漢字の起源と発明を解明す・40ー1
『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(1)
◆漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆『魏志倭人伝』は、下に記す3種の事柄を説明する。
しかし、学界は定説や有力説にもとづいて、これら3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろこく)以下の記事にある【方位記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。
だから、邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びるといると説明する転回日本列島地理は誤っている」と否定する。
【3】『魏志倭人伝』の12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)は、女王卑弥呼が王国名を「邪馬壹(壱)国(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺(台)国」こそが正しい。
上記の3種の記事はすべて正しかったのである。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭、最初に漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細して証明した。
ゆえに、上記の【1】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。
だから、学界の定説は根本的に誤っていた。
次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを解説して証明する。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、倭人国は卑弥呼を倭女王に選び国家を創設することになった。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を否定する、学者たちやメディアが最も正しいと思い込む邪馬台国説もまた、【1】同様に、史料の表層を一瞥(いちべつ)しただけの軽率(けいそつ)で粗雑な意見であったことになる。
◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
ところが、現在の学者たちは即座に「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と否定する。
でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。
倉頡伝説は下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄(三皇時代の易占に用いた記号)に代えたので、天は祝福して、禾(か・稲。稲や麦などの穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」
中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。
この「倉頡の肖像画」は、騙(だま)し絵であった。
上に示した「四つ目の倉頡の肖像画」は「人物画(地上に住む人の顔に目を四つ描く絵)」であった。だから「騙し絵」ということになる。
この事実も知らないで、現代の学者たちは「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。
これゆえ、彼らは自らの大失敗にまったく気づかず「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高(こえだか)に主張する。
倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。
下に、「天理(天にある道理)の十字の銀河」と「天理の四つ目の怪人・倉頡」つまり「鬼の横顔に似る銀河」を配した。
下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼(二つの目)となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目は一つ」あるゆえ、
「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。
だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。
前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化(ごまか)して隠ぺいするための騙し絵」であったのである。
倉頡(そうきつ)は「天理(夏の銀河各部の形状)と、天理と異なる地理とで構成される」と「辞理(文作成理論)」を定めた。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」において、「辞理」という語は「古事記上巻 并せて序」の末部に登場すると指摘した。
つまり、「古事記上巻 并せて序」末部の「辞理の見え叵(がた)きは、注を以(も)ちて明らかにし、意況(いきょう)の解(さと)り易(やす)きは、更(さら)に注せず」という文の先頭が「辞理」という語である。
前述したように、【天理(夏の銀河各部の形状)は完全なる合理からなり、地理は天理と異なって少数の不合理な点や欠点や弱点を有する」という理論】が【辞理】であった。
ゆえに、中国の五経の第一にあげられる『周易(しゅうえき)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)の冒頭文は「天尊地卑」、つまり「天理は尊く、地理は卑し(地理は天理より劣る)」と記述する。
倭女王名の「卑弥呼」の【卑】は「地理は卑し」の【卑】と同義であり、
つまり、夏音文字【卑】は「地理に精通する大学者」を意味し、断じて今日のごとく「下賤(げせん)である」と意味するものではなかった。
◆このブログが幾度となく解説したように、『魏志倭人伝』の「倭人国には牛と馬は無い(つまり、生息していない)」という記述における【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」を意味し、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」と意味した。
これゆえ、【現代の学者たちは四つ目の肖像画を見て「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけ)作り話である」と騙(だま)された】の【騙】の偏に用いられた【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。
下図に示すように、【馬】の字源となった銀河は【「十字の銀河」とその東となりの「三つ輪の銀河」】であった。
「十字の銀河」は「月光にきらめく沙(すな)のように壮麗な妊婦の姿」をしており、「三つ輪の銀河」は「月光に沙がきらめく土地の沙漠、つまり瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)をあらわす、天理」となった。
「三つ輪の銀河」は夏の銀河において最も東に位置し、「三つ輪の銀河」の東となりは「秋の銀河の西端(にしはし)」である。
ゆえに、【馬】の字形は「天理」の「十字の銀河」から図案された。
下図に示すように、「十字の銀河」が【馬】の字形となり、「三つ輪の銀河」の字形は「馬(フタコブラクダ)が生息するゴビ沙漠」に相当すると見立てられて図案された。
だから、【馬】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「十字の銀河」を「フタコブラクダの姿」に相似するように図案された。
『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南一海を度(わた)る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰(い)う。一大国(長崎県北部の壱岐)に至る」と記述する。
これゆえ「対馬国の南の海」は「瀚海(かんかい)」と名づけられ、「瀚海は対馬国と一大国の中間の、現在の東水道」であった。
上記したように、「瀚海」は「馬が生息するゴビ沙漠」を意味した。
下に、「対馬国・瀚海・一大国の図」を配した。
下図に示す「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を見て――卑弥呼は「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜のフタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てた。
「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠・瀚海を歩くのに都合(つごう)がよい、じょうぶな足の指を有する大きな足底、あるいは沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
【馬】の字源銀河は、上記したように「十字の銀河」である。
上図に示したように――「下県の、フタコブラクダの足底の形(爪先の形)」は[北]に向く。ゆえに、卑弥呼は、瀚海(ゴビ沙漠)を対馬の[南]に配置したが、
「対馬の[北]にある現在の西水道」もまた「瀚海」であったと示していた。
だから、「対馬の上県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の正面形」となって【対】し、
「対馬・下県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の足底の形で【対】するゆえ、
卑弥呼は小国名を【対】に【馬】を加える「対馬国」と定めた。
また、「対馬国の上県の地宜は「[南]に進む【馬】の形となって、[南]に瀚海がある形」、
「対馬国の下県の地宜」は[北]に進む【馬】の形」となって、[北]にも瀚海がある形」を示す。
したがって、【瀚海の位置が[南]と[北]に対することになる】ゆえ、卑弥呼は小国を「対馬国」と名づけることにしたのである。
前ページで図示したように、「天理の馬は瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠の西となり」にある。
それに対し、「地理の瀚海・ゴビ沙漠は対馬国の南の一海」となる。
だから、「瀚海の北にある[対馬]の【馬】」は、「だまし」の漢字【騙】の偏となる【馬(フタコブラクダ)】をあらわした。
下図は、瀚海の南にある「一大国、現在の長崎県北部の壱岐」の地図である。
一大国における、「現在方位の西部は、馬の顔とコブ」に見立てられ、「壱岐の大半を占める東部(現在方位)の地域は「牛の全身の形」に見立てられた。
夏音文字【牛】は「ジャコウウシ」を意味したゆえ、「壱岐の大半を占める東部地域」は「ジャコウウシの全身の形」に見立てられて、「地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」になった。
上図に示したように、一大国は「【牛】と【馬】の地宜に岐(わか)れる」。
だから、後世、「一大国」は「壱岐」と表記された。
というのも、倉頡は【牛】と【馬】」を【一】の字源と定め、また【一】の字源は「子が子宮口(しきゅうこう)から産道を通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生し、その後の後産期(こうざんき)までの様子」をあらわすようにした。
言いかえると、倉頡は【一】の字源を【牛】と【馬】と定めるため、「子どもが出産するに通過する産道」と「後産期の様子」をも【一】の字源にした。
ゆえに、【牛】と【馬】は【一】の字源「人の出産の様子」をあらわす聖獣(せいじゅう)となった。
司馬遷著(しばせんちょ)『史記』夏本紀(かほんぎ)初頭部は下記のごとく説明する。
「禹(う)の父の鯀(こん)が帝舜(ていしゅん)に治水工事(ちすいこうじ)を命じられた。しかし鯀の治水が実状にそぐわず、なんにも成果をあげていなかったので、鯀を羽山(うざん)におしこめられて死にいたらしめた。
帝舜は、鯀の子の禹に、鯀の治水事業を継続させた。」
禹の治水工事の成功しでたとき、倉頡が作った【一】は、夏音文字で【壹(壱)】と表記されるようになったと考えられる。
また、倉頡が作った【台】を、夏音文字では【臺】と表記されるようになったと考えられる。
〔注 この【壹】と【臺】の誕生の秘密は、「漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41-1」にて解説する。〕
【壱】の旧字は禹が作った【壹】である。
【壹】の上部(【壺】の上部)は「分娩のはじまりとなって、子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい・すっかり開く)状態から出産が始まる」を表現し、
【壹】の下部の【豆】は「出産の始まりから後産期で出産が完了するまで、出産児が頭を前にして産道を通過し、さらに後産期の出産児の様子」をあらわした。
つまり、「レスリングのバックドロップのように出産児はあおむけになって子宮口(しきゅうこう)に頭が入れると、その後、頭を前にして産道を進むと膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産期に卵膜(らんまく)・臍帯(さいたい)・胎盤後血腫(たいばんこうけいしゅ)などが押し出されて出産が完了するまで、出産児の頭は5回も転回する」。
したがって、【頭】の原字(げんじ・最初の文字)は【豆】であった。
だから、【壹】の字は「子宮口の全開大から始まる出産は、後産期で完了する様子」をあらわした。
下に、五帝時代に生存した黄帝(こうてい)を祀(まつ)る廟(びょう)と墓となる黄帝陵(こうていりょう)の位置を示す地図を示した。
上の図における「黄帝陵より左側の黄河上流の形」は「頭が縦(たて・アゴから頭までの距離)に長くなる、その出産児の鼻の形」に相似する。
ゆえに、「長方形状の黄河上流地域の地図」は「出産児が西に顔を向ける形の地理」となった。
その「地理の瀚海・ゴビ沙漠は出産児の頭の上から遠く離れた北にあり、そして東西に広がる」。
ところが、前ページで示した「瀚海(かんかい)と【馬】の天理図(字源解説図)」では、「三つ輪の銀河・瀚海(かんかい)は東にあって南北に広がり、十字の銀河・【馬】も南北に伸び」、「三つ輪の銀河と十字の銀河は連結する」。
そして、倉頡(そうきつ)は「天理の四つ目の怪人・倉頡(鬼の横顔に似る銀河)」を「出産児の頭(顔)」に見立てた。
また、倉頡は「地理の黄河上流の長方形状の形」も「出産児の頭(顔)」に見立てた。
ゆえに、「天理の瀚海図(字源図)」と「地理の瀚海図」は同一ではなく、その相違は明確である。
「天理・銀河の瀚海」を「フタコブラクダが生息する地のゴビ沙漠」と解釈する考えは、イメージ(映像や心像)をもって同じであると誤魔化(ごまか)し騙(だま)す産物であった。
だから、「瀚海に生息する【馬】・フタコブラクダ」は、「だまし」を意味する文字【騙】の偏となった。
上記した【馬】の天理字源は「十字の銀河」、【馬】の地理字源は「フタコブラクダ」、「瀚海」の天理字源は「三つ輪の銀河」、「瀚海」の地理語源は「ゴビ沙漠」とする定理は、倉頡の発明であった。だから、【馬】の字源と「瀚海」の語源は「辞理(文字作成理論)」を学ぶにあたって真っ先に知らなければならない基本中の基本知識であった。
貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢中和辞典』(角川書店発行)は「【翰(かん)】の字義は「やまどり。雉(きじ)の一種」とする。
ゆえに、【翰】・「やまどり」は「ヤマセミ」であったと考えられる。
というのも、偏【三水】に【翰】を加えると【瀚】になるからである。
「三つ輪の銀河」は「水鳥のカワセミが飛び込んだ水面にできる水輪(みなわ・円形の波紋)の形」にソックリである。
ゆえに、扁が【三水】の【瀚】は「水鳥のカワセミ」を意味したにちがいない。
瀚・カワセミの巣穴(すあな)の近くには「ダミー・贋物(にせもの)の穴」がある。
この「ダミーの穴」は言いかえると「騙(だま)しの穴」である。
だから、「ゴビ沙漠に生息する馬(フタコブラクダ)」と共に、「地理のゴビ沙漠」もまた「騙しの穴を作るカワセミの海」、つまり「瀚海」と名づけられたのである。
◆なぜ、「騙し」が必要になったかといえば――黄帝が居住した黄帝陵周辺を黄河が長方形状に包囲し、黄河陵周辺の東方の近くには黄河の水が北(上流)から南(下流)に一直線状に流れる。
このため、黄河の水は急流となり、大雨が降れば洪水となり氾濫(はんらん)して大災害となっていたにちがいない。
黄帝陵周辺に住む人々は――夏の銀河の西端の形状を観(み)て[亡くなった牛(ジャコウウシ)]が地中深く潜(ひそ)み、その[牛の死霊が激怒して暴れる]のが原因で洪水となり、黄河は氾濫する――と考えたようである。
下に、「巨龍の銀河の尾」から「さそり座α星」までの夏の銀河の東部から西端までの図を配した。
この図における右下にある「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」を、黄帝や倉頡はじめ黄帝陵周辺に住む人々は「牛(ジャコウウシ)の群れが円陣を組む、その円陣の中心」と見立てた。
というのも、牛(ジャコウウシ)は敵の気配を察知すると1グループ・百頭ぐらいの群れが円陣を組み、この防御体勢となる円陣の中心に「牛の子ども」を配置して隠したからである。
ゆえに、下図の右下の「胎児の姿に似る銀河」は[メスの牛が孕(はら)む胎児]に見立てられた。
また、「胎児の姿に似る銀河」と「銀河の中心」と「巨龍の銀河の顔がある、夏の銀河の西南部」は「百頭余りの牛の群れが組む円陣」と見立てられた。
上図における右下の「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来する気配を察知すると、防御(ぼうぎょ)する牛・ジャコウウシの姿勢」に相似する。
「防御の姿勢となる、牛(ジャコウウシ)の姿に銀河(胎児の姿に似る銀河)」を「1グループ・百頭余りの牛の群れを牽引(けんいん)する先頭の牛」に見立てると、
(A)「巨龍の銀河の顔」は「群れを牽引する先頭の牛に従う二番目の牛」 に見立てられ、「巨龍の銀河の最後尾となる、わし座α星(牽牛星・彦星)付近の巨龍の最後尾の銀河」は「百頭余りの群れの最後尾の牛」と見立てられた。
上図における下部の左下「巨龍の銀河の顔から牽牛星(彦星)付近の巨龍の最後尾」までは、上記した(A)「百頭余りの牛(ジャコウウシ)を牽引する先頭(胎児の姿に似る銀河)にしたがう二番目の牛から最後尾の牛」に見立てられた――この(A)の他に、「巨龍の銀河の顔」は(B)と(C)つまり計3種の物に相似すると見立てられた。
上図における左下(B)「巨龍の銀河の顔」は「北から南に下って黄帝陵周辺地域に生息した、牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野性の馬(フタコブラクダ)の群れを牽引する先頭の馬」に見立てられた。
ゆえに、上図における左上の(B)「わし座α星・彦星」は「牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野生の馬(フタコブラクダ)における最後尾の馬」に見立てられた。
実は、(B)「彦星」の【彦】は「牛・ジャコウウシ」を意味せず、【彦】の字は「大きく育った馬(フ(タコブラクダ)を意味した。
また、【彦】は【顔】の原字(最初の文字・【顔】の偏は【馬】)であり、【彦】の字源は「大きく育った馬(フタコブラクダ)の顔」に見立てられた「巨龍の銀河の顔」であった。
作家にして詩人であった故・井上靖(いのうえやすし)氏は、『地中海』という詩集にある「落日」と題する詩にて「匈奴という遊牧民族の伝説」について、冒頭から
「匈奴(きょうど)は平原に何百尺かの殆(ほとん)ど信じられぬくらいの深い穴を穿(うが)ち、死者をそこに葬り、一匹の駱駝(ラクダ)を殉死(じゅんし)せしめて、その血をその墓所の上に注(そそ)風習があった。云々」
と表現する。
上図における(B)「巨龍の銀河の顔から尾までの全体像」は――上記したように、[牛(ジャコウウシ)]の群れについてきた[野性の馬(フタコブラクダ)群れ]をあらわし、そして「巨龍の銀河の顔」は「[牛]の子(銀河の中心と胎児の姿に似る銀河)の死霊を襲って追い回していじめる地中深く葬られた[馬]の死霊」をあらわした。
これゆえ、【死霊の[牛]の群れは死霊の[牛]の子たちをまもって激怒(げきど)する。だから、黄河の水が氾濫して災害をもたらす】――と黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。
下に、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄帝陵の地図を配した。
この黄河上流における北部から東部には、黄河から枝分かれする細い川がある。
その細い川を参考にして、黄帝は黄帝陵東部の黄河から細い水路を造成する治水工事を命じて、激流する黄河の水をゆるやかにして氾濫を防(ふせ)ぐとともに田(農地)に用いる水とした。
また、黄帝は「黄河と水路の連結部に堤防を築いて、氾濫をふせぐ治水工事」を命じたと考えられる。
上記したように、黄帝陵周辺に住む人々は――地中深く葬られた[馬]の群れの死霊が、「銀河の中心」と「胎児の姿に似る銀河」に見立てられた[牛]の子たちの死霊を襲って追い回しいじめる様子を、[牛]の親の死霊の群れが激怒して洪水となり黄河が氾濫する――と考えた。
ゆえに、下図における左の(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河」に見立てられた。
また、下図における(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「洪水で、氾濫する黄河」に見立てられた。
上図における「巨龍の銀河の顔」と「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」の形状について――
藤井旭(ふじいあきら)氏が著作した『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)は115ページにて、「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と説明する。
ゆえに、黄帝陵周辺に住む人々は「銀河系の中心と、その東側の巨龍の銀河の顔、その西側の胎児の姿に似る銀河(防御の姿勢となるジャコウウシの姿に似る銀河)」は「洪水で大きな渦を巻いて氾濫して濁流(だくりゅう)する黄河の水」を連想した。
だから、(C)「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河の氾濫は、馬・フタコブラクダたちの死霊が牛・ジャコウウシの子たちの死霊を追い回していじめる様子を親の牛・ジャコウウシたちの死霊が激怒して起きる」と、黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。
以上のごとく、黄帝陵周辺に住む人々は「急流の黄河や地中」には「強大な力を有するジャコウウシの死霊が棲(す)む」とおそれた。このため、「急流の黄河に棲むジャコウウシの死霊を騙(だま)して宥(なだ)めて氾濫をふせぐ必要」があった。
だから、倉頡は【馬】の字源「フタコブラクダ」と「瀚海(かんかい)」つまり「ゴビ沙漠」をもって「牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒するのを騙してなだめる方法」を考案することにしたのである。
いままで解説してきたように、五帝時代初頭の黄帝時代には、すでに地図が作製されていたことになる。
ゆえに、倉頡は黄帝陵を包囲する黄河上流地域はほぼ長方形にして、出産児の頭の形に相似することを知っていた。
倉頡が発明した文字作成理論は【黄河上流地域の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】から始まった。
したがって、黄帝時代には、かなり精度の高い地図を作製されていたと考えるべきことになる。
倉頡は「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡(そうきつ)が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝えて、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするため――地宜(ちぎ・地図の形)をあらわす地名を作って残すことを、倉頡は許可した。
しかし、倉頡は容易に地図の形が察知できる文字で地名を作ることを厳重に禁止し、地名には「騙し」を加えあるいは難(むずか)しく考えて作らなければならないと定めた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ『騙し』を加えて難解する作業」は【学】の字となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)、夏代黎明期に作られた文字は後世において基本的に夏の銀河各部の形状から作られた楷書に変換できて残った。
したがって、倉頡が作った文字は司馬遷(しばせん)著『史記』に残り、倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書の字源・字形・字義や語句となって残った。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていないが――『史記』や『魏志倭人伝』や『古事記』上巻における様々な名をあらわす楷書や『万葉集』の万葉仮名となって残っている。
倉頡は、地図を王朝が独占管理して厳重な機密とするようにした。
だから、独自に地図を作製する人物・家族・一族全員には、「騙し」を加えて難しい知識にしてあらわした地名の秘密を容易に理解できるように説明した人物・家族・一族全員には、厳しい神罰が下されて死刑とするという掟を倉頡は定めたことになる。
前述したように、倉頡は反体制者たちが辞理(文字作成理論)を理解し手に入れて革命に利用したならば、容易に黄帝王朝は滅亡すると心配して、辞理を難解・複雑にした。
ゆえに、倉頡は[辞理に「瀚海・三つ輪の銀河と【馬】の「十字の銀河」と、「瀚海・ゴビ沙漠」の【馬】の「フタコブラクダ」との形状の差錯(ささく・相違)]を辞理に加えて、辞理が容易に理解できないように難解・複雑にしたのである。
だから、黄帝時代や夏代黎明期には高度な地図が作製されていたと考えて――『魏志倭人伝』の34の小国はじめ、中国の黄河流域やわが国の東北地方の地宜(平面的に図化した地図の形)と地名に用いられる文字を注目して――小国名に用いられる文字の字源・字形・字義について字源字書の説明にもとづいて推理すると――『魏志倭人伝』の全34の小国の地宜・位置・範囲は4~6時間ぐらいで解明でき、また中国の黄帝時代と夏代黎明期の歴史、そしてわが国の東北地方の地宜と地名に残った夏代黎明期の歴史も解明できるようになっている。
◆次に【騙】の旁部(つくりぶ)の【扁】の字源銀河と、「だまし」を意味することになった理由・根拠について解明する。
古代の人々が“字書の聖典”と尊重した許慎(きょしん)著『説文解字(せつもんかいじ)』は、
【扁(へん)】の字源を「署(しょ)するなり。戸册(こさつ)に従ふ。戸册なるものは、門に署するの文なり」と解説する。
白川静著『字統』(平凡社発行)は、上記の「『説文解字』の字源解説は「網戸(あみど)の形。戸の下部を網戸の形に作る。その両扁のものを扉という」と説明する。
このような『説文解字』と『字統』の解説は字源を失っている。その証拠に【扁】の字が「だまし」の意を有することなったのかまったく不明である。
下の左図は「夏の銀河点描図(夏の銀河の全域図)」である。
この左図は日本天文学会編『新星座早見』(三省堂発行)の夏の銀河の全域図を、わたくしがトレシングペーパーに点描しなおして作製した。
右図は「夏の銀河輪郭(りんかく)図」である。したがって、輪郭の中は空白ではなく、空白部の全面もまた銀河ということになる。
上図は、【「三つ輪の銀河」から「胎児の姿に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
下の左図は、【「三つ輪の銀河」から夏の銀河の中間にある「わし座α星のアルタイル・牽牛星(けんぎゅうせい)・彦星までの銀河」を削除(さくじょ)した――【「わし座α星・牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
つまり、下の左図は【扁】の字源となった【「牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までを全域とした図】である。
右図は、【扁】の字源銀河の全域輪郭図である。
〔注 下の2図における右下には、出産児の誕生における後産期(こうざんき)をあらわすさそり座α星・アンタレスがある。しかし、この2図とも、さそり座α星が欠けている。〕
下の左図(Ⅰ)は、【扁】の字源銀河全域輪郭図を180度転回した図である。
中央図(Ⅱ)は、左図(Ⅰ)の上下を180度転回した図である。
右図(Ⅲ)は、中央図(Ⅱ)を書いた薄い紙の裏面からも見えるようにして、その裏面の形をあらわした図、つまりこの「裏返しの図」が【扁】の字源銀河図である。
「右図(Ⅲ)の裏返しとなる中央図(Ⅱ)」は「内裏(だいり)」の語源となった。
「内裏」とは「昔の天皇の御殿(ごてん)。つまり皇居・禁裏」を意味する。
下の(Ⅰ)と(Ⅱの)図は、【扁】の字が「騙(だま)し」の字義を有することになった秘密の解明図である。
つまり、(Ⅰ)と(Ⅱ)【扁】の字源銀河による「騙し」は――洪水で黄河が氾濫して大災害とならないように、【牛】の字源・ジャコウウシの死霊が激怒しないようにやわらげ静める――を表示している。
上の左の銀河図(Ⅰ)は、実際に見えない――今から約4100年~4000年前頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)、現代の暦による冬至(12月の21日)の夕刻6時(18時)、その全域は北の地中深く(地平線下)に潜(もぐ)って見えない。
上の中央の銀河図(Ⅱ)は、左図(Ⅰ)の銀河の上下を180度転回した「内裏」の語源銀河であるが、偽(にせ)の銀河であって実際にはまったく見ることができない。
ゆえに、上記したように、(Ⅰ)と(Ⅱ)の2図は「激怒する死霊の牛(ジャコウウシ)を騙しなだめる」という意味を有することになった。
上の右の銀河図(Ⅲ)は、夏至の日の6月22日の18時の夕刻、東南東(東から約10度の南)の地平線(水平線)を擦(こす)るように牽牛星・彦星が昇る様子をあらわしている。
しかし、この夏至の日の夕刻18時には銀河は見えない。というのも、夏至の日の夕刻18時は太陽が地平線と重なるため、この太陽の光によって【扁】の字源銀河は見えない。
右図(Ⅲ)は夏至の日の夕刻18時と20時の銀河図の両方をかねている。
太陽が地平線下に没して18度の深さに至って星や銀河が見える夜となる夏至の日の20時、牽牛星・彦星は東南東(東から約30度の方角)に位置し、地平線から約30度の高度に輝いていた。
だから、夏至の日の20時ならば右図(Ⅲ)の【扁】の字源銀河は見えた。
したがって、(Ⅲ)における夏至の日の20時の【扁】の字源銀河は「騙(だま)し」の意味を有さないことになった。
奈良県高市明日香村には「牽牛子古墳(けんごしづかこふん)」と呼ぶ国の指定遺跡がある。
この古墳の墳丘(ふんきゅう)は大・中・小の八角形を積み重ねて設計されている。
ここからは、「上記したように、この古墳名と同じく「牽牛子」の振り仮名(ルビ)を「けんごし」とする。
「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」の別称ということで、国の史跡に指定されたときには、「牽牛子塚古墳」は「あさがおつかこふん」という読みがついていた。
下に、「牽牛子(けんごし)」の語源解説図を示した。
「胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシがアゴを地面に向けて正面を見て、頭を首より低くする姿勢」に酷似(こくじ)する。
言いかえると、「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来するとき、人がジャコウウシを狩猟するときの牛・ジャコウウシの姿勢、あるいはオスのジャコウウシがメスをめぐって闘う姿勢」などに相似する。
ゆえに、ここからは「胎児の姿に似る銀河」を「牽牛子(けんごし)の銀河」、または「牛・ジャコウウシに似る銀河」と呼ぶ場合もある。
前述したように、防御体勢となる牛・ジャコウウシの群れは円陣を組み、ジャコウウシの群れは皆円陣の中心にいる子のほうに背中をむけ、敵に顔を向ける。
ゆえに、「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」は「牛・ジャコウウシの子がいる所」となる。
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河から成る円形」は「牽牛・ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられたゆえ、「ジャコウウシの子がいる銀河の中心」は「牽牛の子」略して「牽牛子」となる。
前述したように、「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「胎児の姿に似る銀河」でもある。
ゆえに、「牛・ジャコウウシに似る銀河=胎児の姿に似る銀河」を「ジャコウウシの子の姿に似る銀河」と名づけると、
これまた「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「牽牛子」という名となる。
◆下図に示すように、夏至の日の朝日は東から30度の地平線(水平線)の方角から出(い)ずる。
春分・秋分の日の朝日は東の地平線から出ずる。
冬至の日の朝日は東から30度の地平線の方角から出ずる。
下に図示したように、夏の銀河の東端に「三つ輪の銀河」がある。
「三つ輪の銀河」は「北の輪(円形)の銀河・中央の輪(円形)の銀河・南の輪(円形)の銀河」という三つの輪の銀河が重なりあう形となる。
したがって、「北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられ、「中央の輪の銀河」は「春分・秋分の日の朝日」に見立てられ、「南の輪の銀河」は「冬至の日の朝日」に見立てられた。
すぐ前のページに図示したように、夏の銀河の西端には「さそり座α星・アンタレス」が在る。
再度、この図を下に配置した。
下図が示すように、「牽牛子の銀河の腰からさそり座α星までの銀河」は「ラッパの形に似る朝顔の花」に形似する。
上記したように、「三つ輪の銀河における北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられた。
「朝顔の花」は「夏の朝方」に咲く。
ゆえに、上記したように「牽牛子の銀河の腰からさそり座までの銀河」は「夏の朝方に咲く朝顔」に見立てられた。
東端の「三つ輪の銀河」から西端の「さそり座α星」までの夏の銀河は巨大である。
だから、奈良県高市明日香村に所在する牽牛子塚古墳の墳丘における最下段の八角形は「三つ輪の銀河からさそり座α星・朝顔の花の台(うてな・萼拊)までの巨大な夏の銀河」をあらわした。
◆「牽牛星・彦星が漬(つ)かる銀河(【扁】の字源となる東端の銀河)」から西北の方角の隣(となり)には、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、国際的に天文学界が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。
「北天の最輝部」は「北半球の人々が最も輝いて見える銀河の部分」と意味する。
「人の横顔に酷似する銀河」の東となりの暗黒天体部は、国際的に天文学界において「コールサック」と呼ばれている。
「コールサック」の「コール」は「石炭」を、「サック」は「袋」を意味する。ゆえに、「コールサック」は「石炭を入れる袋のごとく真っ黒の天体部」ということになる。
「コールサックの形」は「丸くなって前につきだした妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。
下に、「コールサックと人の横顔に酷似する銀河の図」を配した。
光がまったく目に入らない暗闇から「コールサック」を見ると、瞳孔(どうこう)が最大に拡大して「コールサック」は真っ黒く見える。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部がはなつ光」を「人の目に入る光」と見立てると――光が目に少し入ったために瞳孔が最大より少し縮小して、「コールサックの色」は「夏の朝にラッパの形に似る美しい花が咲く朝顔の紫色」に見える。
ゆえに、「コールサック」は「紫色の朝顔の花」にも見立てられた。
上記したように、「コールサック」は「子どもを孕(はら)む妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。
よって、「コールサック」は「朝顔」と、そして「人の横顔に似る銀河」は「子どもを生む女性の横顔」に見立てられた。
だから、「人の横顔に酷似する銀河」もまた「コールサック」同様に「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に似る銀河」は「東の空が明るくなる朝」を示して[東]に顔を向けているゆえ、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の強い朝日が直射(ちょくしゃ)する顔」に見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天の最輝部の眩(まばゆ)い銀白色の輝き」は「夏の朝の強い陽射し」が連想されるからである。
朝顔の花は夜間に咲かない。
ところが、「コールサック」と「人の横顔に似る銀河」の「夜間に咲く朝顔の解釈」は「騙し」の意味を有するものと解釈されないことになった。
というのも、「コールサック」は「妊婦の腹部、つまり胎児が生活するところ」に相似するからである。
だから、「胎児が生活するところ」と見立てられた「コールサック」は「神聖なところ、つまり聖域(せいいき)」であるゆえ、「騙し」の意味は有さないと定められた。
このような「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの朝顔」は、明日香村の牽牛子塚古墳における中くらいの大きさの中段の八角形をあらわした。
◆すぐ前ページにて指摘したように、夏の銀河の東端は「三つ輪の銀河」である。
この「三つ輪の銀河における、北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」及び「夏の強い朝の陽射し」に見立てられた。
「三つ輪の銀河」の西隣(にしとなり)は「十字の銀河」、「十字の銀河」の西隣には「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」がある。
下に図示した「十字の銀河」は「夏の強い朝日の陽射し」に見立てられた「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「十字の銀河の顔」は「夏の強い朝日を浴(あ)びる顔」、略して「朝顔」と呼称されることになった。
また、上図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の顔)」も「「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「四つ目の銀河」もまた「夏の強い朝日の陽射を浴びる顔」と見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「朝顔の花」に見立てられた。
朝顔の花は夜に咲かない。
しかし、「十字の銀河の顔」・「四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮」は、前述した「人の横顔に酷似する銀河」・「コールサック」と同様に「騙し」の意味を有さないと定められた。
というのも、前述したように、「胎児が生活する女性(妊婦)の正面形」に相似する「コールサック」は「騙しの意味を有さない、聖域」と解釈されることになったからである。
だから、「十字の銀河の子宮」の、「子宮」も「胎児が羊水(ようすい)に潜(もぐ)って水中生活するところ」であるゆえ、「騙しを有さない、聖域」と定められた。
「十字の銀河の顔の朝顔」と「四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」との三者グループの大きさは、上記した「人の横顔に酷似する銀河の朝顔」と「コールサックの朝顔」よりも小さい。
だから、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」は明日香村の牽牛子塚古墳における最上段・小の八角形をあらわした。
◆下図は「十字の銀河」と子宮」の図である。
わたくしが「十字の銀河の子宮」とつけた名は、実は「十字の銀河の子宮と産道」の略称であった。
下図の左図は、「女性の生殖器官」における「産道」と「子宮」と「卵管(らんかん)」と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)と「卵巣(らんそう)」の図である。
「子宮」から左右に分かれる「卵管・卵管膨大部」と「卵巣」を削除(さくじょ)すると、右図のごとく「産道」と「子宮」の形になる。
倉頡は、【台】という字を作り、「子宮」を「台形」に見立てて、「子宮で40週間余も生活する子」を「台の子」とした(つまり後世に「台の子」は「胎児」と表記された)。
上図に示したように、倉頡は【一】の字を作り、【一】は「産道」を意味するようにした。
台の子(胎児)が育って出産するとき、子宮口(しきゅうこう)にあおむけになって頭を入れ、さらに頭を前にして産道を進み、膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産後期(こうざんき)に出産児の付属物が娩出(べんしゅつ)されて出産が完了するまでに生きている児の年齢を「一才」と数えた。
つまり、倉頡は【一】の字源・字義を「出産の第一期の開口期(かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまでの時期)から、第二期の娩出期(べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから胎児の頭が母体の背側に向いて誕生するまでの時期)、そして第三期の後産期(誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了する)まで」と定めた。
だから、古代では後産期において生きている出産児の年齢を「一才」と数えた。
〔現在は、後産後に生きている出産児の年齢を〇歳とする〕。
すぐ前ページに配した「女性の産道と子宮の形」の図を、再度、下に配した。
下の右図に記したように、倉頡は「子宮」は「朝顔の花の形」に相似すると見立てた。
そして、倉頡は「産道」を「朝顔の花(花弁)をのせる台」と定めた。
この「朝顔の花をのせる台」の「台」を、現在では「うてな」と読み、「萼拊(がくふ)」とも呼ぶ。
上記したように、倉頡は【一】の字源を「産道」と定めたにもかかわらず、「産道」を「台(朝顔の花をのせる台)」と呼んだ。
このように、「産道」は【一】の字源にして「台(朝顔の花をのせる台)」を解されたゆえ、矛盾することになった。
ゆえに、白川静著『字統』(平凡社発行)は【不】の字について――否定・打消しの「ず」に仮借(かしょく)して用いる。もと象形で花の萼拊の形である――と解説する。
要するに、『字統』は――朝顔の萼拊は「朝顔の花をのせる台」ではあるが、「子宮」を「朝顔の花」に見立てたときは「産道」は【一】の字源であるゆえ、「あくまで産道は【一】の字源であるから、産道を[台]と解釈してはいけない」と否定された――と説明するものであったことになる。
◆黄帝は「女性の生殖器官(せいしょくきかん)と出産」について研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は「黄帝の医学研究の教えや意見」と「自分の意見」を合体して、卵から第4週の前半に心臓ができる胎芽期(たいがき)より出産が完了する後産期(こうざんき)までの児(こ)は八変化して誕生すると考えることにした。
この「児の八変化」における黄帝と倉頡の合体意見を、現在の医学用語を用いて説明する。
倉頡は「児の八変化」を
(一)胎芽期と第4週前半から第12週ころまでの胎児期(たいじき)、(二)子宮上部の子宮底(しきゅうてい)のほうに頭をむける第12週から第20週ころまで育つ胎児期、(三)子宮底と180度の反対方向にある子宮口(しきゅうこう)のほうに頭を向ける第20週ころから出産予定日の第40週までの胎児期、(四)あおむけになって子宮口(骨盤の入口)に頭を時計回りに90度転回する時、(五)出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、(六)出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、(七)出産児が頭を時計回りに90度転回して母体の背側に顔を向ける時、(八)後産期における出産児の姿勢、
上記のごとく、八種類に分けた。
上記の「(四)から(七)までにおける四回の出産児の変化」を、現在医学では「回旋(かいせん)」とよぶ。つまり、(四)時計回りの90度の転回」は「第1回旋」、(五)反時計回りの90度の転回」は「第2回旋」、(六)反時計回りの90度の転回」は「第3回旋」、(七)時計回りの90度の転回」は「第4回旋」とよぶ。
黄帝は、(一)の胎芽期における児どもは水稲(すいとう・水田の稲)が牛・ジャコウウシの餌場(えさば)のような形をした田の周辺の粘膜(ねんまく)に、苔(こけ)のような細胞が餌場のような形をした田へ向かって侵入して――児どもの命が始まると考えたようである。
その後、つまり第8週の中頃の児どもは、だいぶ人らしく見える胎児となる。
ゆえに、胎芽期から始まる児どもは子宮の中の羊水(ようすい)に漬かって約10ヶ月も長い期間過ごす水中生活者である。
出産した人は1時間も水中に潜っていれば窒息死(ちっそくし)して確実に死ぬ。
にもかかわらず、子宮内の児どもは約40週間もの長いあいだ羊水に潜ったまま過ごしても、なぜか窒息しないのいか、黄帝はこの秘密を解明できなかった。
ゆえに、倉頡は(二)の胎児を鳰(にお)で、(三)の胎児をカンムリカイツブリで喩(たと)えることにした。
倉頡は、(二)胎児の体長(たいちょう)は20~30センチである。この体長さは水鳥の鳰と同じぐらいであった。
鳰(にお)は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活する。湖や川や沼の池に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰は人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。ゆえに、倉頡は約9週間も母体の子宮の羊水の中にもぐったまま、息を外(は)きつづけて羊水を吸い込まずに窒息しない胎児」に喩えることにした。
カンムリカイツブリ目カイツブリ属最大のカンムリカイツブリの体長(46~61センチ)は(三)出産予定日の第38週ころから第40ころの胎児の体長(48~53センチ)と同じくらいである。
カンムリカイツブリは鳰よりも長く水中に潜ることができるゆえ、「八丁もぐり」とも呼ばれる。
ゆえに、倉頡は「(三)の胎児」を「カンムリカイツブリ」で喩えることにした。
そして、倉頡は「カンムリカイツブリの姿」を図案する【爾(に)】の字を作り、「鳰の姿」を図案する【乎(を)】の字を作った。
夏代黎明期では【爾】の字に偏【弓】が加わって【彌(弥・み)】となり、【乎】には偏【口】が加わって【呼(こ)】となった。
だから、『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の【弥】は「カンムリカイツブリ」を意味し、【呼】は「鳰」を意味した。
以上のごとく、奈良県高市明日香村に所在する古墳名に用いられる「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」とも解されることになった。
上記したように、倉頡は「胎芽期」から「後産期」までの出産児の状況を八種類に分けた。
ゆえに、「牽牛子」と「2種類の朝顔」は「八角形」にされるようになった。
上記の「2種類の朝顔」は「(1)人の横顔に酷似する銀河・コールサック」と、(2)「十字の銀河の顔・四つ目の銀河と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」である。
だから、牽牛子塚古墳の墳丘は「牽牛子」と「2種類の朝顔」の計3種の銀河を大・中・小の八角形を三段積み重なる形に設計されている。
なお、特に注目すべきは――メスをめぐってジャコウウシのオスが角(つの)と角をつきあわせて押し合い闘うときの、二頭の角の形である。
下に、闘う二頭のオスの写真を配した。
この写真は、星野道夫記念ライブラリーが発行した絵葉書から転載した。
この写真が示すように、ジャコウウシの二頭の角は【八】の金文形をあらわす。
白川静著『字統』は【八】の字について――両分の形。左右に両分して数える数えかたによって、数の八を示す。『説文解字』は「別るるなり」と訓し、その形について「分別して相背く形に象(かたど)る」という――と解説する。
下の写真の二頭のオスの角の形は、白川静著『字統』と『説文解字』の【八】の字説に合致する。
ゆえに、【八】の字源は「メスをめぐって闘うときの二頭のオスの角の形」であった。
ということは、倉頡は「闘うジャコウウシのオス二頭の角の形」を【八】の字源にしたと考えられる。
◆下図は、「上半分」が「中の人の横顔に酷似する銀河・コールサック」、下半分が「牽牛子(ジャコウウシ)」をデザインする――「大・中・小の積み重なる三段」の「三」をあらわす[【参】の金文形における「朝顔」の語源銀河と【扁】の字源銀河との合体形]となる――【参】の字源銀河説明図である。
この左右の両図には、「東に向く顔を向ける妊婦の胸部を西に向くように180度転回して、東を向いていた妊婦の顔から腹部までを西に向くようにした」という工作が加えられている。 「
上図における上半分」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部」の図案をもって「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」を表現する。
ゆえに、「上図の上半分」は「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの、朝顔」の語源銀河図となる。
上の左図(1)に記した「彦星・牽牛星」は「向きが東から西へ180度転回する胸部」をあらわす。
上の左図(1)における「牽牛子の銀河」は「向きが東から西へ180度転回する腹部」をあらわす。
ゆえに、「上の(1)(2)(3)の3図の下半分」は「彦星・牽牛星から牽牛子の銀河までの範囲の、夏の銀河」をあらわし、前ページで解説した【扁】の字源銀河をあらわす。
下に、【参】の金文形の解説図を配した。
左図は(1)「東に向く妊婦の横顔と西に向く妊婦の腹部」をあらわす「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの女体図」である。この左図(1)は【参】の金文形ではない。
中央図は(2)「右図の【参】の金文形の裏返しの、東に向いて踊る妊婦図(女体図)」である。この中央図(2)もまた【参】の金文形ではない。
右図は、前ページに配した(3)【参】の金文形である。
(3)【参】の金文形は「子どもが誕生して喜ぶ、西を向いて踊る女性の姿」を表現している。
◆ここまでの解説に至っても、斉明天皇は奈良県高市明日香村に所在する八角形に設計された牽牛子塚(けんごしづか)古墳を築造したのか、その秘密についていまだ解説していない。
次回「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では、斉明天皇が牽牛子塚古墳を築造した秘密について説明した後に――いまだ全貌を説明していない【倉頡の文字作成理論】について解説した後に、
今回のブログのテーマ「『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろくに)以下の記事にある【方位記事】が「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する――について解説する。
邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びると説明する転回日本列島地理は誤っている」と断定して、このような不合理な転回日本列島の解釈は誤りで、実際には存在しなかったと主張する。
この邪馬台国説学者たちの転回日本列島地理の否定意見は『魏志倭人伝』の文字面(もじづら)を撫(な)でただけの粗雑(そざつ)な考えによる邪推(じゃすい)で、要するに空理空論であった。
つまり、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定していた。
だから、この「漢字の起源と発明を解明す・40―1」と「漢字の起源と発明を解明す・40―2」のテーマ「日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した地図であったゆえ、歴史上に実在した」という解説と証明は、次の「漢字の起源と発明を解明す・40―2」でおこなうことにした。
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