卑弥呼

2022年4月18日 (月)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・7

#邪馬台国説はすべてデタラメ、インチキ、ウソだった!


◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説は無視せよ!
 日本国民は、もういいカゲンに
 邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆倭女王・卑弥呼で登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。晋王朝に秘蔵されていた【西暦200年~250年ころに魏へ送られた倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観(自分の考え)をいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末尾に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末尾の倭人伝〕が通称『魏志倭人伝』とよばれる古文献である。

 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――〔今から約4000年前に、【わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事】を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の国書の記事〕がそのまま書き写されていたのである。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は――西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を卑弥呼が夏音文字で書いた【倭の国書】から書き写された――つまり、その実体は倭国(わが国)で作られた歴史史料であったことになる。

◆わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。
 つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 前述したように、『魏志倭人伝』は「夏代初頭に習得した夏音文字を用いて卑弥呼が書いた文書(国書)」にもとづく史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。
 上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
 【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書は「賤(いや)しい」と意味した。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義が「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 この三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、わが国は夏音文字を習得していた」と明確に示していた。
 にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。そして、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成された。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。だから、伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】を字書にして、夏音文字を楷書に正しく変換することができたのである。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――「倭女王・卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と主張した、江戸中期に生存した新井白石(16571725)の意見は空理空論であると断定されていた。ゆえに、邪馬台国説は、もともと、『魏志倭人伝』をデタラメ読みした誤読の空論であったのである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する歴史書である」と確信されていた。ゆえに、現在、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りとされており――黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然(げんぜん)と残っている。
 だから、『魏志倭人伝』の【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】の記述によって【「黄帝と倉頡は歴史上に実在した人物であった」という事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であったのである。
 その証拠に、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6」でも解説したように――卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であった。
 中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。これゆえ、中国でも・諸韓国でも・わが国でも【国防のために黄帝軍の無敵であった軍事力】が渇望(かつぼう)されることになった。このため、当時は【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視した空論であったのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真の左側は東・右側は西となる形式〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕を配した。
 前に提示した〔夏の銀河各部の名称図〕の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。この「鬼の姿に似る銀河のうちの、その横顔の銀河」を、私は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
 下の図における下部の「鬼の横顔に似る銀河」には、「目」と見立てられる箇所が4ヵ所ある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」と定めた。
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 中国では、古来より「漢字は倉頡によって発明された」と伝えられていた。この倉頡伝説では「倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれた。下図の「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説において「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」であった。
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 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説を簡略化すると下記のごとくなる。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述したように、倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は揚子江に到着して禾(いね/稲)を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して禾()を大事に育てた」と意味した。
 なお、倉頡は[()]の字を作った。後に倉頡が作った[]の下に[]が加わる[()]の字が作られ、さらに人偏が加わる[()]の字が作られた。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察しないで無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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◆黄帝は東洋最古の医学書『内径』を作ったと伝わる。
 前述したように、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――『魏志倭人伝』によって「黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器】を研究した事実」が証明される。また、『魏志倭人伝』によって、「倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすことができる文字を発明すること】であったと証明される。

 出産時の生子(せいし/赤ちゃん)の頭蓋骨が骨盤入口(骨産道)を通りぬける様子は、膣(ちつ)の入口(膣口/ちくこう)から見える。
 出産児の頭蓋骨は骨盤入口を通りぬけるとき――骨盤入口の断面は正円形ではなく、上部では左右のほうが広く、下部では前後のほうが広いので、そこを通りぬける出産児の頭はその仕組みに応じて「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口から誕生する。
 このような出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ膣口から頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は、上記したように膣口から見える――つまり、分娩室に入室してわが子が誕生する瞬間を見学したいと希望して妻の出産に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃することができる。
 出産児の頭蓋骨が健気(けなげ)に膣口を目指して産道を通りぬける4回の回旋シーンは、言葉であらわすことができないほど感きわまって泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【出産児が産道をとおりぬける、最も神秘的な感動きわまりない光景】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」をあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に豊かな実りをあたえて飢えさない」という政治スローガンを表示する字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすことにした。また、倉頡は[]は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える」という政治スローガンを示す字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわした。

◆黄帝と倉頡は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した。当時は、わが国において中期縄文時代初頭であった。当時、わが国には【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】を造形モチーフとして作られた有名な妊娠土偶(にんしんどぐう)がある。
 わが国における最古の国宝は、長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館が所蔵する「縄文のビーナス」呼ばれる土偶である。この「縄文のビーナス」は、上記したように、黄帝と倉頡が生存した中期縄文時代初頭に制作された。
 上記したように、「縄文のビーナス」は【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】をモチーフにして造形された。
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 上の写真で示した「縄文のビーナス」の身長は27センチである。この土偶は壊れた箇所が無い・完全の形で出土された。「縄文のビーナス」は妊娠土偶であると指摘されている。
 つまり、身長が27センチは子宮に宿る第12週~第20週くらいの胎児、あるいは当時は栄養が豊かではなかったゆえ第15週~第25週くらいの胎児の身長をあらわしているのであろう。(注 現在における第12週~第20週の胎児の身長は平均2030センチとされる)
 上記したように、尖石縄文考古館では「縄文のビーナス」を「妊娠土偶」と指摘する。ゆえに、「縄文のビーナス」は八ヶ岳山麓地域における「子宮に宿る胎児と出産と女性の生殖器(子宮や骨盤)に対する知識」を造形した土偶であったと考えるべきことになる。
 だから、「縄文のビーナス」の造形モチーフは【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と共通する。
 さらに、「縄文のビーナス」は【黄帝の医学研究】の造形モチーフと共通するだけではない――特に注目すべきは【倉頡が作った「十字の銀河」の中央に〔イネの茎と穂が垂れる図書〕を重ねて作った[]】の造形モチーフとも共通する。
 その証拠に、上の写真が示すように「縄文のビーナスの胸部」は「十字の銀河の胸部」と同じ「十字形」である。また「縄文のビーナス」の表面はよく磨かれて光沢があり、材料の粘土にはキラキラ輝く雲母(うんも)が混じり、「十字の銀河」の金色の輝きに合致する。
 だから、「縄文のビーナス」は上に提示した〔[][][]の字源・字形・字義となった、秋の収穫期に畑一面に黄金色に輝く禾(イネ)の穂の図書〕を重ねる「十字の銀河」をモデルにして「子どもの出産と女性の生殖器の知識」を表現する土偶であったことになる。さらに「縄文のビーナス」の「ハート形の顔、切れ長のつり上がった両目、ちょこっと尖った鼻、小さなおちょぼ口」は「胎児や出産児の顔かたち」をあらわす。あるいは、腹部は「妊婦した母親のおなか」、臀部(でんぶ)は「妊娠した母親の大きなお尻(しり)」を表現している。

◆下に示したように、「十字の銀河」は〔女体の姿〕に相似する。
 上記したように、「十字の銀河」をモデルにして「縄文のビーナス」は作られた。その証拠に、「縄文のビーナスの胸部」と「十字の銀河の胸部」は共に「十字形」である。
 しかし「縄文のビーナスの腰」と「十字の銀河の腰の形」は異なって合致しない。
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 下に、〔女性の上から見た骨盤腔(こつばんこう/骨盤の空洞)と「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)」の図〕を示した。
 下図に示すように、〔女性の腹部側の骨盤腔〕と〔十字の銀河の北側の頭の穴〕の形が合致し、〔女性の臀部(おしりがある背側)の骨盤腔〕と〔十字の銀河の南側の頭の穴〕の形が合致して、〔女性の骨盤腔と十字の銀河の頭の暗黒天体部〕の両者の形は相似する。
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 下に〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の図〕を示した。
 この〔女性の骨盤図のおける下部は臀部側、上部が腹部側〕となる。
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 上図のおける〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の合体形〕のイラストを、下に配した。
 下のイラストと〔縄文のビーナスにおける腰部から上の体形〕は共通する。だから、〔縄文のビーナスの腰〕は〔女性の骨盤〕を表現したと考えるべきことになる。
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 上図における〔縄文のビーナスにおける腹部から上の上半身〕は〔正面形〕である。しかし、上図の〔骨盤の形〕は〔縄文のビーナスの腹部〕と〔臀部・背側の形〕を合致させ、〔縄文のビーナスの背側〕に〔骨盤の腹部側の形〕を合致させている。ゆえに、〔縄文のビーナスの腹背〕と〔骨盤の腹背〕の両者の向きは〔正反対〕となって不合理・矛盾する。
 しかし、下図に示すように、膣口から頭が誕生する時の出産児(赤ちゃん)の顔は、母体の背(臀部)を正面とする。だから、上図の〔縄文のビーナスの上半身と骨盤を合体するイラスト〕は「赤ちゃんの頭が誕生するときの、骨盤と赤ちゃんの顔の向き」をあらわす。ゆえに、「縄文のビーナスの腰の形」は「子の出産」を表現するデザインであったことになる。
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 下図は〔縄文のビーナスの正面と出産児の頭が誕生したときの、骨盤・出産児の顔の合体図〕である。下図が示すように、〔縄文のビーナスの顔〕と〔出産児の頭が誕生したときの、出産児の顔〕の向きは共通する。
(注 なお、下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の34ページにある〔縄文のビーナスの正面図〕に〔骨盤図〕を合体した)
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 「縄文のビーナス」が出土した尖石遺跡群における棚畑(たなばたけ)遺跡は北緯36度に所在する。
 下図に示すように、「縄文のビーナス」が制作された5000年前(中期縄文時代初頭)、「縄文のビーナス」が出土した北緯36度の棚畑遺跡の天頂緯度線(+赤緯36)が「上から見た女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部の中央部」を貫通していた。
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 今から約5000年前の中国の黄帝時代とわが国の中期縄文時代初頭、そして卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、天頂緯度をキャッチして緯度と方位を精確に測定して、人々は遠くの地や大海を旅して家族が待つ家に帰還していた。
 ゆえに、下図の〔縄文のビーナスの背面図における帽子とか髪型〕と指摘されている部分の頂部には「渦巻き文」が刻まれている。
 だから、「縄文のビーナスの帽子または髪型」は「骨盤」、言いかえると「女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部」を表現するデザインであった。したがって、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤の頂部に刻まれる渦巻き」は「せまい産道を通りぬける、出産児の4回の回旋」を表現する意匠(いしょう)であった。
 (注 下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の35ページにある〔縄文のビーナスの背面図〕である)
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 上図における「縄文のビーナスの頭部の骨盤頂部に刻まれる渦巻き」は「尖石遺跡集落群の天頂緯度(北緯36度)」と「出産児が4度回旋して通りぬける産道」の合体意匠である。というのも、縄文人たちは「天頂緯度線のキャッチ(緯度の精確な測量)」と「出産児の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたからである。
 つまり、縄文人たちは「瞬時(4~6秒間くらい)に天頂緯度線をキャッチして【命】を手に入れ」、出産児は「瞬時に産道を通りぬけて【命】を手に入れ」ていた。ゆえに、「【命】を手にいれることができる天頂緯度線をキャッチする黄金色に輝く十字の銀河の、その頭部」と、「はじめ無色透明であったもの胎児の皮脂(ひし)などで黄金色となる羊水で潤(うるお)う産道を通りぬけて【命】を手に入れる出産児の黄金色の羊水を浴びる頭」の両者は、尖石集落に住む人々にとって【黄金色に輝く、最も貴い命】をあらわすことになった。
 だから、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤頂部に刻まれる渦巻き文」は「天頂緯度線のキャッチ」と「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を表現する意匠であった。
 「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を倉頡は[禾]の字で「時計回り90度転回する、第1回旋と第4回旋)」をあらわし、[呉]の字で「反時計回りに90度転回する、第2回旋と第3回旋」をあらわした。
 いっぽう、「縄文のビーナス」は「骨盤を頭にかぶる帽子のごとく造形して、その骨盤頂部に刻む渦巻き文」で「産道を通過する出産児の4回の回旋」を表現した。
 上記したように、「縄文のビーナスの頭がかぶる帽子(骨盤頭頂部)に刻まれる渦巻き文」は【縄文人たちは、日々、天頂緯度線をキャッチして精確に緯度と方位を測量するを習慣にしていた】と、現在に伝えている。
 言いかえると、「縄文のビーナス」は【縄文人たちは、天の北極を基準にして方位と緯度を測量していなかった】と、現在に伝えている。

◆下図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 原始のときから、ヒトの脳には、下図に示す〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬(たんれん)すれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂の銀河部を地理代わりにして、「天頂緯度線」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
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 上図の右上にある漢字[亠(とう)]は「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と90度交わる子午線」から構成される。
 下図は、〔[(げん)]の字源解説図〕である。[][]の下に[(よう)]が加わる。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチすると欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな子)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわす字であった。
 だから、[]の字源が示すように、また上記したように、中期縄文時代初頭の尖石集落の人々は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。また、同時代の黄帝や倉頡はじめ中国の人々も「天頂緯度線のキャッチと、幺(出産児)の産道の通過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたことになる。
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◆前述したように、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角を【北】と定めるものであった。だから、『魏志倭人伝』に記された方位は現在の日本地図と同じく考えなければならない」と主張する。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】がまったく成立しない空理空論であった。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔北極星〕を目星(めぼし)にして〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 この〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度を、1分以内の精度で測量できる本能〕は、人の脳にはそなえていなかった。また〔精確に1分以内の精度で測量できる眼力〕も、人は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。これゆえ、「天の北極と北極星」は人々の【命】を奪う死神(しにがみ)であった。だから、原始・上古・古代にあって「天の北極と北極星」は日本列島地図の【北】を表示する基準にはならなかった。
 邪馬台国説をとなえた新井白石以来現在まで約300年間も、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角が【北】と定まっていた。ゆえに、『魏志倭人伝』に記述された方位は現在の日本地図で考えるべきである」と主張する。しかし、上記したように【天の北極は「死の闇」に閉ざされた、命が絶たれる天体部】であった。だから、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、〔不吉な【死】の天体部、天の北極〕を〔地理における方位の基準〕とするはずがなかった。
 いっぽう、原始のときから、人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは大海上や旅の各地で天頂緯度線をキャッチして朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していた。だから、魏と倭の国交を結ぶ〔倭の国書〕を魏王朝は手に入れることができ、後に晋王朝に秘蔵された〔倭の国書〕を閲覧した陳寿が〔倭の国書の記事〕をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼王朝は〔天の北極や北極星〕を【北】と定める日本列島地図を制定するはずがなかった。というのも、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りは玄界灘で死滅し、〔倭の国書〕を魏都に届けることができなかったからである。だから、もとより、卑弥呼王朝は〔天の北極と北極星がある方角を【北】と定める、日本列島地理〕を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本地図の基(もと)に方位を考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史史料として存在しなかったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる【学者たちの、現在の日本地図で立論する視座】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメであったのである。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に記される「一大国」は「一支国」の誤記であったと主張する。
 しかし、倉頡は「十字の銀河の腰にある子宮の相当する銀河部」を「十字の銀河の子宮」と定めた。そして、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 だから、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて小国名を「一大国」と定めた。ゆえに、「一支国」が正しいという意見は空論であった。

 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この【「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準】にして――[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて、下図に示す【本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある】と定める【転回日本列島地理】を卑弥呼王朝は制定したことになる。
 つまり、下に示す【対馬国と一大国を除く、九州以下の本州地理における方位】は、卑弥呼が統治した国名「倭」の字源をあらわすことになる。
 下に、【[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】を配した。
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 上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ百里行くと不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 したがって、上に提示した【転回日本列島地理】に示したように――倭女王の卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」であった。「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心」は、下記の記事ともすべて合致して合理となる「山陰出雲、現在の島根県東部」であった。
 上記の旅程記事に関係する、下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していたことになる。
 『魏志倭人伝』は九州について「女王国(山陰出雲地方)より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」。つまり「女王国(山陰出雲地方)より以北には、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()が存在するが、この余白地域は女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と説明している。ゆえに、「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域」は、「現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県」であった。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国(山陰出雲地方)の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に配した【転回日本列島地理】に図示したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国(出雲)の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中土で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆上に提示したように、卑弥呼王朝は【「九州の末盧国以下の本州の地理」を、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で統一する列島地理】を制定していた。
 だから、『魏志倭人伝』は「末盧国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴国がある。奴国の東へ百里行くと不弥国に到着する」と記述する。
 下の〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲・旅程基点の地図〕が示すように――〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の福岡市の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は、上記した『魏志倭人伝』の〔末盧国から不弥国までの旅程記事〕にすべて合致するゆえ、すべて合理となって【科学】が成立する。
 これゆえ、『魏志倭人伝』の全記事は正確であり「卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定していた」と説明していたことになり、邪馬台国説はデタラメ読みした空理空論であったことになる。
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 さらに、下図に示すように、「末盧国」であった「佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐をのぞく長崎県)」には、卑弥呼王朝が制定した[]の字源の方位規定が現在も残っている。
 下図の「末盧国の地宜」は「[]の転回方位規定にもとづいて横転する飯器(はんき/飯(めし)を炊く土器」に相似すると見立てられた。というのも、「末盧国」の[]の字について、『説文解字』は「飯器」とするからである。「末盧国」の[]は「秋の収穫期の末期」を意味すると考えられる。というのも、『説文解字』は[()]の字源を「寄(かりや)なり。秋冬には去り、春夏には居る」と解説するからである。[][]の字は相似し、「末盧国の地宜」は「秋の収穫の末期に、収穫を祝って炊く飯器の形」に相似する。
 だから、「末盧」という小国名は「秋の収穫期の末期に、収穫を祝って炊く飯器」であったことになる。
 下に示す〔[]の転回方位にもとづく末盧国の地理〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は矛盾せず合理となる。また「西彼杵(にしそのぎ)」「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も合理となる。だから、「末盧国、現在の佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに現在まで残ったことになる。
 現在の日本地図の方位規定にもとづくと――「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならず不合理である。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵」と「東彼杵」という地名も矛盾する。
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◆上に提示した【九州以下の本州の方位が[]の字源をあらわす転回日本列島地理】は、『魏志倭人伝』の方位記事と一ヵ所も矛盾しない。そして、【転回日本列島地理】は『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も主観を加えずに客観的思考に徹する意見であるゆえ、【科学】が成立する。
 だから、『魏志倭人伝』は、上に提示した【本州地理が[]の字源「東→南」へ時計回りに90度方位が転回する日本列島地理】を卑弥呼王朝が制定していた――と説明していたことになる。
 しかし、学者たちは全員、「北極星や天の北極は〔北〕の基準となる」ゆえ、卑弥呼王朝が〔東・西・南・北〕の方位を絶対に誤るはずがないゆえ、卑弥呼王朝は現在と同じく天の北極を〔北〕とする本州地理観を有していたと断定して、上に提示した【転回日本列島地理】を即座に「誤っている」と否定する。
 だが、前述したように、上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した「天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法」と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した「天の北極の高度を緯度に換算する方法」を比較すれば――〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図を用いて立論する邪馬台国説はわずか1時間足らずで完全に空理空論、非科学説、臆説(おくせつ)であったと断定できる。

 以上のごとく、邪馬台国説はすべてデタラメ・インチキ・ウソであったのである。
 『魏志倭人伝』によって日本国民が日本人として生きる真理、権利が明らかとなる。
 だから、邪馬台国説に日本国民は棄てられ、日本人として生きる人権を侵害され、日本人として生きる尊厳を冒涜されて侮辱されている!

 日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は無視せよ! 日本国民は、もういいカゲンに 邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説に バカにされるな! 愛おしき日本国民ヨ! 目覚めよ!

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2022年4月13日 (水)

新刊「邪馬台国」は存在しなかった

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邪馬台国説は完全なる空理空論だった。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記している。
本書は「邪馬壱国」という女王国名の由来を詳細に明確に科学的に証明して、邪馬台国説が完全なる空理空論であることを証明した。

愛おしき日本人よ。邪馬台国説にダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな!

日本国民は、もうイイカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
もう十分、日本国民はダマされた! 愛おしき日本国民よ! 目覚めよ!

 

 

 

 

書籍紹介

現代史学が力説する邪馬台国説は日本四千年の学問史を消滅させる誤読の空論であった

令和元年の大嘗祭は4000年の学問史を示す大祭であった。だから大嘗祭は宗教儀式ではない。

【日本四千年の学問史】大川誠一

ダウンロード - nihon_4000nen_no_gakumonshi.pdf (約2.03MB:無料版)

 

kindle版の『日本国誕生史の証明」と『大嘗祭の証明」を販売を開始しました。
各書はともに1000円。
いままで類をみない画期的で魅力のある著作物にしましたので、どうぞよろしくお願い申しげあげます。

 

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2022年4月 9日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6

#日本人ヨ! いとおしき日本人よ!


◆日本人ヨ!

(いと)おしき日本人よ!

邪馬台国説にはダマされるな!

 邪馬台国説は相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を伝える歴史書にして、倭女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』は280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。歴史編纂官の特権から陳寿は晋王朝が秘蔵していた【魏へ送られた倭の国書】を閲覧することができた。【倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には漢字の起源の秘密を保存する太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観・自分の考えをいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』とよんでいる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――【今から約4000年前に、わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の文書】をそのまま書き写して、陳寿は『魏志倭人伝』を著作した。
 わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 『魏志倭人伝』は「倭国は夏代初頭に夏音文字を習得した」という歴史の基(もと)に説明する史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。

◆上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書では「賤(いや)しい」とする。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義は「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には漢字の起源の秘密や、もしくは太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 このような三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、倭は夏音文字を習得していた」と明確に示している。にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであった。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしもウクライナを侵略したプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』によって「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。だから、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然と残っている事実――が明確となる。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】によって【黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であった。
 それというのも、卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であったからである。
 
中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、【黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策】が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。
 中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。
 「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすために、[]の字を作った。つまり[]の字源は「巫女(みこ)たちが祈祷し祝って生まれた人民たちの子どもたちが、この世に満ち満ちあふれる」であった。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「夏の銀河」であった。
 このように、卑弥呼が生存した時代は中国と諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を示すことになった。だから、中国はじめ諸韓国と倭国の自衛・国防にあって【黄帝と倉頡の学問の復興】が最も重視され、真っ先に必要とされたのである。
 したがって、卑弥呼が【倭国の国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在した王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると押しとおして「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と日本国民をダマす。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器、つまり子宮・産道・骨盤や骨盤入口など」であった。
 だから、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)」の研究】と、【「女性の生殖器()」の研究】をあらわした。
 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」を「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」を「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである。したがって、小斜径より2センチ大きい前後径の場合、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の頭蓋骨の小斜径」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨がせまい産道を通りぬけることができる仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]について説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であった。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている」と証明できた文献史料であった。
 というのも、上に示した「四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現していたからである。
 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説は下記のごとく説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。


◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。

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◆前述した「邪馬」の「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる、小斜径の頭蓋骨」は骨盤入口をくぐりぬけるときに「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口(ちくこう)から脱出して誕生する。
 この出産児の骨盤入口をくぐりぬけてから膣口を脱出した頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は目で見ることができる――つまり、分娩室に入室して妻の出産の様子に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃できる。
 この出産児が産道を通りぬける頭蓋骨の4回の回旋の光景は、言葉であらわすことができないほど感動的で泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【黄帝の医学研究における最も神秘的な生命のいとなみ】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」はあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反()時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]の字は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に飢えさないとする」という政治スローガンを表示すると定めて、黄帝の仁徳・慈愛の政策をあらわした。[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をそのまま受け継いだ[][]の字も「五穀豊穣、黄帝の仁徳・慈愛の政策」を表示することになった。また、[]そして[]の字は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える意」をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間にある「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆〔一大国の地宜(海岸線の地図の形)〕は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられ、また【漢字作成理論を象徴する聖獣】の「フタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地域に岐(わか)れる〕。ゆえに、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となった。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪()め」である。ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも中国や諸韓国が侵略・来襲してきたならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられた。
 [伊]の字は「100頭のジャコウウシが外に鼻を・中央に背中を向けて、円陣(円形の軍陣)を組む習性」をあらわした。[]の字は「円形の城壁をめぐらす軍事都市」をあらわした。ゆえに、脊振山地(せふりさんち)の北側の現在の福岡県糸島市から脊振山地の南側の佐賀県佐賀市一帯の小国名を、卑弥呼は「伊都国」と定めたことになる。
 また、伊都国王「一大率」という名が示すように、「伊都国」という小国名は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわした。ゆえに、伊都国は「倭国の自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬国・瀚海・一大国から外へと逐()いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆卑弥呼は、国名を「倭人国」と定めた。
 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準にして[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて「本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある」と定める転回日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を配した。
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上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ行く百里に不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 さらに下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していることになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は九州について「女王国より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」、つまり「女王国より以北では、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()は、女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と記述する。
 この「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域は、現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県であった。この余の旁国地域は、上の【転回日本列島地理】では『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国以北に所在して、女王国から遠く離れている」。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に示した【転回日本列島地理】の右側に記したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆現代の日本列島地図にもとづいて考える邪馬台国説学者たちは、上に提示した【[]の字源をあらわす、本州が時計回りに90度転回する日本列島地理】が『魏志倭人伝』の旅程と方位記事にすべて合致するゆえ【科学】が成立して事実を伝えていたことに気づかない。
 『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると、〔卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定した事実〕が【科学】が成立して証明される。
 []の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついでいた。
 下に現在方位にもとづく「末盧国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
 2世紀初頭に成立した〔字書の聖典〕とよばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、「末盧」は「秋の穀物の収穫作業の末期(終わり)、飯(めし)を炊く五穀豊穣の祝い」を意味したと考えられる。
 下の地図に示したように、末盧国の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海にそそぐ塩田川(しおだがわ)の上流を結ぶ地域を結んで境界線と定めると――〔末盧国北部の地宜〕は「縄文時代の飯を炊く土器の形」に相似し、〔末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島地宜〕は「飯器を炊くカマドの炎の形」に相似する。
 ゆえに、〔末盧国〕は〔松浦川と塩田川より以西の佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐を含まない)〕であったことになる。
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 上の末盧国における「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならない。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵(にしそのぎ)」と「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も矛盾する。
 下に示す〔[]の転回方位規定にもとづく末盧国の地宜〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は合理となる。また「西彼杵」「東彼杵」という地名も合理となる。
 だから、「末盧国、佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに保存されて現在まで残っている。
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◆だから、前述したように、卑弥呼王朝は【末盧国以下の本州の方位規定を、[]の字源をあらわす「時計回りに90度転回させる」日本列島地理】を制定したことになる。
 前に示した【転回日本列島地理】では〔末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旅程基点〕が明確に示されていない。
 ゆえに、下に〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲と旅程基点の地図〕を配した。
 下の図の〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は『魏志倭人伝』の記事とすべて合致する。
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 だから、前に提示した【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】に表示したように、倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国の範囲は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県西部」であったことになる。
 そして、「現在方位の北」は「[]の字源の転回方位の東」となるゆえ、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆、倭種なり」と記述する小国は日本海に浮かぶ「隠岐群島」であったことになる。というのも、日本海には「皆、倭種なり」と説明する「多数の島からなる群島」は隠岐群島以外一ヵ所も存在しないゆえ、「皆、倭種なりの小国」は隠岐群島であったと限定することができるからである。
 したがって、隠岐群島が東となる出雲(現在の島根県東部)が、邪馬壱国の中心地であったことになる。
 下の図は、新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレース(転写)して転回方位地図としたものである。
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 上の〔古代出雲の「邪馬壱」をあらわす地図〕の左上部には、〔神門水海(かんどのみずうみ)〕があり、右下部には〔佐太神社が所在する松江市中央部〕がある。
 上の地図における「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸と邪(なな)め」となり[馬]の字源「子どものフタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわした。また、「松江市中央部」が[壱]の字源をあらわす地宜となる。
 だから、「旧国出雲」は倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」であった。
 「神門水海」は「子のフタコブラクダの姿」に相似する。神門水海が隣接する「[]の地宜」と記した「出雲大社が所在する、フタコブラクダの横顔に似る地域」は「母親のフタコブラクダの横顔」に相似する。「[]の地宜」と記した「母親のフタコブラクダの横顔」は「子のフタコブラクダ(神門水海)の背中を口で嘗()めて撫でている形状」となる。ゆえに、この「フタコブラクダの母親が子を慈(いつく)しみ愛(いと)おしむ情景」は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわす。

◆注目すべきは、「[]の地宜」の転回方位の真南(現在方位の東)の「宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」に相当する。
 前述したように、「対馬国の上県の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てられ、「対馬国の下県の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられた。したがって、邪馬壱国における「[]の地宜」と「宍道湖の地宜」は「馬・フタコブラクダの正面形と足が一対」すなわち「対馬」という小国名に合致する。
 「対馬国」の南の「現在の長崎県壱岐」は「一大」とよばれた「十字の銀河の子宮」に見立てられて小国名が「一大国」になった。そうすると、上の図における[]と記した「佐太神社がある松江市中央部」が「一大国」に相当する。
 このような邪馬壱国中央は〔対馬の「邪馬」」と〔一大の[]〕」をあらわす地宜となるゆえ、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めたのである。卑弥呼は「邪馬壱国より以北には特に伊都国の一大率を配置して、対馬国・瀚海・一大国の外へ侵略・来襲する外敵を逐いはらう軍王」に就任して、共に国防に努力していたのである。
前述したように、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸にも邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 下図に示すように、「転回方位の南端(現在方位の東端)の宍道湖の地宜」は「人の足首より下の足の側身形」に相似する。ゆえに、「人の足の側身形に相似する宍道湖の湖岸」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に見立てられ、宍道湖に隣接する「松江市中央部」は「十字の銀河の子宮」に相当するゆえ[]の字源をあらわした。だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と理路整然と説明していた。
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◆上図の下部に示したように「宍道湖の足の側身形に相似する爪先(つまさき)」が指差す方向に意宇(おう)平野がある。[]の字源を示す「松江市中央部の南(転回方位)」からカーブを描く矢印の方向に意宇平野がある。ゆえに、「南→西の、時計回りの90度の転回」は[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をあらわす。
 また、「南→西の、時計回りの90度の転回」は「邪馬」つまり「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門がせまい産道を通りぬけるとき、時計回りに90度転回する第1回目と第4回目の回旋」をもあらわす。
 だから、意宇平野は[]の字源と「邪馬」の語をあらわす聖地であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が住む宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』は卑弥呼が住んだ宮殿について「倭女王の卑弥呼は婢()千人を侍(はべ)らせ、(中略)、女王の宮殿には楼観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、常に兵器を持った兵士が守衛している」と記述する。
 また、『魏志倭人伝』には「その国、本(もと)男子をもって王となす。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事もある。
 中国において獣性に支配される残忍な戦争が続いて一気に人口が激減していた西暦180年頃、倭国においても各国が憎しみあう戦争で乱れていた。ところが一女子が[]の字源と「邪馬壱」という語をあらわす転回日本列島地理を立論し、この転回日本列島地理をもって鬼神(きじん)の啓示(けいじ/鬼神がしめす真理)を説き、もしも中国や諸韓国が侵略すれば乱れた倭国は一気に滅亡すると指摘し警告して戦乱を終息させた。この一女子は後に「卑弥呼」とよばれる倭女王に就任し、伊都国の一大率と共に国防に努力したことになる。
 中国の後漢時代の戦争には、「媚蠱(びこ)」とよばれる「敵軍の呪的(じゅてき)戦力を高める巫女(みこ)、つまり敵軍の媚蠱を殺す魔女」がいた。ゆえに、西暦180年頃の倭国でも、戦いの先頭に霊力が強いとされた巫女が呪的戦力を高める魔女として活躍していたにちがいない。霊力の最も強いと信じられた女性は夏の銀河の暗い箇所までよく見える最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女であった。この「魔女となった13歳くらいの乙女たち」は[]とよばれた。ゆえに、卑弥呼は国中の千人の婢を宮殿に集めて、ふたたび婢(魔女)たちが活躍することになる大乱を防いでいたのである。
 だから、卑弥呼が住む宮殿が「敵の来襲を見張る高いやぐらを設営し、敵と戦う城柵を厳重にめぐらし、常に兵器を持った兵士が守衛していた」のは、卑弥呼が【倭国一の強大な戦力】を有して国内の反乱を防いで国家安定を図るためであったからである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が夏の銀河の各部の形状から文字を作った理論】と、()【夏代初頭に益氏が教えひろめた夏音文字の学術】を理路整然と説明していた歴史書にして学術書であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』は、現在のウクライナ・ロシア戦争から日本国がどのように国防に努めたらよいか、その方法を学ぶことができる最良の教科書である。
【A】ウクライナ・ロシア戦争において「米国や欧州、そしてウクライナ自身はロシアに侵略されないための努力が足りなかった」と批判する人々がいる。このような批判を重視するならば、日本は侵攻されないための外交を真っ先に努めなければならないことになる。
 日本が侵攻されると心配する最大の脅威は尖閣諸島や東シナ海・南シナ海の「歴史的権利」を主張する中国である。しかし、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史】にもとづいて日本が中国との国交に努力すれば、中国の脅威をとりのぞくことができるにちがいない。
 というのも、神話とされた黄帝は中国のすべての漢民族に祖先神と崇められ、中国の文物(学問、芸術、信仰)の制度を創造したとされ、中国人のアイデンティティーであるからである。この【中国の精神的支柱である黄帝の神話】は、『魏志倭人伝』によって【唯一無二の真実の歴史】となる。したがって、わが国が中国と誠実な国交に努めるならば、プーチンのごとくウクライナを理不尽に侵略したような愚行を、中国が強行するはずがない。
 『魏志倭人伝』はじめわが国の文物(学問・芸術・信仰)はじめ様々な遺跡や習慣・風俗などに残る多数の史料でも科学的に証明される【唯一無二の歴史となる黄帝の歴史】は、むしろ黄帝の国・中国にとって積極的に日本との友好・共栄共存に努めるべき重大な政策にして課題とすべきことになるゆえ、中国との友好を望むわが国を中国が侵略する原因・根拠・理由は皆無となるため、中国が侵略するという脅威は杞憂(きゆう)であったことになる。

【B】専制主義の中国と自由主義諸国との対立はじめ、尖閣諸島や台湾海峡が原因で中国の軍事的拡大が決行される事態となった場合――ウクライナ・ロシア戦争によって明白になったように、わが国はウクライナのごとく世界中の多数の国々を味方につける必要がある。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で具体的に解説したように、『魏志倭人伝』によって現代55億人余の人々が使用する文字の始祖・ルーツとなる古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた、漢字と同じく「夏の銀河各部の形状」から作られた事実が科学的に証明される。したがって、わが国は「文字と学術を発明した人類の歴史が科学的に証明された重大な国」と世界中の国々から注目され愛され尊敬されるにちがいない。
 これゆえ、世界制覇を目論む中国や理不尽な北朝鮮に侵攻されることになっても、北米はじめヨーロッパやアジア太平洋・アフリカ・南米などの世界中の国々は、中国や北朝鮮を野蛮な侵略国として非難し、わが国に必ず味方して援助するにちがいない。
 だから、早々にわが国は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史の解明】を国家的規模で着手する必要がある。

【C】日本の国防は【黄帝を国防の守り神とした卑弥呼の軍事政策】から始まり、国防政策は朝廷・皇室そして将軍・武家たちによって積み重ねられ――このような国防の歴史によって育成された国防意識を日本人はDNAとして受けついでいる。
 ゆえに、なぜ国家をまもらないのか、何のために戦うのか、どうして国土をまもるために戦わなければならないのか――日本国民が戦う意志や意欲を有する対策はじめとする様々な要素からなる多元的で一体性を持った国防を強化増大化するためには、『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼の国防政策からはじまる国防の歴史研究】が真っ先に必要となる。

◆だから、日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな! 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! 日本国民ヨ! 目覚めよ!
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論、妄想であったうえに、日本国の国力を蝕(むしば)む癌(ガン)であり、亡国の元凶(がんきょう)であったのだ! 

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2022年4月 3日 (日)

邪馬台国説 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・5

#日本国民よ、いつまでも邪馬台国説にダマされるな


◆邪馬台国説にダマされるな!

 邪馬台国説は無視して相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
 もう十分に、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事を誤読してデッチあげたペテン、インチキである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで正確に理解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝(こうてい)が研究した医学】と【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせんぜん)と説明していた史料であった。ゆえに、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という真実が【科学】が成立して完全証明されていた。

『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論の説明】は、わが国の幾つかの遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、現在における日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して残っている事実――が明確となる。

だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論と、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実の歴史】であったことになる。

歴史哲学・歴史科学を研究する学者たちの中には「唯一無二の歴史の真実は存在しない」と思いこむ人々がいるが――『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字発明】は、上記のごとく現在のわが国の日々の生活にも融合・同化して受け継がれているゆえ――【唯一無二の真実の歴史】は確かに存在することになる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】を説明する歴史書であった。また、『魏志倭人伝』は黄帝の史官(記録官)であった【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす文字を銀河各部の形状から文字(漢字)を作った理論】を説明する学術書であった。
 倭女王・卑弥呼(ヒミコ)は、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論と医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治して、中国や諸韓国の侵攻・侵略から衛(まも)る国防に努めた。
 
というのも、中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかったからである。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばは、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。

中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。

「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の医学研究】をあらわすために、[]の字を作った。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「倉頡が文字(漢字)を作るモデルとなった銀河」であった。
 上記したように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代は中国の魏・呉・漢と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問と、その歴史の復興】が渇望されて自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であったのである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政治理論と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 現在、中国においては、益氏が日本列島に定住した夏代初頭は神話であって歴史ではない。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって、中国の神話・伝説に登場する黄帝・倉頡・帝禹・帝益と益氏の王子と若者たちは一気に歴史上に生存した人々となる。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

1725年に死去した新井白石以後から現在までの邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の記事を正確に読むことができず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には、「倭人国には夏音文字が存在した」と伝えていたと解釈すべき記事が【A】【B】【C】の三ヵ所存在する。この記事をルビ無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の腹の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる

【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる有力な王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国(いとこく)を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換して、誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであったことになる。
 【C】『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると言いはり「邪馬台国」と誤読する。
 このような三つの事例が示すように、新井白石以後の邪馬台国説学者たち全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志を有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」によって形成され、これゆえ夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであり、ゆえに楷書の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏の全星座が漬かる銀河の範囲」、言いかえると「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡することに気づいた。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を最も厳重な機密にしないと、プーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、【『魏志倭人伝』に記述された倉頡が発明した漢字作成理論】や、【漢字の字源・字形の原形・原義の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を表示することになった。だから、中国と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡の学問と、その歴史の復興】は自衛・国防に真っ先に必要とされることになったのである。
 だから、卑弥呼が【国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は邪馬壱国であった」と記す。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。

 「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 このように、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)と女性の生殖器()」の研究】をあらわした。

 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」は「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。前後径の状況になると、小斜径より約2センチ大きくなるため、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の小斜径となる頭蓋骨」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 (注 邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである)
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨の仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]が説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆前掲した〔夏の銀河の写真の左上端よりやや下部〕は、〔夏の銀河各部の名称図〕において左上の「三つ輪の銀河の北端」となる。「三つ輪の銀河の北端」は〔蒙古のゴビ沙漠の天頂(北緯42)〕となる。
 したがって、前掲した〔夏の銀河の写真〕は〔夏の銀河の範囲〕をあらわす。
 だから、「夏の銀河における北の端(北限)」をあらわすため、「ゴビ沙漠」と「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が必要となった。ゆえに、倉頡は[]の字源を「フタコブラクダ」と定めて、「馬」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

 上記したように――ゴビ沙漠からヒトが南を正面して〔夏の銀河〕を見たとき、〔ヒトの左手側は夏の銀河の東方、ヒトの右手側は夏の銀河の西方〕となる。ゆえに、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく、倉頡は【漢字の字形を左東・右西】と定めた。

 しかし、〔ゴビ沙漠から南を正面する夏の銀河の形状〕は、下の図に示すように「人体」に相似する「十字の銀河」は「頭が地のほうに向き足が天のほうに向く、逆さとなる人の(逆立ちした)姿」に見えて不自然である。
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◆倉頡は「十字の銀河」を「地面に立つ女性(妊婦)の姿」と定めるため、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【上が北、下が南】と定め、【漢字の字形の定式】は上記した通り【左東・右西】と定めた。
 これゆえ、前掲した〔夏の銀河の写真〕は倉頡が定めた【漢字の字形の定式(上が北・下が南/左が東・右が西)】をあらわす。

 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】の則(のっと)る〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆下に[(か/イネ()]の字源銀河解説図を配した。[][]の字源は下に示した「[]のイネの穂が〔南から西へ〕と垂れる形式」をそのまま受けついだ。ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 下に〔地面に植わる禾(イネ)をあらわす、[]の字形解説図〕を配した。
 下図の右側〔[]の穂の転回図〕における〔禾の穂が「北→東」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は、上図と同じく「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「南のかた、江(こう)に至り、熊湘(ゆうしょう)に登り、北のかた、葷粥(くんいく)を逐()ふ」という文がある。
 この文は「黄帝が率いる遠征軍は、南は北緯3130分の長江口・揚子江に至り、熊湘という名の地に登った。熊湘から北へ引き返して、黄帝の遠征軍は本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還した。そして、馬・フタコブラクダを家畜とするゴビ沙漠の住民・葷粥の別名匈奴(きょうど)が北から来襲し侵略してきたゆえ逐いはらった」と説明していたことになる。
 したがって、上に配した〔イネの穂が南に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍が長江の河口の長江口・揚子江に至り、熊湘の地に登った」と表現していたことになる。
 また、上に配した〔イネの穂が北に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江で育成される稲を採取して、北の本拠地に帰還して稲を大事に育てた。そして匈奴が来襲してきたゆえ逐いはらった」と表現するものとなる。

◆これまで解説してきた事情を、倉頡伝説は下記のごとく説明していたのである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾()を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

前述したように、倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた。そして、来襲する横暴な匈奴を逐いはらった」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって歪(ゆが)めて変えることができなかったゆえ、後世の人々は文字、つまり夏の銀河の各部の形状を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

 
◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であったと説明する。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。

 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆一大国の地宜(海岸線の地図の形)が示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」と直接に関係する【漢字作成理論を象徴する聖獣】のジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地域に岐(わか)れる」ゆえ、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となる。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に相似すると見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸にも緯度軸にも邪()め」である。
 ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも外敵(魏、燕(えん)、諸韓国)が来襲したならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられて「伊都国」と名づけられた。
 そして、伊都国王「一大率」という名が示すように、伊都国は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわして「自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬・瀚海で逐いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆邪馬台国九州説の理由・根拠となる吉野ケ里遺跡は、伊都国に所在する。『魏志倭人伝』は「九州の所在する倭人国の一員となる小国は末盧(まつら)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国の四ヵ国であった」と説明する。だから、九州には女王国は存在しなかったゆえ、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論・幻想であったことになる。

 下に1番目国の対馬国から数えて24番目国の「邪馬国の地宜」を配した。
 前述したように、「邪馬」は「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・ミゾ・口の形」である。前述した[]の字源「時計回りに90度転回する〔北→東・南→西〕と定める方位規定もとづく、大和の地宜」は「邪馬」の語源「草をモグモグと食べてふくらむ鼻・ミゾ・口の形」となる。ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。
 だから、邪馬台国畿内(大和)説もまた〔デタラメ読みの論法〕を駆使(くし)した空理空論・幻想であったことになる。
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〔山陰・出雲地方の地宜〕は、明確に「邪馬」の語源と[]の字源をあらわす。だから、卑弥呼は山陰・出雲に居住していた。『魏志倭人伝』の山陰出雲・邪馬壱国までの方位記事は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にすべて合致して【科学】が成立する。したがって、卑弥呼は出雲の一画に居住していた、これが真実であったのである。

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2022年3月29日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4

#邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている

◆日本国民よ! 邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている!
 目覚めよ! 日本国民よ! 邪馬台国説学者たちと邪馬台国説の大ウソをたれ流しつづけるNHKテレビと朝日新聞出版は日本国民を虐殺しようとしている!
 邪馬台国説は日本国を衰退させ滅亡しようとする祟(たた)りであり、すべてがウソ、ペテン、インチキなのである。

◆現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアは5年後、もしくは10年後には壊滅・衰亡するにちがいないと指摘されている――このような状況から、多くの人々はウクライナ戦争が停戦あるいは終戦したあと、中国と日本は戦争となるかもしれないと心配する。
 しかし、いまが今、多くの日本人が邪馬台国説の詐偽・ペテンに気つけば、中国は日本には侵攻できない歴史的経緯・理由・根拠を知ることができる。
 というのも――【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除(はいじょ)・カットせずに、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解(どっかい)すれば――【A】中国と日本のあいだには互いに攻撃・戦争しあう理由・根拠・大義名分が存在しないことが明らかとなり、【B】わが国にあっても卑弥呼時代から今日にいたるまでの自衛・国防の歴史の一貫性が明確となり、この一貫した自衛・国防の歴史によって国民が国家・国土を衛(まも)る熱烈な魂やアイデンティティーが鮮烈によみがえるからである。
 だから、いま、わが国の自衛・国防を真剣に誠実に考える時であるとするならば、真っ先に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解して真実の歴史を知らなければならない。

◆邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合(ふつごう)な記事は何ヵ所でも排除・カットできる、【二】邪馬台国にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、〔ウクライナに侵攻するプーチン流の言いがかり・捏造(ねつぞう)・こじつけ論法〕を駆使(くし)して、日本国民をダマしている。
 その証拠に――邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に「邪馬壱(やまい)国」と記される、その[()]の字を指差して[()]と書いてあるとダマして、ウソ八百の邪馬臺()国説をまくしたててまんまと日本国民をダマしている。
 『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
 だから、「邪馬壱国」と書いてあるものを「邪馬台国」と書いてあるとダマす学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版が主張する邪馬台国説は、日本の自衛・国防を無能化する、また中国が東方へと侵略・膨張せんとする暴走(戦争)に加担(かたん)する最悪・愚劣きわまりない最大・最悪の祟り・呪(のろ)いである。
 「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む無知・無学によって獣性(じゅうせい)に支配される悲惨で残酷な戦争になるかもしれないということである。

◆〔プーチン流のデタラメ・インチキ論法〕を駆使する邪馬台国説では、ウクライナ侵攻後の中国の「大きな中国にならんとする野望による侵攻」を助長・加勢することになる。
 他方、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する邪馬壱国説ならば「自らを世界の中心に置く大国・中国にならんとする野望・野心による周辺諸国への侵攻の誤り」を諭(さと)すことができる。というのも、邪馬壱国説ならば「五千年前に生存した中国の始祖・黄帝(こうてい)の政治理念、つまりほんとうの中国の在り方」が明確となるからである。
 黄帝の名は軒轅(けんえん)といい、過去に中国で暮らしたほとんどすべての民族から祖先神と崇(あが)められた帝王であるが――現在、学説においては「神話上の人物」とされる。
 しかし、過去においては中国の始祖として歴代の王朝はたえず黄帝を崇めて祭り、人々は自分たちの祖先は黄帝であると信じて疑わなかった。共産党政権となった現在においても多くの人々が黄帝を祭る廟と墓の「黄帝陵」を参詣している。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在する。
 中国とはどのようにあればよいのか、中国人とはどのようであればよいのかと考えるとき、中国の人々にとって黄帝への思いを欠くことはできない。黄帝は中国の学問・芸術・信仰などの制度を創造したとされる、中国人のアイデンティティーであり、精神的支柱である。中国を世界の中心に置き、周辺諸国の民族を抱き込んで慈(いつく)しむ――このような中国人たちが伝統的に受け継ぐ世界観は、黄帝の政治理念を誤解して成立する。
 しかし、中国の始祖・黄帝の事績と理念と情念は『魏志倭人伝』の「倭人国」という国家名と「邪馬壱国」はじめとする34の小国名に秘められている。
 だから、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すれば黄帝は神話から歴史へ一気に登場する状況となる。つまり、黄帝は神話上の人物ではなく歴史上の人物であったのである。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭(わが国の中期縄文時代初頭)、黄帝が天下を治めていた。
 この黄帝の治世、倉頡(そうきつ)伝説は「黄帝の史官(記録官)であった倉頡が漢字を発明した」と伝える。この倉頡伝説では「倉頡は四つ目の怪人であった」と語られる。ゆえに、現在、学者たちによって「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されることになった。
 このように、黄帝と倉頡の伝説は神話すなわち歴史を伝えるものではないと確定された。
 しかし、紀元前1世紀にあって、当時の知識人たちが深く考えずに「神話である」と無視する意見に反論して、司馬遷(しばせん)は『史記』第一の〔五帝本紀〕の初頭部に歴史と考えられる事績を選んで黄帝について記述している。
 『魏志倭人伝』における主なる記事(「倭人国」という国家名と34の小国名に用いられる漢字の字源)は、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と詳細に説明している。
 「黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作った」と伝わる。
 『魏志倭人伝』は大半の記事をもって「『内経』とは【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】であった、そして倉頡の漢字の作成目的は【黄帝の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった」と説明している。
(
注 司馬遷著『史記』の黄帝紀には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字の発明】に関する記事は無い。しかし、【黄帝の医学研究】と【倉頡の漢字の発明】は『魏志倭人伝』に理路整然と詳細に記述されて、歴史であったことが【科学】が成立して証明することができる。)

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【黄帝が研究した、出産する児(赤ちゃん)5枚に分かれる頭蓋骨がせまい産道をくぐり抜けることができる仕組み(機能)】を「邪馬」とあらわし、【黄帝が研究した女性の生殖器の子宮・産道・骨盤】を[]とあらわして、卑弥呼が居住した女王国の名称を【邪馬壱国】と定めた」と記述している。
 だから、[]の字を[]と書いてあるとダマす邪馬台国説はただちに空理空論、すべてウソであったのである。
 『魏志倭人伝』は【邪馬壱国】という女王国名をもって「黄帝と倉頡は神話上の人物ではなく、歴史上の人物であった」と証言している。
 つまり、『魏志倭人伝』の55%・約1100字の記事(倭人国の34の小国名とこの小国名に関する記事)は――倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。倉頡は天文学で通称「夏の銀河」とよばれる「夏にもっとも長時間に見ることができる銀河の各部の形状」から、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす漢字を作る理論を発明した。この【倉頡が発明した漢字作成理論】は、中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏后王朝の始祖・帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と益氏の若者たちが日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)流域に定住して、東北地方から関東一円に居住する諸氏族(諸民族)に教えひろめた。よって、わが国は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と説明していたのである。
 (注 学界が神話と断定した夏后時代初頭の夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて現存する。また、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。だから、日本の国語には神話とされた夏后時代初期の漢字音が多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は夏音文字の漢字音である。)

◆再度くりかえす、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・カット(削除)できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた」という事実と、【5】わが国は今から約4000年前の夏代初頭(夏后時代初頭)に夏音文字と精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法を習得した」という事実、この【三つの事実】のもとに『魏志倭人伝』は著作されている。
 その証拠に、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると矛盾点が一点も生じず、【科学】が成立して事実であったと証明されるからである。さらに、幾つかの遺跡や日本人の様々な慣習によって『魏志倭人伝』は全記事は【科学】が成立して正確無比であると証明される。

◆『魏志倭人伝』は【A】「倭国には令亀(れいき)の法、つまり亀の甲羅(腹甲)に文字を刻む甲骨文字のごとくの初期漢字・夏音文字があった」と記述し、【B】「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書で使用する楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が相違していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都(いと)国の男王・一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちは、魏都・帯方郡・諸韓国から送られてきた文書の楷書と倭国の王たちが書いた文書の夏音文字を逐一(ちくいち)点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字に同義になるように正しく変換していた」と説明する記事がある。あるいは【C】121年頃に完成した『説文解字』は「卑弥呼」の[]の字源を「賤(いや)しい」と解説するように字源を失っていた。いっぽう、倭の夏音文字における[]の字は正しい字源を保存して「中国の海岸線。また中国の海岸線の地図の形」を意味した。
 280年から289年ころに『魏志倭人伝』の著作した陳寿(ちんじゅ)は、晋王朝につかえた歴史編纂官であった。陳寿は優れた深い学識を有する歴史家であった。ゆえに、陳寿は倭の国書にあった上記した【A】から【C】までの三つの記事はじめその他の記事から、「倭には字源を失わず正しく保存する甲骨文字より以前の、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする初期漢字が存在する。また倭には【倉頡が発明した漢字作成理論】も存在するにちがいない」と直観・推断した。だから、陳寿は倭の国書に主観・批判・注などをいっさい加えず、倭の国書の記事をそのまま書き写して『魏志倭人伝』を著作したことになる。
 その証拠に、前述したように『魏志倭人伝』の約55%・約1100字の記事は「倭国は、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と、学界が「神話」と断定した黄帝時代と夏代初頭(夏后時代初頭)の文物(学問・芸術・宗教)について理路整然と詳細に科学的に説明している。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について1ヵ所も説明していない。ゆえに、邪馬台国説はすべてがウソ、ペテン、インチキであり、また日本国を衰退させ破滅せんとする祟りであったのである。

◆学界が倉頡伝説を「荒唐無稽のデタラメ」と断定した原因「四つ目の怪人・倉頡」の実体は「黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきて、中国各地の緯度が精確に(160分の60分の11分の精度で)測定できる羅針盤となった、【四つ目の銀河】」であったのである。
 【四つ目の銀河】を「倉頡の横顔」に見立てると【倉頡が発明した漢字作成理論】は夏の銀河の各部の形状から作られた多数の文字の字源が理路整然とした一つの統合体となる。ゆえに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」、言いかえると「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であったことになる。
 陳寿が【倭の国書の記事】をそのまま書き写して著作した『魏志倭人伝』によって「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であったと証明される。よって、学界の「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである」という断定は全面的な誤り・空論であったことになる。倉頡伝説は「漢字の起源の歴史」について説明していたのである。

◆夏音文字の字源・字形・字義となった「夏の銀河の各部の形状の写真」、また楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった「夏の銀河の各部の形状の写真」を、下に示した。
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◆倉頡は【字源・字形・字義を夏の銀河の各部の形状としても、文字として通用すること】に気づいた。
 また、倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制者側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を厳重な機密にしないと、プーチンのごとく横暴・傲慢(ごうまん)・冷酷な人々が文字の知識を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい悲劇・不幸をあたえるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
【倉頡の死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えるため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族をも死刑にする


 上記の【三】の掟のために、後期縄文時代初頭以後、あるいは卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)にあっても、夏音文字を書いた史料は消滅して出土しないことになったのである。
 上記の【二】の掟のために、「夏の銀河各部の名称」はつけられないことになった。また、現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」を定めていない。しかし、【漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。それゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【倉頡が発明した漢字】は現在の核のごとく絶大な恐怖心を与える存在となった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方を教えた犯罪者のごとくにあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大罪人・大悪党となった。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称した。また、黄帝時代には中国とわが国における各地の天頂に、そして紀元前11世紀初頭の周代初頭以後は次第にやや北側に位置するようになって、「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「四つ目の銀河」がめぐってきた。
 だから「漢字」の語源や「四つ目の怪人・倉頡(四つ目の銀河)」によって、各代の天皇はじめ研究熱心な皇族たちはじめ、権力者となった武士たち(源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)や仏教の高僧たちや名だたる芸術家たちは【夏の銀河各部の形状が文字(字源・真の字形・真の字義)である秘密】を知っていた。しかし、彼らは【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもって「漢字は銀河から作られた」と暴露しなかった。
 江戸時代初期、日光東照宮の造営に集められた大工や彫刻家たちなどの大半の芸術家たちは【漢字は夏の銀河から作られた秘密】を察知し、また【倉頡が死刑と定めた掟】が世を支配している状況を知っていた。ゆえに、名工の左甚五郎は「三猿(さんえん)の「見ざる・聞かざる・言わざる」の彫刻を作って「死刑になるのはマッピラ御免(ごめん)こうむりますから、漢字が作られた銀河は見ません・漢字は銀河から作られたという話はいっさい聞きません・漢字は銀河から作られたという秘密はいっさい言いません」と誓い、三猿彫刻を見物する人々にもしも銀河から漢字が作られた事実に気づいたならば、見ざる・聞かざる・言わざるを決めこんで命をまもるのが肝心である」と警告することにしたのである。

◆倉頡伝説は「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天を祝福して禾(か/イネ・麦などの穀物)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである」と説明する。
 「天は祝福して禾を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえた」という説明は「五帝時代より以前の三皇時代の大王となった包犧(ほうぎ)氏、女媧(じょか)氏、神農(しんのう)氏の天に昇って銀河部位となった三氏族の死霊は、倉頡が発明した文字によって自分たちの歴史が後世に伝えることができたと感激して夏の銀河が輝く夜な夜な雨を降らせて(つまり、感激して泣いた涙の雨を降らせて)豊かな禾の実り(五穀豊穣)を地上にもたらした」と意味し――また「倉頡は【黄帝が目標とした仁徳・慈愛の政治】を表現する[]の字を作った」と説明するものであった。
 黄帝時代、下に示す「四つ目の銀河」が中国各地(黄帝陵の天頂から太湖南岸までの各地の天頂)にめぐってきた。「四つ目の銀河」は上の「夏の銀河の各部の名称図」における左上の私が「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河における左端(東端)の「鬼の横顔に似る銀河」である。
 下に示したように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目」の形が四つある。この「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であると伝えて、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったのである。
 下に示したように、黄帝時代、「四つ目の銀河」は黄帝陵と太湖南岸の天頂にめぐってきた。ゆえに、「四つ目の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきたことになる。
 この「四つ目の銀河」は「黄帝の政治理念の仁徳・慈愛」をあらわした。
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◆前述したように、卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」のうちの「邪馬」は「出産する児(赤ちゃん)が骨盤入口を通りぬけ、さらにせまい産道をくぐりぬけることができる頭蓋骨の仕組み」である。
 下に示す2図のうち、上図は〔産道を通過する時の出産児の「邪馬」の頭蓋骨図〕であり、下図は〔出産児の頭蓋骨の形に相似する「邪馬」の銀河図〕である。
 つまり、「邪馬」は〔出産児の後頭骨にある「小泉門(しょうせんもん)」、2枚の頭頂骨にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨(2枚)の中間にある「大泉門(だいせんもん)」と名づけられる、結合組織性の膜(まく)〕である。この「邪馬」の膜によって赤ちゃんの5枚に分かれる頭蓋骨は重ねあわせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬけて誕生することができる仕組みとなる。
 だから、「邪馬」という語は【黄帝の「子どもの出産」研究の核心部】をあらわした。
(
注 なお、[]の字形は「骨盤入口の通過に失敗して死亡する出産児の姿」を図化したものである。ゆえに、[]の字源は「骨盤入口の通過に失敗した出産児の姿に相似する銀河」ということになる。)
 下図の「邪馬」の銀河図に示したように――「出産児の頭蓋骨・小泉門に相当する銀河部」は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部とアゴにある両目」と隣接する。
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◆卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 []の字源は下に示す、私が「十字の銀河」と名づけた――その「十字の銀河の、子宮に相当する銀河部と、腰や産道に相当する部分」となる。
 したがって、[]の字は【黄帝の「女性の生殖器」の研究】をあらわした。
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◆下の図に示すように、右側の西から()「邪馬の銀河」、次に()「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」、そして()[]の字源銀河」の、三つの銀河がならぶ。
 「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」は西の「邪馬の銀河」と東の[]の字源「十字の銀河の子宮」の中間にある。つまり、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は「【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究の核心部】をあらわす銀河」であった。
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◆『魏志倭人伝』によって、[][]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受け継いだことを証明することができる。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解明図〕ということになる。
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◆上の図に示しているように――倉頡は「十字の銀河」に「禾(イネ)をデザインする図書」を重ねて、その「禾の穂」を「十字の銀河の子宮から四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」の方へ垂らして、[]の字を作った。禾(イネ)の生育に適する地域は中国南方の太湖周辺地域である。ゆえに、倉頡は〔禾の穂を「十字の銀河の南部」から「四つ目の銀河の口」の方へ垂らす〕と定めて、[]の字源と字形を成立させた。
 下に、五帝時代初頭の黄帝時代初頭の黄帝陵と太湖南岸の天頂緯度線図を配した。下図が示すように、禾の育成適合地域となる中国南部に所在する太湖の天頂には[]の字源「十字の銀河の子宮と、腰・産道に相当する箇所」がめぐってきていた。
 ゆえに、上の〔[][][]の字源銀河の解明図〕における「禾の穂の垂れる図形」は合理、理屈にあっている。
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◆このように、学者たちが「四つ目の怪人・倉頡」を「荒唐無稽のデタラメである」と断定した意見は鼻の先の合点(がってん)、つまり学者たちがトッサに思いついた早合点・空理空論であったのである。
 「四つ目の怪人・倉頡」は「四つ目の銀河」であった。だから、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河の各部の形状から漢字を作った」と伝える文献史料であったことになる。
 わが前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3」で詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)であった。
 わが国が夏音文字を習得した夏代初頭は、現在、歴史ではなく神話と定められている。
 しかし、『魏志倭人伝』や『古事記』上巻の序は「中国の五帝時代後半と夏代初頭における聖天子で有名な堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹()の三代につかえた名門・益(えき)氏の王子と若者たちは玄界灘を横断して、日本列島の日本海沿岸地域を北上して男鹿半島・米代川流域に定住して、中国の文物(学問・芸術・鬼神信仰)を関東一円までの氏族に教えひろめた」と説明し、『魏志倭人伝』には幾つかの夏音文字が記され『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。だから、「神話に登場する神々(堯・舜・禹・益)は人間と同じく文字を使っていた」ことになる学者たちの説は不条理・不合理で学説の体(てい)をまったくなしていない。「夏音文字」は歴史遺産であるゆえ【わが国における夏代初頭における夏音文字の習得】はただちに歴史上の事実であったと断定すべきことになる。
 だから、【学問の基本定理】にしたがって【1】『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除・カットせず、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――()倉頡伝説は事実を伝えていた、()倉頡は夏の銀河の各部の形状を観て漢字を作る方法を発明した、()わが国が漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭であった――この【三つの事柄は事実】であったと証明される。

◆いままで証明したとおり――『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【中国に住むすべての民族を思いやって慈しむ政治を志した黄帝の政治理念、つまり仁徳・慈愛】を説明する書物であった。また、【黄帝の政治理念の仁徳・慈愛と「子どもの出産と女性の生殖器の研究」をあらわすことができる文字を発明した倉頡の漢字作成理論】を説明する学術書でもあったのである。
 中国のほとんどすべての民族に敬愛されて崇拝された中国の始祖・黄帝は、プーチンのごとき自己の欲望を満たすために冷酷非情・野蛮な方法で人民を苦しめる支配者たちを征伐したが、その軍行はプーチンのごとき支配者に苦しめられる弱き人民を助けるためだったのである。
 司馬遷著『史記』第一・五帝本紀の黄帝紀には「天地の大法、陰陽五行の運行、死生の説、安危の説に順い、四時の宜にしたがって百穀草木を播植し、鳥獣虫蛾の類まで慈愛をそそいだ」という記事がある(この現代語訳は、野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦訳者『史記()』平凡社発行から転載した)
 ゆえに、黄帝は鳥獣虫蛾の類まで愛をそそぐ、慈しみの政治を目指した。
 そして、いつしか中国の周辺諸国は長いあいだ、中国文化に影響されることになった。このため、何か事あれば手を差しのべなければならない、さらに周辺諸国を抱き込んで慈しまなければならないといった意識が中国人の伝統的な世界観となった。
 だけど黄帝は〔天地の大法にしたがって人民を慈しむ政治がおこなわれる周辺諸国への侵攻・侵略は断じてしてはならない〕と厳重に禁止した。
 これゆえ、黄帝は、倉頡が作った[]の字は「仁徳・慈愛の政治理念」をあらわすものであったゆえ、彼は[]の字形を「黄帝軍の門の形」に用いた。
 白川静著『字統』(平凡社発行)[]の字源・字形・字義について「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形で、(中略)、一字にして別義のある字である」と解説する。
 上に表示した[][]の字源銀河解説図と[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわしていた。
 だから『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで解明できる邪馬壱国説は、ウクライナ・ロシア戦争の停戦・終戦後におこると軍事学者や研究者たちや政治家たちが心配・予想する、中国の侵攻・侵略を阻止する日本の自衛・国防における強力な盾(たて)となる。

◆『魏志倭人伝』は学者たちが「黄帝時代や夏代初頭は神話であって歴史ではない」と断定した伝説を、一気に「歴史であった」と一転することができる学問書であったのである。
 中国は黄帝の国であり、黄帝は仁徳と慈愛を政治の目標・理念とした。ゆえに、プーチンのごとくの横暴で狡猾な侵攻・侵略は、中国の始祖・黄帝は厳重に禁止している。
 また、『魏志倭人伝』の対馬国以下34の小国記事は【卑弥呼の国防戦略(国防論)】をも説明している。卑弥呼の自衛・国防の考えは江戸時代まで受けつがれ、そして令和元年(2019)11月におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)でも表示された。令和の大嘗祭は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわす大祭(たいさい)であったのである。ゆえに、『魏志倭人伝』にはウクライナの国民のごとくロシア軍と戦わなければならない日本国民の心と魂と生き方が示されることになり、わが国の国防力が一段と数倍に増大・強大化する方法が記述されている最も注目すべき大事な書物であったことになる。
 だから、日本の自衛・国防について早急に真剣に考えなければならなくなった現在――軍事学者や研究者たち・自衛隊・政治家たちそして国民は、『魏志倭人伝』が日本の自衛・国防に不可欠で最も重大な書物である事実を認識しなければならないことになった。
 要するに、『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
 邪馬台国説は中国と日本国が戦争をして多くの人々がムダに血を流しかねない、無責任きわまりない下品で愚劣きわまりないウソ・ペテン、日本の祟りであったのである。
 次回からのブログでは、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす「倭人国」、「邪馬壱国」はじめとする小国名やその他の記事の秘密を解明することにする。

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2022年3月17日 (木)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3

#邪馬台国説のウソ・欺瞞で日本は滅亡する

◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国・邪馬台国がどこであったか」について説明する書物であると――学者たちは断定する。
 しかし、『魏志倭人伝』は、その約85パーセントの記事で「漢字は、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)によって発明された」と説明する学術書であった。
 だから、邪馬台国説は100パーセントのデタラメ、インチキ・捏造(ねつぞう)である。
 『魏志倭人伝』には倭国における34ヵ国の小国名が記述されている。これら34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を組織する統合体(仕組み)となる。この34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と正確に説明する。〈倭国の34の小国名とその関連記事〉はじめ〈「卑弥呼」などの人名や官職名〉や〈倭の風俗・慣習記事〉や〈その他〉の合計約85パーセントの記事によって、【倉頡が発明した漢字作成理論】が詳細に具体的に【科学】にのっとって解明できる。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」の前半で詳細に説明したように――現在、15億人が用いる漢字は、今から約5000年前、中国において〈夏の銀河〉から作られて起源した。また、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)は、今から約5100年前、漢字と同じく、〈夏の銀河〉から作られて起源した。現在、古代エジプト文字と始祖(ルーツ)とする文字を使用している人々は55億人以上となる。ゆえに、古代エジプト文字をルーツとする文字を使用する55億人と漢字を使用する人々の15億人を合計すると、〈夏の銀河〉から作られて起源した文字を使用する人々は約70億人となる。世界の総人口は約80億人である。したがって、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字のルーツ(古代エジプト文字と漢字)は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られたことになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は【地球上の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られて起源した真実】が科学的に解明できる貴重な学術書ということになる。
 下に、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字が起源した〈夏の銀河の写真〉を配した。
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◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で〔卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱(やまい)国」がほんとうで、「邪馬台国」は真っ赤なウソであった。
 わが国の邪馬台国説学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版はウソと欺瞞(ぎまん)をあやつるプーチン・フェイク(プーチン流のウソ・詐欺・インチキ・デタラメ)を駆使(くし)して「卑弥呼が居住していた女王国の名は『邪馬台国』であった」とデッチあげ、「『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明した書物である」と大ボラをふいてダマしている。
 しかし、実際には、『魏志倭人伝』は〔女王国名〕を「邪馬壱国」と記している。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏は1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作して――『魏志倭人伝』には卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」と記す事実を証明した。
 現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』には、事実、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壹国」つまり「邪馬壱国」であったと記す。
 『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。もしも約2000字で構成される〔日本を紹介する本〕に「日本の首都は北京である」と記されていたならば、この本は一気にデタラメ本・インチキ本・フェイク本となる。
 だから、同様に「卑弥呼が居住した女王国は邪馬壱国であった」と記す『魏志倭人伝』に「いや違う、邪馬台国であったと記してある」とウソをつく学者たち・NHKテレビ・朝日新聞出版の邪馬台国説は捏造(ねつぞう)、フェイク・デタラメということになる。
 邪馬台国説は、〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除(はいじょ)・削除(さくじょ)できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つの虚偽〕を駆使して構築される。
 しかし、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・削除できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河から作られた」という事実と、【5】「わが国が漢字を最初に習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭・わが国の後期縄文時代初頭であった」という事実、これら【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』は著作されている。
 したがって、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】をもって著作された『魏志倭人伝』は「現在、世界の9割・約70億の人々が使用する文字は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られた」という真実が科学的に証明できる貴重な学術書である。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という真実は日本文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源となり、日本人の精神的支柱となった。
 現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアの国力は5年後、もしくは10年後に壊滅的に衰退するにちがいない。
 ゆえに、次に中国と北朝鮮の脅威をめぐる有事・戦争がおきたとき、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が夏の銀河各部の形状から漢字を作成した学術】が日本における最強最良の核の抑止力となる。だから、大国ロシアと小国ウクライナ戦争終結後における、日本が有する最強最良の盾・賢明な国防力は【文字は夏の銀河から作られた事実を現在まで保存したわが国の歴史と文化と民俗】ということになる。
 というのも、現在の小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争は、小国・日本と大国・倭の長い間の対立に類似しているからである。

 233年頃から235年頃、小国・日本は〔愛〕の理念をかかげて誕生した。このとき以来、国民的な小国・日本と【倉頡の漢字作成理論の学術】を独占管理して強大な権力を重視した強権的国家体制の大国・倭はどちらが国家体制として優っているかをめぐって対立することになった。ゆえに、小国・日本と大国・倭の対立は小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争に類似する。小国・日本の誕生以後、小国・日本の政治体制勢力と大国・倭の政治体制勢力の対立は、その後長いあいだ続いた。やがて702年頃、大国の倭は〔愛〕の理念のもとに誕生した小国・日本の歴史を抹殺するために、国名を「日本国」と改めてゴマカした。しかし、大国・倭と小国・日本の対立は終息せず、皇室とやがて台頭する〔愛〕の日本建国理念の復興を願う武士たちの対立となった。鎌倉幕府を創設した源頼朝、室町幕府を創設した足利尊氏、織田信長、江戸幕府を創設した徳川家康は日本建国の〔愛〕の理念の復興を熱烈に願って生涯追い求めた――この痕跡は、日本の歴史上に明確・鮮烈に残っている。そして、次第に勢力が衰退する皇室と日本建国の〔愛〕の理念の復興を願う武士の対立は、江戸幕府が1659(万治2)に修学院離宮(京都市左京区)を造営して、その上御茶屋(かみのおちゃや)の大庭園に【小国・日本の〔愛〕の建国理念と、倉頡が発明した漢字作成理論】を設計する「浴竜池(よくりゅういけ)」を作って後水尾(ごみずのお)上皇を説得して終息した。
 修学院離宮の上御茶屋の窮邃亭(きゅうすいてい)には、二つの八角形を組み合わせた特異な扁額に掲げられる。この扁額には、後水尾上皇の宸筆(しんぴつ)の「窮邃」の2字が書かれている。「窮邃」の[][]を加えると「邃古」となる。「邃古」という語は「上古」と意味する。ゆえに、「窮邃」は「わが国の上古史を正しく窮(きわ)める」と意味した。後水尾上皇は「窮邃」という語で「『古事記』上巻の全記事は〔愛〕を建国理念とした小国・日本の政治体制と強大な権力を重視した大国・倭の政治体制が対立した実際の歴史を記述するものであった。この政治体制をめぐる長い対立によって、【倉頡の漢字作成理念の学術】と【小国・日本の〔愛〕の建国理念】の両方が日本国にとって欠くことができない国家基盤であるという事実が明白となった」と表現したのである。
 このような歴史があったため、わが国には最古の漢字音の夏音文字が現在まで存在し、つい最近の令和元年(2019)1114日に、【倉頡の漢字作成理論と、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をあらわす学問儀式・大嘗祭(だいじょうさい)がおこなわれたのである。
 だから、233年ころに小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国して以来、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史を窮邃する(『古事記』上巻に記述された小国・日本誕生史とその後の1659年までの歴史研究を窮めた)成果は、日本が核の脅威をめぐる有事・戦争にまきこまれたときに最も賢明な対策となり、最強最良の核の抑止力・国防力となる。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という歴史史料は『魏志倭人伝』だけではなく()『古事記』上巻、()『魏志倭人伝』が著作された同時代(3世紀後半)に作製された1千万坪の大鳥の地上絵が(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として)現存し、()室町時代に作られたとされる竜安寺の石庭、()17世紀前半に作られた桂離宮離宮の庭園、()17世紀半ばに作られた修学院離宮の庭園などの幾つかの遺跡が存在し、さらに()上記した〈小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国したときから始まって、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史〉に、そして()日本の漢字と漢字文化、識字率がほぼ100パーセントという事例や、()皇室最大の神事である大嘗祭、あるいは()赤ちゃんが屈位になって骨盤入口を通りぬける姿勢を表示するアゴを胸につけてする日本人特有のお辞儀はじめとする風俗・慣習など様々な史料が大量に存在する。

 古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――邪馬台国説学者たちのごとく、前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が幾つも存在し、しかも現在において古文献に記述されたとおりの風俗・習慣が存続して残っているならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判して否定した意見はすべて誤読の空論・妄想であったことになり、前人が作った文献の記述はなんびとにも否定できない事実であったことになる――と定まる絶対原理が存在する。
 この〔古代史学における絶対原理〕によって――紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの意見は臆説・空想・妄想であったと証明された。
 『魏志倭人伝』は280年~289年ころに著作された。上記した()〔現存する、1千万坪の大鳥の地上絵(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)〕は260年頃に作製が着手されて290年頃に完成した。ゆえに、『魏志倭人伝』と〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は同時代(3世紀後半)に作られた。
 下に、『魏志倭人伝』と同時代に作製された〔1千万坪の大鳥の地上絵〕を示した。この遺跡は、『魏志倭人伝』は〔【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する正確無比の学術書であった事実〕が完全証明できる、古代史学の絶対原理が成立する“日本版のトロイの遺跡”である。
 つまり、〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は「233年頃にかかげられた小国・日本の〔愛〕の建国理念を後世へ伝える」を作製目的として【倉頡が発明した漢字作成理論、中国の海岸線地図、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をハイブリットして図化・設計した古地図遺跡である。
 だから、〔古代史学における絶対原理〕にもとづき、邪馬台国説は「学説」の体(てい)をまったくなしていない100パーセントの空理空論・妄想であったのである。
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◆『魏志倭人伝』の全記事は正確無比で、真実を伝えていた。
 そして特に注目すべきは、『魏志倭人伝』に記述された「文字は夏の銀河から起源した」という真実は日本国特有の遺産ではなく、地球上の人類9割・70億の人々の遺産でもある。したがって、「文字は夏の銀河から起源した」という真実は人類の文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源であり、人類の精神的支柱となる。
 だから、プーチンがウクライナを威嚇するがごとく日本国が核で脅迫されることになったならば「日本破壊は人類の殲滅(せんめつ)だ! 日本国と日本国民は犠牲にしてはならぬ」と世界の人々は立ち上がるにちがいない。
 だからこそ、『魏志倭人伝』が「文字は夏の銀河から作られて起源した」と伝える真実は、わが国における最強最良の核の抑止力・防衛力となる。

人類にとって最も重大な真実を欺瞞と捏造とウソで固めたプーチン・フェイクを用いて排除・抹殺する邪馬台国説学者たちとデマ・邪馬台国説を流すNHKテレビと朝日新聞出版は日本国と日本国民の破滅・滅亡に夢中になる。ゆえに、彼らは日本国・日本国民の敵であり、そして人類の敵ということになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と定める考古学の意見に黙って従う学界の定説は誤りであることを、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古いと指摘していることになる。この『字統』の指摘に反して、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する漢字音は、中国に現存する最古の漢字音よりも新しい。だから、考古学と学界の主張は音韻学研究成果を排除・無視する無知・空論であったことになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 だが、わが国に現存する最古の字音は〔紀元前1046年・周代初頭の漢字音〕よりも古い。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記述がある。この「後稍夏音を習う」と遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになり、「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(少しだけ)夏音(かおん)文字を習うことにした(復興することにした)」と伝えていたことになる。
 第7回遣唐使が告げた「夏音」は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来して、わが国が習得した漢字の字音」と意味した。したがって、わが国は今から約4100年前の夏代初頭に夏音文字を習得していたことになる。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050年前の周代初頭の中国の最古の字音(上古)よりも約1000年古いことになる。
 下に、〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という主張に黙って従う定説は、音韻学の研究成果を無視・排除する空理空論であったことになる。
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◆上記した「夏音文字を稍々復興することにした、681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸事の記定の政策』」は、後年(720)に元明天皇に献上された歴史書『古事記』という書名になった。天武天皇の政策『上古の諸事の記定』を注目し、さらにその政策における3字を抜粋(ばっすい)すると[][][]、つまり『古事記』となる。
 『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく文字・語が多数記載される。この『古事記』上巻に記載される音文字が夏音文字であり――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の字音よりも古い、現存する最古の漢字音である。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の書き下し文をルビ無しで、下記に示した。
 「臣安万侶言す。夫れ根元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」

この文は、要するに「参神造化(さんじんぞうか)の首(はじめ)」つまり「前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶をつくる造形芸術)の約2000年に及ぶ参神の伝統によって、後期縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に渡来した名門益(えき)氏の王子と若者たちが教えひろめた()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と()【倉頡は発明した漢字作成理論】と()【夏音文字】と()【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を習得した」と説明していたことになる。
 上記の文に登場する「益氏の王子と若者たち」は「“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち」であった。益氏は五帝時代の四番目の帝王尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝王舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する官職」に任命されて代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の禹帝の遺言で帝王となった。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えることになった。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭に「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)
が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」が「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下の隅には「夏音文字」をあらわす[]の字が配せられている。

◆『古事記』は第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と報告した時より10年後の、720(和銅五年)1月28日に、元明天皇に献上された。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の記事は「益氏の王子と若者たちは東北地方から関東一円までの諸氏族に、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡は発明した漢字作成理論】と【夏音文字】と【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を教え広めた」と説明するものであった。
 ゆえに、『古事記』上巻の序の末部には、下記のごとく太安万侶が説明する記事があり、この記事を現代語に訳すると次のごとくになる。
 「上古に習得した(夏音文字)のことばとその意味は朴(すなお/夏の銀河各部の形状をそのまま)にあらわしていますから、現在(『古事記』編纂当時)の楷書で書きあらわしますと、どういう漢字を用いたらよいか難(むずか)しいです。すべて訓をあらわして楷書で記述しますと、夏音文字が伝える心情に及ばない(一致しない)(つたな)い訳(やく)になる場合があります。そうかといって、すべて夏音文字だけを用いて記述しますと、文章が長くなります。これゆえ、ある一句には、夏音文字と楷書による訓を交えて用い、ある一事(事柄)を記す場合には、すべて楷書で訓を用いて記録することにしました。そして、夏音文字の辞理(夏の銀河の各部の形状があらわす字源と語源)が見えない(不明の)ときは注をもって明らかにし、意味が容易に理解できる場合は、別に注はつけませんでした。また、姓に用いる〔楷書の日下〕は〔夏音文字の玖沙訶〕と同義、名に用いる〔楷書の帯〕は〔夏音文字の多羅斯〕と同義ですので、このような類例は従来の記述に従い、改めませんでした。」
 このように、太安万侶は「夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義は、共に夏の銀河の各部の形状である」と指摘している。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より、倭の使者は中国に到着すると皆(みな)自らを大夫と称す。夏后(かこう)少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられる」と説明する記事がある。
 『万葉集』における万葉仮名「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらお」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「帝益の孫の王子と若者たちは荒波が逆巻(さかま)く玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住した勇猛果敢にして立派な男たち」と伝える語であったのである。
 前述したように、帝益の孫の王子(天祖)と若者たちは日本列島の東北地方の男鹿・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた。
 上記の「大夫を称す」の後につづく「夏后少康の子、会稽に封ぜられる」という記事は「夏王朝四代皇帝の少康の王子は、呉の会稽に封ぜられた」と意味するゆえ――その前の「大夫」という語は「“夏后の始祖”禹帝の後を継いだ益帝の孫の王子」とあらわすものであったにちがいない。だから、玄界灘を越えて中国に到着した倭の使者たちは「帝益の孫の王子や若者たちのごとく勇猛果敢に玄界灘を征服した」と皆が皆同様に自画自賛して「大夫」と称したのである。
 このように、『魏志倭人伝』には、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた帝益の王子(天祖)と若者たちの記事が存在する。

◆『魏志倭人伝』には、「倭国には夏音文字があった」と説明する34字の記事がある。この記事にルビを無しに記すと、下記のごとくなる。
 「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輙ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う」
 上記の文を現代語に訳すると「倭の習俗では、行事をおこなうときや遠い地へ旅して家に帰ってくるときや云為(うんい)つまり「雲為」すなわち「雨乞い」をするときには、骨を焼いて卜(うらな)い、その吉凶を占(うらな)う。最初に卜することを告げるが、その卜辞は令亀の法、つまり中国の殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の法理のごとく、鹿の骨を焼いて生ずる裂け目を見て、その吉凶の兆(きざし)を占う」となる。
 上記の「倭の卜辞は令亀の法のごとし」という文は「倭の卜占の辞(ことばと文字)は殷代後半の甲骨文字の法理のごとし」とあらわすゆえ、倭国には「甲骨文字のごとき絵文字の夏音文字があった」ことになる。
 だから、前述したとおり、【一】白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して「音韻学の研究によると、わが国の国語には中国に現存する最古の漢字音(上古音)よりも古い、漢字音が残っていることが明らかとなった」という指摘は正しいことになる。また、【二】太安万侶が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭の「参神造化の首(はじめ)」の記事や末部の「楷書の日下と夏音文字の玖沙訶は同義、楷書の帯と夏音文字の多羅斯は同義」という記事はじめ、その他の「わが国には夏音文字があった」と説明する語句や文章は事実を伝えていたことになる。ゆえに、【三】『古事記』上巻の随所に〔音〕と注がつく文字は「夏代初頭に習得した夏音文字」であったことになる。さらに、【四】『新唐書』日本伝にある「後稍夏音を習う」という文は「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日における天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と説明するものであったことになる。
 【倉頡が死刑と定めた掟】によって「書いた文字が用済みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員を死刑にする」と厳しく定まっていた。したがって、卜辞に用いた夏音文字はすべて消滅されることになったゆえ、夏音文字が書かれた資料は発掘されないことになった。だから、「出土史料が存在しないから夏音文字は存在しなかった」ということにはならず、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河の各部の形状】で存在し、【夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数記載されて現存する】ことになった。

◆『魏志倭人伝』には、67字で「倭国には夏音文字があった」と記述した下記に示す記事もある。この記事をルビ無しで記すと、次のごとくなる。
 「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣
るに差錯あるを得ざらしむ」
 この記事を現代語に訳すると「女王国(邪馬壱国)より以北には特別に一大率(いちだいそつ)を配置して、諸国を検察させているので、諸国は彼を畏れはばかっている。一大率は常に伊都国に居住して治めている。倭国の国中における刺史(警視総監と検察庁長官と国防大臣を兼備する権力者)のごとき男王である。倭国の有力な王たちが使節を派遣して魏の都や魏の出張政庁が所在する帯方郡や諸韓国にゆくとき、また、帯方郡の使節が倭国にくるときには、すべて伊都国の津()で持参する文書や賜物を捜露(そうろ/慎重に点検し、確認して)、女王・卑弥呼のもとに届いたとき差錯(相違)がないようにしていた」となる。
 上記の記事が説明しているように――倭王朝をささえる有力な王たち、つまり女王・卑弥呼や外務長官の難升米(なしめ)はじめ幾人かの王たちが使節を派遣するときの魏都や帯方郡や諸韓国へ送る文書や賜物、あるいは帯方郡の使節が倭国に到来したときの文書と賜物は、伊都国の港で慎重に点検し、確認していた。というのも、倭国の王たちは日常的に夏音文字を使用するものであったゆえ、魏都・帯方郡・諸韓国で使用する楷書の知識が乏(とぼ)しかったからである。ゆえに、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に最も精通する一大率が九州・伊都国に居住して配下を教育して、夏音文字と楷書の変換において国交断絶あるいはさまざまな不祥事がおきる原因の誤訳や誤記が生じないように捜露(慎重に点検)していたことになる。たとえば、「卑弥呼」の[]の楷書は「賤しい。身分が低い」と意味した。夏音文字の[]の字義は「産道入口を通りぬける出産児がアゴを胸につける屈位置の姿勢。天上から地を見下す屈位の姿勢になると見える地宜(ちぎ/平面的な地図の形)を形成する海岸線の形」であった。このように、楷書と夏音文字には字義が差錯(相違)する事例が幾つかあり、国交を結ぶ際に障害になった。夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に夏の銀河の各部の形状であった。そして、伊都国において広大な夏の銀河全域が見えるあるいは字源となる暗い所がよく見える場所は海に面する港である。だから、夏音文字と楷書の同義を学習した一大率の配下の役人たちは伊都国の港から見える夏音文字の各部の形状を観察して夏音文字と楷書を正しく変換する業務に勤めていたことになる。
 このように、倭国には確かに夏音文字が存在した。
 以上のごとく、邪馬台国説学者たちは〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除・削除できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つのウソ〕をハイブリットするウソ・デタラメ・インチキをまき散らしている。現在、ロシアとウクライナの戦争において、ロシアは不都合な情報はすべて排除・カットしてウソ・デタラメ・インチキをデッチあげて、そのウソが「すべて事実である」と国民に説明して洗脳している。だから、邪馬台国説はプーチンのフェイクと同様に、“最悪最低の、ひどいウソつき”と言うことになる。

◆前述した【〔愛〕を理念とした小国・日本の誕生史から1659年の修学院離宮造営までの、小国・日本の国民的政治体制と大国・倭の強権的国家体制が対立した歴史の経緯】は、わがブログ〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3〕の前にて紹介したわが拙著、すなわちkindle版・電子書籍『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)で詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。また、わが拙著、電子書籍『日本四千年の学問史』(無料)において、概略的に解説した。なお、デザインエッグ株式会社から発行したムゲンブックス『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』もある。
 なお、邪馬台国説はすべてがウソ・フェイクである事実が容易に理解できる、PDF用『「邪馬台国」は存在しなかった』(1500円の予定)という拙著の著作を開始して、1ヵ月から2ヵ月後には完成させる予定である。

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2022年3月13日 (日)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2

#邪馬台国説はウソと欺瞞の産物なり

◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国・邪馬台国がどこであったか」について説明する書物であると――学者たちは断定する。
 しかし、『魏志倭人伝』は、その約85パーセントの記事で「漢字は、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)によって発明された」と説明する学術書であった。
 要するに『魏志倭人伝』には倭国における34ヵ国の小国名が記述されているが、これら34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を組織する統合体(仕組み)となる。言いかえると、34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する資料となる。この〈倭国の34の小国名とその関連記事〉はじめ〈「卑弥呼」などの人名や官職名〉や〈倭の風俗・慣習記事〉や〈その他〉の合計約85パーセントの記事によって、【倉頡が発明した漢字作成理論】が解明できる仕組みとなっている。

◆『魏志倭人伝』が〈【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する学術書(学術史料)〉であった真実は、【1】『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除・削除(さくじょ)しない、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本原理】と、【3】「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」とよぶことになった事実と、【4】わが国が漢字を最初に習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(夏后時代)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)である。この夏音文字(夏代初頭の音文字)を習得した際に、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得したという、【二つの事実】によって証明される。(注 この「夏音文字の習得」については音韻学の研究成果によって指摘されており、また『魏志倭人伝』の記事となり、さらに『古事記』上巻の序の冒頭の「臣安万侶言(しんやすまろまう)す」から「三神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)をなす」までの34字から成る文もまた説明している)
 学者たちがウソで固めた邪馬台国説は、〔1〕邪馬台国説にとって不都合な記事は何ヵ所でも排除・削除することができる、〔2〕邪馬台国説にとって不都合な記事は何ヵ所でも【誤読】・【批判】・【主観】・【歪曲】を加えることができる、〔3〕「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説は事実ではない、〔4〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である。というのも、出土された文字が書かれていた出土物(鉄剣や銅鏡)で最古のものは5世紀から6世紀であるからである」という考古学の観点によって成立する。
 上記した邪馬台国説の〔1〕と〔2〕の論法は【1】と【2】の【学問の基本原理】をまもらないデタラメの論法ということになる。邪馬台国説の〔3〕と〔4〕の意見は、上記した【3】と【4】の【二つの事実】によってただちに空理空論・空想であったことになる。

◆上記したように、「倉頡伝説は歴史的事実であった」と科学的に証明できる、確かな古文献(学術書)が『魏志倭人伝』であったのである。
 しかし、【学問の基本原理】を全然まもらないウソと欺瞞(ぎまん)を駆使(くし)してデッチあげた邪馬台国説のために「『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都・邪馬台国の所在地を説明する歴史史料」であると思い込まれることになった。
 【学問の基本原理】をまもる方法、つまり【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除しないで、【2】全記事を忠実に読解すると、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説が事実であった」と伝えていた学術書であった。要するに、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤に定めて倭人国を治めた」と理路整然と説明する正確無比の歴史史料であった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】の消滅に夢中になる学者たちはじめ、メディアやジャーナリスト、つまりNHKテレビや朝日新聞出版などが主張する邪馬台国説の実体は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない、100パーセントの真っ赤なウソ・欺瞞・捏造(ねつぞう)であったのである。
 その証拠に、20151014日に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作して――『魏志倭人伝』には卑弥呼が居住していた女王国名は「邪馬台国」ではなく、【邪馬壱(やまい)国】であると証明した。現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)における『魏志倭人伝』は、事実、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壹国」つまり【邪馬壱国】であったと記す。だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記述は1ヵ所も存在しない。ゆえに、邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない【誤読の空理空論、真っ赤なウソ】であったことが即座に明白となる。

◆もともと、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する、全人類史にとってきわめて貴重かつ重大な歴史史料であった――この真実・事実は、「夏の銀河」を利用すると【科学】が成立して完全証明できる。
 漢字は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲各部の形状」が字源・字形・字義となって作られた。
 下に〈夏の銀河の写真〉を配した。
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◆古代エジプト文字も漢字と同じく「夏の銀河の各部の形状」から作られた。
 倉頡が漢字を発明した100年前の、紀元前3100年頃、古代エジプト文字は出現した。古代エジプト文字は「ヒエログリフ」あるいは「聖刻文字」とよばれる。
 『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】によって――古代エジプトの天地(宇宙)創造神話に登場する〔天の女神ヌト(の体)〕・〔地の男神ゲブ(の体)〕・〔原始の水〕はじめ〔大気の神シュウ(の体)〕や〔太陽の神ラー〕や〔動物と動物〕などはすべて「夏の銀河各部の形状」から作られた事実――が【科学】が成立して証明される。
 上記の【天地(宇宙)創造神話】が【古代エジプト文字の作成原理】となって、約7000字の古代エジプト文字は作られた。
 【天地(宇宙)創造神話】を【古代エジプト文字の作成原理(理論)】と定めると、約7000の古代エジプト文字の字源・字形・字義・字義は夏の銀河各部の形状であった事実がおもしろいように芋(いも)づる式に続々と解明できる。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において、さまざまな古代エジプト文字は夏の銀河の各部の形状で作られた事実を詳細に解説して証明した。つまり、古代エジプト文字の字源・字形・字義は夏の銀河全域の各部の形状を図案して成立するものであった事実を、27回のブログ「古代エジプト文字の字源」にて解説して証明した。

◆古代エジプト文字の子孫がラテン文字であり、ラテン文字から現代ヨーロッパ文字・ABCのアルファベットが生まれた。
 古代エジプト文字を始祖(ルーツ)とする末裔(まつえい)は現代ヨーロッパ文字の他に、その途中でさまざまに枝分かれした現代アラハム文字、現代ペルシア文字、現代アラビア文字、現代ヘビライ文字などがある。
 古代エジプト文字の代表的な子孫は世界で最も使用者が多いラテン文字である。ラテン文字は約50億の人々に使用される。上記したように、古代エジプト文字の末裔は50億人が使用するラテン文字の他に、ラテン文字とは別の系統の現代アラハム文字、現代ペリシア文字、現代アラビア文字、現代ヘビライ文字などがある。ゆえに、古代エジプト文字を始祖とする文字を、現代使用している人々は55億人以上となる。
 漢字は二番目に多くの人々が使用し、その使用者数は14億人の中国と1億の日本人の計約15億人とされる。
 ゆえに、古代エジプト文字をルーツとする文字を使用する55億人以上と漢字を使用する人々の15億人を合計すると約70億人以上となる。
 世界の総人口は約80億人である。したがって、世界の約9割・70億の人々が使用する文字は「夏の銀河」の各部の形状から作られたことになる。
 【世界の9割の70億人が使う古代エジプト文字と漢字は、同じ「夏の銀河」から作られた】という真実・事実が【科学】が成立して完全証明できる確かな学術書が――『魏志倭人伝』であったのである。

◆中国にもエジプトにもわが国にも全世界において、天文学はじめ各種の学問分野においても、「コールサック」や「北天の最輝部」など一部分につけられた名称が存在するが――漢字と古代エジプト文字の字源・字形・字義を解説できる「夏の銀河(文字作成銀河)の各部の名称」は存在しない。ゆえに、わたくしは下のごとく「夏の銀河の各部の名称」を定めた。
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◆エジプトの豊かな実りは、定期的におこるナイル川の洪水のおかげであった。はるか南のアフリカ中央部で大量の雨が降ると、ナイル川は両岸の肥沃な土を下流に押し流してエジプトにもたらす。今から約5100年前のメンフィス周辺では毎年9月初めのころ、ナイル川が氾濫(はんらん)して大洪水となった。
 これゆえ、【ナイル川の氾濫】を基本にして【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話】が創作された。もろもろの書物における【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話】を要約すると、下記のごとくなる。
――〔天の女神ヌト〕と〔地の男神ゲブ〕は、〔原始の水〕の中に住んでいた。そこに、〔大気の神シュウ〕があらわれ、〔女神ヌト〕を両手で高くさしあげた。〔女神ヌトのからだ〕には星が輝き、〔女神ヌトの両手と両足〕は〔天をささえる四本の柱〕となった。〔地の男神ゲブ〕からは、植物と動物、そして人間が生まれた。〔原始の水〕から〔太陽神ラー〕が生まれ、万物に光の恵みをあたえられたのである。

◆下に【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】を配した。
 この【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】は、上に示した〔夏の銀河(文字作成銀河)の各部の名称図〕上部における「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」、「鬼の姿に似る銀河」、「激流の銀河」、「長方形の暗黒天体部」がある箇所となる。この銀河部には、メンフィスの天頂緯度線(北緯2951)が西から東に貫通していた。
 下に配した【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】には、夏の銀河における代表的な星座・はくちょう座の尾の部分が漬()かる。
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◆上の【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】における、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河が〔天の女神ヌト〕ということになった。そして「鬼の姿に似る銀河」が「地の男神ゲブ」に見立てられた。(注 〔鬼の姿に似る銀河の頭〕には、鬼のごとく角(つの)が一本生えている。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」と名づけた)
 「鬼の姿に似る銀河の角」は〔主食パンとなる穀物の小麦とビールの材料の大麦の芒(のぎ/麦の花の外殻にあるとげ状の突起)〕に相似し、「鬼の顔の銀河」は〔小麦・大麦の実の形〕に相似する。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は〔麦が育つ地〕に見立てられて〔地の男神ゲブ〕となった。
 「十字の銀河」には〔子どもを生む子宮〕に相当する箇所がある。ゆえに、「十字の銀河」は〔天の女神ヌト〕に見立てられた。
 〔天の女神ヌト(十字の銀河)と地の男神ゲブの中間〕は、〔“銀河ブルー”とよばれる美しい紺青色の暗黒天体部〕である。ゆえに、〔天の女神ヌトと地の男神ゲブの中間の銀河ブルー(紺青色)の暗黒天体部〕は〔夜の闇を支配する紺青色の夜空と地上の中間の大気〕に相当するゆえ〔大気の神シュウ〕に見立てられた。
 「十字の銀河(天の女神ヌト)」の南、「鬼の姿に似る銀河(地の男神ゲブ)」の東側に「激流の銀河」がある。「激流の銀河」は〔ナイル川が氾濫した洪水〕に見立てられた。
 紀元前3000年ころに天下を手に入れた第一王朝の首都はメンフィス(北緯2951)であった。
 上の【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】に示したように、首都メンフィスの天頂には〔ナイル川の洪水〕に観える「激流の銀河」がめぐってきた。
 「激流の銀河(ナイル川の洪水)」より北方には「三つ輪の銀河」がある。「三つ輪の銀河」は〔紀元前よりも昔、大量の水で海水面がピークとなった、ナイル川の水がそそぐ地中海の様子〕をあらわした。ゆえに、「三つ輪の銀河」は〔紀元前3100年よりも昔の、原始の洪水〕つまり「原始の水」に見立てられた。
 紀元前3100年より約1400年前の紀元前4500年ころ、当時の平均気温は現在よりも1.5度~2度ほど高かった。この地球温暖化によって海水面の上昇のピークをむかえ、現在の海水面より2~3m、あるいは5mも高かったという。これゆえ、紀元前4500年ころ、エジプト北方の地中海の海水面が高くなった。したがって、「激流の銀河(ナイル川の洪水)」より北側の「三つ輪の銀河」は〔紀元前4500年ころの上昇のピークをむかえた地中海の海水面〕をあらわした。だから、「三つ輪の銀河」は〔原始の水〕に見立てられた。
 「十字の銀河の各部分」は星の光のごとく美しくキラキラと輝く。ゆえに、「天の女神ヌトのからだ」は〔満天の星空の星がキラキラと美しく輝く〕と表現されることになった。
 「鬼の姿に似る銀河」は「人の姿」に相似する。ゆえに、〔地の男神ゲブ(鬼の姿に似る銀河)〕から〔植物と動物と人が生まれる〕ことになった。
 〔原始の水〕の「三つ輪の銀河」は「日輪・太陽が東の地平線から次第に昇る様子」をあらわす。あるいは、「三つ輪の銀河」は〔()正午に最も高度が高く南中する夏至の太陽、()正午に南中する春分・秋分の太陽、()正午に最も高度が低く南中する冬至の太陽〕のイメージとなる。ゆえに、【古代エジプトの天地(宇宙)創造神話】では「〔原始の水(三つ輪の銀河)〕から〔太陽神ラー〕が生まれて、万物に光の恵みをあたえられたのである」と説明されることになったのである。
 「十字の銀河」には「子宮が相当する箇所」があるゆえ「女性」に見立てられて、「もろもろの女神」や「女、妊婦、出産する女性、乳をあたえる女性、様々な女性の行動」をあらわす文字の字源・字形・字義となった。
 また、「鬼の姿に似る銀河・地の男神ゲブの銀河」は「男」をあらわすことになり、「もろもろの男神」や「男、礼拝する男、胸をたたく男、弓の射手、捕虜、神官、貴人、羊飼い、壁職人や様々な男性の行動」をあらわす文字の字源・字形・字義となった。
 西側の「地の男神ゲブの銀河(鬼の姿に似る銀河)」が前に、その後に東側の「天の女神ヌトの銀河(十字の銀河)」に南中(子午線通過)する。ゆえに、「前を進む、地の男神ゲブ」は〔天の女神ヌトより先に生まれた兄にして夫〕と定められ、「後に続く、天の女神ヌト」は〔地の男神ゲブより後に生まれた妹にして妻〕と定められた。
 ゆえに、【古代エジプト文字の天地(宇宙)創造神話】は「はくちょう座の尾の部分が漬かる、夏の銀河の各部の形状」から創作されて、【古代エジプト文字の作成原理】となった。

◆下に【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】を配した。
 【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】は上に配した「夏の銀河(文字作成銀河)の各部の名称の範囲」となる「夏の銀河の全域」から成る。
 したがって、【古代エジプト文字の天地(宇宙)創造神話】は「夏の銀河の全域」からも創作された。その証拠に、下に配した銀河図の左右両端が明確に示すように、下の【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】は「夏の銀河の全域」を表示している。
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◆上の【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】は、〔東の地平線上に昇るときの、夏の銀河像」である。
 〔東の地平線上に昇る、夏の銀河〕における〔天の女神ヌトの体〕は空のように地を覆(おお)うアーチ形となる。これゆえ、「天の女神ヌトの体は空のように大地を覆ってアーチ形であった」と伝えられている。
 上の〔東の地平線上に昇る、天の女神ヌトの両手と両足の形状〕を、【古代エジプト文字の天地(宇宙)創造神話】は「女神ヌトの両手と両足は天をささえる四本の柱」と表現する。
 上の【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】における〔地の男神ゲブ〕は「男性の性器、男根の形」に見立てられた。
 下に、〔地の男神ゲブ〕が「男根の形」に見立てられた銀河の範囲を示した。
 この「男根に相似する銀河像」については、上に配した「夏の銀河の写真」を観れば、容易に察知できる。
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◆「男根の銀河における陰嚢部(いんのうぶ)となる銀河」は「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」で構成される。この「銀河の中心方向、つまり銀河系宇宙の中心方向にむらがる無数の星と入り乱れる星間物質の形状」は、氾濫したナイル川の水が激流となって、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に渦巻く様子に相似する。毎年9月初めころの大洪水でドロのごとくやわらかくなった土を、男子が牛を使って軽い木製のスキで耕して豊かな実りにめぐまれたエジプトでは、〔男根の陰嚢部〕に見立てられた「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」が〔ナイル川の氾濫〕に見立てられて、「男根の銀河」は「地の男神ゲブ」をあらわすことになった。(注 〔ナイル川の洪水〕は前述した「激流の銀河」と後述した「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」の2ヵ所で見立てられたことになる。)
 上に配した「男根の形に相似する銀河像」における左側の「男根が勃起した形」の図書は、古代エジプト文字にあって「メト」と発音される決定詞となり、男性的特徴をあらわした。「男根・メト」は人間についても牛はじめとするさまざまな動物についても使用された。
 このような事情にもとづき、上に示した【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱにおける、「男性の性器、男根の形」に見立てられた銀河】は〔地の男神ゲブ〕に見立てられることになった。
 ゆえに、〔東の地平線上に昇る、夏の銀河全象の【古代エジプト文字の天地(宇宙)の創造神話モデルの銀河・Ⅱ】における「男根の銀河」は「地の男神ゲブ」に改められて、下に配する構図で表示されることになった。
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◆前述したように、古代エジプト文字と漢字は夏の銀河全域の各部の形状から作られた。
 【漢字の作成理論(原理)】は、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明した。倉頡は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわすことができる文字を、夏の銀河各部の形状から作成することにした。このため、「倉頡が発明した」と伝える倉頡伝説では「倉頡は四つ目の怪人」と表現されることになった。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を注目して、学者たちは「人間には目が四つない、だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定した。
 上に示した【古代エジプト文字の天地(宇宙)創造神話モデルの銀河・Ⅰ】における「鬼の姿に似る銀河」は〔地の男神ゲブ〕に見立てられた。
 倉頡伝説では「鬼の姿に似る銀河」における「鬼の横顔に似る銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。
 下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」の〔顔〕には〔両目(二つの目)〕があり、〔鬼の横顔の後頭部に目の形の銀河部、アゴにも目の形の銀河部〕がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」、「四つ目の怪人・倉頡をあらわす銀河」ということになる。
 「四つ目の銀河」は「【倉頡が発明した漢字作成理論】における核心部」であったゆえ、倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝えたのである。したがって、倉頡伝説は「倉頡は夏の銀河から漢字を作った」と事実を伝えていたことになる。
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◆倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論における核心部】を「邪馬壱」という語であらわした。ゆえに、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した女王国名を「邪馬壱国」と記す。
 「邪馬壱」の「邪馬」は黄帝が研究した「出産する子どもの頭蓋骨」をあらわし、[]の字源は黄帝が研究した「女性の生殖器、つまり子宮・産道・骨盤など」であった。したがって、「天の女神ゲブ」に見立てられた「十字の銀河の子宮とその周辺の銀河部」が[]の字源銀河となって「子宮・産道・骨盤」をあらわした。
 下に、「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線の図を配した。
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 上の図が示すように、五帝時代初頭の黄帝時代、黄帝を祀る廟と墓である黄帝陵の天頂には「十字の銀河の頭の中央」がめぐってきた。当時、黄帝陵の天頂緯度線(天頂となる緯度線)は「四つ目の怪人・倉頡の銀河における、後頭部につく目の中央」を貫通していた。
 上図に示したように、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」の西隣に「邪馬の銀河」がある。上図の左下に「邪馬」の形を示した。
 卑弥呼は「四つ目の銀河」の西隣の「邪馬の銀河」と「四つ目の銀河」の東隣の[]の字源「十字の銀河の子宮・腰部」を【漢字作成理論の核心部】とした。だから、倉頡伝説では「邪馬の銀河」と[]の字源「十字の銀河の子宮・腰部」の中間にある「四つ目の銀河」を【漢字作成理論の核心部】として「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。
 下に配した上図は「邪馬」の出産児の頭蓋骨図、下図は「邪馬」の語源銀河図である。
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◆上に配した上図の〔出産児の「邪馬」の頭蓋骨図〕が示すように――産道を通過する赤ん坊の頭蓋骨は5枚(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)に分かれる。この5枚の頭蓋骨を結合させる膜(まく)を、現代の産婦人科では「小泉門(しょうせんもん)」、「矢状縫合(やじょうほうごう)」、「大泉門(だいせんもん)」と名づけている。
 卑弥呼は「小泉門・矢状縫合・大泉門」を、「邪馬」と表現した。
 産道を通過する赤ちゃんの5枚の頭蓋骨は「邪馬」の結合組織性の膜によって重ねあわさることができる仕組みになっている。この〔5枚の頭蓋骨と、「邪馬」の膜の仕組み〕を、現代の産婦人科は「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 だから、〔「邪馬」の膜によって5枚の赤ちゃんの頭蓋骨は重ねあわせて、[]の字源「産道」を通りぬけて誕生できる仕組み〕を、卑弥呼は「邪馬壱」と表現したことになる。
 出産第1期の開口期の終わり、赤ちゃんはアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、小泉門がある後頭部の小さい周囲径で進んで、後頭部の小泉門を先進させて、骨盤入口(骨産道)へ入りこむ。骨盤入口は横に長い楕円形であり、赤ちゃんは縦に長い頭蓋骨を骨盤入口にあわせて時計回りに九〇度回旋(かいせん)する。この赤ちゃんの頭蓋骨の回旋の様子は、膣(産道)の入口(膣口)から見える。
 骨盤入口で通過できる赤ちゃんの頭蓋骨の平均的な最小径(最小の直径)32センチである。骨盤入口を通りぬけることができない・屈位(アゴを胸につける)の姿勢になれない、赤ちゃんの頭の前後径は平均34センチだという。ゆえに、頭蓋骨のわずか2センチ小さいか大きいかの差で赤ちゃんの生と死が決定される。
 赤ちゃんが骨盤入口を通過するときに時計回りに九〇度回旋する、この回旋を産婦人科では「第1回旋」とよぶ。次に、反()時計回りに九〇度回旋する「第2回旋」がおこなわれ、「第3回旋」も反時計回りに九〇度回旋しておこなわれ、最後に時計回りの九〇度の回旋「第4回旋」がおこなわれて、赤ちゃんの顔は母体の背中を正面にして誕生する。
 倉頡は「夏の銀河全域における各部の形状」を利用して、「赤ちゃんの4回の回旋の様子」をあらわす[][]の字を作った。
 赤ちゃんの産道における「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすため、倉頡は[(か/イネ)]の字を作って、[]の字源・字形・字義と定めた。後年、[]の下に[]が加わる[]の字が作られ、人偏に[]を加える[]の字が作られ、[][]を加える[]の字が作られた。そして、[][][]の3字は[]の字源「時計回りの第1回旋と第4回旋」をそのまま受け継いだ。この字源の秘密は『魏志倭人伝』によって科学的に証明される。
 倉頡は「反時計回りに九〇度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわすため、[]の字を作った。ゆえに、[]の字源「第2回旋と第3回旋」をあらわす字形は「巫女が子どもの誕生を祝い、子ども誕生を祈祷するときの土器を肩の上にささげ、産道を通過する赤ちゃんのごとく身をくねらして舞う姿()」をもって表現された。
 卑弥呼は、現在の産婦人科で「骨重積」とよぶ「産道を通りぬけるときの、赤ちゃんの頭蓋骨の仕組み」を「邪馬」と表現した。そして、[]の字源は「十字の銀河の子宮と腰部」であった。この「邪馬」という語源と[]の中間に、学者たちがウソだと決めつけた「“四つ目の怪人・倉頡”をあらわす銀河」が実在する。
 邪馬台国説学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版はウソと欺瞞でデッチあげたプーチン・フェイクを用いて「卑弥呼が居住していた女王国の名は『邪馬台国』であった」と断定し、『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明した書物である」と主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』は【地球上の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られた事実】を知ることができる学術書であった。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』によって「現在、15億人が用いる漢字は、中国において夏の銀河から作られて起源した」と科学的に解明できる。しかし、漢字の起源の歴史は漢字が起源した中国では解明できず、わが国において解明できる。
 また、『魏志倭人伝』によって「古代エジプト文字と漢字は共に夏の銀河から作られて起源した。ゆえに、現在、世界の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られて起源した」という真実は、わが国にて科学的に解明できる。
 「漢字は夏の銀河から作られた」という真実は日本文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源となり、日本人の精神的支柱となった。
 現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアの国力は5年後、もしくは10年後に壊滅的に衰退するにちがいない。
 ゆえに次の有事・戦争がおきたとき、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が夏の銀河各部の形状から漢字を作成した学術】が日本における最強最良の核の抑止となる。
 というのも「漢字は夏の銀河から作られた」という歴史史料は『魏志倭人伝』だけではなく()『古事記』上巻、()『魏志倭人伝』が著作された同時代(3世紀後半)に作製された1千万坪の大鳥の地上絵が(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として)現存し、()室町時代に作られたとされる竜安寺の石庭、()17世紀前半に作られた桂離宮離宮の庭園、()17世紀半ばに作られた修学院離宮の庭園などの幾つかの遺跡が存在し、さらに()日本の漢字と漢字文化、()皇室最大の神事である大嘗祭、あるいは()赤ちゃんが屈位になって骨盤入口を通りぬける姿勢を表示する日本人のアゴを胸につけてするお辞儀はじめとする風俗・慣習など様々な史料が大量に存在するからである。
 古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――邪馬台国説学者たちのごとく、前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が幾つも存在し、しかも現在において古文献に記述されたとおりの風俗・習慣が存続しているならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読の空想ということになり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる―このような絶対原理となる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事はなんびとにも「ウソだ。誤っている」と批判・否定することができない真実であったことになる。
 そして特に注目すべきは、『魏志倭人伝』に記述された「文字は夏の銀河から起源した」という真実は日本国特有の遺産ではなく、地球上の人類9割・70億の人々の遺産でもあるということである。したがって、「文字は夏の銀河から起源した」という真実は人類の文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源であり、人類の精神的支柱となる。
 だから、プーチンが脅迫するウクライナのごとくわが国が核に脅えることになったならば「日本破壊は人類の殲滅(せんめつ)だ! 日本国と日本国民は犠牲にしてはならぬ」と世界の人々は立ち上がるにちがいない。
 だからこそ、『魏志倭人伝』が「文字は夏の銀河から作られて起源した」と伝える真実は、わが国における最強最良の核の抑止力となる。

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2022年3月 8日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・1

#邪馬台国説はウソと欺瞞の産物なり

◆前回まで、わたくしは「漢字は日本から始まった」と題してブログを作っていた。
 しかし、現況のロシアのウクライナ侵攻がどうしても気がかりで無関心ではいられず、「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし」という視点から『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記述された真実と事実を明らかにして、「漢字は日本から始まった」と表現した事情や理由についての説明を続行することにした。

3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』という歴史書は、2世紀末から3世紀半ばのわが国・日本列島の様子について説明している。『魏志倭人伝』は約2000(1983字、5世紀の裴松之が加えた56字の注、合計2039)で構成されている。
 邪馬台国説は正しいと思い込む学者や考古学者はじめメディアやジャーナリストによって――『魏志倭人伝』は「女王の卑弥呼(ヒミコ)は邪馬台国に居住していた」と記述している――と定められている。
 しかし、邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない学説の体(てい)をまったくなしていない空理空論であり、プーチンのウクライナ侵攻理由と同じウソと欺瞞(ぎまん)の産物である。

◆テレビやインターネット・SNSによって、プーチンのウクライナ侵攻の失敗・過ちが明らかになって、今後は〈プーチンが脅(おど)す、核に対抗できる盾(たて/知恵と能力)〉を確保しなければならなくなった。
 とりあえず、〈核に対抗できる盾(知恵と能力〉」は、下記に示したように4つ存在する。

【核に対抗できる4つの盾】

1 いかなる理由にもとづいても、戦争は始めてはならない

  この掟は、ロシア軍のククライナ侵攻によって証明された。今後は、戦争を始めたほうが負けとなる。〈絶対に戦争は始めてはならない、この掟は核の脅かしに勝る盾〉となる

2 核を持たないこと、また核を共有しないこと

  プーチンは「核の使用」で脅かす。ゆえに、プーチンは冷酷・残忍なケダモノと憎悪されて、ロシア軍の戦況は不利となった。この点からして、今後、核による脅かしは百害あって一利もないことになる。核による脅かしは、一挙に戦況不利の原因となるゆえ、核を持たない、また核を共有しないほうが得策・賢明となる。だから、〈核を持たない・核を共有しない戦術は、核に対抗できる盾〉となる

3 インターネット・SNS情報網の強化と質的強化

ロシア軍はハイブリット戦略に失敗している。ゆえに、ハイブリット戦略にそなえてSNS情報網の強化をはかる必要がある。今後のSNS戦争においては、ロシア軍の失敗からして、ウソ・欺瞞の情報は戦況に不利・失敗をもたらすことになった。事実を伝える情報によって戦いは優勢となるゆえ、情報は量で競うのでなく、正確さを求めて質的に高めるように努力すれば〈核に対抗できる、防衛力増強の盾〉となる

4 国連諸国からの日本国民と日本国家・政府の尊敬・信頼を得るための知恵と能力を高めなければならない

ウクライナ軍は少数精鋭で多数の国連諸国からの尊敬・信頼を得ている。今後の戦争は核を持たずに・少数精鋭をもって戦わざるをえないことになるゆえ、少数精鋭・核を持たずに戦って勝利する知恵と能力を必ず高める必要がある。

◆上記の〈4番目の、核に対抗できる日本国自衛の盾〉には、邪馬台国説の空理空論を証明して、『魏志倭人伝』に記述された真実・事実を知るという方法がある。
 というのも、〈『魏志倭人伝』に記述された真実・事実は、日本国民と日本国が多くの国連諸国から絶大なる尊敬と信頼を手に入れることができる方法となるからである。

◆前述したように、邪馬台国説は正しいと思い込む学者や考古学者とメディアやジャーナリストは――『魏志倭人伝』は主として邪馬台国の所在地(比定地)を伝える書物であると断定する。しかし、邪馬台国説は100パーセントのデタラメ・真っ赤なウソである。
 また、邪馬台国説は正しいと主張する学者や考古学者とメディアやジャーナリストは――『魏志倭人伝』は中国で作られたれ書物であるので、単純にわが国の様子をすべて正確に記述していた歴史史料として、絶対に読んで理解・認識してはならない――と主張する。
 けれども、上記した〈邪馬台国の立論原理〉も【科学】がまったく成立しない完全なる空想である。
 邪馬台国説をとなえる学者・考古学者とメディアやジャーナリストは〈学問の基本原理〉を知っていない。〈学問の基本原理〉を知っていれば、即座に「邪馬台国説は空理空論である」と断定できる。したがって、邪馬台国説をとなえる学者や考古学者とメディアやジャーナリストは〈学問の基本原理〉を知らない無知・無学ということになり、また無能で堕落していることになる。

20151014日に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作して――『魏志倭人伝』には卑弥呼が居住していた女王国名は「邪馬台国」ではなく、【邪馬壱(やまい)国】である事実を証明した。
 現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)における『魏志倭人伝』は、事実、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壹国」つまり【邪馬壱国】であったと記す。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記述は存在しないゆえ、邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない【誤読の空理空論、真っ赤なウソ八百】であったことが即座に明白となる。
 邪馬台国説が【誤読の空理空論、100パーセントの真っ赤なウソ】であることは、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】・【批判】・【主観】・【歪曲】などを加えず、全記事を忠実に読解すると【科学】が成立して証明される。
 上記のごとく、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】・【批判】・【主観】・【歪曲】を加えず、また1ヵ所も記事を排除(はいじょ)せずに全記事を忠実に読解すると――卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であった。「邪馬壱」という女王国名は【今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわした。つまり、「邪馬」は【黄帝の「子どもの出産」の研究】をあらわし、[]の字源は【子どもを孕(はら)んで育てて出産する、女性の子宮・産道などの生殖器】である。黄帝につかえた史官(書記官)の倉頡(そうきつ)は【「邪馬壱」の医学をあらわすことができる文字】、つまり【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわす文字】を、【黄帝の医学研究】と【銀河各部の形状】と合体して発明した。【銀河】の別称は【銀漢】であり、【銀漢から作られた文字】を略して、中国でもわが国でも「文字」を【漢字】とよぶことにしたのである。卑弥呼は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を権力基盤にして、倭国を統治した。ゆえに、卑弥呼は倭国の首都が所在した女王国名を【邪馬壱国】と定めた。わが国には今から約4000年前の中国の夏后(かこう)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏后王朝の二代・帝王となった益(えき)の孫の王子と若者たちが日本列島の男鹿半島・米代川文化圏に定住して、東北地方から関東一円までの諸氏族に、()【黄帝の医学研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏后時代初頭の夏音文字】と、()【「卑弥呼」の語源、つまり「正確な中国海岸線地図」と精密地図作製方法】が教えひろめた。「益氏が伝えた正確な中国海岸線地図」は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづき[][][]の3字の字源・字形の原形・最初の字義(原義)となった。つまり、倉頡は【地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)】と【地名】も字源・字形・字義になると定めた。そして、「卑弥呼」の語源となった「中国海岸線」よりも日本列島の海岸線は約3倍も長い。しかも日本列島海岸線は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて定められた字源・字形・字義を精密に詳細に伝えることができるほど細密で優れていた。ゆえ、益氏が日本列島に定住してから約2200年後の、2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代まで、()【黄帝の医学研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏后時代初頭の夏音文字】と、()【「卑弥呼」の語源、つまり「正確な中国海岸線地図」と精密地図作製方法】は保存されて受け継がれた。だから、女王・卑弥呼は()【黄帝の医学研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】を権力基盤にして、倭国を統治できたのである――と伝えていた事実・歴史が【科学】が成立して(言いかえると、一点の矛盾点も不合理な点も生じず、各部の記事が互いに関連しあって【論理の簡潔、合理の統合体】を組成して)証明されることになる。

◆『魏志倭人伝』を著作した陳寿(ちんじゅ)は、晋(しん)王朝につかえた優れた学識に富む歴史学者であった。陳寿は〈倉頡が【黄帝の医学研究】と【銀河各部の形状】を合体して文字を発明した学識〉を有していた。
 『魏志倭人伝』には「倭には令亀の法のごとし、つまり中国の甲骨文字のような初期漢字(夏音文字)があった」と説明する記事と、「倭国から魏国へ送られた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を、伊都国の港で銀河各部の形状を観察して魏が読解できるように楷書に正しく変換していた」という、「倭には夏音文字があった」と証言する二つの記事がある。
 『魏志倭人伝』となった資料、つまり【三国時代に、倭国から魏国へ送られた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を、伊都国の港で銀河各部の形状を観察して魏が読解できるように楷書に正しく変換した倭国の国書】は晋王朝に所蔵されて保管されていた。
 晋の歴史編纂官・陳述は【三国時代に、倭国から魏へ送られた楷書に変換された倭の国書】を閲覧(えつらん)して、国家名の「倭人国」や女王国名「邪馬壱」や「卑弥呼」という女王名から、倭国は【黄帝の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得していることを察知した。だから、陳寿は主観・批判をいっさい加えず、【倭国の国書の文】をそのまま書き写して『魏志倭人伝』と著作したことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』は「倭国が倭国の様子を説明した、【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を理路整然と正確無比に説明する、倭国によって作成された書物」であったことになる。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は中国で作られたれ書物であるゆえ、単純にわが国の様子をすべて正確に記述していた歴史史料として、絶対に読んで理解・認識してはならない――と主張する学者や考古学者とメディアやジャーナリストによる〈邪馬台国説の立論原理〉はウソと欺瞞でデッチあげたプーチン・フェイクであったことになる。

◆「漢字は黄帝につかえた倉頡が発明した」と伝える伝説は存在する。この伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。
 しかし、現在、倉頡伝説は学者たちによって「科学的な理由・根拠がない、空想であって事実ではない」と決定されている。
 学者たちは――文字は民族の知恵の結晶であり、長い歴史の中で発展してしだいに体系づけられたと考えるべきである。だから、一人の人物が漢字を発明したというのは歴史的事実とは思えない。倉頡が漢字を発明したという伝説は、中国において古くから伝えられる聖人創造伝説の一つにすぎない。伝説では倉頡は目が四つあったと伝えられ、また後漢時代の墓から発掘された石に刻み描かれた倉頡の肖像画の顔に目が四つ描かれる。人間には、目が四つあったということは絶対にありえない。だから、倉頡が漢字を発明したという話は現代科学の視点からいえば、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であると言わざるをえない。以上のごとく、倉頡が漢字を発明したという事実を証明できる根拠・理由は存在しない。ゆえに、倉頡伝説は事実である科学的に証明することはできない――と定めている。
 しかし、「文字」の[]の字源、「学問」の[]の字源、「黄帝」の[黄]の字源、「倉頡」の[倉]と[頡]の字源となる銀河部中央には「顔面の形となった場所に四つの目、つまり四つ目の銀河」がある。また、[][]の字源は「四つ目の銀河」であり、[][]の右側の[]の字源も「四つ目の銀河」であり、「邪馬壱国」のうちの「邪馬」の語源銀河の東隣は「四つ目の銀河」であり、[]の字源も「卑弥呼」の[]の字源も「四つ目の銀河」が加わって成立する。
 だから、学者たちが「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメ」と断定した定説は空理空論・ウソであったのである。
 学者たちが――「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた――と想像すれば、いとも簡単明瞭に〈倉頡伝説は事実を伝えている事実〉を察知することができた。したがって、倉頡伝説は「漢字」の語源となった【銀河の形状】をもって事実であったと伝えていたのである。

◆そして「倉頡伝説は歴史的事実であった」と科学的に証明できる、確かな古文献(学術史料)が存在した――この古文献が『魏志倭人伝』である。
 しかし、わが国における邪馬台国説のために「『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都の所在地を説明する歴史史料」であると思い込まれている。
 でも、もともと「『魏志倭人伝』は倉頡伝説が事実であった」と伝えていた歴史史料であった。つまり、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤に定めて倭人国を治めた」と理路整然と説明していた正確無比の歴史史料であった。
 だから、『魏志倭人伝』が【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術書である事実を排除し消滅する活動に夢中になる学者たちはじめ、メディアやジャーナリスト、つまりNHKテレビや朝日新聞出版などが主張する邪馬台国説の実体は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合体しない、100パーセントのウソ・欺瞞・偽装・捏造(ねつぞう)であり、空理空論であったのである。
 『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も【誤読(批判)】を加えず、全記事を忠実に読むと――『魏志倭人伝』は【倉頡が、黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を表示することができる文字(漢字)を発明した学術」を説明した書物】であった事実・実体が明らかとなる。

◆『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない・全記事を忠実に読解する――この〈学問の原点〉にのっとれば、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する、全人類史にとってきわめて貴重かつ重大な歴史史料であった――この事実は、【科学】が成立して完全証明できる。
 漢字は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲各部の形状」が字源・字形・字義となって作られた。
 下に〈夏の銀河の写真〉を配した。
Ginga_20220308142201
◆古代エジプト文字も漢字と同じ「夏の銀河の各部の形状が字源・字形・字義」となって作られた。
 倉頡が漢字を発明した100年前の、紀元前3100年頃、古代エジプト文字は出現した。古代エジプト文字は「ヒエログリフ」あるいは「聖刻文字」とよばれる。
 『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】によって――古代エジプトの天地(宇宙)創造神話に登場する〔天の女神ヌト(の体)〕・〔地の男神ゲブ(の体)〕・〔原始の水〕はじめ〔大気の神シュウ(の体)〕や〔太陽の神ラー〕や〔動物と動物〕などはすべて「夏の銀河各部の形状」から作られた事実――が【科学】が成立して証明される。
 上記の【天地(宇宙)創造神話】が【古代エジプト文字の作成原理】となって、約7000字の古代エジプト文字は作られた。
 【天地(宇宙)創造神話】を【古代エジプト文字の作成原理(理論)】と定めると、約7000の古代エジプト文字の字源・字形・字義・字義は夏の銀河各部の形状であった事実がおもしろいように芋(いも)づる式に続々と解明できる。

◆古代エジプト文字の子孫がラテン文字であり、ラテン文字から現代ヨーロッパ文字・ABCのアルファベットが生まれた。
 古代エジプト文字を始祖(ルーツ)とする末裔(まつえい)は現代ヨーロッパ文字の他に、その途中でさまざまに枝分かれした現代アラハム文字、現代ペルシア文字、現代アラビア文字、現代ヘビライ文字などがある。
 古代エジプト文字の代表的な子孫は世界で最も使用者が多いラテン文字である。ラテン文字は約50億の人々に使用される。漢字は二番目に多くの人々が使用し、その使用者数は約15億人とされる。上記したように、古代エジプト文字の末裔は50億人が使用するラテン文字の他に、ラテン文字とは別の系統の現代アラハム文字、現代ペリシア文字、現代アラビア文字、現代ヘビライ文字などがある。ゆえに、古代エジプト文字を始祖とする文字を、現代使用している人々は55億人以上となるにちがいない。
 ゆえに、古代エジプト文字をルーツとする文字を使用する55億人以上と漢字を使用する人々の15億人を合計すると約70億人以上となる。
 世界の総人口は約80億人である。したがって、世界の約9割・70億の人々が使用する文字は「夏の銀河」の各部の形状から作られたことになる。
 【世界の9割の70億人が使う古代エジプト文字と漢字は、同じ「夏の銀河」から作られた】という真実・事実が【科学】が成立して完全証明できる確かな学術書が――『魏志倭人伝』であったのである。
 邪馬台国説学者はじめ邪馬台国説が空理空論である事実を知らないメディア・ジャーナリストは「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する書物であった」と主張する。このため、多くの日本人は『魏志倭人伝』を「邪馬台国の所在地を説明する書物である」と信じている。しかし、『魏志倭人伝』は「漢字の起源、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と伝えていた書物」であった。
 『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壱国」と記す。だから、「邪馬台国」は存在しなかった。新井白石が邪馬台国説をとなえた最初の時点から「学説」ではなかったのである。邪馬台国説は学説の体(てい)をまったくなしていない完全なる空理空論であり、『魏志倭人伝』は邪馬台国について一切・まったく記述していない。
 『魏志倭人伝』は【古代エジプト文字と漢字は共に夏の銀河から作られた事実・真実が科学的に証明できる、世界の人類にとってきわめて重大な学術書】であったのである。
 邪馬台国説は後期縄文時代初頭からの四千年の学問の歴史を破壊し、日本四千年の文化の根元を壊滅し、また日本人の精神性を育成した最も重大な日本上古史の真実を抹殺(まっさつ)する。邪馬台国説は空理空論、誤読を駆使(くし)してデッチあげたバカげた空想、日本国民への最大の侮辱である。
 しかも、邪馬台国説は【世界の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られて起源した歴史、人類の学問の起源の歴史】を抹殺する――世界人類共通の敵である。
 ゆえに、【空理空論の邪馬台国説】を正しいと主張する学者はじめNHKテレビはじめとするメディアや朝日新聞出版はじめとするジャーナリストは世界人類共通の敵であり、日本国民を最大に侮辱するウソつきで詐欺師であると、日本国民は認識しなければならない。

◆『魏志倭人伝』は倭国の国書の記事をそのまま書き写して著作された。だから、『魏志倭人伝』はわが国が作った書物ということになる。
 わが国が作った『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除せずに全記事を忠実に読解すると、世界の約9割・70億の人々が使用する文字は「夏の銀河」の各部の形状から作られた事実が【科学】が成立して完全証明することができる。
 文字の発明は人類の文明・文化の出発点である。そして、『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除せずに、また全記事を忠実に読解すると――世界の約9割・70億の人々が使用する文字は「夏の銀河」の各部の形状から作られた事実が科学的に証明できる。
 上記したように日本国家が戦争をおこさず、核も持たない体制を保持するならば、もしも核を有する大国が侵攻しても、世界は人類の文明・文化の出発点をまもるために日本国民・日本国・日本の漢字の滅亡を必ずや阻止するにちがいない。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除せずに、全記事を忠実に読解すると〈「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を政権基盤として統治した」と解明できる事実〉は、前述したように【核に対抗できる盾】になるにちがいない。
 ウソと欺瞞をもってデッチあげたプーチン・フェイクのごとしの邪馬台国説は日本国民の命の尊厳を侮蔑し冒涜するうえに、日本国民の命を危険にさらし、日本国家を滅ぼす、最悪のテロ(恐怖)なのである。

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2022年3月 2日 (水)

漢字の起源は日本から始まった ・2

#『魏志倭人伝』は漢字が起源した秘密を理路整然と伝える書物であった

◆このブログ名「漢字は日本から始まった」は正確ではない。
 ――もちろん、漢字は中国から起源した。しかし、3世紀後半(280289)のわが国の様子を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には【今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した事実】が科学的に学術的に明確に証明できるように記述された――このような事情にもとづき、ブログ名を「漢字は日本から始まった」と定めた。

◆漢字は中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明した。
 しかし、この倉頡伝説は中国とわが国の学者たちによって事実ではない、空想であると定まれている。
 ところが、3世紀後半、中国の晋王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)は魏へ送られた倭の国書にいっさい批判や自らの主観を一点も加えずにそのまま書き写して『魏志倭人伝』を作成した。この結果、『魏志倭人伝』には――倭人国の女王・卑弥呼(ひみこ)は倭人国の34ヵ国の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器管」の医学研究と、黄帝の医学研究を表示することができる文字の発明、つまり倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を理路整然と説明した史実――が記述されることになった。
 要するに、卑弥呼は【黄帝の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を政権基盤として倭人国を統治するため、下に示した西日本地図における34ヵ国の小国名をもって【黄帝の医学研究を表示することができる文字を倉頡が発明した、その倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を理路整然と説明する仕組みにしたのである。
S901
◆『魏志倭人伝』は計1983字と5世紀の裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成される。
 そのうち、「倭の吉凶を占うときに卜(ぼく)する辞(じ/ことばと文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり、亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとき初期漢字の辞であった」と説明する、34字で構成される記事がある。
 学界は「わが国が最初に漢字の習得をしたのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。この断定意見(定説)は《文字が刻まれた最古の出土物は5世紀あるいは6世紀の鉄剣や銅鏡である》という考古学的観念にもとづいている。
 しかし、倉頡は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」から漢字を作成する方法を発明した。
 つまり、「銀河」の別名は「銀漢(ぎんかん)」、「銀漢から作られた文字」を省略して中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶことになった。
 下に、天文学で通称「夏の銀河」と呼ぶ、「漢字」の語源となった「銀漢(銀河)」の写真を配した。
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◆上の【1】「夏の銀河」と【2】【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器管」の研究】を合体して、倉頡は【漢字作成理論の学術】を発明した。
 倉頡はみずから考案した文字が最も強大な権力、ばく大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易に滅亡すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員にも厳(きび)しく神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。

◆【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密が容易に察知できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢各部に名称をつけた者、またはその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者、また消し忘れた者もゆるさず、その者の一族全員をも死刑にする

◆上記の【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、(1)五帝時代の書契(しょけい)(2)夏代(かだい)の夏音文字と、(3)殷代(いんだい)前半の三つの初期漢字は【夏の銀河各部の形状が字源、字形・字義】となった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき文字、つまり殷代後半の甲骨文字のような初期漢字」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって《占いが終わると、ただちに書かれた文字が消される》ことになった。だから、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき初期漢字」が書かれた史料は出土しないことになった。

しかし、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき、つまり甲骨文字のような初期漢字の字源・字形・字義」は、上の写真で示した「夏の銀河の各部の形状」であった。よって、『魏志倭人伝』は「5世紀あるいは6世紀以前において、わが国は倉頡が【黄帝の医学研究と夏の銀河の各部の形状】を合体して発明した漢字作成理論を保存する初期漢字を習得していた」と伝えていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国があり。皆、倭種なり」という文の後に「侏儒国、裸国、黒歯国」を説明して「周旋五千余里ばかり」という76字の記事で――今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から玄界灘を越えて名門益氏の王子一行(夏代初頭の二代帝王・益の王子と若者一行)が男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住した。益氏は【(1)黄帝の医学研究と夏の銀河各部の形状を合体する倉頡が発明した漢字作成理論の学術と、(2)夏代初頭の夏音(かおん)文字と、(3)夏代初頭における精確な中国海岸線地図・精密地図作製方法】を教えひろめた――と説明している。
 これゆえ、上記した「殷代後半の甲骨文字、つまり令亀の法のごとき初期漢字」は「甲骨文字が出現するより約750年前の、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃にわが国に定住した益氏が教えひろめた夏代初頭の夏音文字」であった。
 その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音である。
 なお、紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀は「夏代の王朝の名は、夏后(かこう)であった」と記す。ゆえに、「夏王朝名」は「夏の銀河」の[][(きさき]を加えて「夏后」と定めたと考えるべきことになる。つまり、(1)【黄帝の「子どもを生む女性の生殖器」の研究】と(2)「夏の銀河において、ひときわ目立つ妊婦像」を[](きさき/「王の妻」)に見立てて、「夏后」と名づけられたことになる。
 []の金文形には()「夏の銀河像」を図案するものと、()「夏代初頭における春分点があるおうし座と、その北隣のぎゃしゃ座が漬かる銀河像」を図案する二種類の異体字がある。ゆえに、「夏后」の[]の字源・字形・字義は「夏の銀河」であった。「夏の銀河」において、ひときわ「子どもを孕(はら)む妊婦(母体)像」に相似する銀河部が目立つ。また「后」の金文形は「妊婦(母体)と妊婦から生まれる子の姿」を図案する。ゆえに、上記したように、[]は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわしていることになる。だから、[][]の字源は()「夏の銀河」、()「夏代初頭の春分点周辺の銀河像」、()「夏の銀河においてひときわ目立つ妊婦像(母体像)の銀河」と、()【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」であったことになる。
 〔注 上記したように、わが国が夏音文字を習得した夏代初頭の春分点は、おうし座の昴・すばるの東隣に位置した。この「夏代初頭の春分点が所在した、ぎゃしゃ座とおうし座の合体形」は、「東北地方伝統の〔鬼・なまはげの姿〕」に相似する〕。

◆インターネット・ブログで「中国に現存する漢字音」と入力すると――「現存する中国の最古の漢字の漢字音」は「上古音」とよばれ、この「上古音の始まり」は「紀元前1046年の周代初頭」である。
 だから、紀元前1300年頃の殷代後半初頭から出現する甲骨文字には、〔字音〕は現存しない。甲骨文字は(1)字源、(2)字形、(3)字義を有するが、(4)字音が現存しない不完全な漢字である。また、甲骨文字の(1)「字源」、(2)「字形の原形」、(3)「字義の原義」はわが国が紀元前11世紀に習得した夏音文字と同じく「夏の銀河各部形状」であった事実は、『魏志倭人伝』によって科学的に学術的に明確に証明される。
 他方、わが国が習得した夏音文字の(1)字源と(2)字形と(3)字義は「夏の銀河各部の形状」であり、夏音文字の(4)字音は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名として現在まで残っており、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて現存する。さらに令和元年(2019)11月におこなわれた大嘗祭における主要建物の「悠紀殿」の「悠紀」は「ゆうき」と読まずに夏音で「ユキ」、「主基殿」の「主基」は「しゅき」と読まずに夏音で「スキ」と読むように、現在においても夏音文字は日常生活に溶け込んで生き延びている。したがって、甲骨文字よりも約750年前に出現した夏音文字は(1)字源、(2)字形、(3)字義、(4)字音の四拍子がそろう完全な漢字である。いっぽう、学者たちが「漢字の最も古い祖型」と考える甲骨文字は、前述したように(4)字音が現存しない不完全な漢字である。

◆上記したように、『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」は夏音で「ヒミコ」と読まれる。現存する中国の最古の漢字音「上古音」で「卑弥呼」の3字を読むと「ピミカ」となる。
 下の「漢字生長史」の上部に示したように――「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むわが国が後期縄文時代初頭に習得して現存する夏音文字の字音は紀元前21世紀(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の漢字音である。ゆえに、わが日本国に現存する夏音文字の字音は中国に現存する最古の漢字音「上古音」(周代初頭の紀元前11世紀)よりも約1000年前の漢字音であった。
 学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音よりも約1500年から約1600年も新しい時代の出来事となる。ゆえに、学界が主張する定説は下の「漢字生長史」の最下部に配することになるゆえ、音韻学に反する非科学的な・事実ではない空想であったことになる。
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◆だから、学界や考古学の権威にとって『魏志倭人伝』の「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事は、絶対に事実ではあってはいけない・実に不都合な真実ということになる。
 ゆえに、この記事の存在について、声を大にして指摘する学者は一人もおらず、邪馬台国説をもって無視し除外されている。
 また、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という読む字音は紀元前21世紀に習得した夏音文字の字音である事実も、学界や考古学が断定した定説は根本的に誤っていたことになる。これゆえ、学界と考古学では「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音が「夏音文字の字音」であると指摘されず、徹底的に無視されている。しかし、音韻学によって「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音であった」と証明されることになる。
 このような事情で、日本中の国民は――『魏志倭人伝』に「わが国は紀元前21世紀に、最初に漢字(夏音文字)を習得した」と説明する記事が存在する事実――を知っていない。また、日本中の国民は――「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という読む字音は、紀元前21世紀に習得した夏音文字の字音である事実――も知っていない。
 考古学や邪馬台国説に誑(たぶら)かされ・騙(だま)され・ゴマカされて『魏志倭人伝』に「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事が存在する事実は隠蔽(いんぺい)されている。このため、この事実を日本国民は知っていない。
 上記した「漢字生長史」が明確に示すように、出土した文字を刻する鉄剣や銅鏡の年代から「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する考古学の観点にもとづく定説は、真っ赤なウソ・空理空論・非科学的なデタラメであった。

◆上記した『魏志倭人伝』にある「倭人国の卜占に用いる辞は令亀の法のごとし」という記事は事実・真実を伝えていたのである。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は9ページの終わり3行目から10ページの初めから3行目までで「わが国の漢字音」と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 このように、白川静著『字統』が「音韻史研究によって、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最もふるい時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する最古の字音「上古音」よりも古い、わが国の国語として残っている最古の漢字音はわが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音であった。現存する最古の漢字音は、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む、わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音であったのである。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する学界と考古学と邪馬台国説にとって、『魏志倭人伝』の「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事は実に不都合な真実となる。
 考古学と邪馬台国説によって成立した漢字習得の定説は、一片の正当性も有していない100パーセントのデタラメ・空理空論であったのである。

◆学界と考古学と邪馬台国説にとって、前記した34字の「令亀の法のごとし」という記事のほかに、『魏志倭人伝』にはもう一つ「わが国は夏音文字を習得した」と証言する、不都合な真実を伝える記事が存在する。
 この不都合な真実の記事は67字で構成される。
 この記事は「女王国より以北には特に一大率(いちだいそつ)を配置して諸国を検察させた。倭人国の諸国はこれ(一大率)を畏(おそ)れ憚(はば)かっている。一大率は常に伊都国に居住して治めた。一大率は国中において刺史のごとき(しし/現在の警視総監と検察総長を兼備する強大な権限を有する男王)であった。倭国の王たちが使節を派遣して魏の都や帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁がある朝鮮半島のソウル市周辺の郡)や諸韓国にゆくとき、および帯方郡から倭国へ使節を派遣するとき、みな伊都国の港()で、魏と倭が伝えたり送ったりする文書や賜物を捜露し(そうろ/点検し確認して)、女王卑弥呼にもとに届いたときに差錯(ささく/間違い、誤り)がないようにしている」と説明する。
 この記事が明確に示すように――卑弥呼は夏音文字を用いて文書を作り、魏と帯方郡は楷書で文書を作って、魏と倭は国交を結んでいた。このため、倭国の伊都国の港では、万が一にも誤訳・間違いによって誤解が生じて国交が断絶しないように、夏の銀河の各部の形状を観察して、夏音文字と楷書の字源を点検し確認して正しく変換していたことになる。
 つまり「夏音文字と楷書の字源は、共に夏の銀河各部の形状」であったゆえ――伊都国の港では、夏の銀河各部の形状を観察して夏音文字と楷書の語の同義を把握して、卑弥呼が文書に用いた夏音文字を魏や帯方郡が文書に用いる楷書に正しく変換できた。したがって、卑弥呼が夏音文字で書いた倭の国書は魏都と帯方郡にて読解できるように伊都国の港で楷書に変換されて、魏や帯方郡へ送られた。また、魏都や帯方郡からの楷書で書かれた文書は、伊都国の港で夏音文字に変換されて卑弥呼に届けられていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』のうち「魏書東夷伝」の末部にある「倭人伝」の通称である。
 『三国志』の著者の陳寿(ちんじゅ)は、はじめ三国時代の蜀漢につかえ、漢(蜀)滅亡後、晋(しん)につかえた歴史編纂官である。
 『三国志』は西暦280年~289年に著作された。したがって、『三国志』の一部である『魏志倭人伝』も280年~289年(卑弥呼が死去した約40年~約50年後)に成立したことになる。
 『三国志』は中国の正史のなかでも、慎重・広く深い学識にもとづく良史と称(たた)えられ、正確な史料として高く評されていた。言いかえると、著者の陳寿は優れた歴史学者であった。
 学識に富む陳寿は『老子』上篇(道経)・37の章は「倉頡伝説は事実を伝えている」と説明する秘密を知っていた。また、陳寿は紀元前5、4世紀に生存した老子は「漢字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」と暴露する国家と王朝の反逆者であったことを知っていた。また、陳寿は紀元前1世紀に生存した『史記』を著作した司馬遷(しばせん)の「太史令」という官職は「倉頡が発明した漢字作成理論の学術に精通する歴史局の総裁」と意味したことを知っていた。また、陳寿は2世紀初頭に許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字』の字源解説の大半は《【倉頡の漢字作成理論の学術】にもとづいて「銀漢各部の形状」について説明するものであること》も知っていた。つまり、倉頡伝説は20世紀において中国とわが国の学者たちによって荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と定められたが、陳寿が生存した3世紀(220~280年)の三国時代の学者たちは――倉頡伝説は「倉頡は【黄帝の医学研究】と夏の銀河(銀漢)各部の形状イメージを合体して漢字を発明した」と説明している――と認識していた。
 このように陳寿はじめ「碩学(せきがく)」と呼ばれた人々は「倉頡伝説は事実を伝えていると認識する、優れた学者」であった。
 そして、陳寿が生存した当時の「漢(「蜀」の正式名)」、「魏」、「呉」という三国名は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を復興するものであった。
 つまり、陳寿は始めに漢につかえていたが、彼は、もちろん、「漢」という国号は「夏の銀河」を意味することを知っていた。また、陳寿は【B】国号の「魏」という字は「倉頡が作った[禾(か)]の字源」をそのまま受け継いでいることも知っていた。また、陳寿は、【C】国号の[呉]という字は「倉頡が作った字」であることも知っていた。また、陳寿は【D】卑弥呼が統治する「倭国」という国号に用いられる[倭]は「倉頡が作った[禾]の字源」をそのまま受け継いでいることも知っていた。

◆《倭国の伊都国の港で卑弥呼が文書に用いた夏音文字を夏の銀河の各部の形状を観察して楷書に変換された倭から魏へ送られた国書》は、陳寿がつかえる晋王朝に所蔵されていた。陳寿は歴史編纂官の特権で、伊都国で楷書に変換した倭の国書を閲覧(えつらん)することができた。
 だから、[倭]の字源は「倉頡が作った[禾]の字源をそのまま受け継ぐ」と認識していた陳寿は、倭国には夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする初期漢字があることを推断することができた。
 というのも、上記したように『魏志倭人伝』には【1】「倭の卜辞は令亀の法のごとく」という記事と、【2】「令亀の法のごとくの倭の卜辞に用いる初期漢字で卑弥呼が書いた国書を伊都国の港では魏都・帯方郡で正しく読解できるように楷書に変換していた」という二つの記事が存在したからである。

さらに、『魏志倭人伝』には【3】「倭国の対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の中間の海は瀚海(かんかい)と名づけられた」という記事がある。この記事もまた「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】が存在する」と推断できる根拠・理由となった。
 というのも、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したからである。ゴビ沙漠・瀚海は黄帝を祭る廟と墓とされる黄帝陵より北に所在し、【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】における欠くことができない基本知識であった。
 学識豊かな陳寿は「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていたゆえ、「対馬国と一大国の中間の海が瀚海ではない、誤っていること」を知っていた。しかし、倭の対馬国と一大国の中間の海は瀚海ではない。誤っている」と考えて、陳寿は「瀚海」の2字を削除(さくじょ)しなかった。陳寿は「瀚海」が【倉頡が発明した漢字作成理論】を直接的にあらわす学識をも有していたゆえ、倭には【倉頡が発明した漢字作成理論】が存在すると推定して「瀚海」の2字を削除しなかった。
 このように、陳寿は倭の国書に記された「瀚海」を注目して「倭国は【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を習得しているにちがいない」と推断したことになる。

◆『魏志倭人伝』には、【1】卑弥呼が統治した国名は倉頡が作った[禾]の字源をそのまま受け継ぐ[倭]であり、【2】「倭には初期漢字・夏音文字があった」という記事と、【3】「対馬国と一大国の中間の海は瀚海と名づけられた」などの記事が残った。
 これら3つの記事は、邪馬台国説の論法のごとく陳寿が短絡的に・軽率に考えたならば削除すべきことになる。しかし、陳寿は削除しなかった。ということは、陳寿は「伊都国で楷書の変換された倭の国書」に1点の批判・主観を加えずにそのまま書き写して、『魏志倭人伝』を著作したことになる。
 陳寿は「倭の国書」をそのまま書き写して『魏志倭人伝』を著作したゆえ、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と伝える正確無比の、人類文化史にとってきわめて重大な文字の起源の秘密を正確に伝える重大な歴史史料となったのである。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所でも【主観・誤読】を加える意見はただちに空理空論となる。
 したがって、多数の【主観・誤読】を加える邪馬台国説の実体は【誤読の産物】であり、『魏志倭人伝』と一ヵ所の記事と合致しない妄想であったのである。
 『魏志倭人伝』は「倭国の国書」をそのまま書き写したものであったゆえ、わが国・倭国で作られた歴史史料であったのである。
 ところが、邪馬台国説によって【『魏志倭人伝』の思考方法】は――『魏志倭人伝』は倭人国の様子を正確に知っていない中国で作られた文献史料である。ゆえに、『魏志倭人伝』にはいくつかの誤記があるので全面的に信用してはならない。この記事はなにゆえに誤っているのかという批判を必ず加えて、史料を利用しなければならない――と、【多数の主観・誤読】を加えると定めている。これゆえ邪馬台国説は全面的に真っ赤なウソで、一片の正当性も有しない妄想であった。
 だから、邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない100パーセントの真っ赤なウソ・空理空論・すべてがなにもかもデタラメであったことになる。
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記述された不都合の真実を削除(さくじょ)してデッチあげた【誤読の産物】であり、なにもかもすべてが妄想であったのである。
 邪馬台国説は、人類の文字起源史における極めて重大な真実【倉頡が発明した漢字作成理論】を【多数の誤読】を加えてねつ造したデタラメであったのである。

◆現在、ロシアのプーチン大統領は事実をねじ曲げ、虚偽・偽装をこねくり回してウクライナに侵略せんとしている。このプーチンの卑怯な策略と同じ方法を用いて、邪馬台国説は成立した。
 『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を伝えるための史料ではなかった。だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬壱(やまい)国であった」と記している。この女王国名の「邪馬壱」と「瀚海(ゴビ沙漠)」は密接に関係して【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を明確に直接的に伝えている。
 邪馬台国説はなにもかもが真っ赤なウソで、日本学問史における最大・最悪・最低の空論・デタラメ・妄想であり、日本学問史上における最悪の恥部であったのである。

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2022年2月21日 (月)

漢字の起源は日本から始まった・1

#『魏志倭人伝』は漢字が起源した秘密を理路整然と伝える書物であった

◆この「漢字は日本から始まった」というブログ名は正確ではない。
 このブログ名は「漢字の起源の秘密は中国では解明できない。しかし、今日、日本において科学的に具体的に解明できるようになった。だから、“漢字は日本から始まった”と表現することができる」という、まわりくどい文を省略したものである。

◆もちろん、漢字はわが日本から始まったのではない。
 漢字は、中国から起源した。
 「漢字は中国から起源した」と伝える伝説は存在する。この伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。
 しかし、現在、「中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡が漢字の発明した」と伝える――この倉頡伝説は学者たちによって「科学的な理由・根拠がない、空想であって事実ではない」と決定されている。
 学者たちは「文字は民族の知恵の結晶であり、長い歴史の中で発展してしだいに体系づけられたと考えるべきである。だから、一人の人物が漢字を発明したというのは歴史的事実とは思えない。倉頡が漢字を発明したという伝説は、中国において古くから伝えられる聖人創造伝説の一つにすぎない。伝説では倉頡は目が四つあったと伝えられ、また後漢時代の墓から発掘された石に刻み描かれた倉頡の肖像画の顔に目が四つ描かれる。人間には、目が四つあったということは絶対にありえない。だから、倉頡が漢字を発明したという話は現代科学の視点からいえば、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であると言わざるをえない。以上のごとく、倉頡が漢字を発明したという事実を証明できる根拠・理由は存在しない。ゆえに、倉頡伝説は事実である科学的に証明することはできない」と定めている。
 上記のごとく、現在、「倉頡が漢字を発明した。ゆえに、漢字は中国から始まった」という主張は学術的には証明されないと定められ、空想であったと決定されている。

◆しかし、「倉頡伝説は歴史的事実であった」と科学的に証明できる、確かな古文献(学術史料)が存在した――この古文献は倭女王・卑弥呼(ひみこ)が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
 しかし、学界は「『魏志倭人伝』は、倉頡伝説が事実であった」と証明できる確かな学術史料であったと定めていない。
 つまり、学界は「『魏志倭人伝』は主として女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した【邪馬台国】のために存在する史料」であると思い込んでいる。このように、【邪馬台国説】が原因で「『魏志倭人伝』は倉頡伝説が事実であったと証明できる史料」ではないと定まっている。
 しかし、もともと「『魏志倭人伝』は倉頡伝説が事実であった」と伝えていた歴史史料であった。
 言いかえると、『魏志倭人伝』「女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤に定めて倭人国を治めた」と理路整然と説明していた正確無比の歴史史料」であったのである。
 もともと、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事は邪馬台国説と一ヵ所も合致しない――邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と100パーセント(つまり、全記事)と無関係な空理空論・真っ赤なウソだったのである。
 現在、「中国産のアサリ」を「熊本産のアサリ」と偽装していた事件が注目されている。「熊本産のアサリ」は「97パーセントが、中国産のアサリ」であった。
 いっぽう、学界が擁護し、NHKテレビや朝日新聞出版が正しいと主張して国民を洗脳しようと熱中する邪馬台国説は、『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合体しない、「97パーセントの中国産のアサリ」を「熊本産のアサリである」と偽った事実よりも、さらに上回る100パーセントの完全なる偽装、悪質きわまりない空理空論であったのである。
 それというのも、『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も【誤読(批判)】を加えず、全記事を忠実に読むと――『魏志倭人伝』は【倉頡が、黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究を表示することができる文字(漢字)を発明した学術を説明していた歴史史料】であったことが【科学】が成立して証明できたからである。
 要するに、邪馬台国説は「古文献に対して先入観をいっさい抱かずに、【批判】を1ヵ所も加えないで読解しなければならない」という、古文献研究の原点・原理原則をまもらない100パーセントの【誤読】の産物・空理空論・捏造(ねつぞう)の産物であった。
 ほんらい、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究と、この黄帝の医学研究を表示できる文字を発明した倉頡の学術理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と説明していた文献であったのである。

◆『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない・全記事を忠実に読解する――この学術の原点にのっとれば、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する、全人類史にとってきわめて貴重かつ重大な歴史史料であった――この事実が、現在、【科学】が成立して完全証明できる状況となった。
 邪馬台国説は【無知無学の産物】であったのである。
 紀元前5世紀~同4世紀に生存した老子は、『老子』第三十三章「人を知る者は智」にて「知足(ちそく)」を説く。老子は「『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】を「知足」と表現した。ゆえに、「知足」の[]の字源・字形・字義は【倉頡が発明した漢字作成理論の知識】をあらわすものであった。また、「知足」の[]の字源は「卑弥呼が居住した女王国な【邪馬壱(やまい)国】と密接に関係した。
 だから、もともと邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も関連しない・無知の産物であったのである。
 201510月中旬に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に著作した『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて『魏志倭人伝』に記されている「【邪馬壹国】は【邪馬臺国】の誤記ではないこと」を解明した。
 現に、『魏志倭人伝』は【邪馬壹国(邪馬壱国)】と記し、【邪馬臺台(邪馬台国)】と記していない。「知足」という語は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論の知識(学術)】を意味し、また女王国名の【邪馬壱国】と密接に関連する。だから、「女王国名は【邪馬台国】が正しい」と主張する【邪馬台国説】は「知足」という語が明確に示すように「無知の産物」であったことになる。
 『魏志倭人伝』の各部の記事によっても卑弥呼が居住した女王国名は【邪馬壱国】であったことが【科学】が成立して証明できる。だから、もともと「邪馬台国は存在しなかった捏造(ねつぞう)」であったゆえ、『魏志倭人伝』と100パーセント無関係の偽装・妄想であった。
 わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)[]の「屋根の上に千木(ちぎ)のある建物」を図案する卜文(つまり甲骨文字)の字形に注目して、[]の字源について「千木形式の建物は、わが国の神社建築と似ておる」と指摘する。『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を伝える書物」であった。ゆえに、甲骨文字の[]の字形に合致するわが国の「わが国の、屋根のむねの両はしにX字形に交差する千木形式の神社建築」は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学術を伝える文献】であった事実」を伝える証拠史料であった。だから、邪馬台国説は[]の字源を知らない「無学」の産物でもあったことになる。
 以上のごとく、邪馬台国説は【無知無学の産物】であった。

◆邪馬台国説の実体は「古代に作られた文献史料には【批判】と名づけた【誤読】1ヵ所も加えてはならない」という学問の原点(原理中の原理)をまもらない無知無学の産物であった。
 事実、邪馬台国説は【誤読】に【批判】あるいは【文献批判】と名づける偽装方法を用いて成立する、つまり【多数の誤読によって成立する産物】である。
 だから、学界には――邪馬台国説は学術の原点をまもらない、「無知無学」の産物、『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も関連しない【誤読】の産物であり、空理空論であった。卑弥呼が居住した女王国名は【邪馬台国】ではあらず【邪馬壱国】であった。邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない・100パーセントのウソ・空理空論である――と一日でも早く、発表しなければならない義務・責任・使命がある。
 NHKテレビは日本国民に「邪馬台国は正しい」と信じこませようとする真っ赤なウソの番組放送に夢中となる。
 朝日新聞出版もまた「邪馬台国説こそ正しい、事実である」とする捏造出版物を連続的に発刊して日本国民を洗脳することに夢中になっている。
 メディアやジャーナリストには事実・真実を表示する使命・義務・責任がある。
 だから、一日も早く、メディアもジャーナリストも「NHKテレビと朝日新聞出版による邪馬台国説は100パーセントの【誤読】の産物・無知無学の産物・真っ赤なウソである。『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方こそが正しい」と、日本国民に表明しなければならない使命と義務と責任がある。
 なぜならば――『魏志倭人伝』は【古代エジプト文字と漢字は共に同一の銀河(つまり、天文学における通称「夏の銀河」)から作られた事実・真実が科学的に解明できる、世界の人類にとってきわめて重大な学術書】であったからである。
 邪馬台国説は後期縄文時代初頭からの四千年の日本学問の歴史を破壊し、日本四千年の文化の根元を壊滅し、また日本人の精神性を育成した最も重大な日本上古史を抹殺する空理空論だったのである。
 邪馬台国説は学問の原点をまもらなかった無知無学の産物、【誤読】を駆使して偽装した空理空論、日本国民への最大の侮辱であったのである。
 しかも、邪馬台国説は【現在、世界の9割・70億人の人々が使用する文字は夏の銀河から作られ起源した歴史、学問が起源した人類史】を抹殺する――世界人類共通の敵であり、日本学問における最大・最悪・最低のデタラメ・恥部であったのである。
 このような事実は、『魏志倭人伝』の全記事を信頼して1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解すると解明でき、しかも【科学】が成立して証明できる。
 邪馬台国説の実体は100パーセントの真っ赤なウソ・偽装・空理空論であったのである。

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