G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2024年10月

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2024年10月

2024年10月28日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・36

始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史について説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって、
詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、
益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に居住したと伝えている。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸したであろう。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」であったのではないかと推定される。

注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が夏音文字(かおんもじ)の【奴()】の字源・字義をあらわすことであった。
というのも、今から約4000年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)の両手の形や両脇(りょうわき)の形はいわゆる「C字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は、「今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図に示すように、倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の時代、()「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右手(西の手)」と、()「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵(こうていりょう・黄帝の廟と墓)の天頂にめぐってきた。
また、当時、()「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右足(西の足)」と、()「十字の銀河の子宮中央」が長江口(ちょうこうこう・長江の河口中央)の天頂にめぐってきた。
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上図の「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3535)が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、
下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。
下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。
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下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。
下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。
「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。
【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字(最初の文字)である。
ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。
【女偏】に【又】が加わる【奴()】の夏音文字(かおんもじ)は【又】と同義とあって「右手」を意味した。
したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河(右手)と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲(渦巻き)」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は【奴()】の字について、下記のごとく解説する。
「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷(どれい)とする。『説文解字』は――奴婢(ぬひ)、みな古の辠(ざい・罪)人なり――とする。」
上記の【奴()】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴(な。ぬ)】の字源・原義を失った、後世(周代初頭以後)の転義であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が15回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、
白川静著『字統』や『説文解字』が【奴()】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。
だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前2050年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、
「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、
「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕(たがや)すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する18歳くらいの青年」を意味した。
ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬(ほうむ)る墓に循(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳(ひとみ)がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲(いけいえ)に選ばれたのである。

また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。
また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」にて詳細に解説したように、
対馬国(つしまこく)から数えて16番目の姐奴国(つなこく)18番目の蘇奴国(さなこく)20番目の華奴蘇奴国(かなさなこく)などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴()】の字源解説と異なり、
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

上記の4つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。
前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。
また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約4000年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)が共通する、土偶の両手と両脇(りょうわき)の「C字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。

以上のごとく、「後期縄文時代に作られた5基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な3点の事柄を表現することになった。
(
)「強大な力を有する聖獣(せいじゅう)の、ジャコウウシ」
(
)「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手(西の手)と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部

(C)「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】

◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。
白川静著『字統』は【倭】の字について「委()は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。
下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被(かぶ)りものを飾(かざ)るように観える、十字の銀河の図」である。
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上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、
下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。
このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。
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前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた5基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯40度」である。
下図に、今から約4000年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。
下図に示した「+赤緯40度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎(北緯40)の天頂」にめぐってきた。
また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手(西の手)と脇腹(わきばら)」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯37度の土地の天頂にめぐってきた。
そして、下図が示すように、当時(後期縄文時代初頭)、「十字の銀河の胸部と左手(東の手)の銀河部」が黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した。
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下に、群馬県の吾妻郡(あがつまぐん)吾妻町の郷原遺跡(ごうばら)遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。
下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被(かぶ)る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。
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下図に示したように、「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、
「男鹿半島端の入道崎から以北のC字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹(わきばら)C字形」に造形された。
「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。
この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。
だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。
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ハート形土偶が出土した郷原遺跡(郷原集落)は、北緯3634分である。
下図は、約4000年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。
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〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術 第1巻 原史美術』(小学館発行)は下記のごとく指摘する。
「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもC字形曲線によっているという点である。つまり、体側(たいそく)はC字形と逆C字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」
下図に、上記の指摘を図示した。
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下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。
注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫()られていることである。
だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、
「黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵(北緯3535)の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。
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ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は
「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵の天頂の位置」と
「現在(つまり、後期縄文初頭)の郷原集落の天頂の位置」を表示して、
【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。
当時の縄文人たちにとって、【精確(せいかく)な天頂緯度の測定】は【命(いのち)】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。
だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代(中期縄文初頭)と現在(後期縄文時代初頭)()北緯40(益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏)と、()ハート形土偶が出土した郷原集落と、()黄帝陵の天頂緯度を表示する機能(役割)がそなわっていたと考えられる。
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◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、
名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏(ほとり)を本拠地にして、
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】などを教えひろめたために、
各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。
このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、
上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、
「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のC字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。

◆下図における左図は、千葉県銚子市(ちょうしし)に所在する余山貝塚(よやまかいづか・北緯3545)から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。
下図の右図は、埼玉県岩槻市(いわつきし)の真福寺貝塚(しんぷくじかいづか・北緯3556)から出土した「みみずく土偶」の図である。
両土偶の両脇はハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。
「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。
ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。
このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。
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下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡(かめがおかいせき・北緯4053)から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の図を配した。
顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。
この土偶の円環状(えんかんじょう)の枠取(わくど)りをほどこし、その中のレンズ状曲面に1本の沈線(ちんせん)を刻んだ目は「光を遮断(しゃだん)するもの」と見立てられた。
ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。
この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径(どうこうけい)を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。
この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。
下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形されている。
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上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。

◆下図は、長野県茅野市(ちのし)の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。
「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。
仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯36度の長野県茅野市の中ッ原遺跡(なかっぱらせき)から出土した。
仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様にC字形と逆C字形に造形される。
さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。
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この女神の仮面には1枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断(しゃだん)して瞳孔径を最大(mm~8mm)に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。

「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。
この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」を包囲する。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、
黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、〔虞()〕の要職に就()くことを命令された」と記述する。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖(しそ)」の帝禹(ていう)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の要職(ようしょく)に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。

したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、
「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。
上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、
益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。

「虎」といえば、前ページでも指摘したように、
夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。

また、夏音文字【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
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上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。
危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、
【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。

下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。
黄帝陵は北緯3535分である。
黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生(ぐんせい)していた。
したがって、黄帝時代、冬になると北緯3535分より以北の黄土高原は凍土地帯(とうどちたい・ツンドラ地帯)になって、ジャコウウシは群生していたことになる。
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それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯3634分、
後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯3545分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯3556分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯36度であるゆえ、
これら4基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原(ツンドラ地帯)の緯度とほぼ同じであったことになる。
だから、これら4基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。
これら4基の土偶からして、北緯4053分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。

◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市(いしまきし)から阿武隈川(あぶくまがわ)の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視(ぎょうし)していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。
ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。
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下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。
ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
したがって、下図に示したように、
(
)「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、
(
)「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
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その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市(しおがまし)に所在する島の名は「寒風沢島(さぶさわじま)」、
男鹿半島の根元にある成層火山(せいそうかざん)の名は「寒風山(かんぷうざん)」であり、
両者は「寒風」の2字が合致する。
火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風(れっぷう)なかで完全にからだを保護して-70℃の酷寒(こっかん)にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色(あんかっしょく)の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛(ぼうぎょもう)でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。
したがって、「寒風沢島」という名も「-70℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。

では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。
卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立(ていりつ)して覇権(はけん)を争った状況は「中原(ちゅうげん)に鹿を逐()う」と表現された。
つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。
司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益(ていえき)は故・帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に争わずに譲(ゆず)った」と記述されている。
この「帝益の戦争で決めずに禅譲(ぜんじょう)した事績(じせき)」を表現した名称が、
「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。
オスの鹿が争うとき、角(つの)の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定(さだめ)て争わない。
ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競(きそ)われた」と伝えられることになった。
その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。
ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。
以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、3世紀の三国時代(卑弥呼時代)以後に成立したと考えられる。

前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、
2200年後の卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)において、
『魏志倭人伝』における34の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度(ひんど)が最多になったのであろう。
『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と10ヵ国存在して、最多である。
また、そのうちの2ヵ国は「奴国」という同名である。
上記したように、後期縄文時代、()「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と()「男鹿半島」の2ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が2国存在することになったのであろう。

◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」は北緯4130分~北緯42度に位置する。
下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端(大間町)」は北緯4130分である。
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ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。
下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島(つがるはんとう)「の西部にある「十三湖(じゅうさんこ)」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。
ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島(なつどまりはんとう)は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。
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下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯4130分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。
「陸奥湾(むつわん)」は「女性の骨盤(こつばん)」に見立てられた。
倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛(まも)る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。
だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱()】の字源・字義をあらわした。
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上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬(やま)」という語をあらわした。
というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。
ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。
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下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨(とうちょうこつ)にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門(だいせんもん)」もまた、「邪馬」とよばれた。
出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。
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「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪(なな)め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径(しゅういけい)で骨盤入口を通過する」。
今日の産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気(けなげ)な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命(いのち)】の尊厳(そんげん)をあらわす光景である。
だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。

以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。
だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊(死霊)が棲む地】となって結縄(けつじょう)・書契(しょけい)・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。
その証拠に、712年1月28日に成立した〔古事記上巻 并(あわ)せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。
この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。

◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国(つしまこく)に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(いちだいこく)に至る」という記事がある。
上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。

下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
そして、「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ)」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対(いっつい)になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。
「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。
下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱()】の字源をあらわした。
これゆえ、「一大国」は「【壱()】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐(わか)れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。
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下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。
上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。
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だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石(あらいはくせき)以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。
「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。
白石以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和(やまと)」の「やま」や「山門(やまと)の「山」である。

「邪馬」は「子宮から堅(かた)い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。
いっぽう、「邪馬臺()国」の【臺()】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台(うてな)」のあいだには関連性はまったくない。
だから、「邪馬」と【臺()】は結ぶつくことができないゆえ、本来(ほんらい)、「邪馬臺()国」という語は不条理(ふじょうり)きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。

以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消(まっしょう)することができない。
「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。
白石以来の約300年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。
だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合(ふつごう)な記事を抹消し無視する独断(どくだん)と偏見(へんけん)であったことになる。

前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。
「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯3535分である。
だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。

日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯3535分あたりとなる。
ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳(はしはかこふん)や纏向遺跡(まきむくいせき)が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯3535分ではないことが一目でわかる。
同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。
この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。

◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文章である。
この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後(どんづまり)は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。
そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。

前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後(どんづまり)」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。
また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国(壱岐)」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、
「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。
だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。

以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「白石以来300年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。

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2024年10月15日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・35

柿本人麻呂の軽皇子の成年式を詠む和歌の秘密の解明

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬()かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す・32」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国(つしまこく)と一大国(いちだいこく)の「北・南」の一例のみは特殊で現在方位と同じであるが――末盧国(まつろくに)から黒歯国(こくしこく)までの32の小国記事におけるすべての方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理となり、1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理】が成立してすべて正確であると証明した。

また、『魏志倭人伝』にある「其の道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」という記事は、
下図に示すように、【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】ならば「中国の会稽と東治の東」に存在するが、
新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説のごとく【現在方位】に則る意見だと、「日本列島地図は中国の会稽と東治の東北に存在」して矛盾し不合理となる。
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このように、『魏志倭人伝』の対馬国の北・一大国の南の一例を除く、全方位記事は【倭】の字源に合致して合理・正確であると証明されて【科学】が成立する。

他方(たほう)、新井白石以来の邪馬台国説畿内説と邪馬台国九州説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。
ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と指摘して、自説はあくまで正しく『魏志倭人伝』に誤り・欠点があると主張する。

上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理になるように統一されているため、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆下記の和歌は、『万葉集(まんようしゅう)』巻一・48番は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が作った有名な短歌である。

(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
万葉仮名の原文は――東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡――である。
〔上記の短歌を現代語に訳すると――東の野に炎(かぎろひ)が立つのが見えて、ふりかえって見ると、月は西に傾いていた――となる〕。

この短歌にて詠()まれる「東」は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」だと「南」となり、「月西渡(月かたぶきぬ)」の「西」は「北」となる。
しかし、上記の人麻呂が詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」は現在方位と同じ「東」であり、また「西」も現在方位は現在方位と同じ「西」と解釈しなければならない。

上記した『万葉集』巻一・48番の短歌は691(持統天皇6年)かあるいは翌692(持統天皇7年)に作られたと考えられる。
したがって、702(大宝2年)に中国に派遣された第7回遣唐使によって、国号が「倭(倭人国)」から「日本」へ改名されたゆえ、691年・692年当時の国号は「倭」であった。
また、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
691
年・692年当時は、738年に45代・聖武天皇(しょうむてんのう)によって全国に国郡の地図作成の命令が下されて、卑弥呼が立論した「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と定めた「転回日本列島地理」が改定されない以前であった。
ゆえに、691年・692年当時において、人麻呂はなにゆえ【倭】の字源を用いずに、「東」を「東」と名づけ、「西」を「西」を名づけたのであろうか。

この『万葉集』巻一・48番の和歌は、【軽皇子(かるのみこ)の成年式を祝う和歌】であった。
だから、人麻呂は【成年式を祝う和歌】において、「【倉頡の文字作成理論】における【高等学校級の学識】を示して――「東」は現在方位と同じく「東」と称し、「西」は現在方位と同じく「西」と称することにしたのである。
つまり、『万葉集』巻一・48番の短歌は「成年式を祝う和歌」であったため――人麻呂は「いまだ軽皇子は皇位に就()いた天子」ではないゆえ、【天子の徳(学識)】をあらわす【最高級の大学学識】 

の【倭】の字源「転回方位規定」を用いずに、【成年式にふさわしい、高等学校級の学識】を用いて現在方位と同じく「東」と「西」と表現することにしたのである。
これゆえ、人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」と「西」の用法は正しいことになる。

◆前記した柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌に詠まれた光景は、具体的に何年何月何日の何時何分の出来事(できごと)であったかをつきとめようとした人物が二人いる。
この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』53号で、わたくしは知った。
これは、大和(おおわ)岩雄著「柿本人麻呂の安騎野(あきの)の歌をめぐって」で説明され、その概要は次のごとくである。

――画家の中山正美氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂作の曙(あけぼの)の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統(じとう)6年1117日午前5時55分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉の旅()』にかかげる写真のため、彼の友人・伊藤銀造氏が冬の阿騎の野へ数年がかりで通われて、ついに昭和361224日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間(しゅんかん)を撮影することに成功した。そして、この1224日は、旧暦(太陰暦)に換算すると中山氏と同じ1117日になる。 
この歌は「軽皇子(かるのみこ)の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)のうちの一つである。前の二人の調査を理由として、坂下圭八氏は、この歌の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいない」と考える。
また、この歌は、持統6年春の天皇の伊勢行幸(いせぎょうこう)に関連する歌群と、持統8年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統6年か7年の冬の作歌と推定されている。

結局、『万葉集』巻一の48番の短歌は、691(持統6年)か翌692(持統7年)の冬至の午前6時頃の光景を詠む歌ということになる。
下図に示す〔歳差状況図(さいさじょうきょうず・天の北極の位置図)〕に利用すると、691年・692年の天の北極と春分点を再現することができる。
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上図が示すように、天の北極の位置は25,800年で円形360度を一周して、もとの位置に戻(もど)る。
ゆえに、25,800年÷360度=71.666666年となる。
つまり、【天の北極は、約71.67年に角距離(黄道の北極を中心とする大円における角距離)が1度ずつ移動している】ことになる。
現在(2024)から692(持統7年)1332年前であるゆえ、歳差の変動角度は1332年÷71.67年=18.59度となる。
ゆえに、天の北極の位置と、黄道の北極を中心とする大円における春分点の位置を角距離19(18.59)過去にもどして再現した1224日の天文図は、
柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の持統6年あるいは持統7年の旧暦1117日の冬至の午前6時頃の天文の光景をあらわしていることになる。

下図は、691(持統6年)あるいは翌672(持統7年)の冬至の日の午前6時頃の天文図である。
注目すべきは、このとき、下図の左上に記したように、〔東北の地平線上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河が姿を現(あらわ)していた〕。
冬至の日の午前6時、いまだ太陽は地平線下に潜(もぐ)って夜は明けず暗かったゆえ――このとき、「十字の銀河」は見えたことになる。
ゆえに、人麻呂は「東北の地平線」を「東(ひむかしの)」と詠み、「姿を現した十字の銀河」を見て「野炎立(のにかぎろひのたつ)」と表現したのである。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
前述したとおり――すぐ前ページに配した「691年・692年の冬至の日の午前6時頃の天文図」の左上に表示した「東北の地平線」を人麻呂は「東(ひむかしの)」と詠み、「東北の地平線上に姿を現した十字の銀河」を「炎立(かぎろひのたつ)」と表現した。

下図に左側に配する「十字の銀河」は「〔炎(ほのお)〕の色のごとく、黄色く橙色(だいだいいろ)にキラキラと輝く」ゆえ、【炎】の字源銀河となった。
その証拠に、「十字の銀河」は【大】字形であり、【炎】の契文形は【大】字形の周囲に「炎(ほのお)」あるいは「火の粉()」をあらわす短い線を四つ加えて成立する。
また、【立】の契文形も「十字の銀河の形」に相似する【大】字形の下に【一】を加えて成立する。
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人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌を作った、この時は、すべてのものが生まれ変わると考えられた冬至の曙の時刻であった。
この時、軽皇子の成年式が行われていた。
この軽皇子は、人麻呂が仕(つか)えた草壁王子(くさかべおうじ・689年に死去)の御子(みこ)であった。

人麻呂が「東(ひむかし)の 野()に炎(かぎろひ)の 立()つ見えて」と詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌は、「軽皇子の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)45番~49番までの5首のうちの一首である。

40
代・天武天皇(てんむてんのう)の皇后が、41代・持統天皇(じとうてんのう)である。
持統天皇の愛孫が、軽皇子である。
持統天皇は軽皇子を擁立(ようりつ)し、697年に軽皇子に天皇を譲位(じょうい)した。
つまり、成年式から5~6年後に軽皇子は、42代・文武天皇(もんむてんのう)となった。

このような文武天皇の成年式を詠む長歌が、「軽皇子、安騎(あき)の野に宿(やど)る時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作る歌」という題詞(だいし)の、『万葉集』巻一・45番である。
この長歌において、注目すべきは、11句目の「真木立(まきた)つ」という語である。
人麻呂は軽皇子の教育係となって――軽皇子に「真木立つ、経度線測量」、言いかえると【景】の字源を教える、大雪が降る安騎の野の旅に従事(じゅうじ)していた。

この『万葉集』巻一・45番の長歌は、下記のごとくである。
やすみしし 吾()が大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日()の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 太(ふと)しかす 京(みやこ)を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真木立(まきた)つ 荒き山道(やまぢ)を 岩(いは)が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さり来()れば 三雪(みゆき)降る 阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を 押しなべ 草枕(くさまくら) 旅宿(たびやど)りせす 古昔念(いにしへおも)ひて

上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神・天照大御神の御子でいらっしゃる軽皇子は、神であるままに神らしくふるまわれるべく、都を離れて、(こもりくの)泊瀬の山の真木立つ経度線測量の修行場に入って荒い山道や岩石や前進を遮(さえぎ)る樹木を押し伏せ、(坂鳥の)朝越えられて(玉かぎる)夕方になると雪が降る阿騎の野にすすきの穂や小竹の茂みを押し伏せて、【倉頡の文字作成理論】の学問を修得するために昔を思いながら(草枕)旅寝(たびね)をなさっている。

上記したように、人麻呂が作った軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一・45番の長歌の11句目は、

「真木立つ」という語である。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
「真木立つ」という語は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の降臨」の箇所では「真来通りて」と表現される。
「真木立つ」と「真来通る」は「精確(せいかく)に経度線を測量する」と意味した。

前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて解説したように、
下図に示したように、鳥栖市(とすし)の真木と福岡県・佐賀県の県境に所在する基山(きざん)と宗像大社の高宮祭場(たかみやさいじょう)の三者は、「東経13030分で同経度」、つまり「真木立つ・真来通る経度線」で結ばれる。
ゆえに、「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所では、「基山」は夏音文字6字で「久士布流多気(くしふるたけ)」と記される。
この「久士布流多気」は「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすことになり、「東経13030分の串(経度線)が触れる(貫通する)山」ということであった。
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基山を貫通する東経13030分は、下図の右上に示す宗像大社の高宮祭場をも貫通する。
下図の中央の宗像大社の辺津宮(へつみや)の本殿は、高宮祭場よりわずか東側に所在して、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説する【景】の字源をあらわした。
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以上のごとく、691年あるいは692年の冬至の日に近い日々、柿本人麻呂は軽皇子の成年式において教育係となって、大雪が降る阿騎の野の泊瀬の山に入って軽皇子が「真木立つ、経度線測量」を学習する修行の旅に従っていた。
それから、5~6年後の697年に軽皇子は天皇を即位した。
この5~6年の間に、軽皇子は『魏志倭人伝』に「日本列島・本州の東は南に伸びる」と記述される――下図に示す【倉頡の文字作成理論における最高学問】の「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」の【禾】【委】【倭】の字源を学んだことになる。
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◆『日本書紀』の巻第七の成務天皇紀(せいむてんのうき)の末部には、
「すなわち、山河を堺(さかい)として、阡陌(せんぱく)にしたがって、邑里(むら)を定めた。こうして、東西を以(もっ)て日縦(ひのたて)と為()し、南北を以て日横(ひのよこ)と為し、山陽を影面(かげとも)と曰()ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
という記事がある。

上記の「阡陌」の【阡】の字は「南北の道」を意味するゆえ、【経】の「たて()」をあらわす「経度」を示している。
また、【陌】の字義は「東西の道」であるゆえ、【緯】の「よこ()」をあらわす「緯度」を示している。
ゆえに、【阡】は「縦(たて)の腺」を意味する「経度線」をあらわし、【陌】は「横(よこ)の線」を意味する「緯度線」をあらわした。
他方、上記した「東西を以て日縦(ひのたて)と為()す」という文は「【陌】の東西の緯度線を縦の経度線に代()える」と定義していることになる。
また、「南北を以て日横(ひのよこ)と為す」という文は「【阡】の南北の経度線を横の緯度線に代える」と定義していることになる。

だから、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為()す」という文は、
上記した【禾】【委】【倭】の字源をあらわして、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」について説明していたことになる。
下図は、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為す」と定義された、【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理図」である。
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◆前記したように、軽皇子の成年式を詠む「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」は、『万葉集』の巻一の45番~49番までの5首である。
この軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番につづく50番「藤原宮(ふじわらんみや)の役民の作る歌」という題詞(だいし)長歌の末部には、下記のごとくの説明がある。
「日本書紀に――朱鳥(あけみとり)七年八月、藤原宮地に行幸(ぎょうこう)された。八年正月、藤原宮に行幸された。同年十二月六日に藤原宮に遷(うつ)られた。」
藤原宮に都が遷された朱鳥八年十二月六日は、69412月6日であった。
ゆえに、軽皇子の成年式がおこなわれた2~3年後の12月6日、藤原宮に遷都されたことになる。

軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番から3首後の52番の題詞(だいし)は「藤原宮(ふじはらのみや)の御井(みい)の歌」である。
したがって、この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、軽皇子の成年式から2~3年後の69412月6日に遷都された藤原宮を詠む長歌ということになる。

この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」には、
上記した『日本書紀』の成務天皇紀の末部に、
「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為し、山陽を影面(かげとも)と曰()ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
と記される語が登場する。
だから、『万葉集』巻一・52番の長歌は――軽皇子の成年式が行われた691年・692年当時にも、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る【転回日本列島地図】が実在していた――現在に伝えている。

『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】をあらわす「日縦(日の経)、日横(日の緯)、背面(そとも)、影面(かげとも)」という語が登場する『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、下記のごとくである。

やすみしし わご大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日の皇子(みこ) あらたへの 藤井(ふじゐ)が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤(つつみ)の上(うへ)に あり立たし 見したまへば 日本(やまと)の 青香具山(あをかぐやま)は 日の経(たて)の 大(おほ)き御門(みかど)に 春山と しびさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 
大き御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり 名ぐはしき 吉野(よしの)の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高知(たかし)るや 天(あめ)の御陰(みかげ) 天知(あめし)るや 日の御陰の 水こそば 常(つね)にあらめ 御井(みゐ)の清水(すみみづ)

上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。 
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神の御子であられる天皇が(あらたへの)藤井が原に宮殿を造り始められ、埴安の池の堤の上にお立ちになって眺(なが)められると、大和の国の青い香久山は日の経(たて)にして緯度軸を経度軸に代えて(転回日本地図をあらわす)東面の大きな御門となって、春山らしく茂り立っている。畝傍のこのみずみずしい山は、日の緯(よこ)にして経度軸を緯度軸に代えて(転回日本列島地図をあらわす)西面の大きな御門となって瑞山(みずやま)らしく香久山を佐(たす)け備わって存在する。耳梨の青い菅山は山の陰(きた)の北面(背面)の大きな御門として、宜(よろしき)名を立派(りっぱ)に示して神々(こうごう)しく立っている。名高い吉野の山は山の陽(みなみ)の南面(影面)の大きな御門から雲浮かぶ空遠く彼方(かなた)に存在する。高く聳(そび)える天つ神の御殿にして天知(あめし)る日の御子の御殿である、ここ藤原宮の水こそは永遠に栄えあれ、転回日本列島地理を映す鏡となる御井の清き水よ。

だから、『万葉集』巻一・48番の人麻呂が作った軽皇子の成年式を祝う短歌にある、
初句の「東(ひがしの)」と、結句の「月西渡(つきかたぶきぬ)」の「東と西」を注目して、
――『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則る【転回日本列島地図】は実在しなかった――と否定することはできない。
というのも、上記して解説し証明したごとく、691年~694年当時、卑弥呼が「日本列島の東は南へ伸びる」と立論した【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】は実在していたからである。

以上のごとく、【倭】の字源に則ると『魏志倭人伝』における対馬国と一大国の方位を除く全方位記事は、一点の矛盾点も無く不合理な点も存在しないで【科学】が成立するゆえ、
このブログが詳細に解説して証明してきたとおり、2世紀末~738年の45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代まで、卑弥呼が立論した【倭】を字源に則る【転回日本列島地理】は実在したことになる。
いっぽう、【現在方位】に則る邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源に則る【転回日本列島地理】を無視するがために、『魏志倭人伝』に記される方位記事に対して幾つかの矛盾点や不合理な点が生じることになって【科学】成立しない。
だから、学界が一番正しいと評価する新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は【わが国の学問の起源、また根源を破壊する空理空論】であったことは否定できない事実となる。


〔追補〕
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」においいては――過去の天文図の様子や天頂緯度線の様を表示する再現図を多数用いて解説した。
この「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する方法」について、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」では前ページで簡単に説明した。
しかし、今回まで「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する算出方法」について詳細に解説するチャンスがなかった。ゆえに――前ページで簡単に説明してくりかえしになるが――この場をかりて詳細に説明することにした。
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上図の「歳差状況図(さいさじょうきょうず)」が示すように、天の北極は25,800年で黄道の北極を中心にして一周する。
円周は360度であるから、25,800年÷36071.6666年となる。
したがって、天の北極は71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動していることになる。

また、下図に示す天の赤道と交わる、春分点も25,800年黄道の北極を中心にして一周している。
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ただし、黄道の北極と天の北極を結ぶ延長線上に、春分点は位置しない。
ゆえに、黄道の北極と現在の天の北極を結ぶ軸と、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ軸は別々にしなければならない。
上記したように、春分点も71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動している。

現在は2024年であるから、黄帝時代は今から約5020年前となるゆえ、
5020
年÷71.666年=70.04716322となる。
ゆえに、現在の天の北極から角距離70度過去のほうに戻した黄道の北極を中心とする、上図の天の北極の大円の円周の位置が紀元前3000年ころの黄帝時代の天の北極の位置となる。
また、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ線よりも角距離70度過去のほうにもどした、黄道の北極を中心とした円周上の位置が黄帝時代の春分点となる。
ゆえに、上図に示したように、前もって2327分の傾きで交わる黄道と天の赤道の大円が交わる春分点と秋分点、そして天の北極をも表示する透明フイルムを作り、
星座や銀河などを表示する基盤の上に、
黄帝時代の天の北極と春分点の位置を合致するように重ねあわせれば、黄帝時代の天文図、あるいは天文盤(通称、星座盤)が出来上がる。

要するに、その古代は現在から何年前になるかを計算し、その差額年数を71.6666で割れば、その古代の天の北極と春分点の位置を定めることができるゆえ、その古代の天頂緯度線や天文図の状況を再現することもできる。
もちろん、未来のほうへ角距離を移動させれば未来の天頂緯度線と天文図の状況も再現できる。
天文の緯度の表示方法はいろいろあるが、そのうち〔赤緯(せきい)〕を用いるとよい。
上図の黄道と天の赤道が交わる春分点・秋分点と天の赤道を表示した透明フイルムに印した数字は〔赤緯〕の緯度数である。
赤緯は地球における北極・北緯90(北極点)の天頂を〔+(プラス)赤緯90度、南極・南緯90(南極点)の天頂を〔-(マイナス)赤緯90度、地球の赤道の天頂を±0度〕と定める。
ゆえに、たとえば北緯3449分の天頂は+赤緯3449分となる。
このように、土地の緯度数と天頂の赤緯の緯度数は同一であるゆえ、赤緯を用いると過去・未来における各地の天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲、そして星座のどの部分かなどを楽々と知ることができる。

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2024年10月 7日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・34

卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

◆冒頭に示した【夏の銀河】の地平線上に出現する形はドーム状に半円形である。
しかし、倉頡(そうきつ)は、このブログ冒頭のカラー写真のごとく平面化して「南を正面にして、左上に【夏の銀河の東北部】」を配置し、「右下に【夏の銀河の西南部】」を配置して、
下図の左側に示したように、倉頡は【夏の銀河の基本形として、1本の斜線」に図化(ずか)することにした。
そして、下図の左側に示したように、倉頡は「北を正面にして、右上に地理(地図)の東北部」を配置し、「左下に地理(地図)の西南部」を配置して、「地理(地図)の基本形として、1本の斜線」に図化することにした。

ゆえに、下図の左側に示したように、「【夏の銀河】の斜線と地理の斜線」は【X】字形に交わることになり――この【X】の交わりを倉頡は【文字作成理論の基本形式】と定めた。
だから、【倉頡の文字作成理論の基本形式】をあらわした【X】の図書は文字となり、下図の中央に配する【X・爻(こう)】の字源となり、また契文前期の字形(けいぶんけい・甲骨文字前期の字形)となった。
あるいは、下図の右側に配したように、上部に【X】に配し下部に「建物」をあらわす図書が加えられて文字となり、この文字は【学】の字源となり、また契文前期の字形となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、【X・爻】の字を「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説する。
また、白川静著『字統』は【学】の字を「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。
さらに、白川静著『字統』は【爻】の字源解説にて、【学】について「学は一定年齢のものが隔離された生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と指摘する。
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ゆえに、【爻】の【X】は「学問の起源」、つまり「【倉頡の文字作成理論】における最初に知っておくべき基本知識」となった。
だから、【学】とは「【倉頡の文字作成理論】を学ぶ施設」であった。
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、中国から大海を越えて名門益氏(えきし)の王子と若者たちが九州に上陸し、さらに北進(ほくしん)して男鹿半島・八郎潟の西の辺(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めた。
これゆえ、わが国の神社建築は屋上に【学】の起源をあらわす千木(ちぎ)がそなえつけられることになったのである。

◆現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的(けいとうてき)な合理】つまり【科学】を成立させて証明したように、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と説明しているからである。

『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()
国邑(こくゆう)を為()す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
対馬国(つしまこく)と一大国(いちだこく)の北と南の記事を除(のぞ)く、【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。

新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」

上記したように、対馬国と一大国の北と南とする記事を除く、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を幾つか有する。このため、【科学】がまったく成立しない。

『魏志倭人伝』は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
下図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』が説明する対馬国と一大国の方位記事を除く、「転回日本列島像における全方位記事」は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点(むじゅんてん)もなく【科学】が成立する。
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今から約300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき)がとなえて以来、多数の学者たちが主張することになった邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記された全方位記事に対して幾つかの点で矛盾し不合理となって、【科学】がまったく成立しない。
というのも、白石以来の邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちは、「『魏志倭人伝』を邪馬台国について説明する古文献である」と思い込んでいるが原因で、その意見は論理が完結(かんけつ)せず幾つかの矛盾点と不合理な点を有することになって【科学】が成立しない状況になるからである。
しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献」であったと考えれば――【倉頡の文字作成理論】から生成された【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理もなく矛盾点もなくなり【科学】が成立する仕組みになっている。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・33」では、下記の事柄について詳細に解説した。

『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明する。この「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同じである。
ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していることになる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、伊耶那岐命・開化天皇は異母弟の皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
伊耶那岐命・開化天皇は「邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原(うなばら)」と表現して、愛妻・伊耶那美命とのあいだに生まれた息子の須佐之男命(すさのおのみこと)に分治した。

ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には天照大御神に分治した「高天原の邪馬国・大和」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在した。

したがって、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。

「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみことと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「崇神天皇・御真木入日子印恵命は天照大御神を崇拝して祭った」と記述している。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだのである。
天照大御神を崇拝して祭ったゆえ「天照大御神」と人々に異名(いみょう)で呼ばれた皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)は、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐(とうばつ)して天下を掌握(しょうあく)して、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)す強権政策(きょうけんせいさく)を決行した。

時を移りて――須佐之男命が没して、邪馬壱国・出雲地方は大国主神(おおくにぬしのかみ)が治める時代となった。
『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話〕における「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」の箇所は、
「邪馬壱国・出雲地方を治めた王の大国主神は、大和の天照大御神王朝に討伐された。討伐された大国主神は、邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷(うつ)し、天照大御・神御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを承認した」と説明する。
この承認の際、大国主神は「皇太子・御真木入日子印恵命が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめるために、壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するため、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱(みやばしら)を立て、高天原・出雲の空に千木(ちぎ)を高くそびえさせる社殿を建造してくだされば、この邪馬壱国・出雲を邪馬国・大和の天子が治めることを承認します」と誓った。

また、大国主神は天照大御神に下記のごとく誓った。
「僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき。

上記の文を、現代語に訳すると、下記のごとくある。
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就()くことができたことになる。

◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)を「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記すことである。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

前々回と前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3233回で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。

【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差がある」と解説した。

前ページにて解説したように、大国主神は天照大御神・崇神天皇王朝に「天高く千木がそびえる壮大な神殿を大和王朝が築造してくださったならば、わたくし(大国主神)の後を継ぐ王たちは代々、皆(みな)、こぞって大和王朝を尊敬してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と誓ったにもかかわらず、
出雲王権の後を受け継ぐことになった不弥国・宗像大社の王一族を代表する天菩比命(あめのほひのみこと・天穂日命)は、天照大御神と大国主神との約束をまもらなかった。

天照大御神・大和の崇神天皇が大国主神との約束で出雲大社を建造したとき、祭祀(さいし)を司(つかさど)ったのは不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命一族を代表する天菩比命であった。
出雲大社の祭祀を司る天菩比命は、天照大御神と大国主神との約束にもとづいて「天照大御神の第二子」ということになったゆえ、
出雲大社の本殿では天照大御神を尊崇(そんすう)して祭らなければならないにもかかわらず、
出雲国の国造(こくそう)に就任した天菩比命は大国主神が誓った約束を守らず、出雲大社の本殿では大国主神を主神として祭った。

つまり、上記したように大国主神は「わたくしは多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」
と言って誓ったにもかかわらず――天菩比命(あめのほひのみこと)は邪馬壱国・出雲の中心地域から遠くの場所に隔離(かくり)して大国主神を祭らずに――邪馬壱国・出雲の中心地域に建造された出雲大社の主神を大国主神として祭った。
ゆえに、出雲国の国造の天菩比命は大国主神の誓いをまもらず、大和・天照大御神王朝に逆(さか)らい反抗したことになる。

だから、大和王朝は出雲王権の天菩比命に虚仮(こけ)にされ名誉を傷つけられたということで、
出雲国造の天菩比命の反抗は不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命の指図(さしず)によるものと考えたにちがいなく
天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと・後の景行天皇)が、宗像王の天菩比命を征討(せいとう)するために大和軍を率いて遠征することになった。
この「天孫邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国への遠征した様子」を、『古事記』上巻では「天孫邇邇芸命の降臨(こうりん)」と表現する。

『古事記』上巻における〔天孫邇邇芸命の説話〕は「天孫・大和の遠征軍を猿田毘古神(さるたびこのかみ)が先導(せんどう)した」と説明する。
この「猿田毘古神の先導」の箇所の冒頭は「ここに天孫日子番能邇邇芸命が天降(あも)りなされようとする(つまり、邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国へ遠征しようとした)時に、天降りの道が多くの道に分かれている所に居て、上は高天原(たかまのはら、つまり大和)を照らし、下は葦原中国あしはらのなかつくに、つまり出雲)を照らす、神がいた」と、「猿田毘古神」について説明する。

上記のごとく、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕は、容易に理解できない難しい抽象的な文をもって「天孫邇邇芸命(後の景行天皇)の不弥国の宗像王の天菩比命の討伐」について説明する。
ゆえに、「猿田毘古神の先導」の次の「天孫の降臨」の箇所では、
「天孫邇邇芸命が率いる大和軍が宗像王の天菩比命を討伐するために遠征した道程(みちのり)」を、下記のごとく説明している。

◆「故(ゆえ)、爾(ここ)に天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔らして、天之石位(あめのいはくら)を離れ、天之八重(あめのやえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天浮橋(あめのうきはし)に宇岐士摩理蘇理多々弖(うきじまりそりたたして)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐()しき。」


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「ここに天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の勅命(ちょくめい)によって、天孫邇邇芸命は天の石位(いわくら)を離れ、天(あめ)の八重(やえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて・つまり、伊都国の地宜が示すようにジャコウウシの群れが毎年通う・知り分ける道をゆっくりと進むジャコウウシの姿のごとく、威風堂々と)、途中(とちゅう)、天(あめ)の浮橋(うきはし、つまり関門海峡)からさらに進んで空に浮いている島(夏の銀河に沿って並ぶ天頂緯度を測量できる天体部)に胸を張って立って測量して(つまり、お腹(なか)をぐーんと前に出して天頂の緯度をキャッチして)、筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に到着して、その頂上に登った。」

『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)の初頭記事は、「益氏の王子・天祖(てんそ)の日子能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ひこほのににぎのみこと)」について下記のごとく説明した。
「わが天神(あまつかみ)の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と天照大御神は、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けられた。そこで、天祖・益氏の王子は天のいはくらを開き、雲路(くもじ)を押し分けて、先払いを立てて地上に降臨された。」
このように、上記した『古事記』上巻の〔天孫の降臨記事〕と『日本書紀』の神武天皇紀の天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事の両者は酷似(こくじ)する。
だから、前述したように、「大和王朝は天孫・邇邇芸命を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀は、下記のごとく説明する。
「帝益(ていえき)は帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した。」
ゆえに、上記した『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所に登場する「筑紫の日向の高千穂(たかちほ)の久士不流多気(くしふるたけ)」は、
通説では「宮崎県西臼杵郡の高千穂」、「鹿児島県と宮崎県の境にある霧島高千穂」などと解釈されるが、
「帝益が隠棲した地の北に所在した箕山」と類似する名の「福岡県と佐賀県の県境の標高405mの基山(きざん)」であったことになる。
というのも、「箕山」と「基山」はともに「きざん」と読み、【箕】と【基】の原字(最初の文字)は共に【其】であるからである。

だから、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」は「福岡県と佐賀県の県境にある基山」であったと考えるべきことになる。
基山から東の坊住山(ぼうじゅうやま)にかけて665年に新羅(しらぎ)・唐からの侵攻(しんこう)に備えて天智天皇が築いた基肄城跡(きいじょうせき)がある。
基山は草山で県立自然公園になっている。

「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所の末部には「真来通(まきとお)る」という語が記される。
「真来通る」が「真木立(まきた)つ」ともいい、「南と北の地所が同一経度となる」と意味した。
ゆえに、上記した「基山」をあらわす「高千穂の久士布流多気」の「久士布流多気」の6字には〔音〕という注がつくが――この6字の夏音文字「久士布流多気」は言いかえると「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすものであったと考えられるゆえ、
「串触る岳」とは「南北の地所が同経度となる串(くし・経度線)が触れる(貫通する)山」であったことになる。

下図に示すように、鳥栖市(とすし)の真木(まき)・基山・宗像神社(辺津宮)の三者は共に同一の東経13030分の串(経度線)で「真来通る」。
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実は、鳥栖市の真木・基山を貫通する東経13030分の串(経度線)は、下図に示す宗像神社の辺津宮(へつみや)に築造される本殿ではなく、その西方の奥にある高宮祭場(たかみやさいじょう)を貫通している。
つまり、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)はほぼ同じ経度線とされ、宗像神社の辺津宮の本殿(東経130.514333)は基山・高宮祭場の経度線から一寸の差となってわずか東寄りに位置するとされた。

高宮祭場は宗像大神の降臨の地と伝えられる。
ゆえに、下図に示す「宗像大社の高宮祭場(東経130.51349)と、その東の辺津宮の本殿(東経130.51433)の経度の差」が、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「地上千里にして一寸の差がある」と解説する、その「一寸の差」をあらわした。
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◆前述したように、【箕】と【基】の原字は共に【其】であり、
下図の右上に配したように、【箕】と【其】の契文形は同一形である。
白川静著『字統』は【X・爻】の字を「千木のある建物」と解説する。
【学】の契文形について、白川静著『字統』は「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。

下図の左上に示したように、またこのブログの初頭の【夏の銀河のカラー写真】をもって説明したように――
【爻】の字は「〔南〕を正面にして地平線上に出現する半円形(ドーム形)の【東北部から西南部の夏の銀河】を平面化して1本の斜線」にし、
また「〔北〕を正面にして地理の東北・西南は1本の斜線に図化」して、
この「1本の斜線化した両者をX字形に交(まじ)えて【倉頡の文字作成理論の基本形式】」をあらわした。

下図の中央下に配する【其】の契文形は中央の軌道図(きどうず)が示しているように――「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度をあらわす軌道にける、地平線下に潜(もぐ)る軌道をあらわす図書」の【U】の中に【X()】が加わって構成される。
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古代、人々は、下図のごとく、日々【天頂緯度をキャッチ】して【命(いのち)】をまもっていた。
下図の右上に示すように、【亠(とう)】の字源は「天頂緯度線・天頂点・子午線」の三者から構成される。
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下図に示すように、【亠】における「子午線は南北の経度線」に合致する。
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前ページにて解説した「[][]の原字[]の字源解説図」にて、【其】の契文形における【U】の図書が「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度の軌道における、地平線下に潜る(もぐる)軌道」であった理由は、
「春分の日(秋分の日)の太陽は真東の地平線から登り、真西の地平線に没し、正午には天頂から真南に位置して子午線(経度線・真来通る)」を示すゆえ、結局、上図の【亠】の字のごとく「東と西を結ぶ緯度線と子午線」を示すことなったからである。

それゆえ、【U】字形に図案された「春分の日(秋分の日)の太陽の日没から翌日の日の出までの地平線下に潜る軌道」は「【景】の字源となった帝禹が発明した【地平線下に潜る夏の銀河】を地面に図化した測量方法と、帝益の先祖の益氏が発明した太陽の天球上における軌道となる黄道の測量」をあらわすことになった。
ゆえに、【周礼】が〔大司徒〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」、あるいは「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する――この「【景】の測量」は「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜(もぐ)る軌道」で表現されることになった。
だから、「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜る軌道」は【其】の字源となり――【其】の契文形の外枠(そとわく)は【U】の図書に図案されることになったのである。

ゆえに、東経13030分の「基山」の【基】の字は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「日景を正して、以て地の中を求む」とあらわすことになった。
その証拠に、前述したように、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)を結ぶ経度線より少し東に寄る宗像神社の辺津宮本殿(130.51433)は、『周礼』の〔大司徒〕の【景】の「地上千里にして日景に一寸の差がある」と字源解説をあらわした。
だから、「基山」は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命」の説話に登場する「高千穂の久士布流多気(串触る岳)」であったことになる。

◆司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は「帝益は帝禹の三年の喪が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」と説明する。
この「箕山」は、「黄河口(こうがこう)、つまり黄河の河口」であったと考えられる。
下図に示すように、「黄河口の海岸線は山形(やまなり)」であるゆえ、「黄河口の海岸線」は「地平線上の軌道」に相似すると見立てられたにちがいない。
ゆえに、「黄河口の地底」は「地平線下の軌道」をあらわすと見立てられて【U】の図書に図案されることになった。
そして、「黄河の上流は西南、黄河口は東北」に在るゆえ、「【夏の銀河】の東北・西南の形式と対称形」となって【X】字形に交わる。
だから、「黄河口」は【U】の中に【X】が加わる【箕】の字源となった。
かくして「黄河口」は【其】の字源となったが、この【其】の字形が「籾殻(もみがら)を除去(じょきょ)する農具の箕()の形」に相似すると想像されたため、「黄河口」は「箕山」と名づけられたと考えられる。
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ということは、「帝益が隠棲した、箕山の南の地」は、上図に示す「日照」であったのではなかろうか。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて詳細に解説したように――、
上図に示した山東半島北端の「石島」は「夏至の日の朝日が直(じか)に刺す処(ところ)」であり、山東半島の南端にある「日照」は「夏至の夕日照る処」であるからである。

ゆえに、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、下記のごとく説明する。
――是に詔()りたまはく、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故(ゆえ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と詔()りたまひて、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷椽(ひぎ)たかしりて坐()しき。


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――ここにおいて、天孫邇邇芸命は「ここは(遠くの)韓国・朝鮮半島に面し、(近くは)笠紗(かささ・つまり不弥国の津屋崎町の菅笠(すげがさ)の形に相似する地宜)の前を基山からの真来通る経度線が貫通する宗像の地域は朝日の直(じか)に刺す国、夕日の日照る国である。ゆえに、ここは実に吉なる地である」と仰せられて、地底の岩盤に太い宮柱を立て、高天原(たかまのはら)に千木(ちぎ)が高くそびえる宮殿(宗像神社の辺津宮)を建造してお住まいになった。

下図に示すように、「山東半島の付け根より南の海岸線の形」は「長江口(ちょうこうこう)が人の鼻、杭州湾が人の口」に見立てられるゆえ、「人の横顔」に類似する。
だから、「山東半島」は「頭上に被(かぶ)る笠(かさ)」に見立てられた。
「山東半島」は「カンムリカイツブリの横顔」に相似すると見立てられて【弥】の字源を示す地宜(ちぎ)となった。
【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの顔の色」は「絹の紗(うすぎぬ)のごとくキラキラと光り輝く銀白色」である。
だから、「山東半島」は「笠」に「紗」が加わる「笠紗」と表現されることになった。
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「山東半島」は「韓国(朝鮮半島)」に面する。
ゆえに、上記したように、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、「ここは韓国(からくに)に向かい」と説明する。

下図に示す「津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線の地宜(ちぎ)」は、「山東半島の地宜」と同じく、【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭()部」に相似すると見立てられた。
だから、「津屋崎町の海岸線より東の、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)とを結ぶ経度線(東経13030)」は、
上記した「天孫邇邇芸命の降臨」の記事の末部では、「津屋崎町の地宜」が「山東半島の地宜」に類似して「カンムリカイツブリの横顔」をあらわすゆえ、「笠紗の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて」、つまり「笠紗に見立てられた津屋崎町の海岸線の前を、基山と宗像大社の高宮祭場を結ぶ経度線(東経13030)が貫通する」と表現されることになったのである。
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以上のごとく、「天孫邇邇芸命」は「【景】の字源の遠征を行った。
だから、天孫は「【景】を行った」ということで、皇位に就()くと「景行天皇」と呼ばれることになった。

この【景】の字源については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」にて詳細に解説したように、『魏志倭人伝』の後半部にある、
「又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」
と記述される――男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した名門益氏の王子と若者たちの、
その孫の代に築造された秋田県の鹿角市(かづのし)に所在する大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」における、下に示す「万座遺跡外帯の東側の配石群の平面図が夏の銀河像」をあらわして現在に伝えている。
下図の左図は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説した「地面に図化した、地平線下に潜る【夏の銀河像】」であった。
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また、下図に示す大湯環状列石遺構の野中堂遺跡における「日時計組石(ひどけいくみいし)」と呼ばれる特殊石組も、『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する秘密を現在に伝えている。
この【景】の字源の秘密は「太陽が前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」をあらわしている。
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しかし、いままで説明したように、「基山と宗像大社の高宮祭場とを結ぶ東経13030分の経度線より少し東に寄る宗像大社辺津宮の本殿の位置」も、「地上千里にして日景に一寸の差がある」という【景】の字源の秘密を現在に伝えていることになる。
だから、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて指摘したように――「高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)と佐太神社の本殿とを結ぶ東経133度より少し東側の佐太神社の鳥居の辺り」もまた、「地上千里に「して日景に一寸の差がある」という【景】の字源を現在に伝えていることになる。

738年、45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に、全国に国郡の地図作成の命令が下された。
当時、国号は「倭人国」ではなく「日本」に改定され、【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定の習慣」は朝廷はじめ地方の官庁でも衰退していたのであろう。
このため、「能登から東南に男鹿半島・八郎潟がある」という意見、あるいは「日本列島の東は南に伸びると定めた卑弥呼の転回日本列島地理」は間違っているのではないかと疑問視され否定されるようになっていたにちがいない。
そして、738年以後の796年の50代・桓武天皇(かんむてんのう)の時代でも、国郡図の修正(しゅうせい)が命じられた。
このような国郡図の改定政策は、「行基図(ぎょうぎず)」と呼ばれる稚拙(ちせつ)な概要日本列島地図が発行されて行われた。
ということは、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は【倉頡の文字作成理論の産物】であったため、
この【倉頡の文字作成理論】は朝廷と国家が最も厳重な機密にして独占管理するものであったことからして――【倉頡の文字作成理論にもとづいて発明された地図作製方法】によって「精密な日本地図が作成されていた事実」を反体制側の人々に気づかれないようにするために、稚拙な概要日本地図、つまり通称「行基図」をもって「日本列島の東は東である」と明記する概要日本地図を多数作製して国郡図の方位を改定する事業が行われたことになる。

しかし、このような多数の「行基図」を作成しておこなった「日本列島の方位規定の改定事業」によって、「1度60分の60分の1分の精度で緯度が測定できた天頂緯度測量」を衰退し廃絶(はいぜつ)されるようになった。
ゆえに、天頂緯度をキャッチして行われていた遣唐使(けんとうし)の派遣は、59代・宇多天皇(うだてんのう)の治世(じせい)894年の第18回をもって廃止されることになった。
多数の「行基図」と二度の国郡図改定事業の影響で「天頂緯度線をキャッチする航法は間違っていた」という意見が世に次第に強まって否定されるようになったため――遣唐使はじめ遣唐使船の船乗りたちは天頂緯度を測量して大海を往来する航法に自信喪失(じしんそうしつ)して、この航法に命を委(ゆだ)ねることに信頼できなくなって大海を渡ることができなくなったが原因で、894年の第18回遣唐使の派遣は廃止されることになったのである。

原始・太古にあっても、また第18回遣唐使が廃止された9世紀末においても、大海を往来する方法は【1度・60分の60分の1の1分の精度で緯度が精確に測定できる、天頂緯度を測量する方法】のみ一つであった。
【天の北極の高度】でも緯度は測量できたが、この方法では1度・60分の60分の1の1分の精度では測量できず、おおよそにしか緯度が測量することができないため、大海を往来することができず命を失うことになった。

その証拠に、702年6月29日に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回の遣唐使の最下位の幹部であった山上憶良(やまのうえのおくら)は、
『万葉集』の894番の「好去好来(こうきょこうらい)の歌一首」と題する長歌を作り、
この長歌の後半部で、下記のごとく証言している。
「大御神(おおみかみ)たち 船舳(ふねのへ)に 御手(みて)うちかけて 墨縄(すみなわ)を 延()へたるごとく」
上記の部分を現代語に訳すると「大御神たちが船の舳先(へさき)に御手をおかけになって、まるで墨縄をまっすぐに張って延ばしたようにお導(みちび)きになさる」ということになる。

もしも「遣唐使船は【天の北極の高度】で緯度を換算して大海を往来した」としたなれば、【天の北極の高度】を「墨縄を 垂らし計(はか)るに」と憶良は詠()んだことであろう。
あるいは、【天の北極の高度】を別の方法で「高度」をあらわす語で表現していたにちがいない。
憶良は「墨縄を 延へたるごとく」と詠み、「遣唐使船は【天頂緯度を測量する方法】で大海を往来した」と明確に表現して証言している。

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2024年10月 2日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・33

卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。

『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()
国邑(こくゆう)を為()す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。

新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」

上記したように、『魏志倭人伝』に記される末盧国(まつろこく)から黒歯国(こくしこく)までの32の小国における全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を多数有する。ゆえに、まったく【科学】が成立しない。

『魏志倭人伝』の全方位記事は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
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上図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』の全方位記事は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点もなく【科学】が成立する。

他方、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・16571725)以後の学者たちが主張した邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の場合は、『魏志倭人伝』の全方位記事に矛盾し不合理な点を幾つか存在して【科学】が成立しない。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献であったと考えるべきことになる。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不記の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
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隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて詳細に解説したように――
益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この(鳥)と名付けられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記される。

下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
前述したように、【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」は「【鳥】と名づけられた光度1.8等の星がある、北斗七星」に見立てられたことになる。
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下に「卑弥呼が生存した3世紀における、夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に近似(きんじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
それゆえ、「中ノ島」が「りゅう座α星の周辺」に見立てられたことになる。
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『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していない。ということは、卑弥呼は「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前においてまた以後においても、さらに3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、人間にとってもっとも大事な命(いのち)と直接に関係しないゆえ、天文学においても無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」を指した。だから――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。

しかし、後世、『魏志倭人伝』に記された「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(また)国有り。皆、倭種なり。(中略)。周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの、【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理に則(のっと)って【石川県北部の旧国の能登から東南の周旋五千余里ばかりに、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る】と、卑弥呼が立論した難解な意見が注目されて重大事となり、後年、波紋(はもん)をよび論争されることになった。
このため、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」の「隠岐群島の島前(どうぜん)」における、
上記した「天の北極に見立てられる地点」に、
卑弥呼の死後、3世紀に生存した壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみもみこと)の時代には名称が必要とされることになった。
そこで、壱与・伊耶那美命は「天の北極(つまり、島前における天の北極に見立てられる地点)」を「隠伎」と名づけ、「島前」を「隠伎之三子島」と名づけた。
この伊耶那美命が「隠伎之三子島」と名づけた事績(じせき)を、『古事記』上巻は「国生み」と表現する。
この「国生み」という名称について「伊耶那美命が隠伎三子島を妊娠(にんしん)して生んだ」と解釈されているが――この解釈は誤りで、「国生み」は要するに「【倉頡の文字作成理論】の学識にもとづいて考えて地名をつけた」と意味するものであったことになる。

3世紀当時、遠くの地を旅する人々や大海を往来する人々をはじめ日常生活においても人々は天頂緯度をキャッチして1度・60分の60分の1の1分以内の精度で測定(そくて)して、みずからの命(いのち)をまもっていた。
原始以来、人類は天頂緯度を精確にキャッチできる眼力と本能が頭脳にそなわっていた。
このため、人々は、日々、眼力を鍛錬(たんれん)して天頂緯度をキャッチして命をまもっていた。
「天の北極の高度」によって「おおよその緯度」を知ることができる。
下図の右上に示すように、3世紀の北極星(こぐま座β星)は天の北極から約10度離れていた。

ゆえに、直径約20度、つまり【直径が約1200分の円が描く北極星の中心点・天の北極の高度】を精密に(1度・60分の1の1分の精度で)測定することは人間の目では不可能であった。
このように〔人々にとって、天の北極は【命】と無関係〕であった。
このため、卑弥呼の時代には「天の北極」は名無しの権兵衛(ごんべえ)でも許されたゆえ、
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」という「島前」には小国名が記されていなかったのである。
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前述したように、卑弥呼が〔益氏が男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと立論した意見〕が波紋(はもん)をひろげて注目されると名無しの権兵衛である状況は不便となった。
このため、壱与・伊耶那美命の倭女王としての教養(【倉頡の文字作成理論】の学問)の深さが試(ため)されることになった。
壱与・伊耶那美命は〔天頂緯度をキャッチして命をまもる、その【命】(天頂緯度)と無関係の夏の銀河部〕にして「円の中心・天の北極」のイメージに合致する「銀河の中心(銀河宇宙の中心)」を注目した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の右下に、わたくしが「銀河の中心」と名づけた銀河がある。
この「銀河の中心」は「銀河系宇宙の中心」のことである。
この「銀河の中心の東となり」は「巨龍(きょりゅう)の顔の銀河」、「銀河の中心の西となり」は「胎児の姿に似る銀河」である。

夏音文字には【龍】という字が存在しなかった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて詳細に解説して証明したように、
小国「巳百支国(じはきこく)」は「現在の京都府北部の、旧国の丹後(たんご)」であった。
「巳百支国」の【支】の字源となる地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、
下に示す「丹後の大浦半島」であった。
「大浦半島の地宜」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、夏音文字における【支】の字源は「銀河の中心の東となりの、巨龍の顔の銀河」であった。
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下図に示すように、「銀河の中心」は「両腕を左右に伸ばした、人の姿に似る暗黒天体部」に漬()かる。
ゆえに、伊耶那美命は「銀河の中心が漬かる、人の姿に似る暗黒天体部」を注目し――
この「暗黒天体部」は「銀河の中心を中心にして渦巻く、巨大な渦巻の中に隠れる」ゆえ、【隠】の字であらわすことにした。
また、その「暗黒天体部は人の姿」に相似するゆえ、伊耶那美命は【人】に見立て、
上記したように、「銀河の中心の東となりの、巨龍の顔の銀河」は【支】の字源であったゆえ、
伊耶那美命は、人偏(にんべん)に【支】を加えて【伎】とし、
【隠】に【伎】を加えて、「天の北極」を「隠伎」と名づけることにした。
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「銀河の中心」には無数の星と星間物質(せいかんぶっしつ)が入り乱れ、「銀河の中心」を中心にして巨大な渦(うず)を巻く。
以上のごとく、伊耶那美命は、その「巨大な渦巻の中央に隠れる、人の姿に似る暗黒天体部」を「天の北極」に見立てて「隠伎」と名づけた。

◆『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明して
「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同一であるをもって、
『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していると考えられる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、
伊耶那岐命・開化天皇は皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
また、伊耶那岐命・開化天皇は皇太子・月読命(つきよみのみこと)、つまり「開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた日子坐王(ひこいますのみこ)であろう」に「夜之食国(よるのおすくに)」、つまり「徐福の子孫が栄えた東鯷人国・小国の日本であろう」を分治した。
また、伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命との間に生まれた皇太子・須佐之男命(すさのおのみこと)に「海原(うなはら)」を分治した。

『魏志倭人伝』は「益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」について、下記のごとく説明する。
「卑弥呼は、益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)につい――黒歯国(こくしこく)・旧国の能登(現在の石川県北部)の東南に所在し、その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となり、あるいは小さい島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

上記のごとく、卑弥呼は「日本海」について表現したため、
伊耶那岐命・開化天皇は「日本海に面する邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原」と表現して、須佐之男命に分治した。
ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には、天照大御神に分治した「高天原」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在したことになる。

ということは、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。

◆「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「御真木入日子印恵命・崇神天皇は天照大御神を崇拝して祭った」と記述する。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだことになる。
天照大御神を崇拝して祭った皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)について、
『日本書紀』の崇神天皇紀の〔四道将軍〕の記事冒頭記事で、下記のごとく説明している。
「大彦命(おおびこのみこと)を北陸に派遣(はけん)し、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に派遣し、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に派遣した。そして詔(しょう)して『もし教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と命令した。」

この記事の後には、天照大御神・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)の異母兄の武埴安彦(たけはにやすびこ)の叛乱が起きたので、天照大御神に命令された大和軍は武埴安彦を討伐(とうばつ)したと詳細に説明している。
上記のごとく、高天原を分治された天照大御神・御真木入日子印恵命は皇太子であって天下を手に入れた天皇ではなかったので、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐して天下を掌握(しょうあく)し、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)さなければならなかったのである。

『古事記』中巻の崇神天皇紀は、天照大御神・御真木入日子印恵命の居殿は「師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)」であったと記す。
『日本書紀』の崇神天皇紀は「師木の水垣宮」は「磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)」と記す。
天照大御神・御真木入日子印恵命が居住した「磯城の瑞籬宮」は、今日の奈良県桜井市金星付近に所在したとされ、
「磯城」の2字の字義に反して――「磯(海岸)に所在する城」ではなく「内陸地の桜井市」に所在した。

つまり、下図に示すように、天照大御神・御真木入日子印恵命は「激流の銀河」を【磯】に見立て、「黒歯国(こくしこく)」に見立てた「正方形の暗黒天体部」を【城】と【瑞籬】と表現して、居殿名を「磯城の瑞籬宮」と名づけたことになる。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」で解説したように、
下図に示したように、「黒歯国」に見立てられた「正方形の暗黒天体部」は『古事記上巻 并(あわ)せて序』の〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』撰録(せんろく)の企て〕の初頭部にある「潜龍元(せんりょうげん)を体(たい)す」という語によって――「鬼の横顔に似る銀河より北側の暗黒天体部」に移動して解釈しなければならなかった。
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『古事記上巻 并せて序』においては、「潜龍元を体す」という語は「天皇(天子)の資格(しかく)がありながら、いまだ天皇の位(くらい)についていない皇太子」を意味した。
つまり、『古事記上巻 并せて序』の「潜龍元を体す」という語は「672年6月24日に起きた壬申(じんしん)の乱のとき、皇太子であった大海人皇子(おおあまおうじ・後の40代・天武天皇)」をあらわした。
皇子一行は50人足らずで一行は近江軍から逃(のが)れて東国(あずまのくに)へ入った。
6月26日の朝、大海人皇子は朝明郡(あさけのこおり・三重県三重郡)の迹太川(とおかわ)のほとりで、天照大御神を遥拝(ようはい)された。

この大海人皇子(後の40代・天武天皇)が遥拝された天照大御神(御真木入日子印恵命、後の10代・崇神天皇)もまた、上記したように、「潜龍元を体す」、つまり「天皇(天子)の位(くらい)にいちばん近いが、帝位についていない皇太子」であった。
要するに、朝明郡の迹太川のほとりで「潜龍元を体す、大海人皇子(後の40代・天武天皇)」は同じ境遇であった遥(はる)か遠くの吉野宮(よしのみや)にて祀(まつ)っていた「潜龍元を対す、天照大御神(後の10代・崇神天皇)」に向かって拝まれて戦勝祈願したことになる。

◆『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつなかつくに)のことむけ説話〕において「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」について、下記のごとく記述する。
――爾(ここ)に答へて白(まお)さく、「僕()が子等二(ふたはしら)の神の白(まを)す随(まにま)に、僕()も違(たが)はじ。此()の葦原中国(あしはらのなかつくに)は、命(みこと)の随(まにま)に既(すで)に献(たてまつ)らむ。唯(ただ)()が住所(すみか)をば、天(あま)つ神の御子(みこ)の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、登陀流(とだる)(あめ)の御巣如(みすな)して、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷木(ひぎ)たかしりて治め賜(たま)はば、僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事主神(やえことぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき」


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
――ここに大国主神は「わたくしの子どもの事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の二柱(二名)が申したとおりに、わたくしは邪馬国(やまこく)・大和の天照大御神王朝にそむきません。この葦原中国・邪馬壱国(やまいこく)は、天照大御神の仰せのままにすっかり差し上げましょう。ただ、わたくしの住まいのために、天つ神の御子(みこ)である天照大御神が神聖な皇位におつきになったことを国中に知らしめる、天空まで登る(とどく)壮大な御殿を建造するために、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱を立て、邪馬壱国・出雲の高天原に千木(ちぎ)が高くそびえる神殿を建造してくださるならば、わたくしは〈百足(ももた)らず〉多くの道の曲がり角を経て行く、遠いところに隠れておりましょう。また、わたくしの子どもの多くの神()たちは、つまり八重事代主神の神々(王たち)が前後一列になって服従しておつかえするようにいたすならば、邪馬国・大和の天照大御神王朝にそむく者は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

上記のごとく、『古事記』上巻の「大国主神の国譲り」の説話において、「邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷し、天照大御神・御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを――大国主神が承認することを誓った」と説明していることになる。

上記した先頭の「天(あま)つ神の御子(みこ)の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす」という文は「天つ神の御子が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめる」と意味したゆえ、
要するに、「皇太子・御真木入日子印恵命(天照大御神)が神聖な天皇の位に就任したことを世に知らしめる」ということであった。
次の「登陀流(とだる)(あめ)の御巣如(みすな)して、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかものはら)に氷木(ひぎ)たかしりて治め賜(たま)はば」という文は、
「壮大な天まで登る高さの御殿を建造するがごとく、地底の岩盤に宮柱を太く立て、高天原・出雲の空に千木を高くそびえさせて社殿を建造して、この邪馬壱国・出雲を邪馬国の天子が治めるならば」と意味した。
ゆえに、邪馬国・大和の御真木入日子印恵命王朝によって天まで登る(とどく)ような高い出雲大社が建造された。
〔注 上記した文の先頭の「登陀流(とだる)」の3字には〔音〕の注がつく。ゆえに、前ページに配した[「黒歯国」となった「潜龍元を体す」の解説図]における「黒歯国」に見立てられた「鬼の横顔の北側の、正方形の暗黒天体部」が「能登」の夏音文字の【登】、その「正方形の暗黒天体部の隅丸角(すみまるかど)にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が夏音文字の【陀】、その「正方形の暗黒天体部の隅丸角にある、激流の銀河」が夏音文字の【流】と解釈した。ゆえに、「登陀流天の御巣如し」という文を、[「黒歯国」となった「潜龍元を体す」の解説図]のイメージにもとづいて、「壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するがごとく」と訳した〕。

上記したごとく、大国主神は大和の天照大御神に「僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき――と誓った。
つまり、前ページにて現代語に訳したように、大国主神は天照大御神王朝に、
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神たち(つまり、王たち)は、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで服従しておつかえいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就くことができたことになる。

◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)の「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記される。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。

【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した。

前述したように、『古事記』上巻の「大国主神の国譲(くにゆず)り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
この〔天孫邇邇芸命の説話〕では、「天孫は【景】の字源をあらわす、真来通(まきとお)る測量(つまり、経度線測量)を行って、大国主神の誓いを反故(ほご)にする黒幕(くろまく)となって邪馬国(やまこく)の大和王朝の強権政策(きょうけんせいさく)に逆(さか)らって抵抗(ていこう)する不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命(あめのほひのみこと)を討伐した」と、全文を抽象的に表現して説明する。
だから、「天孫邇邇芸命は【景】の字源をあらわす経度線測量(東経13030分の測量)を行って、宗像王の天菩命を討伐した」ゆえ、天孫は皇位に就()くと【景】に【行】が加わる「景行天皇」と名づけられることになった。
「天孫」が「後の12代・景行天皇」であったと証明できる、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕の解説・証明をこれから続けると長くなるので、今回のブログはこれ以上続行せずに次回でおこなうことにする。

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