G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・18: 卑弥呼の逆襲

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2024年7月 4日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・18

投馬国の地宜は赤く輝く北アメリカ星雲の形に相似する

◆現在から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
この【文字作成理論の発明】については倉頡伝説で語られることになったが――
現在、学者たちは倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は学者たちの軽率(けいそつ)な単純化による臆説(おくせつ)であった。

というのも、晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)が著した『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、
対馬国から黒歯(こくし)国までの34の小国名を用いて、【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的に詳細に組織的に説明しているからである。

江戸中期の新井白石(16571725)が最初に邪馬台国大和説、そのあとに邪馬台国筑後山門(ちくごやまと)郡説を立論して以来現在までの約300年間、『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明している文献史料であると定まっているが――
『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が都とする所は邪馬壹()(やまいこく)であった」と記す。
「邪馬臺()国」と「邪馬壹()国」のどちらかが正しいのか、学者たちは地道(じみち)な研究を怠(おこた)り、軽率に短絡的(たんらくてき)な意見を優先して「邪馬臺()国が正しい。邪馬壹()国は誤っている」と結論を出した。
しかし、『魏志倭人伝』は対馬国と狗奴国までの34の小国名を用いてもっぱら【倉頡の文字作成理論】を説明しているゆえ、
この観点にもとづいて慎重(しんちょう)に研究すると「邪馬壹()国が正しく、邪馬臺()国が誤っていること」になる。
つまり、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」とはまったく無関係の文献であった。
したがって、「『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する文献史料である」という定説は空理空論であった。

前述したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏の全星座が漬()かる銀河の帯」である。
【夏の銀河】は通称「天の川」、あるいは「銀河」、時には「銀漢(ぎんかん)」ともいう。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真はPIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』には――わが国は、今から約4070年前(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、名門益(えき)氏の青年王子と若たちが中国から大海を越えて男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代に作られた、最初の漢字の書契(しょけい)
(
)黄帝が研究した女性の生殖器官と出産の研究
(
)倉頡が発明した文字作成理論
(
)夏代黎明期の夏音文字
(
)精密な中国海岸線地図と精密な地図の作製方法
を教え広めた――と示唆(しさ)する記事がある。

ゆえに、わが国は今から約4000年前(紀元前2000年頃)の後期縄文時代初頭、【倉頡が発明した文字作成理論】と【夏代黎明期の夏音文字】を習得した。
したがって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた空理空論であった。

以上からして
(
)「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する文献であった」という定説は空理空論であった
(
)「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説も空理空論であった
(
)「倉頡が漢字を発明したと説明する倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」という定説も空理空論であった

『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名や事物の名称などに夏音を用い、あるいは夏音文字を示すものがある。
たとえば「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読むと「夏音」となり、夏音文字の「牛」は「ジャコウウシ」を意味し、夏音文字の「馬」は「フタコブラクダ」を意味した。
また、720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いた夏音文字が多数記されて、現在まできちっと残った。

◆『魏志倭人伝』は――「現在の長崎県北部の対馬(つしま)」の小国名を「対馬国」と記し、「現在の長崎県北部の壱岐(いき)」の小国名を「一大国」と記す。
そして、『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南である」と説明する。この「対馬国と一大国における北と南の関係」は現在の方位規定と同じである。

しかし、『魏志倭人伝』においては――次の末盧(まつろ)国以下、伊都(いと)国、奴()国、不弥(ふみ)国、そして今回のブログで取り上げる投馬(とうま)国と、次のブログの邪馬壱(やまい)国の方位名は現在と異なる方位規定に則(のっと)っている。
つまり、末盧国以下邪馬壱国までの方位名は、倉頡(そうきつ)が考案した【禾()】「稲」を字源とする「現在の方位名(対馬国・一大国の方位)を、時計回りに90度転回する方位規定」に則っている。
倉頡が作った【禾】の字の字源を、「倭人国」の【倭】の字源はそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

つまり、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回~前回(17)まで繰り返して詳細に解説したようにーー
末盧国から邪馬壱国までの方位は【倉頡の文字作成理論における基礎知識】となる【禾】・【倭】の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する方位規定」に則っていた。

産道を通過する出産児は4回、回旋(かいせん)して膣口(ちつこう)から頭が誕生する。
出産第1期の開口期(かいこうき)の後半――出産児はアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、
後頭部の小泉門(しょうせんもん)を先進して、骨盤入口に入りこむ出産児の頭は「時計回りに90度旋回(せんかい)する」。
これを、産婦人科では「第1回旋(だいいちかいせん)」と呼んでいる。
次に出産児の頭は「逆時計回りに90度旋回する第2回旋、第3回旋」をおこない、
最後に「時計回りに90度旋回する第4回旋」をおこなって、出産児の頭が膣口から誕生する。

倉頡は「出産児の頭が、時計回りに90度回旋する第1回旋と第4回旋」をあらわす【禾】の字を作った。
また、倉頡は「出産児の頭が、逆時計回りの90度旋回する第2回旋と第3回旋」をあらわす【呉()】の字を作った。
【禾】の下に【女】が加わる【委】の字源と、【人偏(にんべん)】に【委】が加わる【倭】の字源は、
倉頡が作った【禾】の字源をそのまま受け継いで「第1回旋と第4回旋に因(ちな)んで、【時計回りの90度転回する方位規定】」をあらわした。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が統治した国名は「倭人国」と記す。
ゆえに、前述したように、末盧国・伊都国・奴国・不弥国までの方位名は、【禾】・【倭】の字源に則っていた。
下図は、『魏志倭人伝』が【倭】の字源にもとづいて説明する末盧国から不弥国までの各小国の旅程基点と範囲をあらわす地図である。
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◆前回の、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」では、
『魏志倭人伝』は「不弥国の旅程基点は福岡県宗像(むなかた)市の宗像大社の辺津宮(へつみや)であった」と説明していることを証明した。
『魏志倭人伝』は「不弥国から南、投馬(とうま)国に至るには水行(すいこう)二十日」と説明する。
この「不弥国から南に水行二十日の距離にある投馬国の旅程基点」は
下図に示す「現在の山口県長門市の港」であったと考えられる。
下図に示すように、「投馬国」は「現在の山口県」であり、旧国の「長門(ながと)と周防(すほう)であった」。
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下図の上部に、転回方位に則る本州日本列島地理における「不弥国・宗像地方から南となる投馬国」を示した。
つまり、「不弥国・宗像市の神湊(こうのみなと)から出発し、宗像市の沖ノ島に立ち寄って、山口県萩市の見島(みしま)を経由(けいゆ)して、【倭】の字源の転回方位の真西(現在方位の真南)となる長門港までの航路」が、「二十日の水行(海路)」であったことになる。
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萩市の見島と長門港は東経13111分で同経度である。
ゆえに、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、【見島・長門港は経度が精確に計測できる航路】として、注目されていたにちがいない。
したがって、「見島に門柱が立ち、長門港にも門柱が立つ」と想像されて――「見島と長門港」には「長い距離の門が立つ」ということになり、これゆえ「長門」と略称されたと考えられる。

『古事記』中巻の景行(けいこう)天皇の〔ヤマトタケルノミコトの東国征伐説話〕には――ミコトガ甲斐(かい・現在の山梨県)に出でて、酒折宮(さけおりのみや)に滞在(たいざい)したとき、ミコトは「新治(にいばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾代(いくよ)か寝()つる」という和歌を詠()んだ。すると夜警の火をたく老人(おみな)が、ミコトの御歌(みうた)に続けて「日日並(かかな)べて 夜()には九夜(ここのよ) 日()には十日(とをか)を」と歌った――という記述がある。
老人は「夜を一日、日中を一日と数える方法で、夜は九夜、日中は十日でした」と答える二倍暦(にばいれき)の歌を作った。

『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が、
「倭は中国の正歳四節(せいさいしせつ・つまり元日から大晦日までを一年とする暦が無い。また、春・夏・秋・冬の四節・四季を定めていない)。但(ただ)し、春耕(しゅんこう・田を耕作する春)を一年、秋収(しゅうしゅう・穀物を収穫する秋)を一年とする、中国の一年を二年とする二倍暦がある」と説明する注がある。

この二倍暦だと、「不弥国の港から出発して宗像市の沖ノ島を経て、沖ノ島から萩市の見島を経由して、投馬国・長門港に至るまでの水行(航海)日数」は、今日の「二十日の半分の十日」であったことになる。
つまり、「不弥国の港から出発して沖ノ島を経て、沖ノ島から見島を経由して長門港までの航海日数」は「今日の十日が妥当(だとう)」で、「二十日も費(ついや)した」とは思えない。

そして、漁師はじめ人民たちの不弥国から投馬国の長門港までの通常の水行航路は「沖ノ島や見島を経由しない距離が短い近道」であったにちがいない。
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を説明する学術書】であった。
これゆえ、「不弥国の神湊から出発して沖ノ島と見島を経由して迂回(うかい)して長門港に到着する水行」は【倉頡の文字作成理論について説明する学術海路】であったことになる。
言いかえると、この【学術航路】は小国名「【投馬】の秘密」を補助的に説明する役目を有していた。

◆『魏志倭人伝』には「元日から大晦日までを一年とする暦法」と「二倍暦」が混在しているゆえ、注意する必要がある。

『魏志倭人伝』は「住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)する」という記事がある。
『魏志倭人伝』が記述する最終年は250年頃と推定されるゆえ、250年から80年を差し引いた170年頃に倭国の大乱は始まったことになる。
『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「後漢の第11代の桓(かん)(147167)と第12代の霊(れい)(168188)の間、倭国は大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐する」と説明する。
ゆえに、『後漢書』倭伝が説明する倭国の大乱は『魏志倭人伝』の記述とほぼ同じ168年~170年ころに始まったことになる。

『魏志倭人伝』の倭国の大乱が始まった年を、二倍暦を用いて250年から80年の半分の40年を差し引いた210年頃であったと考えると――『後漢書』倭伝の倭国の大乱が始まった年と40年間くらい隔(へだ)たりがあって一致しない。
だから、『魏志倭人伝』の倭国の大乱が始まった年は元日から大晦日までを一年とする暦法で考えるべきことになる。

『魏志倭人伝』の末部には、「卑弥呼の没後、卑弥呼の後を継いだ男王が大王に就任して、百余人の奴(ぬ・18歳くらいの青年)と婢(ひ・13歳くらいの乙女)を卑弥呼の墓に埋める徇葬(じゅんそう)が決行された。しかし、国中の人々は徇葬を憎悪して男王に服従せず、武器をもって反乱した。この戦争において、政府軍は千余人の反乱人民を殺した」と説明した後にーー
「復()た卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三にて王と為()りしを立てて、国中遂に定まる」と説明する。

壱与が王となった年を二倍暦で考えると、6.5歳で壱与は王となったことになる。
6.5
歳の少女の壱与が、徇葬を憎悪して反乱した人民たちの怒りを鎮(しず)めることができた能力を有していたとは思えない。

13
歳の乙女は、最も澄んだ瞳を有して、暗い銀河部までもよく見える特別に優れた眼力を有している。
特別に優れた眼力と【倉頡の文字作成理論】に精通する聡明な天才的な乙女を、卑弥呼時代の人民たちは「偉大!」と尊崇(そんすう)して、王に就()くことを強く望んだ。
つまり、「卑弥呼の宗女の壱与」とは「壱与は卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表する女性であり、最も澄んだ瞳を有する眼力の持ち主にして【倉頡の文字作成理論】に精通する天才的に聡明な乙女」であったことになる。
ゆえに、徇葬を憎悪して国中の人民が服従しない男王が倭の大王から失脚し、新たに男王に代わって倭女王に選ばれた壱与が、「今後、徇葬は行わないようにする。武器を捨てて戦争は終わりにしよう」と必死に呼びかければ、壱与を尊崇する国中の人民たちは壱与を信じて戦争を中止したにちがいない。

だから、壱与の13歳は元日から大晦日までを一年する暦法によるもので――二倍暦だと壱与は26歳であったことになる。
現在においても、13歳くらいの乙女は暗い銀河部がよく見える、最も澄んだ瞳の持主である。
これゆえ、天体写真家たちのなかには、銀河や星の写真を撮影するときに13歳くらいの乙女を連れてゆき、彼女が説明する助言に従って、撮影する人々がいる。

◆『魏志倭人伝』には「倭の木には投(とう)がある」と指摘する記事がある。
夏音文字「投」は「現在の松の木」を意味した。

松毬(まつかさ)は葉的器官と種子を含む種となる鱗片(りんぺん)が軸に螺旋状(らせんじょう)についている。
松毬は山火事になると松の木から投げ飛ばされて、投げ飛ばされた松毬は裂開(れっかい)し、種子をまき散らす。
地面に投げ飛ばされた種子は山火事のあとの焼け野原にて発芽し、森林が再生する。
松毬から得られる種子は「松の実」と呼ばれ、食用となる。
ゆえに、上記したように夏音文字【投】の字は「山火事になると松毬(まつかさ)を投げ飛ばす松の木」をあらわした。

前述した「不弥国から投馬国までの水行二十日の海路」は、夏音文字の【投】をあらわした。
その証拠に、下図に示すように、「沖ノ島の地宜は、松毬(まつかさ)の一片の鱗片の形」に相似する。
また下図に示すように、「萩市の見島の地宜は、松の実の形」に酷似(こくじ)する。
(
ただし、沖ノ島と見島の寸法は同一倍寸ではない。見島を強調して大き目の倍寸図とした)
0000205

つまり、「不弥国から投馬国までの水行二十日の海路」は「投()が子孫を保存する生態」をあらわした。
ということは、「投馬国」の「投馬」という小国名もまた「種の保存、つまり子孫繁栄」をあらわしていると考えられる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う「投馬国の地宜の秘密」を解明するためには、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に「鬼の姿に似る銀河」がある。

下図の上部に示すように、
「鬼の姿に似る銀河の首」に、
「北アメリカ大陸の形」に相似する「北アメリカ星雲」がある。
「北アメリカ星雲」の右隣には――「ペリカンの姿」に相似するという「ペリカン星雲」がある。
「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」は天文学界で定められた名称である。
S124

「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は肉眼で見える。
空気が澄んで月が出ていない新月の夜ならば、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は月よりもやや大きい部分が明るくなって見える。
卑弥呼時代は、公害もなく空気が澄みきっており、地上灯下も乏(とぼ)しかった。
ゆえに、卑弥呼時代には、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は現在よりも鮮やかに明確に見えた。

下に、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」のカラー写真を配した。
このカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
下の写真における向かって左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
Photo_20240704090401

「北アメリカ星雲」も「ペリカン星雲」も「真っ赤」である。
つまり、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「山火事において、松の木から投げ飛ばされて地面に降りそそぐ、松の葉や枝が燃える炎の塊(かたまり)」と同様に「真っ赤」である。

下図に示すように、「北アメリカ星雲における南部の形状」は、「投馬国西部(現在方位)における豊関(ほうかん・下関市豊浦町と下関市)地区の地宜」におおよそ似ていると見立てられた。
(
「北アメリカ星雲の南部」に相当する中央アメリカには、メキシコはじめベリーズ・グアテマラ・ホンジュラス・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカ・パナマの諸国がある)
0000206

下図に示すように、「投馬国・山口県の下関市南端(現在方位)にある彦島(ひこしま)の地宜」は、【馬】の字源「フタコブラクダの横顔(頭部)の形」に相似する。
この「彦島」が「投げ飛ばされる馬(フタコブラクダ)」、つまり「投馬」という小国名になった。
0000207

「彦島」の【彦】は「彦星・牽牛星(けんぎゅうせい)の彦」である。
ゆえに、「彦島」は「牽牛星」の【牛】の字源「ジャコウウシの顔(頭部)に属すること」になった。
つまり、「投馬国の地宜」は「顔を真っ赤にして怒るジャコウウシの顔(頭部)」に見立てられた。
ゆえに、上図における「彦島」は「ジャコウウシが強大な力で投げ飛ばす馬(フタコブラクダ)の巨体」をあらわすことになった。
したがって、「投馬国の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の巨体を投げ飛ばすことができる、強大な力を発揮するジャコウウシの怒りの顔」に見立てられた。
だから、「山口県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)を投げ飛ばす、怒るジャコウウシの横顔(頭部)の形」に相似すると見立てて――

卑弥呼は小国名を「投馬国」と定めた。

◆「ペリカン星雲」は「ペリカンの姿」に相似するとされるが――
下図に示すように――「ペリカン星雲」は「ペリカンの姿」よりも、むしろ「角(つの)を生やすジャコウウシの子の顔と胴体の形」により相似する。
0000208

「山口県の東部(現在方位)」の旧国名は「周防(すほう)」である。
前述したように、【投】の字は「山火事になると、松の木が松毬(まつかさ)を投げ飛ばし、松毬が裂開(れっかい)して種子を地面にまき散らし、種が滅亡しないように保存する松の木の生態」をあらわした。
この「松の木の種の保存の生態」の観点からして――
「周防」という旧国名は「円周と防御」の略称であると考えられる。
つまり、「周防」という旧国名は「危険を察知すると、子を中心にしてジャコウウシの群れが円周を描いて鼻を外側に向けて並ぶ防御方法」の略称であったと考えられる。
したがって、「周防」という旧国名は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れが円を描いて防御して子の命をまもる、種を保存する生態」をあらわしていることになる。

ゆえに、「北アメリカ星雲」は「子の命を守らんとして、怒るジャコウウシの顔」に、
「ペリカン星雲」は「ジャコウウシの子」に見立てられた。
だから、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「ジャコウウシが滅亡しないための子の命をまもって種を保存する生態をあらわしている」と見立てられたことになる。

◆ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布していたが、5000年前の黄帝時代直後から多くの地域で絶滅したとされる。
しかし、現在は北極地方に分布する。
凍土(とうど)・ツンドラ地帯に生息し、以前は100頭以上の群れがごくふつうに目撃できたと伝えられている。
驚くと鼻声をだして、前足で地面をたたき、頭を低める屈位(くつい)の姿勢となる。
興奮したオスは咆哮(ほうこう)し、前足の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)から麝香(じゃこう)の香りを放つ。

襲ってくる天敵のオオカミを、強大な力を有するジャコウウシのオスが角(つの)でひっかけて肩(かた)ごしにはねあげ、他のジャコウウシが足でふみつぶして殺す。
夏に絶え間なくスゲなどを食べ、脂肪をたくわえて冬にそなえる。
夏が、ジャコウウシの繁殖期間である。
2年に1回、7~8月に妊娠期間9ヵ月の後に、一般的に1産1子を生む。
出産した子は1~2時間後に歩ける。
3~5才で性的に成熟し、寿命は20年ぐらいだとされる。
冬が近づくと、群れは雪の浅い、風で雪がふき飛ばされた地表の露出(ろしゅつ)した餌場(えさば)へと向かう。
餌場の凍ったスゲや苔(こけ)を食べて脂肪の蓄積をおぎない、厳寒(げんかん)の冬の真昼の薄明りのなかでも絶えず動きまわる。

下に、「メスをめぐって闘うジャコウウシのオスの姿の写真」を配した。
この写真は、星野道夫記念ライブラリーにて買った絵葉書の写真である。
この写真には――「投馬国」という小国名となった「馬・フタコブラクダの巨体を投げ飛ばす強大の力を有する、怒るジャコウウシの顔」が撮影されている。
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以上のごとく、まず【投】は「松の木が投げる松毬」を意味することを示し、次に「不弥国の神湊から投馬国の長門市までの【学術海路】」をもって補助説明して、「投馬国」という小国名は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の形状」から成立したこと示していたことになる。

なお、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には――
「師兵(しへい)を以(もって営衛(えいえい)と為())」という文がある。

この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円周を描いて自衛した」と意味する。
つまり、黄帝軍は駐屯するとき、ジャコウウシの群れが組む円陣を作って敵の襲来にそなえていたことになる。
ゆえに、益氏の王子と若者たちは「北アメリカ星雲とペリカン星雲」をもって、縄文人たちに「黄帝軍の駐屯の様子」と「ジャコウウシ」について説明したにちがいない。

◆前述したしょうに――「松毬(まつかさ)は山火事になると裂開(れっかい)し、種子を地面にまき散らして種を保存する」ゆえ、『魏志倭人伝』に記される夏音文字【投】は「松の木」を意味した。
小国名「投馬」は「天敵のオオカミに襲われたとき、円陣を組んで中心に子をかくし、怒るジャコウウシは角(つの)で馬(フタコブラクダ)の巨体を投げ飛ばすことができる強大な力でオオカミを肩越(かたご)しにはねあげ、他のジャコウウシがオオカミを足で踏みつぶして子の命をまもって種を保存する生態」をあらわした。

これゆえ、小国名の「投馬」は――妊婦が子をなんとしても出産しようとして頑張(がんば)る、「怒責(どせき・いきみ、きばる動作)と腹圧」を意味するものであったと考えられる。

陣痛(じんつう)が強くなるにつれ、子宮口が開いていくと、出産児の頭はしだいにおし下げられていく。このときに直腸をおさえるために反射的に、妊婦は大声をあげて怒責(どせき)し、このころから腹圧が加わるようになる。
この「妊婦の怒責と腹圧によって骨盤入口に入りこんだ出産児は、産道を通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する」。
このような「妊婦が子をなんとしても産まんとする気力と頑張りによる生命の誕生」によって「人類の種は保存され滅亡せずに、子孫が繁栄した」。
だから、「投馬」という小国名には「子孫繁栄」という意味も有していたのではあるまいか。

次回は、卑弥呼が居住した王国「邪馬壱(やまい)国」に秘められる【倉頡の文字作成理論】について詳細に解説する。
『魏志倭人伝』は、下図に示すように「邪馬臺()国」とは記さず、「邪馬壹()国」と記している。
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