した「フタコブラクダ」であった。

これゆえ、「対馬国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
北の上県(かみあがた)の地宜が「フタコブラクダの正面形」に相似し、
南の下県(しもあがた)の地宜は「フタコブラクダの丈夫な足底の形」に相似する。
したがって、「フタコブラクダの正面形と足底の地宜が一対(いっつい)となって、【馬】の字源をあらわす」ことになり、
この「一対の【対】」と、「【馬】の形の地宜」にもとづいて、
卑弥呼は「現在の長崎県北部の対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。

『魏志倭人伝』は、「瀚海の南に、一大国がある」と説明する。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐(いき)」であった。
下に「一大国・壱岐の地宜」を示した。
「一大国の西部の地宜」は、「瀚海(ゴビ沙漠)とムウス沙漠に生息した【馬】・フタコブラクダの姿」に相似する。
また、「一大国の東部の地宜」は「黄土高原・凍土地帯に生息した【牛】・ジャコウウシの姿」に相似する。
【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壱】の字源となり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
000019_20240710145101

「一大国」は「【壱】の字源となる聖獣の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの姿を東西に分ける岐(わかれみち)が存在する」。
ゆえに、後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。

◆倉頡はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「倭女王・卑弥呼が都(首都)とした所は邪馬台国ではなく、邪馬壱(やまい)国であった」を証明するための説明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240710145201
◆上図の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代おける、黄帝陵(北緯3535)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口がある湾中央・北緯3130)」の天頂を通過した緯度線」を、下図に示した。
0000159_20240710145201

上図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は、「鬼の姿に似る銀河における東部」である。
上図に示すように、「黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した緯度線」は西の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく、大きく開いた目の形の銀河中央」から、東の「十字の銀河の頭部中央」を貫通(かんつう)していた。
また、「長江口(北緯3130)の天頂を通過した緯度線」は西の「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく、切れ長の細い目の形の銀河中央」から、東の「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。

黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」は「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。
「十字の銀河の頭部」は「ほぼ円形、円陣の形」である。
【牛】の字源・原義の「ジャコウウシの群れ」は「天敵のオオカミに襲われると円陣をつくり、子を円陣の中心に隠して、角(つの)を外に向け、その角でオオカミをひっかけ肩越(かたご)しに投げとばし、他のジャコウウシが足で踏みつぶして殺す」。

ゆえに、「十字の銀河の円形の頭部」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」に見立てられた。

また、下図の右側の「十字の銀河の頭部の暗黒天体部の形」、は左側の「女性の骨盤口(こつばんこう)の形」に相似する。
0000209
女性の生殖器の多くは骨盤内にある。
したがって、「子宮と、産道の多く」は「骨盤内」にある。
「子宮」と「産道」は【一】と【壱】字源となった。
ゆえに、「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立てられた「ほぼ円形の、十字の銀河の頭部」は、
【一】と【壱】の字源となった。
また、「ジャコウウシ」も【一】と【壱】の字源となり、
前述したように、「ジャコウウシ」は【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて詳細に解説したように、
下図に示したように、「一大率(いちだいそつ)が常に居住して治めていた伊都(いと)国」は
「現在の福岡県糸島市(いとしまし)と佐賀県佐賀市とその周辺地域」であり、
その地宜は【牛】の字源「ジャコウウシの横顔と胴体の形」に相似すると見立てられた。
000074_20240710145401

上図の「ジャコウウシの横顔となる糸島(いとしま)半島の地宜」は「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢」をあらわす。
「ジャコウウシのアゴを胸につける屈位の姿勢」は「出産児がアゴを胸につける屈位の姿勢で骨盤入口へ入りこむ様子」に相似すると見立てられた。
だから、「伊都国」の【伊】の偏【人】は「骨盤入口へ入りこむ出産児()」をあらわし、【尹(いん)】は「ジャコウウシと出産児の屈位の姿勢」をあらわした。
結局、【伊】の字源は「()ジャコウウシと、()出産児のアゴを胸につける屈位の姿勢」をあらわした。
このような、【伊】の字源「骨盤入口に入りこむ出産児は産道を通過する際に4回の回旋(かいせん)をおこなって、膣口(ちくこう)から頭が誕生する」。
ゆえに、前述したように、()「産道」と()「ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源となった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に解説した【邪馬(やま)】と呼ばれた「出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の図」を、下に配した。
下図の左側に配したように、『魏志倭人伝』では「出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門」を【邪馬(やま)】と呼んだ。
000040_20240710145501

出産児の頭蓋骨の縫合(ほうごう)は完成していないため、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)となって重ねあわせることができる仕組みとなる。
そして、「出産児は頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を、
産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

ゆえに、今日の「小斜径」は「【馬】・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に相似すると見立てられた。
だから、今日の産婦人科の用語の「小斜径」は、『魏志倭人伝』において【邪馬】と呼ばれることになった。
『魏志倭人伝』に記された「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の邪馬壹()国」の【壹()】の字源は、前述した「子宮、骨盤入口、産道」であった。

下に、【馬】の字源「フタコブラクダが草を食べるときの、鼻・アゴ・口の図」を配した。

下図に示す「草を食べるラクダの鼻・アゴ・口の各パーツの仕切りが歪(ゆが)んで重なりあう」。
ゆえに、「ラクダの鼻」は「小斜径」における「小泉門の形状」、「ラクダの鼻と口を結ぶミゾ」は「小斜径」における「矢状縫合の形状」、「ラクダの口」は「小斜径」における「大泉門の形状」に相似する。
000043_20240710145501

上記したように、「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めになって重なるあわさって歪む形」は
「せまい産道を通りぬけるときの、出産児の5枚の頭の骨を小泉門・矢状縫合・大泉門の膜で重ねあわせて小さくする小斜径の形状」に相似する。
だから、()「草をたべるときの【馬】・フタコブラクダの顔」と、()「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」は、共に【邪馬】と名づけられた。
つまり、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」の【邪馬】は、現在の【小斜径】と同義語であった。

前述したように、【邪馬】の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。
前述したように、卑弥呼が居住した王国名の【邪馬壹()国】の【壹()】の字源は「子宮、骨盤入口、産道」であった。
ゆえに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【邪馬】という語にもとづいて【一】と【壹()】の字源となり、
【牛】の字源の「ジャコウウシ」と共に、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

◆前ページに配した「対馬国・瀚海・一大国の地図」を、再度、下に配した。
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であることを示す「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(なな)め」である。
ゆえに、「対馬国の地宜」は【邪馬】という語をあらわした。
000012_20240710145601

下に、再度、「一大国・壱岐の地宜」を配した。
「一大国の西部の地宜」は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に、
「一大国の東部の地宜」は【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。
000019_20240710145701

「一大国」は後に「壱岐」と呼ばれることになったので、【壹()】の字源をあらわした。
また、前述したように、【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は「子宮、骨盤入口、産道」に見立てられて、【壹()の字源】となった。
だから、「対馬国と一大国の地宜」は『魏志倭人伝』に記されているとおり「【邪馬壹()国】という名称こそが正しい」と証明することができる理由・根拠の一つに挙げられる。

下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していない。
0000169_20240710145801

江戸中期の新井白石(16571725)より以来300年間、学者たちは「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」といとも簡単に安易(あんい)に、なんら躊躇(ちゅうちょ)せずに読むが――
上記したように、卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」をもって倭人国の首都がある地所の名称を「邪馬壹()国」と表示したと考えられる。
これから、今回と次回をもって「邪馬壹()国」が正しく――
「邪馬臺()国」は「誤読の産物、空想の産物であったたこと」を詳細に証明する。
だから、白石以来の300年間の伝統を有する邪馬臺()国説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国(現在の長崎県北部の壱岐)」に至る」と説明する。
ゆえに、対馬国は「北」、一大国は「南」となって――現在の地図における南北と同じである。
しかし、次の末盧(まつろ)国から邪馬壱国までの方位は、現在方位と同じではなく異なる。

というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回~18回までに詳細に解説して証明したように――
『魏志倭人伝』は「末盧国から邪馬壱国まではじめとする日本列島本州地図における方位」を
倉頡が作った【禾()】「稲」の字源をそのまま受け継ぐ【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って説明しているからである。
下に、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る「九州の末盧国、伊都(いと)国、奴()国、不弥国までの旅程基点図」を配した。
下図の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る各旅程基点間の方位は、
『魏志倭人伝』が説明する方位に全部合致する。
K241_20240710145901

対馬国が「北」、一大国が「南」になる現在方位と同じ方位規定に対して、
「倭人国」の【倭】の「現在方位を、時計回りに90度転回させる方位規定」とが重なる「一大国から末盧国に至る方位」は
現在方位と【倭】の字源方位が対立して、どちらか一方に決めることができない。
だから、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国に至る方位名」を記していない。


前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』が「不弥国から、南投馬(とうま)国に至るには水行(すいこう)二十日」と説明する航路は、
「不弥国、現在の福岡県の宗像(みなかた)市の神湊(こうのみなと)を出発して、宗像市の沖ノ島を経て、さらに投馬国・現在の山口県の萩(はぎ)市の見島(みしま)を経由して、見島と同経度の投馬国・山口県の長門(ながと)市の港までの海路」であったことになる。

この「水行二十日」と説明される海路は、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が『魏志倭人伝』の記事に加えた注で説明する、現在の一年を二年とする二倍暦(にばいれき)にもとづく日数である。
ゆえに、「水行二十日」は、現在でいうと「二十日の半分の、十日の海路」であったことになる。
なお、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて詳細に解説したように、
「水行二十日の海路」は小国「投馬国」の【投馬】という名称を説明した、【倉頡の文字作成理論】をあらわすための【学術航路】であって、一般的な通常航路ではない。

下に、現在方位と【倭】の字源の転回方位に則る「投馬国・山口県の地図」を配した。
000084_20240710150001

◆『魏志倭人伝』は、「投馬国から、南邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月」と説明する。
この「水行十日、陸行一月」は、上記したように、
裴松之が加えた二倍暦の注にもとづくと――現在では「水行五日、陸行半月」であったことになる。

投馬国・現在の山口県長門港から五日の航海距離となる港は、日本海に面する島根県浜田(はまだ)市の港であったであろう。
浜田港から陸を歩いて半月かかる所は、島根県の県庁所在地の松江市であったと考えられる。

この松江市が、『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と説明する、「邪馬壹()国」という王国名における【壹()】の字源を示す中心地域であった。
というのも、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」と説明する記事が存在するからである。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」において詳細に解説し証明したように――
卑弥呼王朝は「日本列島の九州以下の本州における東は南へ延びる」と考える、
下図に示す「転回日本列島地理」を制定した。
下図に示したように、「邪馬壱国の範囲」は「現在の島根県と鳥取県の西部」であった。
旧国でいうと、「邪馬壱国の範囲」は「石見(いわみ)、出雲、伯耆(ほうき)」であった。
K195_20240710150101

上図に示すように、【倭】の字源「現在方位を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると、
「女王国・邪馬壱国における現在方位の北」が【倭】の字源「転回方位における、東」となる。
ゆえに、「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の小国は、現在の隠岐群島であったことになる。
というのも、隠岐群島は四つの大きな島と約180の小さい島々で構成されるからである。
ゆえに、結局(けっきょく)、隠岐群島の「四つの大島と180の小島」は「皆」という語でまとめられた。
だから、「隠岐群島」は「皆、倭種なり」と表現された。

日本地図の地図帳にて示されているように――
【倭】の字源の転回方位に則ると、女王国・邪馬壱国の中心地・松江市の真東(現在方位の真北)に、日本海上に浮かぶ隠岐群島のうちの島前(どうぜん)がある。
島前は、知夫里島(ちぶりじま)、西ノ島、中ノ島の三つの島で構成される。
だから、「島前」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして有る国」となる。
この島前と、島後(どうご)180の小島で構成される隠岐群島は、上記したように「復()た国有り。皆、倭種なり」と表現された。
ところが――邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」と説明される小国が存在しない。

この「女王国の東、海を渡ること千余里の小国」が存在しない点と、
『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壹()国」と記す――この二点が、
邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は空論であったと断定できる致命的欠陥(ちめいてきけっかん)となる。

『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
したがって、白石以来約300年間も、多くの学者たちが最も正論であると信じた邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、
「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」と誤読して、「邪馬臺()国こそが正しい」と思い込む空想から始まっていた。
言いかえると、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は立論する最初の段階から空想だったのである。

◆下に、【倭】の字源の転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)の邪馬壱国の中心地域となる出雲地方の島根半島の地宜を配した。
下図の右上に、「転回方位と、現在方位の方角」をあらわすようにした。
邪馬壱国の中心地域は、現在の島根県の出雲市と、松江市と、斐川(ひかわ)町と、宍道湖(しんじこ)であった。
〔注 下図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻4号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース図化して転回方位にもとづくようにあらわした図である〕。
000037_20240710150201
上図の「島根半島の北端・東部(転回方位)の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの母親の横顔の形」に相似する。
また、上図の「島根半島の北端西部(転回方位)の、神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの子が誕生してまもなく両足で立ち上がる姿」に相似する。
この「神門水海の地宜」が【邪馬】をあらわした。
つまり、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの子の姿」をあらわす。
ゆえに、「神門水海の地宜」は「邪(なな)めの馬」、すなわち【邪馬】をあらわす。

前ページで解説したように、【邪馬】は「出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」である。
出産児の頭蓋骨は縫合(ほうごう)が完成していないので、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしくせい)の膜(まく)は重ねあわせることができる仕組みになっている。
今日、産婦人科では「出産児が頭蓋骨を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する様子」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
この「小斜径」は【邪馬】と呼ばれたのである。
つまり、「小斜径」は【邪馬】は同義語であった。

また、前述したように「馬・フタコブラクダが餌の草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪(ゆが)む形」に酷似(こくじ)すると見立てられて、【邪馬】と呼ばれた。
(
)「小泉門・矢状縫合・大泉門」と、()「馬・フタコブラクダが草を食べるときの鼻・アゴ・口が邪(なな)めに歪む表情」は、共に【邪馬】と呼ばれていたのである。

上図における「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる神門水海の地宜」は「産後間もなくして両足で立つ、馬・フタコブラクダの子の姿」だけでなく、
さらに、「神門水海と、その周辺地域」は「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」にも見立てられて、【邪馬】と解釈された。
というのも、「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地帯」であったからである。
ゆえに、「神門水海と、その周辺地域」は「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられて、【邪馬】と解釈された。

上図に示したように、「島根半島南部(転回方位)の松江市」は【壱】の字源をあらわした。
というのも、松江市の東端(転回方位、現在方位の北端)は、北緯3535分である。
前ページにて示したように、黄帝陵は北緯3535分である。

前ページにて証明したように――五帝時代初頭の黄帝時代において、黄帝陵の天頂には「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきていた。
「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部の形」は、「女性の骨盤口(こつばんこう)の形」に酷似(こくじ)する。
下に、前ページに配した「女性の骨盤口と十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部の図」を、再度、配した。
0000209_20240710150401

「女性の生殖器の子宮と、産道の多くの部分」は骨盤内にある。
「子宮と産道」は【壹()】の字源となった。
上図に示したように――「女性の骨盤口の形」に酷似する「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が天頂にめぐってきた「黄帝陵」は【壹()】の字源となった。
というのも、黄帝は【壱】の字源となった「女性の子宮や産道、骨盤口を通過する子の出産」を研究したからである。
ゆえに、「黄帝陵と同緯度(北緯3535)の松江市」は【壹()】の字源をあらわした。
以上のごとく、「神門水海」は【邪馬】という語をあらわし、「松江市」は【壱】の字源をあらわした。
これゆえ、「神門水海と松江市が所在する島根半島」は【邪馬壱国】の中心地域であったことになる。

◆そして、「出雲の島根半島と宍道湖の地宜」は、前ページにて解説した「対馬国・瀚海・一大国の地図」をあらわした。

前ページにて解説したように――「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めの、【馬】・フタコブラクダの正面形と足底の形に相似する対馬国の地宜」は【邪馬】をあらわした。
「一大国の西部の地宜」は「【馬】・フタコブラクダの姿」に、「一大国の東部の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの姿」に相似する。
この「【馬】・フタコブラクダと、【牛】・ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源となって、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、「一大国」は「【壱】の字源の牛・ジャコウウシと馬・フタコブラクダの姿に分かる岐(わかれみち)がある」ということで、後世に「壱岐」と呼ばれことになった。
ゆえに、「対馬国の地宜」は【邪馬】、「一大国の地宜」は【壱】をあらわすことになり、
前述したように、「対馬国と一大国の地宜」は【邪馬壱】という語をあらわした。

◆上記したように、「出雲の神門水海の地宜」は「対馬国」と同じく【邪馬】の語をあらわし
「黄帝陵と同緯度(北緯3535)の松江市」は「一大国」と同じく【壱】の字源をあらわした。

だから、「出雲の宍道湖の地宜」は「【牛】・ジャコウウシの足」をあらわした。
というのも、下図に示すように、「卑弥呼時代の宍道湖の地宜」は「足の形」に相似するからである。
0000210

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
下図に示す「奴()国、現在の福岡県福岡市の博多湾北部の海ノ中道」は「【牛】・ジャコウウシの足の形」に相似すると見立てられた。
0000197_20240710150501

この「海ノ中道とつながる志賀島(しかのしま)には――西暦57(建武中元2年)に、後漢の光武(こうぶ)帝から賜(たまわ)った「漢委奴国王」と刻まれる金印が埋蔵された。
というのも、志賀島に金印が埋められたのは、
下図に示す「ジャコウウシの横顔と胴体の形をした伊都(いと)国の地霊の勢いが盛んになって栄える」ように願望するものであったからと考えられる。
この願望を成就するために、伊都国・奴国の九州勢力は東に進出した――
ゆえに、倭地の西方諸国の勢力と戦争することになり、西暦170年頃から倭国は大乱したのであろう。
000074_20240710150601

『魏志倭人伝』は「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と説明する。
ゆえに、倭国の大乱を平定した卑弥呼は、伊都国の一大率(いちだいそつ)と共立して、わが国における最初の国家と王朝を創設した。

だから、「邪馬壱国の宍道湖の地宜」は「奴国の海ノ中道の、ジャコウウシの足」に見立てられたことになる。
つまり、「ジャコウウシの足」に見立てられた「宍道湖」は、
「倭国の大乱を鎮(しず)めて、卑弥呼と一大率が共立して国家と王朝を創設した」とあらわしていることになる。

「宍道湖の清く澄んだ青色の水面」は「夜になると、美しい銀河ブルーを映す鏡(水鏡)」と見立てられた。
「銀河ブルー」とは「月光やあるいは灯下の影響で夏の銀河がうっすらと見える状況における、吸い込まれるような澄んだ青紫(あおむらさき)やカワセミの羽根のような夜空の色――つまり、夏の銀河の暗黒天体部や夏の銀河の背景となる夜空の色」である。
「対馬国と一大国の中間の、瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味するが――
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説して証明したように、
「瀚海」の【瀚】の字は「カワセミ」を意味し、「【瀚】・カワセミが棲()む平坦な川、池、湖、水清きせせらぎや浅瀬」は「海」と呼ばれることになった。

だから、「瀚海」の【瀚】の字は「背面から尾までの羽の色が、美しい翡翠(いすい)色のカワセミ」を意味し、「湖の、宍道湖」は「海」ということになった。
その証拠に、「琵琶湖」の古称は「鳰(にお)の海」である。
つまり、卑弥呼は「宍道湖」を、「カワセミの精霊が棲()む海」と考えたのであろう。

ゆえに、『魏志倭人伝』には「男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む。(中略)。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞を伝えて出入りす」という記事がある。
カワセミは求愛あるいは給餌(きゅうじ)行為において、メスがオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。メスとオスが交替して(30分間隔)で雛(ひな)を育てる。 
卑弥呼は、再度、倭国が大乱しないように願って――
カワセミの生態に注目して、多分、男の弟であろう、男子に飲食を給じさせていたと考えられる。
卑弥呼は国中の男王はじめ氏族の長や男たちが再(ふたた)び戦争せずに――日々、農作業に勤(いそ)しんで豊かな食料を女性や子どもたちに与えるように願って――カワセミのメスのごとくに、男子に飲食を給じさせていたにちがいない。

◆次回は『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹()国」という王国名が正しく、
この「邪馬壹()国」を「邪馬臺()国」と読むのは誤読であって、しかも空想であることを、
今回のブログよりも一層(いっそう)明確になるように詳細に解説して証明する。
この証明によって――多くの学者たちが最も正しいと信じた邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、『魏志倭人伝』の記されていない「邪馬臺()国」を「必ず記されている」と頑強(がんきょう)に思い込む空理空論であったことが明白になる。

|

« 漢字の起源と発明を解明す・18 | トップページ | 漢字の起源と発明を解明す・20 »

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

大嘗祭の証明」カテゴリの記事

まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事

漢字の起源と発明を解明す」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 漢字の起源と発明を解明す・18 | トップページ | 漢字の起源と発明を解明す・20 »