G-T0XYQT12LL 書籍・雑誌: 卑弥呼の逆襲

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2021年6月13日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・21

▼いわゆる「邪馬台国説」は日本人の根源たる精神・魂を破壊するデタラメ・サギである。邪馬台国説は真っ赤なウソであった! メチャクチャな空理空論であった!
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで毎回証明してきたように――『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するごとくの「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国は「邪馬台国」ではない。『魏志倭人伝』は「邪馬壱(やまい)国」と記す。
 『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、わが国で解明できることになった漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に伝える書物であった。
 九州説と畿内説は【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】をもって、漢字の起源の秘密を具体的に理路整然と伝える『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱(りょうじょく)して抹殺する、欺瞞(ぎまん)・暴論であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 新井白石(16571725)以来、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と【誤読の空論・詐偽・詭弁】をもって、メディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かしつづけている――このような『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の説明の抹消(まっしょう)は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ酷(ひど)い仕打ちをうけているとまったく同じと言わざるをえない。だから、冤罪で抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【日本人の精神・魂の根源となった・漢字の起源の真実、世界史的にも絶対に抹消されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務となる。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える歴史とその真実】を凌辱して日本を破壊する空理空論・妄想(もうそう)である――この事実を徹底的に科学的に証明して暴露することにした。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・30

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――当然、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」と伝えた――という記事がある。この遣唐使が告げた言は「壬申の乱の後、稍々(少しだけ)習う、つまり復興する」と意味した。702年の時点では『古事記』上巻に「稍々、夏音文字を習う」予定であったが、10年後の702年に成立した『古事記』上巻には〔音〕という注がついた夏音文字が多数記載されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張し、ほとんどの日本人が信じる絶対的定説は、(1)『古事記』上巻に多数の夏音文字が習い・蘇(よみがえ)っている事実と(2)音韻学の成果に反する空論であったのである。

◆漢字は今から約5000年前、 黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 現在、【倉頡によって起源した歴史】は漢字が起源した中国では解明されていない。また、わが国でも「邪馬台国説」という低劣な空理空論のために解明できないことになった。
 【漢字が起源した歴史と事情】、言いかえると【倉頡を発明した漢字作成理論】を理路整然と手に取るように明確に詳細に説明していた書物が『魏志倭人伝』であった。
 ところが、あろうことか、新井白石以後の邪馬台国説研究によって『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理】は排除されて闇に葬られた。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。というのも、【倉頡が発明した漢字作成原理】は『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼による30ヵ国の小国名に標示された理路整然とした説明】によって復興することができるからである。だから、『魏志倭人伝』の記事を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論】は銀色に輝いて燦然(さんぜん)と蘇(よみが)える。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視・排除された。このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が定説となった。
 だから、学者たちが上記した二つの記事を注目していれば――従来の「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀~6世紀である」という絶対的定説は否定され、さらに幾人かの学者たちによる『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する方法によって『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に最古の漢字音の夏音文字が記載されていると指摘されて「中国で解明できなくなった、【倉頡によって発明された漢字作成理論】」がとっくのむかしに解明できていたにちがいない。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 『魏志倭人伝』に記述されている【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回までわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明してきたように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の――[]の字は倉頡が創った[]の字源・字義を受け継ぐものであるゆえ、本州・日本列島の方位規定は時計回りに90度転回する――と説明していたことになる。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まる。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在すると定め、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 下に、『魏志倭人伝』に記述された――[]の字源にもとづいて卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理と倭の34小国の位置と範囲の日本列島地図を配した。
 下の図の日本列島の海岸線は中国の約3倍の長さを有し、しかも中国の海岸線よりも細密である。ゆえに――今から約4000年前の後期縄文時代初頭にて【倉頡が発明した漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】が習得された学術は日本列島の細密で3倍も長い複雑な海岸線によって、中国の各王朝とわが国の王朝が独占管理して厳重な機密とした王政の政権基盤であった【学問、つまり倉頡が発明した漢字作成理論】が保存されることになったのである。
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◆漢字が作られた文字作成銀河(夏の銀河)のいちばん東の端に、下に示した「三つ輪の銀河」が所在する。その西隣は「十字の銀河」である。「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光に照らされて黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなった。ゆえに、「黄色く輝く、十字の銀河」は「月光にきらめく沙漠の砂」や、下図に示すように[]の字源「ゴビ砂漠における家畜の、フタコブラクダ」に見立てられた。[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した文字作成理論】を象徴する聖獣となった。だから、[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論における基礎的知識】となった。
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 下の図に示すように、[]の字源となった「十字の銀河」は、黄帝や倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭、中国全土の天頂にめぐってきて羅針盤(らしんばん)となった。つまり、「十字の銀河」は緯度(天頂緯度線)と経度(子午線)1度の60分の1分以内の誤差で精確にキャッチできる羅針盤となった。
 下図が示すように、黄帝時代の「十字の銀河」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」であった。ゆえに、「十字の銀河」は[]の字義を示した。上記したように、「十字の銀河」は[]の字源でもあり、「十字の銀河の子宮」が[]の字源であった。
 だから、下の図の「黄帝時代の、十字の銀河(とその子宮)の様子」を、卑弥呼は【邪馬壱】と名づけて表示した。
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 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、出雲大社の南に「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖があり、「神門水海」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬・フタコブラクダの形をした湖」であった。ゆえに、「神門水海」は【邪馬壱】のうちの「邪馬」をあらわした。「出雲の佐太神社と松江市が所在する島根半島東部の地宜(ちぎ/地図の形」は[]の字源「十字の銀河の子宮」に相似した。ゆえに、現在の島根県の中心部の地宜(ちぎ/地図の形)は、「黄帝時代の中国各地の天頂にめぐってきた《十字の銀河と(その子宮)》の様子」を伝える【邪馬壱】という語をあらわした。
 卑弥呼は約2300年前の成立した【黄帝時代にて、倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めるものであったゆえ、【「邪馬壱」という語を示す島根県中心部】を倭人国の首都が所在する女王国と定めたのである。
 上の図に示したように、黄帝時代には黄帝陵・北緯3536分の天頂には「十字の銀河の頭部の中央部」が通過し、中国南部の太湖(たいこ)南岸・北緯31度の天頂には「十字の銀河子宮の南端」がめぐってきた。また、黄帝時代には黄帝陵の天頂には「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の後頭部につく、大きく見開いた目の中央の瞳(ひとみ)の部位」が通過し、あるいは太湖の南岸の天頂には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の端」がめぐってきた。
 このような【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河の範囲の情報】は【倉頡が発明した漢字作成理論】の基礎となる学識となった。
 というのも、〔歳差(さいさ)〕と呼ばれる天文現象によって、下図のごとく「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、黄帝陵・北緯3536分の天頂にめぐってきた銀河」は、「十字の銀河」より南を通過していたからである。
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 卑弥呼時代における黄帝陵(北緯3536)の天頂にめぐってきた銀河は「鳥居の形をした中央部」であった(鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる部分の下部)
 ゆえに、当時、上に示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】を知らないと【倉頡が発明した漢字作成理論】に関してまったく説明することができなったゆえ、結局のところ、無知無学ということになった。だから、【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河状況】は【銀河(文字作成銀河)の各部の形状を字源・字形・字義と定めた倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】にて、真っ先に必要な学識であった。

◆上の図で示した【黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた銀河における、十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の状況】は、【邪馬壱】という語で表示することができた。
 倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
 これゆえ、前述したように、黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきた「経度線と緯度線に邪(なな)めの、十字の銀河(とその子宮)」は[]の字源「フタコブラクダ」となり、「フタコブラクダ」は「せまい産道をくぐりぬける出産児」をあらわす聖獣となった。
 下に図示したように、「せまい産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」は[]の字源「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪めとなる動き」に相似するゆえ、「邪馬」となり、[]の字源「産道」が加えて、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
 〔注 下の図に示したように、草を食べるときの「フタコブラクダの鼻の形」は「出産児の頭骸骨の小泉門(しょうせんもん)」、「フタコブラクダの上アゴ」は「出産児の頭頂骨(とうちょうこつ)」、「フタコブラクダの口」は「出産児の大泉門(だいせんもん)」、「フタコブラクダの下アゴ」は「出産児の前頭骨(ぜんとうこつ)」が互いに邪めとなる様子に相似した。この様子を、卑弥呼は「邪馬」と表現したのである〕。
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 上記したように、【邪馬】という語は「せまい産道をくぐりぬけることができる機能を有する出産児の頭」のことであり、【壱】の字源は「骨盤や女性の生殖器官」であった。
 下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ねあわせることができる仕組みになっている。ゆえに、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、今日、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 つまり、「広形機能」または「骨重積」を、上記したように卑弥呼は「草をモグモグと食べるときの馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなって動く様子」に相似するということで「邪馬壱」と表現した。
 下に示す「出産児の5枚の頭蓋骨中央」にある「小泉門・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門」を、卑弥呼は【邪馬】と表現した。[]の字源は「(1)骨盤、(2)女性生殖器(子宮や産道)」であった。ゆえに「出産第一期・開口期(かいこうき)初めから出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの出産児の頭蓋骨と、母体の骨盤と生殖器官」を、卑弥呼は【邪馬壱】と表現した。
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 下に示すように、《今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(黄帝の陵墓/北緯3536)の天頂緯度線》は「邪馬壱(小泉門・矢状縫合・大泉門)の形をした銀河」を撫()でるように西から東へ貫通していた。
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 吉野ケ里遺跡が所在する九州にも、纏向(まきむく)遺跡が所在する大和・畿内にも、【邪馬壱】という地宜は存在しない。さらに、『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と記載する。ゆえに、女王国名は「邪馬台国」であったと主張する九州説と畿内説は完全なる空理空論・妄想であった。
 吉野ケ里遺と纏向遺跡の規模に優っても劣らない天高き高層建築の出雲大社が建造された出雲には、上記した【「明確なる、邪馬壱」の形をした地宜】が所在した。だから、「邪馬壱の地宜」が所在した出雲が『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が居住した女王国の邪馬壱国」であった。
 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究】をあらわす文字を作成することであった。
 倉頡は深遠なる銀河の神秘と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体させて【漢字作成理論】を発明した。これゆえ、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を【邪馬壱】という語であらわしたのである。

◆卑弥呼が黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」を表現した【邪馬壱】という語は、【狭い産道をくぐりぬける出産第一期・開口期の始まりから出産第二期・娩出期終わりまでの、出産児の頭の4回の回旋(90度の回転)のうちの第1回旋と第4回回旋】をヒントにして倉頡が創った[()]の「時計回りに90度転回する方位規定」をもあらわすことになった。
 〔注 【第2回旋と第3回旋】をヒントにして、倉頡は[()]の「反時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。〕
 [][]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わると[()]の字となる。[][]は倉頡が創った[]の「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 白川静著『字統』は、[]の字を「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。また、同書は[]の字を「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。(中略)。男女が稲魂に扮(ふん)して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。また、同書は[]の字について「委はもと田舞(たまい)の状をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年、女を委という」と解説する。
 下に配した図が示すように、【邪馬壱】の語源となった「十字の銀河」は[][][]の字源・字形・字義であった。
 下の図に示すように、「十字の銀河の頭部が被る、冠(かんむり)に観える銀河」が「稲魂のかぶりもの」となる。「十字の銀河の、胴体の西側」には「乳房、妊婦のおなか、子宮」のイメージとなる箇所があるゆえ、「十字の銀河」は「女性の姿」に観える。「十字の銀河の左手(東側の手)を狩猟道具の弓の形を銀河」が隣接ゆえ、「十字の銀河の、東側半分の形」を注目すると、「十字の銀河」は「男性の姿」にも観える。
 ゆえに、白川静著『字統』の[][][]の字源解説文に登場する「男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼」は「十字の銀河を祭って踊るダンス」であったのである。
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 この「邪馬壱・十字の銀河を祭って稲魂をかぶって舞う男女の姿」にもとづいて、卑弥呼は「対馬(つしま)国から狗奴(くな)国」までの30の国々を、10ヵ国ずつ3グループに分けて【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)とあらわしたのである。
 要するに、【11番目~10番目までの「対馬国~巳百支国」の10ヵ国の小国名によって――(1)倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。(2)黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の状況」を、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわしたこと――が解明できる。ゆえに、「対馬国~巳百支国」までの10ヵ国グループは「邪馬壱グループの国々」ということになる。
 【211番目~20番目までの「伊邪(いや)国~華奴蘇奴(かなさな)国」の10ヵ国は、[]の字源「稲魂をかぶって舞う女の姿」にもとづく「女性グループの国々」となるように、卑弥呼は理路整然となる説明をもって分類している。
 【321番目~30番目までの「鬼()国~狗奴(くな)国」の10ヵ国は、[]の字源「稲魂をかぶって舞う男の姿」にもとづく「男性グループの国々」になるように、卑弥呼は理路整然となる説明で分類している。
 このように、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】と政権基盤と定めて天下を治めた。その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名を、上記した3つのグループに分けて、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器官の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明できるように仕組みにした――と記述している。
 学者たちは――江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)が「邪馬台国説」を立論して『魏志倭人伝』に始めて学問的研究を加えたと称賛する。しかし、白石がとなえた邪馬台国説の実体は科学的根拠の裏付けがまったく無い誤読の空論・真っ赤なウソであった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
 『魏志倭人伝』は――(1)黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河(とその子宮)」を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(2)【黄帝の「子供の出産と女性の生殖器官」の医学研究】を卑弥呼は【邪馬壱】とあらわし、また(3)倉頡は「フタコブラクダ」を[]の字源と定め、そして「馬・フタコブラクダ」は「出産児」をもあらわすと定めたゆえ、卑弥呼は「産道をくぐりぬける出産児」を【邪馬壱】という語であらわした――と説明する書物であった。
 わがブログは、今回までに「邪馬壱グループの10ヵ国」については解説し証明した。
 次回から卑弥呼が「女性グループ」に分類した10ヵ国の解説と証明をおこなった後、卑弥呼が「男性グループ」と分類した10ヵ国の解説と証明に着手する。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は、新井白石以後300年間も凌辱(りょうじょく)されつづけられて仮死状態となった。だから、このブログでは、約300年間も仮死状態となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を習う、つまり蘇生(そせい)することにした。

◆『魏志倭人伝』は、倭人国の1番目の小国は「対馬(つしま)国」、2番目の小国は「一大国」と記す。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説し証明した。わがブログは17回でも、1番目の対馬国と2番目の一大国の名称の字源・字義と位置と範囲を解説し証明した。
 わがブログの18回は、3番目の末盧(まつろ)国と4番目の伊都(いと)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
 このブログは19回で、5番目の奴()国と6番目の不弥(ふみ)国と15番目の不呼(ふこ)国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説して証明した。「卑弥呼」の[][]は不弥国の[]と不呼国の[]であるゆえ、「卑弥呼」という倭女王名は「中国全土をもれなく包みこむ海岸線」を意味することを詳細に解説して証明した。
 このブログは前回(20)にて、7番目の「投馬(つま)国」と8番目の女王国「邪馬壱(やまい)国」と9番目の「斯馬(しま)国」と10番目の「巳百支(じはき)国」と11番目の「伊邪(いや)国」、5ヶ国の名称の字源・字義と位置と範囲について詳細に解説し証明した。
 今回のブログでは、12番目の「都支(たき)国」の名称の字源・字義と位置と範囲を詳細に解説して証明する。このため、都支国の東に隣接する21番目の「鬼()国」の名称の字源・字義と位置と範囲についての解説・証明が必要となる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する書物であった。
 だから、当然、「都支国」という小国名には【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究についての説明】がそなわることになった。
 つまり、「都支国」という小国名には――()〔男性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子〕について、()子と孫へと受け継がれる〔遺伝子〕について、()子宮における[]の出来事によって妊娠の始まりの〔胎標(たいひょう)〕が起きるとした――黄帝の考えが秘められている。このため、「鬼国」の名称の字源・字義や地宜(ちぎ)の解明も必要となる。
 下に配した〔斯馬国から邪馬国の位置と範囲の図〕の右下の「旧国の志摩(しま)」が「鬼国」であり、「旧国の伊勢(いせ)」と記した「志摩を除く、現在の三重県」が「都支国」であったことになる。
 〔注 なお、実際は下図における伊勢の南部は旧国紀伊の東部である。また「鬼国・志摩」は「現在の三重県の東部」である〕。
K263
 下に配した21番目の小国となる〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上部に示した「志摩とその英虞湾(あごわん)の地宜」を、卑弥呼は「強いタカ()のヒナ()が、餌(えさ)が不足したときに、餌として食べる弱いヒナ」に見立てて、「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。この「同じ巣で育つ強いタカのヒナが弱いヒナを餌とする習性」は「弱肉強食の苛酷(かこく)で厳(きび)しい自然の摂理(せつり)」を示すものとなり、「神」は「鬼、鬼神(きしん)」と名づけられて恐れ敬(うや)まれそして尊ばれることになった。だから、「鷹」は黄帝時代の中国でもわが国おいても「自然界を支配する最高位(大王)」を象徴することになり、「鬼」の字源となり、「鬼神」という語となった。
 下の〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」地宜の図〕の下図に示したように、12番目の「都支国の範囲」は「伊勢と熊野(紀伊東部)、現在の志摩を除く三重県」である。また、「都支国の地宜」は「飛翔(ひしょう)する鷹の左翼(伊勢)・右翼(熊野)」に見立てられた。したがって、「志摩・鬼国(現在の三重県東部)の地宜」は「鷹の頭部(横顔)」に相似すると見立てられた。
K336
 現在、4番目の伊都(いと)国における糸島半島は、糸島市と福岡市に二分される。しかし、上の〔旧国志摩の「鬼国」の地宜の図〕の上図の左側に配したように――昭和の時代では糸島市は福岡県糸島郡の志摩町であった。この糸島郡の「志摩町」と「旧国の志摩」は同じ2字で表記される。ゆえに、「旧国志摩」は「伊都国」の「都」と解され、「伊勢と熊野」は「都(伊都国・志摩)から支(わか)れる国」ということも一つの要因で、「伊勢と熊野」は「都支国」という小国名になったと考えられる。

◆しかし、「都支国」という小国名になったのは――「鬼国と都支国の地宜」によって、黄帝がおこなった医学研究における「()精子と卵子、また()子と孫へ受け継がれる遺伝子、あるいは()子宮にておこる[]の出来事」が表示する――と卑弥呼が考えた、この卑弥呼の考えが主なる原因である。
 倉頡伝説では【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」と呼ばれた。「鳥獣の足跡」の「獣」は[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」であった。ゆえに、「ジャコウウシとフタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 []の「フタコブラクダ」は、前述したように「(1)子宮で育つ胎児と、(2)狭い産道をくぐりぬける出産児」をも意味することになった。
 他方、「ジャコウウシ」は「(1)女性の骨盤と、(2)女性の生殖器官」をも意味することになった。その理由は、百頭以上が一団とされたジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲撃されると、子を真ん中に隠して、円陣を組んで防衛したからである。ゆえに、「円陣を作って防衛する、ジャコウウシの群れ」は「骨盤、つまり女性の生殖器官の大半を包囲する骨盤」を意味することになり、「真ん中に隠すジャコウウシの子」は「女性の生殖器官、つまり大半が骨盤内にある女性の生殖器官」を意味することになった。
 下に〔女性の生殖器の正面形と[()]の契文形の解説図〕を示した。
 「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられた。「左右一対の卵管・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)」は「ジャコウウシの左右一対の角(つの)」に相似すると見立てられた。また、「左右一対の卵巣(らんそう)」は「ジャコウウシの両耳」に見立てられた。「子宮と膣(産道)」は「ジャコウウシの顔」に見立てられた。そして、「女性の生殖器」は[]の字源・字形・字義となった。
K472
 白川静著『字統』は[]の字源を「羊の全形。下部の大は、羊が子を生むことを羍(たつ)というときの大と同じ意で、羊の後脚をも含む形である」と解説する。
 現在、カナダとグリーランドに生息するジャコウウシは氷河時代には、はるか南までを生息地域として、ヨーロッパやアジアにも分布していた。動物学においては、ジャコウウシはヒツジ()に近い種とされる。ゆえに、別名は「ジャコウヒツジ」である。だから、白川静著『字統』の[]の字説は「ジャコウヒツジ」について解説するものであったことになる。
 今から約5000年前の黄帝時代、陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)に所在する黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵周辺には、ジャコウウシが生息していた。ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝軍が駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵は円陣を組んで自衛した」と説明する記事がある。ゆえに、「黄帝軍の軍兵は天敵オオカミに襲撃された時のジャコウウシに学んで円陣を組んで駐屯していたこと」になる。
 上に示した〔女性の生殖器の正面形〕は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられたゆえ、[]の字源「ジャコウウシ」は「女性の生殖器」を意味することになった。
 そして、黄帝は「女性の生殖器における卵管采・卵管膨大部と卵巣の形状」を注目して、「()精子と卵子、()子と孫へ受け継がれる遺伝子」という概念(がいねん)を確立させた。
 下に配した〔卵管采・卵管膨大部・卵巣上体・卵巣の図〕が示すように、「卵管采・卵管膨大部と卵巣は男女が愛撫(あいぶ)して交わるような形状」をしている。ゆえに、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」にもとづいて、黄帝は「精子と卵子の形」を推定した。また、「卵管采・卵管膨大部と卵巣が繋(つな)がる形状」から、黄帝は「精子と卵子には祖先・親・子・孫へと容貌や性格や遺志などを繋げ伝える遺伝子なるものが存在する」と推定した。
 [弥]の字源「カンムリカイツブリ」のオスとメスは頭部をもたげながら接近し、向かい合って頚部(けいぶ)を左右にふる情熱的な求愛行動をおこなう。その後、羽づくろいをしたり、たがいに巣材を回収するという複雑な求愛行動をおこなう。黄帝は「卵巣上体」から「鳥の羽」を連想し、「卵管采・卵管膨大部と卵巣の形」を「カンムリカイツブリの求愛行動」に相似すると見立てた。つまり、黄帝は「目に見えない小さな精子と卵子の形」は「求愛行動するときのカンムリカイツブリのオスとメスのような姿」をしていると推定した。
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 また、黄帝は「子と孫の顔や性格は両親や祖父・祖母に相似する」ことに注目して、「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となる」、また「死産した子の命も、後日の精子と卵子が卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで結合して蘇(よみがえ)る」と考えたにちがいない。というのも、「卵管采・卵管膨大部」は「蝶の成虫」のごとくに観え、「卵巣」は「蝶がとまって蜜を吸う花」に相似するからである。蝶の幼虫は蛹(さなぎ)となり、蛹は死骸・ミイラのごとくになるが、蛹からは命が蘇って美しい成虫の蝶となる。だから「卵管采・卵管膨大部と卵巣」を「美しい蝶と花」の見立てた黄帝は「卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで、父母・祖父・祖母や先祖から受け継ぐ遺伝子を有する精子と卵子は結合して人の命となって蘇る」と考えたのである。
 白川静著『字統』は、[習]の字を「羽と曰(えつ)とに従う。曰は祝祷(しゅくとう)を収める器。この器の上を摺(す)って、その祝祷の呪能(じゅのう)を刺激し、そのような行為をくりかえすことを意味する字」と解説する。つまり、「卵管采・卵管膨大部・卵巣上体」は「羽」と見立てられ、「卵巣」は[曰]の「出産を祝い、子授け祈祷する祝祷に用いる器(土器)」に見立てられて、[習]の字は成立した。
 上記したように、黄帝は「カンムリカイツブリのオスとメスの姿に相似する精子と卵子は、蝶と花を連想する一対二つの卵管采・卵管膨大部・卵巣のどこかで結ばれて二つの卵となる。しかし、[鬼]の現象によって一つの標(胎標)となっていったん蝶の蛹(さなぎ)のごとくの死骸(ミイラ)のごとくなるが、蛹から美しい蝶が誕生する」がごとく、「母体が子を授かりたいという願いによって、蝶のごとく精子と卵子は人の命となって蘇る」と考えた。ゆえに、[習]の字は「祝祷の土器を羽で摺って(こすって)、呪能を刺激して蘇る(復興する)状況」をあらわすことになった。ゆえに、[習]の字義は「蘇る。復興する」となった。
 だから、前述したように、中国の正史『新唐書』日本伝にある「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、稍々(少々)、夏音文字を蘇らせることにした(復興することにした)」と意味したことになる。

◆下に〔「女陰」と「男性生殖器、つまり陰嚢(いんのう)と陰茎(いんけい/男根)の形に相似する夏の銀河の広大の範囲図〕を配した。
 前掲した〔文字作成銀河(夏の銀河)各部の名称図〕のおける右下の「胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の銀河の頭部・首部」は、「男性生殖器の陰嚢部」に相当し、「巨龍の銀河の首から尾まで(彦星の箇所)」までは「男性生殖器の陰茎)部」に相当して、「男根生殖器の形」にソックリとなる。
 この「男根生殖器の形をした銀河」の北側にある国際的天文学の名称「コールサック」と呼ばれる暗黒天体部は「女陰」のイメージとなる。
 これゆえ、〔「女陰」と「男性の生殖器」の形に相似する広大な夏の銀河像〕は「子どもを生むための性交」をあらわす。
K452
 「コールサック」の西側に国際的天文学の名称の「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」の名称である。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびた、銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の語源となった。
 下に、〔今から約5000年前の黄帝時代において、中国全土(太湖の南の北緯30度の紹興市・卑弥呼時代の「会稽」から黄帝陵がある北緯35度36分まで)の天頂にめぐってきた銀河の範囲図〕を示した。この図が示すように、西の「北天の最輝部」は中国全土の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央」が黄帝陵の天頂にめぐってきた。
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 下に〔美しい桃色をおびた銀白色の「北天の最輝部」の図〕を配した。
 黄帝は「銀色に輝く、北天の最輝部」は「求愛行動するときの、カンムリカイツブリの姿」に相似すると見立てて、黄帝は「目に見えない微小の精子と卵子の形」は「北天の最輝部のような形」をしていると推定した。というのも、「カンムリカイツブリの顔とノドは白く、頸(くび)以下の体下面は銀白色に輝く」ゆえ、黄帝は「卵子と精子の形」は「白く銀白色に輝く北天の最輝部」のごとく、また「カンムリカイツブリのごとくの姿」のごとくであると推定したのである。
K451
 下の図に示したように、「銀色に輝く、北天の最輝部」は「情熱的な求愛ダンスをするときのカンムリカイツブリのオスとメスが水面に対して直立姿勢となって足で水をバチャバチャと動かして水飛沫(みずしぶき)を浴びる姿」に相似する。〔注 下の図における右側の「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」は、今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物綿密・生態画集】』(平凡社発行)の143ページから転載した〕。
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 前掲した〔[呉]の字源解説図と金文形〕と題した〔黄帝時代の中国全土にめぐってきた銀河図〕において、下の図に示すように――黄帝陵(北緯35度36分)の天頂には「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
 黄帝は「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮」と「カンムリカイツブリの巣」に見立て、「十字の銀河の頭が被(かぶ)るカンムリの形」は「北天の最輝部の概略形」に相似するのに注目して――黄帝は「精子と卵子」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭が被るカンムリ」のごとくの形をしていると推定した。そして、黄帝は「精子と卵子は北天の最輝部の形に相似するカンムリカイツブリのオスとメスのごとく、情熱的な求愛ダンスをして結ばれる。だから、黄帝は「精子と卵子の結合」を「受精(じゅせい)」と定めた。
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◆黄帝時代、西の「北天の最輝部」は黄帝陵(北緯35度36分)の天頂より南約1度~約5.5度の天頂付近を通過し、東の「十字の銀河の頭部の中央部」は黄帝陵の天頂にめぐってきた。
 ゆえに、[都](黄帝陵)を示す銀河部は西の「北天の最輝部の少し北側」と東の「十字の銀河の頭部の中央部」に支(わか)れた。
 ゆえに、卑弥呼は「東の伊勢と西の熊野の地宜」の小国名を「都支国」と定めた。つまり、卑弥呼は――黄帝時代の黄帝陵(都)の天頂における「精子と卵子の形をあらわす銀河部」が「北天の最輝部の少し北側」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」に支(わか)れる――ゆえ、「東の伊勢と西の熊野に支れる小国名」の名称を「都支国」と定めたのである。
 前回のブログで解説したように、10番目の小国「巳百支(じはき)国」の[支]は「天橋立(あまのはしだて)によって西の阿蘇海(あそかい)と東の宮津湾に支れる様子」をあらわした。
 『説文解字』は[阿(あ)]の字を「大陵を阿と曰(い)ふ」と解説する。「阿」という「大陵」は「黄帝陵」のことであった。前述したように、「阿蘇海」の[蘇(そ)]は「卵巣」を「花」に見立て「卵管采・卵管膨大部」を「花にとまって蜜を吸う蝶」に見立てて――「蝶はまるで死骸(ミイラ)のような蛹(さなぎ)になっても、その蛹から命が蘇って美しい成虫となる」という考えが[蘇]の字源となった。
 これゆえ、「阿蘇」は「不老長寿」を意味した。「北天の最輝部」は「美しい桃色をおびて白く輝く」ゆえ、「白桃(はくとう)」に見立てられた。中国において上古から現在まで、「桃」は不老長寿を与える植物として親しまれている。桃の原産地は中国の西北部の黄河上流の高山地帯とされるゆえ、[牛]の字源「ジャコウウシ」の生息分布地域であった可能性が大となる。
 下の図を配したように、「黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭部中央の穴(暗黒天体部)」は「女性の骨盤口(骨盤入口と骨盤出口)」の両者が180度転回しあう形に相似する。
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 ゆえに、その頭部が「子宮を包囲してまもる骨盤の形」に相似し、また、その腰の部分に「子宮に相当する部分」を有する「十字の銀河」は、「子宮」の[宮]の字源となった。「十字の銀河」は「書契(五帝時代の原初漢字)や夏音文字を地面に書く聿(ふで)」に見立てられ、さらに、「十字の銀河」は「船を安全に泊(と)めることができる港」に見立てられて、「港」を意味する[津(つ)]の字源となった。
 したがって、天橋立の東の「宮津湾」の[宮]の字源は「十字の銀河」であった。[津]は「港(宮津市の港)が、外海より深へ入って波が低い湾の奥にある」ということで、天橋立の東の「湾」は「宮津湾」と名づけられた。

 以上のごとく、黄帝は、「精子と卵子」を「北天の最輝部と十字の銀河の頭が被るカンムリ」のような形をしていると推定した。さらに、黄帝は「北天の最輝部と十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似するゆえ、「カンムリカイツブリのオスとメスが求愛ダンスをするがごとく、精子と卵子が結ばれて受精がなされる」と推定した。
 だから、黄帝が考えた「精子と卵子」や「受精」の意見に因(ちな)んで、卑弥呼は「伊勢と熊野」の小国名を「都支国」と定めたのである。
 ここまでの解説で、「()精子と卵子、()子と孫へ受け継がれる遺伝子」を証明した。
 後は残る「()子宮における[]の出来事」の解説と証明をおこなうことにする。

◆「倉頡が漢字を発明した」と説明した倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった――と伝えるものであった。
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった。というのも――カンムリカイツブリと鳰(にお/カイツブリ)を「子宮で育つ胎児」を象徴する「鳥」と定められ、牛・ジャコウウシは「骨盤・女性生殖器」を象徴する獣、馬・フタコブラクダは「せまい産道をくぐりぬける出産児」を象徴する「獣」と定められ、「十字の銀河の子宮」は「人間や動物が歩いた足跡」に相似すると見立てられた――ゆえ、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と名づけられた。そして、倉頡伝説に登場する「古来の結縄」は「約6000年前の三皇時代から始まる〔易卜に用いた記号〕」のことであった。また、「死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえることになった」という説明は「三皇時代の包犧(ほうぎ)氏と女媧(じょか)氏と神農(しんのう)氏の死霊たちは、倉頡が夜に輝く銀河から文字を作る発明したゆえ、自分たちの歴史が後世に伝わるようになったと感激して泣く声が夜な夜な輝く銀河から作られた文字によって聞こえるようになった」と意味した。そして「四つ目の怪人の倉頡」は「漢字は夏の銀河(文字作成銀河)から作られた」と伝える説明であった。というのも、黄帝時代には中国全土の天頂に「鬼の横顔に似る銀河の顔に両目、鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにも二つの目がある、計四つの目がある四つ目の銀河」がめぐってきていたからである。
 下に、〔黄帝時代の「四つ目の銀河」と天頂緯度線の図〕を配した。下の図に示したように、黄帝時代、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)の後頭部にある、大きく開く目の中央」が、黄帝陵(北緯3536)の天頂にめぐってきた。また、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)のアゴにつく切れ長の細い目の目じり」が、中国南部にある太湖(たいこ)南岸の天頂
を通過した。
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 下に配した〔[][][]の字源銀河解説図〕に示したように、[]の金文形は――「四つ目の銀河における大きく開く目(鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目)から北アメリカ星雲にかけての範囲」が[]の字源銀河である――と示している。
 というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[]の字源銀河であったからである。
 [][]が加わると[](えさ)の字となる。つまり、下の図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の大きく開く目と切れ長の細い目」は「強く大きく育ったタカ()のヒナの両目」に見立てられた。その「強い鷹のヒナの両目」がにらみつける「北アメリカ星雲」は「餌(えさ)がとぼしいために餓えた強い鷹のヒナが餌とする弱いヒナの顔」に見立てられた。というのも、「北アメリカ星雲」は「耳の形」に相似すると見立てられて、[]の字源となったからである。だから、[][]が加わって成立した[]の字源「北アメリカ星雲」は「強いヒナの餌となる弱いヒナ」をあらわした。
 鷹は14つの卵を産む。まれに、6卵産むことがある。産卵後に第1卵か第2卵を抱くので、ヒナの孵化(ふか)は同時でなく、ヒナに強弱ができ、強いものが生き残る。しかし、餌がじゅうぶんならば弱いヒナも育つという。メスが主として抱卵(ほうらん)にあたるが、オスも交替する種類(ノスリまど)がある。一般にオスがメスに餌をはこび、メスがちぎってヒナにあたえる例が多い。
 上記したように、[]の字源は「弱肉強食の自然摂理」の「鬼」をあらわした。
 その証拠に、前述したように、21番目の「鬼国・志摩の英虞湾(あごわん)の地宜」は「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌とする形」にソックリである。
000092
 上の図で[]の金文形モデルとなった範囲「鬼の角(つの)と鬼の横顔に似る銀河の左目と後頭部につく大きく見開いた眼を包囲する銀河部」は「太った鬼の横顔がやせて小さくなった、つまり、鷹のヒナたちが餓(うえ)えた状態」を表現していると考えられる。つまり、その範囲は「子どもをののしっていう語〔餓鬼(がき)〕、あるいは相手をけなしてののしる語〔餓鬼〕」の語源であるにちがいない。

下の上図は〔「邪馬」、つまり小泉門・矢状縫合・大泉門がある出産児の頭蓋骨図〕である。「邪馬」に[]の「骨盤と産道」を加えて、卑弥呼は「邪馬壱」と表現して、倭国の首都が所在する王国の名称とした。
 下に配した下図は〔「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河図」である。
 〔「邪馬」の銀河図〕における「小泉門」の銀河部〕は、前掲した〔[][][]の字源銀河解説図〕における「強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌としてついばむ嘴(くちばし)」となる。出産は――出産児が「小泉門」を先進させて頭を90度時計まわりに横向きにして横長の母親の骨盤入口をくぐりぬける――開始される。だから、「出産」は「小泉門がせまい産道を先進して」成される。下の〔「邪馬」の銀河図〕のごとく、「小泉門」が「強い鷹のヒナの餌になる」と、「出産児は産道を進むことができず死ぬこと」になる。
 だから、「すべての出産児が死んでしまう! 不吉!」ということで、古代字形(契文・金文)では「くちばし」をあらわす字が作成されなかった。(また、「精子と卵子」に見立てた「卵管采・卵管膨大部と卵巣」にも、「くちばし」に相当する部分が無い)
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は19回の中半で、「胎児や出産児にはカンムリカイツブリや鳰のような〔くちばし〕が無い。だから、[弥]の字源となった「山東半島には〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理」、[呼]の字源となった「杭州湾(こうしゅうわん)にも〔くちばし〕に相当する地宜が無くても合理となった」と解説したが――ほんとうの原因は、上記した「強い鷹のヒナの〔くちばし〕が小泉門を餌にする銀河の形状」にもとづき、古代字形では〔くちばし〕をあらわす文字が作られなかったのである。

◆受精した卵(らん)が子宮の壁(かべ)に着床(ちゃくしょう)するまでを卵期(らんき)という。
 受精後10日めごろに、将来ヒトとなる胎標(たいひょう)ができる。卵から将来ヒトとなる胎標ができるまでを胎芽期(たいがき)という。
 生物学において、現在は否定されているようであるが、かつて世間一般的に、胎芽期において1個の卵がそのまま一人のヒトになると考えられていた。
 黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して、二つの卵が生まれる。しかし、二つの卵は〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって一人のヒトとなる胎標になる――と考えた。
 下に、〔胎芽期における胎標の図〕を配した。下の上図は〔受精後8日ごろの卵と子宮粘膜の図〕である。上図中央の「卵細胞」が分化して、下図のごとく〔受精後10日ごろ〕になると、その図の中央にある「胎標」となる。
 下の上下図が示すように、卵標は皿形の鷹の巣のような空所(くうしょ)の底にできる。その鷹の巣に相当するのは、子宮粘膜上皮・子宮粘膜組織である。下に配する上図の「子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形(側身図)」は、前掲した〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕における「鷹の両翼のような形をした伊勢と熊野の地図の形、つまり都支国の地宜」に相似する。
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 【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定めた[牛]の字源「ジャコウウシ」は「ふつう、一産一子」である。同様に、聖獣[馬]の字源「フタコブラクダ」も「ふつう、一産一子」である。人も同様に「ふつう、一産一子」である。だから、もしもジャコウウシとフタコブラクダが人と同様に一産一子でなかったならば、ジャコウウシとフタコブラクダを倉頡は【漢字作成理論】を象徴する聖獣に選ばなかったにちがいない。
 黄帝は「胎芽から子どもが誕生するまでの期間」を「約十ヵ月」をつきとめた。だから、黄帝時代において、「一」が十倍で「十」となり、「十」が十倍で「百」となり、「百」が十倍で「千」となり、「千」が十倍で「万」となる数の十進法が確立されたと考えられる。
 下に、再度〔旧国志摩の「鬼国」と「都支国」の地宜〕を配した。
 前述したように、〔胎芽期において「胎標」ができる空所〕は「鷹のヒナが育つ巣の空所(穴)」に相似する。
 また、〔胎芽期において子宮粘膜上皮と子宮粘膜組織の形〕は、下に配した図の「鷹の両翼の形に似る伊勢と熊野の、都支国の地宜」に相似する。というのも、「鬼国・英虞湾の地宜は強い鷹のヒナが弱い鷹のヒナを餌にしている様子」に観えるからである。
 だから、黄帝は――胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合した二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にする働き〕によって、一人のヒトとなる胎標になる――と考えたのである。 
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 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「黄帝は山川の鬼神(きしん)をまつって封禅(ほうぜん)した」と説明する。
 だから、「鬼神」の[鬼]の本義は「弱肉強食の自然の摂理」ではなかったことになる。[鬼]の本義は「胎芽期に、一対・二つの卵管采・卵管膨大部と卵巣のどこかで精子と卵子が結合して生まれた二つの卵が〔[鬼]・強い鷹のヒナが弱いヒナを餌にするような働き〕によって一人のヒトとなる胎標が形成される――と、黄帝が推定した「子宮において一産一子となる[鬼]の出来事」であったことになる。
 司馬遷著『史記』夏本紀は「帝禹(う)は衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にした」と説明し、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能(よ)く衆(しゅう)を惑(まど)わす」と記述する。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】からまつることになった鬼神の道(つまり学問)を政権基盤にして人心を集めて国家をまとめていた」と説明していたことになる。「惑わす」を「妖(あや)しくまどわす」と訳する人々がいるが、これは誤訳である。
 白川静著『字統』が「惑は国の初文」と指摘する。だから、[惑]は[国]の最初の字であったゆえ、卑弥呼が用いた夏音文字には「妖しくまどわす」という意味は有していなかったと考えるべきことになるからである。

◆1940年生まれの人は、2020年の誕生日で満80歳であるが、数えだと81歳となる。というのも、数えの年齢数は子宮で育つ10カ月間を1歳と数えるからである。
 下に、[数]の金文形を示した。[数]の金文形は「両翼をひろげる鳥」の下に[言]が加わる字となる。
 前述したように「都支国」の「都支」の語源となった「北天の最輝部の形」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形」は、下に配した[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」に酷似する。ゆえに、[数]の金文形上部の「両翼をひろげる鳥の姿」は「黄帝が考えた、精子と卵子の形」をあらわしていることになる。
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 前掲した〔女性の骨盤口と十字の銀河の頭の穴の図〕では――「女性の腹部側の骨盤口(骨盤出口)の形」は「十字の銀河の頭部の頭の北側の穴」に合致して、両者は180度転回しあう形となる。

だから、下に〔黄帝時代に黄帝陵の天頂にめぐってきた十字の銀河の頭部を下にする、逆さの(180度転回する)図〕を配した。この「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となったと考えられる。
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 下に「逆さの十字の銀河」が[言]の字源となった解説図を配した。だから、前掲した[数]の金文形下部の[言]は、下の「逆さ十字の銀河」から作られた[言]「であったにちがいない。
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 胎芽期の胎標からから始まって約十ヵ月後に頭が誕生すると、出産児はすぐに呼吸をはじめた直後に声(泣き声)をあげる。この「泣き声」が、「この世に生まれた人の言(ことば)の始め」となる。
 したがって、[]の金文形の上の「両翼をひろげる鳥の図案」は黄帝が考えた「きわめて微小な人間の目に見えない精子と卵子の形」、下の[]は「出産児が誕生した直後にあげる泣き声」をあらわしているにちがいない。
 だから、前掲した[]の金文形は「数え年」の「子宮で育つ十ヵ月」をあらわしていることになる。

◆『魏志倭人伝』に列記される21番目は「鬼国」、12番目は「都支国」、13番目は「弥奴(みな)国」、14番目は「好古都(こかた)国」、15番目は「不呼(ふこ)国」である。
 下に示したように、鬼国と都支国は隣接しあって【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわし、12番目の都支国は13番目の隣接する尾張(現在の愛知県西部)・弥奴国と相互に(連鎖的)に関連しあっている。
 また、連結する13番目の弥奴国と14番目の三河(現在の愛知県東部)好古都国と15番目の遠江(現在の静岡県西部)も理路整然となるように順番が意図的に決められている。
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 下に〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕を配した。この図の女性の骨盤における「腸骨翼(ちょうこつよく)の形」は[弥]の字源「恥骨結合(ちこつけつごう)で向かい合う一対・二羽のカンムリカイツブリの横顔」に相似する。
 上に配した地図が示しているように、「都支国」の隣りは「弥奴国」である。ゆえに、「腸骨翼の[弥]のカンムリカイツブリの横顔」は都支国と弥奴国との両国で共通しあう。つまり、「黄帝が精子と卵子は求愛行動するカンムリカイツブのオスとメスの姿に似ていると推定したこと」にもとづいて、卑弥呼は「伊勢と熊野」を「都支国」と名づけた。「弥奴国の地宜」は「黄帝が精子と卵子の形を推定した、そのカンムリカイツブリの姿」に相似している。だから、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明するために「都支国」の隣国の「旧国・尾張」の小国名を「弥奴国」と定めたことになる。
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 上の〔女性の骨盤における[弥]の解説図〕が示すように――恥骨結合で向かい合う腸骨翼の形は[弥]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似する。ゆえに、この観点からも、黄帝は「精子と卵子の形は情熱的な求愛ダンスをするオスとメスのカンムリカイツブリの姿に相似する」と推定したと考えられる。

 石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店発行)は「都(郡)支国」と記載して、「都支国」は「郡支国」とも表記されたと注を加えている。ゆえに、「都支国」を幾人かの学者たちは「郡支国」であったと考える。
 白川静著『字統』の[郡]の解説には――〔釈名(しゃくみょう)、釈州国〕には「郡は群なり」と音義説がある――と指摘する。このように、[郡]が[群]となった事情は下記のごとくであった。
 上に配した図の「女性の骨盤」は「百頭以上が一団となる牛・ジャコウウシの群れが天敵のオオカミに襲撃された時に、子どもを真ん中に隠して組む円陣」に見立てられたゆえ、「女性の骨盤」は[群]の字源となった。また「いくつかの里が百頭余のジャコウウシが組む円陣のごとく多数群がって郡となる」ということで、「郡は群なり」となった。
 下に配した〔弥奴国・尾張の地宜とカンムリカイツブリの図〕が示すように――《「精子と卵子の形」は[弥]の「カンムリカイツブリのオスとメスの姿」に相似する》という「都支国」という小国名の由来となったと同じく、「弥奴国」もまた「カンムリカイツブリ」が小国名の由来となった。
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◆以上のごとく、「邪馬台国説」は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空論であった。その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」を説明する記事が1ヵ所も存在しない。
 『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと記す。【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわす。
 中国では解明できなくなったが――わが国では中国の海岸線よりも約3倍に長い海岸線を有し、その海岸線は文字作成銀河各部から作られた多数の文字の字源・字形・字義を正確に保存できるように細密であった。ゆえに、この細密の長い海岸線に多数の小国の境界線、さらに湖沼などの地宜が加わったゆえ、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成した【倉頡が発明した漢字作成理論】によって生まれた文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を細密にして長い海岸線・小国の境界線・湖沼などの地宜で正確に保存することができたのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明していた」と伝える――世界的にも“人類共通の宝・文字の起源が科学的に解明できる奇跡の書物”であったのである。
 にもかかわらず、江戸時代中期、新井白石は真っ先に「『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読む」という学問の鉄則を無視して、まったく根拠のないデタラメ・空想をとなえた。このような新井白石に対し、学者たちは「白石は始めて『魏志倭人伝』に学問的検討を加えた」と絶賛して、邪馬台国説こそが最も正しい意見であるとメディアを騙(だま)し日本人を誑(たぶら)かした。
 邪馬台国説は実に雑・ザツ! 論法は実にザツ! とにかく新井白石の邪馬台国説に合致する意見こそが最も正しいと主張する、この論法は実に雑・ザツ・ザツである! 
 その証拠に、白石の論法に従わずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば芋づる式に続々と【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が解明でき証明できる仕組みになっている。
 邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】の説明を抹殺(まっさつ)する人類共通の敵であった。というのも、【文字の発明】は【地球的規模の人類の理性と知性の起源】であったからである。

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2019年9月12日 (木)

新刊『日本国誕生史の証明』9月14日発売!

●300年に一度出現する・真実追究の書『日本国誕生史の証明』が完成しました!

9月14日に、拙著『日本国誕生史の証明』(制作・∞ books 発行所・デザインエッグ株式会社)が発売されます。

 本書は300年に一度しか著作されない、とっても貴重な書物です。
 というのも新井白石(1725年死去)以来300年、わが国の学者たちはこぞって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に必ず幾つかの【文献批判】、つまり必ず幾つかの【誤読】を加える考え方で読解(どっかい)する意見こそが正しいと頑固(がんこ)に断定しつづけているからです。
 したがって、学者たちが『古事記』解釈のテキストとする本居宣長(1801年死去)が研究して著した注釈書『古事記伝』の実体も【誤読の産物】だったのです。ゆえに、『古事記』上巻は「日本神話は歴史を語るものではなく、物語である」とする日本神話虚構説の定説は事実に反する錯覚・幻想です。

 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に1ヵ所も【誤読】を加えないと――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は漢字の起源と日本国誕生史と、そして今年の秋に皇室がおこなう大嘗祭(だいじょうさい)は漢字の起源と日本国誕生史の秘密を伝える学問儀式であったと証明できる文献であった実体が鮮烈に蘇(よみがえ)ります。

 『日本国誕生史の証明』によって、吉野ケ里遺跡を根拠・理由とする九州邪馬台国説と纏向(まきむく)遺跡・箸墓古墳を根拠・理由とする畿内邪馬台国説は『魏志倭人伝』とはまったく無関係の空理空論・錯覚・妄想であった事実がーー明確となります。

 つまり、邪馬台国説は『魏志倭人伝』とはまったく無関係の空理空論・錯覚・妄想であった事実が明確となります。

 だから、令和元年9月14日から発刊されます拙著『日本国誕生史の証明』は、約300年間もわが国の学者たちがこぞって必ず【誤読】を加える考え方こそが正しいという考え方は空論・幻想であると断定できる――科学的に明確に容易に理解できるように証明した、とっても画期的な貴重な書物ということになります。
 
 今から約500年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明しました――この事実を『日本国誕生史の証明』は科学的に明確に証明し詳細に解説します。
 この漢字発明の歴史と事実の基(もと)に『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は日本国が誕生した歴史を後世に伝えていた書物であったのです。文字は人類史上、最も偉大な発明です。文字がなければ学問も文明も、また真実も人類の英知と理性も、さらに科学も歴史も存在しなかったことになります。
 だから、漢字の起源の秘密を記述して後世に日本国誕生史の事実を伝えた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【誤読】を加えて漢字の起源と日本国誕生史と今年の秋におこなわれる大嘗祭の実体を不明にする、学者たちがこぞって主張する邪馬台国説・日本神話虚構説は――人類と日本人と皇室の尊厳と英知を【誤読】で侮辱する【空論】であったのです。
 したがって、本書はわが国の学者たちの【誤読の空論】を暴露する300年に一度出現することになった、画期的な真実追求の貴重な本です。
 『日本国誕生史の証明』は真実を愛する人々のために著作しました。

 

 

 

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2018年10月16日 (火)

NHKBSテレビ「壬申の乱」の放送は日本人の尊厳を侮辱するウソ八百・最悪の俗悪番組であった

 ◆歴史家・磯田道史氏が司会した2018(平成30)1011日における20時~21時に放送された、NHKBSプレミアム3チャンネル「英雄たちの選択選 壬申の乱の真実を迫る」と題する番組は虚妄(きょもう・デタラメ)と欺瞞(ぎまん)に満ちた、誤読の空論・空想の産物であった。
 したがって、この番組は全日本人の尊厳を徹底的に愚弄(ぐろう)する暴論で終始した茶番劇であった。
 受信料をおねだりするHHKテレビが、このような【誤読の空論】にもとづく低劣きわまりない悪質な番組を放送するとは……、“トホホ”何ともお粗末なかぎりと言わざるをえない。

◆朝日新聞のテレビ欄は、この番組の概要を――(1)「日本」を生んだ戦い、(2)壬申の乱の真実に迫る、(3)▽古代帝国からの外圧、(4)▽迫る豪族反乱の危機と――紹介した。
 上記の(1)「日本」を生んだという表現は、この番組の登場した歴史学者の仁藤淳史氏、歴史学者の倉本一宏氏、脳科学者の中野信子女史、戦史研究家の小谷賢氏、そして司会者の磯田道史氏と女性の司会者によって、あたかも日本国は8世紀初頭に生まれたかのごとくに表現されたが――ほんとうのところ、日本国が誕生したのは3世紀前半であった。
 上記した(2)壬申の乱の真実に迫ることができる、言いかえると壬申の乱が起きた原因については、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝の最初の部分に記述されている。この記事は、702年に中国に渡った遣唐使が日本国誕生史について下記のごとく説明したと記述する。
 ――日本国は()倭国の別種である、()その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、()ある人(遣唐使)が言うには、「倭国は自国名が雅(みやび)やかでないのを悪(にく)み、倭国の人民は日本という国号に改称するのを欲求したのだ」とのことであった、()またある人が言うには「日本国は旧(もと)小国であったが、大国の倭国を併合(へいごう)した」と。

◆大国・倭と小国・日本を併合した日本国の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命は、倭女王天照大御神を失脚させるクーデターが成功した後に、天下を治めた第9代開化天皇となった、『魏志』倭人伝末部に登場する載斯烏越(そしあお))であった。だから、『古事記』上巻の神代の出来事は学者たちによって歴史ではなく物語であったと断定されているが、この日本神話学説は『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えた空想・妄想の産物であり、実際は伊耶那岐命は歴史上に実在した人物であった。
 ゆえに、702年当時、伊耶那岐命が併合した大国・倭国と小国の日本を「倭国」と呼んでいたことになり、この倭国と日本国が併合された「倭国」の国号を、702年に中国に渡った遣唐使は「日本」と国号を改称することを中国の王朝に承認を求める任務についていたのである。この遣唐使の任務は――時の持統(じとう)上皇が最も尊敬する第10代崇神(すじん)天皇母子の異名「天照大御神」と「日本」という国号が類似する点に注目して、伊耶那岐命のクーデターによって崇神天皇の生母=天照大御神=伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が倭女王から失脚した歴史を抹殺(まっさつ)するための――持統天皇の陰謀(いんぼう)によるものであったのである。その証拠に、「倭国」から「日本」への国号の改称はわざわざ中国の王朝の承認を得る必要もないことであり、自国で決定すれば済むことであった。したがって、自国で決定すればよいことをわざわざ中国の王朝から承認を得ようとする遣唐使の挙動を、中国の王朝は訝(いぶか)り、また日本の遣唐使は事実をはぐらかして答えるものではないと見透(みすか)かし、彼らは何か企みを抱いているのではないかと疑った。
 だから、『旧唐書』倭国日本伝には――()日本の使節(遣唐使)は自らが矜大(きょうだい/自尊心が強く)で、“日本”という国名改称について中国の王朝が抱く疑問をついて事実を語らうとせずに隠し立てして誤魔化(ごまか)す。それゆえ、中国の王朝は遣唐使の説明(答え)には何か企み・魂胆があるのではないかと疑うことにした――という記事が存在する。

 「天照大御神」と「日本国」という国号は互いに類似しあうので、持統上皇は「日本国」と改称すれば、後世の学者たちは必ずや「小国・日本を治めた天照大御神によって倭国が併合されたと考えるにちがいない――と企んだのである。ゆえに、〔小国・日本の軍王・伊耶那岐命が天照大御神を倭女王から失脚させた、朝廷が後世に絶対に伝えたくない天照大御神の聖性を汚す歴史を消滅することができる〕と企む――朝廷にとって不都合な史実を抹殺するための持統上皇の謀略を成功させるための任務に、遣唐使はついていたのである。
 だから、702年に中国に渡った遣唐使が明確に語ろうとしなかった真実の日本誕生史の秘密が壬申の乱がおきた原因であった。
 ゆえに、20181011日の20時に放送されたNHKBSテレビの「壬申の乱」に関する番組について、朝日新聞のテレビ欄は「壬申の乱の真実に迫る」と紹介しているが、この番組は壬申の乱とはまったく無関係の空想・空理空論・妄想で終始した茶番劇であった。

◆なお、大和王朝の基礎を築いた第10代崇神天皇=天照大御神は、第9代開化天皇=伊耶那岐命の異母弟であった。というのも、崇神天皇は第8代孝元(こうげん)天皇を父とし、伊迦賀色許売命が母として生まれた子であったからである。開化天皇の父は孝元天皇であるゆえ、開化天皇は崇神天皇の異母兄であった。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は継母の伊迦賀色許売命(天照大御神)と結婚されて生みまさる御子は崇神天皇」と記述する。したがって、「伊迦賀色許売命と結婚して開化天皇の養子となった崇神天皇」について、「崇神天皇は開化天皇の養子となった状況」を「生みなせる御子」と記述したことになる。その証拠に、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇の妻であったゆえ、『古事記』中巻の開化天皇紀は「伊迦賀色許売命」を「庶母(ままはは/継母)」と記述する。だから、開化天皇は父孝元天皇と継母伊迦賀色許売命と間に生まれた崇神天皇を養子にして、伊迦賀色許売命と結婚したことになる。
 『古事記』上巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚されて生みませる御子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である」と記述する。
 開化天皇の正妃の竹野比売が『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であった。だから、開化天皇の居住した宮殿「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字に合致する。ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇と伊耶那岐命・竹野比売の間に生まれた比古由牟須美命が『古事記』上巻に登場する須佐之男命(すさののみこと)であった。
 なお、伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王・壱与(いよ)であった。伊耶那美命(竹野比売)=壱与は小国・日本国の女王にして、『魏志』倭人伝末部は「13歳で小国・日本の女王となった壱与(伊耶那美命)は、倭国の大乱を終息するための倭女王に就任した」と記述する。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は――小国・日本の女王の伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚するとき「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)と唱え、つまり「小国・日本の国生みの柱を〔愛〕と定めましょう。家族を背負って家族の幸福に日々努力する男たちよ、日本の国作りの柱を〔愛〕としましょう」と唱えた――記述する。
 だから、3世紀、日本国は伊耶那美命(壱与)と伊耶那岐命(載斯烏越)が結婚して誕生した。もちろん、持統天皇が企んだように天照大御神によって日本国は生まれたのではなかった。
 NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「8世紀に日本国が生まれた」と断定するものではなかった。しかし「8世紀の倭国から日本国の国号改変をもって日本国が生まれた」という意見を意図(いと)とするものであったのではないかと思われる疑わしい表現もあったゆえ、このような意見は明らかに間違い・虚偽ということになる。

◆持統上皇は大和王朝の基礎を築いた〔天照大御神〕を崇拝した。この天照大御神の聖性は日本国誕生史の真相によっていちじるしく汚されることになった。ゆえに、前述したように、上皇は「天照大御神」と「日本」という両者の名が類似することを注目して、天照大御神の聖性を汚す日本国誕生史が後世に伝わなくするために、702年に遣唐使を派遣して「日本」という国名の改称を目論(もくろ)んだのである。
 『古事記』中巻の開化天皇紀に記されているように――伊耶那美命(小国・日本の女王にして後年に倭女王に就任した丹波出身の竹野比売)が伊耶那岐命の正妃、天照大御神(伊迦賀色許売命)が伊耶那岐命の第二后であった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王に就任した天照大御神つまり崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は小国・日本が誕生する時に伊耶那美命=竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。ゆえに、伊耶那美命が没して熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら/黄泉国)に墓(陵墓)が作られた時、天照大御神は伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬(じゅんそう)、つまり多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍な徇葬儀式を陣頭指揮して伊耶那美命を侮辱(ぶじょく)した。この徇葬者たちを、『古事記』は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す。また、『古事記』編纂スタッフは徇葬を指揮した倭女王を「天照大御神」と明記すれば、『古事記』は即座に献呈を拒絶(きょぜつ)されて読むことが厳重に禁止される書物となって抹殺されるため、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名(つまり、「伊耶那美命」に「神」の一字を加える偽名)にして記した。
 伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は、天照大御神が伊耶那美命を侮辱するためにおこなう徇葬に激怒した。小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て天照大御神を倭女王から失脚させるクーデターを決行した。伊耶那岐命は数人の日本兵を率(ひき)いて伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して棺(ひつぎ)を奪って逃走した。伊耶那岐命一行を追跡する倭の大軍=千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ)は日本軍と熊野の戦士たちに編成されるクーデター軍の本隊が集結する現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと)において撃破された。
 驚いたことにクーデターが決行された夜の真っ暗な熊野路を歩いて天照大御神は伊耶那岐命一行を追跡してきたため、彼女は日本軍の捕虜となった。天照大御神は熊野速玉大社から約1kmの南にある現在の神倉(かんくら)神社のご神体のごとびき岩=千引石(ちびきのいわ)の前に居た伊耶那岐命の所まで連行された。上記したように(『古事記』中巻の開化天皇紀に記述されているように)、天照大御神=伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の第二后であったため、伊耶那岐命は天照大御神に向かって離縁=事戸(ことど)を言い渡した。これゆえ、伊耶那岐命に離縁を言い渡した場所・千引石(現在の“ごとびき岩”)の前の空地に建造された神倉神社の祭神は天照大御神である。ゆえに、神倉神社に祀られる天照大御神は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」であったのである。
 神倉神社のご神体の千引石の巨岩の前にて離縁を言い渡された天照大御神は立腹して「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さん」、つまり「亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ、汝の国の日本国はじめ倭国の人民たちの母親の産道が狭(せま)くなるように呪(のろ)い、この狭い産道で必ず一日に千人の生まれてくる子どもの頭を絞め殺してみせる」と言って誓った。
 この天照大御神の憎しみの言に対して伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」つまり「吾は亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する政事(まつりごと)をおこなって、必ず一日に千五百の子どもたちが生まれて健やかに育つようにする」と誓った。
 この熊野におけるクーデターを成功させた小国・日本の軍王の伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇であった。
 ゆえに、702年に中国に渡った遣唐使は――日本国は()倭国と別種である、()その国が日辺(にちへん/日本列島における、倭国・西日本に隣接する日の出に近い東国)に所在したので、日本という名となった、()『魏志』倭人伝に記述されたように卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢(ぬひ)を殺す徇葬をおこない、伊耶那美命の墓を作る時にも天照大御神が残忍な徇葬を陣頭した。ゆえに、ある人(遣唐使)は「倭国の人民たちは倭国という自国名は雅(みやび)やかでないと憎悪し、多くの倭国の人民たちは〔愛〕の理念を掲げて誕生した日本という国号に改めることを欲求したのだ」いう秘密を「倭国自らその名の雅やかならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」と簡潔に説明し、()小国・日本国の軍王の伊耶那岐命による熊野におけるクーデターによって倭女王天照大御神は失脚した。伊耶那岐命は春日の伊耶河宮に居住して天下を治める大王(開化天皇)となって大国・倭国と小国の日本国を併合した。これゆえ、ある人(遣唐使)は「日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」と簡潔に説明したのである。

◆伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神(伊迦賀色許売命)は、第7代孝霊(こうれい)天皇の娘=崇神天皇の姑(おば/大叔母)の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を受け継いで、息子の崇神天皇と共に大和王朝を治めた。この天照大御神・倭迹迹日百襲姫命は子の崇神天皇によって巨大な箸墓(はしはか)古墳が築造されて埋葬された。崇神天皇の生母が埋葬された箸墓古墳は奈良県桜井市に所在する。
 伊耶那岐命のクーデターを怨(うら)む倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は、開化天皇・伊耶那岐命に露骨(ろこつ)な復讐心を示して対抗した。ゆえに、伊耶那岐命は実子の須佐之男命に天下を譲ると、自分の死後に天照大御神(崇神天皇)と須佐之男命が相争う天下取りの大乱となるにちがいないと心配して、養子の天照大御神に天下を譲った。
 ところが崇神天皇は伊耶那岐命の天下譲りの恩に報いず、彼は養父の伊耶那岐命に復讐して開化天皇の陵墓を築造しなかった。だから、現存する開化天皇陵は天照大御神・崇神天皇が生存した3世紀後半~4世紀初頭に築造されたものではなく、その墳丘規模などからして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。このように、熊野のクーデターを怨んだ天照大御神母子の復讐心は開化天皇陵の築造年代によって明確に示される。

◆『万葉集』の最終巻は、巻二十である。この巻二十に収められる東国の防人(さきもり)たちが作った4321番~4436番までの116首の和歌は、伊耶那美命と伊耶那岐命が治めた日本国の範囲と伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を今日明確に伝える。というのも、防人歌の作者の出身国の範囲が小国・日本であったからである。防人歌を作った人々の出身国の範囲は、旧国の駿河(静岡県中部)以東から常陸(茨城県の大部分)以西までの東国となる。つまり、駿河・伊豆・甲斐・信濃・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸の東国が小国・日本であった。遠江(静岡県西部)の人々が詠む和歌が巻二十の防人歌に含まれているが、遠江は小国・日本ではなく倭国であった。遠江は倭国であったが、遠江の人民たちは伊耶那美命を熱烈に愛したため、防人の制度を定めた天智(てんち)天皇は倭国の遠江の人々にも防人の任務を負わせたのである。
 『万葉集』巻二十の4321番~4436番までの116首の防人歌は伊耶那美命が「阿那邇夜愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の和歌で占められている。つまり、倭国の遠江を含む東国=小国・日本の防人たちは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって、妻や子どもや両親や恋人のために遠く離れる筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備に当たる兵役(へいえき)をつとめていたのである。
 116首のうち110(95パーセント)は、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の歌で占められる。防人歌116首のうち4370番の「霰(あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士(すめらくさ) 我(われ)は来()にしを」という一首は一見すると4句目の「皇御軍士」によって天皇への尊敬を示す和歌のごとく解釈できるが、「日々、鹿島神宮に【日本建国の〔愛〕の理念】を祈っている我が、こともあろうが天皇につかえる兵士となって北九州の地に来たのだ……。なんとも、情けない」と天皇への怨みを詠む作品であったにちがいない。また4373番「今日(けふ)よりは 顧(かへり)みなくて 大君(おほきみ)の 醜(しこ)のみ楯(たて)と 出で立つ我(われ)は」と詠む和歌もまた大君(天皇)への尊敬を示すものではなく「今日からは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して暮らした故郷を振り返らないで、我は強大な権力に負けて情けなくも天皇を護る防人となって故郷を出で立つことになったのだ」と天皇への怨みを表現する和歌であったにちがいない。
 上記したように116首の防人歌の110首は【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌であり、4370番と4373番の2首も【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌と解釈できるゆえ、残る4首は【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に示す歌ではないが、『万葉集』巻二十に収められた116首の防人歌はおそらく全部が全部【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む歌であると推定される。

◆上記した防人歌と同様に、万葉歌人として有名な山上憶良(やまのうえのおくら)が作った代表作の803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という短歌は、【日本建国の〔愛〕の理念】を詠むものであった。
 この山上憶良は702年に持統上皇の陰謀によって「日本」という国号の承認を中国王朝から得るために派遣された遣唐使のうちの最下位の幹部(かんぶ)であった。
 『万葉集』巻一の63番には「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在()る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」という題詞が付く。したがって、63番は憶良が遣唐使となって「日本」の国号の改変の任務に就いて唐に滞在した時に作った短歌である。この63番の短歌は下記のごとくである。
 「いざ子ども 早く日本(にほん)へ 大伴(おほとも)の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」
 憶良は、「大の大人(おとな)の遣唐使や遣唐使船の船乗りたち」を「いざ子ども」と表現した。つまり、彼らは熊野のクーデターにおいて伊耶那岐命が神倉神社のご神体である千引石の前で「吾一日に千五百の産屋立てむ」という誓いのもとに生まれた人々であると憶良は表現したことになる。だから【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづき、憶良は遣唐使と遣唐使船の船乗りを「いざ子ども」と表現したのである。2句目の「早く日本へ」の「日本」を「やまと」と読む説は有力説とされるが――子ども(遣唐使や船乗り)たちが本国に帰った時には国号が「日本・にほん」となっているので、「早く日本(にほん)へ」と読むべきことになる。3句目に登場する「三津の港」は、武家の名門の大伴氏の所領内(現在の大阪市から堺市にかけての一帯)にあった。ゆえに、憶良は「三津の港の浜に生える松」を「唐に渡る憶良を見送った大伴氏の三人の武将」に見立てて「大伴の 三津の浜松」と詠んだことになる。三津の港で遣唐使・憶良を見送った武将は、大伴安麻呂(やすまろ)と旅人(たびと)の父子と大伴家・大伴連(むらじ)家の両家の宗家となる大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)の養子であった。この養子は、大伴安麻呂・旅人父子よりも強力な、当時を代表する武将の大伴連家の家督者(かとくしゃ)であった。
 『古事記』天孫筑紫降臨説話は「天孫(天照大御神の孫)が筑紫に降臨(こうりん/遠征)した時、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あまつくめのみこと)の二人が天孫の先払いをつとめた。この先払いをつとめた天忍日命は大伴連らの先祖である」と記述する。
 『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)説話は「大伴連らの祖先は、道臣命(みちのおみのみこと)である」と記す。この説話の舞台は、現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町から南にかけての宇陀一帯であった。道臣命は宇陀を所領とした大伴朴本連大国の先祖であった。ゆえに、安麻呂・旅人の大伴家は大伴連家の分家であった。大伴朴本連大国が家督を受け継いだ大伴連家は大伴家の本家であったのである。
 憶良が三津の港において大伴連大国の養子と大伴安麻呂・旅人父子に見送られた702年当時、大伴連大国はすでに死去していたらしく、27歳の養子が大伴連家の跡を継いでいたと推定される。この養子は、天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子のうちの皇位継承順位が第三位)の舎人(とねり)皇子であった。
 舎人皇子は天武天皇の第三皇子という高い身分を有するも、『古事記』が完成した712年・37歳頃までは庶民であった。というのも、養父の大伴連大国が庶民であったからである。大伴連大国・舎人皇子父子は、上記した『古事記』神武天皇紀の兄宇迦斯と弟宇迦斯説話の舞台となった奈良県宇陀郡榛原町高星(たかへ)の片田舎に居住していた。『古事記』が元明天皇に献呈拒絶されて読むことが厳重に禁じられた禁書になったため、再度日本国誕生史を後世に伝える歴史書(『日本書紀』)の編纂を陣頭指揮するために、712年あるいは713年に宮廷勤めするようになって舎人皇子は3738歳頃に皇族となった。

◆天武天皇の第一皇子の草壁(くさかべ)皇子は68928歳で没し、天武天皇は第二皇子という位を設けず、天武天皇の第三皇子を大津(おおつ)皇子と舎人皇子と定めた。大津皇子は天武天皇崩御25日目の686103日、謀反の罪によって処刑された。
 したがって、686104日以降、天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位は大伴連大国の跡を継ぐ庶民の舎人皇子であった。
 大伴家の所領は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)や藤原宮より西方であった。したがって、大伴安麻呂・旅人父子は都より西方の反乱軍を鎮圧(ちんあつ)するための武将であった。
 大伴連大国の所領の宇陀は都より東方にあったゆえ、大国・舎人皇子父子は東国の兵の反乱を鎮(しず)めるための武将であった。地図をひろげて調べると――宇陀の地・榛原駅前の道路は、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝(ようしょう)である。だから、大伴連大国・舎人皇子父子は尾張・三河・美濃・伊賀・伊勢などの東海道と東山道の人民や兵士たちを統率する強力な武将であったことがわかる。

◆『日本書紀』巻第二十八は大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が東国へ逃れる決意をした事情について――6725月、朴井連雄君(えのいむらじおきみ)は大海皇子に「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に『亡き天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりました。ところが、それぞれに武器をもたせております。ということは、おそらく山陵を造るが目的ではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう」と奏上(そうじょう)した。
 上記の朴井連雄君の報告と近江京より大和京に至る道のあちこちに監視人を設置している様子から、大海人皇子は危険を察知して東国へ逃れることを決意した。
 近江朝に「天智天皇の山陵()を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ」と命じられた美濃・尾張の国司は、大伴連大国が束ねる配下であった。だから、近江朝が企んだ変事=壬申の乱は大伴連大国の所領で起きていたのである。
 当時、吉野宮で居住した大海人皇子に従う者は50人足らずで、大海人皇子を護衛する舎人(兵士)20人足らずであった。ゆえに、近江朝は吉野宮に100人の兵を送れば大海人皇子を暗殺することができた。しかし、大海人皇子暗殺隊を吉野宮に向けると、東海道と東山道の兵士を統率する大伴連大国の所領である要衝(榛原駅付近)を通過しなればならなかった。このため、近江朝は大伴連大国から大海人皇子暗殺隊の通過を許可する内諾(ないだく)を得なければならなかった。しかし、近江朝は大伴連大国から内諾を得ることができなかった。というのも、大伴連大国は近江朝の律令体制を嫌悪し、天照大御神を蔑(さげす)み、伊耶那美命を敬愛し、卑怯な暗殺を認めず、正義・道義に筋(すじ)を通す人物だったからである。これゆえ、壬申の乱の初日の朝における大海人皇子はまさに「窮鳥(きゅうちょう)(ふところ)に入れば猟師も殺さず」という諺(ことわざ)の「窮鳥」であったため、正義を重んじる猟師・大伴連大国は困窮する窮鳥を助けざるをえなかったのである。

 672624日、30人余りの大海人皇子一行は吉野を出立して東国に向かった。この壬申の乱の始まった朝、大海人皇子一行が宇田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県大宇陀町の阿騎野/あきの)と兎田(うだ)郡の屯倉(みやけ/現在の榛原駅付近であろう)の中間の甘羅村(かんのむら)をやや過ぎた所(榛原駅よりすぐ近くの、尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢そして都がある大和を結ぶ東西交通網の要衝)で、猟師二十人余りと出会った。この一団の首領は大伴朴本連大国と名乗った。この一団には美濃国の王(豪族)も加わっていた。この二十人余りの猟師たちと美濃国の王を、大海人皇子は召しかかえた。

つまり、近江朝は「天智天皇の山陵を造るために人夫に武器を持たせて集めておけ」と命じた美濃と尾張の国司に命じたように――壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する武将の大伴連大国が所領内でおこっていた。ゆえに、美濃国の王は変事をいち早く知って、頭首の大伴連大国が住む榛原町高星(当時は、「高屋」という地名であった)に駆けつけて報告した。このため、大海人皇子一行と出会った時に大国が率いる猟師の一団に美濃国の王も加わっていたのである。

壬申の乱が始まった624日、大海人皇子一行が伊賀の山中に到着すると、伊賀国の郡司らと数百の兵たちが吉野方に加わった。さらに、大海人皇子一行が伊勢の鈴鹿に到着すると、五百の軍勢が集まった。26日には美濃の軍勢三千人が集まった。27日には、尾張国司が二万の兵を率いて吉野方に加わった。4日後には、吉野方は三万の軍勢となっていた。
 つまり、壬申の乱は尾張・三河、美濃、伊賀・伊勢の兵士たちを統率する大伴連大国の所領内で起きた。だから、4日後には三万の80パーセントの約二万四千の大国の配下の兵士たちが吉野方に集まっていたのである。大海人皇子は味方の軍勢を集める計画無しで東国へ出立したが、その朝には早くも東海道・東山道の兵士を統率する強力な武将・大伴連大国が大海人皇子を護衛したために、4日後には近江朝の軍勢に勝る三万の兵士たちが吉野方に集結することになったのである。
 大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を大海人皇子に期待して吉野方に味方したのである。だから、壬申の乱の原因は【日本建国の〔愛〕の理念】であった。というのも近江朝は防人の制度を設け、また近江朝の律令政治体制は人民を貧窮(ひんきゅう)させるものであったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を蔑(ないがし)ろにしていた。そして、壬申の乱は大国の所領内でおきた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する猟師・大伴連大国は近江朝の敵となり、大海人皇子に救いの手を差し伸べたのである。
 近江軍を敗北させた4日間で一挙に集まった三万の軍勢の大半(80パーセント)は大伴連大国の配下の伊賀・伊勢・美濃・尾張の兵士たちであった。この大伴連大国の約二万四千の配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであった。

◆大伴連大国と配下の兵士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ政治を大海人皇子に期待した。しかし、大海人皇子は天皇に即位すると天智天皇と同様に律令体制を推進させた。これゆえ、大国と配下の兵士たちの期待は成就しなかった。ゆえに、壬申の乱の最高功績者であった大伴連大国は天武天皇王朝には参加せず、高屋(榛原町高星)で庶民として暮らした。天武天皇は大国と配下の東海道・東山道の兵士たちの【日本建国の〔愛〕の理念】の欲求を察知し、彼らが律令体制の続行に怒って反乱をおこすことを心配した。ゆえに、676年、天智天皇の娘・新田部(にいたべ)皇女と結ばれて生まれた新生児を大伴連大国に与えた。これが舎人皇子である。
 壬申の乱に参加した東海道・東山道の兵士たちが近江方の残党と協力して反乱をおこすことを阻止(そし)するために、近江朝の天智天皇の娘である新田部皇女が生んだ新生児・舎人皇子を大伴連大国に与えたのである。そして、新生児・舎人皇子に天武天皇の第三皇子という高い位を与えて大国が率いる配下たちの期待を裏切った不満を殺()いで反乱を防いだのである。
 また、天武天皇は成長すれば大国の後を継ぐ舎人皇子が東海道と東山道と東国の兵士の反乱を阻止する強力な武将と必ずやなるにちがいないと期待して、誕生したばかりのわが子を大国に与えたのである。

しかし、舎人皇子は天武天皇が期待とおりの武将にはならなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国に養育された舎人皇子は、伊耶那美命に熱烈に憧れる時の朝廷に歯向かう反逆児となった。『万葉集』巻二の117番の題詞は「舎人皇子の御製(みうた)一首」であるから、舎人皇子が作った和歌である。この117番で、舎人皇子は伊耶那美命への熱烈な憧れを、下記のごとく表現している。
 「大夫(ますらを)や 片恋(かたこひ)せむと 嘆(なげ)けども 鬼の益卜雄(ますらを) なほ恋ふにけり」
 117番を現代語訳すると「武骨な武士(ますらお)がみっともなくて片恋するものかと虚勢(きょせい)をはってみても、吾は上古の伊耶那美命が恋しくてならならない。吾は上古の鬼道(きどう)を尊ぶ武士であるゆえ、鬼道が栄えた上古に生存した伊耶那美命の歴史をまもらんとして彼女への思慕はますます激しくなってゆく」となる。
 『魏志』倭人伝は「2世紀末~3世紀半ばまで鬼道が栄えていた様子を「倭女王の卑弥呼は鬼道を事(まつ)る」と記述する。ゆえに、舎人皇子は「3世紀前半に伊耶那美命(壱与)は生存した」と表現して「鬼の益卜雄」と詠んだのである。

舎人皇子は『古事記』編纂と『日本書紀』編纂を陣頭指揮し、最晩年の733年に葛城王(かつらぎおう/後の橘諸兄・たちばなのもろえ)兄弟に『万葉集』編纂を命じた。712年に完成した『古事記』上巻には朝廷が至上神と崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述されたため、『古事記』は元明天皇に献呈を拒絶される禁書(きんしょ)となった。ゆえに、720年に完成した『日本紀』(今日の『日本書紀』)は天照大御神の聖性を汚す記述を減らしたが原因で史実がアイマイ・中途半端となり、さらに【日本建国の〔愛〕の理念】が不明となる失敗作品となった。これゆえ、733年、舎人皇子は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために葛城王(橘諸兄)兄弟に『万葉集』編纂を命じたのである。

◆『万葉集』編纂を企画した舎人皇子の決意には山上憶良の死が関わっていた。
 『万葉集』巻六の978番「沈(おも)き痾(やまい)の時の歌」は、憶良が人生の最後に作った歌とされる。この和歌の添え書きを現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「右の一首は、山上憶良の病気が重くなったときに、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)が河辺朝臣東人(かわへのあそみあづまひと)を遣わして容体(ようだい)をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この歌を口ずさんだ。」
 「士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき 万代(よろづよ)に 語(かた)り継()ぐべき 名は立たずして」(『万葉集』978)
 上記の添え書きにもとづいて、この和歌を現代語に訳すると下記のごとくなる。
 〔わが主君の舎人親王は心無い役人たちに侮辱され、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている! 日本国が〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史を後世に残さんと戦う鬼の大夫(ますらを)の名は、万代まで語り継がれるべきなのに……。こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前(ふささき)公や政府がやっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で下劣で卑怯だ!〕
 天皇の補佐役の内臣(うちのうみ)・藤原房前の第3子が、添え書きに登場する藤原八束である。八束は河辺東人に、舎人親王を君主と仰ぐ憶良の容体を調べるように命じた。憶良は東人に容体を説明した後に沈黙して、7294月の太政官(だじょうかん)処分以来、政争に敗れて心無い役人たちに侮辱される日々を送る主君の姿をふと思い浮かべた。この瞬間、憶良の目には涙があふれ、その涙を拭きながら、東人と八束の背後にいる房前と聖武(しょうむ)天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌が口からもれた。憶良は重病に伏して主君をまもることができない状況を悲嘆した。憶良は憶良なりに命がつきる寸前まで天照大御神の聖性をまもるために日本国誕生史を抹殺せんとする律令体制に反抗を示し、そして最後の最後まで主君の舎人皇子を敬愛していたのである。
 正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の736(天平8)1111日の箇所には――733(天平5)、舎人親王と新田部(にいたべ)親王が葛城王兄弟に聖武天皇から「橘」の姓をたまわるようにするが、この「橘」の姓をもって「万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)える」ことにした。つまり「天照大御神の聖性を汚す記述を元明天皇に見抜かれて『古事記』は正史になれなかった。そこで、『日本書紀』は正史にすることを目的にして天照大御神の聖性を汚す事実の記述を少なくしたために、【日本建国の〔愛〕の理念】が不明になる失敗作品となった。この『日本書紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために、『古事記』の作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために聖武天皇を騙(だま)しておこなう勅撰(ちょくせん)和歌集『万葉集』編纂事業の陰謀を「橘」という姓を暗号に用いることにした。というのも『日本書紀』は天平八年(720)の陰暦五月つまり異称“橘月(たちばなづき)”に完成したゆえ(「橘月」については新村出編『広辞苑』岩波書店発行参照)、聖武天皇を騙しておこなう『万葉集』編纂の暗号名を「橘」とした。このように舎人親王と新田部親王は『万葉集』編纂事業を計画したが、葛城王兄弟はこの陰謀を引き受ける覚悟はあるかとたずねた。葛城王兄弟は「死をも覚悟して(『万葉集』編纂の陰謀を)やり遂げます」と決意を示して誓った――という複雑な事情が記述されている。
 上記したように、憶良の最後の作品の『万葉集』978番の3句目は「万代に」である。『万葉集』という書名となった7361111日の記事の「万歳に窮みなく、千葉に相伝える」という文は、憶良の和歌「万代に」から発想したにちがいない。ゆえに、死去する2年前の58歳の舎人皇子は憶良の辞世の和歌が動機となって、聖武天皇を騙して入手して葛城兄弟に与える姓の「橘」を「『万葉集』編纂」を意味する暗号にしたのである。
 皇室が至上神と崇拝した天照大御神の聖性をいちじるしく汚す日本国誕生史を後世に伝えるために『古事記』と『日本書紀』の編纂を陣頭指揮した舎人皇子の晩年は政争に敗れて、聖武天皇と藤原房前の卑怯な手段で心無い役人たちに侮辱される境遇となっていた。
 さらに、聖武天皇は舎人皇子の墓を作ることを厳重に禁じた。というのも、もしも舎人皇子の墓の築造を許可したならば、その墓記に必ずや「皇子の実父は天武天皇なり。皇子の養父は菟田(うだ)の高屋の住人大伴朴本連大国なり。皇子は誕生以来、高屋に住み庶民であった云々」と記されることになるからである。この墓記が後世に発見されれば、後世の歴史家たちは舎人皇子の生きざまを知って――日本国は伊耶那美命が〔愛〕の理念を掲げて誕生した、天照大御神は残忍な徇葬を決行した――という上古史の真相が明確となる。これを聖武天皇は畏(おそ)れて舎人皇子の墓の築造を厳重に禁じたのである。
 7351114日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の時代を生きた、日本古代史の希代(きたい)反逆児・舎人皇子は没した。享年60歳であった。

◆朝廷は失敗作『日本書紀』を利用し、『日本書紀』ができた直後から朝廷は講書(こうしょ/書物の講義)10世紀半ばまで約250年間も継続しておこない【日本建国の〔愛〕の理念】を掲げた日本国誕生史を隠蔽するために偽学問を捏造(ねつぞう)した。この偽学問を、今日の学者たちは「学問」であると思い込む。このため、本来ならば抹殺されて現存しなかったはずの『古事記』の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には歴史(日本国誕生史)が記述されたが、「日本国誕生史を抹殺するための政策であった講書」を「学問的研究」と思い込む今日の学者たちは『古事記』上巻の記事は歴史を伝えるものではなく物語であると断定する。
 朝廷の講書に協力して、天台宗比叡山は残虐非道な徇葬を決行した天照大御神は天台宗の本尊・大日如来(だいにちにょらい)であるとする神仏習合説を唱えて、日本国誕生史の消滅をはかった。このデタラメの神仏習合説によって、天台宗比叡山は皇室から多大な庇護(ひご)を受けて日本の宗教界に君臨(くんりん)した。
 『古事記』上巻の上古史に登場する天照大御神が仏の大日如来の生まれ変わりなんていう説はもとよりデタラメである。だから、学者たちは天照大御神が大日如来であったという神仏習合説は『古事記』上巻に記述された歴史を消滅するための虚偽工作であったことに気づくべきことになる。しかし、今日の学者たちは朝廷の講書と比叡山の天照大御神は大日如来であったとする神仏習合説にすっかり騙されて、『古事記』上巻は物語であって歴史を記述したものではないと断定する。

NHKBSテレビ「壬申の乱」の番組は「『日本書紀』の壬申の乱の記事には、4日間で3万の兵が吉野方に集まった記述はまったく存在しない」という意見を根拠・理由にして作られた。しかし、『日本書紀』には「大海人皇子一行が吉野を出発した朝、甘羅村を過ぎると、大伴朴本連大国を首領とする二十人あまりの猟師と美濃の王と出会い、この一行を大海人皇子は召し上げた」と記述する。さらに、この記事は「4日間で3万の兵のうち、約24千の兵たちの首領は東海道・東山道の兵士たちを統率する大伴朴本連大国であった」と伝える。
 ところが、NHKテレビ「壬申の乱」に登場した司会の二人と歴史学者の二人と脳科学者と戦史研究家たちの討論は、『日本書紀』の壬申の乱の記事とは無関係のウソ八百・虚妄(でたらめ)・空想・空理空論を得意げに語る茶番劇であった。
 日本人の命と魂の根源である【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺・侮辱するデタラメきわまりない、こんなひどい番組を放送して国民に受信料をオネダリするのはあまりにも虫がいい話で図々(ずうずう)し過ぎる。この際、受信料をタダにして、今後このようなデタラメを決して放送しないとNHKBSテレビは日本国民に誓うべきである。 

 

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2018年7月15日 (日)

日本嘆き訶(うた)

日本嘆き訶(うた)


ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらちゃらおかし
ウソをつくにも ほどがある
日本をバカにするにも ほどがある
学者たちの邪馬台国説と日本神話解説は
誤読、誤読デ、デッチあげた
まっ赤なウソの デタラメだぁー
この日本(くに)をマジでツブシにかかるデタラメだ 
図々しいにもほどがある

ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらちゃらおかし
ウソをつくにもほどがある
日本をバカにするにもほどがある
インテリたちの邪馬台国説と日本神話解釈も
誤読、誤読デ、デッチあげた
まっ赤なウソの デタラメだぁー
この日本(くに)をマジでツブシにかかるデタラメだ
無責任にもほどがある
ナミダちょちょぎれ 情(なさけ)けない
ちゃんちゃらおかし  ちゃらおかし

ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃらおかし
ちゃんちゃらおかし ちゃらおかし

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2018年6月26日 (火)

漢字習得定説のウソ・18

●纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定できる

◆朝日新聞の渡義人氏・田中裕也氏の両記者が書いた2018514日の夕刊で「卑弥呼の時代示す桃の種? 奈良・纏向遺跡から出土 年代測定」と題して報道された――この奈良県の纏向(まきむき)遺跡邪馬台国説は【科学】を偽装する空理空論である。これについては確実に証明できる。
 翌15日の朝日新聞の朝刊でも、渡義人記者が「桃の種 邪馬台国と同時代? 奈良・纏向遺跡で出土 年代測定判明」と題して報道した。
 纏向遺跡邪馬台国説を主張する学者の方々は、歴史学の絶対原理や基礎原理を無視する。また、彼らは【科学】の定義を全く考慮しない。だから自分たちの意見が【科学】に反し、その実体が【誤読の空理空論】であることに気づかない。
 朝日新聞の514日の記事の初頭は「女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(14)年代測定を実施したところ、西暦135230年とみられることがわかった。市纏向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物群(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。」と記述する。
 この記事の末部は――一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する――と書く。翌日の記事の末部も――邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。市纏向研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は鉄製の素環頭太刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する――と書く。
 上記に示したごとく、朝日新聞の記者は「纏向遺跡の中枢部とみられる大型建物跡の近くで出土した桃の種の放射性年代測定にもとづいて、纏向遺跡が邪馬台国であった」という説は科学的な意見であると評価して記事を書いたであろうが、纏向遺跡邪馬台国説の実体は科学に反する不正行為を犯して偽りの歴史を捏造(ねつぞう)せんとする意見である。だから、上の記事は日本国民を騙(だま)す、ジャーナリストとして恥ずべきフェイクニュース(虚偽報道・デマ)ということになる。

◆これより、なぜ纏向遺跡邪馬台国説は歴史学の基礎原理を無視して偽(にせ)の歴史を捏造せんとする虚偽説であるかについて証明する。
 1990年に栃木県足利市で、当時4歳の女児が殺害された事件は「足利事件」と呼ばれた。栃木県警は、DNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅谷利和(すがやとしかず)受刑者の体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高裁は200964日、以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたことが証明されたと表明して、菅家さんを17年ぶりに釈放した。
 菅家さんが〔犯人〕とされた最大の根拠はDNA型鑑定であり、このDNA型鑑定を菅家さんが無罪を主張する言よりも優先・重視して栃木県警は捜査を進めたため、このような冤罪(えんざい)事件が発生した。
 纏向遺跡を邪馬台国と考える最大の根拠は放射性炭素年代測定であり、この意見は『魏志』倭人伝の幾つかの記事を【誤読=文献批判】して成立する。
 古代史家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つ調べ、[][]と誤記した例がないことを証明した。したがって、『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕の通称が「『魏志』倭人伝」であるゆえ、この『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国」と表記するので、卑弥呼は「邪馬台国」には居住していなかったことになる。また、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」と書く記事は1ヵ所も存在しない。
 さらに『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あるが、この15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えずに忠実に読解すると、卑弥呼は居住した地域は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆/現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。ゆえに、卑弥呼は纏向遺跡が存在する大和に居住していなかったことになるゆえ【誤読の空理空論】となる。
 DNA型鑑定によって菅家さんは犯人と決めつけられ、無罪を主張する菅家さんの言葉は無視されたため、事実を誤認する錯覚すなわち冤罪が生まれた。
 「菅家さんを犯人と決めつけた根拠のDNA型鑑定」を「纏向遺跡邪馬台国説の根拠となる桃の種の放射性炭素年代測定」に見立てて、また「菅家さんが無罪を主張した言葉」を「『魏志』倭人伝の(1)邪馬壱国と(2)15ヵ所の方位記事」に見立てれば――『魏志』倭人伝は「纏向遺跡がある大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない。邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と明記するゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の実体は【空理空論】ということになる。また、九州説も同様に【空理空論】となる。
 栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉をウソと決めつけた。纏向遺跡邪馬台国説を提唱する学者の方々もまた、『魏志』倭人伝の記事には幾つかの誤記があるにちがいない信用できないゆえ幾つかの〔文献批判(誤読)〕を加える考えこそが正しいとするが、この考え方は菅家さんの言葉を信用しなかったため事実を誤って冤罪を生んだ栃木県警と最高裁と新聞各社の考え方と同じことになる。
 
 2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】を同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。
 上記の朝日新聞の総括記事が明記したように〔科学的手法〕イコール【科学】ではなく、両者は別なるものである。
 纏向遺跡邪馬台国説は〔科学的方法(放射性炭素年代測定)〕イコール【科学】あるいは「正しい立論方法」と考える思い込みから生まれた錯覚・妄想である。
 要するに、『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝える。したがって、1ヵ所も〔文献批判=誤読〕を加える必要がない。だから、纏向遺跡邪馬台国説はじめ畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説等の全邪馬台国説が加えるすべての〔文献批判〕の実体は【誤読】である。だから纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。
 纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説が【誤読の空論】であることについては、わがブログ「漢字習得のウソ」シリーズの514回までで詳細に解説して証明した。

◆纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の(1)「邪馬壱国」という記事と(2)15ヵ所の方位記事や、その他の幾つかの〔文献批判〕を加えて立論する。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスの空想である」と決めつけたて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、トロイ戦争は事実であったと証明され、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる。
 また、後世の学者たちの意見は【科学】が成立せず矛盾点や不合理な点が生じ、一方、前人が作った文献の記述を信頼して調べてみると【科学】が成立し矛盾点も不合理な点も発生しない場合は、後世の学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見はたとえ科学的方法を用いる意見であっても【誤読の空想】であり、【妄想】であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 
 上記したように栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉を信用せずに虚偽とした批判が事実を誤る冤罪を生み、「トロイ戦争はホメロスの空想である」と考えた学者たちの〔文献批判〕の実体は【誤読】であった。この事例にもとづけば――『魏志』倭人伝に幾つかの〔文献批判〕を加えて、桃の種の放射性炭素年代測定は卑弥呼が生存していた時代に合致するゆえに纏向遺跡こそが邪馬台国であると主張する意見の実体は【誤読の空論】であり【空想、妄想】であることが確実となる。

学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に1ヵ所も〔文献批判(誤読)〕が加えなければ成立する〔卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びず、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理〕を〔荒唐無稽(こうとうむけい)の空想〕と決めつける。
 
 しかし、この卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は2世紀末から738(聖武天皇が全国に国郡図作成の命令が下した天平10)まで制定されていた。だから、『魏志』倭人伝15ヵ所の方位記事に最初に〔文献批判〕を加えた、その瞬間から事実を誤る虚偽が始まってのっぴきならない【誤読の空論】に陥(おちい)ることになる。
 
 『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に幾つかの【誤読】を加える全邪馬台国説の考え方では、玄界灘を倭の航海者たちは無事に往来できずに命を失ったことになる。
 
 原始時代以来、ヒトは「玄界灘」の[]の字源の「天頂緯度線・子午線」をキャッチすれば、1度の60分の11分の精密さで緯度が測定できた。ゆえに、原始から卑弥呼が生存した3世紀まで、下のA図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができたのである。
K571_2

(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして迷っていないと安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、原始から3世紀までの人々にとっては「[]のキャッチに失敗すること」は「死」に直結した。
 121年に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が時の安帝(あんてい)に上呈した字書の『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。ゆえに、[]の字源は「それ以上の上がない、最も高い天体部、すなわち天頂緯度線」であった。だから、[]の字源は、A図に示した「[]のキャッチによって測定できた天頂緯度線」であった。このため、人々の命(いのち)言いかえると生死は[]のキャッチによって決定されるものであったので、『古事記』上巻に記載する[]という字は「権力者や英雄たちをあらわす尊称(そんしょう)」となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のB図は[]の字源解説図である。[]のおける[]の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得」をあらわした。この[]の字源を『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる心得」をあらわした。

地球は円(まる)――だから、ヒトの脳にそなわる本能と眼力にそなわる呪力(じゅりょく/優れる能力)によって原始から3世紀までヒトの生死を決めたA図に示した[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部の水平線から出没する地点は東から45度の〔東北〕と西から45度の〔西北〕となった。つまり、精密に1分の緯度差を測定できた[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部は〔東〕から出現して〔西〕に没するのではなく、〔東北〕から出現して〔西北〕に没した。
 中国大陸と日本列島の中間の大海を組海中の倭人たちはA図・B図に示す[]の字源の「天頂緯度線」で1分の精度で緯度を測定するものであったゆえ、西に向かって魏都に到着せんとする時は緯度測定の基準とする天頂緯度線が没する〔西北〕へ目指して針路を取っていることになる。また、彼らは東に向かって故郷に帰還する時は緯度測定の基準となる天頂緯度線が出現する〔東北〕に目指して進んでいることになる――というのも地球は円いゆえ、半円形となる天頂緯度の軌道は水平線の〔東北〕の地点と〔西北〕の地点を結ぶことになったからである。
 上記のごとく、中国大陸と日本列島の中間の大海を航海中の倭人たちが故郷へ帰還する時には――天頂緯度線と重なる天体部が出現する〔東〕から45度の〔北〕の〔東北〕の水平線の地点を目標とすることになるので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方(かなた)にある日本列島は〔東〕が〔北〕となる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかそれとも〔北〕が〔東〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかと、遠く離れた日本列島の方角を決めかねて悩むことになる。同様に、大海原の倭国の航海者たちが〔西〕の水平線の彼方の魏都へ目指して針路を取っている時には――天頂緯度線と重なる天体部が没する〔西〕から45度の〔北〕の〔西北〕の水平線の地点を目標とするので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方にある魏都は〔西〕が〔北〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかそれとも〔北〕が〔西〕になる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかと、遠く離れた魏都の方角を決めかねて悩むことになる。
 倭の航海者たちはA図右上の「天頂緯度線」をキャッチすれば命を手に入れることができたので、彼らは卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回列島地理の知識を有するものであったとしても大海で位置(緯度)と方位が不明となって漂流せず、ただひたすら天頂緯度線の測定に専念すれば魏都にも到着でき、故郷へ帰還できたのである。
 前述したように、人間の頭脳にそなわる本能と眼力でキャッチしたA図の右上に示した[]の「天頂緯度線」は1分の精度で緯度を精密に測定できたが――大海を往来する航海者たちは水平線を越えまた水平線を越えて進んで到着できる中国大陸に対して、日本列島は〔東〕に伸びているのかそれとも〔北〕に伸びているのかあるいは〔南〕に伸びているのか非常に悩ましい問題となった。だから、倭の航海者たちは「日本列島は東へ伸びる」と断定できなかった。
 ゆえに、卑弥呼王朝がある確かな事実を根拠・理由にして「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理に対して倭の航海者たちは「誤っている」と反論できなかったので、その錯覚の転回日本列島地理を信じたのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の根拠・理由は後述する。

◆中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、「玄界灘(げんかいなだ)」という名の大海がある。この大海は「[]をキャッチすれば往来できる灘、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。だから、倭の航海者たちは水平線を越えさらに水平線を越えて大海を往来するとき、A図の右上に示した「天頂点と重なる天体部」が天頂点を通過する時の46秒間の軌道=天頂緯度線をキャッチして1分の精度で緯度を精確に測定していたことになる。これゆえ、倭の航海者たちは中国大陸や朝鮮半島に到着でき、そして日本列島に帰還することができた。
 下のC図に示す北極星を基準にすれば、日本列島は東へ伸びると決定することができる。しかし、北極星では1分の精度で緯度を測定できない。これゆえ、北極星で緯度を計測する航海者は大海原で位置(緯度)と方位が皆目(かいもく)不明となって漂流し、結局、渇(かわ)き飢えて命を失うことになった。
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(C) 2018 OHKAWA

 航海者たちは本能にもとづいて死ぬことを何よりも嫌った。だから、北極星で緯度を測定せず、北極星を基準にして日本列島地理を考えなかった。
 緯度は、C図に示す北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度を知り、この高度を緯度に換算する方法でも計測できたが――北極星を利用して天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと『魏志』倭人伝に「古(いにしえ)より以来、その使(つかい)が中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称した」という倭の航海者たちは必ず命を失うことになった。
 C図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、原始時代以来、人は命を失うことになった北極星で緯度測量をせず、人は1分の精度でキャッチできるA図に示した[]をキャッチできる頭脳にそなわる本能と眼力に命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物
(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 『魏志』倭人伝の時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、C図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかった。だから、当時の人々が大海を迷わずに命をまもる方法は、A図の右上の[]をキャッチする方法のみであった。

 中国では紀元前1世紀に北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末から3世紀半ばになると、従来の大海を往来する方法であった〔[]の天頂緯度線をキャッチする眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。〔[]の天頂緯度線をキャッチできる眼力〕は日々鍛錬しないと失われた。この「[]のキャッチ」は「原始や上古において、道なき広野や大海に道を作る術」であった。ゆえに、「[]のキャッチ」は要するに「道」ということになる。今日、武道家やスポーツ選手が「技術が最高・最良になるように鍛錬すること」を「道を極(きわ)める」と表現するが、この語は原始や上古における「[]をキャッチする眼力の鍛錬」に由来するものであったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部には「魏の正始(せいし)八年(247)に、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼は昔から、狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみくこ)と不和であった。そこで、女王は載斯烏越(そしあお)等を派遣し、帯方郡にゆかせて、狗奴国との攻防の様子を報告させた。そこで帯方郡は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越等が帰国する船に便乗(びんじょう)させて派遣し、前年に魏帝が与えると約束した詔書(しょうしょ)と魏軍の黄色い旗の黄幢(こうどう)を仮に倭の外相・難升米(なしめ)に授けた。(中略)。卑弥呼にすでに没したため、十三歳の時に女王となった壱与(いよ)を倭女王に即位させた。壱与は倭国の大夫で率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、帯方郡使の張政らを送り還(かえ)らせた」と説明する記事がある。
 上記の記事が示すように、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して[]をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が失われたために、2世紀末~3世紀半ばになると魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなくなった。このため、上記したように帯方郡の使節は倭の使節が帰還する船に便乗して倭地に到着し、役目を務め終わると朝鮮半島や中国に渡る倭の使節の船に便乗して帰還することになったのである。
 したがって、魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったが、倭の使節は玄界灘を往来して魏王朝や帯方郡政庁に倭国の様子を伝えることをできたゆえ、『魏志』倭人伝が著作された。纏向遺跡邪馬台国説は〔文献批判〕を用いて北極星を基準にすれば知ることができる東に伸びる日本列島地図の方位規定にもとづいて立論するが、当時の北極星は天の北極を中心にして1200分の円を描いていたために魏や帯方郡の使節はもちろん倭の使節も玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、纏向遺跡邪馬台国説の場合――魏・帯方郡と倭は外交をまったく結ぶことができず、魏では倭国の様子をまったく知らなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになる纏向遺跡邪馬台国説の実体は完全なる【誤読の空論】ということになる。また、『魏志』倭人伝は「倭の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡政庁に到着して外交交渉をおこなっていた」と明記するゆえ、上記の「北極星による緯度測量をおこなって玄界灘を往来できなかった」という設定、あるいは「北極星による緯度測量でも玄界灘を往来できた」と主張して【科学】を無視する設定は共に【空想】、【誤読の空論】ということになる。

◆魏や帯方郡の使節が往来できなかった玄界灘に、北緯3415分の沖ノ島が浮かぶ。
 日本地図を開くと――日本列島の西端に沖ノ島があり、日本列島の東端に伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する、D図に示すように、沖ノ島と神津島は共に北緯3414分で同緯度である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝の時代、沖ノ島と神津島が同緯度であることは、A図の右上に示した[]のキャッチならば測定できたが、C図に示した北極星では測定できなかった。
 沖ノ島では冬に雪が降るが、伊豆諸島の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。この日本列島の西端と東端にある両島の気候の様子をあらわすと〔西冷東暖〕ということになる。
 E図に示すように、中国北部の海岸線地域の気候は冷たいが南部の海岸線地域は暖かい。この中国の海岸線地域の気候をあらわすと〔北冷南暖〕となる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 結局、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は暖かい気候で合致するゆえ――『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事が今日に伝えるように、卑弥呼王朝は「日本列島の〔暖かい東端〕は中国の海岸線地域の〔暖かい南方〕へと伸びる」と定める錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 D図に示す沖ノ島は[]の字が付く玄界灘に浮かび、沖ノ島と神津島の同緯度は[]のキャッチならば測定できたゆえ、卑弥呼王朝はA図とB図で解説した[]のキャッチにもとづいて転回日本列島地理を制定したことになる。
 前述したように――地球が円いために緯度線は水平線・地平線の〔東北〕から〔西北〕を結ぶ線となった。A図の右上に示す[][]の字源「天頂緯度線」、この〔天頂緯度線が出現する水平線の東北の地点〕は〔東〕が〔北〕となるのかそれとも〔北〕が〔東〕をかねているのか判然(はんぜん)としない。しかし、卑弥呼王朝はE図に示した中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理によってその疑問が解決したと思い込み、東ではなく南に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 『魏志』倭人伝は日本列島地理について「その道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在()るべし」と記述する。
 F図に示すように、南に伸びる転回日本地理は中国の会稽(現在の浙江省の紹興市)と東治(現在の福建省福州市)の東にあるが、実際の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって、現在の日本地図の方位規定を立論基盤にして卑弥呼が居住した王国の所在地を主張する纏向遺跡邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。

◆現在の日本地図にも、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は史実であったと伝える転回日本列島地図の方位規定をあらわす地名が残っている。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のG図に示す北九州の佐賀県・長崎県の両県にまたがる東松浦・北松浦・西松浦と長崎県の東彼杵(ひがしそのぎ)・西彼杵という地名は現在方位の場合、東松浦は北にあり、北松浦は西にあり、西松浦は東松浦の南にして北松浦の東にあり、東彼杵は西彼杵の北にあって松浦と彼杵に冠する方位名がまったく不合理となる。
 G図下部に示す転回方位に則(のと)って〔西〕を〔北〕とすると松浦と彼杵に冠する方位名はすべて合理となり、『魏志』倭人伝が全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は史実であったと伝えている。
 G図に示すように、西松浦の東方に岩戸山(いわとやま)古墳がある。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』には「磐井君(いわいのきみ)」と題する記事がある。森貞次郎氏の詳細な研究によって、6世紀に反乱をおこした筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井の墓は岩戸山古墳であったことが解明され、定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓(岩戸山古墳)の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏は「六十丈」と「四十丈」は正確に一致しているが、ただ方位の「南北」と「東西」だけが入れちがっていると指摘した。しかし、「南北」と「東西」は現在の日本地図の方位だと入れちがって矛盾するが、転回方位だと正しいことになる。
 H図は明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)の日本列島地図の部分を示す概略部分図である。
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 H図の「混一疆理歴代国都之図」における誤った日本地図について、幾人かの学者たちは「中国では、古くから倭国(日本列島)は南北に連なる島々と考えられていた」と解釈され、卑弥呼王朝が制定した日本地図ではないとされる。しかし、この日本地図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致する。したがって、1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ蘇(よみがえ)る卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわす。なぜならば、G図に示した「松浦」と「彼杵」に関する方位名と岩戸山古墳の規模の「南北」と「東西」の入れ違いは倭国における地理の産物だからである。ゆえに、H図の日本地図は中国における古くからの地理観をあらわすものではなく、卑弥呼王朝が制定した誤った地理観であったと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝が記述する朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴()国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱(やまい)国までの旅程記事の距離と方位に1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 『魏志』倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。転回方位だと〔北〕が〔東〕となるゆえ、出雲の北方約40kmの日本海上に浮かぶ隠岐群島が「皆、倭種なり」ということになる。隠岐群島は島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の3島と最も大きな島の島後(とうご)と約180の小島からなるゆえ「隠岐群島の皆の島、倭種なり」ということになる。
 現在地理の方位規定を立論基盤とする纏向遺跡邪馬台国説には「女王国の東、海を渡る千余里の皆が倭種となる群島や諸島」が存在しない。また、この記事に合致する群島や諸島は畿内邪馬台国説にも九州邪馬台国説にも存在しない。したがって、纏向遺跡邪馬台国説も畿内邪馬台国説も九州邪馬台国説も【誤読の空論】ということになる。

◆以上のごとく、『魏志』倭人伝は女王国の名を「邪馬壱国」と記しているゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の『隋書』倭国伝に記される「邪馬台国」という名称が正しいという意見は誤読説であり、纏向遺跡邪馬台国説は15ヵ所の方位記事に多くの〔文献批判〕を加えるゆえ、その実体は【誤読の空論】ということになる。
 前述したように、足利事件において栃木県警と最高裁と新聞各社は菅家利和受刑者の言葉を信用せずに批判したため、事実を誤認した。同様に、纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の方位記事には誤りがあると信用しないで多数の〔文献批判〕を加える。このため、纏向遺跡邪馬台国説は事実を誤認する【誤読の空論】となった。
 前述したように、紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された約350年前の紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は歴史上の事実であった。これゆえ、学者たちの「トロイ戦争はホメロスが創作した空想である」という〔文献批判〕こそが【誤読の空想】となった。A図に示した〔[]のキャッチ〕によって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事には1ヵ所も〔文献批判〕を加える必要が無いことが明らかとなる。
 
 前述したように、古代史学には――前人が残した伝説や前人が作った文献に書かれた記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と文献批判して否定しても、また後世の学者たちが放射性炭素年代測定などの〔科学的方法〕を利用して立論しても、前人の記述に【科学】が成立し、〔文献批判〕を加えた後世の学者たちの意見が矛盾し不合理で【科学】が成立しない場合、前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる絶対原理が存在する。
 このような絶対原理が古代史学には存在するゆえ、放射性炭素年代測定を根拠・理由にあげ、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を加えて立論する纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定すべきことになる。
 【誤読】を多用する纏向遺跡邪馬台国説は「放射性炭素年代測定」という〔科学的方法〕を用いれば正しい意見になると見せかけて、『魏志』倭人伝に記述された【科学】が成立する事実を潰(つぶ)し捻()じ曲げる【空理空論】である。

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2018年6月21日 (木)

纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論」であると断定できる

●纏向遺跡邪馬台国説が【誤読の空論】である証明

◆朝日新聞の渡義人氏・田中裕也氏の両記者が書いた2018514日の夕刊で「卑弥呼の時代示す桃の種? 奈良・纏向遺跡から出土 年代測定」と題して報道された――この奈良県の纏向(まきむき)遺跡邪馬台国説は【科学】を偽装する空理空論である。これについては確実に証明できる。
 翌15日の朝日新聞の朝刊でも、渡義人記者が「桃の種 邪馬台国と同時代? 奈良・纏向遺跡で出土 年代測定判明」と題して報道した。
 纏向遺跡邪馬台国説を主張する学者の方々は、歴史学の絶対原理や基礎原理を無視する。また、彼らは【科学】の定義を全く考慮しない。だから自分たちの意見が【科学】に反し、その実体が【誤読の空理空論】であることに気づかない。
 朝日新聞の514日の記事の初頭は「女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(14)年代測定を実施したところ、西暦135230年とみられることがわかった。市纏向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物群(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。」と記述する。
 この記事の末部は――一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する――と書く。翌日の記事の末部も――邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。市纏向研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は鉄製の素環頭太刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する――と書く。
 上記に示したごとく、朝日新聞の記者は「纏向遺跡の中枢部とみられる大型建物跡の近くで出土した桃の種の放射性年代測定にもとづいて、纏向遺跡が邪馬台国であった」という説は科学的な意見であると評価して記事を書いたであろうが、纏向遺跡邪馬台国説の実体は科学に反する不正行為を犯して偽りの歴史を捏造(ねつぞう)せんとする意見である。だから、上の記事は日本国民を騙(だま)す、ジャーナリストとして恥ずべきフェイクニュース(虚偽報道・デマ)ということになる。

◆これより、なぜ纏向遺跡邪馬台国説は歴史学の基礎原理を無視して偽(にせ)の歴史を捏造(ねつぞう)せんとする虚偽説であるかについて証明する。
 1990年に栃木県足利市で、当時4歳の女児が殺害された事件は「足利事件」と呼ばれた。栃木県警は、DNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅谷利和(すがやとしかず)受刑者の体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高裁は200964日、以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたことが証明されたと表明して、菅家さんを17年ぶりに釈放した。
 菅家さんが〔犯人〕とされた最大の根拠はDNA型鑑定であり、このDNA型鑑定を菅家さんが無罪を主張する言よりも優先・重視して栃木県警は捜査を進めたため、このような冤罪(えんざい)事件が発生した。
 纏向遺跡を邪馬台国と考える最大の根拠は放射性炭素年代測定であり、この意見は『魏志』倭人伝の幾つかの記事を【誤読=文献批判】して成立する。
 古代史家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つ調べ、[][]と誤記した例がないことを証明した。したがって、『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕の通称が「『魏志』倭人伝」であるゆえ、この『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国」と表記するので、卑弥呼は「邪馬台国」には居住していなかったことになる。また、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」と書く記事は1ヵ所も存在しない。
 さらに『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あるが、この15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えずに忠実に読解すると、卑弥呼は居住した地域は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆/現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。ゆえに、卑弥呼は纏向遺跡が存在する大和に居住していなかったことになるゆえ【誤読の空理空論】となる。
 DNA型鑑定によって菅家さんは犯人と決めつけられ、無罪を主張する菅家さんの言葉は無視されたため、事実を誤認する錯覚すなわち冤罪が生まれた。
 「菅家さんを犯人と決めつけた根拠のDNA型鑑定」を「纏向遺跡邪馬台国説の根拠となる桃の種の放射性炭素年代測定」に見立てて、また「菅家さんが無罪を主張した言葉」を「『魏志』倭人伝の(1)邪馬壱国と(2)15ヵ所の方位記事」に見立てれば――『魏志』倭人伝は「纏向遺跡がある大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない。邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と明記するゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の実体は【空理空論】ということになる。また、九州説も同様に【空理空論】となる。
 栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉をウソと決めつけた。纏向遺跡邪馬台国説を提唱する学者の方々もまた、『魏志』倭人伝の記事には幾つかの誤記があるにちがいない信用できないゆえ幾つかの〔文献批判(誤読)〕を加える考えこそが正しいとするが、この考え方は菅家さんの言葉を信用しなかったため事実を誤って冤罪を生んだ栃木県警と最高裁と新聞各社の考え方と同じことになる。

 2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】を同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。
 上記の朝日新聞の総括記事が明記したように〔科学的手法〕イコール【科学】ではなく、両者は別なるものである。
 纏向遺跡邪馬台国説は〔科学的方法(放射性炭素年代測定)〕イコール【科学】あるいは「正しい立論方法」と考える思い込みから生まれた錯覚・妄想である。
 要するに、『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝える。したがって、1ヵ所も〔文献批判=誤読〕を加える必要がない。だから、纏向遺跡邪馬台国説はじめ畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説等の全邪馬台国説が加えるすべての〔文献批判〕の実体は【誤読】である。だから纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。
 纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説が【誤読の空論】であることについては、わがブログ「漢字習得のウソ」シリーズの514回までで詳細に解説して証明した。

◆纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の(1)「邪馬壱国」という記事と(2)15ヵ所の方位記事や、その他の幾つかの〔文献批判〕を加えて立論する。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスの空想である」と決めつけたて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、トロイ戦争は事実であったと証明され、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる。
 また、後世の学者たちの意見は【科学】が成立せず矛盾点や不合理な点が生じ、一方、前人が作った文献の記述を信頼して調べてみると【科学】が成立し矛盾点も不合理な点も発生しない場合は、後世の学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見はたとえ科学的方法を用いる意見であっても【誤読の空想】であり、【妄想】であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 上記したように栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉を信用せずに虚偽とした批判が事実を誤る冤罪を生み、「トロイ戦争はホメロスの空想である」と考えた学者たちの〔文献批判〕の実体は【誤読】であった。この事例にもとづけば――『魏志』倭人伝に幾つかの〔文献批判〕を加えて、桃の種の放射性炭素年代測定は卑弥呼が生存していた時代に合致するゆえに纏向遺跡こそが邪馬台国であると主張する意見の実体は【誤読の空論】であり【空想、妄想】であることが確実となる。

◆学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に1ヵ所も〔文献批判(誤読)〕が加えなければ成立する〔卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びず、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理〕を〔荒唐無稽(こうとうむけい)の空想〕と決めつける。
 しかし、この卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は2世紀末から738(聖武天皇が全国に国郡図作成の命令が下した天平10)まで制定されていた。だから、『魏志』倭人伝15ヵ所の方位記事に最初に〔文献批判〕を加えた、その瞬間から事実を誤る虚偽が始まってのっぴきならない【誤読の空論】に陥(おちい)ることになる。
 『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に幾つかの【誤読】を加える全邪馬台国説の考え方では、玄界灘を倭の航海者たちは無事に往来できずに命を失ったことになる。
 原始時代以来、ヒトは「玄界灘」の[]の字源の「天頂緯度線・子午線」をキャッチすれば、1度の60分の11分の精密さで緯度が測定できた。ゆえに、原始から卑弥呼が生存した3世紀まで、下のA図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができたのである。
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 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして迷っていないと安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、原始から3世紀までの人々にとっては「[]のキャッチに失敗すること」は「死」に直結した。
 121年に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が時の安帝(あんてい)に上呈した字書の『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。ゆえに、[]の字源は「それ以上の上がない、最も高い天体部、すなわち天頂緯度線」であった。だから、[]の字源は、A図に示した「[]のキャッチによって測定できた天頂緯度線」であった。このため、人々の命(いのち)言いかえると生死は[]のキャッチによって決定されるものであったので、『古事記』上巻に記載する[]という字は「権力者や英雄たちをあらわす尊称(そんしょう)」となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のB図は[]の字源解説図である。[]のおける[]の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得」をあらわした。この[]の字源を『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる心得」をあらわした。

地球は円(まる)――だから、ヒトの脳にそなわる本能と眼力にそなわる呪力(じゅりょく/優れる能力)によって原始から3世紀までヒトの生死を決めたA図に示した[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部の水平線から出没する地点は東から45度の〔東北〕と西から45度の〔西北〕となった。つまり、精密に1分の緯度差を測定できた[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部は〔東〕から出現して〔西〕に没するのではなく、〔東北〕から出現して〔西北〕に没した。
 中国大陸と日本列島の中間の大海を組海中の倭人たちはA図・B図に示す[]の字源の「天頂緯度線」で1分の精度で緯度を測定するものであったゆえ、西に向かって魏都に到着せんとする時は緯度測定の基準とする天頂緯度線が没する〔西北〕へ目指して針路を取っていることになる。また、彼らは東に向かって故郷に帰還する時は緯度測定の基準となる天頂緯度線が出現する〔東北〕に目指して進んでいることになる――というのも地球は円いゆえ、半円形となる天頂緯度の軌道は水平線の〔東北〕の地点と〔西北〕の地点を結ぶことになったからである。
 上記のごとく、中国大陸と日本列島の中間の大海を航海中の倭人たちが故郷へ帰還する時には――天頂緯度線と重なる天体部が出現する〔東〕から45度の〔北〕の〔東北〕の水平線の地点を目標とすることになるので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方(かなた)にある日本列島は〔東〕が〔北〕となる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかそれとも〔北〕が〔東〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかと、遠く離れた日本列島の方角を決めかねて悩むことになる。同様に、大海原の倭国の航海者たちが〔西〕の水平線の彼方の魏都へ目指して針路を取っている時には――天頂緯度線と重なる天体部が没する〔西〕から45度の〔北〕の〔西北〕の水平線の地点を目標とするので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方にある魏都は〔西〕が〔北〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかそれとも〔北〕が〔西〕になる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかと、遠く離れた魏都の方角を決めかねて悩むことになる。
 倭の航海者たちはA図右上の「天頂緯度線」をキャッチすれば命を手に入れることができたので、彼らは卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回列島地理の知識を有するものであったとしても大海で位置(緯度)と方位が不明となって漂流せず、ただひたすら天頂緯度線の測定に専念すれば魏都にも到着でき、故郷へ帰還できたのである。
 前述したように、人間の頭脳にそなわる本能と眼力でキャッチしたA図の右上に示した[]の「天頂緯度線」は1分の精度で緯度を精密に測定できたが――大海を往来する航海者たちは水平線を越えまた水平線を越えて進んで到着できる中国大陸に対して、日本列島は〔東〕に伸びているのかそれとも〔北〕に伸びているのかあるいは〔南〕に伸びているのか非常に悩ましい問題となった。だから、倭の航海者たちは「日本列島は東へ伸びる」と断定できなかった。
 ゆえに、卑弥呼王朝がある確かな事実を根拠・理由にして「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理に対して倭の航海者たちは「誤っている」と反論できなかったので、その錯覚の転回日本列島地理を信じたのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の根拠・理由は後述する。

◆中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、「玄界灘(げんかいなだ)」という名の大海がある。この大海は「[]をキャッチすれば往来できる灘、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。だから、倭の航海者たちは水平線を越えさらに水平線を越えて大海を往来するとき、A図の右上に示した「天頂点と重なる天体部」が天頂点を通過する時の46秒間の軌道=天頂緯度線をキャッチして1分の精度で緯度を精確に測定していたことになる。これゆえ、倭の航海者たちは中国大陸や朝鮮半島に到着でき、そして日本列島に帰還することができた。
 下のC図に示す北極星を基準にすれば、日本列島は東へ伸びると決定することができる。しかし、北極星では1分の精度で緯度を測定できない。これゆえ、北極星で緯度を計測する航海者は大海原で位置(緯度)と方位が皆目(かいもく)不明となって漂流し、結局、渇(かわ)き飢えて命を失うことになった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 航海者たちは本能にもとづいて死ぬことを何よりも嫌った。だから、北極星で緯度を測定せず、北極星を基準にして日本列島地理を考えなかった。
 緯度は、C図に示す北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度を知り、この高度を緯度に換算する方法でも計測できたが――北極星を利用して天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと『魏志』倭人伝に「古(いにしえ)より以来、その使(つかい)が中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称した」という倭の航海者たちは必ず命を失うことになった。
 C図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、原始時代以来、人は命を失うことになった北極星で緯度測量をせず、人は1分の精度でキャッチできるA図に示した[]をキャッチできる頭脳にそなわる本能と眼力に命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物
(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 『魏志』倭人伝の時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、C図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかった。だから、当時の人々が大海を迷わずに命をまもる方法は、A図の右上の[]をキャッチする方法のみであった。

 中国では紀元前1世紀に北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末から3世紀半ばになると、従来の大海を往来する方法であった〔[]の天頂緯度線をキャッチする眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。〔[]の天頂緯度線をキャッチできる眼力〕は日々鍛錬しないと失われた。この「[]のキャッチ」は「原始や上古において、道なき広野や大海に道を作る術」であった。ゆえに、「[]のキャッチ」は要するに「道」ということになる。今日、武道家やスポーツ選手が「技術が最高・最良になるように鍛錬すること」を「道を極(きわ)める」と表現するが、この語は原始や上古における「[]をキャッチする眼力の鍛錬」に由来するものであったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部には「魏の正始(せいし)八年(247)に、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼は昔から、狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみくこ)と不和であった。そこで、女王は載斯烏越(そしあお)等を派遣し、帯方郡にゆかせて、狗奴国との攻防の様子を報告させた。そこで帯方郡は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越等が帰国する船に便乗(びんじょう)させて派遣し、前年に魏帝が与えると約束した詔書(しょうしょ)と魏軍の黄色い旗の黄幢(こうどう)を仮に倭の外相・難升米(なしめ)に授けた。(中略)。卑弥呼にすでに没したため、十三歳の時に女王となった壱与(いよ)を倭女王に即位させた。壱与は倭国の大夫で率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、帯方郡使の張政らを送り還(かえ)らせた」と説明する記事がある。
 上記の記事が示すように、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して[]をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が失われたために、2世紀末~3世紀半ばになると魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなくなった。このため、上記したように帯方郡の使節は倭の使節が帰還する船に便乗して倭地に到着し、役目を務め終わると朝鮮半島や中国に渡る倭の使節の船に便乗して帰還することになったのである。
 したがって、魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったが、倭の使節は玄界灘を往来して魏王朝や帯方郡政庁に倭国の様子を伝えることをできたゆえ、『魏志』倭人伝が著作された。纏向遺跡邪馬台国説は〔文献批判〕を用いて北極星を基準にすれば知ることができる東に伸びる日本列島地図の方位規定にもとづいて立論するが、当時の北極星は天の北極を中心にして1200分の円を描いていたために魏や帯方郡の使節はもちろん倭の使節も玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、纏向遺跡邪馬台国説の場合――魏・帯方郡と倭は外交をまったく結ぶことができず、魏では倭国の様子をまったく知らなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになる纏向遺跡邪馬台国説の実体は完全なる【誤読の空論】ということになる。また、『魏志』倭人伝は「倭の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡政庁に到着して外交交渉をおこなっていた」と明記するゆえ、上記の「北極星による緯度測量をおこなって玄界灘を往来できなかった」という設定、あるいは「北極星による緯度測量でも玄界灘を往来できた」という反科学的な設定は共に【空想】、【誤読の空論】ということになる。

◆魏や帯方郡の使節が往来できなかった玄界灘に、北緯3415分の沖ノ島が浮かぶ。
 日本地図を開くと――日本列島の西端に沖ノ島があり、日本列島の東端に伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する、D図に示すように、沖ノ島と神津島は共に北緯3414分で同緯度である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝の時代、沖ノ島と神津島が同緯度であることは、A図の右上に示した[]のキャッチならば測定できたが、C図に示した北極星では測定できなかった。
 沖ノ島では冬に雪が降るが、伊豆諸島の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。この日本列島の西端と東端にある両島の気候の様子をあらわすと〔西冷東暖〕ということになる。
 E図に示すように、中国北部の海岸線地域の気候は冷たいが南部の海岸線地域は暖かい。この中国の海岸線地域の気候をあらわすと〔北冷南暖〕となる。
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 結局、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は暖かい気候で合致するゆえ――『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事が今日に伝えるように、卑弥呼王朝は「日本列島の〔暖かい東端〕は中国の海岸線地域の〔暖かい南方〕へと伸びる」と定める錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 D図に示す沖ノ島は[]の字が付く玄界灘に浮かび、沖ノ島と神津島の同緯度は[]のキャッチならば測定できたゆえ、卑弥呼王朝はA図とB図で解説した[]のキャッチにもとづいて転回日本列島地理を制定したことになる。
 前述したように――地球が円いために緯度線は水平線・地平線の〔東北〕から〔西北〕を結ぶ線となった。A図の右上に示す[][]の字源「天頂緯度線」、この〔天頂緯度線が出現する水平線の東北の地点〕は〔東〕が〔北〕となるのかそれとも〔北〕が〔東〕をかねているのか判然(はんぜん)としない。しかし、卑弥呼王朝はE図に示した中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理によってその疑問が解決したと思い込み、東ではなく南に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 『魏志』倭人伝は日本列島地理について「その道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在()るべし」と記述する。
 F図に示すように、南に伸びる転回日本地理は中国の会稽(現在の浙江省の紹興市)と東治(現在の福建省福州市)の東にあるが、実際の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。
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 したがって、現在の日本地図の方位規定を立論基盤にして卑弥呼が居住した王国の所在地を主張する纏向遺跡邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。

◆現在の日本地図にも、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は史実であったと伝える転回日本列島地図の方位規定をあらわす地名が残っている。
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 上のG図に示す北九州の佐賀県・長崎県の両県にまたがる東松浦・北松浦・西松浦と長崎県の東彼杵(ひがしそのぎ)・西彼杵という地名は現在方位の場合、東松浦は北にあり、北松浦は西にあり、西松浦は東松浦の南にして北松浦の東にあり、東彼杵は西彼杵の北にあって松浦と彼杵に冠する方位名がまったく不合理となる。
 G図下部に示す転回方位に則(のと)って〔西〕を〔北〕とすると松浦と彼杵に冠する方位名はすべて合理となり、『魏志』倭人伝が全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は史実であったと伝えている。
 G図に示すように、西松浦の東方に岩戸山(いわとやま)古墳がある。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』には「磐井君(いわいのきみ)」と題する記事がある。森貞次郎氏の詳細な研究によって、6世紀に反乱をおこした筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井の墓は岩戸山古墳であったことが解明され、定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓(岩戸山古墳)の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏は「六十丈」と「四十丈」は正確に一致しているが、ただ方位の「南北」と「東西」だけが入れちがっていると指摘した。しかし、「南北」と「東西」は現在の日本地図の方位だと入れちがって矛盾するが、転回方位だと正しいことになる。
 H図は明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)の日本列島地図の部分を示す概略部分図である。
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 H図の「混一疆理歴代国都之図」における誤った日本地図について、幾人かの学者たちは「中国では、古くから倭国(日本列島)は南北に連なる島々と考えられていた」と解釈され、卑弥呼王朝が制定した日本地図ではないとされる。しかし、この日本地図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致する。したがって、1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ蘇(よみがえ)る卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわす。なぜならば、G図に示した「松浦」と「彼杵」に関する方位名と岩戸山古墳の規模の「南北」と「東西」の入れ違いは倭国における地理の産物だからである。ゆえに、H図の日本地図は中国における古くからの地理観をあらわすものではなく、卑弥呼王朝が制定した誤った地理観であったと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝が記述する朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴()国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱(やまい)国までの旅程記事の距離と方位に1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 『魏志』倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。転回方位だと〔北〕が〔東〕となるゆえ、出雲の北方約40kmの日本海上に浮かぶ隠岐群島が「皆、倭種なり」ということになる。隠岐群島は島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の3島と最も大きな島の島後(とうご)と約180の小島からなるゆえ「隠岐群島の皆の島、倭種なり」ということになる。
 現在地理の方位規定を立論基盤とする纏向遺跡邪馬台国説には「女王国の東、海を渡る千余里の皆が倭種となる群島や諸島」が存在しない。また、この記事に合致する群島や諸島は畿内邪馬台国説にも九州邪馬台国説にも存在しない。したがって、纏向遺跡邪馬台国説も畿内邪馬台国説も九州邪馬台国説も【誤読の空論】ということになる。

◆以上のごとく、『魏志』倭人伝は女王国の名を「邪馬壱国」と記しているゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の『隋書』倭国伝に記される「邪馬台国」という名称が正しいという意見は誤読説であり、纏向遺跡邪馬台国説は15ヵ所の方位記事に多くの〔文献批判〕を加えるゆえ、その実体は【誤読の空論】ということになる。
 前述したように、足利事件において栃木県警と最高裁と新聞各社は菅家利和受刑者の言葉を信用せずに批判したため、事実を誤認した。同様に、纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の方位記事には誤りがあると信用しないで多数の〔文献批判〕を加える。このため、纏向遺跡邪馬台国説は事実を誤認する【誤読の空論】となった。
 前述したように、紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された約350年前の紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は歴史上の事実であった。これゆえ、学者たちの「トロイ戦争はホメロスが創作した空想である」という〔文献批判〕こそが【誤読の空想】となった。A図に示した〔[]のキャッチ〕によって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事には1ヵ所も〔文献批判〕を加える必要が無いことが明らかとなる。
 前述したように、古代史学には――前人が残した伝説や前人が作った文献に書かれた記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と文献批判して否定しても、また後世の学者たちが放射性炭素年代測定などの〔科学的方法〕を利用して立論しても、前人の記述に【科学】が成立し、〔文献批判〕を加えた後世の学者たちの意見が矛盾し不合理で【科学】が成立しない場合、前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる絶対原理が存在する。
 このような絶対原理が古代史学には存在するゆえ、放射性炭素年代測定を根拠・理由にあげ、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を加えて立論する纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定すべきことになる。
 【誤読】を多用する纏向遺跡邪馬台国説は「放射性炭素年代測定」という〔科学的方法〕を用いれば正しい意見になると見せかけて、『魏志』倭人伝に記述された【科学】が成立する事実を潰(つぶ)し捻()じ曲げる【空理空論】である。

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2018年6月20日 (水)

漢字習得の定説のウソ・17

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・3
■日本国誕生史の目撃者となった建比良鳥命

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は7回~14回まで、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝を邪馬台国説のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)してしまったが、実は『魏志』倭人伝は1ヵ所も【誤読】を加えなければ倉頡(そうきつ)が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる第一級の重大な書物であったことを詳細に解説して証明した。
 また、わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回までで――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡が漢字を発明した」という伝説は事実であった――ことを詳細に解説して証明した。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る方法と原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想にちがいないと思い込んだ。この学者たちの思い込みと、さらに『魏志』倭人伝は邪馬台国論のために存在する書物であると定めて数々の【誤読の空論】が捻出(ねんしゅつ)されたために【漢字が銀河から作られた学術の門】が閉()ざされてしまったのである。
 上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕のうちの(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 倉頡が発明した書契、夏代の夏音文字、殷代の契文(けいぶん/甲骨文字)、周代(しゅうだい)の金文、その後の大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして楷書など――これら712年に『古事記』が成立した以前の古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた。この事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
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 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の日本神話研究は【誤読の空論】であると断定することができる。
 というのも、上記したように、幾つかの【誤読(文献批判)】を加えて『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えなければ倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明できる古文献だからである。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説し証明したように――『古事記』序は「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国が誕生された歴史はじめその他の説話に記述された上古の歴史の真相が明らかになる」と、歴史解明方法を説明している。しかし、現在、学者たちは誰一人、太安万侶(おおのやすまろ)が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史を知ることができる」と説明する歴史解明方法に従わずに立論するゆえ、学者たちの意見は【誤読の空理空想】であると断定できる。

◆『古事記』序が「〔音〕という注が付く夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された上古の歴史を知ることができる」と説明するとおりに【誤読】を加えずに読み解明する、『古事記』上巻は朝廷が崇拝する皇祖(こうそ)の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であったことになる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大御神は、伊耶那美命が高尾山古墳で伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という言で「日本国の国作りの柱を〔愛〕にしましょう」と唱えた、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して、多数の青年男女をころして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。伊耶那美命を愛した伊耶那岐命は配下の日本軍の兵士と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那岐命は数人の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)に侵入して伊耶那美命の棺(ひつぎ)を奪って逃走した。天照大御神は伊耶那美命の墓の警護にあたっていた倭の大軍を逃走する伊耶那岐命一行の追跡を命じた。伊耶那岐命一行は松明(たいまつ)に灯をつけて夜の熊野路を逃走した。倭軍はその松明の灯を目標にして追跡したが、この松明の灯は日本兵と熊野の戦士たちの伊耶那岐命・クーデター軍本隊が待機する場所へ誘導する伊耶那岐命の罠(わな)であった。伊耶那岐命一行は本隊が密かに隠れる現在の熊野速玉大社の境内=黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に目指して逃走して合流して、倭軍が速玉大社の境内に到着するや伊耶那岐命軍は虚(きょ)をついて反撃した。数にまさると断然(だんぜん)有利と考えて油断した倭軍は罠にはまり、伊耶那岐命軍の反撃に面食(めんく)らって一挙にくずれ倭軍の兵士たちは一目散(いちもくさん)に必死に敗走した。
 かくして伊耶那岐命のクーデターは成功した。
 驚いたことに、天照大御神は大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地)から熊野速玉大社までの夜の森林で覆われる真っ暗闇の熊野路を歩き、伊耶那岐命を必死に追跡してきた。天照大御神は日本軍の兵士にとらわれて捕虜(ほりょ)となって、熊野速玉大社から約1km南の現在の神倉神社(和歌山県新宮市磐盾町)の御神体となる巨大な岩=千引石(ちびきのいわ/現在は“ごとびき岩”と呼ばれる)の伊耶那岐命の背丈よりもさらに高い洞(ほら/空洞)に居る伊耶那岐命の所まで連行された。
 伊耶那岐命の正妃は伊耶那美命、伊耶那岐命の第二后は伊耶那岐命の父とも結婚した継母の天照大御神であった。
 伊耶那岐命は千引石の前の洞で捕虜となって連行された天照大御神と対面した時、夫婦離縁の誓いを言い渡した。これを聞いた天照大御神は「あなたがこのような無法なことをおこすならば、あなたの国の〔愛〕を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)い祟(たた)って、狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子の頭を絞め殺す」と誓った。伊耶那岐命は「おまえがそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つように、亡き妻が唱えた〔愛〕を尊重する政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓した――と、上古史を伝えている。
 上記したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――(1)天照大御神がおこなった徇葬と、(2)伊耶那岐命が伊耶那美命の棺を奪って逃走して熊野速玉大社の境内で倭の大軍を撃破したクーデターと(このクーデターは、毎年26日の夜に、近在の男たちが千人以上も集まって松明片手に神倉神社の参道の石段をかけ下る「お燈(とう)祭り」となる)(3)現在、神倉神社の社殿が建つごとびき岩(千引石)の洞で伊耶那岐命は天照大御神に離縁を言い渡し、(4)天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟った(このため、熊野速玉大社の主祭神は伊耶那岐命、神倉神社熊野速玉大社の摂社(せっしゃ)となり、神倉神社の主祭神は神倉神社の社殿が建つ場所で離縁を言い渡された天照大御神である)――と、皇祖天照大御神の不名誉な歴史を記述する。
 『古事記』が著作された7世紀末~8世紀初頭頃、朝廷は天照大御神を国家の至上神の皇祖と崇拝して強大な国家権力の充実化をはかっていた。これゆえ朝廷は天照大御神の聖性を汚すことを厳重に禁じ、天照大御神を徳高い人物にして神格化する偽書の作成を、『古事記』編纂スタッフに欲求していた。したがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話においては、残酷な徇葬を陣頭指揮して、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚し、伊耶那岐命から離縁され、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し祟る呪(のろ)いを述べた倭女王の名を、そのまま「天照大御神」と表記できなかった。「天照大御神」と表記すれば『古事記』はただちに排除・抹殺(まっさつ)されるゆえ、編纂スタッフは元明(げんめい)天皇が献呈許可するように、朝廷の欲求とおりにしたがったと見せかけるために「天照大御神」を「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と表記した。しかし、「天照大御神」を「伊耶那美神命」という偽名にしても、伊耶那岐命は愛妻伊耶那美命の棺を奪ってクーデターを成功させて天照大御神を倭女王から失脚させた歴史は依然として明かで隠蔽(いんぺい)できないと解釈した元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶して以後抹殺(まっさつ)をはかった。
 このため、『古事記』序の末尾に「和銅五年正月廿八日」と明天皇に『古事記』が献上された年月日が記されているが、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』献上記事は削除(さくじょ)されている。『古事記』上巻は真実の歴史を伝える反逆の史書であったゆえ、その痕跡(こんせき)を朝廷は消滅しようとしたのである。

◆『古事記』が元明天皇に献上された712(和銅5)128日の翌713(和銅6)52日の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記事は「元明天皇が、全国に『風土記(ふどき)』の編纂を命じた」と伝える。
 元明天皇の『風土記』の編纂命令を要約すると――(1)郡・郷の地名に好き字(()き字をえらび2字で表記)をつけること、(2)郡内の物産の品目のリストを書きあげる、(3)農地の肥沃(ひよく)か否(いな)かの状況、(4)山川原野などの地名の由来、(5)古老たちが語る伝承や珍しい話を史籍(しせき)に載せて言上(ごんじょう)せよ――となる。
 上記の(1)(4)(5)は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための政策であったことを示し、伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史はじめ天照大御神が人民を苦しめ弾圧した歴史を後世に伝えないための対策であった。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念】を政治の基軸にかかげて人民たちに敬愛された伊耶那岐命と伊耶那美命の歴史と天照大御神への人民の抵抗・敵視・憎悪の歴史は、地名となり古老たちの話となって伝承されていたからである。つまり『古事記』上巻の夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる歴史は、地名となって保存され、また古老たちが伝説・民話にして口承(こうしょう)するものであった。だから、(1)朝廷にとって不都合な歴史を保存する地名を2字にして廃棄(はいき)せよと命令し、(4)山川原野などの地名と(5)古老たちの伝承を監視(かんし)するため、『風土記』を史籍(歴史書)にして地名と古老たちの伝承を記載して言上せよ(報告せよ)と――元明天皇は全国に命令したのである。
 太政官(だじょうかん)の命令によって全国の60余ヵ国から提出を求めた『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺するための史籍(歴史書の役目をはたす書籍)であった。しかし、そのほとんどは失われ、完全な写本の残るのは『出雲国風土記』の一ヵ国のみである。不完全な形で残った史籍もわずか『常陸国風土記』『播磨国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』の4ヵ国分にすぎない。
 『古事記』はその上巻が真実の歴史を残すものであったゆえ完全な写本が残った。いっぽう、『風土記』は『古事記』上巻に記述された歴史を抹殺する対策のための書籍であったのが原因で、全国60余ヵ国の『風土記』のほとんどが失われることになった。

「『魏志』倭人伝」とは陳寿(ちんじゅ)が著した「『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部の倭人条」の通称である。山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎(歴史編纂官)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 ゆえに、『魏志』倭人伝は3世紀に著作された。
 
学者たちは、わが国が最初に漢字を習得したのは6世紀ないし7世紀であると断定するが、3世紀に著作された『魏志』倭人伝には「倭には漢字が習得されていた」と明記する記事が2ヵ所存在する。
 最初は「倭において骨を灼()いて卜(ぼく)し吉凶を占う辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の如(ごと)くであった、つまり殷代の亀の甲羅に刻む契文(けいぶん/甲骨文字)の法の如くであった」という記事である。次に「魏の都・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁があった朝鮮半島の郡)・諸韓国で文書に用いる漢字(楷書)と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都国(いとこく)の港で点検し、確認して、楷書と卑弥呼の文字を正しく変換して」という記事である。
 わが国には文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字が習得されており、楷書も文字作成銀河各部を字源・字形・字義とするものであったために、伊都国の港では文字作成銀河を字書としてあつかい観察して、魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を文字作成銀河で点検し確認して正しく変換していたのである。
 ゆえ、漢字習得の定説は【誤読の産物】の虚偽・欺瞞(ぎまん)であったことになる。

◆前回のブログ「漢字習得定説のウソ・16」で、A図に示す、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場の封土(ほうど/盛り土)であったことを証明した。
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(C) 2018 OHKAWA

 B図に、高尾山古墳の規模をあらわした。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 沼津教育委員会は出土した約2000点の土器にあって、西暦230年頃より新しい土器(250年頃の土器)が含まれていなかったゆえ、高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成したと発表した。高尾山古墳の後方墳の主体部の埋納(まいのう)施設から出土した230年頃の土器はわずかであり、同じ種類の土器はほとんど主体部の外(墳丘上)で出土していることから、主体部の埋納施設は250年頃に構築されたと沼津市教育委員会は推定した。
 
C図に、高尾山古墳の主体部から出土した遺物をあらわした。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示した高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の銅鏡は、仙人の絵柄が破砕(はさい)されていた。この破砕鏡から東南に約1mと東に約1mの場所から「東海西部系土器」が見つかった。
 「東海西部」は「遠江、三河、尾張」である。
 D図は、高尾山古墳の主体部の遺物が埋設された250年頃から約10年後の260年頃、ちょうど1千万坪に作製された大鳥の地上絵である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 D図の大鳥の地上絵は、現在、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となる。
 D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵によって、(1)『古事記』序の冒頭は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏音文字の学芸が伝来し、前期縄文時代以来の約2000年間におよぶ文字作成銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造った伝統をうけつぐ縄文の芸術家たちによって夏音文字の学芸は習得された」と記述してあるという意見が正しい解釈となり、学者たちの解釈・意見は記事の表層をなでるだけの粗雑な【誤読の空論・空想】ということになる。また、(2)『魏志』倭人伝は邪馬台国説のために存在する古文献ではなく、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を記述する学術書であると証明される。さらに(3)D図の大鳥の地上絵と伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場となった沼津市の高尾山古墳によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事は史実を伝える記録であったと科学的に証明される。したがって、史実であることを解明できなかった本居宣長(もとおりのりなが/17301801)の解釈・意見を受けつぐ学者たちの意見・解釈は【誤読の空理空論】と断定すべきことになる。なぜならば、『古事記』序は、その全記事で「上巻に記述された歴史は、上巻に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる仕組みになっている」と歴史解明方法を語っているにもかかわらず、宣長と学者たちは『古事記』序が指摘する歴史解明方法を排除・無視して、歴史が解明できない方法で解釈するからである。

◆わたくしは20142月以後、D図の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵を「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。しかし、それ以前は「建比良鳥(たけひらとり)の地宜(ちぎ)」または「建比良鳥の地上絵」と名づけていた。というのも、細江町の大鳥の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と、その一族が作製したと証明できるからである。
 
C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」の一角は「遠江」である。だから、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神王朝を倒さんとして五人の王と九州の宗像王(むなかたおう)の六人の王は熊野本宮大社の旧社地の大斎原に須佐之男王朝を樹立するクーデターを計画した。しかし、このクーデターを聞きつけた臨終間際の伊耶那岐命は伊耶那美命との間に生まれた息子の須佐之男命を枕元に呼びつけて「おまえの母・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に背いてクーデターを決行するのか! クーデターの連鎖(れんさ)を断ち切るために吾は天照大御神の息子の天照大御神に天下を譲ったのだ」と怒って死去した。これゆえ、父の遺言をまもって須佐之男命はクーデターを断念したため、五人の王と宗像王の天照大御神母子の大和王朝を倒さんとしたクーデター計画は失敗した。遠江の豪族の建比良鳥命は宗像王が率いる7人の建比良鳥命の一人であった――と記述している。
 『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して歴史を解明せよ」という指摘にしたがうと、計381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事はA図に示した沼津市の高尾山古墳・浮島沼・愛鷹山(足高山)にて起きた日本国誕生史を伝えていることが【科学】が成立して証明される。
 C図の高尾山古墳の主体部から見つかった東海西部系土器の「東海西部」は「遠江」であるゆえ、卑弥呼の地上絵を作製した東海西部・遠江の豪族の建比良鳥命は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史の目撃者(もくげきしゃ)であった。
 このため、伊耶那美命を敬愛する天照大御神母子大和王朝を倒すクーデターに参加した遠江の建比良鳥命は日本国誕生史が後世まで保存されることを目的として、D図に示した卑弥呼の地上絵を『古事記』が完成する約450年前の260年頃から作製を開始して約30年後に完成した。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は、倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理を「仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)に類して文字を作った」と説明する。
 上記の漢字起源記事中にある「天象」とは「文字作成銀河」を意味する。「地法」とは「天象(文字作成銀河)の各部位は東から西へと去るのに対し、中国の大地を流れる黄河と長江の二つの大河も水は逆向きに西から東へと流れ去り、また中国の海岸線の北部は東へ去るオス鹿の横顔に類似し、また中国の国土は東へ飛び去る鳥の姿に類似する」と意味した。
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 上のE図に示すように、「黄河と長江の水は西(上流)から河口がある東へと流れ去る」ゆえ、[]の三水偏となった。「中国の北部の廟島(びょうとう)列島はオス鹿の角、山東半島は東へ去る鹿の横顔」に見立てられて、正字[]の旁(つくり)部の上部の[鹿]となった。「山東半島を〔鳥の頭〕と見立てると、山東半島の付け根から南北の海岸線は〔鳥の翼〕に類似する」ゆえ、[]の旁部は[鹿][]の字が加えられることになった。したがって、[鹿]の字部は「東へ去る鹿の横顔と東へ飛び去る鳥の横顔」に相当する。
 上の漢字起源記事中の「鳥獣の文」は、倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。わがブログ「漢字習得定説のウソ・14」で解説・証明したように、倉頡は[]の字源・字形・字義は「十字の銀河」と定め、「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた全文字の母体」と定め、また「全文字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。そして[]の字源・字形・字義を「鬼の姿に似る銀河」と定め、「十字の銀河」を[(べん)]の字源・字形・字義と定めて、[]の下に[]を加える[]も文字を作った。このような[][]の作成定理が「鳥獣の文」ということになる。
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 また、F図に示すように、倉頡は「十字の銀河」と「頭が誕生する子の顔の向き」とE図の「中国の海岸線」との三者による合理を成立させるために[()][]の字を作った。この[][]の作成定理も「鳥獣の文」ということになる。
 上記した漢字起源記事中の「地宜」は「平面的に図化した地図の形」の意である。つまり、D図の卑弥呼の地上絵やE図の中国地図が「地宜」ということになる。

 D図に示した卑弥呼の地上絵は『易経』繋辞下伝が伝える倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理にもとづいて作成された地宜である。ゆえに、建比良鳥命とその一族は倉頡が死刑と定めた掟を破る大罪(たいざい)を犯したことになる。さらに、卑弥呼の地上絵は
天照大御神母子・大和朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じた日本国誕生史を伝えるものであったゆえ、天照大御神王朝に発見されたならば一族全員は処刑されて滅亡する大罪であった。しかし、この大罪を犯して建比良鳥命は卑弥呼の地上絵を作製し、後世の子孫も代々卑弥呼の地上絵の保存に努めたため、今日まで卑弥呼の地上絵は残ったのである。

◆D図の卑弥呼の地上絵内から7ヵ所の地点から9口の銅鐸(どうたく)が出土した。この9
口の銅鐸は、G図に示した[]をキャッチして1000万坪の卑弥呼の地上絵を作製に用いられた道具であった。
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――その証拠に、9口の銅鐸のうちほぼ完全な形で出土した銅鐸を選んで、その精密な模造鐸(もぞうたく)を造って、鐸身(たくしん/)の中に頭を入れて夜間に天頂緯度測量してみれば、銅鐸は[]をキャッチするために様々な工夫(くふう)が加えられた構造となる道具であったことが証明される。
 卑弥呼の地上絵内から出土した9口の銅鐸は近畿式と三河・遠江に多数分布する三遠式(さんえんしき)銅鐸であり、これら近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は「終末期銅鐸と分類され、その製作・使用年代は260290年と考えられている。だから、卑弥呼の地上絵は260年~290年に作製されたということになる。
 上記したように、山尾幸久著『魏志倭人伝』にもとづくと、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたことになる。
 ゆえに、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成された。
 同時代に作られた『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵によって(1)倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であったと断定した学説は空理空論、(2)33の小国名と幾つかの記事によって倉頡が発明した漢字を作成する方法と原理が解明され、(3)『古事記』序冒頭に記述されたように夏音文字の学芸はわが国に伝来し、皇室が政権基盤にし、独占管理して厳重(げんじゅう)に機密保持(きみつほじ)していた秘密、この三点は【科学】が成立して事実となる。
 したがって、新井白石より始まった邪馬台国説の立論基盤となる【文献批判】の正体は、正真正銘(しょうしんしょうめい)の【空論・幻想】であったことになる。

◆H図にも、D図の卑弥呼の地上絵を示した。
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 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の顔は「夏至の日の出の方向」を向き「卑弥呼の地上絵は夏音文字の学芸を保存する地上絵」であると表示する。言いかえると、「卑弥呼の地上絵」は『魏志』倭人伝に記述された「倉頡(そうきつ)が発明した文字作成銀河から漢字を作る方法と原理を保存する大鳥の地上絵」ということになる。
 H図に示すように、卑弥呼の地上絵の経緯度原点A地点と滝峯不動尊(たきみねふどうそん)1分も狂わずに同緯度(北緯3448)である。ゆえに、この同緯度はG図の[]のキャッチをもって測量したことになる。
 I図に示した北極星では経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することはできない。
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 3世紀の北極星は天の北極から直径約20(半径約10)の円を画くものであったゆえ、約20度つまり約1200分の直径を画く北極星で1200分の11分の精度が求められる経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度を測量することは不可能である。
 だから、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の同緯度は、卑弥呼の地上絵内から出土した銅鐸で天頂緯度線をキャッチして測量したことになる。
 経緯度原点A地点の真東の滝峯不動尊から、春分の日の朝、太陽が昇る。“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。「朝律を立つるなり」という字源解説は「春分の日の朝、経緯度原点地の真東から太陽が出現する」と意味する。だから、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点地A地点と滝峯不動尊」は『説文解字』が「朝律を立つるなり」と解説する[]の字源をあらわす。『古事記』上巻の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を『日本書紀』の神代紀は「泉津平坂(よもつひらさか)」と表記するゆえ「比良=平(ひら)」となる。だから、H図に示す「平面的に図化した地図の形=地宜」が「比良」となる。卑弥呼の地上絵は「鳥の地上絵」であるから「鳥」となる。このように卑弥呼の地上絵は[]・「比良」・「鳥」と表示するゆえ、卑弥呼の地上絵は建比良鳥命によって作製されたと証明される。
 H図に示すように、経緯度原点A地点と滝峯不動尊の経度軸から夏至の日の出の方角の29度に傾く線の交点は八幡宮となる。この三角測量を基(もと)に大小の三角形の網や鎖を形作って測量すれば、ちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を図化することができる。この卑弥呼の地上絵の地図作製原理は、現在の国土地理院の東京都港区麻布飯倉318に所在する旧東京天文台の子午儀の中心を経緯度原点にして、光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量をおこない、三角点の位置を決定する日本列島精密測地網地図の作製原理と同じである。
 だから、五帝時代初頭から夏代初頭までの約1000年のあいだ[]のキャッチで測量して作製された精密中国海岸線地図を夏代初頭に伝来した夏音文字の学芸がもたらすものであったゆえ、卑弥呼地上絵が作製されることになったのである。

図に示すように、卑弥呼の地上絵は(1)「大鳥の地宜」、(2)「都田川(みやこだがわ)の沖積(ちゅうせき)平野」、(3)「象の頭と鼻の形の地宜」の三区の地宜から成る。
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 J図にお示した三区の地宜を、下のK図では漫画風に表現した。
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 L図に、文字作成銀河のうちの北半分の形状を示した。
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 J図・K図の「都田川の沖積平野」はL図の「鬼の姿に似る銀河」に呼応し、「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし/無事に産道を通過して生まる子)」をあらわした。ゆえに、「都田川の沖積平野」は 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記述された伊耶那岐命が千引石の前で「吾は一日に必ず千五百の産屋が立つようにする」と宣誓した言をあらわした。したがって、「都田川の沖積平野」は伊耶那美命が高尾山古墳で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。
 J図・K図の「象の頭と鼻の形の地宜」は、L図の「北アメリカ星雲」が呼応する。
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 M図に示すように、[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は「北アメリカ星雲」を「象の顔・象の鼻」に相似すると見立てて、「象の姿」に図案された。[]の篆文形(てんぶんけい)は「北アメリカ星雲」の東隣の「激流の銀河」の図案である。白川静著『字統』は[]の契文形を「手と象とに従う。手を以て象を使役(しえき)する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と解説する。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 []の字源解説において『字統』が指摘する「手」の字源銀河は、N図に示すように「北アメリカ星雲」に隣接する「鬼の姿に似る銀河」である。この[]の字源となる「鬼の姿に似る銀河」が、上記の[為]の字源解説に登場する「土木」の語源である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 O図に示すように「松の木」に見える銀河において、N図の[手]の字源=「土木」の語源の「鬼の姿に似る銀河」は「木の幹」となる。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」はM図の[]の契文形では「手と象(北アメリカ星雲)とに従う。手を以て象(北アメリカ星雲)を使役する形で、土木工事などの工作をすることをいう」と、白川静著『字統』は解説したのである。

『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭は――卑弥呼と卑弥呼王朝の面々に伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述する。この記事に登場する「修理」の[]の字源を、白川静著『字統』は「攸(ゆう)と彡(さん)とに従う。攸は人の後ろから水をかけてあらう洗う形」と解説する。だから、J図における「象の顔と鼻の形の地宜」はK図の下部の矢印で示したように「象が浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の水を鼻に吸い込んで、後ろから大鳥の地宜に吹きかけて、大鳥の地上絵の南の羽が東になるように転回させる役目」があった。
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(C) 2018 OHKAWA

 P図の上図は、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の役目によって「〔南〕の羽を〔東〕になるように転回させた卑弥呼の地上絵」ということになる。
 P図の上図の「頭が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵」は下図の「地法の東へ飛び去る鳥の姿(海岸線)に包まれる中国地図」に相似する。
 「〔南〕を〔東〕に転回する」P図の上図は、F図に示した[]の字源「逆時計回りの〔南〕が〔東〕になる」をあらわす。
 P図の上図の右側に示すE図において「鹿と鳥の横顔」となった「山東半島」は〔東〕を向く。ところがP図の上図における「卑弥呼の地上絵の横顔」は〔北〕を向く。この「〔東〕が〔北〕を向く転回方位」もまた[]の字源「逆時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす。(なお、P図の上図における〔北〕を〔東〕の転回方位、つまり卑弥呼の地上絵の横顔から山東半島の鹿と鳥の横顔への転回方位は、F図に示した[]の字源「時計回りに方位を90度転回させる規定」をあらわす)

◆P図の上図の〔北〕に横顔が向く卑弥呼の地上絵は、頭部が〔東〕に向く卑弥呼の地上絵ということになる。
 卑弥呼の地上絵がある遠江の〔東〕には、A図に示した沼津市の高尾山古墳がある。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話冒頭は――是(ここ)に天(あまつ)神と諸(もろもろの)の命(みこと)は伊耶那岐命と伊耶那美命に
「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めよ」と詔(みことのり)を下した――と記述するゆえ、上記したように「天つ神と諸の命」は「卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々」ということになる。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の呉の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 呉の黄竜2年・230年から22年まえの208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」
 C図の左側に示すように、高尾山古墳の主体部から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は『後漢書』倭伝に記述された「蓬莱の神仙の霊薬がある足高山」に目指して遠征してくるにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は、Q図に示す小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。
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◆上記したように、高尾山古墳の墳丘内から出土した土器は2000点に上ったが、西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は含まれていなかったゆえ――沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘は西暦230年頃に完成したと推定した。ゆえに、小国・日本の軍王の伊耶那岐命と小国・日本の女王伊耶那美命の結婚式は、結婚式場である高尾山古墳の墳丘が完成した230年直後、多分234年頃におこなわれたことになろう。
 また、C図の左側に示す「230年頃の東海西部系土器」は「黄竜2年・230年の呉の東鯷人国の遠征軍遠征の情報をキャッチして、小国・日本が誕生した」とあらわしていることになる。
 「230年頃の東海西部系土器」が示すように、東海西部・遠江の建比良鳥命とその一族は倭から派遣された小国・日本を防衛するための軍士であった。したがって、卑弥呼の地上絵を作製した建比良鳥命とその一族は日本国誕生史の目撃者であったことになる。
 J図に示した卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きいゆえ、L図に示した「北アメリカ星雲」と不釣り合いとなる。というのも、「象の顔と鼻の形の地宜」には、R図の左図に示す「わし座α星から夏の銀河の西南部」まが範囲となる「巨大な象の顔と鼻の形の銀河」をあらわす役目もあった。ゆえに、卑弥呼の地上絵における「象の顔と鼻の形の地宜」の面積は大きくなったのである。
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 R図の右図も同じ「わし座α星から夏の銀河の西南部像」までの範囲となる「巨龍の銀河像」である。「巨龍の顔と首がある、夏の銀河の西南部」は〔黄金〕に輝くゆえ、〔黄金」の「黄」と〔巨龍〕の「竜」で「黄竜」という元号をあらわす。だから、卑弥呼の地上絵西部の「象の顔と鼻の形の地宜」は「黄竜2年・230年、呉の1万の水軍が日本列島に所在する東鯷人国へ遠征しようとした直後に、東鯷人国は滅亡して卑弥呼が統治する倭国に属する小国・日本国が誕生した」とあらわしていることになる。
 卑弥呼王朝と日本軍は呉の遠征軍は、紀元前3世紀に徐福一行が不老長寿の霊薬が採集できると思い込んだ蓬莱山・足高山(愛鷹山)へ目指して襲来する可能性が最も高いと予想して、足高山(愛鷹山)を日本軍防衛の軍事基地とした。
 だから、伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場は、『古事記』上巻の淤能碁呂説話の全記事に合致する高尾山古墳であったことになる。

◆これまで解説し証明してきたように、日本国誕生史を後世へ伝えるために、卑弥呼の地上絵には下記の3つの機能が備わった。
 (1)「漢字は銀漢から作られた字」であるから略して「漢字」と称された秘密を伝えてーーJ図に示した卑弥呼の地上絵は、L図の左上端の銀河からR図の右図の「さそり座α星」までが、辞理=文字作成銀河の範囲(上掲した文字作成銀河各部の名称図を参照)であると表示する。だから、卑弥呼の地上絵によって全漢字の字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状であった事実が科学的に証明される。
 (2)卑弥呼の地上絵には、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が表示された。というのも卑弥呼の地上絵の作製目的は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることであったからである。前述したように、J図の「都田川の沖積平野」が【日本建国の〔愛」の理念】を表示する。
 (3)卑弥呼の地上絵は、小国・日本は呉の黄竜2(230)の呉の1万の遠征軍が足高山(愛鷹山)・浮島原に来襲するにちがいないと――卑弥呼王朝と東鯷人(とうていじん)国王が予想して、伊耶那岐命が日本防衛軍の軍王として伊耶那美命が女王として小国・日本に赴任した歴史を表示する。J図の「象の顔と鼻の形の地宜」とR図に示した「黄金色に輝く巨龍の銀河」が「黄竜2年の1万の呉の日本列島の遠征」をあらわす。
 以上のごとく、『古事記』序の「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史は解明できる」という説明は事実であったことになる。

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2018年6月14日 (木)

漢字習得定説のウソ・16

 ●卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話・2
■沼津市の高尾山古墳が聖婚式場となった理由・根拠考
 
2008年、日本国誕生史の真相が科学的に証明できる遺跡が発見された。
 この遺跡は、A図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は東日本における最古で最大の、全長が約62mの前期古墳である。
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 なぜ、高尾山古墳が日本国誕生史を証明できる遺跡であるかというと――その立地状況と出土物は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の全記事に合致し、また日本国誕生史を伝える幾つかの確かな古文献の記事や遺跡に合致するからである。
 『古事記』序は、上巻に記述された歴史の秘密を解明する方法を説明する。
 この説明を要約すると「わが国に、その昔(後期縄文時代初頭/今から約4070年前)、夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は五帝時代初頭(5000年前)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成の方法と原理を伝えた。倉頡は銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める文字を考案したゆえ、『古事記』上巻に用いられる楷書(かいしょ)と〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換(へんかん)すれば真実の歴史が解明できる。というのも楷書も夏音文字と同じく倉頡が発明した漢字作成の方法や原理に則(のっと)って作られたからである。これゆえ楷書〔日下(にちげ)〕と夏音文字〔玖沙訶(くさか)〕は同義、楷書〔帯(たい)〕と夏音文字〔多羅斯(たらし)〕は同義とあることを序の末部に記した。この事例をもって、夏音文字と楷書は倉頡が発明した漢字作成の方法と原理に則って作られた事実と、夏音文字がわが国に伝来し習得された事実を伝えるものである。その証拠に、上巻に用いられた夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば日本国が誕生した歴史の真実を後世の人々が知ることができる」と説明していることになる。
 このような『古事記』序が説明する上巻に記述された歴史解明方法にしたがえば、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する。
 『古事記』上巻は大和朝廷にとってきわめて不都合な歴史、つまり皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であった。このため、『古事記』編纂(へんさん)スタッフは朝廷が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止する日本国誕生史の真相を、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば解明できるという、手がこんだ仕組みにしたのである。
 現在の学者たちは、上記した(1)『古事記』序が説明する〔歴史解明方法〕を無視し排除(はいじょ)するだけでなく、さらに(2)『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史と上古史をわれわれから奪(うば)う。
 多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるかもしれないが、『古事記』は高尾山古墳について「伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封(ほう)ぜられて結婚した会場」であったと伝えている。ゆえに、高尾山古墳は「封土(ほうど)」いいかえると「盛土(もりつち)」つまり「結婚式場にして、土地神を祭るために造った盛り土」であったことになる。

◆A図に示したように、高尾山古墳周辺には、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する。
 沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した約2000点の土器には西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は出土しなかったので、墳丘は230年頃に完成したと推定した。
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また、B図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部から出土した33点の鉄の鏃(やじり)の年代は250年頃のものと推定して、沼津市教育委員会は高尾山古墳の主体部は250年頃に製作されたと発表した。
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 C図に示す高尾山主体部における、250年頃に作られた33点の鉄鏃が集中して出土した箇所を示した。
 高尾山古墳の墳丘が完成したとされる230年は、呉の黄龍(こうりゅう)2年である。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 230年から8年前の202年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の呉の水軍が日本列島に所在する夷州と亶州に目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この呉の遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)し、遠征は大失敗した。
 豊富な資料と正確な考証(こうしょう)によって正史と同様に史料価値が高い良書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は呉軍の遠征目的について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す」と書く。つまり、当時の魏・蜀・呉の三国の天下取りの状況にあって、魏に対して人口が約半分であった呉の遠征目的は日本列島に所在する夷州・亶州の人民を捕虜(ほりょ)にして呉の兵士の人数を増やすための人狩り作戦であったと――『資治通鑑』は明記している。
 1万の呉の水軍が遠征しようとした夷州と亶州については、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は記述される。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国(とうていじんこく)がある。二十余国に分かれている。また夷州と澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文地理学士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」

◆C図の高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡(はさいきょう)の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」より約1m東と東南の箇所から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は壊滅したことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、A図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖における壊滅を知っていたならば、足高尾上・浮島沼周辺の軍事集落は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は呉の遠征軍が台湾沖で壊滅したことを知らず、必ず呉の遠征軍は東鯷人国に襲撃して人狩りをおこなうにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に就任し、両人は小国・日本へ封(ほう)ぜられて高尾山古墳で結婚式をあげて日本国は誕生したことになる。

◆『古事記』が完成する10年前の702年、国号を「倭国」から「日本国」に改変する承認を唐王朝から得るために、第7回の遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。このときにおこなった遣唐使の小国・日本と倭国についての説明が、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記され、下記の文から小国・日本は、D図に示す東日本(現在の静岡県中部・東部、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県)であったことになる。
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 『旧唐書』倭国日本伝は、日本国の面積や位置を「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。(中略)。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と記述する。
 『新唐書』日本伝は、日本国の面積や位置を「国日の出ずる所に近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の幷(あわ)す所となる」と記述する。
 ゆえに上記した『旧唐書』の「その国日辺にある」という文と『新唐書』の「国日の出ずる所に近し」という文が示すように、D図に示した東日本が小国・日本であり旧東鯷人国であったことになる。
 小国・日本の範囲(はんい)を旧国名であらわすと、E図のごとくになる。
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 日本軍は黄竜2(230)に東鯷人がキャッチした情報にもとづき、呉の遠征軍の兵士は1万と想定して防衛戦略を考えたにちがいない。この1万の呉軍に対抗できる兵士の数を、E図に示した小国・日本の海岸線の全域に配置すると10数万余の兵士が必要となろう。ところが日本列島においては過去に大規模の戦争がおきていないうえに、倭においては卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国という脅威(きょうい)もあったために倭から派遣される兵士の数も限られていた。ゆえに、日本軍の兵士の総数は1万よりも少なかったと推測される。このため、日本軍は、呉軍の上陸地点が最も可能性が高い地域を限定して防衛戦略を考えたにちがいない。この日本軍が予想した防衛拠点が、A図に示した静岡県東部であったのである。

◆上記したように、『三国志』呉書孫権伝は「1万の呉の遠征軍に、夷州及び亶州を求めるようにした」と記述する。『魏志』倭人伝は「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人条」を省略した通称であるゆえ、「東夷」からして呉軍は夷州を――東鯷人国の東部に所在すると考える――と推測したにちがいない。
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 F図に示すように、伊豆半島沖にまで航海してきた呉軍は――夷州は相模湾側に所在する――と日本軍は推測した。そして呉軍の船団の先頭の船には遠目(とうめ)が利()く兵士たちが乗っていたにちがいないゆえ、伊豆半島沖から遥かに遠くにある富士山をキャッチすることになる。富士山は〔灸で療治(りょうじ)するときに用いる蓬(よもぎ)から作った艾(もぐさ)の形〕に相似するゆえ、徐福一行が不老長寿の霊薬を求めた蓬莱山は富士山と考えて呉軍は駿河湾を北進することになる。この呉軍の船影は足高山山麓の軍事基地の日本軍の兵士たちがとらえることができるゆえ、日本軍はいちはやく戦略とおりの陣容(じんよう)を整(ととの)えることができた。
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 呉軍は東鯷人国の様子を船上から知ろうとして伊豆半島の西海岸を横目(よこめ)に見て足高山を正面にとらえて駿河湾北進するにちがいないので、その景色は――G図に示すように、足高山の上に富士山が乗る形となる。この「富士山が足高山の尾根に乗る光景」は「亶州」の[]の字形をあらわす。わが国の古代中国漢字の第一人者とされる故・白川静博士が著作する『字統(じとう)(平凡社発行)[]の字形を「下部は建造物の下壇(
だん)、上部は廩蔵(りんぞう)の形で、神倉の象」と解説する。
 下の写真における手前の山が「足高山」であり、足高山は〔家の屋根の形〕に相似するゆえ、「足高山」が[]の「下部の建造物の土壇」に相当し、「足高山の上に乗る富士山」は[]の「上部の神の倉」に相当する。
 旧称「足高山」は、186033日に井伊直弼大老が桜田門外で刺殺(しさつ)された時には「愛鷹山」と表記されていた。
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▲駿東郡清水町から見た富士山と足高山(愛鷹山)

 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説したように、『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話に「久美度邇(くみどに)」という4字の夏音文字であらわされた。この「久美度邇」とは――東海道線の鈍行に乗って富士市の吉原駅から東京へ目指す進行方向から左側(北側)の車窓から富士山を眺(なが)めると、[]の「下部の建造物の土壇」に相当する「愛鷹山の尾根」の上に乗る「上部の神の倉」の「巨大な富士山」が愛鷹山の尾根に沿って東へ東へとあろうことか!滑(すべ)るように富士山が移動して見える神秘的な光景――この光景のことである。
 現在の浮島沼は3世紀の浮島沼よりずっと小さい。現在の浮島沼から見た富士山は愛鷹山(足高山)の尾根に裾野を隠して西側に所在する。この地点から東へ向かうと――G図に示したように、富士山は足高山の尾根に沿って東へ東へと移動して、沼津の東の三島では上掲した清水町の写真と同じく富士山は浮島沼の反対側=足高山の尾根の東側に所在する。このように夏音文字「久美度邇」という語は、G図に示した「富士山が足高山の尾根に沿って東へ滑るように移動する、神秘的な光景」のことである。
 「久美度邇」の後には「興而(おこして)」の2字の楷書が続く。白川静著『字統』は[]の字について「地霊をよび興(おこ)すことをいう」と解説する。G図の下部に示した「同緯度(北緯3501)の大瀬埼(おせざき)と淡島(あわしま)」が[]の字義「地霊をよび興す」をあらわす。だから、「大瀬崎と淡島」は「日本軍を守護する土地神(地霊)」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「大瀬崎と淡島」について「しかれども久美度邇興して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島を生む。是()もまた子の列(かず)に入れざりき」と記述する。この文中に登場する「水蛭子」は「現在の沼津市の大瀬崎」のことであり、「淡島」もちろん「現在の沼津市の淡島」である。
 「浮島沼」という地名は、日本誕生史の秘密を現在に伝える。上記述したように、優れた史書と高く評価される『資治通鑑』は、黄竜2年の1万の呉軍の東鯷人国遠征について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す(東鯷人を俘にして呉軍の兵士の数を増やそうとした)」と記述する。[]の人偏を三水偏に変えると[]となり、『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字を「氾(うか)ぶなり」と解説し、白川静著『字統』は「氾は浮屍(ふし)の象」と解説する。「浮屍」とは「水に浮かぶ人間の死体」のことであり、「日本軍が呉軍の多くの兵士たちの死体を浮かべようとした、島(足高山を湖に浮かぶ島と見立てた)の南の沼」を省略した地名が「浮島沼」であったことになる。

◆『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀の末部に――伊弉諾尊(いざなきのみこと)は「日本は浦安(うらやす)(平安な)国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足(ちた)(具備した)国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)〔秀真国、これを袍図莽句儞(ほつまのくに)という〕である」と仰せられた――という記事がある。
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 上の記事に登場する「磯輪上」とは、H図に示すように「〔南〕を上にすると、房総半島の海岸、東京湾、相模湾、駿河湾の磯が輪のようになる」ことを指している。
 「袍図莽国(句儞)」の[]の字は「衣(布の袋)で包む」を意味し、[]は「はかりごと、戦略」のことであり、[]は「野原を全力で走る犬」を意味した。つまり「袍図莽」とは「もしも呉軍が相模湾に向かったならば、浮島沼・足高山の日本軍の精兵は荒原を全速力で走る犬のごとく東京湾に向かって駆けつけ、武蔵や上総の軍は浦賀水道を塞(ふさ)ぎ、呉軍を東京湾で[]つまり袋の中のネズミのごとく包みこんで滅ぼす戦略」をあらわした。したがって、[]は「浮島沼で、呉軍の船団を袋の中のネズミにして滅ぼす」をも意味したことになる。
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 G図の下に示した「久美度邇興しての水蛭子・大瀬崎」の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を、I図に示した。大瀬崎の地宜は海岸線からわずか数mの所に塩分がまったく含まれない「神池(かみいけ)」と呼ばれる、真水をたたえて多数の魚が生息する神秘的な池がある。この「神池」は「蛭が血を吸う吸盤の形」に相似する。チスイビルは体の5倍の血を吸い、ヤマビルは体の11倍の血を吸う。したがって、神池は「呉軍より数が少ない日本軍の兵士に、蛭(チスイビル、ヤマビル)のごとく数倍の呉の兵士を殺せ」と闘争心を奮(ふる)いたたせることに役立った。また「大瀬崎の磯が輪になって囲む神池」は、文字を知らない日本軍の兵士たちに[]の「呉軍を浮島沼あるいは東京湾に進入させて袋の中のネズミのごとくして、日本軍が攻撃する戦略」を理解させるのに役立った。また、大瀬崎の東にある淡島は文字を知らない日本軍の兵士たちに「呉軍が東方の東京湾に向かって進んだならば、浮島沼・足高山の本隊が荒野を全速力で走る犬のごとく駆けつける」という[]の戦略をあらわして、日本軍の全兵士が心を一つにして戦う戦法を理解させる役目を有した。また、海に浮かぶ淡島は乳房や妊婦のおなかのような形をして伊耶那美命が高尾山古墳における結婚式でとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】をも表現した。ゆえに、倭から派遣された兵士と旧東鯷人国の兵士とで組織された日本軍の兵士たちは熱烈に伊耶那美命に憧れたゆえ、淡島によって兵士たちのあいだに心を一つにして戦う団結力が生まれた。だから、『古事記』上巻にある「久美度に興して」という語は「水蛭子・大瀬崎と淡島は日本軍を守護する土地神(地霊)となった」と伝えていることになる。
K504
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 J図に示す浦賀水道は、日本軍が呉の遠征軍を[]「袋の中のネズミ作戦」で滅ぼすと戦略を立てた東京湾への入口となる重要な場所である。この浦賀水道は、足高山の山頂と同緯度(北緯3512)である。だから、日本軍の本隊は呉の遠征軍が上陸する可能性が高い足高山に配備され――この足高山の頂上はもしも東京湾へ向かって呉軍が針路をとったならば足高山の本隊の兵士たちが東京湾に向かって全速力で走って駆けつける作戦を表示することになった。この作戦は、G図に示した「久美度邇興して」とH図に示した[]の字で示された。

◆『魏志』倭人伝には方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、K図に示すように日本列島の東は南へ伸びて時計回りに90度方位が転回する。
K511

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 上のK図が示す「時計回りに90度転回する方位規定」は[]の字源となり、この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡から起源した。これについては、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回にて詳細に解説して証明した。
K512
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 L図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候区であるが、沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の東端の神津島(こうづしま)は亜熱帯地区であるゆえ冬になっても雪が降らない暖かい気候区である。ゆえに、日本列島は〔西冷東暖〕となる。中国の北部の海岸線地域は冷たい気候区、南部の海岸線地域は暖かい気候区である。ゆえに、中国の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。したがって、日本列島の〔西冷〕と中国の海岸線地域の〔北冷〕は冷たい気候区で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国の海岸線地域の〔南暖〕は暖かい気候区で一致する。だから、「日本列島の〔東〕は中国の海岸線地域の〔南〕に伸びる」という転回日本列島地理を、卑弥呼王朝は制定(せいてい)したのである。
 倉頡が考案した[()]の字は「〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕とする方位規定」はあらわすことになって、この「転回方位」を[]の字が受け継いだ。ゆえに、K図の転回日本列島地理を制定した卑弥呼が治める国家名は「倭国」となった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「淤能碁呂」という4字に〔音〕という注をつけて「夏音文字である」と指摘する。[]の字義は「泥(どろ)」であり、「日本列島の地底は海水で泥状になる」と意味した。[]の字義は「熊(くま)」で「冬ごもりする熊の巣は横穴(よこあな)と縦穴(たてあな)があるが、その横穴を縦穴になるように時計回りに90度転回する」と意味した。[]はK図に示す「碁石(ごいし)のような小さな転回日本列島の緯度基点地となる沖ノ島と神津島」である。[]は「沖ノ島と神津島と、両島を結ぶ同緯度線」をあらわす。つまり、伊耶那美命と伊耶那岐命が封ぜられた日本国は倭国に属する小国であったゆえ、[]の「転回方位」をあらして「淤能碁呂島」と表記されることになったのである。その証拠に、淤能碁呂聖婚説話は「伊耶那岐命と伊耶那美命の二人は天浮橋(あめのうきはし)と名づけられた所に立ち、そこから天沼矛(あめのぬほこ)と呼ばれる矛を指しおろして、塩を許々袁々呂々(こおろこおろ)と画()き鳴らして、その矛の先端から垂(したた)り落ちる塩が積もり重なって島となった。これが淤能碁呂島である」と説明する。
 K図の右側に示したように、世界でも最高級の速度となってゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に渦を巻く鳴門の渦潮は転回日本列島地理(淤能碁呂)の緯度基点地となる沖ノ島と神津島と同緯度である。ゆえに、伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本に赴任(ふにん)する前に倭地にて、塩分の濃い鹹水(かんすい)を塩焼き所で煮沸(しゃふつ)する塩水に「天沼矛」と名づけられた矛を指しおろしてこおろこおろと渦を画(えが)いて鳴らす転回日本列島地理を演出する淤能碁呂儀式をおこなったことになる。
 淤能碁呂島聖婚説話に登場する「天沼矛」は「浮島沼の形をした矛」の可能性があり、また「島」という語は「浮島沼」の「島」をあらわしていると思われる。

◆黄帝と倉頡が生存した五帝時代、また卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀においても、M図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
K513

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 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望した未曾有の国難」、すなわち「1万の呉軍の来襲」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源解説字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと原始や上古の人々は必ず命を失うことになった。
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 N図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、M図に示した[]をキャッチできる眼力に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[(えき)]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀、N図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はM図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。
 前述したK図右側に示した日本列島の東西の端にある神津島と沖ノ島の同緯度はM図の[]のキャッチによるものであり、N図に示した直径約1200分の円を描く北極星では測量不可能であった。したがって、3世紀においては北極星で測量すると道に迷って命を失うことになったから方角や緯度を知る目星ではなかった。ゆえに、K図に示した[]の字源「転回方位規定」をあらわす淤能碁呂島・転回日本列島地理は、当時において、真実であると断定されることになったのである。また、[]は「天の神が地上の人々を祝福して多数の禾(/穀物)を与える」とあらわす字でもあったので、淤能碁呂島・転回日本列島地理は真実であると確信されることになったのである。

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると――黄帝や倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、O図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「十字の銀河」がめぐってきた。つまり、当時、「十字の銀河」は中国各地の天頂緯度を測量する羅針盤(らしんばん)となって人々の命をまもった。
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 O図に示したように、「十字の銀河」には妊娠(にんしん)した女性の〔乳房〕に相似する箇所や〔子宮〕に相当する箇所があるので、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。というのも、黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったといわれ、黄帝は女性の生殖器(せいしょくき)・子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道を通過して出産する胎児の研究をおこなったからである。それ以前の三皇(さんこう)時代(紀元前4000年頃~紀元前3000年頃)に考案された易に用いられる記号では、黄帝の医学研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡は黄帝の研究をあらわす文字を銀河各部の形状から作る方法を発明することになったのである。
 倉頡は、P図に示す「娩出期(べんしゅつき)における、頭が生まれる子が母体の背を正面として生まれる様子」を注目した。
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 Q図に示すように、倉頡は「全文字の母体」と定めた「十字の銀河の股(また)の部分の〔南〕に、P図に示した〔頭が誕生する子の姿〕をあてはめた。
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 そうすると、子は〔東〕を正面として誕生することになるので――Q図の場合、「中国の女性たちが生む子は中国大陸の〔東の大海〕に生まれる」ということになる。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を「全文字を生む母体」と定める漢字作成原理には不合理が生じることに気づいた。
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 それゆえ、R図に示すように、倉頡は「中国の人々は〔大海の西側の大陸〕で生まれる」をあらわす[()]と、「娩出期における頭が誕生する出産児の様子」にもとづいて〔大海の西側で多数の子どもが生まれる〕をらわす[]の字を考案することにした。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔西〕となる、つまり時計回りに方位が90度転回する規定」をあらわし、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が〔東〕となるがごとく、時計回りの逆の方向に方位が90度転回する規定」をあらわすことになった。
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 S図に示すように、倉頡が考案した[]の字形は「いね()の穂が十字の銀河の〔南〕から〔東〕へ垂れる形」と定められたゆえ、字義は「穀物」や「いね()」をあらわすことになった。後世、[]の下に「女体に相似する十字の銀河」をあらわす[]が加わる[()]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体」に相似するゆえ、人偏に[]が加わる[]の字が作られた。そして、[][]は倉頡が考えた[]の「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受けついだ。だから、『魏志』倭人伝に記された15ヵ所の方位記事は[]の「転回方位」をあらわして全部正しいゆえ、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない。したがって、学者たちが加えた「文献批判」という考え方の実体は【誤読】であり、その意見・主張は事実無根(じじつむこん)の虚妄(デタラメ)であったのである。

◆巫女(みこ)たちは出産に立ち会って、外子宮口(がいしきゅうこう)から膣口(ちつこう)までの産道を胎児が頭を旋回(せんかい)させて通過する様子を知っていた。ゆえに、巫女たちは出産祝いや子授け祈祷(きとう)をおこなう時、頭を旋回して生まれる胎児の様子を真似(まね)して産道に見立てる土器を持って身をくねらせて舞った。
 倉頡は、巫女たちが祝祷(しゅくとう)の土器を持って、胎児が頭を旋回させて産道を通過する様子を真似て身をくねらせて舞う姿に注目した。
 ゆえに、T図に示すように、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女が出産や子授祈願する時に用いる祝祷の土器」に見立てて、「子宮」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわす[(さい)]の字を作った。
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 「巫女が用いる祝祷の土器」を「飲食し言葉を出す[(くち)の字形]であらわしたのは、P図に示した出産した胎児は真っ先に〔口〕で呼吸し、その出産児が通過する産道の入口の外子宮口と出口の膣口は〔口〕のイメージとなるからである。 
 T図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を「身をくねらせて舞う巫女」に見立て、「祝祷する土器の[(さい)]」を〔巫女〕に見立てた「「十字の銀河」の西の肩の上に配置して「〔北〕が〔西〕へと時計回りと逆方向に90度転回する方位規定」をあらわす[]の字を考案した。というのも、R図の「十字の銀河の股の部分の〔南〕から〔東〕への逆時計回り」を表現する形の[]の字を考案すると、前述したように「子どもたちは陸地に生まれずに〔東の大海〕で生まれる」ことになって不合理となる。ゆえに、T図に示す「〔北〕から〔西〕への逆時計回りの90度の転回方位をもって、子どもたちは〔大海の西側の陸地〕で生まれる」をあらわす[]の字を、倉頡は作ったのである。
 倉頡は、[]の字源における「身をくねらせて舞う巫女のモデル」を「十字の銀河」のみに限定したわけではない(U図の左上を参照)。上掲した「文字作成銀河各部の名称図」のおける「夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部」つまり「夏の銀河全体像」をも「巫女のモデル」にして、倉頡は[]の字を考案した。
K531
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 その証拠に、U図に示すように、[]のおける[(さい)]の字源は「こと座の東にある、暗い星々が土器の形となる暗黒天体部」でもある。また「夏の銀河の東北部の、人の横顔に酷似する銀河」は「巫女の顔」に見立てられて、[]の字が作られた。

◆U図上部の「鬼の横顔に似る銀河」において〔鬼の横顔となる部分に両目〕があり、〔鬼の首(後頭部とアゴの部分)にも両目〕があるゆえ、計〔目が四つ〕あって「四つ目」となる。倉頡は中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を「中国各地の緯度が測定できる天頂」に見立てて[]の字源とし(O図を参照)、「鬼の姿に似る銀河(「鬼の横顔に似る銀河」を「顔」とする銀河)」を「[]をキャッチする人」に見立てて[]の字源とした。このため、倉頡が漢字を発明したと伝える伝説では「鬼の姿に似る銀河」は「四つ目の怪人」と呼ばれて「倉頡」に見立てられた。
 倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、「鳥獣の足跡」(倉頡が発明した漢字作成原理の名称)をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう/三皇時代の易に用いる記号)の方法から改めたので、天を祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代の氏族たちの死霊(しれい)が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたというのである――と説明する。
 学者たちは倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」という語に対して「人間は四つも目を有していない! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定して――倉頡が夜な夜な天に輝く銀河各部の形状から漢字を作る方法を発明した重大な事実を抹殺(まっさつ)する。
 B図に示した高尾山古墳の墳丘内から約2000点の土器が出土した。それらのうち沼津市教育委員会が「地元の土器」と指摘した土器の図を、V図に示した。
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 V図の高尾山古墳から出土した地元の土器の形は、U図の倉頡が[]における[(さい)]の字源とした「土器の形の暗黒天体部」にそっくりである。つまり、高尾山古墳から出土した土器は「倉頡が漢字を発明した」と説明する倉頡伝説は事実を語っていると証明できる資料となる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話には――伊耶那岐命と伊耶那美命はその島(浮島沼)に天降(あも)り坐()して(つまり、倭地から小国・日本の浮島沼東岸の高尾山古墳に到着して)、そこに天御柱(あめのみはしら)が建っていると見立てて、また八尋殿(やひろでん)も建っていると見立てて、両人が小国・日本に封ぜられることになった任務(呉軍を撃退する防衛)が成就(じょうじゅ)した時に天御柱が建てられ八尋殿が建造される様子を想像して高尾古墳において結婚式がおこなわれた時、伊耶那美命に向かって伊耶那岐命は「おまえの体はどのようにできているのか」と問うと、伊耶那美命は「わたくしの体はだんだん成り整ってきましたが、まだ整わないところが一ヵ所あります」と答えた。そこで伊耶那岐命は「われの体はだんだん成り整ってきたが、できすぎたところが一ヵ所ある。だから、われの体のできすぎたところをおまえの体の足りないところに刺し塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もうと思う、この国生みの案はどう思う」と述べると、伊耶那美命は「良いと思います」と答えた――と説明する記事がある。
 この「女陰(じょいん)」と「男根(だんこん)」について問答(もんどう)する国生み(小国・日本の国生み)記事は、倉頡が「夏の銀河の東北部」を「女陰」、「夏の銀河の西南部」を「男根」に見立てて「性交によって多数の子どもが生まれる」という[]の字源の秘密を伝える共に、小国・日本の女王の伊耶那美命は成熟しない13歳の乙女・軍王の伊耶那岐命も若い18歳の青年であったことをあらわすものであったのである。
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 その証拠に、W図に示す「夏の銀河の東北部の、コールサック」は「女陰」のイメージとなり、「夏の銀河の西南部の、南部からわし座までの銀河」は「男根」に相似する。
 伊耶那美命と伊耶那岐命の高尾山古墳における結婚式は、[(さい)]の字源・字形・字義にもとづいておこなわれた。ゆえに、この記事には「男根が女陰に刺し塞ぐ」と説明する箇所があり、[]の字が記される。
 白川静著『字統』は[]の字について――[]の下の[]は「土主(土地神)」、[]より上の字形部分は「建物の内部に、呪具(じゅぐ)である工を填塞(てんそく)する形で、これによって邪霊(じゃれい)をそこに封じこめるのである。これを道路の要所や辺境(へんきょう)の要害(ようがい)の地に設けて、異族邪霊を封ずる呪禁(じゅきん)とするもので、わが国でいう「さへの神」にあたる――と解説する。
 上記した白川静著『字統』の[]の解説文にある「填塞」という語は「うずめふさぐ」と意味する。高尾山古墳から出土した約2000点の土器は墳丘内に填塞、つまり土中にうずめふさがれていた。だから、土器は呪具の工(工具)であるゆえ高尾山古墳は[]の字源をあらわす墳丘であり、「さへの神」つまり「塞(さい)の神」を祭る封土(ほうど/盛り土)であったことになる。その証拠に、C図に示したように高尾山古墳の主体部には呪具の工(工具)となる鉄の鏃(やじり)33点、鉄製の槍が2点、銅鏡が1面、大工道具の槍鉋(やりがんな)1点、勾玉(まがたま)1点埋まっていた。
 []の上部字形があらわした「建物」は高尾山古墳の後方墳部に建造される予定であった『古事記』に記述された「八尋殿」である。しかし、「封じこめる異族邪霊である呉の遠征軍」は来襲しなかったため、八尋殿は建造されなかった。[]の下部にある[]があらわす「土地神」はG図に示した巨大な富士山を西から東へ移動させる「久美度邇興して」の日本軍の守護神となった「愛鷹山」と、H図に示した日本軍の「袍図莽(ほつま)作戦」をあらわした水蛭子(大瀬崎)・淡島(G図の下部とI図を参照)であった。
 A図に示した浮島沼周辺地域は戦前(1945年以前)まで農作物の生育に適さない湿地帯で人々が住まない片田舎(かたいなか)の辺境の地であった。だから、高尾山古墳が造られた敷地は[]の字源要素となる「道路の要所にして辺境の要害の地」であった。
 また、X図に示すように高尾山古墳から直ぐ東の地所は足柄路(あしがらろ)の出発点となり、東鯷人国王が居住する首都であった現在の山梨県富士吉田市(旧称は「家基都(かきつ)」へつながる道路の要所であった。
 ゆえに、高尾山古墳は[]の字源要素「道路の要所や辺境の要害の地」に築造された。
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 だから、高尾山古墳は伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場であるとともに、呉の遠征軍という異族邪霊を封じこめるための塞(さい)の土地神を祭る封土でもあったのである。

◆以上のごとく、高尾山古墳が伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場となった理由・根拠は以下のごとくなる。
 (1)浮島沼は人口密度が少ない辺境の地であったために人民たちに危害が及ばない戦場として適し、愛鷹山は駿河湾上にあらわれる呉軍の船団を見張るに好都合な場所であった。また、高尾山古墳の敷地は東鯷人国王が住む入口となる道路の要所であったゆえ、呉軍との戦いで勝利を祈願する塞の土地神を祭る封土を築造するのに最適地であった。
 高尾山古墳から出土した土器は、地元産のほかに、北陸や東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかった。したがって、倭から小国・日本へ派遣された兵士たちは北陸、東海西部、近江の出身者たちであったことになる。
 ゆえに、(2)高尾山古墳から遠く離れる倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちが旅して、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式の日に間に合うように集合するためには高尾山古墳が結婚式場として最適地となった。
 K図の左下の神津島からは、現在も良質な黒曜石(こくようせき)が産出(さんしゅつ)する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石の包丁(ほうちょう/石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海西部、近江、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人は、M図に示した[玄]をキャッチする能力を有していたために海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、K図の転回日本列島地理・淤能碁呂島理論は[玄]のキャッチによるものであることに気づかないために、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明であると定める。
 神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から出土した土器分布は一致する。ゆえに、倭地の北陸・近江・東海西部から派遣された王子や兵士たちは、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式が行われる日に間に合って式場となる高尾山古墳に集合できたのである。というのも、浮島沼は3万年前から神津島の黒曜石を求めて旅してきた北陸・近江・東海西部の人々の通路の要所となり、彼らは浮島沼の港から船に乗って神津島へ目指したからである。だから、倭からの派遣された北陸・近江・東海西部の王子と兵士たちが伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式に間に合うためには、浮島沼東方の東鯷人国の首都へ至る道路の入口となる場所に高尾山古墳を築造しなければならなかったのである。
 前述したように、(3)『史記』の徐福記事、『後漢書』倭伝の東鯷人国と徐福記事、『三国志』呉書孫権伝の1万の呉軍の遠征記事からして、呉軍の上陸地点の最も確率が高い地域は浮島沼・愛鷹山が所在する海岸線であると推測された。ゆえに、浮島沼・愛鷹山に日本軍の本隊の軍事基地は設営し、女王の伊耶那美命と軍王の伊耶那岐命が結婚する式場は浮島沼の東岸に築造されることになったのである。
 (4)強大な富士山を移動させる「久美度邇興しての愛鷹山」が日本軍を守護する土地神となったため、この強大な威力を有する土地神に守られていると示して兵士たちの戦闘意欲を奮(ふる)い立たせるために、また呉軍が東京湾側へと針路をとったならば袍図莽・袋の中のネズミ作戦を成功させるためにも浦賀水道と山頂が同緯度の愛鷹山を土地神にしなければならなかった。だから、愛鷹山を日本軍の守護神とするためには、伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場・高尾山古墳は愛鷹山の麓に築造しなければならなかった。
 愛鷹山の山頂と浦賀水道が同緯度であることは、J図に示した。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・15」で詳細に解説し証明したように、東鯷人国の首都(現在の山梨県富士吉田市)の古称が「家基都(かきつ)」であったのは愛鷹山の山頂と富士吉田市が同経度であったからである。ゆえに、東鯷人国では小国・日本となる以前において愛鷹山と浦賀水道が同緯度であることを測量し、これを倭王朝に報告して防衛戦略に役立てるように欲したにちがいない。だから、伊耶那岐命は日本軍をまもる土地神を愛鷹山と決めることになったのである。また、倭王朝の面々と東鯷人国王においても伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式場は高尾山古墳が築造された地が最適地と決めていたにちがいない。

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2018年6月 9日 (土)

漢字習得定説のウソ・15

 ●卑弥呼の地上絵と日本国誕生史・1
■日本国誕生史の遺跡は発見されていた
 
2008年、日本国誕生史の真相が科学的に証明できる遺跡が発見された。
 この遺跡は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は東日本における最古で最大の、全長が約62mの前期古墳である。というのも、高尾山古墳の立地状況と出土物はともに『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の全記事はじめ日本国誕生史を伝える幾つかの古文献の記事や遺跡に合致するからである。
 『古事記』序は「わが国に、その昔(後期縄文時代初頭/今から約4070年前)、夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は五帝時代初頭(5000年前)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理を伝える。倉頡は銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める文字を考案したゆえ、『古事記』上巻に用いられる楷書(かいしょ)と〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換(へんかん)すれば真実の歴史が解明できる。というのも楷書も夏音文字と同じく倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)って作られたからである。これゆえ楷書〔日下(にちげ)〕と夏音文字〔玖沙訶(くさか)〕は同義、楷書〔帯(たい)〕と夏音文字〔多羅斯(たらし)〕は同義とあることを序の末部に記して、夏音文字と楷書は倉頡が発明した漢字作成原理に則って作られた事実と、夏音文字がわが国に伝来し習得された事実を伝えて、上巻に記した夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば日本国が誕生した歴史の真実を後世の人々が知ることができる仕組みにした」と首尾一貫(しゅびいっかん)して『古事記』上巻記事の歴史解明方法を説明している。
 というのも、『古事記』上巻は大和朝廷にとってきわめて不都合な歴史、つまり皇祖(こうそ)天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す反逆(はんぎゃく)の史書であった。だから、『古事記』編纂(へんさん)スタッフは夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が解明できる仕組みをもうけることにしたのである。
 現在の学者たちは、上記した(1)『古事記』序が説明する〔歴史解明方法〕を無視し排除(はいじょ)するだけでなく、さらに(2)『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて『古事記』上巻に記述された真実の日本国誕生史と上古史をわれわれ日本人から奪(うば)う。
 上記した『古事記』序の説明に則って(1)夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、沼津市の高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する遺跡であることが明らかとなる。
 多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるかもしれないが、『古事記』は高尾山古墳について「伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封(ほう)ぜられて結婚した会場」であったと記述する。ゆえに、高尾山古墳は「封土(ほうど)」いいかえると「盛土(もりつち)」つまり「結婚式場にして、天と山を祭るために造った盛り土」であったことになる。

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。


Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに記述された。この事実は、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の714回までにおいて詳細に解説し証明した。
 しかし、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝は「邪馬台国論」のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)させてしまったが、もともと『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成方法が解明できる世界史的にも第一級の重大な史料であったのである。
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想にちがいないと思い込んだ。この学者たちの思い込みと、さらに『魏志』倭人伝は邪馬台国論のために存在する書物であると定めて数々の【誤読の空論】が捻出(ねんしゅつ)されたために【漢字が銀河から作られた学術の門】が閉()ざされてしまったのである。
 上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕のうちの(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 倉頡が発明した書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字、殷代(いんだ)の契文(けいぶん/甲骨文字)、周代(しゅうだい)の金文、その後の大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、隷書(れいしょ)、そして楷書など――これら712年に『古事記』が成立した以前の古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた。この事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の意見は【誤読の空論】であると断定することができる。

◆黄帝と倉頡が生存した
五帝時代、またわが国に夏音文字が伝来した中国の夏代初頭、そして卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀においても、A図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる本能もそなわっていた。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望した未曾有(みぞう)の国難」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源解説字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと原始や上古の人々は必ず命を失うことになった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 B図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、A図に示した[]をキャッチできる眼力(がんりき)に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 三皇時代の政権基盤であった[(えき)]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を渡る旅しても、トカゲのごとくかならず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 卑弥呼と伊耶那美命が生存した3世紀、B図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はA図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。

◆天照大御神は日神(にちじん/太陽神)である。7世紀末、時の持統(じとう)上皇は、「日神」と「日本」の両者は「日輪(太陽)」のイメージで共通することに注目して、「日本」という国名に変えれば後世の学者たちは日神・天照大御神が日本国を誕生させたと騙(だま)されるにちがいないと考え、歴史書の編纂(へんさん)スタッフに偽書(ぎしょ)の作成を欲求(よっきゅう)した。しかし、日本国は伊耶那美命と伊耶那岐命によって誕生するものであったため、歴史書を編纂する皇族と貴族たちは上皇の欲求を拒絶(きょぜつ)した。この上皇と歴史書編纂スタッフの対立は皇室を二分する天照大御神崇拝派と伊耶那美命崇拝派との争いになった。というのも、伊耶那美命崇拝派は歴史書編纂メンバーから天照大御神崇拝派を排除して伊耶那美命崇拝派のみで組織して対抗したからである。このため、上皇が欲求する偽書の作成は実現不可能となった。これゆえ上皇は『古事記』が完成する10年前の702年、第7回の遣唐使(けんとうし)を派遣し、唐王朝から「倭」から「日本」への国名改変の承認を得て後世の歴史学者たちを騙すことにした。しかしながら、上皇が企む国名の改変はわざわざ中国から承認を得る必要もなく倭国で決定すればよいことであったゆえ、この点に不審(ふしん)を抱き怪(あや)しんだ唐の中央政府の外交官たちは遣唐使に執拗(しつよう)に質問することになった。ところが、真実を語る遣唐使は帰国したならば即刻に上皇に誅殺(ちゅうさつ)され、また真実を語れば伊耶那美命崇拝派と天照大御神崇拝派が皇室二分にしての戦争の原因になりかねない状況であったので、遣唐使は中国の外交官たちが満足する説明を示すことができなかった。この時の遣唐使の言動の様子は、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に下記のごとく記述された。
 『旧唐書』倭国日本伝には「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本を以て名となす。あるいはいう。倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。その人、入朝(にゅうちゅう)する者、多く自ら矜大、実(じつ)をもって対(こた)えず。ゆえに中国これを疑う」と記述された。
 『新唐書』日本伝には「後稍(のちやや)夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者みずから言う。国日の出ずる所に近(ちか)し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の幷(あわ)す所となる」と記述された。
 『新唐書』日本伝の「後稍夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、天武天皇と天武帝の皇后であった持統上皇は稍々(やや/少し)夏音文字を習うつまり復興して、天照大御神を絶賛する偽書(ぎしょ)の作成を欲求した」と意味した。しかし、伊耶那美命崇拝派で組織された編纂スタッフは『古事記』上巻に〔音〕という注を付けて多数の夏音文字を記載して、夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を後世の人々が知ることができるように『古事記』上巻を著作した。
 天武帝と持統帝は――天照大御神は夏音文字の学芸を政権基盤にして大和王朝の基礎を築(きず)いたゆえ夏音文字をすべて削除(さくじょ)する偽書を作成すると、天照大御神の偉大さが後世の代々の天皇たちに伝わらず、また大和王朝の政権基盤である夏音文字の学芸の価値が薄れて朝廷は衰退して滅亡するにちがいないと――心配した。そこで、大和王朝が末永く栄えるためには夏音文字の学芸を政権基盤とする体制を堅持(けんじ)しなければならないと考えて、稍々(少しだけ)夏音文字を復興する歴史書の作成を命じたのである。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚した時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」つまり「小国・日本の国生み(国作り)の柱は〔愛〕とします」ととなえた――と記述する。この【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本から倭国のすみずみまで知れわたり、倭国と小国・日本の人民たちに尊重された。
 伊耶那美命の夏音名(夏音文字による名称)は、『魏志』倭人伝の末部に登場する「壱与(いよ)」であった。この記事は「卑弥呼は240年より少し前に死んだ。円墳部の直径が百余歩(150)の大きな墓が作られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ぐらいの青年と13歳ぐらいの乙女)を犠牲(いけにえ)にして殺して卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。卑弥呼の後に男王が倭の大王に就任したが、卑弥呼の墓作りでおこなわれた徇葬を悪(にく)んで倭国の国中の人民たちは大王に服従せず、倭王朝軍と人民たちは互いに殺し合った。この大乱において倭王朝軍は千余人の人民を殺した。また倭王朝は13歳で(小国・日本の)女王となった壱与(伊耶那美命)を赴任地(小国・日本)から帰国させて倭女王に就任させたため、国中にひろがった大乱はやっと鎮(しず)まった」と説明する。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部の「しかれども久美度邇興(くみどにおこ)して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島(あわしま)を生む。是()もまた子の列(かず)に入れざりき」という文は「壱与・伊耶那美命が結婚式の時にとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】に人民たちが熱烈に憧(あこが)れたために、倭国の大乱がおきた。ゆえに、大乱の全責任は壱与・伊耶那美命にあると倭王朝は非難して、小国・日本の国生み(国作り)の事績(じせき)を認めず、倭国に帰還して倭の大乱を鎮圧せよと命じた。だから、小国・日本の国生みの時に聖なる地霊となった水蛭子と淡島は伊耶那岐命と伊耶那美命の子(事業)として認められずに廃止(はいし)された」と伝えていたことになる。 
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば――壱与・伊耶那美命の没後、天照大御神が倭女王に就任し、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する天照大御神は多数の青年と乙女(奴婢)を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋めた。この徇葬儀式に怒った小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)・伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て倭王朝の大軍を撃破(げきは)してクーデターを成功させて、天照大御神を倭女王から失脚させた――という真実の歴史がよみがえる。
 ゆえに、上記した『旧唐書』の記事に登場する「倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」という文は「倭国の人民たちは自らの国名は二度にわたる残忍な徇葬で優雅でないと嫌悪(けんお)して、日本という国名に改めることを願った」と意味するものであった。また、『新唐書』の記事に登場する「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す」という文も「残忍な徇葬を憎悪する人民たちは倭という国名を憎み、日本という国名に改めることを願った」と意味するものであった。
 そして、『旧唐書』に記載される「その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名とす」という文と『新唐書』に記載される「国日の出ずる所に近し。ゆえに名となす」という文は、C図に示す「日辺(日出ずる辺)」と「日出ずる所に近い国」の「東国・東日本」、すなわち「現在の静岡県中部・東部、山梨県、長野県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県」が「小国・日本」であったと伝えていたことになる。
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(C) 2018 OHKAWA 

◆前述した『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の全記事に合致する高尾山古墳は、D図に示す小国・日本の西端となる静岡県東部に所在する。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 高尾山古墳周辺には、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する。沼津市教育委員会は、高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した約2000点の土器には西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は出土しなかったので、墳丘は230年頃に完成したと発表した。
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(C) 2018 OHKAWA
 

また、E図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部から出土した33点の鉄の鏃(やじり)の年代は250年頃のものと推定して、沼津市教育委員会は高尾山古墳の主体部は250年頃に製作されたと発表した。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 F図に主体部における、250年頃に作られた33点の鉄鏃が集中して出土した箇所を示した。
 高尾山古墳の墳丘が完成したとされる西暦230年は、呉の黄龍(こうりゅう)2年である。
 『三国志』呉書孫権伝(ごしょそんけんでん)の黄竜2(230)の条は「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。この赤壁の戦いで、わずか2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破して劇的な勝利をおさめた。この1万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国(とうていじんこく)へ目指して、呉の黄竜2年・230年に遠征を決行した。しかし、この東鯷人国遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)して大失敗した。
 豊富な資料と正確な考証(こうしょう)は、正史と同様に価値の高い史書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は呉の東鯷人国遠征の目的について「その民を俘(とりこ)にしてもって衆を益()さんと欲す」と書く。つまり、当時の魏・蜀・呉の三国の天下取りの争いの状況にもとづくと、呉の遠征目的は東鯷人の人民を捕虜(ほりょ)にして呉の兵士の人数を増やして魏を伐()つための人狩り作戦であったと――『資治通鑑』は明記する。
 1万の呉の水軍が遠征に向かった夷州と亶州について、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部は記述する。この記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 「会稽(かいけい/現在の浙江省紹興市)の海外に東鯷人国がある。二十余国に分かれている。また夷州及び澶州(せんしゅう/つまり亶州)にも分かれている。伝承されて言われていることは――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246年-同210年在位)が、方士(天文学地理士)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(青年男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)を求めるように命じたが手に入れることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還(きかん)せず、ついにこの州(亶州・現在の静岡県と山梨県)に定住した――とのことである。代々たがいに受け継いで、現在(3世紀)、徐福一行の子孫は数万家となる。東鯷人国の人民は時々会稽までやってきてあきないをする。(中略)。東鯷人国の人民が往来する大海の道は、中国人にとっては遥(はる)かに遠い道のりとなり途中で絶えてしまうので往来することができない。」

◆F図の高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡(はさいきょう)の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」より約1m東と東南の箇所から230年頃(黄竜2年頃)の東海西部系の土器が発掘された。この土器は黄竜2年=230年頃に作られた土器であるゆえ――偶然(ぐうぜん)、東鯷人たちが台湾から会稽へ向かう海上で呉の遠征軍と遭遇したか、あるいは会稽で商(あきな)いしている時にその情報を聞きつけて、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に呉軍の遠征を報告した――様子を現在に伝える資料となる。また、この土器は黄竜2年の呉軍の東鯷人国遠征を知っていたが、黄竜2年に台湾沖で呉の遠征軍は8割から9割の兵を失ったことを、日本防衛軍は知らなかったことを示す資料にもなる。というのも、D図に示した軍事集落跡の特色を有する足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と浮島沼(うきしまぬま)周辺にあるいくつかの軍事集落跡と考えられる遺跡は10年以上も営(いと)まれていたからである。日本防衛軍が呉の遠征軍の台湾沖の壊滅を知っていたならば、足高尾上遺跡群・浮島沼周辺の軍事集落跡は10年以上も営まれずに、56年後には呉軍は遠征をあきらめたと判断して日本防衛軍は解散されて集落は廃(はい)されたことになる。だから、日本防衛軍は必ず呉の遠征軍は東鯷人国に到着して人狩りをおこなうにちがいないと考えて10年余も軍事集落を営んでいたことになる。
 赤壁の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破したゆえ、230年・黄竜2年の1万の東鯷人国遠征軍の戦力は40万の魏の大軍にも勝利する無敵艦隊ということになる。ゆえに、東鯷人国の国王は呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて、独立国をあきらめて倭国の属国になることを決意して、倭女王卑弥呼に倭からの防衛軍の派遣を要請した。したがって、黄竜2年直後に東鯷人国は滅び、日本防衛軍の女王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)として伊耶那岐命が就任し、両人は小国・日本へ封(ほう)ぜられて日本国は誕生したことになる。
 ゆえに前述したように、『
古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語で表現した「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る上の人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望する未曾有の国難」は、「呉の遠征軍の小国・日本(旧東鯷人国)への襲来」であったのである。

◆上記した『後漢書』倭伝末部の東鯷人国説明記事にある「蓬莱の神仙」という語のうちの「神仙」は「仙人(せんにん)」を意味する。中国においては「桃の木」は「仙人(神仙)に力を与える樹木」とされて「仙木(せんもく)」と呼ばれ、「桃の実()」は「仙人に力を与える果実」ということで「仙果(せんか)」と称される。また、中国では「桃」は「不老長寿の力を与える植物」と親しまれる。
 紀元前1世紀に完成した司馬遷(しばせん)著『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝(わいなんしょうざんれつでん)」が伝える徐福一行の日本列島定住記事を要約(ようやく)して現代語に訳する下記のごとくになる。
 「秦の始皇帝に――東方の三神仙に不老長寿の霊薬がある――と具申(ぐしん)した徐福は、始皇帝の命令で三千人の童男女(青年男女)と百工(多くの技術者)を率いて、五穀(ごこく)の種子(たね)を持って、東南の蓬莱山に到着するように船出(ふなで)し、平原広沢(へいげんこうたく)を得て、王となりその地に止(とど)まり中国に戻らなかった。」
 上記の記事に登場する「平原広沢」は「広い平野の湿地」であったと伝わる。
 D図に示す「3世紀の浮島沼(うきしまぬま/別名「浮島原」)はまさに「平原広沢・広い平野の湿地」であった(現在は、3世紀当時の広大な浮島沼は消滅し、D図に示した浮島沼西方だけの一部分となってわずかに残っている。「沼津」という地名は「平原広沢=広大な平原の沼の津()」の略称である)
 『説文解字』は「平原広沢」の[]の字源は「光潤(こうじゅん)なり」または「水停(とど)まるを沢という」と説明する。浮島沼の水は富士山の雪解け水が湧出(ゆうしゅつ)するものであったゆえに所々は日光に浴びてきらきらと光り潤(うる)って急流のごとく流れ、ある箇所は水が停止して底は沼となっていた。白川静著『字統』(平凡社発行)は『風俗通』の〔山沢〕という文献が――[]を「水草交錯(こうさく)の處(ところ)」とし、水の発源の地をいう――と説明すると指摘する。3世紀、浮島沼は水草が交錯して生い茂り、水草は水底に重なって腐食して沼となっていたことが、沼津教育員会の調査で明らかとなる。前述したように、浮島沼の水底には多数の箇所に富士山の雪解け水の湧水泉(ゆうすいせん)が所在したゆえ、浮島沼は水の発源の地の[]であったことになる。
 D図に示す足高尾上遺跡群は、現在の愛鷹山(あしたかやま)中腹の3世紀(230250年頃)の遺跡群である。つまり、「愛鷹山」の古称は「足高山」である。
 愛鷹山の山頂には愛鷹明神を祭る「桃沢(ももさわ)神社」が祭られる。前述した「神仙(仙人)に力を与える樹木と果実」にして中国の人々が昔から不老長寿の植物として親しむ「桃」に浮島沼・平原広沢の「沢」が加わると、愛鷹山山頂の神社名「桃沢」となる。
 だから、山頂に桃沢神社が祭られる愛鷹山は『後漢書』倭伝の東鯷人国記事に登場する「秦の始皇帝に求めて来いと命じられた徐福一行が目指した、仙人に力を与える桃の木が生い茂ると思い込んだ蓬莱山」であった。ゆえに日本防衛軍は、呉の遠征軍は沼津市の愛鷹山・蓬莱山に目指して襲来すると推定したことになる。このため、愛鷹山の麓の浮島沼の東の岸辺に小国・日本の女王・伊耶那美命と軍王・伊耶那岐命が結婚する式場の高尾山古墳が築造されたのである。したがって前述したように、高尾山古墳は「墓」ではなく「呉軍との戦いの勝利を祈願して、天と富士山・愛鷹山を祭る封土(盛り土)」であったことになる。

◆山梨県富士吉田市の宮下家に所蔵した『宮下文書』については、文体・発音が江戸後期から近代の作品であるという理由で歴史学者たちは偽書(ぎしょ)と定めて、『宮下文書』の研究意見は史実をとらえるものではないと批判する。しかし、中国の学者たちはじめ中国では上記した『史記』淮南衝山列伝や『後漢書』倭伝の記事は事実を伝えていると定着(ていちゃく)しているゆえ、わが国の学者たちのごとく『宮下文書』を全面否定して研究しないという考え方にも問題があると反発して研究する方々もいる。
 19901220日発行の熊野地方史研究会・新宮市立図書館編集『熊野誌(36)』徐福研究特集号における下村巳六氏が『徐福伝説の周辺』と題する研究論文には、「『宮下文書』(『宮下古文書』とも)には」の後に続く文は、下記のごとくである。
 「孝霊7210月、木日国(紀伊)の木立野に徐福らが上陸、大山を望み、そこを久真野と名づけた。749月更に東へ航海して、住留賀(駿河)の宇記島原に上陸、富士山北麓の阿曽谷小室(今の河口湖附近か)の家基都(かきつ)に着いたのが10月。ここが目指した富士蓬莱の地だった。徐福はこの地で孝元72月に没した。その後寿福集団は分裂し、次男の福万が再び熊野へ戻った。」
 『熊野誌(36)』徐福研究特集号における奥野利雄氏の「徐福村訪問記と徐福の系譜・推定年表」は「徐福59歳であった紀元前219620日に徐福一行は中国から出帆(しゅっぱん)し、1025日に紀伊国に到着して、3年滞在(たいざい)した。紀元前217913日に浮島原、105日に富士吉田に到着した」と立論する。
 上記の下村氏と奥野氏の研究によって、徐福一行は紀元前217913日、D図に示した浮島沼(別称「浮島原・宇記島原」)に到着していることになる。その年の105日に、徐福一行は家基都・現在の山梨県富士吉田市に到着したことになる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚神話は、「久美度邇(くみどに)」という4字の夏音文字をもって浮島原(浮島沼)の北の「愛鷹山(旧称・足高山)が蓬莱山であった」と記す。下村・奥野両氏の研究によると「家基都・富士吉田市」が「富士蓬莱の地」であったことになる。したがって、浮島原に到着した徐福は愛鷹山には不老長寿の霊薬の桃の木が茂っていないことを知り、蓬莱の地を求めて富士吉田市に到着したがこの地も桃の産地でないことを知り、さらなる桃さがしを断念し、始皇帝に死刑にされることを畏れて富士吉田市で定住したことになる。そして上記した『史記』の記事によると、徐福は平原広沢・浮島原を領土とし駿河(静岡県東部)の王となったことになる。

◆「蓬莱」の「蓬(よもぎ)」は、キク科の多年草で、葉は羽状に裂け、裏面に白い綿毛を密生(みっせい)する。この葉の裏の白い綿毛がお灸に用いられる「艾(もぐさ)」となる。
 「蓬莱」の「莱(あかざ)」は、アカザ科の一年草で、古くは食用野草とされた。多く食べ過ぎると中毒症状をおこし日光にあたった部分に桃色の発疹(ほっしん)があらわれることがある。
 桃の実は「白桃(はくとう)」とも言われ、その白い桃の実の皮の表面に密生する白い綿毛はお灸の艾(もぐさ)の材料となる蓬(ヨモギ)の裏面の白い綿毛に相似する。莱(アカザ)を食べ過ぎるとできることがある発疹の色は、熟した桃の実の桃色である。だから、「桃」は「蓬」と「莱」をあらわすゆえ「蓬莱」を示すことになったゆえ、仙人の力を与える仙果(せんか)となり、中国では不老長寿の霊薬として親しまれることになったのである。その証拠に、桃は漢方では血行(けっこう)を改善する薬として婦人病などに用いられ、また、つぼみは「白桃花(はくとうか)」と呼ばれ、利尿薬(りにょうやく)、便秘薬(べんぴやく)に使われる。ゆえに、桃は蓬(よもぎ)の艾とともに病気を療治(りょうじ)する霊薬であったのである。
 倉頡は黄帝が研究した女性の生殖器(せいしょくき)と子どもの出産の研究をあらわすために、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成原理を発明した。前掲した「文字作成銀河各部の名称図」に示したように「文字作成銀河の写真の左上」に「十字の銀河」がある。「十字の銀河」は倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭に中国各地の天頂にめぐってきて各地の緯度を測定する羅針盤となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 

G図に示すように、「十字の銀河の西半身」には〔乳房、妊婦の腹部(おなか)、子宮(女性生殖器〕に観える箇所が存在するので、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「全文字が生まれる子宮」と定めた。
 『説文解字』は[]の字源を「後よりこれを灸(きゅう)す。人の両脛(りょうけい)の後ろに距(ささえ)るに象(かたど)る」と解説する。
 G図に示す「十字の銀河」を「人の背面形」と見立てると、『説文解字』の[]の字源解説に合致して「十字の銀河の子宮」は「人の背中のお灸するときの、火がまだついていない白い艾(もぐさ)の形」に見立てることができる。
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 []の字源銀河は「十字の銀河の子宮」であった。というのも、H図に示すように、「女性の子宮の正面形」は「羊(ひつじ)の顔」に相似し、子どもが宿(やど)ると子宮は大きくなる。ゆえに[][]が加わると[]となる。
 以上、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部に登場する「久美度邇(くみどに)」の先頭2字「久美」は「十字の銀河の子宮」であり「富士山」をあらわした。
 下のカラー写真は、前掲した文字作成銀河の写真を撮影した時より少しだけ明るい状況(絞り)で撮影したものである。

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 ▲「蓬莱」の語源となる銀河

 I図に、上のカラー写真における「十字の銀河、鬼の姿に似る銀河、北アメリカ星雲の様子」を示した。
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 お灸で療治(りょうじ)するとき〔白い艾(もぐさ)〕は「富士山の形」にする。したがってI図における「十字の銀河の子宮」は「富士山の形」に相似するゆえ「蓬の艾」をあらわす。「鬼の横顔に似る銀河」は「桃色」に輝き、「鬼の横顔の桃尻(ももじり)の形となる頬(ほほ)」も「桃色」に輝き、「北アメリカ星雲」は「熟した桃のごとく赤く紅色」となる。また「十字の銀河の両足の脛(はぎ)の中央の股(また)」は「亀の頭の形」に観え、「十字の銀河の脛となる両足部分」は「亀の前足」に観える。
 だから、I図の「十字の銀河の子宮」は「艾」で[]、「鬼の横顔と北アメリカ星雲」は「桃色」で[]をあらわすゆえ、「蓬莱」の語源となった。
 その証拠にI図に示した「十字の銀河の両足とその南の銀河の形状」は、J図に示す古代絵画の蓬莱山図に合致して「亀の正面形」に見立てることができる。これゆえ「富士山の形の十字の銀河の子宮」は「亀の甲羅の上に乗る蓬莱山」のモデルであったことになる。
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◆下に、現在わずかに残る浮島沼(浮島原)から見た富士山と愛鷹山の写真を掲載した。
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 ▲現在の浮島沼から見た富士山と愛鷹山

 写真に映る富士山の手前の紺色の部分は愛鷹山であり、沼津市西方の浮島沼から見た富士山の裾野は愛鷹山の西側の尾根に隠れる。しかし、沼津市西隣の富士市の田子の浦から見た富士山は田子の浦の海岸線の裾野から頂上まで標高3,776mそのままの姿となって聳(そび)える。したがって、上の写真の浮島沼から見た富士山は、巨大で不動のはずの富士山が西から東へと移動して愛鷹山の西側の尾根の背後に裾野が隠れた状態となる。“そんなバカな! 富士山が動くなんてウソだ!”と反論するかもしれないが――浮島沼の南岸を貫通する国道1号線を東へ東へ進めば進むほど、巨大で動くはずがない富士山は愛鷹山の尾根に沿って裾野を隠してより東へより東へと移動する。
 その証拠に、下の写真は、浮島沼がある沼津市よりも東に所在する駿東郡清水町で撮影した富士山・愛鷹山の写真である。
Photo_2
 ▲駿東郡清水町の富士山・愛鷹山

 清水町西方の浮島沼から見た富士山は愛鷹山の西の尾根に裾野が隠れて所在するが――、浮島沼東方の清水町の富士山は、上の写真に示したとおり、愛鷹山の尾根の愛鷹山の〔東〕の尾根に裾野が隠れる。
 K図は、上の写真で示した浮島沼から見た様子と清水町から見た富士山と愛鷹山の様子を示すイラストである。
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 G図・H図・I図で証明した「久美」の「富士山」は、K図に示したように、田子の浦では愛鷹山の西(西北)にある富士山は、現在の浮島沼では東南へ度(わた)って愛鷹山の尾根の西側に移動する。ゆえに、富士山は[(わたる)]の初文の[]の字義「西(西北)から東(東南)へ渡る」をあらわす。浮島沼から清水町の富士山は愛鷹山の尾根の西側から東側へと移動して、[]の字義「西から東への移動」となる。ゆえに、夏音文字の「度邇」という語は「愛鷹山の西にある富士山は愛鷹山の西の尾根に度(わた)り、さらに[]の字義に合致して愛鷹山の尾根に沿って西から東へ移動する様子」をあらわことになる。
 だから『古事記』上巻の淤能碁呂島説話末部に記載された「久美度邇」という夏音文字は、上掲した清水町から見た「富士山と愛鷹山の光景」をあらわす語であったのである。
 K図に示した清水町から見た「久美度邇」の「富士山と愛鷹山」は、I図に示した「蓬莱」という語をあらわす。というのも、東の「十字の銀河の子宮」は「富士山」に相当して[]を、西の「鬼の横顔に似る銀河と北アメリカ星雲」は「愛鷹山」に相当して[]をあらわすことになるからである。
 [蓬莱]の語を成立させ、しかも「久美度邇」の語を成立させる「富士山の裾野が愛鷹山の〔東〕の尾根に隠れる光景」が示す「巨大で不動のはずの富士山を〔東〕へと移動させる愛鷹山の強大な力」によって、愛鷹山は日本防衛軍の守護神となった。というのも、C図に示した小国・日本のほとんどの地域は浮島沼より東方に位置し、しかも現在の浮島沼以東では富士山が東へ移動する光景を目撃できたので愛鷹山は富士山を動かす強大な力を有するということになって、愛鷹山は兵士たち全員の守護神と認識されることになったからである。「蓬莱」の「不老長寿」は「不死(死なない)」をあらわす。この「不死」の信仰によって、「愛鷹山」は「蓬莱山」と認識されて頂上に桃沢神社が祭られることになったのである。
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 L図は、貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)1320頁より転載した中国の地方豪族の家廟(かびょう)図である。『角川漢和中辞典』はL図に示す「家廟」について「家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するともに、宗廟(そうびょう)を建て、宗族の中心である祖先をまつった」と説明する。
 上掲した清水町から見る富士山・愛鷹山の写真が示すように、「愛鷹山」は「家廟(祖先を祭る宗廟)の屋根」の形にソックリである。
 したがって「桃沢神社を祭る愛鷹山の頂上」は「家廟の基本となる宗廟の屋根の頂(いただき)」に相当するゆえ、「愛鷹山山頂」は「家基」と略称されたのである。「家基・愛鷹山山頂」の経度は東経13848分であり、富士吉田市も東経13848分で同経度である。ゆえに、徐福の子孫が住んだ東鯷人国の都となった富士吉田市の古称は「家基」に「都」が加わって「家基都」となったのである。

◆インターネットで「写真 富士五湖 天の川 富士山」と検索(けんさく)すると、富士山の北側の富士五湖から「富士山と夏の銀河の西南部を撮影したカラー写真」が多数画面に現れる。これらの写真は「東鯷人国」という国名の由来を示すことになる。
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 M図に示すように、富士五湖や家基都・富士吉田市から観察できる「富士山の真上にそびえる夏の銀河の西南部像」は[]の字義「ナマズ」の姿に相似する。
 そして、徐福一行が浮島沼に到着した紀元前3世紀、また伊耶那美命と伊耶那岐命が高尾山古墳で結婚した3世紀においても、M図の夏の銀河の西南部の北側となる「愛鷹山と富士吉田市の天頂」には、N図に示す「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がめぐってきた。
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 上掲した「蓬莱」の語をあらわすカラー写真における「北天の最輝部の暗い部分」を凝視(ぎょうし)すると、O図のような形に見える。
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 このカラー写真の「北天の最輝部の暗い部分」を凝視しないように瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)を縮小させると、「北天の最輝部」はP図に示すような形に見える。
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 P図は、O図の状況よりも目に光が少し入って瞳孔径が縮小した時の「北天の最輝部の形状」を示すものとなる。
 P図に示す「北天の最輝部像」は「艾(もぐさ)の材料となる葉の裏面に銀白色の綿毛が密集する蓬(よもぎ)の形」に相似するゆえ[]を、P図の「北天の最輝部の点を密集させて濃く(黒色化)した部分は桃花鳥色(桃色すなわち朱鷺色/ときいろ)に輝く」ゆえ[]をあらわす。だから、「北天の最輝部」は「蓬莱」の語源となった。(「蓬莱」の語源は「十字の銀河の子宮と鬼の横顔に似る銀河・北アメリカ星雲」と「北天の最輝部」の2カ所であった)
 N図に示した「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」にあるゆえ[]をあらわした――したがって、都であった富士吉田市は富士山の〔東〕にあり、M図に示した[(ナマズ)]の夏の銀河の西南部像と、「北天の最輝部」の[]が加わって、徐福の子孫が王となって統治した東日本(C図)の国名は「東鯷人国」となったのである。
 以上のごとく、徐福一行は「愛鷹山」を「蓬莱山」と思い込んで浮島沼に到着したが桃の林が見当たらなかったゆえ、北上して富士吉田市近辺に到着したが桃の林を見つけることができなかった。この状況を、『宮下文書』は「徐福一行は住留賀(駿河)の宇記島原に上陸、富士山北麓の阿曽谷小室の家基都に着いた。ここが目指した富士蓬莱の地だった」と記述したことになる。

◆『古事記』上巻は、中国の正史『新唐書』日本伝にある「後稍夏音を習う」という記事の事情、また『新唐書』日本伝と『旧唐書』倭国日本伝に「倭国という国名を憎み、日本という国名にした」という事情、また両書の「倭国と別種の小国であった」という秘密を後世に伝える歴史書であった。言いかえると、『古事記』上巻は天照大御神を皇祖と崇拝する大和朝廷にとってきわめて不都合な真実の歴史を後世に伝える反逆(はんぎゃく)の史書であった。だから、『古事記』序は首尾一貫して「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史は解明できる仕組み」を説明することになった。にもかかわらず、この立論方法を用いて歴史を解明し証明する学者は、現在、一人も存在しない。
 711(和銅4)918日、元明(げんめい)天皇は『古事記』の序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)に「稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦()むところの天武天皇が勅(みことのり)で語った旧辞(きゅうじ/『古事記』の原典)を撰録(せんろく)して献上せよ」と命令した。その4か月後の712(和銅5)128日に『古事記』は元明天皇に献上されたが、天皇は即座(そくざ)に献呈拒否して『古事記』を排除(はいじょ)した。
 わが国の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の元明天皇が治める709(和銅2)926日の条(くだり)は「従五位下の藤原朝臣(あそん)房前(ふささき)を、東海道と東山道に遣(つか)わして、関や柵(さく)を検察(けんさつ)するとともに、人民のならわしを視察させた」と記述する。ゆえに、元明帝に『古事記』が献上された3年前の7099月下旬に東海道の検察の任務についた藤原房前は、天皇あるいは父の不比等(ふひと)に、徐福の子孫がもしも日本誕生史を詳細に筆録(ひつろく)した資料を作成していたならば、その資料を廃棄処分(はいきしょぶん)するようにと命令されていたにちがいない。
 したがって藤原房前が任務を遂行したのを確認して7119月中旬、元明天皇は太安万侶に『古事記』献呈を命令したのであって、この命令は『古事記』を廃棄処分するための罠(わな)であった。編纂スタッフは、天皇の罠を察知し太安万侶に献呈を命令した以前の710年頃、すでに『古事記』を完成させて複製本を幾冊作成していた。このため、朝廷は『古事記』を抹殺することができなかった。『古事記』の原本は元明天皇に献上した1冊のみでなく、後世へ残すための原本が数冊作られていたために現存することになったのである。
 これゆえ、『熊野誌(36)』徐福研究特集号における下村氏の研究論文には――さて、『宮下文書』だが、その原形は徐福が筆録したものとされ、「徐福文献」といわれている。その原典を、天智天皇10(671)、中臣藤原物部麿なる謎の人物が富士山麓を訪れ、「作正宇津須(うつす)した、つまり原典を改訂したといわれる――という文が記される。
 中臣藤原房前は「中臣藤原物部麿」と偽名を名乗り、日本国誕生史を記述する資料を廃棄処分したついでに「徐福文献」にデタラメ・虚偽を加えて改竄(つまり「作正宇津須」)した。これが『宮下文書』であった。でも、彼は「徐福文献」の全記事を改竄せずに所々に「徐福文献」の記事を残したため、下村・奥野両氏はじめ熊野地方史研究会の会員の研究は全面的に誤りとならずに部分的に事実をキャッチするものとなったのである。
 したがって、学者たちの『宮下文書』を研究する人々への批判は、日本人にとって最も大事な日本国誕生史の真実を解明するに役立つ研究を排除する不誠実な偏見(へんけん)となる。日本国誕生史は大和朝廷が後世に伝わったならば朝廷滅亡の原因になるとおそれた、タブーの歴史であったのである。日本国が誕生した230年当時、富士吉田市に居住した徐福の子孫は東鯷人国王であったゆえ、彼かその後の子孫が筆録したであろう日本国誕生史を伝える文献が廃棄処分された時に「徐福文献」は改竄されて『宮下文書』となって残ったのである。

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2018年5月28日 (月)

漢字習得定説のウソ・14

 ●『魏志』倭人伝は漢字作成原理を伝える史書であった
■倉頡が「聖人」と呼ばれた秘密の解明

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに記述された。しかし、学者たちは多数の【誤読(文献批判)】を加えて『魏志』倭人伝を「邪馬台国論」のために存在する書物のごとくに変貌(へんぼう)させてしまった。でも、本来、『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成方法が解明できる――このために存在した書物であったのである。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で「『古事記』序の秘密」と題して詳細の解説し証明したように、712年に成立した『古事記』の序の記事は下記のごとく伝える。
(1)
『古事記』序は冒頭で「中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭/紀元前2070年頃~同2050年頃)、夏音(かおん)文字が日本列島に伝来して習得された」と説明する。
(2)
『古事記』が成立した当時に用いられていた楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義であった。というのも、楷書と夏音文字の両漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とするものであったからである。つまり、『古事記』の序は――楷書以前の全漢字は倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めて作成された。だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は同義、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義となった――と現在に伝えていたのである。
(3)
『古事記』序は――『古事記』上巻は、その随所に〔音〕という注を付けて楷書で表記される多数の夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、おのずと楷書の字源・字形・字義も文字作成銀河各部の形状であることが立証され、真実の歴史を知ることはできる仕組みになっている――と、上古の真実の歴史を解明するために作成された。つまり『古事記』上巻は――大和朝廷が最も偉大な先祖と定める天照大御神が、伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を苦しめた歴史――を伝える反逆の史書であった。だから、こ『古事記』序が説明する歴史解明方法を無視する今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。
 大和朝廷は『古事記』上巻に記述された天照大御神の聖性をいちじるしく汚す真実の歴史を隠蔽(いんぺい)する虚構工作(きょこうこうさく)を、720年に完成した『日本書紀』を正史(せいし)と定めておこなった。『日本書紀』は日本国誕生史が不明確となる失敗作品であった。朝廷は『日本書紀』が完成した直後から村上天皇の康保(こうほ)年間(946967)までの約250年間、『日本書紀』の日本国が誕生した歴史をアイマイに伝える記述を利用して『古事記』上巻に記述された真実の歴史をねじ曲げる解釈を考えた学者たちの講義つまり講書(こうしょ)を幾度もおこなった。この講書の解釈・意見は、近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)に受け継がれ、さらに宣長の意見・解釈を今日の学者たちは受け継ぐ。だから、今日の学者たちは『古事記』序が「『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を解明できる仕組みにした」と説明する歴史の解明方法を無視する。だから、今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。学者たちは自分たちの解釈・意見は真実の歴史をねじ曲げる虚偽(きょぎ)、まったく空虚(くうきょ)なものであることに気づいていない。

倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読(文献批判)】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 (3)の掟を破った殷代後半の甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 夏音文字、夏音文字を表記する楷書、契文(けいぶん/甲骨文字)、金文などすべての古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
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 ▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実によって、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と『古事記』上巻の意見は【誤読の空論】であることが科学的に証明される。

◆前述したように、『古事記』序の冒頭記事が証言するように――夏音文字は後期縄文時代初頭にわが国に伝来して習得された。ゆえに、3世紀後半に著作された『魏志』倭人伝に登場する倭女王の名「卑弥呼」を「ひみこ」と読むと――この字音は夏音文字の字音で読んだことになり、わが国には夏音文字は伝来してことを結果的に認めたことになる。
 しかし、新井白石(あらいはくせき/16251725)以後、学者たちは『魏志』倭人伝を多数の【誤読】を加える「文献批判」という立論方法を確立させた。このため1ヵ所も【誤読】を加えない立論方法は排除(はいじょ)されて、倉頡が発明した漢字作成原理を科学的に解明できる研究の門が厳重(げんじゅう)に閉()ざされて世界史的に重大な史実が失われた。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回で、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、〔東〕へ伸びる日本列島は〔南〕へ伸びるという考え(地理)こそがすべての矛盾点を解消して【科学】が成立することを証明した。この「時計回りに〔東〕が〔南〕となる転回方位」は倉頡が考えた[()]の字源をあらわすものであり、この[]の字源の「転回方位」は[()][()]の字に受け継がれた。ゆえに、卑弥呼王朝は倉頡が考えた転回方位にもとづき「日本列島の東方は南へ伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名「倭人国」と定めたのである。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」では『魏志』倭人伝の対馬(つしま)国から奴()国までの小国名に用いられた各字の字源銀河を解明し、また「漢字習得定説のウソ・10」では対馬国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国・斯馬(しま)国・邪馬(やま)国の[]の字がつく5ヵ国の小国名の使用された字源銀河を解明して、これらの国名は倉頡が発明した漢字作成原理を伝えていることを証明した。また「漢字習得定説のウソ・11」では『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と表記せずに「邪馬壱国」と表記していることを指摘し、「邪馬壱国」の[]の字源銀河は「倉頡が発明した漢字作成原理=鳥獣の足跡」をあらわすことを証明した。また「漢字習得定説のウソ・12」では奴国・弥奴(みな)国・姐奴(つな)国・蘇奴(さな)国・華奴蘇奴(かなさな)国・鬼奴(きな)国・烏奴(あな)国・奴()国・狗奴(くな)国の9ヵ国の小国名につく[]の字源は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣「ジャコウウシ」に由来(ゆらい)することを証明した。
 前回の「漢字習得定説のウソ・13」では不弥(ふみ)国=北九州の宗像地方、呼邑(こお)国=近江・滋賀県、弥奴国=尾張・愛知県西部、好古都(こかた)国=三河・愛知県東部、不呼(ふこ)国=遠江・静岡県西部、この5ヵ国の小国名は水辺に生息する小鳥の「カンムリカイツブリ、ハジロカイツブリ、鳰(にお/カイツブリ)」をあらわしていることを証明した。つまり、上記の小国名に用いられる[]の字源は「カンムリカイツブリ」、[]の字源は「鳰(カイツブリ)」であった。「好古都国」の[]の字は「女性の生殖器の卵管采(らんかんさい)・卵巣(らんそう)の形に相似すると見立てられた飾羽(かざりばね)を顔に有するハジロカイツブリ」をあらわした。
 今回は、上記の小国名に用いられた[]は「カンムリカイツブリ」、[]は「鳰(カイツブリ)」、[]は「女性生殖器の卵管采と卵巣」の字源であった――この秘密に注目すると、倉頡が発明した漢字作成原理が明白となることを立証する。

◆夏音文字がわが国に伝来した約1000年前の五帝時代初頭に生存した
黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器・子宮と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡によって黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字が発明されることになったのである。
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 三皇時代・五帝時代、A図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができた。
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして“迷っていない”と安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる本能もそなわっていた。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の初頭にある「この漂(ただよ)える国」という語は「大海原で[]のキャッチに失敗して緯度(位置)と経度(方角)が不明となって漂流する船に乗る人々のごとく、多数の人民たちが“目の前に死がせまった!”と絶望する未曾有(みぞう)の国難」を表現するものであった。ゆえに、原始と上古の人々の最大の恐怖は「[]のキャッチに失敗して迷うことであった」のである。
 []の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得(こころえ)」をあらわした。この[]の字源を2世紀に成立した字源を解説する字書の『説文解字(せつもんかいじ)』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる、という心得」をあらわした。
 緯度は、北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度でも計測できたが――天の北極の高度を緯度に換算する、この方法では原始から上古の人々は必ず命を失うことになった。
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 B図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、1分の精度でキャッチできる、A図に示した[]をキャッチできる眼力(がんりき)に人類は命を委(ゆだ)ねたのである。
 『説文解字』は、三皇時代の政権基盤であった[(えき)]の字源を「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を渡る旅しても、トカゲのごとくかならず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 黄帝や倉頡が生存した五帝時代初頭の北極星は天の北極を中心にして約100分の円周を描いていたので「死に直結(ちょっけつ)する星」であったので、人々は1分の精度で緯度を測量できる[]をキャッチして命をまもって生活を営んでいたことになる。
 卑弥呼が生存した3世紀、B図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかったゆえ、当時の人々が道に迷わずに命をまもる方法はA図の右上の[]をキャッチする方法であったことになる。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと――紀元前3000年頃の五帝時代初頭、C図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上に示した「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の両目と首につく両目の計四つの目)」がめぐってきた。
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◆D図の右図が示すように、「十字の銀河の西側半身」には「女性が有する乳房、妊婦(にんぷ)の腹部(おなか)、子宮(に相当する箇所)」に観()える部分がある。
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 ゆえに、
倉頡は黄帝の女性生殖器の医学研究をあらわすために、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作る、すべての漢字を生む母体」、また「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮」と定めた。だから、倉頡が定めた漢字作成原理をあらわして、D図の左側の[]の金文形(周代に用いられた字形)は「十字の銀河」を「女性の正面形」に見立てて、「子(胎児)が子宮に宿る妊婦の姿」に図案した。
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 E図に示すように、[(べん)]の字源・字形・字義は「文字作成銀河各部の形状から作られた全文字を母体となる十字の銀河」である。したがって、[]の字源・字形・字義は「文字作成銀河」でもあった。そして、[]の下に[]が加わる[]は「十字の銀河から生まれて繁殖(はんしょく)する多数の子=文字」をあらわした。
 このように、D図とE図の[][]の字源・字形・字義は、倉頡の漢字作成原理をあらわすことになった。
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 倉頡は、F図に示す「娩出期(べんしゅつき)における、頭が生まれる子は母体の背を正面として出産する様子(ようす)」に注目した。
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 G図に示すように、倉頡は全漢字の母体となる「十字の銀河の股(また)となる〔南〕」に〔頭が誕生する子の姿〕をあてはめた。そうすると、子は〔東〕を正面として誕生するゆえ――この様子だと「中国の人々が生む子は中国の〔東〕の〔大海〕から生まれて、大海の〔西〕の〔陸地〕では生まれない」ということになるので、D図の[]とE図の[]で示した漢字作成原理に不合理な点が生じると、倉頡は考えた。
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 そこで、倉頡は「中国の人々は大海より〔西〕の陸地で生まれる」をあらわすために、H図の下部に示す[()][()]の字を考案した。
 このため、[]の字源・字形・字義は「〔南〕が時計回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」をあらわすことになった。
 
◆I図に示すように、倉頡が考えた[]の字形は「いね()の穂が十字の銀河の〔南〕から〔東〕へ垂れる形」と定めたゆえ、字義は「穀物」や「いね()」をあらわすことになった。
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 後世、[]の下に「女体に相似する十字の銀河」から[]が加わる[()]の字が作られた。また、「十字の銀河」は「人体」に相似するゆえ、偏(へん)[][]が加わる[]の字が作られた。ゆえに、[][]は倉頡が考えた[]の定義「時計回りに方位を90度転回して、〔南〕は〔西〕になると定める方位規定」を受けついだ。
 だから『魏志』倭人伝に、J図に示す「転回日本列島地理」が記述されることになった。
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 J図の転回日本列島地理は「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と示すゆえ、I図に示した「時計回りに90度転回して、〔東〕は〔南〕となる」をあらわす[][][]の字を示す。この「転回日本列島地理」は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えなければ成立する。
 だから、卑弥呼王朝はJ図に示す転回日本列島地理を制定していたことになる。
 J図の左側に玄界灘に浮かぶ沖ノ島を図示した。「玄界灘」の[]はA図に示した[]であるから、「玄界灘」という名は「天の北極の高度を緯度換算する方法だと往来することができないが、[]をキャッチすれば往来できる灘(陸地から遠く離れた波の荒い海原)」ということになる。
 日本列島の東と西の端にあって遠く離れる沖ノ島と神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることは、B図に示した約1200分の円を描く北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法では測量することができない。したがって、沖ノ島と神津島の同緯度は、A図に示した[]のキャッチをもって測量されたことになる。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は――A図に示した[]のキャッチによって測量された沖ノ島と神津島の同緯度にもとづき、卑弥呼王朝は[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」と定めた――と伝えていたことになる。
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 K図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候であるゆえ〔西冷〕となり、日本列島の東端の亜熱帯気候の神津島は冬になっても雪が降らない暖かい土地であるゆえ〔東暖〕となる。そして、中国の北の海岸線地域は冷たい気候であるから〔北冷〕となり、南の海岸線地域は暖かいゆえ〔南暖〕となる。そして中国海岸線地域の〔北冷〕の日本列島の〔西冷〕は〔冷たい気候〕で合致し、中国海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は〔暖かい気候〕で合致するゆえ、卑弥呼王朝は「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方へと伸びる」と考えて転回列島地理を制定したことになる。

◆L図に示すように、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女(みこ)たちが子どもの出産を祝いまた祈祷(きとう)するときに用いる土器」に見立てた。
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 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「口(くち)」の字形について「卜文(ぼくぶん/契文=甲骨文字)・金文にみえる字形のうち、口耳の口とみるべきものはほとんどなく、概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)の器の形である[(さい)]の形に作る」と解説する。
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 M図の右側に[(さい)]の字形を示した。[(さい)]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「巫女が祝祷する時に用いる土器」に見立てて[(さい)]の字を作った。
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 N図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を「巫女が体をくねらせて舞う姿」に見立てて、「祝祷する土器[(さい)]」を「十字の銀河」の西の肩の上に配置して「〔北〕が〔西〕へと時計回りと逆方向に90度転回する方位規定」を考案した。というのも、H図に示した[]の「〔南〕が〔東〕となる定義」だと「子どもたちは陸地に生まれずに東の大海で生まれる」ことになって不合理となるため、N図に示す「〔北〕が〔西〕へ逆時計回りに転回する方位規定」を倉頡は考案して「大海の西の陸地で子どもたちは生まれる」ようにしたのである。
 ところが、I図に示した[]の字の考案はなにゆえ「十字の銀河」が「いね()」の図案になるのか、その解釈は疑問視された。しかし、[]の形は「黄帝軍の軍門」をもあらわしたため、黄帝軍を畏怖(いふ)して批判の声を挙げる者はいなかった。いっぽう、N図の右側に配した[]の作字は不可解(ふかかい)、あるいは幻想、空想などと批判されることになった。この批判の声は、O図に示す[()]の契文・金文の両字形となって残った。
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 なぜ「十字の銀河の子宮」を「巫女が祝祷する土器の[(さい)]」にとするのか理解にくるしむが、あえてこの意見に賛成することにしても――O図に示したように「十字の銀河の頭部」を「西に[(さい)]の口部を向ける形」に図案し、この[(さい)]の下に[]字形の身体の図案を加えれば簡潔な[]の字となるのではないか――と、倉頡が考案した[]の字は疑問を抱かれ困惑(こんわく)されて批判されることになったのである。
 だから、O図の[]の契文・金文の両字形は――心に疑惑を抱き、杖(つえ)で倉頡の[]の作字に賛同できずに体が凝()り固まって天頂にめぐってくる[]の字源「十字の銀河」を仰ぎ見る人の様子――をあらわす図案であったのである。

◆E図に示した、母体から生まれた[]をあらわす字源の「鬼の姿に似る銀河」を、P図の左側に配した。P図に示すように「鬼の姿に似る銀河の西方」は「カエルの後ろ足」のような形となる。鳰(カイツブリ)が泳ぐ姿は上から見ると、「鬼の姿に似る銀河の西部」のごとく「鳰の尻(しり)附近にある足をカエルの後ろ足」のごとく使う。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」から、倉頡は[()]の初文(しょぶん/最初の字)[()]の字を考案した。
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 また、「鬼の姿に似る銀河」はP図の右図の「カンムリカイツブリの姿」に相似し、「鬼の姿に似る銀河の西部」は「カンムリカイツブリが求愛ダンス(繁殖行動)する時の飛び散る水飛沫(みずしぶき)」にも見立てることができる。したがって、「鬼の姿に似る銀河」から倉頡は[(/)]の初文の[()]の字も考案した。
 子宮は、長さ78cm、幅4cm、厚さ3cmほどで、妊娠すると胎児の成長にともなって増殖肥大(ぞうしょくひだい)し、子宮の筋層(きんそう)は非常に大きく引き伸ばされ、分娩後(ぶんべんご)には収縮(しゅうしゅく)する。
 P図で解説した[][]の字源となった「鳰」の全長は2529cmと小さく、1回に平均15秒ぐらいから30秒ほど潜水(せんすい)できる。[][()]の字源となった「カンムリカイツブリ」の全長は4661cmで、30秒以上も潜水することがある。子宮に宿る胎児は羊水(ようすい)の中に潜(もぐ)り、羊水は(1)羊膜(ようまく)と胎児との癒着(ゆちゃく)を防ぎ、(2)胎児の表面の乾燥を防ぎ、(3)外からの力が直接胎児や胎盤(たいばん)に加わるのを防ぎ、(4)また、逆に胎児の運動が子宮の壁(かべ)に激しくおよばないようにする役割がある。このように「羊水に潜る胎児」をあらわすため、倉頡は「子宮」と「胎児」を「鳰」と「カンムリカイツブリ」に見立てたて[][]の字を創(つく)ったのである。
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 Q図に示す鳰の浮巣(うきす)の産座(さんざ)で育つ卵は始め白いが次第に汚(よご)れて土色(褐色・かっしょく)となる。だから、倉頡は「土色に汚れる鳰の卵」から「子宮」を「土で作る土器」、すなわちM図に示したように「巫女が祝祷する時に用いる土器」と同一視(どういつし)する[(さい)]の字を考案した。
 ヒトの一生の始まりは男女の性交による卵(らん)と精子(せいし)の合体から始まる。卵と精子は肉眼で見ることができずきわめて微小(びしょう)であったゆえ、黄帝の女性生殖器の研究では発見されていなかった。
 しかし、黄帝は、R図の上図の「妊娠のはじまり」とされる「卵が子宮の内壁(ないへき)に着床(ちゃくしょう)する卵期の様子」を発見していたか、あるいはR図の下図の長円板状の「胎標(たいひょう)」を発見していた。胎標は後にヒトになる部分である。
 それというのも、R図の上下2図の形状は、Q図に示した「鳰の浮巣と卵を育てる産座」に相似するゆえ、黄帝はR図の上図か下図に示した様子を発見していたことになる。
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 黄帝はR図に示した上図の「卵の子宮内壁の着床」か下図の「胎標」のどちらかを発見していたゆえ、倉頡は[][]の字を創造(そうぞう)することになったのである。ゆえに、R図の状況によって「ヒトの年齢のはじまり=0歳」が定められたため、古代の人々の年齢(数え年)は「胎児が誕生した瞬間に一歳」と数えることになったと考えられる。
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 したがって、S図に示す[]の上の[]は「心臓の動悸(どうき)がはじまり、血液が流れはじまる第4週の後半ごろの胎児の姿」をあらわし、[]の下の[(べい)]は「鳰の浮巣の産座」に相似するR図の上図あるいは下図の様子をあらわすことになる。ゆえに、S図の[]の金文形は「数え年0(ゼロ)歳」をあらわす文字であったゆえ、[]の字義は「はじめ」となったと考えられる。

◆T図の左図は、上掲した「文字作成銀河」において右側(西側)の大部分の範囲を占()める、「巨大な夏の銀河像」(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)である。
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 T図に示すように、「わし座α星(彦星)がある銀河部から夏の銀河の西南部までの、巨大な銀河」は[]の字源「鳰」が歩く姿に相似する。
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 U図に示すように「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)」には、天文学用語となる「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。「北天の最輝部」は「北半球に住む人々にとって最も輝いて見える銀河部」のことである。「北天の最輝部」の東側には、これまた天文学用語の「コールサック」がある。「コール」は「石炭」、「サック」は「袋」を意味するゆえ、「コールサック」は「真っ黒な石炭袋のような暗黒天体部」ということになる。
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 V図に「北天の最輝部」の形状を示した。「北天の最輝部」は「水飛沫(みずしぶき)を飛び散らせて激しい求愛ダンスをするカンムリカイツブリの姿」にそっくりである。というのも、「北天の最輝部」は銀白色に輝くからである。求愛ダンスする時に見えるカンムリカイツブリの喉(のど)から下の首・胸部・腹部は銀白色に輝く。ゆえに、「北天の最輝部」は「求愛ダンスするカンムリカイツブリの喉から下の銀白色の姿態(したい)」に酷似する。
 T図に示した「鳰の歩く姿」に相似する「わし座α星がある銀河部から夏の銀河の西南部」までは、W図に示す「男根(だんこん/男性の性器)の形」に相似する。このため、「コールサック」が「女陰(じょいん/女性の性器)」のイメージとなる。
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 上掲した「文字作成銀河の写真」を参照すれば、W図で示した「男根」のイメージには異論(いろん)なないにちがいないから、「コールサック」を「女陰」に見立てる解釈にも多くの人々が賛成するにちがいない。
 ヒトの一生は女陰と男根の合体からはじまるゆえ、倉頡は「男根」の形となる「わし座α星がある銀河部から夏の銀河の西南部」を注目して「鳰」をあらわす[]の字を考案し(T図を参照)、「女陰」に観える「コールサック」の西側の銀白色に輝く「北天の最輝部」に注目して「求愛ダンスをするカンムリカイツブリの喉から下の首・胸部・腹部の銀白色の姿態」にもとづく[]の字を考案したのである。
 X図は、C図と同じく五帝時代の天頂緯度線図であるが、C図と異なって「北緯30度」の緯度線で示すことにした。というのも[]は後世に[]の字となり、[]の字源は「鳰の姿に似る杭州湾(こうしゅうわん)」となり、杭州湾の南限は北緯30度であるからである。
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 X図の右端に示すように、「土器の形の暗黒天体部」があり、この天体部は「巫女たちが祝祷する時に用いた土器の形」に相似する。倉頡は、この「土器の形の暗黒天体部」を注目し、また「人の横顔に酷似する銀河」を「女の横顔」にさらに「夏の銀河の西南部」を「巫女の胸部から下の身体部」に見立ててN図の[]の字を創った(つまり倉頡は、N図に示した「十字の銀河」(注 X図の左上)と「夏の銀河」を「祝祷の土器を肩の上にかかげて身をくねらせて舞う巫女」に見立てて、[]の字を創ったことになる)。なお、X図の「土器の形の暗黒天体部」は、こと座(琴座)とはくちょう座の両星座が隣接しあう箇所となる。
 H図に示したように、倉頡は「十字の銀河の股(また)」に相当する箇所に「頭が誕生する出産児」を加える想像をして、「いね()」をあらわす[]と「巫女が祝祷する時に用いる土器を肩の上に上げて体をくねらせて舞う姿」の[]の字を考案した。[]の「いねの実()の米」を炊()くと口に入れる食料となり、禾・稲は泥状の水田で育成され、巫女が祝祷する時に用いる土器は水田の土のごとく泥状になったやわらかい土から作られる。胎児が出産する女性の外陰部(がいいんぶ)には口の唇(くちびる)の形に相似する「大陰唇(だいいんしん)」と「小陰唇(しょういんしん)」と名づけられた部分がある。このような事柄を総合(そうごう)して、倉頡は[(さい)]1字であらわすことができると考えたのである。だから、倉頡は前述したように「十字の銀河の子宮」を[(さい)]の字源と定めたのである。

◆Y図に示す「鬼の姿に似る銀河の横顔」には「両眼の銀河部」があり、「鬼の姿に似る銀河の首(後頭部とアゴ)」にも「両眼の形をした銀河部」がある。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」の別称を「四つ目の銀河」とした。
K454
 
 「四つ目の銀河の横顔の両目」は〔前を見る目〕となって、〔[][]の字が創(つく)られた「十字の銀河」を見る目〕となる。「四つ目の銀河の首につく両目」は〔後ろを見る両目〕となり、〔「夏の銀河」を見る目〕となる。
 要するに、倉頡は「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を見て、H図に示した[][]の字を作ったのである。(注 X図にも示したように、[]の字は「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を見て創られた)
 W図の下部に示した「赤い、さそり座α星」を中国では「大火(たいか)」と呼び、「大火西にくだる頃」と表現して「稲や麦などを収穫する秋の到来」を表現する。わが国では「さそり座α星」を「豊年星」、「あか星」、「酒酔い星」と称する。「豊年星」という名が示すように、さそり座α星は「秋における禾(いね)の豊作を願う星」であった。
 W図の下部の「銀河の中心からさそり座α星までの銀河」は「南から西へ飛ぶ鳥の姿」に観える。「南から西への飛ぶ鳥の姿」は、H図に示した[]の「〔南〕から〔西〕への時計回りの転回方位」をあらわす。
 また、H図に示した[]の「〔南〕から〔東〕の逆時計回りの転回方位」を、倉頡はX図に示した「土器の形の星座」(琴の形の星座)[(さい)]の字と定めて、N図に示した「〔北〕が〔西〕となる逆時計回りの転回方位」をあらわした。
 だから、倉頡は自らをY図における「四つ目の銀河」に見立てて、「四つ目の銀河」の前の「十字の銀河」と後ろの「夏の銀河」を観て[][]の字を考案したことになる。
 Y図の[]の契文形は「耳と後ろに向く人」で構成される。倉頡は自らを「四つ目の銀河」に見立てたゆえ、[]の契文の[]は「四つ目の銀河」に隣接する「北アメリカ星雲」を図案するものであったにちがいない。「北アメリカ星雲」を観てO図の[]の字義のごとく「耳に観える?」と疑い惑(まど)うかもしれないが――「四つ目の銀河」の周囲で「耳」の形にいちばん似ているのは「北アメリカ星雲」である。倉頡は、P図とY図に図示した「四つ目の銀河」における「後ろとなる部分」の形状を観て「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの水しぶき」と「鳰が泳ぐときの足はカエルが泳ぐ足」をイメージして[][]の字を創った。この倉頡が多数の事柄を集約(しゅうやく)して[][]の字を創造したことを伝えるために、「耳に似ている」と指摘されると思わず疑いたくなる「北アメリカ星雲」から[]の字が図案されて[]を加えて[]の字形を成立させて、「倉頡は聡明(そうめい)であった」と伝えることになったのである。
 冒頭で「わが国は夏音文字を習得した」と記述する『古事記』序には「稗田阿礼(ひえだのあれ)は聡明で、目に度(わた)れ口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」という記事がある。Y図に示す「後ろを見る両目から前を見る両目」が「目に度る」となり、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」が「口に誦み」のイメージとなるゆえ、「耳に払るれば」の「耳」は「北アメリカ星雲」と考えるべきことになる。
 倉頡以後、そのまま銀河の形をリアルに表現した字形は排除(はいじょ)されて漢字として認められなかったのである。漢字は芸術家が得意とする右脳(うのう)でイメージ思考する知恵の創造作品であったのである。したがって、論理思考の左脳(さのう)思考の人々には難解な作品が漢字として使用されることになったのである。

倉頡伝説は――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人(かいじん)がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)の方法を代()えたので、天は祝福して禾(こくもつ)を降らせ、死霊(しれい)が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたというのである――と説明する。
 したがって、倉頡伝説はすべてすべてほんとうのことを伝えていたのである。
 学者たちは「人間には目は四つあるはずがない。だから、荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定して、倉頡伝説が伝える事実を抹殺(まっさつ)した
 倉頡が発明した漢字作成原理を現在に伝えるE図に示した[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は、Y図に示した「四つ目の銀河」である。だから、「四つ目の銀河」は[][][]の字源となり、「四つ目の怪人」と称さられることになった。Y図に示した「四つ目の銀河」のうちの「後ろを見る両目」は、地上の人が身を弓形(ゆみなり)にして妊婦のごとくおなかを前に突き出して、C図とX図に示した「天頂緯度線をキャッチするための両目」をもあらわした。だから、「四つ目の怪人」を荒唐無稽のデタラメと否定されると倉頡が漢字を発明した事実が研究できないことになり、漢字が起源した史実は失われてしまう。
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。「古来の結縄の方法」は「三皇時代に考案された易の記号」を指す。
 倉頡伝説は――夜な夜な輝く文字作成銀河各部の形状から漢字は作られ、三皇時代には氏族名をあらわすことができる文字が存在していなかったので、倉頡の発明によって三皇時代に栄えた包犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)の三氏族はじめ幾つかの氏族名をあらわすことができ、また三皇時代の歴史も後世に伝えることができるようになったので、三皇時代の氏族たちの霊は感激して泣く涙つまり恵みの雨を降らせて、[]の「穀物」が豊かに実り、倉頡が[]の字に思いをこめた「子どもたちが多数生まれた――と、倉頡が漢字を発明した事実を後世に伝えるものであったことになる。
 []の字源「北天の最輝部」がある「人の横顔に酷似する銀河の顔」は俯(うつむ)いているゆえ、「天から禾(穀物)を降らせ、三皇時代の氏族の死霊が感激して泣く」つまり「天の神による恵みの雨」をあらわす[()]の字源となった。『説文解字』は夏音で「え」と読む[]の字訓(じくん)は「恵なり」と指摘する。これゆえ[][]の字音は同じ「え」となったのであろう。[]の字源「北天の最輝部」は「求愛ダンスするときのカンムリカイツブリの姿」にそっくりであるゆえ、[]をあらわすことになった。だから、[]の「豊かな穀物」と[]の「多数の子どもたち」は「神の恵み」と「[]という理念」をあらわした。
 []の字が[]をあらわした秘密は、『古事記』上巻の首尾一貫したテーマ【日本建国の〔愛〕の理念】で伝えられた。しかし、学者たちは『魏志』倭人伝と同様に、『古事記』上巻に多数の【誤読】を使って【日本建国の〔愛〕の理念】を排除(はいじょ)した。
 『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。
 
この文が指摘するように――漢字は文字作成銀河から作られた学術と芸術の根本であり、中国とわが国の王道政治において真っ先に必要な政権基盤であった。そして「後人のもって古を識るなり」という文は「『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、後世の人が3世紀の歴史の真相を知ることができる方法である」と伝えていることになる。
 
その証拠に、『魏志』倭人伝と『古事記』の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部に形状に変換すると真実の歴史が明らかとなる。だから、学者たちの意見や解釈は【誤読】を思考方とする空想・空論であったのである。

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