漢字の起源と発明を解明す・41ー1
卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった(1)
◆今から約5000年前(紀元前3000年ころ)の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河】各部の形状を図案して文字をつくる理論を発明した。
よって、漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆3世紀末に著作された『三国志』における魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾の倭人伝(わじんでん)は、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
3世紀末に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。
『魏志倭人伝』は12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)として残っている。
『魏志倭人伝』は、下に記す3種の事柄を説明していた。
しかし、学界は定説はじめ有力説にもとづいて、これら3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】『魏志倭人伝』紹煕刊本は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』紹煕刊本における九州の末盧国(まつろこく)以下の【方位を示す記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない
だから、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の「日本列島の【東】は【南】に伸びていると説明する転回日本列島地理は事実を伝えるものではない」と主張する
【3】『魏志倭人伝』紹煕刊本は、女王卑弥呼の王国名を「邪馬壹(壱)国(やまいこく)」と記す。しかし、現在における大多数の学者たちは「邪馬臺(台)国こそが正しい」と主張する
『魏志倭人伝』の紹煕刊本における上記の3種の記事はすべて正しかった。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)に、漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細に解説して証明した。
ゆえに、上記した【1】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―1と40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを詳細に解説して証明した。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、卑弥呼は倭女王に選ばれ、「倭人国」という名の国家が創設された。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を「事実を伝えるものではない」と否定する――邪馬臺(台)国説学者たちの主張は、【1】同様に【2】についても事実に反して誤っていたことになる。
このブログでは、【3】『魏志倭人伝』紹煕刊本に「邪馬壹国(やまいこく)に至る、女王の都とする所なり」と記されたとおり――倭人国の首都所在地の名は「邪馬壹(壱)国」であった事実を証明する。
ゆえに、「卑弥呼が都とした地は邪馬臺(台)国であった」と主張する学者たちやメディアの意見もまた、【1】と【2】と同様に、史料の表層(ひょうそう)を一瞥(いちべつ)しただけの軽率(けいそつ)で粗雑(そざつ)な意見であったことになる。
◆上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本に記述された【1】【2】【3】の3点の事柄は――学界、あるいは考古学界における定説に反する記事・説明」である。
この3点の記事が原因となって、学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事や説明を信用してはならない。ゆえに、信用してはいけないのはどの点なのか、どのように解釈したならば信用できる意見となるのか、などを示して、『魏志倭人伝』を取りあつかわなければならない」と主張する。
上記した【1】【2】【3】の記事・説明は「事実を伝えている」と科学的に証明することができる。
ゆえに、『魏志倭人伝』紹煕刊本の記事・説明は全部正しかったことになる。
いいかえると、纏向遺跡(まきむくいせき)にもとづく邪馬臺国畿内説と吉野ヶ里遺跡を理由とする邪馬臺国九州説をはじめすべての邪馬臺国説は空想・空理空論であったことになる。
『魏志倭人伝』は多数の学者たちが主張する【邪馬臺国】について説明する古書ではなかった。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論によって漢字が起源した秘密を科学的に解明できる最高・最良の史料】であった。
要するに、上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本における【1】【2】【3】の記事・説明は事実を伝えていたことを証明すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的にしかも科学的に伝えていた書物であったことになる。
言いかえると、『魏志倭人伝』は――現在、中国において神話とされる五帝時代初頭の黄帝時代(紀元3000年頃)における(A)【倉頡が発明した文字作成理論】、(B)【五帝時代初頭の黄帝時代における最初の文字の作成(字源・字形の原形・原義の成立)】、そして(C)【夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2100年~同2000年頃)における夏音文字(かおんもじ)に関する歴史】が解明できる――神話が歴史に一挙(いっきょ)に大変貌する最高・最良の史料であった。
『魏志倭人伝』は「わが国は、紀元前2000年頃の中国における夏代黎明期(わが国における後期縄文時代初頭)に夏音文字を習得(しゅうとく)した。この夏音文字は卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)において、倭人国の諸国で常用されていた」と説明している。
言いかえると、倭の34ヵ国の小国名をあらわす文字は夏音文字を楷書に改めたものであった。
だから、上記したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼王朝が政権基盤とした【学術知識】、つまり【(A)倉頡の文字作成理論、(B)五帝時代初頭の黄帝に関する歴史、(C)夏代黎明期に作られた夏音文字と夏代黎明期の歴史】を科学的に具体的に伝える学術書であった。
したがて、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が主張する定説は根本的に誤っていた。
その証拠に――夏音文字は『魏志倭人伝』はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘がついて多数残っている。また、『万葉集』において「万葉仮名」とよばれる文字となって多数残っている。
〔注 ただし夏音文字の字形では残らず、夏音文字は楷書を音符・意符に用いて残る。〕
◆上記したように、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名(名称)をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
上記したように、倉頡は、Ⅲ「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝え、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするために――「名(な)」、つまり「地名はじめ様々な事物の名称など」を文字であらわして残すことを――倉頡は許可した。
そして、倉頡は――地名は地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて作る――と定めた。ゆえに、地図(地宜)は王朝が独占管理して絶対に知られないように厳重な機密とされた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史を伝える地名」は【学】の字(字源・字義)となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
そして、1世紀末の後漢時代に作られた楷書もまた、基本的に倉頡の文字作成理論に従って夏の銀河各部の形状から作られた。
ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字は後世に作られた楷書の字源となって残った。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていない。
しかし、上記したように――五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書を音符・意符に用いる名(地名や事物の名など)で残った。この地名に用いられた文字(漢字)が歴史を伝えることになったため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論を具体的に詳細に科学的に解明できる最高・最良の書物】となった。
また、前記したように五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される楷書で残っており、あるいはまた『万葉集』の万葉仮名(楷書)となって残っている。
以上のごとく、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、【五帝時代初頭の黄帝時代の書契・倉頡の文字作成理論・夏代黎明期の夏音文字は地名や事物の名をあらわす文字(漢字)となって現存する事実――そしてこの地名や事物の名をあらわす文字は歴史を伝える確かな史料となる事実】を科学的に具体的に証明する。
◆現在の学者たちは、「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と否定する。
しかし、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。
倉頡伝説は下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄(三皇時代の易占に用いた記号)に代えたので、天は祝福して、禾(か・稲。稲や麦などの穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」
中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。
この「倉頡の肖像画」は、事実を隠蔽(いんぺい)するための騙(だま)し絵であった。
上に示した「倉頡の肖像画」は「人の顔面に四つの目」を描く。
現代の学者たちは、この「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。
これゆえ、彼らは倉頡の肖像画に騙された自らの大失敗にまったく気づかず、倉頡伝説の説明を歪曲(わきょく)して「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高(こえだか)に主張する。
上記したように、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。
下に、「十字の銀河と、四つ目の怪人・倉頡(つまり、「鬼の横顔に似る銀河」)を配した。
下図が示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼(二つの目)となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目が一つ」ある。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。
だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図に示した「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。
前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。ゆえに、「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化(ごまか)して隠ぺいするための騙し絵」であったことになる。
◆倉頡がつかえた黄帝は〔女性の生殖器官と出産〕を研究した。
倉頡は〔黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕をも、【文字作成理論】に加えた。
さらに、倉頡は〔天頂緯度線の測量〕をも、【文字作成理論】に加えた。
したがって、【倉頡が発明した文字作成理論】は
〔1〕 夏の銀河各部の形状
〔2〕 黄帝の女性の生殖器官と出産の研究
〔3〕 天頂緯度線の測量
の3つの事柄が結合(けつごう)して造形(図化)された。
ゆえに、〔倉頡が後世に残すことを許可した名(地名はじめ事物の名など)〕は、上記した〔1〕〔2〕〔3〕の3つの事柄が結合して成立した。
◆上記したように、【倉頡の文字作成理論】には、〔2 黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕が加えられた。
下図に示すように、倉頡は「ラッパの形に相似する子宮の正面形」を【台】の字(字源・字形・字義)と定めた。
そして、倉頡は【一】の字を作って「出産児が通過する産道」をあらわすことにした。
上図の「女性の生殖器官の正面器官の正面形の上下を反転した図」を、下に示した。
下の左図に示すように、「台形に相似する形の子宮」は「産道をのせる台(だい)」に観(み)える。
ゆえに、「子宮の正面形」が【台】の字源となった。
「子宮で育つ児(こ)」は、今日、「胎児(たいじ)」と呼ぶ。
「胎児」の【胎】は【肉偏(月)】に【台】を加えた字である。
だから、【胎】の原字(最初の文字)は【台】であった。
今日、「ヒトの命は、女性が受胎(じゅたい)した卵と男性の精子(せいし)の結合(受精)から始まる」とする。女性の卵巣(らんそう)から排卵(はいらん)された卵は卵管に入り、ふつうはここで精子を受精し、卵管のはたらきによって子宮内へと送られ、肥厚(ひこう)した子宮内膜(しきゅうないまく)の中に入り込んで、着床(ちゃくしょう)する。
五帝時代は医学の研究・知識が未発達であったゆえ、上記した「女性の卵と男性の精子」、「受精」、「卵管のはたらき」などは「想像・推測」の段階で未解明であった。
しかし、黄帝は「着床」(上の右図に示した)については解明していた。
ゆえに、黄帝は「ヒトの命は着床における胎芽期(たいがき)から始まる」と定めた。
つまり、「胎児期(台の児が成長する時期)」は「(1)胎芽期と第4週前半から第12週ころまでの第1期」、「(2)子宮上部の子宮底(しきゅうてい)のほうに頭をむける第12週から第20週ころまでの第2期」、「(3)子宮底と180度の反対方向にある子宮口(しきゅうこう)のほうに頭を向ける第20週ころから出産予定日となる第40週(10カ月)までの第3期」と区分けされた。
「産道」は「出産児が通過する道」である。
この「児の出産期」は「(1)開口期(かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまで)の第1期」、「(2)娩出期(べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから出産児の頭が母体の背側に向いて誕生するまで)の第2期」、そして「(3)後産期(こうざんき・誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了するまで)の第3期」と区分けされた。
上記した「胎児期における(1)の胎芽期から出産期において(3)の出産が完了するまでの約十カ月の児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めた。
〔現在は、後産期に生きている出産児の年齢を0才とする〕。
倉頡は「産道を通過できずに死亡する児」の年齢を「一才」と数えないことにした。
だから、倉頡は「産道・出産期・出産児」を【一】の字源・字形・字義とした。
◆前ページにて指摘したように、【倉頡が発明した文字作成理論】には〔3 天頂緯度線の測量〕が加えられて組織された。
五帝時代、夏代(かだい)、また卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいて、人々は〔天頂緯度線〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。
というのも、原始のときから人類は〔天頂緯度線をキャッチして、1度の60分の1の1分の精度で測定できる本能(頭脳)と眼力を有していたため生存できたからである。
だから、人類は途中で滅亡せずに後世へと種(しゅ)を受け継ぐことができた。
原始、そして五帝時代、夏代の太古、また上古の卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、人々は〔天の北極の高度〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。
というのも、【天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を定めると、必ず命を失う】からであった。
下図は、25,800年で一周する天の北極(円周線上)と北極星の位置図である。
〔緯度〕は、〔北極星が描く円の中心となる天の北極の高度(地平線・水平線からの高さ〕によって定まる。
つまり、〔天の北極の高度が35度15分の地点の緯度〕は〔北緯35度15分〕となる。
北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、西暦2100年ころのこぐま座α星である――天の北極を中心にして円を描く、この二つの北極星の円の直径は約1.5度(約90分)である。
だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径における中心(天の北極)をキャッチすることになるが――このような方法だと人類の目は命を失わずにすむ1度の60分の1の1分の誤差内で測定することができなかった。
したがって、北極星と天の北極で緯度測定する方法だと、原始・太古・上古において、定住せずに日々移動するような生活をしていた人類は、その移動生活を始めた直後から緯度(位置)も経度(方角)がまったく不明となって必ず【生】を失い【命】が絶たれた。
上図に示したように、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)の北極星(こぐま座β星)は天の北極から遠く約10度(1度60分の10倍の、600分)も離れていた。ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約1200分の円を描いていたことになる。
卑弥呼時代の人々にとって直径・約1200分の円を描く、その中心となる天の北極の高度を生存できる1分以内の精度で測定することは不可能であった。
だから、卑弥呼時代では、【必ず命を失う天の北極】で〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。
卑弥呼時代では、【原始のときから1分以内の精度で測量できた天頂点と天頂緯度線と子午線(南北線)を4秒~6秒ぐらいでキャッチする方法】で緯度と方角を測定していたのである。
◆下に、漢字【亠(とう)】の拡大図を示した。
下図の【亠】の字形は、天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するときに形成される。
脳にそなわる本能と神秘的な眼力によって原始のときから、ヒトは[天頂点と重なる銀河部位の軌道における、【亠】つまり「天頂点と天頂緯度線と南北線(子午線)」]をキャッチすると、1度の60分の1の1分以内の誤差内で測定できた。
ゆえに、原始・太古・上古・古代の人々は天頂緯度線を測定する眼力と技術を日々鍛錬(たんれん)して〔緯度〕と〔方角〕を精確(せいかく)に測量できた。ゆえに、はるか遠くの地を旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還(きかん)することができた。
下に、上図【亠】について説明した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕を配した。
〔天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するとき〕、1度の60分の1の1分の誤差内で精確に測定できる【亠】が形成される。
これゆえ、天頂緯度線測量の眼力と技術を鍛錬した人類は【亠】(天頂点・天頂緯度線・子午線)をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を知ることができた。だから、人類ははるか遠くに旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還することはできたのである。
原始のときから現在まで、天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を1分以内の精度で測量することはできなかった――これは、科学的に証明できる明白なる事実である。
その証拠に、現在においても、精確に緯度を測量しなければならないときは【亠】をキャッチして〔経度〕と〔緯度〕を計測している。
つまり、現在、〔精密な日本列島地図〕は〔旧東京天文台の子午儀の中心(東京都港区麻布飯倉3ー18)の経度(東経139度44秒)と緯度(北緯35度39秒)を原点〕と定めて作製されている。
現在の北極星(こぐま座α星)は天の北極に接近して約直径100分の円を描いているが、現在の発達した道具をもってしても精確に1秒以内の誤差内で〔緯度(東西)〕と〔経度(南北)〕が測量できない。
ゆえに、旧東京天文台の子午儀の中心の天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔経度〕を測定して、精密な日本列島地図を作製している。
だから、古代歴史学においては「人類は〔天の北極星〕を基準にして〔緯度〕と〔経度〕を測定して生存していたのではなく、天頂【亠】をキャッチして生存していたと断定しなければならない」。
考古学者はじめ様々な分類の古代歴史学者たちは、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していた事実にまったく気づいていない。彼らは、〔天の北極〕で〔緯度〕と〔方角〕を測定していたと思い込んでいる。
だから、学者たちは、『魏志倭人伝』が「日本列島の【東】は【南】に伸びる」と説明する転回日本列島地理は「天頂緯度線」をあらわす【亠】と「産道を通過する出産児の時計回りに90度転回する第一回旋(だいいちかいせん)と第四回旋が合体して成立した方位規定」をあらわす【倭(わ)】の字源に則(のっと)って錯覚した史実であった状況を解明することができない。
卑弥呼は天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めるものであったゆえ、日本列島の【東】は【南】に伸びると錯覚した。
当時、学術(倉頡の文字作成理論)に長(た)けた諸国の王や王女、氏族の首長、巫女(みこと)と覡(げき・神官)たちは天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。ゆえに、彼らは卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は神聖な真実を示していると断定して、錯覚地理であるとは考えなかったのである。
このような事情を知らない邪馬臺(台)国説学者たちは「『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は史実ではない」と否定する。ゆえに、「天の北極で緯度と方角を定めていた」と思い込む彼らの意見はきわめて非科学的な空想や空理空論の類(たぐい)ということになる。
以上のごとく、〔天の北極の高度による緯度測量〕と〔天頂緯度測量〕を比較すれば、邪馬臺国説が空理空論であることはいとも簡単に明白となる。
五帝時代・夏代・卑弥呼時代、「観測地点の緯度天頂緯度は同数」と定めていた。
つまり、現在、「北緯35度35分の天頂緯度」は「+赤緯(プラスせきい)35度35分」である。
このように「観測地点の北緯」と「+赤緯」は同数である。
だから、このブログでは「観測地点の天頂緯度」と「観測地点の緯度」は同数とする。
このブログでは北緯の数値を記して、この数値をもって天頂緯度(+赤緯)をもあらわすことにした。
前記したように、原始のときから古代において、天頂緯度をキャッチすれば〔緯度〕と〔方角〕を正しく計測できた。
だから、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を精確に測定して生存していたのである。
◆下に、「天頂緯度を測定する人の姿勢(側身形)」を図示した。
天頂緯度をキャッチするためには、【身】の金文形が示しているように――胎児をみごもる出産まぢかの妊婦の側身形のごとく前へお腹(おなか)をつき出さなければならない。
ゆえに、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、【身】の金文形を「みごもっている人の側身形」と解説する。
天頂緯度を測量するときには「必ず天頂を測定するぞ」と欲を有すると天頂緯度の測定を失敗する。
天頂緯度を測量するときには〔産道を通過する出産児のごとく無欲〕になれば、天頂緯度がキャッチできる。
天頂緯度を測定する人の姿勢は出産第1期(開口期・かいこうき)の終わりの出産児のごとくのポーズとなる。つまり、出産児の顔は仰向(あおむ)けになって子宮口(しきゅうこう)に頭を入れる。
また、出産第2期(娩出期・べんしゅうき)の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける。
下に、上記末部に「出産第2期(娩出期・べんしゅうき)の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける」と説明した――出産第2期(娩出期)の終わりにおける出産児の側身形を示した。
以上のごとく、天頂緯度を測定するときの心得・ポーズ(姿勢)は産道を通過する出産児の様子に合致した。
ゆえに、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論における方位規定】では〔黄帝の女性の生殖器官(子宮や産道)と出産の研究〕と〔天頂緯度線の測量〕が結合することになった。
また、〔夏の銀河における各部の形状〕は〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕を明確に印象深く示し、さらに〔夏の銀河の各部位から中国各地の天頂緯度がキャッチすることができた〕。
これゆえ、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論】では〔夏の銀河各部の形状〕をもって〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕と〔天頂緯度の測量の様子・イメージ〕が図化(造形)されることになった。
◆『魏志倭人伝』は前半部にて「邪馬壹国(やまいこく)、女王の都とする所なり」と記述する。
そして、『魏志倭人伝』は末部で「壹与(いよ)、倭の大夫(たいふ)の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣(つか)わし、政(せい)等の還(かえ)るを送らしむ。因(よ)りて臺(だい)に詣(いた)る」と記述する。
上記したように、『魏志倭人伝』は「倭の使節の率善中郎将の掖邪狗等二十人が魏の出張機関政庁が所在する韓国の帯方郡(たいほうぐん)に到着すると、(247年・魏の正始8年)に張政等が帯方郡の大守(たいしゅ)に就任した魏都の洛陽(らくよう)へ送り還(かえ)らせることになった。よって倭の使節の掖邪狗一行は臺(魏都・洛陽)に参詣した」と説明する。
上記したように、「倭女王・卑弥呼が都と定めた邪馬壹国」という記事における「邪馬壹国」の【壹】は、倉頡が作った【一】「産道(出産児が通過する道)。出産」を夏の始祖・禹が改めた字であった。
したがって、【壹】の字は倉頡の【一】と同じく「産道。出産」をあらわした。
また、「因りて臺に詣る」という記事の【臺】は、倉頡が作った【台】「子宮。胎児」を夏の始祖・禹が改めた字であった。
ゆえに、【臺】の字は倉頡の【台】と同じく「子宮。胎児」をあらわした。
そして、【一】と【壹】は「無事に産道を通過して誕生した児」のイメージから「旦(朝日)。朝(東北の地平線上に昇る夏至の朝日が刺す光景)」をあらわすことになった。
また、【台】と【臺】は「子宮組織と結合する着床」のイメージとなるとされて「夕日。夕(地平線下に没する直前の夏至の夕日が照る光景)」をあらわすことになった。
『魏志倭人伝』を著作した晋(しん)につかえた著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は、禹によって「魏の都・洛陽」を【臺】とあらわすことになった事情を知っていたのである。
また、陳寿は上記したように――【一】と【壹】は「産道。出産。朝日。地平線上に昇る夏至の朝日の刺す光景など」をあらわし、【壹】の下の【豆】は「産道を通過する出産児の頭」、つまり【頭】の原字である秘密を知っていた。
また、陳寿は倉頡が作った【台】を禹が【臺】の字に改め、その【台】と【臺】は「子宮。胎児。夕日。地平線下に没する夏至の夕日が照る光景など」をあらわし、【臺】の下の【至】は「子宮組織と結合する着床」をあらわすことを知っていたのである。
だから、陳寿は「倭人国の首都所在地の名は邪馬壹国である」と確信していたにちがいない。
◆中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)には、下記のごとくの文がある。
「易は天地と準(なぞらう)う。故に能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察(あきらか)にする」
この文の先頭の【易】の字源を、『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」と解説する。
「蜥易(蜥蜴)」は「トカゲ」を意味する。
トカゲは「必ずもとの巣にもどる」という帰家性(きかせい)を有する。
ゆえに、【易】の字源は「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰還することができた、天頂緯度線をキャッチして緯度と経度を1度の60分の1の1分の誤差内で測量できる術(じゅつ・技術)」であった。
上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す」という文中にある「弥綸」という語は「洩れなく包みこむ、つくろいおさめる」と意味する。
下図に示すようにーー中国全土の地図の形は、山東半島が水鳥の【弥(カンムリカイツブリ)】の頭部に相似すると見立てられ、山東半島の付け根の胸部では左(北)と右(南)に羽根の形となって分かれる。その羽根は長江口(ちょうこう)と杭州湾(こうしゅうわん)で破れ裂ける形となるが、杭州湾の南岸から円弧を描いてつくろいおさまって羽根の形にもどる。
ゆえに、中国中国全土の地図の形は「海岸線の水鳥【弥】(カンムリカイツブリ)が羽根をひろげて飛ぶ姿に洩れなく包まれる形」となる。
だから、下図は上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらか)にする」という文をあらわした。
というのも、下図に示すように、地図の形は「【弥】の頭部の形に相似すると解された『山東半島の地図の形はオス鹿の横顔』にも相似する」と見立てられ、「山東半島の北にある、廟島列島(びょうとうれっとう)の地図の形」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられたからである。
ゆえに、下図の「廟島と山東半島の地宜(地図の形)」は【道】の字源となった。
下図に示すように、「天頂に位置する、十字の銀河」は「オス鹿の角の形」に相似すると見立てられ、「十字の銀河より南の銀河」は「オス鹿の横顔」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」は「鹿の背中」に見立てられた。
ゆえに、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・十字の銀河より南の銀河」は【道】の字源となった。
上の左側の【道】の字における「鹿の角の、東西南北をあらわす十字の形」は【行】の字源となる。
下図の左上に【行】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)を配した。
白川静著『字統』は【行】の字を「十字路の形」と解説する。
したがって、下の右図に示すように「十字の銀河の胸部」が「東西南北の十字路の形」を示すゆえ、【行】の字源・字形・字義は「十字の銀河の胸部」であった。
下の左側下に、【十】の契文形を配した。
【十】の字源を、『説文解字』は「数の具(そな)はれるものなり。一は東西と為(な)し、丨(こん)は「南北」と為す。則(すなわ)ち四方中央が備(そな)わり」と解説する。
白川静著『字統』は契文・金文が【十】を【丨】の形に図案するのを注目して――『説文解字』の【十】の字形解説と異なり「算具に用いる縦(たて)の木の線である」と批判する。
しかし、下の右図に示したように――黄帝につかえた倉頡が【文字作成理論】を発明した約5000年前、倉頡や黄帝が居住していた本拠地であったにちがいない黄帝陵(こうていいりょう)の天頂緯度線(35度35分)は「十字の銀河の頭部の中央」を貫通(かんつう)していた。
この天頂緯度線【一(東西)】の中央に【丨(南北・経度線)】を交差させると――「十字の銀河の胸部」で【十】つまり「十字路」の形となる。
ゆえに、【十】の契文形の【丨】は「黄帝陵の経度線」、【十】の金文形の【丨】は「南北線(経度線)上に緯度の目盛を一点加えた図案」であった。
黄帝時代、こと座γ星が黄帝陵の天頂にめぐってきた。
「こと座α星・ベガ」は「七夕(たなばた)星」と呼ばれる。
「こと座の北部」は「三角形」、「こと座の南部」は「四角形(菱形)」で構成される。ゆえに「三角形+四角形=七角形」となる。だから、「こと座ベガ」は「七夕星」というぐあいに【七】の字を用いて表記された。
この【七】の契文と金文の両字形は、【十(十字形)】に図案された。
ゆえに、【七】の【十】との混同をふせぐために、上図に示した「十字の銀河における十字形となる胸部」は【丨】の形に図案されることになった。
「天の十字の銀河と地の廟島列島」は共(とも)に「オス鹿の横顔の角の形」に見立てられて、【道】という名(な)、つまり【道】の字源・字形(原形)・字義(原義)となった。
ゆえに、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準う。故に能(よ)く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と説明した。
この文中にある「弥綸」という語は「【弥】の字源・水鳥のカンムリカイツブリが羽根をひろげて空を飛ぶ姿に観える地図の形は中国全土を洩れなく包みこむ」と意味した。
この「弥綸」と表現される海岸線の地図の形は――五帝時代の最後(五番目)の帝に就任した舜(しゅん)が益氏(えきし)の首長に「虞(ぐ)」という重職に就(つ)くように命令し、夏代黎明期までおよそ200年間も益氏が「虞」の役職を代々務めた功績(こうせき)によって精確になったと考えられる。
「虞」という役職は「中国全土を洩れなく包みこむ精確な海岸線地図と、中国各地の山林・湖沼・川沢の精確な地図を作製する長官」であった。
五帝時代末の帝舜の時代では、すでに「十字の銀河」で「精確な地図を作製するための経緯度原点(経度と緯度が交わるの原点)」を設定し、「土地を三角測量して、精確な地図を作製する方法」、つまり「現代の精密日本列島地図を作製する方法の原則」が確立されていたことになる。
ゆえに、益氏は中国全土を弥綸する中国海岸地図はじめ、各地にある山林・湖沼・川沢などの地図を精確に作製していたことになる。
中国において、「易」は約6000年前の三皇(さんこう)時代(わが国の前期縄文時代)から始まった。
ゆえに、「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰ることができる技術の易」には「地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が必要となった――このため、包犠氏(ほうぎし)の首長が天下を治めた三皇時代初頭から地図の作製が起源したと考えられる。
包犠氏、女媧氏(じょかし)、神農氏(しんのうし)が天下を治めた三皇時代から五帝時代初頭の黄帝が姓を「公孫(こうそん)」、名を「軒轅(けんえん)」であった帝王となる以前において――下図に示すように、「山東半島から南の弥(カンムリカイツブリ)の首と羽根が交わる胸部までの地図の形」と、「山東半島から西の黄河口(こうがこう)・渤海湾(ぼっかいわん)西岸までの地図の形」が明らかになっていたと考えられる。
この三皇時代から五帝時代黎明期までの地図の作製方法は「十字の銀河」で「地図の経緯度原点」を設定して、「経度と緯度が四点で交わる方形」をもって地図が作製されていたと考えられる。ゆえに、当時、「三角測量」はいまだ確立されていなかったことになる。
ゆえに、前記した『易経』繋辞上伝の文中における「故に能く弥綸す」という記事を省(はぶ)く「易は天地と準う。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、三皇時代から五帝時代黎明までの地図作製方法を伝えていたことになる。
というのも、『説文解字』は【準】の字源を「平(たいら)なり」と解説するからである。
ゆえに、当時は「天の夏の銀河の形は高低差がなく平らである」と定め、「地理の形にもまた高低差がなく平らである」と定めて地図が作製されていたことになる。
上図に示すように、黄河口の東海岸を擦(こす)る経度線(東経118度48分)より少し西にずれる地所に所在する「莒県(チュウシエン)陵陽河(りょうようが)の遺跡」から、「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる、灰色の爆弾型の土器が出土した。
県名に用いられる【莒(きょ)】の字義は「いも」である。
「灰陶尊の酒器の形」は、「十字の銀河」の西方にある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」に似せて作られた。この「人の横顔に酷似する銀河」は「長(なが)いも(俗称・とろろいも/白い色のとろろ汁を作るいも)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」と「灰陶尊」は【莒】の字義「長いもの形」に似せて造形されることになった。
【艸(草冠)】の下の【呂(りょ)】を『説文解字』は「背呂(はいりょ)なり」と解説して「背骨(せぼね)」であると説明する。
上図に示したように、莒県陵陽河の経度線(東経118度48分)が擦(こす)る黄河口の地点は「廟島列島・山東半島が相似するオス鹿の横顔に対して、背骨の上端(北端)」となる。
ゆえに、「黄河口北端と莒県陵陽河を結ぶ経度線」は「背骨」のイメージとなる。
「陵陽河」の【陵】の字は上記した「字形が【丨】となった十字の銀河の銀河における十字形の胸部」と、また「【十】字形にデザインされた【七】の字源の七角形のこと座」を意味した。
次の【陽】は「人の横顔に酷似する銀河におけるはくちょう座γ星」と、また「夏の夜に、もっとも明るく、もっとも青白く輝く、最輝星(さいきせい)のこと座・ベガ(七夕星)」】はあらわした。
黄帝時代、【陽】の字源となった「はくちょう座γ星」と「こと座γ星」の両星は黄帝陵(北緯35度35分)の天頂にめぐってきた。
最後の【河】の字は、【呂】の字と同じく「黄河口(黄河の河口)」を意味した。
結局(けっきょく)、灰陶尊が出土した遺跡名「莒県陵陽河」は、「瘤(こぶ)のような形をした黄河口の東海岸をこする経度線(東経118度48分)から少し西にずれる、黄河口の南方にある地所の名(名称)」をあらわしていたことになる。
◆灰陶尊は、年代測定によって約5000年前(紀元前3000年頃)の遺物とされた。
ゆえに、灰陶尊は五帝時代黎明期の黄帝が公孫軒轅(こうそんけんえん)と呼ばれていた時代の遺物であったと考えられる。
灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くには、下図の右上に配する図書(ずしょ)がある。この図書を、中国の学界では「漢字の原型」と考えている。
下図の右上の図書のうち、「(1)最上部は日輪(太陽)」、「(2)中央は【幽】の原型」、「(3)最下部は真っ赤に燃える火炎、つまり地中の太陽」〕をあらわしていたと考えられる。
「(2)中央」の図書は、下図の右下の【幽】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)における下部の図書に相似する。
【幽】の字は「火に燻ぶって黒くなる」を意味する。
この(1)(2)(3)が一体化した図書を、中国の学界では【旦(たん)】をあらわしていると考えている。
ゆえに、灰陶尊の図書は「幽(かす)かにうす暗い、日が出ずる【旦】(朝)の赤く染まる東の空」を表現していたことになる。
夏至の日の朝の太陽は、東から30度の東北の地点から昇る。
下図に示すように、五帝時代黎明期また今日においても――「夏至の日の朝(午前6時)、【山東半島の付け根に所在する日照の海岸から東北30度の地点となる山東半島の東端の石島(中国では「シータオ」と音する)の海岸】から太陽が昇る景色)」が見える。
だから、莒県陵陽河(きょけんりょうようが)の遺跡から出土した灰陶尊の図書は「夏至の日の午前6時、日照の海岸にて目撃できる石島から日が出ずる【旦】の景色」を表現していたことになる。
前記したように、倉頡は「日が出ずる朝」を「産道・出産」に見立てて【一】と定めた。
夏代黎明期、“夏の始祖”の禹(う)は――壺(子宮・産道)のうち、豆(頭)を前にして産道(壺の上部)を進み、膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの様子をあらわす、倉頡が作った【一】の「字源・字義」――をあらわす【壹】の字を作った。
ゆえに、下図に示すように――「石島の海岸から上る朝日」は「産道・出産」をあらわして【一】・【壹】を示すことになった。
このため、「観測地地点の日照の海岸」も【一】・【壹】をあらわすことになり、「日照と同緯度(北緯35度35分)の黄帝陵」もまた【一】・【壹】を表示することになった。
その証拠に、「黄帝陵」は「黄帝を祀(まつ)る廟(びょう)」である。
【廟】は【广(げん)】の右下に【朝】を加わる字であるから、【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】となる。
下図の右上にある「オス鹿の角に見立てられた廟島列島(びょうとうれっとう)」も「石島」と同じく【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】の字源となった。その証拠に、「廟島列島」の【廟】もまた【广(げん)】の右下に【朝】を加える字であるから、【朝】は【一】・【壹】をあらわしている。
白川静著『字統』(平凡社発行)は、【廟】の字について「广(げん)」と朝とに従う。もと朝礼を行なうところで、それがまた廟所であったが、のち祭政が分離して、宗廟の意とある」と解説する。
つまり、上図に示したように――【廟】の字源は「日照の海岸と山東半島の東端の石島を結ぶ方角(30度の方角)から上る夏至の日に朝日が出ずる景色を祭る儀式・儀礼」であった。
◆下図の左上に、「渤海湾(ぼっかいわん)の西海岸・黄河口の北海岸・莱州湾(らいしゅうわん)の東海岸を太い直線で結んだ」。
この「太い直線」は、【邪(なな)めの線】となる。
この【邪めの線】は「産道を通過して出産する【馬】・フタコブラクダの子の姿」をあらわした。
下図の左上に「折れ曲がる瘤(こぶ)」と記したように――「産道を通過して出産するときの【馬】・フタコブラクダの子の瘤」は「親のフタコブラクダのごとく山なりに隆起せず、背中から薄い板のごとくなって折れ曲がる。ゆえに、産道を通過するときのフタコブラクダの子の背中は平らとなる」。
つまり、「出産するフタコブラクダの子の瘤は産道に突っかかって通過の邪魔(じゃま)にならないよう折れ曲がり、産道の通過が円滑(えんかつ・スムース)になるように背中が平らとなる」。
だから、下図における「山東半島」は「出産するフタコブラクダの子の頭・顔の形」に、「莱州湾(らいしゅうわん)」は「出産するフタコブラクダの子の後頭部の形」に、「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線」は「産道を通過するフタコブラクダの子の瘤が折れ曲がって平らとなる背の形」になり――「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平らとなる【馬】・フタコブラクダの子の体形」は「邪めに曲がる」。
なお、「山東半島東端の石島から青島(ちんたお)までの地図の形」もまた「【馬】・フタコブラクダのアゴ・首の形」に酷似する。
ゆえに、下図における「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線は邪めに曲がる体形」をあらわすゆえ【邪】、「産道を通過するフタコブラクダの頭・顔の形」は【馬】、「石島が所在する山東半島の東海岸」は「旦・朝日・出産」が意となる【壹】をあらわした。
だから、「山東半島とその付け根となる北と南の海岸の地図の形」は、「邪馬壹(やまい)」と名づけられることになった。
上図の「邪馬壱の体形」は、背中と頭の状況が――不自然な形となる。
ゆえに、「邪馬壱の体形」が「自然体となるイメージ図(印象図)」を下図に示した。
黄帝時代や夏代黎明期はじめその後の契文(甲骨文字)や金文および楷書なども倉頡の文字作成理論にもとづいて、【(1)夏の銀河各部の形状、(2)天頂緯度観測、(3)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて図案された。
だから、黄帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字で表示された地名もまた、【(1)夏の銀河各部の形状、(2)天頂緯度観測、(3)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて成立したことになる。
このような文字(地名)作成方法のイメージにもとづく「邪馬壱の自然体の形」を図示すると、下図のごとくなる。
上図に示したように、「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平となるフタコブラクダの子の様子をあらわす線は緯度線(東経38度線・東経36度線)と邪めとなる」ゆえ、【邪めの線】すなわち【邪】をあらわす。
「山東半島の地図の形」は「フタコブラクダの顔」に相似するゆえ、【馬】「フタコブラクダ」をあらわす。
「山東半島の東海岸」から「夏至の日の朝(午前6時)、朝日が上がる」ゆえ、【壹】「旦・朝日・出産」をあらわした。
黄帝時代や夏代黎明期の人々は、上図のごとく「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図」に変形を加えて「邪馬壱」と名づけていた。
したがって、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「産道を通過するときのフタコブラクダの子の様子」をあらわしたゆえ、「邪馬壱」と呼ばれていたことになる。
『魏志倭人伝』に「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記された「邪馬壱国」には「緯度線と邪めになるフタコブラクダの出産児の姿をした地図の形」が存在した。
だから、「倭人国の首都所在地」は「邪馬壱国」と名づけられたのである。
以上のごとく、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「邪馬壹(邪馬壱)」と名づけられ、「邪馬臺(邪馬台)」とは名づけられなかった。
というのも「廟島列島」と「石島・山東半島東端」はって【臺】「夕日」をあらわさず、【壹】「朝日」のみをあらわすからである。
◆以上のごとく、莒県陵陽河の遺跡から出土した灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くにほどこされていた図書は、中国の学者たちが考えたとおり、【日】の下に【一】が加わる【旦】をあらわして「日照の海岸から見える、山東半島東端の石島から日が出ずる夏至の日の午前6時の景色」を表現していたことになる。
以上のような【一・壹】の字源にもとづくと――「中国の東方に所在する倭地は日が出ずる朝日の国」となるゆえ『魏志倭人伝』の原書には「邪馬壹(壱)国」と記されていたにちがいなく、「日が没する夕日」をあらわす「邪馬臺(台)国」と記されていなかったことになる。
だから、学界やメディアが「最も正しい科学的意見」と思いこむ邪馬臺国説は「『魏志倭人伝』に書かれていない虚偽」を主張する非理非学の作り話・空想であったことになる。
『魏志倭人伝』は前半部で「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記し、末部で「因(よ)って臺に詣(いた)る」と記す。
この末部の文中の【臺】は「魏の都・洛陽(らくよう)」の意となる。
このブログでは、「なぜ【臺】は「洛陽」を意味することになったのか」、この点が明確になるように解説しなかった。
次回のブログでは、【臺】が「洛陽」の意となった経緯について詳細に明白となるように解説する。
最近のコメント