漢字の起源と発明を解明す・32
【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明(3)
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」までに詳細に解説して――【倭】の字源を論理基盤して『魏志倭人伝』の全記事は全体的に組織的に合理が成立するからである。
ゆえに――『魏志倭人伝』の記事によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されることになる。
◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、“夏の始祖(しそ)”の帝禹(ていう)の遺志「五帝時代以来存続してきた、国家を作らない・氏族共同政治体制」を新天地・日本列島にて継続させるために、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが荒波逆巻(あらうみさかま)く大海を、小舟を漕(こ)いで横断(おうだん)して日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟地方に定住した――という歴史が記述されている。
なお、上記の帝禹の遺志「国家を作らない、氏族共同政治体制」を継続させるために、益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった中国における事情の経緯(けいい)の詳細は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて解説した。
男鹿半島・八郎潟地方の地に定住した益氏(えきし)の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史について、720年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)の初頭部は下記のごとく説明する。
「昔(むかし)、わが天神(あまつかみ)のタカミムスビノミコトとオオヒルメノミコトは、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた(つまり、益氏の王子、つまり天祖・彦火瓊瓊杵尊に日本列島において帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制】を定着させる事業を命令じた)。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路(くもぢ)をおしわける先ばらいを立てて(つまり、曇った夜空では測量できないが晴れる夜空を待って天頂緯度を精確に測量する役目の若者を先頭にして、益氏の王子の一団は)、旅の目的地に到着した。このとき、この地域はまだ野蛮(やばん)で草眛(そうまい)であった。そこで、蒙昧(もうまい)の中にありながら、みずからの正しい教え(学術)を養(やしな)って、この西の偏(ほとり)を治めた。
その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」
上記した【夏代黎明期(かだいれいめいき)、益氏の王子(彦火瓊瓊杵尊)と若者たち一団が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)】について、
『魏志倭人伝』の後半部の記事は、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)」
上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す・30」に解説したように、
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(1)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
白川静著『字統』(平凡社発行)は「『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が、
(1)【景】の字について「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する――と指摘する。
というのも、(1)「地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状況の形状」であるゆえ、『周礼』の〔大司徒〕は「以て地の中を求む」と説明することになったのである。
また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(2)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」であった。
「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(おおきな円形)」となる。
上記したように、この「黄道の大円」は【景】の字源となった。
前記したように、白川静著『字統』は――『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字説(字源解説)の後に、
【景】の字について追加する「地上千里して日景に一寸の差があるという」という文意は、
「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。
◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(東経133.00639度)からずれて、佐太神社の鳥居(東経133.008度)の辺(あた)りを擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿(西・現在方位)から鳥居の辺り(東・現在方位)までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわしている。
日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の本殿を結ぶ東経133度(東経133.00639度)より東の鳥居の辺り(東経133.008度)」が【景】の字源・原義をあらわした。
これゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇った。「お忌(い)みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。
【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字目くらいの箇所に、
前ページで紹介した――名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏に定住した記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種なり」という小国は、「倭種」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って「現在方位の北」が「東」に変位する――つまり「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真北(現在方位)の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。
『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。
又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。
下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)の、旧国の加賀(かが)」であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の顔と頭」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。
『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺(三度~四度)」と説明されることになったのである。
上記したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。
結局(けっきょく)、「旧国の加賀」の小国名の「侏儒」は「五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡と【倉頡が発明した文字作成理論】」をあらわした。
というのも、「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説では、「侏儒」という語をあらわした「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「四つ目の怪人・倉頡」と表現したからである。
そして、「旧国の越中」の小国名の「裸」は「暑い夏に裸になって過ごす赤ん坊の上半身」をもって「夏代が生まれた初期(つまり、夏代黎明期)、【倉頡の文字作成理論と夏音文字の学術】が日本列島において初めて産声(うぶごえ)をあげた」と意味するものであったと考えられる。
◆下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
この小国名が「黒歯」となった「熊が冬眠する洞穴(ほらあな)」は、
前記した『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある「益氏の王子・天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事の中に登場する
「天のいわくらを開き」という文をもってあらわされている。
『日本書紀』の古書には「天開」の2字の横に小さな字で「アマノイハクラヲ」と記されている。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国」の小国名の「熊が冬眠する洞穴」にもとづいて、
『日本書紀の古書には「アマノイハクラヲ」と小さい字が添えられたことになる。
というのも、『日本書紀』巻第九の神功皇后紀(じんぐうこうごうき)には『魏志倭人伝』の景初三年六月・正始元年・正始四年の記事が引用されているからである。
つまり、『日本書紀』が成立した720年当時、すでに以前から天皇家はじめ皇族や『日本書紀』編纂(へんさん)スタッフや研究者たちは朝廷が最も厳重な機密とした秘書(ひしょ)の『魏志倭人伝』を研究していた。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の「天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事における「天開」の2字の横に「アマノイハクラヲ」という説明が加えられるようになったにちがいない。
これゆえ、『日本書紀』の神武天皇紀を現代語訳する諸々(もろもろ)の書物は「天開」の2字を「天のいわくらを開き」と訳している。
◆「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名は「黒歯国(こくしこく)」であった。
下図に、「黒歯」の「正方形の暗黒天体部」と【歯】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)を示した。
【歯】の字源は「長方形の暗黒天体部における北部(現在方位)における、正方形の暗黒天体部」であった。
「正方形の暗黒天体部」は「暗黒」で「黒い」ゆえ【黒】、「正方形の暗黒天体部」は【歯】の字源であるゆえ――【黒】に【歯】が加わる「黒歯」という小国名になった。
下図の左上に示すように、小国名「黒歯」となった銀河部は「正方形の暗黒天体部」であった。
上図が示すように、【黒歯】という小国名になった「正方形の暗黒天体部」は「侏儒国の、四つ目の銀河」と「裸国の、鬼の身に相当する銀河」の〔南となり〕にある。
ゆえに、前述した解説では、【黒歯の銀河部】は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河、またの名が四つ目の怪人・倉頡の銀河)」の〔北となり〕の「暗黒天体部」に在るべきはずなのに――
上図の【黒歯】をあらわす「四つ目の銀河の南となりの、正方形の暗黒天体部」は不合理となる。
この「黒歯国」という小国名には、『古事記上巻 并(あわ)せて序』における〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』の撰録(せんろく)の企て〕の箇所にある「潜龍(せんりょう)元(げん)を体(たい)す」という語が関係する。
上記の「潜龍元を体す」という語は「水中に潜(ひそ)んでいまだ雲を起こさない龍」の意から、「天子たるべき徳をすでに備(そな)えている皇太子」を意味した。
しかし、上記の意は転義(てんぎ)であって、
「潜龍元を体す」の本義(ほんぎ)は「水中に潜んでいる龍が雲を起こして大雨を降らして氾濫(はんらん)することがなく、急流となって水がスムーズに流れる黄河上流」を意味するものであったと考えられる。
「黄帝陵(こうていりょう)を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「氏族共同政治体制の元(もと・始め)となる地域であった」。
だから、「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「元を体す」と表現された。
したがって、「潜龍」という語は「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流では、長方形状の西から北へと黄河の水が流れる隅(すみ・角)が円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴(あば)れずに氾濫せずにスムーズに流れ、また北から東へと黄河の水が流れる隅(角)も円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴れずに氾濫しない状況」を意味したことになる。
下に、「五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の図」を配した。
黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部にある大きく開いた目の中央」を貫通していた。
下図は「黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の図」である。
下図が示すように――包頭がある北緯40度近辺(きんぺん)には黄河の北端が流れ、銀川がある西から北へと水が流れる隅(角)は円くなっているために水はスムーズに流れ、また北から東へと水が流れる隅(角)も円くなっているために水はスムーズに流れる。
ゆえに、この「西と東の隅丸角(すみまるかど)の水中に潜む龍、つまり雲が天におおって大雨が降っても東西の隅丸角の水は急流になっても氾濫しない状況」を
「潜龍元を体す」と表現するものであったことになる。
上図に示した「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は、「黒歯国」という小国名になった「長方形の暗黒天体部」に見立てられた。
「長方形の暗黒天体部」は「侏儒国」に見立てられた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の南となりにある。
しかし、上記したように、「長方形の暗黒天体部」に見立てた「北緯40度近辺の土地を流れる、黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流」は「黄帝陵と同緯度(北緯35度35分)となる、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の中央」より北となりの「暗黒天体部」に見立てられるべきことになる。
下に、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)より南と北にある長方形の暗黒天体部」を図示した。
上図に示すように、「南の長方形の暗黒天体部の西の隅丸角にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
また、「南の長方形の暗黒天体部の東の隅丸角にある、激流の銀河」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
上図に左上に示したように、「北の長方形暗黒天体部における、正方形の暗黒天体部」が小国名の「黒歯」をあらわす。
上図に示すように、「鬼の姿に似る銀河における首の部分」が【元】の字源中央となり、
「鬼の横顔に似る銀河から鬼の身に相当する銀河まで」が【元】の字源銀河部となる。
以上のごとく、「潜龍元を体す」という語を利用して、卑弥呼は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。
◆前ページにて説明したように、現在方位にもとづく「石川県北部(現在方位)の、旧国の能登における七尾湾の地宜(ちぎ)」を、卑弥呼は「熊が冬眠する暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てた。
ゆえに、「七尾湾」を「黒い毛でおおわれる熊」に見立てて【黒】、
また、「七尾湾」を「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てたゆえに【黒】、
そして、「七尾湾の湾口(わんこう)の北岸と南岸」を【歯】に相似すると見立てて、
前記した「潜龍元(せんりょうげん)を体す」という語にもとづく「黒歯」の解釈と共に、
「七尾湾周辺の地宜」にもとづき「能登」の小国名を、卑弥呼は「黒歯国」と定めた。
『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」と説明する。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
ゆえに、転回方位にもとづく「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
また、転回方位にもとづく「黒歯国における北」は「午前〇時」、「黒歯国の南」は「正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
下図は「春分の日となり、冬眠するのをやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
◆『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復(ま)た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶(た)え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。
上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味した。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となった。
これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復(ま)た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶(た)え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」
下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」にて幾度もくりかえして解説し証明したように、
卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
したがって、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように陸行の場合には「男鹿半島は東」となるゆえ、
「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。
いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。
だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復(ま)た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き」と、合理となる船行を用いて黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したことになる。
当時、【倭】の字源「時計回りに90度転回させる方位規定」に則って、
下図のごとく「本州の東は南に伸びる」と定めた、卑弥呼が立論した「転回日本列島地理論」は絶対に正しいと信じられていた。
だから、卑弥呼が「能登から船行で東南の方向に、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る」と立論した意見は正しいと信じられて、誰にも誤っていると組織的に合理が成立するように立論することができなかったゆえ否定することができなかったのである。
つまり、現在、大半のわが国の市民たちが「新井白石以来300年も多数の学者たちが主張する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、空理空論であるはずがない」と信じているように――
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は正しいと信じられていたのである。
◆前ページにて「潜龍元を体す」という語が示す「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流の北端の位置は北緯40度近辺」であった。
現在の中華人民共和国の首都の北京(ペキン)の中心座標は、北緯40度近辺となる北緯39度54分である。
北京より東南約120kmへだたる天津(テンシン)の中心座標も、北緯40度近辺の北緯39度07分である。
天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)、つまり益氏の王子が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)も、北緯40度近辺の地域となる。
ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)に記される「帝禹(ていう)が住んでいた夏の首都の、会計(かいけい)」は「現在の北京」であったにちがいない。
また、『史記』夏本紀が「帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい)に至って崩じ、天下を益に授けた」と説明する「会稽」は、「帝禹の政治を補佐した益が住んでいた、現在の天津」であったにちがいない。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて詳細に解説したように、益氏の王子と若者たちは帝禹の遺志「五帝時代以来存続した国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続するために移住した」。
だから、益氏の定住地は、帝禹が住んだ会計・北京と帝禹が崩じた会稽・天津とほぼ同緯度の地域、つまり男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)であったと考えるべきことになる。
下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸した。
そこは、下図に示したように、「八郎潟」を「女性の生殖器官」に見立てると「膣口(ちつこう)」に相当する地点となる。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町が、帝禹が夏の首都とした会計・北京と同緯度のあたりとなる。
上図に示したように、益氏の王子と若者たちが上陸した船越水道の出入口の東岸から夏至の太陽の日の出の方角(東北29度)に花輪盆地(はなわぼんち)が所在する。
花輪盆地には、世界文化遺産となった大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が在る。
大湯環状列石は後期縄文時代初頭に築造されたとされる。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭にある天祖・彦火瓊瓊杵尊の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)の定住記事にある「その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した」と説明する――天祖の孫の代に大湯環状列石は築造されたと考えられる。
下図に示すように、世界文化遺産の大湯環状列石は「花の形をした盆地における、【花のめしべ】に相当する地所に築造された」。
その位置は、下図の右上に図示したように、「十字の銀河の頭がかぶる穀霊(こくれい)のかぶりものの中央」に相当する。
下に、【倭】の字源となる「十字の銀河における〔穀霊〕のかぶりものの解説図」を配した。
この「〔穀霊〕のかぶりもの」は「花の形」にデザインされていたにちがいない。
ゆえに、大湯環状列石遺構が築造された後期縄文時代初頭、「十字の銀河の頭の北となりの、花の形をしたかぶりものの中央・めしべに相当する部分」が、大湯環状列石遺構の天頂にめぐってきていたことになる。
◆大湯環状列石は、秋田県の鹿角市(かづのし)花輪町大湯の中通りに所在する。
下図に示すように、大湯環状列石は東側が直径42mの野中堂遺跡(のなかどういせき)、西側が直径48mの万座遺跡(まんざいせき)で構成される。
野中堂遺跡と万座遺跡には「日時計組石(ひどけいくみいし)」と名付けられた特殊組石がある。
下図に示すように、〔野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡の日時計組石の中心〕と〔万座遺跡の中心・万座遺跡の日時計組石の中心〕を結ぶ線は、【夏至の日没方向(西北29度)】を指差す。
ゆえに、大湯環状列石は益氏が【倉頡の文字作成理論はじめ夏音文字の学芸をひろめるために築造した施設】であった。
要するに、万座遺跡は『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「日景を正して、以て(もっ)て地の中を求む」と解説した施設、
野中堂遺跡は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した施設であった。
下図は、1951年・1952年の国営調査によって検出された野中堂遺跡の平面図である。
下図に示したように、野中堂遺跡の中心から夏至の日没方向に、日時計組石がある。
下図に示すように、野中堂遺跡の中心には垂直に柱が建てられて補助の棒を用いて日々の正午の太陽の南中高度が計測され、〔天球上における、日々の太陽の南中高度の位置〕が記録された。
太陽が地平線に沈んで姿を消しても、まだ空は真っ暗にならないので、銀河や星が見えない。
このうす暗い時間を「薄明時(はくめいじ)」といい、太陽が地平線の下に18度まで沈むと、ようやく薄明時が終わって、空が真っ暗となり、銀河と星たちが見えて天文が出そろう。
ゆえに、太陽が没する時は銀河や星は見えないため――太陽が地平線に没する夕刻、太陽がどの天球上に所在するのか、その位置を測量することはできない。
しかし、薄明時において、下図に示す北斗七星(ほくとしちせい)でもっとも光が強いおおぐま座のε星・第5星の衡(こう・漢名)は見える。北斗七星の第5星の光度は1.8等である。
上図に示すように、「北斗七星のε星・第5星、漢名(シナ天文の名称)の衡は、五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)において、【鳥】と呼ばれていた。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭における四時(春分・夏至・秋分・冬至)の銀河・星などの天文の状況を伝える春分の夕刻の記事は、
「日は中、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と説明する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、北斗七星の第5星・【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めた」と意味した。
下図は、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の箇所に記述された「帝堯代初頭の春分の日の太陽が西の地平線に没する午後6時の銀河・星空図」である。
下図に示すように、司馬遷著『史記』五帝本紀に記述されたとおり、帝堯代初頭の春分の日の夕刻には北斗七星の第5星の【鳥】が子午線通過(南中)しようとしていた。
帝堯代に生存した益氏の先祖は、前ページにて説明した「〔正午の太陽の南中光度〕の測量方法と測量装置」と、北斗七星の第5星の【鳥】を利用して野中堂遺跡の日時計組石で午前〇時を計測して
『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した、いいかえると「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道(こうどう)」が測量できるように発明した。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀に「益は帝堯の時代に挙用(きょよう)された」と記述されることになったと考えられる。
北斗七星の第5星の【鳥】は周極星(しゅうきょくせい)である。
周極星は地平線下に沈むことはない。
それゆえ、太陽が地平線に沈むときにも見える周極星の光度1.8等の【鳥】ならば、天球上における黄道の大円を測量することができる目星(めぼし)として最適である。
下図は、野中度遺跡の日時計組石の平面図である。
下図上部の「北」は「太陽が円を描いて運動する軌道における〔北〕の位置を示し、この〔北〕に太陽が位置する時に【午前〇時】となる。
したがって、下図に示すように、太陽が地平線に没した方角を日時計組石の縁(ふち)の地面に棒でひっかいて印(しるし)をつけ、同様にその時の【鳥】の方角にも日時計組石の縁に印をつけると、
地中に没した太陽が「北」に位置するまでの角距離Aと【鳥】が移動する角距離Bが等しくなった時が【午前〇時】となる。
【鳥】が移動する角距離Bと太陽が地平線に没して真北まで移動する角距離を等しくした【午前〇時】における、前ページにて説明した【その日の正午の太陽の南中高度に合致する天体部(銀河部や星や暗黒天体部など)の位置】を【その日の天球上における太陽の位置】と定めれば、「黄道」が測量できる。
つまり、【その日の正午の太陽の南中高度の天体部イコールその日の午前〇時の南中天体部】と定めて――その状況を毎日記録する測量を一年間おこなえば天球上における黄道の大円が完成する。
だから、野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して【午前〇時】を計って黄道を測量するための装置であったことになる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の四時の天文状況記事における末部は、
「一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した」と記述する。
「日時計組石の一周を360度・360寸」に見立てると、「360寸÷366日=0.98寸」となる。
ゆえに、太陽は日々、約一寸(0.98寸)ずつの差でその日の正午から翌日の正午までを運行していることが明らかになった。
〔注 前ページにて説明したように、太陽はその日の正午から翌日の正午までを4分短い、23時間56分で一周する。〕
ゆえに、上記した「4分短い」を、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した。
「帝禹が崩じた会稽」の【稽】の字義は「考える」である。
野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会(あ)せて稽(かんが)える施設」であった。
ゆえに、野中堂遺跡は帝禹が崩じた【会稽】という地名をあらわす施設であったにちがいない。
◆下図は、前ページにて紹介した野中堂遺跡の平面図と同様に、1951年・1952年に国営調査によって検出された万座遺跡の平面図である。
下の右図は、瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える【夏の銀河の光景図】である(日本天文学会編『新星座早見』・三省堂発行における【夏の銀河図】から転載した)。
前ページにおける【夏の銀河のカラー写真】は、瞳孔径(どうこうけい)が最大より少し縮小した時の絞(しぼ)りで撮影した【夏の銀河の形状】である。
ゆえに、瞳孔径・写真機の絞りの相違によって、【夏の銀河の形】は相違する。
下の左右の両図は類似しあうゆえ、万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図には【夏の銀河の面影(おもかげ)】が残っていたことになる。
今日まで約4000年余の長い間、時には持ち出された石もあったであろうが、万座遺跡の東側の外帯配石群には【夏の銀河の面影】が残っていた。
上記では、「万座遺跡の東側の外帯配石群」と記したが――天文図・銀河図は〔南〕を正面とし、地図・地理は〔北〕を正面とするゆえ、「地図の東側」は「天文図・銀河図の場合では西側」となる。
ゆえに、上図のおける左側は「万座遺跡の西側の【夏の銀河の形】を図化する外帯配石群」ということになる。
下に、「大湯環状列石が築造された、約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図が示すように、【夏の銀河の大半】は〔西北の地平線下〕に没していた。
だから、〔万座遺跡に残る【夏の銀河の面影】〕は「秋分の日の午前〇時の西北の地平線下に、その大半が潜る【夏の銀河】を地面に図化した配石群」であったことになる。
よって、〔万座遺跡に残る【夏の銀河像】〕は、「西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であったゆえ、
『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」と「【景】の字源を解説したのである。
前ページにおいて、野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会(あ)せて稽(かんが)える施設」であったゆえ、【会稽】をあらわす施設であった」と指摘した。
帝禹(ていう)は、〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止するか〕のようにして、〔万座遺跡の中心に野中堂遺跡の正午の太陽の南中高度を測量する装置同様の装置〕と〔万座遺跡の日時計組石〕を会〔あ〕わせ用いて【夏の銀河の各部の高度】を計算し計測したにちがいない。
だから、万座遺跡は帝禹が住んだ首都【会計】という名をあらわす施設であったことになる。
しかし、どのような計算・計測方法を帝禹は用いて〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止する〕かのようにして、地面に【夏の銀河像】を図化することができたのであろうか?
わたくしにはまったく解明することができない。
◆以上のごとく、『魏志倭人伝』に記述された益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟地方の定住記事は、
【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、
【夏の銀河各部の形状から文字を作る、倉頡の文字作成理論】を用いて一点の矛盾(むじゅん)も無く不合理な点もなく組織的に全体的に合理が成立するように論理が構築(こうちく)されている。
ゆえに、学者たちは「『魏志倭人伝』には多くの不合理な点や矛盾点がある」と指摘するが――このような意見は明白に誤っている。
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