G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す・28: 卑弥呼の逆襲

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2024年9月 1日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・28

x卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴国(くなこく)は討伐されて滅亡した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・27」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて25番目の「躬臣国(こじこく)」は「現在の大阪府・兵庫県東部と兵庫県南部の淡路島」であり、「旧国でいうと、摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)と淡路島」であったと証明した。
また、対馬国から26番目の「巴利国(はりこく)」は「現在の兵庫県南西部の、旧国の播磨(はりま)」であったと証明した。
また、27番目の「支惟国(しいこく)」は「現在の広島県西部と広島県東部の一部(西方)の、旧国の安芸(あき)と備後(びんご)の西部(西方)」であったと証明した。
また、28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の高知県、旧国の土佐(とさ)」であったと証明した。
さらに、29番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であったと証明した。
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◆上図に示したように、対馬から数えて30番目国は「狗奴国(くなこく)」であった。
下図に示したように、「狗奴国」の範囲は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と広島県東部・岡山県」であり、旧国だと「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方(きびちほう)」であった。
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「狗奴国」という小国名の【狗】の字について、白川静著『字統』は字義を「いぬ()」とする。
そして、白川静著『字統』は【狗】の字について「狗鼠(くそ)、狗盗(くとう)・走狗(そうく)のようにいう」と解説する。
ゆえに、「狗奴国」の【狗】には「走狗、つまり狩猟犬(しゅりょうけん)」と意味すると共に「侮蔑(ぶべつ)の意」もこめられていたのであろう。
というのも、『魏志倭人伝』の末部に「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」という記事が存在するからである。
ゆえに、「狗奴国」という小国名には「卑弥呼王朝による侮蔑の意味」がこめられていたであろう。

下図に示すように、「小豆島の地宜」は「狗(走狗・狩猟犬)の姿」に相似する。
したがって、「小豆島」は「ジャコウウシの天敵(てんてき)のオオカミ」ではなく、「ジャコウウシを襲(おそ)う走狗(狩猟犬)」に見立てられたことになる。
ゆえに、「小豆島より北側の、岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
「走狗の群れの襲撃に気づき、ジャコウウシの群れがいる場所へと走り逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
だから、下図に示したように、「小豆島」が【狗】、「岡山県の児島半島」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、「児島湖」が「ジャコウウシの背中に食いつく走狗の姿」に見立てて、
卑弥呼は「小豆島と岡山県中心部の地宜」にもとづき「狗奴国」という小国名を考案したことになる。
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◆下図に示すように、「男性の前上側から見た骨盤口(こつばんこう)」は「狗(いぬ)の顔の形」に相似する。
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下図に示すように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」が所在する「志摩半島の地宜」は「男性の骨盤の正面形の上下を反転した形」に相似する。
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したがって、()「【倭】の字源における男性グループ」の「最初の21番目の鬼国と最終国の30番目の狗奴国」は「男性の骨盤」が共通する仕組みになっている。

いっぽう、下図に示すように、対馬国から11番目の「伊邪国(いやくに)の地宜」は「女性の骨盤の正面形」に相似すると見立てられた。
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また、下図に示すように、「女性の骨盤の正面形」は「蝶の翼を広げる成虫の姿」に相似する。
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そして、下図に示すように、対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
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ゆえに、()「【倭】の字源における女性グループ」における最初国の伊邪国と最終国の華奴蘇奴国の両国も共に「翼を広げた蝶の成虫の姿」に相似し、伊邪国の地宜では「翼を広げた蝶の成虫の姿」は「女性の骨盤の正面形」に相似する。
したがって、()「【倭】の字源における女性グループ」と,()「【倭】の字源における男性グループ」は「骨盤」が共通項となる仕組みになっている。

下図に、「男性の骨盤と女性の骨盤の形の相違」を示した。
女性の擂鉢(すりばち)のような大骨盤は妊娠時に子宮を支(ささ)えるために左右に広がり、そして男性の擂鉢のような大骨盤より浅く、骨盤口は楕円形である。
男性の擂鉢のような大骨盤は深くがっしりしており、骨盤口は狗()の顔の形に相似する。
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◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
だから、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたとき、魏軍を助けて倭軍が出兵(しゅっぺい)して共に戦う軍事同盟」を結んだからこそ――卑弥呼に与えられることになったのである。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と説明するものの、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかったにちがいない。
けれども、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌景初二年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した景初二年・238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため、魏都洛陽には少数の兵しか残っていなかったにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計(つまり、魏を倒して天下を呉と蜀の二分する)」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を躊躇(ちゅうちょ)せずに襲撃すれば魏は滅亡する可能性が大であった。
しかし、孫権は名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には、何か企(たくら)みを用意して大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない――よって、孫権が呉・蜀の連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃すると一気に窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になったのか――孫権は連合軍を待機させて一気に洛陽を攻撃しなかった。
ゆえに、孫権は天下を手に入れることができた千歳一隅(せんさいちぐう)のチャンスを逃した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう『魏志倭人伝』の末部に記述された「狗奴国(くなこく)が滅亡した様子」を解説するには、【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記の三つの銀河を、これから以後「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における天の北極と春分点の位置を求めて――「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)していることになる。
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上記したように、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆呉の孫権が「大帝」と称して黄帝に即位した229(黄竜元年)ごろは、魏の曹操(そうそう)と『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の立役者の劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)や絶世の美女・甄氏(けんし)を略奪(りゃくだつ)して皇后とした魏の曹丕(そうひ)こと文帝(ぶんてい)などはすでに亡くなっていた。
残っていたのは、『三国志演義』においての若い立役者の蜀の名補佐役の諸葛孔明(しょかつこうめい)と、15歳で呉の頭領となった孫権(そんけん)であった。

漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)(220)であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、上記したように――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していた。

魏におくれること一年、呉に先んじること一年にして帝位についた蜀の劉備(りゅうび)は、その最初の元号を「章武(しょうぶ)」とした。
この蜀の元号には「黄」の文字が見えない。というのも、蜀は自国こそ「漢」であると称したので、「漢」は赤の火徳を示すものであったため、「黄」の文字を元号に用いなかった。
だから、蜀の国号の正式名は「漢」もしくは「蜀漢」であるが、わが国では「蜀」のほうが馴染(なじ)み深い。

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年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、まず最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、「天下二分の軍事同盟」は結ばれて、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて、元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227年以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆前述したように、燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。
呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であり、当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていたため、呉との軍事同盟が露見(ろけん)すると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされると心配したからと推測(すいそく)されるからである。
230(黄竜二年)、〔公孫淵が呉との同盟を拒否したのは燕の背後倭人国の脅威を心配したが原因〕と察知した孫権は、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の徐福(じょふく)の子孫が治める東鯷人国(とうていじんこく)のおける夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
この東鯷人遠征については、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部にある東鯷人国記事に登場する、定期的に呉の会稽(かいけい)に到着して交易(こうえき)をしていた東鯷人国の人民たちが偶々(たまたま)察知して、いち早く帰国して東鯷人国王に報告したようである。

呉の黄竜二年・230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、わずか二万の呉の水軍は約40倍の八〇万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な勝利をおさめた。
この一万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国にめざして、呉の黄竜二年・230年に遠征が決行された。
赤壁の戦いで二万の呉軍は八〇万の魏の大軍を撃破したゆえ、魏の四〇万の兵に匹敵(ひってき)する一万の東鯷人国遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて――東鯷人国王は東鯷人国が倭の属国(ぞっこく)になることを決意して、倭女王の卑弥呼に倭から防衛軍の派遣(はけん)を要請(ようせい)した。
かくして、倭人国が背後の脅威となる東鯷人国が呉に占領されるのを防(ふせ)ぐために倭から防衛軍が派遣されることになり、黄竜二年・230年直後の、多分233年頃に東鯷人国は滅び、代わって新たに「日本」という小国が誕生した。
そして、小国・日本防衛軍の女王に、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」と記された「卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)の代表者の十三歳の壱与」が選ばれた。
また、日本軍防衛軍の大将の軍王(いくさのおおきみ)に、『魏志倭人伝』な末部に登場する18歳の載斯烏越(そしあお)が就任(しゅうにん)した。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」で指摘したように――
「壱与」は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話(せいこんせつわ)〕に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、「載斯烏越」は「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であった。

呉の一万の東鯷人国遠征軍は【台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)】し、遠征は大失敗した。遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。
しかし、卑弥呼王朝はじめ東鯷人国王や日本国防衛軍は呉の水軍は再度遠征するにちがいないと考えたため、小国・日本における防衛は十余年も続けられた。

◆上記した小国・日本の防衛軍の女王に選ばれた壱与は――『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇(かいかてんのう)の正妃せいひ」の「丹波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)」であった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」で解説し証明したように、「伊邪国は、旧国の丹波」であった。
ゆえに、「伊邪国・丹波出身の竹野比売」は「【伊邪(伊耶)国】の【那(桃の花)】のように美しい女王」と讃(たた)えられて「伊耶那美命」と人民たちに愛称されたことになる。
『古事記』中巻の第9代開化天皇の冒頭は「春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで、天下を治めた」と記す。
したがって、「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」の先頭2字は共に「伊耶」で同じであるゆえ、「伊耶河宮に住んだ開化天皇」は「伊耶那美命の夫」と人民たちに愛されて「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と呼ばれた。
だから、夏音名(夏音文字の名前)が載斯烏越(そしあお)は「伊耶那岐命」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』に登場する「壱与」が「伊耶那美命」、「載斯烏越」が「伊耶那岐命」であったという証明は、このブログの前にて紹介したわが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

そして、『古事記』上巻に登場する「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)と崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))であったと考えられる。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀には「天皇は天照大御神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱(にはしら)の神を、天皇の居所の中に祭った。しかし、倭大国魂神を祀る渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は身体が痩(やせ)せ細って倭大国魂神を祀ることができなかった」と説明する記事が示しているように――「天照大御神を崇(あが)め祭った崇神天皇」は人民たちに「天照大御神」という異名で呼ばれたことになったのである。
「崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫が箸墓(はしはか)古墳に葬られたのは、小さな蛇(へび)が正体の大物主神の妻になったときに箸(はし)が陰部(いんぶ)につきささって死去されたからである」と説明する奇怪な記事をもって、『日本書紀』編纂スタッフは「天皇家(朝廷)が至上神として尊ぶ天照大御神は倭迹迹日百襲姫命であった」と伝えようとしていたと考えられる。
倭迹迹日百襲姫命は開化天皇の第二后として結婚しているが、開化天皇・伊耶那岐命に離縁されたために「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。
開化天皇と結婚したときの崇神天皇の母親(倭迹迹日百襲姫命)の名は「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」であった。
したがって、伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は、開化天皇・伊耶那岐命の継母であった。
伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇(こうげんてんのう)と結婚して、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。この比古布都押之信命は崇神天皇であった。
『古事記』中巻は「伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)を生んだ」と説明しているが――御真木入日子印恵命は崇神天皇であったゆえ、実際は開化天皇の養子であった。
「養父と養子の縁(えん)を結ぶ」を、上古では「生んだ」と表現したのであろう。
開化天皇は崇神天皇の実父ではなく、異母兄であった。
竹野比売・伊耶那美命が開化天皇・伊耶那岐命と結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)が、『古事記』上巻に登場する英雄・須佐之男命(すさのおのみこと)である。

234年、呉との天下二分の盟約(めいやく)を結ぶ蜀の軍は、魏を討()つために北へ進んだ。
この北伐(ほくばつ)の途上(とじょう)、諸葛孔明は秋風吹く五丈原(ごじょうげん)で病死した。享年(きょうねん)54歳であった。
孔明の死から二年前の2323月、再度、呉の孫権は将軍周賀(しゅうが)と校尉裴潜(こういせんすい)を燕への使者に任命した。今度は、この使者の要求を公孫淵は受け入れた。裴潜は、公孫淵の上表文(じょうひょうぶん)を持って無事に帰国した。孫権は、公孫淵を「燕王」に封(ほう)じるとともに使持節(しじせつ)という資格をも与えた。
しかし、将軍の周賀の配下たちは山東半島で魏に捕らえられた。このため、呉と燕が同盟を結ぶ計画は魏に事前に漏()れていた。
この燕の公孫淵が呉の孫権と結ぶ気配(けはい)を見せたことは、魏にとって心配がたえない脅威(きょうい)となった。
この(232年、翌233)頃から、魏は倭人国との国交に積極的に努力したと考えられる。
『魏志倭人伝』に記述されているように、倭は233年から5年後の238年に、難升米(なしめ)一行を魏都へ派遣し、卑弥呼の「親魏倭王」の爵位(しゃくい)と金印授与の約束をとりつけている。このような大々的な外交にさきがけて、魏と倭とのあいだになんらかの秘密の接触(せっしょく)が当然(とうぜん)あったと考えるべきであろう。なんの準備もなく、唐突(とうとつ)に魏が卑弥呼に「親魏倭王」を任命し金印紫綬(きんいんしじゅ)を授(さず)けたのは、どう考えても理屈(りくつ)にあわない。
公孫淵が信用できなくなったとき(232年、233)頃から、魏は燕の背後の脅威となる倭と外交を結ぼうと決意して着手したにちがいない。

前述したように、237(魏の景初元年)の夏、魏の公孫淵討伐は幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者となって開始された。毌丘倹の公孫淵討伐は失敗した。
238(景初二年)、孔明と五丈原で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が、公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり、4万の歩兵と騎兵を率いて春、首都洛陽を出発した。
途中、毌丘倹の軍と合流し、倭の使節・難升米一行が帯方郡(たいほうぐん)に到着した6月には、司馬懿の軍は遼東(りょうとう)に到着した。
一方、魏の明帝はあらたに劉昕(りゅうきん)を楽浪太守(らくろうたいしゅ)に任じて、海から朝鮮半島に送りこんだ。
このように、魏の大軍に挟(はさ)み撃()ちされた公孫淵は、襄平城外(じょうへいじょうがい)で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

司馬懿が公孫淵を討伐して魏都洛陽に凱旋(がいせん)したのは、239(景初三年)正月であった。
この時、明帝は危篤状態(きとくじょうたい)であった。司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間()に合った。
明帝には子が無かったので、8歳の曹芳(そうほう)を養子とし斉王(さいおう)とした。この斉王を補佐する役を、明帝は司馬懿と曹一族を代表する曹爽(そうそう)に託(たく)した。
240年の魏の元号は、「正始(せいし)」と定められた。

◆『魏志倭人伝』は「正始元年(240)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)一行を倭国に派遣し、明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の爵位を授けると約束した詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)をもたせて倭国にゆかせた。そして、帯方郡の使節一行は、倭王に拝仮(はいか)して、明帝が約束した詔書をさしだした」と説明する。つまり、この240年の記事は「倭女王」ではなく、「倭王」と記す。
ゆえに、239(景初三年)240(正始元年)、つまり帯方郡の使節一行がいまだ倭国に到着していなかった240年において、卑弥呼はすでに没していたのであろう。
これゆえ、卑弥呼に代わって倭王(男の大王)が帯方郡の使節一行に面会した。
本来ならば、明帝が約束した詔書と印綬は卑弥呼にさしだししなければならなかったゆえ、『魏志倭人伝』は「拝仮(はいか)」、つまり「仮(かり)に拝謁(はいえつ)することにした」と記述することになったのであろう。

『魏志倭人伝』は「243(正始四年)、倭王はまた大夫(だいふ)の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)などの八人の使節を派遣した。(中略)。魏王朝は掖邪狗らに率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬を与えた。」と説明する。
また、『魏志倭人伝』は「245(正始六年)、魏の斉王は詔(しょう)を下して、倭の難升米(なしめ)に魏の軍旗(ぐんき)の黄幢(こうどう)を与えることにし、帯方郡に託(たく)して仮授(かじゅ・仮に授けることに)した。」と記述する。

『魏志倭人伝』には記述されていないが――246(正始七年)には、馬韓(ばかん)の臣濆沽国(しんふんここく)の首長(しゅちょう)を中心とする勢力が帯方郡の軍事基地を攻撃し、この叛乱(はんらん)で帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死した。
だから、倭は魏との盟約にもとづいて出兵しなければならなかったが――239年頃の卑弥呼の死から間もなくして狗奴国(くなこく)が戦争を仕掛(しか)けてきたため、この内戦をおさめるために倭は韓に軍を派遣(はけん)することができなかった。
韓の叛乱は楽浪郡からの水軍の応援によって、韓の軍は敗北して鎮圧(ちんあつ)された。

◆それゆえ、『魏志倭人伝』は「247(正始八年)、帯方郡太守に王頎(おうき)が着任した」と記す。
この247年の記事はさらに続き、「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった。(それゆえ、卑弥呼の死後間もなくして狗奴国が倭国を攻撃してきたので、魏との盟約(めいやく)をまもれず、韓に軍兵を派遣できなかった)
ゆえに、倭は載斯烏越(小国・日本の軍王の伊耶那岐命)を帯方郡に派遣して、倭と狗奴国との相攻撃(あいこうげき)する様子を報告して、魏との盟約(めいやく)をまもれなかった事情を弁護することにした。
そこで、帯方郡太守は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせ)たちを派遣し、彼らに前年(245)の斉王の詔書と黄幢を託(たく)して難升米に拝仮した。
帯方郡の使者の張政は(「燕・諸韓国における平和を維持(いじ)するためには、倭の狗奴国を滅亡させなければならない」と説く)(げき・軍書)を作って、倭女王・壱与(伊耶那美命)を説得(せっとく)した。
(
しかし、【愛】の女王の壱与・伊耶那美命は「狗奴国の男王とは話し合いによって戦いを鎮(しず)める」と主張して、張政の檄による告喩(こくゆ・説得)に応じなかった。

上の記事に登場する「倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王は素より不和であった」という事情は――、
狗奴国の男王は「現在と夏代黎明期における東の地平線に昇る【夏の銀河の形状】は同じである。だから、名門益氏の王子と若者たちがもたらした帝禹(ていう)の遺志である国家を作らないようにして、氏族共同政治体制を依然(いぜん)として維持すべきだ」と主張したのであろう。
この意見に対して、卑弥呼は「現在と夏代黎明期における東の地平線から昇る【夏の銀河の形状】は相似するがまったく同じではない。ゆえに、現在は新しい政治体制がどうしても必要である。依然として国家を作らない旧政治体制のままだと、いずれ中国の魏や呉に占領されるにちがいない」と反論したと考えられる。
このような事情であったゆえ、壱与・伊耶那美命は張政の檄の告喩に応じず――狗奴国の男王との対立・争いは話し合いで平和的に解決できると考えたのであろう。
しかし、魏との同盟は軍事同盟であった。
ゆえに、夫の載斯烏越・伊耶那岐命はじめ天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と倭王朝の面々は――張政の檄(げき・軍書)の告喩にしたがって狗奴国を討伐(とうばつ)して滅亡させるしかない。話し合いによる解決は魏との同盟を無視することになる。だから、魏を裏切(うらぎ)り敵にまわすことになる。そうなると、むしろわが国は大いに乱れて人心が動揺(どうよう)し漂(ただよ)える状況が一層(いっそう)ひどくなり収拾(しゅうしゅう)がまったくつかない事態となる――と、主張して壱与・伊耶那美命の意見に猛反対したにちがいない。
このため、倭王朝は強引に伊耶那岐命の第二后の天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を壱与の代理に就任させた。

これゆえ、『魏志倭人伝』の末部は下記のごとく説明している。
――張政らは、再度、激(軍書)を作って壱与、つまり壱与・伊耶那美命の代理に就任した天照大御神・伊迦賀色許売命を告喩・説得した。
かくして伊迦賀色許売命は張政が作った檄の告諭にしたがったために、狗奴国討伐は開始され、狗奴国は日本・倭連合軍によって滅亡した。
つまり、狗奴国討伐は小国・日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命が最高責任者となり、邪馬国(やまくに・大和)の崇神天皇・天照大御神の軍の活躍によって討伐されて滅亡した。
その後、壱与(の代理の天照大御神・伊迦賀色許売命)は、倭の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)たち二十人を帯方郡に派遣し、帯方郡の使節の張政らを帰還させた。
この倭の使節の掖邪狗一行は帯方郡を出発して魏都洛陽に到着した。
このような記事をもって、『魏志倭人伝』の記事は終わっている。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の説話は、下記のごとく説明する。
――小国・日本の女王に就任した伊耶那美命と夫の伊耶那岐命は、小国・日本の建国理念を【愛】と定めた。
ところが、『魏志倭人伝』に記述されているように――卑弥呼が死去して卑弥呼を葬る陵墓を築造する時、卑弥呼の後を受け継いだ男王が百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を決行した。この循葬儀式を人民たちは残酷すぎると否定・憎悪して武器をもって倭王朝を攻撃する叛乱が国中に広がった。
この国中の叛乱は「伊耶那美命と伊耶那岐命が日本建国理念を【愛】にしたが原因である」と倭王朝は立腹(りっぷく)・非難し、さらに倭王朝は「伊耶那美命と伊耶那岐命に小国・日本を与える」という約束を反故(ほご)にして、伊耶那美命を倭女王に就任させて「国中の叛乱を鎮(しず)めよ」と欲求した。
このような次第(しだい)で、【愛】の女王・伊耶那美命が倭女王に就任すると、国中の人民たちは伊耶那美命ならば必ず徇葬を否定して廃絶(はいぜつ)するにちがいないと信頼して武器を捨てた。ゆえに、国中は遂(つい)に平定された。
しかし、このような混乱状態に乗(じょう)じて狗奴国が倭国に戦争を仕掛(しか)けてきた。
このため、倭王朝は「狗奴国の反乱もまた壱与・伊耶那美命と載斯烏越・伊耶那岐命が小国・日本の建国理念を【愛】と定めたが原因で起きた」と責任を押しつけて――二人に狗奴国の反乱を鎮圧(ちんあつ)する最高責任者に就任させた。

小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命は狗奴国討伐の最高責任者(総大将)として狗奴国討伐を指揮したが――狗奴国滅亡の酷(ひど)い惨状(さんじょう)を目にして後悔し、愛妻・伊耶那美命の主張が正しかったと、倭王朝に怒りをぶつけて反抗(はんこう)した。
この倭王朝への反抗が原因で、狗奴国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の功績ではなくなり、開化天皇の祖父・孝霊天皇(こうれいてんのう)の事績(じせき)とされた。
孝霊天皇は、卑弥呼の後を継()いだ倭王、つまり百余人の奴婢を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬を決行した大王であったと考えられる。

ゆえに、『古事記』中巻の孝霊天皇紀は、狗奴国滅亡について下記のごとく説明する。
「大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は、二人連()れ立って、播磨国(はりまのくに)の氷河(ひかわ)の岬に斎()み清めた酒甕(さかがめ)を据()えて播磨国を吉備国(きびのくに)に入る入口として吉備国を平定なさった。」
前述したように、「狗奴国」は「吉備地方」であった。
巴利国(はりこく)・播磨の西となりは「狗奴国」であった。ゆえに、「播磨国は吉備国・狗奴国に入る入口」となる。
だから、上の記事は「狗奴国討伐と狗奴国の滅亡」を説明していたことになる。

大和朝廷が栄えた基礎は、天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)によって築かれたとされる。ということは、狗奴国(吉備国)討伐の戦いにおいて、邪馬国(やまくに)・大和の軍は大活躍したが原因で、一気に軍事力が増大したからにちがいない。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀における「四道将軍」の冒頭記事は、下記のごとくである。
「崇神天皇十年九月九日に、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に遣(つか)わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣わし、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わした。そして詔(しょう)して『もしも教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と仰(おお)せられた。」
この四道将軍の一人は「吉備津彦」である。ゆえに、上記した『古事記』孝霊天皇紀に登場した「大彦命」は「大吉備津日子命」と同一人物であり、四道将軍の「吉備津彦」は「若建吉備津日子命」と同一人物であったであったにちがいない。
したがって、「四道将軍」は狗奴国・吉備地方の討伐において大活躍した。
ゆえに、邪馬国・大和の崇神天皇・天照大御神の軍事力は、狗奴国・吉備地方討伐以後に一気に増大したと考えるべきことになる。

◆『万葉集』13番の題名は「中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)の大和三山の和歌」である。
この「中大兄皇子、後の天智天皇が皇太子時代に作った大和三山の歌」は、下記のごとくである。
「香具山(かぐやま)は、畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
上記の和歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「帯方郡の使者の張政が軍書の檄をもって告諭・説得したが、天の香具山に象徴される壱与・伊耶那美命は狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を強く望んだ。しかし、畝傍山に象徴される夫の伊耶那岐命・載斯烏越と耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は、あくまでも狗奴国は武力をもって壊滅(かいめつ)させるべきだと主張して頑(がん)としてゆずらなかった。それゆえ、伊耶那美命は、夫は雄男しすぎると嘆(なげ)いた。このように、神代の伊耶那美命と天照大御神は自分の意見を夫の伊耶那岐命に従わせようとして争った。昔がからそうであったように、男女の仲の争いは、昔も今も絶えない。」

『万葉集』14番は、13番の反歌(はんか)である。
『万葉集』14番は、下記のごとくである。
「香具山と 耳成山と あひし時 立ちに見()に来し 印南国原(いなみくにはら)
上記の短歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「香具山に象徴される伊耶那美命・竹野比売(たかのひめ)は狗奴国とは話し合いで平和的に解決すべしと主張し、耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は狗奴国を壊滅すべきと主張して争ったとき、この状況を心配した阿菩大神(あぼのおおかみ)つまり卑弥呼の死霊が見に来たという伝説で有名な印南国原が、いま、眼前に見える!」

上記の13番の長歌と14番の短歌は、661(斉明天皇七年)、天皇は船団を組んで、新羅(しらぎ)と唐と争う百済(くだら)の要請(ようせい)を受けて朝鮮半島遠征を決意し、九州へと向かった。この船団が印南国原(印南野・播磨平野の東方の兵庫県加古川市周辺の平野部)が見える播磨灘(はりまなだ)を通過する時に、中大兄皇子が作ったとされる。
このように、中大兄皇子は『魏志倭人伝』の末部に記される狗奴国討伐に記された「張政が檄を二度も作った事情」を題材(だいざい)にして和歌を作っている。

中大兄皇子の実父・舒明天皇(じょめいてんのう)も、『万葉集』5番の「舒明天皇が讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」と題する長歌を作って――小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命が狗奴国討伐の最高責任者となって讃岐国の飯(いい)ノ山に陣取って指揮したと詠()む長歌を作っている。

◆これ以上、『古事記』と『日本書紀』に記述された壱与・竹野比売(たかのひめ)・伊耶那美命と載斯烏越・開化天皇・伊耶那岐命と天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)について解説しないことにする。
というのも、このブログの作成目的は『魏志倭人伝』の記事について具体的に容易に理解できるように詳細に解説して合理・科学が成立するように証明することであるからである。
ゆえに、これ以上、『古事記』と『日本書紀』に深入(ふかい)りしないことにした。
これまでの解説で納得・満足できない人、あるいは疑いを抱く人は、是非とも前ページで指摘したように、わが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)を読んでいただきたい。
この拙著には伊耶那美命・伊耶那岐命・天照大御神について、そして小国・日本の建国理念が【愛】であった歴史について詳細に解説して証明した。

このブログまでをもって、卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りが存在せず、すべて合理で統一されていて科学が成立して正確であることを証明した。
邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記される方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されて科学が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の産物であり、最初の立論段階から空想・空理空論であったことが明白となる。

今から約300年前、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・1657年―1725)は『古史通或問(こしつうつうわくもん)を著作して【邪馬台国大和説】を立論し、その後に『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他を著作して【邪馬台国筑後山門説(ちくごやまとせつ)】を主張した。
邪馬台国説学者たちは、卑弥呼が倭人国の首都として住んだ王国名は「邪馬台国であった」と主張して、白石の意見にしたがって――「邪馬台国」の「邪馬」は「大和」の「やま」であり、また「山門」の「山(やま)」であると思い込んでいる。
しかし、このブログが証明したように「邪馬」の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であるゆえ、「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情にそっくりの、出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)であった」。
また、『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した王国名を「邪馬壱国(やまいこく)」と明記する。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
だから、即刻(そっこく)、白石以来300年間も学者たちが継承(けいしょう)する「邪馬台国説は完全に空理空論であった」と断定すべきことになる。

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