漢字の起源と発明を解明す・20
邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた(2)
◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(19回)まで、逐一(ちくいち)、詳細に具体的に組織的に解説し証明してきたように、
学者たちは「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記が存在せず――
また、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する古文献であった。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(1657-1725年)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。
だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」という定説もまた空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であったことになる。
◆上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。
というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源「現在の方位規定を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【末盧国以下、日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した日本列島地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
◆学者たちは、『魏志倭人伝』という史料について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。
しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(19回)までに証明したように、
『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も誤りがなく、【倉頡が発明したの文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。
『魏志倭人伝』における伊都(いと)国を説明する記事は――
卑弥呼が統治していた2世紀末~3世紀半ばにおいて、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき・わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字が存在し、
卑弥呼はじめ諸国の王や大夫(だいふ)たちは夏音文字を使用していた。
中国の魏の都はじめ、魏の出張政庁が所在する朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国では字形が秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)を用いていた。
このため、倭人国の多数の字源・原義を保存する夏音文字と幾つかの字源・原義を失った魏都・帯方郡・諸韓国の楷書においては、字義が差錯(ささく・相違)するものがあった。
ゆえに、伊都国の港では魏・帯方郡・諸韓国と倭人国との外交に用いた伝送の文書や、賜遺(しい)の物の品書きに用いた文字を誤読(差錯・相違)しないように、
夏音文字と楷書の字源・原義を示す【夏の銀河各部の形状】を観察して点検・確認して正しく翻訳(ほんやく)していた。
この伊都国の港で正確に楷書に直した倭人国の外交に用いた文書(国書)が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して史料にし、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。
『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明している。
たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(19回)までに詳細に解説し証明したように、
「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴(な)国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国という8ヵ国の名称用いられる文字の字源・原義」は、すべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、
また「8ヵ国の名称に用いられる文字の字源・原義は各小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」とすべて理にかなっていた。
また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて適合して理にかなっていることを証明する。
また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。
ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(1)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜」を詳しく知っているはずもなく、
(2)「小国名が不明の隠岐群島の事情」を知っていたはずもなく、
(3)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
すべて知っていたなんてことはあり得ない。
上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。
以上のごとく、『魏志倭人伝』は学者たちが考えたごとく、中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
卑弥呼が夏音文字で書いた文書を倭人国の伊都国の港において魏が用いる楷書に書き改められた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
言いかえると、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を思考基盤とする意見であったゆえ、邪馬台国説は空理空論であった。
その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」について説明する記事が1ヵ所も存在しない。
◆というのも、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が都とした所の名」を、下記のごとく「邪馬壹(壱)国」と記し、「邪馬臺(台)国」と記していないからである。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて、詳細に具体的に解説して証明したように、
下図に示したように、「邪馬壱」の【邪馬】という語は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと「島根半島北部の神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」があらわした。
というのも、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であり、
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、
「神門水海」は「産後まもなくして【馬】・フタコブラクダの子が両足で立つ姿」に相似するゆえ、【邪馬】となったからである。
上図における【邪馬】「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地域」であるゆえ、「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「子宮口がすっかり開き、骨盤入口に入り込んで産道を通過する出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた「神門水海」の【邪馬】は、【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」と密接に関連する。だから、【邪馬】という語と【壱】の字源は結合して、【邪馬壱国】という卑弥呼が居住した王国名となった。
【邪馬壱】の【壱】の字源は「島根県の松江市の地宜」があらわした。
というのも、上図における「島根県の松江市北部(現在方位、転回方位では東部となる)は、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と同緯度(北緯35度35分)であるからである。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮、骨盤入口、産道)と出産】を研究した。
黄帝が研究した【女性の生殖器と出産】は【壱】の字源となった。
ゆえに、「黄帝陵」と同緯度の「松江市」は【壱】の字源を示すことになった。
〔上図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)氏(鳥取埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース複写して転回方位のもとづくようにした図である〕。
◆『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。
医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。
【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」とよばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜によって、出産児の頭蓋骨の5枚の骨は【小斜径】となるように重ねあわせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【小斜径となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。
餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は【邪馬】と呼ばれることになった。
上記したように、「子宮口がすっかり開くと、【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門から成る出産児の頭蓋骨が骨盤入口に入りこんで産道を通過して膣口(ちつこう)から出産児の頭が誕生した」。
ゆえに、「子宮、骨盤入口、産道」は【壱】の字源となった。
また、【邪馬】の【馬】の字源の「フタコブラクダ」も【壱】の字源をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
◆下に、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説した「一大国、現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
下に図示したように、「一大国・壱岐の西部の地宜は【馬】の字源のフタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の東部の地宜は【牛】の字源のジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
上記したように、【馬】の字源の「フタコブラクダ」は【壱】の字源となった。
というのも、「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の頭蓋骨の【小斜径】の仕組み」は【邪馬】と呼称したゆえ、
【邪馬】の【馬】「フタコブラクダ」は【一】の字源をあらわすと、倉頡が定めたからである。
【一】は後世に【壹(壱)】となったゆえ、【馬】「フタコブラクダ」は【壹(壱)】の字源をあらわすことになった。
【牛】の字源の「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れは円陣を作り、子を円陣の中心に隠して防御(ぼうぎょ)した」。
この「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性の骨盤」に見立てられ、「円陣で包囲されるジャコウウシの子たち」は「女性の骨盤で包囲される子宮、産道」に見立てられてたため、「ジャコウウシ」もまた【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、後世、「一大国」は「【壱】の字源の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの地宜が東西に分かれる岐(わかれみち)がある」ということで、「壱岐」と呼ばれることになった。
下に、前ページにて【邪馬】と解した島根半島西部(現在方位)に所在した卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」を配した。
「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、産後まもなく両足で立つ【馬】・フタコブラクダの子の姿」に相似すると見立てられて、【邪馬】をあらわすことになった。
上記したように、「神門水海の地宜」に相似すると見立てられた【馬】・フタコブラクダの子」は【壹(壱)】の字源をあらわすが、【臺(台)】の字源をあらわさない。
というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は、
【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説するからである。
「花の萼拊」は、つまり「花の花弁の集合体の花冠(かかん)をささえる台(うてな)」である。
上記した白川静著『字統』の【不】の字源解説は――【臺(台)】の字源「花の生殖器官における台(うてな)」と【壹(壱)】の字源「女性の生殖器官における産道の機能・役割」は同じでは非(あら)ず――と、否定・打消しの「ず」をあらわす。
だから、「神門水海」は【壹(壱)】の字源「【馬】・フタコブラクダの子」をあらわし、【馬】の字源「フタコブラクダ」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の【邪馬】(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわした。
ゆえに、「松江市の地宜」は、【馬】「フタコブラクダ」と密接に関連する【壹(壱)】の字源「女性の生殖器官の子宮・産道」をあらわすことになった。
要するに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壹(壱)】の字源をあらわす【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣であった。
上記したように、「神門水海」の「【邪馬】のフタコブラクダの子」と【臺(台)】の「花の台(うてな)」は、白川静著『字統』の【不】の字源解説が示しているように――
【邪馬のフタコブラクダ】と【花の台(うてな)】の両者は相似せず、また両者には関連性が無い。
ゆえに、【邪馬】と【臺(台)】が結びつく【邪馬臺(台)】という国名は、本来(ほんらい)、不条理であるゆえ成立してはならない空想の産物であったことになる。
しかし、新井白石以来現在まで約300年間、学界において【邪馬】に【臺(台)】が加わる、理にまったくかなわない【邪馬臺(台)】という名称が空想上にて存在することになった。
このように、邪馬台国説は不条理きわまりない空理空論であった。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説したように、
倉頡は「出産児」を【弥】の字源「カンムリカイツブリ」に見立てた。
胎児(たいじ)は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごすが、なぜ胎児は窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究した黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この未解明の秘密を【文字作成理論】に取り入れることにした倉頡(そうきつ)は、「出産児」を「人間よりも長いあいだ水中に潜(もぐ)ることができるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。
【弥】の字源「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長46㎝~61㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育つ出産児と同じくらいである。
ゆえに、倉頡は「骨盤入口に入りこんで産道を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの出産児」を、【弥】の「カンムリカイツブリ」に喩えることにした。
◆下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
これゆえ、上図に示したように、「石島」は「朝日」をあらわす地となり、「日照」は「夕日」をあらわす地となった。
上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯35度35分)」である。
ゆえに、前述したように【壱】の字源「女性の生殖器官と出産を研究した黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵」は【壱】の字源をあらわしたため、
上図に示したように、「黄帝陵と同緯度の日照」は【壱】の字源をあらわすことになった。
また、「日照」は「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の出産児の頭が入りこむ骨盤入口」に見立てられ、「石島」は「出産児の頭が誕生する膣口(ちつこう)」に見立てられた。
ゆえに、「山東半島」は【壱】の字源「産道」に見立てられ、
そして、「日照」は【壱】の字源の「骨盤入口」に見立てられることになった。
◆『魏志倭人伝』の末部に「因臺詣」、つまり「因(よ)りて臺(台)に詣(いた)る」という記事がある。
この「臺(台)」は「魏都の洛陽(らくよう)」を意味した。
かつて五帝時代――下図における「洛陽の東北にある渤海(ぼっかい)」は「夏至の日、日が没する夕方に咲く、朝顔の花の形」に相似すると見立てられた。
そして、「夏至の日、日が没する夕方に咲く朝顔の花」に見立てられた「渤海」を「黄河口(こうがこう・黄河の河口)」を中心軸にして洛陽が所在する南へ転回して、
「洛陽は、夏至の日、日出ずる朝の美しく咲き誇る朝顔の花の、その台(うてな・萼拊)の位置に合致する」と解釈されることになった。
だから、『魏志倭人伝』を著作した晋の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は「魏都の洛陽」を「因りて臺(台)に詣る」と記した。
では、なにゆえ、「洛陽」は「朝顔の台(うてな)」に見立てられたかというと――
いわゆる「銀河ブルー」と名づけられた「美しく艶(つや)やかに吸い込まれるような青紫(あおむらさき)、つまり朝顔の花の色の銀河(暗黒天体部)」が、洛陽の夜空に輝いたからである。
五帝時代の大都会の洛陽の夜間は灯下でほのかに明るかったゆえ、新月の夜には暗い黒色に見える銀河部は毎夜、朝顔の花の色、つまり「吸い込まれるように魅力的な美しい銀河ブルー」となって輝いた。
だから、「洛陽」は「銀河ブルーの美しい青紫(あおむらさき)の朝顔の花の、台(うてな)に相当する聖なる位置に在る」と定められて、【臺(台)】の字源となった。
◆前述したように、白川静著『字統』は【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下に配した上図の「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかいさい)と卵管の役割」は
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、おしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と
下図の「花の生殖器官」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台(うてな・萼拊)の役割」は類似せずに別々の役割となる。
だから、白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊である」という字源解説は、「女性の産道と花の台の役割は同じで非(あら)ず」と否定・打消しの「ず」をあらわしていたことになる。
以上のごとく、【邪馬】つまり「子宮口がすっかり開いて、小斜径となって骨盤入口に入りこむ出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」が――【臺(台)】の字源「花の台(うてな)」と結びつくのは理にかなわず不条理であるゆえ、【邪馬臺(台)】という名称は成立してはならない空虚(くうきょ)な産物であった。
いっぽう、「産道する出産児の頭蓋骨の【邪馬】」と「産道の【壹(壱)】」は密接に関連する。
だから、【邪馬】と【壹(壱)】が結びつく【邪馬壹(壱)】という名称は合理・正しいゆえ成立することになった。
このように、【邪馬臺(台)国】という名称は錯誤(さくご)・空想の産物であった。
だから、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国名は【邪馬壹(壱)国】であったことになる。
前述したように、【邪馬】という語は「【馬】のフタコブラクダが草を食べるときの、鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りがたがいに邪(なな)めに食い込むように見える表情」を意味した。
というのも、「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜は重なり合って小さくなって(小斜径となって)、骨盤入口に邪(なな)めに入りこむことができるからである」。
したがって、この「出産児の頭蓋骨の仕組み」をも、【邪馬】と名づけられた。
下の上図は、「転回方位の邪馬国」、つまり「現在の大和・奈良県のは地宜(白地図の形)」である。
下の上下の2図が示すように、「大和・奈良県の地宜」は「草を食べて、ふくらむ頬(ほほ)が邪(なな)めになる横顔」に相似する。
ゆえに、「草を食べて動くアゴが重なりあってふくらむ、【邪馬】のフタコブラクダの横顔に相似する奈良県・大和の地宜」にもとづいて――卑弥呼は「奈良県・大和」を「邪馬国」という小国名にした。
『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。
新井白石が最初に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と誤読した――この誤読の伝統を今日まで多数の学者たちは改めなかったので、空想上にて300年間も存在することになった。
白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊の形である」という解説が示すように、
【邪馬】と【臺(台)】が結ばれて【邪馬臺(台)】という女王国名は、元来(がんらい)、成立して存在してはならない空虚な名称であったのである。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』が記していたとおり、「邪馬壱国」が正しかったのである。
『隋書(ずいしょ)』倭国伝は「邪靡堆(やまたい)、すなわち『魏志』の所謂(いわゆる)邪馬臺国というものである」と注を加えるが、
正しくは「邪馬惟(やまい)、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬壹国というものなり」と注を加えなければならなかった。
『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「邪馬臺国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)の音之訛(なま)り也」と注を加える。
しかし、「邪馬壹国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)という音なり」と注を加えるのが正しかったことになる。
◆『魏志倭人伝』は「末盧国以下の倭人国における全地図の方位」を【倭】の字源「現在の方位名を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)れば、
『魏志倭人伝』のすべての記事は正確であったと証明される。
したがって、邪馬台国説学者はじめとする学者たちが「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されている。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を信用してはならない」と主張する意見は誤っていたことになる。
『魏志倭人伝』に記される「東治(とうじ)」は「東冶(とうや)」が正しいのか誤っているのか知らないが、
もしも「東冶」が正しかったならば、「東治」の「治」は誤字となる。
この他に、『魏志倭人伝』には「掖邪狗」を「掖邪拘」と記す箇所が1ヵ所存在するゆえ、「掖邪拘」の「拘」は誤字となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』には2~3か所の誤字があるかもしれないが、誤った記事は1ヵ所も存在しない。
また前述したように、『魏志倭人伝』の史料は晋王朝に秘蔵されていた「倭人国が魏国と対等外交を結ぶために、わが国には【倉頡の文字作成理論の学芸】が存在することを魏に伝えた国書(文書)」であった。
したがって、学者たちが『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない―と、前もって定めた立論・思考条件は誤っていたことになる。
上記したように、(1)【倭】の字源に則って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事が1ヵ所も存在しないことになる。
また、(2)『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に説明した古文献であった。
このような事実は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序から前回(19回)までにおいて、『魏志倭人伝』の全小国名の秘密を未だ解明していないが、すでに詳細に具体的に解明して証明したことになる。
というのも、学者たちが「誤っている」と指摘した記事は「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」であったからである。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。
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