漢字の起源と発明を解明す・22
「出産」をあらわす斯馬国と巳百支国の解説
◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。
倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(4)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
この〔漢字習得の絶対的定説〕は考古学の見解にもとづく。
漢字が書かれている最も古い史料となる鉄剣や銅鏡が出土した年代は5世紀あるいは6世紀である。
ゆえに、考古学では埋蔵史料から、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。
しかし、この〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていた。
というのも、『魏志倭人伝』には下記のごとく記事が存在するからである。
「魏都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国の文書に用いられる文字(楷書)と、倭女王はじめ倭人国の王たちが文書に用いる文字(夏音文字)は字義が差錯(ささく・相違)していた。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書も、倭人国の夏音文字も共に【夏の銀河各部の形状】を字源・原義とするものであった。ゆえに、倭人国の伊都(いと)国の港では、外交に用いる文書や賜遺(しい)の物の品書きに用いる文字が差錯しないように【夏の銀河各部の形状】を観察して捜露(そうろ・一字一字ずつ点検し、確認して)、楷書と夏音文字の両者の間に差錯(相違)が生じないように正確に翻訳し変換していた。」
『魏志倭人伝』は2世紀末~3世紀半(なか)ばまでの倭人国の様子を記述する。
だから、5世紀より以前の、2世紀末~3世紀半ばにはすでに夏音文字が存在していた。
ゆえに、学界が断定する〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていたことになる。
わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)の9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までが【わが国の漢字音】と題して、下記のごとく指摘する。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
下図の「漢字生長史」に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、
この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
上記した白川静著『字統』が「わが国の国語といて残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する「上古音」よりも古い、わが国に残った最古の漢字音は――
下図に示すように、中国の夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字であった。
わが国には紀元前21世紀(紀元前2050年頃)に、中国から夏音文字が伝来した。
したがって、紀元前11世紀の周代初頭の中国に現存する最古の上古音の漢字音よりも、紀元前21世紀の夏代黎明期にわが国に伝来して習得された夏音文字の字音は約1000年も古い。
◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には「後稍(のちやや夏音を習う)という記事がある。
この記事は――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「壬申の乱(672年)の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した――と説明するものであった。
この遣唐使の「後稍夏音を習う」という報告から10年後の712年(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)は――きわめて難解な文章で『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の伝来史や夏音文字に保存された【倉頡の文字作成理論】について説明している。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いて夏音文字が多数残っている。
また、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国の記事」は「倭人国には夏音文字が存在した」と説明していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭女王「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音文字の字音であった。
また、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相(がいしょう・外務大臣)の「難升米」を「ナシメ」、さらに帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)に倭人国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将の「載斯烏越」を「ソシアオ」、13歳で王となり後年に倭女王となった「壱与」を「イヨ」と読むと夏音文字の字音となる。
また、わたくしが示した「対馬国」から「邪馬壱国」までの8ヵ国の読み(字音)には「夏音」と呼べないものもあるかもしれないが、
でもこの8ヵ国の読みは中国の魏以前の中古音や魏の字音ではないことは確かであるゆえ、
きっと『魏志倭人伝』における33ヵ国の小国名には夏音で読むものが多数存在したにちがいない。
また、『魏志倭人伝』における倭人国の官職名も夏音で読むものが存在したにちがいない。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が解明したように、
夏音文字の【卑】は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」、【弥】は「カンムリカイツブリ」、【呼】は「鳰(にお・カイツブリ)」を意味した。
また、夏音文字では、【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」、【投】は「松の木」を意味した。
ゆえに、『古事記』上巻の随所に残っている多数の夏音文字が表示しているように、
夏音文字が伝来した中期縄文時代末~卑弥呼時代まで、「様々な物の名」は夏音文字で記されていたことになる。
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、男鹿半島・八郎潟が所在する東北地方全域にも棲(す)む、冷酷で恐ろしい神(つまり、地霊)】と認識したにちがいない。
〔注 「日本列島の東北地方にも倉頡の死霊が棲んでいる」と縄文人たちが考えた根拠・理由は、
このブログの後半にて解説して証明する。〕
上記した【倉頡が死刑と定めた(Ⅲ)の掟】によって、【書いた夏音文字は消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
上記したように、【書かれた文字は消滅して後世に残らないことがなった】が、
しかし、【夏音文字は様々な物の名を記し用いられて残った】ゆえ
『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に楷書で記されて多数残った。
以上のごとく、考古学の【文字を書いた史料が発見されないものは、文字とは言えない】と単純に断定した意見は偏見(へんけん)であり根本的に誤っていたことになる。
◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(21回)までに、
『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの8ヵ国の位置と範囲を解明して証明した。
この結果、『魏志倭人伝』における全方位記事は正確であったことを証明し、
(1)邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』の記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」という指摘は空論であったことを証明した。
(2)また、邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるので、中国の史料研究の観点から思考・立論しなければならない」という指摘も空論であったことを証明した。
「『魏志倭人伝』の史料」は「卑弥呼が魏との対等外交を求めて、魏の最高学問である【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも保存されて残っている状況について夏音文字を用いて説明した文書を、伊都国の港で魏が用いる楷書に翻訳して作った文書」であった。
だから、「『魏志倭人伝』に用いられた史料は倭人国の伊都国の港で作られた文書」あった。
ゆえに、結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』は「わが国にて保存されていた【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について説明する史料」であったことになる。
さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の19回と20回にて、
(3)「倭女王・卑弥呼が倭人国の首都とした王国の名」は『魏志倭人伝』が記したとおり「邪馬壹(壱)国」であり、
江戸時代中期に生存した新井白石(1657-1725年)の晩年から今日までの約300年間、多数の学者たちが信じた「邪馬臺(台)国」ではないことを詳細に解説して証明した。
したがって、「邪馬臺(台)国説」は「この世に存在しなかった邪馬台国を存在した」空想した、空理空論であったことになる。
◆『魏志倭人伝』における倭人国の最初に登場する小国は対馬(つしま)国、8番目が倭人国の首都となる邪馬壱(やまい)国、9番目が斯馬(しま)国、10番目が巳百支(じはき)国、11番目が伊邪(いや)国である。
このブログでは、対馬国から9番目の「斯馬国」と、10番目の「巳百支国」の位置と範囲を解説し証明する。
下図に、斯馬国・巳百支国・伊邪国の三小国の地宜(範囲)をあらわした。
「斯馬国」は現在方位にもとづくと「邪馬壱国東部の鳥取県西部(旧国の伯耆)に隣接する、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」である。
「斯馬国」を旧国でいうと「因幡(いなば)と但馬(たじま)」である。
「巳百支国」は「現在の京都府の北部」である。
「巳百支国」は旧国の「丹後(たんご)」である。
「伊邪国」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部」である。旧国の「丹波(たんば)」である。
下図に、【倭】の字源の「転回方位」にもとづく「斯馬国の地宜(範囲)」を示した。
旧国の因幡であった鳥取市にわが国最大の砂丘「鳥取砂丘」がある。
「鳥取砂丘」は「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)」が連想される。
ゆえに、「鳥取砂丘がある因幡」が「斯馬国」の「【馬】・フタコブラクダ」をあらわした。
2世紀前半に成立していた「字典の聖典」とたたえられた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【斯(し)】の字について「柝(さ)くなり」と解説する。
つまり、【斯】の字は「母体から子どもが裂けて勢いよく出産する」を意味した。
陣痛(じんつう)が長時間つづく女性の苦しむ様子を伝えるテレビを見ていたとき、その母親は大声で「大砲の弾丸が発射されるように、わが子よ早く生まれて頂戴(ちょうだい)よ」とさけんでいた。
下図の「斯馬国の地宜」は、その時に母親が願った「発射される大砲の弾丸のように、斯馬国南部の先端が勢いよく出産する胎児の頭の形」となる。
ゆえに、「斯馬国(因幡・但馬)の地宜」は「順調に胎児が母体の子宮から柝(さ)けて膣口(ちくこう)から【邪馬】の頭蓋骨を有する出産児が無事に誕生する、安産の様子」をあらわしている。
だから、上図の「現在の鳥取県東部と兵庫県北部(因幡と但馬)」の小国名を、卑弥呼は「斯馬国」と定めたことになる。
上記したように、「斯馬国・因幡」には「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠が連想される、日本一広い鳥取砂丘」が所在する。
『魏志倭人伝』において、小国名で【馬】の字がつくのは「斯馬国」のほかに、「対馬国」、「投馬国」、「邪馬壱国」、「邪馬国」の計5ヵ国である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、今回までをもって、『魏志倭人伝』に記される「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の5ヵ国のすべての【馬】の字義は「フタコブラクダ」であることを証明した。
だから、【馬】の字源は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」であったことになる。
◆下図に、「巳百支国の地宜(範囲)」を示した。
「旧国の丹後(現在の京都府北部)の地宜」は「頭の大きな出産児の姿」に相似する。
つまり「丹後半島の地宜」は「出産児の頭」、「丹後半島の付け根から大浦(おおうら)半島までの地宜」は「出産児の首から足までの形」に相似する。
下図の「旧国の丹後の地宜」は古代字形の【巳】の字形に相似する。
ゆえに、「丹後の地宜」を【巳】をあらわした。
下図の「天橋立(あまのはしだて)と阿蘇海(あそかい)を周囲する湖岸」が【百】をあらわしたと考えられる。
そして、「丹後半島東部の大浦半島の地宜」が【支】をあらわした。
つまり、「大浦半島は大きな丹後半島から支(えだわか)れてつながる小さな半島」であるゆえ、「大浦半島は【支】をあらわした。
したがって、卑弥呼は小国名を「巳百支国」と定めたことになる。
下図に示すように、「丹後半島の付け根(首の部分)」にある「天橋立と阿蘇海」は「母体の子宮やへその緒(お)の形」となる。
上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
安芸(あき)の宮島・陸奥(むつ)の松島とならぶ日本三景の一つに数えられる「天橋立」は、
宮津湾北西岸から与謝(よさ)ノ海(宮津湾)と西方の阿蘇海を真一文字にたち切り、南西につき出した全長3.6kmの砂嘴(さし)である。
天橋立南部の文珠(もんじゅ)寄りは東西二か所で切れている。
この二か所で与謝ノ海(宮津湾)と阿蘇海がつながり、回旋橋(かいせんきょう)と大天橋(だいてんはし)がかけられて、歩いて渡れるようになっている。
上図に示したように、「与謝ノ海南部の宮津湾の地宜」は「子宮に宿る胎児の頭の形」に相似し、
「宮津港より北部の与謝ノ海の地宜」は「胎児の首から足までの形」に相似する。
そして、「天橋立南部の阿蘇海から宮津湾までの狭い水道」は「母体の臍(へそ)と胎児の臍の緒(お)の形」に相似する。
これゆえ、「阿蘇海」は「女性の生殖器官(子宮、産道など)」に見立てられた。
女性の生殖器官の多くは、骨盤内にある。
よって、「阿蘇海」が「女性の生殖器官」に見立てられ、「天橋立と阿蘇海の周辺地域」が「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
下図は、「女性の骨盤図」である。
上図の「女性の骨盤」は「子宮を包囲して胎児の命をまもる」ということで――つまり「天敵のオオカミに襲われると、中心に子を隠し子の命をまもるために、円陣を組むジャコウウシの群れ」に見立てられた。
ジャコウウシは【百頭以上】で群れていたという。
つまり、「ジャコウウシの【百頭以上】の群れ」が【百】をあらわした。
ゆえに、上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
前述したように、「丹後半島から支(えだわか)れる形の大浦半島」が【支】をあらわした。
以上からして「現在の京都府北部の丹後」が「巳百支国」であったことになる。
◆前ページにて説明したように、【倉頡が死刑と定めた3つ掟(おきて)】における(Ⅲ)は、
「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員をも死刑にする」であった。。
この(Ⅲ)の掟のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう小国名「【巳百支】をあらわす銀河の解説」を容易に理解していただくためには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の右下に、わたくしが「胎児の姿に似る銀河」、「巨龍の顔の銀河」、「銀河の中心」と名づけた――銀河系の中心方向がある。
下に、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心の図」を配した。
上図の「胎児の姿に似る銀河」は、前ページにて【巳】の古代字形に相似すると指摘した「丹後半島から大浦半島までの、胎児の姿を形成する地宜」に類似する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河」は【巳】をあらわした。
前ページの「夏の銀河各部の名称図」における左上の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」を「女性の横顔」に見立てると、
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心周辺」は「女性の生殖器官を周囲する骨盤」に相当する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心方向」が「百頭以上の群れで円陣を組むジャコウウシ」に見立てられるゆえ、【百】をあらわすことになる。
また、下図に示すように「第5週ころの胎児の姿」は「胎児の姿に似る銀河の形」に相似する。
さらに、下図に示すように「第5週頃の胎児の姿(側身形)」は「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てられて、
「ジャコウウシ」は「骨盤」に見立てられた。
というのも、「円陣の中心に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられた。
ゆえに、「【百頭以上】のジャコウウシの群れが作る円陣」は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
ゆえに、「胎児の姿に相似するジャコウウシ」は【百】をあらわすことになった。
下図に示すように、「巳百支」のうちの【支】をあらわす「大浦半島」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、「巨龍の顔の銀河」が【支】をあらわした。
以上のごとく、「銀河系の中心方向の銀河」は「【巳百支】の銀河」であったことになる。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」はこれまで、「対馬国から巳百支国までの10ヵ国の位置や範囲」を詳細に具体的に解説し、矛盾点が一点も無く、
「これら10ヵ国の名称」は「すべて【倉頡の文字作成理論】について説明していること」を証明した。
そして、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の名は「邪馬壹(壱)国」であって、「邪馬臺(台)国」ではないことを詳細に具体的に明確に証明した。
つまり、邪馬台国説においては【邪馬】は「大和(やまと)」の「やま」や、「山門(やまと)」などの地名の「山」であると主張する。
しかし、このブログが詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の「対馬国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・邪馬国」の5ヵ国名共通する【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
したがって、下図に示す「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって重なりあう、その表情」は【邪馬】と名づけられた。
そして、下図に示す「草を食べるフタコブラクダの【邪馬】の表情にそっくりの、産道を通過する出産児の頭蓋骨(後頭骨・頭頂骨・前頭骨)の5枚の骨が重なりあって小さくすることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性の膜(まく)」もまた、【邪馬】と名づけられた。
「産道」は【壹(壱)】の字源であった。
ゆえに、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊(出産児)」は「【壹(壱)】の産道を通過して誕生する」ので――卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名を【邪馬壹(壱)】と定めたことになる。
白川静著『字統』は【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形」であると解説する。
「花の萼拊」とは「花の臺(台・うてな)」のことである。
白川静著『字統』が解説する【不】の字源「花の台(萼拊)」は「花の生殖器官における花弁を支(ささ)える役割」を有する。
いっぽう、「女性生殖器官における産道」は「出産児が通過して誕生する通路である」ゆえ、両者の役割は同じではない
上記したように、【臺(台)】の字源は「花の台」であり、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊」は【臺(台)】の字源「花の台(うてな)」を通過して誕生しない。
以上のように、【邪馬】と【臺(台)】が結ばれる【邪馬臺(台)国】という王国名は「人間の赤ん坊は花の台(うてな)を通過して誕生する」ということになるので――きわめて非理・不条理きわまりないナンセンスな意見であったことになる。.
下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が倭人国の首都が所在した王国名は「邪馬壹(壱)国」であったと記し、「邪馬臺(台)国」であったと記していない。
だから、学者たちがもっとも正しいと信頼した「邪馬臺(台)国説」は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、完全なる空理空論であったことになる。
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