G-T0XYQT12LL 経済・政治・国際: 卑弥呼の逆襲

経済・政治・国際

2018年4月30日 (月)

漢字習得定説のウソ・9

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・1
■対馬国から奴国までの小国名の字源の解説

このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明して起源した事実を詳細に解説して証明した。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 
 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と思い違い、さらに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国は倉頡の漢字の発明を保存する夏音文字を習得した」と伝える記事を誤読して立論した虚偽説によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされることになった。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 しかし、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝は、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。
ということは、『魏志』倭人伝は「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であったことになる。

712(和銅5)正月28日、元明(げんめい)天皇に『古事記』が献呈(けんてい)されたが、天皇は『古事記』を正史(せいし)として認めなかった。というのも、『古事記』上巻には朝廷が最も崇拝する至上神(しじょうじん)の皇祖(こうそ)・天照大御神の聖性(せいせい)をいちじるしく汚す歴史が記述されていたからである。
 『古事記』が成立する10年前の702年、第7回遣唐使(けんとうし)が派遣(はけん)された。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――遣唐使が中国の王朝に「後稍夏音(のちややかおん)を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」と語った――という記事がある。
 この記事は――天武(てんむ)天皇は、壬申(じんしん)の乱の後、「稍(やや/少しだけ)夏音文字を習って(復興して)、小国・日本が誕生した時に国作りの柱を〔愛〕にすると伊耶那美命(いざなみのみこと)がとなえた歴史と、この【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して倭女王伊耶那美命の没後に倭女王を受け継いだ天照大御神が多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)の歴史を削除(さくじょ)して、夏音文字を政権基盤にして強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた天照大御神を絶賛する偽書(ぎしょ)を作成せよ」と命令した――と伝えるものであった。
 したがって、上記した『新唐書』日本伝の「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。(中略)。日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」という記事は――倭女王の天照大御神がおこなった残虐(ざんぎゃく)な徇葬を人民は憎悪して倭という国号を憎み、人民は伊耶那美命が小国・日本の女王となった時に国作りの柱を〔愛〕と定めた、この「日本」という名に国号を改めることを熱望した。小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと・後の第9代開化天皇)は愛する正妃(せいひ)の伊耶那美命が没すると、倭女王を受けついだ第二后(きさき)の天照大御神がおこなった徇葬を怒り、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に徇葬者とともに埋められた伊耶那美命の亡骸(なきがら)をおさめる棺(ひつぎ)を奪うクーデターをおこし、逃げる伊耶那岐命・日本兵士たち一行を追跡した倭の大軍を熊野速玉大社の境内(けいだい)となった地に誘導(ゆうどう)する作戦をもって撃破(げきは)し、千引石(ちびきのいわ/速玉大社から約1km南にある現在の和歌山県新宮市の神倉神社のご神体の巨大なごとびき岩)の前で捕虜(ほりょ)となった天照大御神と離縁して天照大御神を倭女王から失脚(しっきゃく)させ、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ国政を行うと宣誓(せんせい)して、伊耶那岐命は小国・日本と倭を併合(へいごう)する大王となった――と伝えるものであった。
 上記した歴史は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問(よみのくにほうもん)説話に記述された。この説話において、残虐な徇葬をおこなって伊耶那岐命から離縁された倭女王の名を「天照大御神」と記載すると、『古事記』は朝廷の怒りにふれて正史になれない。これゆえ、編纂スタッフは天武天皇の「偽書を作成せよ」という命令にしたがったかごとく見せかけて、「伊耶那美命」という名に[]1字を加えて「天照大御神」の名を「伊耶那美神命」という偽名を記した。天照大御神(伊耶那美神命)が離縁された千引石の前には、現在、神倉(かんのくら)神社の社殿が建造され、神倉神社は天照大御神を祭って『古事記』に「伊耶那美神命」と記述された伊耶那岐命の妻は「天照大御神」であたった――と、真実の歴史を現在に伝える。

◆『古事記』の「序」の真ん中に〔天武天皇の歴史書(『古事記』)撰録(せんろく)の企(くわだ)て〕という記事がある。この記事は――天武天皇が「私が聞くところによると、諸家で受け継ぎ伝える帝紀(天皇家の系譜を中心とした記録)と旧辞(きゅうじ/夏音文字で記述された歴史書。『古事記』上巻の原典)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。いまこの時において、その誤りを改めないならば、幾年もたたないうちに、その旨(むね)は滅びてしまうであろう。この帝紀と旧辞は、国家組織の基本であり、天皇政治の政権基盤である。ゆえに、帝紀を書物として著(あらわ)し、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と仰(おっしゃ)った――と伝える。
 天武天皇は強大な権力を最も重視する天照大御神の政策を受け継いだ。このため、天皇の権力は絶大となり、天皇自身は神格化されるようになった。ゆえに、天皇の「天皇家の系譜を中心とした楷書で書く帝紀を書物にし、夏音文字で記述する旧辞をよく調べて、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」という言は「皇祖の天照大御神は夏音文字の学芸を政権基盤として大和王朝の基礎をきづいた。この天照大御神の事績(じせき)を伝える旧辞の夏音文字の記事をすべて削除すると、朝廷の政権基盤である夏音文字の学芸が時とともに衰退する。この衰退をふせぐために夏音文字を稍々(やや/少しだけ)残すようにせよ。なれど、旧辞に夏音文字で記述された伊耶那美命と伊耶那美命の歴史はすべて削除(さくじょ)して、天照大御神を絶賛する歴史書を著作せよ」と命令したことになる。
 ゆえに702年に派遣された遣唐使は、天武天皇の歴史書作成の命令を「後稍夏音を習う」と短く省略して、中国王朝に告げたことになる。
 この天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に反して『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載され、この夏音文字を銀河の形状に変換すれば天武天皇が抹殺(まっさつ)しようとした【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史が蘇(よみがえ)る巧妙(こうみょう)な仕組みになっている。したがって、『古事記』上巻は天武天皇の「稍夏音を習う」という命令に逆(さか)らって真実を伝える歴史書であった。だから、元明天皇は『古事記』献呈を拒否(きょひ)したのである。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく夏音文字が随所(ずいしょ)に記載され、この夏音文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された。
 夏音文字の習得については、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と説明するものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷は、皇祖の天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)す日本国誕生史は後世に絶対に伝えてはならないと禁じた。このため、編纂(へんさん)スタッフは天武帝の『稍夏音を習う』という命令にヒントを得て一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字を多数記載して、夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が蘇る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が明らかとなる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を具体的(ぐたいてき)に伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は『魏志』倭人伝と同じく「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を証明できる文献であったのである。

◆人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の11分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131

(C) 2018 OHKAWA

 だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
K132
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
K23
(C) 2018 OHKAWA
 
 
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
K191
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
K192
(C) 2018 OHKAWA
 
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
K193
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []は「いね()の形」をあらわす図案である。
K194
(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。この「黄帝の徳政」について、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)は「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」と記述する。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」をあらわす[]の字源をあらわすことになった。したがって卑弥呼王朝は、H図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(する)国名をG図の転回方位規定を示す[][]の字が加わる「倭人国」と定めた。
K195

(C) 2018 OHKAWA
 
 この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。

◆「文字」の[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字の字形)は倉頡の漢字作成原理をあらわして、I図に示すがごとく「十字の銀河」を「子宮に宿る子と腹部が円く大きくなった母体」に見立てた図案である。
K211

(C) 2018 OHKAWA
 
 また、J図に示すように「十字の銀河」は「すべての文字」をあらわす[(べん)]となり、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わる[]の字が作られて、倉頡が発明した漢字作成原理をあらわす図案となった。
K212
(C) 2018 OHKAWA
 
 注目すべきは、J図の[]の字源解明図とG図に示した[]の字源解明図の「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河の状況」は同じということである。
 倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 K図に示すように、「女性の生殖器(せいしょくき)の側身形(そくしんけい)」は「鳥(水鳥)の姿」に相似する。
K213
(C) 2018 OHKAWA
 
 L図に示すように、第7週頃の胎児の両目は獣(けだもの)のフタコブラクダの両目のごとく顔の両端にある。ゆえに、フタコブラクダは倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の「獣」をあらわし、「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣(せいじゅう)となった。
K214

(C) 2018 OHKAWA
 
 I図に示したように、「足跡」が連想される「十字の銀河の右足」に「すべての文字が生まれる十字の銀河の子宮が重なる」ゆえ、漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。

[]の字源は「ウマ」ではなく、「フタコブラクダ」であった。ゆえに、『魏志』倭人伝には「その地には牛と馬は無し」という記事があり、「倭国には[]の字源のフタコブラクダは生息(せいそく)しない」と説明する。なお、[]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、「その地には[]は無し」つまり「倭にはジャコウウシは生息しなかった」ことになる。
 H図の上部に、『魏志』倭人伝初頭に登場する「狗邪韓国(くやかんこく)」の所在地を示した。『魏志』倭人伝は「狗邪韓国から始めて一海(いっかい)の千余里を渡ると、対馬(つしま)国に至る」と記す。
 M図に示すように、「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠(さばく)」を連想するということで、「十字の銀河」は[]の字源「フタコブラクダ」をあらわした。
K215

(C) 2018 OHKAWA

 N図に示す「長崎県の対馬の上島(かみしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は[]の字源「フタコブラクダのオス(の正面の姿)」に相似すると見立てられた。「対馬の下島(しもしま)の地宜」は[]の字源「フタコブラクダのメスの尻尾(しっぽ)側のコブ」に見立てられた。フタコブラクダのオスはメスの尻尾側のコブにまたがって性交する。ゆえに、「上島と下島」は[]つまり「オスとメスの一対」をあらわすことになった。
K216
(C) 2018 OHKAWA
 
 フタコブラクダは中国北部にひろがるゴビ砂漠に住む人々にとっては欠くことのできないたいせつな家畜である。フタコブラクダの足の指はじょうぶで沙漠を歩くにつごうよくできており、N図の「対馬の下島の地宜(地図の形)」は倉頡が発明した「鳥獣の足跡」の「足跡」に合致する「フタコブラクダの足底の形」に相似すると見立てられた。ゆえに、「下島の北端」は「フタコブラクダの踵(かかと)」に相当し、「下島の南端」は「フタコブラクダ「蹄(ひづめ)がある二本の指先(ゆびさき)」に相似すると定められた。
 これゆえ、『魏志』倭人伝は「対馬から南一海を渡って一大(いちだい)国に至る、その千余里の海の名は瀚海(かんかい)である」と記す。「瀚海」は「ゴビ砂漠」を意味する。ゆえに、「対馬の下島の地宜」は「フタコブラクダの足底」に見立てられたことになる。
 B図に示したように、黄帝時代、「十字の銀河」は「中国全土各地の天頂」にめぐってきたので、O図に示すように[]の字源となった。
K221
(C) 2018 OHKAWA
 
 2世紀初頭に成立した“字書の聖典(せいてん)”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源・字形を「至高(しこう)にして上なし。一大(いちだい)に従う」と解説する。A図の右上に示した――[]=天頂緯度線は至高、つまり最も高くてそれ以上の天体部が無いゆえ――B図に示した「十字の銀河」は倉頡が発明した漢字作成原理における「至高にして上なしの銀河部」となる。ゆえに「一大に従う」の「一大」は、P図に示す「十字の銀河の子宮」であった。
K222
(C) 2018 OHKAWA
 
 女性の子宮は胎児(たいじ)の成長とともに大きくなるゆえ、P図に示すように「十字の銀河の子宮」は[]の字源となり[]をあらわすことになって「一大に従う」と定義(ていぎ)された。P図の「一大に従う」をあらわす「十字の銀河」はG図に示した「禾()・いね」とJ図に示した[(べん)]の向きと同じとなる。
 Q図に示すように、「長崎県の壱岐(いき)」が「十字の銀河の子宮」に見立てられた小国「一大国」であった。
K223
(C) 2018 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝は一大国の次の小国について「また千余里の海を渡り、末盧(まつろ)国に至る」と説明する。
 中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典の『易経(えききょう)』は「三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いた記号の名は結縄(けつじょう)、倉頡が発明した漢字の名は書契(しょけい)と呼んだ」と記述する。「書契」は「木に文字を刻む」と意味すると伝わる。
 R図に示すように、「十字の銀河の人体部となる部分より北側」は「縄の結び目」のごとくに観えるゆえ、三皇時代の易に用いられた記号は「結縄」と名づけられたと考えられる。そして「十字の銀河の人体部となる部分」は「木の切り株」に見立てられて「木に刻む文字」つまり「書契」と名づけられたことになる。
K224
(C) 2018 OHKAWA
 
 〔歳差〕によって、五帝時代初頭に黄帝陵の天頂にめぐってきて「十字の銀河の頭部」を貫通(かんつう)した北緯3536分の緯度線(B図参照)は、R図に示すように時代が下るごとに南下して紀元前5世紀になると北緯3536分の緯度線は「十字の銀河の子宮」を貫通した。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「来世(らいせ)」や「木の末端(まったん)」に見立てられて[(まつ)]の字源となった。
 「末盧」の[()]について、『説文解字』は「飯器(はんき)なり」つまり「米を煮()て飯(めし)を作る器具(土器)」と解説する。S図に示すように、今日の佐賀県・長崎県を占める旧国(きゅうこく)の「肥前(ひぜん)の北部の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮」と[]の字源「飯器」に相似する。また、「肥前南部の地宜」は「飯器を煮る燃える火」に相似すると見立てられて、「肥前」は「末盧国」と名づけられた。
K225
(C) 2018 OHKAWA

◆『魏志』倭人伝は「末盧国から陸上を東南に五百里行くと伊都(いと)国に到着する」と記述する。『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓(みそぎはら)い説話に「伊都久(いつく)」という3字が記載され、この「伊都久」は〔音〕すなわち〔夏音文字〕であると注が付く。ゆえに、「伊都久」にもとづくと「伊都」は「いと」ではなく「いつ」と読んだ可能性がある。
 「伊都久(いつく)」を楷書であらわすと[(いつく)]となる。
 T図に示すように、[]の上部の[]の字形はI図に示した「十字の銀河」の正面形を90度転回するものとなる。[斎の]下部は「十字の銀河の南北の乳房から垂れる三本線(三垂/さんすい)[]で形成される。
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 したがって、[]上部の[]はG図に示した「十字の銀河と重なるいねの穂の[][][]」の字源をあらわした。だから、夏音文字「伊都久」=楷書[]は、T図の左上に記したように[][][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 「伊都久」・「斎(いつ)く」は「心身をきよめ慎(つつし)んで神に奉仕する」を意味した。
 上記したように、『魏志』倭人伝は「魏の都・帯方郡・諸韓国が楷書で書く文書と卑弥呼が(夏音文字で)書く文書は相違していたので、伊都国の津(/)ではすべて点検し、確認して間違いないようにしていた」と伝える。卑弥呼が用いる夏音文字は上記した倉頡が
(1)銀河から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は直(ただ)ちに死刑にすると定めた3つの掟を厳重にまもり、楷書は(1)(2)の掟を厳重にまもっていた。これゆえ、伊都国を治める王は漢字が銀河から作られた学芸の神に伊都久()・奉仕して諸国を威圧(いあつ)していたことになる。だから、『魏志』倭人伝は「女王国より以北に特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察(けんさつ)させているので、倭の諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている」と記す。
 その証拠に『説文解字』は[]の下にある[()]の字源について「天、象(しょう)を垂れて吉凶(きっきょう)を見(しめ)す。人に示す所以(ゆえん)なり。(中略)。三垂は日月星なり。(中略)。示とは神事(しんじ)なり」と解説する。『魏志』倭人伝は「倭の吉凶を占(うらな)う易の辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとくつまり甲骨文字における辞の法則のごとくであった」と伝えるゆえ、伊都国を治める一大率は夏音文字の易、すなわち鬼道(きどう)の神に奉仕してつかえる強力な大王であったことになる。
 H図に示したように、一大率が住む伊都国は倭国の端にあり、魏の都や朝鮮半島に近い。 ということは、伊都国を治める一大率には魏と朝鮮半島から伝来する楷書が倭の国中に普及(ふきゅう)しないように水際(みずぎわ)でふせいで、楷書を政権基盤とする新王朝を創設(そうせつ)せんとする革命が起こらないように、倭の諸国を畏怖(いふ)させる役目を担(にな)っていたことになる。
 白川静著『字統』は「伊都国」の[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職者(せいしょくしゃ)の人をいう」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「丨(こん)と又()とに従う。手に神杖をもつ形で、それをもつものは聖職者である。杖は神霊(しんれい)の憑()りつくものであった」と解説する。
 U図に示すように、[]の字源は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「神霊の憑りつく杖(つえ)、つまり神杖」に見立てられた。[(ゆう/右手]の字源は「鬼の姿に似る銀河」である。
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 「杖」は師(先生)が言うことを聞かない弟子を罰するときに用いた。ゆえに、「神杖(神霊が憑りつく杖)」は「神意(神の意思)をあらわす法や制度を守らない人々に与える罰」をあらわした。この「神の罰(神杖)が手(右手)の鬼の姿に似る銀河に伝わる」が[]の字源となり、人偏が加わる[]は「神意を伝える(媒介する)聖職者」をあらわすことになった。
 ゆえに、一大率は鬼神(きじん)の意思となる倉頡が定めた3つの掟を守らない人々に神罰を与える、倭女王卑弥呼と共に立って倭王朝を支(ささ)える大王であったことになる。
 U図に示すように、「伊都国」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。Q図に示したように、[]の字源の「十字の銀河の子宮」は「一大」の語源であった。
 白川静著『字統』は「伊都国」の[]の字源について「者は祝祷(しゅくとう)の器()である曰(えつ)を土中に埋めた形。聚落(しゅうらく)の周辺にめぐらした堰堤(えんてい)の要所(ようしょ)に、呪禁(じゅきん)として呪符(じゅふ)を埋めたもので、これを堵()といいう。(中略)。堵をめぐらした武装都市をいうものであろう」と解説する。この『字統』の[]の解説にもとづくと、夏音文字の「伊都久」の[]は――祝い祈祷(きとう)する器(土器)[]の字源は「一大」の語源でもある「十字の銀河の子宮」であり、倉頡が発明した「漢字作成原理」の秘密を厳重にまもる諸国が畏れる強力な大王が居住する武装都市――と意味する字であったにちがいない。

 現在方位だと肥前・佐賀県の松浦(まつうら)市と筑前・福岡県の糸島(いとしま)市の前原(まえばる)は〔東北〕となるため、『魏志』倭人伝の「末盧国の〔東南〕に陸を五百里行くと伊都国に到着する」という記事に合致しない。
 しかし、V図に示すように「伊都久」=[]の字形=[]の字源となる転回方位だと松浦市と糸島市前原は〔東南〕となるゆえ、『魏志』倭人伝の記事に合致する。
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◆『魏志』倭人伝は「伊都国から東南の奴()国には百里で至る」と記述する。ゆえに、V図に示したように[]の字源の転回方位で糸島市前原から東南となる福岡市の香椎宮(かしいみや)が奴国の旅程基点(りょていきてん)であったと考えられる。
 福岡市の北端(ほくたん)から伊都国の糸島半島に向かって斜(なな)めに伸びる海ノ中道(うむのなかみち)の先端には、志賀島(しかのしま)が所在する。志賀島から「漢委奴国王」という5字が刻まれた金印が出土している。
 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には「建武中元(けんむちゅうげん)二年(西暦57)、倭の奴国、奉賀朝貢(ほうがちょうこう)す。使人(しじん)自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以(もっ)てす」と伝える記事があり、志賀島から出土した金印は光武帝が授けた金印であると考えられている。これゆえ志賀島から出土した金印に刻まれた5文字は「漢の委(/)の奴()の国王」と読むのが定説となる。
 しかし『後漢書』倭伝の文中にある「極南界」を「はるか遠くの九州南端の地」と解釈して、九州南端ではない志賀島から出土した金印は光武帝から与えられたものではないと疑う学者も存在する。
 W図に示すように、海ノ中道の端は〔南〕、この〔南〕から繋(つな)がる志賀島は〔西〕へ転回して、G図で証明した[]の字源をあらわす。
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 ゆえに、海ノ中道と志賀島が繋がる〔南〕の地点が「極南界」であり、またF図に示した「十字の銀河の南端」が「極南界」ということになる。というのも、V図の右下にある「海ノ中道」はF図の[]の字源〔南→西〕を示す「十字の銀河の子宮が重なる右足(西側の足)」に相当すると見立てられたからである。
 志賀島における最も高い潮見台(しおみだい)に立つと、玄界灘に面した北岸の男性的な景観と、博多湾側(はかたわんがわ)の女性的な景観の対比が見られる。博多湾は女性の生殖器(せいしょくき)をまもる骨盤(こつばん)のような形をしている。だから、「海ノ中道と志賀島」がG図の[]、「博多湾」が[]をあらわして[]の字をあらわすことになった。
 志賀島の高台(たかだい)には、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)を祭る志賀海(しかうみ)神社がある。上記した『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓い説話は「底津綿津見神と中津綿津見神と上津(うわつ)綿津見神の三柱(みはしら)の綿津見神は、阿曇蓮等(あづみのむらじら)の祖神(おやかみ)と伊都久(いつく)神なり」と記す。阿曇(安曇)氏は志賀島を本拠地とした海人族であった。
 前述したように「海ノ中道と志賀島」が[]、「博多湾」が[]をあらわして[]の字源をあらわした。ゆえに『後漢書』倭伝の使者が「倭国の極南界なり」と伝えた言葉は「わが国には倉頡が発明した漢字作成原理の[][]の字源をあらわす聖地・極南界が所在する」と意味したことになる。
 「海ノ中道」はU図に示した[]つまり「神杖をもつ右手」となる。[]の字源銀河は「鬼の姿に似る」である。
 だから、X図の右側に配した[]の字音は[]と同じく「ゆう」である。[]の金文形の左にある「渦巻き」はX図の左図の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図案である。
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 D図に示した「頭が誕生する生子(せいし)」は、J図の[]の字源「頭が誕生する生子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」である。ゆえに、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「女性の生殖器」をあらわすことになって[]の字源でもあった。
 したがって、X図の「鬼の姿に似る銀河」は[][]が加わる[]の字源であった。だから、「海ノ中道・志賀島と博多湾の地宜(地図の形)」は[][]の字をあらわした。
 ゆえに、V図に示す西暦57年の時に委()の奴国であった志賀島・海ノ中道・福岡市は、『魏志』倭人伝が伊都国の次に説明した奴国であったことになる。
 []の下に[]を加えると[()]の字となる。胎児(だいじ)を娩出(べんしゅつ)するとき、母体には大声をあげていきみ・きばる怒責(どせき)がおこる。また、乾(かわ)いて固くなった土を耕すときには、怒って大声を挙げると強い大きな力を生み出すことができる。ゆえに、[]は「母体が子ども生む時、あるいは固い土を耕す時の強大な力」をあらわした。
 『魏志』倭人伝は奴国について「二万余戸がある」と伝える。当時は1戸に56人が住んでいたと考えられるゆえ、奴国の人口は10万~1314万人であったことになる。当時の人口密度から考えると、奴国の範囲は――Y図に示すように、阿蘇山(あそざん)がある熊本県までの広い地域であったと推測される。阿蘇山は世界的に有名な活火山であり、およそ10数万年から数回第噴火するものであったから、卑弥呼が生存した当時も噴煙を上げる怒る山、地下から巨大な力が生まれる[]の字を示す活火山であった。ゆえに奴国の範囲は、Y図に示すように熊本県までひろがると考えるべきことになる。
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  以上のごとく、対馬国から奴国までの小国名は倉頡が発明した漢字作成原理をあらわし、また各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)は小国名に用いられる漢字の字源・字形・字義に合致する。
 ということは、学者たちがこぞって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀」であると断定する定説は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国には夏代初頭に習得された夏音文字が存在した」と伝える記事を誤読し、この〔誤読〕を自由自在にあやつって、きわめて重大な事実を排除した空論・真っ赤なウソであったことになる。

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2018年4月13日 (金)

漢字習得定説のウソ・6

 ●『易経』繋辞下伝にある漢字起源記事

「銀河」の別名は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実を、このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~前回(5)まで一貫して証明してきた。今回も、この証明をおこなう。
 紀元前3000年頃、中国の五帝時代初頭、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」という名の漢字作成原理を発明した。
 また倉頡は、下の写真の銀河範囲の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。

◆上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「漢字が文字作成銀河各部の形状から作られた事実」を証明するためには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音文字であり、この夏音文字を利用して後世に真実の歴史を伝える方法で『古事記』上巻は著作されたからである。
 夏音文字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。この夏音文字の伝来と習得については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と伝えるものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた日本国誕生史の真実を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して真実の歴史を知ることができる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を伝える歴史書であり、また証明できる文献(ぶんけん)であった。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」である。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝えている。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字も倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた、『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。

 ということは、『魏志』倭人伝も『古事記』同様に「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であった。

◆人類は原始の時から、A図右上に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
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 中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。しかし、シナ天文が完成する以前の紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)に日本列島に存在する蓬莱山(ほうらいさん)の不老長寿の霊薬(れいやく)を探してくるように命じられた徐福(じょふく)は、青年男女数千人をひきいて大海を渡って日本列島の蓬莱山に到着した。しかし、この日本列島の蓬莱山には不老長寿の霊薬となる樹木が生えておらず手に入れることができなかったので死刑をおそれて徐福は日本列島に定住した――と、司馬遷(しばせん)が著作した『史記(しき)』や『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は伝える。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」がめぐってきた。
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 B図の下部にある「四つ目の銀河」を、C図に示した。C図に示したように「鬼の横顔に似る銀河の両目と首(後頭部とアゴ)につく両目」で「目が四つ」ある。こ「四つの目」の銀河を「四つ目の銀河」と名づけることにした。
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 倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は、C図に示すように「銀河から漢字が作られた事実」を伝える語であった。ところが、学者たちは「人間には目が四つ無い。デタラメだ」と鬼の首でも取ったかのごとく声高(こえだか)にケチをつけ「倉頡伝説は空想だ、ウソだ」と主張して事実を抹殺(まっさつ)した。このため、今日、「銀漢から作られた文字」であるから「漢字」と呼ばれる実体が不明となったのである。

◆倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)に宿(やど)る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明したのである。
 B図に示したように、「十字の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきた。したがって、「十字の銀河」は、[]のキャッチによって中国各地の天頂緯度が測量できる羅針盤(らしんばん)となった。
 D図に示すように、「十字の銀河」の西側には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に見立てた。
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 そして、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られた万物の情(じょう/イメージ)をあらわすすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 E図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に子が宿る、おなかが前へつき出て円くなる妊婦の姿」をあらわす図案である。
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 F図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源となった。
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 このように、倉頡は漢字を作る範囲を秋に長時間見ることができる「秋の銀河の西部」と夏に長時間見ることができる「夏の銀河」と定めた。この漢字の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。(ゆえに、「春の銀河」と「冬の銀河」と「秋の銀河の東部」は「文字作成銀河」ではない)
 倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」について、学者たちは「漢字を作るヒントとなった雪や土の上に残る鳥や獣の足跡」と解釈するが、この意見はまちがっている。「鳥獣の足跡」は倉頡が「文字作成銀河各部の形状から作られた万物の情に類似するすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」と定めた漢字作成原理の名称であった。

◆倉頡伝説は正しく漢字が起源した歴史を伝えた。しかし、中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典(こてん)の『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は「漢字を発明したのは、三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏の王であった」と誤って伝える。
 また、『易経』繋辞下伝は倉頡について「上古の三皇時代は包犧氏が考案した結縄(けつじょう)をもって天下を治めたが、後世の聖人の倉頡が書契(しょけい)を発明して易()えた」とも記述する。この記事は正しい。
 『易経』繋辞下伝の漢字の起源を伝える前者の「包犧氏の王が漢字作成原理を考案した」という記事は矛盾(むじゅん)し明らかに誤っている。
 この誤りを伝える『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は、下記のごとくである。
 「古者(いにしえ)包犧氏の王たるや、仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観、近くは諸(これ)を身()に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明(しんめい)の徳に通じ、もって万物の情に類(るい)して結縄を作った。」
 E図に示した[]の金文形は、黄帝の医学研究をあらわして「十字の銀河」を「胎児が宿る、円いおなかを有する妊婦の姿」を表現した図案である。この[]の金文形の図案は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の理論をあらわす。だから、倉頡は「子宮に子が宿る妊婦」に見立てた「十字の銀河」を[]の字源・字形・字義と定めたゆえ、上記した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は漢字作成原理を「鳥獣の文」と記したのである。しかし、包犧氏の王は女性の生殖器や子宮に宿る胎児(たいじ)の研究をおこなわなかった。だから、『易経』繋辞下伝の記事は矛盾して不合理で、事実を伝えていないことになる。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の誤りを修正すると、下記のごとくなる。
 「女性の生殖器や子宮に宿る子の様子を研究した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡は仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文(漢字作成原理となった「十字の銀河」)と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る(ことにした)。ここにおいて始めて八卦を作り、神明の徳に通じ、万物の情に類する(起源漢字の)書契を作った。」

◆『易経』繋辞下伝の漢字起源記事のおける「仰いでは天象を観る」の「天象」の[]の字源について、“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。「至高にして上なし」とはA図の右上の[]における「最も高くて、それ以上の上がない天頂緯度線」のことであり、B図の上部の「十字の銀河」をあらわした。「十字の銀河」は五帝時代初頭から紀元前3世紀頃まで中国各地の天頂にめぐってきたが、『説文解字』が成立した2世紀初頭においては中国各地の天頂より少し北側を子午線通過した。しかし、後世において新しい漢字を作る時には――倉頡が発明した「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、B図に示した黄帝時代の天文状況で漢字を作ると定められていた。だから、「十字の銀河」が天頂を通過しなかった後漢時代に著作された『説文解字』の[]の解説は誤っておらず、正しいことになる。
 したがって、G図に示すように、倉頡が発明した「鳥獣の足跡」に則り、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半の契文(けいぶん/亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字)も紀元前1046年から始まる周代(しゅうだい)の金文においても、別の銀河部を[]の字源・字形・字義と定めることをせずに、「十字の銀河」を[]の字源・字形・字義とした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 

「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となると定められ、「子どもが宿る子宮」は聖域(せいいき)であると尊重されて「一大」と名づけられた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」が「一大」となった秘密を伝えて『説文解字』は「一大に従ふ」と解説したのである。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の「仰いでは天象を観る」の「天象」は「十字の銀河・十字の銀河の子宮」、「仰いでは見る」はH図に示す「鬼の姿に似る銀河」があらわした。
 また「俯しては地法を観る」の「俯しては観る」は、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」があらわした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 

C図に示した「鬼の横顔に似る銀河の両目」は、I図の左図の〔高度が60度ぐらいになった「十字の銀河」を仰ぎ見る両目〕をあらわし、C図の「鬼の首に付く両目」はI図の右図の〔高度が90度の天頂に位置する「十字の銀河」を仰ぎ見る両目〕をあらわした。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 このように、I図の「仰いでは天象を観る」のポーズは、C図の「四つ目」の銀河が示すことになった。ゆえに、H図における「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」が「仰いでは天象(十字の銀河・十字の銀河の子宮)を観る」という文をあらわすことになった。
 「俯しては地法を観る」という文における「地法」の[]の正字(せいじ)を、J図の左側に配した。[]の正字の旁(つくり)[鹿][][]が合体して形成される。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 [鹿]は――J図の左図に示す「鹿の横顔」に相似する中国の「山東(さんとう)半島」と、「オス鹿の角(つの)」に見立てられた「廟島列島(びょうとうれっとう)」があらわした。
 [][]は――K図に示す中国国土地図における海岸線が「翼を有する鳥の姿」に相似する。この「鳥」は東の海へ「去る」ように観える。だから、「鳥」の形をした中国海岸線が[][]をあらわした。
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 K図に示す中国を代表する大河の黄河と長江の水は西の地から東の地に向かって流れて海に入って去る。だから、[]の偏は「水」をあらわす三水(さんずい)となった。
 したがって、「地法」は「西から東へ大河の水が流れる、東の海へ去るように観えるオス鹿の横顔(J図の左図)と鳥の形に相似する海岸線(K図)に包まれる中国国土地図」をあらわした。
 いっぽう「仰いでは天象を観る」の「天象」は、「地法」とは逆方向に「東から西へ去る(移動する)十字の銀河の運行」をあらわした。
 『易経』繋辞下伝の漢字起源記事に登場する「地宜(ちぎ)」という語は、「平面的に図化した地図の形」を意味した。というのも、L図に示すように「天から人の横顔に酷似する銀河が俯(うつむ)いて地上を見ると、山や海岸の高低差が無くなって地図の形は料理に使う俎板(まないた)の表面のように平面的になる」と定義されることになったからである。
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『易経』繋辞下伝の漢字起源記事にある「近くはこれを身に取る」の[]の字形について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「みごもっている人の側身形(そくしんけい)」と解説する。
 M図の右側に配した[]の金文形は「みごもっている人(妊婦)の側身形」である。M図に示すように、人は妊婦のごとくおなかを前へつきだして妊婦のような姿勢になると[]がキャッチできて天頂緯度線が測定できた。ゆえに、M図の左図は「近くはこれを身に取る」という文をあらわすことになる。
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 N図は、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の「遠くはこれを物に取る」の解説図である。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 N図に示す「夏の銀河の西南部」は上掲した「文字作成銀河各部の名称図」における右下の隅(すみ)にある。この「夏の銀河の西南部」は「鬼の姿に似る銀河」から遠くにある。N図に示すように「夏の銀河の西南部」には「ジャコウウシの横顔に似る銀河」がある。わがブログ「漢字習得定説のウソ・3」で詳細に解説して証明したように、「ジャコウウシ」は[][]の字源となった。『説文解字』は[]の字源を「牛を大物と為()す」と解説し、また「万物なり」とも解説する。天敵のオオカミにおそわれると、ジャコウウシの群れは真ん中に子どもをかくして円陣を作る。このジャコウウシの習性が女性の生殖器の大半を包む骨盤(こつばん)に相似すると見立てられて、ジャコウウシは漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)となった。ジャコウウシは遠いツンドラ地帯に生息した。「文字作成銀河各部の名称図」の左上の隅にある「三つ輪の銀河」(H図を参照)は「ジャコウウシの円陣」をあらわした。したがって、「文字作成銀河の隅にある、三つ輪の銀河と夏の銀河の西南部のジャコウウシの横顔に似る銀河」は「遠くはこれを物に取る」をあらわした。『説文解字』は[]の字源を「万物なり」と解説するゆえ、N図の「夏の西南部の銀河内にあるジャコウウシの銀河」は「遠くはこれを物に取る」と「万物の情に類して漢字を作った」という文をあらわすことになった。
 「仰いでは天象を観る」と「近くはこれを身に取る」という文の「天象」や「近く」をあらわす「十字の銀河・十字の銀河の子宮」が天頂に位置すると「東・西・南・北」の四方位が測量できた。A図に示すように「十字の銀河」は「東北」から出でて「西北」に没した。N図の「夏の銀河の西南部」は「東南」から出でで「西南」に没する。したがって、「東・西・南・北」の四方位と「東北・西北・東南・西南」の四方角で、計八方位すなわち『易経』繋辞下伝の漢字起源記事に登場する「八卦」をあらわした――ゆえに、周代に完成した易の判断の基礎となる八つの象(かたち)は、「東・西・南・北」と「東北・西北・東南・西南」の八方位に配置されることになった。
 以上のごとく、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は「包犧氏の王が漢字を発明した」と記述して誤っているが、倉頡伝説が伝えるように「倉頡が漢字を発明した」と改めれば「漢字は文字作成銀河各部の形状から作られ、倉頡が発明した漢字作成原理に則(のっと)って作られた事実」を伝えることになる。また、この記事は「人々は[]をキャッチして1分の緯度差を測定できる呪術(じゅじゅつ)によって生命を保持(ほじ)していた」(A図を参照)と伝えていたことになる。

◆O図に示すように、頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
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(C) 2018 OHKAWA 
 
 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた文字を生む母体」と定めたので――「十字の銀河」に「頭が誕生する子の母体の背側に顔を向ける姿」を加えると、P図のごとくなる。
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 そうすると、生まれてくる子の向きは「中国大陸の東の海にて生まれる」とあらわすゆえ不合理となった。
 そこで、Q図に示すように、「十字の銀河の〔南〕を〔西〕にする、時計回りに90度方位を転回する規定」をあらわす[()]の字、「十字の銀河の〔南〕を〔東〕にする、時計回りの逆方向に90度方位を転回する規定」を示す[]の字が作られることになった。
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 したがって、R図に示す「いね()の穂が南から西へと垂れる象形」の[]の字が作られ、[][]が加わる[()]が作られ、人偏に[]が加わる[()]が作られた。
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 [][]の字はR図に示した[]の字と同じく「時計回りに方位が90度転回する、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定」をあらわすことになった。
 『魏志』倭人伝に記された方位記事は全部で15ヵ所あるが、この記事に1ヵ所も【誤読】を加えなければ[]の字があらわす転回方位に合致して「日本列島の東方は南へ伸びる」ことになる。ゆえに、『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定し、国名を〔倭〕と定めた」と伝えていたことになる。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説して証明したように――S図のごとく「十字の銀河の子宮」を「出産祝いをする時や子授(こさず)け祈祷(きとう)する時に用いる器(土器)」に見立てて、「時計の針の逆回りに方位が90度転回する規定」をあらわす[]の字が作られた。
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 出産祝いや子授け祈祷する時には器(土器)の口部(こうぶ)は天頂に向けられる。ゆえに、T図に示すように「口部を天頂に向ける祝祷(しゅくとう)する時に用いる器」は[(さい)]の字源・字形・字義となった。
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 P図やQ図に示したように、〔南〕は〔東〕となる転回方位規定だと生まれる子どもは東の海で生まれることになって不合理となる。ゆえに、U図の右側に配した[]の金文形の右上の[(さい)]は〔西〕となる「十字の銀河の肩」の上に配置されて、「〔北〕は〔西〕となる、つまり時計の逆回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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 「十字の銀河」は「出産祝いや子授け祈願する時、身をくねらせて産道を通過する子を表現して身をくねらせて踊る巫女(みこ)」に見立てられた。
 ゆえに、U図の[]の金文形は「祝祷する器である口(さい)の口部を天頂に向け、巫女が身をくねらせて踊る姿」をあらわす図案であった。
◆転回方位規定の[][][][]は、地名や地理に用いる学術用語であった。
 A図に示した[]をキャッチは、原始以来の人類が生存するための不変の法則であった。そして、M図に示した天頂緯度を測定する人が、倉頡が発明した漢字作成方法から生まれた[][]の転回方位規定について考えると天頂緯度線をキャッチできず風雨にさらされる白骨死体となった。
 これについて、孔子と並ぶ中国の二大思想家の紀元前5世紀から紀元前4世紀頃に生存した老子は『老子』第一章で「常に無欲(むよく)にして以(もっ)て其()の妙(みょう)を観、常に有欲(ゆうよく)にして以てその徼(きょう/)を観る。この両者は、同じく出でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂()う」と説いている。老子は「常に産道を通過する胎児のごとく無欲であれば妙(不思議)なことに[]はキャッチできるが、必ず[]をキャッチすると欲を有すると徼()すなわち川や湖や海の岸に漂着する白骨死体となる。[][()]の字源となる銀河部は同じであるが、名を異にする。[][()]の両字は五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度つまり[]をあらわす」(B図参照)と説明するものであったことを、わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説して証明した。
 M図に示した天頂緯度測定する人の心得は、「無」の境地になって一心不乱(いっしんふらん)に天頂を仰ぎ見ることであった。だから、天頂緯度測定する時には[][]の地名や地図に用いる学術用語の転回方位を考える余裕(よゆう)はまったく無い・無我の状態となって[]をキャッチしたことになる。
 したがって人類が原始以来受け継いできた[]をキャッチする呪術と習慣が栄えていた時代、[][]の転回方位規定が立論されても不都合(ふつごう)な混乱が生じなかったのである。というのも[]のキャッチは原始以来の不変の法則であり、[][]は倉頡の漢字発明によって新しく出現した「地名と地理に用いる学術用語」であったゆえ、両者の方位規程は全く別なる問題で、互いにまったく影響しないと定まっていたからである。

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2015年10月24日 (土)

古代エジプト文字の字源・15

ヒエログリフ「霊」の字源・Ⅶ
 
◆A図は、紀元前4世紀の第30王朝(紀元前380-同343)時代に作られた「古代エジプト人の宇宙観を示す作品」と名づけられた石棺にほどこされていた彫刻画を図化したものである。この石棺はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する。
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(C) 2015 OHKAWA
 
 前回のわがブログで解説し証明したように、この彫刻はヒエログリフが下に示す私が「文字作成銀河」と名づけた文字銀河から作られた。
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   この「文字作成銀河」における各部の銀河部の形状は文字となった。しかし、文字となった銀河各部には名称が存在しない。そこで、私は下に示すように銀河各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2015 OHKAWA

 上掲の「銀河」はいわゆる「宇宙」である。だから、A図は「ヒエログリフ(古代エジプト文字)が文字作成銀河から作られた秘密を伝える彫刻画」ということになる。
 前回のわがブログで詳細に解説したように、A図の彫刻画は上掲の文字作成銀河各部の名称図の左上に示したB図における各部の形状のイメージを表現するものである。しかも、この彫刻画は古代エジプトの天地創造神話を伝えている。
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(C) 2015 OHKAWA

 エジプトの天地創造神話については、わが前回のブログを参照していただきたい。
 ヒエログリフは、第1王朝(紀元前2920-同2770)が始まる少し前の紀元前3150年ころ、突然にほとんど完成された形で出現した。それというのも、最古の文字が出現される前王朝期において、文字作成銀河から多くの図案や記号が作られていたからである。これらの図案や記号は土器、武器、お守り、装身具や道具などに付けられ用いられた。このため、紀元前3150年ころ、これらの図案や記号は文字に用いることができる発明によって、突然、ヒエログリフはほとんど完成された状態で出現したのである。
 第1王朝-第6王朝(紀元前2920-同2150)までの首都は北緯30度のメンフィス(古称は「プタハのカーの家」)であった。
 〔歳差〕という天文現象を用いると、C図のごとく、紀元前4000-同2000年までの北緯30度のメンフィスの天頂緯度線が貫通した銀河部を表示することができる。
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(C) 2015 OHKAWA

 前回のわがブログで証明したように――紀元前4000年ころにおきた地球温暖化によって海水面の上昇がピークをむかえ、現在の水面より23m、あるいは5mも高くなったとされる。これによって、ナイル川の水面も高くなった。
 D図はA図中央にある円形で区切られる「原初の海」を表現する部分である。
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(C) 2015 OHKAWA

  この「原初の海」はナイル川の水面の上昇がピークをむかえた状況を伝える。また、前回のブログで指摘したように、D図の部分は天地創造神話が「ヌトは太陽を生んだ」と伝える「太陽」をも表現する。ゆえにA図が示すように、中央の円形の「太陽=原初の海」の部分は天空の女神ヌトの体で覆(おお)われ包まれて「ヌトは太陽を生んだ」と表現される。
 前回のわがブログで指摘したように、円形の「原初の海」のモデルはB図左上の「三つ輪の銀河」における円形の「いちばん北側の円形()の銀河」である。また「三つ輪の銀河」は「海」や「潮」のごとく観える。だから、「原初の海」は「三つ輪の銀河のイメージを表現するものでもあったことになる。

◆わが日本列島では、海水面の上昇ピークをむかえた紀元前4000年ころは前期縄文時代初頭に相当する。この縄文前期において、関東地方で土器製造における革命がおきた。
 E図左図の縄文前期に作られた山梨県東八代郡御坂(みさか)町の花鳥山遺跡から出土した深鉢の器面全体を飾る主要模様は渦巻文で構成される。E図中央の中期縄文に作られた山梨県東八代郡御坂町の桂野遺跡から出土した深鉢の胴部を飾る基本モチーフもまた渦巻文であり、大小の渦巻文で装飾される。E図右図の中期縄文に作られた、新潟県信濃川流域の火炎土器様式の口縁(こうえん)は水や炎が渦巻く形にデザインされる。
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(C) 2015 OHKAWA

 F図に示すように、火炎土器様式は上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「オス鹿の横顔に似る銀河」から作られた。
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(C) 2015 OHKAWA

 F図左図に示すように、「オス鹿の横顔に似る銀河」の範囲には「三つ輪の銀河」が存在する。この「三つ輪の銀河」は、前述したように、A図中央の円形で区切られる彫刻部「原初の海」のモデルとなった。
 前期・中期の縄文時代に躍動的な渦巻文で飾る土器芸術が花開いた関東地方は北緯3520分~北緯3736分である。〔歳差〕を用いて前期縄文から中期縄文末まで(紀元前4000-同2000)の関東地方における天頂緯度線は、G図のごとくになる。
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(C) 2015 OHKAWA

 G図が示すように、前期・中期の縄文時代、関東地方の天頂に「原初の海」のモデルとなった「三つ輪の銀河」がめぐってきた。だから、前期・中期の縄文土器の表面一面を飾る渦巻きは、無数の星たちが渦巻きを構成し大小の円を描き星々が連結して奔放(ほんぽう)な曲線となって躍る壮麗な「三つ輪の銀河」を造形するものであったのである。

◆『日本書紀』冒頭の神代紀初頭の天地開闢(かいびゃく)の記事は、草創・前期・中期の天頂にめぐってきたB図左上の「四つ輪の銀河(三つ輪の銀河+最北の輪の銀河)」のイメージを表現する天地創造神話であった。前回のわがブログで証明したように、A図のエジプトの天地創造神話のモデルは「四つ輪の銀河(三つ輪の銀河+最北の輪の銀河)」であった。
 縄文土器を飾った渦巻きは、地球規模で世界にひろがる古代の謎に満ちた文様とされた。渦巻き文様は、エジプトはじめギリシャ、北欧、東南アジア、南太平洋、中部アメリカ、そして日本に分布する。しかし、このデザインは何を表現したのかは現在まで不明である。このデザインはエジプトの天地創造神話と「原初の海」のモデルとなり、わが国の前期・中期縄文土器を飾る渦巻文のモデル「三つ輪の銀河」をデザインするものであったのである。

◆『日本書紀』冒頭の天地開闢神話の原文を書き下すと多数の振り仮名を記すことになって煩雑(はんざつ)となって難解となる。これゆえ、宇治谷孟(うじたに・つとむ)訳者『日本書紀()(講談社)の現代語訳を、下記のごとく転載することにした。
「昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁(にご)ったものは、下を覆い滞(とどこお)って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そして後から、その中に神がお生まれになった。

 それで次のようにいわれる。天地が開けた始めに、国土は浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれが神となった。」
 B図に示す星の数がとぼしい暗黒天体部の「最北の輪の銀河」のイメージが「昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もなかったとき」という表現となった。「いちばん北側の円形の銀河」の北端には「[]の銀河」すなわち「鶏の首に似る銀河」があるゆえ、次の「鶏の卵の中身のように固まった中に、(中略)、のぼりたなびいて天となり」までの表現となった。「三つ輪の銀河のうちの中央の輪の銀河と南の輪の銀河」のイメージは「重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった」と表現された。そしてB図の「十字の銀河」は「だからまずでき上がった天」と表現され、「鬼の姿に似る銀河」は「その後にできた大地」のイメージとなった。その証拠に、大地・国土となる「鬼の姿に似る銀河」は「激流の銀河」の上の方で浮いているので「水の上の方で浮いて泳ぐ魚」にたとえられた。だから、「十字の銀河」は「そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれが神となった」と表現されることになった。
 前回のブログで証明したように、エジプトの天地創造神話では「十字の銀河」は「天(天空の女神ヌト)」、また「鬼の横顔に似る銀河」は「大地(大地の男神ゲブの顔)」となったゆえその横顔と一体となる「鬼の姿に似る銀河」は「大地」となったことになる。
 したがって、『日本書紀』の天地創造神話(天地開闢)とエジプトの天地創造神話における「天」と「地」の銀河イメージ解釈は同じとなる。

◆H図はA図の最下部の彫刻部図である。
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(C) 2015 OHKAWA

 H図の彫刻部は、I図左図の「霊」を意味するヒエログリフをあらわした。「霊」のヒエログリフの字形は「日々弓を射る術を鍛錬する男性の太い両腕」あるいは「耕作や開墾に勤しむ太い男性の両腕の形」にデザインされた。「霊」の字源はI図右図に示す「長方形の暗黒天体部・激流の銀河」となった。
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 C図に示したように、ヒエログリフが発明された紀元前3150年ころのメンフィスの天頂に「霊」の字源となった「長方形の暗黒天体部・激流の銀河」がめぐってきた。
 「霊」のヒエログリフは「弓で射る獲物をもとめて遠くの地に旅しても家族が待つ家に帰還できる、日々鍛錬して修得できる天頂緯度線をキャッチして緯度を1分の精度までに精確に測定できる能力(眼力と技術)」をあらわした。ゆえに、「霊」の字形は「日々弓を射る術を鍛錬する男性の太い両腕の形」となった。また、天頂を通過する「激流の銀河」は「豊かな実りをもたらすナイル川の洪水(氾濫)」のイメージとなり、天頂を通過する「長方形の暗黒天体部」は「洪水に見舞われて泥のようにやわらかくなった土地(農地)」に観えるゆえ、「霊」の字形は「原始的な木製のクワで耕作・開墾する男性の両腕の形」となったのである。
 漢字においては「日々鍛錬して修得できる天頂緯度線をキャッチして緯度を1分の精度までの測定できる能力」は[(げん)]という字であらわされた。J図に[]を示した。
 []の楷書形は上部の[(とう)]に下部の[(よう)]が加えられたが、J図の右側に配した[]の金文形は[]だけであらわされた。[]の字形は「産道を無欲で通過する新生児(胎児・出産児)」の図案である。というのも「緯度を1分の精度で精確に測定できる天頂緯度線をキャッチする時の心得(鉄則)は産道を通過する胎児のごとく無欲であれ」であったからである。ゆえに、[]の金文は[]だけであらわされた。
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(C) 2015 OHKAWA

 K図の右上に示すように、[]の上部の[]の横線[]は「緯度を1分の精度で測定できる天頂緯度線」であり、天頂緯度線[]と直角に交わる短い縦線(垂直線)[|]は「子午線」をあらわす。
 紀元前3000年ころ、五帝時代初頭に生存した黄帝は東洋最古の医学書『内径』を作ったと伝わる。黄帝は生命誕生の秘密を研究した。当時は女性生殖器や胎児の出産の様子をあらわす文字が存在しなかったので、黄帝につかえる史官の倉頡(そうきつ)が文字作成銀河から文字を作成する方法を発明した。ゆえに、倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。「銀河」は「銀漢」とも呼ばれるので「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。 
 L図に示すように、紀元前3000年ころの黄帝時代の中国の天頂には「十字の銀河」がめぐってきた。倉頡は「十字の銀河」の西側に〔乳房〕に相似する箇所があり、右足(西側の足)も〔乳房〕や〔妊婦の胎児が宿る円い腹部〕に相似し、また右足と重なって〔子宮(女性の生殖器)〕に相当する部分があるのに注目した。天頂を通過した「十字の銀河」は黄帝の医学研究をあらわす漢字の発明を生む母体となったのである。ゆえに、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作ったすべての文字は、十字の銀河から生まれる」と定めた。
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 これが原因で、「緯度を1分の精度で測定できる天頂緯度線・子午線のキャッチ」の金文は「産道を無欲で通過する胎児」を表現する[]の図案となったのである。漢字が起源した黄河中流や黄河の水源地は年間降水量が少なかった。ゆえに、王や巫女王や神官たちは雨乞いをおこなって、土地がやわらかくなって原始的なクワやスキでも容易に耕作し開墾できる黄河の洪水を願った。だから、漢字においては[]の下に「雨を貯める容器」をあらわす[三つの口][]が加わる[()]が作られ、[][]の字は別字となった。
 一方、エジプトでははるか南のアフリカ中央部で大量の雨が降って、ナイル川は両岸の肥沃(ひよく)の土をエジプトの下流へと押し流して、メンフィス周辺では9月初めころに大洪水となった。エジプトの豊かな実りは定期的に起こるナイル川の洪水がもたらした。だからエジプトでは[][]は合体して、[][]の字であらわされた。

つまり、[]と合体した[]はI図右図に示した「ナイル川の洪水によって泥のごとくやわらかくなって容易に耕作し開墾できる土地」に見立てられた「天頂にめぐってくる長方形の暗黒天体部」の形に相似するように、「男性の太い両腕」の図案となったのである。

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2015年4月23日 (木)

日本が滅びる・166

邪馬台国説は【誤読の空論】である


◆邪馬台国説論争は、永遠に決着がつかい。邪馬台国説学者たちの言い分を聞いていたら、千年経っても一万年経っても、一向に埒(らち)が明かず決着がつかない。
 なぜだと思いますか――邪馬台国説の実体は〔誤読の空論〕だからである。
 学者や邪馬台国説に賛同するマスコミは、詐欺師まがいの方法をもって人々を騙(だま)す――しかし、邪馬台国論争は学術問題であるから絶対に「詐欺」とか「詐欺師」という語を用いてはならないことになっている。この決まりは御尤もであるが――完全なる〔誤読の空論〕を述べても大学教授の職に止まっていることができ、箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓であるから奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国であるというデマを流すマスコミは大目にみられて許されることになるが――我らのような小市民にあってはこの類(たぐい)の行為は“詐欺”となって罰せられる。

◆新井白石以来約300年間、学者たちは『魏志』倭人伝を誤読して空論を垂れ流す。
 なぜ邪馬台国説が誤読の空論かと言えば、『魏志』倭人伝のすべての記事は真実を伝えるものであり、この真実を科学的に証明できる幾つかの確かな遺跡と遺物は現存するからである。
 
 論者が「邪馬台国」と発言した途端に〔誤読の空論〕となる。
 古代史研究家の古田武彦氏は、『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住して王国の名は「邪馬壱(やまい)国」と記してあることを綿密に証明したからである。古田氏は『三国志』全体に記された86個の[()]56個の[()]を一つ一つ調べて、「壱」と[]の誤記が一例も存在しないことを証明した。
 “『魏志』倭人伝”は通称で――西晋(せいしん)の著作郎(歴史編纂管)の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』魏書東夷伝末部にある〈倭人伝〉を“『魏志』倭人伝”と称する。
 山尾幸久(やまお・ゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指摘する。したがって、『魏志』倭人伝は280289年に著作された。

◆『魏志』倭人伝の冒頭の「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」という文から早々、邪馬台国説は〔誤読の妄想〕であることが露呈する。
 上記の文中に登場する「帯方」は現在の朝鮮半島のソウル市周辺だったとされる「帯方郡」のことで、この帯方郡に魏の出張機関の政庁が所在した。
 A図に示すように、当時(2世紀末から3世紀中半)の北極星(こぐま座β星)は天の北極から約10度離れていた。帯方郡の東南の大海中に在る倭地(西日本)には、10度=600分の600分の1の1の緯度差を測定できる方法ならば到着できた。だから、当時の約600分の円を描く北極星では、600分の1の1分の緯度差を計測できる精密さが求められた大海を絶対に渡ることができなかった。

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 というのも――現在の日本地図で立論すると、倭地でも中国同様に北極星を最も尊重する天文学が確立されていたことになって、1分の緯度差の測定が必要条件となる大海を倭と魏・帯方郡の使節は往来できなかったことになるからである。したがって、魏と倭は国交を結ぶことが出来なかったゆえ『魏志』倭人伝はこの世に存在するものではなかったことになり、「卑弥呼」の3字や「邪馬台国」の4字どころか1字も記載されていなかった白紙同然であったことになるので、直ちに邪馬台国説は妄想であったことが判明する。

 
◆中国では紀元前1世紀に、北極星(こぐま座β星)を「太一」と名づけて最も重視するシナ天文が完成した。ゆえに、中国の人々は帯方郡の東南の大海中に在る倭地に到着することができなかった。これゆえ、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部には「シナ天文が完成されない紀元前3世紀に生存した徐福とその一行は、中国から大海を渡って日本列島に到着して移住した。しかし、3世紀になると中国の人々には日本列島ははるか遠くに在り海の道は途中で絶えており往来することができない」と指摘する記事が存在する。
 当時、魏と帯方郡の人々は北極星を最も重視したために大海を渡ることができなかった。他方、日本列島に住む倭の使者たちは、B図に示す〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛えていたので大海を往来できた。というのも、〔[]をキャッチする方法〕だと精密に600分の1の1分の緯度の差を測定できたからである。

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 B図の右上に示すように、精密に1分の緯度差を測定できる[]は「天頂点を通過する銀河部が天頂点に接近する時の46秒間における天頂緯度線と、この天頂緯度線で測定できる子午線」からなる。原始の時から人間の大脳辺縁系 (だいのうへんえんけい)に分担される本能行動によって、人間の目は鍛錬すると[]をキャッチすることができる能力がそなわっていた。
 だから『魏志』倭人伝冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「倭人は北極星で緯度と子午線を測定せず、[]をキャッチして大海を往来した。しかし、魏と帯方郡の人々は北極星を最も重視して[]をキャッチする習慣を紀元前1世紀に失ったために大海を往来することができなかった」という真実をつきつける重大記事となる。

 
◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における〔緯度の測定〕と題する記事は、「天の北極」を「北極」と記して下記のごとく指摘する。
 「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっとも精密に測る方法は、子午線通過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」
 C図に示すように、3世紀の天の北極から約10度離れて円を描く北極星にもとづくと北緯3415分の地点の緯度は約北緯2415分~約北緯4415分となって誤差が20度となる。だから、誤差が20度=1200分の北極星で緯度測量すると、1分の緯度差を測量できる精密さが求められる大海は、当然、往来することができなくなかったことになる。

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D図は、『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半(260290年ころ)に作成された現在の浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する遺跡である。この遺跡を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた。「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記された豪族が作成した。
 「卑弥呼」の地上絵の経緯度原点は、北緯3448分のA地点である。「卑弥呼」の地上絵の北限は北緯3450分、南限は北緯3446.6分である。ゆえに南北の緯度差がわずか3.4分の山あり谷ありの大地に丁度1千万坪となる境界線で大鳥の形を図化する「卑弥呼」の地上絵によって3世紀の豪族が[]をキャッチできたことが事実となり、また倭の使節と船乗りは[]をキャッチして大海を往来していたことが明らかとなる。

◆上記した『図詳ガッケン・エリア教科事典』の記事は、現在の北極星(こぐま座α星)にもとづいて説明する。現在の北極星は天の北極から1度=60分だけ離れているゆえ、およその緯度を簡単に知ることができる。しかし、3世紀の北極星(こぐま座β星)はC図に示すように誤差が20度となるので、この北極星では緯度が測定できなかったと指摘すべきことになる。だからD図の「卑弥呼」の地上絵は、倭の使節と船乗りは1分の誤差が測定できる方法の[]をキャッチして大海を往来していたことを今日に明確に伝える遺跡となる。
 そして「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志』倭人伝の全記事はすべて事実を伝えるものであることが科学的に証明され――『魏志』倭人伝の記された倭国の34小国の位置と範囲はE図のごとくであったことになる。E図に示すように、倭女王の弥呼が居住した邪馬壱国は現在の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)であり、邪馬壱国の中心は山陰・出雲(島根県東部)であった。『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の方位記事が存在するが、E図は全15ヵ所の方位記事と一点の矛盾も不合理も存在せず、すべて合理となる。

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 E図における九州の地図の上に記す大海の名は「玄界灘」である。「玄界灘」は「古代、北極星の高度で緯度換算する方法では往来できなかったが、[]をキャッチする方法ならば往来できた波が荒い陸地から離れた大海」であったことになる。
 E図に示すように、『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は、東に伸びる日本列島を南に伸びるという錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と重大な歴史的事実を記載する。
 その証拠に、『魏志』倭人伝には「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という文がある。F図に示すように、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理は「中国の会稽・東治の当(まさ)に東に在る」という文に合致するが、北極星がある方角を〔北〕と定める邪馬台国説の立論基盤となる日本地図は会稽・東治の東北に存在するので矛盾する。

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 G図に示すように、玄界灘に浮かぶ日本列島の西端に在る沖ノ島と日本列島の東端にある神津島(こうずしま)は同緯度(北緯3415)である。北極星では沖ノ島と神津島が同緯度であることは測量できないが、1分の緯度差も測量できる[]をキャッチする方法ならば沖ノ島と神津島が同緯度であることを測定できた。
 沖ノ島は冬になると雪が降るが、亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。ゆえに、日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島における気候を合体させると〔西冷東暖〕となる。
 H図に示すように、中国海岸線地域の北部の気候は冷たく、中国海岸線地域の南部の気候は暖かい。ゆえに、中国海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。
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 H図の中国海岸線地域とG図の日本列島の〔西冷東暖〕においては、中国の〔北冷〕と日本の〔西冷〕が一致し、中国の〔南暖〕と日本の〔東暖〕が一致する。ゆえに、日本列島の東は中国海岸線地域の南の方に伸びていると考えるべきことになる。
 だから、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が明確に示すように、卑弥呼王朝はE図に示すがごとく南へと伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したことになる。

◆わがブログ「日本が滅びる」の前々回(164)前回(165)にて詳細に解説して証明したように、今から約4070年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)にI図に示す【銀河の各部の形状】を【文字】とする原初漢字・夏音(かおん)文字がわが国に伝来していた。
 前々回と前回同様に、I図の銀河を「文字作成銀河」と呼ぶことにする。

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 夏音文字は正しい字源、最初の字形(すなわち文字作成銀河の各部の形状)、正しい字義を保存する漢字であった。なぜならば、「銀河」の別名は「銀漢」「天漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称したからである。
 わが国では中国で失った夏音文字が保存されるものであったから、E図の左端に配する「転回方位」が[]の字源・字形・原義であることを知っていた。だから、卑弥呼が統治した国名は「倭」の字を冠することになった。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)9頁末部から10頁初頭にかけて、〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁は〔卑弥呼の発音について〕「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる」と指摘する。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと、白川静著『字統』が「いま残されている最古の漢字音」と指摘する、中国の上古音「ピミカ」よりも古い夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは定説である。だから、わが国にはいま残されている最古の漢字音となる夏音文字は伝来して保存されていたことになる。夏音文字は『魏志』倭人伝の「卑弥呼」はじめとする人名、E図に示す小国名に用いられて現存する。
 『古事記』上巻の随所にも〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字が多数記載されているので、わが国には夏音文字が存在したことを目で見て事実であると確認できる。

◆わがブログ「日本が滅びる」の前々回と前回で――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)の伝説は、学者たちの早合点と独断で“荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話”と断定されていが、I図の文字作成銀河を観れば歴史的事実であることが簡単明瞭に察知できることを証明した。
 わがブログ【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて解説したように、倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配して、下に列記する3つの掟を破った者には神罰が下って直ちに死刑に処せられると定めた。

倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) I図の文字作成銀河から文字が作られたことを暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟のために、書いた夏音文字は遺跡から出土しないことになった。(3)の掟は、今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に出現した契文(けいぶん╱甲骨文字)によって破られた。しかし、契文は(1)(2)の掟を厳重に守った。その後の中国の歴代王朝とわが国の歴代天皇王朝・武家幕府も(1)(2)の掟を厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔文字が銀河から作られた事実〕を学者たちはまったく気づかず、(2)の掟によって〔文字作成銀河の各部の名称〕は存在しないので、私はI図のごとく銀河各部の名称を定めた。

 『魏志』倭人伝にある下記に示す二つの記事はわが国に夏音文字が存在したことを証言し、今日の常用漢字に直結する楷書の字源・字形・字義もまたI図文字作成銀河の各部の形状に則って定められた事実が証明される。

『魏志』倭人伝の夏音文字の存在を証言する二つの記事
 (1)
 『魏志』倭人伝には「倭の骨を灼()いて吉凶を占う時に用いる卜辞に用いる文字は、令亀(れいき)の法の如く」という文がある。だから、倭の卜辞に用いる文字が「令亀の法の如く」であったことは、つまり「亀の甲羅に文字を刻んだ契文(殷代後半の甲骨文字)のごとくの夏音文字が存在した」ことになる。
(2)
 『魏志』倭人伝には「魏都・帯方郡・諸韓国の文字の楷書と卑弥呼が文書に書いた文字は差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都国の港では間違いが生じないように点検し確認していた」という記事がある。魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の字源・字形・字義は、夏音文字と同じくI図の文字作成銀河の各部の形状で定められていた。ゆえに、伊都国の港では文字作成銀河の各部の形状を観察して、卑弥呼が書く夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の間に誤訳が生じないように正しく変換することができた。
 この事実にもとづいて、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字は楷書で表記されて現存することになった。

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・165」で証明したように、今から約5000年前の倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝時代、J図に示すように、中国の天頂を「十字の銀河」と“倉頡は四つの目の怪人であった”と伝承されることになった「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の両目と首につく両目の銀河部)」がめぐってきた。黄帝は〔女性の生殖器と子どのの出産〕について研究した。しかし、当時、黄帝の医学研究をあらわす文字が存在しなかったので、倉頡が黄帝の医学研究をヒントにして文字を発明した。この事情を伝説では――倉頡と黄帝の両目を合わせて「倉頡は四つ目であった」と語ることになったのである。

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K図に示すように、倉頡は「十字の銀河の西半分」が〔女性の乳房、妊婦のおなか、子宮(生殖器)〕に観える箇所に注目して、黄帝の医学研究にヒントを得て「十字の銀河」をI図の「文字作成銀河各部の形状から作られた全ての文字を生む母体」と定めた。さらに、「十字の銀河の子宮」を[]、「文字作成銀河の各部の形状」を[]と定め、そして「[]の小さな十字の銀河の子宮には、[]の文字作成銀河における各部の銀河部が示す文字の情報(イメージ)が入っている」と定める「一即多、多即一の理論」を発明した。
 上記の「一即多、多即一の発明」は、[][]の金文形で具体的に示された。
 L図が示すように、[]の金文形は「十字の銀河はすべての文字を生む母体」であることを明確に示して〔妊婦のおなかに胎児が宿る形〕を図案するものとなる。


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 M図に示すように、[]の金文形は[]の「十字の銀河の子宮」を[(べん)]とし、[][]の「文字作成銀河の各部の形状」を示す記号となり「一即多、多即一」をあらわした。また「全ての文字を生む母体」の「十字の銀河」も[]として、「十字の銀河」=「文字作成銀河の各部の形状」と定めた。そして「鬼の姿に似る銀河」を[]の字(字源・字形・字義)とし――「すべての字は十字の銀河を母体にして十字の銀河の子宮から生まれる」定義を示して、[]の金文形は「一即多、多即一の理論」をあらわす図案となった。
 後世に増やされたすべての漢字は倉頡の発明に則って作られた。だから、「すべての漢字は倉頡によって作られた」と語る倉頡伝説は間違っていないことになる。

◆N図に示すように、玄界灘に浮かぶG図の沖ノ島には宗像大社の沖津宮(おきつみや)が所在する。宗像大社の中津宮(なかつみや)が所在する宗像市大島も玄界灘に浮かぶ。

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 O図に示すように、宗像の大島とG図に示した神津島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は「十字の銀河の子宮」の形に相似する。
 P図右端の「十字の銀河」は、左側の宗像の大島と神津島の地宜に合わせて〔右東左西の形式〕にした。宗像の大島と神津島は上記した倉頡が発明した「一即多、多即一」をあらわす[][]の字となった「十字の銀河の子宮」の形に相似する。
 Q図の〔尖った先端が西南に向く神津島と西北に向く十字の銀河の子宮〕は[]の字源「時計回りに方位が90度変位する転回方位」をあらわす。また〔尖った先端が西北に向く十字の銀河の子宮と東北に向く宗像の大島〕も、[]の「転回方位」をあらわす。

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 前回のわがブログで解説し証明したように、R図のごとく[]の字源は「十字の銀河の子宮から顔を西に向けて生まれる出産児と夏の銀河の西南部の渦巻の南→西となる形状イメージ」によってQ図に表示した「転回方位」と定められた。

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 R図の[]の字は(1)〔積乱雲(入道雲)が出現して雨が降り、干からびて堅くなった土地が泥のようにやわらかくなって当時の原始的な木製の刃先のクワやスキでも容易に開墾・耕作できて禾(いね)はじめとする穀物の豊かな実りに恵まれること〕と、(2)〔たくさんの子どもが出産して繁栄する〕、(1)雨乞いと(2)子授けの二つの祈願によって成立した。
 S図の〔云=雲〕の古文(中国の戦国時代に出現した文字)が示すように、「雨乞いと子授けを天に願う詞(ことば╱祝詞・のりと)」は[]の字(字源・字形・字義)となると共に、「積乱雲と降水(降雨)」をあらわす[]の字(字源・字形・字義)となった。
 R図の[]はS図・T図の[云=雲]の字は、雨が降って穀物が豊かに実り、たくさんの子どもを授かることを天の神へ祈る人々の切望をあらわした。
 S図に示す〔積乱雲の渦巻〕は「十字の銀河の子宮」と重なる。
 これゆえ、P図の「十字の銀河の子宮」と宗像の大島と神津島の地宜はQ図に示すように[]の字をあらわす“聖なる真実”を示すことになった。さらに、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と神津島の同緯度は、H図に示すように中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕によって[]の字をあらわす“聖なる真実”となって日本列島を転回させることになった。だから、卑弥呼王朝はE図のごとく転回日本列島地理を制定したのである。
 卑弥呼が居住したE図に示した夏音名の「邪馬壱国」の[][]と同義で、S図の[]の渦巻が重なる「十字の銀河の子宮」が[][]の字源となる。

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 T図の[]の字となった〔夏の銀河の西南部における銀河系の中心から外へと渦を巻いて出ずる雲のイメージ〕から「出雲」という語が誕生した。ゆえにE図に示すように、卑弥呼は旧国名が「出雲」と称された夏音名の「邪馬壱国」に居住していた。だから、『魏志』倭人伝の15ヵ所の全方位記事は正しかったことになるので、“間違っている”と批判して一ヵ所も誤読してはならないことになる。
 E図に示す『魏志』倭人伝の34小国名の配置と範囲によって、上記した倉頡の漢字の発明と[]の字の成立の秘密が解明できる。また、E図は当時の最高峰の夏音文字の学芸を凝縮した貴重な知的資料となる。
 これに比べて現代の邪馬台国説は『魏志』倭人伝の記事は間違っていると難癖をつける、正当な理由や根拠が皆無(ゼロ)の〔誤読の空論〕であったのである。

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2015年4月19日 (日)

日本が滅びる・165

邪馬台国説は【誤読の空論】である
[]の字は“漢字の始祖”倉頡の伝説が真実にもとづき成立した(2)

学者たちは、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)の伝説について荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であると断定する。しかし、わがブログは前回の「日本が滅びる・164」では、倉頡が生存した五帝時代に天頂にめぐってきた【秋の銀河の形状】(A図の左上)を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)、倉頡伝説は歴史的事実であることを証明した。
 倉頡はA図の【「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字】とする(1)「一即多、多即一の理論」と(2)黄帝がおこなった〔女性生殖器と子どもの出産〕の研究をヒントにして漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 これより、前回のブログ同様にA図の銀河を「文字作成銀河」と呼ぶことにする。
 黄帝は、東洋最古の医学書『内経』を作ったといわれる。五帝時代以前の三皇時代(今から約6000年前~約5000年前)には――B図の右上に示す「[]のキャッチ」で精密に緯度と子午線を測定して遠くの地に旅する人々や大海を渡る人たちが、家族が待つ家に帰還する方法であった「易」に用いた記号の結縄(けつじょう)が考案されていた。しかし、この結縄では黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の研究をあらわすことができなかった。このため、黄帝につかえる史官(記録官)の倉頡が文字を考案した。

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 倉頡は、A図左上の「十字の銀河」の西側半身がC図に示すように、〔乳房、円く突き出る妊婦のおなか、子宮などの生殖器〕に観える形を有することに注目して、「黄帝の医学研究をあらわすことができる記号」すなわち【文字】を考案した。
 これより、C図に示すように「十字の銀河の生殖器」を「子宮」と呼ぶことにする。
 倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]と定め、A図の「十字の銀河の子宮以外の全(すべ)ての銀河部」を[]と定めて、「[]の小さな十字の銀河の子宮には、[]の十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部が示す文字の情報(イメージ)が入っている」――という「一即多、多即一の理論」を発明した。
 そして倉頡の文字作成目的は黄帝の医学研究をあらわす文字の作成であったゆえ、倉頡はD図に示す「十字の銀河」を「すべての文字を生む母体」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部=十字の銀河」という理論を定め、「十字の銀河」をも[]の字と定めた。次にE図に示すように、[]の字となる「十字の銀河」を[(べん)]、「鬼の姿に似る銀河」を[]の字と定めて――「すべての字は、十字の銀河を母体にして十字の銀河の子宮から生まれる」――と定めた。

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 前回のブログで指摘したように、倉頡は黄帝が研究した「女性の子宮」を「鳥獣の足跡」と名づけた。ゆえに、倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡からヒントを得て、倉頡は始めて文字を作った」という部分は「黄帝の女性の子宮の研究をヒントにして倉頡は始めて文字を作った」と述べていたことになる。

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと、倉頡が生存した今から約5000年前、F図に示すように中国の天頂にE図の[]の字となった一部分の「鬼の横顔に似る銀河の両目と鬼の首に相当する銀河部の両目」すなわち「四つ目の銀河」がめぐってきた。だから、「四つ目の銀河」は「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河の各部の形状を文字とする発明が合体する学芸遺産であった」と明確に示す。

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 したがってG図に示すように、古代の倉頡の肖像画の顔には〔四つの目〕が明確に描かれた。この倉頡の肖像画もまた「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河の各部の形状を文字とする発明を合体して作られた」と表現するものであった。しかし、学者たちは倉頡伝説に登場する「四つ目」や倉頡の古代肖像画を見て「倉頡は目を四つ有していた」と早合点して――「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想の産物であって、多数の字数を有する漢字が倉頡一個人だけで発明されたことは事実とはとても思えない」と断定する。けれども、すべての漢字は上記した倉頡の発明によって生まれた基本字を組み合わせて作られた。だから、倉頡伝説における「倉頡がすべての漢字を作成した」という指摘は事実であったと言っても誤っていないことになる。 
 “字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字』は[]の字源を「穀の蔵(くら)なり。倉黄(そうくわう)として取りてこれを蔵(くらむ)。故にこれを倉と謂()う」と解説する。

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 ゆえに、H図に示す「鬼の姿に似る銀河」が「穀物を入れる蔵(くら)」と解されて[]の字となった。「倉黄として取りてこれを蔵(くらむ)」という解説文は、H図が示すように「収穫した穀物の果実が黄色くなった穂を天日干(てんぴぼ)していた時ににわかに雨が降ってきたのであわてふためいて蔵に入れる」と意味した。というのも、「倉黄」には「あわてふためく」と意味があるゆえ、黄色く実った穀物をあわてふためいて蔵に納めるその時は、にわかに雨が降ってきた時だからである。
 H図右下の[]の金文形上部の大字形は大字形となる「十字の銀河」をデザインするものである。そして、「十字の銀河の子宮」が[]の下部の[]となった。ゆえに、[]の字は黄帝が研究した「子どもの出産」と字源銀河の「十字の銀河の子宮」をあらわした。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字形について「顔を中心とした人の側身形」と解説する。これゆえ、[]の字形はH図の「鬼の横顔を中心とした鬼の姿に似る銀河」を図案するものであった。というのも、前回のブログで指摘したように倉頡は「十字の銀河」を「女性の生殖器を研究した黄帝」に見立て、「十字の銀河を仰ぎ見る四つ目(F図参照)を有する鬼の横顔に似る銀河」を「自分」に見立てたからである。
 「倉頡」の[]の字の左側の[吉]の字となった「十字の銀河の子宮」は「黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究」をあらわす共に「倉頡が発明した漢字作成原理におけるすべての文字が生まれる子宮」をあらわした。
 このように、「倉頡」という名にも「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河各部の形状を文字とした発明によって作られた事実」が秘められる。

◆前回のブログにて、『魏志』倭人伝が「卑弥呼が統治した」と記述する国名の[]の字は、倉頡伝説に登場する「天は祝福して粟を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという」の語りを発展させて生まれたことを証明した。
 I図左図のごとく[]の字は「南→西になるように、時計回りに90度方位が転位する転回方位」をあらわした。「十字の銀河」は[]の字となったので、人偏に[]を加えた[]もまた、「南→西になる転回方位」をあらわした。
 前回のわがブログで証明したように、[][]の「転回方位」は(1)J図の胎児の出産の状況、(2)K図の「十字の銀河と娩出期(べんしゅつき)の胎児の顔の向き」、(3)K図の「夏の銀河の西南部における胎児の姿に似る銀河の南→西のイメージ」を合体して成立した。

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 子宮に宿る胎児の命をまもる羊水ははじめ無色透明であるが、妊娠末期には胎児の皮脂(ひし)などによって淡黄色を帯びる。実った禾()の穂は、産道を湿潤(しつじゅん)にして胎児の通過をスムースにする羊水の淡黄色に相似するようになる。ゆえに、K図左図の「十字の銀河と娩出期に頭が誕生した時の出産児の顔の向き」に代わって、I図左図に示すように「禾(いね)の穂の穂」で「南→西の転回方位」があらわされた。
 前回のわがブログで詳細に解説したように、J図に示す出産児は出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期まで、産道を通過するときに頭を複雑に回転させて誕生する。この「産道を通過する出産児の頭の複雑な神秘的な回転」は「周旋(しゅうせん)」と称された。
 ゆえに、I図右側の[]の契文形の「[]の頭部の渦巻」は「産道を通過する時の出産児の頭の周旋」をあらわす。また、禾が大きく図案されるのは、禾が大きく育ち穂が黄色く実る収穫期の夜にK図右図の「夏の銀河の西南部」が長時間見えることを示す。そして[]は「女性が下を俯(うつむ)いて見つめる、南→西の転回方位」を表示した。
 I図の[]の契文形は、あくまでもL図に示す「時計回りに90度方位が転位する転回方位の定義」を表現する図案であった。

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 したがって、[]の契文形における[]の頭部の「渦巻」は「転回方位」とは別の[]の生育と密接に関わる要素・条件を示す字の秘密を表現していることになる。この秘密については後述する。

◆前回のブログの末部で――わがブログ「日本が滅びる・の118131回までの14回をもって、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は、L図に示す[]の転回方位規定に則ると矛盾点・不合理な点が一点も生じずすべて合理となることを証明した。
 だから、M図のごとく『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕を〔南〕に転回する錯覚の日本列島地理を制定していた」と重大な証言を書く史料であったことになる。

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 M図の「錯覚の転回日本列島地理」は、I図・J図・K図・L図をもって解説した[]の字(字源・字形・字義)と合致する。だから、卑弥呼が統治した国号は「倭」となった。
 1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図 (こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれたN図の日本地図は、M図の「[]の字に則る転回日本列島地理」に合致する。学者たちはN図の日本地図について「この地図は『魏志』倭人伝のすべての方位記事に合致する。しかし、中国では古くから倭国は南北に連なる島々の集まりと考えられていたので、このような観念を抱いていた『魏志』倭人伝の著者の陳寿 (ちんじゅ)が錯覚したものと考えるべきである」と推断する。
 しかし、卑弥呼が統治した国名に用いられる[]の字は、前述したとおり「時計回りに90度方位が転位して、東南となる転回方位」をあらわし、『魏志』倭人伝の方位を記す全記事は[]の字の「転回方位」に一点の矛盾点も一ヵ所の不合理な点も生じずに合理が組織的に成立する。だから、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた〔東南〕となる日本地図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を描いたものであったことが事実となる。現在の日本列島地図を立論基盤とする全ての邪馬台国説は多数の矛盾点と不合理な点を有するゆえ【科学】に反し、さらに明瞭なことには卑弥呼が統治した国名は「倭」ではないことになるので、全ての邪馬台国説は実際にこの世に事実としてありえない荒唐無稽の絵空事(えそらごと)であったことになる。

◆I図の右側に配する[]の契文形頭部の「渦巻」は「周旋」すなわち「産道を通過する時の出産児の頭の神秘的・複雑な回転」をあらわした。この「周旋の渦巻」は[云=雲]の古文(中国の戦国時代に出現した古代文字)の頭部の「渦巻」をあらわした。そして、「周旋の渦巻」はO図の「十字の銀河の子宮」とP図の「夏の銀河の西南部」を図案するものであったのである。

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 したがって[委=倭][云=雲]の両者の字源銀河はK図に示す共に「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」であった。しかし、[委=倭]は「転回方位」を意味し、[云=雲]は「禾(いね)はじめとする穀物の豊かな実りを得るための必要欠くべからずの要素・条件となる雨を降らす積乱雲(入道雲)」を意味して、両者の意味は異なった。
 
 白川静著『字統』で[]の字を――声符は云(うん)。云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった。『説文解字』は「山川の气なり。雨に従ふ。云は雲の回転する形に象(かたど)る」とするが、云は雲気の流れる下に、雲中の竜が尾をうちに捲いている形で、雲中に竜がいると考えられていた――と解説する。
 私が「巨龍の銀河」と名づけたように、P図に示す「夏の銀河の西南部の東半分」は「竜の姿に相似する銀河」である。だから、『字統』と『説文解字』の両者の[]の解説は正しいが、両者の解説は単独だと不十分であるゆえ両者の解説を合体させる必要がある。
 []の上部の[(いね)]は多くの雨が降る湿潤(しつじゅん)な風土で生育する。また五帝時代はじめ太古・上古の原始的なクワやスキの歯先は木製であったので、大雨が降って黄河が氾濫(はんらん)して堅い干からびた土地がやわらかくなって泥のようにやまらかくになると開墾や耕作が容易となるので豊かな実りに恵まれた。だから、[云=雲]の字は「大量の雨をもたらす、渦巻く積乱雲」を表現するものであった。当時は呪的(じゅてき)能力に優れる巫女や神官となった女王や王たちが天の神「十字の銀河の子宮」に向かって願いの詞(ことば)を云うと、積乱雲が出現して恵みの大雨が降ると信じられていた。だから、上記した白川静著『字統』が指摘するように「積乱雲」をあらわす[]の初文(最初の文字)[]となったのである。 
 産道を湿潤にする羊水は出産児の産道通過を容易にして命をまもると同様に、粟などの穀物を育てる土地は大量の雨が降ると泥のようにやわらかくなって開墾・耕作が容易になって豊かな実りを恵んで人々の命をまもった。太古・上古の人々は「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」に向かって雨が降って豊かな実りを願う詞(ことば╱つまり祝詞・のりと)を云い、たくさんの子どもが無事に出産して健やかに育つ願いをあらわす詞(ことば)を云った。というのも、雨が降らず堅くなった地面は老人には耕作できないことになったので、子どもたちが丈夫に育って筋骨たくましい青年になると堅い地面でも耕作できたため、一族は滅亡せずに人口が増えて栄えたからである。このように、当時は雨乞いと子授けの祈願を「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」を同一視しておこなっていたことになる。ゆえに、[][]の字形は同一形となった。
 
 しかし、上記したようにI図の[]における[]の上部の「渦巻」は「積乱雲」と「周旋(産道を通過する時の胎児の頭部の回転)」の異なる意味をあらわした。そして、[]の字においては[]の頭部の「渦巻」があらわす「周旋」は「円を描いて一周する」と意味するものではなく、あくまでも「90度方位が転位する転回方位」を意味した。[]の頭部の「渦巻」の「周旋」はO図とP図に示す[云=雲]の「禾(いね)が枯れないで生育する要素・条件となる雨が降ってくる雲が渦巻く積乱雲」を指すことになった。

1623年から1645年にかけて、当時を代表する芸術家にして庭園作りの名人として名高い小堀遠州は、江戸幕府に命令の基に、夏代初頭(今から約4070年前のわが国の縄文時代初頭)にわが国に伝来した原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を保存する遺跡を作成した。この遺跡は京都市西京区に所在する桂離宮の庭園である。

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 Q図は、小堀遠州が作った桂離宮庭園の地宜(ちぎ╱平面図)である。Q図の右下に「東」と記した上隣の「紅葉の馬場」がある庭園を、わがブログではR図に示すような事情にもとづいて「卑弥呼の地上絵の庭園」と称した。
 R図左図の下に示すように、卑弥呼の地上絵の庭園のおける「天の橋立」の中央の築島(つきしま)から東隣の直角状にカーブを描いて橋でつながる築島は「東→南」を表示して[]の「転回方位」をあらわす。ゆえに、「天の橋立」はK図左図の「十字の銀河の子宮」に見立てる仕組みになっている。

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 S図に示すように、「十字の銀河の子宮」に見立てられた「天の橋立」はK図右図の「夏の銀河の西南部」の形に設計された庭園に包まれる。だから、「夏の銀河の西南部の形に設計された庭園」と「天の橋立」には、O図とP図に示した[云=雲]の字源が秘められて保存されていることになる。

 幕府は1655年ころから1659年にかけて、T図の修学院離宮庭園の上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)を造営して時の後水尾(ごみずのお)上皇に献上した。ゆえに、上・下の御茶屋は、夏音文字の学芸を保存する遺跡であった。地宜(平面図)に夏音文字の学芸を秘める修学院離宮は京都市左京区に所在する。なお、中御茶屋(なかのおちゃや)の林丘(りんきゅう)寺は1668年に後水尾上皇が造営した。
 T図右上の上御茶屋は下御茶屋の東北に配置されるので、「上御茶屋」は東北の方角から昇る「十字の銀河」に見立てる仕組みになっている。上御茶屋は「浴竜池(よくりゅうち)」と呼ばれる池を中心とした大庭園である。ゆえに、「浴竜池」はO図の「十字の銀河の子宮」(A図の東北に在る)とP図の「夏の銀河の西南部」(A図の西南にある)に見立てる役割を有する。
 U図に示すように、「浴竜池」は「夏の銀河の西南部」をあらわすように設計されている。U図左図の右下の「隣雲亭(りんうんてい)」は浴竜池の地宜(平面図の形)を目撃するための展望台として造られた簡素な建物となる。展望台「隣雲亭」の名には、U図右図に示す「[]の字源となる胎児の姿に似る銀河の隣に渦巻の中心の銀河系宇宙の中心と巨龍の銀河がある」と示す役割がある。だから、隣雲亭から見下ろすようになっている池は「雨となる雲中の水に浴びる竜の姿となる巨龍の銀河」をあらわして「浴竜池」と名づけられた。

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◆V図に示す[()]の篆文形は、[]の字の向きを180度変え、I図に示した「南→西」をあらわして[]の字を90度転回して、[][90度のカーブ]を合体させた字部の上に90度転回した[]の字を載せて構成される。[]上部の[]を転回した[]を載せる[]は「巻貝の構造」で「出産児の産道における周旋」をあらわし、[90度のカーブ]はI図に示した「南→西の転回方位」をあらわす。つまり、[]で示される「周旋」は[90度のカーブ]があらわす「転回方位」と同義となる。だから、[]の篆文形を構成する[]はJ図に示した「開口期から娩出期における産道を、頭を周旋して通過する出産児」をあらわしている。また[]の篆文形は「時計回りに方位を90度転位する転回方位」をあらわす。

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 したがって、[]の篆文が出現するまで、[]は「真理。真実」をあらわす文字であったことになる。

 以上のごとく、Q図の「桂離宮」とT図の「修学院離宮」の両庭園には、日本古代史における最も重大な歴史の秘密が保存された。この二つの庭園は(1)A図の文字作成銀河における【秋の銀河】を観れば倉頡伝説は真実であることがわかると伝え、(2)わが国にはA図の【文字作成銀河の各部の形状】が【文字】であった原初漢字・夏音文字が伝来したと伝え、(3)『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は[]の字源を伝える真実であると伝え、そして(4)わがブログ「日本が滅びる」の162回と163回で解説・証明したように、『古事記』上巻には日本国が〔愛〕を掲げて誕生した歴史とその【日本建国の〔愛〕の理念】が記載されていることが解明できるよう作られている。
 学者たちは約300年前に新井白石が立論した方法を踏襲(とうしゅう)し、『魏志』倭人伝の記事を慎重に読解せずに強引に単純化して誤読し歪曲する考え方を正しいと断定する〔文献批判〕を用いて邪馬台国説を立論する。
 しかし、『魏志』倭人伝に一点の〔文献批判〕を加えなければ一点の矛盾点も一ヵ所の不合理の箇所も生じずに【科学】が成立する意見となり、この意見が事実であると証明できる遺跡と遺物も複数実在することをわがブログは指摘した。
 これらの遺跡と遺物は、(1)夏代初頭にわが国に夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残る秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)における万座遺跡と野中堂遺跡、(2)『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作成された丁度1千万坪の「卑弥呼」の地上絵(静岡県浜松市北区細江町)(3)彦根市の3千万坪の「夏音文字の学芸は未だ習わず」と設計された地上絵、(4)桂離宮庭園の地宜、(5)修学院離宮庭園の地宜、(6)枯山水の庭園で有名な京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭、(7)大嘗会(だいじょうえ)における天皇の即位式に用いられ王冠などである。
 だからこそ、『魏志』倭人伝に一点の〔文献批判〕を加えない解釈こそが正しい意見となり、『魏志』倭人伝の全文は真実を伝えるものであったことになる。一方、すべての邪馬台国説は荒唐無稽の誤読の空論であることも真実となる。
 〔誤読〕を自由自在にあやつって立論する邪馬台国説は、上記に列挙した最も重大な日本古代史の秘密となった真実を闇に葬り、政府自ら対策に「決定打はない」と発表した人口減の最も有効な決定打になるにちがいない【日本建国の〔愛〕の理念】を絞め殺し、さらに日本人の命と魂とそして学問と芸術の源(みなもと)をも消滅させて、日本を滅ぼす祟(たた)りとなる。

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2015年4月14日 (火)

日本が滅びる・164

邪馬台国説は【誤読の空論】である

[]の字は“漢字の始祖”倉頡の伝説が真実にもとづき成立した(1)
 
◆倉頡(そうきつ)伝説は、漢字の起源の歴史を伝える。
 だから、先人たちは倉頡を“漢字の始祖”と崇拝した。
 しかし、現在の学者たちは倉頡伝説を強引に「四つ目の怪人の倉頡伝説は空想の産物であって、多くの字数を有する漢字は長い歴史を経て発展してしだいに増加して組織されたと考えるべきことになる。多数の漢字が一挙に一個人が発明したと伝える伝説は歴史的事実とは思えない」と否定して、倉頡伝説は歴史ではないと排除する。
 倉頡が漢字を作ったと語る伝説は下記のごとくである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントを得て、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して粟(ゾク╱穀物)を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという。」
 古代の倉頡の肖像画の顔には、A図に示すように目がはっきりと4つ描かれる。このため、学者たちは倉頡伝説をバッサリと荒唐無稽(こうとうむけい)の空想の産物であると決めつける。
 しかし、倉頡はB図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】から【漢字】を作る方法を発明した。このB図の銀河全域を、これより以後「文字作成銀河」と呼ぶことにする。
 世界中を探しても文字作成銀河各部の名称は存在しないので、私はB図に記したごとく文字作成銀河の各部に名称を付けることにした。

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 わがブログ「日本が滅びる・121」でも解説したように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと、倉頡がつかえた黄帝の時代(今から約5000年前)、中国の天頂に「四つ目の銀河」がめぐってきた。C図に示すように、B図の左上にある「鬼の横顔に似る銀河」の〔顔に両目、首に両目〕の形をした銀河部位が存在するので「四つ目」となる。
 だから学者たちの「倉頡伝説は歴史的事実を伝えない、荒唐無稽の空想である」という定説の理由・根拠は成立しない。

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 倉頡はC図とD図の「十字の銀河」を「黄帝」に見立てて[]の字(字源・字形・字義)と定め、D図に示す「鬼の姿に似る銀河」を「黄帝(十字の銀河)に平伏してつかえる己(おのれ╱倉頡)」に見立てた。このD図の銀河各部から、最も多くの漢字が作られた。

◆黄帝は、東洋最古の医学書『内経』を作ったといわれる。黄帝は〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究に情熱をそそぐものであった。その証拠に、[]という字はD図「十字の銀河の子宮」を「矢を入れる匚(はこ╱靭・ゆぎ)」に見立てて、火で焼いた鏃(やじり╱矢の先端)を解剖する器具の小刀(メス)に用いた。
 人間の目は本人の意志にかかわりなく、視界の中に入る光の量で瞳孔径(どうこうけい╱瞳孔の直径)が約2~約7mmに変化する。明るい所では約2mm縮小され、光がまったく入らない暗闇では約7mmまで拡大される。
 瞳孔径が45mmだと、「十字の銀河の子宮」は「黄帝が火で焼いて消毒した光る解剖に使ったメスの鏃」の形にそっくりとなる。だから、「十字の銀河」は「黄帝」をあらわすとともに上記したように[]の字となった。
 瞳孔径が6mmぐらいだと「十字の銀河の子宮」はD図に図示した形に変わる。
 上記した倉頡伝説に登場する黄帝時代以前の三皇時代の「結縄」は「易」に用いる記号であった。「易」は「遠くの地や大海を渡る旅人が、家族が待つ家に帰還できる精密に天頂緯度と子午線を測定した術」であった。この易に用いられた結縄は黄帝の研究をあらわす文字を作ることができなかったので、倉頡が文字を発明することになった。
 「易」は「天頂点を通過する銀河部位の軌道における、それ以上の上が無い至高(高度が90)の時に46秒で天頂緯度線と子午線を肉眼測定する術」のことで、要するにE図右上の[]のことであった。したがって「易=玄」となり、遠くの地や大海を渡る人々は[]をキャッチして家族が待つ家に帰還していた。

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 [(とう)]の下に[(よう)]が加わると[]の字となる。[]は「天頂緯度と子午線」を、[]は「無欲で産道を通過して出産する胎児」をあらわした。精密に[]=天頂緯度と子午線をキャッチする極意(ごくい)は、「[]=産道を通過して出産する胎児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、孔子と並ぶ中国の思想家の老子は『老子』第1章で「常に無欲にしてもってその妙を観()、常に有欲(ゆうよく)してもってその皦(きょう)を観る」という文で「常に産道を通過する胎児のごとく無欲であれば不可思議な本能によって[]がキャッチできて命をまもることができるが、必ず家に帰るのだと欲を有すると[]をキャッチできずに道に迷って皦(風雨にさらされる白い骸骨)になる」と指摘した。
 中国でもわが国でも太古・上古の人々は原始から頭脳にそなわる本能行動によって[]をキャッチして生命を保持し、[]がキャッチできなければ道に迷って死んだ。
 倉頡は天頂緯度線が通過した「十字の銀河の西側半身」に〔乳房・妊婦のおなか・子宮〕のような形にあることに注目して、「十字の銀河」を「文字作成銀河(B図)から作られた全ての文字を生む母体」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字を生む子宮」と定めた。
 F図のごとく「十字の銀河」は[]の字となった。
 そして、倉頡は(1)「十字の銀河の子宮」を[]、「十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部」を[]と定め――「[]の小さい十字の銀河の子宮には十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部の[](多数)の情報(イメージ)が入っている」という「一即多、多即一とする理論」を発明した。この「理論」はG図に示す[(べん)]となり、(2)「鬼の姿に似る銀河」をE図の[]の下部の「幺(胎児や新生児)」に見立てて[]と定める漢字作成原理を発明した。だから、G図に示される「すべての字は十字の銀河の子宮から生まれる子ども」と倉頡が定めた発明は、黄帝の医学研究をヒントにして考案されたことになる。

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 H図に示す「女性生殖器の側身形」は「鳥(水鳥)の姿」に相似すると見立てられた。

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 I図に示す「ジャコウウシ」は「第5週のはじめころの胎児」の姿に類似すると見立てられて倉頡が発明した漢字作成原理を象徴する聖獣となった。また、ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると子を中心に隠して円陣を作って防御した。女性の生殖器の大部分は骨盤に包囲されて収まり、骨盤は外からの衝撃を防いで子宮に宿る胎児の命を守る。これゆえ、「ジャコウウシ」は女性生殖器をまもる「骨盤」に見立てられた。

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 J図に示す「フタコブラクダの両目」は「第7週の胎児の両目」のごとくに両端に離れているので、フタコブラクダもまた漢字作成原理を象徴する聖獣となった。フタコブラクダはゴビ砂漠の長く遠い距離を往来できた。砂漠で死んだ人を深く掘った穴に葬った墓に一匹のラクダを徇死(じゅんし)させると、墓は雑草に覆われて位置が判らなくなっても、ラクダが殉死したラクダの血を嗅ぎあてことができた。ゆえに、ラクダは太古や上古の人々の命を守る方法の「[]のキャッチ」に見立てられた。
 F図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なる。だから、H図から「鳥」、I図とJ図から「獣」、F図の「右足」を加えて、倉頡が発明した漢字作成原理と女性の生殖器は「鳥獣の足跡」と呼ばれた。また、F図の[]の字源「十字の銀河」は「全ての文字を生む母体」であるゆえ、「鳥獣の足跡」は「鳥獣の文」とも称された。
 上記したように「女性の生殖器」は「鳥獣の足跡」と名づけられた。ゆえに、倉頡伝説における「鳥獣の足跡からヒントを得て」という部分は「黄帝が研究した女性の生殖器の研究からヒントを得て、倉頡は文字を作った」と述べていることになる。しかし、学者たちは「雪や砂に残る鳥や獣の足跡からヒントを得て、倉頡は文字を作った」と誤訳する。
 以上のごとく、漢字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河から文字を作る発明によって起源した。ゆえに黄帝の両目と倉頡の両目をあらわして、古代の倉頡の肖像画には〔四つの目〕が明確に描かれた。だから、学者たちは歴史的事実を伝える倉頡伝説を強引に単純化して「歴史ではない」と抹殺したことになる。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった。したがって「天に多数文字ありき」となったので、これを略して「天」は「天文」と呼ばれた。「漢字」という語から「銀漢から作られた文字」を連想するのはそんなに難しいことではないはずであるゆえ、学者たちの意見は早合点と言わざるをえない。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』の繋辞(けいじ)下伝は漢字の起源について「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象(てんぞう)を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して結縄を作った」と記載する。しかし、この記事の一部には誤りが存在する。というのも、文中初頭にある「包犧」の2字は倉頡が考案した文字=書契(しょけい)であるからだ。三皇時代初頭の包犧氏が易に用いる記号の結縄は、自らの氏族名をあらわす[][]2字を作れなかった。また『易経』繋辞下伝の文中にある「鳥獣の文」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称である。
 だから、「黄帝につかえた倉頡が、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情(イメージ)に類して文字(書契)が作った」と改めれば正しくなる。
 ゆえに『易経』繋辞下伝の漢字起源記事もまた、倉頡伝説と同じく「倉頡一個人が、多数の漢字を発明した」と伝える。というのも倉頡は多数の文字を作らなかったが、前述したとおり多数の文字を作る「一即多、多即一理論([]の字源)」を発明したからである。
 1716年に成立した『康煕(こうき)字典』には最多の4735字を収めているが、これらすべての漢字は上記した倉頡の(1)「一即多、多即一理論」と(2)漢字作成原理「鳥獣の足跡」の二つの発明から生まれた基本字を組み合わせて作られた。だから、「倉頡一個人がすべての漢字を作成した」といっても過言ではないことになる。
 前回のわがブログ「日本が滅びる・163」で解説したように、上記した『易経』繋辞下伝の文中に登場する「天象」はB図「文字作成銀河」、「地法」は「黄河の水が銀河の運行の逆向きに西から東に流れる法則」、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」の別称、「地宜」は「平面的に図化した地図の形」である。

◆三皇五帝時代の文明は華北の黄河中流流域から発生した。というのも、当時のクワやスキは原始的で刃先が木製であったため、大量の雨が降って黄河の水が氾濫(はんらん)すると中流沿岸地域の堅い地面が泥のようにやわらかくなって開墾・耕作にともなう負担が大幅に軽減されたからである。ゆえに、洪水で地面がやわらかくなる黄河中流流域は豊かな実りに恵まれたためにいち早く文明が発達した。
 黄河流域の主食は粟であった。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の契文形について「上部は粟など穀類の実のある形」と解説し、「粟をゾクの音でよむときは、穀類の総称としても用いる」と指摘する。
 粟の穂につく小粒の果実は黄色く熟して垂れさがる。
 上記したように[]の字となった「十字の銀河」は、K図に示すように[]の字となった。また前述したように、「十字の銀河」は「全ての文字を生む母体」となった。
 L図に、黄帝が研究した出産の状況図を示した。

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 M図の左図は「十字の銀河」を「母体」に見立てて、L図の右図の娩出期(べんしゅつき)の胎児の顔の向きを当てはめた図である。M図の左図の出産児の顔は東を向くが――中国大陸の東は大海(黄海・東シナ海)となるので、すべての出産児は大海に産み落とされることになって矛盾する。
 この矛盾を解消するために、M図の右図に示す「地法」が必要になった。黄河の上流は大陸西側の渭水(いすい╱現在は渭河・ウェイホ)であり東方の中流で黄河となり、さらに東方の開封(カイフォン)のあたりを南端にして東北へ向かって黄河口(ホワンホー)に至る。つまりM図の右図に示すように、上流は「鬼の姿に似る銀河の胃のあたり」に見立てられた「渭水」と称され、黄河口の南にある「開封」のあたりは「鬼の横顔に似る銀河の舌のあたり」に見立てられ、「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の舌を結ぶ帯状の銀河」は「東北へ向かって水が去る(流れる)黄河」に見立てられて[][][][]の字となった。「子宮に繋がる産道」は「子宮口と膣口(ちっこう)まで」であるので[]の字となった。ゆえに、「黄河の河口」は「黄河口」と称さられることになった。前述したように、〔銀河部の運行とは逆向きに黄河の水は西から東へ去る〕ので「地法」ということになり、M図の左図下部に記した「南→東」はE図に示した銀河部の運行「南(天頂)→西」の逆向きになるゆえ、この逆向きの「黄河の水の移動」を「地法」と定めた。
 すべての出産児が中国大陸で生まれるためには、E図の〔南・天頂から→西の地平線へ没する銀河部の運行〕に合致するようにN図の左図のごとく、出産児が母体の腹側の西に顔を向くことになる天象、すなわち「夏の銀河の西南部」を倉頡は注目した。

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 N図の右図の「夏の銀河の西南部の西側半分」は「胎児の姿に似る銀河」である。この「胎児の姿に似る銀河」の「南→西」をあらわす転回イメージは、N図の左図の出産児の顔の向き「南→西」に合致する。「夏の銀河の西南部」は粟の収穫期の果実・穂の色のごとくに黄色く輝き、また粟の収穫期には長時間見ることができる。
 L図の出産第1期・開口期(かいこうき)の胎児は子宮口がすっかり開くと、骨盤で包囲される骨産道(こつさんどう)の入口では胎児はあごを胸につけた姿勢で背中を母体の左または右に向ける。児頭(胎児の頭)が骨産道の中ほどにおし下げられると胎児は斜め後ろ(母体の背側)に顔を向ける。児頭が骨産道の出口に到達すると顔をすっかり後方に向ける位置となり、開口期の終わりにはほぼこの状態になる。出産第2期・娩出期では児頭は母体の直腸を圧迫するので母体は大声を挙げる怒責(どせき╱いきみ、きばること)がおこり、陣痛と腹圧で児頭はますます押し下げられ、ついに膣口から胎児の頭が見えるようになる。さらに進んで児頭の最も大きな部分が膣口を通過しようとする時の直後に頭はふたたび母体の左または右を向くが、これは肩の部分が骨産道の出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうから先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは一気に生まれる。このような産道を通過して誕生する胎児の頭の周旋(しゅうせん)の様子は、N図右図の夏の銀河の西南部の形状のごとくに観える。
 というのも、夏の銀河の西南部には銀河系の中心方向があるからである。つまり無数の星や様々な星間物質が銀河系の中心方向から外へと渦を巻く様相は、胎児の頭が周旋して誕生する時の様子のごとくに観えることになる。
 倉頡は〔M図左図のごとく、すべての胎児は大海で出産することになる矛盾〕を、N図右図の〔熟した粟の穂のように黄色い夏の銀河の西南部のイメージ〕で解決した。
 だから、倉頡伝説では「天は祝福して粟を降らせ、死霊は感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという」と語られることになった。
 「死霊」は自らの氏族名をあらわす文字を作ることが出来なかった「包犧氏、女媧(じょか)氏、神農氏などの三皇時代の氏族たちの霊魂」であり、「感激して泣く」は「大量の雨」を指し、「泣く声が夜な夜な空に聞こえた」は「夜な夜な見える銀河各部の形状が文字となって三皇氏族の歴史を伝えた」と述べていることになる。だから、「大量の雨が降って黄河の氾濫によって地面がやわらかになって開墾・耕作が容易になって粟はじめとする穀物が豊かに実った状況」は「天は祝福して粟を降らせた」と表現されることになった。

◆倉頡の〔粟と夏の銀河の西南部〕を用いて矛盾を解消した理論には、新たな問題点が生じた。粟は乾燥した風土を好むのに対して、胎児は羊水で湿潤(しつじゅん)した産道を通過して誕生するからである。この矛盾を解消するために、湿潤な風土を好む〔禾(いね)〕が用いられた。羊水ははじめ無色透明であるが、妊娠末期には胎児の皮脂などによって淡黄色を帯びる。実った禾()の穂は粟の真っ黄色の穂よりも淡い黄色であるゆえ、産道を湿潤にして胎児の通過をスムースにする羊水の色に近いことになる。
 O図に示すように、胎児の顔に代わって禾(いね)の穂で「南→西」の転回方位が表現される[]の字が作られた。[][]に共通する。O図右端の[]2字の契文形について白川静著『字統』は[]の字の解説で「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」と指摘する。しかし、『字統』の16頁に掲載されたO図右端の[]2字の契文形は「委は稲魂を頭に被って舞う女の形」ではない。つまり、[]は「稲魂を頭に被る女性が舞う姿」をあらわすものでなかったのである。
 []は「南→西になる転回方位規定」をあらわすものであった。

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 O図に示す[]の契文形は〔果実〕の部分が図案されているが、その他の契文形は〔果実〕がない〔穂〕だけの形となる。そして、O図右端の[]のごとく〔頭部が渦巻となる穂の形〕となる[]の契文形は1字も存在しない。だから、O図右端の[]の契文形頭部の「穂の渦巻」は「羊水で湿潤した産道を通過する出産児の頭の周旋」をあらわしていることになる。また禾が大きく図案されるのは、禾が大きく育ち黄色く実る収穫期の夜に「夏の銀河の西南部」が長時間見えることを表現するものとなる。ゆえに、O図右端の『字統』16頁に掲載された2字の契文形は「[]の頭部で出産児の頭の周旋を、[]は女性が下を俯(うつむ)いて南→西の転回方位を見る形」を表現するものと考えるべきことになる。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は揚子江まで遠征した」と記述する。
 P図に示すように、中国地図出版社編集『中国国勢地図』(帝国書院)1987年当時、黄帝軍が遠征した揚子江地域の年間降水量(雨量)1,0261,200mm、黄帝陵・黄河中流地域の年間降水量は600mmと記す。禾の生育に適する揚子江地域は〔南〕となり、黄帝陵や三皇氏族が居住した黄河中流地域は〔西〕となる。だから、南の揚子江のように大量の雨が降って黄河が氾濫して土地が泥のようにやわらかくなって豊かな実りに恵まれる願望は転回方位の「南→西」となって、[]の字が成立しことになる。

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 無敵の黄帝軍は揚子江まで遠征した。ゆえに、白川静著『字統』は[]の字について「いねの象形。また軍門の象形」と指摘する。つまり、「軍が出動する時の門は稲が勢いよく育つ揚子江まで遠征した黄帝軍の無敵の軍力を示すために、稲の意匠で飾られることになった」ために、[]の字は「いねの象形。軍門の象形」となったことになる。
 人の正面形・人の背面形・人の側身形に相似する「十字の銀河」は[]の字や人偏となり、人偏に[]が加わって[]の字が作られた。
 以上のごとく、Q図に示すように[][]の字は「南→西」つまり「時計回りに方位が90度転位する転回方位規定」をあらわした。

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◆わがブログ「日本が滅びる」の118131までの14回をもって、(1)『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は、Q図に示す[]の転回方位規定に則ると矛盾点・不合理な点が一点も生じずすべて合理となることを証明した。また(2)倭の34小国名の文字をB図の文字作成銀河の各部の形状で字源・字形・字義を調べると各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)との間に、矛盾点・不合理な点が一点も発生しないことをも証明した。
 これゆえ、R図のごとく『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕を〔南〕に転回する錯覚の日本列島地理を制定していた」という重大な歴史的事実を証言していることになる。
 R図の「錯覚の転回日本列島地理」は[]の字源・字形・字義を表示する。だから、卑弥呼が統治した国号は「倭」となったのである。

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 1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれたS図に示す日本地図は、R図の「[]の字に則る転回日本列島地理」に合致する。学者たちはS図の日本地図について「この地図は『魏志』倭人伝のすべての方位記事に合致する。しかし、中国では古くから倭国は南北に連なる島々の集まりと考えられていたので、このような観念を抱いていた『魏志』倭人伝の著者の陳寿(ちんじゅ)が錯覚したものと考えるべきである」と主張する。
 しかし、O図・P図・Q図に示したように[]の字は「時計回りに90度方位が転位して、東→南となる転回方位規定」をあらわすゆえ、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた〔東→南〕となる日本地図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を描いたものであったことになる。その証拠に、この転回日本地図ならば「倭地図」と呼べるからである。学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤とする日本地図は[]の字に則(のっと)るものでないので「倭地図」と呼べない。
 以上のごとく、現在の日本地図を立論基盤とするすべての邪馬台国説は[]の字に合致しない誤読の産物である。『魏志』倭人伝には一点も“文献批判”を加える必要がない。誤読や歪曲に“文献批判”という名を付ける新井白石以来の約290年に及ぶ考え方(パラダイム)は、卑弥呼王朝が制定した倭地理と同じく錯覚の産物であったのである。

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2015年4月 4日 (土)

日本が滅びる・163

邪馬台国説は【誤読の空論】である
日本人の命のみなもとは「愛、あざやかに永遠であれ」の願いと祈りであった
 
◆日本は〔愛〕を掲げて誕生した。この【日本建国の〔愛〕の理念】を、時々、〔愛〕という一語、または「〔愛〕の理念」と表現する。

◆わが「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」は幾回もくりかえして――『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命」は『古事記』中巻の「第9代開化天皇」であると証明した。
 『古事記』の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚されて生まれた御子(みこ)は、比古由牟須美命(ひこゆめすみのみこと)である。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて生まれた御子は、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと╱のちの崇神天皇)である」と記す。
 上記した正妃の「竹野比売」が「伊耶那美命」であり、第二后の「継母の伊迦賀色許売命」が「天照大御神」である。
 わがブログ「日本が滅びる・18」で解明したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に「伊耶那美命」と記されたヒロインは「伊耶那美命」ではない。「伊耶那美命」は「天照大御神」である。この説話は「天照大御神(伊耶那美)は多数の18歳くらいの青年や13歳くらいの乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した」と記述する。この説話末部にて「伊耶那美命」と記される少し前に「千引石(ちびきのいわ)」が登場する。「千引石」は現在の和歌山県新宮市に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩」である。「伊迦賀色許売命」が「伊耶那美命=天照大御神」であることを現在に伝えて、神倉神社は天照大御神を祭る。
 現在は神倉神社の社殿が、千引石(ごとびき岩)が天に反()り立つ空洞に建てられている。しかし、3世紀、社殿は建てられていなかった。この千引石の前の空洞で倭女王・天照大御神は伊耶那岐命に離縁を告げられた。倭女王失脚と離縁の屈辱で怒る天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓った。この誓いの詞(ことば)は「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の母親たちの産道を狭くして一日に千人の胎児の頭を絞め潰(つぶ)して殺ろす」と呪詛(じゅそ)するものであった。この呪詛の詞に対して伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と述べて「伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ」と誓った。この両者の誓いの後に『古事記』は「天照大御神の呪いでわが国では一日に必ず千人死ぬが、伊耶那美命の遺志を継いだ伊耶那岐命の宣誓で一日に必ず千五百人生まれることになって、人口減は起こらないことになった」と書く。しかし、現在の日本は深刻な人口減に悩まされている。
 このような日本国誕生史にもとづき太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の初頭にて「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文を配して「〔愛〕の理念を提唱した陰の伊耶那美命と〔愛〕の理念を受け継いだ陽の伊耶那岐命の二霊が、わが国のすべてのものの生みの親となった」と表現した。
 わがブログ「日本が滅びる・77」で証明したように、上記した「伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた比古由牟須美命」が「須佐之男命」である。
 「伊耶那岐命と伊迦賀色許売命(天照大御神)が結婚した生まれた御子」と記された「御真木入日子印恵命」は実は「伊耶那岐命と伊迦賀色許売命が結婚して、伊耶那岐命と養子の絆(きずな)が生まれた御子」であった。つまり、御真木入日子印恵命は伊耶那岐命の父の孝元(こうげん)天皇と伊迦賀色許売命(天照大御神)の間に生まれた、のちの崇神(すじん)天皇である。だから、『古事記』は「伊迦賀色許売命と崇神天皇母子」の異名が大和朝廷の基礎を築いた「天照大御神」であると後世に伝えていたことになる。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話末部の須佐之男命の啼()きいさちの条(くだり)は「伊耶那岐大神は淡海(おうみ)の多賀(たが)に坐()すなり」と記す。この「坐すなり」と記された「鎮座地」を、多くの学者たちは「伊耶那岐命が没した地」と考えるが、この意見は誤っている。なぜかというと――『古事記』中巻の開化天皇紀末部は「伊耶那岐命=開化天皇の御陵(みはか)は伊耶河の坂の上()に在り」と記すからである。
 伊耶河宮は、関西本線と桜井線が合流する奈良駅から約550メートル東方の現在の奈良市本子守町率川(いざかわ)あたりに所在したと伝わる。開化天皇陵は春日山西麓の緩やかな斜面の平坦地(伊耶河宮から約250メートル北西の奈良市油阪町)に立地する。したがって、『古事記』中巻の開化天皇紀は「伊耶那岐命は開化天皇陵の南東に所在した伊耶河宮で死去した」と伝えていると考えるべきことになる。
 上記したように――伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚し離縁された天照大御神と息子(伊迦賀色許売命と崇神天皇)は怨み骨髄に徹し、復讐の念を露わに伊耶那岐命・開化天皇を憎悪した。このため、伊迦賀色許売命母子の復讐するクーデターの連鎖を絶つため、伊耶那岐命は生前にわが子の須佐之男命ではなく養子の崇神天皇に天下を譲った。にもかかわらず、天照大御神母子は怨み復讐して開化天皇の陵墓を作らなかった。開化天皇陵は伊耶那岐命が没した3世紀後半に築造されず、その墳丘規模から5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。天下を譲られた恩にもとづけば崇神天皇は、伊耶那岐命が死去した3世紀後半、復讐の念を忘れて巨大な陵墓(開化天皇陵)を築かねばならなかったはずである。

◆伊耶那岐命が没してから約200余年後に築造された開化天皇陵を、『古事記』と『日本書紀』が成立した8世紀の人々は伊耶那岐命の魂が憑依(ひょうい)する霊地として信仰しなかった。というのも、当時の人々は“愛、あざやかに永遠であれ”と願って、伊耶那岐命の霊は愛する伊耶那美命の霊と共に棲むと信じていたからである。このため、上記したように712年に完成した『古事記』は「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記した。つまり『古事記』はA図に示す「伊耶那岐命の霊魂は淡海・琵琶湖の多賀大社に鎮座して、伊耶那美命と共に祭られる」と記したことになる。伊耶那岐命と伊耶那美命を主祭神とする多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町多賀604に所在する。
 720年に完成した『日本書紀』は「幽宮(かくれみや)を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた」と記すが、この記事は「伊耶那岐命は淡路島で死去した」と伝えるものではなく、「伊耶那岐命の霊魂は、B図に示す伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう╱兵庫県淡路市多賀740)に鎮座し、愛妻の伊耶那美命と共に祭られている」と解釈すべきことになる。

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 『古事記』の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔国生み〕の条(くだり)には伊耶那岐命と伊耶那美命が強い愛で結ばれ、また「倭女王となった伊耶那美命が小国・日本でおこなったと同じく〔愛〕を国作りの柱に定めた」と書き、さらに――伊耶那美命は「淡路島」を「淡道之穂之狭別別島(あわぢのほのさわけのしま)」と名づけ、「四国」を「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と名づけ、さらに「伊予之二名島」を四つの小国に分けて各小国の守り神について「伊予国の祭神の名を愛比売(えひめ)、讃岐国の祭神の名を飯依比古(いいよりひこ)、粟国(あわくに)の祭神の名を大宜都比売(おおげつひめ)、土左国の祭神を建依別(たけよりわけ)と名づけた――と記述する。
 上記の国生みの記事に登場する伊予国の祭神の「愛比売」は「男性と女性が愛し合って多くの子どもを産む【日本建国の〔愛〕の理念】を祭る女神」、讃岐国の祭神の「飯依比古」は[]の字が示すように「飯となる穀物が多く豊かに実るように祭る男神」、粟国の[]について白川静著『字統』が「穀類の総称として用いる」と解説するので祭神「大宜都比売」は「穀物やその他の作物が多く豊かに実る農地を守る女神」、土左国の祭神の「建依別」は「多くの子どもが健やかに育つように守る男神」をあらわした。

◆わがブログでは何度も何度もくりかえして、漢字はD図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】から作られたことを証明した。その証拠に「銀河」の別名は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称することになった。
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 上記したように、近江・滋賀県の多賀大社と兵庫県淡路島の伊弉諾神宮の住所名は共に「多賀」である。
 D図の左上にある「十字の銀河」は、「銀河の各部の形状から作られたすべての文字を生む母体」と定められた。したがって「十字の銀河」は「多数の文字を生む母体」であるので[]の字(字源・字形・字義)となった。また「十字の銀河」は「多くの子どもを生む母。また多くの農作物を育てる恵みの雨が降る天」と見立てられて[]の字となった。
 わが国の漢字研究の第一人とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)は、「多賀」の[]について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。これゆえ、「多賀」は「多くの子どもが産まれるように、また多くの農作物に恵まれるように神に祈願する儀礼」をあらわすものであったことになる。
 E図に示す「十字の銀河の子宮」は「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字」の[]の字(字源・字形・字義)となった。いいかえると、[]の字は「多くの子どもが健やかに育ち、穀類や食料となる草が健やかに育って多くの農作物が実る」をあらわす字であり、[]の字源銀河部は「十字の銀河の子宮」であった。
 だから、「多賀」と住所名が同じ多賀大社と伊弉諾神宮は[][]の字となった「十字の銀河」に見立てられた聖地であったことになる。

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 E図に示すように、「多賀」の地名が生まれた「十字の銀河」は「東半分が伊耶那岐命、西半分が伊耶那岐命」に観える。だから、A図の多賀大社とB図の伊弉諾神宮の主祭神の「伊耶那岐命と伊耶那美命」は「十字の銀河」に見立てられていたことになる。

◆わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・11」において、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭に記載される淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚儀式は、F図に示すように卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理にもとづいて天橋立(京都府宮津市)を舞台にして行われた。そして、この天橋立で行われた聖婚儀式は琵琶湖と淡路島も加えて卑弥呼王朝が再度来襲するにちがいない思い込んだ呉の遠征軍に伊耶那美命を女王に伊耶那美命を軍王(いくさのおおきみ)として赴任させる小国・日本軍が勝利する呪力(じゅりょく)を祈願するものであった。
 G図に、転回日本列島地理にもとづく琵琶湖の地宜を示した。“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり」と解説する。ゆえに、G図の「琵琶湖の地宜」は「鳥が上空へ飛び立って、地に降りて来ない姿」に見立てられてことになる。
 なお[]の字源解説にある「上翔」の[]の字源を、『説文解字』は「回飛するなり」すなわち「天に飛び立った鳥が、ゆるやかに飛び回る。または回転してもどる」と解説する。

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◆A図に示すように彦根市の南限は愛知川(えちがわ)である。彦根市南部の東隣は、かつて愛知(えち)郡愛知川町と秦庄(はたしょう)町であった。20062月に、愛知川町と秦庄町が合併して愛荘(あいしょう)町となって発足した。この結果、愛知郡は愛荘町1町のみとなった。
 この「愛知川」や「愛知郡」の「愛知」の由来を、三省堂編修所編者『コンサイス日本地名事典』は「【古綴】は依智(『日本書紀』元正紀)・愛智「『延喜式』・『和名抄』」。『天保郷帳』以降はほぼ現綴」と記す。
 「依智(えち)」という古称は『古事記』が完成した712年より以前に確立されて、元正天皇(715724在位)の時代には「依智」と綴られることになったと考えるべきことになる。というのも、上記したように『古事記』は「伊耶那岐命は多賀大社に鎮座する」と記述し、これから証明する「依智」という地名は『古事記』の完成以前にすでに多賀大社が創設されていないと成立しないからである。
 (1)『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記された淤能碁呂島の聖婚は、F図に示す天橋立で行われて琵琶湖と淡路島が加わって再度遠征して来るにちがいないと思い込んだ呉軍に日本軍が勝利する呪力を祈願したことについて削除された。また、(2)淤能碁呂島の聖婚後に小国・日本に赴任した女王・伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史も省略された。そして、(3)『古事記』の国生みの記事は難解で、「伊予之二名島」という名や「伊予国を愛比売と謂()ふ」と記す文をもって「倭女王・伊耶那美は倭国・日本国の国作りの柱を、小国・日本の女王時代と同じく〔愛〕と定めた」と説明するものであった。これらの重大な歴史を後世に伝えるために、先人たちは智恵を絞って「依智」と「愛智」という地名を考案した。
 F図下部の琵琶湖と左上の淡路島の地宜は互いに相似する。そして、G図に示したように琵琶湖の地宜は空を飛ぶ鳥の姿に相似し、淡路島の地宜は琵琶湖に向かって[]の字義「回飛する、つまり回(めぐ)り戻る鳥の姿」に相似する。
 H図は――天翔(あまがけ)る鳥の姿となった淡路島が琵琶湖に向かって回飛し、住所名「多賀」で同じ伊弉諾神宮と多賀大社が合体するように鳥が降下して棲みついたと信仰した――先人たちの“愛、あざやかに永遠であれ”と願い祈った情念(思い)を示す図となる。
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 わがブログ「日本が滅びる・141」で取り上げたように、観察者の視界に少し光が入った瞳孔の直径の場合、D図に示した「十字の銀河から人の横顔に酷似する銀河」までの銀河の形状は下のカラー写真のごとくになる。

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 I図における「十字の銀河」はC図の「淡路島(淡道之穂之狭別島)」に、「鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は「讃岐国・飯依比古」に、「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)の北天の最輝部(さいきぶ)」は「伊予国・愛比売」に見立てられた。

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 I図に示す「鬼の横顔に似る銀河と南部の銀河」は「讃岐国・飯依比古」の[]の字源銀河となった。
 J図左図に示すように、「白い衣に包まれる胎児の姿に似る銀河」が[]の字源となった。J図右側の[]の契文形は「衣に包まれる人つまり胎児の姿」を図案する。だから[]のは[](人偏)[]が加わる字となった。

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 []の字源はJ図の「衣に包まれる胎児の姿に似る銀河」だけでなく、K図のカラー写真「海藻のような絨毛(じゅうもう)に包まれる3ヵ月の胎児」も[]の字源であった。
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 J図上部に「如来像の光背(こうはい)やアワビの貝殻のような輪郭」と記した「[]の字源を包む衣となる銀河範囲」は、K図の胎児を包む「絨毛」の形に相似する。

◆L図は「依智」の地名の由来の解明図である。
 L図の左側に示すように、「琵琶湖」は「人の横顔に酷似する銀河」に類似する。
 L図右上に示すように「伊弉諾神宮と多賀大社を合体させた淡路島」は「雌雄のタンチョウツル」に相当する。「雌雄のタンチョウツルの頸の部分」に「十字の銀河」が在る。


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 そして、[]の字となった「白い衣に包まれる胎児の銀河」はL図の右下の「愛知川河口から愛知郡のあたりまで」に合致する。というのも「雌雄のタンチョウツルの銀河」は「多賀大社」に合致し、「人の横顔に酷似する銀河」は「琵琶湖」に合致するので、中間の[]の字源の「白い衣に包まれる胎児の姿に似る銀河」は「愛知川河口から愛知郡のあたりまで」が合致するからである。
 L図中央の下部に示すように、愛知川河口の西隣の湖上に浮かぶ琵琶湖最大の島の沖島(おきのしま)は、東経1365分である。『日本書紀』が伊耶那美命の葬られた地と記す花の窟(いわや)神社(三重県熊野市有馬町)もまた東経1365分である。伊耶那岐命と配下の日本兵たちが熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された多数の徇葬者ともに葬られた伊耶那美命の陵墓の玄室から奪った棺(ひつぎ)におさまっていた亡骸は、50余メートルの高さでそそり立つ花の窟の根元の祭壇と玉垣からなる境内に埋葬されたことになる。
 上記したように、愛知川河口の西隣の湖上に浮かぶ沖島と花の窟神社は同経度である。
 したがって、沖島は花の窟神社に葬られた伊耶那美命の霊が依()りつく聖域と考えられることになった。ゆえに、伊耶那美命を愛した伊耶那岐命の霊は沖島より東の愛知川河口から愛知郡までが伊耶那岐命の霊が依りつく聖域となったのである。
 それというのも、熊野の大斎原に築造された伊耶那美命の陵墓は被葬者がいなくなって破壊され、そのかわりに花の窟神社が伊耶那美命の墓となったからである。ゆえに、伊耶那岐命・開化天皇陵は後世に築造されたが、開化天皇陵もまた伊耶那美命陵と同じく伊耶那岐命の霊が依りつく墓であると――人々は考えようとしなかったのである。伊耶那岐命の霊魂は彼が愛した伊耶那美命と共に祭られて伊弉諾神宮や多賀大社に憑依し鎮座していると人々は信じるようになり、また琵琶湖の湖上に浮かぶ沖島と愛知川・愛知郡も伊耶那美命と伊耶那岐命の霊が依りつく聖域であると人々は信じようになったのである。
 白川静著『字統』は[]について「祖霊の憑(より)つくことをいう。またそのように祖霊の憑りつく状態を依という」と解説する。
 だから、愛知川と愛知郡は伊耶那岐命の霊が憑依(ひょうい)する地域となって[]の字をあらわす地となり、この[]の字の考えはL図に示した「智恵」によって成立した。したがって、「愛知」の古称は[][]が加わって「依智」と綴られることになった。
 また「依智」という地名は“伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】があざやかに永遠であれ”と願う智恵から生まれたものであったゆえ、後年は「愛智」と綴られることになったのである。

◆L図が示すように――上記したカラー写真の「タンチョウツルの姿が見える銀河」から伊耶那岐命の霊魂は愛知川右岸地域の郷に依りついて棲むと信じられることになって「依智」という地名が生まれた。
 タンチョウツルは芸術・意匠、折鶴、昔話などで日本人にとって身近な存在となる。

そして、神前結婚では神主は伊耶那岐命と伊耶那美命の両神に新郎新婦の名と住所を告げて永遠の愛と幸福を願う儀式を行う。タンチョウツルは結婚を祝福する様々な物を飾る意匠となる。
 タンチョウツルの巣は卵2個産み、雌雄が交代で温めて約1ヵ月でふ化する。ヒナはふ化するとすぐに歩くことができ、両親と一緒に湿原の中で餌を探しながら育つ。この生態が【日本建国の〔愛〕の理念】と【伊耶那岐命と伊耶那美命の夫婦愛】をあらわした。
 だから、M図に示すタンチョウツルの舞姿のごとく、伊耶那美命の魂はメスのタンチョウツルとなって沖島がある湖上に憑依して棲み、伊耶那美命を愛した伊耶那岐命の魂はオスのタンチョウツルとなって愛知川右岸地域に憑依して棲むと信じる――先人たちの情念(おもい)は「依智」という地名を生むことになったのである。

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 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』繋辞下伝は漢字の起源について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と伝える。この文中の「天象」はD図の「文字が生まれた銀河」であり、「地法」は「黄河・長江の水が、銀河の運行とは逆向きの西から東へと流れる法則」であり、「鳥獣の文」は倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別名であり、「地宜」はA図・B図・C図・D図・F図・G図・H図・L図中央下図などの「平面的に図化した地図の形」である。

いままで証明してきたように、わが国には「地宜」が字となる原初漢字の夏音文字が存在した。だから、L図で証明したように「天象・銀河と地宜によって成立する合理」は「『古事記』上巻に記された淤能碁呂島の聖婚における史実を知ることができる文字」となり、また先人たちの“愛、あざやかに永遠であれ”という願いと祈りをわれわれ現代人は「地宜」を【文字」とする【夏音文字の学芸】によって知ることができる。
 
 以上のごとく【夏音文字】が存在したからこそ、〔愛〕は日本国誕生史の花咲く魂となって日本のすべてを創造する源(みなもと)となったことを知ることができる。

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2015年3月17日 (火)

日本が滅びる・162

邪馬台国説は【誤読の空論】である
天皇の王冠は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした!

◆新井白石(16571725)以来今日まで290年間、学者たちは古代歴史学や古文献学の鉄則をまもらずに『魏志』倭人伝に多数の【誤読】を加えて邪馬台国説を立論する。
 『魏志』倭人伝は一切【誤読】を必要としない。『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あり、この15ヵ所の方位記事を忠実に読解するとA図のごとくなる。つまり卑弥呼王朝はA図のごとく錯覚の転回日本列島地理を制定していたことが事実となる。

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 わがブログ「日本が滅びる」では幾回もくりかえして、漢字はB図の【秋の銀河と夏の銀河各部の形状】から作られたことを詳細に解説し証明した。
 『魏志』倭人伝は「倭の卜占の辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」という記述をもって、「令亀の法の如く」つまり「殷代(いんだい)の卜辞に用いた亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん╱甲骨文字)のごとき文字」があったと証言する。また、『魏志』倭人伝は「卑弥呼が文書に書く文字と魏の都・帯方郡(たいほうぐん╱A図の最上部)・諸韓国の文字は差錯(ささく╱相違)していたので、倭では伊都国の港で点検し確認して間違いが生じないようにしている」と記述する――つまり、魏都・帯方郡・諸韓国で用いた楷書と卑弥呼が用いた漢字は相違していたので、伊都国(A図上部にある)の港では夏音文字と楷書が作られたB図の銀河各部の形状を観て間違いが生じないように変換していたことになる。
 魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書はB図の銀河各部の形状から作られる文字(字源・字形・字義)であったが、幾つかの文字は字源を失っていた。他方、卑弥呼が用いた文字は今から紀元前21世紀末の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来したB図の銀河の各部の形状に忠実な正しい字源を保存する原初漢字の夏音(かおん)文字であった。楷書も夏音文字もB図の銀河の各部の銀河から作られた文字であったため、伊都国ではB図の銀河を字書・辞典のごとく扱って魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭の夏音文字を正しく変換することができたのである。

◆今から約5000年前頃の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)はB図の銀河各部の形状から万物の情(イメージ)に類似する文字を作る漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明して“漢字の始祖”と崇拝された。わがブログ【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」で指摘したように――(1)B図の銀河各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字を容易に習得するために、文字となった銀河各部に名称を付けた者(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者――には、神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。ゆえに、五帝時代の書刻(しょけい)と紀元前2070年からの夏音文字と紀元前1600年~紀元前1300年までの殷代前半期の文字は、倉頡が定めた(3)の掟を厳守したために文字が書かれた史料が出土しないことになった。(3)の掟は紀元前1300年の殷代後半に出現した契文によって最初に破られた。
 夏音文字そのものを書いた史料は存在しないが、『魏志』倭人伝の人名・小国名には契文と同じく(3)の掟を破った楷書で表記される夏音文字が幾つか用いられ、『古事記』上巻の随所にも〔音〕と注が付く1字1音の夏音文字が楷書で多数記載されて実在する。楷書で表記された「卑弥呼」を「ヒミコ」、「壱与」を「いちよ」と読まずに「イヨ」、「載斯烏越」を「さいしうえつ」と読まずに「ソシアオ」と読めば、すべて夏音文字となる。
 わが国に“奇跡”が起きた。わが国には学者たちが【誤読】を用いて「存在しない」と断定した夏音文字の学芸を保存した施設(遺跡)3世紀後半に作られ、この施設はわが国の夏音文字と中国・朝鮮半島で用いられた楷書は共に銀河から作られた学芸をも保存した。つまり、280289年に著作された『魏志』倭人伝と同時代の260290年に作られたC図に示す私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた遺跡に、夏音文字の学芸が保存されて現存するという“奇跡”が起きた。
 
 
「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形である。「卑弥呼」の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載された豪族一族が作成した。
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 建比良鳥命はC図上部の引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住した。1010年、建比良鳥命の末裔は武家の井伊氏を樹立し、24代頭首の井伊直政(なおまさ)は譜代大名筆頭の地位につき、徳川家康の命令で1601年の正月に近江の佐和城に入った、しかし、1600年の関ヶ原合戦で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して翌16022月に没した。藩祖が死去した翌1603年から井伊氏・彦根藩は20年後の1622年、D図に示す3千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。D図は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67で詳細に解説して証明したように、彦根の3千万坪の大鳥の形をした地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は織田信長・徳川家康・井伊直政が一生をささげた【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の心願をあらわして「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と設計された遺跡である。
 C図の「卑弥呼」の地上絵は、『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与、年十三にて王と為()る」と記された、小国・日本の女王となった13歳の夏音名が壱与すなわち伊耶那美命(愛称、本名は「竹野比売(たかのひめ))が国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史を後世に伝えるために、伊耶那美命と同時代に生存した建比良鳥命の一族によって作成された。ゆえに「小国・日本の女王の伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念」を私は【日本建国の〔愛〕の理念】と名づけた。上記したように、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の作成目的は【夏音文字の学芸】ならば伝えることができる【日本建国の〔愛〕の理念】となった。
 上記のごとく、文字がB図の銀河の各部の形状から作られた秘密を保存する「卑弥呼」の地上絵は歴代天皇王朝にその存在を知られたならば即座に一族が滅亡する大罪であった。しかし、建比良鳥命の一族そして井伊氏と姓を変えた一族は代々厳重に「卑弥呼」の地上絵を直隠(ひたかく)しに守ったために朝廷に知られなかった。
 C図の「卑弥呼」の地上絵は3世紀に生存した建比良鳥命の一族が作成したゆえ、(1)「卑弥呼王朝はA図の錯覚の転回日本列島地理を制定した」、(2)「夏音文字と楷書はB図の銀河の各部の形状から作られた」、(3)「『古事記』上巻の伊耶那岐命・伊耶那美命と天照大御神・須佐之男命の説話は歴史的事実であった」ことが完全証明できる遺跡である。

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・161」で証明したように、D図の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵が完成した翌年の1623年から病床に伏せた1645年までの23年間、小堀遠州はE図の桂離宮庭園の地宜(平面図)の作成に情熱を傾けた。桂離宮庭園の地宜作成は江戸幕府の【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興事業】として行われた。
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 夏音文字は、中国の五経の第一に挙げられる『易経』の繋辞(けいじ)下伝が「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と伝える漢字の起源の秘密を保有した。「天象」とはB図の「文字となった銀河各部の形状」であり、「地法」とは「中国を代表する黄河・長江の水が、東から西へと移動する天象(銀河)の運行とは逆向きに西から東に流れる法則」であり、「鳥獣の文」は「倉頡が発明した〔鳥獣の足跡〕」の別称であった。そして、「地宜」はA図・C図・D図の「平面的に図化した地図の形」、そしてE図の「桂離宮庭園の平面図」であった。
 夏音文字において「地宜」は字(字源・字形・字義)となった。これゆえ、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に夏音文字を表記する楷書の「地名」を「地宜」に変換すれば、A図・C図・D図・E図の「地宜」が証明するように歴史的事実を伝えることになった
 
 F図の岩は、桂離宮庭園の天の橋立(E図の中央左側にある)の中央の築島(つきしま)の南側にある。F図の岩の形は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における最初の〔淤能碁呂島(おのごろじま)の聖婚〕は現在の京都府宮津市の特別名勝・天橋立(上記の「天の橋立」と同じ)でおこなわれたと日本国誕生の夜明けの歴史を伝えるものとなった。
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 G図の大山島の地宜(E図の上部にある)は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔国生み〕の二度目の淤能碁呂島の聖婚の箇所で「伊予国の祭神は愛比売(えひめ)と謂()い、讃岐国(香川県)の祭神は飯依比古(いいよりひこ)と謂う」と記された歴史を設計するものであった。旧国・伊予国は現在の「愛媛県」であり、その「愛」は信長・家康・井伊氏が復興しようとした心願【日本建国の〔愛〕の理念】であった。

◆徳川家康は1616年に没したが、その一年前の1615年には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。つまり家康は「第一に大切なのは夏音文字の学問と考え、B図の銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)とした夏音文字の学問は諸々の日本文化の生みの親となった芸術的才能を高めて修得する学術であった」ゆえ、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と天子(天皇・上皇)に欲求したのである。
 「禁中並公家諸法度」の第一条「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】をあらわす家康の遺志となり、歴代将軍と幕府が実現すべき宿題となった。これゆえ、第一条の文中にある「天子」は真っ先に時の「後水尾(ごみずのお)上皇」を指した。ところが、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】を復興するために作庭された桂離宮の持ち主は八条宮智仁(としひと)親王であり、後水尾上皇は智仁親王の甥であった、したがって、桂離宮の庭園は智仁親王に献上されたことになるので、上皇は無関係であると振る舞って遠州が存命中に一度も桂離宮に御幸(みゆき)しなかった。というのも皇祖・天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】は朝廷滅亡の原因となると憎悪し祟(たた)ったがために朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を隠蔽(いんぺい)し抹殺に努めた。これゆえ、幕府の要望は到底受け入れることができない問題であったので、上皇は“我関せず”と振る舞った。
 智仁親王所有の桂離宮の庭園作りは幕府の要望について考えなくてよいと上皇に口実を与えたことに気づいた幕府は、【夏音文字の日本建国の〔愛〕の理念の復興】を直接的に要望するために、H図に示す修学院離宮(京都市左京区修学院室町)の大庭園を1655年から着工し1659年に完成させて上皇に献上した。

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 幕府は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の願望を明確に示すために、修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の隣雲亭(りんうんてい)は眼下にI図左図に示す浴竜池(よくりゅうち)の地宜(平面図)が見える高い展望台にした。ゆえに隣雲亭から見下ろすI図左図の「浴竜池の地宜」は、I図右図の〔竜(巨龍の銀河)が池に浴びる形〕に観える「夏の銀河の西南部」をあらわすことを明確に示した。また、H図に示すように浴竜池は下御茶屋(しものおちゃや)の東北に所在するので、「浴竜池」はB図の左上・東北にある「十字の銀河」と右下にある「夏の銀河の西南部」に見立てられたことになる。このことは、わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の1011で詳細に解説し証明した。
 H図に示す下御茶屋の「寿月観(じゅげつかん)」という名の書院の一の間には後水尾上皇宸筆(しんぴつ)、すなわち天子の筆跡の篇額(へんがく)がある。

◆J図に示すように、F図に示す岩がある天の橋立の西方に「月波楼(げっぱろう)」がある。「寿月観」と「月波楼」という書院名は「月」の字で共通する。

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 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の1011と前回のブログ「日本が滅びる・161」で、K図に月波楼の東方にあるF図に示した岩は女体に相似する「十字の銀河の乳房」に見立てられ、また岩がある「天の橋立」は「夏の銀河の西南部の設計部」に相当することを証明した。ゆえに、I図左図の修学院離宮の浴竜池の地宜とF図の岩の両者は「十字の銀河」と「夏の銀河の西南部」に見立てられて【日本建国の〔愛〕の理念】を表現した。
 そして、F図の岩は、L図に示す[]の字(字源・字形・字義)をも表現した。L図の[]の上部の[(べん)]は「十字の銀河」を図案するものであり、下部の[]は「鬼の姿に似る銀河」から図案された。F図の岩は、L図の「十字の銀河の子宮が重なる大きな乳房に観える銀河部と鬼の横顔に似る銀河の口と舌が繋がる帯状の銀河」は「乳児が母親の乳房を嘗()める姿」つまり「乳する」という語を連想するために設置された。
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 “字書の聖典”と尊重された後漢時代の2世紀初頭の文字学者・許慎(きょしん)が著作した『説文解字』はL図の[]の字源を「乳するなり」と説く。
 M図に、『説文解字』が[]の字源を「乳するなり」と説いた銀河部をあらわした。
 ゆえに「天子諸芸能ノ事」と文のごとく「銀河各部の形状を文字と解する芸術的能力」によって――F図の岩はK図とM図に示すがごとく「十字の銀河の小さな乳房と大きな乳房」に見立てることができる。また、「F図の岩の東側の大きなコブ」は「乳児が母親の乳房を嘗()める、つまり乳するなりの十字の銀河の大きな乳房」をあらわすことになる。
 N図に示す桂離宮庭園の「乳するなり」をあらわす部分は、池の岸辺で占められる。だから、修学院離宮の庭園造営着工から3年後の1658年と8年後の1663年に桂離宮に御幸(みゆき)して庭園を見学した芸術的才能に優れる後水尾上皇は、平面図を見なくてもN図の池の岸辺の形が「乳するなり」を設計するものであることが察知できた。
 N図の「乳するなり」の「大山島の大きな乳房をあらわす庭園部」には「園林堂(おんりんどう)」が所在する。大山島は小高い「丘」の形からなる。「園林堂」の「林」に「丘」を加えると「林丘」となるゆえ、修学院離宮の中御茶屋(なかのおちゃや)の後水尾上皇が1668年に造営した「林丘寺」という寺号に合致する。

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 N図の「乳するなり」と設計された庭園部が示す「林丘」という寺号は、F図の岩があらわす「『古事記』上巻に記述された最初の淤能碁呂島の聖婚で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命は小国・日本に赴任して国作りの柱を〔愛〕と定めて治めた」、またG図の大山島の地宜があらわす「二度目の淤能碁呂島の聖婚においても、倭女王伊耶那美命は四国・伊予国の祭神を愛比売(えひめ)と名づけて、倭国・日本国の国作りの柱を【日本建国の〔愛〕の理念】と定めたと事実を証言するものであった」と後水尾上皇が認めたことになる。
 しかし夏音文字の学芸を復興すると、朝廷が伝統的に隠蔽と歪曲と抹殺に努めた『古事記』と『日本書紀』に記述された皇祖・天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪し苦しめた歴史が明確となる。ゆえに上皇は夏音文字の学芸を復興すると皇室が人民に憎悪されて滅亡すると心配した。このため、上皇は幕府の要望【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の復興】を受け入れなかった。

1709年、甲府(山梨県)藩主の家宣(いえのぶ)6代将軍になると、甲府以来の学問の師である新井白石を幕政に当たらせた。白石は7代将軍家継の幕政も担当した。しかし1716年、吉宗が8代将軍になるとたちまち追放され、わずか7年で白石の政治生命を終えた。その後、白石は歴史を研究して著書『古史通或問(こしつうわん)』で「邪馬台国は大和である」と論じ、後に著した『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他にて、「邪馬台国は筑後の山門(やまと)郡である」と比定した。
 この白石の邪馬台国説は【誤読】で立論する【空論】であった。現在の邪馬台国説は白石の【誤読の空論】の考え方をそのまま受け継ぐ。というのも、C図の「卑弥呼」の地上絵・D図の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵・E図の桂離宮庭園の地宜・H図の修学院離宮地の大庭園によって、『魏志』倭人伝はA図の転回日本列島地理とB図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字】とした夏音文字の学芸を記述するものであったことが科学的に証明されるからである。また、1738年に皇室は本格的に大嘗会(だいじょうえ)を復興して、転回日本列島地理と夏音文字の学芸は歴史的事実であったと認めたからである。
 
 皇祖・天照大御神は夏音文字の学芸を土台にして朝廷の強大な権力の基礎を築き、幕府は夏音文字の学芸を復興の基に樹立された。ゆえに、白石が立論した【誤読の空論の邪馬台国説】は皇室と幕府の屋台骨を崩壊させる脅威となった。
 だから白石の死から13年後の1738年、霊元(れいげん)上皇の孫の家仁(いえひと)親王が所有した桂離宮庭園から、時の天子・霊元上皇は将軍吉宗の協力を得て、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】は歴史的事実であったと認めて皇室を基礎から立て直すために大嘗会を本格的に復興した。

 
◆D図に示した彦根の大鳥の地上絵は、信長・家康・井伊氏の歴代頭首が伊耶那美命に熱烈に憧れて【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】に一生をささげた情念を設計した遺跡である。
 O図はA図の転回方位にもとづく伊耶那美命を主祭神とする熊野那智大社と信長の出身地の尾張・家康の出身地の三河・井伊氏の出身地の遠江の地宜である。「伊勢湾」は「松の葉冠(ようかん)」のごとく、「三河湾」は「松の樹木」のように観える。

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 P図の右側の「卑弥呼の地上絵を示す庭園」は「卑弥呼」の地上絵を保存したO図の「遠江の井伊氏」をあらわす。また、P図の「桂離宮の池」はO図の「伊勢湾・三河湾」と同じく「松の木の形」に設計されるので、O図の「尾張の信長と三河の家康」をあらわす。そして、「大山島」は「熊野」と「熊野那智大社」に見立てることができる。

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 Q図左図に、那智大社の御神体である那智の大滝の正面にある三種の神具を示した。
 Q図右図に、滝に向かって下段左側の神具を示した。この神具のうちの「富士山の形をした神具」はG図に示した「讃岐富士・飯依比古」に合致する。ゆえに、「水器(すいき)」はG図に示す「伊予・愛比売」を合致する。というのも家々の神棚に置いてある水器は手の平に載せてまじまじと見れば察知できるように、「水器の蓋」は「乳房」の形をしており、「水を入れる容器」は「妊婦のおなか」の形となるからである。そして、日々取り替える水は「子宮に宿る胎児の命を守る羊水」をあらわし、「水をいれる容器」は「子宮などの女性生殖器」をあらわし、「水器の蓋と蓋につくミゾ」は「胎児が無事に誕生するための産道の内壁にあるミゾ」をあらわす。だから、「水器」は「伊予・愛比売」をあらわした。
 R図右図に示すように、M図とN図に「乳するなり」と記した銀河部は「嘗()める」をあらわして、[]の字となる。また、R図左図の「十字の銀河」は大字形であるゆえ[]の字となった。[][]を加えると、「大嘗会」という皇室最大の神事をあらわす。
 大嘗会は戦国時代にて中断した。旧来の大嘗会はR図右図の銀河にもとづいて「皇祖・天照大御神に神饌(しんせん)の初穂を奉る神事」であったゆえ、その銀河の形状を「天照大御神が初穂を嘗める」と見立てて「大嘗会」と名づけたにちがいない。
 そしていままで証明してきたように、幕府が要望する【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】はR図右図の銀河の形状は「大嘗会」という名にぴったり合致した。だから白石の【誤読の空論】は皇室を滅ぼす脅威・原因になると心配した霊元上皇は、大嘗会を本格的に復興することにしたのである。

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大嘗会において天皇の即位式に用いられる王冠の意匠は、S図の「卑弥呼」の地上絵が上の飾りの意匠となり、下の飾りはQ図左図に示す「水器の蓋」の意匠となった。だから、天皇の王冠は[]の字が加わって「御菅蓋(おかんがい)」と名づけられた。

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 T図に示すように、天皇の王冠は「卑弥呼」の地上絵をデザインして【夏音文字の学芸】を、水器の蓋をデザインして【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。だから即位する天皇の頭上に掲げられる王冠の意匠は、白石以後の学者たちの『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を研究した意見は実在した夏音文字の学芸とA図の転回日本列島地理を排除した【誤読の空論】であると明確に示す。
 大嘗会の祭場は二ヵ所に設けられる。この二ヵ所の祭場はB図の文字が作られた銀河の「左東・右西」の形式と同じく「左東・右西」と定められている。ゆえに、大嘗会は銀河各部の形状を文字とした夏音文字の学芸を祭る神事であった。その証拠に左・東の祭場は「悠紀」と表記されて「卑弥呼」と同じく1字1音の夏音文字で「ユキ」、右・西の祭場名の「主基」は夏音文字で「スキ」と読む。
 邪馬台国説は【誤読】を用いて夏音文字の学芸を排除する。上記した「禁中並公家諸法度」の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文が示すように「わが国の諸々の芸能の生みの親は銀河各部の形状を文字と解した夏音文字の学問であり、この夏音文字の学問は最も大切であり、排除することは絶対にできない」という考えの基に、天皇の王冠は1738年の大嘗会の本格的な復興から新たに加えられた。
 以上のごとく、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加える【誤読】に“文献批判”という偽名を付ける方法をもって、転回日本列島地理と夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を抹殺した。

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2015年3月10日 (火)

日本が滅びる・161

邪馬台国説は【誤読の空論】である
■桂離宮の庭園は「日本国が〔愛〕を掲げて誕生した」と伝える遺跡である

◆タイトル名を以前の「日本が滅びる」にもどして、前回までの「朝日新聞社の社長様への直訴」の11回を数に入れて、今回は「日本が滅びる・161」と定めて一新することにした。(つまり、11回おこなった「朝日新聞社の社長様への直訴」を「日本が滅びる」の回数に組み入れた。ゆえに「日本が滅びる」は150160までは欠番とした)

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲」は首尾一貫して、今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かん)文字が伝来していたことを詳細に解説し証明する。そして夏音文字とまた7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書と、さらに楷書の伝統を受け継ぐ今日に用いられている漢字(楷書)も、ともにA図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする事実もわがブログは解説・証明してきた。
 「銀河」は「銀漢」とも言われるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称された。したがって「に多数の字ありき」または「字の学芸ありき」を略して、A図に示す「銀河が輝く天」は「天文」と名づけられることになった。
 2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を記述した『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事は一点の矛盾点もなく一ヵ所の不合理な箇所も生まれずに――夏音文字の学芸を政権基盤とした卑弥呼王朝は、B図に示すように「西(九州)を北・東(近畿地法)を南」と定めた転回日本列島地理を制定した――と歴史的事実を証言する。B図は現在の方位を時計回りに90度転回する[]の字(字源・字形・字義)に合致する錯覚の日本列島地理であった。このため、卑弥呼が統治する国の名は「倭国」と定められたのである。

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 上記したように、『魏志』倭人伝はすべての方位を忠実に読解すると論理が【合理】で完結する。にもかかわらず、新井白石(16571725)以来今日まで290年間、学者たちは『魏志』倭人伝の記事に幾ヶ所も【誤読(文献批判)】を加えて邪馬台国説を立論する。しかし、この方法だと多数の矛盾点と不合理が生じて論理が合理で完結できず、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない【誤読の空論】となる。にもかかわらず学界や知識人たちは、邪馬台国説は正しいと思い込む深い迷妄(めいもう)に陥って抜け出すことができない。

◆上記したごとく、『魏志』倭人伝は「(1)A図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】が【漢字(字源・字形・字形)】であった、(2)卑弥呼王朝は[]の字(字源・字形・字義)となったB図の錯覚の転回日本列島地理を制定した」という歴史的事実を証言する。だから、『魏志』倭人伝の全記事は真実を伝えるものであり、【誤読】に“文献批判”という偽りの名前を付けて誤魔化す必要はまったくない。これゆえ、B図の錯覚の転回日本列島地理は738(天平10)にシナ天文が導入されて改められたが、それ以前に実在した日本地理であった。
 わがブログ「日本が滅びる」の135138や「朝日新聞社の社長様への直訴・10」にて解説し証明したように、234年ころに『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為()る」と記される壱与が中国の正史『後漢書』の倭伝に記載された東鯷人(とうていじん))に赴任して、小国・日本が誕生した。「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、『古事記』中巻の開化天皇紀に記載された「丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」であった。
 『魏志』倭人伝末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」は、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命の夫の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の「伊耶那岐命」であり、『古事記』中巻の開化天皇であった。
 『魏志』倭人伝は280289年に著作された。C図に示す現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を示す地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)となって現存する遺跡は、『魏志』倭人伝の同時代の3世紀後半(260290)に作成された。この1千万坪の巨大な鳥の形をした遺跡を、私は左に掲示した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぶす』(幻冬舎ルネッサンス)では、“建比良鳥(たけひらとり)の地宜”と名づけた。というのも、C図の遺跡は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載される豪族が作成したからである。しかし、2014年頃から“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶことにした。なぜならば、C図の遺跡は卑弥呼王朝が制定したB図の転回日本列島地理にもとづいて、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された遺跡だからである。
 C図に示す「卑弥呼」の地上絵は大鳥の顔の正面が向く「夏至の日の出の方角」で「卑弥呼王朝はじめその後の天皇政治の政権基盤は夏音文字の学芸であった」と表示する。論より証拠、C図の「卑弥呼」の地上絵を調査すると『魏志』倭人伝に記載された「卑弥呼」「壱与」「載斯烏越」などの人名や小国名に用いられる文字は夏音文字であると科学的に証明できる。また、『古事記』上巻の随所には多数の夏音文字が記載されて現存する。だから『魏志』倭人伝や『古事記』上巻に実在する夏音文字を「無かった」と主張する意見は、【誤読の空論】となる。

◆『古事記』上巻のテーマは「伊耶那美命が小国・国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史」であり、この【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることが『古事記』上巻の作成目的であった。C図の「卑弥呼」の地上絵と『古事記』上巻は、現在の日本地図ではなく歴史上に実在した『魏志』倭人伝に記述された錯覚のB図の転回日本列島地理にもとづいて【日本建国の〔愛〕の理念】を保存した。また、『古事記』序に記載された『古事記』上巻の原典の『本辞(ほんじ)(『旧辞』または『先代の旧辞』とも言う)に用いられた文字は夏音文字であり、夏音文字はA図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする卑弥呼と壱与・伊耶那美命の政権基盤となった神聖な文字であった。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるには【夏音文字の学芸】が必要となり、またB図の【卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理】も不可欠となった。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67では――織田信長・徳川家康・C図の「卑弥呼」の地上絵を作成した建比良鳥命の後裔の24代頭首の井伊直政(なおまさ╱彦根藩の祖)は、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】をなんとしても実現せんとする心願を抱いて一生をささげた――ことを証明した。

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 D図に示す現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地宜は、井伊直政の亡き後に井伊藩が1603年に着工して20年後の1622年に完成させた。徳川家康は関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、譜代大名筆頭の「卑弥呼」の地上絵の北隣の引佐町井伊谷(いいのや)を本拠地とする井伊直政に石田光成の居城であった近江の佐和城に入るように命令したが、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して翌16022月に没した。直政が佐和城に入った使命は【織田信長・徳川家康・井伊氏の心願である日本建国の〔愛〕の理念を復興するために夏音文字の学芸を用いて大鳥の地上絵を作成する事業】であった。
 だからわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67で証明したように――彦根藩祖の直政が没した翌年(1603)には、井伊藩は直政の遺志を継いで【夏音文字の学芸と日本建国〔愛〕の理念の復興事業】に着手した。そして、D図に示すように大鳥の地上絵における「夏至の日の出の方角」で「夏音文字の学芸」をあらわし、「多賀大社」で多賀大社の主祭神の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を示し、「頭部から東端のAからBまでの彦根市の境界線」で「家康・信長・井伊氏の心願」をあらわし、その「羽の根元があるが翼が無い彦根市の東端の境界線の設計」で「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と図化する大鳥の地上絵を20年後に完成させた。家康は1616年に没しているので、一生を賭けて追い求めた【日本建国の〔愛〕の理念の復興】を皇室から承認を得るための彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の完成を見ていない。

◆C図の「卑弥呼」の地上絵の守り番であった井伊氏に近江への移住を命令した徳川家康は、3世紀後半以来約1300年余もの長いあいだ【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念と[]の字源をあらわす転回日本列島地理(B図)】を保存・貯蔵する「卑弥呼」の地上絵が失われることを心配した。そこで、駿府城作事奉行の30歳の小堀正一(まさかず)に遠江守(とおとうみのかみ)に取り立てて、「卑弥呼」の地上絵の研究を命じた。というのも、A図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】が【文字(字源・字形・字義)】となった学芸の研究は芸術と科学(医学・天文地理学)の才能にめぐまれる人物が最適任者であったからである。小堀正一は当時の天才芸術家にして科学の才能にも抜きんでて優れていた。以後、1647年に69歳で没するまで「卑弥呼」の地上絵の研究に努めた正一は、「遠州」と号した。
 【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】は家康の遺志となり、代々の将軍と幕府が成就させる宿題となった。1622年にD図の彦根の大鳥の地上絵が完成すると、小堀遠州は近江奉行に任命され、彦根の大鳥の地上絵に注がれた夏音文字の学芸知識を習得した。翌1623年、小堀遠州は伏見奉行に任命され、京都市に所在する桂離宮に関する史料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭が「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記しているように、伏見奉行屋敷で没する2年前の1645年に病床に就いた23年もの間情熱を傾けて桂離宮の庭園を作成した。
 E図に示すように、桂離宮の東北部にある庭園はC図の「卑弥呼」の地上絵から両翼が無い設計でD図の彦根の大鳥の地上絵と同じく「未だ夏音文字は習わず」と設計された。
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 F図左図の夏の銀河の形は、右図に示す桂離宮庭園池の東岸(G図参照)の設計となった。
 G図に示す桂離宮庭園の地宜をもって、遠州は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念と卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理があらわした[]の字源】を設計した。
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 H図に示したように、遠州はA図の銀河各部の形状を3つの基本形に大別してG図の桂離宮庭園の地宜(平面図)を作成した。H図のⅡでは、①両手の形と➁人の横顔の形が明確になるように示した。Ⅲでは、Ⅰに示す➂オス鹿の横顔の形が明確になるようにし、そのオス鹿の角の部分が①両手の形と➁人の横顔の形になることを示した。

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 A図の左上端にある「オス鹿の横顔に似る銀河」は、H図のⅢの庭園の「オス鹿の横顔の地宜」と合致する。
 「オス鹿の横顔に似る銀河の角」は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「左手」をあらわす[]の字(字源・字形・字義)となった。「十字の銀河」の西隣は「鬼の姿に似る銀河」であり、「鬼の姿に似る銀河」は「右手」をあらわす[]の字となった(ただし、A図には「鬼の姿に似る銀河」の箇所を示さなかった)
 「鬼の姿に似る銀河における鬼の横顔に似る銀河」とA図に記した「人の横顔に酷似する銀河」は、H図に示した➁人の横顔の形に設計された庭園(G図における池の西側の月波楼・御殿がある庭園)で表現された。
 A図の右側に記したように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は「秋の銀河(の西部)」となり、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の銀河の東北部」となり、F図に示す「夏の銀河像を形成する池の東岸」は「夏の銀河(夏の銀河の東北部と夏の銀河の西南部)」をあらわすゆえ、G図に示した桂離宮庭園の地宜はA図の【文字となった秋の銀河と夏の銀河の全域】を設計していることになる。
 だからG図の桂離宮庭園の地宜によって夏音文字はじめ楷書さらに現代の漢字のすべての字源が解明でき、また「漢字は【秋の銀河と夏の銀河】の各部の形状から作られた事実」が科学的に証明できる。

◆桂離宮庭園の作成は、幕府が時の天子・後水尾(ごみずのお)上皇から家康の心願であった【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の承認を得るための事業であった。しかし、上皇は夏音文字の学芸を復興すると『古事記』上巻に「天照大御神は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い祟(たた)り、尊重する人民を苦しめた」と記述された歴史が明白となり、天照大御神を皇祖・至上神として崇拝する皇室が人民に憎悪されて滅亡することを心配して、幕府の要望を受け入れて遠州の生前には一度も桂離宮に御幸(みゆき)して庭園を見学しなかった。
 そこで幕府は、1655年頃から1659年にかけて修学院離宮(京都市左京区修学院室町)の庭園を完成させて後水尾上皇に献上した。前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・11」にて証明したように――『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭にある〔淤能碁呂島の聖婚〕の箇所には明確に記されなかったが、この聖婚儀式は〔小国・日本に赴任する女王・伊耶那美命と軍王・伊耶那岐命が呉の水軍に勝利する呪力(じゅりょく)を祈願する儀式〕であった。この史実を、幕府は修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の浴竜池(よくりゅうち)の地宜(平面図)であらわした。
 ゆえに、浴竜池の地宜を調査すると淤能碁呂島の聖婚が京都府宮津市に所在する特別名勝の天橋立でおこなわれ、滋賀県の琵琶湖と兵庫県南部の淡路島の地宜をも加えて、日本軍が呉の水軍に勝利する呪力を祈願する儀式であったことが科学的に証明できる。
 I図の右側に示す〔三つに折れる天の橋立中央の築島(つきしま)〕の南側には、J図上図の岩が池の水に漬()かる。J図上図は、北側から南にある岩を見た形である。J図下図も同じく北側から南の阿蘇海(あそかい)・天橋立(あまのはしだて)を見た地宜である。
 天文学では〔北〕を正面とせずに、J図のごとく〔南〕を正面と定める。ゆえに、「天体(銀河や星や太陽など)が天頂より南の子午線を通過すること」を「南中」と言う。〔南〕を正面とすると、J図のごとき〔右側が西、左側が東〕となる(A図と同じ)
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J図上図の桂離宮庭園の「天の橋立」とJ図下図の京都府宮津市に所在する「天橋立」は同名である。だから、夏の銀河の西南部となる庭園部に配置された天橋立南側のJ図上図の岩は、伊耶那美命と伊耶那岐命が淤能碁呂島の聖婚儀式をおこなった特別名勝・天橋立をあらわしていることになる。
 J図上図の岩が配置された「夏の銀河の西南部となる庭園部」は、「小国・日本」をあらわした。というのも、前回のわがブログで証明したように、K図のごとくB図の転回日本列島地理にもとづくと「小国・日本」は「西南」となるからである。ゆえに、「小国・日本」は「夏の銀河の西南部」に見立てられたことになる。
 L図左図に示す「夏の銀河の西南部」には「銀河の中心方向」があり、「時計回りに方位が90度転位して南→西となる転回方位」を示して[]の字(字源・字形・字義)をあらわした。また、L図左図の「夏の銀河の西南部における西半分の胎児の姿に似る銀河」は、L図右図の「阿蘇海・天橋立の地宜」に類似すると見立てられた。このため、「胎児の姿に似る銀河」は日本国の女王・伊耶那美命が国作りの柱とした〔愛〕をあらわした。だから、J図下図の「阿蘇海・天橋立の地宜」をあらわす「天の橋立中央の築島の南側にある岩」は[]の字とともに【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

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 M図の上部に「南→西」と記したように、[]の字はM図右図に示すように「現在方位が時計回りに方角が90度転位する転回方位規定」をあらわした。B図に示す「日本列島の東→南に転位する地理」はL図左図の「夏の銀河の西南部」とM図の「十字の銀河」の左側に記した「南→西にする時計回りの90度の転回方位規定」に合致して[]の字をあらわす。だから、B図の転回日本列島にもとづき卑弥呼が統治した国の名は「倭」となった。 

◆A図の【文字となった銀河各部の形状】は立体的ではなく平面的である。だから、桂離宮の庭園の平面図(地宜)は「文字が平らな銀河各部の形状から作られた」と伝える遺跡となり、「『魏志』倭人伝や『古事記』上巻に登場する各地の地宜(平面的に図化した地図の形)は歴史を伝える文字(字源・字形・字義)となった」と今日に伝えている。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)はA図の左上の「十字の銀河」が〔妊婦の姿〕に相似するのを注目して――A図の【銀河各部の形状】から作られたすべての字は「十字の銀河」を母体として生まれ、N図に示す「十字の銀河の子宮からすべての字は生まれるように考えると、万物の情(イメージ)に類似する多数の字を作ることができる――漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 ゆえに、N図左側に配する「十字の銀河」から作られた[]の金文形は「母体の子宮に胎児が宿る妊婦の姿」を図案して漢字作成原理「鳥獣の足跡」を表現した。

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 O図に示す「十字の銀河」は[(べん)]となり、[]はA図の「銀河各部の形状から作られたすべての字が生まれる母体」をあらわした。「鬼の姿に似る銀河」は[]の字となって「銀河各部の形状から生まれたすべての子」をあらわした。ゆえに[][]が加わって[]の字が成立し、[]の金文形もまた漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわした。
 “字書の聖典”と尊重された2世紀初頭の後漢時代の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説する。
 O図とP図が共に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てて、「十字の銀河の子宮と重なる部分の乳房」を「母親の乳房」に見立てて、『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説した。
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 Q図に示すように、「十字の銀河の子宮と重なる銀河部」は「右足」または「妊婦の腹部」そして「母の大きな乳房」に観える。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、「十字の銀河の大きな乳房となる銀河部」は「母」を意味する古語の「垂乳女(たらちめ)」の語源となった。そして「鬼の横顔に似る銀河の口や舌」は「乳児の口や舌」に観えるゆえ、「母の乳房となる銀河部と乳児の口や舌となる銀河部の中間の帯状の銀河」が「乳するなり」をあらわした。

◆H図の中央Ⅱに示したように、池の西側の岸の地宜は〔人の横顔〕に相似するゆえ、R図のごとく「池の西側の岸」は「乳児の横顔に似る地宜」となり、大山島における「園林堂(おんりんどう)がある庭園部」が「十字の銀河の子宮と重なる大きな乳房」をあらわし、「園林堂がある庭園部と梅の馬場をつなげる橋」が「乳するなり」の字説部分となった。

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 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔国生み〕は――伊耶那美命は、S図に示す「四国」に「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」という名を付けて生み、「伊予国」の祭神を「愛比売(えひめ)」と謂()い、「讃岐国」の祭神を「飯依比古(いいひこ)」と謂い、「粟(あわ)国」の祭神を「大宜都比売(おおげつひめ)」と謂い、「土左(とさ)国」を「建依別(いいよりわけ)」と謂うことにした――と記載する。
 ゆえに、二度目の淤能碁呂島の聖婚をおこなわれた〔国生み〕において、倭女王・伊耶那美命は小国・日本と同じく倭国・日本国の国作りの柱を〔愛〕とする決意を表明して、「四国」を「伊予之二名島」と名づけた。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]について「尹(いん)は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう」と解説する。T図に示す「十字の銀河の身体部にある暗黒天体部」は紀元前41世紀から紀元前3世紀ころまで中国とわが国の天頂にめぐってきて「精密に天頂緯度と子午線を測定できる基準(ものさし)」となったので「神の杖(つえ)」となり、王・女王や巫女・神官などの聖職者たちは「杖(真っすぐな棒)」を用いて天頂緯度と子午線を測定した。
 T図において、「神杖」をあらわす「十字の銀河の身体部の暗黒天体部」よりも「十字の銀河の乳房の銀河部」のほうが先つまり「予(あらかじ)め」に子午線通過する。ゆえに、伊耶那美命は「十字の銀河の乳房」から「伊予」という名を生み、「伊予」は「愛」を意味することを明確に示すために「伊予国」の祭神名を「愛比売」と定めたのである。
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  J図にて説明したように「銀河や太陽が天頂より南の子午線を通過する現象」を「南中」という。南中する天体の高度は最大となる。U図に記した「山上小亭跡」が桂離宮の庭園において最も高い。ゆえに、U図は南中に則る地宜の図(平面図)とした。わがブログ「日本が滅びる・142」で詳細に証明したように『古事記』の〔国生み〕の記事における「讃岐国」の祭神「飯依比古」は「讃岐富士・飯野山」のことであった。U図に示すように、大山島の東部の地宜は富士山の形に設計されて「讃岐富士・飯依比古」をあらわし、西部の地宜は乳房の形で「伊予・愛比売」をあらわす。U図の庭園で最も高い山上小亭跡と天の橋立の築島を結ぶと〔子午線と南中〕をあらわし、U図の大山島の地宜とJ図上図の岩の形は共に【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす仕組みになっている。
 以上のごとく、遠州は『古事記』上巻の最初の淤能碁呂島の聖婚の歴史をJ図の岩であらわし、二度目の淤能碁呂島の聖婚がなされた〔国生み〕にて「伊耶那美命が伊予国の祭神を愛比売と名づけて、国家理念を〔愛〕と定めた」と伝える歴史をU図の大山島の地宜であらわしている。
 だから、小堀遠州の桂離宮の作庭は明らかに江戸幕府の【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興事業】としておこなわれるものであったことになる。

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2015年3月 4日 (水)

朝日新聞社の社長様への直訴・11

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(25)

■邪馬台国説は【誤読】で日本を抹殺する(4)

◆このブログを最初に読んだ方々が理解できない事柄や疑問を抱いたならば、前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・10」を読んでいただきたい。

◆『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は――230(呉の黄竜2)、呉の1万の水軍が日本列島にある倭国の隣国の東鯷人(とうていじん)国への遠征の途についたが、8割から9割の兵士たちを失って壊滅した――と伝える。というのも前回のブログで証明したように、大海を渡るには1度の60分の11分の緯度差を測定できる〔[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできる眼力と技(わざ)〕が必要であったからである。中国では紀元前1世紀に〔北極星(こぐま座β星)〕を「太一(たいいち)」と呼ぶシナ天文が完成し、太一は天球の真北でいつもいる・不動の点となる神と信じられた。しかし、3世紀の北極星・太一は〔天の北極〕から約10(600)離れて円を描く星であったので、大海は1分の緯度差を測定できる〔[]のキャッチ〕でなければ往来できなかったために、1分の600倍の10度も緯度が狂う太一で大海を渡る航法では呉の1万の水軍は壊滅することになった。
 この遠征の大失敗によって、呉の皇帝の孫権はシナ天文が完成する以前の〔[]をキャッチする方法〕を廃(はい)して北極星・太一で緯度・経度を測量する呉の水軍には、絶対に大海を渡ることができない事実を知って再度の遠征は断念した。
 しかし東鯷人国王と倭女王卑弥呼は、大海は当然〔[]をキャッチする方法〕で渡るものであるという先入観を抱くものであった。ゆえに、呉軍が北極星・太一で測量して大海を渡ろうとしたが原因で壊滅したことに気づかず、二人は230年における呉軍の遠征が失敗したのは暴風雨に遭遇したためであると考えた。
 というのも、当時の倭人や東鯷人は大海を渡ることが出来なかった失敗の原因は〔暴風雨との遭遇〕と思い込んだからである。なぜならば、1分の緯度差を計測できる〔[]のキャッチ〕においては、暴風雨になると天頂点を通過する銀河部がまったく見えなくなって緯度と子午線が計測できなくなったからである。そして、紀元前45世紀に生存した孔子と並ぶ中国二大思想家の老子の教えを伝える『老子』第1章末部では「これを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門」という文で「玄は衆すなわち[]をキャッチするとすべての人々が命を手に入れることができる神妙・不思議な門」と指摘する。ゆえに、卑弥呼も東鯷人国王も『老子』が第1章で「[]のキャッチは人間にとって最も大事な生命を守る門(方法)である」と指摘する――大海を渡る人や遠くの地に旅する人が迷って落命せずに家族が待つ家に帰ることができる方法である精密に緯度と子午線が測定できる[]をキャッチする眼力と技(わざ)を失っていることに考えがまったく及ばなかったのである。

◆呉の1万の水軍の日本列島遠征の情報をキャッチした方法を記載した古文献は存在しない。しかし、『魏志』倭人伝末部には「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三にして王と為()る」という記事が存在し、「卑弥呼の宗女すなわち卑弥呼が率いる巫女界を代表して13歳の壱与が東鯷人国の防衛する女王となって赴任した」と証言する。というのも、前回のブログで、「壱与」という名は「大量の雨が降る暴風雨に遭遇して、渦を巻き逆巻く高波に呑みこまれる呉の軍船が転覆する」という呪力を有するものであることを証明した。
 『魏志』倭人伝末部に「載斯烏越(そしあお)」という武将が登場する。載斯烏越は壱与の夫で東鯷人国防衛を指揮する軍王(いくさのおおきみ)であった。これゆえ、「載斯烏越」という名は「呉軍の船を転覆させる青黒く渦を巻き逆巻く高波」という呪力を有した。
 「壱与」と「載斯烏越」という名は、東鯷人国王と卑弥呼が呉の遠征軍は大海に入って暴風雨に遭遇して失敗したと思い込んでいたことを示す。
 だから東鯷人国王と卑弥呼は、呉軍は再度遠征すると思い込んだ。呉軍と戦っても勝ち目が無いと考えた東鯷人国王は卑弥呼に倭国に属することを誓い、東鯷人国の防衛を要請した。ゆえに、倭国の一員となった「東鯷人国」の国号は「日本」と改まった。
 「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇紀に記載される開化天皇の正妃「丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」であった。
 「載斯烏越」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命」であり、後の「開化天皇」であった。
 したがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭にある〔淤能碁呂(おのごろしま)の聖婚〕の記事は、呉軍は必ず再度遠征してくると思い込みによって日本国(小国・日本)が誕生した歴史を語るものであったのである。

◆学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事は信用しないで【誤読】に“文献批判”という偽名を付けて、多数の【誤読】を加える。しかし、全15ヵ所の方位記事に一点の【誤読】を加えずに記事を1ヵ所も歪曲しなければ、全15ヶ所の方位記事には一点の矛盾点も一ヵ所の不合理な箇所も生じず、全記事の合理が成立する。
 この結果、A図に示す転回日本列島地理を卑弥呼王朝は制定していたことが事実となる。
 前回のブログで証明したように、『古事記』上巻に記載された〔淤能碁呂島の聖婚儀式〕はB図に示す京都府宮津市に所在する日本三景の一つに数えられる「天橋立」で行われた。

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 というのも、C図に示す修学院離宮の庭園の上御茶屋(かみのおちゃや)の中心となる浴竜池(よくりゅういけ)の設計で、淤能碁呂島の聖婚は天橋立で行われたと表示するからである。修学院離宮の庭園は【小国・日本の誕生史の復興】に一生をささげた徳川家康の心願を実現するために、江戸幕府は1655年ころから着工して1659年に完成させて後水尾(ごみずのお)上皇に献上した。

D図に示すように、B図に示した天橋立の西隣の阿蘇海(あそかい)は、浴竜池の形に相似するように設計された。ただし、D図の阿蘇海は、卑弥呼王朝が制定したA図の転回日本列島地理にもとづいて「西→北・東→南」になるように「時計回りに90度方角が転位する転回方位」に則る地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)である。

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 だから、D図左図の阿蘇海・天橋立の転回方位に則る形は、『魏志』倭人伝に記載された歴史的事実であったA図の転回日本列島地理にもとづいて伊耶那美命と伊耶那岐命が天橋立で小国・日本(旧東鯷人国)に赴任する前に結婚式をおこなった――と、日本国が誕生する直前(日の出前の夜明け)の出来事を現在に伝えていることになる。

◆わがブログ「日本が滅びる・136137」で、小国・日本はE図に示す東海・関東地方であることを証明した(ただし、E図における遠江は倭国であった)
 E図下図の転回方位にもとづく小国・日本の地宜の略図は、F図左図のごとくなる。したがって、卑弥呼王朝はF図左図のごとく小国・日本の地宜を略図化して、F図右図の阿蘇海・天橋立の地宜に小国・日本の略図は類似すると考えたことになる。

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 F図のごとく考えたがために、女王に選ばれた伊耶那美命と軍王に選ばれた伊耶那岐命は日本国に赴任する前に呉軍との戦いに勝利するために、天橋立で『古事記』上巻に記載された淤能碁呂島の結婚式がおこなわれた。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には、702年に中国が渡った遣唐使が小国・日本国について「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸()な大海に至り、東界北界は大山ありて限りなし」と説明したという記述がある。E図上図の現在方位の小国・日本の地理だと「西界」は大海ではなく静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県東部の三河の陸地となる。ゆえに、「西界は大海である」という記述に矛盾する。他方、E図下図の転回方位にもとづく小国・日本の地理だと「西界」は大海となる太平洋であるから合理となり、「南界」も鹿島灘がある大海となる太平洋なので、「西界南界は咸な大海に至る」という記述に矛盾しない。小国・日本の転回方位の東(現在の北)界には三国山脈や日光の山々や関東山地があり、北(現在の西)界には富士山と赤石山脈がある。ゆえに、「東界北界は大山ありて限りなし」という記述にも合致する。
 上記したように、現在方位だと「西界は大海である」と説明した遣唐使の言は矛盾するが、転回方位だと遣唐使の言はすべて合理となる。だから、A図の転回日本列島地理は738(天平10)にシナ天文が導入されて否定されたが、それ以前は真理であると思い込まれて実在した歴史的事実であった――卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理であったことになる。
 G図左図に示すように東京湾の湾口は狭い浦賀水道である。日本軍は呉の水軍との主戦場はG図右図の現在の三島市東部・沼津市・富士市吉原西部にひろがる湖の浮島沼(うきしまぬま╱浮島原)であると考えていた。現在は浮島沼の湖はまったく存在しない状況となったが、3世紀においては広大な湖であり、G図右図に示すように浮島沼は現在の狩野川(かのがわ)河口から浮島沼の南岸までは呉の軍船が通過できる狭い水道となっていた。

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 B図に示す天橋立は文珠寄りで阿蘇海と与謝ノ海(宮津湾)をつながる水道になっており、この水道をかつては船が通過していた。したがって、天橋立の水道とE図・G図に示す小国・日本国の東京湾・浮島沼は〔船が通過できる水道〕で共通していた。
 そして、天橋立と浮島沼は共に名勝地であった。G図右図の浮島沼の南側に田子ノ浦があろ、万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が「田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」と詠んだように、富士山が浮島沼の湖岸の0メートルから頂上までの3776メートルがそのままそびえ立つ小国・日本第一の名勝地であった。
 中国の正史『後漢書』倭伝の末部は小国・日本=東鯷人国について「紀元前3世紀、秦の始皇帝が方士の徐福に命令して、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めしむ地」であったと記す。「蓬莱」は浮島沼の湖面に映る「富士山」であったゆえ、日本軍は呉の水軍は東鯷人国の蓬莱山(富士山)を目指して来襲するにちがいないと考えた。だから、浮島沼は呉の水軍と日本軍が激突する主戦場となるにちがいないと考えたことを示して、浮島沼より北側の愛鷹山(あしたかやま)山麓には小国・日本誕生の年代(234年-245年ころ)に合致する軍事的施設の特徴を有する高地性集落の遺跡が多数分布する。

◆わがブログで何回も繰り返して証明したように、漢字は今から5000年前の五帝時代初頭に起源し、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は、H図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする方法を考案した。

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 倉頡はH図左上の私が「十字の銀河」と名づけた銀河を【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作った文字】を生む母体、I図左図に示す「十字の銀河の子宮」をすべての文字が生まれる子宮と定めれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を生むことができる漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に漢字作成原理「鳥獣の足跡」を伝える夏音文字の学芸が伝来し、【秋の銀河と夏の銀河】を【文字(字源・字形・字義)】とする夏音文字の学芸は卑弥呼王朝の政権基盤となって栄えていた。
 I図に示すように、阿蘇海・天橋立と小国・日本の略図は「十字の銀河の乳房(胸部)と妊婦のように円く突き出た腹部」に見立てられた。

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 H図の右下の銀河を、私は「夏の銀河の西南部」と名づけた。
 J図に示すように、「夏の銀河の西南部の東側の巨龍の銀河」を「池に浴びる竜」と解釈して修学院離宮の庭園池は「浴竜池(よくりゅうち)」と名づけられた。だから、浴竜池は〔夏の銀河の西南部の西半分の胎児の姿に似る銀河の形に類似する〕と連想できるように設計された。D図に示したように阿蘇海は浴竜池の形に相似し、I図に示すように阿蘇海は「十字の銀河の乳房と腹部」に相似するゆえ、浴竜池は「十字の銀河の乳房と腹部」と「夏の銀河の西南部」を合体する形に作成されるものであったのである。

◆K図に示すように転回日本列島地理(A図)にもとづくと、阿蘇海・天橋立は小国・日本の東北に位置するのでH図において東北にある「十字の銀河の乳房と腹部」(I図参照)に合致する。また、K図の小国・日本は阿蘇海・天橋立の西南に位置するので、小国・日本はH図における西南にある「夏の銀河の西南部」に適合する。
 したがって、「阿蘇海・天橋立」を「十字の銀河の乳房と腹部」に見立て、「小国・日本」を「夏の銀河の西南部」に見立てて、J図に示す浴竜池は「伊耶那美命と伊耶那岐命は小国・日本に赴任するに先だって天橋立にて淤能碁呂島の結婚式をおこなった」と伝えていることになる。なお、天橋立は広い所で約110メートル、狭い所で37メートルである。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭の〔淤能碁呂島の聖結記事〕に登場する「天の浮橋」はL図に示す「天橋立」であり、また「沼矛(ぬほこ)」は浮島沼の「沼」と天橋立の形(地宜)を「矛」に見立てて作られた矛であったにちがいない。
 「沼矛を指しおろしてかき回し、塩をコオロコオロとかき鳴らして引き上げた時、その矛の先よりしたたる塩がだんだんに累(かさ)なり積もって島になった。これが淤能碁呂島である」という文は、天橋立を形成した塩(対馬海流)と小国・日本の塩(日本海流・黒潮)によってA図の転回日本列島地理が成立したとする理論を表現していると考えられる。つまり、大海で囲まれる日本列島の地底は(どろ)のように柔らかいので、天橋立を形成した対馬海流と小国・日本の海を流れる日本海流の巨大な力によって、日本列島は([熊]の初文・だから、字義は「熊(クマ)」の冬ごもりする縦穴と横穴のごとくが「緯度」の「緯(よこ╱横)」が「経度」の「経(たて╱縦)」に変わって碁呂(ころ)がり転回した、つまりA図の卑弥呼王朝が制定した錯覚の「転回日本列島地理」は「淤能碁呂島」と名づけられた――と伝えていることになる。

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 M図に示すように、「十字の銀河」は東半分が手に弓または剣を持つ男性の姿となり、西半分が乳房・子宮を有する女体に相似する。ゆえに、〔淤能碁呂島の聖婚〕の記事には男女の身体の相違について記述される。また、伊耶那美命は先に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と讃えたのは「小国・日本の軍王としてなんとまあ、立派な武士(ますらお)でしょう」とあらわすものであり、伊耶那岐命の「なんと、美しい乙女だろう」という言は「日本の女王として、呉軍の呪的な戦力を奪う魔女・眉(まゆ)にふさわしい美しい乙女」と意味した。伊耶那岐命が「女が男より先に唱えたのは良くない」と言った訳は、「十字の銀河」は東から西へと移動するから「十字の銀河」に呉軍に勝利する呪力を祈願する儀式においては「良くない」、また軍王の伊耶那岐命が小国・日本の先頭に立って呉軍と戦うゆえ「良くない」と批判するものであったと考えられる。しかし、「十字の銀河の女体に相似する西側」が先に子午線通過し、「十字の銀河の男性の姿に相似する東側」が後に子午線通過するので、結婚式では伊耶那美命が先に伊耶那岐命は軍王にふさわしい男性(ますらお)であると讃えたことになったのである。

◆伊耶那美命と伊耶那岐命が天橋立でおこなった結婚式は、N図の転回方位に則って琵琶湖と淡路島の地宜の呪力で日本軍が呉軍に勝利する祈願する儀式であったのである。

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 O図に示すように、兵庫県に所在する「狭い明石海峡と鳴門海峡にはさまれる淡路島」は、G図右図の〔浮島沼の湖底の沼地(湿地)にはまった呉の大きな軍船〕に見立てられた。
 
世界でも最高級の速度となる潮流の「鳴門の渦潮」は〔富士山の雪溶け水が地下水となって浮島沼の湖底から渦を巻いて湧き出る無数の泉〕に見立てられた。浮島沼は無数の湧水泉からなる湖であった。ゆえに、呉の軍船は無数の湧水泉に揺さぶられて形勢不利となり、またあちこちの沼地にはまって立ち往生する。日本軍は湧水泉による揺れを防ぐとともに沼地にはまらないように底を浅くして平らにして小回りがきく小さな軍船を多数作った。そして、日本軍の敏捷に動き回ることができる小舟は矢を通さないように堅牢(けんろう)な楠(くすのき)で作られた。ゆえに、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の〔神生み〕には「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」が記載され、この神の別称は「天鳥船(あめのとりふね)」であったと記される。したがって、呉軍との戦いで勝利するために日本軍が作った多数の軍船は「鳥之石楠船」または「天鳥船」と呼ばれたことになる。

『後漢書』倭伝は「東鯷人国の人民は時に会稽(かいけい)に至りて市(あきな)う」と記述する。会稽は呉地に所在し、P図に示す現在の紹興市であった。呉の会稽が面する上南下北の杭州湾(こうしゅうわん)の地宜は鳰(にお╱カイツブリ)の姿に相似すると定められて[]の字(字源・字形・字義)となった(「杭州湾」が[]の字源となった証明は、わがブログ「日本が滅びる」の126127で詳細に解説した)
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 Q図上図の「杭州湾」は「水面に浮かぶ鳰の姿」に相似する。ゆえに、「呉の杭州湾」は「呉の軍船」に見立てて、Q図下図の「琵琶湖」は「日本軍の船」つまり上記した「天鳥船」に見立てたにちがいない。というのも、Q図下図の「琵琶湖」の形は「天()を飛ぶ鳥の姿」に観えるからである。
 Q図下図に示す「琵琶湖の地宜」は[]の字となった〔鳰の姿〕に相似すると見立てられた。ゆえに、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。『魏志』倭人伝はA図に示すように近江・琵琶湖の小国名は「呼邑(こお)国」であったと記す。白川静著『字統』は[]の字形を「城中に多くの人のあることを示し、城邑・都邑をいう」と解説する。そうすると「琵琶湖」を「ヒナを育てる鳰の浮巣(うきす)」に見立てて、さらに「鳰の巣」を[]すなわち「壁をめぐらす城」に見立てて、「近江」は「呼邑国」と名づけられたことになる。なぜならば、Q図下図の「琵琶湖はヒナをねらう敵に襲いかかって攻撃する鳰の姿」に観えるからである。また、N図における「琵琶湖は呉軍に見立てられた淡路島に襲いかかる鳰」の姿に観える。だから、鳰ノ海・琵琶湖は呉軍に勝利する呪力を有する地宜となった。
 これゆえ、伊耶那美命と伊耶那岐命はO図の「淡路島」を〔転覆した呉の軍船〕に見立て、「鳰ノ海・琵琶湖」を〔呉の軍船を転覆させる浮島沼の湖〕に見立て、「天橋立」を〔沼矛〕に見立てて塩(鳴門の渦潮)のごとくかきまわしてコオロコオロとかき鳴らして日本軍に勝利をもたらす呪力を祈願する儀式を、天橋立でおこなったのである。

◆前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・10」において、208年におこった(せきへき)の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を攻めで劇的な勝利をおさめたゆえ、日本軍は呉の水軍を“赤い火の呪力”を有すると考えたと指摘した。また、R図の赤く輝く「北アメリカ星雲」は[]の字となったとも指摘した。

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 S図に示す「北アメリカ星雲」に隣接する東西の「暗黒天体部」は〔日本軍に攻撃されて転覆し破損した呉の軍船〕の形に観える。というのも、「激流の銀河」は〔呉の軍船を転覆させる逆巻く高波〕のような形状だからである。前回のブログで解明・証明したように、「激流の銀河」は「壱与」の[]の字源となり、「載斯烏越」の「烏越」の語源となって「逆巻く高波で呉の軍船を転覆させる呪力」をあらわした。
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T図に示すように、[]の金文形は「十字の銀河」を持つ右手となる「鬼の姿に似る銀河の右手となる帯状の銀河」と「日輪の銀河」から成立した。
 ゆえに、[](太陽が水平線・地平線の下に近づく夜明け)の上部の[]は「三つ輪の銀河」が「水平線・地平線の下に近づく春分・秋分と夏至と冬至の太陽」となり、「十字の銀河」が「水平線・地平線」となって[]の下部の[]をあらわした。
 したがって、「北アメリカ星雲」は日没の太陽で空を火のごとく赤く染める「夕日」をあらわすことになって[]の字(字源・字形・字義)となった。
 だから、S図に示す「北アメリカ星雲に隣接する東西の暗黒天体部」はN図の転回方位にもとづいて西にある[]の字に適合する「淡路島」に見立てられたことになる。
 そして、N図に示した「鳰の海・琵琶湖」は[]をあらわすことになった。
 
N図の転回方位にもとづく「天橋立」は[]をあらわした。その証拠に、『古事記』中巻の開化天皇紀は伊耶那美命・竹野比売の生地の「丹波」を「旦波」と表記するからである。ゆえに、阿蘇海・天橋立が所在する「丹後」は「旦後」であったことになる。上記したように、[]の下部の[]の字源は「十字の銀河」であり、I図に示す「阿蘇海・天橋立」は「十字の銀河の乳房と腹部」に見立てられて、[]をあらわす地となった。
 したがって、「阿蘇海・天橋立」は[]の「夜明け」をあらわす地宜となり、伊耶那美命と伊耶那美命が赴任して国作りをおこなう旧東鯷人国は「太陽が水平線上に昇る日の出の国」となったので「日本」と国号が定められた。その証拠に、中国の正史『新唐書』日本伝は――702年に中国に渡った日本国の使者は「国日の出ずる所に近いので、日本と改名されたと言った」――と記述する。
 以上のごとく「日本」という国号は、K図の転回方位にもとづいて天橋立と小国・日本(旧東鯷人国)に琵琶湖と淡路島も加えて、日本軍が勝利する呪力を祈願した淤能碁呂島の聖婚儀式から生まれたことになる。

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