漢字の起源と発明を解明す・30
【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明(1)
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座たちが漬(つ)かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。
◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)」
上記したごとく、益氏(えきし)の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西お偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初(けいしょ)二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。
わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」に解説したように――
上記した魏の元号「景初」という元号は「夏代黎明期(かだいれいめいき)、帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の息子の啓(けい)に帝位を禅譲(ぜんじょう)した歴史」に因(ちな)んで考案された。
また、「景初」という元号の【景】の字源は「天球上において太陽が一年間に通過する道、つまり黄道(こうどう)」と密接に関(かか)わり、あるいは「夏代黎明期における、春分の日の正午の高度」と密接に関連した。
それゆえ、上に示した「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」から「周旋五千余里可り」までの記事は、
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」にて詳細に解説したように、
『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕の【景】の字源解説と密接に関連し、
(1)言いかえると「帝禹(ていう)が発明した【夏の銀河における各部位】の測量方法と測量装置によって地面に図化された【夏の銀河像】」と密接に関連し、
(2)また「夏代黎明期における、春分の日の正午の高度」とも密接に関連し、あるいは「益氏の先祖が発明した、天球上において太陽が一年間に通過する道の黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」とも関連して――
(3)夏代黎明期(れいめいき)に帝王に就任した益(えき)が帝禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲(した歴史とも密接に関(かか)わって、
帝益の孫の王子と益氏の若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史を説明している。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆このブログは「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているため【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って統一されており――、
上記したように、邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【科学】が成立してすべて合理・正確であったと証明することができた。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となった。
◆司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)は、下記のごとく説明する。
「帝禹(ていう)は益(えき)を挙(あ)げて十年間、政治をまかせた。
帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい・現在の中国北部の天津であろう)にいたって崩(ほう)じ、天下を益にさずけた。
帝益は三年の禹の喪(も)が終わると、禹の息子の啓(けい)に帝位(ていい)を譲(ゆず)って、箕山(きざん・黄河の河口地域であろう)の南の地(山東半島の付け根の辺りの地)に隠棲(いんせい・隠居)した。
禹の子の啓は賢人(けんじん)であったゆえ、禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。
ゆえに、諸侯(しょこう)はみな帝益から去って啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。」
上記に示したように、司馬遷著『史記』夏本紀は【帝益が禹の子の啓に帝位を譲った理由】は「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についた日数が少なかったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」からと指摘する。
しかし、この理由はほんとうの理由ではなかった。
ほんとうの理由は――帝禹と息子の啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。
帝禹は「五帝以来の多数の氏族から最も優秀な人物を帝王に選んで国家を作らずに多数の氏族が共同する政治体制の継続(けいぞく)」、つまり【氏族共同政治体制の継続】を願った。
一方、啓は「帝王にふさわしい優秀な特定の氏族が子孫代々(しそんだいだい)帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させて、国家を樹立(じゅりつ)する」、つまり【世襲王朝・国家政治体制】を欲求(よっきゅう)した。
ゆえに、帝禹は臨終の際、益に「【氏族共同政治体制】を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継(つ)がせた。
しかし、諸侯は禹が願った【氏族共同政治体制の継続】を望まず、啓が主張する【世襲王朝・国家政治体制】に賛成して、帝益のもとを去った。
これゆえ、益は中国ではもはや禹が切望(せつぼう)した【氏族共同政治体制の継続】は断念(だんねん)しなければならないと結論し――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山(きざん)の南の地に隠居した。
そして、益は禹の遺志(いし)である【国家・王朝を作らない、氏族共同政治体制の継続】を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いたため、中国から日本列島へ渡る中間にある大海を小舟で漕(こ)いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、禹の遺志の【氏族共同政治体制の継続事業】は、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な力を有する腕力(わんりょく)をかねそなえる益の孫の王子と将来(しょうらい)益氏を継ぐ若者たちによって実行されることになった。
このため、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか・第六)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封(ほう)ぜられたか不明である」と記述されている。
このように、名門・益氏が中国の地から忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島に渡って男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したからである。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
上図における【夏の銀河】は、もちろん、刻々(こくこく)と移動している。
ゆえに、上図の【夏の銀河の光景】は【倉頡の文字作成理論における基本形】をあらわす。
したがって、【夏の銀河】は北側の地平線下(地の中)に没して潜(もぐ)って姿(光景)が消えることもある。
また、【夏の銀河】は東の地平線上に昇って全光景が出現することもある。
◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」にて紹介したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして一寸の差があるいう――と指摘する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「日景を正して、以て地の中を求む」という【景】の字源解説は「夏代黎明期(紀元前2070年~紀元前2000年頃)から卑弥呼が生存した中国の三国時代(3世紀)まで、【大半の夏の銀河が西北の地平線下(西北の地の中)に潜(もぐ)る光景】をあらわしていた。
このような【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った光景】は、今から約4000年前の夏代黎明期における秋分の日の午前〇時、冬至の日の午後6時に見ることができた。
〔なお、【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った光景】は夏至の日の午前6時、春分の日の正午の出来事であったが、この光景は朝となって明るくなったために実際には見ることができなかった〕。
下に、「【大半の夏の銀河が西北の地の中に潜った、夏代黎明期における秋分の午前〇時の天文図】を配した。
上図の中央下部に示したように、夏代黎明期、下の右側に図示した「おうし座α星の西となりに在る春分点」が南中(なんちゅう・子午線通過)していた。
これゆえ、「春分点が漬(つ)かるおうし座とぎょしゃ座の形」は下の左図に示したように【夏】の金文形となった。
下図に示したように――卑弥呼が生存し、中国の魏・呉・蜀が鼎立(ていりつ)した三国時代、つまり2世紀末から3世紀において、秋分の日の午前〇時、夏代黎明期とほぼ同様に【大半の夏の銀河】は西北の地の中に潜(もぐ)った。
当時(2世紀末~3世紀)の春分点は、「うお座における東方」、つまり「夏代黎明期の春分点が漬かる「おうし座」の西となりの「うお座」の東方」に所在したが――下図に示したように、当時の【夏の銀河の大半】は夏代黎明期とほぼ同様の状況となって西北の地の中に潜った。
このように、約4000年前の夏代黎明期と2世紀末~3世紀における秋分の日の午前〇時には【大半の夏の銀河が西北の地平線下に潜っていた様子】が同様に相似していた事実は、
下図に示す〔歳差状況図(さいさじょうきょうず・天の北極の位置図)〕にをもとづいて、両時代の天の北極・春分点を再現すると、事実であると証明できる。
◆上記した【夏の銀河を図化する方法と装置】は禹が発明したと考えられる。
ゆえに、刻々と移動する【夏の銀河】を静止するかのようにして――【夏の銀河の各部】を測量できるような方法を、禹が発明したため【夏の銀河像】は地面に図化されるようになった。
【禹の測量方法と測量装置で地面に図化された夏の銀河像】は、上記した『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】について「日景を正して、以て地の中に求む」と字源解説した、つまり前ページにて天文図に示したように【夏代黎明期、その大半が西北の地平線下に潜った(地の中に潜った)、秋分の日の午前〇時の夏の銀河の形】であった。
「日々、【夏の銀河の各部】を測量して【夏の銀河の全像】を地面に図化した」ゆえ――上記したように『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と日量測量のことをいう」と指摘することになった。
五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明したと考えられる。
この功績によって、益氏は帝堯に挙用(きょよう)されることになったと考えられる。
上記した禹が発明した【地面に図化された夏の銀河像】は【西(西北)の地平線下に潜る天空に輝く夏の銀河の光景】と東・西の向きが180度異なり、東側の地面に配置された。
つまり、禹の発明した測量方法で図化された【景】の字源「地の中に潜った(地の中に求む)夏の銀河像】は、つまり【西北の地平線下に潜る夏の銀河の南部の光景】は反対側の【東側の地面】に配置された。
それというのも――黄帝時代、天文図の場合は〔南〕を正面とし、地理では〔北〕を正面と定めたからである。
これゆえ、天文図では「地理の東側=天文図の西側」となった。
このため、前ページに配した「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」にて示したように、
帝禹が発明した【夏の銀河各部】を測量する方法と測量装置をもって、東側の地面に図化された【夏の銀河像】は【その大半が西北の地平線(水平線)の下に潜(もぐ)る、夏の銀河の姿】をあらわすことになった。
益氏の先祖が発明した「黄道の測量方法と測量装置」によって、「黄道の大円上(大きな円形上)に付けられる一日の目盛りの長さ(距離」が明らかになった。
だから、前述したように『周礼』の〔大司徒〕は、【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」とも指摘することになった。
つまり、「太陽が一年間に通過する道・大きな円形の距離」を「千里」、「地平線から黄道の大円が出現する」を「地上千里」と表現し、「黄道上における一日の距離(長さ)の差」について「一寸の差がある」と説明したのである。
以上のごとく、【景】の字源・字義は、
(1)「禹が発明した測量方法・測量装置」をもって「東側の地面に配置された【夏の銀河像】」と、
(2)「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と
の両学術知識が合体する仕組みになっていた。
前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』の後半にある「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り」から「景初二年六月、倭の女王」までの記事は、「名門・益氏の王子と若者たちが、男鹿半島・八郎潟地方に到着した」と説明している。
この「益氏の日本列島に定住したと説明する記事」は、上記したように、
上記した【景】の字源・字義の(1)「帝禹が発明した【夏の銀河】の測量方法と測量装置で地面に図化された【夏の銀河像】と、
(2)「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置で成立した黄道の大円」の両学術知識を合体して説明するものゆえ難解であった。
◆上記した「地上千里して日景に一寸の差があるという」という【景】の字源解説文は、上記した(2)「黄道の一年)の大きな円上における一日の目盛りの差は一寸ずつである」と表現している。
前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・29」では、この「一寸の差」を、下記のごとく「現在における時間の分」に換算(かんざん)した。
1(つまり、黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×24=1440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)を24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の門前を結ぶ、東経133度の経度線」は【景】の字源・原義をあらわした。
このような秘密があったゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇り、出雲10郡のうち3郡半の神主を支配していた。「お忌(い)みさん」と呼ばれた神在祭じんざいさい」(には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。
【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
〔注 これについては前回の「漢字の起源と発明を解明す・29」においても指摘した〕。
◆前述したように、益氏の先祖は「黄道の測量方法と測量装置」を発明した。
「黄道は、大きな円形となり、この大円上に一年365.25日の一日ずつの目盛り」が記される。
しかし、前述したように、「黄道の大円形における一日の目盛り」は「前日の正午から翌日の正午までを太陽が23時間56分で一周する円形の日周弧(にっしゅうこ)」をあらわす。
下図は「二分二至」、つまり「春分・夏至・秋分・冬至における太陽の日周弧図」である。
下図の「日周弧の形」は「楕円形(だえんけい)」となるが、実際には「太陽は西の地平線から没して東の地平線から昇る」ゆえ、「円形」となる。
だから、下図は「太陽が23時間56分で一周する円形」をあらわして、「黄道上の一日の目盛り」は「小さな円形」であることを示している。
下図に示すように、「天球上において太陽が一年間に通過する道」の、「一年間における黄道の形」は大円(大きな円形)となる。
また下図に示すように、「毎夜、真東から昇り、真西に没する天体部の一年間に通過する道」、つまり「天の赤道の形」も大円となる。
「黄道」は「天の赤道」に対して23度27分の傾く大円であり、「天の赤道」と二点で交わる。この交点が春分点と秋分点である。
ゆえに、下図に示す「三つの円形が重なる、三つ輪の銀河」は、「黄道」、「天の赤道」、「太陽の前日の正午から翌日の正午までの日周弧」、「夏の銀河の各部位が一周する円形となる軌道(きどう)」などに見立てられた。
また、「三つ輪の銀河において、二つの輪(円形)だけが重なる形」は、上図に示した「黄道と天の赤道の大円が交わる状況」に見立てられた。
下に示す「北アメリカ星雲とペリカン星雲」も「円形」に見立てられて、「前日の正午から翌日の正午までの太陽の一日の日周弧」に喩(たと)えられた。
というのも、「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「カワセミの巣穴の出入り口」に見立てられたからである。
カワセミは尻から巣穴を出て、素早く回転して飛び立つ。親鳥は雛(ひな)を育てるあいだ、盛んに餌運(えさはこ)びを30分間隔でおこなう。
ゆえに、「カワセミの巣穴の出入り口」に見立てれた「北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「一日の太陽の日周弧」に喩えられた。
さらに、「円形に見立てられた、北アメリカ星雲とペリカン星雲」は「一日の太陽の日周弧」はじめ「黄道」、「天の赤道」、「夏の銀河の各部位が一周する軌道」にも見立てられた。
下図に示す「はくちょう座γ(ガンマ)星周辺の円形の銀河部位」もまた、「黄道」・「天の赤道」・「太陽の一日の日周弧」、「夏の銀河の各部位が一周する軌道(きどう)」に見立てられた。
◆「夏の銀河」の東端にある「三つ輪の銀河」の西側に「北アメリカ星雲とペリカン星雲」が在り、さらに西側に「はくちょう座γ星とその周辺の円形の銀河部位」が在る。
このような「三つ輪の銀河からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西への移動」は、【昔】の字源・字義となり、「過去に向かって時間が進むこと」をあらわした。
というのも、前述したように、【景】の字源「黄道の大円上の月日の目盛り」は西から東に向かって移動するからである。
このような「黄道の大円における西から東に向かっての移動」は「未来への時間の流れ」を表示すると定められた。
ゆえに、この「西から東への移動と逆向きとなる、三つ輪の銀河からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西に向かっての移動」は「昔へもどる、時間の移動」をあらわすことになった。
これゆえ、下図の【昔(せき)】の金文形の上部における「さざ波のような形の折れ線」は「昔(過去)へもどる時間の流れ」をあらわし、下部の「円形と中心の点(黒丸)」は「三つ輪の銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「はくちょう座γ星とその周辺の円形の銀河部位」の三体合一形であったにちがいない。
『説文解字』は【昔】の字源を「日・太陽で乾(かわ)かした干(ほ)し肉の形である」と解説するが――
『魏志倭人伝』の【名門・益氏の男鹿半島・八郎潟地域の定住記事】つまり「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り」から「周旋五千余里可(ばか)り」までの文章は、
上記したように、【昔】の字源は「三つ輪の銀河から北アメリカ星雲・ペリカン星雲へ向かっての移動、さらに北アメリカ星雲からはくちょう座γ星周辺の円形の銀河部位への移動」、つまり「東から西への移動である」と示す。
下に、金文形にもとづく【道】の字源解説図を示した。
この【道】の字源銀河は【夏の銀河頭部】の「オス鹿の横顔に似る銀河」、つまり「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・北アメリカ星雲とペリカン星雲・長方形の暗黒天体部・その南となりの銀河」などである。
下に、上図の【道】の字形と異なる【道】の金文形を配した。
この【道】の異体字(いたいじ)の字源は【夏の星座】に漬(つ)かる「へびつかい座・ヘルクレス座」である。
この「へびつかい座・ヘルクレス座」は「銀河の中心方向」に近い西方に在る。
したがって、「へびつかい座とヘルクレス座」は、上図の「オス鹿の横顔に似る銀河」より西側に所在する。
ゆえに、【道】の字源における【「東方の、オス鹿の横顔に似る銀河」から「西方の、へびつかい座・ヘルクレス座」へ向かっての移動】は、【昔】の字源・字義をあらわす。
上図に示した【道】の金文の異体字の字源となる「へびつかい座・ヘルクレス座」は、
前記した「益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)への移住の歴史」を説明する「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文章に登場して、【昔】の字源・字義は「東から西への移動である」とあらわしている。
だから、『説文解字』の【昔】の字源解説「太陽・日輪の熱で乾かした干し肉である」という意見には賛成できない。
◆約2000時で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。
下図に示したように、隠岐群島でもっとも大きな島の「島後の地宜(ちぎ)」は、ほぼ「円形」である。ゆえに、「島後の地宜」は【景】の字源となる「黄道の大円」はじめ「天の赤道」、「太陽の23時間56分で一周する日周弧」、さらに「夏の銀河の各部位が一周する軌道」に見立てることができる。
他方(たほう)、「道前の知夫里島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」は、『周礼』の〔大司徒〕が解説する【景】の字説「地上千里して日景に一寸の差があるという」は「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と密接に関係する。
言いかえると、「道前の3島」は【景】の字源をあらわした「烏奴国(あなこく)・高知県の足摺岬(佐太岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県松江市の佐太神社の門前を通過する東経133度」と直接的に関係する。
下に、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の図」を配した。
前述したように、益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、下図の「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この【鳥】と名づけられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」。
〔注 後世、「北斗七星の第5星・ε星」は漢名(シナ天文学の名称)」では「衡(こう)」となった〕。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記す。
この〔国生み〕の意味は――卑弥呼の時代には、隠岐群島に小国名が無かったので、倭女王の伊耶那美命が「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島」と名づけた――を「国生み」と表現したことになる。
だから、「国生み」を「伊耶那美命が隠岐群島の島前を妊娠(にんしん)して生んだ」という定説の解釈は誤訳である。
下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
注目すべきは――「地上千里して日景色に一寸の差があるという」と説明された「【景】の字源の東経133度線、つまり「高知県の足摺岬(佐太岬)と島根県松江市の佐太神社の門前を通過する東経133度の経度線が、知夫里島(ちぶりじま)の東端と西ノ島東方を貫通している」。
再度、説明する、注目すべきは、「東経133度の経度線が、知夫里島東端と西ノ島東方を通過して」、【景】の字源をあらわしている。
『魏志倭人伝』は「小国名不明の隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。
【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」が「北斗七星と、北斗七星の第5星の【鳥】」に見立てられたことになる。
〔なお、「西ノ島」という名称は「女王の東」という文にもとづくと「東ノ島」という名称が合理となるが、「島後の西に在る」から「西ノ島」と名づけられたのであろうか?〕
下に「卑弥呼時代における夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に類似(るいじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
そして、「中ノ島」が「りゅう座α星周辺」に相当する。
『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していないということは、卑弥呼が「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前において以後においても、3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、学問的にも無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」であったので――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。
◆『魏志倭人伝』には「隠岐群島の【小国名】」が記されていない。
しかし、卑弥呼が崩じ、卑弥呼の後を男王が倭王に選ばれたが卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬儀式(じゅんそうぎしき)を国中の人民が憎悪して武器をもって倭王朝と戦った叛乱(はんらん)によって男王は失脚(しっきゃく)した。
この男王の後に、壱与・伊耶那美命が倭女王に就任した。
この壱与・伊耶那美命の時代には、『魏志倭人伝』における〔小国名無しの隠岐群島の記事〕の後に「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。云々(うんぬん)」と記述された、
卑弥呼が〔益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方について、転回日本列島地理にもとづいて立論した意見〕が問題視され波紋(はもん)をよび論争されるようになった。
このため、壱与・伊耶那美命は女王として徳(学術知識の深さ)を示すために「名無しの権兵衛(ごんべえい)の隠岐群島」に名称をつけなければならない状況となった。
これゆえ、壱与・伊耶那美命は「島前と島後」を「隠伎」と名づけて、「島前」を「三子島」と名づけた。
ゆえに、今回のブログはここまでの説明をもって中途半端(ちゅうとはんぱ)のままで終わるが――上記した「卑弥呼が主張した転回日本列島地理の意見」をあらわす記事は複雑できわめて難解であるため、
一旦(いったん)ここで立ち止まることにして、この秘密については次回のブログで詳細に解明することにした。
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