G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年8月

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2024年8月

2024年8月26日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・27

理想の男子像をあらわす躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国の解明

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的に誤っていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

この夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・26」では、
最初の対馬国(つしまこく)から数えて21番目の「鬼国(きこく)」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」、
22
番目の「為吾国(いがこく)」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」、
23
番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」、
24
番目の「邪馬国(やまこく)」は「現在の奈良県、旧国の大和」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から25番目の「躬臣国(こじこく)」と、26番目の「巴利国(はりこく)」と、27番目の「支惟国(しいこく)」と、28番目の「烏奴国(あなこく)」と、29番目の「奴国(なこく)」の位置と範囲を解明する。
『魏志倭人伝』は、29番目の「奴国」までを「此()れ女王の境界の尽()くる所なり」と説明した後に、「其の南に狗奴国(くなこく)有り。男子を王と為()す。(中略)。女王に属さず」と追加する。
つまり、「女王・卑弥呼が統治する小国は対馬国(つしまこく)から奴国(なこく)までの29ヵ国」であり、「狗奴国」は「女王・卑弥呼と素(もと)より不和の敵対国(てきたいこく)」であったことになる。
わがブログは次回「漢字の起源と発明を解明す・28」にて、「狗奴国の位置や範囲、倭人国に討伐されて滅亡した様子」について解説する。

下図に示すように、25番目の「躬臣国」は「現在の大阪府と兵庫県東部と淡路島」であり、26番目の「巴利国」は「現在の兵庫県南西部」、27番目の「支惟国」は「現在の広島県西部」、28番目の「烏奴国」は「現在の高知県」、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の3県」、30番目の「狗奴国」は「現在の広島県東部・岡山県の吉備地方(きびちほう)であった」。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説・証明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に明快に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説していることになる。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

今回のブログで解明する「躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国」は、(C)「【倭】の字源グループの10ヵ国グループにおける、5番目から9番目までの小国」ということになる。

◆『魏志倭人伝』は、対馬国(つしまこく)から数えて25番目の小国は「躬臣国(こじこく)」であったと記す。
卑弥呼が歴史上に始めて登場する170年頃から50年前の120年に成立していた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【躬(きゅう)】の字源を「身()なり」と解説する。
下図の右側に配する【身(しん)】の金文形は「みごもっている女性の側身形(そくしんけい)」である。
下の左図に示したように、【身】の金文形は「顔を天頂に向けて天頂緯度線を測定する人が、みごもった女性のごとく腹部をぐーんと前につきだす姿勢」を図案する。
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偏【身】に【弓】を加えると【躬】の字となる。
下図に示す「十字の銀河」は【身】の字源銀河であった。
「十字の銀河の西半分」には「乳房」や「妊婦の腹部(おなか)・乳房」や「子宮」に相当する箇所がある。
ゆえに、「十字の銀河の西半分」は「女体(にょたい)」をあらわす。
そして、「十字の銀河の東半分」は「男性の姿」に相似する。
というのも「十字の銀河の左手(東側の手)は狩猟に用いる【弓】の形に似る銀河部を持っているからである」。
ゆえに、「妊婦(みごもった女性)の前へ突き出て円く(まる)くふくらむ腹部(おなか)を有する、十字の銀河の西半分が偏【身】をあらわし、「十字の銀河の左手が持つ弓」が【弓】をあらわす。
だから、「十字の銀河」は偏【身】に【弓】が加わる【躬】の字源となった。
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下図は、上図に示した天文図の定式〈右西・左東〉と異なり、地図の一般形式と同じく〈右東・左西〉の図にした。
下図の左上に配した小国名「躬臣(こじ)」の【臣】の金文形について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「目をあげて上を視()る形」と解説する。
下図の「鬼の横顔に似る銀河」は「目をあげて上(十字の銀河)を視る横顔」である。
したがって、【臣】の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河」であった。
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『説文解字』は、【臣】の字形について「君に事(つか)ふる者なり。屈服する形に象(かたど)る」と解説する。
これゆえ、上図における【躬】の字源「十字の銀河」は「主君」、【臣】の字源「鬼の横顔に似る銀河」が「主君(十字の銀河)を見上げて、つかえる臣下の横顔」に見立てられたことになる。

それゆえ、下図に示すように、【躬】の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)をあらわす地域は、「現在の大阪府と兵庫県東部、旧国の摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)」であった。
そして、【臣】の地宜をあらわす地域は「現在の兵庫県南部の淡路島(あわじしま)」であった。
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上図における「【躬】をあらわす地宜の大阪府と兵庫県東部」は「黄帝」をあらわしたと考えられる。
というのも、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」における【躬】の字源「十字の銀河」には「子宮」に相当する銀河部があり、黄帝は【女性の生殖器官と出産】について研究したからである。
「十字の銀河」には「胎児を育てる子宮」に相当する銀河部位が存在するゆえ――「十字の銀河の子宮」から【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】が連想される。
そして、【臣】をあらわした「淡路島」は、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」では「鬼の横顔に似る銀河」に見立てられた。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」ある。
倉頡伝説において、下図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人(かいじん)・倉頡(そうきつ)」と表現された。
ゆえに、学者たちは「目が四つある怪人」という表現にびっくりして「人間には目が四つ無い! だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と決めつけた。
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以上からして、【躬】の「大阪府と兵庫県東部の地宜」は「天頂緯度線を測定する黄帝の姿」をあらわし、【臣】の「淡路島」は「黄帝を尊敬して、つかえた倉頡」をあらわしたことになる。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明・26」にて詳細に解説したように――25番目国の「邪馬国(やまこく)、現在の奈良県の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」は、
下図に示すように、「【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」に相似する。
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ゆえに、上図の「邪馬国、旧国の大和す地宜」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子を示す。
上図の「邪馬国、大和の【馬】・フタコブラクダの横顔」は「堂々たる王者の風格」をあらわす。
だから、24番目の「奈良県・邪馬国」につづく25番目の「躬臣国、現在の大阪府・兵庫県東部の地宜」もまた「王者の風格」、つまり「徳の高い黄帝の風貌(ふうぼう)」をあらわすと解し、さらに「淡路島の地宜」は「黄帝を尊敬してつかえた倉頡の姿」に見立てて――卑弥呼は小国名を「躬臣国」と定めたにちがいない。
あるいは、「大阪府・兵庫県東部の地宜」を「夏()の始祖の帝禹(ていう)」にも見立てて、「淡路島の地宜」を「帝禹を尊敬してつかえた益(えき)」にも見立てて――卑弥呼は「男子の理想像」をあらわす「躬臣国」という小国名を考えついたにちがいない。

26番目の小国は「巴利国(はりこく)」である。
【杷()】の初文(最初の文字)は【巴】である。
【杷】の字義は「さらい」つなり「土をならしたり、穀物をかき集めた農具」である。
「巴利」を「杷利」つまり「杷(さらい)に相似した農作業に用いた利器(りき)」と解釈すると、
「巴利国(はりこく)」は「旧国の播磨(はりま)、現在の兵庫県西部」であったことになる。
というのも、下図の右側の「播磨の地宜」は左側の「エブリ」と呼ばれる農具の形に相似するからである。
卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の遺跡から、「エブリ」が出土している。
「エブリ」はその形から「いっぺんに幅広(はばひろ)く多くの土を多数の歯でつかんで掘りおこすのに便利な木製の農具」であったと考えられる。
ゆえに、「播磨の地宜」は「いっぺんに多くの土を掘りおこす利器(便利な農具)のエブリの主体部の形」に相似するということで、卑弥呼は小国名を「巴利国」と定めたと考えられる。
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エブリの主体部と柄()の形からして、エブリは屈強(くっきょう)な男子が使う農機具であったことになる。
言いかえると、エブリは男子の腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具であったことになる。
ゆえに、エブリを使って何時間も働くことができる人物は頑強(がんきょう)な骨盤(こつばん)とがっしりとした骨組みの男子でなければならなかった。

【古事記上巻 并(あわ)せて序】には、712年1月28日に『古事記』を献呈した元明(げんめい)天皇を讃(たた)える、下記のごとくの文章がある。
「名は文命(ぶんめい)よりも高く、徳は天乙(てんいつ)にも冠(まさ)りたりと謂()ひつべし」
上記の文章を現代語に訳すると、
「元明(げんめい)天皇陛下のお名前の尊さは夏()の帝禹(ていう)よりも高い帝禹の政治を補佐した益(えき)のごとくであり、徳の高いことは殷(いん)の湯王(とうおう)よりもすぐれた補佐役(ほさやく)の伊尹(いいん)のごとくです」となる。
わが国には、帝禹の政治を補佐した王・益の孫の王子と若者たちが日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を教え広めた。
ゆえに、倭人国では帝禹よりも帝禹の政治を補佐した益(えき)を偉大視するようになり――「お名前の尊さは帝禹の政治を補佐した王の益のごとし」という表現が最大の賛辞(さんじ)となったのである。

司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)には、下記のごとくの帝禹について説明する記事がある。
「身を労して心血(しんけつ)をそそぎ、屋外におること十三年、自家の門前を通りかかっても入室して休息しなかった。衣食を薄(うす)くして鬼神(きじん)への供物(くもつ)を豊富にし、家室(かしつ)の造りを質素にしてその費用を田畑のあいだの溝(みぞ)づくりにまわした。」
上記したように「鬼神を事(まつ)る五帝時代の黄帝や夏代の帝禹は、衣食に費用をかけず贅(ぜい)を尽()くす王室で生活せずに、率先(そっせん)して先頭に立って重労働の農作業に勤(いそ)しんだ。」
だからこそ、「巴利国の地宜」は「エブリ」という「腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具」に相似すると見立てられたにちがいない。
つまり、卑弥呼は「巴利国の地宜」をもって「王たる者、エブリのような腰に多大な負担がかかる農具を使って何時間も労働することができる、がっしりとした骨組みを有するたくましい肉体の持主でなければならないという理想像」をあらわしたことになる。

◆次の27番目の小国名を、卑弥呼は「支惟国(しいこく)」と定めた。
「支惟国」の【支()】の字義は「ささえる。わかれる」である。
そして、「支惟国」の【惟()】の字義は「頭脳で考える」である。
ゆえに、下図に示すように、【支】は「考える器官の大脳(だいのう)を支(ささ)える視床(ししょう)・小脳(しょうのう)・脳幹(のうかん)など」をあらわすことになった。
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「旧国の安芸(あき)」、つまり「現在の広島県西部の地宜」だけの場合――「頭蓋骨(ずがいこつ)、あるいは頭蓋骨でおおわれる脳の側面形」に相似しない。
しかし、下図のごとく、「支惟国の範囲」を「安芸(広島県西部)に、備後西部(びんごせいぶ・広島県東部)」を加えると、その形は「頭蓋骨や脳の側面形」に相似する。
つまり、下図に示すように、「現在の三次市(みよしし)と福山市(ふくやまし)を結ぶ福塩線が通る、馬洗川(ばせんかわ)や芦田川(あしだがわ)が流れる地域を東の境界線」にすると、
「この地域の地宜」は「頭蓋骨の側面形」、あるいは「脳の側面形」に相似する。
したがって、下図の「頭蓋骨の側面形」に相似する「現在の広島県西部(旧国の安芸)と、広島県東部の備後西部」が「支惟国の範囲」であったことになる。
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下図に示すように、金文形の【隹(すい)】と【惟()】は同一形で、両者共に「隹」、つまり「小鳥」を表現する図案となる。
『説文解字』は【隹(すい)】の字を「鳥の短尾(たんび)なるものの總名(そうめい)なり」と解説する。
【呼】の字源となった「鳰(にお)・カイツブリ」は「カモの仲間より一回り小さい小鳥であり、尾の羽根は非常に短いため、鳰の尾は外観から判別できない」。
ゆえに、「鳰」は【隹】を代表する小鳥」であった。
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『説文解字』は【惟】の字を「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説する。
この【惟】の「凡そ思ふなり」という解説にもとづくと、「カワセミ」は「短尾ではないが、凡そ小鳥」に類別されることになる。
ゆえに、「支惟国」の【惟】の字は「鳰(にお)」をあらわさず、凡その考えにもとづいて「カワセミ」をあらわしていることになる。

前ページにて示した「背後から見た脳幹(のうかん)の形」だと、「脳幹は【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似しない。
しかし、下図に示す側面形の場合、「脊髄(せきずい)につながる脳幹」――つまり「脊髄につながる中脳(ちゅうのう)・橋(きょう)・延髄(えんずい)の側面形」は「尾が鳰よりも長い、【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似する。
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ゆえに、前者の「背後から見た脳幹のカワセミの姿に相似しない形」と、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」は異なるゆえ、【惟】の字について、上記したように『説文解字』は「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説した。
しかし、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」にもとづいて、
【惟】の字義は、前者の「凡そ思ふなり」に相反(あいはん)する「脳幹がある頭脳の中心の奥深い所で考える」、つまり「深く考える」という意を有することになった。
そして、「支惟国」の【惟】の字義は後者の「深く考える」であった。
以上のごとく、卑弥呼は「支惟国」という小国名をもって
「男子たる者、知性にあふれる深い思惟力(しいりょく)で何事も思考しなければならない」と、「男子の理想像」を示した。

◆下図に示すように、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)は「現在の四国の高知県、旧国の土佐(とさ)」であり、
29
番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であった。
「烏奴国」と「奴国」の【奴】の字義は「強大な力」である。
ゆえに、下図に示すように、北緯3415分の緯度線は「香川県の北端を貫通し、鳴門(なると)の渦潮(うずしお)をも貫通している」。
「鳴門の渦潮」は「世界的に最高級の速度で大きな渦(うず)を巻く」。ゆえに、「鳴門の渦潮」は【奴】の「強大な力」をあらわした。
だから、「奴国の範囲」は「現在の愛媛県と、鳴門の渦潮に隣接する香川県・徳島県」であり、「烏奴国の範囲」は「現在の高知県」であったと考えられる。
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また、下図に示すように――高知県中央南端に所在する「浦戸湾(うらとわん)の地宜」は【烏(からす)】、つまり「翡翠(ひすい)・カワセミの姿」に相似すると見立てられ、また、「浦戸湾の地宜」は「高知県中央の南端に生じたアナ()」のごとくに観える。
ゆえに、小国名「烏奴」は「カワセミの巣穴(すあな)」つまり、「あな()」を意味することになった。
したがって、「烏奴国」は「現在の高知県」であったと考えられる。
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天敵のヘビ・イタチ・キツネなどに襲撃(しゅうげき)されないように、カワセミは河川や湧水泉(ゆうすいせん)における垂直な土手(どて)や崖(がけ)に巣を作る。
にもかかわらず、カワセミの巣は河川・湧水泉などの増水・氾濫(はんらん)においても水没しない。
カワセミの巣は河川・湧水泉・池・湖の近くに作られる。
このように、カワセミは小魚などの餌となる水生動物が豊富にある場所に巣穴を作って、子育てに、安眠・休息できる場所を選ぶ。
巣穴の近くには、ダミー(替え玉)の穴(あな)がある。
ゆえに、カワセミは利口(りこう)・賢(かしこ)いということになり――上記したように、カワセミは「深く考える」を字義とする【惟】の字で表現されることになったのであろう。

カワセミの巣穴(すあな)は内径7㎝、深さは50100㎝である。
奥に向かって掘り、奥には広い産座(さんざ)があり、そこには「淤(お・どろ)」、つまり「やわらか土」
と親鳥が吐きだした魚の骨を敷き、その産座に卵を産む。
またカワセミのオスは、メスに餌の魚の頭をむけてあたえる習性がある。
メスはオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。
育雛(いくすう)はメスとオスが約30分ごとに交替(こうたい)しておこなう。

ゆえに『魏志倭人伝』には「唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。
上記のごとく、男子はカワセミのオスのごとく卑弥呼の飲食を給仕(きゅうじ)し、卑弥呼の辞(ことば)を伝えるために卑弥呼の居間に出入りする役目をつとめていた。
だから、卑弥呼はカワセミの習性を利用して、「倭人国の男子たちは、日々、妻子や両親・兄弟姉妹が飢()えないように食料を手にいれる農作業はじめ狩猟・採集に熱心(ねっしん)に努力せよ」と卑弥呼に給仕する男子をもって――「男子の理想像」をあらわしていたことになる。

カワセミが魚を捕獲(ほかく)するために水中に飛び込むと、同心円形を描く波紋(はもん)がひろがる。
この「カワセミの同心円形の波紋」と「天敵のオオカミに襲撃されると、子どもを中心に隠してジャコウウシの群れが組む円陣(えんじん)」は「同じ円形」ということで――
「カワセミ」もまた「ジャコウウシ」と同じく【奴】の「強大な力」、言いかえると「【禾】・【委】・【倭】の時計回りに90度転回する方位規定を成立させる魔力(まりょく)を有する」と考えられるようになった。
ゆえに、小国名「烏奴国」の【奴】は「方位規定を時計回りに90度方位を転回させる、ジャコウウシのような強大な力を秘める呪力(じゅりょく・魔力)」をあらわした。

上記したように、カワセミは垂直な「土手(どて)」に巣穴を作る。
下に、「土手」という名詞における【土】の字源銀河を示した。
【土】の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」である。
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下に、【奴()】・【又(ゆう)】・【右(ゆう)】の字源解説図を配した。
上図が示したように、【土】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河」が【奴】の字源銀河でもある。
【土】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河」は【又(ゆう)】の字源銀河にして、【又】は【右(ゆう)】の初文(最初の文字)であり、【右】の金文形は「右手と渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」で構成される。
ゆえに、【又】は【右】の初文であるとともに、【又】は【奴】の初文でもあった。
したがって、【奴】と【又】は同一形となった。
ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は【土】の字源にして、【奴】・【又】・【右】の「右手」の【手】の字形でもあった。
だから――「鬼の姿に似る銀河」は【土】に【手】が加わる「土手」の語源となった。
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下に、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が「カワセミの巣穴」に見立てられた解説図を配した。
上記したように「鬼の姿に似る銀河」は「土手」に、「長方形の暗黒天体部」は「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に見立てられた。
というのも、カワセミは「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に生息したからである。
「激流の銀河」は「増水時における急流、氾濫(はんらん)して渦巻く激流」に見立てられた。
これゆえ、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「増水時や氾濫した時にも水没しないカワセミの巣穴」に見立てられた。
というのも、カワセミは巣穴を尻(しり)から出るときに、素早く回転して飛び立つからである。
ゆえに、【奴】の金文形にあって「渦巻き」に図案された「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「カワセミの巣穴」に見立てられた。
だから、「カワセミ」は【奴】の「ジャコウウシのごとき強大な呪力(じゅりょく)を有する」と信じられるようになった。
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下に、「出産児の頭蓋骨「邪馬」の解説図を配した。
下の下図に示したように、【奴】の「渦巻きの、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の西となりには「邪馬の銀河」がある。
「邪馬」は「出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」である。
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出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みとなる。
出産第1期の開口期(かいこうき)の終わり、出産児はアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、後頭部の小泉門を先進(せんしん)させて、骨盤入口へ入りこむ。
出産児が骨盤入口に入りこむときに、頭()を時計回りに90度旋回(せんかい)する――この旋回を、産婦人科では「第1回旋(かいせん)」とよぶ。
そのあと、産道を通過する出産児の頭()は反時計回りに90度旋回する「第2回旋」と「第3回旋」をおこなう。
出産児第2期の娩出期(べんしゅつき)の終わりには、出産児の頭()は時計回りに90度旋回する「第4回旋」して、母体の背が正面になるように顔を曲げて、天を仰ぐかのごとく上を向くポーズとなる。

このような「出産児の第1回旋と第4回旋」は【禾()】・【委()】・【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、卑弥呼王朝では、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、日本列島本州における〔東〕は〔南〕になる」と定める転回日本列島地理を制定した。
この【倭】の字源「方位規定が時計回りに90度転回して、〔東〕が〔南〕となる転回日本列島地理」を成立させた原動力は「強大な力」を意味する【奴】であった。

上記したように、カワセミの巣穴の産座には、淤(お・泥)、つまり「やわらかい土」と親鳥が吐き出した魚の骨を敷かれる。
このカワセミが垂直な土手や崖における土中を奥深く掘る巣穴の産座に敷く淤()、つまり「やわらかい土・どろ」は、日本列島の本州の〔東〕が〔南〕となる――【倭】の字源「方位規定を時計回りに90度転回させる、強大な呪力(じゅりょく)」が秘められていると信じられるようになった。

以上のような事柄から、卑弥呼は「高知県の浦戸湾の地宜」を「烏奴」と表現した。
そして、小国名「烏奴」の【奴】は「強大な力で巨大な渦巻きを描く、鳴門の渦潮」であったと考えられる。
小国名「烏奴」の【烏()】の字は今日では「カラス」を意味するが――、
【烏】の字源は「カラス」と限定できない。
白川静著『字統』は【烏】の金文形について「於()の字形に近い」と指摘する。
白川静著『字統』は【於】の金文形について「烏の羽を解()いて、縄にかけわたした形。烏は死烏の全形、於はその羽を解いて縄にかけわたした形で、これを耕作の地にさげて、烏害を避けようとしたものであろう」と推測する。
白川静著『字統』の【烏】と【於】の字説は、あくまでも推測である。
ゆえに、【烏】の字源は「カラス」であったと限定することができない。


下に【烏】と【於】の金文形を配した。
下の左端の【烏】の金文形は「死烏(死んだ烏)の姿」よりも、むしろ「小枝に止まるカワセミの姿」に相似する。
下図の【於】の二つの金文形は「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」に相似するが、
金文は夏音文字よりも1000年以上後世の文字であるゆえ――夏音文字の【於】の字源が「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」であったと限定することはできない。
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◆偏【三水(さんずい)】に【於】を加える【淤()】の字は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、【於】・【淤】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったと考えられる。
ゆえに、五帝時代や夏代や倭における卑弥呼時代は【淤】の「やわらかい土」は「豊かな実り、つまり豊作をもたらす土」を意味したことになる。
ゆえに、【烏】の字源は「巣穴の産座に、【淤】、つまり、やわらかい土を敷くカワセミ」であったにちがいない。

次回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」で詳細に解説して証明するが――
『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」は、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三の時に立ちて王と為()る」と記される、つまり「十三歳の時に小国・日本の女王となった、卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)を代表する壱与、後年に倭女王と就任したる壱与」であった。
「伊耶那美命の夫の伊耶那岐命(いざなきのみこと)」は、上記の「壱与の記事」の前の「魏の正始八年(247)の記事」に登場する「朝鮮半島の帯方郡政庁(たいほうぐんせいちょう)に訪れて倭国と狗奴国の戦況を説明した武将の載斯烏越(そしあお)」であった。

『古事記』上巻の〔伊耶那岐命(載斯烏越)と伊耶那美命(壱与)説話〕の冒頭は「淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)」についての説明である。
「淤能碁呂」の4字には〔音〕という注がつく。
ゆえに、「淤能碁呂」の4字は「楷書を音符・意符として用いた夏音文字」であったことになる。
「淤能碁呂」の先頭字【淤】は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、上記したように、【淤】の初文の【於】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったことになる。
だから、「烏奴国」の【烏】の字源は「巣穴の産座にやわらかい土を敷くカワセミ」であったと考えるべきことになる。

淤能碁呂島の聖婚説話において、「淤能碁呂」の4字の夏音文字の、その前に「許々袁々呂々邇」という7字に〔音〕という注がつく夏音文字が記される。
この「許々袁々呂々邇」の7字の夏音文字は「こをろこをろに」と読む。
「許々袁々呂々邇」の前には「塩」という字が記される。
「塩許々袁々呂々邇」はつまり「塩こをろこをろに」は、「塩作りの窯(かま)の中で沸騰(ふっとう)するドロドロとした重くなった塩の湯をゆっくりとかき回す擬音(ぎおん)」を表現していることになる。

伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式において、「二人は塩を作る小屋(式場)に入り、窯(かま)の中に天沼矛(あめのぬぼこ)をさしおろし、ドロドロとした塩の湯をかきまわして、鳴門の渦潮の様子を表現する儀式」をおこなった。
ゆえに、「潮許々袁々呂々邇」ではなく、「塩を作る窯の前」で「鳴門の渦潮」をあらわす儀式をおこなったゆえ、「塩許々袁々呂々邇」と記されたことになった。
そして、「天沼矛」とは「九州の玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度であるとあらわすと共に、日本列島の本州の地底の土が沼()のようにやわらかいをもあらわす呪器(じゅき)の矛」であったことになる。
ゆえに、「天沼矛」はたとえば「碁石の石のような形をした沖ノ島と、将棋の駒(こま)のような形の神津島(こうづしま)の小さな飾りがついた矛」であったであろう――日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東端の伊豆諸島の神津島と、鳴門の渦潮」は同緯度(北緯3415)であるゆえ、
沖ノ島と神津島の飾りのついた矛(天沼矛)で窯の沸き立つドロドロとした塩の湯をコヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)と鳴門の渦潮に見立ててかきまわして――【日本列島の本州は地底が沼のようにやわらかくなっているので、本州の方位は【倭】の字源のとおりに時計回りに90度転回する】とあらわす儀式がおこなわれた。

だから、「淤能碁呂」という4字は「地底の土が【淤】()のようにやわらかい、【能】(熊・クマ)の横穴の巣が縦穴になるがごとく、【碁】(沖ノ島と神津島)が【呂】(同緯度)となるために緯度が経度のごとく縦(たて)になって方位が90度転回して〔東〕が〔南〕となる転回日本列島本州地理」をあらわした。
このように、『古事記』の〔能碁呂島の聖婚説話〕は「伊耶那岐命と伊耶那美命は塩を作る窯(かま)の前にて、卑弥呼が提唱した転回日本列島本州地理の儀式をおこなった」と記述している。

下図に示すように、日本列島の西の端にある沖ノ島と日本列島の東の端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。
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下図に示すように、卑弥呼は中国北部の海岸線地域が冷たい気候であり、中国南部の海岸線地域の気候が暖かい状況を注目した。
そして、日本列島における西端の沖ノ島は冬になると雪が降って冷たい気候に対して、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端にある神津島が冬になっても雪が降らない暖かい気候であることに注目した。
ゆえに、中国の海岸線地域の〔北冷〕と倭地の〔西冷〕が示すように両地域は共に「冷たい気候区」であり、中国の海岸線地域の〔南暖〕と倭地の〔東暖〕が示すように両地域は共に「暖かい気候区」であるゆえ、
下図のごとく、卑弥呼は「日本列島の本州の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕のほうに延びている」と考えた。
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下図に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が立論した転回日本列島地理に則(のっと)って、末盧国(まつろくに)から邪馬壱国(やまいこく)までの方位を正確に記している。
下図に左側に示すように、沖ノ島と鳴門の渦潮と神津島は同緯度(北緯3415)である。
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上図の「転回日本列島地理」は【倭】の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
上図に示したように、〔沖ノ島と神津島〕と共に、〔沖ノ島と神津島と同緯度の鳴門の渦潮〕も転回日本列島地理を形成する原動力になった。
だから、『古事記』の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話の冒頭〕では「鳴門の渦潮」をあらわす「塩を作る窯の前に立って二人が天沼矛を持ってさし入れて、コヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)とかきまわして鳴門の渦潮を表現する儀式の様子が記述された。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の〔淤能碁呂島の聖婚説話〕や〔国生み説話〕は、〔音〕という注がつく【夏音文字の字源・字義】をまったく解明しないで無視する学者たちによってーー
〔淤能碁呂島の聖婚説話〕における「塩許々袁々呂々邇とかき鳴らす」という文は「伊耶那岐命と伊耶那美命が【天空に浮かぶ雲の上から天沼矛をさし下ろして】、やわらかい大地と海をかきまわして日本列島を作った」と訳する解釈が定説となる。
このため、次に続く〔国生み説話〕は「天に浮かぶ雲上に住む伊耶那美命が【淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま・淡路島)はじめ伊予之二名島(いよのふたののしま・つまり、烏奴国と奴国に分かれる四国)など様々な島や小国】を分娩(ぶんべん)・出産した」という解釈が定説となる。
しかし、このような定説の解釈は【誤訳・誤解・空論】であった。
つまり、「淤能碁呂島」は【卑弥呼が立論した本州の〔東〕を〔南〕と定めた転回日本列島地理】をあらわした。
「国生み」は「卑弥呼が【臣】という字であらわしたが、この変名が淡道之穂野狭別島(淡路島)であり、また卑弥呼が定めた四国の名を改めた、あるいは卑弥呼が名称をつけなかった様々な島や不都合(ふつごう)になった国々の名を――伊耶那美命は考えて改めた」と解釈しなければならなかったのである。

◆以上のごとく、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の四国の高知県、旧国の土佐」であった。
次の29番目の「奴国(なこく)」は「鳴門の渦潮」に隣接する現在の四国の香川県・徳島県と愛媛県、旧国の讃岐(さぬき)・阿波(あわ)と伊予(いよ)」であった。

前述したように、沖ノ島と神津島を結ぶ北緯3415分は、日本列島の本州の〔東〕を90度転回して〔南〕にした転回日本列島地理の原動力である。
この「日本列島の本州の方位を時計回りに90度転回させる原動力」は【奴】の字源「強大な力」であった。
この【奴】の字源「強大な力」を有する緯度線上に、「鳴門の渦潮」が所在する。
「鳴門の渦潮」は世界的に最高級の速度で、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快(ごうかい)に巨大な渦を巻く。
「鳴門の渦潮」は、巨大な日本列島の本州の〔東〕を〔南〕に変える【奴】の字源「強大な力(エネルギー)」を有する。
だから、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県」であったことになる。

◆卑弥呼は、「奴国」を貫通する北緯3415分の緯度線を、男子に1度の60分の1の精度で測定できる優れた眼力を有するように願った。
というのも、村々に住む男子たちは家族が幸せな生活を過ごすために食料を集め、また様々な生活用品を求め、あるいは集落の存続と繁栄を願って遠い地域の新しい文化やすぐれた発明・技術や進歩的な知性などを取り入れるために天頂緯度を測定して旅に出ていた。
ゆえに、天頂緯度測定に失敗し、または旅の途中で天頂緯度を測定していた時に崖から落下して命を絶つ事故で帰らぬ人となった事例も多数あったにちがいない。
ゆえに、卑弥呼は「優れた眼力を有して常に精確に天頂緯度測定ができるように男子や、命を絶つようなことにならないように常に用心深く天頂緯度を測定する男子を、男子の理想像」と考えていたのであろう。

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2024年8月22日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・26

「鬼」と「食料」に関する大和近隣の志摩・伊賀・紀伊の小国名を解明する

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
「夏の銀河」のほかに、もちろん「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」も存在する。
しかし、「夏の銀河」が「もっとも印象的な、各部の形状なもっとも明確な、迫力にみちた銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
ゆえに、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であった。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国(つしまこく)から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」、
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」。

◆このブログでは――前回の「漢字の起源と発明を解明す・25」までにおいて、
卑弥呼が定めた最初の対馬国から数えて20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、すべての小国名に用いられる文字の字源・原義と各小国名の地宜(ちぎ)が理にかなって合理であることを詳細に解説して証明した。
このような「20ヵ国すべての小国名と地宜との関係において、まったく矛盾点が存在しない系統的な合理」が成立するのは、卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各小国名において前後の関係が共通項(きょうつうこう)で統一されるように配慮(はいりょ)していたからである。
今回のこのブログでは、(C)「【倭】の字源における男性グループ」のうちの、
対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」・22番目の「為吾国(いがこく)」・23番目の「鬼奴国(きなこく)」・24番目の「邪馬国(やまこく)」の4小国名に用いられる文字の字源・原義は、4小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)とすべて理にかなっていることを解説して証明する。
したがって、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国」という4小国名を定めたことになる。

下図に示すように、卑弥呼は対馬国から21番目の小国「現在の三重県南部、旧国の志摩(しま)」を「鬼国」、22番目の小国「現在の三重県北西部、旧国の伊賀」を「為吾」、23番目国となる「現在の熊野を除く和歌山県、旧国の紀伊西部」を「鬼奴国」、24番目国となる「現在の奈良県、旧国の大和」を「邪馬国」という小国名に定めた。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう〔各小国名は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて定められているという解説〕が煩雑(はんざつ)にならずに容易・明確にするためには、【夏の銀河の各部】に名称をつける必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、「鬼の姿に似る銀河」がある。
わたくしは「鬼の姿に似る銀河の東部」を「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
下図に示すように、【鬼】の金文形(周代に出現した字形)は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)・後頭部」と国際天文学で「北アメリカ星雲」と名づけられた星雲を包囲する「コールサック」と呼ばれる「暗黒天体部を細長く狭く長方形に区切った部分」が【鬼】の字源銀河となった。
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上図に示したように、「北アメリカ星雲」に隣接する銀河を、わたくしは「長方形の暗黒天体部」と名づけた。
 「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの東の端」ということになる。
【鬼】の金文形の上部は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)から後頭部」を図案し、【鬼】の金文形の下部は「北アメリカ星雲を包囲する細長く長方形」に区切る。

下図に示したように、「耳」のイラストを加えた箇所は「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀部河となる。
「北アメリカ星雲」も「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀河部となる。
下図に示したように、「【鬼】の金文形上部」は「飢()えてやせて小さくなった顔」をあらわす。
そして、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開く目の形をした銀河部と、鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部」は「餌が無く飢えたときの、弱い鷹(たか)の雛(ひな)と同じ巣に棲()む強い鷹の雛(ひな)の両目」をあらわした。
「飢えた強い鷹の雛は同じ巣に棲む弱い雛を餌(えさ)にする」。
ゆえに、「【耳】、すなわち弱い鷹の雛を食べる」ということで、【食】に【耳】を加えた【餌】の字義は「えさ」となった。
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上図における「北アメリカ星雲の色」は、下のカラー写真に示すごとく「血のごとく、真っ赤」である。
だから、「北アメリカ星雲」は「強い鷹の雛の餌となる弱い雛の、血で真っ赤にそまる死体」に見立てられた。
下のカラー写真における左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
下のカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
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下に、対馬国から21番目の小国「鬼国(きこく)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」を配した。
「鬼国」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」であった。
下図に示したように、「志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。
そして、「志摩の英虞湾(あごわん)周辺の地宜」は「餌を食べる鷹のくちばしと口の形」に相似する。
したがって、「志摩の地宜」は「哺乳類(ほにゅうるい)・鳥類・爬虫類(はちゅうるい)・両生類・魚類などの餌を肢(あし)のするどい爪(つめ)でつかんで、くちばしでむしりとって食べる鷹の横顔」に相似する。
また、「志摩の地宜」は「弱い雛を餌にして食べる強い鷹の雛の横顔」にも相似する。
だから、「志摩の地宜」は「鬼(かみ)が支配する自然界における冷酷で厳(きび)しい弱肉強食の法則」をあらわしているということで――卑弥呼は「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。
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712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』は、上巻・中巻・下巻の3巻で構成される。
この【『古事記』の序】は「上巻・中巻・下巻の3巻の【序】」ではない。
【『古事記』の序】は「上巻だけの【序】」である。
【『古事記』の序】は「上巻のみの【序】である」ため、【古事記上巻 并(あわ)せて序】と表記された。
『古事記』上巻のみの随所に〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記されて残る。

【古事記上巻 并せて序】は「夏音文字の伝来と習得や、夏音文字は夏の銀河各部の形状から作られた秘密や、夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にしたがって作成された秘密など」をきわめて難解な文章で解説している。
というのも、「夏音文字」は「朝廷が栄えるための政権基盤であった最高学問であったため、その学芸知識が容易(ようい)に理解できるように説明すると反体制側の人々に習得されて革命に利用されれば朝廷は滅亡すると心配された。だから、朝廷と国家は厳重に独占管理して、その秘密を容易に理解できるように説明する者はじめ、その家族および一族全員をも死刑にすると定められていた」。
これゆえ、【古事記上巻 并せて序】はきわめて難解な文章で構成されることになった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に具体的に解説して証明したように、
【古事記上巻 并せて序】冒頭の「臣安万呂言(しんやすまろまを)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの文章を要略すると、下記のごとく説明していたことになる。
「元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。わが国では前期縄文時代初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代初頭までの約2000年間の参時代、夏の銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造っていました。この縄文参時代における土器・土偶を造る芸術(造化)の神の伝統にもとづいて、後期縄文時代初頭に、中国から大海を越えてわが日本列島に渡来して定住した名門益(えき)氏が教え広めた夏音文字の学芸を習得しました。」

【古事記上巻 并せて序】の前半部に、「天武天皇と『古事記』撰録(せんろく)の企て」に関する記事がある。
この箇所の末部には、下記の記事がある。
「時に舎人(とねり)有り、姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是()れ廿八。人と為()り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す。即(すなわ)ち阿礼に勅語(ちょくご)して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞(きゅうじ)とを誦み習はしめたまひき。然(しか)れども運(とき)移りて世異(よかは)りて、未だ其の事を行ひたまはざりき」

上記の後半の「即ち阿礼に勅語して」という文から最後までの記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「そこで天武天皇は稗田阿礼に命令されて、帝皇の日継(天皇記)と先代の旧辞(『古事記』上巻の原書となった、夏音文字で書く上古史書)とを誦み習得(復興)させることにした。しかしながら天武天皇は崩御(ほうぎょ)され、時勢は移り変わって、いまだその撰録の事業は完成していません。」

上記した記事前半の「時に舎人有り」から「耳に払るれば心に勒す」までの記事を、
図にすると、下図のごとくなる。
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上図が示しているように、
(
)「十字の銀河」は「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」に見立てられた。
(
)「鬼の横顔に似る銀河のおける、十字の銀河を見る両目と後頭部につく大きく見開く目・アゴにつく切れ長の細い目まで」は「目に度(わた)れば」と表現された。
(
)「鬼の横顔に似る銀河の口」は「口に誦み」と表現された。
(
)前ページにて【鬼】・【耳】・【餌】の字源解説において、「【耳】の字源銀河部位は、餌(えさ)となって存在しないこと」になった。
このため「耳に払るれば」、つまり「耳は払われて形が存在しない」と表現された。
(
)「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体の十字の銀河を見る、鬼の横顔に似る銀河の両目における【心(心臓)】に相当する箇所」は「心に勒す」と記された。

以上のごとく、【古事記上巻 并せて序】は朝廷と国家が独占管理して最も厳重な秘密とした「上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記される夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて夏の銀河各部の形状から作られた」と説明していたのである。

◆『魏志倭人伝』の卑弥呼が定めた34の小国名もまた朝廷と国家が最も厳重な秘密とした「【倉頡の文字作成理論】にもとづいて、夏の銀河各部の形状から作られた文字の字源・原義」を説明するものであった。

対馬国から数えて22番目の小国は「為吾国(いがこく)」である。
「為吾国」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」であった。
古語において――「為吾国」の【吾】の字は「あ」または「あれ」と読み、「男性の一人称、俺(おれ)」を意味した。
下図における右側に配した「伊賀の地宜」と左側の「鬼の横顔に似る銀河の形」は、共に【吾】の「男性の顔の形」に相似する。
また、下に示した右図の「伊賀の地宜」は左図の「頭に角(つの)を生やす、鬼の横顔に似る銀河の形」に相似する。
〔なお、「伊賀の地宜」が「鬼の横顔に似る銀河の形」に相似すると容易に見立てることが察知できるように、下図の左側の銀河図の定式は〈右西・左東〉であるが、地図の一般形式に合わせて〈右東・左西〉にあらためた。〕
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「為吾国」の【為()】の字義は「ため。なす。つくる」ではなく、【偽()】の「まねする。いつわる」であった。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は、「長い鼻を有する象(ゾウ)の姿に相似する。
「象る」は「かたどる」と読み、「物の形をまねる。物の形に似せて作る」と意味する。
下図における「北アメリカ星雲」は「象の鼻と横顔の形」に相似する。
ゆえに、「北アメリカ星雲」が【為】・【偽】の字源銀河であった。
つまり、「北アメリカ星雲」は「象る(物の形にまねる。物の形に似せて作る)」の語源でもあった。
下図における「激流の銀河」は「大雨が降って洪水し、河川が氾濫(はんらん)して早瀬(はやせ)の水のごとく渦巻き瀧(たき)つあふれる急流」に酷似(こくじ)する。
だから、「激流の銀河」は「洪水・氾濫の河川の水の渦巻きあふれる形状に似せてまねる」ということで【偽】の字源となった。
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下図に、約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の状況を示した。
下図に示すように、中国南部の長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の中央)を「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目の中央」を貫通していた。
下図に名称を記さなかったが、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い目」の西となりは「北アメリカ星雲」である。
下図に示すように、「北緯3130分の長江口中央の緯度線」は「北アメリカ星雲の南部」をも貫通していたことになる。
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上図より前にて解説した「【偽】・【為】の字源銀河図」において、「北アメリカ星雲」は「象の横顔・鼻の形」に相似すると見立てられ――この「象の・鼻の形」から連想して【為】の契文形は「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全横顔身の形」に象(かたど)られた。
下図に示すように、長江口(北緯3130)の真西には「太湖(たいこ)」が所在する。
黄帝時代において「北アメリカ星雲の南部」が「太湖の北端(北緯3130)」の天頂にめぐってきた。
「太湖の地宜」は【為】の契文形と同じ「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全身の形」となる。
ゆえに、【為】の契文形の字源銀河「北アメリカ星雲」が「象の全身の形」に象られた、その事情は「北アメリカ星雲」を「太湖の象の全身の地宜に見立ててまねするもの」であったことになる。
【為】の契文形となった「北アメリカ星雲の鼻」は「激流の銀河のある南」の方に伸びる。
いっぽう、下図の「太湖における象の鼻」は「東」の方に伸びる。
だから、()【為】の字源銀河「象の鼻と横顔の北アメリカ星雲は太湖の象の全身の形」と異なり、
また、()「北アメリカ星雲の象の鼻は南に伸びるが、太湖の地宜の象の鼻は東へ伸びて」両者の形が異なるゆえ――「象の全身の姿」を象る【為】の契文形は【偽】の「いつわる」という字義を有することになったのである。
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上記したように、小国名「為吾」は「偽の吾(俺の顔)」ということになるゆえ、「頭に角(つの)を生やす鬼に似せて作る仮面をかぶる男性の顔()」を意味した。
下に示すように、「冬の銀河」に漬()かる「ぎょしゃ座とおうし座」が【夏】の金文形になった。
下図に示す「おうし座アルファ星」の西となりの「春分点」は、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して夏音文字を教え広めた紀元前2050年頃~紀元前2000年頃における春分点である。
下図の【夏】の金文形のごとく星座の形が字源になった事例はきわめて少なく――おそらく下図の【夏】のほかに【道】の「へびつかい座とヘルクレス座」の二例のみであろう。
下図の「ぎょしゃ座とおうし座」を字源とする【夏】の金文形は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」を表現している。
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下図に示すように、上図の【夏】の金文形における「鬼の仮面をかぶる顔(ぎょしゃ座)の部分の形」は「為吾国・伊賀の地宜」に相似する。
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だから、上記したように、小国名の「為吾」は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の顔」をあらわした。
その「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」は、上記したように【夏】の金文形「ぎょしゃ座とおうし座の形」をもって表現された。
というのも、上図に示したように、わが国が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を習得した後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)における春分点は「おうし座のα星の西となりに所在した」からである。
だから、【夏】の金文形が示すように、小国名の「為吾」は「夏でも春のごとく涼しい森林深き山国」と意味するものであったにちがいない。
その証拠に、「為吾国、旧国の伊賀」は「鈴鹿(すずか)山脈や室生(むろう)火山群などで周囲を山で囲まれている」。

『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が「其の俗、正歳四節(せいさいしせつ)を知らず、但(ただ)し、春耕(しゅんこう)・秋収(しゅうしゅう)を計って年紀を為()す」と説明する注がある。
つまり、裴松之は「倭人国では、春の耕作時を一年と数え、秋の収穫時を一年と数える、今日の一年を二年とする二倍暦であった」と指摘している。
この二倍歴にもとづいて、倭人国では春の耕作時と秋の収穫時において「豊かな食料の恵みを祈願・祝い感謝して男性が鬼の仮面をかぶって踊り舞う儀式」がおこなわれていた。
ゆえに、卑弥呼は「旧国の伊賀の地宜」から「春の耕作期と秋の収穫期に舞う鬼の仮面をかぶる男性の顔」を想像して、小国名を「為吾国(いがこく)」と定めたことになる。
上記したような為吾国における「鬼の仮面の、鬼」と「食料の儀式」が共通項(きょうつうこう)となって――対馬国から22番目国の為吾国の次となる23番目の小国は「鬼奴国」ということになった。

◆下図に示したように、対馬国(つしまこく)から数えて22番目の「為吾国(いがこく)」に隣接(りんせつ)するのは24番目の「邪馬国(やまこく)」である。
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番目の次の23番目の「鬼奴国(きなこく)」は、24番目国の「邪馬国」を飛び越えて23番目国となる。
というのも、「22番目の為吾国の地宜」と「23番目の鬼奴国の地宜」は「鬼」と「食料」が共通項(きょうつうこう)となるが――「邪馬国の地宜」は「鬼の形」となって共通しないために――卑弥呼は「邪馬国」を23番目国ではなく24番目国としたことになる。
そして、「23番の鬼奴国の地宜」と「24番目の邪馬国の地宜」は「食料」と「王者の風格」という点で共通する。
だから、卑弥呼は「為吾国」を22番目国、「鬼奴国」を23番目国、「邪馬国」を24番目国とした。
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下図に示すように、23番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」である。
前ページにて詳細に解説して証明したように「鬼国・志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。ゆえに、【鬼】は「鷹」を意味したゆえ、小国名の「鬼奴」の【鬼】も「鷹」を意味した。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」の小国「姐奴国(つなくに)」と「華奴蘇奴国(かなさなこく)」において詳細に解説し証明したように、
小国名「鬼奴」の【奴】は「体を空中に浮かす強力な翼」を意味した。

下図に示すように、「鬼奴国、旧国の紀伊西部の地宜」は「鬼の鷹が大空高く強大な力を示す大きな翼で悠然(ゆうぜん)と飛翔(ひしょう)する姿」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の和歌山県西部」の小国名を「鬼奴国」と定めた。
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大型種の鷹()は食物連鎖(しょくもつれんさ)の最高位となる。
上図の「鬼奴国(きなこく)の地宜」が示す「大きな翼をひろげて悠然と大空高く飛ぶ鷹の姿」は「王者の風格(ふうかく)」をあらわして雄々(おお)しい。
(
)このように、地宜が「鬼()の仮面をかぶる男子の顔に相似する為吾国」と、地宜が「鬼()が大きな翼をひろげて大空を飛翔する、鬼奴国」は共に「鬼」で共通する。
(
)また、「為吾国の地宜が示す、顔に鬼の仮面をかぶって舞う男子の姿」は「食物が豊かに実るを祈願し、あるいは豊かな食物を祝い・感謝する儀式」であった。
また、「鬼奴国の地宜」に相似すると見立てられた「大きな翼をひろげて悠然と大空を飛翔する大型の鷹の姿」は「食物連鎖の最高位の風格」を示すことになった。
だから、前述したように、「為吾国と鬼奴国」は「食物(食料)」が共通項となった。

◆対馬国(つくしまこく)からの23番目国の「鬼奴国」の【鬼】は「食物連鎖の最高位の、大型種の鷹」をあらわした。
これゆえ、次の24番目国の「邪馬国(やまこく)」は「倭人国において最も豊かな食料に恵まれていた」と考えられる。
というのも、「鬼奴国の地宜」が示す「大きな翼をひろげて大空を悠然と飛翔する鷹の姿」が「王者の風格」をあらわすように、
「邪馬国の地宜」もまた「倭人国において最も豊かな食料に恵まれる王国の風格」をあらわしているからである。
だから、「鬼奴国と邪馬国」は「食物」と「王者の風格」で共通した。

『魏志倭人伝』は、対馬国から24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」であったと列記(れっき)する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の13回・19回・20回・21回にて詳細に解説して証明したように、
下図に示す「餌(えさ)の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、【邪馬】と名づけられた。
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上図の「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、
「今日の産婦人科における医学用語の【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨(ずがいこつ)が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわさることができる仕組み】をあらわす語でもあった。
というのも、「せまい産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」に酷似(こくじ)するからである。
だから、下図に示したように「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」もまた【邪馬】と名づけられた。
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上記したように、「食料の草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」は【邪馬(やま)】と名づけられた。
下図に示すように、「転回方位の、旧国の大和(やまと)、現在の奈良県の地宜」は【邪馬】の「食料の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の横顔」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の奈良県」の小国名を「邪馬国(やまこく)」と定めた。
下図の「奈良県の地宜が示す、【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子をあらわす。
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奈良県の大和盆地には多数の川が流れこみ、水量豊かな穀物の生育に恵まれていた。
ゆえに、邪馬国・大和は倭人国で最も食料(農作物)に恵まれた王国であったと考えられる。
このため、当時において最高の学術国であった首都の邪馬壱国・出雲地方よりも邪馬国・大和は豊かな経済で栄える王国であったであろう。
上図の「邪馬国・大和の地宜の、その【馬】のフタコブラクダの横顔」は「フタコブラクダのボスが泰然(たいぜん)・悠然(ゆうぜん)として草を食べる王者の風格」をあらわしている。
だから「邪馬国」は「倭人国で最も豊かな食料に恵まれた王国」であったにちがいない。
以上のごとく、「邪馬国」は「現在の奈良県、大和」であった。
したがって、「奈良県・大和」は「邪馬台国」ではなく「邪馬国」であった。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。
ゆえに、「邪馬台国」は最初から空想の世界へと迷いこんだ空理空論であり、ナンセンスきわまりない早合点(はやがってん)の錯覚(さっかく)であったことになる。

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2024年8月19日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・25

愛あざやかに蝶が舞う琵琶湖周辺の5小国の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と、【東南の地平線から「銀河系の中心方向周辺の銀河」が昇る黎明(れいめい・夜明け)の天文図の光景】をもって、喩(たと)え話(ばなし)にして説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・24」では、
最初の対馬国から数えて13番目の「弥奴国(みなこく)」は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」であったことを証明した。
また、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河」であったと証明した。
さらに、対馬国から15番目の「不呼(ふこ)国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であったと証明した。
上記の「弥奴国、好古都国、不呼国」の3小国は、(B)「【倭】の字源における女性グループ」に組する。

このブログでは、対馬国から16番目の「姐奴国(つなこく)」と、17番目の「対蘇国(つさこく)」と、18番目の「蘇奴国(さなこく)」と、19番目の「呼邑国(こおこく)」と、20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」の位置と範囲を解明する。
これら「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国」もまた、()「【倭】の字源における女性グループ」の5小国である。
これら「5小国の地宜の解説と証明」によって、()「【倭】の字源における女性グループ」に属する10ヵ国すべての小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわしている証明が完了する。

下の図に示したように――
16
番目の「姐奴国」は「現在の福井県中・北部の敦賀市(つるがし)以北の、旧国の越前(えちぜん)」であった。
17
番目の「対蘇国」は「現在の岐阜県中・南部の、旧国の美濃(みの)」であった。
18
番目の「蘇奴国」は「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」であった。
19
番目の「呼邑国」は「現在の滋賀県であり、旧国の近江(おうみ)」であった。
20
番目の「華奴蘇奴国」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
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上記した19番目の「呼邑国」の【呼】の字源は「鳰(にお)」であり、現在の滋賀県・旧国の近江の「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
「呼邑国」以外の「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国」という4小国の名称は「蝶の羽化(うか)、成虫と蛹(さなぎ)、蝶の餌(えさ)となる草の華(はな)など」をあらわしている。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説して証明したように、15番目の「不呼国、現在の静岡県・旧国の遠江の浜名湖の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「花弁が集まる花冠(かかん)」に相似する。
したがって、「蝶は花(花冠)の蜜を餌」とするゆえ、
15
番目の「花の地宜の浜名湖が所在する不呼国(ふここく)」に続く16番目の「姐奴国(つなこく)」は「背中に大きな羽根が生える、アゲハチョウなどの美しい蝶の形をした小国」であった。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「5小国名の範囲と位置の秘密」を解明するには、「蝶の成虫と蛹(さなぎ)に見立てられた銀河」を表示する必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「十字の銀河」の北となりのバック(背景)となる銀河と、「鬼の姿に似る銀河」の北となりの銀河を「羽根()の形」に相似すると見立てると――

下図のごとく、「十字の銀河」は「蝶の羽根の一部」と化し、「鬼の姿に似る銀河」が「蝶の成虫の体」となる。
また、「鬼の姿に似る銀河」のみだと、その形は「蛹(さなぎ)の姿」に相似する。   
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◆上記したように、15番目の「不呼国、遠江の浜名湖は、蝶が蜜を吸う花の形」に相似する。
ゆえに、16番目の「「姐奴国(つなこく)、現在の福井県中・北部の、旧国の越前の地宜」は「背中に大きな翼が生える蝶、アゲハチョウの成虫の姿」に相似すると見立てられた。
下に、「姐奴国の地宜」が「背中に大きな羽根が生えた美しく艶(あで)やかな蝶(チョウの姿に相似する様子」を図示した。
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これまでわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が詳細に解説し証明したように、「姐奴国」の【奴】の字源・原義は「ジャコウウシの強大な力」であったゆえ、要するに「強大な力」であった。
ゆえに、「姐奴国」の【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

「姐奴国(つなこく)」の【姐】の字は偏【女】に【且()】が加わって成立する。
【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな俎板(まないた)の初文(最初の文字)」である。
【且】の古代字形(契文形・金文形)には様々も異なる形があるゆえ、字源となった銀河や事物について決定することはできない。
しかし、「女性の背中は乳房や腹部の凹凸がある正面形と異なって、俎板(まないた)の食材をのせる面のごとく平らである」。
だから、【姐】の字は「背中が美しい妖艶な気っ風(きっぷ)のよい姐御(あねご)や、また豊かな乳房を有するたくましい母親」を意味することになったと考えられる。
上図に示した「姐奴国・越前の地宜における蝶の胸部は、たくましい母親の豊かな乳房の形」をしている。
ゆえに、『説文解字』は【姐】の字を「蜀(しょく)の人、母を謂()ひて姐といふ」と解説し、
白川静著『字統』は【姐】の字について「姉御(あねご)という」と解説する。

◆下の上図に示すように、「旧国の美濃(みの)の・東部の地宜」は「ジャコウアゲハの成虫の姿」におよそ相似すると見立てられ、
「美濃の西部の地宜」は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に相似すると解釈された。
ゆえに、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹が一対となる小国」、つまり「成虫と蛹の一対の国」を略して、卑弥呼は小国名を「対蘇国(つさこく)」と定めた。
「対蘇国」の【蘇】は「幼虫が死んだようになった蛹(さなぎ)から蘇(よみがえ)って成虫になる」を意味した。
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「美濃」は、「現在の岐阜県の中部・南部」であり、この県名の「岐阜(ギフ)」という名がつく「ギフチョウ」と呼ばれる「アゲハチョウ」が生息する。
【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣の【牛】の字源の「ジャコウウシ」と同じく「ジャコウアゲハ」は共に麝香(ジャコウ)の匂いがする。
この点からしても、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹の姿が一対となる小国」ということで「対蘇(つさ)国」と、卑弥呼は名づけたことになる。
〔注 ジャコウウシのオスとジャコウアゲハのオスが麝香の匂いがはなつが――ジャコウアゲハのオスの姿は人の男性よりも女性の姿に相似するというイメージのほうが強い。ゆえに、卑弥呼は対蘇国・美濃を「【倭】の字源における女性のグループ」に組するようにしたのである。〕

白川静著『字統』は【蘇】の字について、下記のごとく解説する。
――『説文解字』は「桂荏(けいじん)なり」とあり、紫蘇(しそ)の類であるとする。字は蘇息・蘇生の意に用いる。金文には国名に用い、字を穌に作る。その字形は、あるいは魚に桂荏などを加え、生気を保たせる意をもつものであるかも知れない。国名以外の古い用法がみえず、字義を確かめがたい。

上記のごとく、白川静著『字統』の【蘇】の字源解説は不明確である。
対馬国から15番目の「不呼国(ふここく)」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であった。
「遠江」の小国名【不呼】の「花の台(うてな)」に見立てられた「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の北東岸」には、「都田川(みやこだがわ)が上流から運ぶ土砂と水を外()く河口」がある。
下に、中央に「都田川」、右上に「引佐細江」を配した地図を示した。
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上図中央の「都田川流域(みやこだがわりゅういき)の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜(ちぎ)」は「子宮で育つ胎児」に、また「胎児が育つ子宮」に、あるいは「胎児が大きく育った出産児が通過する産道」に見立てられた。

大量の雨が降ると、都田川が氾濫(はんらん)して沖積平野一面が水に漬()かる。
洪水の水が引いてしばらくすると、都田川に魚が棲()みはじめ、禾(いね)科の草が沖積平野に繁茂(はんも)して蘇(よみがえ)り、また様々な艸(くさ)が繁茂して蘇生(そせい)する。
しかし、以前と同様に、沖積平野には小さな木が生えても、大木はほとんど生えない。
ゆえに、【蘇】の字には【木】の字が組しておらず――【蘇】の字は【艸冠(くさかんむり)】の下に【魚】と【禾】の字を加えて組織される。

つまり、漢字が起源した五帝時代初頭以来、鉄製の鍬が出現した古代まで――
わが国においては、中期縄文時代初頭(中国の五帝時代初頭)から3世紀中半の卑弥呼時代まで――河川の氾濫(はんらん)による洪水によって従来と同じ生活が再び維持(いじ)され、あるいは上流から肥沃(ひよく)な土が押し流されて豊かな実りをもたらすことになった。
つまり、洪水の後に従来と同様な生活が蘇生し、あるいはより豊かな実りを手に入れる幸運にも恵まれることもあった。
ゆえに、「様々な艸(くさ)が繁茂(はんも)して蘇生(そせい)し、川に魚がもどってきて棲()み、禾(いね)科の植物が川の流域の土地に繁茂して以前と同様の生活が蘇(よみがえ)る」ということで、【蘇】の字が成立することになったと考えられる。

中期縄文時代初頭(五帝時代初頭)から卑弥呼時代までにおいて、わが国においては、洪水・氾濫(はんらん)よりも日照り・旱魃(かんばつ)に苦しんでいたのである。
日照りが続いて乾いて堅く(かた)くなった田や畑の土を、当時の原始的な木製の鋤(すき)で耕す農作業は大変な重労働となった。
いっぽう、洪水に見舞われた土は泥状でやわらかいゆえ、当時の木製の鍬でもたやすく耕すことができた。
だから、上記したように「洪水で再びもとの生活がもどってくる」ということで、【蘇()】の字が成立したと考えられる。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編者『シンポジウム 弥生人の四季』(六興出版発行)は、〔金属の刃先〕と題して、下記のごとく説明する。
「弥生時代後期後半にはくわやすきの刃先に鉄が用いられた。岡山県の上東(じょうとう)遺跡出土のすきの身の先端部には、鉄の刃先を挿入(そうにゅう)した痕跡が残っている。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものだが、従来の木の刃先と比べれば、開墾・耕作に伴う負担が大幅に軽減させた。この鉄製の鍬・鋤先は中国・朝鮮半島に類品がなく、国産品と考えられている。」

上記先頭の「弥生時代後期後半」は「卑弥呼が生存した同時代」となる。
上記のごとくの「薄い鉄板の両側を折り曲げた簡単な鉄製の鋤(すき)」を用いても、日照りが続いて堅くなった土を耕すのは木製の鋤とほぼ変わらず大変な重労働であったにちがいない。

◆下に、対馬国から13番目の弥奴国(みなこく)・尾張、14番目の好古都国(こかたこく)・参河、15番目の不呼国(ふここく)・遠江、そして17番目の対蘇国(つさこく)・美濃の4小国図を配した。
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前ページにて解説したように、「不呼国・遠江の都田川流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)」は「胎児や女性生殖器官の子宮や産道」に相似すると見立てられた。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説し証明したように、
「弥奴国・尾張の知多半島(ちたはんとう)」は「女性生殖器官の卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ・卵管」に見立てられ、「知多半島北部の陸地」は「子宮」に見立てられた。
「好古都国・参河の渥美半島(あつみはんとう)」は「女性生殖器官の卵巣(らんそう)」に見立てられ、「渥美半島北部の参河の陸地」は「子宮」に見立てられた。

上図に示したように、対蘇国・美濃は弥奴国・尾張と好古都国・参河と隣接する。
したがって、対蘇国・美濃も女性生殖器官と関連を有すると考えるべき必要がある。
下に、卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管と卵巣(らんそう)と子宮と産道の図を配した。
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下に、上図に「卵巣上体(らんそうじょうたい)と子宮広間膜(しきゅうこうかんまく)を加える女性の生殖器官の半分形」を示した。
「女性の背中側にある卵巣上体・子宮広間膜」は「羽根()」のような形をしている。
ゆえに、「女性の羽根のような形をした卵巣上体・子宮広間膜を含む生殖器官」は「羽根が背中に生える蝶の成虫」に相似すると見立てられたにちがいない。
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下図に示すよう、「女性の生殖器官の大半を包囲して、子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤の形」もまた「蝶の成虫の姿」に相似する。
このような事情からも、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の地宜」は「蝶」や「蛹(さなぎ)」をあらわすことになった。
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◆下に、「蘇奴国・若狭の地宜」と「蛹の背中を裂()いて、羽化(うか)し始める蝶の姿」が相似する様子をあらわした。
「蘇奴」の【蘇】は「死骸(しがい)のような蛹から命がよみがえる蝶」をあらわし、【奴】は「蛹の背中を裂く強大な力」をあらわす。
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アゲハチョウの幼虫は4回の脱皮(だっぴ)をくりかえして蛹となり、その蛹の姿は強大な力を有するジャコウウシに似て太くずんぐりとしている。
「アゲハチョウの4回の脱皮」は「骨盤入口に入りこむときから膣口(ちくこう)から頭が誕生するまでの出産児の4回の回旋(かいせん)」に共通すると見立てられたにちがいない。
ジャコウアゲハは幼虫から死骸のごとき蛹となり、その蛹の背中を裂いて命が蘇(よみがえ)り、わずか数分で空中をひらひらと舞う成虫となる、強くてたくましい命を示す。
ゆえに、「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」の小国名を、卑弥呼は「蘇奴国(さなこく)」と定めたことになる。

◆下図に示すように、「現在の滋賀県、旧国の近江(おうみ)」は、対馬から19番目の「呼邑国(こおこく)」であった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」における「不呼国・遠江」にて詳細に解説して証明したように、【呼】の字源は「鳰(にお)」であった。
「近江、琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
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【囗()】の下に【巴()】を加える【邑(ゆう)】の字について、白川静著『字統』は「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐ)らしている形。(中略)。巴は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
したがって、上図における「琵琶湖を包囲する比良山地(ひらさんち)・野坂山地(のさかさんち)・伊吹山地(いぶきさんち)・鈴鹿山地(すずかさんち)」は「城壁」に見立てられたことになる。
つまり、「滋賀県・近江」は【呼】の字源地宜の「鳰ノ海」の周囲に【邑】の「多くの人が住む地域」であるゆえ、
卑弥呼は「呼邑国(こおこく)」という小国名に定めたことになる。

卑弥呼は――上図における「滋賀県・近江の地宜」は【呼】の字源「鳰ノ海」が「子宮と子宮にて育つ胎児」、【邑】の字源「城壁となる山地」を「骨盤」に見立てた――と考えられる。
つまり、卑弥呼は【呼】の字源の「鳰ノ海を羊水に潜(もぐ)っていても窒息しないで死なずに生きることができる不思議な生命力を有する胎児」に見立て、
また、卑弥呼は【呼】の字源「鳰の海」を「【邑】の字源・骨盤に包囲されてまもられる子宮」に見立てて、
「旧国の近江」の小国名を「呼邑国(こおこく)」と定めたことになる。

しかし、日本一最大の湖の「琵琶湖」を、「カイツブリ科最大のカンムリカイツブリ」と見立てずに、なぜ「カイツブリ科最小の鳰の姿」に相似すると見立てたのであろうか?
その理由は、下図に示すように、「琵琶湖の南端の岸の形」が「カンムリカイツブリの頭の形」に相似しないからである。
下図に示したように「琵琶湖の南端の岸の形」は「鳰の頭の形」に相似する。
だから、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。
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下に、「琵琶湖の地宜」を示した。
この「琵琶湖の地宜」は「母親の鳰が翼をひろげてはばたいて巣の過熱(かねつ)をふせぎ卵に涼しい風を送って冷やしている姿」をあらわしている。
つまり、「琵琶湖の北岸」は「涼しい風を送って巣の卵をひやす母親の鳰のはばたく翼」ということになる。
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内田亨代表著作者『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は、下記のごとく「鳰の巣の温度」について説明する。
(鳰の巣の温度は)、常に水温・気温より多少高く保持される。つまり太陽熱が巣材(すざい)中にたもたれ、巣材の醗酵(はっこう)熱も加わり(これは弱いが)、親鳥が長く巣を去っても卵はひえない。親鳥が卵を巣材でおおって去るのは、卵をかくすことのほかに直射による加熱をさけるためもあるらしい。(中略)。なお、東映製作の映画「水辺の鳥」で、露出卵(ろしゅつらん)あるいは巣材をかぶせた卵の上に親鳥が立って、翼をひろげてふるわせ、空気を送る動作が撮影されている。親鳥が巣の過熱を感じたときにおこなう反応的行動と思われる。」

上図の「琵琶湖の地宜」は「加熱する巣の卵に涼しい風を送るため、母親の鳰が卵の上に立って翼をはばたく姿」に相似すると見立てられた。
だから、「鳰の海、琵琶湖の地宜」は、上記した「鳰の親鳥が巣の温度を管理する、母親の深い強い愛」をあらわした。

◆対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
下図に示すように、対馬国から17番目の「対蘇国の地宜」は「ギフチョウやジャコウアゲハの蛹(さなぎ)と成虫が一対となる形」に見立てられ、18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化(うか)し始める蝶の姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化した蝶が華(はな)の化身(けしん)となり、羽根の【奴(強大な力)】で体を持ち上げて空中をひひらと舞う姿」をあらわしている。
だから、卑弥呼は「現在の京都府南部の、旧国の山城」の小国名を「華奴蘇奴国」とした。
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したがって、「華奴蘇奴国の地宜」は「死骸のような蛹(さなぎ)から美しく命が蘇(よみがえ)り、華(はな)のように華麗な蝶の成虫がわずか数分で【奴(強大な力)】で体を浮かせて空を舞う、強くたくましい命」を示していることになる。
ということは、「華奴蘇奴国の地宜」は、前ページで解説した19番目の「呼邑国」の「鳰ノ海・琵琶湖の地宜」が示すように「母親の子への強い愛情」を示していることになる。
言いかえると、「華奴蘇奴国の地宜」は「自らの身を裂いてたとえ死んでもよいから、妊娠したわが子を生まんとする強い母性」をあらわしていることになる。

上図に右下に示したように、「華奴蘇奴国」の【華】の金文形は「蝶の形に相似する小さな花を房(ふさ)のようにつける藤のような華(はな)の形」をあらわしている。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ダイコンを餌にするモンシロチョウの成虫の姿」に相似する。
モンシロチョウの餌となる「ダイコンの花」は、「小さな花が房(ふさ)のようにつく華」である。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ウスバシロチョウの成虫の姿」に相似し、「ウスバシロチョウの餌となる草のムラサキケマン」は「小さな花が房のようにつく紫色の華」である。
あるいは、「華奴蘇奴国の地宜」は「スジグロシロチョウの成虫の姿」に相似し、「スジグロシロチョウの餌となるイヌガラシやタネツケバナの華」は「小さな花が房のようについている」。

以上のごとく、「華奴蘇奴国の地宜」は「小さな花が房のようにつく華が咲く草を餌とする、小さな可憐(かれん)な様々な蝶の姿」に相似する。

対馬国から20番目の「華奴蘇奴国」の【華】は「蝶の餌(えさ)となる草に咲く花」をあらわす。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説し証明したように、次の21番目の「鬼国(きこく)の地宜」も「鷹の巣の雛(ひな)の餌」をあらわしていた。
下図に示すように、「鬼国、旧国の志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の地宜」は「飢()えたときに、強く育った雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌にして食べる形」をしている。
このように、20番目の「華奴蘇奴国」と21番目の「鬼国」という小国名は「餌」が共通する仕組みになっていて、巧妙(こうみょうにリレーがなされている。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊(こくれい)のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

そして、今回のブログをもって、対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、
(B)
「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国の小国名」は、
【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「各小国の地宜と各小国に用いられる文字の字源・字義」がすべて理にかなって合理が成立する仕組みになっていることを解説して証明した。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが主張するように「邪馬台国を説明した古文献」ではなかった。

『魏志倭人伝』の大半の記事は「卑弥呼の死から約40年後に、晋(しん)王朝が秘蔵(ひぞう)していた卑弥呼が書いた文書を伊都国の港で魏王朝の人々は用いる楷書に書き直した文書(倭人国の国書)を晋の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が1字も誤らないように慎重(しんちょう)に書き写した史料」、そのものであったことになる。
だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】についえ詳細に具体的に組織的に説明する古文献」であったことになる。

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2024年8月 9日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・24

愛と子宮での出来事と花をあらわす弥奴国(みなこく)・好古都国(こかたこく)・不呼国(ふここく)の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて、【倉頡の文字作成理論】について説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と名づけることにした。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・23」では、
最初の対馬国から数えて11番目の「伊邪国(いやこく)」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部であり、旧国の丹波(たんば)」であったことを証明した。
また、対馬国から12番目の「都支国(たきこく)」は「旧国・志摩を除く現在の三重県と和歌山県南東部の、旧国の伊勢と紀伊南東部の熊野」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」と、14番目の「好古都国(こかたこく)」と、15番目の「不呼国(ふここく)」の位置と範囲を解明する。
現在方位にもとづくと、「弥奴国」は「都支国」の北隣となる「現在の愛知県西部の、旧国の尾張(おわり)」、
「好古都国」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河(みかわ)」、
「不呼国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江(とおとうみ)」であった。
下図に、対馬国から「21番目の鬼国(きこく・旧国の志摩)」と、「都支国・弥奴国・好古都国・不呼国の位置と範囲」」を示した。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「弥奴国・好古国・不呼国という、3小国名の秘密」を解明する説明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

◆前ページにて【倭】の字源解説に用いた「十字の銀河」の西となりの銀河を、
下図に示すように、わたくしは「鬼の姿に似る銀河」またの名を「四つ目の銀河」と名づけた。
この「四つ目の銀河」の南西に隣接する銀河を「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」と名づけた。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際的に天文学界において「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名称が決められた銀河部がある。
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下に、「はくちょう座のε(エプシロン)星と、γ(ガンマ)星と、δ(デルタ)星と、β(ベータ)星が構成する三角形状に包囲される「人の横顔に酷似する銀河と、北天の最輝部」の図を配した。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々にとって最も輝いて見える銀河部」のことをいう
下図における「点々の部分」は「銀白色」に、「点々が濃い部分」は「桃花鳥色(トキ色)」に輝く。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて証明したように、
対馬国から6番目国の「不弥国(ふみこく)」の【弥】の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」であった。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき町の海岸線)を【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭」に見立て、
また「釣川(つりがわ)から宗像(むなかた)平野部までの地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を【弥】の「カンムリカイツブリの首と胴体と翼」に見立てて、
これらの形状は「空を飛んで陸地に降下してこないカンムリカイツブリの姿に観える」と解して――
卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。

◆【弥】の「カンムリカイツブリ」の全長は46㎝~61㎝である。
この「カンムリカイツブリの全長」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝の大きさに育った出産児とほぼ同じである。
ゆえに、倉頡は「出産児」を「カンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。
というのも、胎児は母親の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余り・10カ月余も過ごす「水中生活者」であるからである。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に窒息(ちっそく)して死ぬ。
にもかかわらず、40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息して死なないのか?
この秘密を、女性の生殖器官と出産について研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「人間よりも長らく水中に潜(もぐ)っていることができる、カンムリカイツブリ」で喩えることにした。

【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
上記したように、「北天の最輝部」もまた「銀白色」に輝く。
ゆえに、下図に示すように、「不弥国(ふみこく)」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられた。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわしている。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社発行の143ページより転載した)
上記したように、「不弥国」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられたゆえ、
上図に示したように、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」の【弥】もまた「北天の最輝部」に見立てられたことになる。
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下に示した右側は「脚で水面を蹴()った水しぶきを浴()びてビショ濡()れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」である。
下図の左側は「現在方位にもとづく上南・下北の、現在の愛知県西部の地宜」である。
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上図に示したように、「現在の愛知県西部の地宜」は「熱烈な求愛ダンスをして繁殖行動をするカンムリカイツブリのメスの姿」に見立てられたことになる。
というのも、右図の「脚で水面を蹴って水しぶきを浴びるカンムリカイツブリの姿」は「カンムリカイツブリの尾のほうの水面がざわついて張る(広がる)状態」となるからである。
この「尾のほうの水面がざわついて張る」の略称は「尾張」、つまり旧国の「尾張」となる。
ゆえに、「現在の愛知県西部、旧国の尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

「弥奴国」の【奴】の字源・原義は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、下記のごとき3つの事柄をあらわした。
(
)「子どもを出産するための母親のジャコウウシのごとき強大な力」
(
)「子どもの出産において――母体(妊婦)が大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)
(
)「ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年」

つまり、「弥奴国」の【奴】は「求愛ダンスするとき、メスが体を水面に垂直状に立つことができる、強大な力」をあらわした。
上図に示した「現在方位にもとづく尾張の上南・下北の地宜」は【弥】の「カンムリカイツブリのメス」が【奴】の「強大な力で、体を水面に垂直状に立つ姿勢」に相似する。
だから「尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

◆旧国・尾張のとなりは旧国・参河(みかわ)、現在の愛知県東部である。
下に、「愛知県東部、旧国の参河の地宜」を示した。
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上図の「参河の地宜」を「求愛ダンスをするオスのカンムリカイツブリの姿」に見立てれれば、ことは簡単にすむ。
――しかし、「参河」は「【倭】の字源における女性グループ」の一員となる小国である。
したがって、「参河」は「求愛ダンスをする【メスのカンムリカイツブリ】の姿」と解釈すべきことになる。
ゆえに、「尾張と参河の地宜」は共に「カンムリカイツブリのメスの姿」に見立てなければならない。
このため、上記した「熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」の解釈は誤っていたことになるが――
「尾張と参河の地宜」を同じ「メスのカンムリカイツブリの姿」となるという解釈も釈然(しゃくぜん)とせず、なんとも合点がいかず――このままの解釈だと中途半端(ちゅうとはんぱ)な状況で終わることになる。

下に、「参河」の【参】の周代に出現した2種の金文形(周代に出現した字形)を示した。
この【参】の2種の金文形は「巫女(みこ)が妊婦の姿に扮(ふん)して、子どもの出産をよろこび祝って踊る姿」を図案するものと考えられる。
この「巫女(みこ)の頭部の三又(みつまた)に分かれる図案」は「三又に分かれる北天の最輝部の形状を女性の生殖器官の一部分に見立ててデザインした簪(かんざし)」を表現しているにちがいない。
というのも、「おなかが円い妊婦」に適応(てきおう)するのは「女性の生殖器官の一部分の形に作られた簪」だからである。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて詳細に解説したように、
対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」と12番目の「都支国(たきこく)」は共に「男王の一大率(いちだいそつ)が住む伊都国(いとこく)国と女王・卑弥呼がすむ邪馬壱国(やまいこく)」を意味した。
下図に示したように、「伊都国」の【伊】の字源は「女性の生殖器の子宮で育つ胎児の胸をアゴにつける屈位(くつい)の姿勢」であった。
ゆえに、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)・尾張」と14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」は、共に上図の【参】の金文形が示す「女性の生殖器官に関する秘密」をあらわしていたと考えられる。
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下図に示すように、「邪馬壱国」の【邪馬】は「出産児が産道入口に入り込んで産道を通過して誕生するまでの、出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)が重ねあわせて【小斜径(しょうしゃけい)】となることができる仕組み」であった。
「邪馬壱国」の【壱】の字源は「女性の生殖器官の子宮や産道」である。
だから、「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」は、共に「女性の生殖器官にておきる秘密」をあらわしていたにちがいない。
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◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
下図に示したように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)、旧国志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の形」は「鷹(たか)の強い雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌(えさ)にして食べる弱肉強食の様子」に見立てられた。
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下に「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」があらわした秘密「女性の生殖器官の正面形」を配した。
下図における「卵巣(らんそう)」と「卵管采(らんかいさい)と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)」が、
「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜の秘密」であったことになる。
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上図の「卵管采」は「人の指の形」に相似し、「卵管膨大部」は「人の5本指とつながる手の形」に相似する。
ゆえに、「卵管采は、卵巣(らんそう)を愛撫(あいぶ)するがごとくの形」をしている。

人の一生は女性の卵(らん)と男性の精子の合体からはじまる。
卵と精子の合体がおこなわれる場所は、一般的に卵管膨大部であるといわれている。
卵巣からでた卵は卵管膨大部で精子と合体する。これを「受精(じゅせい)」と呼ぶ。
そして、分裂をくりかえしながら、卵管膨大部とつながる卵管(らんかん)の中を子宮のほうへ移動していく。
およそ7日目ごろに、受精は子宮壁(しきゅうへき)に着床(ちゃくしょう)するといわれている。
着床が成功すれば、妊娠(にんしん)が成立したことになる。

女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、「卵巣あるいは卵管膨大部のいずれかの場所における、卵と精子が合体する受精のような仕組み」を想像し、
この「受精のような仕組み」を、黄帝は「左右の卵巣と卵管采・卵管膨大部・卵管と同じく二つ存在する」と推理したにちがいない。
そして、上記した「鬼国の英虞湾の形状」が示したように、
黄帝は「子宮壁に着床する際、強い受精が弱い受精を餌にして食べて死滅させる」と考えたであろう。
だから、黄帝は「人の子は、一般的に一人で誕生する」と考えたことになる。
黄帝は「双子で生まれるのは、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおこらないからである」と考え、また「双子以上の多産も、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおきないのが原因」と考えたであろう。
卑弥呼も、黄帝の同様な考え方をしたと推測される。

◆下に、「好古都国(こかたこく)」の【好(こう)】の字源銀河と契文形(けいぶんけい・殷代後半の甲骨文字の字形)を示した。
【好】の契文形について、白川静著『字統』は、下記のごとく解説する。
「女は母の形に作り、あるいは子を抱く形につくるものであって、婦人がその子女を愛好することを示す字である。」
ゆえに、下図に示すように【好】の字における【女】の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
それゆえ、「十字の銀河の右腕(西側の腕)と子宮から鬼の姿に似る銀河の頭に垂れる2本の帯状の銀河」は「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」をあらわす。
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上図の「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」は、前ページにて「女性の生殖器官の正面形の図」をもって説明した「卵管膨大部・卵管が卵巣を愛撫(あいぶ)するがごとくの形状」と合致する。

下に、「現在方位にもとづく、上南・下北の弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」を示した。
結局、前述したように、「現在の愛知県西部、旧国の尾張の地宜」を「熱烈な求愛ダンスをして繁殖(はんしょく)する【弥】・カンムリカイツブリのオスが【奴】・強大な力で水面に垂直状に立つ姿勢」に見立てて、
卑弥呼は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」の小国名を「弥奴国」と定めた。
また、卑弥呼は「旧国の尾張の知多半島(ちたはんとう)の地宜(ちぎ)」を「女性生殖器の卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管(らんかん)と卵巣(らんそう)」のいずれか――その形状からして、多分(たぶん)、「卵管膨大部・卵管」に相当すると解釈したと考えられる。
この解釈にもとづいて、卑弥呼は「知多半島の北部・尾張の陸地」を「卵管膨大部・卵管とつながる子宮」に見立てたことになる。
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卑弥呼は上図の「現在の愛知県東部の、参河の地宜」は前ページに配した「【好】の字源銀河の形状」に適合すると考えて、「参河」の小国名を「好古都国(こかたこく)」と決めた。
また、卑弥呼は「参河の渥美半島(あつみはんとう)の地宜」を、多分、その形状から「女性生殖器官における卵巣(らんそう)」に見立てて、
そして、「渥美半島の北部・参河の陸地」を「卵巣とつながる子宮」と解した。

以上のような考えならば、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「女性の生殖器での受精の出来事(秘密)」をあらわすことになる。
ゆえに、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「【倭】の字源における女性グループ」に組する小国となる。

「好古都国」の「古都」は「中国南部の呉地の杭州市(こうしゅうし)」をあらわしたと考えられる。
杭州市は浙江省(せっこうしょう)の首都、銭塘江(せんとうこう)の北岸に所在し、物産豊かな美しい都市である。
紀元前221年に秦(しん)が杭州市に銭塘県(せんとうけん)を置いて以来、約2200年の歴史が続いた。
杭州市の西側に所在する西湖(さいこ)は四季折々に美しく、杭州のシンボルとも絶賛される存在である。

下図に示すように、【倭】の字源となる「十字の銀河」は「女体(にょたい)」に相似し、
「十字の銀河の腰」には「女性の生殖器器官の子宮に相当する銀河部」がある。
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下図に示したように、杭州市のシンボル的存在の「西湖の地宜」は「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
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上図の「西湖の地宜の天地(上下)を逆さにした形」は「虞美人草(ぐぶじんそう)の実の形」に相似する。「虞美人草」は「ケシ科の越年草」である。
ゆえに、「虞美人草の実」は「ケシの実の形」に相似するゆえ、結局、「西湖の形」にも相似する。
上記したように、紀元前221年に秦が杭州市に銭塘県を設置した。
この秦の末期(紀元前3世紀)に生存した武将の項羽(こうう)の愛人の名が「虞美人」であり、
虞美人の墓に生えて出したという伝説の「ヒナゲシ」を「虞美人草」と呼んだ。

卑弥呼は、約400年前の項羽と虞美人との恋愛を想像して、
(
)「尾張」の小国名「弥奴国」の由来となった「カンムリカイツブリのオスがメスと交わす熱烈な求愛ダンス」を「項羽が熱愛した虞美人への情熱」に見立て、
(
)「杭州湾の西側に所在する西湖の形」は「虞美人草(ヒナゲシ)の実の形」に相似すると見立て、
(
)「遠江の浜名湖の地宜をヒナゲシの花の形」に相似すると見立てて、
卑弥呼は「遠江」に隣接する「参河」の小国名において、「杭州市」を「古都」とあらわすことにした。

だから、「好古都国」の【古都】は参河に隣接する遠江の浜名湖の地宜と共通する「女性の生殖器官の子宮の形をした西湖(さいこ)が所在する、杭州市」であった。
そして、上記したように「好古都国(こかたこく)」という小国名の【好】の字は「女性の生殖器官の子宮、子宮とつながる卵巣(らんそう)」をあらわした。
つまり、卑弥呼は「渥美半島が【好】の字の卵巣」に、「渥美半島より北部の陸地」は「子宮」に見立てた。
ゆえに、「現在の愛知県東部の、旧国の参河」の小国名を、卑弥呼は「好古都国」と定めたことになる。

◆上記したように、「旧国の参河」の小国名における「古都」は「杭州市」であった。
杭州市は、杭州湾河口の近くの西側に所在する。
「杭州市の東にある杭州湾」は「不呼(ふこ)」をあらわす。
「不呼」は、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」の次の隣国である15番目の「現在の静岡県西部、旧国の遠江(とおとうみ)」の小国名をあらわした。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、「不呼国(ふここく)」の【不】の字源について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
つまり、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
【不】の字源は「花弁が輪状(わじょう)に集まる花冠(かかん)を支える台(うてな・萼拊)と、女性の生殖器官の産道は同じ役割ではない」と否定・打消しをあらわす「ず」であった。
「字書の聖典」とたたえられる『説文解字』は、【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。

下に、「上東・下西の杭州湾の地宜」を示した。
この「杭州湾の地宜」を卑弥呼は「ヒナゲシの花の形に相似する」と見立て、「銭塘江(せんとうこう)の河口に近い杭州湾の西岸」を「花の台(うてな)の形に相似する」と見立てた。
ゆえに、「杭州湾の西岸」が【不】の字源をあらわすことになった。
「銭塘江の水は杭州湾の西岸へ外()かれて流れこむ」。
ゆえに、「杭州湾の西岸」は『説文解字』の【呼】の字源をあらわすことになった。
だから、「【不】と【呼】の杭州湾」は「不呼」という「静岡県西部の、遠江の小国名」をあらわした。
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◆上記したように、白川静著『字統』は【不】の字源を「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下の上図「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかんさい)と卵管の役割」は、
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、花のおしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と、下図の「花の生殖器官図」における「花弁を輪状に集める花冠(かかん)をささえる台となる、萼拊(がくふ)の役割」は類似せず両者はたがいに異なる役割を有する。
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この「出産児が通過する産道と花の台(うてな・萼拊)の役割は同じでは非(あら)ず」という否定・打消しをあらわして、「不呼国」の【不】の字源・字義となった。
このため、【不】の契文(けいぶん)と金文の字形は「花の台(うてな)」を表現する図案となった。
ゆえに、白川静著『字統』は、【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説した。

「遠江」は「都から遠い静岡県西部に所在する浜名湖」を意味した。
下に図示したように、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の浜名湖」は遠州灘(えんしゅうなだ)とつながっていなかった。
「現在の浜名湖」は遠州灘とつながる汽水湖(きすいこ)である。
下図に示したように解釈すると、「卑弥呼時代と現在の浜名湖の地宜」は「花の形」に類似する。
下図に右下の「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」は「花の萼拊(がくふ)、つまり花の台(うてな)」に相当する。
上記したように、「花の台」は【不】の字源である。
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前述したように、上図の「浜名湖の形」を、卑弥呼は「虞美人草・ヒナゲシの花の形に相似する」と見立てた。
上記したように、『説文解字』は「不呼国」の【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下に、【不】の字源「花の台」となる「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」とその周辺の地宜を示した。
下の右側の「大崎半島の付け根から都田川(みやこだがわ)の河口まで」が「人の横顔」に相似するゆえ、「引佐細江」は「人が息を外く口(くち)」のごとくに観える。
ゆえに、【不】の「花の台」となる「引佐細江」は【呼】の字源をも示すことになった。
なお、「都田川の水は土砂を運んで引佐細江に吐()(息を外く)」ゆえ、「都田川の河口と引佐細江」もまた【呼】の字源をあらわした。
下の左側の「村櫛半島(むらくしはんとう)の地宜」は「人の長い横顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)東方の内浦(うちうら)」も「息を外くなり」の【呼】の字源をあらわす。
「内浦の北となりの地宜」は「鳥の頭と翼の形」に相似する。ゆえに、【不】の「鳥飛んで上翔(じょうしょう)する。下(くだ)り来()らざるなり」という否定・打消しの「ず」をあらわすことになった。
下図の「浜名湖と支湖・引佐細江(いなさほそえ)」が示す【不】と【呼】の地宜にもとづいて、
卑弥呼は「遠江」を「不呼国」という小国名に定めた。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)には七人の副官・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従っていた」と説明する。
「宗像王の天菩比命」は、『魏志倭人伝』に登場する「外相(外務大臣)の難升米(なしめ)」であった。
「不弥(ふみ)国・宗像地方の王・難升米(天菩比命)は「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は
「難升米(天菩比命)に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらどりのみこと)であった」と記す。

遠江の豪族の建比良鳥命とその一族は「遠江」の小国名は「不呼国(ふここく)」であったことを明確に示す「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」を作製した。
この「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」は、『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝』の成立時代(280年~289)と同時代の260年頃から着手され、約30年後の290年頃に完成した。
『魏志倭人伝』に記述された最終年は「250年頃」と推定されるゆえ、「遠江の1千万坪の大鳥の地上絵の作製」は、『魏志倭人伝』が成立した直後の10年後には早くも着手されていたことになる。

現在まで、卑弥呼の地上絵内(細江町内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どうたく)が出土している。
この銅鐸を天頂緯度の測定と三角土地測量使用して、ちょうど1千万坪にする卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作製されたことになる。

「長官の難升米が居住する不弥国・宗像地方」と「副官の建比良鳥が居住した不呼国・遠江」の【不】の字源は共に「鳥の【弥】・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざるなり(地上に下りて来ない)」という否定・打消しの「ず」である。
下に、遠江の建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県西部の遠江の一画の浜松市浜名区細江(ほそえ)町の行政区画を表示する地図を配した。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
かつては、1989(平成元年)頃の細江町は「静岡県引佐郡細江町」であり、つぎに細江町は「静岡県浜松市北区細江町」と変わり、現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」である。
現在の地図帳には下の地図は消滅しているかもしれないが、
細江町が「引佐郡細江町」あるいは「浜松市北区細江町」であった、つい最近までは、下に示した「1千万坪の細江町の地図」は地図帳に存在していた。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
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◆下図における中央の「卑弥呼の地上絵における、都田川(みやこだがわ)流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜」は「子宮で育つ胎児の姿」に相似する。
ゆえに、「都田川流域の沖積平野は、胎児が育つ子宮や胎児が成長して通過する産道にも相似する」。
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上図の「都田川流域の沖積平野」は「「浜名湖の支湖の、引佐細江に上流からの土砂と水を外()く」。
だから、前ページに示した()「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」と、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」にもとづいて、
卑弥呼は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」の小国名を「不呼国」と決めたことになる。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」において、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」については解説しなかった。
というのも、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」のあとに、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について続いて解説すると、
卑弥呼が「遠江の小国名」を「不呼国」と定めたことが明確となって、
建比良鳥命とその一族が「不呼国」という小国名を明確に示した「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」について説明する必要が無くなると考えたからである。
「不弥国の難升米(天菩比命)」と「不呼国の建比良鳥命」との「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する役職の長官と副官の関係」が明確になるように説明するために、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」に続いて、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について解説しなかったのである。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて解説したように、「不呼国」の【呼】の字源は「鳰(にお・カイツブリ)」であった。

この世に生まれた人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままだと窒息(ちっそく)して確実に死ぬ。
女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、長い月日、羊水の中で生活する胎児がなぜ窒息(ちっそく)して死なないのか? この秘密が解明できなかった。
それゆえ、倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
(にお)の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡(そうきつ)は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死しない胎児」に喩(たと)えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って()「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と、()「鳰(にお)」の両者をあらわすことにした。
しかし、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになった。
このため、偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。

下に、前ページにて取り上げた「【不呼】をあらわした上東・下西にした杭州湾の地宜」を、
「上南・下北に改めた杭州湾の地宜」を配した。
下図が示すように、「杭州湾の地宜」は「鳰の姿」に相似して、【呼】の字源をあらわす。
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下図における「卑弥呼の地上絵の〔翼〕と記した境界線」は【不】の字源「鳥・(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり」と否定・打消しの「ず」の形状をあらわす。
また、下図における左下の「引佐町(浜名区)の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
だから、「1千万坪の卑弥呼の地上絵」は【不】と【呼】の字源を明確に示すゆえ、「遠江は不呼国であった」と確信できる。
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下に示したように、卑弥呼の地上絵の北に隣接する「浜松市浜名区引佐町の金指地区と井伊谷地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
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◆下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って、その頂に三角点を埋設し、1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精密に地宜を作成できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量が行うことができなかった。
ゆえに、地図作製係の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)とその一族は260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させたことになる。
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上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国にて200年~250年間、
「虞()」の重職に従事していた益氏の王子一行がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしている。
前ページで説明したように、また下図に示すように、「その額(ひたい)に北天の最輝部がある、人の横顔に酷似する銀河」を
「はくちょう座のε・γ・δ・βの4つの星が三角形状に包囲する」。
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上図における北天の最輝部を三角形状に包囲する4つの星のうちの「はくちょう座のγ星」をのぞく、
「はくちょう座のε・δ・βの3つの星は三角形を形成する」。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法」を考案したと考えられる。
前述したように、「三角形に包囲される、北天の最輝部」は【不」と【弥】の字源となった。
上図の「卑弥呼の地上絵における大鳥の頭部(横顔)」は「不弥国(ふみこく)の津屋崎町の海岸線の形」に設計されている。
だから、上図の「卑弥呼の地上絵における大三角形」は益氏(えきし)がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしていることになる。

◆下に、「夏の銀河における〔鳥〕の形の解説図」を配した。
「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし・出産児)」に見立てられ、「北アメリカ星雲」は「象の横顔と鼻の形」に相似すると見立てられた。
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下に、「北アメリカ星雲」を「象の横顔と鼻の形に相似する」と見立てて成立した【為】の字源解説図を示した。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「象の顔・鼻・胴体」を図案する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」における「投馬国(とうまこく)」の解説では、「北アメリカ星雲」は「ジャコウウシの横顔」に見立てられた。
「象」と「ジャコウウシ」のどちらも「強大な力の持ち主」で共通する。
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下図に示したように、「卑弥呼の地上絵」は「大鳥・生子(出産児)・象の横顔と鼻の三要素」から構成されている。
下図に示したように、卑弥呼の地上絵は「象が引佐細江から吸い込んだ水をはきだす強大な力」で「【弥】のカンムリカイツブリの頭が〔南〕から〔東〕へ移動する(転回する)仕掛け」になっている。
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下に示したように、〔南(西南)〕にある【弥】の「カンムリカイツブリ」の頭を〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵」は、下の左図が示すように「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」をあらわす。
ゆえに、下図が明確に示しているように、卑弥呼の地上絵を作成した遠江の豪族の建比良鳥命は、精密な中国海岸線地図を知っている不弥国・宗像地方の王の難升米(なしめ・天菩比命)に従う、
七人の副官・建比良鳥命のうちの一人であったことになる。
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なぜ、上図に示した【弥】の「〔南(西南)〕あるカンムリカイツブリの頭を〔東〕へ移動する仕掛け」が必要となったかと言えば――
「卑弥呼の地上絵」は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密とした【倉頡の文字作成理論】を表示するものであったからである。
多くの人々が「卑弥呼の地上絵」は最も重大な王朝お国家機密の【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する大罪(たいざい)】を犯(おか)していることが容易に気づくような形に設計すると、たちまち噂(うわさ)になって大騒ぎになって時の天照大御神・大和王朝に報告されて、
建比良鳥命とその家族および一族全員、即刻(そっこく)死刑となる。
当時、強大な権力と武力を誇示(こじ)して人民を弾圧(だんあつ)する天照大御神・大和王朝が反逆分子たちを敵視・抹殺(まっさつ)して国家統一を目指していた。

この天照大御神・大和王朝の強行政策を憎悪した遠江の建比良鳥命と一族は、
子々孫々・後世まで大和王朝の人民を弾圧した横暴な歴史を語り受け継ぐために卑弥呼の地上絵の作成を決意した。
そして、卑弥呼の地上絵の作成途中の280年~290年ころになると――
人民を愛(いつく)しむ政治をおこなっていた邪馬壱国・出雲王権の大国主命(おおくにぬしのみこと)を敵視して、
天照大御神・大和王朝は武力で出雲王権を討伐し滅亡しようとしていた。
このように、当時は、反逆する勢力を武力で徹底的に滅亡させる天照大御神・大和王朝が天下を治めていたため、
卑弥呼の地上絵は一目(ひとめ)で【倉頡の文字作成理論】をあらわす地図であると察知できないように――工夫(くふう)を加えて得体(えたい)の知れない形にする必要があったのである。

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2024年8月 6日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・23

花咲く【愛】の伊邪国(いやこく)と都支国(たきこく)の秘密の解明

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』は多数の記事をもって【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(22)までに、
『魏志倭人伝』に記される対馬国(つしまくに)から巳百支国(じはきくに)までの10ヵ国の位置や範囲を
【倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】にもとづいて解明した。

この解明によって、邪馬台国説学者たちはじめ学者たちの「『魏志倭人伝』には誤った記事が幾つか存在するゆえ、軽々しく全記事を正しいと信用してはならない」という主張は誤っていたことが証明された。
学者たちは「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
その「誤っている」というすべての記事は、倉頡が作った【禾()】の字源をそのまま受け継いだ【倭()】の字源に則(のっと)って説明されているので――結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』のすべての記事は正しかったとことになる。
だから、学者たちの「『魏志倭人伝』には幾つかの記事に誤りがある」という主張は言いがかりであり憶測(おくそく)であったことになる。

『魏志倭人伝』に登場する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を
卑弥呼は〔10ヵ国ずつ、3つのグループ〕に組織的に分類して【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各国の名称を定めている。
ゆえに、わたくしは〔最初の対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国のグループ〕を、
(
)「瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ」と名づけることにした。

というのも、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海であった」と記述しているからである。
この「瀚海」を注目すると【倉頡の文字作成理論における基本知識】が得られるゆえ、グループ名に「瀚海」を取り入れることにした。
また、「瀚海」に注目すると、倭人国のすべての小国名は【倉頡の文字作成理論】をもって統一化され組織されていることが解明できる。
ゆえに、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する文献であったことが証明される。
そして、末盧国(まつろこく)から巳百支国(じはきこく)までの方位は、すべて【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って説明されている。
ゆえに、()の最初のグループ名を「瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ」と定めた。

『魏志倭人伝』は「【倭】の字源に則って、日本列島の東は南へ延びる」と説明する。
ゆえに、九州の末盧国から狗奴国までの28ヵ国の方位は、
【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って決められている。
ゆえに、2番目の()「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国グループ名」は、
「【倭】の字源における女性グループ」と呼ぶことにした。

そして、3番目の()「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国グループ名」は、
「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う【卑弥呼が30ヵ国の小国を10ヵ国ずつ3グループに分けた組織の秘密】を煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるように解説するためには、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」が【禾()】、【委()】、【年(ねん)】、【倭()】の字源となった。

わが国における古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【禾】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形」と解説する。
また、同書は【委】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう」と解説する。
また、同書は【倭】の字について「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形。(中略)。委はもと田楽(でんがく)の状(じょう)をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年となる」と解説する。

要するに、白川静著『字統』は【禾】は「いねの穂が垂れた形」、
【委】は「穀霊に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿」、
【年】は「穀霊に象る禾(いね)の形の作りものを被って舞う男性の姿」、
【倭】は「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被って女性と男性の姿をあらわす」と解説していることになる。

下図は上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部より北側の銀河の形状」が「穀霊(稲魂)の形のかぶりもの(作りもの)」となる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・子宮」があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性」をあらわす。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」と解することができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をあらわす。
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だから、上図にもとづいて、上記したように、卑弥呼は伊邪国(いやこく)から狗奴国(くなこく)までの計20か国を10ヵ国ずつ二つのグループに分けている。
ゆえに、わたくしは()「【倭】の字源における女性グループ」と、()「【倭】の字源における男性グループ」に分けることにした。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて、詳細に説明して証明したように、
下図の対馬国から9番目国の「斯馬国(しまこく)」は「現在の鳥取県東部と兵庫県北部であり、旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)」であった。


対馬国から10番目国の「巳百支国(じはきこく)」は「現在の京都府北部であり、旧国の丹後(たんご)」であった。
対馬国から11番目国の、()「【倭】の字源における女性グループ」のトップ「伊邪国(いやこく)」は、
「現在の京都府中部と兵庫県一部であり、旧国の丹波(たんば)」であった。
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下に現在方位にもとづく「伊邪国・丹波の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
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下に「女性の骨盤図(こつばんず)の正面形」を配した。
上図における「伊邪国の北の境界線における東西の形」は、下図の「女性の骨盤(こつばん)における、腸骨翼(ちょうこつよく)に相当する」と見立てられた。
上図の「伊邪国の南の境界線における東西の形」は、下図の「女性の骨盤の、座骨(ざこつ)」に相当する」と見立てられた。
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だから、下の上下図にて示したごとく、「伊邪国の地宜は女性の骨盤の正面形に似ている」と見立てられた。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて、対馬国から10番目国の「巳百支国」の【百】は「女性の骨盤をあらわす」と詳細に解説した。
というのも、「天敵のオオカミに襲われると、子どもを中心に隠して、【百頭以上】のジャコウウシの群れが円陣を作って、子どもの命をまもる防御方法」が「女性の骨盤」に相似すると見立てられたからである。
このため、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる聖獣(せいじゅう)とされた。

このように、『魏志倭人伝』の各小国名はとなりの小国名と関連しあう、あるいはとなりの小国名に用いる字義が解明できるヒントを与える役割を有している。
したがって、10番目の巳百支国の【百】が「女性の骨盤」に見立てられたゆえ、
この「巳百支国」の【百】がヒントになって、
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番目国の「伊邪国の地宜」も「女性の骨盤」に見立てられたことになる。

女性の骨盤は妊娠時の子宮を支(ささ)えるために左右に広がっている。
そして、女性の子宮に宿る胎児(たいじ)の命は堅(かた)い骨盤に包囲されてまもられている。
下に、骨盤でまもられる女性の生殖器官の正面形を図示した。
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◆「伊邪国」の【伊】の字は「伊都国(いとこく)」の【伊】である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて詳細に解説したように、
【伊】の字は「アゴを胸につける屈位(くつい)の出産児の姿」をあらわす。
つまり、下の「伊都国の地宜」が示すように、「糸島半島(いとしまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、ジャコウウシがアゴを胸につける屈位の【伊】の姿勢をあらわす」と見立てられて、
【伊】に【都】(卑弥呼と共立する男王の一大率が住む都)が加えられて小国名が「伊都国」となった。
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「出産児」は常に【伊】の「屈位の姿勢」を保っておらず、その姿勢は変わるが――
下に示すように、「女性の子宮にて育つ胎児」は「ほぼ常に、【伊】のアゴを胸につける屈位の姿勢となって過ごす」。
ゆえに、「伊邪国」の【伊】は「屈位の姿勢となる胎児や出産児」を意味したことになる。

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下に図示したように、「伊邪国」の【邪】は「邪馬壱国(やまいこく)の【邪馬】の地宜」をあらわした。
「邪馬壱国の【邪馬】の形状」は、「親のフタコブラクダが舌で出産直後に両足で立つわが子の背中をなめて愛(いと)しむ様子」に観える。
だから、「伊邪国」の「伊邪」は「母親が妊娠時(にんしんじ)から出産後、そしてその後も常に子にそそぐ深い愛情」を表現するものであったにちがいない。
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「伊都国」の【伊】の字源となった「ジャコウウシのメスもオスも子の命をよくまもる」。
ゆえに、「ジャコウウシは愛情深い動物」と解釈された。
「邪馬壱国」の【邪馬】の【馬】・フタコブラクダもまた子に深い愛情をそそいだ。
子が死産したフタコブラクダの母親は、母親が死んで生まれた子には死産したわが子を愛(いと)しく思って乳を与えないという。
このように、フタコブラクダもジャコウウシと同様に子に深い愛をそそぐ聖獣とされた。
だから、【伊邪】という小国名は「親の深い愛(愛情)」を意味したことになる。
(B)
「【倭】の字源における、10ヵ国すべての女性グループ」はどの小国名も「親の深い愛」をあらわしていると考えられるゆえ、
このグループのトップの「伊邪国」という小国名は、当然、「親の深い愛」をあらわしていると考えられる。

いままで説明してきたように、「伊都国」の【伊】に「邪馬壱国」の【邪】を加えると、「伊邪(いや)」という小国名となる。
だから、簡単明瞭にいうと「伊邪国」という名称は「伊都国の【牛】の字源・ジャコウウシの親の深い愛と、邪馬壱国の【馬】の字源・フタコブラクダの親の深い愛」をあらわしている。

白川静著『字統』は、【愛】の字について「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」と解説する。
下図は、「【愛】の字源銀河解説図」である。
「十字の銀河」を「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人」に見立てると、「鬼の姿に似る銀河」が「立ち去ろうとする人が後ろに心を残す、這()って母親を追う乳飲み子」と解釈できる。
ゆえに、【愛】の字源は「常に子の様子に気くばりして、心やすまらない母親の深い愛情」であったことになる。
S484
◆「伊邪国・丹波」は「霧(きり)の丹波」と呼ばれて「霧」で有名である。
『説文解字』は【霧】の字を「地气(ちき)發して、天應(てんおう)ぜざるを霚(きり)といふ」と解説する。
白川静著『字統』は【伊】の字を「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意を媒介(ばいかい)する聖職者の人をいう」と解説する。

下図は、「白川静著『字統』【伊】と『説文解字』の【霧】の字源銀河の解説図」である。
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上図における「十字の銀河」が、白川静著『字統』の【伊】の字源解説における「【尹(いん)】の神聖な杖、つまり神杖(しんじょう)」である。
上図の「鬼の姿に似る銀河」が、白川静著『字統』の【伊】の字源解説における「聖職者」ということになる。
上図の「鬼の姿に似る銀河」が「气()を発する地」となり、
「十字の銀河の子宮と鬼の横顔に似る銀河の口との中間の、3本の線の帯状の銀河」が「天應ぜざる(天まで届かずに地に近い空中にただよう)地气の霧吹き、つまり霧」ということになる。
上図の「霧吹き、つまり霧の銀河の帯」は「十字の銀河の子宮に対して邪(なな)め」であるから、【邪】の字をあらわした。
だから、「伊邪国」は「霧の丹波」であったことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」は
「天照大御神と須佐之男命が天(あめ)の真名井(まない)の聖なる水を口にふくんで、息を吐きだして生じた霧吹き」を「気吹(きぶき)の狭霧(さぎり)」と表記する。
上図の下部に「谷川の【天の真名井(あめのまない)】の水」と記した銀河が「天照大御神と須佐之男命が口にふくんで霧吹きをして誓い合った、狭い谷川の清く澄んだ水」であった。
『古事記』上巻は「天照大御神と須佐之男命が口にふくんで吐きだした霧吹き」を「気吹きの狭霧」、つまり「口にふくんで谷川の水を吐きだした霧吹き」は要するに「霧」であったと表現するゆえ、
上図は「伊邪国が霧の丹波であった」と証明する解説図となる。

白川静著『字統』は【伊】の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意を媒介(ばいかい)する聖職者の人をいう」と解説する。
ところが、「伊都国の地宜」が示すように、『魏志倭人伝』の【伊】の夏音文字の字源は「アゴを胸につけるジャコウウシの姿」であって、白川静著『字統』の【伊】の字源解説と差錯(ささく・相違)する。
だから、白川静著『字統』の【伊】の字の解説は字源・原義を失った中国古代漢字の解釈であったことになる。


以上のごとく、「伊邪国」は「丹波」であり、
「伊都国と邪馬壱国の二都」をあらわして「伊邪」となり、
そして「伊邪国」という名は「骨盤でまもられる子宮と胎児」から【愛】が連想されて「親の子にそそぐ深い愛情」をあらわしていたことになる。

◆1番目の「対馬国」から数えて11番目の「伊邪国」の次の12番目は「都支国(たきこく)」である。
前述したように、「伊邪国」は「伊都国(いとこく)と邪馬壱国(やまいこく)」をあらわした。
ゆえに、「都支国」もまた「男王の一大率が治める都と女王・卑弥呼が治める都の二都に支(わか)れる、倭人国における中間地域」と意味する小国であったことになる。

「伊邪国」の東方(現在方位)には20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」、19番目の「為吾国(いがこく)」、24番目の「邪馬国(やまこく)」の3小国が隣接する。
このように、「伊邪国」と「都支国」は少し離れている。
「都支国」の東側(現在方位)には21番目の「鬼国(きこく)」が隣接する。
「鬼国」は()「【倭】の字源における男性グループ」におけるトップの小国である。

下図は「現在方位の東を上・西を下にした、鬼国(きこく)と都支国(たきこく)の地宜解説図」である。
昭和の時代、下図の左上に配したように「伊都国・糸島半島の西方」は、「福岡県糸島郡の志摩町(しままち)」であった。
「伊都国における志摩町西部の湾」は「ジャコウウシの食料を食べる口の形」をしている。
「鬼国」は「伊都国の志摩町」と同名の「旧国の志摩」であり、「現在の三重県南部」である。
「鬼国・志摩の英虞湾(あごわん)」もまた「伊都国における志摩町」と同様に「食料を食べる口の形」となる
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したがって、「鬼国・旧国の英虞湾」は「餌(えさ)を食べる鷹(たか)の雛(ひな)口や嘴(くちばし)の形」と見立てられたことになる。
ゆえに、上図の「鬼国の地宜」は「同じ巣に育つ鷹の病弱の雛(ひな)を、餌が不足して飢()えたときに、餌として食べる大きく強く育つ雛の横顔」に見立てられたことになる。
この「同じ巣で育つ鷹の雛が病弱な兄弟の雛を餌とする弱肉強食の習性」は残忍(ざんにん)・獰猛(どうもう)ということで、
「自然が示す残酷(ざんこく)な厳(きび)しさ」を示すものとなり、「鬼、鬼神(きじん)」はおそれ敬(うや)われてそして尊ばれることになった。
だから、「鷹」は「鬼」の字源となった。
以上からして、「旧国の志摩」は21番目の「鬼国」であった。

「都支国」は「現在の三重県北部の旧国の伊勢と、和歌山県南東部・三重県南部の熊野地方」であった。
下図に示すように、「都支国北部の三重県北部の伊勢」は、13番目の()「【倭】の字源における女性グループ」の小国「弥奴国(みなこく)」に隣接する。
ゆえに、「伊勢」は「女王国・邪馬壱国(やまいこく)」をあらわし、また「子に深い愛をそそぐ女性」に見立てられた。
そして、「都支国(たきこく)南部の紀伊東部・熊野」は()「【倭】の字源における男性グループ」の「男王の伊都国」をあらわし、また「子や妻を愛する男性」に見立てられた。
以上からして、上記したように「男王の一大率(いちだいそつ)が治める伊都国と女王・卑弥呼が治める邪馬壱国に支(わか)れて組織される、倭人国における中間地域」ということで、卑弥呼は「旧国の伊勢と熊野(紀伊東部)」を「都支国(たきこく)」と名づけた。
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◆しかし、卑弥呼は単純に「男王の一大率が治める伊都国と女王・卑弥呼は治める邪馬壱国に支(わか)れて組織される、倭人国における中間地域」ということだけで――「都支国」という小国名を定めたとは考えられない。
「同じ巣で育つ鷹の雛が病弱な兄弟の雛を餌とする弱肉強食」をあらわす「鬼国」を「都支国」に隣接するようにしたのは、
「都支」という小国名には「女性の深い愛情を強調する意図」が秘められていたと考えられる。

『魏志倭人伝』には「其の俗、国の大人は皆四、五婦、下戸(げこ)も或いは二、三婦。婦人は淫(いん)せず妒忌(とき)せず」という記事がある。
上の記事は「倭人国では身分の高い男性たちは皆四人または五人の女性を妻とし、身分の低い男性でも二人または三人の女性を妻としている。妻たちは淫(みだ)らでなく、嫉妬(しっと)しない」と意味する。

医学の未発達の状況においては、女の子のほうが本来(ほんらい)丈夫(じょうぶ)であるゆえ出生率が高く、男の子はひ弱く出生率が低くて死産する割合が高いとされる。
また、大きく育っても男性は家族を養う食料を確保するために遠くの山野にかけめぐり、また様々な役目で遠くの地に旅するものであったゆえ、
旅の途中で迷って命を失い、あるいは事故に遭遇(そうぐう)して死亡するため――女性の数が圧倒的に男性よりも多くなったと考えられる。
この結果、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、身分の高い男性は四、五人の婦人と結婚し、身分の低い男性でも二、三人の婦人と結婚するということにになった。
婦人たちは淫(みだ)らにならずに夫婦生活を維持(いじ)し、嫉妬(しっと)もしなかったのは――淫らな女性は直(ただ)ちに離縁され、嫉妬する婦人は夫に嫌われてしまうために嫉妬することができなかったにちがいない。
だから、女性たちは不誠実な男性でも夫として愛せねばならなかった。

卑弥呼は、上記した女性たちの環境を思いやり、深い愛で男性たちの不誠実を許して愛せよと願っていたと考えられる。
卑弥呼は戦乱を悪(にく)み、平和を強く願っていた。
ゆえに、男たちが「鬼国」が示す「弱肉強食」のような非情で残酷な戦争に出かけないように、男性たちが家族を愛して食料の確保に努力するように願って、
卑弥呼は「男性グループの国々と女性グループの国々が相和(あいわ)す、中間地域」という意味を秘める「都支国」という小国名を思いついたと考えられる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて指摘したように――
『魏志倭人伝』には「男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む。(中略)。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。
カワセミは求愛あるいは給餌(きゅうじ)行為において、メスがオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。メスとオスが交替して(30分間隔)で雛(ひな)を育てる。 

卑弥呼は、再度、倭国が大乱しないように願って――
カワセミの生態に注目して、男子に飲食を給(きゅう)じさせていたと考えられる。
卑弥呼は国中の男王はじめ男たちが再(ふたた)び戦争せずに――日々、農作業に勤(いそ)しんで豊かな食料を女性や子どもたちに与えるように願って――カワセミのメスのごとくに、男子に飲食を給じさせていた。

このようなカワセミの生態からしても、また、このブログの初頭部にて
白川静著『字統』が【倭】の字について「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形。(中略)。委はもと田楽(でんがく)の状(じょう)をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年となる」と解説するとおり、
「都支国」という小国名には「男たちが戦場に向かわないように、日々、農作業に勤(いそ)しんで収穫時には稲魂のかぶりものを被(かぶ)って舞い踊って、食料を女性や子どもや老人たちに与えるように」という願いが秘められていたにちがいない。

『魏志倭人伝』には、下記の記事もある。
「婢()千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。(中略)。居処(きょしょ)は宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)を厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す。」
上の記事が伝えるように――卑弥呼は婢すなわち13歳くらいの乙女たちを千人も侍(はべ)らせていた。

「瞳がもっとも澄んで暗い銀河部までも見える特別な眼力を有する13歳の乙女」は【婢()】と呼ばれた。
ゆえ、【婢】は「強大な呪力(じゅりょく)を有する」と人々に信じられていた。
白川静著『字統』は【媚()】の字について、下記のごとく解説する。
「媚はその眉飾(びしょく)を施(ほどこ)したもので、巫女(ふじょ)をいう。(中略)。字の初義は媚蠱(びこ)と呼ばれる呪術(じゅじゅつ)を行う巫女をいう。漢代に巫蠱媚道(ふこびどう)とよばれる呪詛(じゅそ)の法があって、宮中の暗闘(あんとう)にしばしば用いられた。(中略)。敵の呪術者を殺すことによって、敵の呪的な能力を奪うことができたので、蔑(べつ)には『蔑(なみ)し』『蔑(ないがしろ)にす』の意がある。媚とは美しき魔女、媚態(びたい)・媚辞(びじ)はすべて魔女的な行為である。」

倭国の大乱において、【婢】は上記した「美しき魔女の媚蠱(びこ)」であった。
つまり、「卑弥呼に侍(はべ)っていた千人の婢たち」は――倭国の大乱においては、「美しく化粧する巫女(みこ)たち」であった。
彼女たちは、敵軍を罵(ののし)り呪(のろ)い侮蔑(ぶべつ)する媚辞(びじ)をつくって敵の魔女()を呪い殺し、あるいは敵軍の呪的戦力を奪い、自軍の兵たちを鼓舞(こぶ)して士気を奮(ふる)い立たせていた。
ゆえに、卑弥呼は再び戦乱がおきたとき、婢()たちが戦場におもむくことができないように卑弥呼が居住する城に集めていた。

澄んだ瞳を有して暗い銀河部までよく見える特別な眼力を有する13歳くらいの乙女たちを、人々は特別に強大な呪力(じゅりょく)を有すると信じられていた。
ゆえに、戦争を悪(にく)み平和を願う卑弥呼は、美しき魔女の千人の婢()たちが戦場におもむくことができないように居城(きょじょう)に集めて、再び戦争が起きないように対策していたのである。
(魔女)がいない軍の兵士たちの闘争心はいちじるしく減退(げんたい)する。
ゆえに、戦争をおこさんとする男王たちは敵の呪的戦力(じゅてきせんりょく)を奪(うば)う魔女()がいない状況では戦争をあきらめるにちがいない――と卑弥呼は考えて、呪力が優(すぐ)れるという評判の千人の魔女()たちを居城に集めていたのである。
以上のように、卑弥呼は戦争を悪(にく)み、強く平和を願っていた。

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