G-T0XYQT12LL 学問・資格: 卑弥呼の逆襲

学問・資格

2024年4月17日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・6

卑弥呼は偉大な学者であり優れた政治家であった

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在の学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】とは【夏の全星座が漬()かる銀河】、言いかえると【夏に最も長時間見える銀河】である。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀漢】と呼ばれる。

中国でもわが国でも【銀漢各部の形状から作られた文字】を略して、【漢字】と表記した。

下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

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◆わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と証明できる文献であった。

つまり、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河各部各部の形状から文字を作成する理論を発明した」と詳細に解説する文献であった。

要するに、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国記事】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。『三国志』は魏書・蜀書・呉書の六十五巻で構成される。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝の末部の〔倭人伝〕である。『魏志倭人伝』は280289年に成立した。

『魏志倭人伝しん』』は計1983字から成り、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)56字の〔注〕を加える。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。

そのうち、【倉頡が発明した文字作成理論】を説明する【対馬国から狗奴国までの30の小国記事】は約4分の1(500)を占める。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する、76字の記事がある。

この76字の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(ぞうか・芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして精密地図作製方法を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字」をも習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻にて科学的に証明できるように「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

このような現在の学界における〔漢字習得の定説の誤り〕は、「文字を書いた史料が出土していない、すなわち文字を習得しなかった」と断定する考えが原因である。

また、上記の理由よりもさらに重大の過ちは【現在の学者たちは、『魏志倭人伝』のほとんどの記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加えて立論する方法】こそが学問的に最も正しい、「科学」が成立する最良の方法であると信じている。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確である。

したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると事実が明白となる。

【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】にもとづき、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読を加えなければ、【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ【今から約4070年前の夏代黎明期に夏音文字が習得された史実】が証明され、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在しないことも証明される。

だから、学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多い」と主張して、【〔倉頡の文字作成理論〕と直接にかかわる記事はじめ自説に都合悪い記事など多数の記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】は詐欺(さぎ)・ウソであったと言わざるをえない。

 

◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。

これゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

 

上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()の掟によって――現在に至っても、夏の銀河各部には名称が存在しない。

【倉頡が発明した文字作成理論】はじめ殷代(いんだい)後半の用いられた契文(けいぶん・甲骨文字)、周代に用いられた金文、あるいは楷書の字源となった銀河を明示しなければならない。ゆえに、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。

だから、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。

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◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【()の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。

五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()()は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。

このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかない。

だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことにまったく気づかない。

このため、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っている事実にも気づかない。

さらに、上記したように、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に直接的に組織的に説明されている事実に、わが国の近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。

ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。

このため、近世・現在の学者たちは、【漢字の字源・原形・原義は夏の銀河各部の形状】である事実にまったく気づかない。

にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明したのであろうか?

というのも、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を中国に知らしめて、倭人国は文化の低い野蛮国ではあらず知性の高い学術国家にして強大な戦力を有することを誇示して、倭人国が中国に占領されない国防政策として必要であったからである。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃、倭国は大乱したと考えられる。

当時、倭地ではすでに銅鐸祭器を使用する政権勢力と武器型祭器を使用する政権勢力とに二分されていた。両政権勢力とも、政権のトップの大王は元々(もともと)男王であった。

ところが、銅鐸祭器を使用する政権政権には、前回のわがブログ〔漢字の起源と発明を解明す・5〕で詳細に解説したように――日本列島の本州における地図の方位は、【倉頡の文字作成理論】における基本的文字【禾()】の字源・原義に合致して、時計回りに90度転回している――と立論する一女子が出現した。人々は彼女を「卑弥呼」と名づけた。

「日本列島における本州の地図の方位は時計回りに90度転回している地理は事実である」と認められて――卑弥呼は銅鐸祭器を使用する政権勢力のトップの女王に就任した。

卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた。上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「ひとつにまとまる」であって「惑わす、だます」ではなかった。

武器型祭器を使用する政権勢力は、西の九州から東へ勢力(領地の拡大)を伸ばした。一方、銅鐸祭器を使用する勢力は東から西へと拡大していた。これゆえ、170年頃、両勢力は互いに攻撃して衝突することになった。だから、倭国は大乱することになったにちがいない。

多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」という記事を「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あやしげ)に惑わしていた(だましていた)」と訳する。しかし――このようなオカルト的解釈が正しければ、中国は文化の低い野蛮な倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

 

◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「建武中元二年(西暦57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」と記述する、

武器型祭器の政権における中心勢力は、上記した後漢の光武帝から金印を授与された男王の後裔(こうえい)であったと考えられる。

江戸時代に九州の福岡県博多の志賀島(しかのしま)から出土した金印が、57年に光武帝から賜った金印とされる。この金印には「漢委奴国王」の5字が刻まれていた。この「漢委奴国王」の金印は後漢王朝と九州の委()の奴国が友好関係を結んだ証(あかし)となる。

 

170年当時、後漢末期の桓帝や霊帝が治める時代であり、去勢(きょせい)によって後宮(后妃)につかえた宦官(かんがん)のために多くの学生や気骨の士が殺されていた。

後漢後期、外戚と宦官との政争がくりかえされていたが、宦官のほうが次第に優勢になっていた。このような後漢の政治状況を知った九州の武器型祭器の政権は約120年前の57年における後漢との友好関係を疑るようになり――もしかしたら後漢に占領されるのではないかと心配して、軍事力を増強するために銅鐸祭器の政権勢力圏への領土の拡大を図ったと考えられる。

ところが、銅鐸祭器の政権勢力は卑弥呼を女王に選び一致団結して九州の男王政権の領土拡大を阻止した。       

このため、九州の男王政権の東進は計画したとおりにはいかなかった。このため、むしろ――もしも後漢に攻撃されたときには後漢と卑弥呼政権の敵軍にはさまれ包囲され滅亡するかもしれないと心配するようになった。

このような九州の男王政権の苦境を見すかした卑弥呼は、共立国家体制の樹立を九州の男王に提起した。

九州の男王は後漢の軍に滅亡されないための防衛戦略として卑弥呼王権勢力の領地に攻め込むものであったゆえ、卑弥呼王権との共立国家体制は軍事力を一気に増大する願いがかなうことになった。

だから、九州の男王と卑弥呼が共立する「倭人国」と称する国家が樹立され、倭人国のトップの大王には卑弥呼が就任することになった。

というのも、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通する最も偉大な学者であり優れた政治家であったからにほかならない。

 

卑弥呼と九州の男王は倭人国を東夷における最大の大国と信頼させるため、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

つまり、卑弥呼王朝は中国との戦争を回避して、中国との国交を結ぶ友好関係を希望するために、対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を明確に表示することにした。

言いかえると、卑弥呼王朝は中国における最も強大な権力は【倉頡の文字作成理論】であると考えて――倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明示すれば「倭人国は大国である」と認めるにちがいないと考えて、中国との友好関係を結ぶことにした。

というのも、西暦57年に後漢に朝賀した使者は国名を「委奴国」と名乗ったゆえ光武帝から金印を与えられたと卑弥呼は考えたからである。

金印の最初の【漢】の字源・原義は「多数の漢字が作られた夏の銀河」であった。

倉頡は「十字の銀河」から【禾】の字を作った。

この【禾】の字源の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するため【女】の字源となったために、【禾】の下に【女】が加えられて【委】の字が形成された。

【奴】の字源は「出産第二期・娩出期に生じる怒責(どせき・いきみ、きばる妊婦の行為)と胎児を押して誕生させる強大な力」であった。この【奴】の字も【倉頡の文字作成理論】を表示する代表的な字であった。

ゆえに、国号に【漢】すなわち「漢字が作られた、夏の銀河」と表示する後漢王朝は【委奴国】には【倉頡の文字作成理論】が存在すると尊んで、金印を与えて国交を結んだことになる。

だから、卑弥呼は中国に占領されずに、中国と国交を結ぶ最良の手段は【倉頡の文字作成理論】と考えたことになる。

 

◆上記した後漢の光武帝から賜った金印における「漢委奴国王」にて解説したように――倉頡は【禾()】の字を作った。【禾】の字は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」をあらわした。

【禾】の下に【女】が加わる【委】の字は【禾】の字源・原義を受け継ぎ、字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」とされた。

「十字の銀河」は「人の姿」にも相似する。したがって、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。【禾】・【委】と同様に「倭国」の【倭】の字源・原義は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」と定められた。

下図は【禾】【委】【倭】の字源解説図である。この図の上部に配した「十字の銀河」は、このブログの前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」において、左上にある。

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上図における「十字の銀河」の左となりに「南→西」と示したように、【倭】の字源は「時計回りに90度転回する、地図における方位規定」であるゆえ、「北→東、東は南、南→西、西→北」に方位が変わる。

だから、邪馬台国説はじめ学界やメディアは【倭】の字源を無視して、『魏志倭人伝』に記述された日本列島・本州における方位を現在の日本地図と同一とするが――この【倭】の字源を無視する意見は空理空論ということになる。

卑弥呼は下の下図に示したように、【倭】の字源・原義にもとづいて「本州地図の方位規定は、時計回り90度転回する」と定めた。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した倭人国地図では「本州の西に在る九州は北に在る」ことになった。

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下図に、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地図」と34か国の小国配置を示した。

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◆前ページで説明した卑弥呼と共立国家体制を樹立することにした九州の男王は「一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群(41)の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)の記事は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」に示したように、一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在する。

つまり、一大率が治めた伊都国は現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市・佐賀県吉野ヶ里町であった。

卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱(やまい)国の範囲は現在の島根県と鳥取県西部であった。邪馬壱国の中心部は山陰出雲地方(現在の島根県出雲市と松江市)であった。

島根県松江市は黄帝の霊廟と墓とされる黄帝陵と同じ北緯3535分に所在する。

つまり、卑弥呼は黄帝陵と同緯度の島根県松江市を倭国の首都と定めて「邪馬壱国」と名づけたことになる。

上図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」が示すように、『魏志倭人伝』の記事に合致して「一大率が常に治めた伊都国は女王国・邪馬壱国の北に在る」。

邪馬台国大和説の場合、「伊都国は邪馬台国・大和の西に在る」ゆえ、矛盾し不合理となる。

邪馬台国九州説の場合、佐賀県吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡が邪馬台国にふさわしい遺跡であると考える。しかし、吉野ヶ里遺跡は一大率が治めた伊都国に所在する。だから、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事に対してほんとうに合理的な意見であるとは思えない。

だいいち、『魏志倭人伝』は下記のごとく「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の名は、邪馬壹()国である」と記す。

したがって、今から約300年前の新井白石が誤読した「邪馬臺()国」という国は実際に所在せず、空理空論であった。

学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞などのメディアは下記のごとく「邪馬壹(やまい)国」と記す4字を億面(おくめん)もなく「邪馬臺国」と読み、この誤りを素知らぬ顔をして日本国民をまんまと騙(だま)す。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬臺国」ではなく、「邪馬壹国」と記している。

邪馬台国説学者たちの「『魏志倭人伝』には誤記が多数存在する。ゆえに、すべての記事は正しいなんて絶対に信じてはならない」という、言い訳は最初の段階からウソッパチであり、空理空論だったのである。

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『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

というのも、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであったからである。したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。

一大率の役職名「刺史」は「前漢の武帝が各州を観察するために、州ごとに一名ずつ派遣した役人」あるいは「後漢末から魏時代では、中国の州における長官名」であった。このように、一大率の役職を「重大な要職名」であらわさないようにしたのは、卑弥呼の政略によるものと考えられる。

一大率のほんとうの役目は「刺史」のように軽いものではなく、「もしも中国の軍が倭国に襲来したときに、倭軍を指揮する軍王(いくさのおう)であった」にちがいない。

というのも、中国軍が倭人国に来襲したとき、伊都国は本土を防衛する前線基地であったからである。

一大率の役職を物々しく「軍王」とすると、中国が「もしや、中国と戦う軍王か?」と疑うことになる。ゆえに、中国と友好関係を結ぶことができなくなる。だから、卑弥呼は一大率の役職を「倭人国における一州の長官・刺史」と定めたと考えられる。

一大率のほんとうの役職は、もしも中国軍が来襲したときに倭の諸国が一致団結して彼の命令・指揮のもとに戦う軍王であった。だから、諸国の人々は軍王・一大率を畏れ憚ったのである。

 

上記した一大率が登場する記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭国の銅鐸祭器の政権の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。

だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて、楷書と夏音文字の字義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。

だから、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていたことになる。

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2021年4月15日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・9

▼前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に証明したように――“日本古代史最大の秘密”の『魏志倭人伝』に記述された【歴史、史実】を解明するためには、必ず【[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ(測量)】に則(のっと)って立論しなければならない。というのも、【[玄](天頂緯度線と子午線)の測量】に則らずに立論するすべての意見は、ただちに空理空論・絵空事(えそらごと)となってしまうからである。
 ところが、江戸中期に生存した新井白石(1657ー1725年)は【[玄]のキャッチ】に則らず、最初に邪馬台国大和説を主張し、後に邪馬台国九州説をとなえた。だから、白石の【[玄]のキャッチ】に則らない邪馬台国説は空理空論であったとただちに断定しなければならない。
 しかし、学界は「白石と同じ畿内(大和)説と九州説は空理空論である」とただちに断定せず、「諸説のなかで畿内(大和)説と九州説が最も正しい」と考えている。
 【[玄]のキャッチ】に則らない全意見は空理空論である――この事実は、なんびとにも否定できない真実であり、たとえ学界にあっても否定することができない絶対的な真実である。というのも、【[玄]のキャッチ】に則らないすべての意見は【科学】がまったく成立しないが、一方、【[玄]のキャッチ】に則る意見は【科学】が成立することになるからである。
 学界は「【[玄]のキャッチ】に則らない畿内説と九州説は【科学】がまったく成立しない空理空論である」ことに気づいていない。このため、白石以来約300年経過した現在においても、学者たちは『魏志倭人伝』を読解する際に【[玄]のキャッチ】に則らずに、【《天の北極》を重視する現在の日本地図】にもとづいて読解する。
 現在、【[玄]のキャッチ】に則って『魏志倭人伝』を読解する学者は一人も存在しない。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・18

◆今回から6回に分けて、多くの人々が最も興味を抱いた倭女王の卑弥呼が居住した王国の所在地を詳細にしかも【科学】が成立するように証明して――『魏志倭人伝』は【[]のキャッチ】に則って思考しなければならなかった正確無比の書物であったことを証明する。

◆上記したように、前回の「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように――もしも倭人国の使者と船乗りたちが【《天の北極》を重視して、天の北極の高度を緯度(位置)に換算する方法を羅針盤】にして〔中国や朝鮮半島に到着するために、玄界灘〕に入ったならば――必ず彼らは〔玄界灘〕を渡ることができず命を失った。したがって、中国では倭人国の様子をまったく知ることができなかったため、『魏志倭人伝』には文字が1字も書き記されていなかった白紙であった、つまり実際に著作されて実在した書物ではなかったことになる。このように、邪馬台国説だと『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになり、要するに『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかった書物であったことになるゆえ、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」や「卑弥呼」が記述されていたと論じること自体、空理空論・デタラメ・絵空事・詐偽(さぎ)となる。
 魏王朝と帯方郡政庁が『魏志倭人伝』に記述された倭人国の情報を知るためには《倭の使者たちは必ず玄界灘を往来できた》という条件が絶対に必要となる。これゆえ、「【[]のキャッチ】をもって緯度を測定する方法を羅針盤とすれば、倭の使者たちは玄界灘を往来できた。しかし【天の北極の高度】を緯度に換算する方法を羅針盤とした航法では、倭の使者たちは往来できずに命を失った大海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられたのである。
 ゆえに、約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実際にこの世に実在する文献であったと証明するためには――(1)倭の使者たちと船乗りたちは〔中国の魏都・魏の出張機関の帯方郡政庁と倭地の九州の中間の大海・玄界灘を往来する時に1度の60分の11分以内の誤差内で精確に天頂緯度を測定(キャッチ)できた、つまり【[]をキャッチすること】ができた。だから、(2)倭人国と国交を結ぶことができた魏は倭人国の様子を知ることができたゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に実在する書物であったことになる。
 九州説と畿内説は【[]のキャッチ】に則る意見ではない。だから、九州説と畿内説の実体はまぎれもなく空理空論・デタラメ・空想・詐偽であったことになる。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【[]のキャッチ】に則ってのみ【科学】、つまり、『魏志倭人伝』はこの世に実在した書物であると証明される【科学】が成立して、【歴史、史実】を解明することができる書物であったことになる。

◆西暦280年~289年、晋(しん)につかえた歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。この「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」を、通称「『魏志倭人伝』」と呼称する。

(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」という古地図がある。
 この古地図における日本列島地図周辺の部分図を下に示した。
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 上記に示すように、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた「日本列島地図」では「九州・山口県が〔北〕、近畿地方や東海・北陸地方は九州の〔南〕に配置されている。
 これゆえ、幾人かの学者たちは――「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図が示すように、中国人は古くから倭国(日本)は南北に連なる島々の集まりと考えられていた。ゆえに、このような観念を抱いていた『魏志倭人伝』の著者(陳寿)は倭国の中心である邪馬台国への道程を南のほうに求めた――と指摘した。
 しかし、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」は『魏志倭人伝』が説明する日本列島地理を表示するものであったことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』には日本列島について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在るべし」と説明する記事が存在するからである。この「会稽の東治の東にある日本列島」を図示すると、下のごとくなる。
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 上の図が示すように、実際の列島図(実際の日本列島地図)は「会稽の東治の東北に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致せず不合理・矛盾する。他方、転回列島像(「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図に合致する転回日本列島地図)は「会稽の東治の東に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致して合理・矛盾しない。
 だから、『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は本州・日本列島地図を、【[]のキャッチの科学】にもとづいて、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」と同様に、下の図のごとく制定していた――と伝えていたことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』の全記事を【[]のキャッチ】に則って思考すると、卑弥呼王朝は[]の字源にもとづいて「日本列島の〔東〕は〔南〕に転回する地理観」を制定していたという事実が【科学】が成立して証明されることになるからである。
 言いかえると、「混一疆理歴代国都之図」における「転回日本列島地図」は「倭人国」の先頭字[]の字源・字形の原形・原義をあらわしていたことになる。
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 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明している。
 上の図に示すように、【[]のキャッチ】に則る日本列島地図における転回方位規定では、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島だけが「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「皆が倭種となる隠岐群島」は転回日本列島地図においては「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る」となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、多数の学者たちが絶対に正しいと思い込む定説である。
 この絶対的な定説も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように、九州説と畿内説と同様に【科学】が成立しない空理空論であった。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ではない」という定説が空理空論である事実を明確に科学的に証明する意見が存在する。この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、音韻史研究によって「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」ということは、つまり「中国に現存する最古の漢字音よりも古い漢字音がわが国の国語として残っている」ということになる。
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 上の「漢字生長史」に表示したように、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字を習得した。この夏音文字は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数記載されて現存する。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回の後半部で詳細に解説し証明した。
 『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っているわが国の漢字音は、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音であった。だからこそ、上の「漢字生長史」に表示したように、わが国が紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得した原初漢字・夏音文字は、中国における現存する紀元前1046年の周代初頭の最古の上古音よりも約1000年も古い漢字音であった。したがって、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した」という主張は、白川静著『字統』の「わが国の漢字音」における音韻史研究の成果に合致する科学的な意見となる。
 以上のごとく、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された絶対的定説は音韻史研究に反する【科学】が成立しない空理空論であった。

◆ゆえに上記したように、またわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の3回・4回でも詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった。
 したがって、中国に現存する最古の漢字音「上古音」よりも約1000年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭の夏音文字の漢字音が『魏志倭人伝』、『隋書』倭国伝、『古事記』上巻、『万葉集』に多数残っている。
 そして、『魏志倭人伝』に記載された34ヵ国の小国名によって《わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得した史実》が【科学】が成立して証明される。
 わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得していた。ゆえに、『魏志倭人伝』には「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という記事がある。
 また、『魏志倭人伝』には「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」と、「3世紀にすでに漢字が存在した」という記事も存在する。
 上記した『魏志』倭人伝に記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得した」と端的に説明する記事であったのである。
 「卑弥呼」の3字をわが国の国語として残った最古の漢字音・夏音文字の字音で読むと「ヒミコ」、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻学にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説にもとづくと「卑弥呼」の3字は「ヒミコ」と読むことができない。
 だから、「わが国が最初に中国の漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説はまぎれもなく空理空論であったのである。

◆わが国が後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得したとき――【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】と、【正確な中国海岸地図と精密地図作製方法】をも習得した。この事実は『魏志』倭人伝に書き記された34ヵ国の小国記事によって【科学】が成立して解明され証明することができる。
 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡によって発明された。
 五帝時代が終わると夏后(かこう)時代となった。()の始祖と呼ばれた帝王は禹()であった。帝禹の後を継いで帝となったのが、益(えき)帝であった。益氏は五帝時代の最後の舜(しゅん)帝の時代から200年間余も、代々「虞()」という重職に就いて【正確な中国海岸線地図の作成事業】に従事した。このため、益氏は【五帝時代から夏代初頭まで約1000年間に及んで研究し進歩させ確立された精密地図作製方法】について精通していた。
 この帝益の孫の王子と若者たち一行は、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある天祖(てんそ/名門益氏の孫の王子)説話が説明しているように――日本列島の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】を教え広めた。
 この帝益の孫の王子(天祖)と若者たちが教えひろめた【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】は、上記したように『魏志倭人伝』の対馬国から黒歯国まで34小国の記事となって説明されている。
 前述したように、邪馬台国説は【[]のキャッチ】に則れば空理空論であると証明される。ゆえに、新井白石以後300年間にも及ぶ邪馬台国説は空理空論をもって、「日本人と日本国という人格の尊厳」を踏みにじる冤罪(えんざい)を犯していたことになる。
 つまり、【[]のキャッチ】に則ればただちに空理空論であると断定できる邪馬台国説は、殺人を犯していない無実の人を終身刑にした冤罪事件に見立てて考えてみる必要がある。邪馬台国説学者たちは【誤読】を一ヵ所も必要でない正確無比の『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて冤罪、つまり事実に背くウソを捏造(ねつぞう)した。しかも、学界は邪馬台国説が捏造した冤罪に加担して事実・真実に目を背(そむ)けている。この冤罪は、新井白石以後300年も続く。「全記事が正確無比の『魏志倭人伝』」を「無実の一人の人間」と見立てると、邪馬台国説学者たちが『魏志倭人伝』へ加えた仕打ちは「まったく無実の人間を300年も牢獄に閉じ込める非業(ひごう)」を続けていることになる。ゆえに、この惨(むご)い冤罪を学界とメディアが、このまま無視・放置することは絶対に許されるはずがない。
 「無実にもかかわらず、300年の終身刑を背負うことになった一人の人間」にあってさえ、その冤罪は無視・看過することができない。ゆえに、【新井白石以後300年間も日本人全員と日本国の尊厳を汚し続けた冤罪】は、学界もメディアも一刻も早く暴露しなければならない。九州説と畿内説は【日本人と日本国の尊厳】を徹底的に踏みにじっているゆえ、日本人にとって最悪・最大の災いである。
 だから、この冤罪は、絶対に空理空論・デタラメ・詐偽であると暴く必要がある!

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字(字源・字形・字義)」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 下に、その各部の形状が原初漢字(つまり、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)の字源・字形・字義となった「文字作成銀河」の写真を配した。
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 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

 上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
 しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号に用いて現存することになった夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。だから、夏音文字は現代の漢字と同じく【文字の四要素の《字源・字形・字義・字音》】から成る。
 これゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であったのである。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契(わが国では「刻木」といった)と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国においても、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳重に守られた。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と明記しているにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる諸先生方は「わが国(倭人国)には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 現代の学者たちは『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が文書に用いていた文字」は「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と呼ばれることになったのではないかと、誰一人も想像しない。しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約1100字・約55パーセントの記事をもって「【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と伝え、また【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】について説明していたのである。
 以上のごとく――新井白石(16571725)以来約300年間、白石の邪馬台国説が空理空論であることに気づかず、そのまま受け継いだ粗雑な思考・論考によって、皇室によって「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物」と定められていた権威が害(そこな)われることになったのである。というのも、学界では「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ! 倉頡が漢字を発明した伝説は空想だ、絶対にありえない!」と断定することになったゆえ、『魏志倭人伝』によって倉頡が漢字を発明したことが科学的に事実であったと証明されるなんていう発想を、学者の誰一人も抱かない状況になったからである。
 〔注 皇室が滅亡しなかった継続基盤は『魏志倭人伝』であった。言いかえると、皇室は『魏志倭人伝』が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物であることを知っていたゆえ、この学問を権力基盤にして栄えて滅びなかった。ゆえに、白石が空理空論の邪馬台国説を立論したことを知ると、白石の死から13年後の1738年に戦国時代から220年間中断していた大嘗祭を復興して、大嘗祭で「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】について記述する学問書である」と表示することにした。つまり、「大嘗祭」の「大嘗」は[]の字源・字形の原義・原義をあらわした。だから、令和元年の11月に行われた大嘗祭は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明する学問書である」と表示する大祭であったのである〕。

◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について下記のごとく記述する。
 「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
 「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()えるに書契をもってす。」
 この【書契説明記事】における「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号の名称」である。また、「後世の聖人」は「【漢字作成理論「鳥獣の文」】を発明し、【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
 したがって、上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代には易に用いる記号「結縄」を考案したが、黄帝の医学研究をあらわすことができる「万物の情に類する文字」は倉頡によって発明されたからである。
 上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
 【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「漢字が作られた、夏の銀河」を意味し、「地法」は「東から西へ運行する天象部(銀河部)に反して、中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味した。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった(倉頡伝説では、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と名づけられた)。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌()・離()・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。
 なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は、「【A】[]の観測者が見える地平線より内界の地域の方位の規定に対して、【B】[]の観測者が見える地平線より外界の遠く離れた地所の方位は90度転回して異なると定めた規定」をあらわした。
 『魏志倭人伝』の記事で言いかえると、「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は「【A】対馬国・瀚海(ゴビ砂漠)・一大国の水平線より内界となる近くの玄界灘における方位規定は現在の日本地図における方位規定と同じである。しかし、【B】対馬国・瀚海・一大国の水平線より外界となる遠くの九州末盧(まつろ)国から黒歯(こくし)国までの32ヵ国が存在する本州・日本列島地図の方位規定は、[]の字源・字形・字義に則って時計回りに90度転回する。つまり、〈現在の日本地図において、東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔東〕にある〉が、『魏志倭人伝』の記事では[]の字源にもとづいて《九州は「西→北」となって時計回りに90度方位が転回して〔北〕に所在し、東海地方は「東→南」となって時計回りに90度方位が転回して東海地方は九州の〔南〕に所在することになる》ということになった。
 要するに、【A】「近くはこれを身に取り」という文は「対馬国と一大国の方位は現在の地図の方位と同じである」と意味した。けれども【B】「遠くはこれを物に取る」という文は「九州以下となる本州・日本列島地図の方位規定は〔混一疆理歴代国都之図〕における転回日本列島と同じ」と意味した。したがって、再度、下に示した転回日本列島地理にて示された方位規定が「遠くこれを物に取る」という文をあらわしていたことになる。
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◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛(まも)る習性」から「防衛」の[]の字源となり、あるいは「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[(すい)]あるいは[(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組む習性のジャコウウシ」が語源となった。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」など[]の字が用いられる5か国の小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は全部「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする原初漢字・五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字が存在したことになる。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が無いと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】を発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた(「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代の中国全土にめぐってきて、地上の人々が【[]=天頂緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定できる羅針盤となって最も大事な命をまもった「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。
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 これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。したがって、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
 だから、「母親(妊婦)」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に配した[][]の字源銀河解説図は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

[][]の字源銀河は、【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
 これゆえ、卑弥呼はわが国における最初の国家「倭人国」を創設し、わが国の最初の王朝を築くことができたのである。
 というのも、下記に示す5つの条件・理由・事情によって、卑弥呼は「倭人国」における最高位の女王に選ばれたからである。
▼卑弥呼が国家と王朝を創設することができた5つの理由・根拠
1】【倉頡が漢字を発明した目的】と【倉頡が発明した漢字作成原理】は女性たちが最も関心を抱く【女性の生殖器と子どもの出産の知識】であった。ゆえに、巫女(みこ)たちは黄帝が研究した産婦人科の知識【女性の生殖器と子どもの出産の知識】に精通することになった。
2】『魏志倭人伝』には「倭における易卜の辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり契文(甲骨文字)のごとくであった。また、『易経』繋辞下伝にある〔漢字の起源記事〕は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」と記述するゆえ、易卜の職に従事した巫女たちは「天象、つまり字源・字形・字義となった文字作成銀河の各部の形状知識」に精通した。また、正しく吉凶を占うために努力した巫女たちは、「地法、つまり銀河各部の東から西へ移動する運行の逆向きとなる、中国の大地をけずって水が西から東へ移動する黄河と長江の知識」を有し、「鳥獣の文、つまり【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通し、「地宜、倭国の各地域の平面的に図化した地図の形」も知っていた。
3】『魏志倭人伝』の末部にある「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)」という記事が示唆(しさ)するように、卑弥呼は「宗女、つまり巫女界を束ねる王(カリスマ・教祖)」であった。
4】『魏志倭人伝』が「その国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()」と伝えるように、西暦170180年ころの倭国は各地の戦争で大乱していた。この戦争において、霊感鋭敏で頭脳が優秀な巫女が敵の戦力の呪力(じゅりょく)を奪う魔女(占い師)となり、戦いの先頭に立って自国の兵士たちを奮(ふる)いたたせる役目を有していた。この魔女たちをたばねるカリスマが卑弥呼であったのである。
5】これゆえ、倭国の国中における自国の地宜を知っている魔女はじめ巫女たちから、
卑弥呼は倭国各地の地宜を手に入れることができた。これゆえ、〔対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地宜〕を利用して倭の大乱を鎮めた巫女王(ふじょおう)の卑弥呼は倭女王に選ばれた。卑弥呼は〔34ヵ国の小国の名称と地宜〕をもって【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】を表示し、王朝の政権基盤を【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】と定めて倭人国を統治した。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が生息する「ゴビ沙漠」を意味する。[]の字源「フタコブラクダ」は「瀚海・ゴビ沙漠」の住む人々にとって欠くことができないたいせつな家畜である。つまり、「フタコブラクダ」はゴビ沙漠おいて海に浮かぶ「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と名づけれた「海」であったのである。
 卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせた。
 卑弥呼が「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名付けた事情は、夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭まで約1000年間も続いた日照りと冷害の大災害による【鬼神(きじん)の厳しい刑罰】と【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は同一であると認識させて、上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重に守らせるための工夫(くふう・アイディア)であった。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説して証明した。
 前述したように、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として、倭人国と王朝を創設した。だから、反体制側の人々が【漢字は銀河から作られた学芸】を巧妙に利用する牽強付会(けんきょうふかい/こじつけ)や捏造(ねつぞう)による革命の決行を断念させるために、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を「瀚海」で表象して刑罰が厳重な国法(倭人国の憲法)を表示して、王朝と国家の崩壊・滅亡を食い止める必要があったのである。

◆下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 よって、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
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 上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬」となった。

 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は、前述した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を〔南〕へ時計回りに転回する[]の字源・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 したがって、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
 上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、小国名を「一大国」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮」は[壱・一]の字源・字形・字義であった。ゆえに、「一大国」は後世、[]の字がつく「壱岐」と名づけられることになった。
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 倉頡が発明した漢字作成理論の「鳥獣の足跡」の語源は「一大国」の「一大」つまり、上にて説明した[]の字源における「十字の銀河の子宮」の「至高にして上なし。一大に従ふ」の「一大」である。ゆえに、「鳥獣の足跡」と「一大」の語源と[]の字源は「十字の銀河の子宮」であった。
 卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができる。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられ、一大国は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわすことになった。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」に相似すると見立てられた。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 前述したように「一大国」は[]の字をあらわした。
 卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」で「邪馬壱(やまい)」と表示し、そして卑弥呼は「邪馬壱」の3字の地宜がある山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにしたのである。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と表記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記していた。
 新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」を意味するものであった。
 以上のごとく、九州説と畿内説は「邪馬」の2字に【倉頡が発明した漢字作成理論】が秘められている事実を知らない。そして、両説は『魏志倭人伝』と全く無関係な空理空論であることにも気づいていない。
 山陰・出雲の中心地域には「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの、馬(フタコブラクダの姿)に相似する地宜」が存在し、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する見立てられる地域も存在する。だから、卑弥呼が居住した「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と矛盾点も不合理な点も無く【科学】が成立して立証される。
 次回は、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と説明していた【科学】が成立する明確な理由と根拠について解説する。

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2019年9月12日 (木)

新刊『日本国誕生史の証明』9月14日発売!

●300年に一度出現する・真実追究の書『日本国誕生史の証明』が完成しました!

9月14日に、拙著『日本国誕生史の証明』(制作・∞ books 発行所・デザインエッグ株式会社)が発売されます。

 本書は300年に一度しか著作されない、とっても貴重な書物です。
 というのも新井白石(1725年死去)以来300年、わが国の学者たちはこぞって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に必ず幾つかの【文献批判】、つまり必ず幾つかの【誤読】を加える考え方で読解(どっかい)する意見こそが正しいと頑固(がんこ)に断定しつづけているからです。
 したがって、学者たちが『古事記』解釈のテキストとする本居宣長(1801年死去)が研究して著した注釈書『古事記伝』の実体も【誤読の産物】だったのです。ゆえに、『古事記』上巻は「日本神話は歴史を語るものではなく、物語である」とする日本神話虚構説の定説は事実に反する錯覚・幻想です。

 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に1ヵ所も【誤読】を加えないと――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は漢字の起源と日本国誕生史と、そして今年の秋に皇室がおこなう大嘗祭(だいじょうさい)は漢字の起源と日本国誕生史の秘密を伝える学問儀式であったと証明できる文献であった実体が鮮烈に蘇(よみがえ)ります。

 『日本国誕生史の証明』によって、吉野ケ里遺跡を根拠・理由とする九州邪馬台国説と纏向(まきむく)遺跡・箸墓古墳を根拠・理由とする畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』とはまったく無関係の空理空論・錯覚・妄想であった事実がーー明確となります。

 つまり、邪馬台国説は『魏志倭人伝』とはまったく無関係の空理空論・錯覚・妄想であった事実が明確となります。

 だから、令和元年9月14日から発刊されます拙著『日本国誕生史の証明』は、約300年間もわが国の学者たちがこぞって必ず【誤読】を加える考え方こそが正しいという考え方は空論・幻想であると断定できる――科学的に明確に容易に理解できるように証明した、とっても画期的な貴重な書物ということになります。
 
 今から約500年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明しました――この事実を『日本国誕生史の証明』は科学的に明確に証明し詳細に解説します。
 この漢字発明の歴史と事実の基(もと)に『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は日本国が誕生した歴史を後世に伝えていた書物であったのです。文字は人類史上、最も偉大な発明です。文字がなければ学問も文明も、また真実も人類の英知と理性も、さらに科学も歴史も存在しなかったことになります。
 だから、漢字の起源の秘密を記述して後世に日本国誕生史の事実を伝えた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【誤読】を加えて漢字の起源と日本国誕生史と今年の秋におこなわれる大嘗祭の実体を不明にする、学者たちがこぞって主張する邪馬台国説・日本神話虚構説は――人類と日本人と皇室の尊厳と英知を【誤読】で侮辱する【空論】であったのです。
 したがって、本書はわが国の学者たちの【誤読の空論】を暴露する300年に一度出現することになった、画期的な真実追求の貴重な本です。
 『日本国誕生史の証明』は真実を愛する人々のために著作しました。

 

 

 

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2019年5月11日 (土)

邪馬台国説は人類の尊厳と英知を抹殺するサギ

2019510日の午後21時、BSーTBSテレビ「諸説あり!邪馬台国スペシャル 〜古代ミステリー 幻の国は“ここにあった!”〜」
は、即刻、この世から抹殺(まっさつ)されても消えて無くなっても仕方がない悪質きわまりない詐欺(さぎ)を犯した。
このBSーTBSテレビの「諸説あり!」と題する『邪馬台国説スペシャル』は、(1)人類の尊厳と英知を、(2)皇室の尊厳と英知を、そして(3)3万年前から現在まで日本列島に住んだ日本人の尊厳と英知を抹殺し・凌辱(りょうじょく)する――オレオレ詐欺よりも数千倍も悪質きわまりないサギ(詐欺)であった。
江戸時代の中期の新井白石(16571725)から今日までの邪馬台国説をとなえる学者たちは、『魏志倭人伝』に数ヵ所の〔誤読〕を加える考え方こそが学術的意見であると主張する。ゆえに、さまざまな〔誤読〕を加える方法でこじつけるデタラメ意見(邪馬台国説)が多数発表されて存在することになったため、邪馬台国説は「諸説あり」ということになったのである。
歴史学においては、〔誤読〕は絶対に学問的方法ではない! 
歴史学においては文献史料に〔誤読〕を1ヵ所も1点も加えない考え方こそが基本的ルールである。したがって、自分の意見に都合良い記事だけを大々的に取り上げて自分の意見に不都合な事実を伝える記事を排除し無視して邪馬台国説を主張する白石はじめ今日までの学者たちは歴史学の基礎的素養がまったく身についていないことを“大目に見ろよ!”とうそぶいて「学者」と名乗るニセモノ・大ウソつき・詐欺師ということになる。
『魏志倭人伝』は(1)漢字と古代エジプト文字は銀河から作られた事実を伝え、(2)天照大御神(10代崇神天皇母子)を皇祖とあおぐ皇室を支えた絶対的な権力基盤は〔銀河から漢字が作られた学問〕であった事実を伝え、(3)3万年前の後期旧石器時代以来、日本列島に居住した人々が命をつないだ英知と尊厳を伝える重大な古文献である。
上記の三つの事実は、歴史学の基本的鉄則(てっそく)に則(のっと)って『魏志倭人伝』に1ヵ所も1点も〔誤読〕を加えなければ、科学にもとづいて解明される。 『魏志倭人伝』に1ヵ所も1点も〔誤読〕が加えなければ――倭女王の卑弥呼は「邪馬壱国(やまいこく)」と名づけられた山陰地方、つまり島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)に居住していたことが――科学が成立して明らかとなる。したがって、〔誤読〕を1ヵ所も1点も加えなければ、すべて全員の学問的意見は「卑弥呼は山陰出雲地方に居住していた」ということになる。だから、BSーTBSテレビの『邪馬台国スペシャル』の「諸説あり!」というテレビ番組の実体は〔歴史学の基本を知らない偽学者による誤読の空論〕であり、また〔誤読〕を「学問」と見せかける真っ赤な大ウソにして、卑劣(ひれつ)な詐欺であったことになる。
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ヵ所も1点も〔誤読〕を加えなければ上記した3つの真実が【科学】にもとづいて明らかになる『魏志倭人伝』は〔邪馬台国説を主張する学者たちは学者では非(あら)ず、大ウソ・詐欺をはたらく人々〕という事実が暴露(ばくろ)される文献である。
ゆえに、この番組に登場した二人の考古学の学者、つまり纏向遺跡を根拠にして邪馬台国畿内説を主張する学者と吉野ケ里遺跡を根拠にして邪馬台国九州説を主張する学者は、上記した(1)人類の尊厳と銀河から文字を発明した英知を、(2)銀河の各部の形状を字源・字形・字義とした学問を政権基盤とした皇室の尊厳と英知を、(3)日本人の命の尊厳と英知を愚弄(ぐろう)して抹殺する大ウソつき、ペテン師であったことになる。

◆『魏志倭人伝』には紀元前21世紀の夏代(かだい)初頭にわが国に伝来した夏音文字について(1)「倭国の占いに用いる辞(文字とことば)は令亀(れいき)つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半期に出現した亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の法(辞理)のごとくであった」、(2)「卑弥呼が文書に用いる文字(つまり夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国の楷書と差錯(ささく/相違)していたので、伊都国の港においてすべて点検し、間違いがないようにして確認していた」と記述する、二つの記事が存在する。
この後者の(2)の記事は「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる夏音文字の字源・字形の原形・原義は共に銀河各部の形状であったゆえ、伊都国の港では楷書と夏音文字の字源字典となる銀河各部の形状を観て、卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の相違を点検して間違いが生じないように確認していた」と説明していたことになる。つまり、楷書の【卑】の字義は「いやしい」であったが、夏音文字の「卑弥呼」の【卑】の字義は「益なり(夏代初頭に夏の始祖の禹帝(うてい)の後を継いで帝王となった益氏なり)」であった。
益帝の孫の王子と益氏の若者たち一行は荒波逆巻く玄界灘を横断して、日本列島の東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に移住して夏音文字の学芸を日本列島に根づかせた。だから、わが国には夏音文字の学芸は存在することになった。ゆえに、夏音文字の学芸をわが国にもたらした益帝の孫の王子と益氏の若者たちの日本列島移住は「大夫」という語源となり、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると、皆自らを大夫と称した」と記述されることになった。つまり、「倭の使者は中国に到着すると、益氏の王子と若者たちのように荒波逆巻く玄界灘の海原で迷わずに緯度と方角を精確に測定して見事に征服した」と自らを「大夫」と称して自画自賛(じがじさん)したのである。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」の語源は「益氏の王子と若者たちのように、荒波逆巻く玄界灘を征服した勇猛果敢な立派な男子」であったゆえ、今日「益荒男」は「雄々しい男子」を意味する。
『古事記』の序は「古事記上巻 幷(あわ)せて序」と題する。
この「古事記上巻 幷序」の冒頭は「それ混元すでに凝()りて、気象いまだあらわれず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)をなす」という文章をもって「漢字は銀河各部のイメージから作られた。前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭の参時代の土器・土偶は、漢字が作られた銀河各部の形状をモデルにして造られたために、〔土器・土偶が作られた銀河の形状〕は〔造化の参神(造化、つまり土器・土偶を作る芸術の参神)〕ということなり、〔参神造化の首(はじめ)〕つまり〔後期縄文時代の初め〕に銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちによって、益氏がもたらした夏音文字、つまり上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の学芸は習得された」と証言する。

古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9頁から10頁は「わが国の漢字音」と題して「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻学研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
中国で現存する最古の漢字音は「紀元前1046年から始まる周代初頭から後漢時代までの漢字音」である。この「漢字音」は「上古音」と呼ばれる。
上記した『魏志倭人伝』の二つの記事で述べられた「わが国に存在した夏音文字」は「紀元前2070年から同2050年頃の夏代初頭、言い換えるとわが国の後期縄文時代初頭、土偶・土器を作った芸術家たちによって習得された原初漢字」であった。ゆえに、『魏志倭人伝』に記された人名・小国名・官職名に用いられる夏音文字と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字の漢字音は、中国に現存する最古の漢字音(紀元前1046年の周代初頭の漢字音)よりも約1000年古い、現存する最古の漢字音である。
「卑弥呼」の3字を夏音文字で読むと「ひみこ」となり、中国の現存する最古の上古音で「卑弥呼」を読むと「ぴみか」となる。したがって「ひみこ」という読みは中国の上古音「ぴみか」よりも約1000年古い漢字音ということになる。
だから、上記した『魏志倭人伝』の「わが国には夏音文字が存在した」と明記する二つの記事と『古事記』上巻の序冒頭の「上巻の随所に〔音〕という注が付く文字は、中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代初頭に土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と伝える記事は事実を伝えていたことになる。
だから、わが国の学界が「わが国が最初に中国から漢字を習得したのは5世紀から6世紀ころであった」と断定する定説は空理空論であった。
上記したBSーTBSの『邪馬台国スペシャル』に登場した畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説をとなえる二人の学者は、『魏志倭人伝』に「わが国には夏音文字が存在した」と明記する重大な記事の存在を無視し排除して立論する空想の産物、空理空論をもって、大ウソをつく。夏音の学芸によって卑弥呼は畿内にも九州にも居住せず、山陰出雲に居住していた事実が【科学】にもとづいてすべて合理が成立して証明される。だから、上記した二人の学者は(1)銀河から文字を作った人類の尊厳と、(2)銀河から文字が作られた学問を政権基盤にして今日まで存続した皇室の尊厳と英知を、(3)3万年前の後期旧石器時代から命をつなげてきた日本人(日本列島に居住した人々)の尊厳と英知を愚弄(ぐろう)し抹殺する大ウソつき、ペテン師ということになる。

(1)2000字構成される『魏志倭人伝』に1ヵ所も1点も〔誤読〕を加えなければ、人類の尊厳と英知を成立させた文字、すなわち漢字と古代エジプト文字(ヒエログリフ)は同一銀河から作られた事実が手に取るように明確に科学的に証明される。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶことになったのである。漢字は紀元前3000年頃に、発明された。
前述したように、わが国には漢字が発明されたから約950年後の紀元前2070年~同2050年頃、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、現存する最古の漢字音を伝える夏音(かおん)文字が伝来し習得(しゅうとく)されて、上記したように『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられて現存する。また、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、多数の夏音文字が現存することになった。
紀元前3100年頃、突然、出現したエジプトの古代文字・ヒエログリフもまた漢字が作られた同じ銀河から生まれた。
この漢字と古代エジプト文字が銀河から作られた事実は『魏志倭人伝』の記事によって科学にもとづいて証明することができる。古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字のルーツとされる。ゆえに、これらの現代文字は銀河から作られた古代エジプト文字によって存在することになった。したがって、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使われているABCアルファベットのルーツもまた、古代エジプト文字である。したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も1点の〔誤読〕を加えなければ【科学】が成立して「漢字も古代エジプト文字も、同一銀河の範囲から作られた」という事実は証明されて、人類の尊厳と英知を示すことになる。
文字は人類の歴史上、最も偉大な発明である。文字がなければ学問も文明・文化も、また人間の理性も、さらに科学も歴史も文学も芸術も存在しなかった。ゆえに、文字は人類最大・最高・最良の発明ということになる。この〔文字の発明〕が『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も1点の〔誤読〕を加えなければ具体的に解明される。いいかえると、〔誤読〕を加える考え方こそが正しい学問であるとうそぶく白石以来約300年も続けられる邪馬台国説のために、〔漢字と古代エジプト文字が同一銀河から作られた事実〕がいままで解明されなかったのである。
ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「漢字と古代エジプト文字は同一銀河から作られた」という事実が科学的に証明できる、人類共通の貴重な資料(文献)であったのである。

(2)
わが国の、天照大御神を皇祖と崇拝する皇室は〔古代エジプト文字が作られた同一銀河から作られた漢字の学問〕を最強の政権基盤として今日まで存続するものであった。言い換えると、「漢字は銀河から作られたという事実と学問」が明らかとなる『魏志倭人伝』は皇室を存続させるための聖典であったのである。これゆえ、新井白石の『魏志倭人伝』に多数の〔誤読〕を加えてデッチあげた空論・大ウソの邪馬台国説の出現に、皇室は「日本国が土台から崩壊する、皇室も滅亡する、日本人の尊厳と英知もまた抹殺されるにちがいない」という激しい衝撃(しょうげき)を受けた。だから、白石が没した13年後の1738(元文三年)1119日、戦国時代に中断して九代約二百二十年後の、桜町天皇の即位式において大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興して、天皇即位礼で用いる王冠の菅蓋(かんがい)の意匠(いしょう)で「漢字は銀河から作られた」と表示することにしたのである。
天皇即位礼で用いられる王冠・菅蓋は上下二つの意匠から成り、そのうちの上の鳥の意匠は『魏志倭人伝』に「漢字は銀河から作られた」と記述された事実を伝え・表現するデザインである。

(3)
『魏志倭人伝』には3万年前からの後期旧石器時代から日本列島に住んだ人々が命(いのち)をつなげて繁栄した英知と尊厳の秘密が記述されている。ゆえに、天皇即位礼の王冠・菅蓋の下の菅笠(すげかさ)の意匠は「3万年前から日本列島に居住して人々が命をつなげた秘密」を伝え・表現するデザインである。
 

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』に〔いくつかの誤読〕を加えて成立させる邪馬台国説は、(1)人類の尊厳と英知を、(2)皇室の尊厳と英知を、(3)日本人の尊厳と英知を愚弄して抹殺する大ウソであり、詐欺である。
この令和元年の10月、今上天皇陛下は(1)漢字は銀河から作られた、(2)皇室は銀河から作られた文字の学問を政権基盤として今日まで存続した歴史を伝え、(3)太古より以来の日本人の命の尊厳と英知を伝え・表現する王冠・菅蓋を頭上高々と掲(かか)げる儀式にのぞむ。
だから、2019510日のBSーTBSテレビの「諸説あり!」と題する『邪馬台国スペシャル』は日本人を騙(だま)して侮辱する大ウソであり、詐欺であったことになる。この大ウソ・詐欺は「わが国が夏音文字の学芸を習得した」と証言する二つの重大な記事を排除・抹殺して自己の意見の空論を真実かのごとくに見せかけるオレオレ詐欺より数千倍も卑劣(ひれつ)な悪質きわまりない詐欺ということになる。

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2018年10月16日 (火)

NHKBSテレビ「壬申の乱」の放送は日本人の尊厳を侮辱するウソ八百・最悪の俗悪番組であった

 ◆歴史家・磯田道史氏が司会した2018(平成30)1011日における20時~21時に放送された、NHKBSプレミアム3チャンネル「英雄たちの選択選 壬申の乱の真実を迫る」と題する番組は虚妄(きょもう・デタラメ)と欺瞞(ぎまん)に満ちた、誤読の空論・空想の産物であった。
 したがって、この番組は全日本人の尊厳を徹底的に愚弄(ぐろう)する暴論で終始した茶番劇であった。
 受信料をおねだりするHHKテレビが、このような【誤読の空論】にもとづく低劣きわまりない悪質な番組を放送するとは……、“トホホ”何ともお粗末なかぎりと言わざるをえない。

◆朝日新聞のテレビ欄は、この番組の概要を――(1)「日本」を生んだ戦い、(2)壬申の乱の真実に迫る、(3)▽古代帝国からの外圧、(4)▽迫る豪族反乱の危機と――紹介した。
 上記の(1)「日本」を生んだという表現は、この番組の登場した歴史学者の仁藤淳史氏、歴史学者の倉本一宏氏、脳科学者の中野信子女史、戦史研究家の小谷賢氏、そして司会者の磯田道史氏と女性の司会者によって、あたかも日本国は8世紀初頭に生まれたかのごとくに表現されたが――ほんとうのところ、日本国が誕生したのは3世紀前半であった。
 上記した(2)壬申の乱の真実に迫ることができる、言いかえると壬申の乱が起きた原因については、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝の最初の部分に記述されている。この記事は、702年に中国に渡った遣唐使が日本国誕生史について下記のごとく説明したと記述する。
 ――日本国は()倭国の別種である、()その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、()ある人(遣唐使)が言うには、「倭国は自国名が雅(みやび)やかでないのを悪(にく)み、倭国の人民は日本という国号に改称するのを欲求したのだ」とのことであった、()またある人が言うには「日本国は旧(もと)小国であったが、大国の倭国を併合(へいごう)した」と。

◆大国・倭と小国・日本を併合した日本国の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命は、倭女王天照大御神を失脚させるクーデターが成功した後に、天下を治めた第9代開化天皇となった、『魏志』倭人伝末部に登場する載斯烏越(そしあお))であった。だから、『古事記』上巻の神代の出来事は学者たちによって歴史ではなく物語であったと断定されているが、この日本神話学説は『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えた空想・妄想の産物であり、実際は伊耶那岐命は歴史上に実在した人物であった。
 ゆえに、702年当時、伊耶那岐命が併合した大国・倭国と小国の日本を「倭国」と呼んでいたことになり、この倭国と日本国が併合された「倭国」の国号を、702年に中国に渡った遣唐使は「日本」と国号を改称することを中国の王朝に承認を求める任務についていたのである。この遣唐使の任務は――時の持統(じとう)上皇が最も尊敬する第10代崇神(すじん)天皇母子の異名「天照大御神」と「日本」という国号が類似する点に注目して、伊耶那岐命のクーデターによって崇神天皇の生母=天照大御神=伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が倭女王から失脚した歴史を抹殺(まっさつ)するための――持統天皇の陰謀(いんぼう)によるものであったのである。その証拠に、「倭国」から「日本」への国号の改称はわざわざ中国の王朝の承認を得る必要もないことであり、自国で決定すれば済むことであった。したがって、自国で決定すればよいことをわざわざ中国の王朝から承認を得ようとする遣唐使の挙動を、中国の王朝は訝(いぶか)り、また日本の遣唐使は事実をはぐらかして答えるものではないと見透(みすか)かし、彼らは何か企みを抱いているのではないかと疑った。
 だから、『旧唐書』倭国日本伝には――()日本の使節(遣唐使)は自らが矜大(きょうだい/自尊心が強く)で、“日本”という国名改称について中国の王朝が抱く疑問をついて事実を語らうとせずに隠し立てして誤魔化(ごまか)す。それゆえ、中国の王朝は遣唐使の説明(答え)には何か企み・魂胆があるのではないかと疑うことにした――という記事が存在する。

 「天照大御神」と「日本国」という国号は互いに類似しあうので、持統上皇は「日本国」と改称すれば、後世の学者たちは必ずや「小国・日本を治めた天照大御神によって倭国が併合されたと考えるにちがいない――と企んだのである。ゆえに、〔小国・日本の軍王・伊耶那岐命が天照大御神を倭女王から失脚させた、朝廷が後世に絶対に伝えたくない天照大御神の聖性を汚す歴史を消滅することができる〕と企む――朝廷にとって不都合な史実を抹殺するための持統上皇の謀略を成功させるための任務に、遣唐使はついていたのである。
 だから、702年に中国に渡った遣唐使が明確に語ろうとしなかった真実の日本誕生史の秘密が壬申の乱がおきた原因であった。
 ゆえに、20181011日の20時に放送されたNHKBSテレビの「壬申の乱」に関する番組について、朝日新聞のテレビ欄は「壬申の乱の真実に迫る」と紹介しているが、この番組は壬申の乱とはまったく無関係の空想・空理空論・妄想で終始した茶番劇であった。

◆なお、大和王朝の基礎を築いた第10代崇神天皇=天照大御神は、第9代開化天皇=伊耶那岐命の異母弟であった。というのも、崇神天皇は第8代孝元(こうげん)天皇を父とし、伊迦賀色許売命が母として生まれた子であったからである。開化天皇の父は孝元天皇であるゆえ、開化天皇は崇神天皇の異母兄であった。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は継母の伊迦賀色許売命(天照大御神)と結婚されて生みまさる御子は崇神天皇」と記述する。したがって、「伊迦賀色許売命と結婚して開化天皇の養子となった崇神天皇」について、「崇神天皇は開化天皇の養子となった状況」を「生みなせる御子」と記述したことになる。その証拠に、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇の妻であったゆえ、『古事記』中巻の開化天皇紀は「伊迦賀色許売命」を「庶母(ままはは/継母)」と記述する。だから、開化天皇は父孝元天皇と継母伊迦賀色許売命と間に生まれた崇神天皇を養子にして、伊迦賀色許売命と結婚したことになる。
 『古事記』上巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚されて生みませる御子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である」と記述する。
 開化天皇の正妃の竹野比売が『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であった。だから、開化天皇の居住した宮殿「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字に合致する。ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇と伊耶那岐命・竹野比売の間に生まれた比古由牟須美命が『古事記』上巻に登場する須佐之男命(すさののみこと)であった。
 なお、伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王・壱与(いよ)であった。伊耶那美命(竹野比売)=壱与は小国・日本国の女王にして、『魏志』倭人伝末部は「13歳で小国・日本の女王となった壱与(伊耶那美命)は、倭国の大乱を終息するための倭女王に就任した」と記述する。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は――小国・日本の女王の伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚するとき「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)と唱え、つまり「小国・日本の国生みの柱を〔愛〕と定めましょう。家族を背負って家族の幸福に日々努力する男たちよ、日本の国作りの柱を〔愛〕としましょう」と唱えた――記述する。
 だから、3世紀、日本国は伊耶那美命(壱与)と伊耶那岐命(載斯烏越)が結婚して誕生した。もちろん、持統天皇が企んだように天照大御神によって日本国は生まれたのではなかった。
 NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「8世紀に日本国が生まれた」と断定するものではなかった。しかし「8世紀の倭国から日本国の国号改変をもって日本国が生まれた」という意見を意図(いと)とするものであったのではないかと思われる疑わしい表現もあったゆえ、このような意見は明らかに間違い・虚偽ということになる。

◆持統上皇は大和王朝の基礎を築いた〔天照大御神〕を崇拝した。この天照大御神の聖性は日本国誕生史の真相によっていちじるしく汚されることになった。ゆえに、前述したように、上皇は「天照大御神」と「日本」という両者の名が類似することを注目して、天照大御神の聖性を汚す日本国誕生史が後世に伝わなくするために、702年に遣唐使を派遣して「日本」という国名の改称を目論(もくろ)んだのである。
 『古事記』中巻の開化天皇紀に記されているように――伊耶那美命(小国・日本の女王にして後年に倭女王に就任した丹波出身の竹野比売)が伊耶那岐命の正妃、天照大御神(伊迦賀色許売命)が伊耶那岐命の第二后であった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王に就任した天照大御神つまり崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は小国・日本が誕生する時に伊耶那美命=竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。ゆえに、伊耶那美命が没して熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら/黄泉国)に墓(陵墓)が作られた時、天照大御神は伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬(じゅんそう)、つまり多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍な徇葬儀式を陣頭指揮して伊耶那美命を侮辱(ぶじょく)した。この徇葬者たちを、『古事記』は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す。また、『古事記』編纂スタッフは徇葬を指揮した倭女王を「天照大御神」と明記すれば、『古事記』は即座に献呈を拒絶(きょぜつ)されて読むことが厳重に禁止される書物となって抹殺されるため、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名(つまり、「伊耶那美命」に「神」の一字を加える偽名)にして記した。
 伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は、天照大御神が伊耶那美命を侮辱するためにおこなう徇葬に激怒した。小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て天照大御神を倭女王から失脚させるクーデターを決行した。伊耶那岐命は数人の日本兵を率(ひき)いて伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して棺(ひつぎ)を奪って逃走した。伊耶那岐命一行を追跡する倭の大軍=千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ)は日本軍と熊野の戦士たちに編成されるクーデター軍の本隊が集結する現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと)において撃破された。
 驚いたことにクーデターが決行された夜の真っ暗な熊野路を歩いて天照大御神は伊耶那岐命一行を追跡してきたため、彼女は日本軍の捕虜となった。天照大御神は熊野速玉大社から約1kmの南にある現在の神倉(かんくら)神社のご神体のごとびき岩=千引石(ちびきのいわ)の前に居た伊耶那岐命の所まで連行された。上記したように(『古事記』中巻の開化天皇紀に記述されているように)、天照大御神=伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の第二后であったため、伊耶那岐命は天照大御神に向かって離縁=事戸(ことど)を言い渡した。これゆえ、伊耶那岐命に離縁を言い渡した場所・千引石(現在の“ごとびき岩”)の前の空地に建造された神倉神社の祭神は天照大御神である。ゆえに、神倉神社に祀られる天照大御神は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」であったのである。
 神倉神社のご神体の千引石の巨岩の前にて離縁を言い渡された天照大御神は立腹して「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さん」、つまり「亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ、汝の国の日本国はじめ倭国の人民たちの母親の産道が狭(せま)くなるように呪(のろ)い、この狭い産道で必ず一日に千人の生まれてくる子どもの頭を絞め殺してみせる」と言って誓った。
 この天照大御神の憎しみの言に対して伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」つまり「吾は亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する政事(まつりごと)をおこなって、必ず一日に千五百の子どもたちが生まれて健やかに育つようにする」と誓った。
 この熊野におけるクーデターを成功させた小国・日本の軍王の伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇であった。
 ゆえに、702年に中国に渡った遣唐使は――日本国は()倭国と別種である、()その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、()『魏志』倭人伝に記述されたように卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢(ぬひ)を殺す徇葬をおこない、伊耶那美命の墓を作る時にも天照大御神が残忍な徇葬を陣頭した。ゆえに、ある人(遣唐使)は「倭国の人民たちは倭国という自国名は雅(みやび)やかでないと憎悪し、多くの倭国の人民たちは〔愛〕の理念を掲げて誕生した日本という国号に改めることを欲求したのだ」いう秘密を「倭国自らその名の雅やかならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」と簡潔に説明し、()小国・日本国の軍王の伊耶那岐命による熊野におけるクーデターによって倭女王天照大御神は失脚した。伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治める大王(開化天皇)となって大国・倭国と小国の日本国を併合した。これゆえ、ある人(遣唐使)は「日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」と簡潔に説明したのである。

◆伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神(伊迦賀色許売命)は、第7代孝霊(こうれい)天皇の娘=崇神天皇の姑(おば/大叔母)の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を受け継いで、息子の崇神天皇と共に大和王朝を治めた。この天照大御神・倭迹迹日百襲姫命は子の崇神天皇によって巨大な箸墓(はしはか)古墳が築造されて埋葬された。崇神天皇の生母が埋葬された箸墓古墳は奈良県桜井市に所在する。
 伊耶那岐命のクーデターを怨(うら)む倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は、開化天皇・伊耶那岐命に露骨(ろこつ)な復讐心を示して対抗した。ゆえに、伊耶那岐命は実子の須佐之男命に天下を譲ると、自分の死後に天照大御神(崇神天皇)と須佐之男命が相争う天下取りの大乱となるにちがいないと心配して、養子の天照大御神に天下を譲った。
 ところが崇神天皇は伊耶那岐命の天下譲りの恩に報いず、彼は養父の伊耶那岐命に復讐して開化天皇の陵墓を築造しなかった。だから、現存する開化天皇陵は天照大御神・崇神天皇が生存した3世紀後半~4世紀初頭に築造されたものではなく、その墳丘規模などからして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。このように、熊野のクーデターを怨んだ天照大御神母子の復讐心は開化天皇陵の築造年代によって明確に示される。

◆『万葉集』の最終巻は、巻二十である。この巻二十に収められる東国の防人(さきもり)たちが作った4321番~4436番までの116首の和歌は、伊耶那美命と伊耶那岐命が治めた日本国の範囲と伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を今日明確に伝える。というのも、防人歌の作者の出身国の範囲が小国・日本であったからである。防人歌を作った人々の出身国の範囲は、旧国の駿河(静岡県中部)以東から常陸(茨城県の大部分)以西までの東国となる。つまり、駿河・伊豆・甲斐・信濃・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸の東国が小国・日本であった。遠江(静岡県西部)の人々が詠む和歌が巻二十の防人歌に含まれているが、遠江は小国・日本ではなく倭国であった。遠江は倭国であったが、遠江の人民たちは伊耶那美命を熱烈に愛したため、防人の制度を定めた天智(てんち)天皇は倭国の遠江の人々にも防人の任務を負わせたのである。
 『万葉集』巻二十の4321番~4436番までの116首の防人歌は伊耶那美命が「阿那邇夜愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の和歌で占められている。つまり、倭国の遠江を含む東国=小国・日本の防人たちは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって、妻や子どもや両親や恋人のために遠く離れる筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備に当たる兵役(へいえき)をつとめていたのである。
 116首のうち110(95パーセント)は、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の歌で占められる。防人歌116首のうち4370番の「霰(あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士(すめらくさ) 我(われ)は来()にしを」という一首は一見すると4句目の「皇御軍士」によって天皇への尊敬を示す和歌のごとく解釈できるが、「日々、鹿島神宮に【日本建国の〔愛〕の理念】を祈っている我が、こともあろうが天皇につかえる兵士となって北九州の地に来たのだ……。なんとも、情けない」と天皇への怨みを詠む作品であったにちがいない。また4373番「今日(けふ)よりは 顧(かへり)みなくて 大君(おほきみ)の 醜(しこ)のみ楯(たて)と 出で立つ我(われ)は」と詠む和歌もまた大君(天皇)への尊敬を示すものではなく「今日からは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して暮らした故郷を振り返らないで、我は強大な権力に負けて情けなくも天皇を護る防人となって故郷を出で立つことになったのだ」と天皇への怨みを表現する和歌であったにちがいない。
 上記したように116首の防人歌の110首は【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌であり、4370番と4373番の2首も【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌と解釈できるゆえ、残る4首は【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に示す歌ではないが、『万葉集』巻二十に収められた116首の防人歌はおそらく全部が全部【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む歌であると推定される。

◆上記した防人歌と同様に、万葉歌人として有名な山上憶良(やまのうえのおくら)が作った代表作の803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という短歌は、【日本建国の〔愛〕の理念】を詠むものであった。
 この山上憶良は702年に持統上皇の陰謀によって「日本」という国号の承認を中国王朝から得るために派遣された遣唐使のうちの最下位の幹部(かんぶ)であった。
 『万葉集』巻一の63番には「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在()る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」という題詞が付く。したがって、63番は憶良が遣唐使となって「日本」の国号の改変の任務に就いて唐に滞在した時に作った短歌である。この63番の短歌は下記のごとくである。
 「いざ子ども 早く日本(にほん)へ 大伴(おほとも)の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」
 憶良は、「大の大人(おとな)の遣唐使や遣唐使船の船乗りたち」を「いざ子ども」と表現した。つまり、彼らは熊野のクーデターにおいて伊耶那岐命が神倉神社のご神体である千引石の前で「吾一日に千五百の産屋立てむ」という誓いのもとに生まれた人々であると憶良は表現したことになる。だから【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、憶良は遣唐使と遣唐使船の船乗りを「いざ子ども」と表現したのである。2句目の「早く日本へ」の「日本」を「やまと」と読む説は有力説とされるが――子ども(遣唐使や船乗り)たちが本国に帰った時には国号が「日本・にほん」となっているので、「早く日本(にほん)へ」と読むべきことになる。3句目に登場する「三津の港」は、武家の名門の大伴氏の所領内(現在の大阪市から堺市にかけての一帯)にあった。ゆえに、憶良は「三津の港の浜に生える松」を「唐に渡る憶良を見送った大伴氏の三人の武将」に見立てて「大伴の 三津の浜松」と詠んだことになる。三津の港で遣唐使・憶良を見送った武将は、大伴安麻呂(やすまろ)と旅人(たびと)の父子と大伴家・大伴連(むらじ)家の両家の宗家となる大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)の養子であった。この養子は、大伴安麻呂・旅人父子よりも強力な、当時を代表する武将の大伴連家の家督者(かとくしゃ)であった。
 『古事記』天孫筑紫降臨説話は「天孫(天照大御神の孫)が筑紫に降臨(こうりん/遠征)した時、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あまつくめのみこと)の二人が天孫の先払いをつとめた。この先払いをつとめた天忍日命は大伴連らの先祖である」と記述する。
 『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)説話は「大伴連らの祖先は、道臣命(みちのおみのみこと)である」と記す。この説話の舞台は、現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町から南にかけての宇陀一帯であった。道臣命は宇陀を所領とした大伴朴本連大国の先祖であった。ゆえに、安麻呂・旅人の大伴家は大伴連家の分家であった。大伴朴本連大国が家督を受け継いだ大伴連家は大伴家の本家であったのである。
 憶良が三津の港において大伴連大国の養子と大伴安麻呂・旅人父子に見送られた702年当時、大伴連大国はすでに死去していたらしく、27歳の養子が大伴連家の跡を継いでいたと推定される。この養子は、天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子のうちの皇位継承順位が第三位)の舎人(とねり)皇子であった。
 舎人皇子は天武天皇の第三皇子という高い身分を有するも、『古事記』が完成した712年・37歳頃までは庶民であった。というのも、養父の大伴連大国が庶民であったからである。大伴連大国・舎人皇子父子は、上記した『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯と弟宇迦斯説話の舞台となった奈良県宇陀郡榛原町高星(たかへ)の片田舎に居住していた。『古事記』が元明天皇に献呈拒絶されて読むことが厳重に禁じられた禁書になったため、再度日本国誕生史を後世に伝える歴史書(『日本書紀』)の編纂を陣頭指揮するために、712年あるいは713年に宮廷勤めするようになって舎人皇子は3738歳頃に皇族となった。

◆天武天皇の第一皇子の草壁(くさかべ)皇子は68928歳で没し、天武天皇は第二皇子という位を設けず、天武天皇の第三皇子を大津(おおつ)皇子と舎人皇子と定めた。大津皇子は天武天皇崩御25日目の686103日、謀反の罪によって処刑された。
 したがって、686104日以降、天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位は大伴連大国の跡を継ぐ庶民の舎人皇子であった。
 大伴家の所領は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)や藤原宮より西方であった。したがって、大伴安麻呂・旅人父子は都より西方の反乱軍を鎮圧(ちんあつ)するための武将であった。
 大伴連大国の所領の宇陀は都より東方にあったゆえ、大国・舎人皇子父子は東国の兵の反乱を鎮(しず)めるための武将であった。地図をひろげて調べると――宇陀の地・榛原駅前の道路は、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝(ようしょう)である。だから、大伴連大国・舎人皇子父子は尾張・三河・美濃・伊賀・伊勢などの東海道と東山道の人民や兵士たちを統率する強力な武将であったことがわかる。

◆『日本書紀』巻第二十八は大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が東国へ逃れる決意をした事情について――6725月、朴井連雄君(えのいむらじおきみ)は大海皇子に「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に『亡き天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりました。ところが、それぞれに武器をもたせております。ということは、おそらく山陵を造るが目的ではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう」と奏上(そうじょう)した。
 上記の朴井連雄君の報告と近江京より大和京に至る道のあちこちに監視人を設置している様子から、大海人皇子は危険を察知して東国へ逃れることを決意した。
 近江朝に「天智天皇の山陵()を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ」と命じられた美濃・尾張の国司は、大伴連大国が束ねる配下であった。だから、近江朝が企んだ変事=壬申の乱は大伴連大国の所領で起きていたのである。
 当時、吉野宮で居住した大海人皇子に従う者は50人足らずで、大海人皇子を護衛する舎人(兵士)20人足らずであった。ゆえに、近江朝は吉野宮に100人の兵を送れば大海人皇子を暗殺することができた。しかし、大海人皇子暗殺隊を吉野宮に向けると、東海道と東山道の兵士を統率する大伴連大国の所領である要衝(榛原駅付近)を通過しなればならなかった。このため、近江朝は大伴連大国から大海人皇子暗殺隊の通過を許可する内諾(ないだく)を得なければならなかった。しかし、近江朝は大伴連大国から内諾を得ることができなかった。というのも、大伴連大国は近江朝の律令体制を嫌悪し、天照大御神を蔑(さげす)み、伊耶那美命を敬愛し、卑怯な暗殺を認めず、正義・道義に筋(すじ)を通す人物だったからである。これゆえ、壬申の乱の初日の朝における大海人皇子はまさに「窮鳥(きゅうちょう)(ふところ)に入れば猟師も殺さず」という諺(ことわざ)の「窮鳥」であったため、正義を重んじる猟師・大伴連大国は困窮する窮鳥を助けざるをえなかったのである。

 672624日、30人余りの大海人皇子一行は吉野を出立して東国に向かった。この壬申の乱の始まった朝、大海人皇子一行が宇田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県大宇陀町の阿騎野/あきの)と兎田(うだ)郡の屯倉(みやけ/現在の榛原駅付近であろう)の中間の甘羅村(かんのむら)をやや過ぎた所(榛原駅よりすぐ近くの、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝)で、猟師二十人余りと出会った。この一団の首領は大伴朴本連大国と名乗った。この一団には美濃国の王(豪族)も加わっていた。この二十人余りの猟師たちと美濃国の王を、大海人皇子は召しかかえた。

つまり、近江朝は「天智天皇の山陵を造るために人夫に武器を持たせて集めておけ」と命じた美濃と尾張の国司に命じたように――壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する武将の大伴連大国が所領内でおこっていた。ゆえに、美濃国の王は変事をいち早く知って、頭首の大伴連大国が住む榛原町高星(当時は、「高屋」という地名であった)に駆けつけて報告した。このため、大海人皇子一行と出会った時に大国が率いる猟師の一団に美濃国の王も加わっていたのである。

壬申の乱が始まった624日、大海人皇子一行が伊賀の山中に到着すると、伊賀国の郡司らと数百の兵たちが吉野方に加わった。さらに、大海人皇子一行が伊勢の鈴鹿に到着すると、五百の軍勢が集まった。26日には美濃の軍勢三千人が集まった。27日には、尾張国司が二万の兵を率いて吉野方に加わった。4日後には、吉野方は三万の軍勢となっていた。
 つまり、壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する大伴連大国の所領内で起きた。だから、4日後には三万の80パーセントの約二万四千の大国の配下の兵士たちが吉野方に集まっていたのである。大海人皇子は味方の軍勢を集める計画無しで東国へ出立したが、その朝には早くも東海道・東山道の兵士を統率する強力な武将・大伴連大国が大海人皇子を護衛したために、4日後には近江朝の軍勢に勝る三万の兵士たちが吉野方に集結することになったのである。
 大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を大海人皇子に期待して吉野方に味方したのである。だから、壬申の乱の原因は【日本建国の〔愛〕の理念】であった。というのも近江朝は防人の制度を設け、また近江朝の律令政治体制は人民を貧窮(ひんきゅう)させるものであったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を蔑(ないがし)ろにしていた。そして、壬申の乱は大国の所領内でおきた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する猟師・大伴連大国は近江朝の敵となり、大海人皇子に救いの手を差し伸べたのである。
 近江軍を敗北させた4日間で一挙に集まった三万の軍勢の大半(80パーセント)は大伴連大国の配下の伊賀・伊勢・美濃・尾張の兵士たちであった。この大伴連大国の約二万四千の配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであった。

◆大伴連大国と配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ政治を大海人皇子に期待した。しかし、大海人皇子は天皇に即位すると天智天皇と同様に律令体制を推進させた。これゆえ、大国と配下の兵士たちの期待は成就しなかった。ゆえに、壬申の乱の最高功績者であった大伴連大国は天武天皇王朝には参加せず、高屋(榛原町高星)で庶民として暮らした。天武天皇は大国と配下の東海道・東山道の兵士たちの【日本建国の〔愛〕の理念】の欲求を察知し、彼らが律令体制の続行に怒って反乱をおこすことを心配した。ゆえに、676年、天智天皇の娘・新田部(にいたべ)皇女と結ばれて生まれた新生児を大伴連大国に与えた。これが舎人皇子である。
 壬申の乱に参加した東海道・東山道の兵士たちが近江方の残党と協力して反乱をおこすことを阻止(そし)するために、近江朝の天智天皇の娘である新田部皇女が生んだ新生児・舎人皇子を大伴連大国に与えたのである。そして、新生児・舎人皇子に天武天皇の第三皇子という高い位を与えて大国が率いる配下たちの期待を裏切った不満を殺()いで反乱を防いだのである。
 また、天武天皇は成長すれば大国の後を継ぐ舎人皇子が東海道と東山道と東国の兵士の反乱を阻止する強力な武将と必ずやなるにちがいないと期待して、誕生したばかりのわが子を大国に与えたのである。

しかし、舎人皇子は天武天皇が期待とおりの武将にはならなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国に養育された舎人皇子は、伊耶那美命に熱烈に憧れる時の朝廷に歯向かう反逆児となった。『万葉集』巻二の117番の題詞は「舎人皇子の御製(みうた)一首」であるから、舎人皇子が作った和歌である。この117番で、舎人皇子は伊耶那美命への熱烈な憧れを、下記のごとく表現している。
 「大夫(ますらを)や 片恋(かたこひ)せむと 嘆(なげ)けども 鬼の益卜雄(ますらを) なほ恋ふにけり」
 117番を現代語訳すると「武骨な武士(ますらお)がみっともなくて片恋するものかと虚勢(きょせい)をはってみても、吾は上古の伊耶那美命が恋しくてならならない。吾は上古の鬼道(きどう)を尊ぶ武士であるゆえ、鬼道が栄えた上古に生存した伊耶那美命の歴史をまもらんとして彼女への思慕はますます激しくなってゆく」となる。
 『魏志』倭人伝は「2世紀末~3世紀半ばまで鬼道が栄えていた様子を「倭女王の卑弥呼は鬼道を事(まつ)る」と記述する。ゆえに、舎人皇子は「3世紀前半に伊耶那美命(壱与)は生存した」と表現して「鬼の益卜雄」と詠んだのである。

舎人皇子は『古事記』編纂と『日本書紀』編纂を陣頭指揮し、最晩年の733年に葛城王(かつらぎおう/後の橘諸兄・たちばなのもろえ)兄弟に『万葉集』編纂を命じた。712年に完成した『古事記』上巻には朝廷が至上神と崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述されたため、『古事記』は元明天皇に献呈を拒絶される禁書(きんしょ)となった。ゆえに、720年に完成した『日本紀』(今日の『日本書紀』)は天照大御神の聖性を汚す記述を減らしたが原因で史実がアイマイ・中途半端となり、さらに【日本建国の〔愛〕の理念】が不明となる失敗作品となった。これゆえ、733年、舎人皇子は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために葛城王(橘諸兄)兄弟に『万葉集』編纂を命じたのである。

◆『万葉集』編纂を企画した舎人皇子の決意には山上憶良の死が関わっていた。
 『万葉集』巻六の978番「沈(おも)き痾(やまい)の時の歌」は、憶良が人生の最後に作った歌とされる。この和歌の添え書きを現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「右の一首は、山上憶良の病気が重くなったときに、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)が河辺朝臣東人(かわへのあそみあづまひと)を遣わして容体(ようだい)をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この歌を口ずさんだ。」
 「士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき 万代(よろづよ)に 語(かた)り継()ぐべき 名は立たずして」(『万葉集』978)
 上記の添え書きにもとづいて、この和歌を現代語に訳すると下記のごとくなる。
 〔わが主君の舎人親王は心無い役人たちに侮辱され、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている! 日本国が〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史を後世に残さんと戦う鬼の大夫(ますらを)の名は、万代まで語り継がれるべきなのに……。こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前(ふささき)公や政府がやっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で下劣で卑怯だ!〕
 天皇の補佐役の内臣(うちのうみ)・藤原房前の第3子が、添え書きに登場する藤原八束である。八束は河辺東人に、舎人親王を君主と仰ぐ憶良の容体を調べるように命じた。憶良は東人に容体を説明した後に沈黙して、7294月の太政官(だじょうかん)処分以来、政争に敗れて心無い役人たちに侮辱される日々を送る主君の姿をふと思い浮かべた。この瞬間、憶良の目には涙があふれ、その涙を拭きながら、東人と八束の背後にいる房前と聖武(しょうむ)天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌が口からもれた。憶良は重病に伏して主君をまもることができない状況を悲嘆した。憶良は憶良なりに命がつきる寸前まで天照大御神の聖性をまもるために日本国誕生史を抹殺せんとする律令体制に反抗を示し、そして最後の最後まで主君の舎人皇子を敬愛していたのである。
 正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の736(天平8)1111日の箇所には――733(天平5)、舎人親王と新田部(にいたべ)親王が葛城王兄弟に聖武天皇から「橘」の姓をたまわるようにするが、この「橘」の姓をもって「万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)える」ことにした。つまり「天照大御神の聖性を汚す記述を元明天皇に見抜かれて『古事記』は正史になれなかった。そこで、『日本書紀』は正史にすることを目的にして天照大御神の聖性を汚す事実の記述を少なくしたために、【日本建国の〔愛〕の理念】が不明になる失敗作品となった。この『日本書紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために、『古事記』の作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために聖武天皇を騙(だま)しておこなう勅撰(ちょくせん)和歌集『万葉集』編纂事業の陰謀を「橘」という姓を暗号に用いることにした。というのも『日本書紀』は天平八年(720)の陰暦五月つまり異称“橘月(たちばなづき)”に完成したゆえ(「橘月」については新村出編『広辞苑』岩波書店発行参照)、聖武天皇を騙しておこなう『万葉集』編纂の暗号名を「橘」とした。このように舎人親王と新田部親王は『万葉集』編纂事業を計画したが、葛城王兄弟はこの陰謀を引き受ける覚悟はあるかとたずねた。葛城王兄弟は「死をも覚悟して(『万葉集』編纂の陰謀を)やり遂げます」と決意を示して誓った――という複雑な事情が記述されている。
 上記したように、憶良の最後の作品の『万葉集』978番の3句目は「万代に」である。『万葉集』という書名となった7361111日の記事の「万歳に窮みなく、千葉に相伝える」という文は、憶良の和歌「万代に」から発想したにちがいない。ゆえに、死去する2年前の58歳の舎人皇子は憶良の辞世の和歌が動機となって、聖武天皇を騙して入手して葛城兄弟に与える姓の「橘」を「『万葉集』編纂」を意味する暗号にしたのである。
 皇室が至上神と崇拝した天照大御神の聖性をいちじるしく汚す日本国誕生史を後世に伝えるために『古事記』と『日本書紀』の編纂を陣頭指揮した舎人皇子の晩年は政争に敗れて、聖武天皇と藤原房前の卑怯な手段で心無い役人たちに侮辱される境遇となっていた。
 さらに、聖武天皇は舎人皇子の墓を作ることを厳重に禁じた。というのも、もしも舎人皇子の墓の築造を許可したならば、その墓記に必ずや「皇子の実父は天武天皇なり。皇子の養父は菟田(うだ)の高屋の住人大伴朴本連大国なり。皇子は誕生以来、高屋に住み庶民であった云々」と記されることになるからである。この墓記が後世に発見されれば、後世の歴史家たちは舎人皇子の生きざまを知って――日本国は伊耶那美命が〔愛〕の理念を掲げて誕生した、天照大御神は残忍な徇葬を決行した――という上古史の真相が明確となる。これを聖武天皇は畏(おそ)れて舎人皇子の墓の築造を厳重に禁じたのである。
 7351114日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の時代を生きた、日本古代史の希代(きたい)反逆児・舎人皇子は没した。享年60歳であった。

◆朝廷は失敗作『日本書紀』を利用し、『日本書紀』ができた直後から朝廷は講書(こうしょ/書物の講義)10世紀半ばまで約250年間も継続しておこない【日本建国の〔愛〕の理念】を掲げた日本国誕生史を隠蔽するために偽学問を捏造(ねつぞう)した。この偽学問を、今日の学者たちは「学問」であると思い込む。このため、本来ならば抹殺されて現存しなかったはずの『古事記』の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には歴史(日本国誕生史)が記述されたが、「日本国誕生史を抹殺するための政策であった講書」を「学問的研究」と思い込む今日の学者たちは『古事記』上巻の記事は歴史を伝えるものではなく物語であると断定する。
 朝廷の講書に協力して、天台宗比叡山は残虐非道な徇葬を決行した天照大御神は天台宗の本尊・大日如来(だいにちにょらい)であるとする神仏習合説を唱えて、日本国誕生史の消滅をはかった。このデタラメの神仏習合説によって、天台宗比叡山は皇室から多大な庇護(ひご)を受けて日本の宗教界に君臨(くんりん)した。
 『古事記』上巻の上古史に登場する天照大御神が仏の大日如来の生まれ変わりなんていう説はもとよりデタラメである。だから、学者たちは天照大御神が大日如来であったという神仏習合説は『古事記』上巻に記述された歴史を消滅するための虚偽工作であったことに気づくべきことになる。しかし、今日の学者たちは朝廷の講書と比叡山の天照大御神は大日如来であったとする神仏習合説にすっかり騙されて、『古事記』上巻は物語であって歴史を記述したものではないと断定する。

NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「『日本書紀』の壬申の乱の記事には、4日間で3万の兵が吉野方に集まった記述はまったく存在しない」という意見を根拠・理由にして作られた。しかし、『日本書紀』には「大海人皇子一行が吉野を出発した朝、甘羅村を過ぎると、大伴朴本連大国を首領とする二十人あまりの猟師と美濃の王と出会い、この一行を大海人皇子は召し上げた」と記述する。さらに、この記事は「4日間で3万の兵のうち、約24千の兵たちの首領は東海道・東山道の兵士たちを統率する大伴朴本連大国であった」と伝える。
 ところが、NHKテレビ「壬申の乱」に登場した司会の二人と歴史学者の二人と脳科学者と戦史研究家たちの討論は、『日本書紀』の壬申の乱の記事とは無関係のウソ八百・虚妄(でたらめ)・空想・空理空論を得意げに語る茶番劇であった。
 日本人の命と魂の根源である【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・侮辱するデタラメきわまりない、こんなひどい番組を放送して国民に受信料をオネダリするのはあまりにも虫がいい話で図々(ずうずう)し過ぎる。この際、受信料をタダにして、今後このようなデタラメを決して放送しないとNHKBSテレビは日本国民に誓うべきである。 

 

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2018年7月15日 (日)

日本嘆き訶(うた)

日本嘆き訶(うた)


ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらちゃらおかし
ウソをつくにも ほどがある
日本をバカにするにも ほどがある
学者たちの邪馬台国説と日本神話解説は
誤読、誤読デ、デッチあげた
まっ赤なウソの デタラメだぁー
この日本(くに)をマジでツブシにかかるデタラメだ 
図々しいにもほどがある

ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらちゃらおかし
ウソをつくにもほどがある
日本をバカにするにもほどがある
インテリたちの邪馬台国説と日本神話解釈も
誤読、誤読デ、デッチあげた
まっ赤なウソの デタラメだぁー
この日本(くに)をマジでツブシにかかるデタラメだ
無責任にもほどがある
ナミダちょちょぎれ 情(なさけ)けない
ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらおかし
ちゃんちゃらおかし ちゃらおかし

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2018年6月26日 (火)

漢字習得定説のウソ・18

●纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定できる

◆朝日新聞の渡義人氏・田中裕也氏の両記者が書いた2018514日の夕刊で「卑弥呼の時代示す桃の種? 奈良・纏向遺跡から出土 年代測定」と題して報道された――この奈良県の纏向(まきむき)遺跡邪馬台国説は【科学】を偽装する空理空論である。これについては確実に証明できる。
 翌15日の朝日新聞の朝刊でも、渡義人記者が「桃の種 邪馬台国と同時代? 奈良・纏向遺跡で出土 年代測定判明」と題して報道した。
 纏向遺跡邪馬台国説を主張する学者の方々は、歴史学の絶対原理や基礎原理を無視する。また、彼らは【科学】の定義を全く考慮しない。だから自分たちの意見が【科学】に反し、その実体が【誤読の空理空論】であることに気づかない。
 朝日新聞の514日の記事の初頭は「女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(14)年代測定を実施したところ、西暦135230年とみられることがわかった。市纏向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物群(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。」と記述する。
 この記事の末部は――一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する――と書く。翌日の記事の末部も――邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。市纏向研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は鉄製の素環頭太刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する――と書く。
 上記に示したごとく、朝日新聞の記者は「纏向遺跡の中枢部とみられる大型建物跡の近くで出土した桃の種の放射性年代測定にもとづいて、纏向遺跡が邪馬台国であった」という説は科学的な意見であると評価して記事を書いたであろうが、纏向遺跡邪馬台国説の実体は科学に反する不正行為を犯して偽りの歴史を捏造(ねつぞう)せんとする意見である。だから、上の記事は日本国民を騙(だま)す、ジャーナリストとして恥ずべきフェイクニュース(虚偽報道・デマ)ということになる。

◆これより、なぜ纏向遺跡邪馬台国説は歴史学の基礎原理を無視して偽(にせ)の歴史を捏造せんとする虚偽説であるかについて証明する。
 1990年に栃木県足利市で、当時4歳の女児が殺害された事件は「足利事件」と呼ばれた。栃木県警は、DNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅谷利和(すがやとしかず)受刑者の体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高裁は200964日、以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたことが証明されたと表明して、菅家さんを17年ぶりに釈放した。
 菅家さんが〔犯人〕とされた最大の根拠はDNA型鑑定であり、このDNA型鑑定を菅家さんが無罪を主張する言よりも優先・重視して栃木県警は捜査を進めたため、このような冤罪(えんざい)事件が発生した。
 纏向遺跡を邪馬台国と考える最大の根拠は放射性炭素年代測定であり、この意見は『魏志』倭人伝の幾つかの記事を【誤読=文献批判】して成立する。
 古代史家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つ調べ、[][]と誤記した例がないことを証明した。したがって、『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕の通称が「『魏志』倭人伝」であるゆえ、この『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国」と表記するので、卑弥呼は「邪馬台国」には居住していなかったことになる。また、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」と書く記事は1ヵ所も存在しない。
 さらに『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あるが、この15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えずに忠実に読解すると、卑弥呼は居住した地域は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆/現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。ゆえに、卑弥呼は纏向遺跡が存在する大和に居住していなかったことになるゆえ【誤読の空理空論】となる。
 DNA型鑑定によって菅家さんは犯人と決めつけられ、無罪を主張する菅家さんの言葉は無視されたため、事実を誤認する錯覚すなわち冤罪が生まれた。
 「菅家さんを犯人と決めつけた根拠のDNA型鑑定」を「纏向遺跡邪馬台国説の根拠となる桃の種の放射性炭素年代測定」に見立てて、また「菅家さんが無罪を主張した言葉」を「『魏志』倭人伝の(1)邪馬壱国と(2)15ヵ所の方位記事」に見立てれば――『魏志』倭人伝は「纏向遺跡がある大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない。邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と明記するゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の実体は【空理空論】ということになる。また、九州説も同様に【空理空論】となる。
 栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉をウソと決めつけた。纏向遺跡邪馬台国説を提唱する学者の方々もまた、『魏志』倭人伝の記事には幾つかの誤記があるにちがいない信用できないゆえ幾つかの〔文献批判(誤読)〕を加える考えこそが正しいとするが、この考え方は菅家さんの言葉を信用しなかったため事実を誤って冤罪を生んだ栃木県警と最高裁と新聞各社の考え方と同じことになる。
 
 2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】を同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。
 上記の朝日新聞の総括記事が明記したように〔科学的手法〕イコール【科学】ではなく、両者は別なるものである。
 纏向遺跡邪馬台国説は〔科学的方法(放射性炭素年代測定)〕イコール【科学】あるいは「正しい立論方法」と考える思い込みから生まれた錯覚・妄想である。
 要するに、『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝える。したがって、1ヵ所も〔文献批判=誤読〕を加える必要がない。だから、纏向遺跡邪馬台国説はじめ畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説等の全邪馬台国説が加えるすべての〔文献批判〕の実体は【誤読】である。だから纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。
 纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説が【誤読の空論】であることについては、わがブログ「漢字習得のウソ」シリーズの514回までで詳細に解説して証明した。

◆纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の(1)「邪馬壱国」という記事と(2)15ヵ所の方位記事や、その他の幾つかの〔文献批判〕を加えて立論する。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスの空想である」と決めつけたて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、トロイ戦争は事実であったと証明され、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる。
 また、後世の学者たちの意見は【科学】が成立せず矛盾点や不合理な点が生じ、一方、前人が作った文献の記述を信頼して調べてみると【科学】が成立し矛盾点も不合理な点も発生しない場合は、後世の学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見はたとえ科学的方法を用いる意見であっても【誤読の空想】であり、【妄想】であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 
 上記したように栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉を信用せずに虚偽とした批判が事実を誤る冤罪を生み、「トロイ戦争はホメロスの空想である」と考えた学者たちの〔文献批判〕の実体は【誤読】であった。この事例にもとづけば――『魏志』倭人伝に幾つかの〔文献批判〕を加えて、桃の種の放射性炭素年代測定は卑弥呼が生存していた時代に合致するゆえに纏向遺跡こそが邪馬台国であると主張する意見の実体は【誤読の空論】であり【空想、妄想】であることが確実となる。

学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に1ヵ所も〔文献批判(誤読)〕が加えなければ成立する〔卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びず、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理〕を〔荒唐無稽(こうとうむけい)の空想〕と決めつける。
 
 しかし、この卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は2世紀末から738(聖武天皇が全国に国郡図作成の命令が下した天平10)まで制定されていた。だから、『魏志』倭人伝15ヵ所の方位記事に最初に〔文献批判〕を加えた、その瞬間から事実を誤る虚偽が始まってのっぴきならない【誤読の空論】に陥(おちい)ることになる。
 
 『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に幾つかの【誤読】を加える全邪馬台国説の考え方では、玄界灘を倭の航海者たちは無事に往来できずに命を失ったことになる。
 
 原始時代以来、ヒトは「玄界灘」の[]の字源の「天頂緯度線・子午線」をキャッチすれば、1度の60分の11分の精密さで緯度が測定できた。ゆえに、原始から卑弥呼が生存した3世紀まで、下のA図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができたのである。
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 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして迷っていないと安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、原始から3世紀までの人々にとっては「[]のキャッチに失敗すること」は「死」に直結した。
 121年に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が時の安帝(あんてい)に上呈した字書の『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。ゆえに、[]の字源は「それ以上の上がない、最も高い天体部、すなわち天頂緯度線」であった。だから、[]の字源は、A図に示した「[]のキャッチによって測定できた天頂緯度線」であった。このため、人々の命(いのち)言いかえると生死は[]のキャッチによって決定されるものであったので、『古事記』上巻に記載する[]という字は「権力者や英雄たちをあらわす尊称(そんしょう)」となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のB図は[]の字源解説図である。[]のおける[]の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得」をあらわした。この[]の字源を『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる心得」をあらわした。

地球は円(まる)――だから、ヒトの脳にそなわる本能と眼力にそなわる呪力(じゅりょく/優れる能力)によって原始から3世紀までヒトの生死を決めたA図に示した[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部の水平線から出没する地点は東から45度の〔東北〕と西から45度の〔西北〕となった。つまり、精密に1分の緯度差を測定できた[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部は〔東〕から出現して〔西〕に没するのではなく、〔東北〕から出現して〔西北〕に没した。
 中国大陸と日本列島の中間の大海を組海中の倭人たちはA図・B図に示す[]の字源の「天頂緯度線」で1分の精度で緯度を測定するものであったゆえ、西に向かって魏都に到着せんとする時は緯度測定の基準とする天頂緯度線が没する〔西北〕へ目指して針路を取っていることになる。また、彼らは東に向かって故郷に帰還する時は緯度測定の基準となる天頂緯度線が出現する〔東北〕に目指して進んでいることになる――というのも地球は円いゆえ、半円形となる天頂緯度の軌道は水平線の〔東北〕の地点と〔西北〕の地点を結ぶことになったからである。
 上記のごとく、中国大陸と日本列島の中間の大海を航海中の倭人たちが故郷へ帰還する時には――天頂緯度線と重なる天体部が出現する〔東〕から45度の〔北〕の〔東北〕の水平線の地点を目標とすることになるので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方(かなた)にある日本列島は〔東〕が〔北〕となる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかそれとも〔北〕が〔東〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかと、遠く離れた日本列島の方角を決めかねて悩むことになる。同様に、大海原の倭国の航海者たちが〔西〕の水平線の彼方の魏都へ目指して針路を取っている時には――天頂緯度線と重なる天体部が没する〔西〕から45度の〔北〕の〔西北〕の水平線の地点を目標とするので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方にある魏都は〔西〕が〔北〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかそれとも〔北〕が〔西〕になる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかと、遠く離れた魏都の方角を決めかねて悩むことになる。
 倭の航海者たちはA図右上の「天頂緯度線」をキャッチすれば命を手に入れることができたので、彼らは卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回列島地理の知識を有するものであったとしても大海で位置(緯度)と方位が不明となって漂流せず、ただひたすら天頂緯度線の測定に専念すれば魏都にも到着でき、故郷へ帰還できたのである。
 前述したように、人間の頭脳にそなわる本能と眼力でキャッチしたA図の右上に示した[]の「天頂緯度線」は1分の精度で緯度を精密に測定できたが――大海を往来する航海者たちは水平線を越えまた水平線を越えて進んで到着できる中国大陸に対して、日本列島は〔東〕に伸びているのかそれとも〔北〕に伸びているのかあるいは〔南〕に伸びているのか非常に悩ましい問題となった。だから、倭の航海者たちは「日本列島は東へ伸びる」と断定できなかった。
 ゆえに、卑弥呼王朝がある確かな事実を根拠・理由にして「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理に対して倭の航海者たちは「誤っている」と反論できなかったので、その錯覚の転回日本列島地理を信じたのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の根拠・理由は後述する。

◆中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、「玄界灘(げんかいなだ)」という名の大海がある。この大海は「[]をキャッチすれば往来できる灘、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。だから、倭の航海者たちは水平線を越えさらに水平線を越えて大海を往来するとき、A図の右上に示した「天頂点と重なる天体部」が天頂点を通過する時の46秒間の軌道=天頂緯度線をキャッチして1分の精度で緯度を精確に測定していたことになる。これゆえ、倭の航海者たちは中国大陸や朝鮮半島に到着でき、そして日本列島に帰還することができた。
 下のC図に示す北極星を基準にすれば、日本列島は東へ伸びると決定することができる。しかし、北極星では1分の精度で緯度を測定できない。これゆえ、北極星で緯度を計測する航海者は大海原で位置(緯度)と方位が皆目(かいもく)不明となって漂流し、結局、渇(かわ)き飢えて命を失うことになった。
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 航海者たちは本能にもとづいて死ぬことを何よりも嫌った。だから、北極星で緯度を測定せず、北極星を基準にして日本列島地理を考えなかった。
 緯度は、C図に示す北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度を知り、この高度を緯度に換算する方法でも計測できたが――北極星を利用して天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと『魏志』倭人伝に「古(いにしえ)より以来、その使(つかい)が中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称した」という倭の航海者たちは必ず命を失うことになった。
 C図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、原始時代以来、人は命を失うことになった北極星で緯度測量をせず、人は1分の精度でキャッチできるA図に示した[]をキャッチできる頭脳にそなわる本能と眼力に命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物
(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 『魏志』倭人伝の時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、C図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかった。だから、当時の人々が大海を迷わずに命をまもる方法は、A図の右上の[]をキャッチする方法のみであった。

 中国では紀元前1世紀に北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末から3世紀半ばになると、従来の大海を往来する方法であった〔[]の天頂緯度線をキャッチする眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。〔[]の天頂緯度線をキャッチできる眼力〕は日々鍛錬しないと失われた。この「[]のキャッチ」は「原始や上古において、道なき広野や大海に道を作る術」であった。ゆえに、「[]のキャッチ」は要するに「道」ということになる。今日、武道家やスポーツ選手が「技術が最高・最良になるように鍛錬すること」を「道を極(きわ)める」と表現するが、この語は原始や上古における「[]をキャッチする眼力の鍛錬」に由来するものであったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部には「魏の正始(せいし)八年(247)に、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼は昔から、狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみくこ)と不和であった。そこで、女王は載斯烏越(そしあお)等を派遣し、帯方郡にゆかせて、狗奴国との攻防の様子を報告させた。そこで帯方郡は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越等が帰国する船に便乗(びんじょう)させて派遣し、前年に魏帝が与えると約束した詔書(しょうしょ)と魏軍の黄色い旗の黄幢(こうどう)を仮に倭の外相・難升米(なしめ)に授けた。(中略)。卑弥呼にすでに没したため、十三歳の時に女王となった壱与(いよ)を倭女王に即位させた。壱与は倭国の大夫で率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、帯方郡使の張政らを送り還(かえ)らせた」と説明する記事がある。
 上記の記事が示すように、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して[]をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が失われたために、2世紀末~3世紀半ばになると魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなくなった。このため、上記したように帯方郡の使節は倭の使節が帰還する船に便乗して倭地に到着し、役目を務め終わると朝鮮半島や中国に渡る倭の使節の船に便乗して帰還することになったのである。
 したがって、魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったが、倭の使節は玄界灘を往来して魏王朝や帯方郡政庁に倭国の様子を伝えることをできたゆえ、『魏志』倭人伝が著作された。纏向遺跡邪馬台国説は〔文献批判〕を用いて北極星を基準にすれば知ることができる東に伸びる日本列島地図の方位規定にもとづいて立論するが、当時の北極星は天の北極を中心にして1200分の円を描いていたために魏や帯方郡の使節はもちろん倭の使節も玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、纏向遺跡邪馬台国説の場合――魏・帯方郡と倭は外交をまったく結ぶことができず、魏では倭国の様子をまったく知らなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになる纏向遺跡邪馬台国説の実体は完全なる【誤読の空論】ということになる。また、『魏志』倭人伝は「倭の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡政庁に到着して外交交渉をおこなっていた」と明記するゆえ、上記の「北極星による緯度測量をおこなって玄界灘を往来できなかった」という設定、あるいは「北極星による緯度測量でも玄界灘を往来できた」と主張して【科学】を無視する設定は共に【空想】、【誤読の空論】ということになる。

◆魏や帯方郡の使節が往来できなかった玄界灘に、北緯3415分の沖ノ島が浮かぶ。
 日本地図を開くと――日本列島の西端に沖ノ島があり、日本列島の東端に伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する、D図に示すように、沖ノ島と神津島は共に北緯3414分で同緯度である。
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 『魏志』倭人伝の時代、沖ノ島と神津島が同緯度であることは、A図の右上に示した[]のキャッチならば測定できたが、C図に示した北極星では測定できなかった。
 沖ノ島では冬に雪が降るが、伊豆諸島の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。この日本列島の西端と東端にある両島の気候の様子をあらわすと〔西冷東暖〕ということになる。
 E図に示すように、中国北部の海岸線地域の気候は冷たいが南部の海岸線地域は暖かい。この中国の海岸線地域の気候をあらわすと〔北冷南暖〕となる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 結局、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は暖かい気候で合致するゆえ――『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事が今日に伝えるように、卑弥呼王朝は「日本列島の〔暖かい東端〕は中国の海岸線地域の〔暖かい南方〕へと伸びる」と定める錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 D図に示す沖ノ島は[]の字が付く玄界灘に浮かび、沖ノ島と神津島の同緯度は[]のキャッチならば測定できたゆえ、卑弥呼王朝はA図とB図で解説した[]のキャッチにもとづいて転回日本列島地理を制定したことになる。
 前述したように――地球が円いために緯度線は水平線・地平線の〔東北〕から〔西北〕を結ぶ線となった。A図の右上に示す[][]の字源「天頂緯度線」、この〔天頂緯度線が出現する水平線の東北の地点〕は〔東〕が〔北〕となるのかそれとも〔北〕が〔東〕をかねているのか判然(はんぜん)としない。しかし、卑弥呼王朝はE図に示した中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理によってその疑問が解決したと思い込み、東ではなく南に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 『魏志』倭人伝は日本列島地理について「その道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在()るべし」と記述する。
 F図に示すように、南に伸びる転回日本地理は中国の会稽(現在の浙江省の紹興市)と東治(現在の福建省福州市)の東にあるが、実際の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。
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 したがって、現在の日本地図の方位規定を立論基盤にして卑弥呼が居住した王国の所在地を主張する纏向遺跡邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。

◆現在の日本地図にも、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は史実であったと伝える転回日本列島地図の方位規定をあらわす地名が残っている。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のG図に示す北九州の佐賀県・長崎県の両県にまたがる東松浦・北松浦・西松浦と長崎県の東彼杵(ひがしそのぎ)・西彼杵という地名は現在方位の場合、東松浦は北にあり、北松浦は西にあり、西松浦は東松浦の南にして北松浦の東にあり、東彼杵は西彼杵の北にあって松浦と彼杵に冠する方位名がまったく不合理となる。
 G図下部に示す転回方位に則(のと)って〔西〕を〔北〕とすると松浦と彼杵に冠する方位名はすべて合理となり、『魏志』倭人伝が全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は史実であったと伝えている。
 G図に示すように、西松浦の東方に岩戸山(いわとやま)古墳がある。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』には「磐井君(いわいのきみ)」と題する記事がある。森貞次郎氏の詳細な研究によって、6世紀に反乱をおこした筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井の墓は岩戸山古墳であったことが解明され、定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓(岩戸山古墳)の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏は「六十丈」と「四十丈」は正確に一致しているが、ただ方位の「南北」と「東西」だけが入れちがっていると指摘した。しかし、「南北」と「東西」は現在の日本地図の方位だと入れちがって矛盾するが、転回方位だと正しいことになる。
 H図は明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)の日本列島地図の部分を示す概略部分図である。
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 H図の「混一疆理歴代国都之図」における誤った日本地図について、幾人かの学者たちは「中国では、古くから倭国(日本列島)は南北に連なる島々と考えられていた」と解釈され、卑弥呼王朝が制定した日本地図ではないとされる。しかし、この日本地図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致する。したがって、1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ蘇(よみがえ)る卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわす。なぜならば、G図に示した「松浦」と「彼杵」に関する方位名と岩戸山古墳の規模の「南北」と「東西」の入れ違いは倭国における地理の産物だからである。ゆえに、H図の日本地図は中国における古くからの地理観をあらわすものではなく、卑弥呼王朝が制定した誤った地理観であったと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝が記述する朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴()国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱(やまい)国までの旅程記事の距離と方位に1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 『魏志』倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。転回方位だと〔北〕が〔東〕となるゆえ、出雲の北方約40kmの日本海上に浮かぶ隠岐群島が「皆、倭種なり」ということになる。隠岐群島は島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の3島と最も大きな島の島後(とうご)と約180の小島からなるゆえ「隠岐群島の皆の島、倭種なり」ということになる。
 現在地理の方位規定を立論基盤とする纏向遺跡邪馬台国説には「女王国の東、海を渡る千余里の皆が倭種となる群島や諸島」が存在しない。また、この記事に合致する群島や諸島は畿内邪馬台国説にも九州邪馬台国説にも存在しない。したがって、纏向遺跡邪馬台国説も畿内邪馬台国説も九州邪馬台国説も【誤読の空論】ということになる。

◆以上のごとく、『魏志』倭人伝は女王国の名を「邪馬壱国」と記しているゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の『隋書』倭国伝に記される「邪馬台国」という名称が正しいという意見は誤読説であり、纏向遺跡邪馬台国説は15ヵ所の方位記事に多くの〔文献批判〕を加えるゆえ、その実体は【誤読の空論】ということになる。
 前述したように、足利事件において栃木県警と最高裁と新聞各社は菅家利和受刑者の言葉を信用せずに批判したため、事実を誤認した。同様に、纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の方位記事には誤りがあると信用しないで多数の〔文献批判〕を加える。このため、纏向遺跡邪馬台国説は事実を誤認する【誤読の空論】となった。
 前述したように、紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された約350年前の紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は歴史上の事実であった。これゆえ、学者たちの「トロイ戦争はホメロスが創作した空想である」という〔文献批判〕こそが【誤読の空想】となった。A図に示した〔[]のキャッチ〕によって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事には1ヵ所も〔文献批判〕を加える必要が無いことが明らかとなる。
 
 前述したように、古代史学には――前人が残した伝説や前人が作った文献に書かれた記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と文献批判して否定しても、また後世の学者たちが放射性炭素年代測定などの〔科学的方法〕を利用して立論しても、前人の記述に【科学】が成立し、〔文献批判〕を加えた後世の学者たちの意見が矛盾し不合理で【科学】が成立しない場合、前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる絶対原理が存在する。
 このような絶対原理が古代史学には存在するゆえ、放射性炭素年代測定を根拠・理由にあげ、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を加えて立論する纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定すべきことになる。
 【誤読】を多用する纏向遺跡邪馬台国説は「放射性炭素年代測定」という〔科学的方法〕を用いれば正しい意見になると見せかけて、『魏志』倭人伝に記述された【科学】が成立する事実を潰(つぶ)し捻()じ曲げる【空理空論】である。

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2018年6月21日 (木)

纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論」であると断定できる

●纏向遺跡邪馬台国説が【誤読の空論】である証明

◆朝日新聞の渡義人氏・田中裕也氏の両記者が書いた2018514日の夕刊で「卑弥呼の時代示す桃の種? 奈良・纏向遺跡から出土 年代測定」と題して報道された――この奈良県の纏向(まきむき)遺跡邪馬台国説は【科学】を偽装する空理空論である。これについては確実に証明できる。
 翌15日の朝日新聞の朝刊でも、渡義人記者が「桃の種 邪馬台国と同時代? 奈良・纏向遺跡で出土 年代測定判明」と題して報道した。
 纏向遺跡邪馬台国説を主張する学者の方々は、歴史学の絶対原理や基礎原理を無視する。また、彼らは【科学】の定義を全く考慮しない。だから自分たちの意見が【科学】に反し、その実体が【誤読の空理空論】であることに気づかない。
 朝日新聞の514日の記事の初頭は「女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(14)年代測定を実施したところ、西暦135230年とみられることがわかった。市纏向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物群(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。」と記述する。
 この記事の末部は――一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する――と書く。翌日の記事の末部も――邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。市纏向研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は鉄製の素環頭太刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する――と書く。
 上記に示したごとく、朝日新聞の記者は「纏向遺跡の中枢部とみられる大型建物跡の近くで出土した桃の種の放射性年代測定にもとづいて、纏向遺跡が邪馬台国であった」という説は科学的な意見であると評価して記事を書いたであろうが、纏向遺跡邪馬台国説の実体は科学に反する不正行為を犯して偽りの歴史を捏造(ねつぞう)せんとする意見である。だから、上の記事は日本国民を騙(だま)す、ジャーナリストとして恥ずべきフェイクニュース(虚偽報道・デマ)ということになる。

◆これより、なぜ纏向遺跡邪馬台国説は歴史学の基礎原理を無視して偽(にせ)の歴史を捏造(ねつぞう)せんとする虚偽説であるかについて証明する。
 1990年に栃木県足利市で、当時4歳の女児が殺害された事件は「足利事件」と呼ばれた。栃木県警は、DNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅谷利和(すがやとしかず)受刑者の体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高裁は200964日、以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたことが証明されたと表明して、菅家さんを17年ぶりに釈放した。
 菅家さんが〔犯人〕とされた最大の根拠はDNA型鑑定であり、このDNA型鑑定を菅家さんが無罪を主張する言よりも優先・重視して栃木県警は捜査を進めたため、このような冤罪(えんざい)事件が発生した。
 纏向遺跡を邪馬台国と考える最大の根拠は放射性炭素年代測定であり、この意見は『魏志』倭人伝の幾つかの記事を【誤読=文献批判】して成立する。
 古代史家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つ調べ、[][]と誤記した例がないことを証明した。したがって、『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕の通称が「『魏志』倭人伝」であるゆえ、この『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国」と表記するので、卑弥呼は「邪馬台国」には居住していなかったことになる。また、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」と書く記事は1ヵ所も存在しない。
 さらに『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あるが、この15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えずに忠実に読解すると、卑弥呼は居住した地域は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆/現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。ゆえに、卑弥呼は纏向遺跡が存在する大和に居住していなかったことになるゆえ【誤読の空理空論】となる。
 DNA型鑑定によって菅家さんは犯人と決めつけられ、無罪を主張する菅家さんの言葉は無視されたため、事実を誤認する錯覚すなわち冤罪が生まれた。
 「菅家さんを犯人と決めつけた根拠のDNA型鑑定」を「纏向遺跡邪馬台国説の根拠となる桃の種の放射性炭素年代測定」に見立てて、また「菅家さんが無罪を主張した言葉」を「『魏志』倭人伝の(1)邪馬壱国と(2)15ヵ所の方位記事」に見立てれば――『魏志』倭人伝は「纏向遺跡がある大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない。邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と明記するゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の実体は【空理空論】ということになる。また、九州説も同様に【空理空論】となる。
 栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉をウソと決めつけた。纏向遺跡邪馬台国説を提唱する学者の方々もまた、『魏志』倭人伝の記事には幾つかの誤記があるにちがいない信用できないゆえ幾つかの〔文献批判(誤読)〕を加える考えこそが正しいとするが、この考え方は菅家さんの言葉を信用しなかったため事実を誤って冤罪を生んだ栃木県警と最高裁と新聞各社の考え方と同じことになる。

 2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】を同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。
 上記の朝日新聞の総括記事が明記したように〔科学的手法〕イコール【科学】ではなく、両者は別なるものである。
 纏向遺跡邪馬台国説は〔科学的方法(放射性炭素年代測定)〕イコール【科学】あるいは「正しい立論方法」と考える思い込みから生まれた錯覚・妄想である。
 要するに、『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝える。したがって、1ヵ所も〔文献批判=誤読〕を加える必要がない。だから、纏向遺跡邪馬台国説はじめ畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説等の全邪馬台国説が加えるすべての〔文献批判〕の実体は【誤読】である。だから纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。
 纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説が【誤読の空論】であることについては、わがブログ「漢字習得のウソ」シリーズの514回までで詳細に解説して証明した。

◆纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の(1)「邪馬壱国」という記事と(2)15ヵ所の方位記事や、その他の幾つかの〔文献批判〕を加えて立論する。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスの空想である」と決めつけたて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、トロイ戦争は事実であったと証明され、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる。
 また、後世の学者たちの意見は【科学】が成立せず矛盾点や不合理な点が生じ、一方、前人が作った文献の記述を信頼して調べてみると【科学】が成立し矛盾点も不合理な点も発生しない場合は、後世の学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見はたとえ科学的方法を用いる意見であっても【誤読の空想】であり、【妄想】であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 上記したように栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉を信用せずに虚偽とした批判が事実を誤る冤罪を生み、「トロイ戦争はホメロスの空想である」と考えた学者たちの〔文献批判〕の実体は【誤読】であった。この事例にもとづけば――『魏志』倭人伝に幾つかの〔文献批判〕を加えて、桃の種の放射性炭素年代測定は卑弥呼が生存していた時代に合致するゆえに纏向遺跡こそが邪馬台国であると主張する意見の実体は【誤読の空論】であり【空想、妄想】であることが確実となる。

◆学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に1ヵ所も〔文献批判(誤読)〕が加えなければ成立する〔卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びず、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理〕を〔荒唐無稽(こうとうむけい)の空想〕と決めつける。
 しかし、この卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は2世紀末から738(聖武天皇が全国に国郡図作成の命令が下した天平10)まで制定されていた。だから、『魏志』倭人伝15ヵ所の方位記事に最初に〔文献批判〕を加えた、その瞬間から事実を誤る虚偽が始まってのっぴきならない【誤読の空論】に陥(おちい)ることになる。
 『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に幾つかの【誤読】を加える全邪馬台国説の考え方では、玄界灘を倭の航海者たちは無事に往来できずに命を失ったことになる。
 原始時代以来、ヒトは「玄界灘」の[]の字源の「天頂緯度線・子午線」をキャッチすれば、1度の60分の11分の精密さで緯度が測定できた。ゆえに、原始から卑弥呼が生存した3世紀まで、下のA図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができたのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして迷っていないと安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、原始から3世紀までの人々にとっては「[]のキャッチに失敗すること」は「死」に直結した。
 121年に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が時の安帝(あんてい)に上呈した字書の『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。ゆえに、[]の字源は「それ以上の上がない、最も高い天体部、すなわち天頂緯度線」であった。だから、[]の字源は、A図に示した「[]のキャッチによって測定できた天頂緯度線」であった。このため、人々の命(いのち)言いかえると生死は[]のキャッチによって決定されるものであったので、『古事記』上巻に記載する[]という字は「権力者や英雄たちをあらわす尊称(そんしょう)」となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のB図は[]の字源解説図である。[]のおける[]の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得」をあらわした。この[]の字源を『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる心得」をあらわした。

地球は円(まる)――だから、ヒトの脳にそなわる本能と眼力にそなわる呪力(じゅりょく/優れる能力)によって原始から3世紀までヒトの生死を決めたA図に示した[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部の水平線から出没する地点は東から45度の〔東北〕と西から45度の〔西北〕となった。つまり、精密に1分の緯度差を測定できた[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部は〔東〕から出現して〔西〕に没するのではなく、〔東北〕から出現して〔西北〕に没した。
 中国大陸と日本列島の中間の大海を組海中の倭人たちはA図・B図に示す[]の字源の「天頂緯度線」で1分の精度で緯度を測定するものであったゆえ、西に向かって魏都に到着せんとする時は緯度測定の基準とする天頂緯度線が没する〔西北〕へ目指して針路を取っていることになる。また、彼らは東に向かって故郷に帰還する時は緯度測定の基準となる天頂緯度線が出現する〔東北〕に目指して進んでいることになる――というのも地球は円いゆえ、半円形となる天頂緯度の軌道は水平線の〔東北〕の地点と〔西北〕の地点を結ぶことになったからである。
 上記のごとく、中国大陸と日本列島の中間の大海を航海中の倭人たちが故郷へ帰還する時には――天頂緯度線と重なる天体部が出現する〔東〕から45度の〔北〕の〔東北〕の水平線の地点を目標とすることになるので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方(かなた)にある日本列島は〔東〕が〔北〕となる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかそれとも〔北〕が〔東〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかと、遠く離れた日本列島の方角を決めかねて悩むことになる。同様に、大海原の倭国の航海者たちが〔西〕の水平線の彼方の魏都へ目指して針路を取っている時には――天頂緯度線と重なる天体部が没する〔西〕から45度の〔北〕の〔西北〕の水平線の地点を目標とするので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方にある魏都は〔西〕が〔北〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかそれとも〔北〕が〔西〕になる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかと、遠く離れた魏都の方角を決めかねて悩むことになる。
 倭の航海者たちはA図右上の「天頂緯度線」をキャッチすれば命を手に入れることができたので、彼らは卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回列島地理の知識を有するものであったとしても大海で位置(緯度)と方位が不明となって漂流せず、ただひたすら天頂緯度線の測定に専念すれば魏都にも到着でき、故郷へ帰還できたのである。
 前述したように、人間の頭脳にそなわる本能と眼力でキャッチしたA図の右上に示した[]の「天頂緯度線」は1分の精度で緯度を精密に測定できたが――大海を往来する航海者たちは水平線を越えまた水平線を越えて進んで到着できる中国大陸に対して、日本列島は〔東〕に伸びているのかそれとも〔北〕に伸びているのかあるいは〔南〕に伸びているのか非常に悩ましい問題となった。だから、倭の航海者たちは「日本列島は東へ伸びる」と断定できなかった。
 ゆえに、卑弥呼王朝がある確かな事実を根拠・理由にして「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理に対して倭の航海者たちは「誤っている」と反論できなかったので、その錯覚の転回日本列島地理を信じたのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の根拠・理由は後述する。

◆中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、「玄界灘(げんかいなだ)」という名の大海がある。この大海は「[]をキャッチすれば往来できる灘、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。だから、倭の航海者たちは水平線を越えさらに水平線を越えて大海を往来するとき、A図の右上に示した「天頂点と重なる天体部」が天頂点を通過する時の46秒間の軌道=天頂緯度線をキャッチして1分の精度で緯度を精確に測定していたことになる。これゆえ、倭の航海者たちは中国大陸や朝鮮半島に到着でき、そして日本列島に帰還することができた。
 下のC図に示す北極星を基準にすれば、日本列島は東へ伸びると決定することができる。しかし、北極星では1分の精度で緯度を測定できない。これゆえ、北極星で緯度を計測する航海者は大海原で位置(緯度)と方位が皆目(かいもく)不明となって漂流し、結局、渇(かわ)き飢えて命を失うことになった。
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 航海者たちは本能にもとづいて死ぬことを何よりも嫌った。だから、北極星で緯度を測定せず、北極星を基準にして日本列島地理を考えなかった。
 緯度は、C図に示す北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度を知り、この高度を緯度に換算する方法でも計測できたが――北極星を利用して天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと『魏志』倭人伝に「古(いにしえ)より以来、その使(つかい)が中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称した」という倭の航海者たちは必ず命を失うことになった。
 C図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、原始時代以来、人は命を失うことになった北極星で緯度測量をせず、人は1分の精度でキャッチできるA図に示した[]をキャッチできる頭脳にそなわる本能と眼力に命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物
(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 『魏志』倭人伝の時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、C図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかった。だから、当時の人々が大海を迷わずに命をまもる方法は、A図の右上の[]をキャッチする方法のみであった。

 中国では紀元前1世紀に北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末から3世紀半ばになると、従来の大海を往来する方法であった〔[]の天頂緯度線をキャッチする眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。〔[]の天頂緯度線をキャッチできる眼力〕は日々鍛錬しないと失われた。この「[]のキャッチ」は「原始や上古において、道なき広野や大海に道を作る術」であった。ゆえに、「[]のキャッチ」は要するに「道」ということになる。今日、武道家やスポーツ選手が「技術が最高・最良になるように鍛錬すること」を「道を極(きわ)める」と表現するが、この語は原始や上古における「[]をキャッチする眼力の鍛錬」に由来するものであったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部には「魏の正始(せいし)八年(247)に、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼は昔から、狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみくこ)と不和であった。そこで、女王は載斯烏越(そしあお)等を派遣し、帯方郡にゆかせて、狗奴国との攻防の様子を報告させた。そこで帯方郡は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越等が帰国する船に便乗(びんじょう)させて派遣し、前年に魏帝が与えると約束した詔書(しょうしょ)と魏軍の黄色い旗の黄幢(こうどう)を仮に倭の外相・難升米(なしめ)に授けた。(中略)。卑弥呼にすでに没したため、十三歳の時に女王となった壱与(いよ)を倭女王に即位させた。壱与は倭国の大夫で率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、帯方郡使の張政らを送り還(かえ)らせた」と説明する記事がある。
 上記の記事が示すように、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して[]をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が失われたために、2世紀末~3世紀半ばになると魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなくなった。このため、上記したように帯方郡の使節は倭の使節が帰還する船に便乗して倭地に到着し、役目を務め終わると朝鮮半島や中国に渡る倭の使節の船に便乗して帰還することになったのである。
 したがって、魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったが、倭の使節は玄界灘を往来して魏王朝や帯方郡政庁に倭国の様子を伝えることをできたゆえ、『魏志』倭人伝が著作された。纏向遺跡邪馬台国説は〔文献批判〕を用いて北極星を基準にすれば知ることができる東に伸びる日本列島地図の方位規定にもとづいて立論するが、当時の北極星は天の北極を中心にして1200分の円を描いていたために魏や帯方郡の使節はもちろん倭の使節も玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、纏向遺跡邪馬台国説の場合――魏・帯方郡と倭は外交をまったく結ぶことができず、魏では倭国の様子をまったく知らなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになる纏向遺跡邪馬台国説の実体は完全なる【誤読の空論】ということになる。また、『魏志』倭人伝は「倭の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡政庁に到着して外交交渉をおこなっていた」と明記するゆえ、上記の「北極星による緯度測量をおこなって玄界灘を往来できなかった」という設定、あるいは「北極星による緯度測量でも玄界灘を往来できた」という反科学的な設定は共に【空想】、【誤読の空論】ということになる。

◆魏や帯方郡の使節が往来できなかった玄界灘に、北緯3415分の沖ノ島が浮かぶ。
 日本地図を開くと――日本列島の西端に沖ノ島があり、日本列島の東端に伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する、D図に示すように、沖ノ島と神津島は共に北緯3414分で同緯度である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝の時代、沖ノ島と神津島が同緯度であることは、A図の右上に示した[]のキャッチならば測定できたが、C図に示した北極星では測定できなかった。
 沖ノ島では冬に雪が降るが、伊豆諸島の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。この日本列島の西端と東端にある両島の気候の様子をあらわすと〔西冷東暖〕ということになる。
 E図に示すように、中国北部の海岸線地域の気候は冷たいが南部の海岸線地域は暖かい。この中国の海岸線地域の気候をあらわすと〔北冷南暖〕となる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 結局、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は暖かい気候で合致するゆえ――『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事が今日に伝えるように、卑弥呼王朝は「日本列島の〔暖かい東端〕は中国の海岸線地域の〔暖かい南方〕へと伸びる」と定める錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 D図に示す沖ノ島は[]の字が付く玄界灘に浮かび、沖ノ島と神津島の同緯度は[]のキャッチならば測定できたゆえ、卑弥呼王朝はA図とB図で解説した[]のキャッチにもとづいて転回日本列島地理を制定したことになる。
 前述したように――地球が円いために緯度線は水平線・地平線の〔東北〕から〔西北〕を結ぶ線となった。A図の右上に示す[][]の字源「天頂緯度線」、この〔天頂緯度線が出現する水平線の東北の地点〕は〔東〕が〔北〕となるのかそれとも〔北〕が〔東〕をかねているのか判然(はんぜん)としない。しかし、卑弥呼王朝はE図に示した中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理によってその疑問が解決したと思い込み、東ではなく南に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 『魏志』倭人伝は日本列島地理について「その道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在()るべし」と記述する。
 F図に示すように、南に伸びる転回日本地理は中国の会稽(現在の浙江省の紹興市)と東治(現在の福建省福州市)の東にあるが、実際の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。
K576
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって、現在の日本地図の方位規定を立論基盤にして卑弥呼が居住した王国の所在地を主張する纏向遺跡邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。

◆現在の日本地図にも、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は史実であったと伝える転回日本列島地図の方位規定をあらわす地名が残っている。
K581
(C) 2018 OHKAWA
 
 上のG図に示す北九州の佐賀県・長崎県の両県にまたがる東松浦・北松浦・西松浦と長崎県の東彼杵(ひがしそのぎ)・西彼杵という地名は現在方位の場合、東松浦は北にあり、北松浦は西にあり、西松浦は東松浦の南にして北松浦の東にあり、東彼杵は西彼杵の北にあって松浦と彼杵に冠する方位名がまったく不合理となる。
 G図下部に示す転回方位に則(のと)って〔西〕を〔北〕とすると松浦と彼杵に冠する方位名はすべて合理となり、『魏志』倭人伝が全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は史実であったと伝えている。
 G図に示すように、西松浦の東方に岩戸山(いわとやま)古墳がある。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』には「磐井君(いわいのきみ)」と題する記事がある。森貞次郎氏の詳細な研究によって、6世紀に反乱をおこした筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井の墓は岩戸山古墳であったことが解明され、定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓(岩戸山古墳)の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏は「六十丈」と「四十丈」は正確に一致しているが、ただ方位の「南北」と「東西」だけが入れちがっていると指摘した。しかし、「南北」と「東西」は現在の日本地図の方位だと入れちがって矛盾するが、転回方位だと正しいことになる。
 H図は明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)の日本列島地図の部分を示す概略部分図である。
K582
 
 H図の「混一疆理歴代国都之図」における誤った日本地図について、幾人かの学者たちは「中国では、古くから倭国(日本列島)は南北に連なる島々と考えられていた」と解釈され、卑弥呼王朝が制定した日本地図ではないとされる。しかし、この日本地図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致する。したがって、1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ蘇(よみがえ)る卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわす。なぜならば、G図に示した「松浦」と「彼杵」に関する方位名と岩戸山古墳の規模の「南北」と「東西」の入れ違いは倭国における地理の産物だからである。ゆえに、H図の日本地図は中国における古くからの地理観をあらわすものではなく、卑弥呼王朝が制定した誤った地理観であったと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝が記述する朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴()国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱(やまい)国までの旅程記事の距離と方位に1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 『魏志』倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。転回方位だと〔北〕が〔東〕となるゆえ、出雲の北方約40kmの日本海上に浮かぶ隠岐群島が「皆、倭種なり」ということになる。隠岐群島は島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の3島と最も大きな島の島後(とうご)と約180の小島からなるゆえ「隠岐群島の皆の島、倭種なり」ということになる。
 現在地理の方位規定を立論基盤とする纏向遺跡邪馬台国説には「女王国の東、海を渡る千余里の皆が倭種となる群島や諸島」が存在しない。また、この記事に合致する群島や諸島は畿内邪馬台国説にも九州邪馬台国説にも存在しない。したがって、纏向遺跡邪馬台国説も畿内邪馬台国説も九州邪馬台国説も【誤読の空論】ということになる。

◆以上のごとく、『魏志』倭人伝は女王国の名を「邪馬壱国」と記しているゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の『隋書』倭国伝に記される「邪馬台国」という名称が正しいという意見は誤読説であり、纏向遺跡邪馬台国説は15ヵ所の方位記事に多くの〔文献批判〕を加えるゆえ、その実体は【誤読の空論】ということになる。
 前述したように、足利事件において栃木県警と最高裁と新聞各社は菅家利和受刑者の言葉を信用せずに批判したため、事実を誤認した。同様に、纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の方位記事には誤りがあると信用しないで多数の〔文献批判〕を加える。このため、纏向遺跡邪馬台国説は事実を誤認する【誤読の空論】となった。
 前述したように、紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された約350年前の紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は歴史上の事実であった。これゆえ、学者たちの「トロイ戦争はホメロスが創作した空想である」という〔文献批判〕こそが【誤読の空想】となった。A図に示した〔[]のキャッチ〕によって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事には1ヵ所も〔文献批判〕を加える必要が無いことが明らかとなる。
 前述したように、古代史学には――前人が残した伝説や前人が作った文献に書かれた記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と文献批判して否定しても、また後世の学者たちが放射性炭素年代測定などの〔科学的方法〕を利用して立論しても、前人の記述に【科学】が成立し、〔文献批判〕を加えた後世の学者たちの意見が矛盾し不合理で【科学】が成立しない場合、前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる絶対原理が存在する。
 このような絶対原理が古代史学には存在するゆえ、放射性炭素年代測定を根拠・理由にあげ、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を加えて立論する纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定すべきことになる。
 【誤読】を多用する纏向遺跡邪馬台国説は「放射性炭素年代測定」という〔科学的方法〕を用いれば正しい意見になると見せかけて、『魏志』倭人伝に記述された【科学】が成立する事実を潰(つぶ)し捻()じ曲げる【空理空論】である。

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2018年6月20日 (水)

漢字習得の定説のウソ・17

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・3
■日本国誕生史の目撃者となった建比良鳥命

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は7回~14回まで、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝を邪馬台国説のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)してしまったが、実は『魏志』倭人伝は1ヵ所も【誤読】を加えなければ倉頡(そうきつ)が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる第一級の重大な書物であったことを詳細に解説して証明した。
 また、わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回までで――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡が漢字を発明した」という伝説は事実であった――ことを詳細に解説して証明した。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る方法と原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想にちがいないと思い込んだ。この学者たちの思い込みと、さらに『魏志』倭人伝は邪馬台国論のために存在する書物であると定めて数々の【誤読の空論】が捻出(ねんしゅつ)されたために【漢字が銀河から作られた学術の門】が閉()ざされてしまったのである。
 上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕のうちの(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 倉頡が発明した書契、夏代の夏音文字、殷代の契文(けいぶん/甲骨文字)、周代(しゅうだい)の金文、その後の大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして楷書など――これら712年に『古事記』が成立した以前の古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた。この事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の日本神話研究は【誤読の空論】であると断定することができる。
 というのも、上記したように、幾つかの【誤読(文献批判)】を加えて『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えなければ倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる古文献だからである。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説し証明したように――『古事記』序は「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国が誕生された歴史はじめその他の説話に記述された上古の歴史の真相が明らかになる」と、歴史解明方法を説明している。しかし、現在、学者たちは誰一人、太安万侶(おおのやすまろ)が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史を知ることができる」と説明する歴史解明方法に従わずに立論するゆえ、学者たちの意見は【誤読の空理空想】であると断定できる。

◆『古事記』序が「〔音〕という注が付く夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された上古の歴史を知ることができる」と説明するとおりに【誤読】を加えずに読み解明する、『古事記』上巻は朝廷が崇拝する皇祖(こうそ)の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であったことになる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大御神は、伊耶那美命が高尾山古墳で伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という言で「日本国の国作りの柱を〔愛〕にしましょう」と唱えた、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して、多数の青年男女をころして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本軍の兵士と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那岐命は数人の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して伊耶那美命の棺(ひつぎ)を奪って逃走した。天照大御神は伊耶那美命の墓の警護にあたっていた倭の大軍を逃走する伊耶那岐命一行の追跡を命じた。伊耶那岐命一行は松明(たいまつ)に灯をつけて夜の熊野路を逃走した。倭軍はその松明の灯を目標にして追跡したが、この松明の灯は日本兵と熊野の戦士たちの伊耶那岐命・クーデター軍本隊が待機する場所へ誘導する伊耶那岐命の罠(わな)であった。伊耶那岐命一行は本隊が密かに隠れる現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に目指して逃走して合流して、倭軍が速玉大社の境内に到着するや伊耶那岐命軍は虚(きょ)をついて反撃した。数にまさると断然(だんぜん)有利と考えて油断した倭軍は罠にはまり、伊耶那岐命軍の反撃に面食(めんく)らって一挙にくずれ倭軍の兵士たちは一目散(いちもくさん)に必死に敗走した。
 かくして伊耶那岐命のクーデターは成功した。
 驚いたことに、天照大御神は大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地)から熊野速玉大社までの夜の森林で覆われる真っ暗闇の熊野路を歩き、伊耶那岐命を必死に追跡してきた。天照大御神は日本軍の兵士にとらわれて捕虜(ほりょ)となって、熊野速玉大社から約1km南の現在の神倉神社(和歌山県新宮市磐盾町)の御神体となる巨大な岩=千引石(ちびきのいわ/現在は“ごとびき岩”と呼ばれる)の伊耶那岐命の背丈よりもさらに高い洞(ほら/空洞)に居る伊耶那岐命の所まで連行された。
 伊耶那岐命の正妃は伊耶那美命、伊耶那岐命の第二后は伊耶那岐命の父とも結婚した継母の天照大御神であった。
 伊耶那岐命は千引石の前の洞で捕虜となって連行された天照大御神と対面した時、夫婦離縁の誓いを言い渡した。これを聞いた天照大御神は「あなたがこのような無法なことをおこすならば、あなたの国の〔愛〕を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)い祟(たた)って、狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子の頭を絞め殺す」と誓った。伊耶那岐命は「おまえがそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つように、亡き妻が唱えた〔愛〕を尊重する政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓した――と、上古史を伝えている。
 上記したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――(1)天照大御神がおこなった徇葬と、(2)伊耶那岐命が伊耶那美命の棺を奪って逃走して熊野速玉大社の境内で倭の大軍を撃破したクーデターと(このクーデターは、毎年26日の夜に、近在の男たちが千人以上も集まって松明片手に神倉神社の参道の石段をかけ下る「お燈(とう)祭り」となる)(3)現在、神倉神社の社殿が建つごとびき岩(千引石)の洞で伊耶那岐命は天照大御神に離縁を言い渡し、(4)天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟った(このため、熊野速玉大社の主祭神は伊耶那岐命、神倉神社熊野速玉大社の摂社(せっしゃ)となり、神倉神社の主祭神は神倉神社の社殿が建つ場所で離縁を言い渡された天照大御神である)――と、皇祖天照大御神の不名誉な歴史を記述する。
 『古事記』が著作された7世紀末~8世紀初頭頃、朝廷は天照大御神を国家の至上神の皇祖と崇拝して強大な国家権力の充実化をはかっていた。これゆえ朝廷は天照大御神の聖性を汚すことを厳重に禁じ、天照大御神を徳高い人物にして神格化する偽書の作成を、『古事記』編纂スタッフに欲求していた。したがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話においては、残酷な徇葬を陣頭指揮して、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚し、伊耶那岐命から離縁され、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟る呪(のろ)いを述べた倭女王の名を、そのまま「天照大御神」と表記できなかった。「天照大御神」と表記すれば『古事記』はただちに排除・抹殺(まっさつ)されるゆえ、編纂スタッフは元明(げんめい)天皇が献呈許可するように、朝廷の欲求とおりにしたがったと見せかけるために「天照大御神」を「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と表記した。しかし、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名にしても、伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の棺を奪ってクーデターを成功させて天照大御神を倭女王から失脚させた歴史は依然として明かで隠蔽(いんぺい)できないと解釈した元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶して以後抹殺(まっさつ)をはかった。
 このため、『古事記』序の末尾に「和銅五年正月廿八日」と明天皇に『古事記』が献上された年月日が記されているが、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』献上記事は削除(さくじょ)されている。『古事記』上巻は真実の歴史を伝える反逆の史書であったゆえ、その痕跡(こんせき)を朝廷は消滅しようとしたのである。

◆『古事記』が元明天皇に献上された712(和銅5)128日の翌713(和銅6)52日の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記事は「元明天皇が、全国に『風土記(ふどき)』の編纂を命じた」と伝える。
 元明天皇の『風土記』の編纂命令を要約すると――(1)郡・郷の地名に好き字(()き字をえらび2字で表記)をつけること、(2)郡内の物産の品目のリストを書きあげる、(3)農地の肥沃(ひよく)か否(いな)かの状況、(4)山川原野などの地名の由来、(5)古老たちが語る伝承や珍しい話を史籍(しせき)に載せて言上(ごんじょう)せよ――となる。
 上記の(1)(4)(5)は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための政策であったことを示し、伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史はじめ天照大御神が人民を苦しめ弾圧した歴史を後世に伝えないための対策であった。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念】を政治の基軸にかかげて人民たちに敬愛された伊耶那岐命と伊耶那美命の歴史と天照大御神への人民の抵抗・敵視・憎悪の歴史は、地名となり古老たちの話となって伝承されていたからである。つまり『古事記』上巻の夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる歴史は、地名となって保存され、また古老たちが伝説・民話にして口承(こうしょう)するものであった。だから、(1)朝廷にとって不都合な歴史を保存する地名を2字にして廃棄(はいき)せよと命令し、(4)山川原野などの地名と(5)古老たちの伝承を監視(かんし)するため、『風土記』を史籍(歴史書)にして地名と古老たちの伝承を記載して言上せよ(報告せよ)と――元明天皇は全国に命令したのである。
 太政官(だじょうかん)の命令によって全国の60余ヵ国から提出を求めた『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための史籍(歴史書の役目をはたす書籍)であった。しかし、そのほとんどは失われ、完全な写本の残るのは『出雲国風土記』の一ヵ国のみである。不完全な形で残った史籍もわずか『常陸国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』の4ヵ国分にすぎない。
 『古事記』はその上巻が真実の歴史を残すものであったゆえ完全な写本が残った。いっぽう、『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺する対策のための書籍であったのが原因で、全国60余ヵ国の『風土記』のほとんどが失われることになった。

「『魏志』倭人伝」とは陳寿(ちんじゅ)が著した「『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部の倭人条」の通称である。山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎(歴史編纂官)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 ゆえに、『魏志』倭人伝は3世紀に著作された。
 
学者たちは、わが国が最初に漢字を習得したのは6世紀ないし7世紀であると断定するが、3世紀に著作された『魏志』倭人伝には「倭には漢字が習得されていた」と明記する記事が2ヵ所存在する。
 最初は「倭において骨を灼()いて卜(ぼく)し吉凶を占う辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の如(ごと)くであった、つまり殷代の亀の甲羅に刻む契文(けいぶん/甲骨文字)の法の如くであった」という記事である。次に「魏の都・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁があった朝鮮半島の郡)・諸韓国で文書に用いる漢字(楷書)と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都国(いとこく)の港で点検し、確認して、楷書と卑弥呼の文字を正しく変換して」という記事である。
 わが国には文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字が習得されており、楷書も文字作成銀河各部を字源・字形・字義とするものであったために、伊都国の港では文字作成銀河を字書としてあつかい観察して、魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を文字作成銀河で点検し確認して正しく変換していたのである。
 ゆえ、漢字習得の定説は【誤読の産物】の虚偽・欺瞞(ぎまん)であったことになる。

◆前回のブログ「漢字習得定説のウソ・16」で、A図に示す、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場の封土(ほうど/盛り土)であったことを証明した。
K491
(C) 2018 OHKAWA

 B図に、高尾山古墳の規模をあらわした。
K492

(C) 2018 OHKAWA
 
 沼津教育委員会は出土した約2000点の土器にあって、西暦230年頃より新しい土器(250年頃の土器)が含まれていなかったゆえ、高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成したと発表した。高尾山古墳の後方墳の主体部の埋納(まいのう)施設から出土した230年頃の土器はわずかであり、同じ種類の土器はほとんど主体部の外(墳丘上)で出土していることから、主体部の埋納施設は250年頃に構築されたと沼津市教育委員会は推定した。
 
C図に、高尾山古墳の主体部から出土した遺物をあらわした。
K493

(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示した高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の銅鏡は、仙人の絵柄が破砕(はさい)されていた。この破砕鏡から東南に約1mと東に約1mの場所から「東海西部系土器」が見つかった。
 「東海西部」は「遠江、三河、尾張」である。
 D図は、高尾山古墳の主体部の遺物が埋設された250年頃から約10年後の260年頃、ちょうど1千万坪に作製された大鳥の地上絵である。
K541
(C) 2018 OHKAWA
 
 D図の大鳥の地上絵は、現在、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となる。
 D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって、(1)『古事記』序の冒頭は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏音文字の学芸が伝来し、前期縄文時代以来の約2000年間におよぶ文字作成銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造った伝統をうけつぐ縄文の芸術家たちによって夏音文字の学芸は習得された」と記述してあるという意見が正しい解釈となり、学者たちの解釈・意見は記事の表層をなでるだけの粗雑な【誤読の空論・空想】ということになる。また、(2)『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を記述する学術書であると証明される。さらに(3)D図の大鳥の地上絵と伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場となった沼津市の高尾山古墳によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事は史実を伝える記録であったと科学的に証明される。したがって、史実であることを解明できなかった本居宣長(もとおりのりなが/17301801)の解釈・意見を受けつぐ学者たちの意見・解釈は【誤読の空理空論】と断定すべきことになる。なぜならば、『古事記』序は、その全記事で「上巻に記述された歴史は、上巻に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる仕組みになっている」と歴史解明方法を語っているにもかかわらず、宣長と学者たちは『古事記』序が指摘する歴史解明方法を排除・無視して、歴史が解明できない方法で解釈するからである。

◆わたくしは20142月以後、D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。しかし、それ以前は「建比良鳥(たけひらとり)の地宜(ちぎ)」または「建比良鳥の地上絵」と名づけていた。というのも、細江町の大鳥の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と、その一族が作製したと証明できるからである。
 
C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」の一角は「遠江」である。だから、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神王朝を倒さんとして五人の王と九州の宗像王(むなかたおう)の六人の王は熊野本宮大社の旧社地の大斎原に須佐之男王朝を樹立するクーデターを計画した。しかし、このクーデターを聞きつけた臨終間際の伊耶那岐命は伊耶那美命との間に生まれた息子の須佐之男命を枕元に呼びつけて「おまえの母・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に背いてクーデターを決行するのか! クーデターの連鎖(れんさ)を断ち切るために吾は天照大御神の息子の天照大御神に天下を譲ったのだ」と怒って死去した。これゆえ、父の遺言をまもって須佐之男命はクーデターを断念したため、五人の王と宗像王の天照大御神母子の大和王朝を倒さんとしたクーデター計画は失敗した。遠江の豪族の建比良鳥命は宗像王が率いる7人の建比良鳥命の一人であった――と記述している。
 『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して歴史を解明せよ」という指摘にしたがうと、計381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事はA図に示した沼津市の高尾山古墳・浮島沼・愛鷹山(足高山)にて起きた日本国誕生史を伝えていることが【科学】が成立して証明される。
 C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」は「遠江」であるゆえ、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 このため、伊耶那美命を敬愛する天照大御神母子大和王朝を倒すクーデターに参加した遠江の建比良鳥命は日本国誕生史が後世まで保存されることを目的として、D図に示した卑弥呼の地上絵を『古事記』が完成する約450年前の260年頃から作製を開始して約30年後に完成した。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を「仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)に類して文字を作った」と説明する。
 上記の漢字起源記事中にある「天象」とは「文字作成銀河」を意味する。「地法」とは「天象(文字作成銀河)の各部位は東から西へと去るのに対し、中国の大地を流れる黄河と長江の二つの大河も水は逆向きに西から東へと流れ去り、また中国の海岸線の北部は東へ去るオス鹿の横顔に類似し、また中国の国土は東へ飛び去る鳥の姿に類似する」と意味した。
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 上のE図に示すように、「黄河と長江の水は西(上流)から河口がある東へと流れ去る」ゆえ、[]の三水偏となった。「中国の北部の廟島(びょうとう)列島はオス鹿の角、山東半島は東へ去る鹿の横顔」に見立てられて、正字[]の旁(つくり)部の上部の[鹿]となった。「山東半島を〔鳥の頭〕と見立てると、山東半島の付け根から南北の海岸線は〔鳥の翼〕に類似する」ゆえ、[]の旁部は[鹿][]の字が加えられることになった。したがって、[鹿]の字部は「東へ去る鹿の横顔と東へ飛び去る鳥の横顔」に相当する。
 上の漢字起源記事中の「鳥獣の文」は、倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。わがブログ「漢字習得定説のウソ・14」で解説・証明したように、倉頡は[]の字源・字形・字義は「十字の銀河」と定め、「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた全文字の母体」と定め、また「全文字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。そして[]の字源・字形・字義を「鬼の姿に似る銀河」と定め、「十字の銀河」を[(べん)]の字源・字形・字義と定めて、[]の下に[]を加える[]も文字を作った。このような[][]の作成定理が「鳥獣の文」ということになる。
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 また、F図に示すように、倉頡は「十字の銀河」と「頭が誕生する子の顔の向き」とE図の「中国の海岸線」との三者による合理を成立させるために[()][]の字を作った。この[][]の作成定理も「鳥獣の文」ということになる。
 上記した漢字起源記事中の「地宜」は「平面的に図化した地図の形」の意である。つまり、D図の卑弥呼の地上絵やE図の中国地図が「地宜」ということになる。

 D図に示した卑弥呼の地上絵は『易経』繋辞下伝が伝える倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理にもとづいて作成された地宜である。ゆえに、建比良鳥命とその一族は倉頡が死刑と定めた掟を破る大罪(たいざい)を犯したことになる。さらに、卑弥呼の地上絵は
天照大御神母子・大和朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じた日本国誕生史を伝えるものであったゆえ、天照大御神王朝に発見されたならば一族全員は処刑されて滅亡する大罪であった。しかし、この大罪を犯して建比良鳥命は卑弥呼の地上絵を作製し、後世の子孫も代々卑弥呼の地上絵の保存に努めたため、今日まで卑弥呼の地上絵は残ったのである。

◆D図の卑弥呼の地上絵内から7ヵ所の地点から9口の銅鐸(どうたく)が出土した。この9
口の銅鐸は、G図に示した[]をキャッチして1000万坪の卑弥呼の地上絵を作製に用いられた道具であった。
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――その証拠に、9口の銅鐸のうちほぼ完全な形で出土した銅鐸を選んで、その精密な模造鐸(もぞうたく)を造って、鐸身(たくしん/)の中に頭を入れて夜間に天頂緯度測量してみれば、銅鐸は[]をキャッチするために様々な工夫(くふう)が加えられた構造となる道具であったことが証明される。
 卑弥呼の地上絵内から出土した9口の銅鐸は近畿式と三河・遠江に多数分布する三遠式(さんえんしき)銅鐸であり、これら近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は「終末期銅鐸と分類され、その製作・使用年代は260290年と考えられている。だから、卑弥呼の地上絵は260年~290年に作製されたということになる。
 上記したように、山尾幸久著『魏志倭人伝』にもとづくと、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたことになる。
 ゆえに、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成された。
 同時代に作られた『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵によって(1)倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であったと断定した学説は空理空論、(2)33の小国名と幾つかの記事によって倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明され、(3)『古事記』序冒頭に記述されたように夏音文字の学芸はわが国に伝来し、皇室が政権基盤にし、独占管理して厳重(げんじゅう)に機密保持(きみつほじ)していた秘密、この三点は【科学】が成立して事実となる。
 したがって、新井白石より始まった邪馬台国説の立論基盤となる【文献批判】の正体は、正真正銘(しょうしんしょうめい)の【空論・幻想】であったことになる。

◆H図にも、D図の卑弥呼の地上絵を示した。
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 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の顔は「夏至の日の出の方向」を向き「卑弥呼の地上絵は夏音文字の学芸を保存する地上絵」であると表示する。言いかえると、「卑弥呼の地上絵」は『魏志』倭人伝に記述された「倉頡(そうきつ)が発明した文字作成銀河から漢字を作る方法と原理を保存する大鳥の地上絵」ということになる。
 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の経緯度原点A地点と滝峯不動尊(たきみねふどうそん)1分も狂わずに同緯度(北緯3448)である。ゆえに、この同緯度はG図の[]のキャッチをもって測量したことになる。
 I図に示した北極星では経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することはできない。
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 3世紀の北極星は天の北極から直径約20(半径約10)の円を画くものであったゆえ、約20度つまり約1200分の直径を画く北極星で1200分の11分の精度が求められる経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することは不可能である。
 だから、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度は、卑弥呼の地上絵内から出土した銅鐸で天頂緯度線をキャッチして測量したことになる。
 経緯度原点A地点の真東の滝峯不動尊から、春分の日の朝、太陽が昇る。“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。「朝律を立つるなり」という字源解説は「春分の日の朝、経緯度原点地の真東から太陽が出現する」と意味する。だから、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点地A地点と滝峯不動尊」は『説文解字』が「朝律を立つるなり」と解説する[]の字源をあらわす。『古事記』上巻の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を『日本書紀』の神代紀は「泉津平坂(よもつひらさか)」と表記するゆえ「比良=平(ひら)」となる。だから、H図に示す「平面的に図化した地図の形=地宜」が「比良」となる。卑弥呼の地上絵は「鳥の地上絵」であるから「鳥」となる。このように卑弥呼の地上絵は[]・「比良」・「鳥」と表示するゆえ、卑弥呼の地上絵は建比良鳥命によって作製されたと証明される。
 H図に示すように、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の経度軸から夏至の日の出の方角の29度に傾く線の交点は八幡宮となる。この三角測量を基(もと)に大小の三角形の網や鎖を形作って測量すれば、ちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を図化することができる。この卑弥呼の地上絵の地図作製原理は、現在の国土地理院の東京都港区麻布飯倉318に所在する旧東京天文台の子午儀の中心を経緯度原点にして、光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量をおこない、三角点の位置を決定する日本列島精密測地網地図の作製原理と同じである。
 だから、五帝時代初頭から夏代初頭までの約1000年のあいだ[]のキャッチで測量して作製された精密中国海岸線地図を夏代初頭に伝来した夏音文字の学芸がもたらすものであったゆえ、卑弥呼地上絵が作製されることになったのである。

図に示すように、卑弥呼の地上絵は(1)「大鳥の地宜」、(2)「都田川(みやこだがわ)の沖積(ちゅうせき)平野」、(3)「象の頭と鼻の形の地宜」の三区の地宜から成る。
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 J図にお示した三区の地宜を、下のK図では漫画風に表現した。
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 L図に、文字作成銀河のうちの北半分の形状を示した。
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 J図・K図の「都田川の沖積平野」はL図の「鬼の姿に似る銀河」に呼応し、「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし/無事に産道を通過して生まる子)」をあらわした。ゆえに、「都田川の沖積平野」は 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記述された伊耶那岐命が千引石の前で「吾は一日に必ず千五百の産屋が立つようにする」と宣誓した言をあらわした。したがって、「都田川の沖積平野」は伊耶那美命が高尾山古墳で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。
 J図・K図の「象の頭と鼻の形の地宜」は、L図の「北アメリカ星雲」が呼応する。
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 M図に示すように、[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は「北アメリカ星雲」を「象の顔・象の鼻」に相似すると見立てて、「象の姿」に図案された。[]の篆文形(てんぶんけい)は「北アメリカ星雲」の東隣の「激流の銀河」の図案である。白川静著『字統』は[]の契文形を「手と象とに従う。手を以て象を使役(しえき)する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と解説する。
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 []の字源解説において『字統』が指摘する「手」の字源銀河は、N図に示すように「北アメリカ星雲」に隣接する「鬼の姿に似る銀河」である。この[]の字源となる「鬼の姿に似る銀河」が、上記の[為]の字源解説に登場する「土木」の語源である。
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 O図に示すように「松の木」に見える銀河において、N図の[手]の字源=「土木」の語源の「鬼の姿に似る銀河」は「木の幹」となる。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」はM図の[]の契文形では「手と象(北アメリカ星雲)とに従う。手を以て象(北アメリカ星雲)を使役する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と、白川静著『字統』は解説したのである。

『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭は――卑弥呼と卑弥呼王朝の面々に伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述する。この記事に登場する「修理」の[]の字源を、白川静著『字統』は「攸(ゆう)と彡(さん)とに従う。攸は人の後ろから水をかけてあらう洗う形」と解説する。だから、J図における「象の顔と鼻の形の地宜」はK図の下部の矢印で示したように「象が浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の水を鼻に吸い込んで、後ろから大鳥の地宜に吹きかけて、大鳥の地上絵の南の羽が東になるように転回させる役目」があった。
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 P図の上図は、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の役目によって「〔南〕の羽を〔東〕になるように転回させた卑弥呼の地上絵」ということになる。
 P図の上図の「頭が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵」は下図の「地法の東へ飛び去る鳥の姿(海岸線)に包まれる中国地図」に相似する。
 「〔南〕を〔東〕に転回する」P図の上図は、F図に示した[]の字源「逆時計回りの〔南〕が〔東〕になる」をあらわす。
 P図の上図の右側に示すE図において「鹿と鳥の横顔」となった「山東半島」は〔東〕を向く。ところがP図の上図における「卑弥呼の地上絵の横顔」は〔北〕を向く。この「〔東〕が〔北〕を向く転回方位」もまた[]の字源「逆時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす。(なお、P図の上図における〔北〕を〔東〕の転回方位、つまり卑弥呼の地上絵の横顔から山東半島の鹿と鳥の横顔への転回方位は、F図に示した[]の字源「時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす)

◆P図の上図の〔北〕に横顔が向く卑弥呼の地上絵は、頭部が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵ということになる。
 卑弥呼の地上絵がある遠江の〔東〕には、A図に示した沼津市の高尾山古墳がある。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話冒頭は――是(ここ)に天(あまつ)神と諸(もろもろの)の命(みこと)は伊耶那岐命と伊耶那美命に
「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述するゆえ、上記したように「天つ神と諸の命」は「卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々」ということになる。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の呉の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 呉の黄竜2年・230年から22年まえの208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」
 C図の左側に示すように、高尾山古墳の主体部から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は『後漢書』倭伝に記述された「蓬莱の神仙の霊薬がある足高山」に目指して遠征してくるにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は、Q図に示す小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。
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◆上記したように、高尾山古墳の墳丘内から出土した土器は2000点に上ったが、西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は含まれていなかったゆえ――沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘は西暦230年頃に完成したと推定した。ゆえに、小国・日本の軍王の伊耶那岐命と小国・日本の女王伊耶那美命の結婚式は、結婚式場である高尾山古墳の墳丘が完成した230年直後、多分234年頃におこなわれたことになろう。
 また、C図の左側に示す「230年頃の東海西部系土器」は「黄竜2年・230年の呉の東鯷人国の遠征軍遠征の情報をキャッチして、小国・日本が誕生した」とあらわしていることになる。
 「230年頃の東海西部系土器」が示すように、東海西部・遠江の建比良鳥命とその一族は倭から派遣された小国・日本を防衛するための軍士であった。したがって、卑弥呼の地上絵を作製した建比良鳥命とその一族は日本国誕生史の目撃者であったことになる。
 J図に示した卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きいゆえ、L図に示した「北アメリカ星雲」と不釣り合いとなる。というのも、「象の顔と鼻の形の地宜」には、R図の左図に示す「わし座α星から夏の銀河の西南部」まが範囲となる「巨大な象の顔と鼻の形の銀河」をあらわす役目もあった。ゆえに、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きくなったのである。
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 R図の右図も同じ「わし座α星から夏の銀河の西南部像」までの範囲となる「巨龍の銀河像」である。「巨龍の顔と首がある、夏の銀河の西南部」は〔黄金〕に輝くゆえ、〔黄金」の「黄」と〔巨龍〕の「竜」で「黄竜」という元号をあらわす。だから、卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」は「黄竜2年・230年、呉の1万の水軍が日本列島に所在する東鯷人国へ遠征しようとした直後に、東鯷人国は滅亡して卑弥呼が統治する倭国に属する小国・日本国が誕生した」とあらわしていることになる。
 卑弥呼王朝と日本軍は呉の遠征軍は、紀元前3世紀に徐福一行が不老長寿の霊薬が採集できると思い込んだ蓬莱山・足高山(愛鷹山)へ目指して襲来する可能性が最も高いと予想して、足高山(愛鷹山)を日本軍防衛の軍事基地とした。
 だから、伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場は、『古事記』上巻の淤能碁呂説話の全記事に合致する高尾山古墳であったことになる。

◆これまで解説し証明してきたように、日本国誕生史を後世へ伝えるために、卑弥呼の地上絵には下記の3つの機能が備わった。
 (1)「漢字は銀漢から作られた字」であるから略して「漢字」と称された秘密を伝えてーーJ図に示した卑弥呼の地上絵は、L図の左上端の銀河からR図の右図の「さそり座α星」までが、辞理=文字作成銀河の範囲(上掲した文字作成銀河各部の名称図を参照)であると表示する。だから、卑弥呼の地上絵によって全漢字の字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状であった事実が科学的に証明される。
 (2)卑弥呼の地上絵には、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が表示された。というのも卑弥呼の地上絵の作製目的は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることであったからである。前述したように、J図の「都田川の沖積平野」が【日本建国の〔愛」の理念】を表示する。
 (3)卑弥呼の地上絵は、小国・日本は呉の黄竜2(230)の呉の1万の遠征軍が足高山(愛鷹山)・浮島原に来襲するにちがいないと――卑弥呼王朝と東鯷人(とうていじん)国王が予想して、伊耶那岐命が日本防衛軍の軍王として伊耶那美命が女王として小国・日本に赴任した歴史を表示する。J図の「象の顔と鼻の形の地宜」とR図に示した「黄金色に輝く巨龍の銀河」が「黄竜2年の1万の呉の日本列島の遠征」をあらわす。
 以上のごとく、『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史は解明できる」という説明は事実であったことになる。

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2018年6月14日 (木)

漢字習得定説のウソ・16

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・2
■沼津市の高尾山古墳が聖婚式場となった理由・根拠考
 
2008年、日本国誕生史の真相が科学的に証明できる遺跡が発見された。
 この遺跡は、A図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は東日本における最古で最大の、全長が約62mの前期古墳である。
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(C) 2018 OHKAWA

 なぜ、高尾山古墳が日本国誕生史を証明できる遺跡であるかというと――その立地状況と出土物は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の全記事に合致し、また日本国誕生史を伝える幾つかの確かな古文献の記事や遺跡に合致するからである。
 『古事記』序は、上巻に記述された歴史の秘密を解明する方法を説明する。
 この説明を要約すると「わが国に、その昔(後期縄文時代初頭/今から約4070年前)、夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は五帝時代初頭(5000年前)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成の方法と原理を伝えた。倉頡は銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める文字を考案したゆえ、『古事記』上巻に用いられる楷書(かいしょ)と〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換(へんかん)すれば真実の歴史が解明できる。というのも楷書も夏音文字と同じく倉頡が発明した漢字作成の方法や原理に則(のっと)って作られたからである。これゆえ楷書〔日下(にちげ)〕と夏音文字〔玖沙訶(くさか)〕は同義、楷書〔帯(たい)〕と夏音文字〔多羅斯(たらし)〕は同義とあることを序の末部に記した。この事例をもって、夏音文字と楷書は倉頡が発明した漢字作成の方法と原理に則って作られた事実と、夏音文字がわが国に伝来し習得された事実を伝えるものである。その証拠に、上巻に用いられた夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば日本国が誕生した歴史の真実を後世の人々が知ることができる」と説明していることになる。
 このような『古事記』序が説明する上巻に記述された歴史解明方法にしたがえば、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する。
 『古事記』上巻は大和朝廷にとってきわめて不都合な歴史、つまり皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であった。このため、『古事記』編纂(へんさん)スタッフは朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止する日本国誕生史の真相を、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば解明できるという、手がこんだ仕組みにしたのである。
 現在の学者たちは、上記した(1)『古事記』序が説明する〔歴史解明方法〕を無視し排除(はいじょ)するだけでなく、さらに(2)『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史と上古史をわれわれから奪(うば)う。
 多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるかもしれないが、『古事記』は高尾山古墳について「伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封(ほう)ぜられて結婚した会場」であったと伝えている。ゆえに、高尾山古墳は「封土(ほうど)」いいかえると「盛土(もりつち)」つまり「結婚式場にして、土地神を祭るために造った盛り土」であったことになる。

◆A図に示したように、高尾山古墳周辺には、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する。
 沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した約2000点の土器には西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は出土しなかったので、墳丘は230年頃に完成したと推定した。
K492
(C) 2018 OHKAWA
 

また、B図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部から出土した33点の鉄の鏃(やじり)の年代は250年頃のものと推定して、沼津市教育委員会は高尾山古墳の主体部は250年頃に製作されたと発表した。
K493
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示す高尾山主体部における、250年頃に作られた33点の鉄鏃が集中して出土した箇所を示した。
 高尾山古墳の墳丘が完成したとされる230年は、呉の黄龍(こうりゅう)2年である。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 230年から8年前の202年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の呉の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 豊富な資料と正確な考証(こうしょう)によって正史と同様に史料価値が高い良書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は呉軍の遠征目的について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す」と書く。つまり、当時の魏・蜀・呉の三国の天下取りの状況にあって、魏に対して人口が約半分であった呉の遠征目的は日本列島に所在する夷州・亶州の人民を捕虜(ほりょ)にして呉の兵士の人数を増やすための人狩り作戦であったと――『資治通鑑』は明記している。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」

◆C図の高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡(はさいきょう)の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」より約1m東と東南の箇所から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は東鯷人国に襲撃して人狩りをおこなうにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。

◆『古事記』が完成する10年前の702年、国号を「倭国」から「日本国」に改変する承認を唐王朝から得るために、第7回の遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。このときにおこなった遣唐使の小国・日本と倭国についての説明が、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記され、下記の文から小国・日本は、D図に示す東日本(現在の静岡県中部・東部、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県)であったことになる。
K494
(C) 2018 OHKAWA
 
 『旧唐書』倭国日本伝は、日本国の面積や位置を「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。(中略)。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と記述する。
 『新唐書』日本伝は、日本国の面積や位置を「国日の出ずる所に近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の幷(あわ)す所となる」と記述する。
 ゆえに上記した『旧唐書』の「その国日辺にある」という文と『新唐書』の「国日の出ずる所に近し」という文が示すように、D図に示した東日本が小国・日本であり旧東鯷人国であったことになる。
 小国・日本の範囲(はんい)を旧国名であらわすと、E図のごとくになる。
K495
(C) 2018 OHKAWA
 
 日本軍は黄竜2(230)に東鯷人がキャッチした情報にもとづき、呉の遠征軍の兵士は1万と想定して防衛戦略を考えたにちがいない。この1万の呉軍に対抗できる兵士の数を、E図に示した小国・日本の海岸線の全域に配置すると10数万余の兵士が必要となろう。ところが日本列島においては過去に大規模の戦争がおきていないうえに、倭においては卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国という脅威(きょうい)もあったために倭から派遣される兵士の数も限られていた。ゆえに、日本軍の兵士の総数は1万よりも少なかったと推測される。このため、日本軍は、呉軍の上陸地点が最も可能性が高い地域を限定して防衛戦略を考えたにちがいない。この日本軍が予想した防衛拠点が、A図に示した静岡県東部であったのである。

◆上記したように、『三国志』呉書孫権伝は「1万の呉の遠征軍に、夷州及び亶州を求めるようにした」と記述する。『魏志』倭人伝は「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人条」を省略した通称であるゆえ、「東夷」からして呉軍は夷州を――東鯷人国の東部に所在すると考える――と推測したにちがいない。
K496
(C) 2018 OHKAWA
 
 F図に示すように、伊豆半島沖にまで航海してきた呉軍は――夷州は相模湾側に所在する――と日本軍は推測した。そして呉軍の船団の先頭の船には遠目(とうめ)が利()く兵士たちが乗っていたにちがいないゆえ、伊豆半島沖から遥かに遠くにある富士山をキャッチすることになる。富士山は〔灸で療治(りょうじ)するときに用いる蓬(よもぎ)から作った艾(もぐさ)の形〕に相似するゆえ、徐福一行が不老長寿の霊薬を求めた蓬莱山は富士山と考えて呉軍は駿河湾を北進することになる。この呉軍の船影は足高山山麓の軍事基地の日本軍の兵士たちがとらえることができるゆえ、日本軍はいちはやく戦略とおりの陣容(じんよう)を整(ととの)えることができた。
K501
(C) 2018 OHKAWA
 
 呉軍は東鯷人国の様子を船上から知ろうとして伊豆半島の西海岸を横目(よこめ)に見て足高山を正面にとらえて駿河湾北進するにちがいないので、その景色は――G図に示すように、足高山の上に富士山が乗る形となる。この「富士山が足高山の尾根に乗る光景」は「亶州」の[]の字形をあらわす。わが国の古代中国漢字の第一人者とされる故・白川静博士が著作する『字統(じとう)(平凡社発行)[]の字形を「下部は建造物の下壇(
だん)、上部は廩蔵(りんぞう)の形で、神倉の象」と解説する。
 下の写真における手前の山が「足高山」であり、足高山は〔家の屋根の形〕に相似するゆえ、「足高山」が[]の「下部の建造物の土壇」に相当し、「足高山の上に乗る富士山」は[]の「上部の神の倉」に相当する。
 旧称「足高山」は、186033日に井伊直弼大老が桜田門外で刺殺(しさつ)された時には「愛鷹山」と表記されていた。
A

▲駿東郡清水町から見た富士山と足高山(愛鷹山)

 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説したように、『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話に「久美度邇(くみどに)」という4字の夏音文字であらわされた。この「久美度邇」とは――東海道線の鈍行に乗って富士市の吉原駅から東京へ目指す進行方向から左側(北側)の車窓から富士山を眺(なが)めると、[]の「下部の建造物の土壇」に相当する「愛鷹山の尾根」の上に乗る「上部の神の倉」の「巨大な富士山」が愛鷹山の尾根に沿って東へ東へとあろうことか!滑(すべ)るように富士山が移動して見える神秘的な光景――この光景のことである。
 現在の浮島沼は3世紀の浮島沼よりずっと小さい。現在の浮島沼から見た富士山は愛鷹山(足高山)の尾根に裾野を隠して西側に所在する。この地点から東へ向かうと――G図に示したように、富士山は足高山の尾根に沿って東へ東へと移動して、沼津の東の三島では上掲した清水町の写真と同じく富士山は浮島沼の反対側=足高山の尾根の東側に所在する。このように夏音文字「久美度邇」という語は、G図に示した「富士山が足高山の尾根に沿って東へ滑るように移動する、神秘的な光景」のことである。
 「久美度邇」の後には「興而(おこして)」の2字の楷書が続く。白川静著『字統』は[]の字について「地霊をよび興(おこ)すことをいう」と解説する。G図の下部に示した「同緯度(北緯3501)の大瀬埼(おせざき)と淡島(あわしま)」が[]の字義「地霊をよび興す」をあらわす。だから、「大瀬崎と淡島」は「日本軍を守護する土地神(地霊)」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「大瀬崎と淡島」について「しかれども久美度邇興して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島を生む。是()もまた子の列(かず)に入れざりき」と記述する。この文中に登場する「水蛭子」は「現在の沼津市の大瀬崎」のことであり、「淡島」もちろん「現在の沼津市の淡島」である。
 「浮島沼」という地名は、日本誕生史の秘密を現在に伝える。上記述したように、優れた史書と高く評価される『資治通鑑』は、黄竜2年の1万の呉軍の東鯷人国遠征について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す(東鯷人を俘にして呉軍の兵士の数を増やそうとした)」と記述する。[]の人偏を三水偏に変えると[]となり、『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字を「氾(うか)ぶなり」と解説し、白川静著『字統』は「氾は浮屍(ふし)の象」と解説する。「浮屍」とは「水に浮かぶ人間の死体」のことであり、「日本軍が呉軍の多くの兵士たちの死体を浮かべようとした、島(足高山を湖に浮かぶ島と見立てた)の南の沼」を省略した地名が「浮島沼」であったことになる。

◆『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀の末部に――伊弉諾尊(いざなきのみこと)は「日本は浦安(うらやす)(平安な)国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足(ちた)(具備した)国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)〔秀真国、これを袍図莽句儞(ほつまのくに)という〕である」と仰せられた――という記事がある。
K502
(C) 2018 OHKAWA
 
 上の記事に登場する「磯輪上」とは、H図に示すように「〔南〕を上にすると、房総半島の海岸、東京湾、相模湾、駿河湾の磯が輪のようになる」ことを指している。
 「袍図莽国(句儞)」の[]の字は「衣(布の袋)で包む」を意味し、[]は「はかりごと、戦略」のことであり、[]は「野原を全力で走る犬」を意味した。つまり「袍図莽」とは「もしも呉軍が相模湾に向かったならば、浮島沼・足高山の日本軍の精兵は荒原を全速力で走る犬のごとく東京湾に向かって駆けつけ、武蔵や上総の軍は浦賀水道を塞(ふさ)ぎ、呉軍を東京湾で[]つまり袋の中のネズミのごとく包みこんで滅ぼす戦略」をあらわした。したがって、[]は「浮島沼で、呉軍の船団を袋の中のネズミにして滅ぼす」をも意味したことになる。
K503
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図の下に示した「久美度邇興しての水蛭子・大瀬崎」の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を、I図に示した。大瀬崎の地宜は海岸線からわずか数mの所に塩分がまったく含まれない「神池(かみいけ)」と呼ばれる、真水をたたえて多数の魚が生息する神秘的な池がある。この「神池」は「蛭が血を吸う吸盤の形」に相似する。チスイビルは体の5倍の血を吸い、ヤマビルは体の11倍の血を吸う。したがって、神池は「呉軍より数が少ない日本軍の兵士に、蛭(チスイビル、ヤマビル)のごとく数倍の呉の兵士を殺せ」と闘争心を奮(ふる)いたたせることに役立った。また「大瀬崎の磯が輪になって囲む神池」は、文字を知らない日本軍の兵士たちに[]の「呉軍を浮島沼あるいは東京湾に進入させて袋の中のネズミのごとくして、日本軍が攻撃する戦略」を理解させるのに役立った。また、大瀬崎の東にある淡島は文字を知らない日本軍の兵士たちに「呉軍が東方の東京湾に向かって進んだならば、浮島沼・足高山の本隊が荒野を全速力で走る犬のごとく駆けつける」という[]の戦略をあらわして、日本軍の全兵士が心を一つにして戦う戦法を理解させる役目を有した。また、海に浮かぶ淡島は乳房や妊婦のおなかのような形をして伊耶那美命が高尾山古墳における結婚式でとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】をも表現した。ゆえに、倭から派遣された兵士と旧東鯷人国の兵士とで組織された日本軍の兵士たちは熱烈に伊耶那美命に憧れたゆえ、淡島によって兵士たちのあいだに心を一つにして戦う団結力が生まれた。だから、『古事記』上巻にある「久美度に興して」という語は「水蛭子・大瀬崎と淡島は日本軍を守護する土地神(地霊)となった」と伝えていることになる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 J図に示す浦賀水道は、日本軍が呉の遠征軍を[]「袋の中のネズミ作戦」で滅ぼすと戦略を立てた東京湾への入口となる重要な場所である。この浦賀水道は、足高山の山頂と同緯度(北緯3512)である。だから、日本軍の本隊は呉の遠征軍が上陸する可能性が高い足高山に配備され――この足高山の頂上はもしも東京湾へ向かって呉軍が針路をとったならば足高山の本隊の兵士たちが東京湾に向かって全速力で走って駆けつける作戦を表示することになった。この作戦は、G図に示した「久美度邇興して」とH図に示した[]の字で示された。

◆『魏志』倭人伝には方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、K図に示すように日本列島の東は南へ伸びて時計回りに90度方位が転回する。
K511

(C) 2018 OHKAWA

 上のK図が示す「時計回りに90度転回する方位規定」は[]の字源となり、この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡から起源した。これについては、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回にて詳細に解説して証明した。
K512
(C) 2018 OHKAWA
 
 L図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候区であるが、沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の東端の神津島(こうづしま)は亜熱帯地区であるゆえ冬になっても雪が降らない暖かい気候区である。ゆえに、日本列島は〔西冷東暖〕となる。中国の北部の海岸線地域は冷たい気候区、南部の海岸線地域は暖かい気候区である。ゆえに、中国の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。したがって、日本列島の〔西冷〕と中国の海岸線地域の〔北冷〕は冷たい気候区で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国の海岸線地域の〔南暖〕は暖かい気候区で一致する。だから、「日本列島の〔東〕は中国の海岸線地域の〔南〕に伸びる」という転回日本列島地理を、卑弥呼王朝は制定(せいてい)したのである。
 倉頡が考案した[()]の字は「〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕とする方位規定」はあらわすことになって、この「転回方位」を[]の字が受け継いだ。ゆえに、K図の転回日本列島地理を制定した卑弥呼が治める国家名は「倭国」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「淤能碁呂」という4字に〔音〕という注をつけて「夏音文字である」と指摘する。[]の字義は「泥(どろ)」であり、「日本列島の地底は海水で泥状になる」と意味した。[]の字義は「熊(くま)」で「冬ごもりする熊の巣は横穴(よこあな)と縦穴(たてあな)があるが、その横穴を縦穴になるように時計回りに90度転回する」と意味した。[]はK図に示す「碁石(ごいし)のような小さな転回日本列島の緯度基点地となる沖ノ島と神津島」である。[]は「沖ノ島と神津島と、両島を結ぶ同緯度線」をあらわす。つまり、伊耶那美命と伊耶那岐命が封ぜられた日本国は倭国に属する小国であったゆえ、[]の「転回方位」をあらして「淤能碁呂島」と表記されることになったのである。その証拠に、淤能碁呂聖婚説話は「伊耶那岐命と伊耶那美命の二人は天浮橋(あめのうきはし)と名づけられた所に立ち、そこから天沼矛(あめのぬほこ)と呼ばれる矛を指しおろして、塩を許々袁々呂々(こおろこおろ)と画()き鳴らして、その矛の先端から垂(したた)り落ちる塩が積もり重なって島となった。これが淤能碁呂島である」と説明する。
 K図の右側に示したように、世界でも最高級の速度となってゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に渦を巻く鳴門の渦潮は転回日本列島地理(淤能碁呂)の緯度基点地となる沖ノ島と神津島と同緯度である。ゆえに、伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本に赴任(ふにん)する前に倭地にて、塩分の濃い鹹水(かんすい)を塩焼き所で煮沸(しゃふつ)する塩水に「天沼矛」と名づけられた矛を指しおろしてこおろこおろと渦を画(えが)いて鳴らす転回日本列島地理を演出する淤能碁呂儀式をおこなったことになる。
 淤能碁呂島聖婚説話に登場する「天沼矛」は「浮島沼の形をした矛」の可能性があり、また「島」という語は「浮島沼」の「島」をあらわしていると思われる。

◆黄帝と倉頡が生存した五帝時代、また卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀においても、M図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
K513

(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望した未曾有の国難」、すなわち「1万の呉軍の来襲」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源解説字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと原始や上古の人々は必ず命を失うことになった。
K514
(C) 2018 OHKAWA
 
 N図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、M図に示した[]をキャッチできる眼力に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[(えき)]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀、N図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はM図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。
 前述したK図右側に示した日本列島の東西の端にある神津島と沖ノ島の同緯度はM図の[]のキャッチによるものであり、N図に示した直径約1200分の円を描く北極星では測量不可能であった。したがって、3世紀においては北極星で測量すると道に迷って命を失うことになったから方角や緯度を知る目星ではなかった。ゆえに、K図に示した[]の字源「転回方位規定」をあらわす淤能碁呂島・転回日本列島地理は、当時において、真実であると断定されることになったのである。また、[]は「天の神が地上の人々を祝福して多数の禾(/穀物)を与える」とあらわす字でもあったので、淤能碁呂島・転回日本列島地理は真実であると確信されることになったのである。

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると――黄帝や倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、O図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「十字の銀河」がめぐってきた。つまり、当時、「十字の銀河」は中国各地の天頂緯度を測量する羅針盤(らしんばん)となって人々の命をまもった。
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 O図に示したように、「十字の銀河」には妊娠(にんしん)した女性の〔乳房〕に相似する箇所や〔子宮〕に相当する箇所があるので、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。というのも、黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったといわれ、黄帝は女性の生殖器(せいしょくき)・子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道を通過して出産する胎児の研究をおこなったからである。それ以前の三皇(さんこう)時代(紀元前4000年頃~紀元前3000年頃)に考案された易に用いられる記号では、黄帝の医学研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡は黄帝の研究をあらわす文字を銀河各部の形状から作る方法を発明することになったのである。
 倉頡は、P図に示す「娩出期(べんしゅつき)における、頭が生まれる子が母体の背を正面として生まれる様子」を注目した。
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 Q図に示すように、倉頡は「全文字の母体」と定めた「十字の銀河の股(また)の部分の〔南〕に、P図に示した〔頭が誕生する子の姿〕をあてはめた。
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 そうすると、子は〔東〕を正面として誕生することになるので――Q図の場合、「中国の女性たちが生む子は中国大陸の〔東の大海〕に生まれる」ということになる。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を「全文字を生む母体」と定める漢字作成原理には不合理が生じることに気づいた。
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 それゆえ、R図に示すように、倉頡は「中国の人々は〔大海の西側の大陸〕で生まれる」をあらわす[()]と、「娩出期における頭が誕生する出産児の様子」にもとづいて〔大海の西側で多数の子どもが生まれる〕をらわす[]の字を考案することにした。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔西〕となる、つまり時計回りに方位が90度転回する規定」をあらわし、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔東〕となるがごとく、時計回りの逆の方向に方位が90度転回する規定」をあらわすことになった。
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 S図に示すように、倉頡が考案した[]の字形は「いね()の穂が十字の銀河の〔南〕から〔東〕へ垂れる形」と定められたゆえ、字義は「穀物」や「いね()」をあらわすことになった。後世、[]の下に「女体に相似する十字の銀河」をあらわす[]が加わる[()]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体」に相似するゆえ、人偏に[]が加わる[]の字が作られた。そして、[][]は倉頡が考えた[]の「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受けついだ。だから、『魏志』倭人伝に記された15ヵ所の方位記事は[]の「転回方位」をあらわして全部正しいゆえ、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない。したがって、学者たちが加えた「文献批判」という考え方の実体は【誤読】であり、その意見・主張は事実無根(じじつむこん)の虚妄(デタラメ)であったのである。

◆巫女(みこ)たちは出産に立ち会って、外子宮口(がいしきゅうこう)から膣口(ちつこう)までの産道を胎児が頭を旋回(せんかい)させて通過する様子を知っていた。ゆえに、巫女たちは出産祝いや子授け祈祷(きとう)をおこなう時、頭を旋回して生まれる胎児の様子を真似(まね)して産道に見立てる土器を持って身をくねらせて舞った。
 倉頡は、巫女たちが祝祷(しゅくとう)の土器を持って、胎児が頭を旋回させて産道を通過する様子を真似て身をくねらせて舞う姿に注目した。
 ゆえに、T図に示すように、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女が出産や子授祈願する時に用いる祝祷の土器」に見立てて、「子宮」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわす[(さい)]の字を作った。
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 「巫女が用いる祝祷の土器」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわしたのは、P図に示した出産した胎児は真っ先に〔口〕で呼吸し、その出産児が通過する産道の入口の外子宮口と出口の膣口は〔口〕のイメージとなるからである。 
 T図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を「身をくねらせて舞う巫女」に見立て、「祝祷する土器の[(さい)]」を〔巫女〕に見立てた「「十字の銀河」の西の肩の上に配置して「〔北〕が〔西〕へと時計回りと逆方向に90度転回する方位規定」をあらわす[]の字を考案した。というのも、R図の「十字の銀河の股の部分の〔南〕から〔東〕への逆時計回り」を表現する形の[]の字を考案すると、前述したように「子どもたちは陸地に生まれずに〔東の大海〕で生まれる」ことになって不合理となる。ゆえに、T図に示す「〔北〕から〔西〕への逆時計回りの90度の転回方位をもって、子どもたちは〔大海の西側の陸地〕で生まれる」をあらわす[]の字を、倉頡は作ったのである。
 倉頡は、[]の字源における「身をくねらせて舞う巫女のモデル」を「十字の銀河」のみに限定したわけではない(U図の左上を参照)。上掲した「文字作成銀河各部の名称図」のおける「夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部」つまり「夏の銀河全体像」をも「巫女のモデル」にして、倉頡は[]の字を考案した。
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 その証拠に、U図に示すように、[]のおける[(さい)]の字源は「こと座の東にある、暗い星々が土器の形となる暗黒天体部」でもある。また「夏の銀河の東北部の、人の横顔に酷似する銀河」は「巫女の顔」に見立てられて、[]の字が作られた。

◆U図上部の「鬼の横顔に似る銀河」において〔鬼の横顔となる部分に両目〕があり、〔鬼の首(後頭部とアゴの部分)にも両目〕があるゆえ、計〔目が四つ〕あって「四つ目」となる。倉頡は中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を「中国各地の緯度が測定できる天頂」に見立てて[]の字源とし(O図を参照)、「鬼の姿に似る銀河(「鬼の横顔に似る銀河」を「顔」とする銀河)」を「[]をキャッチする人」に見立てて[]の字源とした。このため、倉頡が漢字を発明したと伝える伝説では「鬼の姿に似る銀河」は「四つ目の怪人」と呼ばれて「倉頡」に見立てられた。
 倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、「鳥獣の足跡」(倉頡が発明した漢字作成原理の名称)をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう/三皇時代の易に用いる記号)の方法から改めたので、天を祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代の氏族たちの死霊(しれい)が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたというのである――と説明する。
 学者たちは倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」という語に対して「人間は四つも目を有していない! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定して――倉頡が夜な夜な天に輝く銀河各部の形状から漢字を作る方法を発明した重大な事実を抹殺(まっさつ)する。
 B図に示した高尾山古墳の墳丘内から約2000点の土器が出土した。それらのうち沼津市教育委員会が「地元の土器」と指摘した土器の図を、V図に示した。
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 V図の高尾山古墳から出土した地元の土器の形は、U図の倉頡が[]における[(さい)]の字源とした「土器の形の暗黒天体部」にそっくりである。つまり、高尾山古墳から出土した土器は「倉頡が漢字を発明した」と説明する倉頡伝説は事実を語っていると証明できる資料となる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話には――伊耶那岐命と伊耶那美命はその島(浮島沼)に天降(あも)り坐()して(つまり、倭地から小国・日本の浮島沼東岸の高尾山古墳に到着して)、そこに天御柱(あめのみはしら)が建っていると見立てて、また八尋殿(やひろでん)も建っていると見立てて、両人が小国・日本に封ぜられることになった任務(呉軍を撃退する防衛)が成就(じょうじゅ)した時に天御柱が建てられ八尋殿が建造される様子を想像して高尾古墳において結婚式がおこなわれた時、伊耶那美命に向かって伊耶那岐命は「おまえの体はどのようにできているのか」と問うと、伊耶那美命は「わたくしの体はだんだん成り整ってきましたが、まだ整わないところが一ヵ所あります」と答えた。そこで伊耶那岐命は「われの体はだんだん成り整ってきたが、できすぎたところが一ヵ所ある。だから、われの体のできすぎたところをおまえの体の足りないところに刺し塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もうと思う、この国生みの案はどう思う」と述べると、伊耶那美命は「良いと思います」と答えた――と説明する記事がある。
 この「女陰(じょいん)」と「男根(だんこん)」について問答(もんどう)する国生み(小国・日本の国生み)記事は、倉頡が「夏の銀河の東北部」を「女陰」、「夏の銀河の西南部」を「男根」に見立てて「性交によって多数の子どもが生まれる」という[]の字源の秘密を伝える共に、小国・日本の女王の伊耶那美命は成熟しない13歳の乙女・軍王の伊耶那岐命も若い18歳の青年であったことをあらわすものであったのである。
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 その証拠に、W図に示す「夏の銀河の東北部の、コールサック」は「女陰」のイメージとなり、「夏の銀河の西南部の、南部からわし座までの銀河」は「男根」に相似する。
 伊耶那美命と伊耶那岐命の高尾山古墳における結婚式は、[(さい)]の字源・字形・字義にもとづいておこなわれた。ゆえに、この記事には「男根が女陰に刺し塞ぐ」と説明する箇所があり、[]の字が記される。
 白川静著『字統』は[]の字について――[]の下の[]は「土主(土地神)」、[]より上の字形部分は「建物の内部に、呪具(じゅぐ)である工を填塞(てんそく)する形で、これによって邪霊(じゃれい)をそこに封じこめるのである。これを道路の要所や辺境(へんきょう)の要害(ようがい)の地に設けて、異族邪霊を封ずる呪禁(じゅきん)とするもので、わが国でいう「さへの神」にあたる――と解説する。
 上記した白川静著『字統』の[]の解説文にある「填塞」という語は「うずめふさぐ」と意味する。高尾山古墳から出土した約2000点の土器は墳丘内に填塞、つまり土中にうずめふさがれていた。だから、土器は呪具の工(工具)であるゆえ高尾山古墳は[]の字源をあらわす墳丘であり、「さへの神」つまり「塞(さい)の神」を祭る封土(ほうど/盛り土)であったことになる。その証拠に、C図に示したように高尾山古墳の主体部には呪具の工(工具)となる鉄の鏃(やじり)33点、鉄製の槍が2点、銅鏡が1面、大工道具の槍鉋(やりがんな)1点、勾玉(まがたま)1点埋まっていた。
 []の上部字形があらわした「建物」は高尾山古墳の後方墳部に建造される予定であった『古事記』に記述された「八尋殿」である。しかし、「封じこめる異族邪霊である呉の遠征軍」は来襲しなかったため、八尋殿は建造されなかった。[]の下部にある[]があらわす「土地神」はG図に示した巨大な富士山を西から東へ移動させる「久美度邇興して」の日本軍の守護神となった「愛鷹山」と、H図に示した日本軍の「袍図莽(ほつま)作戦」をあらわした水蛭子(大瀬崎)・淡島(G図の下部とI図を参照)であった。
 A図に示した浮島沼周辺地域は戦前(1945年以前)まで農作物の生育に適さない湿地帯で人々が住まない片田舎(かたいなか)の辺境の地であった。だから、高尾山古墳が造られた敷地は[]の字源要素となる「道路の要所にして辺境の要害の地」であった。
 また、X図に示すように高尾山古墳から直ぐ東の地所は足柄路(あしがらろ)の出発点となり、東鯷人国王が居住する首都であった現在の山梨県富士吉田市(旧称は「家基都(かきつ)」へつながる道路の要所であった。
 ゆえに、高尾山古墳は[]の字源要素「道路の要所や辺境の要害の地」に築造された。
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 だから、高尾山古墳は伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場であるとともに、呉の遠征軍という異族邪霊を封じこめるための塞(さい)の土地神を祭る封土でもあったのである。

◆以上のごとく、高尾山古墳が伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場となった理由・根拠は以下のごとくなる。
 (1)浮島沼は人口密度が少ない辺境の地であったために人民たちに危害が及ばない戦場として適し、愛鷹山は駿河湾上にあらわれる呉軍の船団を見張るに好都合な場所であった。また、高尾山古墳の敷地は東鯷人国王が住む入口となる道路の要所であったゆえ、呉軍との戦いで勝利を祈願する塞の土地神を祭る封土を築造するのに最適地であった。
 高尾山古墳から出土した土器は、地元産のほかに、北陸や東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかった。したがって、倭から小国・日本へ派遣された兵士たちは北陸、東海西部、近江の出身者たちであったことになる。
 ゆえに、(2)高尾山古墳から遠く離れる倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちが旅して、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式の日に間に合うように集合するためには高尾山古墳が結婚式場として最適地となった。
 K図の左下の神津島からは、現在も良質な黒曜石(こくようせき)が産出(さんしゅつ)する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石の包丁(ほうちょう/石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海西部、近江、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人は、M図に示した[玄]をキャッチする能力を有していたために海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、K図の転回日本列島地理・淤能碁呂島理論は[玄]のキャッチによるものであることに気づかないために、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明であると定める。
 神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から出土した土器分布は一致する。ゆえに、倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちは、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式が行われる日に間に合って式場となる高尾山古墳に集合できたのである。というのも、浮島沼は3万年前から神津島の黒曜石を求めて旅してきた北陸・近江・東海西部の人々の通路の要所となり、彼らは浮島沼の港から船に乗って神津島へ目指したからである。だから、倭からの派遣された北陸・近江・東海西部の王子と兵士たちが伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式に間に合うためには、浮島沼東方の東鯷人国の首都へ至る道路の入口となる場所に高尾山古墳を築造しなければならなかったのである。
 前述したように、(3)『史記』の徐福記事、『後漢書』倭伝の東鯷人国と徐福記事、『三国志』呉書孫権伝の1万の呉軍の遠征記事からして、呉軍の上陸地点の最も確率が高い地域は浮島沼・愛鷹山が所在する海岸線であると推測された。ゆえに、浮島沼・愛鷹山に日本軍の本隊の軍事基地は設営し、女王の伊耶那美命と軍王の伊耶那岐命が結婚する式場は浮島沼の東岸に築造されることになったのである。
 (4)強大な富士山を移動させる「久美度邇興しての愛鷹山」が日本軍を守護する土地神となったため、この強大な威力を有する土地神に守られていると示して兵士たちの戦闘意欲を奮(ふる)い立たせるために、また呉軍が東京湾側へと針路をとったならば袍図莽・袋の中のネズミ作戦を成功させるためにも浦賀水道と山頂が同緯度の愛鷹山を土地神にしなければならなかった。だから、愛鷹山を日本軍の守護神とするためには、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場・高尾山古墳は愛鷹山の麓に築造しなければならなかった。
 愛鷹山の山頂と浦賀水道が同緯度であることは、J図に示した。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説し証明したように、東鯷人国の首都(現在の山梨県富士吉田市)の古称が「家基都(かきつ)」であったのは愛鷹山の山頂と富士吉田市が同経度であったからである。ゆえに、東鯷人国では小国・日本となる以前において愛鷹山と浦賀水道が同緯度であることを測量し、これを倭王朝に報告して防衛戦略に役立てるように欲したにちがいない。だから、伊耶那岐命は日本軍をまもる土地神を愛鷹山と決めることになったのである。また、倭王朝の面々と東鯷人国王においても伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場は高尾山古墳が築造された地が最適地と決めていたにちがいない。

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