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2011年12月19日 (月)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・23

 この23回の20回前の〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・3〕の冒頭部分を、再度記載する。

 『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する記事は次のごとく指摘する。

 「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、天の北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天の北極と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差をはかるのである。」

 上記のように、天の北極で緯度を換算する方法は天頂で緯度測定する方法よりも不精確となる。また上の記事が「時刻が決まれば」という条件を付けているように、今日のように精確な時刻を表示する時計が必要となったが、古代においては今日のように精確に時刻を表示する時計が発明されていなかった。さらに、古代の北極星は今日の北極星・こぐま座α(アルファ)星のごとく天の北極の上に重なるものではなく、遠く離れていた。
 だから、古代においては天の北極の高度で緯度換算して自分のいる位置を定めるとかなり不精確となるため 命を落とすことになり家族が待つ家に帰ることができなかった。

上記の「緯度の測定」が説明する〔精密に天頂緯度が測定できる=天頂点をキャッチできる〕、この理想的な銀河部が「長方形の暗黒天体部」であった。

 今から5000年前の第1王朝のナルメル王朝時代、約4500年前の3大ピラミッドが建造された第4王朝時代も、首都メンフィスの天頂に天頂点がキャッチできる「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。
 前回(22回)で、獅子(しし)座のγ(ガンマ)星(光度2.3等)が首都メンフィスの天頂点と重なったと指摘した。この星のほかに、ぎょしゃ座のβ(ベータ)星(光度2.1等)も、メンフィスの天頂点と重なる目星となった。
 この獅子座γ星よりもぎょしゃ座β星よりも、「長方形の暗黒天体部」のほうがより精密に天頂緯度が測定できる 理想的な羅針盤であったのである。

 今から約6000年前の中国の三皇時代から約2200年前の秦(しん)代まで、中国の首都の天頂を「十字の銀河」がめぐってきて、精密に天頂緯度を測定する物差し(羅針盤)となった。
 この6000年前~2200年前まで、中国の漢字は結縄(けつじょう)、書契(しょけい)、夏音(かおん)文字、甲骨文字、金文、篆文(てんぶん)、隷書と生長した。
 この間、「長方形の暗黒天体部」は中国の天頂を通過しなかった。
 しかし、中国では、「長方形の暗黒天体部」は”精密に天頂緯度が測定できる憧れの銀河部”であった。これゆえ、[命]や[尊]の字源・字形・字義となり、胎児が出産するときに潜(くぐ)る「産道」に見立てられた。
 この〔天頂点をキャッチするのに最も理想的な銀河部〕であることを示して、『古事記』では偉大な人物(王)や英雄の尊称「みこと」を[命]という字で記し、『日本書紀』は「みこと」を[尊]と表記した。といのも、『古事記』上巻にて[命]という尊称がつく人々、また『日本書紀』で[尊]という尊称がついた人々が生存した縄文晩期末から古墳時代まで、日本列島の天頂に「長方形の暗黒天体部」がめぐってきていたからである。
 『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末~3世紀半ば、倭の使節は「長方形の暗黒天体部」を仰いで精密に天頂緯度を測定して、朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)の政庁、魏の都・洛陽まで到着して、魏との国交を結んだ。

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕の1~6までにて解説したように――わが国には約4050年前の夏代初頭(縄文後期初頭)に夏音文字が伝来していた。ゆえに、『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った遣唐使は「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に告げた――と、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には記述される。
 だから、わが国には夏音文字が伝来していた。
 この夏音文字は『魏志』倭人伝の卑弥呼はじめ壱与(いよ)、載斯烏越(そしあお)など人名・小国名として残り 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく1字1音読みの文字となって多数記載されているので、確かに夏音文字はわが国に伝来していた。
 夏音文字は 学者たちがまったく考えることをしなかった【銀河各部の形状】が【文字】となるすなわち【漢字が銀河から作られた】秘密を厳重に守る・”書く”という方法が禁じられていた【銀河各部の形状】が【文字の字源・字形・字義】となる文字であった。したがって、夏音文字は”書く”という方法を禁じられていたが、夏音文字においても古代エジプトのヒエログリフと同じく【銀河各部の形状】が【文字】=字源・字形・字義となった。


 壱与は倭の小国「伊耶(いや)国」(旧国の「丹波」)出身者であり、最後に卑弥呼が統治する倭国に服属した小国「日本」の女王として赴任した。ゆえに、小国・日本の国民は女王・壱与を「伊耶国出身の美しい女王」と敬愛して、「伊耶那美命(いざなみのみこと)」と愛称した。
 『魏志』倭人伝の末部に登場する武将の「載斯烏越」は壱与の夫の日本国の軍王(いくさのおおきみ)であったゆえ、「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と愛称された。この載斯烏越・伊耶那岐命は第9代開化(かいか)天皇である。
 『古事記』開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住し、丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された。また、継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて生まれた子が崇神(すじん)天皇である」と記述する。
 開化天皇が居住した宮殿名「伊耶河」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字と同じである。だから、伊耶国=丹波出身の壱与・伊耶那美命の本名は「竹野比売」だったのである。
 伊耶那岐命・載斯烏越・開化天皇の継母にして崇神天皇の生母である伊迦賀色許売命の異名(いみょう)が「天照大神」である。

 卑弥呼、伊耶那美命、伊耶那岐命、天照大神が生存した後期弥生時代、日本列島の天頂に「長方形の暗黒天体部の中央部」めぐってきた。この〔中央部の天頂緯度線と長方形の暗黒天体部」は神社の入り口に立つ門「鳥居」の形となった。
 この「長方形の暗黒天体部」の北側は〔両翼を広げる鳥の姿〕に相似する銀河であり、「長方形の暗黒天体部」は〔鳥の足〕に相当した。ゆえに「〔鳥の姿〕に似る銀河は、鳥の足となる「長方形の暗黒天体部」の箇所に居る」が略されて「鳥居」となった。
 当時、鳥居の下に立って天を仰ぐと、「鳥居」の形となる「長方形の暗黒天体部」がめぐってきたので、天頂点がキャッチできる精密に緯度と南北の子午線が測定できる物差し(羅針盤)となった。ゆえに、「鳥居」は「長方形の暗黒天体部」をあらわす、精密に天頂緯度を測定する道具であった。
 つまり、「長方形の暗黒天体部」は「鳥居の銀河」であった。
 (この「長方形の暗黒天体部」が「鳥居の銀河」であったことは、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・3〕にても解説した。)

 竜安寺の石庭は、伊耶那美命が提唱した日本建国の”愛”の理念を後世に伝えるために作成された。ゆえに、この石庭にあって、5群の石組が配置される東西20m・南北10mの庭園部は「鳥居の銀河(長方形の暗黒天体部)」をあらわす。
 石庭が保存する夏音文字の学芸は〔精密な天頂緯度の測定〕を基軸として構築され、最も重視した。
 だから、「鳥居の銀河」は最も〔精密に天頂緯度が測定できる理想的な銀河部〕であったことも加わって、東西20m・南北10mの「鳥居の銀河」をあらわす庭園部にすべての字源が解明できる1400字前後の基本字の字源となった銀河各部の形状に見立てらることができる5群の石組を配置したのである。

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・18〕の5回前の〔18〕で指摘したように、
 「長方形の暗黒天体部」=「鳥居の銀河」は5000年前にナルメル王が統治した第1王朝の首都メンフィス(北緯29度59分)の天頂を通過し、ギザ(北緯30度1分)の3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前の第4王朝大時代の首都メンフィスの天頂を通過し、約4200年前の第6王朝時代のメンフィスの天頂にもめぐってきた。

 ABC・アルファベットの[B]の初文(最初の文字)となる古代エジプト[B]は「大きな家」を図案化したものとされる。「大きな家(ペル=ラア)」はのちに「ファラオ」といい、「エジプト王」の称号となった。
 したがって、ヒエログリフ[家(大きい家)]は「王が住む宮殿」を図案化したものあった。
 だから、ABC・アルファベットの[B]の初文のヒエログリフ「家」すなわち「王が住む宮殿」は「精密に天頂緯度を測定して、経緯度原点が設置される家」を図案化したものであったことになる。

 上記したように、第1王朝から第6王朝の「ファラオ・王が住む宮殿」はメンフィスに所在した。
 リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解古代エジプトシンボル事典』(原書房)は、54頁の〈カー〉と発音するヒエログリフの解説の末部で、下記のごとく指摘する。
 「エジプトという名称はおそらく、首都メンフィスの古い名称『プタハのカーの家(フト・カー・プタハ)』がギリシャ語に転じたものが語源だと思われる。」
 上の記事が示すように、メンフィスの古称は「プタハのカーの家」であった。
 〔両腕の肘(ひじ)を直角に曲げて上に挙げる両手〕の形に図案されるヒエログリフは、表意文字として「霊」を意味する、〈カー(kah)〉と発音される。
 メンフィスの古称の「プタハのカーの家」の「カー」は〈カー〉と発音する「霊」を意味するヒエログリフ〔両腕の肘を直角に曲げて上に挙げる両手〕の両手の先端を線で結ぶと〔長方形〕となる。
 ゆえに、「霊」をあらわす表意文字のヒエログリフの字源は、〈ファラオ〉の「家」の字源と同じ「長方形の暗黒天体部」ということになる。
 つまり、「長方形の暗黒天体部」を〔両腕の肘を直角に曲げて上に挙げる両手〕の絵文字としたため、〔王〈ファラオ〉が住む大きな家〕があるメンフィスの古称は「プタハのカーの家」と呼ばれるようになったのである。

 ホルス神はファラオ(王)の守護神である。
 前回〔22〕で指摘したように、「鬼の姿に似る銀河」の形状から「ホルス神」が創造された。また「ホルスの眼」は「鬼の姿に似る銀河の首から腹部」の南に隣接する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔瞳〕に見立てる、言い換えると〔人の目の形〕に相似する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその東と西の暗黒天体部」である。
 このヒエログリフ「ホルス」の字源となった「鬼の姿に似る銀河」のうちの「鬼の横顔に似る銀河」と、その南に隣接するヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった「人の目の形の銀河部」の東端が子午線経過するとき、その南にある〈カー〉の字源となる「長方形の暗黒天体部」は天頂いっぱいに広がってメンフィスを覆(おお)った。
 この銀河の光景から、〔ホルス神がファラオ(王)を守護する〕と見立てられた。ゆえに、ホルスはファラオの守護神となったのである。

 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)の58頁は、〈カー〉と発音するヒエログリフについて、下記のごとく記述する。
 「この文字は非常に早くからヒエログリフの中に登場した。だが、この両腕を上にさしのべる動作は、いったい何を意味しているのだろう。もっとも古代エジプトの表現様式を考えると、この腕は前方に向けられている可能性もあるのだが。
 この文字は一度も決定詞として使われたことがなかった。それはこの腕のポーズが、きわめて特殊な動作をあらわしていたからだと考えられている。その動作にどんな意味があったのか、はっきりしたことはわかっていない。ただそれが「カー」というエジプト独自の抽象的概念とむすびついた、宗教的な動作であったことは確かなようである。」

 リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解古代エジプト事典』(原書房)の52頁は、〈カー〉と発音するヒエログリフについて、下記のごとく記述する。
 「このヒエログリフはよく使われ、二本の腕をのばした形だということは間違いないが、どの方向にのばしているのか――上なのか前なのか――、この動作が何を表そうとしているのかは、まるでわかっていない。抱くポーズのひとつだという学者もいれば、賛美だ、祈りだ、身を守るポーズだなという学者もいる。このヒログリフ自体の意味も今ひとつわかりにくい。」

 この〈カー〉と発音する〔腕〕を図案化するヒエログリフは、「精密な天頂緯度の測定(天頂点をキャッチ)」を表現するものであったのである。
 〔死者の魂は天頂に昇って霊となる〕ものであったので、この〈カー〉と発音するヒエログリフは「霊」をあらわす表意文字となった。
 【銀河各部の形状】が【ヒエログリフ(文字)】となった。ゆえに、このヒエログリフは非常に早いい時期から使用され、よく使われることになった。
 ヒエログリフ・聖刻文字は、強大な権力と莫大な富を手に入れる王の権力基盤であった。この「霊」を意味するヒエログリフの字源銀河が「長方形の暗黒天体部」であり、ヒエログリフの学術が「精密な天頂緯度の測定」を基軸にするものであることは、厳重な機密である〔ヒエログリフは銀河から作られた秘密〕が明らかになる可能性があった。したがって、〈カー〉・「霊」のヒエログリフは慎重に扱わなければらない文字であった。だから、このヒエログリフは決定詞として一度も使われなかったのである。
 このヒエログリフの字形は頭上を通過する「長方形の暗黒天体部」を〔両腕の肘を直角に曲げる形〕に図案化したものであ。これゆえ、〔両腕を上にさしのべる動作〕を表現するものであった。
 このヒエログリフは天頂を通過する「長方形の暗黒天体部の東の辺」を省略して、「長方形の暗黒天体部の西と北・南の3辺」を〔両腕の形〕に図案化した。この〔東の辺〕を省略して「両腕」の形に図案化する「長方形の暗黒天体部」の形状は、「人の横顔に酷似する銀河」の方からとらえると、〔前へさしのべる両腕〕のごとくに観える。だから、このヒエログリフは〔前方にのばす両腕〕としても用いられたのである。
 このヒログリフの字源銀河は「長方形の暗黒天体部」だけではなかった。
 「鬼の横顔に似る銀河」の南と北に「前(東)にのばす両腕のように観える銀河部」がある。
 この銀河部は、「十字の銀河」の「前(西)にのばす両腕のように観える銀河部」でもある。
 さらに、「十字の銀河の両腕」の肘の部分から直角に曲がる微(かす)かな銀河部が接続するので、「十字の銀河の両腕」は「肘を直角に曲げて上にのばす両手」のごとくに観える。
 そして、漢字の[乳]の甲骨文字の字形と同じく――「鬼の姿に似る銀河」を〔乳児〕に見立てると「十字の銀河」の前に伸ばす両腕となる銀河部は、〔乳児(鬼の姿に似る銀河)を抱いて乳をあたえる母親や乳母の姿〕のごとくに観える。王の〈カー〉・「霊」を再生するための儀式に〔子どもを抱く女性〕の場面が描かれ、あるいは〔女神から授乳される王〕のブロンズ像が発掘されている。これゆえ、〈カー〉のヒエログリフは〔抱くポーズ〕を表現するものと学者に指摘されたのである。
 〈カー〉・〔霊〕を意味する、これらの〔両腕〕の図案はヒエログリフの学芸の基軸となる〔天頂点をキャッチして精密に緯度と経度を測定して命を失わない方法〕を表現するものであった。また、古代エジプト人たちの生命観や信仰となった〔天頂に昇った死者の霊がこの地上に再生するという考え〕を表現するものであった。ゆえに、学者たちに、このヒエログリフは賞賛や祈りや身を守るポーズを図案化したものと指摘されることになったのである。

 以上のごとく、『図解古代エジプトシンボル事典』が「まるでわかっていない」と指摘する〈カー〉のヒエログリフの秘密は、夏音文字の学芸の基軸である〔天頂点のキャッチ〕と漢字の[命]の字源となり日本の「鳥居」の由来となった「長方形の暗黒天体部」と[文]の字源「十字の銀河」と[子]の字源「鬼の姿に似る銀河」によって解明できる。
 この秘密については、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕の6回や8回で、竜安寺発行のパンフレットにある「禅とは……」の説明に注目して解説して明らかにした。

 次回も〈カー〉・「霊」を意味するヒエログリフについて解説する。

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2011年12月17日 (土)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・4

 前回(3)で指摘したように、竜安寺の方丈の間の南側にある石庭は、『魏志倭人伝』が記述する卑弥呼と壱与(いよ)が生存した3世紀に、中国とわが国の天頂にめぐってきた「鳥居の銀河」すなわち「長方形の暗黒天体部」をモデルにして作られている。
 前回(3)にて、モデルとなる「長方形の暗黒天体部」が二つの正方形二つからなるので 石庭も二つの正方形からなると説明した。
 しかし 西川孟(もう)著『龍安寺』(集英社)の64頁にある石庭平面図は東西24m・南北10mとなって、二つの正方形から形成される長方形ではない。 

 私が前回において指摘した正方形の二つの部分つまり東西20mの部分は、第5群の石組の西端までとなる。この第5群の西端は雨落溝(あまおちみぞ)の西端となり、また土を焼いた平たい板の磚(せん)が敷きつめられる西端となる。
 このように、第5群の石組・雨落溝・磚が敷きつめられる西端までは、二つの正方形が明確に示されている。 

 でも、第5群の石組の西方には東西4m・南北10mの石組がまったく配置されない庭(余白の空間)がつづく。前回で解説したように、「長方形の暗黒天体部」は[命]の字源となった。「長方形の暗黒天体部」の北側は、[亼(しゅう)]の字源となる「二等辺三角形の暗黒天体部」が隣接する。そうすると、東西4m・南北10mの余白の部分は[亼]の字源部をあらわすものであろうか? しかし、余白の平庭の部分は長方形であるのに対して、[亼]の字源は二等辺三角形で合致しない。

 二つの正方形(東西20m・南北10m)に余白の部分(東西4m・南北10m)が加わる長方形の庭園の設計は、すべての漢字の基本字(約1400字)が作られた銀河部分を表現するものと考えられる。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bで、すべての漢字の字源が明らかとなる基本字が作られた銀河全域すなわち「秋の銀河と夏の銀河」の範囲を示した。 

 この漢字が作られた銀河全域の範囲を示すと、余白の部分をふくむ東西24m・南北10mの割合となる石庭の長方形となる。だから、石庭の全域はすべての基本字が作られた銀河全域を示すものと考えられる。というのも、二つの正方形におさまる5群の石組は 漢字が作られた銀河全域(秋の銀河と夏の銀河)を表現する仕組みになっているからである。

 気になるのは、なぜ石庭の寸法は東西24m・南北10mとメートル法にぴったりと合致するのであろうか? この点である。
 石庭が作られていた時代の土地の面積をあらわすとのき寸法は、メートルではなく尺寸法であったはずである。この尺寸法の間(けん)を単位にすると、石庭は東西13.2間・南北5.5間となって、中途半端な寸法になる。
 しかし、石庭は銀河をあらわすものであるゆえ、その単位は天文学が用いる「1丈(じょう)=10度」(1丈=10尺)であったと考えるべきことになる。石庭の北側の「方丈」と呼ばれる建物の名からしても、石庭における基準となった寸法は天文学の「丈」であったにちがいない。ゆえに、石庭の1丈は2mであったことになる。
 紀元前10世紀の中国の周代の1丈は2.25m、3世紀の魏の1丈は2.412m、14世紀の明の1丈は3.11m、現代の中国の1丈は3.33m、現在の日本の1丈は3.03mである。このように各時代、1丈の長さはさまざまに変わって一定ではなかった。
 このことからして、石庭の1丈は竜安寺の禅僧が使う「2mの杖(つえ)」を「1丈」と定めたと考えられる。 

 私の家の菩提寺は臨済宗円覚寺(えんかくじ)派に属する寺であるが、この菩提寺に新しい青年僧が住持(じゅうじ)として就任する時の儀式において、青年僧は鹿の角(つの)の形に似る木の枝を杖にして登場した。この儀式に用いられた杖は、僧侶の背丈よりも高く、およそ2mぐらいであった。臨済宗妙心寺派の竜安寺と私の菩提寺は同じ臨済宗である。だから、臨済宗では鹿の角に似る木の枝を聖なる杖として用いるものであったと考えられる。  

 「文字」の[文]の字源となる銀河を、私は「十字の銀河」と名づけたが、この「十字の銀河」の見かけの大きさは[1丈=10尺=10度]であり「丈」の基準となり[丈]の字源となった。
 『説文解字』は[丈]の字源「十字の銀河」の形状を「十尺なり。又の十を持するに従ふ」と解説する。この[丈]の字源となった「十字の銀河」は「杖」の形に相似するので[杖]の字源となった。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は『説文解字』の[丈]の「十尺なり。又の十を持するに従ふ」という解説を「十は手にもちうるものでなく、杖を持つ形」と批判する。しかし、『説文解字』の[丈]の解説は「[又]の字源となる右手の形に相似する銀河部が[十]の字源となる〔十字の銀河〕を杖のように持つように観える」と解説するものである。つまり 『説文解字』の「十尺なり。又の十を持するに従ふ」という解説は――[又]の字源の「右手」をいっぱい伸ばした、その前に見える「小指の幅」は「1度」 「親指の幅」は「2度」 「握りこぶしの幅」は[杖]の字源となる10尺・1丈の「十字の銀河」の「10度」となる――と 中国でも日本でも西洋でも、天文学においては度数の目安が定まっていた。だから、『説文解字』と『字統』の字源解説は誤っていない。
 『古事記』は伊耶那岐命(いざなきのみこと)が持っていた剣を「十拳剣(とつかつるぎ)」と記載する。この「十拳剣」は『説文解字』が[丈]について「十尺なり。又の十を持するに従ふ」と字源解説する「握り拳(こぶし)の幅となる十度の「十字の銀河」をモデルにして作られた剣」であったにちがいない。

 前々回(2)にて指摘してように、5群の石組はすべての字源が解明できる基礎知識を示す『易経』繋辞(けいじ)上伝の文(中国全土を洩れなく包む海岸線の形)をあらわす役目がある。
 この文は「易は天地と準(なぞら)う。ゆえによく天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」である。
 この文中に「天地の道」という語句が登場する。「天の道」となる[道]の字源は私が「オス鹿の横顔に似る銀河」と名づけた銀河部であり、「地の道」は中国のオス鹿の横顔に似る「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地図の形」である。5群の石組は上記の『易経』繋辞上伝の文をあらわす機能を有しながら、5群の石組はじめ石庭には大事な「天地の道」の[道]の字源を表示する造形が設計されず不明となる。ゆえに、字源を解明する基礎知識となる重要な [道]の字源を暗示するために、臨済宗の僧侶たちが用いる〔鹿の角の枝に相似する杖〕を石庭の〔1丈の寸法〕に用いられたのであろう。   

 [道]の金文形は「オス鹿の横顔に似る銀河」と「山東半島と廟島列島」の「天地の道」をあらわして「オス鹿の横顔」の形に図案化されている。この「オス鹿の横顔に似る銀河」において「十字の銀河」は「鹿の角」の部分に相当する。
 石庭は竜安寺の僧侶たちが禅を修業する「道場」であり、また夏音文字の学芸を学ぶ「道場」である。ゆえに、この[道]の字に[場]の字を加える「道場」の1丈は「十字の銀河」に見立てた鹿の角の形をした背丈2mの杖を用いて、石庭の規模を東西12丈(12杖)・南北5丈(5杖)と定め、5群の石組にて表示されない不明な[道]の字源を補足説明したものと考えられる。

 前回で指摘したように、「石庭の東」は「長方形の暗黒天体部の南」となる。
 第1群の主石の大石は、拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cにて私が「胎児の姿に似る銀河」と名づけた銀河の形に相似する。この「胎児の姿に似る銀河」は〔夏の銀河の西南部の西半分の形〕である。第1群の石組を数字の「8」の字の形をした白砂の紋様が包みこむ。この「8」の砂紋は「龍の横顔と首」の形に観える。〔夏の銀河の西南部の東半分〕は「龍の横顔と首」の形に観える。ゆえに、第1群の石組は「夏の銀河の西南部」に見立てることができる。
 西端の第5群は夏の銀河の西南部の北側に所在する夏の銀河の東南部にある「人の横顔に酷似する銀河」に見立てることができる。なぜならば、第5群の大石は「人の横顔に酷似する銀河」に酷似するからである。
 ゆえに、第2群は「たて座が漬(つ)かる銀河」、第3群は「人の横顔に酷似する銀河の右の胸部から腹部に相当する銀河部」、第4群は「わし座が漬かる牛の顔のような形の銀河部(人の横顔に酷似する銀河の左肩に相当する銀河部」に見立てることができる。 

 次に、西端の第5群から東端の第1群を見渡すと、第1群の「僧侶の横顔に似る大石」は私の「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河をあらわしていることが察知できる。ゆえに、 第4群・第3群・第2群は 第5群の「人の横顔に酷似する銀河」から第1群の「鬼の横顔に似る銀河」の中間に相当する「鬼の身に相当する銀河」や「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の各部分の形に似ているように観えるようになっている。

 次にまた最初と同じように、第1群から第5群を見渡すと、第5群の「人の横顔に酷似する首」の形をなす大石は、『古事記』序初頭部に登場する「参神造化(さんしん・ぞうか)の首(はじめ)を作(な)す」という語句をあらわすものであることが察知できる。この「首の銀河」は、私が「三つ輪の銀河」と名づけた無数の星が渦を巻き円を描き重なりあいひしめく三つの輪の形となる壮麗な銀河に包まれる。「三つ輪の銀河」のうちの「中央の輪(正円形)の北端に「首の銀河」が所在する。 

 今から約6000年前の縄文前期初頭において、「中央の輪の銀河の中央部」が日本列島の関東地方の天頂にめぐってきた。この「中央の輪の銀河の中央部を貫通する天頂緯度軸」を『古事記』は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と記す。というのも縄文前期に関東地方に煮炊き用以外の土器が作られるという土器の造形革命がおこったからである。この関東地方におこった土器の造形革命は「中央の輪の銀河」はじめ三つ輪の銀河の形状によって右脳が刺激されて起こった芸術の芽生えを示すものであったのである。 ゆえに この土器の造形革命を『古事記』序は「参神造化の首を作す」と記述した。縄文中期になると土器の表面にさまざま形の渦の紋様を刻み、 奔放(ほんぽう)な円形曲線で造形する装飾性豊かな土器や芸術性が優れた土偶が多数作られた つまり縄文中期には新潟県信濃川流域の火炎土器様式、関東地方の勝坂様式などの土器が作られ、あるいは日本最古の国宝の長野県茅野市尖石遺跡から出土した”縄文のビーナス”など、縄文芸術の最高峰の作品が数多く作られた。この縄文中期初頭の信濃川流域や関東地方や長野県の天頂に、「中央の輪の銀河の南部」がめぐってきた。縄文中期の天頂緯度軸を 『古事記』は「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と表記する。縄文後期初頭の天頂緯度軸は 「三つ輪の銀河」の内の「南側の輪の銀河」を貫通した。この後期縄文時代初頭の天頂緯度軸身を『古事記』は「神産巣日神(かむむすひのかみ)」と記す。 

 この神産巣日神が天頂を通過した今から約4050年前の縄文後期初頭に、中国から帝益の孫の王子と若者たちが小舟を漕いで大海を越え、日本列島に移住して夏音文字を根づかせた。
 益氏の若者たちが話す夏音は縄文人にはチンプンカンプンで理解できなかった。
 しかし、益氏の若者たちが銀河を指さし手振り身振りで説明する夏音文字の学芸は、銀河から土器や土偶を創った縄文の芸術家たちには理解できたのである。
 だから、わが国は卑弥呼や天照大御神が精通していた夏音文字の学芸が習得できた。
 中国の『老子』上篇(道経)は〔文字〕で「銀河から文字が作られた」と解説し、『説文解字』の〔文字〕で字源を解説する。これに対し、竜安寺の石庭は〔造化(芸術)〕で「銀河から文字が作られた」と説明し、すべての字源が察知できるように作られている。
 この相違は、わが国において夏音文字の学芸は〔造化(芸術)〕の右脳思考によって習得されたからである。

 説明は横道にそれたが、第1群の石組は「鬼の横顔に似る銀河」を見立てることができ、 第5群の石組は「三つ輪の銀河と首の銀河」に見立てることができるので、第2群はその中間の[滝][川][水][為][偽]の字源となった「早瀬のように観える銀河」、第3群は「十字の銀河の下半身」、 第4群は「十字の銀河の上半身」に見立てることができる。

 以上のごとく、 夏の銀河の西南部から秋の銀河の三つ輪の銀河までが、すべての字源が解明できる1400字前後の基本字が作られた銀河の全域であり、5群の石組はこの銀河全域の形状に見立てることができるようになっている。 

 このように、石庭はすべての字源が解明できる仕組みになっている。  

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2011年12月15日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・22

 エジプトの史跡にあって、全長57m・高さ20mの大スフィンクスは、3大ピラミッドとともに世界的に有名である。
 古代エジプトでは多くのスフィンクスが造られたが、ギザのスフィンクスが最大にして最古のものである。
 胴体の部分はもともとあった岩山を彫ったもので、そのあと石灰岩で造った頭部を載せたのではないかと考えられている。

 この大スフィンクスの建造目的と建造した年代について諸説がある。

 そのなかの一つは、スフィンクスはカフラー王のピラミッドの前、ピラミッドに付属する河岸神殿に隣接していることから、カフラー王のピラミッドを守護するために造られたとする説である。したがって、ピラミッド複合体の一つとしてカフラー王の時代に建設され、スフィンクスの顔はカフラー王に似せて造ったと、最初は考えられていた。

 しかし、カフラー王の河岸神殿とスフィンクス神殿は石材もその組み方も違うので、スフィンクスはカフラー王のピラミッドよりも以前、クフ王の時代に建造され、スフィンクスそのものが太陽神としての信仰の対象だったという説が登場した。
 この説の場合、カフラー王のピラミッドとその他の複合建築(河岸神殿・参道・葬祭殿など)は、あらかじめ建造されていたスフィンクスを取りこむようにして、後に建設されたということになる。 

 ゆえに、これからの意見は、スフィンクスはクフ王の時代に建造されたという説にしたがうことにする。

 なお、スイフィンクスの前にある神殿跡を「スフィンクス神殿」と呼ぶ。このスフィンクス神殿は、スフィンクスの周辺から石材を運んで建設されたことが判明した。このため、スフィンクスとスフィンクス神殿は同時代に建設されたことになった。

 仁田三男著『図説 古代エジプト1』(河出書房新社)の37頁は、ギザの大スフィンクスの古称について下記のように記す。

 「古代名は〔ホル・エム・アケト(地平線のホルス)〕と太陽神ラーの化身であるホルス神と同一視されていた。ホルス神がまた、現世の王のことであるから、スフィンクスは王権と太陽信仰の結びつきを象徴するものであったのだ。」

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕の17回と18回に解説したように、ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった銀河は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」である。そして「ホルス神」は「二重冠」を頭上に戴(いただ)くゆえ、ヒエログリフ「二重冠」の字源「鬼の姿に似る銀河」から「ホルス神」が創造された。「鬼の姿に似る銀河の首から心臓部まで」の部分にヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」が隣接し、「鬼の姿に似る銀河の首につく両眼」が〔ホルスが父オシリスを殺した叔父セトを敵視して憎悪する両眼」となる。
 だから、上記の『図説 古代エジプト1』が指摘するように、〔ホル・エム・アケト(地平線のホルス)〕すなわち「ホルスの眼」と太陽神ラーの化身である「ホルス神」は同一視されたのである。 

 前回(21)で指摘したように、「クフ王のピラミッド」は「ホルスの眼」の一部となる「北アメリカ星雲」に呼応して造られた。
 上記に示したように、スフィンクスはクフ王の時代に建造されたゆえ、「クフ王のピラミッド」のモデルとなった「北アメリカ星雲」はヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河の一部であった。ゆえに、スフィンクスは”地平線のホルス”と称されることになったのである。

 ”地平線のホルス”という名のとおり、今から約4500年前のクフ王の時代のヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河部が地平線上に出現する状況を再現すると――「ホルスの眼」は春分の日の午前零時の1時間前(23時)に、東からほぼ45度の東北の地平線上から出現していたことになる。
 このとき 「ホルスの眼」の西側の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」が東から30度の東北東の位置にあり 地平線から10度~20度の高さまで昇っていた。反対側の西の地平線にあっては 「獅子(しし)座」の鼻先が高度5度となって西から25度の西北西の地平線へ没しようとしていた。そして、地平線の北から35度・南から25度まで120度におよぶ東の地平線を占拠し 鼻の先端が高度47、8度まで達する巨大な夏の銀河全像の横顔が天頂のほうに向いて横たわっていた。

 この〔地平線の上にヒエログリフ「ホルスの眼」が出現する状況〕がいわゆる”地平線のホルス”である。
 この「ホルスの眼」が地平線上に在る状況にもとづき、スフィンクスは①オシリス神が創造された「人の横顔に酷似する銀河」、②横たわるライオンの姿に似る「獅子座」、③ライオンの顔よりちょっと長いが ライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」に似せて作られたのである。

 上記にて紹介した仁田三夫著『図説 古代エジプト1』の36頁には、スフィンクスについて下記のごとく説明する記事がある。

 「その起源については、おそらくライオンのもつ獰猛さ、強きもの、それでいて精悍な容姿への憧れがこの聖獣を創造させたにちがいない。スフィンクスとは古代エジプト語で〔シェセプウ アンク(またはシェセプウ)〕とよぶが、それは〔シェセプ(似姿)〕の語に由来し、文字通り〔(力強き王の)生ける似姿〕を意味している。」

 この『図説 古代エジプト1』の指摘からしても、スフィンクスは①「人の横顔に酷似する銀河」、②「獅子座」、③「夏の銀河全像」を合体させて創造されたと考えるべきことになる。
 というのもオシリス神が創造された「人の横顔に酷似する銀河」はライオンの顔にも相似するからである。
 前に足を出してすわるスフィンクスの姿は「獅子座」の形と共通する。
 ③の「夏の銀河全像」にあっても――視界に光が入らない真っ暗な場所から見ると、瞳孔の直径が最大(8mmぐらい)に拡大されて暗い銀河部まで見えるようになると「夏の銀河全像」はライオンの横顔に相似するようになる。だから、このライオンの横顔に相似する「人の横顔に酷似する銀河」・「夏の銀河全像」と前に足を出して座るライオンの姿に観える「獅子座」にシェセプ(姿が似るように)、”地平線のホルス”=スフィンクスは創造されたことになる。

 スフィンクスの頭部は”ネメス”と呼ばれる頭巾(ずきん)をかぶる。
 「人の横顔に酷似する銀河」の後部となる北側に、全天第四 北天では第一の輝星で強烈な光を放つ”空のアーク燈”と呼ばれる琴(こと)座α(アルファ)星のベガ(高度0.1等)がある。「人の横顔に酷似する銀河から後方のこと座ベガ」までの銀河の形状は スフィンクスの頭巾”ネメス”の形にそっくりである。 

 春分の日の午前零時になると、クフ王のピラミッドからスフィンクスの方角(東から49度の南南東)に、ライオンの横顔の口部となる=夏の銀河の西南部にある「銀河系の中心」が位置した。
 この「銀河系の中心」方向には、無数の星が群がり星間物質が入り乱れて、渦を巻いてわきあがる入道雲のような迫力に満ちた圧巻的な形状でせまる。
 この「銀河系の中心方向の渦巻き」と同様に、ヒエログリフ「ホルスの眼の瞳」となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」もまた「渦巻き」の形となる。
 つまり、「銀河系の中心方向」は”巨大なホルスの眼(の瞳)”ということになる。
 だから、360度の地平線のうち3分の1の120度の地平線を占拠してライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」をモデルして作られたスフィンクスは”地平線のホルス”と呼ばれたのである。 

 春分の日の午前零時の2時間後の午前2時、ヘルクレス座のα星のラスアルゲチ(美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星とから成る)が、3大ピラミッドが建造されたギザ(北緯30度)の天頂点上に重なって輝いた。
 このラスアルゲチは、ライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」の鼻先に隣接する。
 
ゆえに春分の日の午前零時になると、クフ王のピラミッドからライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」の鼻先とラスアルゲチが在る方角(南南東)に、スフィンクスが建造されたのである。

 なお、エジプト暦では夏至の日が1月1日であったゆえ、今日の3月2日は3月2日ではなかったが、春分の日より21日前の今日の3月2日となる日の午後6時、座るライオンの姿に相似する「獅子座」のγ(ガンマ)星(光度2.3等の美しい重星)が首都メンフィスの天頂点上にめぐってきた。ゆえに、スフィンクスは獅子が座る姿に似せて造られたのである。

 さらになお、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・5〕で指摘したように――竜安寺の石庭における第1群の石組は 獅子の横顔に相似する「夏の銀河全像」の獅子の口となる「銀河系の中心方向」の〔わきあがる入道雲のような渦巻き〕をあらわす役割があり、竜安寺の山号「大雲山」の[雲]の字源・字形・字義をあらわすものであった。

 クフ王のピラミッドの葬祭殿とつながる参道は、東から15度の東北東を指すように作られている。
 クフ王のピラミッドの東から、天の赤道が出現する。「ホルスの眼」が地平線上にあるつまり”地平線のホルス”の状況のとき、東の地平線から昇る天の赤道となるポイントはじめとする天の赤道より北の地平線上にある天体部が天の北極を中心した角距離で15度歩行(移動)すると、春分の日の午前零時となった。ゆえに、クフ王のピラミッドの「参道の先端」は「春分の日より1日前の23時」をあらわしていたのである。

 カフラー王のピラミッドの東南東(東から8度ばかり南)に、クフ王の時代に造られたスフィンクスがある。そして カフラー王のミラミッドの葬祭殿から河岸神殿をつながる参道は、東から15度の方向を指さす。 
 ということは、この参道はスフィンクスが造られたクフ王のピラミッドの東から15度の東北東を指さす参道と密接に連関するものと考えるべきことになる。
 カフラー王のピラミッドはクフ王のピラミッドより西によって建造され。スフィンクスはライオンの座る姿に似せて造られ、”地平線のホルス”の状況のとき、座るライオンの姿に似ている「獅子座」が西北西の地平線の近くに位置した。前述したように、この「獅子座のγ星」は首都メンフィス(北緯29度59分)の天頂点となり、「しし座の主星のα星・レグルス(光度1.4等)」は子午線経過するときにメンフィスより約8度南に位置した。このような獅子座を構成する光度6.5等までの肉眼星が136個の星たちは、エジプト各地の緯度を測定する羅針盤(目星や物差し)となった。
 ”地平線のホルス”の状況のとき、メンフィスの天頂点と重なった「獅子座γ星」が天の北極を中心とする角距離15度・1時間 南から北へ向かって東から33度の西北西の地平線上について没する状況になると春分の日の午前零時となった。だから、カフラー王のピラミッドの東より15度南の東南東を指差す参道もまた、「春分の日より1日前の23時」をあらわしていることになる。

 メンカウラー王のピラミッドの葬祭殿と河岸神殿をつなぐ参道は東を指さす。
 この参道が指さす東の地平線から天の赤道が出現した。天の赤道の近くに、鷲(わし)座の主星・α星の彦星=アルタイル(光度0.9等)が位置した。鷲座の彦星は天の赤道が出現する東から7度の東北東の地平線から昇った。「ホルスの眼」の目尻の隣となる箇所に 白鳥座の主星・α星のデネブ(光度1.3等)が輝く。
 この鷲座と白鳥座と上記にて取り上げた琴座の3星座の主星が形成する三角形を”夏の大三角”と称する。この”夏の大三角”は真正ピラミッドの一辺の側面形(三角形)に相似する。
 春分の日の一日前の23時における”地平線のホルス”の状況のとき、白鳥座α星と鷲座α星の両星は地平線と平行に高度5度ぐらいの位置にあった。ゆえに、この両星と琴座α星を結ぶ”夏の大三角”は 高い台地に建設されたカフラー王ピラミッドの側面形に相似する。
 春分の日の午前零時になると、”夏の大三角”は一段と高い位置にあり、鷲座α星はメンカウラー王のピラミッドの参道が指さす東の上空に昇っていた。だから、メンカウラー王のピラミッドは「春分の日の午前零時」をあらわすものとなる。  

 前回(21)にて解説したように、ギザの3大ピラミッドはエジプト暦の元旦の始めとなる「夏至の日の午前零時」をあらわす建造物であったのである。実際には人間の目では、明るい太陽光線にさえぎられて見ることができないが、「夏至の午前零時の夜空」は「冬至の正午の空」の様子を示しているものとなる。ゆえに、3大ピラミッドは「夏至の午前零時の夜空」で「冬至の正午の空」を観察する。いいかえると「冬至点と冬至点の真北の夏至点」を知るための建造物であったことになる。 

 上記にて明らかにしたように、大スフィンクスと3大ピラミッドの葬祭殿・参道・河岸神殿の複合体は「春分の日の午前零時」=「秋分点」をあらわす表示する建造物であったのである。ゆえに、大フィンクスと3大ピラミッドの複合体は「春分の日の午前零時の夜空」は「秋分の日の正午の空」=「秋分点の真北の春分点」を表示する施設であったのである。

 エジプト暦は夏至の日を元日とし、1年を「アケト(洪水)」「ペロイェト(芽生え)」「ショム(欠乏)」の3季に分けられていた。
 しかし、春分・夏至・秋分・冬至の日も重視したのである。 
 この証拠が、3大ピラミッドと3大ピラミッドの複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスということになる。
 3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を示す(象徴する)建造物であり、3大ピラミッドの複合体と大スフィンクスは「春分点・秋分点」を表示する(象徴する)建造物であったのである。

 天の赤道上の「冬至点」がある南より90度東の天の赤道上に「春分点」があり、「冬至点」がある南より90度西の天の赤道上に「秋分点」がある。だから、「夏至の日の午前零時」で「冬至点」がわかると「春分点」と「秋分点」が明らかとなり、「春分の日の午前零時」で「秋分点」の位置を知ると、「秋分点」の90度西の天の赤道上にある「夏至点」の位置もわかる。「大スフィンクス」の古称「地平線のホルス」は――3大ピラミッドが建造された当時(今から約4500年前)、春分の日の一日前の23時にヒエログリフ「ホルスの眼」の字源・字形となった銀河部が地平線上にあった――と伝えるものであった。

 3大ピラミッドの3人の王は、北緯29度59分の首都メンフィスに居住した。
 首都メンフィスは、夜間に家々で灯(とも)す燈火で「北天の最輝部」のごとく明るかく輝く都市であった。ゆえに、明るいメンフィスの街路から銀河を観察すると 瞳孔の直径が最小(1.5mm~2mm)に縮小されて暗い銀河部が見えないため、夏の銀河はライオンの横顔に相似する形に観えなかった。少し光が視界に入るメンフィスの郊外で瞳孔径(どうこうけい)が5mmぐらいとなる目で、夏の銀河を見ると〔鼻の長い象(ゾウ)の横顔〕の形に観えた。つまり、「夏の銀河」は漢字の[象]の字源・字形・字義となった。メンフィスから緯度が2分北の人家の明かりがまったくとどかない真っ暗なギザ(北緯30度1分)の砂漠だと瞳孔径が最大(7mm~8mm)に拡大するので、「夏の銀河」の形は「ライオンの横顔」に相似し、また「長い人の横顔」に似ているように観えた。ゆえに、この瞳孔径が最大になる目で観る「夏の銀河」は「人の横顔」に似ているので、漢字の[人]に[象]が加わる[像]の字源となった。
 ギザの砂漠ならば、暗い銀河部まで見て銀河の全像が見える。だから、3大ピラミッドと大スヒンクスは、首都のメンフィスではなく、人里離れた見渡すかぎり地平線で包囲されるギザの砂漠に建造されたのである。 

 前回(21)で解説した3大ピラミッドに呼応する3つの銀河部すなわち①〔三角形に近い半円形〕の「北アメリカ星雲」、②〔三角錐〕の形に観える「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光のような銀河部」、③〔三角形〕の「人の横顔に酷似する銀河の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」は、子午線通過するときに首都メンフィスの天頂緯度線より北側に位置した。ゆえに、3大ピラミッドは首都メンフィスの南の地ではなく、メンフィスの北の地・ギザに建造された。


 
首都メンフィスの夜は人家が灯す明るい光で瞳孔径が縮小して精密に天頂点周辺の緯度が測定ができない。しかし、360度地平線となるギザの砂漠においては、夜になれば真っ暗闇になって瞳孔径が最大に拡大される。
 だから、ギザに3人の王の棺を葬るピラミッドを建造すれば、王の魂は迷わずに天上のピラミッドに呼応する銀河に到着して霊となり、さらにその霊は最も精密に天頂緯度が測定できる「長方形の暗黒天体部」にて地上にもどる新しい生命の芽生えが生じて、やがて生前住んだメンフィスの王の家(ファラオ)に命が甦(よみがえ)って生き返る――このように古代エジプトの王たちは死んでも命は再生すると考えていた。
 ゆえに、昇天する出発点から瞳孔径が縮小して緯度が精密に測定することができないメンフィスにはピラミッドを建造しなかった。
 漆黒(しっこく)の闇となるギザならば瞳孔径が最大に拡大して、ピラミッドから魂が出発して天にて霊となり新しい生命が芽生える「長方形の暗黒天体部」に到着できると確信するものであったのである。

 現在のエジプトの首都カイロから南へ約670km、その昔”テーベ”とよばれた今日のルクソールである。
 ルクソールは中王国時代から新王国時代にかけて、エジプトの中心地であった。このルクソールのナイル川東岸に所在する王家の谷に造られた王の墓には、「死者の書」と称する壁画があり、この「死者の書」の中には 死者の再生を助ける呪文(じゅもん)が書かれている。壁の絵には、死んだ王とその埋葬用の像が生き返ったときに行う儀式が描かれている。

 だから、死んだ王が再生するために、3大ピラミッドは人家がまったく無い精密に天頂緯度が測定できる砂漠の台地に建造されたのである。

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2011年12月11日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・20

 古代エジプト王朝は、ナイル川の氾濫(はんらん)によって栄えた。エジプトの豊かな農作物は、定期的に起こるナイル川の洪水のおかげであった。はるか南のアフリカ中央部で大量の雨が降ると、ナイル川は両岸の肥沃(ひよく)な土を下流のエジプトへと押し流した。メンフィス周辺では毎年9月初めのころに、大洪水がピークに達した、洪水に見舞われた土地は泥状にやわらかくなるので、原始的でしかも軽い木製の鋤(すき)で牛と人とが協力して耕し また軽い木製の鍬(くわ)で耕すことができた。鉄製の刃先が製造されなかった古代においては 大河が洪水で氾濫すると、上流から肥沃な土が押し流された両岸一帯は木製の鋤や鍬で耕すことができる良田となったため、多くの人民に与える食料にめぐまれて王朝は栄華をきわめることにできたのである。 

 この栄華を維持するために天文学を発達させ、暦を作って農業を発達させ、王朝は銀河から作った文字の学芸を独占管理し、この秘密を知る人たちを体制側に組み込み、文字が銀河から作られた秘密を洩らす者は死刑にして、銀河各部に名称をつけないようにして厳重な機密にしたのである。

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・15〕で指摘したように、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」は「クラハシセイタカコウ」(アフリカ産のコウノトリ)の側身形に相似するので、「クラハシセイタカコウの側身形」を図案するヒエログリフが作られて「魂」を意味する〈バー〉と発音されることになった。
 この〔15〕の説明は大まかにおこなったが、「白鳥座γ(ガンマ)星を包囲する円形の銀河部」が「クラハシセイタカコウの横顔」に相当し、この円形の銀河から天頂緯度軸に向かって 「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の頭からほつれて垂れる髪の毛のように観える銀河部」が「クラハシセイタカコウの嘴(くちばし」となる。
 このような「白鳥座γ星を方位する円形の銀河部と北天の最輝部」から図案化された「クラハシセイタカコウの側身形」のヒエログリフは、さらに東方にある「十字の銀河の左腕(東側の腕)から両足」までの形状にも類似する。

 「十字の銀河」が子午線通過するとき、「十字の銀河の股(また)」より約2度~約6度の距離の南に「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」がある。「十字の銀河の左腕から右足まで」が「クラハシセイタカコウの顔から尾」までの形に相似し、「十字の銀河の股から約2度のナイル川の氾濫に似る銀河の北端」までがコウ類で最も肢(あし)が長い〔クラハシセイタカコウの肢の長さ〕に適合する。クラハシセイタカコウは沼地に棲(す)む。ゆえに、「ナイル川の氾濫に似る銀河」は「洪水でやわらかくなった畑の土の泥」に見立られ、「十字の銀河の右腕からナイル川の氾濫に似る銀河」までは〔クラハシセイタカコウの側身形〕に相似すると定められた。

 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)は107頁にて「紀元前3100年頃の前王朝期、(中略)、土を掘る鍬(くわ)の絵は魂と心を表す」と指摘する。 

 「ナイル川の氾濫に似る銀河」を〔洪水で泥状となった畑〕に見立てると、「十字の銀河の胸部から下の下半身」は、「畑を耕すの鍬」の形に相似する。というのも、〔人の正面形、人の背面形、人が東に向かって歩く側身形、女性が西に向かって歩く側身形〕に酷似する、この「十字の銀河」を「人の正面形」に見立てると、〔鍬の形〕に相似する部分は「十字の銀河の胸部より下の両足」までとなるからである。
 このイメージの〔鍬の上端〕は〔魂や心〕を蔵(ぞう)する「十字の銀河の胸部」に相当する。
  リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解古代エジプトシンボル事典』(原書房)の266頁にある「鍬とオベリスク(テーベ、レクミラの墓、第18王朝)」と名づけた図には、〔人の胸部までの背丈の鍬で耕す鍬〕が描かれている。
 〔魂や心〕は人体のどこに蔵するものかと言えば〔人の胸部〕に蔵すると考えざるをえない。だから、人の正面形に相似する「十字の銀河の胸部から下の両足まで」の形状に見立てられた〔鍬〕の絵は「魂や心」をあらわすことになったのである。 

 クラハシセイタカコウの嘴(くちばし)は古代エジプトの「鍬」の形に相似する。
 ”書く”という方法が確立されてヒエログリフの字形が作成された紀元前3100年頃からメンフィスが首都であった紀元前2200年頃の第6王朝まで、「クラハシセイタカコウの横顔や胴体」に見立てられた東の「十字の銀河」と西の「北天の最輝部」の子午線経過の時の高度はともに85度(天頂緯度線より5度北側)であった。クラハシセイタカコウの側身形に相似する「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河」の額(ひたい)に在る。したがって 〔額〕は「心」をあらわすことができないから、〈バー〉と発音するヒエオログリフ「クラハシセイタカコウ」は「魂」だけを意味することになったのである。

 「十字の銀河」は〔地を踏んで歩く人の姿(側身形)〕に実によく似ている。
 ゆえに、〔「十字の銀河の右足」から「鬼の姿に似る銀河の両足の中央部」へ向けて引く直線〕は〔右足が踏んで歩いた「土(地面)」〕をあらわすことになる。この直線と平行に〔「十字の銀河の左足」から「鬼の姿に似る銀河の左足(南の足)まで」を引く直線〕も〔左足が踏んで歩いた「土」〕をあらわすことになる。
 漢字の殷代(いんだい)に用いられた甲骨文字の[土]の字源・字形・字義もまた、上記の考えにもとづいて成立した。

 「十字の銀河の右足」が踏んで歩いた「地面」をあらわす直線は、「鬼の姿に似る銀河の口・食道・心臓に相当する部分」を貫通する。
 また、「十字の銀河の左足」が踏んで歩いた「地面」をあらわす直線は、「北アメリカ星雲の中央部」を貫通する。この「北アメリカ星雲」は「心臓」の形に相似するが、「鬼の姿に似る銀河」の体外に存在するので、「心臓」に見立てられないことになった。
 これゆえ、「十字の銀河の右足」が踏んだ「地面」をあらわす直線が貫通する「鬼の姿に似る銀河の心臓」が、〈ネフェル〉と発音して「善い」を意味する文字(ヒエログリフ)の「心臓」の図案に用いられた。
 ただし、この「心臓」の字形は、銀河から文字が作られたことを明確に示して 「食道のついた心臓」に図案された。
 
人体においては〔食道〕と〔心臓〕は直結していない。しかし、ヒエログリフの字源となった銀河にあって「十字の銀河の右足」が踏んで歩く「地面」をあらわす直線は〔「鬼の姿に似る銀河」の食道と心臓を貫通して結びつける〕ので、〈ネフェル〉と発音する「善い」を意味する形容詞をあらわすヒエログリフは〔食道のついた心臓〕の形に図案されたのである。
 ヒエログリフ「食道のついた心臓」をあらわす字形における食道部分の上部は「十字形」となる。〔人の正面形〕に相似する「十字の銀河の心臓」の上部は左右に伸びる両腕と胸・腹の上半身が交わる「十字形」である。だから、「食道のついた心臓」の文字(ヒエログリフ)の食道上部は前王朝時代に「十字の銀河の胸部から下の両足」までが〔鍬〕に見立てられて〔鍬〕の絵が「心」をあらわすものであったことを伝承して「十字の銀河の胸部」の「十字形」に図案されたのである。

 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)の123頁に 「容器の表面を飾るネフェルの文字●ブロンズに黒金象嵌(ぞうがん)。第25王朝。パリ、ルーヴル美術館」と説明する写真がある。
 この写真における 黒金象嵌がほどこされた容器の表面を飾る〈ネフェル〉のヒエログリフは「心臓」の位置に造形されていない この〈ネフェル〉の「食道のついた心臓」の象嵌は 両眼が「ホルスの眼」の中央にあって鼻をあらわす飾りとなっている。
 前々回(18)の前半部で指摘したように、「鬼の姿に似る銀河の首につく両眼」は〔ホルスの父・オシリスが弟セトを恨む両目、またホルスがセトを敵視して憎悪に燃える恨みの両目〕に見立てられた。この〔恨みの両目〕の中央の鼻の位置が、〈ネフェル〉のヒエログリフ「食道のついた心臓」の字源銀河部となる。
 だから パリのルーヴル美術館が所蔵する容器の「食道のついた心臓」は両眼の中央にある「鼻」となるように象嵌されたのである。また「十字の銀河の左足」が踏んで歩く「地面」をあらわす直線が貫通する「北アメリカ星雲」は「ホルスの眼の瞳」であり、この直線は「ホルスの眼の目頭と目尻の白目」の部分を貫通する。だから、第25王朝時代に作られた容器の〈ネフェル〉は〔ホルスの両眼の中央の鼻の位置〕に象嵌されたのである。   

 『説文解字』は[心]の字源を「人の心なり。土の蔵(くら)、身の中に在り、象形。博士説を以て火の蔵と為(な)す」と解説する。
 前述したように、甲骨文字の[土]の字源・字形・字義は――「十字の銀河」を〔地を踏んで歩く人の姿〕に相似すると見立てて、「十字の銀河の両足」から「鬼の姿に似る銀河」へ向けて引く直線を〔地面〕と見立てて成立した。そして、漢字の[心]の金文形は「心臓」を図案化したものであり この「心臓」をデザインする[心]の字源もヒエログリフ「食道のついた心臓」と同じく「鬼の姿に似る銀河の心臓」であった。ゆえに、漢字も銀河から作られたゆえ、字源となる銀河の形状にもとづいて「心臓」は「土の蔵」と解説されることになったのである。「ホルスの眼の瞳」となる〔心臓〕の形に相似する「北アメリカ星雲」は[火]の字源であり、〔心臓が動いていれば、体を暖かく火照(ほて)る〕ので、『説文解字』は「心臓」を「火の蔵と為す」と説明したのである。

 ナイル川の洪水によって豊かな実りを確保して栄えたエジプト王朝が銀河からヒエログリフが作られたように、中国においても洪水によって豊かな農作物にめぐまれた黄河中流地域から【銀河各部の形状】を【文字】とする漢字が起源した。このようにエジプトと中国の文字の起源には共通点がある。大河の洪水による氾濫によって豊かな農作物を収穫するために 【文字】が発明されたのである。エジプトでも中国でも、【文字】が発明された最初の段階から、【文字】は強大な権力と莫大な富を手に入れることができる最も偉大な発明であると認識されていた。だから、王朝の安泰がはかるために、銀河各部の名称の作成を禁止し、銀河から文字が作られた学芸は王朝が独占管理して厳重な機密としたのである。 

 人類史上における偉大な【文字】の発明は、 言語と論理的な思考をあつかう左脳の産物ではなかったのである。
 【文字】は複雑な視覚パターンの認識や処理にいちじるしく優れる・芸術の創造をあつかう右脳の産物であったのである。
 わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字通』(平凡社)の1399頁で【文字】を「ことばをしるす記号」と定義する。また、白川静著『字統』では右脳の産物と認識しないで字源解説して、あたかも【文字】は〔左脳があつかう言葉をしるす記号」のごとくあつかっているが、このような考え方では漢字とヒエログリフが銀河から作られた右脳の産物であることをまったく解明することができない。
 竜安寺の石庭は白砂を敷きつめる平庭と5群の石組と油土塀(あぶらどべい)とで銀河から作られたすべての字源を知ることができるにして、【文字】は右脳の産物であると明確に示している。 

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2011年12月 9日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・18

 前々回(16)で解説したように、ヒエログリフ「赤冠」から伸びる線の先端の〔渦巻き〕は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案化したものである。 

 この「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼」と呼ばれるヒエログリフの字源となり、呪符(じゅふ)のモデルとなった。正確にいうと、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼の瞳(ひとみ)」の部分となった。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣は「長方形の暗黒天体の北部」である。
 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・3〕で解説したように、「長方形の暗黒天体部」は漢字[命]の字源であり、「長方形の暗黒天体部の北部」は[命]の上部の[亼(しゅう)]の字源となる。
 この[亼]の字源となる「暗黒天体部」は「ホルスの眼の目頭(めがしら)の白目(しろめ)」の部分となる。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が「瞳」となり、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の西隣の「鬼の姿に似る銀河の腹部と両足」より南の「暗黒天体」が「ホルスの眼の目尻(めじり)の白目」に相当する。

 ホルスの父のオシリスは、弟のセトに殺された。「ホルスの眼」は、ホルスがエジプトの王位を争ってセトに敗れたが、魔術の力で支配権をとりもどしたホルスの眼を象徴するとされる。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の隣は[亼]の字源の「二等辺三角形の暗黒天体部」であり「鬼の横顔に似る銀河の首」の部分に相当する。この「鬼の横顔に似る銀河の首」に、〔じっと冷たくヘビの目のように睨(にら)みつける右目と左目〕の形の両目がつく。つまり、 [亼]の字源となる「暗黒天体部」の北半分〔じっと冷たくヘビの目のように睨みつける右目〕となる。「鬼の横顔に似る銀河の後頭部のほうの首」は〔じっと冷たくヘビの目のように睨みつける左目〕となる。このような「鬼の横顔に似る銀河の首につく両眼」が〔オシリスが弟セトを恨む両目、またホルスがセトを敵視して憎悪に燃える両目〕に見立てられたことになる。
 「鬼の横顔に似る銀河」にも「両目」となる銀河がある。この「鬼の横顔に似る銀河の両目」〔ホルスが恨んで殺したセトの両目〕となる。というのも、「鬼の横顔に似る銀河」のの表情は〔口を開けて苦しそうに息をする、瀕死(ひんし)の形相(ぎょうそう)〕に観えるからである。また、「鬼の横顔に似る銀河の首」にも〔両目〕があり、この〔両目〕は上記の〔じっと冷たくヘビのように睨みつける敵視・憎悪の両目〕となるので、「鬼の横顔に似る銀河」〔首を絞められて苦しむ殺される人、セトの横顔〕と見立てることができるからである。
 ゆえに、「鬼の横顔に似る首につく恨み
の両目」は〔鬼の首を締め付けて絞殺するホルスの呪(のろ)い〕をあらわすものなる。だから、「ホルスの眼」はヒエログリフであるとともに呪符となったのである。 

 なお、「鬼の横顔に酷似する首につく両目」は、漢字の[目]、[眼]、[眉]の下に付く[目]、「見る」の[見]、 「恨む」の[恨]、「睨む」の[睨]、[夢]の横目、「蔑(ないがし)ろにする」の[蔑]の横目などの字源となった。

 また、漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明した”漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は“四ツ目の怪人“と呼ばれ、古代の絵に画かれた倉頡の顔には〔目が四つ〕ある。この倉頡の顔に描かれる〔四ツ目〕は、「鬼の横顔に似る銀河」の〔両目〕と「鬼の横顔に似る銀河の首」に付く〔両目〕を表現するものである。「倉頡」の[倉]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」であり、この「鬼の姿に似る銀河」の東の部分が「鬼の横顔に似る銀河」であり、西の部分が「鬼の身に相当する銀河」であり 両方を合わせて「鬼の姿に似る銀河」である。ゆえに、[倉]の字源銀河には「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の首」の2箇所の〔両目〕で〔合計、目が四ツ〕あることになる。

 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」から白鳥座γ(ガンマ)星・「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」のほうに、閃光(せんこう)のような3本線が放たれる銀河部がある。この3本線は〔目(北アメリカ星雲・ペリカン星雲)から出る涙〕のように観える。ゆえに「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本線の閃光のような銀河部」の図案は「泣く」を意味するヒエログリフとなった。このヒエログリフの「泣く」の字源銀河部は、漢字の[眔(とう)](字義は「なみだ」)の字源となった。

 前回(17)で説明したように、ホルスはハヤブサの頭部をもつ神である。
 ヒエログリフ「ホルスの眼」は「人間の眼」に似ている。しかし、ヒエログリフの「ホルスの眼」の下の模様は、ハヤブサ特有の顔の黒斑と羽毛を図案化したものと言われている。 また、ホルスの神の顔の眼にはハヤブサの目のまわりの羽毛と黒斑が描かれている。
 しかし、ヒエログリフ「ホルスの眼」の下の垂直方向の模様はハヤブサの眼の下の羽毛の形に似ていると言えても、斜め横に伸びる先端が渦巻き状に丸まる模様はハヤブサの顔の黒斑にはほとんど似ていない。
 けれども、ヒエログリフ「ホルスの眼」の下の垂直方向の模様は北アメリカ星雲・ペリカン星雲の下(南)の「長方形の暗黒天体部の西の辺」に相似し、斜め横に伸びる先端が渦巻き状に丸まる模様は上記の「閃光のような銀河部位と白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部」の形に相似する。
 だから ヒエログリフ「ホルスの眼」の下の模様は、北アメリカ星雲・ペリカン星雲の下の「長方形の暗黒天体部の西の辺」と「閃光のような銀河部位と白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部」を図案化したものと考えるべきことになる。

 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『図説ヒエログリフ事典』(創元社)の55頁は「ホルスの眼」について、下記のように記述する。

 「古い神話によればホルスは、父オシリスを殺害した叔父のセトに片目をくりぬかれた。その目は切り刻まれ捨てられたが、学問をつかさどる月神トトが辛抱づよくそれらを集め、もとにもどしてやったという。(中略)。この文字はまた、穀物の計量単位をあらわすのにも用いられた。セトが切り刻んだというホルスの目の6つの目の部分に、(中略)、それぞれ分数が割りふられている。6つの分数の和はトトによって復元された全体、すなわち1をあらわさなければならないはずだが、じっさいは63╱64にしかならない。この不足分の1╱64は、トトの魔術が補ったとされている。」

 この【ホルスの眼の6つの部分】は〔眉〕のヒエログリフが穀物の計量単位の「1╱8」、 〔目頭の白目〕を図案化するヒエオログリフが「1╱2」、 〔瞳〕(この字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」)をあらわすヒエログリフが「1╱4」、 〔目尻の白目〕をあらわすヒエログリフが「1╱16」、 〔閃光のような銀河部位と白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部を図案化する模様〕のヒエログリフが「1╱32」、 〔長方形の暗黒天体部の西の辺を図案化した模様〕のヒエオログリフが「1╱64」をあらわすことになった。

 ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河が子午線通過するとき、その南は天文学の国際的名称の「コールサック」である。「コールサック」は「石炭袋」と意味するものゆえ、古代エジプトでは「コールサック」を「穀物を入れる袋」に見立てたのである。
 「コールサック」の北部は「長方形の暗黒天体部」であり、この「長方形の暗黒天体部」は〔穀物を入れる袋の口部、あるいは計量に用いるカップ(升)〕のように観え、「人の横顔に酷似する銀河」は〔穀物を計量する人の横顔〕、「鬼の姿に似る銀河」は〔計量する人の右手〕、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「鬼の横顔に似る銀河の首に付く両目」は〔傍(かたわ)らで計量を監視する役人や穀物を買う人のするどい眼〕のごとくに観える。
 だから、ヒエログリフ「ホルスの眼」の6つの部分は穀物の単位をあらわすヒエログリフとなった。

 5回前の13回に紹介した『図詳ガッケン・エリア教科事典』〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する文章は、下記のごとく記述する。

 「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、天の北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

 上記の文で指摘されるように、天の北極の高度で緯度を換算する方法は不精確である。さらに上記の説明が「時刻が決まれば」という条件をつけているように、今日のように精確に時刻を表示する時計が当時には発明されていなかったから、天の北極の高度で緯度を換算して観測地点の緯度を定めると、かなり不精確となった。ゆえに、天の北極の高度で緯度を計測する方法だと、旅する人々は迷って命を失うことになった。天頂点をキャッチして緯度測定する方法だと、旅する目的地に到着し家族が待つ家に帰ることができた。
 この精密に緯度が測定できた天頂緯度測定の理想的な天体部は「長方形の暗黒天体部」であった。

 だから「長方形の暗黒天体部」は”精密に緯度測定できる理想的な天体部と人々は憧れる銀河部”であったゆえ、漢字の[命]の字源となった。 

 この「長方形の暗黒天体部」は約5000年前にナルメル王が上下エジプトを統一した首都メンフィス(北緯29度59分)の天頂を通過し、有名なギザの3大ピラミッドが造営された約4500年前の第4王朝の首都メンフィスと3大ピラミッドの天頂(北緯30度)の天頂を通過し、約4200年前の第6王朝のメンフィスの天頂にもめぐってきた。
 上記したように「ホルスの眼」の下に付く模様となる「1╱64」をあらわすヒエログリフの字源は「長方形の暗黒天体部の西の辺」である。上記したように、「ホルスの眼」の6分割のヒエログリフの和は「1=64╱64」にならず、「63╱64」となって「1╱64」だけ不足となる。 この不足分「1╱64」は”トトの魔術”が補うものとされた。
 つまり、”トトの魔術”というのは「精密に緯度が測定できる不思議な眼力」をあらわすものであったにちがいない。

 「長方形の暗黒天体部」の南北の緯度の差は約7度であるので、「1╱64」は「6.5分」となる。そうすると ”トドの魔術”は「6.5分まで測定できる眼力」を意味するものであろうか。
 しかし、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の73頁で詳細に立証して解説したように、桂離宮の庭園池に漬(つ)かる「天の橋立」という名の中央の築島の南の、私が「衝立岩(ついたていわ)」と名づけた岩には――〔人間の目は日々鍛錬すれば、天頂点をキャッチして1度の60分の1=1分までの緯度を精密に測定できる不思議な眼力がそなわっている〕、あるいは〔大海を航海した遣唐使船の船乗りたちは1度の60分の1=1分まで緯度を精密に測定できる眼力を有していた〕――と証言する仕掛けが設計されている。 

 だから、”トドの魔術”というのは〔天頂点をキャッチして1度・60分の1╱64(0.94分=56秒)まで、緯度を精密に測定できる不思議な眼の魔術〕をあらわすものであったと考えられる。 

 ゆえに、「ホルスの眼」が呪符となったのは、上記にて指摘した「セトへの恨み」をあらわすだけでなく、旅した人々が命を失わない〔精密に緯度測定できる眼力への呪(まじな)い」でもあったにちがいない。
 
マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『図説ヒエオログリフ事典』は 「ホルスの眼」について――「ウジャト(wjaht)」(元の意味は「健康な目、回復した目」)を構成する文字の中で使われる――と指摘する。1分の緯度もミスらず精密に測定できる眼力は「健康な目」、 「精密に測定できる能力が回復した目」によってそなえることができる。
 だから、「ホルスの眼」は〔精密に緯度測定ができるための呪い〕のための呪符であったにちがいない。

 「長方形の暗黒天体部」の〔東西は約3.5度 北の3.5度の正方形と南の3.5度の正方形が二つ合体する長方形となり、北端の[亼]の南北は約2度・底辺が3.5度の二等辺三角形〕からなる。ゆえに、[亼]の字源銀河部を「屋根」に見立て 「長方形の暗黒天体部」を「壁」に見立てれば、[亼]の部分を含む漢字[命]の字源となった「長方形の暗黒天体部」は〔家〕の形をあらわしているように観える。

 ABC・アルファベットの[B]は「家」を図案化したものという意見が定説である。
 今から約4000年前ころに出現したABC・アルファベットのルーツとされるワディ・エル・ホル碑文の[B]となる文字は「家」を意味(表現)すると解釈されている。今から約3600年前頃に出現した原シナイ文字の[B]となる〈ベート〉と発音する文字も「家」を意味すると解されている。今から約3100年前頃に出現したフェニキア文字の[B]の〈ベート〉と発音する文字も「家」を意味すると定められる。
 そして、今から約5100年前頃から出現した古代エジプトのヒエログリフの[B]も「家」を意味する字と定まる。
 この「家」のヒエログリフは〔左から中央に向かって渦を巻くような形に図案された横長四角形〕である。だから、〔左から中央への渦巻き〕は「ホルスの眼」の「1╱4」をあらわす〔瞳〕となった渦巻くような形となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわし、主体の〔横長四角形〕は「人の横顔に酷似する銀河」の方から見た時に横長四角形となる「長方形の暗黒天体部」をあらわしていることになる。
 このヒエログリフの「家」は「大きな家」を意味するものとされる。「大きな家」は「ファラオ」と言い、「エジプト王」は「ファラオ」と呼ばれた。だから、ヒエログリフの「家」は「王が住む宮殿」をあらわすものであったゆえ、ヒエログリフの「大きな家」は「精密に天頂緯度を測定して、経緯度原点地が設置された王の家」をあらわす図案であったことになる。

 なお、私はインターネットの掲示板として「ワディ・エル・ホル文字」を公開し、2011年9月9日にヒエログリフ「家」の字源は「長方形の暗黒天体部」であると指摘した。     

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2011年12月 8日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・17

 世界中、探しても銀河各部の名称は存在しない。 

 そこで、私は漢字や古代エジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)が作られた銀河各部の名称を、左に示す幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cに表示した。なお、ヒエログリフの字源となった銀河の範囲は、資料Cの上半分の「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」となる。

 竜安寺の石庭は”漢字は銀河から作られた”、あるいは ”わが国には、夏代(かだい)初頭(今から約4050年前の縄文後期初頭)に夏音(かおん)文字が伝来していた”と証言する。 

 平庭と5群の石組で漢字が作られた銀河全像を表現する竜安寺の石庭には、白砂が敷きつめられる。この白砂の役目は、『説文解字』の[字]の字源解説「乳するなり」をあらわす。
 漢字は”漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕にもとづいて作られた。この〔鳥獣の文〕にもとづいて作られた[字]は――[文]の字源となる「十字の銀河」を母親に見立て、[子]の字源「鬼の姿に似る銀河」を〔乳児〕に見立てて、「乳児(鬼の姿に似る銀河)が母(十字の銀河)の両腕に抱かれて乳を飲む形に図案化された。したがって、字源を解説する聖典『説文解字(せつもんかいじ)』は[字]の字源を「乳するなり」と解説する。
 ゆえに、石庭に敷きつめられる砂が白いのは[文]の字源解説「乳するなり」の〔白い母乳〕をあらわしてしている。
 また石庭の白砂は、[白]の字義の「申す」をあらわすものである。
 また、白川静著『字統』は[白]の字源を「頭鱸(とうろ)の形で、その白骨化したもの、されこうべの象形である」と解説するが、この[白]の字源の「白骨化した頭鱸」すなわち「白骨化した髑髏(どくろ)」を「白砂」であらわしている。東西に無数の線紋を引く「石庭」を〔激流の川〕や〔波が寄せる海岸〕に見立てると、「白砂」から「砂がある川岸や砂浜に寄せられた、雨風にさらされて白骨と化した髑髏」が連想される。
 ゆえに、石庭の白砂を注目すると、[白]の字源から[敫][激][檄][皦][儌][噭][徼][邀]の字源や字義が解明できるようになっている。

 また、石庭の「白砂」は[弥]の字源「首から下の腹部が銀白色のカンムリカイツブリ」をあらわす役割があり、また[弥]の字源銀河「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」をあらわし、さらに「銀白色にまばゆく輝く北天の最輝部」が「銀漢(銀河)」の語源であり、「銀漢から作られた字」であるから「漢字」と呼称された秘密を伝える。

 前々回(15)と前回(16)で解説したように、竜安寺の石庭の「白砂」があらわす「北天の最輝部」は、古代エジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)の「白冠(しろかんむり)」の字源となった。
 上記の[字]の字源銀河における[子]の字源「鬼の姿に似る銀河の両足」は「赤冠(あかかんむり)」の主体部となり、この「鬼の姿に似る銀河の両足」に渦巻き状の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が加わって、ヒエログリフ「赤冠」の字源となった。
 「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔白冠と赤冠〕が合体するヒエログリフ「二重冠」の字源となった。

 ”オシリス”という神は、上エジプト国の王がかぶる白冠を戴(いただ)く冥界(めいかい)の支配者である オシリスは古代エジプトの最も古い神々のうちの一人である。 

 ヒエログリフ「白冠」の字源となる「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)」に所在する。
 この「人の横顔に酷似する銀河」の東隣は天文学にて定められる国際的名称「コールサック」である。「コール」は「石炭」、「サック」は「袋」を意味する。ゆえに、「コールサック」は「真っ黒な石炭を入れる袋のような形をした、真っ黒な天体部」ということになる。
 「人の横顔に酷似する銀河」は〔下を俯(うつむ)いて、コールサックを観る横顔〕である。
 「地下の墓の室」「地下の世界」は真っ暗闇に包まれているので、真っ黒な「コールサック」は「墓室」「地下の世界」すなわち「冥界」に見立てられた。
 だから、「人の横顔に酷似する銀河」は「オシリス神の横顔」に見立てられて、オシリス神は「北天の最輝部」をあらわす「白冠」を頭上に戴くことになり、「コールサック」を「地下世界」に見立てて、オシリスは冥界を支配する神となったのである。
 したがって、表意文字または決定詞として、オシリス神の名前「ウシル(Wir)」の字源は「人の横顔に似る銀河」となる。
 オシリスは再生(復活)と深く関係する神であった。というのも「白冠」のモデルとなった銀白色に輝く「北天の最輝部」は〔この世を照らす太陽の陽射し〕をあらわすものとなったからである。復活・再生を願って、ミイラはオシリス神にできるだけ似せようと形づくられた。

 オシリスの息子は、ハヤブサの頭部をもつホルス神で、ホルス神はファラオ(王)の守護神となった。ホルスは白冠と赤冠が合体する二重冠を頭上に戴く。この「赤冠」と「二重冠」にデザインされる〔先端が渦巻きの形に丸まる針金のような飾り〕は、〔渦巻き〕の形をしている「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案化したものである。
 「北アメリカ星雲」だけの単独の形は〔急降下して、獲物に空中攻撃する時のハヤブサの姿〕に相似する。北アメリカ星雲の最大横幅(経度の全長)は約3度ぐらいであるが、天頂点に接近して子午線通過するとき、その形は斜(なな)めになって急降下して獲物に空中攻撃するハヤブサの姿にそっくりとなって、経度幅は約2・5度となる(満月の直径は約0.6度であり、北アメリカ星雲の概略形はお椀を伏せたような半円形であるので、満月の約3倍ぐらいの大きさに見える)。
 天体は1時間で15度移動するから、北アメリカ星雲は約10分で子午線通過を終了する この〔10分の子午線通過〕は〔ハヤブサが降下攻撃する時に250km以上を出すといわれるスピードに類似する〕と見立てられて、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」はヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった。
 ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河部は「人間の目」の形に相似する。だから、ヒエオログリフ(絵文字の形)は〔人間の目〕の図案である。
 しかし、ホルス神の顔はハヤブサの顔を持つハヤブサの姿をしている天空の神である。ゆえに、表意文字のホルスの名前「ヘルゥ(Hrw)」のヒエオログリフの字形は「ハヤブサの側身形」である。そして、ヒエログリフ「ホルスの眼」の下には補足の図柄があり、この図柄は、ハヤブサ特有の顔の黒斑と羽毛を形にしたものと言われている。 

 ヒエログリフ「雄牛の横顔」はABC・アルファベットの[A]となった。このヒエログリフは「雄牛の横顔」は「鬼の姿に似る銀河」を「雄牛の頭・鼻・口」に見立て、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を「雄牛の眼」に見立て、「コールサック北部」を「牛の顎(あご)」に見立て、鬼の姿に似る銀河のうちの「鬼の横顔に似る銀河と十字の銀河の中間の銀河部」を「雄牛の角(つの)」に見立てたものである。
 このヒエログリフ「雄牛の横顔」にあって、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「雄牛の眼」そっくりの形である。ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」の中央にある。ゆえに、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」はヒエログリフ「ホルスの眼」における「ホルスの眼の瞳(ひとみ)」となる。 

 ヒエログリフ「雄牛の横顔」と字源となった銀河から「十字の銀河」までの銀河は、漢字の[告]の字源となった。
 『説文解字』は[告]の字源を「牛、人に触れる。角に横木を著(つ)く。人に告ぐる所以(ゆえん)なり」と解説する。
 ヒエログリフ「雄牛の横顔」の口の部分となる「鬼の横顔に似る銀河の両足」は「人の横顔に酷似する銀河」の頭髪部分に相当して繋(つな)がっているゆえ、〔牛が口を人に触れて話しかけるように見える〕ので、『説文解字』は「牛、人に触れる。(中略)。人に告ぐる所以なり」と解説したのである。この[告]の字源解説の「横木」は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」の南の銀河部が牛の角がある部分に相当するので、『説文解字』は「角に横木を著(つ)く」と解説する。
 ヒエログルフ「ホルスの眼」の内の[瞳]の部分が「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であることは、『説文解字』の[告]の字源解説を利用すると容易に察知できる。

 前回(16)で指摘したように「赤冠」の主体部の〔椅子(イス)のような形をした冠の部分〕は、「鬼の姿に似る銀河の両足」を図案化したものである。この「赤冠」は北の下エジプト国の王がかぶった。
 北には天の北極があり、この天の北極の近くを北斗七星が円を描いて運行する。この〔北斗七星が天の北極より北側の天空で子午線通過する〕を天文学においては「下経過」と言う。
 「赤冠」は主体部の〔椅子のような形をした冠〕は北斗七星の形にも相似する。ゆえに、 「赤冠」の主体部は「北斗七星」と「鬼の姿に似る銀河の両足」をあらわすものであったにちがいない。北斗七星の七つの星でもっとも光が強い星は 光度1.8等のおおぐま座ε(エプシロン)星である。
 ナルメル王が上下エジプトを統一した5000年前、夏至の日の午前零時に北斗七星が下経過し、おおぐま座ε星が子午線のすぐ東隣に位置した。第1中間末期の第10王朝をたおしてメンチュヘテプ2世がエジプトを再統一した4000年前の夏至の日の午前零時においても、北斗七星が下経過して、おおぐま座ε星は子午線のすぐ西隣で輝いていた。

 エジプトの太陽暦は、第1王朝時代の今から約4900年前頃に完成したとされる。このエジプト暦は、現在の太陽暦と同じく1年の長さは365.25日である。そして、全天第一の輝星おおいぬ座の主星シリウス(光度マイナス1.4等)が日の出の前に東の空に現れると 毎年きまってナイル川の洪水がおこるので、そのころを年の始めと定めた。つまり、エジプト暦の元日は 夏至の日であった。ゆえに、北斗七星が下経過する夏至の日の午前零時は、エジプト暦の元旦の始めであった。 

 白冠は南の上エジプト国の王がかぶった。ゆえに、エジプト暦の元日の日の出の前に現れる全天第一の輝星おおいぬ座の主星シリウスは「北天の最輝部」のように輝く星と見立てられて、「白冠」は「北天の最輝部」と「シリウス」を象徴する冠だったにちがいない。
 元日は新しい1年の再生・復活となる。だから、前述したように、白冠を頭上に戴くオシリスは再生・復活と深く関係する神となったのである。

 赤冠は北の下エジプト国の王がかぶった。ゆえに、「赤冠」は「鬼の姿に相似する銀河の両足」と元旦の午前零時に天の北極の北側を子午線通過する「北斗七星」を象徴する冠であったにちがいない。「赤冠」の主体部の「椅子のような形の部分」は「王が腰かける椅子」を表現するものであったと考えられる。
 というのも、『エジプト誌』に所載されるテーベの「メムノンの巨像」という図版に描かれる王が腰かける椅子は「赤冠」の主体部の形に相似するからである。
 フランス軍がエジプトに遠征した時に同行したフランス人の学者たちは、1809年から1828年のあいだにエジプト遠征中の調査に関する著作を何冊か発表した。これらをまとめて『エジプト誌』と呼ばれている(文章によるものが9冊 図版によるものが11冊)。

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2011年12月 6日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・16

 前回(15)で指摘したように、紀元前3000年頃、ナルメル王が上下エジプトを統一して第1王朝が始まった。
 この第1王朝の首都は上下エジプトの接点に近いメンフィスであった。

 エジプトの首都カイロ市に所在するエジプト考古学博物館の1階のアトリウムに展示されている。ナルメル王が上下エジプトを統一した様子を彫刻で描くパレット(化粧板)の形は、 瞳孔径(どうこうけい)が最大に拡大されて暗い銀河部まで見えるようになった時の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の横顔と後ろの頭部全体」の形に相似する。
 この「人の横顔に酷似する銀河の顎(あご)・鼻の右(西)の穴・左(東)の目の隣」となる銀河部位を、首都メンフィス(北緯29度59)の天頂緯度線が貫通(かんつう)した。この「人の横顔に酷似する銀河」の東隣には「鬼の姿に似る銀河」、さらに東には「十字の銀河」がある。 

 世界中探しても銀河各部の名称は存在しないので、上記に記した銀河の名称は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料B・資料Cを参照していただきたい。

 天頂緯度=地の緯度である。
 ゆえに、古代エジプトにおいては、死者の魂〈バー〉は天頂にめぐってくる銀河に昇ると考えた。この死者の魂が昇る銀河の範囲は 拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cに示した「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」ということになる。
 この銀河の範囲は、拙著の資料Cの上半分となる。  

 「秋の星座と呼ばれる星座が漬(つ)かる銀河」が「秋の銀河」であり、この「秋の銀河」のうち「秋の銀河の頭部」から漢字もヒログリフもまた作られなかった。それゆえ、文字が作られた「秋の銀河の西部」を『邪馬台国が日本を滅ぼす』では「秋の銀河」と称することにした。
 「夏の銀河」は「夏の星座が漬かる銀河」であり、この「夏の銀河」は〔東北部〕と〔西南部〕に分けた。この〔東北部〕を「夏の銀河の東北部」と名づけた。 

 すべてのヒエログリフは、死者の魂が昇るとされた資料Cの上半分の「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」から作られた。 

 ナルメル王が上下エジプトを統一した事績(事績)を彫刻するパレットの表面に描かれるナルメル王は、上エジプト国の王をあらわす白冠(しろかんむり)をかぶっている。
 このナルメル王がかぶる「白冠」はヒエログリフの字形となる。
 ヒエログリフ「白冠」の字源は、銀白色に輝く「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」である。
 この「北天の最輝部」は、子午線通過するときに天頂(高度90度)より5度北に位置したので高度は85度となる。
 「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」の真ん中(中央)に在る。

 下エジプト国の王は、「赤冠(あかかんむり)」をかぶった。
 ヒエログリフ「赤冠」の字源は「鬼の姿に似る銀河の両足の部分と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。ヒエログリフ「赤冠」には「椅子(いす)の側面形のような形の冠と先端が渦巻き状に丸まった針金が斜(なな)め上へと伸びるのような飾り」がつく。
 「鬼の姿に似る銀河の両足」の部分は「赤冠の主体部(椅子の側面形のような冠の部分)」、「先端が渦巻き状に丸まる針金が斜め上へと伸びるような飾り」は「鬼の姿の両足の中央から北アメリカ星雲・ペリカン星雲まで」の形状を図案化したものとなる。というのも 渦巻き状に見える「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」のうち「北アメリカ星雲」は熟した桃の実のごとく赤く・炎のように赤く、しかも「ペリカン星雲」の形は赤冠の飾りの先端の「渦巻き」の形にそっくりだからである。

 当時、ヒエログリフ「赤冠」の字源主体部となる「鬼の姿に似る銀河の両足の中央」は天頂緯度線より22度北側(高度68度)を子午線通過した。そして、上記したようにヒエログリフ「白冠」の字源「北天の最輝部」は天頂緯度線より5度北側を通過したので高度85度となるので、子午線通過するときに「北天の最輝部」のほうがとなり「鬼の姿に似る銀河」はに位置した。
 ゆえに、白冠をかぶるのはエジプト国の王となり、赤冠をかぶるのはエジプト国の王であった。
 天頂緯度線に接近するヒエログリフ「白冠」の字源「北天の最輝部」は「鬼の姿に似る銀河」よりにあり、ヒエログリフ「赤冠」の字源「鬼の姿に似る銀河」は「北天の最輝部」よりに位置した。また、「人の横顔に酷似する銀河」の隣の「コールサック」(この「コールサック」は天文学における国際的な名称である)はエジプトの大地を南から北へ流れる「ナイル川」のように観えるが、ナイル川のの上流はコールサックの北部の形状に相似して天頂緯度線が貫通する最もに位置し、ナイル川の河口があるの下流はコールサック南部の形状に相似して天頂緯度線よりの南側にめぐってきた。これゆえ、エジプト国の王は南部に住み、エジプト国の王は北部に居住した。
 このような事情によって、白冠は上エジプト国王がかぶり、赤冠は下エジプト国王がかぶった。 

 ヒエログリフには、「白冠」と「赤冠」を合体させた冠の「二重冠」がある。
 このヒエログリフの「二重冠」の字源は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。 

 つまり、ヒエログリフ「赤冠」の字源「両足」の部分以外の「鬼の姿に似る銀河の部分」が「二重冠」の字源に加わった。というのも「両足」の部分以外の「鬼の横顔と身に相当する銀河」もまた「白冠」の字源「北天の最輝部」のように「ボウリングのピン」のような形をしているからである。
 ゆえに、ボウリングのピンの形に相似する「鬼の横顔と身に相当する銀河」は「白冠」をあらわし、「鬼の姿に似る銀河の両足の部分と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「赤冠」をあらわすので、「白冠+赤冠」の「二重冠」の字源は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」となった。 

 「二重冠」の字源の一部となる「鬼の横顔に似る銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央の高度は80度であった。この「鬼の横顔に似る銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央の高度は、「白冠」の字源「北天の最輝部の中央」の高度85度と「赤冠」の字源主体部「鬼の姿に似る銀河の両足の中央」の高度68度の中間となる。
 このこともあったので、「二重冠」は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案するものとなったのである。

 上下エジプトの2国の統一後、王は上エジプト国とのむすびつきを強調したいときに、白冠を用いたようである。ふだん用いていたのは、下エジプト国の赤冠を一体化した「二重冠」であった。 

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文雄訳『図説・古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の22頁には〈ネイ・セウト・ベイテイ〉と音する「上下エジプト王」をあらわすヒエログリフが所載される。このヒエログリフは「頭に2本の触角(しょっかく)が生えるミツバチ(蜜蜂)の側身形」を図案したものである。
 このヒエログリフ「ミツバチ」における「ミツバチの頭部」を「鬼の横顔に似る銀河」に見立てると、「ミツバチの羽が生える胸部」は「鬼の身に相当する銀河」が相似することになり、 「ミツバチの羽」は「鬼の身に相当する銀河の北側の羽のように観える銀河」が相似し、「ミツバチの腹部」の形は「人の横顔に酷似する銀河」のような形に図案される。
 「二重冠」は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案し、単独の「白冠」は「人の横顔に酷似する銀河の額」にある「北天の最輝部」をデザインするものであるから。「上下エジプト王」を意味する「ミツバチの側身形」の字源となる「鬼の横顔に似る銀河から人の横顔に酷似する銀河まで」の範囲は「上下エジプトを支配した王の冠と王の横顔」となる。だから「ミツバチ」を図案するヒエログリフは「上下エジプト王」のあらわしたのである。

 以上のごとく、上エジプト王がかぶる「白冠」、下エジプト王がかぶる「赤冠」、上下エジプトを統治する上エジプトの王がかぶる「二重冠」と、そして「上下エジプト王」をあらわす「ミツバチ」の【ヒエログリフ】は【銀河各部の形状】を図案化するものであったことになる。  

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2011年12月 5日 (月)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・15

 前回(14)で紹介したように、アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)は「ヒエログリフは何世紀もかけて進化してきたのではなく、紀元前3100年頃、ちょうどエジプト第1王朝が始まる少し前、突然、ほとんど完成された形で出現したようにみえる」と指摘する。

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”漢字は銀河から作られた”と証言する・13〕までで、立証したように竜安寺の石庭は【銀河各部の形状】が【文字】であったと示す。
 
また「銀河(銀漢)から作られた文字」であるから「漢字」であり、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(えききょう)下伝の「仰いでは天象を観、(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字を作った」という説明文は「天象すなわち銀河各部の形状から万物の情(イメージ)に類似するように文字を作った」と意味するものであり、殷代(いんだい)の甲骨文字と周代の金文の字形は【銀河各部】の形状に類似するように作成されている。

 紀元前3100年頃、突如(とつじょ)として出現したようにみえる古代エジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)の【最初の文字】は、漢字同様に【銀河各部の形状】であったにちがいない。
 ところが、”書く”という方法が紀元前3100年頃に確立された。このため、ヒエログリフは、突然、ほとんど完成された形で出現するような状況になったと考えるべきことになる。

 突然にヒエログリフが出現した頃から約100年後の紀元前3000年頃、上エジプトのティニス地方出身のナルメル王によって、上下エジプトも統一がなしとげられ、都は上下エジプトの接点に近いメンフィスと定められた。

 ナルメル王は上下エジプトを統一した事績(じせき)を、先王朝時代から初期王朝時代にかけて重要な都市であったヒエロコンポリスの神殿に奉納したパレット(化粧板)に残した。
 このパレットの表面と裏面は、ナルメル王が上下エジプトの2国の統一を果たした場面を描く彫刻となる(このパレットは、カイロ市の所在するエジプト考古学博物館の1階のアトリウムに展示されている)。

 紀元前3000年頃、ナルメル王が上下エジプトの2国を統一したとき、首都メンフィス(北緯29度59分)の天頂緯度軸よりやや北側に、前回で紹介した「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がめぐってきた。
 天頂点の高度は90度であり、当時、北天の最輝部は子午線通過するとき、天頂緯度より約5度北側・高度85度に位置した。 

 パレットの表面に描かれるナルメル王は、上エジプトの王であることを示す「白冠(しろかんむり)」を頭にかぶる。
 この白冠はボウリングのピンの形に相似する。朱鷺(とき)色(桃色)の靄(もや)がうっすらとかかるがごとく銀白色に輝く北天の最輝部の一段と白い部分もまた、ボウリングのピンのような形に観える。
 だから、「白冠」は首都メンフィスの天頂(高度85度の天頂)にめぐってきた「北天の最輝部」をデザインするものであったのである。

 人間の目は、自動カメラのように、本人の意志にかわわりなく、明るさに応じて絞(しぼ)りがはたらいて、瞳孔(どうこう)の直径が1.5mm~8mmぐらいまで変化するようになっている。
 したがって、暗い銀河部まで見るためには、瞳孔径(どうこうけい)が最大8mmに拡大するようにしなければならない。真っ暗な闇に包まれて視界の中に明るい光が入らない場所(人家から離れた崖下や繁茂する葉の間から天頂が見える木陰の下など)から仰げば、暗い銀河部まで見えるようになる。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bは銀河の写真であり、資料Cに私が名づけた資料Bの銀河各部の名称を記入した。 

 白鳥座の中心部が漬(つ)かる銀河部を、私は「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」と名づけた。この「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」の部分に「北天の最輝部」がある。メンフィスの天頂緯度軸は白鳥座β(ベータ)星を擦(こす)るように通過し、「人の横顔に酷似する銀河の顎(あご)・鼻の右(西)の穴・左(東)の目の隣」を貫通し、さらに東にある「長方形の暗黒天体部」を貫通していた。

 真っ暗な場所で瞳孔径が最大に拡大された目で見ると、「人の横顔に酷似する銀河」の上や後ろの頭髪が生える頭部や首に相当する暗い銀河部まで見えるようになる。
 この「人の横顔に酷似する銀河と頭部全体と首の部分まで見える銀河」の縁(ヘリ)=外枠の形は、ナメル王のパレットの外縁の枠の形と同じとなる。
 だから、ナルメル王がかぶるボウリングのピンの形をした白冠は、メンフィスの高度85度の天頂にめぐってきた・まばゆく白熱と化して白く輝く・ボウリングのピンの形をした「北天の最輝部」をあらわすものであったことになる。

 「白冠」のモデルとなった白い「北天の最輝部」は、部分的に朱鷺色の靄がかかったように美しく彩(いろど)られる。
 前回(14)の末部で指摘したように、古代エジプトの朱鷺の頭を有する神は「トト神」と称され、トト神はヒエログリフをあつかう書記や筆記する行為の守護神であった。
 ナルメル王の「白冠」は「ボウリングのピンの形に相似する「白く輝く北天の最輝部」をデザインするものである。
 ゆえに、王の強大な権力と莫大な富の基盤となるヒエログリフを担当する書記および筆記する行為の守護神は、北天の最輝部を彩る朱鷺色の靄にもとづいて朱鷺の頭を有する姿であらわすことになったのである。

 エジプト人にとって〔墓〕とは「死者が来世(らいせ)でも生きつづけるために造るもの」であった。
 墓のデザインや碑文(ひぶん)・装飾や彩色は死者が生きつづける過程で重要な役割をはたす。ゆえに、墓の絵を担当する職人・画工は、たいてい裕福で、しかも尊敬されていたといわれる。
 墓の天頂点をキャッチすれば、墓の緯度(東西)と子午線(南北)が精密に測定できる。
 ゆえに、墓に葬られた死者の魂が昇る来世は「人の横顔に酷似する銀河」そして首都メンフィスの天頂にめぐったきた「長方形の暗黒天体部」周辺の銀河となる。 
 そこで来世の「人の横顔に酷似する銀河」や「長方形の暗黒天体部」周辺の銀河は壮麗であるので、墓の内部は美しく彩(いろど)られることになったのである。したがって、墓には美しい銀河から図案化された神や動物の絵が浮き彫りにされ、銀河から作られたヒエオログリフが彩色されて彫られたのである。

 死者の「魂」を意味する〈バー〉のヒエログリフは、”クラハシセイタカコウ”と呼ばれるアフリカ産のコウノトリの図案である。
 「白鳥座γ(ガンマ)星から北天の最輝部まで」の形は「クラハシセイタカコウの頭と首」まで」の側身形に相似し、「魂」を意味する〈バー〉のヒエログリフは[クラハシセイタカコウの側身形]に図案化された。このヒエログリフ[クラハシセイタカコウ]の絵文字の字形の頭と首は、もちろん字源の「白鳥座γ星から北天の最輝部までの形」と「クラハシセイタカコウの頭と首の側身形」に相似するように図案化されている。 

 ヒエログリフは、王(ファラオ)や神官や書記だけが読め、意味が理解できる文字であった。このヒエログリフの字源や字形(絵文字)と字義(ことば)を知ることができる辞典は「天頂周辺にめぐってくる銀河」であったのである。
  したがって、このヒエログリフは銀河から作られた秘密を知る王や神官や書記にはヒエログリフが読むことができ、意味が理解できたのである。
 だから、ヒエログリフは銀河から作られたと考えるべきことになる。 

 また、中国と同様に、エジプトには銀河各部の名称がない。ゆえに漢字と同じく、銀河から作られたヒエログリフの学芸は、王の強大な権力を保持する政治基盤として、王の莫大な富を得る方法として、暦を作って豊かな農作物を収穫するための学術として、科学と芸術と文化の根元として、神への崇拝にともなって人民に王を畏敬(いけい)させる方法として 起源したのである。
 銀河各部に名称をつけなかったのは、銀河から作られた文字の知識が反体制側に手に入れられると革命に利用され、王朝が崩壊することになりかねない――だから、ヒエログリフが銀河から作られた秘密が気づかれないために銀河各部の名称をつけないようにし、 また銀河各部に名称をつけないようにすれば独学で習得することがきわめて困難となるからである。

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2011年12月 2日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の庭園は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・13

 1716年、徳川吉宗が8代将軍となると、新井白石(1657-1725)は幕政から追放された。白石は、17世紀初頭のデカルトから始まる西欧近代科学の【合理】のパラダイム(理論的枠組み)を取り入れて、『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して『魏志倭人伝』に記述される「邪馬台国は大和である」と定めた。この白石から始まる西欧近代科学の【合理】のパラダイムが、現在までの日本古代史学界の権威の立論基盤となった。白石は晩年『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』ほかの著作で、「邪馬台国は筑後山門(やまと)郡である」と意見を変えた。 

 しかし、古代史研究家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)にて、 『三国志』全体に出てくる[壹](壱)86個 [臺](台)56個の文字を一つずつ調べ、 [壹]を[臺]と書く誤記の事例が1例も無いことを証明した。
 白石は『魏志倭人伝』(『三国志』魏書・東夷伝の倭人伝)の「邪馬壱(やまい)国」を、西欧近代科学の傲慢(ごうまん)な単純化をもちいて「やまと」と読めると解したのかそれとも「邪馬台国」の書き違いであろうと推測したのか、その理由・根拠について判然としないが、卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と定めた。 しかし、古田武彦氏が証明したように、 「邪馬壱国」が正しく「邪馬台国」という国は最初から存在しなかった。

 比較補助資料となる『後漢書』倭伝は「その倭大王は、邪馬臺国に居る」と記述する。 この「邪馬台国」の後ろに「案今名邪摩惟国音之訛也(今案ずるに”邪摩惟国”の音の訛りなり)という注がある。この「邪摩惟国(やまいこく)の訛(なま)りなり」という注の「邪摩惟」は「邪馬壱(やまい)」と音するものと考えるべきであろうが、『後漢書』倭伝は「邪馬臺=邪摩惟」と記すので、学者たちは『魏志倭人伝』の「邪馬壱国」は「邪馬台国」の誤りと定める。
 しかし、『後漢書』倭伝は補助資料であって、本資料ではない。だから、古田氏が立証したように「邪馬壱国」が正しいと考えるべきであろうが、古田氏の意見は無視されている。 

 このような本資料でない別の比較資料の「邪馬台国」という記述が正しいと主張するがごとく、現在の古代史学界は白石以来の傲慢な単純化を存続させて西欧近代科学の【合理】思考を絶対視する。
 しかし、西欧近代科学の【合理】のパラダイムは絶対視できるほど万全ではなく、白石以前の日本人本来の考え方すなわち竜安寺の石庭に示される【合理】の上に【合理】を成立させる【超合理】のパラダイムのほうが優っていることを知らない。だから、学者たちは新井白石を”日本古代史学界と邪馬台国研究の始祖”と崇拝し、日本古代史学界の権威を保持するものとなる。
 しかし、白石から始まる現在までの邪馬台国研究史は日本人民にとってまったく無意味な誤読の空論史であったのである

 というのも、今から約30年前の1980年代、欧米の先端科学者や科学論家たちは、 新井白石以前の禅の思想の【超合理】の考え方に注目して、日本古代史学界が絶対視する”西欧近代科学の【合理】の考え方は――傲慢な単純化をおこなう、無秩序から秩序を創造できない、複雑なものを複雑なままにあつかうことができない――など、はじめ幾つかの誤りや欠点がある”と、数度の国際会議を開いて警告した。 

 歴史学は科学に属する学術である。ゆえに1980年代において、いちはやく先端科学者たちの警告や指摘に耳をかたむけて、日本古代史学界は白石以来の西欧近代科学の【合理】の考え方から生まれた【文献批判】は【誤読】であるまいかと検討すべきであったはずである。
 しかし、この検討に、いまだ日本古代史学界は着手せず、学者の誰一人も日本人のからだと血に受け継いだ【超合理】で『魏志倭人伝』の全記事を見なおして、邪馬台国説が【誤読の空論】であることに気づいていない。
 これは日本古代史学界のいちじるしい怠慢であり詐欺であり、学者たちの無責任きわまりない横暴でありペテンであると、日本国民は憤(いきどお)る権利を有するものであり、また日本人として命の尊厳をまもらなければならない。

 なぜならば、今上陛下が大嘗会(だいじょうえ)において天皇を即位したとき、その頭上に高々とかかげられた王冠・菅蓋(かんがい)は、『魏志倭人伝』のすべての記事は正しいと表明する意匠となっているからである。
 この証明は左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』にて詳細に証明した。 

 『魏志倭人伝』のすべての記事は正しく【文献批判】はいっさい加える必要でないと表明する天皇の王冠の意匠は、皇室の繁栄を願いその権威を誇示するものではない。
 天皇の王冠の意匠は、日本人民が絶対に失ってはいけない なんびとにも排除されてはいけない、先人たちが全民族の欲求として切望した日本の理想を造形表現するものである。
 1980年代において学界が白石以来の【合理】の考え方ははたして正しいであろうかと疑問を抱き、日本人本来の【超合理】の考え方をとりもどしていれば、邪馬台国説は正真正銘のウソ八百であり【誤読の空論】であることが簡単に発見できた。
 だから、先端科学者たちが西欧近代科学の【合理】の考え方には幾つかの誤りや欠点があると警告したとき、日本古代史学界と学者たちは旧態依然(きゅうたいいぜん)として『魏志倭人伝』の真実を抹殺(まっさつ)しつづけることは、日本民族を虚仮(こけ)にして愚弄(ぐろう)して日本人民の理想を葬る大罪であると気づかなければならなかったはずである。
 だから、今日、学界が”『魏志倭人伝』には【文献批判】を加えてはならない。邪馬台国説は【誤読の空論】である”と警告しないという怠慢は、まさに詐欺でありペテンであるということになる。

 竜安寺の石庭は、計15個の石の数で【超合理】の考え方を示し、14個しか見えない仕掛けで【合理】の考え方の誤りを具体的にあらわしている。

 『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの旅程における方位記事を注目すると”日本列島は東に伸びず、南に伸びる”と説明している。

 また『魏志倭人伝』は「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」とも記述して ”日本列島は東に伸びずに南に伸びる”と証言する。東へ伸びる実際の日本列島の場合だと、中国の会稽と東治の東北になるが、旅程記事に則(のっと)って90度方位を転回すると日本列島は会稽と東治の東になって【合理】となるからである。

 旅程記事に則って対馬から邪馬壱国までの各小国の位置を日本地図にあてはめると、 卑弥呼が居住した「邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であった」と考えれば【合理】が成立する。なぜならば、『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆倭種なり」と記述するからである。
 邪馬壱国=出雲の北に隠岐群島が所在し、この「隠岐群島」は「女王国・邪馬壱国の海を渡ること千余里ほど隔たる、皆倭種の国」と記述されるとおりの【合理】の国となる。なぜならば、転回する日本列島地理の方位は天体の運行に則って北が東になるように90度転回すると定めているからである。この転回方位に則ると、邪馬壱国の北が東となる。転回方位にもとづく邪馬壱国・出雲の東(現在方位の北)に所在する隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成する島前(どうぜん)と、最も大きな島の島後(どうご)の4つの大島と約180の小島からなる。このような多数の島からなる隠岐群島を「皆倭種なり」と記述するは【合理】となる。
 隠岐群島のほかに日本海上の北に佐渡も所在するが、佐渡は一つの島からなるゆえ「皆倭種なり」という記述に対して【不合理】となる。
 だから、卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰出雲地方であったことが簡単にわかる。 

 上記の3種の【合理】の記事が相互に【合理】が成立しあう転回日本列島像論邪馬壱国山陰地方説の場合、『魏志倭人伝』の「女王国より以北は、その戸数・道里は略載(りゃくさい)を得可(うべ)きも、その余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)にして詳(しょう)を得可べからず」という記述にも【合理】となる。 

 以上のごとく、転回日本列島像論邪馬壱国出雲地方説は ①対馬国から邪馬壱国までの旅程記事と【合理】となり、②「会稽・東治の東に在るべし」という記述に対しても【合理】となり、③「女王国の東の海を渡る、皆倭種なりの国」という記事にも【合理】となり、④「女王国の北の、その余の旁国」という記述にも【合理】となり、この4種の【合理】の記述は相互に【合理】が成立しあって全体論的にも【合理】が形成されて、いっさい矛盾せず不合理な点もまったく存在しない。だから、【超合理】が成立するものとなる。

 いっぽう、すべての邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の記述に則って日本列島の方位を90度転回させない現在方位を基盤にして立論する。このため、上記の1種ごとの記事において部分的に【合理】が成立しても全部の【合理】が成立せず、4種の記述が相互に【合理】が形成しあうものではないので全体的にも【合理】はまったく成立しない。このように4種の記述に対して何一つ【合理】が成立しないから、この時点で、すでに邪馬台国説は【誤読の空論】であると証明される。

 すべての邪馬台国説は日本列島が90度転回するはずがないと主張する、この考えは西欧近代科学にもとづく【合理】の意見であると主張するものであろうが、この意見にもとづいても、上記の4種の記述に対して矛盾し不合理な点を有して【合理】が成立しない。
 だから、すべての邪馬台国説の実体は、西欧近代科学の【合理】の考え方の産物ではなく、西欧近代科学の傲慢な単純化の産物であり、無秩序から秩序が創造できない所以(ゆえん)の【誤読の空論】であったのである。

 邪馬台国説は日本列島が90度転回するはずがないと主張する。
 この主張が成立するためには、倭王朝はじめ倭国において、当時の中国で栄えていたシナ天文と同じく天の北極を最も重視していなければならないことになる。中国では天の北極を最も重視したために、当時の魏・蜀(しょく)・呉の使節はじめ人民たちは大海を渡ることができなくなり、日本列島に到着できなくなった。 

 紀元前1世紀、中国では天の北極を重視するシナ天文が完成した。このシナ天文学が完成しない以前においては、中国から大海を越えて日本列島に到着できた。
 『後漢書』倭伝の末部は「紀元前3世紀、徐福一行は大海を越えて日本列島の東鯷人(とうていじん)国に定住した」と記述する。このように、シナ天文が完成した紀元前1世紀以前ならば、中国でも天頂緯度測定の習慣が廃(すた)れていなかったので、中国に住む人たちは大海を渡って日本列島に到着できた。さらに、『後漢書』倭伝の末部は「3世紀、東鯷人は定期的に呉の会稽にやってきて交易するが、この東鯷人が往来する海の道は遥か遠くまでつづき途中で道が絶えてしまって、中国の人々には往来することができない」と明記する。
 『魏志倭人伝』にも「魏の出張機関がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)の使節の張政(ちょうせい)一行は大海を渡ることができないので、倭の使節・載斯烏越(そしあお)一行が帰還する船に便乗して倭国に渡った」という記述がある。中国と帯方郡政庁では天の北極を重視するシナ天文のために天頂点をキャッチする習慣を失った。この結果、中国と帯方郡政庁の人々は大海を渡ることができなくなったのである。しかし、日本列島の倭国や東鯷国では。夏音文字の学芸が最も重視する天頂点をキャッチする習慣が栄えていた。だから、 倭人も東鯷人も大海を渡ることができた。

 『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する文章は、日本列島に居住した倭人と東鯷人が大海を往来できたのに対して なぜ中国人や帯方郡の使節が大海を往来できなくなったのか、この原因を明示する。この文は下記のごとくである。

「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、天の北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

 したがって、シナ天文が重視する天の北極の高度で緯度を換算する方法は天頂で緯度測定するよりも不精確である。また天の北極の高度で緯度換算する方法の場合は、上記の説明が「時刻が決まれば」という条件を付けているように、今日のように精確な時刻を表示する時計が必要となった。しかし、当時においては今日のように精確な時刻を表示する時計が発明されていなかったので、天の北極の高度で緯度を換算して自分の居る位置を定めるとかなり不精確となった。それゆえ、天の北極の高度で緯度を計測すると、 精密さが求められる大海においては位置と方位がまったく不明となり、茫漠(ぼうばく)たる大海原をあてどなく漂流し落命して家に帰ることができなかった。 

 だから、『魏志倭人伝』に記述される転回日本列島の記述は天頂緯度測定を基軸にして構築される夏音文字の学芸が栄えていた卑弥呼王朝が制定した日本列島地理であったことになる。
 というのも、邪馬台国説の主張のとおりだと倭王朝は天の北極を最も重視して日本列島は東に伸びると制定したことになるが、この考えにもとづくと魏と帯方郡の使節と同様に倭の使節も大海を渡ることができなくなる。そうすると 魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかったことになるので、『魏志倭人伝』のすべての文字はヤカンが吐き出す湯気のごとく蒸発してことごとく消えてしまうことになる。
 このように、邪馬台国説の”日本列島地理は90度転回するはずがない”という立論基盤は【合理】がまったく成立しない無意味な空論となる。だから、この立論基盤は、上記の『図詳ガッケン・エリア教科事典』が指摘する「緯度の測定」の科学を無視した西欧近代科学の傲慢な単純化から生まれたデタラメだったのである。 

 すべての邪馬台国説が【誤読の空論】であり、日本古代史学界と学者たちが絶対視する西欧近代科学の【合理】思考には誤りや欠点が存在することは、上記の「緯度の測定」記事を注目すれば簡単明瞭に察知できる。

 【誤読の空論】の邪馬台国説になぜ学者たちが夢中になるかといえば、日本古代史学界と学者たちは西欧近代科学の傲慢な単純化を用いて『魏志倭人伝』の記事を誤読してもよいとした白石を”邪馬台国説の始祖”と定めているからにほかならない。
 白石の意見はすべて【誤読の空論】であって、すべてが無意味であったのである

 左に表示した拙著『邪馬台国説は日本を滅ぼす』において、なぜ卑弥呼は日本列島が東に伸びずに南に伸びるかと考えたかまた証拠・理由・根拠について、図50~図60まで用いて詳細に立証した。

 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の二神の誓約(うけい)説話には、『魏志倭人伝』に記述される卑弥呼が立論した転回日本列島地理の原理を説明する記述が存在する。また、この説話の末部に記載される「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」は、『魏志倭人伝』が作成された同時代の3世紀後半に1千万坪の大鳥の地上絵を制作した。この史跡は静岡県浜松市北区細江町の行政区の地図の形となって現存する。この大鳥の地上絵を学術調査すれば、卑弥呼が転回倭地理を立論したことが具体的に科学的に証明できる。

 また、この〔枯山水で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”〕における〔3〕や〔8〕などで指摘したように、竜安寺の石庭は”卑弥呼が統治した国の名の[倭]の字源は「銀河の運行に則って方位を90度転回して、北を東・東を南・南を西・西を北にする」ことであった”と証言する。だから、邪馬台国説のごとく『魏志倭人伝』における「日本列島は90度方位が転回する」という記述を事実でないと断定すると、「倭」と名づけられた国が存在しなくなってしまうので、邪馬台国説は【誤読の空論】であることが確かなことになる。 

 上記の「緯度の測定」にもとづくと、邪馬台国説の主張だと倭の使節も大海を渡ることができなかったことになるので、『魏志倭人伝』という史料は1字も存在しないこの世にまったく存在しなかったものとなる。このような邪馬台国説を、竜安寺の石庭をもって表現すると 石庭には15個の石からなる5群の石組が存在するが、邪馬台国説は「石庭には1群の石組もなく、一個も石も存在せず、石庭なるものもまったく存在しない」と主張するデタラメということになる。

 このような愚劣きわまりない傲慢な単純化から生まれたデタラメが、その意匠で天皇の王冠が”絶対に失ってはいけない、なんびとにも抹殺(まっさつ)されてはいけない”と表明する日本人の最も気高き理想を愚弄し虚仮にし、 約280年間も闇に葬りさらにこれからも葬りつづけようとしている。したがって、こんな自国民の理想を凌辱(りょうじょく)する馬鹿げた空論は世界中探しても存在しない。
 邪馬台国説は明らかに学者たちが傲慢な単純化を使ってデッチあげたウソ八百であり詐欺でありペテンである。

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2011年12月 1日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字が銀河から作られた”と証言する・12

 前回(11)で解説したように、竜安寺の石庭は、5群の石組の合計15個の石を、どこから見ても1個足りない14個しか見えないようにして、15個の石で【超合理】、14個の石で【合理】をあらわす。

 このような仕掛けがあることは、竜安寺に設置される「知足(ちそく)の蹲(つくばい)い」という名の手水鉢(ちょうずばち)で示される。 

 知足の蹲いは、石庭の東北に設置される。
 この東北(東から45度の方角)の地平線から、天頂にめぐってくる銀河部が出現する。
 夏音文字の学芸は、天頂にめぐってくる「十字の銀河」を基軸にして構築された。
 5群の石組が設置される南北10m・東西20mの石庭の部分は、『魏志倭人伝』の卑弥呼や壱与(いよ)が生存した後期弥生時代の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」をモデルにして作られた。夏音文字の学芸においては〔天頂点のキャッチ(精密な天頂緯度の測定)〕が最も重視された。
 このことを表示して 知足の蹲いは天頂点をキャッチできる銀河部が地平線から出現する石庭の東北に設置された。

 石庭と方丈の東北に、蔵六庵(ぞうろくあん)の茶室がある。その前に水戸光圀(みとみつくに)から寄進されたという知足の蹲いがある。

 知足の蹲いの中央には、正方形の手を洗う水穴(この水穴は”海(うみ)”と称される)がある。この「正方形の水穴」は、5群の石組を配置する石庭の部分は〔東・西、二つの正方形から成る〕と示すものとなる。言い換えると、知足の蹲い中央の「正方形の水穴」は夏音文字が記載される『魏志倭人伝』の時代には、天頂に「二つの正方形から成る長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきたとあらわすものとなる。

 知足の蹲いは56㎝の円形の手水鉢であり、中央の海(水あな)は23㎝の正方形となる。
 この中央の正方形の海(水穴)の周囲四方の北・東・西・南に五・隹・矢・疋の4字が刻まれる。
 中央の正方形[□]を[口(くち)]の字に見立てて 北に配する[五]と[口]を組み合わせて[吾]の字とし、東に配するの[隹]と[口]を組み合わせて[唯]の字とし、西に配する[矢]と[口]で[知]の字にし、南に配する[疋]と[□]を組み合わせて[足)]の字にし、この「吾唯知足」の4字を「吾(われ)(た)だ足(た)りるを知る」と読むようになっている。
 この「吾唯だ足りるを知る」は「知足の者は貧しいといえども富めり、不知足の者は富めるといえども貧しい」という禅の精神をあらわしているという。 

 つまり「吾唯だ足りるを知る」という文は「銀河から作られた文字の学芸を学んで【超合理】の考えを手に入れた者は富を得られず貧しくても精神豊かで富んでいるが、銀河から作られた文字の学芸を知らないで【合理】の考えで止まり富を得たとしてもそれは心貧しい劣った者といわざるをえない」と意味するものとなる。

 前回でも指摘したように、『老子』の第33章には「足るを知る者は富み」という文があり 第46章には「知足の足は常に足る」という文がある。さらに 第44章に「多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡(うしな)う。足(た)るを知れば辱(はずか)められず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず」という文もある。

 水穴の北・東・西に配される吾・隹・矢はほんとうに存在する字であるが、南にある[口]と組み合わせて[足]となる字だけは存在しないウソ字である。
 上記に[口]と[疋]と組み合わせて[足]の字になると指摘したが、[口]の下に[疋]を加える字は[足]とならない。[足]の字にするには[疋]の頭頂部の〔[一]に左へはねる爪〕を欠けるようにしなければならない。

 5群の石組が設置される平庭の部分は、二つの正方形で構成される。しかし、第1群・第2群の石組がある東と庭園部の正方形は東端が欠けていて正確な正方形ではない。第3群・第4群・第5群の石組がある庭園部は正方形となる。
 正しい正方形ではない東の庭園部に設置される第1群の石組の石は5個、第2群の石組は2個で、合計7個である。
 正しい正方形となる西の庭園部に設置される第3群の石の数は3個、第4群は2個、 第5群は3個で、合計8個である。
 このように 東の正しい正方形ではない東の庭園の石の数が「1個少ないで」で「不知足の者は富めるともいえども貧しい」をあらわし、西の正しい正方形の「1個多い」で「知足の者は貧しいといえども富める」をあらわすものとなる。

 また[疋]の頂部の[一]がウソ字で【合理】をあらわし、このウソ字の頂部に[一]を足す[疋]で【超合理】をあらわしている。
 前回で説明したように、1980年代に入って、先端科学者や科学論家たちは、西欧近代科学の【合理】の考え方には――傲慢(ごうまん)な単純化、無秩序から秩序が創造できない、複雑なものを複雑にあつかうこといができない――など、幾つかの誤りや欠陥が存在すると指摘し、老子の【超合理】の考え方のほうが西欧近代科学の【合理】の考え方よりも優っていると見直し、現在の先端科学界は【超合理】の考え方が支配するようになった。

 竜安寺の知足の蹲いと石庭においては、知足の蹲いの①頂部に[一]が足りないウソ字で【合理】を示し、頂部に[一]を足すとほんとうに存在する正しい字の[疋]の字で【超合理】が示され、 ②東端が欠ける正しい正方形でない東の庭園部と第1群・第2群の石の7個で【合理】を示し、正しい正方形の西の庭園部と第3群・第4群・第5群の石の8個で【超合理】が示される。
 また前回にて説明したように、③石庭の5群の石組の石はどこから見ても14個しか見えないようにして、見た目で石を14個と数えるウソの数で【合理】をあらわし、ほんとうの石の数の15個で【超合理】があらわしている。

 白川静著『字統』は[疋]の字形を「足の下半部の形、膝(ひざ)から下の象形字である」と解説する。この『字統』に所載される[疋]の膝から下の足を図案する甲骨文字の字形の足の指は人間の5本指ではなく3本指である。中国古代文字研究で有名な加藤常賢著『漢字の起源』(角川書店)は[正]の字形について「[足][正][疋]の三字はもとは一字である」と解説する。この解説の右側にある[足]の膝から下の足の部分を図案する足の指も3本指である。加藤常賢・山田勝美著『角川字源辞典』(角川書店)は[正]の箇所に3本指の膝から下の足の金文形を所載する。 

 2回前の10回で指摘したように、5群の石組の中央に配置される第3群の横三尊(よこさんぞん)は「子どもが生まれる母体の女陰部と両足」に見立てることができるようになっている。
 これゆえ、第3群の石組は「十字の銀河の子宮」をも見立てることができる 「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なる。この「十字の銀河の子宮」は〔女性の子宮〕に見立てられたが、よく観てしばらく考えると〔人の足〕の形にも類似する。だから、倉頡伝説では、漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼ばれたのである。「鳥獣の足跡」の「足跡」は「十字」の銀河の右足」と重なる、これだけが理由でけでなく、「十字の銀河の子宮」は「足」と「足跡」に見立てられたのである。「十字の銀河の子宮」を「足」の見立てると、この「足」は5本指ではなく、「3本指」となる。このように「十字の銀河の子宮」は「3本指の足」となるので、[足][正][疋]の甲骨文字と金文の字形では「膝から下の3本指の足の形」に図案化されたのである。
 したがって、中央の正方形の海の[口]に[疋]のウソ字を加えて[足]とするのは、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕をあらわすものと解釈できる。ゆえに、『老子』の「知足」とは「〔鳥獣の文(鳥獣の足跡)〕の作成原理から生まれた文字の学芸を知る」と意味することになる。

 上記に示したように、加藤常賢著『漢字の起源』という字源字書は「[足][正][疋]はもと一字である」と解説する。これゆえ、蹲いのウソ字の[疋]と[口]を加えて成立する[足]は[正]をあらわすものとなる。
 5群の石組は斜(なな)めからとらえると銀河の形状に相似しないが、すべて正面からとらえると銀河各部の形状に相似するようになっている。だから [疋][足]の同字の[正]で「石庭の5群の石組はすべて正面からとらえた形はが銀河各部の形状に成る」とあらわすものとなる。 

 知足の蹲いは、単に『老子』第33章・第44章・第46章に記述される「知足」の思想だけを伝える機能に作られていたならば西欧近代科学の【合理】の考え方を示すものとなる。
  しかし、知足の蹲いは、「知足」の思想だけをあらわすものでなく、石庭には【合理】と【超合理】の相違が示されていることをも表示し、また5群の石組の正面形が銀河各部の形状に相似することをも示し、さらに[一]が欠けるウソ字の[疋]の1字で[足][正][疋]の3字をあらわす仕組みで各1群の石組が複数(多数)の銀河各部の形状に相似するをあらわして「一即多、多即一」の考え方をもあらわす。 

 というのも、1ヵ所の銀河部の形状は1字の文字だけの字源・字形・字義(本義)に限定されるものではなく、1ヵ所の銀河部の形状は多数の文字の字源・字形・字義をあらわすものとなるゆえ、「一即多、多即一」の考え方をあらわすものとなる。
 この「一即多、多即一」の考え方を、先端科学者たちは”分子生物学におけるDNAという小さい場に大きな情報に入っていることや、大脳論であらゆる記憶情報が大脳の全体にひろがっていて局所的ではないというホモグラフィーの科学に共通する”と指摘して、【超合理】の考え方をあらわすものであると指摘した。
 だから、知足の蹲いもまた石庭にて展開される【超合理】の理論を示す模型の役目をしている。

 約280年前、邪馬台国説は新井白石がデカルトから始まる西欧近代科学の【合理】の考え方を取り入れて始まった。
 しかし、『魏志倭人伝』は西欧近代科学の【合理】の考え方では史実が絶対に解明できない史料であった。
 『魏志倭人伝』は新井白石以前の日本人本来の【超合理】の考え方をすれば、歴史の真実が解明できる史料であった。
 次回は 『魏志倭人伝』を西欧近代科の【合理】の考え方だと【誤読の空論】となるが、竜安寺の石庭で展開される【超合理】の考え方をするならば歴史の真実が解明できることを証明して、西欧近代科学の【合理】の考え方は日本古代史学にはミスマッチであることを明らかにする。

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