G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年9月

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2024年9月

2024年9月21日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・32

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240921141901

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」までに詳細に解説して――【倭】の字源を論理基盤して『魏志倭人伝』の全記事は全体的に組織的に合理が成立するからである。
ゆえに――『魏志倭人伝』の記事によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されることになる。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、“夏の始祖(しそ)”の帝禹(ていう)の遺志「五帝時代以来存続してきた、国家を作らない・氏族共同政治体制」を新天地・日本列島にて継続させるために、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが荒波逆巻(あらうみさかま)く大海を、小舟を漕()いで横断(おうだん)して日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟地方に定住した――という歴史が記述されている。
なお、上記の帝禹の遺志「国家を作らない、氏族共同政治体制」を継続させるために、益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった中国における事情の経緯(けいい)の詳細は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて解説した。

男鹿半島・八郎潟地方の地に定住した益氏(えきし)の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史について、720年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)の初頭部は下記のごとく説明する。
「昔(むかし)、わが天神(あまつかみ)のタカミムスビノミコトとオオヒルメノミコトは、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた(つまり、益氏の王子、つまり天祖・彦火瓊瓊杵尊に日本列島において帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制】を定着させる事業を命令じた)。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路(くもぢ)をおしわける先ばらいを立てて(つまり、曇った夜空では測量できないが晴れる夜空を待って天頂緯度を精確に測量する役目の若者を先頭にして、益氏の王子の一団は)、旅の目的地に到着した。このとき、この地域はまだ野蛮(やばん)で草眛(そうまい)であった。そこで、蒙昧(もうまい)の中にありながら、みずからの正しい教え(学術)を養(やしな)って、この西の偏(ほとり)を治めた。
その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」

上記した【夏代黎明期(かだいれいめいき)、益氏の王子(彦火瓊瓊杵尊)と若者たち一団が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)】について、
『魏志倭人伝』の後半部の記事は、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す・30」に解説したように、
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(
)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
白川静著『字統』(平凡社発行)は「『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が、
(
)【景】の字について「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する――と指摘する。
というのも、()「地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状況の形状」であるゆえ、『周礼』の〔大司徒〕は「以て地の中を求む」と説明することになったのである。

また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(
)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」であった。
「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(おおきな円形)」となる。
上記したように、この「黄道の大円」は【景】の字源となった。

前記したように、白川静著『字統』は――『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字説(字源解説)の後に、
【景】の字について追加する「地上千里して日景に一寸の差があるという」という文意は、
「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。

◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(東経133.00639)からずれて、佐太神社の鳥居(東経133.008)の辺(あた)りを擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿(西・現在方位)から鳥居の辺り(東・現在方位)までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわしている。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の本殿を結ぶ東経133(東経133.00639)より東の鳥居の辺り(東経133.008)」が【景】の字源・原義をあらわした。
これゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇った。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
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◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字目くらいの箇所に、
前ページで紹介した――名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏に定住した記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種なり」という小国は、「倭種」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って「現在方位の北」が「東」に変位する――つまり「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真北(現在方位)の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。

隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。

又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。

下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)の、旧国の加賀(かが)」であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
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「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の顔と頭」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。

『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺(三度~四度)」と説明されることになったのである。
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上記したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。

結局(けっきょく)、「旧国の加賀」の小国名の「侏儒」は「五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡と【倉頡が発明した文字作成理論】」をあらわした。
というのも、「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説では、「侏儒」という語をあらわした「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「四つ目の怪人・倉頡」と表現したからである。
そして、「旧国の越中」の小国名の「裸」は「暑い夏に裸になって過ごす赤ん坊の上半身」をもって「夏代が生まれた初期(つまり、夏代黎明期)、【倉頡の文字作成理論と夏音文字の学術】が日本列島において初めて産声(うぶごえ)をあげた」と意味するものであったと考えられる。

下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
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この小国名が「黒歯」となった「熊が冬眠する洞穴(ほらあな)」は、
前記した『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある「益氏の王子・天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事の中に登場する
「天のいわくらを開き」という文をもってあらわされている。 

『日本書紀』の古書には「天開」の2字の横に小さな字で「アマノイハクラヲ」と記されている。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国」の小国名の「熊が冬眠する洞穴」にもとづいて、
『日本書紀の古書には「アマノイハクラヲ」と小さい字が添えられたことになる。
というのも、『日本書紀』巻第九の神功皇后紀(じんぐうこうごうき)には『魏志倭人伝』の景初三年六月・正始元年・正始四年の記事が引用されているからである。
つまり、『日本書紀』が成立した720年当時、すでに以前から天皇家はじめ皇族や『日本書紀』編纂(へんさん)スタッフや研究者たちは朝廷が最も厳重な機密とした秘書(ひしょ)の『魏志倭人伝』を研究していた。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の「天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事における「天開」の2字の横に「アマノイハクラヲ」という説明が加えられるようになったにちがいない。
これゆえ、『日本書紀』の神武天皇紀を現代語訳する諸々(もろもろ)の書物は「天開」の2字を「天のいわくらを開き」と訳している。

◆「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名は「黒歯国(こくしこく)」であった。
下図に、「黒歯」の「正方形の暗黒天体部」と【歯】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)を示した。
【歯】の字源は「長方形の暗黒天体部における北部(現在方位)における、正方形の暗黒天体部」であった。
「正方形の暗黒天体部」は「暗黒」で「黒い」ゆえ【黒】、「正方形の暗黒天体部」は【歯】の字源であるゆえ――【黒】に【歯】が加わる「黒歯」という小国名になった。
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下図の左上に示すように、小国名「黒歯」となった銀河部は「正方形の暗黒天体部」であった。
0000255 上図が示すように、【黒歯】という小国名になった「正方形の暗黒天体部」は「侏儒国の、四つ目の銀河」と「裸国の、鬼の身に相当する銀河」の〔南となり〕にある。
ゆえに、前述した解説では、【黒歯の銀河部】は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河、またの名が四つ目の怪人・倉頡の銀河)」の〔北となり〕の「暗黒天体部」に在るべきはずなのに――
上図の【黒歯】をあらわす「四つ目の銀河の南となりの、正方形の暗黒天体部」は不合理となる。

この「黒歯国」という小国名には、『古事記上巻 并(あわ)せて序』における〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』の撰録(せんろく)の企て〕の箇所にある「潜龍(せんりょう)(げん)を体(たい)す」という語が関係する。
上記の「潜龍元を体す」という語は「水中に潜(ひそ)んでいまだ雲を起こさない龍」の意から、「天子たるべき徳をすでに備(そな)えている皇太子」を意味した。
しかし、上記の意は転義(てんぎ)であって、
「潜龍元を体す」の本義(ほんぎ)は「水中に潜んでいる龍が雲を起こして大雨を降らして氾濫(はんらん)することがなく、急流となって水がスムーズに流れる黄河上流」を意味するものであったと考えられる。

「黄帝陵(こうていりょう)を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「氏族共同政治体制の元(もと・始め)となる地域であった」。
だから、「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「元を体す」と表現された。
したがって、「潜龍」という語は「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流では、長方形状の西から北へと黄河の水が流れる隅(すみ・角)が円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴(あば)れずに氾濫せずにスムーズに流れ、また北から東へと黄河の水が流れる隅()も円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴れずに氾濫しない状況」を意味したことになる。

下に、「五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の図」を配した。
黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部にある大きく開いた目の中央」を貫通していた。
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下図は「黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の図」である。
下図が示すように――包頭がある北緯40度近辺(きんぺん)には黄河の北端が流れ、銀川がある西から北へと水が流れる隅()は円くなっているために水はスムーズに流れ、また北から東へと水が流れる隅()も円くなっているために水はスムーズに流れる。
ゆえに、この「西と東の隅丸角(すみまるかど)の水中に潜む龍、つまり雲が天におおって大雨が降っても東西の隅丸角の水は急流になっても氾濫しない状況」を
「潜龍元を体す」と表現するものであったことになる。
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上図に示した「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は、「黒歯国」という小国名になった「長方形の暗黒天体部」に見立てられた。
「長方形の暗黒天体部」は「侏儒国」に見立てられた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の南となりにある。
しかし、上記したように、「長方形の暗黒天体部」に見立てた「北緯40度近辺の土地を流れる、黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)となる、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の中央」より北となりの「暗黒天体部」に見立てられるべきことになる。
下に、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)より南と北にある長方形の暗黒天体部」を図示した。
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上図に示すように、「南の長方形の暗黒天体部の西の隅丸角にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
また、「南の長方形の暗黒天体部の東の隅丸角にある、激流の銀河」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
上図に左上に示したように、「北の長方形暗黒天体部における、正方形の暗黒天体部」が小国名の「黒歯」をあらわす。
上図に示すように、「鬼の姿に似る銀河における首の部分」が【元】の字源中央となり、
「鬼の横顔に似る銀河から鬼の身に相当する銀河まで」が【元】の字源銀河部となる。
以上のごとく、「潜龍元を体す」という語を利用して、卑弥呼は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。

◆前ページにて説明したように、現在方位にもとづく「石川県北部(現在方位)の、旧国の能登における七尾湾の地宜(ちぎ)」を、卑弥呼は「熊が冬眠する暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てた。
ゆえに、「七尾湾」を「黒い毛でおおわれる熊」に見立てて【黒】、
また、「七尾湾」を「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てたゆえに【黒】、
そして、「七尾湾の湾口(わんこう)の北岸と南岸」を【歯】に相似すると見立てて、
前記した「潜龍元(せんりょうげん)を体す」という語にもとづく「黒歯」の解釈と共に、
「七尾湾周辺の地宜」にもとづき「能登」の小国名を、卑弥呼は「黒歯国」と定めた。

『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」と説明する。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
ゆえに、転回方位にもとづく「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
また、転回方位にもとづく「黒歯国における北」は「午前〇時」、「黒歯国の南」は「正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
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これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
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下図は「春分の日となり、冬眠するのをやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
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◆『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。


上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味した。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となった。

これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。

「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
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上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」にて幾度もくりかえして解説し証明したように、
卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
したがって、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように陸行の場合には「男鹿半島は東」となるゆえ、
「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。

いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。

だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」と、合理となる船行を用いて黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したことになる。

当時、【倭】の字源「時計回りに90度転回させる方位規定」に則って、
下図のごとく「本州の東は南に伸びる」と定めた、卑弥呼が立論した「転回日本列島地理論」は絶対に正しいと信じられていた。
だから、卑弥呼が「能登から船行で東南の方向に、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る」と立論した意見は正しいと信じられて、誰にも誤っていると組織的に合理が成立するように立論することができなかったゆえ否定することができなかったのである。
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つまり、現在、大半のわが国の市民たちが「新井白石以来300年も多数の学者たちが主張する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、空理空論であるはずがない」と信じているように――
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は正しいと信じられていたのである。

◆前ページにて「潜龍元を体す」という語が示す「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流の北端の位置は北緯40度近辺」であった。
現在の中華人民共和国の首都の北京(ペキン)の中心座標は、北緯40度近辺となる北緯3954分である。
北京より東南約120kmへだたる天津(テンシン)の中心座標も、北緯40度近辺の北緯3907分である。
天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)、つまり益氏の王子が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)も、北緯40度近辺の地域となる。
ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)に記される「帝禹(ていう)が住んでいた夏の首都の、会計(かいけい)」は「現在の北京」であったにちがいない。
また、『史記』夏本紀が「帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい)に至って崩じ、天下を益に授けた」と説明する「会稽」は、「帝禹の政治を補佐した益が住んでいた、現在の天津」であったにちがいない。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて詳細に解説したように、益氏の王子と若者たちは帝禹の遺志「五帝時代以来存続した国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続するために移住した」。
だから、益氏の定住地は、帝禹が住んだ会計・北京と帝禹が崩じた会稽・天津とほぼ同緯度の地域、つまり男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)であったと考えるべきことになる。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸した。
そこは、下図に示したように、「八郎潟」を「女性の生殖器官」に見立てると「膣口(ちつこう)」に相当する地点となる。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町が、帝禹が夏の首都とした会計・北京と同緯度のあたりとなる。
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上図に示したように、益氏の王子と若者たちが上陸した船越水道の出入口の東岸から夏至の太陽の日の出の方角(東北29)に花輪盆地(はなわぼんち)が所在する。
花輪盆地には、世界文化遺産となった大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が在る。
大湯環状列石は後期縄文時代初頭に築造されたとされる。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭にある天祖・彦火瓊瓊杵尊の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)の定住記事にある「その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した」と説明する――天祖の孫の代に大湯環状列石は築造されたと考えられる。

下図に示すように、世界文化遺産の大湯環状列石は「花の形をした盆地における、【花のめしべ】に相当する地所に築造された」。
その位置は、下図の右上に図示したように、「十字の銀河の頭がかぶる穀霊(こくれい)のかぶりものの中央」に相当する。
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下に、【倭】の字源となる「十字の銀河における〔穀霊〕のかぶりものの解説図」を配した。
この「〔穀霊〕のかぶりもの」は「花の形」にデザインされていたにちがいない。
ゆえに、大湯環状列石遺構が築造された後期縄文時代初頭、「十字の銀河の頭の北となりの、花の形をしたかぶりものの中央・めしべに相当する部分」が、大湯環状列石遺構の天頂にめぐってきていたことになる。
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◆大湯環状列石は、秋田県の鹿角市(かづのし)花輪町大湯の中通りに所在する。
下図に示すように、大湯環状列石は東側が直径42mの野中堂遺跡(のなかどういせき)、西側が直径48mの万座遺跡(まんざいせき)で構成される。
野中堂遺跡と万座遺跡には「日時計組石(ひどけいくみいし)」と名付けられた特殊組石がある。
下図に示すように、〔野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡の日時計組石の中心〕と〔万座遺跡の中心・万座遺跡の日時計組石の中心〕を結ぶ線は、【夏至の日没方向(西北29)】を指差す。
ゆえに、大湯環状列石は益氏が【倉頡の文字作成理論はじめ夏音文字の学芸をひろめるために築造した施設】であった。
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要するに、万座遺跡は『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「日景を正して、以て(もっ)て地の中を求む」と解説した施設、
野中堂遺跡は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した施設であった。

下図は、1951年・1952年の国営調査によって検出された野中堂遺跡の平面図である。
下図に示したように、野中堂遺跡の中心から夏至の日没方向に、日時計組石がある。
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下図に示すように、野中堂遺跡の中心には垂直に柱が建てられて補助の棒を用いて日々の正午の太陽の南中高度が計測され、〔天球上における、日々の太陽の南中高度の位置〕が記録された。
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太陽が地平線に沈んで姿を消しても、まだ空は真っ暗にならないので、銀河や星が見えない。
このうす暗い時間を「薄明時(はくめいじ)」といい、太陽が地平線の下に18度まで沈むと、ようやく薄明時が終わって、空が真っ暗となり、銀河と星たちが見えて天文が出そろう。
ゆえに、太陽が没する時は銀河や星は見えないため――太陽が地平線に没する夕刻、太陽がどの天球上に所在するのか、その位置を測量することはできない。
しかし、薄明時において、下図に示す北斗七星(ほくとしちせい)でもっとも光が強いおおぐま座のε星・第5星の衡(こう・漢名)は見える。北斗七星の第5星の光度は1.8等である。
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上図に示すように、「北斗七星のε星・第5星、漢名(シナ天文の名称)の衡は、五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)において、【鳥】と呼ばれていた。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭における四時(春分・夏至・秋分・冬至)の銀河・星などの天文の状況を伝える春分の夕刻の記事は、
「日は中、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と説明する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、北斗七星の第5星・【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めた」と意味した。

下図は、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の箇所に記述された「帝堯代初頭の春分の日の太陽が西の地平線に没する午後6時の銀河・星空図」である。
下図に示すように、司馬遷著『史記』五帝本紀に記述されたとおり、帝堯代初頭の春分の日の夕刻には北斗七星の第5星の【鳥】が子午線通過(南中)しようとしていた。
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帝堯代に生存した益氏の先祖は、前ページにて説明した「〔正午の太陽の南中光度〕の測量方法と測量装置」と、北斗七星の第5星の【鳥】を利用して野中堂遺跡の日時計組石で午前〇時を計測して
『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した、いいかえると「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道(こうどう)」が測量できるように発明した。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀に「益は帝堯の時代に挙用(きょよう)された」と記述されることになったと考えられる。

北斗七星の第5星の【鳥】は周極星(しゅうきょくせい)である。
周極星は地平線下に沈むことはない。
それゆえ、太陽が地平線に沈むときにも見える周極星の光度1.8等の【鳥】ならば、天球上における黄道の大円を測量することができる目星(めぼし)として最適である。

下図は、野中度遺跡の日時計組石の平面図である。
下図上部の「北」は「太陽が円を描いて運動する軌道における〔北〕の位置を示し、この〔北〕に太陽が位置する時に【午前〇時】となる。
したがって、下図に示すように、太陽が地平線に没した方角を日時計組石の縁(ふち)の地面に棒でひっかいて印(しるし)をつけ、同様にその時の【鳥】の方角にも日時計組石の縁に印をつけると、
地中に没した太陽が「北」に位置するまでの角距離Aと【鳥】が移動する角距離Bが等しくなった時が【午前〇時】となる。
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【鳥】が移動する角距離Bと太陽が地平線に没して真北まで移動する角距離を等しくした【午前〇時】における、前ページにて説明した【その日の正午の太陽の南中高度に合致する天体部(銀河部や星や暗黒天体部など)の位置】を【その日の天球上における太陽の位置】と定めれば、「黄道」が測量できる。 
つまり、【その日の正午の太陽の南中高度の天体部イコールその日の午前〇時の南中天体部】と定めて――その状況を毎日記録する測量を一年間おこなえば天球上における黄道の大円が完成する。
だから、野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して【午前〇時】を計って黄道を測量するための装置であったことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の四時の天文状況記事における末部は、
「一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した」と記述する。
「日時計組石の一周を360度・360寸」に見立てると、「360寸÷366日=0.98寸」となる。
ゆえに、太陽は日々、約一寸(0.98)ずつの差でその日の正午から翌日の正午までを運行していることが明らかになった。
〔注 前ページにて説明したように、太陽はその日の正午から翌日の正午までを4分短い、23時間56分で一周する。〕
ゆえに、上記した「4分短い」を、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した。

「帝禹が崩じた会稽」の【稽】の字義は「考える」である。
野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であった。
ゆえに、野中堂遺跡は帝禹が崩じた【会稽】という地名をあらわす施設であったにちがいない。

◆下図は、前ページにて紹介した野中堂遺跡の平面図と同様に、1951年・1952年に国営調査によって検出された万座遺跡の平面図である。

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下の右図は、瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える【夏の銀河の光景図】である(日本天文学会編『新星座早見』・三省堂発行における【夏の銀河図】から転載した)
前ページにおける【夏の銀河のカラー写真】は、瞳孔径(どうこうけい)が最大より少し縮小した時の絞(しぼ)りで撮影した【夏の銀河の形状】である。
ゆえに、瞳孔径・写真機の絞りの相違によって、【夏の銀河の形】は相違する。

下の左右の両図は類似しあうゆえ、万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図には【夏の銀河の面影(おもかげ)】が残っていたことになる。
今日まで約4000年余の長い間、時には持ち出された石もあったであろうが、万座遺跡の東側の外帯配石群には【夏の銀河の面影】が残っていた。
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上記では、「万座遺跡の東側の外帯配石群」と記したが――天文図・銀河図は〔南〕を正面とし、地図・地理は〔北〕を正面とするゆえ、「地図の東側」は「天文図・銀河図の場合では西側」となる。
ゆえに、上図のおける左側は「万座遺跡の西側の【夏の銀河の形】を図化する外帯配石群」ということになる。

下に、「大湯環状列石が築造された、約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図が示すように、【夏の銀河の大半】は〔西北の地平線下〕に没していた。
だから、〔万座遺跡に残る【夏の銀河の面影】〕は「秋分の日の午前〇時の西北の地平線下に、その大半が潜る【夏の銀河】を地面に図化した配石群」であったことになる。
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よって、〔万座遺跡に残る【夏の銀河像】〕は、「西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であったゆえ、
『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」と「【景】の字源を解説したのである。

前ページにおいて、野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であったゆえ、【会稽】をあらわす施設であった」と指摘した。

帝禹(ていう)は、〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止するか〕のようにして、〔万座遺跡の中心に野中堂遺跡の正午の太陽の南中高度を測量する装置同様の装置〕と〔万座遺跡の日時計組石〕を会〔あ〕わせ用いて【夏の銀河の各部の高度】を計算し計測したにちがいない。
だから、万座遺跡は帝禹が住んだ首都【会計】という名をあらわす施設であったことになる。
しかし、どのような計算・計測方法を帝禹は用いて〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止する〕かのようにして、地面に【夏の銀河像】を図化することができたのであろうか?
わたくしにはまったく解明することができない。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』に記述された益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟地方の定住記事は、
【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、
【夏の銀河各部の形状から文字を作る、倉頡の文字作成理論】を用いて一点の矛盾(むじゅん)も無く不合理な点もなく組織的に全体的に合理が成立するように論理が構築(こうちく)されている。
ゆえに、学者たちは「『魏志倭人伝』には多くの不合理な点や矛盾点がある」と指摘するが――このような意見は明白に誤っている。

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2024年9月19日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・31

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す」の29回と30回にて解説したように――
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(
)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、上記の()【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する。
というのも、()「帝禹が発明した測量方法と測量装置で地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状態の形状」であったゆえ、【景】の字源は「以て地の中を求む」と説明されることになったのである。

また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(
)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置によって明らかになった黄道の大円上における一日の目盛りにおける一寸の差」であった。
下図に示すように、「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(大きな円形)」となる。
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上記したように、「黄道の大円における一日の目盛りにおける一寸の差」が【景】の字源となった。
ゆえに、上記した『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字源解説の後に、
【景】の字源について「地上千里して日景に一寸の差があるという」と追加解説する。
この「地上千里して日景に一寸の差がある」という字源解説は「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。

そして、上記の『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」から「周旋五千余里可り」までの記事は――「【景】の字源」、すなわち「黄道の大円上にある春分の日の午前〇時の、天の北極周辺の北斗七星(ほくとしちせい)・こぐま座・りゅう座の3星座の状況」が表示する夏代黎明期(れいめいき)――帝王に就任した益(えき)と帝益の孫の王子と益氏の若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を語っている。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法などを
教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは3回前の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
(
)卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事と、()この30の小国記事における方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位記事」をもってすべて合理となり、1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理が成立してすべて正しいと証明された。

いっぽう、邪馬台国説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。
ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。

上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて、帝益の孫の王子と益氏を受け継ぐ若者たちが大海を越えて新天地・日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった経緯(けいい)を詳細に説明した。
要するに、帝禹は「五帝以来の多数の氏族から最も優秀な人物を帝王に選んで国家を作らずに多数の氏族が共同する政治体制の継続(けいぞく)」、つまり【氏族共同政治体制の継続】を願った。
一方、帝禹の息子の啓は「帝王にふさわしい優秀な特定の氏族が子孫代々(しそんだいだい)帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させて、国家を樹立(じゅりつ)する」、つまり【世襲王朝・国家政治体制】を欲求(よっきゅう)して、対立していた。
ゆえに、帝禹は臨終の際、帝禹の政治を補佐した益(えき)に「【氏族共同政治体制】を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継()がせた。
しかし、諸侯は禹が願った【氏族共同政治体制の継続】を望まず、啓が主張する【世襲王朝・国家政治体制】に賛成して、帝益のもとを去った。
これゆえ、益は中国ではもはや禹が切望(せつぼう)した【氏族共同政治体制の継続】は断念(だんねん)しなければならないと結論し――三年の禹の喪()が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山(きざん)の南の地に隠居した。

そして、益は禹の遺志(いし)である【国家・王朝を作らない、氏族共同政治体制の継続】を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いたため、中国から日本列島へ渡る中間にある大海を小舟で漕()いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、禹の遺志【氏族共同政治体制の継続事業】は、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な力を有する腕力をかねそなえる帝益の孫の王子と益氏の将来を継()ぐ若者たちによって実行された。
かくして、益氏の王子と若者たちは大海を横断して、九州から日本海沿いに北進して秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に到着して定住した。

◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(ほんでん)からずれて、佐太神社の鳥居を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿から東の鳥居の辺りまでの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
〔注 佐太神社の中心点は東経133.00639度である。ということは、佐太神社の本殿より東方の鳥居の辺りを貫通する地所は、東経133.00639度より東寄りの東経133.008度となる。ゆえに、この「東経133.008度の地所」が【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある」を示すことになる。〕 
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬・東経133.00639)より東方となる邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の鳥居の辺りを通過する東経133.008度の地所」が【景】の字源・原義をあらわすことになる。
このような秘密があったゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇り、出雲10郡のうち3郡半の神主を支配していた。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
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だから、「十字の銀河の子宮」は【壱】の字源・原義であったゆえ、「十字の銀河の子宮」に見立てられた「佐太神社が所在する島根県松江市の地宜(ちぎ)」は【壱】の字源・原義をあらわした。
『魏志倭人伝』は「倭人国の首都が所在した王国名」は「邪馬壱国(やまいこく)」と記す。
したがって、「卑弥呼が居住した王国名」は「邪馬台国」ではなかったことになり、邪馬台国説は空理空論であったと断定できる。

◆約2000時で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
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隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

下図に示したように、隠岐群島でもっとも大きな島の「島後の地宜(ちぎ)」は、ほぼ「円形」である。ゆえに、「島後の地宜」は【景】の字源となる「黄道の大円」はじめ「天の赤道」、「太陽の23時間56分で一周する日周弧(にっしゅうこ)」、さらに「夏の銀河の各部位が一周する軌道(きどう)」などに見立てられた。
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他方(たほう)、「道前の知夫里島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が解説する【景】の字源「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と密接に関係する。
言いかえると、「道前の3島」は「烏奴国(あなこく)・高知県の足摺岬(佐太岬・東経133.00639)よりすこし東方となる、邪馬壱国(やまいこく)・島根県松江市の佐太神社の鳥居の辺りを通過する【景】の字源をあらわす地(東経133.008)」と直接的に関係する。

下に、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の図」を配した。
前述したように、益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、下図の「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この【鳥】と名付けられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」。
〔注 後世、「北斗七星の第5星・ε星」は漢名(シナ天文学の名称)」では「衡(こう)」となった〕。
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司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記される。

下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
注目すべきは――「地上千里して日景色に一寸の差があるという」と説明された「【景】の字源の東経133度線、つまり「高知県の足摺岬(佐太岬)と島根県松江市の佐太神社の鳥居の辺りを通過する東経133度の経度線が、知夫里島(ちぶりじま)の東端と西ノ島東方を貫通している」。
このことは重大な問題なので――うっかり見逃すとこれから解説する事柄がさっぱり理解できなくなるので――再度くりかえします、注目すべきは「東経133度の経度線が、知夫里島東端と西ノ島東方を通過」して、【景】の字源をあらわした。

『魏志倭人伝』は「小国名不明の隠岐群島」を「皆、倭種なり」と記した。
【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」は「【鳥】と名づけられた光度1.8等の星がある、北斗七星」に見立てられたことになる。
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下に「卑弥呼時代における夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に近似(きんじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
そして、「中ノ島」が「りゅう座α星周辺」に相当する。
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『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していないということは、卑弥呼が「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前において以後においても、3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、学問(天文学)においても無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」を指したので――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。
しかし、後世、『魏志倭人伝』に記された「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(また)国有り。皆、倭種なり。(中略)。周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの、転回日本列島地理に則(のっと)って【石川県北部の旧国の能登から東南の周旋五千余里ばかりに、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る】と、卑弥呼が立論した複雑で難解な意見が重大事となり波紋(はもん)をよび論争されることになった。
このため、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」の「隠岐群島の島前(どうぜん)」は名無しの権兵衛(ごんべえ)ではすまされず――卑弥呼が死去して間もなく、名称が必要になって「隠岐群島」は「隠伎国」、「隠岐群島の島前」は「隠伎之三子島」と名づけられることになった。

◆前ページに配した「卑弥呼時代における、春分の日の午前〇時のおける天の北極周辺の北斗七星・こぐま座・りゅう座の図」は「秋分の日の正午の図」でもあった。
「秋分の日の正午の天文」は人間の目では見ることができないが――
【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「23時間56分で一周する、前日の正午から翌日の正午までの日景」では「正午」が基準となった。
つまり、益氏の先祖が発明した【景】の字源「黄道を測量方法と測量装置」によって――「春分の日の午前〇時には、秋分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)する高度に一致して夜空の真南に位置する」ということが明らかになった。
言いかえると、「春分の日の午前〇時には、秋分点が秋分の日の正午に太陽が南中する高度に合致して夜空の真南に位置する」という事実が明らかになった。

『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。

又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。

下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)にして、旧国の加賀(かが)であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
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「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の横顔」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。

『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺」と説明されることになったのである。
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これゆえ、下図に示すように、「旧国の加賀」は「四つ目の銀河」、つまり「四つ目の怪人・倉頡の銀河」に見立てられた。
上記したように、『魏志倭人伝』は「侏儒国」の説明に、「人の長さ(たけ)三、四尺」という文を加える。
紀元前10世紀~紀元前1世紀(周・春秋・戦国・前漢)までの「一尺」は「22.5㎝」であった。
ゆえに、「三、四尺」は、「67.5㎝~90㎝」となる。
したがって、卑弥呼時代の「四つ目の怪人・倉頡の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は、言いかえると「四つ目の銀河の角(つの)からアゴまでの見掛けの長さ」は「67.5㎝~90(3度~4度)」であったことになる。
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すぐ前にて完成したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。

下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠(とうみん)する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「黒色の毛でおおわれる熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
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◆「侏儒国」の旧国名は「加賀」である。
邪馬壱国・島根県松江市の北部に「加賀の潜戸(くけど)」が在る。
「加賀の潜戸」は古代から神秘的な場所として有名である。
「加賀の潜戸伝説」は卑弥呼の死(240年頃)から約490年後の、733年に成立した『出雲国風土記』に記述されている。
加賀の潜戸伝説では「佐太神社の祭神(さいじん)・佐太大神(さだのおおかみ)が加賀の潜戸の洞穴から誕生した」と語られる。
この「加賀の潜戸伝説」は「佐太大神の父親」は「神魂命(かむむすひのみこと)」、「佐太大神の母親」は「枳佐加比売命(きさかひめのみこと)」と伝える。

『古事記上巻 并(あわ)せて序』の冒頭部には「参神造化(さんじんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文がある。
この「参神造化の首(はじめ)」は「夏の銀河の各部をモデルにして、前期縄文時代・中期縄文時代、そして後期縄文時代の首(初め)に、土器・土偶(どぐう)を作った芸術(造化)の参神」を意味した。
この参神における「前期縄文時代の芸術の神」の名は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」であり、「中期縄文時代の芸術の神」の名は「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」であり、
そして、「後期縄文時代初頭の首(初め)の芸術の神」の名は「神産巣日神(かみむすひのかみ)」であった。

つまり、「佐太の大神」の父親の「神魂命(かむむすひのみこと)」は「後期縄文時代の首(初頭)の芸術の神・神産巣日神(かむむすひのかみ)」であった。
だから、「佐太大神の父親」は――倭地の各地の氏族たちが夏の銀河の各部のモデルにして土器・土偶を造った前期縄文初頭からの約2000年間の芸術の伝統にもとづいて、名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して教え広めた【倉頡の文字作成理論と、三皇時代の結縄(けつじょう)と五帝時代の書契(しょけい)と夏代黎明期の夏音文字など】を習得した、【後期縄文時代初頭の造化(芸術)の神】であったことになる。
「佐太大神の母親」の「枳佐加比売命(きさかひめのみこと)」は「赤貝の古称」であるとされる。
ということは、「夏代黎明期(中期縄文時代末期~後期縄文時代初頭)の八郎潟の干潟(ひがた)」には、佐太大神の母親となった赤貝が大量に生息していたのであろうか。

ゆえに、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」に見立てられた、「加賀の潜戸」における「加賀」という地名が同じ旧国名が「加賀」であった「侏儒国」は、卑弥呼の没後に「生まれたばかりの佐太大神」をもあらわすことになった。
したがって、「加賀・侏儒国」は「父・神産巣日神と母・枳佐加比売の間に生まれた赤ん坊の佐太大神の顔や頭」に見立てられて、
「出産した時すでに三、四尺の身の長(たけ)もあったという、大きな赤ん坊」であった。
だから、「佐太大神」は「【景】の祭神」にして「後期縄文時代初頭に習得した【倉頡の文字作成理論と夏音文字】の祭神」でもあったことになる。

「佐太大神が生まれた加賀の潜戸」は「能登の地宜」に相似する「熊が冬眠する巣」に見立てられた「暗黒の洞穴」である。
加賀の潜戸伝説は――枳佐加比売は加賀の潜戸の潮の流れにしたがって出現した「角(つの)で作った弓矢」を手に取って「わたくしの夫を象徴する弓矢ではない」と投げ捨てた。次に、「金の弓矢」が流れ出てきて、早速(さっそく)、手に取って坐(すわ)って、「暗い巌窟(いわや)だよ」と言って、その矢で射通(いとう)した――と説明する。
加賀の潜戸伝説に登場する「金の弓を用いて巌窟を射通した金の矢」は「金色の光」をあらわすことになる。
『説文解字』は【景】の字源を「光なり」と解説する。
白川静著『字統』は――『説文解字』の「光なり」は「光景とは日の光をいう」――と指摘する。
だから、加賀の潜戸説話の「金の矢」は【景】の字源となった「午前〇時を定める目星となった北斗七星の第5星・【鳥】が輝く光と、あるいは正午に南中する日(太陽)の光」をあらわしていた。
ゆえに、上記したように、「佐太大神」は「【景】の字源をあらわした祭神」であり、【倉頡の文字作成理論と夏音文字を祀(まつ)る祭神】でもあったことになる。

ゆえに、いままで解説してきたように、「侏儒国」と「裸国」という小国名は、『出雲国風土記』における〔加賀の潜戸(くけど)の伝説〕では「出産したばかりの裸の佐太大神」あらわした。

◆『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」という文がある。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源をあらわしている。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
だから、「侏儒国、裸国、黒歯国における北」は「午前〇時」、「3小国の南」は「正午」に見立てられた。
ゆえに、「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てられた。
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これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」をあらわした。
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下図は「春分の日となり、冬眠をやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられた。
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上図の「転回方位」にもとづく「七尾湾・能登島の図」は「冬眠する能()と縦穴(たてあな)」に見立てられ、前ページには配した現在方位にもとづく「七尾湾・能登島の図」は「冬眠する能()と横穴(よこあな)」に見立てられた。
ゆえに、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚(せいこん)説話〕に登場する「淤能碁呂島(おのごろしま)」という語は、
――日本列島の本州の地底は淤(どろ・沼)のように柔らかいので、「緯度」に見立てられた「能()の横穴」は時計回りに90度転回して「縦穴」となった。
ゆえに、下図に示すように、本州の方位は【倭】の字源「時計回りに90度転回」して緯度軸は経度軸になって縦になる。
また、下図に示す日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島、言いかえると【碁】つまり「碁石の石」に似る沖ノ島と日本列島の東端にある【碁】つまり「将棋の駒(こま)」のような形をした伊豆諸島の神津島は、【呂】すなわち同緯度である――と意味した。
だから、「淤能碁呂島」という語の中にある【能】の字源地宜は「七尾湾と能登島」であった。
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◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」において、
「黄道の大円上の月日の目盛りが、西から東に向かっての移動」は「今日から未来への時間の流れ」をあらわし、
これとは逆向きに「東から西に向かっての移動」は「今日から昔(過去)への時間の流れ」をあらわしたと指摘した。
ゆえに、下図の【昔】の金文形は「東から西に向かっての移動、昔(過去)への時間の流れ」をあらわしている。
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下に、「へびつかい座とヘルクレス座」を象(かたど)る【道】の金文形を配した。
へびつかい座とヘルクレス座のすべての星は光度が2等以下であるが、多数の星たちが+赤緯(せきい)0度から+赤緯42度までに位置するため、北緯0度から北緯42度までの天頂緯度が精確(せいかく)に測量することができた。
ゆえに、「へびつかい座とヘルクレス座」は「北緯0度~北緯42度の土地に住む人々が遠くの地へ旅するときや、大海を横断するときの道を案内する緯度(天頂緯度)が精確に測量できる羅針盤(らしんばん)」となった。
だから、「へびつかい座とヘルクレス座」は「道」を意味する文字(金文)となった。
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下図に示すように、「黒歯国の能登島の子熊の姿に相似すると見立てられた地宜」は【道】の金文となった「子熊の姿に観える、へびつかい座とヘルクレス座の形」に相似すると見立てられた。
また、「【道】の金文形中央の字形」は「子熊の姿」に相似する。
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前ページで指摘したように「侏儒国」は「四つ目の銀河」、つまり「鬼の横顔に似る銀河」に、「裸国」は「鬼の身に相当する銀河」に見立てられた。
そして、「黒歯国」は「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)より北となりの暗黒天体部」に見立てられた。
この「鬼の姿に似る銀河の北となりの暗黒天体部」の西方には「人の横顔に酷似する銀河」があり、「人の横顔に酷似する銀河」の西方には「こと座」があり、「こと座」から離れた西方には「【道】の金文形となった、へびつかい座とヘルクレス座」がある。
したがって、「黒歯国」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河の北となりの暗黒天体部」から遠く離れた西方にある「へびつかい座とヘルクレス座」までの「東から西へ向かっての移動」は、上記したように「昔(過去)への時間の流れ」をあらわした。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復(また其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文は、「昔(むかし)、昔(むかし)」という意味を含んでいる。

『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。


上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、名門・益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味する。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となる。

◆これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事は、現代語に訳すると下記のごとくになる。

「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
0000181

上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
前ページの「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」に示したように――卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように「男鹿半島は東」となるゆえ、
陸行の場合、「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。

いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。
だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」と、合理となる船行をもって黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したのである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』の大半を占()める【倉頡の文字作成理論】に関する全記事には1ヵ所も不合理・矛盾点はなく、すべて合理で統一されているゆえ【組織的に合理】が成立する。
ただし、卑弥呼が「日本列島の本州の東は南へ伸びる」と立論した転回日本列島地理は事実に反するが――
この「【倭】の字源に則(のっと)る転回日本列島地理」の基(もと)に思考・読解すると――『魏志倭人伝』の大半を占める【倉頡の文字作成理論】を説明する全記事は【不合理・矛盾点は1ヵ所も存在せず、系統的な合理的認識】、つまり【科学】が成立する仕組みになっている。

だから、『魏志倭人伝』は新井白石以来約300年間も多数の学者たちが主張する「邪馬台国説のための史料」ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する史料であったことになる。

◆なお、このブログを読む多くの人々がすでに気づいているであろうが、『出雲国風土記』の「加賀の潜戸伝説」は、
『魏志倭人伝』の「隠岐群島、侏儒国、裸国、黒歯国、そして黒歯国から東南にある男鹿半島・八郎潟地方までの船行を説明する記事」にもとづいて創作されたことになる。

今回のブログの解説には説明不足の点がいまだ幾つか残っている。
たとえば、「帝禹(ていう)が発明した【夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置】について、また「益氏が発明した【黄道の測量方法と測量装置】などについて具体的に説明しなかった。
次回のブログでは、このような説明不足な点について具体的に明確に解説する。

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2024年9月12日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・30

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座たちが漬()かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏(えきし)の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西お偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初(けいしょ)二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。
わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」に解説したように――
上記した魏の元号「景初」という元号は「夏代黎明期(かだいれいめいき)、帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の息子の啓(けい)に帝位を禅譲(ぜんじょう)した歴史」に因(ちな)んで考案された。
また、「景初」という元号の【景】の字源は「天球上において太陽が一年間に通過する道、つまり黄道(こうどう)」と密接に関(かか)わり、あるいは「夏代黎明期における、春分の日の正午の高度」と密接に関連した。

それゆえ、上に示した「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」から「周旋五千余里可り」までの記事は、
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」にて詳細に解説したように、
『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕の【景】の字源解説と密接に関連し、
(
)言いかえると「帝禹(ていう)が発明した【夏の銀河における各部位】の測量方法と測量装置によって地面に図化された【夏の銀河像】」と密接に関連し、
(
)また「夏代黎明期における、春分の日の正午の高度」とも密接に関連し、あるいは「益氏の先祖が発明した、天球上において太陽が一年間に通過する道の黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」とも関連して――
(
)夏代黎明期(れいめいき)に帝王に就任した益(えき)が帝禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲(した歴史とも密接に関(かか)わって、
帝益の孫の王子と益氏の若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史を説明している。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆このブログは「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているため【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って統一されており――、
上記したように、邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【科学】が成立してすべて合理・正確であったと証明することができた。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となった。

◆司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)は、下記のごとく説明する。
「帝禹(ていう)は益(えき)を挙()げて十年間、政治をまかせた。
帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい・現在の中国北部の天津であろう)にいたって崩(ほう)じ、天下を益にさずけた。
帝益は三年の禹の喪()が終わると、禹の息子の啓(けい)に帝位(ていい)を譲(ゆず)って、箕山(きざん・黄河の河口地域であろう)の南の地(山東半島の付け根の辺りの地)に隠棲(いんせい・隠居)した。
禹の子の啓は賢人(けんじん)であったゆえ、禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。
ゆえに、諸侯(しょこう)はみな帝益から去って啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。」

上記に示したように、司馬遷著『史記』夏本紀は【帝益が禹の子の啓に帝位を譲った理由】は「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についた日数が少なかったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」からと指摘する。
しかし、この理由はほんとうの理由ではなかった。
ほんとうの理由は――帝禹と息子の啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。
帝禹は「五帝以来の多数の氏族から最も優秀な人物を帝王に選んで国家を作らずに多数の氏族が共同する政治体制の継続(けいぞく)」、つまり【氏族共同政治体制の継続】を願った。
一方、啓は「帝王にふさわしい優秀な特定の氏族が子孫代々(しそんだいだい)帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させて、国家を樹立(じゅりつ)する」、つまり【世襲王朝・国家政治体制】を欲求(よっきゅう)した。
ゆえに、帝禹は臨終の際、益に「【氏族共同政治体制】を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継()がせた。
しかし、諸侯は禹が願った【氏族共同政治体制の継続】を望まず、啓が主張する【世襲王朝・国家政治体制】に賛成して、帝益のもとを去った。
これゆえ、益は中国ではもはや禹が切望(せつぼう)した【氏族共同政治体制の継続】は断念(だんねん)しなければならないと結論し――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山(きざん)の南の地に隠居した。

そして、益は禹の遺志(いし)である【国家・王朝を作らない、氏族共同政治体制の継続】を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いたため、中国から日本列島へ渡る中間にある大海を小舟で漕()いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、禹の遺志の【氏族共同政治体制の継続事業】は、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な力を有する腕力(わんりょく)をかねそなえる益の孫の王子と将来(しょうらい)益氏を継ぐ若者たちによって実行されることになった。
このため、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか・第六)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封(ほう)ぜられたか不明である」と記述されている。
このように、名門・益氏が中国の地から忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島に渡って男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したからである。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における【夏の銀河】は、もちろん、刻々(こくこく)と移動している。
ゆえに、上図の【夏の銀河の光景】は【倉頡の文字作成理論における基本形】をあらわす。
したがって、【夏の銀河】は北側の地平線下(地の中)に没して潜(もぐ)って姿(光景)が消えることもある。
また、【夏の銀河】は東の地平線上に昇って全光景が出現することもある。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」にて紹介したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして一寸の差があるいう――と指摘する。

上記した『周礼』の〔大司徒〕の「日景を正して、以て地の中を求む」という【景】の字源解説は「夏代黎明期(紀元前2070年~紀元前2000年頃)から卑弥呼が生存した中国の三国時代(3世紀)まで、【大半の夏の銀河が西北の地平線下(西北の地の中)に潜(もぐ)る光景】をあらわしていた。

このような【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った光景】は、今から約4000年前の夏代黎明期における秋分の日の午前〇時、冬至の日の午後6時に見ることができた。
〔なお、【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った光景】は夏至の日の午前6時、春分の日の正午の出来事であったが、この光景は朝となって明るくなったために実際には見ることができなかった〕。
下に、「【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った、夏代黎明期における秋分の午前〇時の天文図】を配した。
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上図の中央下部に示したように、夏代黎明期、下の右側に図示した「おうし座α星の西となりに在る春分点」が南中(なんちゅう・子午線通過)していた。
これゆえ、「春分点が漬()かるおうし座とぎょしゃ座の形」は下の左図に示したように【夏】の金文形となった。
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下図に示したように――卑弥呼が生存し、中国の魏・呉・蜀が鼎立(ていりつ)した三国時代、つまり2世紀末から3世紀において、秋分の日の午前〇時、夏代黎明期とほぼ同様に【大半の夏の銀河】は西北の地の中に潜(もぐ)った。
当時(2世紀末~3世紀)の春分点は、「うお座における東方」、つまり「夏代黎明期の春分点が漬かる「おうし座」の西となりの「うお座」の東方」に所在したが――下図に示したように、当時の【夏の銀河の大半】は夏代黎明期とほぼ同様の状況となって西北の地の中に潜った。
0000264_20240912191501

このように、約4000年前の夏代黎明期と2世紀末~3世紀における秋分の日の午前〇時には【大半の夏の銀河が西北の地平線下に潜っていた様子】が同様に相似していた事実は、
下図に示す〔歳差状況図(さいさじょうきょうず・天の北極の位置図)〕にをもとづいて、両時代の天の北極・春分点を再現すると、事実であると証明できる。
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◆上記した【夏の銀河を図化する方法と装置】は禹が発明したと考えられる。
ゆえに、刻々と移動する【夏の銀河】を静止するかのようにして――【夏の銀河の各部】を測量できるような方法を、禹が発明したため【夏の銀河像】は地面に図化されるようになった。
【禹の測量方法と測量装置で地面に図化された夏の銀河像】は、上記した『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】について「日景を正して、以て地の中に求む」と字源解説した、つまり前ページにて天文図に示したように【夏代黎明期、その大半が西北の地平線下に潜った(地の中に潜った)、秋分の日の午前〇時の夏の銀河の形】であった。
「日々、【夏の銀河の各部】を測量して【夏の銀河の全像】を地面に図化した」ゆえ――上記したように『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と日量測量のことをいう」と指摘することになった。

五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明したと考えられる。
この功績によって、益氏は帝堯に挙用(きょよう)されることになったと考えられる。

上記した禹が発明した【地面に図化された夏の銀河像】は【西(西北)の地平線下に潜る天空に輝く夏の銀河の光景】と東・西の向きが180度異なり、東側の地面に配置された。
つまり、禹の発明した測量方法で図化された【景】の字源「地の中に潜った(地の中に求む)夏の銀河像】は、つまり【西北の地平線下に潜る夏の銀河の南部の光景】は反対側の【東側の地面】に配置された。
それというのも――黄帝時代、天文図の場合は〔南〕を正面とし、地理では〔北〕を正面と定めたからである。
これゆえ、天文図では「地理の東側=天文図の西側」となった。
このため、前ページに配した「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」にて示したように、
帝禹が発明した【夏の銀河各部】を測量する方法と測量装置をもって、東側の地面に図化された【夏の銀河像】は【その大半が西北の地平線(水平線)の下に潜(もぐ)る、夏の銀河の姿】をあらわすことになった。

益氏の先祖が発明した「黄道の測量方法と測量装置」によって、「黄道の大円上(大きな円形上)に付けられる一日の目盛りの長さ(距離」が明らかになった。
だから、前述したように『周礼』の〔大司徒〕は、【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」とも指摘することになった。
つまり、「太陽が一年間に通過する道・大きな円形の距離」を「千里」、「地平線から黄道の大円が出現する」を「地上千里」と表現し、「黄道上における一日の距離(長さ)の差」について「一寸の差がある」と説明したのである。

以上のごとく、【景】の字源・字義は、
(
)「禹が発明した測量方法・測量装置」をもって「東側の地面に配置された【夏の銀河像】」と、
(
)「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と
の両学術知識が合体する仕組みになっていた。

前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』の後半にある「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「景初二年六月、倭の女王」までの記事は、「名門・益氏の王子と若者たちが、男鹿半島・八郎潟地方に到着した」と説明している。
この「益氏の日本列島に定住したと説明する記事」は、上記したように、
上記した【景】の字源・字義の()「帝禹が発明した【夏の銀河】の測量方法と測量装置で地面に図化された【夏の銀河像】と、
(
)「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置で成立した黄道の大円」の両学術知識を合体して説明するものゆえ難解であった。

◆上記した「地上千里して日景に一寸の差があるという」という【景】の字源解説文は、上記した()「黄道の一年)の大きな円上における一日の目盛りの差は一寸ずつである」と表現している。
前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」では、この「一寸の差」を、下記のごとく「現在における時間の分」に換算(かんざん)した。
1(
つまり、黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×241440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。

下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の門前を結ぶ、東経133度の経度線」は【景】の字源・原義をあらわした。
このような秘密があったゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇り、出雲10郡のうち3郡半の神主を支配していた。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭じんざいさい」(には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
〔注 これについては前回の「漢字の起源と発明を解明す・29」においても指摘した〕。
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◆前述したように、益氏の先祖は「黄道の測量方法と測量装置」を発明した。
「黄道は、大きな円形となり、この大円上に一年365.25日の一日ずつの目盛り」が記される。
しかし、前述したように、「黄道の大円形における一日の目盛り」は「前日の正午から翌日の正午までを太陽が23時間56分で一周する円形の日周弧(にっしゅうこ)」をあらわす。
下図は「二分二至」、つまり「春分・夏至・秋分・冬至における太陽の日周弧図」である。
下図の「日周弧の形」は「楕円形(だえんけい)」となるが、実際には「太陽は西の地平線から没して東の地平線から昇る」ゆえ、「円形」となる。
だから、下図は「太陽が23時間56分で一周する円形」をあらわして、「黄道上の一日の目盛り」は「小さな円形」であることを示している。
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下図に示すように、「天球上において太陽が一年間に通過する道」の、「一年間における黄道の形」は大円(大きな円形)となる。
また下図に示すように、「毎夜、真東から昇り、真西に没する天体部の一年間に通過する道」、つまり「天の赤道の形」も大円となる。
「黄道」は「天の赤道」に対して2327分の傾く大円であり、「天の赤道」と二点で交わる。この交点が春分点と秋分点である。
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ゆえに、下図に示す「三つの円形が重なる、三つ輪の銀河」は、「黄道」、「天の赤道」、「太陽の前日の正午から翌日の正午までの日周弧」、「夏の銀河の各部位が一周する円形となる軌道(きどう)」などに見立てられた。
また、「三つ輪の銀河において、二つの輪(円形)だけが重なる形」は、上図に示した「黄道と天の赤道の大円が交わる状況」に見立てられた。
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下に示す「北アメリカ星雲とペリカン星雲」も「円形」に見立てられて、「前日の正午から翌日の正午までの太陽の一日の日周弧」に喩(たと)えられた。
というのも、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「カワセミの巣穴の出入り口」に見立てられたからである。
カワセミは尻から巣穴を出て、素早く回転して飛び立つ。親鳥は雛(ひな)を育てるあいだ、盛んに餌運(えさはこ)びを30分間隔でおこなう。
ゆえに、「カワセミの巣穴の出入り口」に見立てれた「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「一日の太陽の日周弧」に喩えられた。
さらに、「円形に見立てられた、北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「一日の太陽の日周弧」はじめ「黄道」、「天の赤道」、「夏の銀河の各部位が一周する軌道」にも見立てられた。
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下図に示す「はくちょう座γ(ガンマ)星周辺の円形の銀河部位」もまた、「黄道」・「天の赤道」・「太陽の一日の日周弧」、「夏の銀河の各部位が一周する軌道(きどう)」に見立てられた。
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◆「夏の銀河」の東端にある「三つ輪の銀河」の西側に「北アメリカ星雲とペリカン星雲」が在り、さらに西側に「はくちょう座γ星とその周辺の円形の銀河部位」が在る。
このような「三つ輪の銀河からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西への移動」は、【昔】の字源・字義となり、「過去に向かって時間が進むこと」をあらわした。
というのも、前述したように、【景】の字源「黄道の大円上の月日の目盛り」は西から東に向かって移動するからである。

このような「黄道の大円における西から東に向かっての移動」は「未来への時間の流れ」を表示すると定められた。
ゆえに、この「西から東への移動と逆向きとなる、三つ輪の銀河からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西に向かっての移動」は「昔へもどる、時間の移動」をあらわすことになった。

これゆえ、下図の【昔(せき)】の金文形の上部における「さざ波のような形の折れ線」は「昔(過去)へもどる時間の流れ」をあらわし、下部の「円形と中心の点(黒丸)」は「三つ輪の銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「はくちょう座γ星とその周辺の円形の銀河部位」の三体合一形であったにちがいない。
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『説文解字』は【昔】の字源を「日・太陽で乾(かわ)かした干()し肉の形である」と解説するが――

『魏志倭人伝』の【名門・益氏の男鹿半島・八郎潟地域の定住記事】つまり「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「周旋五千余里可(ばか)り」までの文章は、
上記したように、【昔】の字源は「三つ輪の銀河から北アメリカ星雲・ペリカン星雲へ向かっての移動、さらに北アメリカ星雲からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西への移動である」と示す。

下に、金文形にもとづく【道】の字源解説図を示した。
この【道】の字源銀河は【夏の銀河頭部】の「オス鹿の横顔に似る銀河」、つまり「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・北アメリカ星雲とペリカン星雲・長方形の暗黒天体部・その南となりの銀河」などである。
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下に、上図の【道】の字形と異なる【道】の金文形を配した。
この【道】の異体字(いたいじ)の字源は【夏の星座】に漬()かる「へびつかい座・ヘルクレス座」である。
この「へびつかい座・ヘルクレス座」は「銀河の中心方向」に近い西方に在る。
したがって、「へびつかい座とヘルクレス座」は、上図の「オス鹿の横顔に似る銀河」より西側に所在する。
ゆえに、【道】の字源における【「東方の、オス鹿の横顔に似る銀河」から「西方の、へびつかい座・ヘルクレス座」へ向かっての移動】は、【昔】の字源・字義をあらわす。
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上図に示した【道】の金文の異体字の字源となる「へびつかい座・ヘルクレス座」は、
前記した「益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)への移住の歴史」を説明する「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文章に登場して、【昔】の字源・字義は「東から西への移動である」とあらわしている。
だから、『説文解字』の【昔】の字源解説「太陽・日輪の熱で乾かした干し肉である」という意見には賛成できない。

◆約2000時で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
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隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

下図に示したように、隠岐群島でもっとも大きな島の「島後の地宜(ちぎ)」は、ほぼ「円形」である。ゆえに、「島後の地宜」は【景】の字源となる「黄道の大円」はじめ「天の赤道」、「太陽の23時間56分で一周する日周弧」、さらに「夏の銀河の各部位が一周する軌道」に見立てることができる。
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他方(たほう)、「道前の知夫里島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」は、『周礼』の〔大司徒〕が解説する【景】の字説「地上千里して日景に一寸の差があるという」は「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と密接に関係する。
言いかえると、「道前の3島」は【景】の字源をあらわした「烏奴国(あなこく)・高知県の足摺岬(佐太岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県松江市の佐太神社の門前を通過する東経133度」と直接的に関係する。

下に、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の図」を配した。
前述したように、益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、下図の「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この【鳥】と名づけられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」。

〔注 後世、「北斗七星の第5星・ε星」は漢名(シナ天文学の名称)」では「衡(こう)」となった〕。
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司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記す。
この〔国生み〕の意味は――卑弥呼の時代には、隠岐群島に小国名が無かったので、倭女王の伊耶那美命が「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島」と名づけた――を「国生み」と表現したことになる。
だから、「国生み」を「伊耶那美命が隠岐群島の島前を妊娠(にんしん)して生んだ」という定説の解釈は誤訳である。

下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
注目すべきは――「地上千里して日景色に一寸の差があるという」と説明された「【景】の字源の東経133度線、つまり「高知県の足摺岬(佐太岬)と島根県松江市の佐太神社の門前を通過する東経133度の経度線が、知夫里島(ちぶりじま)の東端と西ノ島東方を貫通している」。
再度、説明する、注目すべきは、「東経133度の経度線が、知夫里島東端と西ノ島東方を通過して」、【景】の字源をあらわしている。

『魏志倭人伝』は「小国名不明の隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。
【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」が「北斗七星と、北斗七星の第5星の【鳥】」に見立てられたことになる。
〔なお、「西ノ島」という名称は「女王の東」という文にもとづくと「東ノ島」という名称が合理となるが、「島後の西に在る」から「西ノ島」と名づけられたのであろうか?〕
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下に「卑弥呼時代における夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に類似(るいじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
そして、「中ノ島」が「りゅう座α星周辺」に相当する。
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『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していないということは、卑弥呼が「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前において以後においても、3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、学問的にも無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」であったので――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。

◆『魏志倭人伝』には「隠岐群島の【小国名】」が記されていない。
しかし、卑弥呼が崩じ、卑弥呼の後を男王が倭王に選ばれたが卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬儀式(じゅんそうぎしき)を国中の人民が憎悪して武器をもって倭王朝と戦った叛乱(はんらん)によって男王は失脚(しっきゃく)した。
この男王の後に、壱与・伊耶那美命が倭女王に就任した。
この壱与・伊耶那美命の時代には、『魏志倭人伝』における〔小国名無しの隠岐群島の記事〕の後に「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。云々(うんぬん)」と記述された、
卑弥呼が〔益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方について、転回日本列島地理にもとづいて立論した意見〕が問題視され波紋(はもん)をよび論争されるようになった。
このため、壱与・伊耶那美命は女王として徳(学術知識の深さ)を示すために「名無しの権兵衛(ごんべえい)の隠岐群島」に名称をつけなければならない状況となった。
これゆえ、壱与・伊耶那美命は「島前と島後」を「隠伎」と名づけて、「島前」を「三子島」と名づけた。

ゆえに、今回のブログはここまでの説明をもって中途半端(ちゅうとはんぱ)のままで終わるが――上記した「卑弥呼が主張した転回日本列島地理の意見」をあらわす記事は複雑できわめて難解であるため、
一旦(いったん)ここで立ち止まることにして、この秘密については次回のブログで詳細に解明することにした。

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2024年9月 7日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・29

魏の名将・司馬懿(しばい)による燕(えん)の公孫淵(こうそんえん)討伐と【倉頡の文字作成理論】の関係

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて30番目の「狗奴国(くなこく)」は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と、広島県東部の一画(福塩線が通る地域より東部)と岡山県、いわゆる吉備地方(きびちほう)」であった。
旧国だと「狗奴国」は「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方」であった。
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『魏志倭人伝』は「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった」と記述する。
下図に示す「小豆島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「狗(いぬ)の姿」に相似する、つまり「狩猟犬(しゅりょうけん)」に見立てられた。
また「岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、つまり「狩猟犬の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、ジャコウウシの群れがいる方向へと逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「小豆島の地宜」の【狗】「狩猟犬の姿」と、「児島半島の地宜」の【奴】「ジャコウウシの姿」にもとづき、卑弥呼は「吉備地方」の小国名を「狗奴国」と定めた。
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前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り首尾一貫(しゅびいっかん)して1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているために【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、上記したように「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【論理的に合理】が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」では、下記のごとく指摘した。
魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)以前の、漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、220年において、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、
魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記した「銀河の中心・胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河」を、これから以後は「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

すぐ前のページにて「220年に、後漢の献帝(けんてい)から禅譲(ぜんじょう)をうけて、魏の曹丕(そうひ・文帝)が帝位についた」と指摘(してき)した――その「220年の元号」は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号は――漢は赤の火徳によって天下を治めたゆえ、当時の五行説(ごぎょうせつ)では「火」の次は「土」とされ、この「土徳」の色は「黄色」とされていたため――「黄色の初め」すなわち「黄初」という元号となった。

しかし、「黄初」という元号は、上記したように、漢の赤の火徳の次を意識した元号名であるが、
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事をも意識して「魏が天下を治める」と表示するものでもあった。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」は――208(漢の建安十三年)に蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が、赤壁(せきへき)の戦いで魏の曹操(そうそう)を大破(たいは)し、天下三分の大勢(たいせい)となった以来の3世紀の黎明における東南の地平線から昇る「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」に近似(きんじ)していたからである。
ゆえに、魏の220年の「黄初」という元号は、「天下三分の大勢となった、この黄色い土徳の黎明の時(初期)に、魏が天下を治めることを誓う」と表示するものであったと考えられる。

◆下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における、天の北極と春分点の位置を求めて、
「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)することが明らかになる。
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したがって、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していたと考えられる。
つまり、「黄武」という元号をもって「呉は黄帝軍の強大な武力を有して天下を治める」と誓いを立てたにちがいない。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。

呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であったからである。
当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていた。
このため――呉との軍事同盟が知られると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされて燕は滅亡すると、公孫淵は考えたと推測(すいそく)される。

上記したように、呉の孫権は燕の公孫淵が呉との同盟を拒否したのは、倭人国が燕の背後の脅威となり、魏と倭人国の軍に挟み撃ちにされて燕は滅亡すると恐れたからと推測したにちがいなく、
孫権は東鯷人国(とうていじんこく)が倭人国の背後が脅威となるように――倭人国の隣国の東鯷人国遠征を決意した。
この呉軍の遠征は、広大な太平洋を横断して日本列島に到着しなければならない。
だから、孫権が並々(なみなみ)ならぬ決意でおこなわれた東鯷人国遠征は公孫淵の同盟拒否の原因は燕の背後の脅威の倭人国にあると推定したにちがいなく――天下を手中に入れるためにはどうしても燕を天下二分の呉・蜀連合軍側に引き入れる必要があるということで、倭人国の背後の脅威となる東鯷人遠征を決行したと考えられる。

230(黄竜二年)、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国における夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。
おそらく、呉の遠征軍の大型船による漕()ぎ手の力では、呉軍の大型船は台湾沖の黒潮(くろしお)に押し流されて横断できなかったのであろう。
ゆえに、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅して、大失敗した。
遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は再度の東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。

◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する記事がある。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
ゆえに、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
上記したように、当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――つまり、「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたときに、魏軍を助けて倭軍も出兵(しゅっぺい)し・共に戦う軍事同盟」を意味するものであった。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と記述されてるが、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかった。
しかし、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため――魏軍のエースの司馬懿が留守(るす)し、また魏都洛陽には兵は手薄(てうす)になって防衛戦力が弱体化していたにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を一気(いっき)に襲撃すれば魏は滅亡する可能性があった。
しかし、孫権は――名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には何か秘策(ひさく)を企(たくら)み、大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない。ゆえに、呉・蜀の連合軍が一気に洛陽を攻めれば多数の兵を失って窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になった孫権は呉・蜀の連合軍を待機させて洛陽を攻撃しなかった。

◆前述したように――238年より18年前の220年、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫(せま)って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は【黄初】であった。
魏が毌丘倹(かんきゅうけん)を最高責任者に任命して237年に開始した燕の公孫淵討伐は【景初元年の夏】であった。
毌丘倹の公孫淵討伐は失敗したため、翌238年に司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
司馬懿の軍は、【景初二年の六月】には遼東(りょうとう)に到着していた。
司馬懿の軍が遼東に到着した同じ【景初二年の六月】、倭人国が派遣した使節・難升米(なしめ)一行は帯方郡に到着していた。
そして、【景初二年の十二月】には、難升米一行は卑弥呼に与えられる「親魏倭王(しんぎわおう)」の爵位(しゃくい)と金印紫綬授与の約束をとりつけている。
難升米一行はすぐに帰国の途()につかずに魏都洛陽に長期滞在(ちょうきたいざい)して、重病で面会できない明帝に面会したごとく見せかける偽装工作(ぎそうこうさく)に参加している。

これらの経緯(けいい)には――司馬懿が公孫淵討伐の作戦にあって呉の孫権の動きを様々に推理しながら、公孫淵討伐を用意周到(よういしゅうとう)・綿密(めんみつ)な戦略のもとにおこなわれた一面があらわれている。
その証拠に、魏の曹丕が献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、司馬遷(しばせん)著『史記』に記述された【最初の禅譲】は、夏本紀(第二)に記述された「帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期(かだいれいめいき)の歴史である。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
ゆえに、司馬懿は『史記』夏本紀(第二)に記述された【益が啓に禅譲した歴史】について知っていたはずである。
この帝益の先祖がなしとげた第一の功績は「天球上(てんきゅうじょう)において太陽が一年間に通過する道――つまり、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置(そくりょうそうち)の発明」であった。
この益氏の先祖が発明した「黄道の測量装置」によって、【景】の字源・原義が成立した。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景】の字源について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、「地上千里にして日景に一寸の差があるという――と指摘(してき)する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における前者の「日景を正して、以て地の中を求む」という文を具体的に説明すると、

「夏代黎明期、帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置によって地面に正確に図化された【夏の銀河像】は西北の地平線下に潜(もぐ)る形状」であった。
また、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における後者の「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明する文を具体的に説明すると、
「五帝時代の4番目の帝王に就任した堯代初頭(ぎょうだいしょとう)において、夏代黎明期に帝位についた帝益(ていえき)の先祖の益が発明した黄道(こうどう)の測量方法と測量装置で明らかになった、その日の正午に南中(なんちゅう)した太陽はその翌日の正午に南中するまでの時間はちょうど一日ではなく、一日よりわずかの時間(数分)短い事象(じしょう)」を指していた。

下に、「黄道」、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道の大円(大きな円軌道)」が「天の赤道」と2327分の傾きで交わる図を配した。
下図における「黄道の大円の一日の目盛り」は「その日の太陽が正午に南中(子午線通過)してから翌日の正午に南中する時間」は、今日の時間でいうと「24時間ではなく、4分短い23時間56分で一周していること」になる。
この事象を、『周礼』の〔大司徒〕は「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明した。
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◆下に配した【夏】の金文形は、上記した【景】の字源・原義の秘密を伝えていた。
下図に示すように、【夏】の金文形は「ぎょしゃ座とおうし座」を象(かたど)り、【夏代黎明期における春分点は、おうし座のα星の西となりに所在した。】
この「ぎょしゃ座とおうし座」を図案する【夏】の金文形は異彩(いさい)を放(はな)ち、個性的で印象ふかい形をしている。
というのも、【漢字の字形】は【夏の銀河各部の形状】を図案するが定式(ていしき)であるにかかわらず――この定式をまもらず下図の【夏】の金文は〔星座の形〕を図案するからである。
〔星座〕を図案するものは、「へびつかい座とヘルクレス座」を図案する【道】の金文形の二例のみしか、わたくしは知らない。
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上記したように、益氏の先祖は五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に「黄道の測量方法と測量装置」を発明したと考えられる。
下に、「帝堯代における秋分の日の午前〇時の天文図」(夏至の午前6時・冬至の夕刻6時・春分の日の正午の天文図)を配した。
下図に示したように、帝堯代には、上図の【夏】の金文形の字源「ぎょしゃ座とおうし座、そして春分点が南中(なんちゅう・子午線通過していた)
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上図が示しているように、秋分の日の午前〇時には【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬()かる春分点」が「春分の日の正午における太陽の南中高度」に合致して位置した。
このときの【大半の夏の銀河の姿】は西北の地平線(つまり、地の中)に潜(もぐ)っていた。

下図は、帝禹が生存した夏代黎明期(かだいれいめいき)における、【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬かる春分点が春分の日の正午の太陽の高度と合致する天文図」である。
下図に示すように、上図の「帝堯代初頭における秋分の日の午前〇時の天文図」と同様に、「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時における【大半の夏の銀河】」もまた地の中に潜っていた。
ゆえに、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と解説した。
帝禹が発明した日景測量、つまり「日々【夏の銀河の各部位】を測量する方法と測量装置で地面に図化した【夏の銀河像】」は、
下図のごとく、「その大半が西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であった。
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帝禹(ていう)が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した夏代黎明期より約400年前に、帝益(ていえき)の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明していた。
ゆえに、帝禹が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した紀元前2080年頃? 【黄道の大円における一日の目盛り】は、つまり「その日の太陽が正午に南中してから翌日の正午に南中するまでの時間は一日よりわずか短い事象」は解明されていた。

これゆえ、上図の「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」において「南中した【夏】の金文形(ぎゃしゃ座とおうし座を図案する金文形)」は、
『周礼』の〔大司徒」の【景】の「日景を正して、以て地の中を求む」や「地上千里にして日景に一寸の差があるという」とする字源解説とともに、【景】の字源・字義を伝える役割を有することになった。

前述したように――魏の公孫淵討伐が開始された237年の魏の元号は――【景】に【初】が加わる【景初】であった。
しかも、毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者に就()いておこなわれた公孫淵討伐の開始は、【夏】をあらわして【景初元年の夏】であった。
また、毌丘倹の公孫淵討伐が失敗したため、司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。

このような【景初】という元号の【景】の字源に、夏代黎明期に生存した帝益が密接に関係した。
前述したように、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、
司馬遷著『史記』に記述された【最初の禅譲】は夏本紀(第二)に記述された「帝益が帝禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期の歴史であった。
ゆえに、「景初」という元号の「【景】の字源にもとづいて決行された毌丘倹の公孫淵討伐の初め(開始)」は――金文形の【夏】の字に因(ちな)んで【景初元年の夏】と決めたにちがいない。
毌丘倹が公孫淵討伐に失敗したため、「司馬懿による公孫淵討伐」は――【景】の字源にもとづいて、上図の【夏】の金文形となった「ぎゃしゃ座とおうし座」が、帝益が禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲した夏代黎明期における春分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)した高度(位置)」に因み、「景初二年の【春】」と決めたにちがいない。

なお、参考までに、下に「卑弥呼が生存した3世紀の三国時代の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図に示すように、3世紀の【夏】の字源「ぎょしゃ座とおうし座」は、春分の日の正午の太陽の南中高度には位置していなかった。
ゆえに、「景初」という元号の由来(ゆらい)にはならなかった。
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以上のごとく、【景初】という元号は――夏代の初め(黎明期)、その先祖が【景】の字源となった「黄道の測量方法と測量装置」を考案した益氏の子孫の帝益が禹の息子の啓へ禅譲した、その歴史に因(ちな)んで決行された」とあらわしている。

◆前述したように――【呉の黄竜元年(229)】、帝位についた呉の孫権は、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否された。
【翌黄竜二年(230)】、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国(とうていじんこく)に遠征(えんせい)させた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)して、遠征は大失敗した。
この【黄竜】という元号は――前述したように「夏の銀河における【巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河】が地平線の東南から昇る光景は、黄帝時代と229年・230年は相似する」とあらわしていた。
ゆえに、公孫淵討伐が決行された【魏の景初】という元号について――司馬懿は英才(えいさい)・孫権ならば、【夏代黎明期と229年・230年の黎明(れいめい・夜明け)に、「夏の銀河」が東の地平線が昇る光景は相似する様子】をあらわすという知識を必ず有していると推定して――司馬懿は、「孫権は一気に魏都を攻撃しない」と推理して公孫淵討伐の戦略を組み立てたにちがいない。
言いかえると、司馬懿は――孫権は益氏(えきし)が移住した地は倭人国であろうと推定し、この推定と共に夏代黎明期の歴史を利用して――公孫淵討伐の作戦を企(くわだ)てたことになる。

魏の景初元年(237)・景初二年(238)当時――孫権は230(黄竜二年)における、一万の水軍を日本列島の倭人国の背後の東鯷人国に遠征させて台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅した作戦の大失敗に精神的に大ショックをうけて・トラウマになっていたにちがいない。
このため、孫権は倭人国が使節を派遣して魏と結ぶ軍事同盟に過度(かど)に反応(はんのう)して、用心(ようじん)深く・慎重(しんちょう)になりすぎたため――司馬懿が大軍を率いて兵が手薄(てうす)になって留守(るす)にした魏都洛陽を孫権が一気に攻撃する動きを封(ふう)じるに大いに役立つことになったのである。
こういう次第(しだい)であったゆえ、孫権は天下二分の呉・蜀連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃しなかった。

◆『史記』を著作した司馬遷(しばせん)は、「太史公(たいしこう)」と称(しょう)された。
ゆえに、今日『史記』と呼ばれる歴史書の書名を、司馬遷は『太史公書(たいしこうしょ)』とした。
三国時代以後、『太史公書』は『史記』と呼ばれることになった。
「太史公」は現代風にいうと「歴史局の長・総裁(そうさい・トップ)」を意味した。

しかし、世間では「太史公」は「星占い、つまり占星(せんせい)の長」であると思われていた。
というのも、司馬遷の父の司馬談(しばだん)は占星術と易学を熱心に研究していたからである。
しかし、当時における「占星術と易学」は〔「夏の銀河各部の形状」から文字を作成した【倉頡の文字作成理論】の研究を隠蔽(いんぺい)する方法〕であった。
【倉頡の文字作成理論】は国家・王朝が最も厳重(げんじゅう)な機密であった。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論】を世間が知るように研究すると本人はもちろん家族あるいは一族まで死刑となった。
だから、「占星術と易学の研究」という名のもとに偽(いつわ)って、司馬談は【倉頡の文字作成理論】を熱心に研究したのである。

司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)には、倉頡や【倉頡の文字作成理論】について1字も記述していない。
しかし、司馬遷は、倉頡の歴史や【倉頡の文字作成理論】に精通(せいつう)していた。
ゆえに、倉頡についての説明は書き出すと詳細になって国家・王朝が最高の大罪(たいざい)とする【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する行為】まで深まってしまうのを自重(じちょう)して――司馬遷は『太史公書』つまり『史記』が焚書(ふんしょ)される、つまり反逆の書とされてすべて燃やされてしまうのをふせぐために、倉頡について1字も記述しないことにしたにちがいない。
紀元前126年に二十歳になった司馬遷は、真っ先に中国南方の淮河(わいがわ)・長江の地域に旅した。
この淮江への旅は、【倉頡の文字作成理論の研究・学習】を目的にしたにちがいない。
司馬遷は淮江からはじめて中国のほとんどの全域を周遊(しゅうゆう)し、民情に接し、様々な史蹟を見学している。
これらの旅も【倉頡の文字作成理論の研究・学習】が目的であったにちがいない。
というのも、【正しい歴史書を著作するため】には、どうしても【倉頡の文字作成理論を研究し・学習する必要】があったからである。

◆司馬懿(しばい)は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
だから、司馬懿は『史記』に精通していたゆえ、五帝本紀(第一)・夏本紀(第二)はじめ陳杞世家(ちんきせいか・第六)の「帝王になった益の子孫は中国のどこの地に封ぜられたか不明である」という記事についても知っていたにちがいない。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であるゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

司馬懿は魏軍のエースにしてトップの長であった。
ゆえに、倭人国から帯方郡、帯方郡から魏都へ送られた倭人国からの文書は司馬懿の手元に届けられ集められた。
だから、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は――公孫淵討伐より以前に送られていた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で魏が用いる楷書に書き代えた国書を読んで――「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する。益氏の子孫はおそらく倭人国に移住したと思われる」と察知したことになる。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」であったと記す。
「司馬懿」と「邪馬壱」の3字は、両者の先頭の字は【司】と【邪】と相違するが、次の【馬懿】と【馬壱】はほぼ同じである。
つまり【懿】の偏は【壹()】であるゆえ、「邪馬壱国」の後ろ2字「馬壱」の【壹()】と同じとなる。
したがって、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、【壹()】の字源は「十字の銀河の子宮。または女性の生殖器官の骨盤・子宮・産道」であると知っていた。

倭人国から大海を越えて帯方郡や魏都に到着する倭人国の使者たちが必ず「大夫(だいふ)」と名乗る
ゆえに、司馬懿は「大夫」の意味について興味を抱き研究した――あるいは倭人国の使者たちから聞きただして、「大夫」は「夏代黎明期、益氏の王子と若者たちが荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて倭人国に到着した。その大海を越えて吾は帯方郡や魏都に到着した」と倭人国の使者たちが自画自賛(じがじさん)する語であることを知ったにちがいない。
『万葉集』の「大夫」は「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と記す。
ゆえに、「大夫・益荒男」は「中国から荒波逆巻く大海を渡って日本列島に定住した益氏の王子と若者たち」をあらわす語であったことになる。

◆前記したように、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」と指摘する。
このような【景】の字の解説は、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、すなわち「黄道の大円」について説明している。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「地上千里して日景に一寸の差があるという」という解説を、
〔現代における時間の分〕に換算(かんざん)すると、1(黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×241440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
このように4分短いのは地球が太陽のまわりを回っているために起()きる。
この一日4分ずつ短いずれは、一年すると前年の初めの位置にもどって360度の大きな円形となる。

『周礼』は紀元前11世紀に生存した周公旦(しゅうこうたん)が作ったと指摘されていたが、現在では戦国時代末期に成立したと考えられている。
『周礼』には「周王朝の文物・習俗・政治制度」について記述され、戦国時代以後の儒者(じゅしゃ)たちにとって理想的な制度とみなされた。このため、後漢時代や三国時代には『周礼』に通じる人々も存在し、あるいは研究する人々もいた。また、『周礼』は古来の学術や文学などを研究する人々にとって重要な経典(きょうてん)であった。
前ページに示した「ぎゃしゃ座とおうし座に漬かる、春分点」をあらわす【夏】の金文は周代に出現した古代漢字であり、上記した【景】の「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」字源解説の出典『周礼』の〔大司徒〕は、周代の文物・習俗・政治制度について説明する経典であった。
これゆえ、三国時代において『周礼』は人々に注目されていた経典であったゆえ、司馬懿も『周礼』を読んでいたにちがいない。
ゆえに、前述したように、司馬懿は【夏】の金文形「ぎゃしゃ座とおうし座」の秘密と、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説の秘密について精通していたにちがいない。

◆下図に示すように、邪馬壱国だ・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の足摺岬(あしずりみさき)を貫通している。
「足摺岬」の別称は「蹉跎岬(さだみさき)」である。
『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」になった――と説明する。
「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。
【馬】の字源「フタコブラクダ」の歩き方は「側体歩(そくたいほ)」といって「同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」。
このような「フタコブラクダの側体歩」はあたかも「フタコブラクダがつまずいて転ぶかのように観える」。

上図に示した東経133度が佐太神社の門前を貫通する様子をあらわした「古代出雲の地宜(ちぎ)」における右上には――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)に、「邪馬壱国」のうちの【邪馬】をあらわす「神門水海(かんどのみずうみ)」が所在した。
この「神門水海の地宜」は「出産した直後に両足で立たんとする【馬】・フタコブラクダの子どもの姿」に相似する。
「神門水海」における「フタコブラクダの前足は短く、後ろ足が長い」ゆえ、その様子は「つまずいて転ぶ」ことになる。
また、「宍道湖」は「片足の形」に相似するゆえ、「片足ではつまずいて転ぶ」ことになる。
このように、邪馬壱国の「神門水海」と「宍道湖」は「つまずいて転ぶ」という「蹉跎」という語をあらわした。

以上のごとく、烏奴国(あなこく)・高知県の蹉跎岬・佐太岬と邪馬壱国・島根県の佐太神社の門前を通過する東経133度は【景】の字源・原義をあらわした。

◆【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
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前述したように、「司馬懿」という名は先頭の【司】と【邪】の字は異なるが、後ろの【馬壱】と【馬懿】はほぼ同じである。
ゆえに、司馬遷の子孫であるゆえ【倉頡の文字作成理論】に精通していた司馬懿は自分の名に用いられる【懿】の字源、また【壹】の字源について熟知(じゅくち)していたにちがいないので――「邪馬壹()国」という名に用いられる【壹】の字源は「十字の銀河の子宮」であり、
しかも、上記したように、彼は「十字の銀河の西端から東端まで」は【景】の字源となることを知っていたにちがいない。
このような事情から、237年の魏の元号は司馬懿の意見にしたがって、明帝は【景初】と定めたにちがいない。

司馬懿は、249年にクーデターを起こして魏の実権を掌握(しょうあく)した。
2年後の2519月7日に、司馬懿は死去した。享年(きょうねん)73歳であった。
265
年、魏が滅び、司馬懿の孫の晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)が、武帝と称した。
280
年、武帝が天下を統一して、西晋(せいしん)王朝が創設された。
このような経緯から、司馬懿は、西晋の礎(いしづえ)を築いた人物とされた。

前述したように、司馬懿は『魏志倭人伝』に記述されていた【倭人国から送られた国書】を読んで「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を詳細に知っている」と察知し、
司馬懿は「【倭人国の国書】は中国にとってもきわめて重大にして貴重な学問書である」と認識(にんしき)して大事に保管(ほかん)した。
ゆえに、西晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)に任命された陳寿(ちんじゅ)は、西晋王朝に秘蔵(ひぞう)されていた【倭人国の国書】を閲覧(えつらん)して、
武帝(司馬炎)が治める太康年間(たいこうねんかん・280年~289)に完成させた『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』の作成資料として【倭人国の国書】を書き写して年代順にならべて記したことになる。
よって、国家と王朝が最も厳重な機密(きみつ)にして独占管理して書物に直接的に詳細に正確に記述することを厳(きび)しく禁止していたがゆえ、
中国では誰(だれ)一人も【倉頡の文字作成理論】を詳細に・正確に・組織的に説明する書物を作成すれば焚書(ふんしょ)され抹消(まっしょう)されたがために残さなかった【倉頡の文字作成理論】が詳細に・組織的に・論理が成立して説明される、きわめて希少価値(きしょうかち)の高い『魏志倭人伝』が残ることになったのである。

以上からして、名将・司馬懿は【倭人国の国書】を読んで【景初】という元号の基(もと)に孫権対策と公孫淵討伐の作戦を綿密(めんみつ)に立て、この戦略を明帝に意見を具申(ぐしん)して、公孫淵討伐を決行したと考えるべきことになる。

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2024年9月 1日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・28

x卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴国(くなこく)は討伐されて滅亡した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・27」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて25番目の「躬臣国(こじこく)」は「現在の大阪府・兵庫県東部と兵庫県南部の淡路島」であり、「旧国でいうと、摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)と淡路島」であったと証明した。
また、対馬国から26番目の「巴利国(はりこく)」は「現在の兵庫県南西部の、旧国の播磨(はりま)」であったと証明した。
また、27番目の「支惟国(しいこく)」は「現在の広島県西部と広島県東部の一部(西方)の、旧国の安芸(あき)と備後(びんご)の西部(西方)」であったと証明した。
また、28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の高知県、旧国の土佐(とさ)」であったと証明した。
さらに、29番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であったと証明した。
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◆上図に示したように、対馬から数えて30番目国は「狗奴国(くなこく)」であった。
下図に示したように、「狗奴国」の範囲は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と広島県東部・岡山県」であり、旧国だと「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方(きびちほう)」であった。
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「狗奴国」という小国名の【狗】の字について、白川静著『字統』は字義を「いぬ()」とする。
そして、白川静著『字統』は【狗】の字について「狗鼠(くそ)、狗盗(くとう)・走狗(そうく)のようにいう」と解説する。
ゆえに、「狗奴国」の【狗】には「走狗、つまり狩猟犬(しゅりょうけん)」と意味すると共に「侮蔑(ぶべつ)の意」もこめられていたのであろう。
というのも、『魏志倭人伝』の末部に「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」という記事が存在するからである。
ゆえに、「狗奴国」という小国名には「卑弥呼王朝による侮蔑の意味」がこめられていたであろう。

下図に示すように、「小豆島の地宜」は「狗(走狗・狩猟犬)の姿」に相似する。
したがって、「小豆島」は「ジャコウウシの天敵(てんてき)のオオカミ」ではなく、「ジャコウウシを襲(おそ)う走狗(狩猟犬)」に見立てられたことになる。
ゆえに、「小豆島より北側の、岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
「走狗の群れの襲撃に気づき、ジャコウウシの群れがいる場所へと走り逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
だから、下図に示したように、「小豆島」が【狗】、「岡山県の児島半島」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、「児島湖」が「ジャコウウシの背中に食いつく走狗の姿」に見立てて、
卑弥呼は「小豆島と岡山県中心部の地宜」にもとづき「狗奴国」という小国名を考案したことになる。
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◆下図に示すように、「男性の前上側から見た骨盤口(こつばんこう)」は「狗(いぬ)の顔の形」に相似する。
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下図に示すように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」が所在する「志摩半島の地宜」は「男性の骨盤の正面形の上下を反転した形」に相似する。
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したがって、()「【倭】の字源における男性グループ」の「最初の21番目の鬼国と最終国の30番目の狗奴国」は「男性の骨盤」が共通する仕組みになっている。

いっぽう、下図に示すように、対馬国から11番目の「伊邪国(いやくに)の地宜」は「女性の骨盤の正面形」に相似すると見立てられた。
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また、下図に示すように、「女性の骨盤の正面形」は「蝶の翼を広げる成虫の姿」に相似する。
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そして、下図に示すように、対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
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ゆえに、()「【倭】の字源における女性グループ」における最初国の伊邪国と最終国の華奴蘇奴国の両国も共に「翼を広げた蝶の成虫の姿」に相似し、伊邪国の地宜では「翼を広げた蝶の成虫の姿」は「女性の骨盤の正面形」に相似する。
したがって、()「【倭】の字源における女性グループ」と,()「【倭】の字源における男性グループ」は「骨盤」が共通項となる仕組みになっている。

下図に、「男性の骨盤と女性の骨盤の形の相違」を示した。
女性の擂鉢(すりばち)のような大骨盤は妊娠時に子宮を支(ささ)えるために左右に広がり、そして男性の擂鉢のような大骨盤より浅く、骨盤口は楕円形である。
男性の擂鉢のような大骨盤は深くがっしりしており、骨盤口は狗()の顔の形に相似する。
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◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
だから、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたとき、魏軍を助けて倭軍が出兵(しゅっぺい)して共に戦う軍事同盟」を結んだからこそ――卑弥呼に与えられることになったのである。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と説明するものの、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかったにちがいない。
けれども、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌景初二年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した景初二年・238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため、魏都洛陽には少数の兵しか残っていなかったにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計(つまり、魏を倒して天下を呉と蜀の二分する)」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を躊躇(ちゅうちょ)せずに襲撃すれば魏は滅亡する可能性が大であった。
しかし、孫権は名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には、何か企(たくら)みを用意して大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない――よって、孫権が呉・蜀の連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃すると一気に窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になったのか――孫権は連合軍を待機させて一気に洛陽を攻撃しなかった。
ゆえに、孫権は天下を手に入れることができた千歳一隅(せんさいちぐう)のチャンスを逃した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう『魏志倭人伝』の末部に記述された「狗奴国(くなこく)が滅亡した様子」を解説するには、【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記の三つの銀河を、これから以後「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における天の北極と春分点の位置を求めて――「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)していることになる。
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上記したように、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆呉の孫権が「大帝」と称して黄帝に即位した229(黄竜元年)ごろは、魏の曹操(そうそう)と『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の立役者の劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)や絶世の美女・甄氏(けんし)を略奪(りゃくだつ)して皇后とした魏の曹丕(そうひ)こと文帝(ぶんてい)などはすでに亡くなっていた。
残っていたのは、『三国志演義』においての若い立役者の蜀の名補佐役の諸葛孔明(しょかつこうめい)と、15歳で呉の頭領となった孫権(そんけん)であった。

漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)(220)であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、上記したように――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していた。

魏におくれること一年、呉に先んじること一年にして帝位についた蜀の劉備(りゅうび)は、その最初の元号を「章武(しょうぶ)」とした。
この蜀の元号には「黄」の文字が見えない。というのも、蜀は自国こそ「漢」であると称したので、「漢」は赤の火徳を示すものであったため、「黄」の文字を元号に用いなかった。
だから、蜀の国号の正式名は「漢」もしくは「蜀漢」であるが、わが国では「蜀」のほうが馴染(なじ)み深い。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、まず最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、「天下二分の軍事同盟」は結ばれて、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて、元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
S615

いっぽう、魏は227年以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆前述したように、燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。
呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であり、当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていたため、呉との軍事同盟が露見(ろけん)すると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされると心配したからと推測(すいそく)されるからである。
230(黄竜二年)、〔公孫淵が呉との同盟を拒否したのは燕の背後倭人国の脅威を心配したが原因〕と察知した孫権は、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の徐福(じょふく)の子孫が治める東鯷人国(とうていじんこく)のおける夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
この東鯷人遠征については、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部にある東鯷人国記事に登場する、定期的に呉の会稽(かいけい)に到着して交易(こうえき)をしていた東鯷人国の人民たちが偶々(たまたま)察知して、いち早く帰国して東鯷人国王に報告したようである。

呉の黄竜二年・230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、わずか二万の呉の水軍は約40倍の八〇万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な勝利をおさめた。
この一万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国にめざして、呉の黄竜二年・230年に遠征が決行された。
赤壁の戦いで二万の呉軍は八〇万の魏の大軍を撃破したゆえ、魏の四〇万の兵に匹敵(ひってき)する一万の東鯷人国遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて――東鯷人国王は東鯷人国が倭の属国(ぞっこく)になることを決意して、倭女王の卑弥呼に倭から防衛軍の派遣(はけん)を要請(ようせい)した。
かくして、倭人国が背後の脅威となる東鯷人国が呉に占領されるのを防(ふせ)ぐために倭から防衛軍が派遣されることになり、黄竜二年・230年直後の、多分233年頃に東鯷人国は滅び、代わって新たに「日本」という小国が誕生した。
そして、小国・日本防衛軍の女王に、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」と記された「卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)の代表者の十三歳の壱与」が選ばれた。
また、日本軍防衛軍の大将の軍王(いくさのおおきみ)に、『魏志倭人伝』な末部に登場する18歳の載斯烏越(そしあお)が就任(しゅうにん)した。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」で指摘したように――
「壱与」は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話(せいこんせつわ)〕に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、「載斯烏越」は「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であった。

呉の一万の東鯷人国遠征軍は【台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)】し、遠征は大失敗した。遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。
しかし、卑弥呼王朝はじめ東鯷人国王や日本国防衛軍は呉の水軍は再度遠征するにちがいないと考えたため、小国・日本における防衛は十余年も続けられた。

◆上記した小国・日本の防衛軍の女王に選ばれた壱与は――『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇(かいかてんのう)の正妃せいひ」の「丹波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)」であった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」で解説し証明したように、「伊邪国は、旧国の丹波」であった。
ゆえに、「伊邪国・丹波出身の竹野比売」は「【伊邪(伊耶)国】の【那(桃の花)】のように美しい女王」と讃(たた)えられて「伊耶那美命」と人民たちに愛称されたことになる。
『古事記』中巻の第9代開化天皇の冒頭は「春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで、天下を治めた」と記す。
したがって、「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」の先頭2字は共に「伊耶」で同じであるゆえ、「伊耶河宮に住んだ開化天皇」は「伊耶那美命の夫」と人民たちに愛されて「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と呼ばれた。
だから、夏音名(夏音文字の名前)が載斯烏越(そしあお)は「伊耶那岐命」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』に登場する「壱与」が「伊耶那美命」、「載斯烏越」が「伊耶那岐命」であったという証明は、このブログの前にて紹介したわが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

そして、『古事記』上巻に登場する「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)と崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))であったと考えられる。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀には「天皇は天照大御神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱(にはしら)の神を、天皇の居所の中に祭った。しかし、倭大国魂神を祀る渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は身体が痩(やせ)せ細って倭大国魂神を祀ることができなかった」と説明する記事が示しているように――「天照大御神を崇(あが)め祭った崇神天皇」は人民たちに「天照大御神」という異名で呼ばれたことになったのである。
「崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫が箸墓(はしはか)古墳に葬られたのは、小さな蛇(へび)が正体の大物主神の妻になったときに箸(はし)が陰部(いんぶ)につきささって死去されたからである」と説明する奇怪な記事をもって、『日本書紀』編纂スタッフは「天皇家(朝廷)が至上神として尊ぶ天照大御神は倭迹迹日百襲姫命であった」と伝えようとしていたと考えられる。
倭迹迹日百襲姫命は開化天皇の第二后として結婚しているが、開化天皇・伊耶那岐命に離縁されたために「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。
開化天皇と結婚したときの崇神天皇の母親(倭迹迹日百襲姫命)の名は「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」であった。
したがって、伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は、開化天皇・伊耶那岐命の継母であった。
伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇(こうげんてんのう)と結婚して、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。この比古布都押之信命は崇神天皇であった。
『古事記』中巻は「伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)を生んだ」と説明しているが――御真木入日子印恵命は崇神天皇であったゆえ、実際は開化天皇の養子であった。
「養父と養子の縁(えん)を結ぶ」を、上古では「生んだ」と表現したのであろう。
開化天皇は崇神天皇の実父ではなく、異母兄であった。
竹野比売・伊耶那美命が開化天皇・伊耶那岐命と結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)が、『古事記』上巻に登場する英雄・須佐之男命(すさのおのみこと)である。

234年、呉との天下二分の盟約(めいやく)を結ぶ蜀の軍は、魏を討()つために北へ進んだ。
この北伐(ほくばつ)の途上(とじょう)、諸葛孔明は秋風吹く五丈原(ごじょうげん)で病死した。享年(きょうねん)54歳であった。
孔明の死から二年前の2323月、再度、呉の孫権は将軍周賀(しゅうが)と校尉裴潜(こういせんすい)を燕への使者に任命した。今度は、この使者の要求を公孫淵は受け入れた。裴潜は、公孫淵の上表文(じょうひょうぶん)を持って無事に帰国した。孫権は、公孫淵を「燕王」に封(ほう)じるとともに使持節(しじせつ)という資格をも与えた。
しかし、将軍の周賀の配下たちは山東半島で魏に捕らえられた。このため、呉と燕が同盟を結ぶ計画は魏に事前に漏()れていた。
この燕の公孫淵が呉の孫権と結ぶ気配(けはい)を見せたことは、魏にとって心配がたえない脅威(きょうい)となった。
この(232年、翌233)頃から、魏は倭人国との国交に積極的に努力したと考えられる。
『魏志倭人伝』に記述されているように、倭は233年から5年後の238年に、難升米(なしめ)一行を魏都へ派遣し、卑弥呼の「親魏倭王」の爵位(しゃくい)と金印授与の約束をとりつけている。このような大々的な外交にさきがけて、魏と倭とのあいだになんらかの秘密の接触(せっしょく)が当然(とうぜん)あったと考えるべきであろう。なんの準備もなく、唐突(とうとつ)に魏が卑弥呼に「親魏倭王」を任命し金印紫綬(きんいんしじゅ)を授(さず)けたのは、どう考えても理屈(りくつ)にあわない。
公孫淵が信用できなくなったとき(232年、233)頃から、魏は燕の背後の脅威となる倭と外交を結ぼうと決意して着手したにちがいない。

前述したように、237(魏の景初元年)の夏、魏の公孫淵討伐は幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者となって開始された。毌丘倹の公孫淵討伐は失敗した。
238(景初二年)、孔明と五丈原で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が、公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり、4万の歩兵と騎兵を率いて春、首都洛陽を出発した。
途中、毌丘倹の軍と合流し、倭の使節・難升米一行が帯方郡(たいほうぐん)に到着した6月には、司馬懿の軍は遼東(りょうとう)に到着した。
一方、魏の明帝はあらたに劉昕(りゅうきん)を楽浪太守(らくろうたいしゅ)に任じて、海から朝鮮半島に送りこんだ。
このように、魏の大軍に挟(はさ)み撃()ちされた公孫淵は、襄平城外(じょうへいじょうがい)で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

司馬懿が公孫淵を討伐して魏都洛陽に凱旋(がいせん)したのは、239(景初三年)正月であった。
この時、明帝は危篤状態(きとくじょうたい)であった。司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間()に合った。
明帝には子が無かったので、8歳の曹芳(そうほう)を養子とし斉王(さいおう)とした。この斉王を補佐する役を、明帝は司馬懿と曹一族を代表する曹爽(そうそう)に託(たく)した。
240年の魏の元号は、「正始(せいし)」と定められた。

◆『魏志倭人伝』は「正始元年(240)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)一行を倭国に派遣し、明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の爵位を授けると約束した詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)をもたせて倭国にゆかせた。そして、帯方郡の使節一行は、倭王に拝仮(はいか)して、明帝が約束した詔書をさしだした」と説明する。つまり、この240年の記事は「倭女王」ではなく、「倭王」と記す。
ゆえに、239(景初三年)240(正始元年)、つまり帯方郡の使節一行がいまだ倭国に到着していなかった240年において、卑弥呼はすでに没していたのであろう。
これゆえ、卑弥呼に代わって倭王(男の大王)が帯方郡の使節一行に面会した。
本来ならば、明帝が約束した詔書と印綬は卑弥呼にさしだししなければならなかったゆえ、『魏志倭人伝』は「拝仮(はいか)」、つまり「仮(かり)に拝謁(はいえつ)することにした」と記述することになったのであろう。

『魏志倭人伝』は「243(正始四年)、倭王はまた大夫(だいふ)の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)などの八人の使節を派遣した。(中略)。魏王朝は掖邪狗らに率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬を与えた。」と説明する。
また、『魏志倭人伝』は「245(正始六年)、魏の斉王は詔(しょう)を下して、倭の難升米(なしめ)に魏の軍旗(ぐんき)の黄幢(こうどう)を与えることにし、帯方郡に託(たく)して仮授(かじゅ・仮に授けることに)した。」と記述する。

『魏志倭人伝』には記述されていないが――246(正始七年)には、馬韓(ばかん)の臣濆沽国(しんふんここく)の首長(しゅちょう)を中心とする勢力が帯方郡の軍事基地を攻撃し、この叛乱(はんらん)で帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死した。
だから、倭は魏との盟約にもとづいて出兵しなければならなかったが――239年頃の卑弥呼の死から間もなくして狗奴国(くなこく)が戦争を仕掛(しか)けてきたため、この内戦をおさめるために倭は韓に軍を派遣(はけん)することができなかった。
韓の叛乱は楽浪郡からの水軍の応援によって、韓の軍は敗北して鎮圧(ちんあつ)された。

◆それゆえ、『魏志倭人伝』は「247(正始八年)、帯方郡太守に王頎(おうき)が着任した」と記す。
この247年の記事はさらに続き、「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった。(それゆえ、卑弥呼の死後間もなくして狗奴国が倭国を攻撃してきたので、魏との盟約(めいやく)をまもれず、韓に軍兵を派遣できなかった)
ゆえに、倭は載斯烏越(小国・日本の軍王の伊耶那岐命)を帯方郡に派遣して、倭と狗奴国との相攻撃(あいこうげき)する様子を報告して、魏との盟約(めいやく)をまもれなかった事情を弁護することにした。
そこで、帯方郡太守は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせ)たちを派遣し、彼らに前年(245)の斉王の詔書と黄幢を託(たく)して難升米に拝仮した。
帯方郡の使者の張政は(「燕・諸韓国における平和を維持(いじ)するためには、倭の狗奴国を滅亡させなければならない」と説く)(げき・軍書)を作って、倭女王・壱与(伊耶那美命)を説得(せっとく)した。
(
しかし、【愛】の女王の壱与・伊耶那美命は「狗奴国の男王とは話し合いによって戦いを鎮(しず)める」と主張して、張政の檄による告喩(こくゆ・説得)に応じなかった。

上の記事に登場する「倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王は素より不和であった」という事情は――、
狗奴国の男王は「現在と夏代黎明期における東の地平線に昇る【夏の銀河の形状】は同じである。だから、名門益氏の王子と若者たちがもたらした帝禹(ていう)の遺志である国家を作らないようにして、氏族共同政治体制を依然(いぜん)として維持すべきだ」と主張したのであろう。
この意見に対して、卑弥呼は「現在と夏代黎明期における東の地平線から昇る【夏の銀河の形状】は相似するがまったく同じではない。ゆえに、現在は新しい政治体制がどうしても必要である。依然として国家を作らない旧政治体制のままだと、いずれ中国の魏や呉に占領されるにちがいない」と反論したと考えられる。
このような事情であったゆえ、壱与・伊耶那美命は張政の檄の告喩に応じず――狗奴国の男王との対立・争いは話し合いで平和的に解決できると考えたのであろう。
しかし、魏との同盟は軍事同盟であった。
ゆえに、夫の載斯烏越・伊耶那岐命はじめ天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と倭王朝の面々は――張政の檄(げき・軍書)の告喩にしたがって狗奴国を討伐(とうばつ)して滅亡させるしかない。話し合いによる解決は魏との同盟を無視することになる。だから、魏を裏切(うらぎ)り敵にまわすことになる。そうなると、むしろわが国は大いに乱れて人心が動揺(どうよう)し漂(ただよ)える状況が一層(いっそう)ひどくなり収拾(しゅうしゅう)がまったくつかない事態となる――と、主張して壱与・伊耶那美命の意見に猛反対したにちがいない。
このため、倭王朝は強引に伊耶那岐命の第二后の天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を壱与の代理に就任させた。

これゆえ、『魏志倭人伝』の末部は下記のごとく説明している。
――張政らは、再度、激(軍書)を作って壱与、つまり壱与・伊耶那美命の代理に就任した天照大御神・伊迦賀色許売命を告喩・説得した。
かくして伊迦賀色許売命は張政が作った檄の告諭にしたがったために、狗奴国討伐は開始され、狗奴国は日本・倭連合軍によって滅亡した。
つまり、狗奴国討伐は小国・日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命が最高責任者となり、邪馬国(やまくに・大和)の崇神天皇・天照大御神の軍の活躍によって討伐されて滅亡した。
その後、壱与(の代理の天照大御神・伊迦賀色許売命)は、倭の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)たち二十人を帯方郡に派遣し、帯方郡の使節の張政らを帰還させた。
この倭の使節の掖邪狗一行は帯方郡を出発して魏都洛陽に到着した。
このような記事をもって、『魏志倭人伝』の記事は終わっている。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の説話は、下記のごとく説明する。
――小国・日本の女王に就任した伊耶那美命と夫の伊耶那岐命は、小国・日本の建国理念を【愛】と定めた。
ところが、『魏志倭人伝』に記述されているように――卑弥呼が死去して卑弥呼を葬る陵墓を築造する時、卑弥呼の後を受け継いだ男王が百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を決行した。この循葬儀式を人民たちは残酷すぎると否定・憎悪して武器をもって倭王朝を攻撃する叛乱が国中に広がった。
この国中の叛乱は「伊耶那美命と伊耶那岐命が日本建国理念を【愛】にしたが原因である」と倭王朝は立腹(りっぷく)・非難し、さらに倭王朝は「伊耶那美命と伊耶那岐命に小国・日本を与える」という約束を反故(ほご)にして、伊耶那美命を倭女王に就任させて「国中の叛乱を鎮(しず)めよ」と欲求した。
このような次第(しだい)で、【愛】の女王・伊耶那美命が倭女王に就任すると、国中の人民たちは伊耶那美命ならば必ず徇葬を否定して廃絶(はいぜつ)するにちがいないと信頼して武器を捨てた。ゆえに、国中は遂(つい)に平定された。
しかし、このような混乱状態に乗(じょう)じて狗奴国が倭国に戦争を仕掛(しか)けてきた。
このため、倭王朝は「狗奴国の反乱もまた壱与・伊耶那美命と載斯烏越・伊耶那岐命が小国・日本の建国理念を【愛】と定めたが原因で起きた」と責任を押しつけて――二人に狗奴国の反乱を鎮圧(ちんあつ)する最高責任者に就任させた。

小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命は狗奴国討伐の最高責任者(総大将)として狗奴国討伐を指揮したが――狗奴国滅亡の酷(ひど)い惨状(さんじょう)を目にして後悔し、愛妻・伊耶那美命の主張が正しかったと、倭王朝に怒りをぶつけて反抗(はんこう)した。
この倭王朝への反抗が原因で、狗奴国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の功績ではなくなり、開化天皇の祖父・孝霊天皇(こうれいてんのう)の事績(じせき)とされた。
孝霊天皇は、卑弥呼の後を継()いだ倭王、つまり百余人の奴婢を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬を決行した大王であったと考えられる。

ゆえに、『古事記』中巻の孝霊天皇紀は、狗奴国滅亡について下記のごとく説明する。
「大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は、二人連()れ立って、播磨国(はりまのくに)の氷河(ひかわ)の岬に斎()み清めた酒甕(さかがめ)を据()えて播磨国を吉備国(きびのくに)に入る入口として吉備国を平定なさった。」
前述したように、「狗奴国」は「吉備地方」であった。
巴利国(はりこく)・播磨の西となりは「狗奴国」であった。ゆえに、「播磨国は吉備国・狗奴国に入る入口」となる。
だから、上の記事は「狗奴国討伐と狗奴国の滅亡」を説明していたことになる。

大和朝廷が栄えた基礎は、天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)によって築かれたとされる。ということは、狗奴国(吉備国)討伐の戦いにおいて、邪馬国(やまくに)・大和の軍は大活躍したが原因で、一気に軍事力が増大したからにちがいない。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀における「四道将軍」の冒頭記事は、下記のごとくである。
「崇神天皇十年九月九日に、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に遣(つか)わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣わし、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わした。そして詔(しょう)して『もしも教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と仰(おお)せられた。」
この四道将軍の一人は「吉備津彦」である。ゆえに、上記した『古事記』孝霊天皇紀に登場した「大彦命」は「大吉備津日子命」と同一人物であり、四道将軍の「吉備津彦」は「若建吉備津日子命」と同一人物であったであったにちがいない。
したがって、「四道将軍」は狗奴国・吉備地方の討伐において大活躍した。
ゆえに、邪馬国・大和の崇神天皇・天照大御神の軍事力は、狗奴国・吉備地方討伐以後に一気に増大したと考えるべきことになる。

◆『万葉集』13番の題名は「中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)の大和三山の和歌」である。
この「中大兄皇子、後の天智天皇が皇太子時代に作った大和三山の歌」は、下記のごとくである。
「香具山(かぐやま)は、畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
上記の和歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「帯方郡の使者の張政が軍書の檄をもって告諭・説得したが、天の香具山に象徴される壱与・伊耶那美命は狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を強く望んだ。しかし、畝傍山に象徴される夫の伊耶那岐命・載斯烏越と耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は、あくまでも狗奴国は武力をもって壊滅(かいめつ)させるべきだと主張して頑(がん)としてゆずらなかった。それゆえ、伊耶那美命は、夫は雄男しすぎると嘆(なげ)いた。このように、神代の伊耶那美命と天照大御神は自分の意見を夫の伊耶那岐命に従わせようとして争った。昔がからそうであったように、男女の仲の争いは、昔も今も絶えない。」

『万葉集』14番は、13番の反歌(はんか)である。
『万葉集』14番は、下記のごとくである。
「香具山と 耳成山と あひし時 立ちに見()に来し 印南国原(いなみくにはら)
上記の短歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「香具山に象徴される伊耶那美命・竹野比売(たかのひめ)は狗奴国とは話し合いで平和的に解決すべしと主張し、耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は狗奴国を壊滅すべきと主張して争ったとき、この状況を心配した阿菩大神(あぼのおおかみ)つまり卑弥呼の死霊が見に来たという伝説で有名な印南国原が、いま、眼前に見える!」

上記の13番の長歌と14番の短歌は、661(斉明天皇七年)、天皇は船団を組んで、新羅(しらぎ)と唐と争う百済(くだら)の要請(ようせい)を受けて朝鮮半島遠征を決意し、九州へと向かった。この船団が印南国原(印南野・播磨平野の東方の兵庫県加古川市周辺の平野部)が見える播磨灘(はりまなだ)を通過する時に、中大兄皇子が作ったとされる。
このように、中大兄皇子は『魏志倭人伝』の末部に記される狗奴国討伐に記された「張政が檄を二度も作った事情」を題材(だいざい)にして和歌を作っている。

中大兄皇子の実父・舒明天皇(じょめいてんのう)も、『万葉集』5番の「舒明天皇が讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」と題する長歌を作って――小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命が狗奴国討伐の最高責任者となって讃岐国の飯(いい)ノ山に陣取って指揮したと詠()む長歌を作っている。

◆これ以上、『古事記』と『日本書紀』に記述された壱与・竹野比売(たかのひめ)・伊耶那美命と載斯烏越・開化天皇・伊耶那岐命と天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)について解説しないことにする。
というのも、このブログの作成目的は『魏志倭人伝』の記事について具体的に容易に理解できるように詳細に解説して合理・科学が成立するように証明することであるからである。
ゆえに、これ以上、『古事記』と『日本書紀』に深入(ふかい)りしないことにした。
これまでの解説で納得・満足できない人、あるいは疑いを抱く人は、是非とも前ページで指摘したように、わが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)を読んでいただきたい。
この拙著には伊耶那美命・伊耶那岐命・天照大御神について、そして小国・日本の建国理念が【愛】であった歴史について詳細に解説して証明した。

このブログまでをもって、卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りが存在せず、すべて合理で統一されていて科学が成立して正確であることを証明した。
邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記される方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されて科学が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の産物であり、最初の立論段階から空想・空理空論であったことが明白となる。

今から約300年前、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・1657年―1725)は『古史通或問(こしつうつうわくもん)を著作して【邪馬台国大和説】を立論し、その後に『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他を著作して【邪馬台国筑後山門説(ちくごやまとせつ)】を主張した。
邪馬台国説学者たちは、卑弥呼が倭人国の首都として住んだ王国名は「邪馬台国であった」と主張して、白石の意見にしたがって――「邪馬台国」の「邪馬」は「大和」の「やま」であり、また「山門」の「山(やま)」であると思い込んでいる。
しかし、このブログが証明したように「邪馬」の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であるゆえ、「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情にそっくりの、出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)であった」。
また、『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した王国名を「邪馬壱国(やまいこく)」と明記する。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
だから、即刻(そっこく)、白石以来300年間も学者たちが継承(けいしょう)する「邪馬台国説は完全に空理空論であった」と断定すべきことになる。

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