◆歴史家・磯田道史氏が司会した2018年(平成30年)10月11日における20時~21時に放送された、NHKBSプレミアム3チャンネル「英雄たちの選択選 壬申の乱の真実を迫る」と題する番組は虚妄(きょもう・デタラメ)と欺瞞(ぎまん)に満ちた、誤読の空論・空想の産物であった。
したがって、この番組は全日本人の尊厳を徹底的に愚弄(ぐろう)する暴論で終始した茶番劇であった。
受信料をおねだりするHHKテレビが、このような【誤読の空論】にもとづく低劣きわまりない悪質な番組を放送するとは……、“トホホ”何ともお粗末なかぎりと言わざるをえない。
◆朝日新聞のテレビ欄は、この番組の概要を――(1)「日本」を生んだ戦い、(2)壬申の乱の真実に迫る、(3)▽古代帝国からの外圧、(4)▽迫る豪族反乱の危機と――紹介した。
上記の(1)「日本」を生んだという表現は、この番組の登場した歴史学者の仁藤淳史氏、歴史学者の倉本一宏氏、脳科学者の中野信子女史、戦史研究家の小谷賢氏、そして司会者の磯田道史氏と女性の司会者によって、あたかも日本国は8世紀初頭に生まれたかのごとくに表現されたが――ほんとうのところ、日本国が誕生したのは3世紀前半であった。
上記した(2)壬申の乱の真実に迫ることができる、言いかえると壬申の乱が起きた原因については、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝の最初の部分に記述されている。この記事は、702年に中国に渡った遣唐使が日本国誕生史について下記のごとく説明したと記述する。
――日本国は(一)倭国の別種である、(二)その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、(三)ある人(遣唐使)が言うには、「倭国は自国名が雅(みやび)やかでないのを悪(にく)み、倭国の人民は日本という国号に改称するのを欲求したのだ」とのことであった、(四)またある人が言うには「日本国は旧(もと)小国であったが、大国の倭国を併合(へいごう)した」と。
◆大国・倭と小国・日本を併合した日本国の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命は、倭女王天照大御神を失脚させるクーデターが成功した後に、天下を治めた第9代開化天皇となった、『魏志』倭人伝末部に登場する載斯烏越(そしあお))であった。だから、『古事記』上巻の神代の出来事は学者たちによって歴史ではなく物語であったと断定されているが、この日本神話学説は『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えた空想・妄想の産物であり、実際は伊耶那岐命は歴史上に実在した人物であった。
ゆえに、702年当時、伊耶那岐命が併合した大国・倭国と小国の日本を「倭国」と呼んでいたことになり、この倭国と日本国が併合された「倭国」の国号を、702年に中国に渡った遣唐使は「日本」と国号を改称することを中国の王朝に承認を求める任務についていたのである。この遣唐使の任務は――時の持統(じとう)上皇が最も尊敬する第10代崇神(すじん)天皇母子の異名「天照大御神」と「日本」という国号が類似する点に注目して、伊耶那岐命のクーデターによって崇神天皇の生母=天照大御神=伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が倭女王から失脚した歴史を抹殺(まっさつ)するための――持統天皇の陰謀(いんぼう)によるものであったのである。その証拠に、「倭国」から「日本」への国号の改称はわざわざ中国の王朝の承認を得る必要もないことであり、自国で決定すれば済むことであった。したがって、自国で決定すればよいことをわざわざ中国の王朝から承認を得ようとする遣唐使の挙動を、中国の王朝は訝(いぶか)り、また日本の遣唐使は事実をはぐらかして答えるものではないと見透(みすか)かし、彼らは何か企みを抱いているのではないかと疑った。
だから、『旧唐書』倭国日本伝には――(五)日本の使節(遣唐使)は自らが矜大(きょうだい/自尊心が強く)で、“日本”という国名改称について中国の王朝が抱く疑問をついて事実を語らうとせずに隠し立てして誤魔化(ごまか)す。それゆえ、中国の王朝は遣唐使の説明(答え)には何か企み・魂胆があるのではないかと疑うことにした――という記事が存在する。
「天照大御神」と「日本国」という国号は互いに類似しあうので、持統上皇は「日本国」と改称すれば、後世の学者たちは必ずや「小国・日本を治めた天照大御神によって倭国が併合されたと考えるにちがいない――と企んだのである。ゆえに、〔小国・日本の軍王・伊耶那岐命が天照大御神を倭女王から失脚させた、朝廷が後世に絶対に伝えたくない天照大御神の聖性を汚す歴史を消滅することができる〕と企む――朝廷にとって不都合な史実を抹殺するための持統上皇の謀略を成功させるための任務に、遣唐使はついていたのである。
だから、702年に中国に渡った遣唐使が明確に語ろうとしなかった真実の日本誕生史の秘密が壬申の乱がおきた原因であった。
ゆえに、2018年10月11日の20時に放送されたNHKBSテレビの「壬申の乱」に関する番組について、朝日新聞のテレビ欄は「壬申の乱の真実に迫る」と紹介しているが、この番組は壬申の乱とはまったく無関係の空想・空理空論・妄想で終始した茶番劇であった。
◆なお、大和王朝の基礎を築いた第10代崇神天皇=天照大御神は、第9代開化天皇=伊耶那岐命の異母弟であった。というのも、崇神天皇は第8代孝元(こうげん)天皇を父とし、伊迦賀色許売命が母として生まれた子であったからである。開化天皇の父は孝元天皇であるゆえ、開化天皇は崇神天皇の異母兄であった。
『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は継母の伊迦賀色許売命(天照大御神)と結婚されて生みまさる御子は崇神天皇」と記述する。したがって、「伊迦賀色許売命と結婚して開化天皇の養子となった崇神天皇」について、「崇神天皇は開化天皇の養子となった状況」を「生みなせる御子」と記述したことになる。その証拠に、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇の妻であったゆえ、『古事記』中巻の開化天皇紀は「伊迦賀色許売命」を「庶母(ままはは/継母)」と記述する。だから、開化天皇は父孝元天皇と継母伊迦賀色許売命と間に生まれた崇神天皇を養子にして、伊迦賀色許売命と結婚したことになる。
『古事記』上巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚されて生みませる御子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である」と記述する。
開化天皇の正妃の竹野比売が『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であった。だから、開化天皇の居住した宮殿「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字に合致する。ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇と伊耶那岐命・竹野比売の間に生まれた比古由牟須美命が『古事記』上巻に登場する須佐之男命(すさののみこと)であった。
なお、伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王・壱与(いよ)であった。伊耶那美命(竹野比売)=壱与は小国・日本国の女王にして、『魏志』倭人伝末部は「13歳で小国・日本の女王となった壱与(伊耶那美命)は、倭国の大乱を終息するための倭女王に就任した」と記述する。
『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は――小国・日本の女王の伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚するとき「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)と唱え、つまり「小国・日本の国生みの柱を〔愛〕と定めましょう。家族を背負って家族の幸福に日々努力する男たちよ、日本の国作りの柱を〔愛〕としましょう」と唱えた――記述する。
だから、3世紀、日本国は伊耶那美命(壱与)と伊耶那岐命(載斯烏越)が結婚して誕生した。もちろん、持統天皇が企んだように天照大御神によって日本国は生まれたのではなかった。
NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「8世紀に日本国が生まれた」と断定するものではなかった。しかし「8世紀の倭国から日本国の国号改変をもって日本国が生まれた」という意見を意図(いと)とするものであったのではないかと思われる疑わしい表現もあったゆえ、このような意見は明らかに間違い・虚偽ということになる。
◆持統上皇は大和王朝の基礎を築いた〔天照大御神〕を崇拝した。この天照大御神の聖性は日本国誕生史の真相によっていちじるしく汚されることになった。ゆえに、前述したように、上皇は「天照大御神」と「日本」という両者の名が類似することを注目して、天照大御神の聖性を汚す日本国誕生史が後世に伝わなくするために、702年に遣唐使を派遣して「日本」という国名の改称を目論(もくろ)んだのである。
『古事記』中巻の開化天皇紀に記されているように――伊耶那美命(小国・日本の女王にして後年に倭女王に就任した丹波出身の竹野比売)が伊耶那岐命の正妃、天照大御神(伊迦賀色許売命)が伊耶那岐命の第二后であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王に就任した天照大御神つまり崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は小国・日本が誕生する時に伊耶那美命=竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。ゆえに、伊耶那美命が没して熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら/黄泉国)に墓(陵墓)が作られた時、天照大御神は伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬(じゅんそう)、つまり多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍な徇葬儀式を陣頭指揮して伊耶那美命を侮辱(ぶじょく)した。この徇葬者たちを、『古事記』は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す。また、『古事記』編纂スタッフは徇葬を指揮した倭女王を「天照大御神」と明記すれば、『古事記』は即座に献呈を拒絶(きょぜつ)されて読むことが厳重に禁止される書物となって抹殺されるため、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名(つまり、「伊耶那美命」に「神」の一字を加える偽名)にして記した。
伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は、天照大御神が伊耶那美命を侮辱するためにおこなう徇葬に激怒した。小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て天照大御神を倭女王から失脚させるクーデターを決行した。伊耶那岐命は数人の日本兵を率(ひき)いて伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して棺(ひつぎ)を奪って逃走した。伊耶那岐命一行を追跡する倭の大軍=千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ)は日本軍と熊野の戦士たちに編成されるクーデター軍の本隊が集結する現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと)において撃破された。
驚いたことにクーデターが決行された夜の真っ暗な熊野路を歩いて天照大御神は伊耶那岐命一行を追跡してきたため、彼女は日本軍の捕虜となった。天照大御神は熊野速玉大社から約1kmの南にある現在の神倉(かんくら)神社のご神体のごとびき岩=千引石(ちびきのいわ)の前に居た伊耶那岐命の所まで連行された。上記したように(『古事記』中巻の開化天皇紀に記述されているように)、天照大御神=伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の第二后であったため、伊耶那岐命は天照大御神に向かって離縁=事戸(ことど)を言い渡した。これゆえ、伊耶那岐命に離縁を言い渡した場所・千引石(現在の“ごとびき岩”)の前の空地に建造された神倉神社の祭神は天照大御神である。ゆえに、神倉神社に祀られる天照大御神は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」であったのである。
神倉神社のご神体の千引石の巨岩の前にて離縁を言い渡された天照大御神は立腹して「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さん」、つまり「亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ、汝の国の日本国はじめ倭国の人民たちの母親の産道が狭(せま)くなるように呪(のろ)い、この狭い産道で必ず一日に千人の生まれてくる子どもの頭を絞め殺してみせる」と言って誓った。
この天照大御神の憎しみの言に対して伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」つまり「吾は亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する政事(まつりごと)をおこなって、必ず一日に千五百の子どもたちが生まれて健やかに育つようにする」と誓った。
この熊野におけるクーデターを成功させた小国・日本の軍王の伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇であった。
ゆえに、702年に中国に渡った遣唐使は――日本国は(一)倭国と別種である、(二)その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、(三)『魏志』倭人伝に記述されたように卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢(ぬひ)を殺す徇葬をおこない、伊耶那美命の墓を作る時にも天照大御神が残忍な徇葬を陣頭した。ゆえに、ある人(遣唐使)は「倭国の人民たちは倭国という自国名は雅(みやび)やかでないと憎悪し、多くの倭国の人民たちは〔愛〕の理念を掲げて誕生した日本という国号に改めることを欲求したのだ」いう秘密を「倭国自らその名の雅やかならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」と簡潔に説明し、(四)小国・日本国の軍王の伊耶那岐命による熊野におけるクーデターによって倭女王天照大御神は失脚した。伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治める大王(開化天皇)となって大国・倭国と小国の日本国を併合した。これゆえ、ある人(遣唐使)は「日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」と簡潔に説明したのである。
◆伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神(伊迦賀色許売命)は、第7代孝霊(こうれい)天皇の娘=崇神天皇の姑(おば/大叔母)の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を受け継いで、息子の崇神天皇と共に大和王朝を治めた。この天照大御神・倭迹迹日百襲姫命は子の崇神天皇によって巨大な箸墓(はしはか)古墳が築造されて埋葬された。崇神天皇の生母が埋葬された箸墓古墳は奈良県桜井市に所在する。
伊耶那岐命のクーデターを怨(うら)む倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は、開化天皇・伊耶那岐命に露骨(ろこつ)な復讐心を示して対抗した。ゆえに、伊耶那岐命は実子の須佐之男命に天下を譲ると、自分の死後に天照大御神(崇神天皇)と須佐之男命が相争う天下取りの大乱となるにちがいないと心配して、養子の天照大御神に天下を譲った。
ところが崇神天皇は伊耶那岐命の天下譲りの恩に報いず、彼は養父の伊耶那岐命に復讐して開化天皇の陵墓を築造しなかった。だから、現存する開化天皇陵は天照大御神・崇神天皇が生存した3世紀後半~4世紀初頭に築造されたものではなく、その墳丘規模などからして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。このように、熊野のクーデターを怨んだ天照大御神母子の復讐心は開化天皇陵の築造年代によって明確に示される。
◆『万葉集』の最終巻は、巻二十である。この巻二十に収められる東国の防人(さきもり)たちが作った4321番~4436番までの116首の和歌は、伊耶那美命と伊耶那岐命が治めた日本国の範囲と伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を今日明確に伝える。というのも、防人歌の作者の出身国の範囲が小国・日本であったからである。防人歌を作った人々の出身国の範囲は、旧国の駿河(静岡県中部)以東から常陸(茨城県の大部分)以西までの東国となる。つまり、駿河・伊豆・甲斐・信濃・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸の東国が小国・日本であった。遠江(静岡県西部)の人々が詠む和歌が巻二十の防人歌に含まれているが、遠江は小国・日本ではなく倭国であった。遠江は倭国であったが、遠江の人民たちは伊耶那美命を熱烈に愛したため、防人の制度を定めた天智(てんち)天皇は倭国の遠江の人々にも防人の任務を負わせたのである。
『万葉集』巻二十の4321番~4436番までの116首の防人歌は伊耶那美命が「阿那邇夜愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の和歌で占められている。つまり、倭国の遠江を含む東国=小国・日本の防人たちは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって、妻や子どもや両親や恋人のために遠く離れる筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備に当たる兵役(へいえき)をつとめていたのである。
116首のうち110首(95パーセント)は、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の歌で占められる。防人歌116首のうち4370番の「霰(あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士(すめらくさ) 我(われ)は来(き)にしを」という一首は一見すると4句目の「皇御軍士」によって天皇への尊敬を示す和歌のごとく解釈できるが、「日々、鹿島神宮に【日本建国の〔愛〕の理念】を祈っている我が、こともあろうが天皇につかえる兵士となって北九州の地に来たのだ……。なんとも、情けない」と天皇への怨みを詠む作品であったにちがいない。また4373番「今日(けふ)よりは 顧(かへり)みなくて 大君(おほきみ)の 醜(しこ)のみ楯(たて)と 出で立つ我(われ)は」と詠む和歌もまた大君(天皇)への尊敬を示すものではなく「今日からは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して暮らした故郷を振り返らないで、我は強大な権力に負けて情けなくも天皇を護る防人となって故郷を出で立つことになったのだ」と天皇への怨みを表現する和歌であったにちがいない。
上記したように116首の防人歌の110首は【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌であり、4370番と4373番の2首も【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌と解釈できるゆえ、残る4首は【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に示す歌ではないが、『万葉集』巻二十に収められた116首の防人歌はおそらく全部が全部【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む歌であると推定される。
◆上記した防人歌と同様に、万葉歌人として有名な山上憶良(やまのうえのおくら)が作った代表作の803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という短歌は、【日本建国の〔愛〕の理念】を詠むものであった。
この山上憶良は702年に持統上皇の陰謀によって「日本」という国号の承認を中国王朝から得るために派遣された遣唐使のうちの最下位の幹部(かんぶ)であった。
『万葉集』巻一の63番には「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在(あ)る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」という題詞が付く。したがって、63番は憶良が遣唐使となって「日本」の国号の改変の任務に就いて唐に滞在した時に作った短歌である。この63番の短歌は下記のごとくである。
「いざ子ども 早く日本(にほん)へ 大伴(おほとも)の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」
憶良は、「大の大人(おとな)の遣唐使や遣唐使船の船乗りたち」を「いざ子ども」と表現した。つまり、彼らは熊野のクーデターにおいて伊耶那岐命が神倉神社のご神体である千引石の前で「吾一日に千五百の産屋立てむ」という誓いのもとに生まれた人々であると憶良は表現したことになる。だから【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、憶良は遣唐使と遣唐使船の船乗りを「いざ子ども」と表現したのである。2句目の「早く日本へ」の「日本」を「やまと」と読む説は有力説とされるが――子ども(遣唐使や船乗り)たちが本国に帰った時には国号が「日本・にほん」となっているので、「早く日本(にほん)へ」と読むべきことになる。3句目に登場する「三津の港」は、武家の名門の大伴氏の所領内(現在の大阪市から堺市にかけての一帯)にあった。ゆえに、憶良は「三津の港の浜に生える松」を「唐に渡る憶良を見送った大伴氏の三人の武将」に見立てて「大伴の 三津の浜松」と詠んだことになる。三津の港で遣唐使・憶良を見送った武将は、大伴安麻呂(やすまろ)と旅人(たびと)の父子と大伴家・大伴連(むらじ)家の両家の宗家となる大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)の養子であった。この養子は、大伴安麻呂・旅人父子よりも強力な、当時を代表する武将の大伴連家の家督者(かとくしゃ)であった。
『古事記』天孫筑紫降臨説話は「天孫(天照大御神の孫)が筑紫に降臨(こうりん/遠征)した時、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あまつくめのみこと)の二人が天孫の先払いをつとめた。この先払いをつとめた天忍日命は大伴連らの先祖である」と記述する。
『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)説話は「大伴連らの祖先は、道臣命(みちのおみのみこと)である」と記す。この説話の舞台は、現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町から南にかけての宇陀一帯であった。道臣命は宇陀を所領とした大伴朴本連大国の先祖であった。ゆえに、安麻呂・旅人の大伴家は大伴連家の分家であった。大伴朴本連大国が家督を受け継いだ大伴連家は大伴家の本家であったのである。
憶良が三津の港において大伴連大国の養子と大伴安麻呂・旅人父子に見送られた702年当時、大伴連大国はすでに死去していたらしく、27歳の養子が大伴連家の跡を継いでいたと推定される。この養子は、天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子のうちの皇位継承順位が第三位)の舎人(とねり)皇子であった。
舎人皇子は天武天皇の第三皇子という高い身分を有するも、『古事記』が完成した712年・37歳頃までは庶民であった。というのも、養父の大伴連大国が庶民であったからである。大伴連大国・舎人皇子父子は、上記した『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯と弟宇迦斯説話の舞台となった奈良県宇陀郡榛原町高星(たかへ)の片田舎に居住していた。『古事記』が元明天皇に献呈拒絶されて読むことが厳重に禁じられた禁書になったため、再度日本国誕生史を後世に伝える歴史書(『日本書紀』)の編纂を陣頭指揮するために、712年あるいは713年に宮廷勤めするようになって舎人皇子は37、38歳頃に皇族となった。
◆天武天皇の第一皇子の草壁(くさかべ)皇子は689年28歳で没し、天武天皇は第二皇子という位を設けず、天武天皇の第三皇子を大津(おおつ)皇子と舎人皇子と定めた。大津皇子は天武天皇崩御25日目の686年10月3日、謀反の罪によって処刑された。
したがって、686年10月4日以降、天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位は大伴連大国の跡を継ぐ庶民の舎人皇子であった。
大伴家の所領は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)や藤原宮より西方であった。したがって、大伴安麻呂・旅人父子は都より西方の反乱軍を鎮圧(ちんあつ)するための武将であった。
大伴連大国の所領の宇陀は都より東方にあったゆえ、大国・舎人皇子父子は東国の兵の反乱を鎮(しず)めるための武将であった。地図をひろげて調べると――宇陀の地・榛原駅前の道路は、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝(ようしょう)である。だから、大伴連大国・舎人皇子父子は尾張・三河・美濃・伊賀・伊勢などの東海道と東山道の人民や兵士たちを統率する強力な武将であったことがわかる。
◆『日本書紀』巻第二十八は大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が東国へ逃れる決意をした事情について――672年5月、朴井連雄君(えのいむらじおきみ)は大海皇子に「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に『亡き天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりました。ところが、それぞれに武器をもたせております。ということは、おそらく山陵を造るが目的ではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう」と奏上(そうじょう)した。
上記の朴井連雄君の報告と近江京より大和京に至る道のあちこちに監視人を設置している様子から、大海人皇子は危険を察知して東国へ逃れることを決意した。
近江朝に「天智天皇の山陵(墓)を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ」と命じられた美濃・尾張の国司は、大伴連大国が束ねる配下であった。だから、近江朝が企んだ変事=壬申の乱は大伴連大国の所領で起きていたのである。
当時、吉野宮で居住した大海人皇子に従う者は50人足らずで、大海人皇子を護衛する舎人(兵士)は20人足らずであった。ゆえに、近江朝は吉野宮に100人の兵を送れば大海人皇子を暗殺することができた。しかし、大海人皇子暗殺隊を吉野宮に向けると、東海道と東山道の兵士を統率する大伴連大国の所領である要衝(榛原駅付近)を通過しなればならなかった。このため、近江朝は大伴連大国から大海人皇子暗殺隊の通過を許可する内諾(ないだく)を得なければならなかった。しかし、近江朝は大伴連大国から内諾を得ることができなかった。というのも、大伴連大国は近江朝の律令体制を嫌悪し、天照大御神を蔑(さげす)み、伊耶那美命を敬愛し、卑怯な暗殺を認めず、正義・道義に筋(すじ)を通す人物だったからである。これゆえ、壬申の乱の初日の朝における大海人皇子はまさに「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入れば猟師も殺さず」という諺(ことわざ)の「窮鳥」であったため、正義を重んじる猟師・大伴連大国は困窮する窮鳥を助けざるをえなかったのである。
672年6月24日、30人余りの大海人皇子一行は吉野を出立して東国に向かった。この壬申の乱の始まった朝、大海人皇子一行が宇田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県大宇陀町の阿騎野/あきの)と兎田(うだ)郡の屯倉(みやけ/現在の榛原駅付近であろう)の中間の甘羅村(かんのむら)をやや過ぎた所(榛原駅よりすぐ近くの、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝)で、猟師二十人余りと出会った。この一団の首領は大伴朴本連大国と名乗った。この一団には美濃国の王(豪族)も加わっていた。この二十人余りの猟師たちと美濃国の王を、大海人皇子は召しかかえた。
つまり、近江朝は「天智天皇の山陵を造るために人夫に武器を持たせて集めておけ」と命じた美濃と尾張の国司に命じたように――壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する武将の大伴連大国が所領内でおこっていた。ゆえに、美濃国の王は変事をいち早く知って、頭首の大伴連大国が住む榛原町高星(当時は、「高屋」という地名であった)に駆けつけて報告した。このため、大海人皇子一行と出会った時に大国が率いる猟師の一団に美濃国の王も加わっていたのである。
壬申の乱が始まった6月24日、大海人皇子一行が伊賀の山中に到着すると、伊賀国の郡司らと数百の兵たちが吉野方に加わった。さらに、大海人皇子一行が伊勢の鈴鹿に到着すると、五百の軍勢が集まった。26日には美濃の軍勢三千人が集まった。27日には、尾張国司が二万の兵を率いて吉野方に加わった。4日後には、吉野方は三万の軍勢となっていた。
つまり、壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する大伴連大国の所領内で起きた。だから、4日後には三万の80パーセントの約二万四千の大国の配下の兵士たちが吉野方に集まっていたのである。大海人皇子は味方の軍勢を集める計画無しで東国へ出立したが、その朝には早くも東海道・東山道の兵士を統率する強力な武将・大伴連大国が大海人皇子を護衛したために、4日後には近江朝の軍勢に勝る三万の兵士たちが吉野方に集結することになったのである。
大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を大海人皇子に期待して吉野方に味方したのである。だから、壬申の乱の原因は【日本建国の〔愛〕の理念】であった。というのも近江朝は防人の制度を設け、また近江朝の律令政治体制は人民を貧窮(ひんきゅう)させるものであったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を蔑(ないがし)ろにしていた。そして、壬申の乱は大国の所領内でおきた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する猟師・大伴連大国は近江朝の敵となり、大海人皇子に救いの手を差し伸べたのである。
近江軍を敗北させた4日間で一挙に集まった三万の軍勢の大半(約80パーセント)は大伴連大国の配下の伊賀・伊勢・美濃・尾張の兵士たちであった。この大伴連大国の約二万四千の配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであった。
◆大伴連大国と配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ政治を大海人皇子に期待した。しかし、大海人皇子は天皇に即位すると天智天皇と同様に律令体制を推進させた。これゆえ、大国と配下の兵士たちの期待は成就しなかった。ゆえに、壬申の乱の最高功績者であった大伴連大国は天武天皇王朝には参加せず、高屋(榛原町高星)で庶民として暮らした。天武天皇は大国と配下の東海道・東山道の兵士たちの【日本建国の〔愛〕の理念】の欲求を察知し、彼らが律令体制の続行に怒って反乱をおこすことを心配した。ゆえに、676年、天智天皇の娘・新田部(にいたべ)皇女と結ばれて生まれた新生児を大伴連大国に与えた。これが舎人皇子である。
壬申の乱に参加した東海道・東山道の兵士たちが近江方の残党と協力して反乱をおこすことを阻止(そし)するために、近江朝の天智天皇の娘である新田部皇女が生んだ新生児・舎人皇子を大伴連大国に与えたのである。そして、新生児・舎人皇子に天武天皇の第三皇子という高い位を与えて大国が率いる配下たちの期待を裏切った不満を殺(そ)いで反乱を防いだのである。
また、天武天皇は成長すれば大国の後を継ぐ舎人皇子が東海道と東山道と東国の兵士の反乱を阻止する強力な武将と必ずやなるにちがいないと期待して、誕生したばかりのわが子を大国に与えたのである。
しかし、舎人皇子は天武天皇が期待とおりの武将にはならなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国に養育された舎人皇子は、伊耶那美命に熱烈に憧れる時の朝廷に歯向かう反逆児となった。『万葉集』巻二の117番の題詞は「舎人皇子の御製(みうた)一首」であるから、舎人皇子が作った和歌である。この117番で、舎人皇子は伊耶那美命への熱烈な憧れを、下記のごとく表現している。
「大夫(ますらを)や 片恋(かたこひ)せむと 嘆(なげ)けども 鬼の益卜雄(ますらを) なほ恋ふにけり」
117番を現代語訳すると「武骨な武士(ますらお)がみっともなくて片恋するものかと虚勢(きょせい)をはってみても、吾は上古の伊耶那美命が恋しくてならならない。吾は上古の鬼道(きどう)を尊ぶ武士であるゆえ、鬼道が栄えた上古に生存した伊耶那美命の歴史をまもらんとして彼女への思慕はますます激しくなってゆく」となる。
『魏志』倭人伝は「2世紀末~3世紀半ばまで鬼道が栄えていた様子を「倭女王の卑弥呼は鬼道を事(まつ)る」と記述する。ゆえに、舎人皇子は「3世紀前半に伊耶那美命(壱与)は生存した」と表現して「鬼の益卜雄」と詠んだのである。
舎人皇子は『古事記』編纂と『日本書紀』編纂を陣頭指揮し、最晩年の733年に葛城王(かつらぎおう/後の橘諸兄・たちばなのもろえ)兄弟に『万葉集』編纂を命じた。712年に完成した『古事記』上巻には朝廷が至上神と崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述されたため、『古事記』は元明天皇に献呈を拒絶される禁書(きんしょ)となった。ゆえに、720年に完成した『日本紀』(今日の『日本書紀』)は天照大御神の聖性を汚す記述を減らしたが原因で史実がアイマイ・中途半端となり、さらに【日本建国の〔愛〕の理念】が不明となる失敗作品となった。これゆえ、733年、舎人皇子は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために葛城王(橘諸兄)兄弟に『万葉集』編纂を命じたのである。
◆『万葉集』編纂を企画した舎人皇子の決意には山上憶良の死が関わっていた。
『万葉集』巻六の978番「沈(おも)き痾(やまい)の時の歌」は、憶良が人生の最後に作った歌とされる。この和歌の添え書きを現代語に訳すると下記のごとくなる。
「右の一首は、山上憶良の病気が重くなったときに、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)が河辺朝臣東人(かわへのあそみあづまひと)を遣わして容体(ようだい)をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この歌を口ずさんだ。」
「士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき 万代(よろづよ)に 語(かた)り継(つ)ぐべき 名は立たずして」(『万葉集』978番)
上記の添え書きにもとづいて、この和歌を現代語に訳すると下記のごとくなる。
〔わが主君の舎人親王は心無い役人たちに侮辱され、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている! 日本国が〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史を後世に残さんと戦う鬼の大夫(ますらを)の名は、万代まで語り継がれるべきなのに……。こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前(ふささき)公や政府がやっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で下劣で卑怯だ!〕
天皇の補佐役の内臣(うちのうみ)・藤原房前の第3子が、添え書きに登場する藤原八束である。八束は河辺東人に、舎人親王を君主と仰ぐ憶良の容体を調べるように命じた。憶良は東人に容体を説明した後に沈黙して、729年4月の太政官(だじょうかん)処分以来、政争に敗れて心無い役人たちに侮辱される日々を送る主君の姿をふと思い浮かべた。この瞬間、憶良の目には涙があふれ、その涙を拭きながら、東人と八束の背後にいる房前と聖武(しょうむ)天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌が口からもれた。憶良は重病に伏して主君をまもることができない状況を悲嘆した。憶良は憶良なりに命がつきる寸前まで天照大御神の聖性をまもるために日本国誕生史を抹殺せんとする律令体制に反抗を示し、そして最後の最後まで主君の舎人皇子を敬愛していたのである。
正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の736年(天平8)11月11日の箇所には――733年(天平5)、舎人親王と新田部(にいたべ)親王が葛城王兄弟に聖武天皇から「橘」の姓をたまわるようにするが、この「橘」の姓をもって「万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)える」ことにした。つまり「天照大御神の聖性を汚す記述を元明天皇に見抜かれて『古事記』は正史になれなかった。そこで、『日本書紀』は正史にすることを目的にして天照大御神の聖性を汚す事実の記述を少なくしたために、【日本建国の〔愛〕の理念】が不明になる失敗作品となった。この『日本書紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために、『古事記』の作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために聖武天皇を騙(だま)しておこなう勅撰(ちょくせん)和歌集『万葉集』編纂事業の陰謀を「橘」という姓を暗号に用いることにした。というのも『日本書紀』は天平八年(720年)の陰暦五月つまり異称“橘月(たちばなづき)”に完成したゆえ(「橘月」については新村出編『広辞苑』岩波書店発行参照)、聖武天皇を騙しておこなう『万葉集』編纂の暗号名を「橘」とした。このように舎人親王と新田部親王は『万葉集』編纂事業を計画したが、葛城王兄弟はこの陰謀を引き受ける覚悟はあるかとたずねた。葛城王兄弟は「死をも覚悟して(『万葉集』編纂の陰謀を)やり遂げます」と決意を示して誓った――という複雑な事情が記述されている。
上記したように、憶良の最後の作品の『万葉集』978番の3句目は「万代に」である。『万葉集』という書名となった736年11月11日の記事の「万歳に窮みなく、千葉に相伝える」という文は、憶良の和歌「万代に」から発想したにちがいない。ゆえに、死去する2年前の58歳の舎人皇子は憶良の辞世の和歌が動機となって、聖武天皇を騙して入手して葛城兄弟に与える姓の「橘」を「『万葉集』編纂」を意味する暗号にしたのである。
皇室が至上神と崇拝した天照大御神の聖性をいちじるしく汚す日本国誕生史を後世に伝えるために『古事記』と『日本書紀』の編纂を陣頭指揮した舎人皇子の晩年は政争に敗れて、聖武天皇と藤原房前の卑怯な手段で心無い役人たちに侮辱される境遇となっていた。
さらに、聖武天皇は舎人皇子の墓を作ることを厳重に禁じた。というのも、もしも舎人皇子の墓の築造を許可したならば、その墓記に必ずや「皇子の実父は天武天皇なり。皇子の養父は菟田(うだ)の高屋の住人大伴朴本連大国なり。皇子は誕生以来、高屋に住み庶民であった云々」と記されることになるからである。この墓記が後世に発見されれば、後世の歴史家たちは舎人皇子の生きざまを知って――日本国は伊耶那美命が〔愛〕の理念を掲げて誕生した、天照大御神は残忍な徇葬を決行した――という上古史の真相が明確となる。これを聖武天皇は畏(おそ)れて舎人皇子の墓の築造を厳重に禁じたのである。
735年11月14日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の時代を生きた、日本古代史の希代(きたい)反逆児・舎人皇子は没した。享年60歳であった。
◆朝廷は失敗作『日本書紀』を利用し、『日本書紀』ができた直後から朝廷は講書(こうしょ/書物の講義)を10世紀半ばまで約250年間も継続しておこない【日本建国の〔愛〕の理念】を掲げた日本国誕生史を隠蔽するために偽学問を捏造(ねつぞう)した。この偽学問を、今日の学者たちは「学問」であると思い込む。このため、本来ならば抹殺されて現存しなかったはずの『古事記』の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には歴史(日本国誕生史)が記述されたが、「日本国誕生史を抹殺するための政策であった講書」を「学問的研究」と思い込む今日の学者たちは『古事記』上巻の記事は歴史を伝えるものではなく物語であると断定する。
朝廷の講書に協力して、天台宗比叡山は残虐非道な徇葬を決行した天照大御神は天台宗の本尊・大日如来(だいにちにょらい)であるとする神仏習合説を唱えて、日本国誕生史の消滅をはかった。このデタラメの神仏習合説によって、天台宗比叡山は皇室から多大な庇護(ひご)を受けて日本の宗教界に君臨(くんりん)した。
『古事記』上巻の上古史に登場する天照大御神が仏の大日如来の生まれ変わりなんていう説はもとよりデタラメである。だから、学者たちは天照大御神が大日如来であったという神仏習合説は『古事記』上巻に記述された歴史を消滅するための虚偽工作であったことに気づくべきことになる。しかし、今日の学者たちは朝廷の講書と比叡山の天照大御神は大日如来であったとする神仏習合説にすっかり騙されて、『古事記』上巻は物語であって歴史を記述したものではないと断定する。
◆NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「『日本書紀』の壬申の乱の記事には、4日間で3万の兵が吉野方に集まった記述はまったく存在しない」という意見を根拠・理由にして作られた。しかし、『日本書紀』には「大海人皇子一行が吉野を出発した朝、甘羅村を過ぎると、大伴朴本連大国を首領とする二十人あまりの猟師と美濃の王と出会い、この一行を大海人皇子は召し上げた」と記述する。さらに、この記事は「4日間で3万の兵のうち、約2万4千の兵たちの首領は東海道・東山道の兵士たちを統率する大伴朴本連大国であった」と伝える。
ところが、NHKテレビ「壬申の乱」に登場した司会の二人と歴史学者の二人と脳科学者と戦史研究家たちの討論は、『日本書紀』の壬申の乱の記事とは無関係のウソ八百・虚妄(でたらめ)・空想・空理空論を得意げに語る茶番劇であった。
日本人の命と魂の根源である【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・侮辱するデタラメきわまりない、こんなひどい番組を放送して国民に受信料をオネダリするのはあまりにも虫がいい話で図々(ずうずう)し過ぎる。この際、受信料をタダにして、今後このようなデタラメを決して放送しないとNHKBSテレビは日本国民に誓うべきである。
最近のコメント