邪馬台国説はサギ・騙されるな・21
▼いわゆる「邪馬台国説」は日本人の根源たる精神・魂を破壊するデタラメ・サギである。邪馬台国説は真っ赤なウソであった! メチャクチャな空理空論であった!
このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで毎回証明してきたように――『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するごとくの「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国は「邪馬台国」ではない。『魏志倭人伝』は「邪馬壱(やまい)国」と記す。
『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、わが国で解明できることになった漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に伝える書物であった。
九州説と畿内説は【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】をもって、漢字の起源の秘密を具体的に理路整然と伝える『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱(りょうじょく)して抹殺する、欺瞞(ぎまん)・暴論であった。
『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
新井白石(1657-1725年)以来、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と【誤読の空論・詐偽・詭弁】をもって、メディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かしつづけている――このような『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の説明の抹消(まっしょう)は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ酷(ひど)い仕打ちをうけているとまったく同じと言わざるをえない。だから、冤罪で抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【日本人の精神・魂の根源となった・漢字の起源の真実、世界史的にも絶対に抹消されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務となる。
だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える歴史とその真実】を凌辱して日本を破壊する空理空論・妄想(もうそう)である――この事実を徹底的に科学的に証明して暴露することにした。
★「倭人国の地理学」のトリセツ・30
◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――当然、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」と伝えた――という記事がある。この遣唐使が告げた言は「壬申の乱の後、稍々(少しだけ)習う、つまり復興する」と意味した。702年の時点では『古事記』上巻に「稍々、夏音文字を習う」予定であったが、10年後の702年に成立した『古事記』上巻には〔音〕という注がついた夏音文字が多数記載されている。
だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張し、ほとんどの日本人が信じる絶対的定説は、(1)『古事記』上巻に多数の夏音文字が習い・蘇(よみがえ)っている事実と(2)音韻学の成果に反する空論であったのである。
◆漢字は今から約5000年前、 黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
現在、【倉頡によって起源した歴史】は漢字が起源した中国では解明されていない。また、わが国でも「邪馬台国説」という低劣な空理空論のために解明できないことになった。
【漢字が起源した歴史と事情】、言いかえると【倉頡を発明した漢字作成理論】を理路整然と手に取るように明確に詳細に説明していた書物が『魏志倭人伝』であった。
ところが、あろうことか、新井白石以後の邪馬台国説研究によって『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理】は排除されて闇に葬られた。
でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。というのも、【倉頡が発明した漢字作成原理】は『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼による30ヵ国の小国名に標示された理路整然とした説明】によって復興することができるからである。だから、『魏志倭人伝』の記事を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論】は銀色に輝いて燦然(さんぜん)と蘇(よみが)える。
◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視・排除された。このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が定説となった。
だから、学者たちが上記した二つの記事を注目していれば――従来の「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀~6世紀である」という絶対的定説は否定され、さらに幾人かの学者たちによる『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する方法によって『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に最古の漢字音の夏音文字が記載されていると指摘されて「中国で解明できなくなった、【倉頡によって発明された漢字作成理論】」がとっくのむかしに解明できていたにちがいない。
◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
『魏志倭人伝』に記述されている【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
天文学において「夏の全星座が漬(つ)かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
【1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする
五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。
◆前回までわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明してきたように――倉頡は[禾(か)]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
この[禾]の字源・字義をそのまま[委(い)]と[倭(わ)]の字は受け継いだ。
だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の――[倭]の字は倉頡が創った[禾]の字源・字義を受け継ぐものであるゆえ、本州・日本列島の方位規定は時計回りに90度転回する――と説明していたことになる。
現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まる。
しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在すると定め、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
だから、【2】の[倭]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
下に、『魏志倭人伝』に記述された――[倭]の字源にもとづいて卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理と倭の34小国の位置と範囲の日本列島地図を配した。
下の図の日本列島の海岸線は中国の約3倍の長さを有し、しかも中国の海岸線よりも細密である。ゆえに――今から約4000年前の後期縄文時代初頭にて【倉頡が発明した漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】が習得された学術は日本列島の細密で3倍も長い複雑な海岸線によって、中国の各王朝とわが国の王朝が独占管理して厳重な機密とした王政の政権基盤であった【学問、つまり倉頡が発明した漢字作成理論】が保存されることになったのである。
◆漢字が作られた文字作成銀河(夏の銀河)のいちばん東の端に、下に示した「三つ輪の銀河」が所在する。その西隣は「十字の銀河」である。「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光に照らされて黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなった。ゆえに、「黄色く輝く、十字の銀河」は「月光にきらめく沙漠の砂」や、下図に示すように[馬]の字源「ゴビ砂漠における家畜の、フタコブラクダ」に見立てられた。[馬]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した文字作成理論】を象徴する聖獣となった。だから、[馬]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論における基礎的知識】となった。
下の図に示すように、[馬]の字源となった「十字の銀河」は、黄帝や倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭、中国全土の天頂にめぐってきて羅針盤(らしんばん)となった。つまり、「十字の銀河」は緯度(天頂緯度線)と経度(子午線)が1度の60分の1分以内の誤差で精確にキャッチできる羅針盤となった。
下図が示すように、黄帝時代の「十字の銀河」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」であった。ゆえに、「十字の銀河」は[邪]の字義を示した。上記したように、「十字の銀河」は[馬]の字源でもあり、「十字の銀河の子宮」が[壱]の字源であった。
だから、下の図の「黄帝時代の、十字の銀河(とその子宮)の様子」を、卑弥呼は【邪馬壱】と名づけて表示した。
卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、出雲大社の南に「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖があり、「神門水海」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬・フタコブラクダの形をした湖」であった。ゆえに、「神門水海」は【邪馬壱】のうちの「邪馬」をあらわした。「出雲の佐太神社と松江市が所在する島根半島東部の地宜(ちぎ/地図の形」は[壱]の字源「十字の銀河の子宮」に相似した。ゆえに、現在の島根県の中心部の地宜(ちぎ/地図の形)は、「黄帝時代の中国各地の天頂にめぐってきた《十字の銀河と(その子宮)》の様子」を伝える【邪馬壱】という語をあらわした。
卑弥呼は約2300年前の成立した【黄帝時代にて、倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めるものであったゆえ、【「邪馬壱」という語を示す島根県中心部】を倭人国の首都が所在する女王国と定めたのである。
上の図に示したように、黄帝時代には黄帝陵・北緯35度36分の天頂には「十字の銀河の頭部の中央部」が通過し、中国南部の太湖(たいこ)南岸・北緯31度の天頂には「十字の銀河子宮の南端」がめぐってきた。また、黄帝時代には黄帝陵の天頂には「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の後頭部につく、大きく見開いた目の中央の瞳(ひとみ)の部位」が通過し、あるいは太湖の南岸の天頂には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の端」がめぐってきた。
このような【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河の範囲の情報】は【倉頡が発明した漢字作成理論】の基礎となる学識となった。
というのも、〔歳差(さいさ)〕と呼ばれる天文現象によって、下図のごとく「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、黄帝陵・北緯35度36分の天頂にめぐってきた銀河」は、「十字の銀河」より南を通過していたからである。
卑弥呼時代における黄帝陵(北緯35度36分)の天頂にめぐってきた銀河は「鳥居の形をした中央部」であった(鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる部分の下部)。
ゆえに、当時、上に示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】を知らないと【倉頡が発明した漢字作成理論】に関してまったく説明することができなったゆえ、結局のところ、無知無学ということになった。だから、【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】は【銀河(文字作成銀河)の各部の形状を字源・字形・字義と定めた倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】にて、真っ先に必要な学識であった。
◆上の図で示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河における、十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の状況】は、【邪馬壱】という語で表示することができた。
倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
これゆえ、前述したように、黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきた「経度線と緯度線に邪(なな)めの、十字の銀河(とその子宮)」は[馬]の字源「フタコブラクダ」となり、「フタコブラクダ」は「せまい産道をくぐりぬける出産児」をあらわす聖獣となった。
下に図示したように、「せまい産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」は[馬]の字源「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪めとなる動き」に相似するゆえ、「邪馬」となり、[壱]の字源「産道」が加えて、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
〔注 下の図に示したように、草を食べるときの「フタコブラクダの鼻の形」は「出産児の頭骸骨の小泉門(しょうせんもん)」、「フタコブラクダの上アゴ」は「出産児の頭頂骨(とうちょうこつ)」、「フタコブラクダの口」は「出産児の大泉門(だいせんもん)」、「フタコブラクダの下アゴ」は「出産児の前頭骨(ぜんとうこつ)」が互いに邪めとなる様子に相似した。この様子を、卑弥呼は「邪馬」と表現したのである〕。
上記したように、【邪馬】という語は「せまい産道をくぐりぬけることができる機能を有する出産児の頭」のことであり、【壱】の字源は「骨盤や女性の生殖器官」であった。
下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ねあわせることができる仕組みになっている。ゆえに、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、今日、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
つまり、「広形機能」または「骨重積」を、上記したように卑弥呼は「草をモグモグと食べるときの馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなって動く様子」に相似するということで「邪馬壱」と表現した。
下に示す「出産児の5枚の頭蓋骨中央」にある「小泉門・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門」を、卑弥呼は【邪馬】と表現した。[壱]の字源は「(1)骨盤、(2)女性生殖器(子宮や産道)」であった。ゆえに「出産第一期・開口期(かいこうき)初めから出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの出産児の頭蓋骨と、母体の骨盤と生殖器官」を、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
下に示すように、《今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(黄帝の陵墓/北緯35度36分)の天頂緯度線》は「邪馬壱(小泉門・矢状縫合・大泉門)の形をした銀河」を撫(な)でるように西から東へ貫通していた。
吉野ケ里遺跡が所在する九州にも、纏向(まきむく)遺跡が所在する大和・畿内にも、【邪馬壱】という地宜は存在しない。さらに、『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と記載する。ゆえに、女王国名は「邪馬台国」であったと主張する九州説と畿内説は完全なる空理空論・妄想であった。
吉野ケ里遺と纏向遺跡の規模に優っても劣らない天高き高層建築の出雲大社が建造された出雲には、上記した【「明確なる、邪馬壱」の形をした地宜】が所在した。だから、「邪馬壱の地宜」が所在した出雲が『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が居住した女王国の邪馬壱国」であった。
前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわす文字を作成することであった。
倉頡は深遠なる銀河の神秘と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体させて【漢字作成理論】を発明した。これゆえ、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を【邪馬壱】という語であらわしたのである。
◆卑弥呼が黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」を表現した【邪馬壱】という語は、【狭い産道をくぐりぬける出産第一期・開口期の始まりから出産第二期・娩出期終わりまでの、出産児の頭の4回の回旋(90度の回転)のうちの第1回旋と第4回回旋】をヒントにして倉頡が創った[禾(か)]の「時計回りに90度転回する方位規定」をもあらわすことになった。
〔注 【第2回旋と第3回旋】をヒントにして、倉頡は[呉(ご)]の「反時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。〕
[禾]に[女]が加わって[委(い)]となり、人偏(にんべん)に[委]が加わると[倭(わ)]の字となる。[委]と[倭]は倉頡が創った[禾]の「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
白川静著『字統』は、[禾]の字を「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。また、同書は[委]の字を「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。(中略)。男女が稲魂に扮(ふん)して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。また、同書は[倭]の字について「委はもと田舞(たまい)の状をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年、女を委という」と解説する。
下に配した図が示すように、【邪馬壱】の語源となった「十字の銀河」は[禾][委][倭]の字源・字形・字義であった。
下の図に示すように、「十字の銀河の頭部が被る、冠(かんむり)に観える銀河」が「稲魂のかぶりもの」となる。「十字の銀河の、胴体の西側」には「乳房、妊婦のおなか、子宮」のイメージとなる箇所があるゆえ、「十字の銀河」は「女性の姿」に観える。「十字の銀河の左手(東側の手)を狩猟道具の弓の形を銀河」が隣接ゆえ、「十字の銀河の、東側半分の形」を注目すると、「十字の銀河」は「男性の姿」にも観える。
ゆえに、白川静著『字統』の[禾][委][倭]の字源解説文に登場する「男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼」は「十字の銀河を祭って踊るダンス」であったのである。
この「邪馬壱・十字の銀河を祭って稲魂をかぶって舞う男女の姿」にもとづいて、卑弥呼は「対馬(つしま)国から狗奴(くな)国」までの30の国々を、10ヵ国ずつ3グループに分けて【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)とあらわしたのである。
要するに、【1】1番目~10番目までの「対馬国~巳百支国」の10ヵ国の小国名によって――(1)倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。(2)黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の状況」を、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわしたこと――が解明できる。ゆえに、「対馬国~巳百支国」までの10ヵ国グループは「邪馬壱グループの国々」ということになる。
【2】11番目~20番目までの「伊邪(いや)国~華奴蘇奴(かなさな)国」の10ヵ国は、[倭]の字源「稲魂をかぶって舞う女の姿」にもとづく「女性グループの国々」となるように、卑弥呼は理路整然となる説明をもって分類している。
【3】21番目~30番目までの「鬼(き)国~狗奴(くな)国」の10ヵ国は、[倭]の字源「稲魂をかぶって舞う男の姿」にもとづく「男性グループの国々」になるように、卑弥呼は理路整然となる説明で分類している。
このように、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】と政権基盤と定めて天下を治めた。その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名を、上記した3つのグループに分けて、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明できるように仕組みにした――と記述している。
学者たちは――江戸時代中期に生存した新井白石(1657-1725年)が「邪馬台国説」を立論して『魏志倭人伝』に始めて学問的研究を加えたと称賛する。しかし、白石がとなえた邪馬台国説の実体は科学的根拠の裏付けがまったく無い誤読の空論・真っ赤なウソであった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』は――(1)黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河(とその子宮)」を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(2)【黄帝の「子供の出産と女性の生殖器官」の医学研究】を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(3)倉頡は「フタコブラクダ」を[馬]の字源と定め、そして「馬・フタコブラクダ」は「出産児」をもあらわすと定めたゆえ、卑弥呼は「産道をくぐりぬける出産児」を【邪馬壱】という語であらわした――と説明する書物であった。
わがブログは、今回までに「邪馬壱グループの10ヵ国」については解説し証明した。
次回から卑弥呼が「女性グループ」に分類した10ヵ国の解説と証明をおこなった後、卑弥呼が「男性グループ」と分類した10ヵ国の解説と証明に着手する。
【倉頡が発明した漢字作成理論】は、新井白石以後300年間も凌辱(りょうじょく)されつづけられて仮死状態となった。だから、このブログでは、約300年間も仮死状態となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を習う、つまり蘇生(そせい)することにした。
◆『魏志倭人伝』は、倭人国の1番目の小国は「対馬(つしま)国」、2番目の小国は「一大国」と記す。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説し証明した。わがブログは17回でも、1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を解説し証明した。
わがブログの18回は、3番目の末盧(まつろ)国と4番目の伊都(いと)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
このブログは19回で、5番目の奴(な)国と6番目の不弥(ふみ)国と15番目の不呼(ふこ)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説して証明した。「卑弥呼」の[弥]と[呼]は不弥国の[弥]と不呼国の[呼]であるゆえ、「卑弥呼」という倭女王名は「中国全土をもれなく包みこむ海岸線」を意味することを詳細に解説して証明した。
このブログは前回(20回)にて、7番目の「投馬(つま)国」と8番目の女王国「邪馬壱(やまい)国」と9番目の「斯馬(しま)国」と10番目の「巳百支(じはき)国」と11番目の「伊邪(いや)国」、5ヶ国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
今回のブログでは、12番目の「都支(たき)国」の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説して証明する。このため、都支国の東に隣接する21番目の「鬼(き)国」の名称の字源・字義と位置と範囲についての解説・証明が必要となる。
前述したように、『魏志倭人伝』は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する書物であった。
だから、当然、「都支国」という小国名には【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究についての説明】がそなわることになった。
つまり、「都支国」という小国名には――(A)〔男性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子〕について、(B)子と孫へと受け継がれる〔遺伝子〕について、(C)子宮における[鬼]の出来事によって妊娠の始まりの〔胎標(たいひょう)〕が起きるとした――黄帝の考えが秘められている。このため、「鬼国」の名称の字源・字義や地宜(ちぎ)の解明も必要となる。
下に配した〔斯馬国から邪馬国の位置と範囲の図〕の右下の「旧国の志摩(しま)」が「鬼国」であり、「旧国の伊勢(いせ)」と記した「志摩を除く、現在の三重県」が「都支国」であったことになる。
〔注 なお、実際は下図における伊勢の南部は旧国紀伊の東部である。また「鬼国・志摩」は「現在の三重県の東部」である〕。
下に配した21番目の小国となる〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上部に示した「志摩とその英虞湾(あごわん)の地宜」を、卑弥呼は「強いタカ(鷹)のヒナ(雛)が、餌(えさ)が不足したときに、餌として食べる弱いヒナ」に見立てて、「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。この「同じ巣で育つ強いタカのヒナが弱いヒナを餌とする習性」は「弱肉強食の苛酷(かこく)で厳(きび)しい自然の摂理(せつり)」を示すものとなり、「神」は「鬼、鬼神(きしん)」と名づけられて恐れ敬(うや)まれそして尊ばれることになった。だから、「鷹」は黄帝時代の中国でもわが国おいても「自然界を支配する最高位(大王)」を象徴することになり、「鬼」の字源となり、「鬼神」という語となった。
下の〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」地宜の図〕の下図に示したように、12番目の「都支国の範囲」は「伊勢と熊野(紀伊東部)、現在の志摩を除く三重県」である。また、「都支国の地宜」は「飛翔(ひしょう)する鷹の左翼(伊勢)・右翼(熊野)」に見立てられた。したがって、「志摩・鬼国(現在の三重県東部)の地宜」は「鷹の頭部(横顔)」に相似すると見立てられた。
現在、4番目の伊都(いと)国における糸島半島は、糸島市と福岡市に二分される。しかし、上の〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上図の左側に配したように――昭和の時代では糸島市は福岡県糸島郡の志摩町であった。この糸島郡の「志摩町」と「旧国の志摩」は同じ2字で表記される。ゆえに、「旧国志摩」は「伊都国」の「都」と解され、「伊勢と熊野」は「都(伊都国・志摩)から支(わか)れる国」ということも一つの要因で、「伊勢と熊野」は「都支国」という小国名になったと考えられる。
◆しかし、「都支国」という小国名になったのは――「鬼国と都支国の地宜」によって、黄帝がおこなった医学研究における「(A)精子と卵子、また(B)子と孫へ受け継がれる遺伝子、あるいは(C)子宮にておこる[鬼]の出来事」が表示する――と卑弥呼が考えた、この卑弥呼の考えが主なる原因である。
倉頡伝説では【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」と呼ばれた。「鳥獣の足跡」の「獣」は[牛]の字源「ジャコウウシ」と[馬]の字源「フタコブラクダ」であった。ゆえに、「ジャコウウシとフタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
[馬]の「フタコブラクダ」は、前述したように「(1)子宮で育つ胎児と、(2)狭い産道をくぐりぬける出産児」をも意味することになった。
他方、「ジャコウウシ」は「(1)女性の骨盤と、(2)女性の生殖器官」をも意味することになった。その理由は、百頭以上が一団とされたジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲撃されると、子を真ん中に隠して、円陣を組んで防衛したからである。ゆえに、「円陣を作って防衛する、ジャコウウシの群れ」は「骨盤、つまり女性の生殖器官の大半を包囲する骨盤」を意味することになり、「真ん中に隠すジャコウウシの子」は「女性の生殖器官、つまり大半が骨盤内にある女性の生殖器官」を意味することになった。
下に〔女性の生殖器の正面形と[美(び)]の契文形の解説図〕を示した。
「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられた。「左右一対の卵管・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)」は「ジャコウウシの左右一対の角(つの)」に相似すると見立てられた。また、「左右一対の卵巣(らんそう)」は「ジャコウウシの両耳」に見立てられた。「子宮と膣(産道)」は「ジャコウウシの顔」に見立てられた。そして、「女性の生殖器」は[美]の字源・字形・字義となった。
白川静著『字統』は[美]の字源を「羊の全形。下部の大は、羊が子を生むことを羍(たつ)というときの大と同じ意で、羊の後脚をも含む形である」と解説する。
現在、カナダとグリーランドに生息するジャコウウシは氷河時代には、はるか南までを生息地域として、ヨーロッパやアジアにも分布していた。動物学においては、ジャコウウシはヒツジ(羊)に近い種とされる。ゆえに、別名は「ジャコウヒツジ」である。だから、白川静著『字統』の[美]の字説は「ジャコウヒツジ」について解説するものであったことになる。
今から約5000年前の黄帝時代、陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)に所在する黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵周辺には、ジャコウウシが生息していた。ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝軍が駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵は円陣を組んで自衛した」と説明する記事がある。ゆえに、「黄帝軍の軍兵は天敵オオカミに襲撃された時のジャコウウシに学んで円陣を組んで駐屯していたこと」になる。
上に示した〔女性の生殖器の正面形〕は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられたゆえ、[牛]の字源「ジャコウウシ」は「女性の生殖器」を意味することになった。
そして、黄帝は「女性の生殖器における卵管采・卵管膨大部と卵巣の形状」を注目して、「(A)精子と卵子、(B)子と孫へ受け継がれる遺伝子」という概念(がいねん)を確立させた。
下に配した〔卵管采・卵管膨大部・卵巣上体・卵巣の図〕が示すように、「卵管采・卵管膨大部と卵巣は男女が愛撫(あいぶ)して交わるような形状」をしている。ゆえに、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」にもとづいて、黄帝は「精子と卵子の形」を推定した。また、「卵管采・卵管膨大部と卵巣が繋(つな)がる形状」から、黄帝は「精子と卵子には祖先・親・子・孫へと容貌や性格や遺志などを繋げ伝える遺伝子なるものが存在する」と推定した。
[弥]の字源「カンムリカイツブリ」のオスとメスは頭部をもたげながら接近し、向かい合って頚部(けいぶ)を左右にふる情熱的な求愛行動をおこなう。その後、羽づくろいをしたり、たがいに巣材を回収するという複雑な求愛行動をおこなう。黄帝は「卵巣上体」から「鳥の羽」を連想し、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」を「カンムリカイツブリの求愛行動」に相似すると見立てた。つまり、黄帝は「目に見えない小さな精子と卵子の形」は「求愛行動するときのカンムリカイツブリのオスとメスのような姿」をしていると推定した。
また、黄帝は「子と孫の顔や性格は両親や祖父・祖母に相似する」ことに注目して、「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となる」、また「死産した子の命も、後日の精子と卵子が卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで結合して蘇(よみがえ)る」と考えたにちがいない。というのも、「卵管采・卵管膨大部」は「蝶の成虫」のごとくに観え、「卵巣」は「蝶がとまって蜜を吸う花」に相似するからである。蝶の幼虫は蛹(さなぎ)となり、蛹は死骸・ミイラのごとくになるが、蛹からは命が蘇って美しい成虫の蝶となる。だから「卵管采・卵管膨大部と卵巣」を「美しい蝶と花」の見立てた黄帝は「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、父母・祖父・祖母や先祖から受け継ぐ遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となって蘇る」と考えたのである。
白川静著『字統』は、[習]の字を「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収める器。この器の上を摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。つまり、「卵管采・卵管膨大部・卵巣上体」は「羽」と見立てられ、「卵巣」は[曰]の「出産を祝い、子授け祈祷する祝祷に用いる器(土器)」に見立てられて、[習]の字は成立した。
上記したように、黄帝は「カンムリカイツブリのオスとメスの姿に相似する精子と卵子は、蝶と花を連想する一対二つの卵管采・卵管膨大部・卵巣のどこかで結ばれて二つの卵となる。しかし、[鬼]の現象によって一つの標(胎標)となっていったん蝶の蛹(さなぎ)のごとくの死骸(ミイラ)のごとくなるが、蛹から美しい蝶が誕生する」がごとく、「母体が子を授かりたいという願いによって、蝶のごとく精子と卵子は人の命となって蘇る」と考えた。ゆえに、[習]の字は「祝祷の土器を羽で摺って(こすって)、呪能を刺激して蘇る(復興する)状況」をあらわすことになった。ゆえに、[習]の字義は「蘇る。復興する」となった。
だから、前述したように、中国の正史『新唐書』日本伝にある「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、稍々(少々)、夏音文字を蘇らせることにした(復興することにした)」と意味したことになる。
◆下に〔「女陰」と「男性生殖器、つまり陰嚢(いんのう)と陰茎(いんけい/男根)の形に相似する夏の銀河の広大の範囲図〕を配した。
前掲した〔文字作成銀河(夏の銀河)各部の名称図〕のおける右下の「胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の銀河の頭部・首部」は、「男性生殖器の陰嚢部」に相当し、「巨龍の銀河の首から尾まで(彦星の箇所)」までは「男性生殖器の陰茎)部」に相当して、「男根生殖器の形」にソックリとなる。
この「男根生殖器の形をした銀河」の北側にある国際的天文学の名称「コールサック」と呼ばれる暗黒天体部は「女陰」のイメージとなる。
これゆえ、〔「女陰」と「男性の生殖器」の形に相似する広大な夏の銀河像〕は「子どもを生むための性交」をあらわす。
「コールサック」の西側に国際的天文学の名称の「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」の名称である。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびた、銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の語源となった。
下に、〔今から約5000年前の黄帝時代において、中国全土(太湖の南の北緯30度の紹興市・卑弥呼時代の「会稽」から黄帝陵がある北緯35度36分まで)の天頂にめぐってきた銀河の範囲図〕を示した。この図が示すように、西の「北天の最輝部」は中国全土の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央」が黄帝陵の天頂にめぐってきた。
下に〔美しい桃色をおびた銀白色の「北天の最輝部」の図〕を配した。
黄帝は「銀色に輝く、北天の最輝部」は「求愛行動するときの、カンムリカイツブリの姿」に相似すると見立てて、黄帝は「目に見えない微小の精子と卵子の形」は「北天の最輝部のような形」をしていると推定した。というのも、「カンムリカイツブリの顔とノドは白く、頸(くび)以下の体下面は銀白色に輝く」ゆえ、黄帝は「卵子と精子の形」は「白く銀白色に輝く北天の最輝部」のごとく、また「カンムリカイツブリのごとくの姿」のごとくであると推定したのである。
下の図に示したように、「銀色に輝く、北天の最輝部」は「情熱的な求愛ダンスをするときのカンムリカイツブリのオスとメスが水面に対して直立姿勢となって足で水をバチャバチャと動かして水飛沫(みずしぶき)を浴びる姿」に相似する。〔注 下の図における右側の「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」は、今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物綿密・生態画集】』(平凡社発行)の143ページから転載した〕。
前掲した〔[呉]の字源解説図と金文形〕と題した〔黄帝時代の中国全土にめぐってきた銀河図〕において、下の図に示すように――黄帝陵(北緯35度36分)の天頂には「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
黄帝は「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮」と「カンムリカイツブリの巣」に見立て、「十字の銀河の頭が被(かぶ)るカンムリの形」は「北天の最輝部の概略形」に相似するのに注目して――黄帝は「精子と卵子」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭が被るカンムリ」のごとくの形をしていると推定した。そして、黄帝は「精子と卵子は北天の最輝部の形に相似するカンムリカイツブリのオスとメスのごとく、情熱的な求愛ダンスをして結ばれる。だから、黄帝は「精子と卵子の結合」を「受精(じゅせい)」と定めた。
◆黄帝時代、西の「北天の最輝部」は黄帝陵(北緯35度36分)の天頂より南約1度~約5.5度の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央部」は黄帝陵の天頂にめぐってきた。
ゆえに、[都](黄帝陵)を示す銀河部は西の「北天の最輝部の少し北側」と東の「十字の銀河の頭部の中央部」に支(わか)れた。
ゆえに、卑弥呼は「東の伊勢と西の熊野の地宜」の小国名を「都支国」と定めた。つまり、卑弥呼は――黄帝時代の黄帝陵(都)の天頂における「精子と卵子の形をあらわす銀河部」が「北天の最輝部の少し北側」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」に支(わか)れる――ゆえ、「東の伊勢と西の熊野に支れる小国名」の名称を「都支国」と定めたのである。
前回のブログで解説したように、10番目の小国「巳百支(じはき)国」の[支]は「天橋立(あまのはしだて)によって西の阿蘇海(あそかい)と東の宮津湾に支れる様子」をあらわした。
『説文解字』は[阿(あ)]の字を「大陵を阿と曰(い)ふ」と解説する。「阿」という「大陵」は「黄帝陵」のことであった。前述したように、「阿蘇海」の[蘇(そ)]は「卵巣」を「花」に見立て「卵管采・卵管膨大部」を「花にとまって蜜を吸う蝶」に見立てて――「蝶はまるで死骸(ミイラ)のような蛹(さなぎ)になっても、その蛹から命が蘇って美しい成虫となる」という考えが[蘇]の字源となった。
これゆえ、「阿蘇」は「不老長寿」を意味した。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびて白く輝く」ゆえ、「白桃(はくとう)」に見立てられた。中国において上古から現在まで、「桃」は不老長寿を与える植物として親しまれている。桃の原産地は中国の西北部の黄河上流の高山地帯とされるゆえ、[牛]の字源「ジャコウウシ」の生息分布地域であった可能性が大となる。
下の図を配したように、「黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭部中央の穴(暗黒天体部)」は「女性の骨盤口(骨盤入口と骨盤出口)」の両者が180度転回しあう形に相似する。
ゆえに、その頭部が「子宮を包囲してまもる骨盤の形」に相似し、また、その腰の部分に「子宮に相当する部分」を有する「十字の銀河」は、「子宮」の[宮]の字源となった。「十字の銀河」は「書契(五帝時代の原初漢字)や夏音文字を地面に書く聿(ふで)」に見立てられ、さらに、「十字の銀河」は「船を安全に泊(と)めることができる港」に見立てられて、「港」を意味する[津(つ)]の字源となった。
したがって、天橋立の東の「宮津湾」の[宮]の字源は「十字の銀河」であった。[津]は「港(宮津市の港)が、外海より深へ入って波が低い湾の奥にある」ということで、天橋立の東の「湾」は「宮津湾」と名づけられた。
以上のごとく、黄帝は、「精子と卵子」を「北天の最輝部と十字の銀河の頭が被るカンムリ」のような形をしていると推定した。さらに、黄帝は「北天の最輝部と十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似するゆえ、「カンムリカイツブリのオスとメスが求愛ダンスをするがごとく、精子と卵子が結ばれて受精がなされる」と推定した。
だから、黄帝が考えた「精子と卵子」や「受精」の意見に因(ちな)んで、卑弥呼は「伊勢と熊野」の小国名を「都支国」と定めたのである。
ここまでの解説で、「(A)精子と卵子、(B)子と孫へ受け継がれる遺伝子」を証明した。
後は残る「(C)子宮における[鬼]の出来事」の解説と証明をおこなうことにする。
◆「倉頡が漢字を発明した」と説明した倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった――と伝えるものであった。
倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった。というのも――カンムリカイツブリと鳰(にお/カイツブリ)を「子宮で育つ胎児」を象徴する「鳥」と定められ、牛・ジャコウウシは「骨盤・女性生殖器」を象徴する獣、馬・フタコブラクダは「せまい産道をくぐりぬける出産児」を象徴する「獣」と定められ、「十字の銀河の子宮」は「人間や動物が歩いた足跡」に相似すると見立てられた――ゆえ、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と名づけられた。そして、倉頡伝説に登場する「古来の結縄」は「約6000年前の三皇時代から始まる〔易卜に用いた記号〕」のことであった。また、「死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった」という説明は「三皇時代の包犧(ほうぎ)氏と女媧(じょか)氏と神農(しんのう)氏の死霊たちは、倉頡が夜に輝く銀河から文字を作る発明したゆえ、自分たちの歴史が後世に伝わるようになったと感激して泣く声が夜な夜な輝く銀河から作られた文字によって聞こえるようになった」と意味した。そして「四つ目の怪人の倉頡」は「漢字は夏の銀河(文字作成銀河)から作られた」と伝える説明であった。というのも、黄帝時代には中国全土の天頂に「鬼の横顔に似る銀河の顔に両目、鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにも二つの目がある、計四つの目がある四つ目の銀河」がめぐってきていたからである。
下に、〔黄帝時代の「四つ目の銀河」と天頂緯度線の図〕を配した。下の図に示したように、黄帝時代、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)の後頭部にある、大きく開く目の中央」が、黄帝陵(北緯35度36分)の天頂にめぐってきた。また、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)のアゴにつく切れ長の細い目の目じり」が、中国南部にある太湖(たいこ)南岸の天頂
を通過した。
下に配した〔[鬼]と[耳]と[餌]の字源銀河解説図〕に示したように、[鬼]の金文形は――「四つ目の銀河における大きく開く目(鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目)から北アメリカ星雲にかけての範囲」が[鬼]の字源銀河である――と示している。
というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[耳]の字源銀河であったからである。
[食]に[耳]が加わると[餌](えさ)の字となる。つまり、下の図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の大きく開く目と切れ長の細い目」は「強く大きく育ったタカ(鷹)のヒナの両目」に見立てられた。その「強い鷹のヒナの両目」がにらみつける「北アメリカ星雲」は「餌(えさ)がとぼしいために餓えた強い鷹のヒナが餌とする弱いヒナの顔」に見立てられた。というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[耳]の字源となったからである。だから、[食]に[耳]が加わって成立した[餌]の字源「北アメリカ星雲」は「強いヒナの餌となる弱いヒナ」をあらわした。
鷹は1~4つの卵を産む。まれに、6卵産むことがある。産卵後に第1卵か第2卵を抱くので、ヒナの孵化(ふか)は同時でなく、ヒナに強弱ができ、強いものが生き残る。しかし、餌がじゅうぶんならば弱いヒナも育つという。メスが主として抱卵(ほうらん)にあたるが、オスも交替する種類(ノスリまど)がある。一般にオスがメスに餌をはこび、メスがちぎってヒナにあたえる例が多い。
上記したように、[餌]の字源は「弱肉強食の自然摂理」の「鬼」をあらわした。
その証拠に、前述したように、21番目の「鬼国・志摩の英虞湾(あごわん)の地宜」は「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌とする形」にソックリである。
上の図で[鬼]の金文形モデルとなった範囲「鬼の角(つの)と鬼の横顔に似る銀河の左目と後頭部につく大きく見開いた眼を包囲する銀河部」は「太った鬼の横顔がやせて小さくなった、つまり、鷹のヒナたちが餓(うえ)えた状態」を表現していると考えられる。つまり、その範囲は「子どもをののしっていう語〔餓鬼(がき)〕、あるいは相手をけなしてののしる語〔餓鬼〕」の語源であるにちがいない。
下の上図は〔「邪馬」、つまり小泉門・矢状縫合・大泉門がある出産児の頭蓋骨図〕である。「邪馬」に[壱]の「骨盤と産道」を加えて、卑弥呼は「邪馬壱」と表現して、倭国の首都が所在する王国の名称とした。
下に配した下図は〔「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河図」である。
〔「邪馬」の銀河図〕における「小泉門」の銀河部〕は、前掲した〔[鬼]と[耳]と[餌]の字源銀河解説図〕における「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌としてついばむ嘴(くちばし)」となる。出産は――出産児が「小泉門」を先進させて頭を90度時計まわりに横向きにして横長の母親の骨盤入口をくぐりぬける――開始される。だから、「出産」は「小泉門がせまい産道を先進して」成される。下の〔「邪馬」の銀河図〕のごとく、「小泉門」が「強い鷹のヒナの餌になる」と、「出産児は産道を進むことができず死ぬこと」になる。
だから、「すべての出産児が死んでしまう! 不吉!」ということで、古代字形(契文・金文)では「くちばし」をあらわす字が作成されなかった。(また、「精子と卵子」に見立てた「卵管采・卵管膨大部と卵巣」にも、「くちばし」に相当する部分が無い)。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は19回の中半で、「胎児や出産児にはカンムリカイツブリや鳰のような〔くちばし〕が無い。だから、[弥]の字源となった「山東半島には〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理」、[呼]の字源となった「杭州湾(こうしゅうわん)にも〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理となった」と解説したが――ほんとうの原因は、上記した「強い鷹のヒナの〔くちばし〕が小泉門を餌にする銀河の形状」にもとづき、古代字形では〔くちばし〕をあらわす文字が作られなかったのである。
◆受精した卵(らん)が子宮の壁(かべ)に着床(ちゃくしょう)するまでを卵期(らんき)という。
受精後10日めごろに、将来ヒトとなる胎標(たいひょう)ができる。卵から将来ヒトとなる胎標ができるまでを胎芽期(たいがき)という。
生物学において、現在は否定されているようであるが、かつて世間一般的に、胎芽期において1個の卵がそのまま一人のヒトになると考えられていた。
黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して、二つの卵が生まれる。しかし、二つの卵は〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって一人のヒトとなる胎標になる――と考えた。
下に、〔胎芽期における胎標の図〕を配した。下の上図は〔受精後8日ごろの卵と子宮粘膜の図〕である。上図中央の「卵細胞」が分化して、下図のごとく〔受精後10日ごろ〕になると、その図の中央にある「胎標」となる。
下の上下図が示すように、卵標は皿形の鷹の巣のような空所(くうしょ)の底にできる。その鷹の巣に相当するのは、子宮粘膜上皮・子宮粘膜組織である。下に配する上図の「子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形(側身図)」は、前掲した〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕における「鷹の両翼のような形をした伊勢と熊野の地図の形、つまり都支国の地宜」に相似する。
【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定めた[牛]の字源「ジャコウウシ」は「ふつう、一産一子」である。同様に、聖獣[馬]の字源「フタコブラクダ」も「ふつう、一産一子」である。人も同様に「ふつう、一産一子」である。だから、もしもジャコウウシとフタコブラクダが人と同様に一産一子でなかったならば、ジャコウウシとフタコブラクダを倉頡は【漢字作成理論】を象徴する聖獣に選ばなかったにちがいない。
黄帝は「胎芽から子どもが誕生するまでの期間」を「約十ヵ月」をつきとめた。だから、黄帝時代において、「一」が十倍で「十」となり、「十」が十倍で「百」となり、「百」が十倍で「千」となり、「千」が十倍で「万」となる数の十進法が確立されたと考えられる。
下に、再度〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕を配した。
前述したように、〔胎芽期において「胎標」ができる空所〕は「鷹のヒナが育つ巣の空所(穴)」に相似する。
また、〔胎芽期において子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形〕は、下に配した図の「鷹の両翼の形に似る伊勢と熊野の、都支国の地宜」に相似する。というのも、「鬼国・英虞湾の地宜は強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌にしている様子」に観えるからである。
だから、黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合した二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって、一人のヒトとなる胎標になる――と考えたのである。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「黄帝は山川の鬼神(きしん)をまつって封禅(ほうぜん)した」と説明する。
だから、「鬼神」の[鬼]の本義は「弱肉強食の自然の摂理」ではなかったことになる。[鬼]の本義は「胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して生まれた二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にするような働き〕によって一人のヒトとなる胎標が形成される――と、黄帝が推定した「子宮において一産一子となる[鬼]の出来事」であったことになる。
司馬遷著『史記』夏本紀は「帝禹(う)は衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にした」と説明し、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能(よ)く衆(しゅう)を惑(まど)わす」と記述する。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】からまつることになった鬼神の道(つまり学問)を政権基盤にして人心を集めて国家をまとめていた」と説明していたことになる。「惑わす」を「妖(あや)しくまどわす」と訳する人々がいるが、これは誤訳である。
白川静著『字統』が「惑は国の初文」と指摘する。だから、[惑]は[国]の最初の字であったゆえ、卑弥呼が用いた夏音文字には「妖しくまどわす」という意味は有していなかったと考えるべきことになるからである。
◆1940年生まれの人は、2020年の誕生日で満80歳であるが、数えだと81歳となる。というのも、数えの年齢数は子宮で育つ10カ月間を1歳と数えるからである。
下に、[数]の金文形を示した。[数]の金文形は「両翼をひろげる鳥」の下に[言]が加わる字となる。
前述したように「都支国」の「都支」の語源となった「北天の最輝部の形」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形」は、下に配した[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」に酷似する。ゆえに、[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」は「黄帝が考えた、精子と卵子の形」をあらわしていることになる。
前掲した〔女性の骨盤口と十字の銀河の頭の穴の図〕では――「女性の腹部側の骨盤口(骨盤出口)の形」は「十字の銀河の頭部の頭の北側の穴」に合致して、両者は180度転回しあう形となる。
だから、下に〔黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた十字の銀河の頭部を下にする、逆さの(180度転回する)図〕を配した。この「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となったと考えられる。
下に「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となった解説図を配した。だから、前掲した[数]の金文形下部の[言]は、下の「逆さ十字の銀河」から作られた[言]「であったにちがいない。
胎芽期の胎標からから始まって約十ヵ月後に頭が誕生すると、出産児はすぐに呼吸をはじめた直後に声(泣き声)をあげる。この「泣き声」が、「この世に生まれた人の言(ことば)の始め」となる。
したがって、[数]の金文形の上の「両翼をひろげる鳥の図案」は黄帝が考えた「きわめて微小な人間の目に見えない精子と卵子の形」、下の[言]は「出産児が誕生した直後にあげる泣き声」をあらわしているにちがいない。
だから、前掲した[数]の金文形は「数え年」の「子宮で育つ十ヵ月」をあらわしていることになる。
◆『魏志倭人伝』に列記される21番目は「鬼国」、12番目は「都支国」、13番目は「弥奴(みな)国」、14番目は「好古都(こかた)国」、15番目は「不呼(ふこ)国」である。
下に示したように、鬼国と都支国は隣接しあって【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわし、12番目の都支国は13番目の隣接する尾張(現在の愛知県西部)・弥奴国と相互に(連鎖的)に関連しあっている。
また、連結する13番目の弥奴国と14番目の三河(現在の愛知県東部)好古都国と15番目の遠江(現在の静岡県西部)も理路整然となるように順番が意図的に決められている。
下に〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕を配した。この図の女性の骨盤における「腸骨翼(ちょうこつよく)の形」は[弥]の字源「恥骨結合(ちこつけつごう)で向かい合う一対・二羽のカンムリカイツブリの横顔」に相似する。
上に配した地図が示しているように、「都支国」の隣りは「弥奴国」である。ゆえに、「腸骨翼の[弥]のカンムリカイツブリの横顔」は都支国と弥奴国との両国で共通しあう。つまり、「黄帝が精子と卵子は求愛行動するカンムリカイツブのオスとメスの姿に似ていると推定したこと」にもとづいて、卑弥呼は「伊勢と熊野」を「都支国」と名づけた。「弥奴国の地宜」は「黄帝が精子と卵子の形を推定した、そのカンムリカイツブリの姿」に相似している。だから、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明するために「都支国」の隣国の「旧国・尾張」の小国名を「弥奴国」と定めたことになる。
上の〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕が示すように――恥骨結合で向かい合う腸骨翼の形は[弥]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似する。ゆえに、この観点からも、黄帝は「精子と卵子の形は情熱的な求愛ダンスをするオスとメスのカンムリカイツブリの姿に相似する」と推定したと考えられる。
石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店発行)は「都(郡)支国」と記載して、「都支国」は「郡支国」とも表記されたと注を加えている。ゆえに、「都支国」を幾人かの学者たちは「郡支国」であったと考える。
白川静著『字統』の[郡]の解説には――〔釈名(しゃくみょう)、釈州国〕には「郡は群なり」と音義説がある――と指摘する。このように、[郡]が[群]となった事情は下記のごとくであった。
上に配した図の「女性の骨盤」は「百頭以上が一団となる牛・ジャコウウシの群れが天敵のオオカミに襲撃された時に、子どもを真ん中に隠して組む円陣」に見立てられたゆえ、「女性の骨盤」は[群]の字源となった。また「いくつかの里が百頭余のジャコウウシが組む円陣のごとく多数群がって郡となる」ということで、「郡は群なり」となった。
下に配した〔弥奴国・尾張の地宜とカンムリカイツブリの図〕が示すように――《「精子と卵子の形」は[弥]の「カンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似する》という「都支国」という小国名の由来となったと同じく、「弥奴国」もまた「カンムリカイツブリ」が小国名の由来となった。
◆以上のごとく、「邪馬台国説」は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空論であった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」を説明する記事が1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと記す。【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわす。
中国では解明できなくなったが――わが国では中国の海岸線よりも約3倍に長い海岸線を有し、その海岸線は文字作成銀河各部から作られた多数の文字の字源・字形・字義を正確に保存できるように細密であった。ゆえに、この細密の長い海岸線に多数の小国の境界線、さらに湖沼などの地宜が加わったゆえ、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成した【倉頡が発明した漢字作成理論】によって生まれた文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を細密にして長い海岸線・小国の境界線・湖沼などの地宜で正確に保存することができたのである。
だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明していた」と伝える――世界的にも“人類共通の宝・文字の起源が科学的に解明できる奇跡の書物”であったのである。
にもかかわらず、江戸時代中期、新井白石は真っ先に「『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読む」という学問の鉄則を無視して、まったく根拠のないデタラメ・空想をとなえた。このような新井白石に対し、学者たちは「白石は始めて『魏志倭人伝』に学問的検討を加えた」と絶賛して、邪馬台国説こそが最も正しい意見であるとメディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かした。
邪馬台国説は実に雑・ザツ! 論法は実にザツ! とにかく新井白石の邪馬台国説に合致する意見こそが最も正しいと主張する、この論法は実に雑・ザツ・ザツである!
その証拠に、白石の論法に従わずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば芋づる式に続々と【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が解明でき証明できる仕組みになっている。
邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】の説明を抹殺(まっさつ)する人類共通の敵であった。というのも、【文字の発明】は【地球的規模の人類の理性と知性の起源】であったからである。
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