漢字習得定説のウソ・9
●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・1
■対馬国から奴国までの小国名の字源の解説
◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明して起源した事実を詳細に解説して証明した。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。
▲文字作成銀河の写真
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2) 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3) 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)だ1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と思い違い、さらに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国は倉頡の漢字の発明を保存する夏音文字を習得した」と伝える記事を誤読して立論した虚偽説によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉(と)ざされることになった。
上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)と(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
しかし、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
▲文字作成銀河各部の名称図
◆『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(じ/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
だから2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝は、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。ということは、『魏志』倭人伝は「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であったことになる。
◆712年(和銅5)正月28日、元明(げんめい)天皇に『古事記』が献呈(けんてい)されたが、天皇は『古事記』を正史(せいし)として認めなかった。というのも、『古事記』上巻には朝廷が最も崇拝する至上神(しじょうじん)の皇祖(こうそ)・天照大御神の聖性(せいせい)をいちじるしく汚す歴史が記述されていたからである。
『古事記』が成立する10年前の702年、第7回遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――遣唐使が中国の王朝に「後稍夏音(のちややかおん)を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」と語った――という記事がある。
この記事は――天武(てんむ)天皇は、壬申(じんしん)の乱の後、「稍(やや/少しだけ)夏音文字を習って(復興して)、小国・日本が誕生した時に国作りの柱を〔愛〕にすると伊耶那美命(いざなみのみこと)がとなえた歴史と、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して倭女王伊耶那美命の没後に倭女王を受け継いだ天照大御神が多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)の歴史を削除(さくじょ)して、夏音文字を政権基盤にして強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた天照大御神を絶賛する偽書(ぎしょ)を作成せよ」と命令した――と伝えるものであった。
したがって、上記した『新唐書』日本伝の「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」という記事は――倭女王の天照大御神がおこなった残虐(ざんぎゃく)な徇葬を人民は憎悪して倭という国号を憎み、人民は伊耶那美命が小国・日本の女王となった時に国作りの柱を〔愛〕と定めた、この「日本」という名に国号を改めることを熱望した。小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと・後の第9代開化天皇)は愛する正妃(せいひ)の伊耶那美命が没すると、倭女王を受けついだ第二后(きさき)の天照大御神がおこなった徇葬を怒り、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に徇葬者とともに埋められた伊耶那美命の亡骸(なきがら)をおさめる棺(ひつぎ)を奪うクーデターをおこし、逃げる伊耶那岐命・日本兵士たち一行を追跡した倭の大軍を熊野速玉大社の境内(けいだい)となった地に誘導(ゆうどう)する作戦をもって撃破(げきは)し、千引石(ちびきのいわ/速玉大社から約1km南にある現在の和歌山県新宮市の神倉神社のご神体の巨大なごとびき岩)の前で捕虜(ほりょ)となった天照大御神と離縁して天照大御神を倭女王から失脚(しっきゃく)させ、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ国政を行うと宣誓(せんせい)して、伊耶那岐命は小国・日本と倭を併合(へいごう)する大王となった――と伝えるものであった。
上記した歴史は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問(よみのくにほうもん)説話に記述された。この説話において、残虐な徇葬をおこなって伊耶那岐命から離縁された倭女王の名を「天照大御神」と記載すると、『古事記』は朝廷の怒りにふれて正史になれない。これゆえ、編纂スタッフは天武天皇の「偽書を作成せよ」という命令にしたがったかごとく見せかけて、「伊耶那美命」という名に[神]の1字を加えて「天照大御神」の名を「伊耶那美神命」という偽名を記した。天照大御神(伊耶那美神命)が離縁された千引石の前には、現在、神倉(かんのくら)神社の社殿が建造され、神倉神社は天照大御神を祭って『古事記』に「伊耶那美神命」と記述された伊耶那岐命の妻は「天照大御神」であたった――と、真実の歴史を現在に伝える。
◆『古事記』の「序」の真ん中に〔天武天皇の歴史書(『古事記』)撰録(せんろく)の企(くわだ)て〕という記事がある。この記事は――天武天皇が「私が聞くところによると、諸家で受け継ぎ伝える帝紀(天皇家の系譜を中心とした記録)と旧辞(きゅうじ/夏音文字で記述された歴史書。『古事記』上巻の原典)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。いまこの時において、その誤りを改めないならば、幾年もたたないうちに、その旨(むね)は滅びてしまうであろう。この帝紀と旧辞は、国家組織の基本であり、天皇政治の政権基盤である。ゆえに、帝紀を書物として著(あらわ)し、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と仰(おっしゃ)った――と伝える。
天武天皇は強大な権力を最も重視する天照大御神の政策を受け継いだ。このため、天皇の権力は絶大となり、天皇自身は神格化されるようになった。ゆえに、天皇の「天皇家の系譜を中心とした楷書で書く帝紀を書物にし、夏音文字で記述する旧辞をよく調べて、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」という言は「皇祖の天照大御神は夏音文字の学芸を政権基盤として大和王朝の基礎をきづいた。この天照大御神の事績(じせき)を伝える旧辞の夏音文字の記事をすべて削除すると、朝廷の政権基盤である夏音文字の学芸が時とともに衰退する。この衰退をふせぐために夏音文字を稍々(やや/少しだけ)残すようにせよ。なれど、旧辞に夏音文字で記述された伊耶那美命と伊耶那美命の歴史はすべて削除(さくじょ)して、天照大御神を絶賛する歴史書を著作せよ」と命令したことになる。
ゆえに702年に派遣された遣唐使は、天武天皇の歴史書作成の命令を「後稍夏音を習う」と短く省略して、中国王朝に告げたことになる。
この天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に反して『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載され、この夏音文字を銀河の形状に変換すれば天武天皇が抹殺(まっさつ)しようとした【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史が蘇(よみがえ)る巧妙(こうみょう)な仕組みになっている。したがって、『古事記』上巻は天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に逆(さか)らって真実を伝える歴史書であった。だから、元明天皇は『古事記』献呈を拒否(きょひ)したのである。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻
序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく夏音文字が随所(ずいしょ)に記載され、この夏音文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された。
夏音文字の習得については、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)言(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作(な)す」という文までは「わが国に中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と説明するものであった。
『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷は、皇祖の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す日本国誕生史は後世に絶対に伝えてはならないと禁じた。このため、編纂(へんさん)スタッフは天武帝の『稍夏音を習う』という命令にヒントを得て一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字を多数記載して、夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が蘇る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が明らかとなる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を具体的(ぐたいてき)に伝えていたことになる。
つまり、『古事記』上巻は『魏志』倭人伝と同じく「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を証明できる文献であったのである。
◆人類は原始の時から、A図右上に示す[玄(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の1の1分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[玄]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
(C) 2018 OHKAWA
だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[玄]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯35度36分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
(C) 2018 OHKAWA
C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
(C) 2018 OHKAWA
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
(C) 2018 OHKAWA
E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
(C) 2018 OHKAWA
すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[禾(か)]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[呉]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
(C) 2018 OHKAWA
G図の右下に[禾]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
[禾]は「いね(稲)の形」をあらわす図案である。
(C) 2018 OHKAWA
倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[禾]の字を作った。つまり、[禾]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。この「黄帝の徳政」について、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)は「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」と記述する。
なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[呉]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
G図の下部に示すように、倉頡が作った[禾]の下に後世の人が[女]の字を加えて[委(い)]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)に[委]が加わる[倭(わ)]の字も作られることになった。後世に作られた[委]と[倭]は倉頡が作った原字(げんじ)の[禾]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」をあらわす[倭]の字源をあらわすことになった。したがって卑弥呼王朝は、H図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(する)国名をG図の転回方位規定を示す[倭]に[人]の字が加わる「倭人国」と定めた。
(C) 2018 OHKAWA
この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[玄]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。
◆「文字」の[文]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字の字形)は倉頡の漢字作成原理をあらわして、I図に示すがごとく「十字の銀河」を「子宮に宿る子と腹部が円く大きくなった母体」に見立てた図案である。
(C) 2018 OHKAWA
また、J図に示すように「十字の銀河」は「すべての文字」をあらわす[宀(べん)]となり、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」が[子]の字源・字形・字義となり、[宀]に[子]が加わる[字]の字が作られて、倉頡が発明した漢字作成原理をあらわす図案となった。
(C) 2018 OHKAWA
注目すべきは、J図の[字]の字源解明図とG図に示した[禾]の字源解明図の「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河の状況」は同じということである。
倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
K図に示すように、「女性の生殖器(せいしょくき)の側身形(そくしんけい)」は「鳥(水鳥)の姿」に相似する。
(C) 2018 OHKAWA
L図に示すように、第7週頃の胎児の両目は獣(けだもの)のフタコブラクダの両目のごとく顔の両端にある。ゆえに、フタコブラクダは倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」をあらわし、「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
(C) 2018 OHKAWA
I図に示したように、「足跡」が連想される「十字の銀河の右足」に「すべての文字が生まれる十字の銀河の子宮が重なる」ゆえ、漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
◆[馬]の字源は「ウマ」ではなく、「フタコブラクダ」であった。ゆえに、『魏志』倭人伝には「その地には牛と馬は無し」という記事があり、「倭国には[馬]の字源のフタコブラクダは生息(せいそく)しない」と説明する。なお、[牛]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、「その地には[牛]は無し」つまり「倭にはジャコウウシは生息しなかった」ことになる。
H図の上部に、『魏志』倭人伝初頭に登場する「狗邪韓国(くやかんこく)」の所在地を示した。『魏志』倭人伝は「狗邪韓国から始めて一海(いっかい)の千余里を渡ると、対馬(つしま)国に至る」と記す。
M図に示すように、「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠(さばく)」を連想するということで、「十字の銀河」は[馬]の字源「フタコブラクダ」をあらわした。
(C) 2018 OHKAWA
N図に示す「長崎県の対馬の上島(かみしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は[馬]の字源「フタコブラクダのオス(の正面の姿)」に相似すると見立てられた。「対馬の下島(しもしま)の地宜」は[馬]の字源「フタコブラクダのメスの尻尾(しっぽ)側のコブ」に見立てられた。フタコブラクダのオスはメスの尻尾側のコブにまたがって性交する。ゆえに、「上島と下島」は[対]つまり「オスとメスの一対」をあらわすことになった。
(C) 2018 OHKAWA
フタコブラクダは中国北部にひろがるゴビ砂漠に住む人々にとっては欠くことのできないたいせつな家畜である。フタコブラクダの足の指はじょうぶで沙漠を歩くにつごうよくできており、N図の「対馬の下島の地宜(地図の形)」は倉頡が発明した「鳥獣の足跡」の「足跡」に合致する「フタコブラクダの足底の形」に相似すると見立てられた。ゆえに、「下島の北端」は「フタコブラクダの踵(かかと)」に相当し、「下島の南端」は「フタコブラクダ「蹄(ひづめ)がある二本の指先(ゆびさき)」に相似すると定められた。
これゆえ、『魏志』倭人伝は「対馬から南一海を渡って一大(いちだい)国に至る、その千余里の海の名は瀚海(かんかい)である」と記す。「瀚海」は「ゴビ砂漠」を意味する。ゆえに、「対馬の下島の地宜」は「フタコブラクダの足底」に見立てられたことになる。
B図に示したように、黄帝時代、「十字の銀河」は「中国全土各地の天頂」にめぐってきたので、O図に示すように[天]の字源となった。
(C) 2018 OHKAWA
2世紀初頭に成立した“字書の聖典(せいてん)”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[天]の字源・字形を「至高(しこう)にして上なし。一大(いちだい)に従う」と解説する。A図の右上に示した――[玄]=天頂緯度線は至高、つまり最も高くてそれ以上の天体部が無いゆえ――B図に示した「十字の銀河」は倉頡が発明した漢字作成原理における「至高にして上なしの銀河部」となる。ゆえに「一大に従う」の「一大」は、P図に示す「十字の銀河の子宮」であった。
(C) 2018 OHKAWA
女性の子宮は胎児(たいじ)の成長とともに大きくなるゆえ、P図に示すように「十字の銀河の子宮」は[一]の字源となり[大]をあらわすことになって「一大に従う」と定義(ていぎ)された。P図の「一大に従う」をあらわす「十字の銀河」はG図に示した「禾(か)・いね」とJ図に示した[宀(べん)]の向きと同じとなる。
Q図に示すように、「長崎県の壱岐(いき)」が「十字の銀河の子宮」に見立てられた小国「一大国」であった。
(C) 2018 OHKAWA
『魏志』倭人伝は一大国の次の小国について「また千余里の海を渡り、末盧(まつろ)国に至る」と説明する。
中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』は「三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いた記号の名は結縄(けつじょう)、倉頡が発明した漢字の名は書契(しょけい)と呼んだ」と記述する。「書契」は「木に文字を刻む」と意味すると伝わる。
R図に示すように、「十字の銀河の人体部となる部分より北側」は「縄の結び目」のごとくに観えるゆえ、三皇時代の易に用いられた記号は「結縄」と名づけられたと考えられる。そして「十字の銀河の人体部となる部分」は「木の切り株」に見立てられて「木に刻む文字」つまり「書契」と名づけられたことになる。
(C) 2018 OHKAWA
〔歳差〕によって、五帝時代初頭に黄帝陵の天頂にめぐってきて「十字の銀河の頭部」を貫通(かんつう)した北緯35度36分の緯度線(B図参照)は、R図に示すように時代が下るごとに南下して紀元前5世紀になると北緯35度36分の緯度線は「十字の銀河の子宮」を貫通した。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「来世(らいせ)」や「木の末端(まったん)」に見立てられて[末(まつ)]の字源となった。
「末盧」の[盧(ろ)]について、『説文解字』は「飯器(はんき)なり」つまり「米を煮(に)て飯(めし)を作る器具(土器)」と解説する。S図に示すように、今日の佐賀県・長崎県を占める旧国(きゅうこく)の「肥前(ひぜん)の北部の地宜」は[末]の字源「十字の銀河の子宮」と[盧]の字源「飯器」に相似する。また、「肥前南部の地宜」は「飯器を煮る燃える火」に相似すると見立てられて、「肥前」は「末盧国」と名づけられた。
(C) 2018 OHKAWA
◆『魏志』倭人伝は「末盧国から陸上を東南に五百里行くと伊都(いと)国に到着する」と記述する。『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓(みそぎはら)い説話に「伊都久(いつく)」という3字が記載され、この「伊都久」は〔音〕すなわち〔夏音文字〕であると注が付く。ゆえに、「伊都久」にもとづくと「伊都」は「いと」ではなく「いつ」と読んだ可能性がある。
「伊都久(いつく)」を楷書であらわすと[斎(いつく)]となる。
T図に示すように、[斎]の上部の[文]の字形はI図に示した「十字の銀河」の正面形を90度転回するものとなる。[斎の]下部は「十字の銀河の南北の乳房から垂れる三本線(三垂/さんすい)と[示]で形成される。
(C) 2018 OHKAWA
したがって、[斎]上部の[文]はG図に示した「十字の銀河と重なるいねの穂の[禾]・[委]・[倭]」の字源をあらわした。だから、夏音文字「伊都久」=楷書[斎]は、T図の左上に記したように[禾]・[委]・[倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
「伊都久」・「斎(いつ)く」は「心身をきよめ慎(つつし)んで神に奉仕する」を意味した。
上記したように、『魏志』倭人伝は「魏の都・帯方郡・諸韓国が楷書で書く文書と卑弥呼が(夏音文字で)書く文書は相違していたので、伊都国の津(つ/港)ではすべて点検し、確認して間違いないようにしていた」と伝える。卑弥呼が用いる夏音文字は上記した倉頡が(1)銀河から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は直(ただ)ちに死刑にすると定めた3つの掟を厳重にまもり、楷書は(1)と(2)の掟を厳重にまもっていた。これゆえ、伊都国を治める王は漢字が銀河から作られた学芸の神に伊都久(斎)・奉仕して諸国を威圧(いあつ)していたことになる。だから、『魏志』倭人伝は「女王国より以北に特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察(けんさつ)させているので、倭の諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている」と記す。
その証拠に『説文解字』は[斎]の下にある[示(じ)]の字源について「天、象(しょう)を垂れて吉凶(きっきょう)を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。三垂は日月星なり。(中略)。示とは神事(しんじ)なり」と解説する。『魏志』倭人伝は「倭の吉凶を占(うらな)う易の辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとくつまり甲骨文字における辞の法則のごとくであった」と伝えるゆえ、伊都国を治める一大率は夏音文字の易、すなわち鬼道(きどう)の神に奉仕してつかえる強力な大王であったことになる。
H図に示したように、一大率が住む伊都国は倭国の端にあり、魏の都や朝鮮半島に近い。 ということは、伊都国を治める一大率には魏と朝鮮半島から伝来する楷書が倭の国中に普及(ふきゅう)しないように水際(みずぎわ)でふせいで、楷書を政権基盤とする新王朝を創設(そうせつ)せんとする革命が起こらないように、倭の諸国を畏怖(いふ)させる役目を担(にな)っていたことになる。
白川静著『字統』は「伊都国」の[伊]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職者(せいしょくしゃ)の人をいう」と解説する。
また、白川静著『字統』は[尹]の字について「丨(こん)と又(手)とに従う。手に神杖をもつ形で、それをもつものは聖職者である。杖は神霊(しんれい)の憑(よ)りつくものであった」と解説する。
U図に示すように、[丨]の字源は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「神霊の憑りつく杖(つえ)、つまり神杖」に見立てられた。[又(ゆう/右手]の字源は「鬼の姿に似る銀河」である。
(C) 2018 OHKAWA
「杖」は師(先生)が言うことを聞かない弟子を罰するときに用いた。ゆえに、「神杖(神霊が憑りつく杖)」は「神意(神の意思)をあらわす法や制度を守らない人々に与える罰」をあらわした。この「神の罰(神杖)が手(右手)の鬼の姿に似る銀河に伝わる」が[尹]の字源となり、人偏が加わる[伊]は「神意を伝える(媒介する)聖職者」をあらわすことになった。
ゆえに、一大率は鬼神(きじん)の意思となる倉頡が定めた3つの掟を守らない人々に神罰を与える、倭女王卑弥呼と共に立って倭王朝を支(ささ)える大王であったことになる。
U図に示すように、「伊都国」の[都]の字源は「十字の銀河の子宮」である。Q図に示したように、[都]の字源の「十字の銀河の子宮」は「一大」の語源であった。
白川静著『字統』は「伊都国」の[都]の字源について「者は祝祷(しゅくとう)の器(き)である曰(えつ)を土中に埋めた形。聚落(しゅうらく)の周辺にめぐらした堰堤(えんてい)の要所(ようしょ)に、呪禁(じゅきん)として呪符(じゅふ)を埋めたもので、これを堵(と)といいう。(中略)。堵をめぐらした武装都市をいうものであろう」と解説する。この『字統』の[都]の解説にもとづくと、夏音文字の「伊都久」の[都]は――祝い祈祷(きとう)する器(土器)の[曰]の字源は「一大」の語源でもある「十字の銀河の子宮」であり、倉頡が発明した「漢字作成原理」の秘密を厳重にまもる諸国が畏れる強力な大王が居住する武装都市――と意味する字であったにちがいない。
現在方位だと肥前・佐賀県の松浦(まつうら)市と筑前・福岡県の糸島(いとしま)市の前原(まえばる)は〔東北〕となるため、『魏志』倭人伝の「末盧国の〔東南〕に陸を五百里行くと伊都国に到着する」という記事に合致しない。
しかし、V図に示すように「伊都久」=[斎]の字形=[倭]の字源となる転回方位だと松浦市と糸島市前原は〔東南〕となるゆえ、『魏志』倭人伝の記事に合致する。
(C) 2018 OHKAWA
◆『魏志』倭人伝は「伊都国から東南の奴(な)国には百里で至る」と記述する。ゆえに、V図に示したように[倭]の字源の転回方位で糸島市前原から東南となる福岡市の香椎宮(かしいみや)が奴国の旅程基点(りょていきてん)であったと考えられる。
福岡市の北端(ほくたん)から伊都国の糸島半島に向かって斜(なな)めに伸びる海ノ中道(うむのなかみち)の先端には、志賀島(しかのしま)が所在する。志賀島から「漢委奴国王」という5字が刻まれた金印が出土している。
『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には「建武中元(けんむちゅうげん)二年(西暦57年)、倭の奴国、奉賀朝貢(ほうがちょうこう)す。使人(しじん)自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以(もっ)てす」と伝える記事があり、志賀島から出土した金印は光武帝が授けた金印であると考えられている。これゆえ志賀島から出土した金印に刻まれた5文字は「漢の委(わ/倭)の奴(な)の国王」と読むのが定説となる。
しかし『後漢書』倭伝の文中にある「極南界」を「はるか遠くの九州南端の地」と解釈して、九州南端ではない志賀島から出土した金印は光武帝から与えられたものではないと疑う学者も存在する。
W図に示すように、海ノ中道の端は〔南〕、この〔南〕から繋(つな)がる志賀島は〔西〕へ転回して、G図で証明した[委]の字源をあらわす。
(C) 2018 OHKAWA
ゆえに、海ノ中道と志賀島が繋がる〔南〕の地点が「極南界」であり、またF図に示した「十字の銀河の南端」が「極南界」ということになる。というのも、V図の右下にある「海ノ中道」はF図の[委]の字源〔南→西〕を示す「十字の銀河の子宮が重なる右足(西側の足)」に相当すると見立てられたからである。
志賀島における最も高い潮見台(しおみだい)に立つと、玄界灘に面した北岸の男性的な景観と、博多湾側(はかたわんがわ)の女性的な景観の対比が見られる。博多湾は女性の生殖器(せいしょくき)をまもる骨盤(こつばん)のような形をしている。だから、「海ノ中道と志賀島」がG図の[禾]、「博多湾」が[女]をあらわして[委]の字をあらわすことになった。
志賀島の高台(たかだい)には、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)を祭る志賀海(しかうみ)神社がある。上記した『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓い説話は「底津綿津見神と中津綿津見神と上津(うわつ)綿津見神の三柱(みはしら)の綿津見神は、阿曇蓮等(あづみのむらじら)の祖神(おやかみ)と伊都久(いつく)神なり」と記す。阿曇(安曇)氏は志賀島を本拠地とした海人族であった。
前述したように「海ノ中道と志賀島」が[禾]、「博多湾」が[女]をあらわして[委]の字源をあらわした。ゆえに『後漢書』倭伝の使者が「倭国の極南界なり」と伝えた言葉は「わが国には倉頡が発明した漢字作成原理の[委]や[倭]の字源をあらわす聖地・極南界が所在する」と意味したことになる。
「海ノ中道」はU図に示した[又]つまり「神杖をもつ右手」となる。[又]の字源銀河は「鬼の姿に似る」である。
だから、X図の右側に配した[又]の字音は[右]と同じく「ゆう」である。[又]の金文形の左にある「渦巻き」はX図の左図の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図案である。
(C) 2018 OHKAWA
D図に示した「頭が誕生する生子(せいし)」は、J図の[子]の字源「頭が誕生する生子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」である。ゆえに、[子]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「女性の生殖器」をあらわすことになって[女]の字源でもあった。
したがって、X図の「鬼の姿に似る銀河」は[女]に[又]が加わる[奴]の字源であった。だから、「海ノ中道・志賀島と博多湾の地宜(地図の形)」は[委]と[奴]の字をあらわした。
ゆえに、V図に示す西暦57年の時に委(倭)の奴国であった志賀島・海ノ中道・福岡市は、『魏志』倭人伝が伊都国の次に説明した奴国であったことになる。
[奴]の下に[心]を加えると[怒(ど)]の字となる。胎児(だいじ)を娩出(べんしゅつ)するとき、母体には大声をあげていきみ・きばる怒責(どせき)がおこる。また、乾(かわ)いて固くなった土を耕すときには、怒って大声を挙げると強い大きな力を生み出すことができる。ゆえに、[奴]は「母体が子ども生む時、あるいは固い土を耕す時の強大な力」をあらわした。
『魏志』倭人伝は奴国について「二万余戸がある」と伝える。当時は1戸に5~6人が住んでいたと考えられるゆえ、奴国の人口は10万~13、14万人であったことになる。当時の人口密度から考えると、奴国の範囲は――Y図に示すように、阿蘇山(あそざん)がある熊本県までの広い地域であったと推測される。阿蘇山は世界的に有名な活火山であり、およそ10数万年から数回第噴火するものであったから、卑弥呼が生存した当時も噴煙を上げる怒る山、地下から巨大な力が生まれる[奴]の字を示す活火山であった。ゆえに奴国の範囲は、Y図に示すように熊本県までひろがると考えるべきことになる。
以上のごとく、対馬国から奴国までの小国名は倉頡が発明した漢字作成原理をあらわし、また各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)は小国名に用いられる漢字の字源・字形・字義に合致する。
ということは、学者たちがこぞって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀」であると断定する定説は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国には夏代初頭に習得された夏音文字が存在した」と伝える記事を誤読し、この〔誤読〕を自由自在にあやつって、きわめて重大な事実を排除した空論・真っ赤なウソであったことになる。
最近のコメント