漢字の起源と発明を解明す・35
柿本人麻呂の軽皇子の成年式を詠む和歌の秘密の解明
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬(つ)かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。
◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す・32」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国(つしまこく)と一大国(いちだいこく)の「北・南」の一例のみは特殊で現在方位と同じであるが――末盧国(まつろくに)から黒歯国(こくしこく)までの32の小国記事におけるすべての方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理となり、1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理】が成立してすべて正確であると証明した。
また、『魏志倭人伝』にある「其の道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」という記事は、
下図に示すように、【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】ならば「中国の会稽と東治の東」に存在するが、
新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説のごとく【現在方位】に則る意見だと、「日本列島地図は中国の会稽と東治の東北に存在」して矛盾し不合理となる。
このように、『魏志倭人伝』の対馬国の北・一大国の南の一例を除く、全方位記事は【倭】の字源に合致して合理・正確であると証明されて【科学】が成立する。
他方(たほう)、新井白石以来の邪馬台国説畿内説と邪馬台国九州説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。
ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と指摘して、自説はあくまで正しく『魏志倭人伝』に誤り・欠点があると主張する。
上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理になるように統一されているため、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。
◆下記の和歌は、『万葉集(まんようしゅう)』巻一・48番は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が作った有名な短歌である。
東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
万葉仮名の原文は――東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡――である。
〔上記の短歌を現代語に訳すると――東の野に炎(かぎろひ)が立つのが見えて、ふりかえって見ると、月は西に傾いていた――となる〕。
この短歌にて詠(よ)まれる「東」は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」だと「南」となり、「月西渡(月かたぶきぬ)」の「西」は「北」となる。
しかし、上記の人麻呂が詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」は現在方位と同じ「東」であり、また「西」も現在方位は現在方位と同じ「西」と解釈しなければならない。
上記した『万葉集』巻一・48番の短歌は691年(持統天皇6年)かあるいは翌692年(持統天皇7年)に作られたと考えられる。
したがって、702年(大宝2年)に中国に派遣された第7回遣唐使によって、国号が「倭(倭人国)」から「日本」へ改名されたゆえ、691年・692年当時の国号は「倭」であった。
また、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
691年・692年当時は、738年に45代・聖武天皇(しょうむてんのう)によって全国に国郡の地図作成の命令が下されて、卑弥呼が立論した「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と定めた「転回日本列島地理」が改定されない以前であった。
ゆえに、691年・692年当時において、人麻呂はなにゆえ【倭】の字源を用いずに、「東」を「東」と名づけ、「西」を「西」を名づけたのであろうか。
この『万葉集』巻一・48番の和歌は、【軽皇子(かるのみこ)の成年式を祝う和歌】であった。
だから、人麻呂は【成年式を祝う和歌】において、「【倉頡の文字作成理論】における【高等学校級の学識】を示して――「東」は現在方位と同じく「東」と称し、「西」は現在方位と同じく「西」と称することにしたのである。
つまり、『万葉集』巻一・48番の短歌は「成年式を祝う和歌」であったため――人麻呂は「いまだ軽皇子は皇位に就(つ)いた天子」ではないゆえ、【天子の徳(学識)】をあらわす【最高級の大学学識】
の【倭】の字源「転回方位規定」を用いずに、【成年式にふさわしい、高等学校級の学識】を用いて現在方位と同じく「東」と「西」と表現することにしたのである。
これゆえ、人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」と「西」の用法は正しいことになる。
◆前記した柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌に詠まれた光景は、具体的に何年何月何日の何時何分の出来事(できごと)であったかをつきとめようとした人物が二人いる。
この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』53号で、わたくしは知った。
これは、大和(おおわ)岩雄著「柿本人麻呂の安騎野(あきの)の歌をめぐって」で説明され、その概要は次のごとくである。
――画家の中山正美氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂作の曙(あけぼの)の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統(じとう)6年11月17日午前5時55分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉の旅(上)』にかかげる写真のため、彼の友人・伊藤銀造氏が冬の阿騎の野へ数年がかりで通われて、ついに昭和36年12月24日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間(しゅんかん)を撮影することに成功した。そして、この12月24日は、旧暦(太陰暦)に換算すると中山氏と同じ11月17日になる。
この歌は「軽皇子(かるのみこ)の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)のうちの一つである。前の二人の調査を理由として、坂下圭八氏は、この歌の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいない」と考える。
また、この歌は、持統6年春の天皇の伊勢行幸(いせぎょうこう)に関連する歌群と、持統8年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統6年か7年の冬の作歌と推定されている。
結局、『万葉集』巻一の48番の短歌は、691年(持統6年)か翌692年(持統7年)の冬至の午前6時頃の光景を詠む歌ということになる。
下図に示す〔歳差状況図(さいさじょうきょうず・天の北極の位置図)〕に利用すると、691年・692年の天の北極と春分点を再現することができる。
上図が示すように、天の北極の位置は25,800年で円形360度を一周して、もとの位置に戻(もど)る。
ゆえに、25,800年÷360度=71.666666年となる。
つまり、【天の北極は、約71.67年に角距離(黄道の北極を中心とする大円における角距離)が1度ずつ移動している】ことになる。
現在(2024年)から692年(持統7年)は1332年前であるゆえ、歳差の変動角度は1332年÷71.67年=18.59度となる。
ゆえに、天の北極の位置と、黄道の北極を中心とする大円における春分点の位置を角距離19度(18.59度)過去にもどして再現した12月24日の天文図は、
柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の持統6年あるいは持統7年の旧暦11月17日の冬至の午前6時頃の天文の光景をあらわしていることになる。
下図は、691年(持統6年)あるいは翌672年(持統7年)の冬至の日の午前6時頃の天文図である。
注目すべきは、このとき、下図の左上に記したように、〔東北の地平線上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河が姿を現(あらわ)していた〕。
冬至の日の午前6時、いまだ太陽は地平線下に潜(もぐ)って夜は明けず暗かったゆえ――このとき、「十字の銀河」は見えたことになる。
ゆえに、人麻呂は「東北の地平線」を「東(ひむかしの)」と詠み、「姿を現した十字の銀河」を見て「野炎立(のにかぎろひのたつ)」と表現したのである。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
前述したとおり――すぐ前ページに配した「691年・692年の冬至の日の午前6時頃の天文図」の左上に表示した「東北の地平線」を人麻呂は「東(ひむかしの)」と詠み、「東北の地平線上に姿を現した十字の銀河」を「炎立(かぎろひのたつ)」と表現した。
下図に左側に配する「十字の銀河」は「〔炎(ほのお)〕の色のごとく、黄色く橙色(だいだいいろ)にキラキラと輝く」ゆえ、【炎】の字源銀河となった。
その証拠に、「十字の銀河」は【大】字形であり、【炎】の契文形は【大】字形の周囲に「炎(ほのお)」あるいは「火の粉(こ)」をあらわす短い線を四つ加えて成立する。
また、【立】の契文形も「十字の銀河の形」に相似する【大】字形の下に【一】を加えて成立する。
人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌を作った、この時は、すべてのものが生まれ変わると考えられた冬至の曙の時刻であった。
この時、軽皇子の成年式が行われていた。
この軽皇子は、人麻呂が仕(つか)えた草壁王子(くさかべおうじ・689年に死去)の御子(みこ)であった。
人麻呂が「東(ひむかし)の 野(の)に炎(かぎろひ)の 立(た)つ見えて」と詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌は、「軽皇子の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)の45番~49番までの5首のうちの一首である。
40代・天武天皇(てんむてんのう)の皇后が、41代・持統天皇(じとうてんのう)である。
持統天皇の愛孫が、軽皇子である。
持統天皇は軽皇子を擁立(ようりつ)し、697年に軽皇子に天皇を譲位(じょうい)した。
つまり、成年式から5~6年後に軽皇子は、42代・文武天皇(もんむてんのう)となった。
このような文武天皇の成年式を詠む長歌が、「軽皇子、安騎(あき)の野に宿(やど)る時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作る歌」という題詞(だいし)の、『万葉集』巻一・45番である。
この長歌において、注目すべきは、11句目の「真木立(まきた)つ」という語である。
人麻呂は軽皇子の教育係となって――軽皇子に「真木立つ、経度線測量」、言いかえると【景】の字源を教える、大雪が降る安騎の野の旅に従事(じゅうじ)していた。
この『万葉集』巻一・45番の長歌は、下記のごとくである。
やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日(ひ)の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 太(ふと)しかす 京(みやこ)を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真木立(まきた)つ 荒き山道(やまぢ)を 岩(いは)が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さり来(く)れば 三雪(みゆき)降る 阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を 押しなべ 草枕(くさまくら) 旅宿(たびやど)りせす 古昔念(いにしへおも)ひて
上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神・天照大御神の御子でいらっしゃる軽皇子は、神であるままに神らしくふるまわれるべく、都を離れて、(こもりくの)泊瀬の山の真木立つ経度線測量の修行場に入って荒い山道や岩石や前進を遮(さえぎ)る樹木を押し伏せ、(坂鳥の)朝越えられて(玉かぎる)夕方になると雪が降る阿騎の野にすすきの穂や小竹の茂みを押し伏せて、【倉頡の文字作成理論】の学問を修得するために昔を思いながら(草枕)旅寝(たびね)をなさっている。
上記したように、人麻呂が作った軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一・45番の長歌の11句目は、
「真木立つ」という語である。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
「真木立つ」という語は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の降臨」の箇所では「真来通りて」と表現される。
「真木立つ」と「真来通る」は「精確(せいかく)に経度線を測量する」と意味した。
前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて解説したように、
下図に示したように、鳥栖市(とすし)の真木と福岡県・佐賀県の県境に所在する基山(きざん)と宗像大社の高宮祭場(たかみやさいじょう)の三者は、「東経130度30分で同経度」、つまり「真木立つ・真来通る経度線」で結ばれる。
ゆえに、「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所では、「基山」は夏音文字6字で「久士布流多気(くしふるたけ)」と記される。
この「久士布流多気」は「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすことになり、「東経130度30分の串(経度線)が触れる(貫通する)山」ということであった。
基山を貫通する東経130度30分は、下図の右上に示す宗像大社の高宮祭場をも貫通する。
下図の中央の宗像大社の辺津宮(へつみや)の本殿は、高宮祭場よりわずか東側に所在して、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説する【景】の字源をあらわした。
以上のごとく、691年あるいは692年の冬至の日に近い日々、柿本人麻呂は軽皇子の成年式において教育係となって、大雪が降る阿騎の野の泊瀬の山に入って軽皇子が「真木立つ、経度線測量」を学習する修行の旅に従っていた。
それから、5~6年後の697年に軽皇子は天皇を即位した。
この5~6年の間に、軽皇子は『魏志倭人伝』に「日本列島・本州の東は南に伸びる」と記述される――下図に示す【倉頡の文字作成理論における最高学問】の「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」の【禾】【委】【倭】の字源を学んだことになる。
◆『日本書紀』の巻第七の成務天皇紀(せいむてんのうき)の末部には、
「すなわち、山河を堺(さかい)として、阡陌(せんぱく)にしたがって、邑里(むら)を定めた。こうして、東西を以(もっ)て日縦(ひのたて)と為(な)し、南北を以て日横(ひのよこ)と為し、山陽を影面(かげとも)と曰(い)ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
という記事がある。
上記の「阡陌」の【阡】の字は「南北の道」を意味するゆえ、【経】の「たて(縦)」をあらわす「経度」を示している。
また、【陌】の字義は「東西の道」であるゆえ、【緯】の「よこ(横)」をあらわす「緯度」を示している。
ゆえに、【阡】は「縦(たて)の腺」を意味する「経度線」をあらわし、【陌】は「横(よこ)の線」を意味する「緯度線」をあらわした。
他方、上記した「東西を以て日縦(ひのたて)と為(な)す」という文は「【陌】の東西の緯度線を縦の経度線に代(か)える」と定義していることになる。
また、「南北を以て日横(ひのよこ)と為す」という文は「【阡】の南北の経度線を横の緯度線に代える」と定義していることになる。
だから、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為(な)す」という文は、
上記した【禾】【委】【倭】の字源をあらわして、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」について説明していたことになる。
下図は、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為す」と定義された、【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理図」である。
◆前記したように、軽皇子の成年式を詠む「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」は、『万葉集』の巻一の45番~49番までの5首である。
この軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番につづく50番「藤原宮(ふじわらんみや)の役民の作る歌」という題詞(だいし)長歌の末部には、下記のごとくの説明がある。
「日本書紀に――朱鳥(あけみとり)七年八月、藤原宮地に行幸(ぎょうこう)された。八年正月、藤原宮に行幸された。同年十二月六日に藤原宮に遷(うつ)られた。」
藤原宮に都が遷された朱鳥八年十二月六日は、694年12月6日であった。
ゆえに、軽皇子の成年式がおこなわれた2~3年後の12月6日、藤原宮に遷都されたことになる。
軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番から3首後の52番の題詞(だいし)は「藤原宮(ふじはらのみや)の御井(みい)の歌」である。
したがって、この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、軽皇子の成年式から2~3年後の694年12月6日に遷都された藤原宮を詠む長歌ということになる。
この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」には、
上記した『日本書紀』の成務天皇紀の末部に、
「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為し、山陽を影面(かげとも)と曰(い)ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
と記される語が登場する。
だから、『万葉集』巻一・52番の長歌は――軽皇子の成年式が行われた691年・692年当時にも、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る【転回日本列島地図】が実在していた――現在に伝えている。
『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】をあらわす「日縦(日の経)、日横(日の緯)、背面(そとも)、影面(かげとも)」という語が登場する『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、下記のごとくである。
やすみしし わご大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日の皇子(みこ) あらたへの 藤井(ふじゐ)が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤(つつみ)の上(うへ)に あり立たし 見したまへば 日本(やまと)の 青香具山(あをかぐやま)は 日の経(たて)の 大(おほ)き御門(みかど)に 春山と しびさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の
大き御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり 名ぐはしき 吉野(よしの)の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高知(たかし)るや 天(あめ)の御陰(みかげ) 天知(あめし)るや 日の御陰の 水こそば 常(つね)にあらめ 御井(みゐ)の清水(すみみづ)
上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神の御子であられる天皇が(あらたへの)藤井が原に宮殿を造り始められ、埴安の池の堤の上にお立ちになって眺(なが)められると、大和の国の青い香久山は日の経(たて)にして緯度軸を経度軸に代えて(転回日本地図をあらわす)東面の大きな御門となって、春山らしく茂り立っている。畝傍のこのみずみずしい山は、日の緯(よこ)にして経度軸を緯度軸に代えて(転回日本列島地図をあらわす)西面の大きな御門となって瑞山(みずやま)らしく香久山を佐(たす)け備わって存在する。耳梨の青い菅山は山の陰(きた)の北面(背面)の大きな御門として、宜(よろしき)名を立派(りっぱ)に示して神々(こうごう)しく立っている。名高い吉野の山は山の陽(みなみ)の南面(影面)の大きな御門から雲浮かぶ空遠く彼方(かなた)に存在する。高く聳(そび)える天つ神の御殿にして天知(あめし)る日の御子の御殿である、ここ藤原宮の水こそは永遠に栄えあれ、転回日本列島地理を映す鏡となる御井の清き水よ。
だから、『万葉集』巻一・48番の人麻呂が作った軽皇子の成年式を祝う短歌にある、
初句の「東(ひがしの)」と、結句の「月西渡(つきかたぶきぬ)」の「東と西」を注目して、
――『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則る【転回日本列島地図】は実在しなかった――と否定することはできない。
というのも、上記して解説し証明したごとく、691年~694年当時、卑弥呼が「日本列島の東は南へ伸びる」と立論した【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】は実在していたからである。
以上のごとく、【倭】の字源に則ると『魏志倭人伝』における対馬国と一大国の方位を除く全方位記事は、一点の矛盾点も無く不合理な点も存在しないで【科学】が成立するゆえ、
このブログが詳細に解説して証明してきたとおり、2世紀末~738年の45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代まで、卑弥呼が立論した【倭】を字源に則る【転回日本列島地理】は実在したことになる。
いっぽう、【現在方位】に則る邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源に則る【転回日本列島地理】を無視するがために、『魏志倭人伝』に記される方位記事に対して幾つかの矛盾点や不合理な点が生じることになって【科学】成立しない。
だから、学界が一番正しいと評価する新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は【わが国の学問の起源、また根源を破壊する空理空論】であったことは否定できない事実となる。
〔追補〕
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」においいては――過去の天文図の様子や天頂緯度線の様を表示する再現図を多数用いて解説した。
この「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する方法」について、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」では前ページで簡単に説明した。
しかし、今回まで「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する算出方法」について詳細に解説するチャンスがなかった。ゆえに――前ページで簡単に説明してくりかえしになるが――この場をかりて詳細に説明することにした。
上図の「歳差状況図(さいさじょうきょうず)」が示すように、天の北極は25,800年で黄道の北極を中心にして一周する。
円周は360度であるから、25,800年÷360=71.6666年となる。
したがって、天の北極は71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動していることになる。
また、下図に示す天の赤道と交わる、春分点も25,800年黄道の北極を中心にして一周している。
ただし、黄道の北極と天の北極を結ぶ延長線上に、春分点は位置しない。
ゆえに、黄道の北極と現在の天の北極を結ぶ軸と、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ軸は別々にしなければならない。
上記したように、春分点も71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動している。
現在は2024年であるから、黄帝時代は今から約5020年前となるゆえ、
5020年÷71.666年=70.04716322となる。
ゆえに、現在の天の北極から角距離70度過去のほうに戻した黄道の北極を中心とする、上図の天の北極の大円の円周の位置が紀元前3000年ころの黄帝時代の天の北極の位置となる。
また、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ線よりも角距離70度過去のほうにもどした、黄道の北極を中心とした円周上の位置が黄帝時代の春分点となる。
ゆえに、上図に示したように、前もって23度27分の傾きで交わる黄道と天の赤道の大円が交わる春分点と秋分点、そして天の北極をも表示する透明フイルムを作り、
星座や銀河などを表示する基盤の上に、
黄帝時代の天の北極と春分点の位置を合致するように重ねあわせれば、黄帝時代の天文図、あるいは天文盤(通称、星座盤)が出来上がる。
要するに、その古代は現在から何年前になるかを計算し、その差額年数を71.6666で割れば、その古代の天の北極と春分点の位置を定めることができるゆえ、その古代の天頂緯度線や天文図の状況を再現することもできる。
もちろん、未来のほうへ角距離を移動させれば未来の天頂緯度線と天文図の状況も再現できる。
天文の緯度の表示方法はいろいろあるが、そのうち〔赤緯(せきい)〕を用いるとよい。
上図の黄道と天の赤道が交わる春分点・秋分点と天の赤道を表示した透明フイルムに印した数字は〔赤緯〕の緯度数である。
赤緯は地球における北極・北緯90度(北極点)の天頂を〔+(プラス)赤緯90度、南極・南緯90度(南極点)の天頂を〔-(マイナス)赤緯90度、地球の赤道の天頂を±0度〕と定める。
ゆえに、たとえば北緯34度49分の天頂は+赤緯34度49分となる。
このように、土地の緯度数と天頂の赤緯の緯度数は同一であるゆえ、赤緯を用いると過去・未来における各地の天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲、そして星座のどの部分かなどを楽々と知ることができる。
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