漢字の起源と発明を解明す・21
邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた(3)
◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明は、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(1657-1725年)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。
また、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」という定説も空理空論、すべて学者たちの軽率(けいそつ)な早合点(はやがってん)による臆説(おくせつ)であった。
というのも、上記したように――『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の記事と、後に追加した小国名が不明の1小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸(ら)国・黒歯(こくし)国の4小国の記事にて、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。
上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下の【夏の銀河のカラー写真】は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
◆学者たちは、『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。
しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて指摘したように、
『魏志倭人伝』の史料は、倭人国の伊都国の港で魏都が用いる楷書に書き直した――つまり、倭人国が魏との外交に用いた文書であった。
この倭人国の外交文書が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。
というのも、『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明しているからである。
たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(20回)までに詳細に解説し証明したように、
(1)「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都国・奴(な)国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国」という名称は、陳寿が知らない「8小国すべての地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」に合致して理にかなっていた。
また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、
(2)『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名はすべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて合致して理にかなっていることを証明する。
(3)また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この小国名不明の点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
(4)さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。
ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(Ⅰ)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜(地図の形)」を詳しく知っているはずもなく、
(Ⅱ)「小国名が不明の隠岐群島の事情」をくわしく知っていたはずもなく、
(Ⅲ)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
詳しく知っていたなんてことはあり得ない。
上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。
このように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国人の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。
以上のごとく、邪馬台国説学者たちが主張するがごとく、『魏志倭人伝』は中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
魏が最高学問と崇(あが)める【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも存在することを説明して、
卑弥呼が魏国に対等外交を求めた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
したがって、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を基盤にして思考する意見であったゆえ、当然、邪馬台国説は空理空論であったことになる。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(20回)までに詳細に解説し証明してきたように、
(一)『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡が発明した文字作成理論】について説明する古文献であった。
(二)「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事は1ヵ所も存在しないことになる。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに【倭】の字源に則(のっと)って「末盧(まつろ)国から邪馬壱(やまい)国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。
倉頡(そうきつ)は、【禾(か)】「稲」の字を作って「時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。
この【禾】の下に【女】を加える【委】の字は【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
さらに、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭】の字も【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
上記のごとき【倭】の字源はこのブログにおける独特の意見であり、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は実在しなかったと思うかもしれないが――
上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上 邪馬臺国を中心に』(光文社発行)の直木孝次郎(なおきこうじろう)教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は、
「内藤は、中国の古書で方向をいうとき、東と南をかね、西と北をかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべきであるとした。これに対して、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。」と指摘している。
上記の文の先頭に登場する「内藤」は、明治時代の歴史学者の「内藤湖南(ないとうこなん)博士」である。
内藤湖南教授が指摘したように、6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に記述されているごとく――6世紀半ばにおいても、中国には3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記述されていた同じ【倭】の字源・原義が保存されていた。
上記したように、内藤博士は『後魏書』勿吉伝には「中国の古書で方向をいうとき、ふつうに東と南をかね、西と北をかねていた。ゆえに、『魏志倭人伝』における〔南〕は現在方位では〔東〕と解するべきである」と指摘した。
ゆえに、3世紀に成立した『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字義は6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝と同じ「〔東〕を〔南〕と解する、現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていた。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~17回までに詳細に解説して証明したように、
末盧(まつろ)国から伊都(いと)国、伊都国から奴(な)国、奴国から不弥(ふみ)国までの陸行の方向における〔南〕は現在方位の〔東〕であった。
だから、陸行でも【倭】の字源をあらわす方向に則っていたゆえ、
学者たちの「倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない」という批判は憶測(おくそく)によるもので誤っていたことになる。
6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が記述されている。
ゆえに、6世紀半ばより以前の3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は
当然、中国においてもわが国においても実在したことになる。
だから、【倭】の字源「現在方位を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると、
末盧国から邪馬壱国までの方位名はすべて正しいことになり、
「日本列島の九州以下の本州の〔東〕は〔南〕へ延びる」と説明に合致する、下図に示す「転回日本列島地理は【倭】の字源にもとづいて成立するものであった」と組織的に説明していたことになって、『魏志倭人伝』の全記事は正確であったことになる。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・11」にて詳細に解説して証明したように、
学者たちが「航海者が大切な方位を誤るはずがない」と批判した根拠・理由の【天の北極を〔北〕と定める方位規定】だと、
倭の使者たちは全員、中国と倭国との中間の大海を往来できず、大海で命を失うことになった。
ゆえに、魏と倭はまったく外交をむすぶことができなかったので『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
しかし『魏志倭人伝』は約2000字で構成されている。
ゆえに、倭の使節は大海を越えて帯方郡庁(たいほうぐんちょう)や魏都に到着して帰還できたと考えるべきことになる。
◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の前々回(19回)と前回(20回)にて詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源にもとづいて『魏志倭人伝』の記事を読解すると、
卑弥呼が倭人国の首都とした「邪馬壱国」は現在の「島根県と鳥取県西部」であり、旧国の「石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」であった。
そして、「邪馬壱国の中心地域」は【倭】の字源の「転回方位」で示す下図のごとき、
「現在の出雲市と松江市が所在する島根半島と、斐川(ひかわ)町と宍道湖(しんじこ)」であったことになる。
〔注 下図の転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、わたくしがトレーシングペーパーで複写して作成した図である。)
上図の上部に示したように、「出雲大社が所在する島根半島北端(転回方位、現在方位だと島根半島西端)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「【馬】・フタコブラクダの母親の横顔の形」に相似すると見立てられた。
「この母親の【馬】・フタコブラクダの横顔」のとなりには「神門水海(かんどのみずうみ)」が在る。
「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に邪(なな)めとなる、産後まもない【馬】・フタコブラクダの子が両足でたつ姿」に見立てられた。
したがって、「神門水海」が【邪馬】をあらわした。
上図の下部の「島根県の県都の松江市東端(転回方位)」は「中国の黄帝陵と同緯度(北緯35度35分)」である。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】を研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は【女性の生殖器官と出産】を【一】の字源と定めた。
後世、【一】は【壱】の字でもあらわすことになったため、【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】は【壱】の字源をあらわすことになった。
だから、「黄帝陵と同緯度の松江市」は【壱】の字源をあらわした。
したがって、倭人国の首都に所在する王国の名は、「神門水海」の【邪馬】に、「松江市」の【壱】が加わる【邪馬壱(やまい)国】であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国の中心地域は、現在の出雲市と松江市であった」と説明していたのである。
◆下に、【邪馬】の「神門水海の地宜」を配した。
下図に示すように「神門水海の地宜」は、「日本全国に生息する日本最大(全長90mm)のトンボ・オニヤンマが池や水田や浅い河岸の水底の泥(どろ)に産卵する姿」に酷似(こくじ)する。
「ヤンマトンボ」は「大形のトンボの総称」である。
「神門水海」の【邪馬】は「ヤマ」と読むゆえ――「ヤンマトンボ」は「邪馬」を「ヤンマ」という訛(なま)りに由来するものであったのかもしれない。
日本に生息するオニヤンマをはじめとするヤンマトンボの成虫は、「夏」に出現する。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が序から前回まで繰り返して解説し証明したように、
夏代黎明期(かだいれいめいき・中期縄文時代末の紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【夏音文字】を教え広めた。
このため、卑弥呼時代には夏音文字が用いられていた。
ゆえに、「夏に出現するヤンマトンボ」は「夏音文字」を象徴する聖なる昆虫となったであろう。
というのも、ヤンマトンボの成虫が多数現れて飛び交(か)う夏季に適量の降水量(雨)にめぐまれれば、イネ(稲)は豊作となるからである。
ゆえに、ヤンマトンボは「秋における、イネの豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。
ヤンマトンボはじめとするトンボの水中に浮かぶ卵は、イネの穂にたわわに実る一粒(ひとつぶ)一粒の籾殻(もみがら・米のかたい外皮)の形に相似する。
下部に、「羽根を左右両側にひろげたトンボの絵」を配した。
前ページに配した「【邪馬】をあらわす神門水海の地宜」に示したように、
「神門水海」の東となり(転回方位、現在方位だと北となり)に、現在、出雲大社が所在する。
下図における「出雲大社の裏山の、円形の八雲山(やくもやま)」を「トンボの頭部」に見立てると、
「出雲大社と神園(しんえん)」は「トンボの胴体と尾の形」に相似することになり、
その両側の「亀山と鶴山」は「トンボの羽根の形」に相似する。
したがって、下図の「出雲大社周辺の航空写真の映像や俯瞰図(ふかんず)」は「聖なるヤンマトンボの形」となる。
この「ヤンマトンボの頭部と体の形」となる「出雲大社の裏山と境内(けいだい)の跡地」こそが、
「毎年の稲の豊作によって国家が繁栄する」を祈願して築造された「卑弥呼が葬られた陵墓」であったと考えられる。
◆『魏志倭人伝』の末部は、卑弥呼が葬られた陵墓について下記のごとく記す。
「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径(けい)百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず、更に相攻伐(あいこうばつ)す。時に当たりて千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為(なり)しを立てると、国中が遂(つい)に定まる。」という記事がある。
この記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼は(250年頃より以前の240年頃に)すでに死んでいた。大きな円墳(えんふん)が作られた。円墳の直径は百余歩(約150m)である。卑弥呼を葬る陵墓に埋葬された徇葬者は、奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらいの乙女)の百余人であった。卑弥呼の死後に男王が倭の大王として就任したが、国中の人民は奴婢百余人の徇葬はあまりも冷酷非情(れいこくひじょう)だと憎悪して、武器を持って倭人国の政府軍と戦った。この反乱において、政府軍は千余人の人民を殺した。この反乱を鎮(しず)めるために、男の大王が失脚(しっきょく)して――13歳で王位につき、卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表となった壱与(は国中の人民たちが尊崇して信頼して愛されていたため)、壱与が倭女王に選ばれた。壱与が倭女王に就任すると(国中の人民は壱与が徇葬を廃止するにちがいないと信じて、武器を捨てたので)、遂に倭人国は平定された。」
「百余人の奴婢」は「卑弥呼の陵墓に埋められた犠牲(いけにえ)」である。
卑弥呼が歴史上に始めて登場した(170年頃)より約50年前(120年頃)に成立していた、後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は
「犠牲」の【犠】の字源を「宗廟(そうびょう)の牲(せい)なり」と解説する。
また、『説文解字』は「犠牲」の【牲】の字源を「牛、完全なるなり」と解説する。
【犠】も【牲】も偏は【牛】であるゆえ、
『説文解字』の【牲】の「完全なるなり」という【牛】は「若いジャコウウシ」を意味した。
ゆえに、「人生で最も若々しく輝く、完全なる18歳くらいの青年たちと13歳の乙女たち」は殺されて、卑弥呼の墓に埋められた「奴婢」であったのである。
「18歳くらいの青年」は「日照りで堅くなった田を耕すことができる強大な腕力と体躯を有し、大海を小舟で漕いで往来できるたくましくて強大な力の持主」であるゆえ、「若いオスのジャコウウシ」のごとく「完全なる犠牲(いけにえ)にふさわしい」と解釈されたのである。
また、「13歳の乙女たち」は「最も澄んだ瞳(ひとみ)を有して、暗い銀河部もよく見える呪的(じゅてき)な眼力の持主が多数存在し、彼女たちは花のように艶(つや)やかで美しく輝いている」ということで、「完全なる徇葬者」にふさわしいことになったのである。
注目すべきは――下図に示した「出雲大社の平面図」における「出雲大社の裏山の、八雲山の直径」は卑弥呼が葬られた冢(円墳)の「径百余歩」と同じく「直径が約150m」ということでである。
「現在の出雲大社の境内の平面図」は、前方墳(ぜんぽうふん)の左右対称の形が少し歪(ゆが)んでいるが――
よく見ると「かつては前方墳であった」と感じられる形となる。
ゆえに、卑弥呼の死後の240年代~250年頃に築造された「前期古墳・卑弥呼の陵墓」(八雲山が後円墳、出雲大社の境内が前方墳)であったと考えられる。
「後円墳」となる「八雲山」は「自然丘陵(しぜんきゅうりょう)」である。
上田宏範(うえだひろのり)著『前方後円墳』(学生社発行)の61ページは、
「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に方形の前方墳をつけたものが多い」と指摘する。
上記したように、出雲大社の裏山・八雲山は前期古墳の特徴の円い自然丘であり、
出雲大社の境内は八雲山より低い前方墳の形に相似する。
ゆえに、「出雲大社の裏山・八雲山と後年に境内となった跡地」は、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼の陵墓」であったと考えられる。
上記したように、『魏志倭人伝』は、
「卑弥呼の墓に百余人の奴婢が徇葬者となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造を決行した卑弥呼の後を継いだ男の大王に国中の人民たちは残忍な徇葬を憎悪して服従せず反乱し、武器を持って政府軍と戦った。ゆえに、倭王朝は千余人の反乱人民を殺した」と記述する。
したがって、徇葬がおこなわれた卑弥呼の墓は人民たちに憎悪されて、結局、250年からまもない3世紀後半頃に破壊されたであろう。
この「破壊された卑弥呼陵墓の前方墳の跡地」に、出雲大社が創建されたことになる。
『古事記』上巻の「葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話」における、「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲り(くにゆずり)の条(くだり)」は、
「天照大御神・大和王朝は横暴な武力をもって出雲・大国主神王朝を滅亡させた。大国主神に国譲りして(邪馬国・大和王朝が邪馬壱国・出雲王朝にかわって倭人国を統治することになり)、その代償として大国主神は天照大御神・大和王朝に壮大な出雲大社を創建させた」と記述している。
大国主神は、勝ち誇る邪馬国・大和王朝がすっかり上機嫌(じょうきげん)になるように平伏(へいふく)して、
破壊された卑弥呼の陵墓の跡地の高天原(たかののはら・倭人国の首都・邪馬壱国の空)に、千木(ちぎ)が高くそびえる壮大な宮殿を、天照大御神・大和王朝が建造するように、企(たくら)んだ。
つまり、天照大御神・大和王朝による邪馬壱国・出雲王朝の滅亡は、国中の人民たちが憎悪した百余人の奴婢を殺して埋めた徇葬と同じ横暴きわまりない暴挙であると――
大国主神は国中の人民たちに訴え、後世に歴史が伝わるように報復(ほうふく)した。
敗北者の大国主命(おおくにぬしのみこと)の名に、「勝利者の天照大御神」と同じ「神」がつくのは、
「大国主命は大和の天照大御神王朝を騙(だま)して、壮大な出雲大社を創建させた英雄」であったからにちがいない。
上記したように、『古事記』上巻の「葦原中国のことむけ説話」における「大国主神の国譲りの条(くだり)」は、「出雲」は「大和以前の高天原(たかまのはら)であった」と伝えている。
当時、「天頂緯度のキャッチ」をもっとも尊重するゆえ「天頂緯度」を「高天」とし、「首都所在地」を「原」と表現した。
ゆえに、「高天原」は「倭国の首都所在地」をあらわした。
『古事記』上巻の「大国主神の国譲りの条」は、「卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばまでは邪馬壱国・出雲が高天原」であった、また「卑弥呼の死後に須佐之男命、その後に大国主神が邪馬壱国・出雲を統治したゆえ、須佐之男命と大国主神の時代までは邪馬壱国・出雲が高天原であった。そして大国主神が国譲りした3世紀末~4世紀初頭から、遷都されて邪馬国・大和が高天原となった」と伝えていたことになる。
だから、2世紀末~3世紀半ばまで、卑弥呼は邪馬国・大和には居住していなかった。
この点からしても、「卑弥呼は大和に居住していた」と主張する邪馬台国説は空理空論であったことになる。
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「中国の海岸線が【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源となった秘密】を解明するためには、
【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
だから、下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上の「夏の銀河各部の名称図」の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「鬼の姿に似る銀河」のうちの東側の「横顔」となる銀河部は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけることにした。
下に、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(北緯35度35分)と長江口(ちょうこうこう・北緯31度30分の長江の河口の湾中央)の天頂緯度線の図を配した。
下図の下部には「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」の「横顔には両目(二つの目)の形」があり、「横顔の後頭部には大きく見開いた目の形」があり、「横顔のアゴには切れ長の細い目の形」がある。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」の別名を、わたくしは「四つ目の銀河」と定めた。
「四つ目の銀河」は、倉頡伝説においいて「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。
医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。
【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は
【邪馬】と呼ばれることになった。
白川静著『字統』は【不】の古代字形(契文形・金文形)にもとづいて「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
この白川静著『字統』の【不】の解説は「女性の生殖器官の子宮・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管・卵巣(らんそう)と、花の生殖器官のめしべ・おしべ・花糸(かし)・子房・胚珠(はいしゅ)・胚のう・花弁などの両者の機能は相似する」が、「女性の産道と花の台(うてな・萼拊)の機能は相似しない」という否定・打消しの「ず」を意味した。
だから――【邪馬】の頭蓋骨からなる出産児は【壹(壱)の字源の「女性の生殖器官の産道」を通過して誕生するゆえ、【邪馬】と【壱】が合体する【邪馬壱】という国名は合理となる。
しかし、「【邪馬】の頭蓋骨からなる人・出産児は【臺(台)】の字源の「花の台(うてな・萼拊)からは誕生しない」ゆえ、当然、【邪馬】と【台】を合体させる【邪馬台国】という国名は無理矢理(むりやり)にくっつけたきわめて不合理・幻想・空理空論の産物であったことになる。
だから、卑弥呼が倭人国の首都所在地と定めた王国名は【邪馬壱国】であり、明白に【邪馬台国】ではなかった。
◆下の「黄帝時代の黄帝陵と長江口の天頂緯度線の図」に示したように、
「四つ目の銀河のうちの後頭部とアゴにつく両目」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に隣接して、「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の銀河」がある。
この「【邪馬】の銀河」は、13歳の瞳がもっとも澄んだ乙女たちならば肉眼でキャッチできる、暗くかすかに見える銀河部であった。
ゆえに、「【邪馬】の銀河」は【婢】の字源をあらわすことになった(「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」が【婢】の字源となった)。
上記したように、【婢】は「瞳がもっとも澄んだ、暗い銀河部も見える13歳くらいの乙女」を意味した。
下図は「睥睨(へいげい)」という語の解説図である。
「四つ目の銀河の後頭部とアゴにつく両目」は「天下を睥睨する」という文における「睥睨」の語源となった。
「睥睨」は「まわりをにらみつけて、威力(いりょく)を示す両目」である。
上図に示したように、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は【兒(児)】・【睨】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は「膣口(ちくこう)から誕生した【兒(出産児)】が空を仰ぐつぶらな目」と見立てられて、【兒(児)】の字源となった。
また、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は【婢】・【卑】・【睥】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は「アゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となって、骨盤入口に入りこむ出産児の様子」に見立てられて、【卑】の字源となった。
ゆえに、【卑】の字源は「天から俯(ふ)して観る地宜(地図の形)」をあらわした。
「四つ目の銀河のアゴにつく切れ長の細い目」に隣接する「激流の銀河」は「中国の国土の東方の大海(黄海・東シナ海)」に見立てられた。
「激流の銀河」に隣接する東側の「波の銀河」は「東の海から西の中国の海岸に寄せる波」に見立てられた。
そして上図に示したように、「鬼の姿に似る銀河」は「中国全土」に見立てられ、
「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国の海岸線」に見立てられた。
だから、「波の銀河」・「激流の銀河」・「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国全土をもれなく包む海岸線」に見立てられた。
上記したように、「中国の全土の海岸線に波が寄せる大海」に見立てられた「激流の銀河」に隣接する「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細目の銀河」は【卑】の字源をあらわした。
だから、【卑】の字源は「天から俯して観る、中国全土を洩れなく包む海岸線の地図の形」ということになった。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」で詳細に解説したように、
中国の五経の第一にあげられる古典の『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は、
「中国全土を洩れなく包む海岸線」を「弥綸(びりん)す」と表現する。
つまり、『易経』の繋辞上伝は、下記のごとく説明する。
「易は天地と準(なぞら)う。故に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察す。」
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「易は天と地になぞられて作られた。ゆえに天と地の道を弥綸する(天と地の道が途中において破れ目・裂け目の状況になっても、つくろいおさまって洩れなく包みこむ)。仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河(天)から俯瞰(ふかん)する地図を作製した。」
下に示したように、「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「十字の銀河より南の銀河の形」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下に示したように「十字の銀河と鹿の横顔に似る銀河」は「オス鹿の横顔に似る銀河」ということになる。
よって、下の左側に配した【道】の金文形の字源銀河は右側の「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
上図に示したように、「廟島列島(びょうとうれっとう)の地宜」を「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「山東半島の地宜」は「鹿の横顔」に観える。
したがって、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜であった。
だから、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準(なぞら)う」と表現したのである。
『説文解字』は、【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」と解説する。
「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには「必ずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。
つまり、遠くの地を往復する人も大海を往来する人も天頂緯度が測定できれば必ず家族が待つ家に帰還することができた。
この「天頂緯度線をキャッチして帰家する方法」を「トカゲの帰家性」に見立てて、『説文解字』は【易】の字源を「蜥蜴なり」と解説した。
だから、「遠くの地の往復や大海の往来の道(道中)において、所々にて観測した地点の緯度はその観測地点における天頂緯度と定まっている原理」を、
『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」と表現したことになる。
下に示すように、「山東半島の地宜」は【弥】「カンムリカイツブリの頭(横顔)と首までの形」に相似する。
また、「山東半島の付け根から南と北へとつながる海岸線」は「空を飛ぶ、【弥】のカンムリカイツブリの翼の形」に相似する。
この「【弥】の南の翼」は「長江口と杭州湾にて、破れ目や裂け目となる」が、「杭州湾の南岸からはなめらかな円弧(カーブ)を描いてつくろいおさまる」。
このように、「中国の海岸線」は「中国全土を洩れなく包みこんでいる」。
だから、『易経』繋辞上伝は「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
以上からして、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、
上記の現代語訳のごとく「仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河(天)から俯瞰(ふかん)する地図を作製した」と説明していたことになる。
『説文解字』は【呼】の字源を「息を外(は)くなり」と解説する。
下図に示すように、中国南部の海岸にある「杭州湾(こうしゅうわん)」には、「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外(は)き出される」ゆえ、「杭州湾」は【呼】の字源となった。
また、下図に示すように、「杭州湾の地宜」は「水鳥の鳰(にお)の姿」に相似すると見立てられた。
「鳰」は【呼】の字源となった。
だから、「杭州湾」は【呼】の字源地宜であった。
いままで説明して解明したように、下図に示す「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」でも解説したように、
沖ノ島と神津島は日本列島の東西の両端にあって遠く離れている。
しかし、2世紀末から3世紀半ばでも天頂緯度を測量していた慣習と伝統によって――
下図に示すように、一女子が沖ノ島と神津島は同緯度(北緯34度15分)であることに気づいた。
日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように、日本列島は「西冷・東暖」となる。
中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かいゆえ、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し、日本列島の「東端」と中国海岸線地域の「南暖」は「暖かい気候」で合致する。
だから、一女子は「日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国海岸線地域の暖かい気候の〔南〕の方に延びている」と立論した。
前述したように、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方へ延びている」と唱えられた立論基盤の「中国全土の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
ゆえに、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方に延びている」と立論して倭女王に選ばれた一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになったのである。
男王たちは卑弥呼が立論した転回日本列島像論は真実・真理であると激しい衝撃をうけ、そして倉頡の神霊の激怒(げきど)・祟(たた)りを畏怖(いふ)した。
だから、倭国の大乱は収(おさ)まった。
卑弥呼王朝は下図のごとく、西日本にあって【東の端(はし)となる東海地方が南】となる【転回日本列島地理】を制定した。
「日本列島の〔東〕」は〔南〕となる方位」は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位」であった。
ゆえに、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。
前述したように、6世紀半ばに成立した中国の『後魏書』の勿吉伝には【倭】の字源「方位規定に則る方位」が記述されていたゆえ、
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいては、中国においても【倉頡の文字作成理論】が最高学問として保存されていた。
だから、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めて、「倭人国にも【倉頡の文字作成理論】が存在する」と伝える文書を魏に送って、魏との対等外交を求めた。
かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した次第である。
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