漢字の起源と発明を解明す・38
わが国には中国の甲骨文字より約700年前の【最古の漢字出土史料】が実在した
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。
◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得(しゅうとく)して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
【倉頡が死刑と定めた(Ⅲ)の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
【書かれた夏音文字は消されて後世に残らないことになった】が
前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』と8世紀初頭に成立した『古事記』上巻の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数残った。
◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら)う)」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。
壬申の乱の9年後の681年(天武天皇10年)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681年(天武天皇10年)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』が完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「〔音〕という注がつく夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとく【わが国が後期縄文時代初頭(紀元前2050年頃)に習得した夏音文字】についてである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫(そ)れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其(そ)の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝(こ)り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(約2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2050年頃)において、益氏(えきし)がもたらした【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」
◆前記したように、『魏志倭人伝の後半部』には、下記のごとく――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――と説明する。
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
上記したように、『魏志倭人伝』の後半部にある文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。
◆白川静博士は、わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる。
白川静博士は『字統』(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
益氏が、紀元前2050年頃(わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏代黎明期)から、わが国に教え広めた夏音文字の字音である。
益氏が教え広めた夏音(夏音文字の字音)は、『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名はじめ動物や事物の名称などになって、楷書を意符・音符にして多数残っている。
また、夏音は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の記される夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。
中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在する夏音文字は益氏の王子と若者たちが紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国にもたらした漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
◆1955年(昭和30年)の夏、長野県茅野市の尖石(とがりいし)の縄文住居跡から石板(せきばん)が出土した。
この石板には、5つの図書が刻まれていた。
この【石板に刻まれていた5つの図書】は、【『魏志倭人伝』の随所】と【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する、最古の漢字音を示す夏音文字】、つまり【中国の甲骨文字(契文)よりも約700年前の、最古の漢字の夏音文字】であったと可能性大となる。
要するに、わが国には【甲骨文字(契文)よりも古い、最古の夏音文字の出土史料】が実在したと考えられる。
ところが、この石板の図書(夏音文字の出土史料)は偽作と解釈されて、現在廃棄(はいき)され失われて残っていない。
この石板は、三笠宮一行によって発見された。
この石板の出土地は、昔から「尖り石さま」といって祭られていた土地であった。
「尖り石さま」の丘の麓には、直径1m、高さ1mぐらいの三角錐状(さんかくすいじょう)の岩石がある。その表面には、多年にわたる刃物の研(と)いだ痕(あと)が残っている。
この石板は、「尖り石さま」の丘の麓にある岩石から100mほど斜面を登った台地から発掘された。
そこは、縄文時代の住居跡であった。
長野県茅野市の尖石縄文考古館の玄関近くには、約5000年前(紀元前2500年頃、中期縄文時代初頭)に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶が常設展示(じょうせつてんじ)されている。
この「縄文のビーナス」は尖石の棚畑遺跡(たなばたけいせき)、つまり尖石の環状集落(かんじょうしゅうらく)の中央広場の穴の中に埋蔵(まいぞう)されていた。
「縄文のビーナス」は27㎝の完形(かんけい)・大形の妊娠土偶とされ、わが国最古の国宝である。
尖石縄文考古館の玄関近くには、「縄文のビーナス」の傍(かたわ)らに、もう一つの国宝「仮面の女神」という土偶が常設展示されている。
この国宝「仮面の女神」もまた、大形の妊娠土偶である。
「仮面の女神」は尖石の中ッ原遺跡(なかっぱらいせき)から出土した、約4000年前(わが国において益氏から夏音文字を習得した紀元前2000年頃、後期縄文時代初頭)に作られた、34㎝の完形・大形の妊娠土偶とされる。
だから、尖石縄文考古館に所蔵された「石板に刻まれる5つの図書」は、「仮面の女神が作られた約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)に習得された夏音文字」であった可能性がある。
あるいは、この「5つの石板画」は後世に刻まれた夏音文字の出土史料であったにちがいない。
前々回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・36」にて詳細に解説したように、
「仮面の女神」は「わが国が習得した、精確(せいかく)な中国海岸線地図」と密接に関連する。
「仮面の女神」が被(かぶ)る「三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図の作成方法となる土地三角測量法」をあらわしていた。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝時代を説明する記事には「黄帝が虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「土地三角測量をおこなって地図を作製する役職の長官。また、長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は土地三角測量して地図を作製する長官とその氏族に戦闘を教えた」と説明していたことになる。
司馬遷著『史記』五帝本紀には、「益氏は、五帝時代最後の帝王・舜(しゅん)に、【虞(ぐ)】という重職(じゅうしょく)に就(つ)くように命令された」という記事がある。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確(せいかく)な中国海岸線地図を作製する長官」に任命されたことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図の作製と測量」は「中国の南部の呉から着手(ちゃくしゅ)する」と定められた。
このため、上記したように、「益氏の役職」は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「夏王朝(かおうちょう)が始まるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の重職に就(つ)き、一族の先頭に立って中国海岸線測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力したことになる。
「虎」といえば、夏音文字の【奴(な)】の字と密接に関連した。
夏音文字の【奴】は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげていきみ・きある怒責(どせき)」をあらわした。
だから、「土地三角測量の三角形の仮面をかぶる、仮面の女神」の土偶は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する妊婦」をも表現するものであったと考えられる。
夏音文字の【奴】の字源・字義は
(1)「強大な力を有するジャコウウシ」
(2)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(3)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(4)ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器官」などをあらわした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
下図に示すように、「仮面の女神」の「妊娠」を形つくる腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)す」という記事があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが組む円陣を参考にして、軍兵たちは円陣を作って自衛した」と意味した。
ジャコウウシの群れは危険を察知すると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくすジャコウウシの子」は「子宮で育つ胎児(たいじ)」に見立てられて、
「ジャコウウシ」は【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部に刻まれる同心円形文様」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」を表現するものであったにちがいない。
◆上図に示す「仮面の女神」は「わが国が夏音文字を習得した後期縄文時代初頭」に作られた(上図は尖石縄文考古館発行『仮面土偶発掘の記録』の20ページ21ページから転載)。
そして、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、「仮面の女神」が作られた後期縄文時代初頭において日本列島各地の氏族たちが習得した。
この「紀元前2000年頃に、日本列島の各地で習得された夏音文字」は「紀元前1300年頃から出現した契文(けいぶん・甲骨文字)や紀元前1046年頃から出現した金文よりも字源・原義を失わない、【倉頡の文字作成理論】により失わない漢字の祖型(そけい)」であった。
ゆえに、前記した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に刻まれていた5つの図書」は「夏音文字」であったと考えるべきことになる。
「5つの夏音文字が刻まれていた石板」は1955年(昭和30年)の夏以降から1994年(平成6年)頃までは尖石縄文考古館に所蔵されていた。
その以後いつであったかは定かではないが、新聞記事で「石板に刻まれる5つの絵柄は、後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作と考えられるゆえ――尖石縄文考古館は廃棄(はいき)することにした」ということを知った。
しかし、「後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作」と考えるのは、早計(そうけい)で軽率(けいそつ)で独断(どくだん)であったことになる。
もしも「石板に刻まれた5つの図象」が「仮面の女神と同時代の後期縄文時代初頭の作品」であったとしたならば、「仮面の女神」と同様に「国宝」に値(あたい)する貴重な出土史料であったことになる。
たとえ、尖石縄文考古館が考えたとおりに「後世の作品」であったとしても――この「石板画」は「夏音文字であった可能性」はとなる。
その証拠に、前記したように「夏音文字」は、712年1月28日に元明天皇(げんめいてんのう)に献上された『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在するからである。
【中国の最古の漢字よりも約1000年も古い、現在における最古の夏音文字の字音】が『古事記』上巻の随所に、あるいは『魏志倭人伝』に多数記載されて残って実在する。
だから、――【尖石遺跡における縄文時代の住居跡から発掘された、石板に刻まれた5つの図書】は「音文字であった可能性」が大となる。
712年当時、『上古の諸事』・『本辞(ほんじ)」』・『旧辞(きゅうじ)』・『先代(せんだい)の旧辞』などと呼ばれた『古事記』上巻の原典(げんてん)となった古文書には「夏音文字」が多数記されて残っていた。
ゆえに、「わが国に、夏音文字が存在していた年代」は「紀元前2050年頃~712年頃まで」ということになる。
したがって、「尖石の縄文住居跡から発掘された石板画」がたとえ「712年とほぼ同時代の8世紀初頭の作品であった」としても「後期縄文時代と8世紀の夏音文字の字体・字形はほぼ同じ」となるゆえ「後世の偽作」ということにはならない。
だから、尖石縄文考古館の判断は非情に軽率な独断であったことになり、「尖石の縄文遺跡から出土した5つの石板画」は「夏音文字であった」可能性が大となる。
◆下図に、「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」を示した。
この石板の大きさは、幅40㎝、長さ30㎝、厚さ20㎝である。
前述したように、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における
(Ⅱ)は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」であった。
この(Ⅱ)の掟のためであろうか――現在においても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
上図の左上の端に、わたくしが「三つ輪の銀河」と名づけた銀河がある。
この「三つ輪の銀河」の西となりの銀河を「十字の銀河」、「十字の銀河」の西となりの銀河を「鬼の横顔に似る銀河」、「十字の銀河」の南となりの銀河を「激流の銀河」と、わたくしは名づけた。
下図は「三つ輪銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河の図」である。
上図の「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」を観察した心象(イメージ)にもとづいて、
前ページに示した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に線で刻まれた5つの夏音文字)」を、
わたくしは「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯(か)れ 川の水も涸(か)れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈(の)る」
と解読した。
下に、(A)「来る日も来る日も日照りつづく」、 (B)「草と木が枯れ 川の水も涸れる」、(C)「天の神に」、(D)「雨が」、(E)「大量に降るように祈(の)る」の解読図を配した。
下図に示すように、(A)「夏音文字」は「日光」をあらわす「複数の放射線の中央」に、「二つの太陽がならぶ」ゆえ「来る日も来る日も」と解読した。
この「二つの太陽の夏音文字」には斜体【y】字形の夏音文字が重なる。
この斜体【y】字状の図書は、「日照り。水がれ」を意味する「干魃(かんばつ)」の【Y】字形の【干】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)や金文形に相似する。
ゆえに、この「斜体【y】字形の図書」は「【干】の夏音文字」であったと考えられる。
下図は、(B)「石板の右下の夏音文字の上部」における「川岸に群生する葦(あし)の穂と茎と、木の絵柄」の解読図である。
下図に示すように(B)「葦の穂と茎の絵柄」は「茂(しげ)る葉が落ちて葉冠部(ようかんぶ)が枯れて細る木の形」に観(み)える。
ゆえに、(B)の絵柄(夏音文字)を「草と木は枯れる」と解読した。
下図に示す、(B)「石板の右下の、下部の絵柄」を「縦の線」と、そして「川底がむき出しの水が流れていない川」を表現していると解釈した。
下図の右の端(はし)にある(B)「長い縦線(たてせん)」は「葉が落ちて枯れて茎だけになった草」と、「葉が落ちてやせ細って枯れた、幹だけになった木の幹(みき)」を表現していると解した。
この(B)「枯れた草と木をあらわす、長い縦線」は「上部の右端(みぎはし)の、枯れた葦の穂と茎の絵柄」と重なる。
ゆえに、上記したように、上図における(B)「石板における右下の上部の絵柄」は「草と木が枯れる」と解読した。
また、下図の上部の(B)における「川」をあらわす図書は「川底がむきだしの水が流れない川の様子」をあらわしているのに対して、下図に下部の(B)「激流の銀河」は「水があふれんばかりに豊富な川の様子」をあらわしている。
ゆえに、この(B)石板画の「川」の図書の形状から「川の水も涸れる」と解読した。
下図に示すように、(C)「石板画中央の絵柄」は【天】の金文形に相似する。
ゆえに、(C)「石板画中央の絵柄(夏音文字)」を「天に。つまり天の神に」と解読した。
下図に示すように、(D)「縦線(たてせん)」は「雨」と解読した。
縦線からなる漢字【丨】の字音は「こん」と「し」である。
白川静著『字統』は漢字【丨】について――上下の通ずる関係をあらわす・『説文解字』は「上下、通ずるなり。引いて上行するは、讀みて恖(し)の若(ごと)くし、引いて下行するは、讀みて退(很・こん)の若くす」という。上行の字は草が初生とされるものであるから、象形となる――と解説する。
だから、(D)「縦線」は夏音文字の【丨(こん)】、つまり「上(天)から下(地)へと落下する雨が。下行する雨が」と解読した。
下図に示すように、「十字の銀河の胸部から鬼の横顔に似る銀河の角(つの)と額(ひたい)」にかけて「三垂(さんすい・三本の縦線)が垂れる銀河部」があり、また「十字の銀河の乳房から鬼の横顔に似る銀河の口」にかけて「三垂(三本の縦線)が垂れる銀河部」がある。
この「二か所の銀河部から三垂」は「三本の線」で「大量の雨」を表現していると考えたゆえ、
(E)「三垂(三本の縦線)」を「(雨が天から)大量に降るように祈(の)る」と解読した。
以上のごとく、「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は、
「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯れ 川の水も涸れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈(の)る」という文を構成する夏音文字であったことになる。
◆尖石縄文考古館は、「5つの夏音文字の石板画」の他に、もう一つ夏音文字が線刻(せんこく)された石刻画を所蔵した。
この石刻画も廃棄(はいき)されたのであろうか? それとも残っているのかについては、わたくしは知らない。
この「夏音文字の石刻画」は、下図のごとくである。
下図に示したように、この夏音文字は「左手(東側の手)に弓を持つ人物」が描(えが)かれている。
ゆえに、この絵柄は【射】の夏音文字を刻む遺物と考え在られる。
古語では「弓を持つほうの手」を「弓手(ゆんで)」とよび、つまり「左手(ひだりて)」を意味する。
ゆえに、前述したように――上図の線刻画のおける「弓を持つ手」は「左手」となる。
下図に示すように、「十字の銀河」は「左手(東側の手)」に「弓」を持つ。
つまり、下部の「十字の銀河の図」において、【南】を正面とするゆえ【向かって左側】は【左=東】となる。
【夏音文字・甲骨文字(契文)・金文・篆文(てんぶん)や楷書など全漢字の形式】は、【左=東・右=西】と定まる。
ゆえに、上図の石刻画の人物は、「十字の銀河」と同じく「左手に弓を持っている」ことになる。
このよに、上図の石板における人物画は全漢字の形式【左=東・右=西】に合致している。
だから、上図の「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」」は【「十字の銀河」を図案する夏音文字】であったと考えるべきことになる。
上図の「左手に弓を持つ人物の石刻画」は、もしかしたならば「後期縄文時代初頭の造化の神の、神産巣日神(かむむすひのかみ)」を表現しているのではあるまいか。
前ページにて現代語に訳したように、「古事記上巻 并(あわ)せて序」の冒頭文にある「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す」という文は、
「【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶(どぐう)を作った、前期縄文時代の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文時代の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、さらに後期縄文時代初頭の神産巣日神などの約2000年間における造化芸術の神の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)に益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確(せいかく)な地図を作製する方法】を習得した」と説明していたことになる。
下図は、尖石台地(北緯36度)における「造化参神の図」である。
下図に示すように、「十字の銀河における左手に持つ弓」の東となりは「三つ輪における、もっとも南の輪の銀河」である。
下図に示すように、(3)「神産巣日神の天頂緯度線」は「三つ輪の銀河におけるもっとも南の輪の銀河中央」を貫通している。
だから、尖石縄文考古館が所蔵した「左手に弓を持つ人物を描く石刻画」は「益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確な地図を作製する方法】を習得した、後期縄文時代の造化芸術の神・神産業巣日神」を表現するものであったと推測される。
以上のごとく、前ページにて示した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」から図案された【夏音文字】であったと考えられる。
また、「尖石縄文考古館蔵の弓手(左手)に弓を持つ人物の石刻画」も、「十字の銀河」を図案する【夏音文字】であったと考えられる。
前ページで解説した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」のモデルとなった「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は【倉頡の文字作成理論の基幹(きかん)銀河】となる。
言いかえると、「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は、
倉頡伝説が「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代(か)えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜(よ)な夜な聞こえたという」と説明する銀河となる。
前回のブログ」漢字の起源と発明を解明・37」にて解説したように、下図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡」をあらわし、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」となった秘密をあらわす。
その証拠に、下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
だから、このような観点からしても「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」と「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」は、両方とも「夏音文字の出土史料」であったと考えるべきことになる。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)は七人の子、つまり子弟の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)が従っていた」と記述する。
「不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命」は「精確阿な中国海岸線地図を知っている、三角土地測量して精確な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は、
「宗像王の天菩比命に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の建比良鳥命」であった。
下に、遠江(現在の静岡県西部)の豪族・建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県浜松市浜名区の細江町(ほそえちょう)の行政区画を表示する地図を配した。
現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」であるが、その以前は「静岡県浜松市北区細江町」であった。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km2)である。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」または「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮(はちまんぐう)の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」は、このブログの前ページで解説した尖石縄文考古館が常設展示する国宝「仮面の女神」が顔に被(かぶ)る「三角形の仮面」と密接に関連する。
つまり、「仮面の女神の、三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図作成方法の基礎となる土地三角測量法」をあらわした。
このような「大三角形」の基(もと)に三角形の網(あみ)や鎖(くさり)を形作(かたちづく)って、その頂(いただき)に三角点を埋設(まいせつ)し、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精確な地図を作製できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による土地三角測量を行うことができなかった。
ゆえに、建比良鳥命とその一族は卑弥呼の地上絵の作製を260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させた。
『魏志倭人伝』に記された最終年号は「魏の正始八年」、つまり西暦247年であり、その以後にも記事が少し続くゆえ、『魏志倭人伝』の記事は250年頃の様子を伝えて終わることになる。
ゆえに、「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」は『魏志倭人伝』の記事の終末年直後の10年後には早くも着手されていたことになる。
通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は、陳寿著(ちんじゅちょ)『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部にある〔倭人伝〕である。『三国志』魏書は280年~289年に成立した。
だから、上記したように卑弥呼の地上絵は260年に作製が着手されて290年頃に完成したゆえ、
『魏志倭人伝』と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。
現在まで、細江町内(卑弥呼の地上絵内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どたく)が出土している。
これらの銅鐸を天頂緯度の測定(そくてい)と三角土地測量に使用して、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年~290年頃に作製されたことになる。
◆卑弥呼の地上絵内(細江町の中川)の悪ヶ谷(あくがたに)遺跡から1口の悪ヶ谷鐸(総高64㎝ 明治45年3月2日に発見)が出土した。
悪ヶ谷鐸は、三遠式の縦横凸線帯(じゅうおうとっせんたい)の六区画・袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸である。
この悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん・胴体)には【夏音文字と同じく線描(せんびょう)の――オス鹿と二羽の鳥の絵画】が鋳出(ちゅうしゅつ)されていた。
悪ヶ谷鐸は東京国立博物館が所蔵している。
悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込(いこ)まれていた【オス鹿と二羽の鳥の絵画】は、
中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)に、
「精確な中国海岸線地図」について説明する、下記のごとくの文をあらわしていると考えられる。
「易(えき)は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察す。」
高田真治・後藤基己(もとみ)訳者『易経(下)』(岩波書店発行)は、上記の「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩(も)れなく包みこむ」と訳する。
上記した『易経』繋辞上伝の「「易は天地と準う」という文の先頭の【易】の字について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)」と解説する。
「蜥易」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには、かならずもとのすみみかにもどるという帰家性(きかせい)がある。
ゆえに、「易は天地と準う」という文は「遠くの地に旅する人や大海を渡る人は、旅の途中における各地点で観測する天頂緯度と観測地点の緯度を同一とする原理に則(のっと)れば、かならず家族が待つ家に帰還(きかん)することができる」と意味した。
下図に示すように、【道】の字源銀河は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
「オス鹿の横顔に似る銀河」における「オス鹿の角(つの)」は「十字の銀河」、そして「オス鹿の横顔」は「鬼の横顔に似る銀河や、北アメリカ星雲・ペリカン星雲、長方形の暗黒天体部、長方形の暗黒天体部の南の銀河部」によって形成される。
「オス鹿の横顔に似る銀河」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)から現在まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。
下図に示すように、中国の「廟島列島(びょうとうれっとう)」は「オス鹿の角」に見立てられ、「山東半島(さんとうはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下図の「廟島列島と山東半島」は【道】の字源をあらわす地宜となった。
だから、悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込まれていた「オス鹿の絵」は「天のオス鹿の横顔に似る銀河と、地の廟島列島・山東半島」、つまり上記した『易経』繋辞上伝における「天地の道」をあらわすものであったことになる。
下図に示す「山東半島の地宜」は【弥】の字源「水鳥のカンムリカイツブリの頭部の形」に相似するとも見立てられ、「山東半島の付け根から北と南へ延びる海岸線の形」は「空を飛翔(ひしょう)するカンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。
「山東半島から南に延びる海岸線」は「長江口(長江の河口)と杭州湾(こうしゅうわん)」で「裂(さ)けて破れるような形状」となるが、「杭州湾の南端からは、もとどおりにつくろいおさめる形」となって緩(ゆる)やかな曲線を描く海岸線となる。
だから、『易経』繋辞上伝は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」を「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
下図に示すように、【綸】の字をあらわす「杭州湾の地宜」は夏音文字の【呼】の字源でもある「水鳥の鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似する。
ゆえに、悪ヶ谷鐸の胴部にある「二羽の鳥の絵柄」は【弥】の字源「カンムリカイツブリ」と、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」を表示するものであったと考えられる。
以上からして、『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察す」という文は、
――遠くの地を旅する人や大海を渡る人が、かならず家族が待つ家に帰ることができる方法は、旅の途中で度々(たびたび)観測する地点における天頂緯度とその観測各地点の緯度は同じと定める方法のみ一つである。ゆえに、中国各地の天頂には【道】の字源銀河「オス鹿の横顔に似る銀河」が通過し、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜となり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の形は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」に相似し、「杭州湾」は【綸】の字をあらわすことになった。仰いで各地点で天頂緯度をキャッチして、その緯度を俯してもって観測地点の緯度と定めて、各地域で土地三角測量すれば、中国全土を洩れなく包みこむ精確な中国海岸線地図が作製できた――と説明していたことになる。
◆前述したように、わが国の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子は「精確な中国海岸線地図と、精確な地図を作製する土地三角測量」を教え広めた。
ゆえに、3世紀後半(260年頃~290年頃)、不呼国(ふここく)・遠江の一画に1千万坪の「精確な中国海岸線地図を図化する、卑弥呼の地上絵」が作製された。
下図に示す「卑弥呼の地上絵における頭部と両翼(細江町の境界線)」は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」となって「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」を表示している。
下図の左下の「細江町の境界線」、言いかえると「細江町と隣接する引佐町(いなさちょう)の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【綸】の字をあらわす「杭州湾・鳰の形」となる。
その証拠に、下図に示すように、「引佐町の金指地区・井伊谷地区の地宜」は「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
下図に示すように、(1)【弥】の「カンムリカイツブリの頭部を有する大鳥の地宜」と、(2)「都田川(みやこだがわ)の沖積平野(ちゅうせきへいや)」と、(3)「象の顔と鼻の形の地宜」とで構成される。
上図における(3)「象の地宜における強力の鼻息(はないき)」を【弥】の「大鳥の地宜の西南の翼」に吹きかけて、「大鳥の地宜」における【弥】の頭を東に向くように引佐(いなさ)すると、要するに「左へ引く」と、下図における右図のごとくになる。
下図の右図「【弥】の頭と東の境界線の形」は、左図の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の形」に相似する。
すぐ前にて図示したように、「細江町の境界線で区切られる引佐町の金指・井伊谷地区の地宜」は夏音文字の字源【呼】の字源をあらわすとともに、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」に合致して「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
だから、「卑弥呼の地上絵」は『易経』繋辞上伝における
「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であったことになる。
下図に、悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん)に鋳込めらた「オス鹿と、二羽の鳥の絵画」を示した。
いままで解説してきたように、下図の「オス鹿の絵」は【道】つまり「天地の道」、「二羽の鳥の絵」は【弥】と【綸】をあらわしている。
上図の「悪ヶ谷鐸のオス鹿の二羽の鳥の絵柄」は「文字」ではなく、要するに「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であった。
ゆえに、この「悪ヶ鐸の絵画」は「夏音文字」の字形を用いる、あるいは「夏音文字」の字形を真似(まね)する図書であったと考えられる。
だから、今日まで多数出土して発見されたいわゆる「銅鐸絵画」は「夏音文字の字形に影響されて、線で描く図書」であったと考えられる。
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