卑弥呼

2021年1月20日 (水)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・3

▼2021年1月元日、新年早々、午後7時から午後9時までの夜――NHKBSプレミアムテレビ・3チャンネルはお笑い芸人の爆笑問題の二人を司会者にして、「邪馬台国サミット」という番組を放送した。この「邪馬台国サミット」の一堂に会した九州説と畿内説第一線の研究者であられる諸先生方が発表したすべての意見は、司会者の二人の芸名のごとく大爆笑にして、大問題となるウソ八百で丸めた詐欺(サギ)であった。要するに、先生方全員の意見は『魏志倭人伝』の全記事とまったく関係のない他所事(よそごと)で日本国民を惑わし騙(だま)すインチキ・デタラメであったということになる。というのも、「邪馬台国サミット」の議題テーマは「魏志倭人伝のウソを読み解く」であったが、あいにく『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝えるもので一片のウソも偽りも書いていない書物であったからである。ゆえに、当然、「邪馬台国サミット」に集まった先生方全員は「魏志倭人伝にはウソの記事が多くある」と最初(はな)から先入観を抱くものであったゆえ、『魏志倭人伝』に記述された真実・事実の解明は不可能となった。だからこそ、先生方が述べた全意見はすべて滑(すべ)って転んでトンチンカンな自分の意見の妄想にウットリとしてただひたすら空論をくりかえす虚妄、つまりインチキ・デタラメであったことになる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約1100字・約55パーセントの記事は、新井白石(1657-1725)以後約300年間、『魏志倭人伝』を研究した全学者が発表したすべての意見をはるかに超越した壮大な真理を伝えていた。つまり、『魏志倭人伝』のテーマは九州説と近畿説のウソとインチキをマルハダカにして暴くものであり、そのテーマはわれら日本人の命と魂にすりこまれて遺伝子となった東洋神秘思想の全体的で有機的な自然観・宇宙観の根源となった【漢字が起源した秘密】について語っているものであったのである


★「倭人伝の地理学」のトリセツ・12

◆この「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前々回(1)と前回(2)において、九州説と畿内説が100パーセントの空理空論であることを解説し証明してきた。
 この2回のブログで――NHKテレビの「邪馬台国サミット」における先生方の発表テーマは「魏志倭人伝のウソを読み解く」であるのに対して、『魏志倭人伝』が記述する歴史テーマは【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】である――ことを明らかにした。
 というのも、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の大量の記事群をもって――わが国には、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝に仕えた倉頡が発明した【漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】と【夏代初頭の夏音(かおん)文字】を、漢字作成銀河である天文学で通称“夏の銀河”と呼ばれる巨大な銀河から土器・土偶を作った縄文の芸術家によって習得された――と説明しているからである。
 「邪馬台国サミット」に集った九州説と近畿説を説く先生方の口からは「倉頡」の「ソ」の音や声がまったく出ることもなく終わってしまったが――『魏志倭人伝』には【1】「倭人国には令亀(れいき)の法、つまり殷代(いんだい)後半の甲骨文字のような原初漢字があった」、【2】「魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる原初漢字は差錯(ささく/相違)していたので、伊都国の港で点検し確認し、誤訳によって国交に支障が生じないようにしていた」と――具体的に「倭人国には文字があった」と説明する記事が二ヵ所もある。
 この二つの「倭人国には原初漢字があった」と説明する記事をもって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】であった」と伝えていたのである。
 つまり、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という記事から以後に続く、三十ヵ国と後の記事で追加した4ヵ国の小国までの説明記事をもって「卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤とした」とストレートに語る歴史書であったのである。

2(前回)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では――〔1〕紀元前4000年頃から始まる三皇時代には易卜に用いる記号「結縄」が考案された。紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は主に「女性生殖器と子どもの出産」を研究した。三皇時代においては、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字が考案されていなかった。ゆえに、〔2〕黄帝に仕える史官(記録官)の倉頡は【夏の銀河から漢字を作る方法】を発明した――と解説して証明した。
 わがブログは「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の1回~13回までと、「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回と2回まで、終始一貫してくりかえして倉頡は天文学における通称「夏の銀河から漢字を作る方法」を発明し、また倉頡は【漢字作成原理と作成方法】をも立論した――と解説し証明した。

◆【倉頡の発明】にもとづいて、7世紀初頭の隋代の楷書までの全漢字は作られた。
 倉頡は【「夏の銀河」から漢字を作る方法】を発明した。「夏の銀河」は、「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」である。この「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして、わが国においては前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間、土器と土偶が作られた。だから、2000年に及ぶ縄文芸術の伝統を受け継ぐ芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は習得された。
 ゆえに、後期縄文時代初頭から約2250年後の180年頃に生存していた卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤とする王朝と倭人国が創設されることになった。この歴史が、『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事となったのである。
 前回「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」のブログに「全漢字が作られた夏の銀河の写真」を載せた。今回は「夏の銀河の写真」は省略させていただく。
 倉頡は自らが発明した漢字は最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、「夏の銀河各部の形状から漢字が作られた学芸知識」を反体制側の人々が習得して革命や反乱に利用されると、容易に王朝が崩壊することと心配した。ゆえに、倉頡は「文字を容易に覚えるために、夏の銀河の各部に名称をつけた者とその一族全員には、神罰が下って即刻死刑にする」という厳しい掟を定めた。この倉頡が死刑と定めた掟によって、現在においても「夏の銀河の各部」には名称が無い。「夏の銀河の各部」の名称が無いと、「漢字の字源・字形の原形(夏の銀河の各部の形状)・原義」を解説するのに非常に不便であるゆえ、私は下に示すがごとく「夏の銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前回(2)のブログでは、【倉頡が発明した漢字作成原理】は【[][]の字源銀河・字形銀河・字義】で表示されたことを解説し証明した。【倉頡が発明した漢字作成方法】は【[][]の字源銀河・字形銀河・字義】によって構成されていることを解説し証明した。
 【倉頡は発明した漢字作成理論】は【[][]の秘密で表示される漢字作成原理】と【[][]の秘密で構成される漢字作成方法】の他に――【漢字作成理論】を象徴する聖獣を定めた。これゆえ、【倉頡が発明した漢字作成理論(漢字作成原理・作成方法)】は[]が加わる「鳥獣の足跡」あるいは「鳥獣の文」と呼ばれることになった。ゆえに、「鳥獣の足跡・鳥獣の文」についても解明する必要がある。
 というのも、『魏志倭人伝』において倭人国における最初に登場する小国の対馬(つしま)国と一大(いちだい)国は「鳥獣の足跡(鳥獣の文)の秘密」の解明が不可欠となるからである。
 「漢字は倉頡が発明した」と伝える倉頡伝説には「鳥獣の足跡」という語が登場する。
 下に示すように、「子どもを宿す、女性の生殖器の側身形」は「鳥の姿(水鳥の側身形)」に相似すると見立てられた。の側身形と水鳥の側身形
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 また、倉頡は【漢字作成理論(漢字作成原理・作成方法)】を象徴する聖獣を[][]と定めた。
 下に示す「女体に似る十字の銀河」における「子宮に相当する銀河部」は「ヒトの足跡」に類似すると見立てられた。
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 ゆえに、「女性の生殖器の側身形」に相似する「水鳥の姿」を略して「鳥」に、【漢字作成原理・作成方法を象徴する聖獣】を略して「獣」が加わり、さらに「十字の銀河の子宮」は「ヒトの足跡」に類似するというイメージ解釈が加わって、倉頡伝説では【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と呼称されることになったのである。

◆『易経』繋辞下伝にある【漢字の起源記事】は、下記のごとく説明する。
 「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、漢字を作った。」
 上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の説明記事】における【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の文」という名称となる。
 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したよう、「女体に似る十字の銀河」は、下に図示するように[]の字源・字形・字義となり、倉頡は[]の字源「十字の銀河」を「夏の銀河の各部の形状から作られた全漢字が生まれる母体」と定めた。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の文」とも呼称されることになったのである。
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◆『魏志倭人伝』には「その地には、牛馬が無し」という記事がある。
 []の字源は、わが国に生息しない「ジャコウウシ」であった。[]の字源は、わが国に生息しない「フタコブラクダ」であった。
 したがって、『魏志倭人伝』は――倭地には、[]の字源「ジャコウウシ」と、[]の字源「フタコブラクダ」は生息していない――伝えていたことになる。
 倉頡は「ジャコウウシ」を[]の字源・字形・字義と定め、「フタコブラクダ」を[]の字源・字形・字義と定めて、「牛」と「馬」を【漢字作成理論】を象徴する聖獣を定めた。
 「乾坤」という語は「天地」を意味する。
 []をあらわす「乾燥地帯のゴビ沙漠」には[]の字源「フタコブラクダ」が生息する。「茫漠とした位置と方位の測量が困難なゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」は道に迷わない優れた眼力を有する。ゆえに、フタコブラクダは「1度の60分の11分以内の誤差で精確に天頂緯度が測定できる人間本来(本能)の能力、つまり原始のときから人類が命をまもる方法・羅針盤となった天頂緯度線をキャッチする能力」を象徴することになった。
 また、下の図に示したように、「フタコブラクダの両目は顔の両端」に離れていると同様に「第7週ころの胎児の両目も顔の両端」に離れている。
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 フタコブラクダは砂嵐の砂が目に入らないように睫毛(まつげ)が長い。乳児の睫毛もフタコブラクダのように長い。
 ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々は平原に深い穴を掘り、その穴に死者を葬り、殉死(じゅんし)させた一匹のフタコブラクダの血をその墓の上にそそいで去った。翌年には雑草が生い茂って墓の位置は不明となるが、連れてきたラクダが殉死したラクダの血を嗅()ぎ当てて咆哮(ほうこう)する所に墓をさがす遺族たちは祭壇をつくって死者を供養した。ゆえに、[]の字源「フタコブラクダ」は天頂緯度線をキャッチして1度の60分の1の一分の精度で緯度を精確に測定できる神秘的な能力を有すると注目された。ゆえに、フタコブラクダは【倉頡の漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】を象徴する聖獣となった。
 『魏志倭人伝』に登場する「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の[]のすべての字は「[]の字源と字義はフタコブラクダである」と伝えるものであった。

◆「乾坤」の[]の偏の[]は「地」を意味し旁部(つくりぶ)[]は「電光つまり稲妻・雷光」を意味した。ゆえに、[]は「入道雲が天高く立ち登り、一転して天空にわかに曇って雷鳴轟き雨が降って大地は潤って禾(穀物)はじめ植物が生き生きとする」と意味した。この「雷鳴轟き雨が降るジャコウウシが生息する凍土地帯(ツンドラ地帯)」を象徴する聖獣が[]の字源の「ジャコウウシ」であった。
 ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む習性がある。これゆえ、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中」は「子宮」に見立てられ、「真ん中に隠す子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが作る円陣」は「女性生殖器の大半を包囲する母体の骨盤」に見立てられた。
 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説したように、下に示す図は[]の図書が重なる・「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図である。また、この図の下部における「禾(イネ)の図書における穂の部分が〔南〕から〔西〕へと垂れる、銀河の中心(銀河系銀河の中心)・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星(大火)」に注目して、司馬遷著『史記』五帝本紀にて【「黄帝」の号することになった「黄龍(こうりゅう)」と「地螾(ちいん)」の二つの瑞祥の土徳】についても解説し証明した。
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 下に図に示したように、《上の「人の横顔に酷似する銀河」から下の「さそり座α星(大火)」までの巨大な夏の銀河部》は、「妊婦像」に見立てられた。
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 上の図における右下にある「胎児の姿に似る銀河」は、下に示す「第5週頃の胎児の姿」に相似すると見立てられた。
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 さらに、下に示すように、「ジャコウウシの姿」は「胎児の姿に似る銀河」と相似すると見立てられゆえ、「ジャコウウシの姿」は上の図の「第5週の胎児の姿」に相似すると見立てられた。
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 下に示す図のごとく「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河」・さそり座α星(大火)」の形状を注目すると――「ジャコウウシの横顔に似る銀河」は「巨龍の顔の銀河」と重なり、「ジャコウウシの横顔に似る銀河」に焦点を当てると「巨龍の顔の銀河」は欠けて見える。だから、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」でも解説したが――「銀河の中心・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星、そしてジャコウウシの横顔に似る銀河」について、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)は、下記のごとく説明する。
 「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる。」
 ゆえに、「銀河の中心・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星、そしてジャコウウシの姿に似る銀河」のイメージは、「ものすごい、強大な力」を示す。ジャコウウシは「ものすごい、強大な力」を有する。したがって、「ジャコウウシ」は「銀河の中心に隣接する巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星の、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた渦巻き銀河」に見立てられて――前述した[](「乾坤」の[])の字源に適合して【倉頡が発明した漢字作成原理】を象徴する聖獣となった。
 また、「凍土地帯のきびしい寒さにたえられる防寒具で身を包む、ジャコウウシの暗褐色の毛足の長い毛(ウール)」は「天頂緯度線を測量する時に用いられる糸と、そして天頂緯度線」に見立てられた。ゆえに、ジャコウウシは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 〔注 人類は原始のときから1度の60分の11分の緯度差を測量できる天頂緯度線をキャッチして生存した。だから、この能力を有した人類は滅亡しなかった。そして、「ジャコウウシの暗褐色の毛足が長い糸()」は天頂緯度線をキャッチする時の測量具として使用された。〕

◆ジャコウウシは先史時代には百頭以上の群れをつくって北半球の寒帯に分布していたが、約5000年前頃には多くの地方で絶滅したとされる。
 ゆえに、5000年前の黄帝時代には中国の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土地帯・ツンドラ地帯となってジャコウウシが生息し、晩秋から冬になると毛烏素沙漠より南方の黄帝の居住地付近(黄帝陵付近)までで餌場(えさば)を求めて南下してきた。
 わが国が夏音文字を習得した約4050年前の夏代(かだい)初頭になると中国ではジャコウウシは絶滅して、中国より北方地域へ去った。
 現在は、ジャコウウシは北極地方で生息する。
 『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、「黄帝軍は駐屯するとき、兵たち円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシのごとく円陣を組んで駐屯していたことになる。この記事が示すように、ジャコウウシの大群は北のフタコブラクダが棲むゴビ沙漠から毛烏素沙漠を縦断して、黄帝が居住した地域・黄帝陵付近地域まで南下していたことになる。 

◆『魏志倭人伝』には「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の中間の現在の東水道」を「瀚海」と名づけた。
 貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)は「瀚海ゴビ砂漠のこと」と解説する。
 「瀚海」を「北海、またはバイカル湖を指す」と指摘する字書もあるが、幾つかの字書は「瀚海」の初義は「ゴビ沙漠」であったと指摘する。
 司馬遷著『史記』五帝本紀に記されているように五帝のうちの四番目の帝王・堯(ぎょう)代に始めて益氏は歴史上に登場し、五番目の帝王・舜(しゅん)代に「虞()」という重職に任命され、『史記』夏本紀には夏帝禹()の後に氏族の首長が帝王に就任したと記述されている――このような名門・益(えき)氏の王子と益氏の若者たち一行は中国の地から出発して玄界灘を渡って日本列島を北上して東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏にて、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に定住した。
 この「益氏の王子と若者たちの日本列島移住」について、『日本書紀』巻三・神武天皇紀は初頭部で「天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(日本列島の男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住なされた。このとき、この新天地から東日本一帯は野蛮で草深い未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい学芸を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/男鹿半島・八郎潟の東岸地域)に居住して治めた」と説明している。
 益氏は《精密な中国海岸線地図を作製する「虞」という重職》を代々200数年余りに従事していた。ゆえに、天祖・益氏の王子と若者たちは、当時(夏代初頭・後期縄文時代初頭)において、中国における最先端にして最も正確な中国海岸線地図と精密地図(地宜)作成方法を有していた。
 天祖・益氏の王子は日本列島に学芸を正しく養い文化を高めて新天地が豊かに栄えるために、五帝時代最後の五番目の舜(しゅん)帝王朝時代と夏后(かこう)始祖の禹()帝王朝時代で厳重に機密とした法律を破って【学問】つまり【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を広めた。また、益氏は200年余り「虞」という重職に従事していたゆえ、天祖は益氏が得意とする最先端の【精密中国海岸線地図と精密地図作製方法】を教えて広めた。また、天祖は東北地方西方の沿岸地域の地宜(ちぎ/平面的に図化する地図の形)を利用して【精密中国海岸線地図】を保存する方法を工夫した。だから、わが国に【当時の中国における最先端にして最高に正確な中国海岸線地図】が保存されて卑弥呼の時代まで失われずに残った。
 【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を理解させるためには「瀚海」は「ゴビ沙漠」と見立てる必要があった。だから、『魏志倭人伝』に記載された「瀚海」は「ゴビ沙漠」と解釈しなければならない。〔この「瀚海」が「ゴビ沙漠」を意味した証明については、わがブログはいずれ後の回で詳細に解説する〕。
 司馬遷著『史記』の〔陳杞世家〕は「帝王となった益氏の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と指摘する。益氏を後継する王子と若者たちは日本列島の地に定住した。このため、益氏は忽然(こつぜん)と中国から消えた。ゆえに、益氏は中国のどこにも封ぜられず、中国の史伝に記載されず不明となったのである。

◆わが国には、正確な中国海岸線地図を作製する「虞」の重職に代々200数年余り従事した後に、夏王朝の始祖帝禹()の政治を補佐し、禹の後を継いで帝となった益氏の首長の孫の王子(天祖)と若者たちが東北地方に定住した。だから、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、(2)正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は益氏が定住した男鹿・米代川縄文化圏から遠く離れる関東地方まで広まった。
 というのも、益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住したとき、日本列島において最高級の文化を有して栄えていたのは、世界に類がない最高級の芸術の花開く関東地方であったからである。
 下に示す写真は、益氏が日本列島で定住した約1000年前に作られた、関東地方で作られた土器・土偶を代表する約5000年前(倉頡が生存していた頃の中期縄文時代初頭)に作られた日本最古の国宝土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市の尖石縄文考古館所蔵)である。
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 「縄文のビーナスの胸部」は「十字の銀河の胸部」と同じ十字形であり、縄文のビーナスは「妊婦像に観える、十字の銀河」をあらわして「妊婦像」となり、「縄文のビーナスがかぶる帽子」は「十字の銀河の頭部の形状」のデザインと推定できる意匠となり、「橙黄色(とうこうしょく)に輝く十字の銀河」に似せて縄文のビーナスは「雲母(うんも)を混ぜてキラキラ輝く橙黄色の土偶」である。
 関東地方の長野県・山梨県において、前期縄文時代から益氏が日本列島に定住した後期縄文時代初頭までに作られた土器には、口縁部(こうえんぶ)や胴の部分に「十字の銀河の子宮や腰の部分(妊婦の腹部・乳房・右足にも観える部分)」をモデルにして「胎児(子ども)の顔や女性の骨盤」をデザインする意匠や飾りがほどこされているものが幾つか存在する。
 下に、益氏が日本列島に定住した後期縄文時代初頭に作られた国宝・「仮面の女神」(長野県茅野市の尖石縄文考古館所蔵)の写真を配した。
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 「仮面の女神」は尖石集落の天頂にめぐってきた「十字の銀河」が「妊婦の姿」に観えると示す妊娠土偶である。また、「女神がかぶる三角形の仮面」は「精密な地図作製方法」、つまり「天頂にめぐってきた【十字の銀河】を観測して天頂緯度線をキャッチして経緯度原点地を設定して、この経緯緯度原点地を基点して三角形の本点を設置し、この三角形本点の基にさらに三角形の網や鎖を形作って精密な地図を作製した方法」をあらわしていると考えられる。
 この「仮面の女神における三角形の仮面」は「益氏が教授した精密な地図作製方法」をあらわした秘密は、尖石縄文考古館が所在する長野県茅野市南方の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として残っている「1千万坪の大鳥の地上絵」によって解明することができる。「1千万坪の大鳥の地上絵」は『魏志倭人伝』が著作された時と同時代の3世紀後半に作製された。
 下に、「1千万坪の大鳥の地上絵とその3要素」をデザインした漫画的なイラストを配した。
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◆益氏の定住によって、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、(2)正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は男鹿・米代川縄文文化圏から関東地方までひろがった。
 このため、280年~289年に成立した『魏志倭人伝』と同時代(260年頃~290年頃)に、中国王朝が最も厳重に機密として国内外に絶対に知られてはならない【正確な中国海岸線地図】が不呼(ふこ)国・遠江(静岡県西部)の浜松市北区細江町における「1千万の大鳥()の地上絵の東の境界線」に図化された。この「1千万坪の鴻の地上絵」は、上記した『日本書紀』神武天皇紀初頭にある「益氏の王子の日本列島移住記事」にある「鴻荒」という難解な語の秘密を――「鴻の頭部が夏至の日の出の方向」と合致するように設計して、「夏音文字の学芸は未開の荒野であった東日本各地に居住する氏族の人々の頭脳に習得されることになった――と表現している。
 また、上記したように、尖石縄文考古館が所蔵する国宝「仮面の女神がかぶる三角形の仮面」は遠江国の「1千万坪の鴻の地上絵」によって「精密地図作成方法」をデザインするものであったと解明することができる。
 学者たちは「三角縁神獣鏡」によって邪馬台国の所在地は決定されるにちがいないと主張する。この「三角縁神獣鏡」に対抗して、遠江国「1千万坪の鴻の地上絵」は現在の静岡県浜松市北区細江町の地図の形であるゆえ「三角形卑弥呼不呼国びっくり仰天郷の地上絵」という別名をつけることができる。

◆名門益氏の王子(天祖)と若者たちが日本列島の東北地方に定住したため、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使()中国に詣(いた)るに皆自ら大夫と称す」という記事がある。
 中国に到着した倭の使者たちは皆が皆「益氏の若者たちが渡った荒波が逆巻く玄界灘を征服した」と誇示して「大夫」と称した。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日は「益荒男」と表記する。したがって、「益荒男」という語は「『魏志倭人伝』に記述された中国に到着した倭人国の使者たちは皆が皆口をそろえて【益氏の王子と若者たちと同じく、波が逆巻く玄界灘を征服した水行(航海)】を誇って、彼ら全員は“大夫”と自らを称した」という、この歴史を伝えていたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』には「対馬国と一大国の中間の海は、瀚海と曰()った」という記事があり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
 卑弥呼は「対馬国」を「モンゴル」と[]の字源「フタコブラクダ」に見立て、「瀚海」を「ゴビ沙漠」に見立て、「一大国」を「秋から冬になるとゴビ砂漠を縦断しさらに南方の毛烏素(ムウス)沙漠を越えて、黄帝が住む本拠地から遠く見える地平線上に出現するジャコウウシの大群」に見立てるとする地理説をとなえた。この地理説では「玄界灘」は「黄帝たちが居住地北方のジャコウウシを狩猟した地域」と見立てられることになり、「玄界灘の沿岸地帯の末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」は「黄帝たちが居住した地域」に解釈されることになった。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭人国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在していた」と伝えていた書物であった。したがって、『魏志倭人伝』と「邪馬台国」の間柄は「まったく無関係」という間柄で、「邪馬台国説」は『魏志倭人伝』の全記事とまったく合致しない空論であったという間柄であったのである。ゆえに、NHKテレビの「邪馬台国サミット」は邪馬台国研究における第一線級の鼻高の天狗さまとウソつきピノキオさまの集いであったことになる。
 次回のブログでは、「約5000年前の黄帝時代に1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めく大群が幾組も餌場を求めて烈風ふきすさぶ雪原を黄帝の本拠地近くまで南下して出現した光景」を「冬の季節風が吹く寒風ふきすさぶ玄界灘」に見立てるようにして、卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を立論した地理説、つまり倭国の大乱を平定することになった地理説について解説し証明することにする。

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2021年1月14日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・2

▼前回でも指摘したように――2021年1月元日の午後7時~9時までの2時間、NHKBSプレミアム・3チャンネルは「邪馬台国サミット」という番組を、九州説と近畿説の第一線の諸先生方を集めて「魏志倭人伝には多くのウソの記述がある」という認識を国民の頭脳に植えつけるための放送をおこなった。これゆえ、朝日新聞のテレビ欄は、この「邪馬台国サミット」の番組内容を「対決! 九州説VS近畿説 第一線の研究者たちが一堂に会して大激論! 魏志倭人伝のウソを読み解く」と要約した。この番組の司会者は芸名が「爆笑問題」の二人であった。九州説と近畿説の先生方一同は口々に「『魏志倭人伝』にはウソの記事が存在し、また情報操作の記述もある」と力説した。この先生方による全員一致のご意見に反して、『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝える歴史書であって、一片のウソも偽りも有していない。だから、『魏志倭人伝』の全記事とまったく合致しない先生方全員の意見は『魏志倭人伝』が伝える真実・事実とまったく無関係のウソでデッチあげた法螺(ホラ)・爆笑ものの空論、まさしく詐欺(サギ)であったことになる。よって、この番組は司会者の「爆笑問題」という芸名よろしく、「全部ウソと詐欺とで丸め固めた先生方よ! それは問題でしょ! 国民をなめるな! ゲラゲラの大笑い」と総括すればよいことになる

★「倭人国の地理学」のトリセツ・11

◆山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社発行)によると――『魏志倭人伝』は晋(しん)の武帝の太康(たいこう)年間(280289)、著者の陳寿(ちんじゅ)が歴史編纂官であった時代に著作されたことになる。
 わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の13回で詳細に解説したように――下に示す「1千万坪の大鳥の地上絵」は『魏志倭人伝』の同一時代の260年頃~290年頃までの30年間費やして作製された。この「1千万坪の大鳥の地上絵」は、現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形である。この3世紀に作製されて現存する「細江町の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「『魏志倭人伝』の全記事は一片のウソも偽りも有していない。すべて真実と事実のみが記述されている」という事実が【科学】が成立して証明できる遺跡である。
 〔注 下に示すように、「1千万坪の大鳥の地上絵」を私は「卑弥呼の地上絵」と名づけることにした。また別名として、「建比良鳥(たけひらとり)の地上絵」と名づけた。というのも「1千万坪の地上絵」の作製者は――『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記述される人物であると考えられるため、「建比良鳥の地上絵」と名づけた〕。
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 だから、『魏志倭人伝』と「1千万坪の大鳥の地上絵」の両者がピッタリ合致して【科学】が成立する状況は【真実と事実を証明することになる】ゆえ、「邪馬台国サミット」に集合した九州説と近畿説の第一線の先生方の全員の意見は、明らかに国民の頭脳に九州説と近畿説のウソ・偽りを植えつけようとした詐欺であったことになる。
 わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」1回~13回で詳細に解説し証明したように、また最後の13回で要約したように――紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国から夏音(かおん)文字の学芸に精通する名門益(えき)氏が玄界灘を渡って日本海沿岸を北上して東北地方に定住した。この夏音文字の学芸を縄文人たちが習得した時、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】も習得された。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は、一気に東日本の信濃・長野県まで伝わって広まった。
 【『魏志倭人伝』の記事】と【「1千万坪の大鳥の地上絵」の遺跡に保存された地理の秘密】の一致によって、2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼王朝時代、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は西日本各地に広がって保存されていたことが明らかとなる。というのも、「1千万坪の大鳥の地上絵」が所在する「現在の静岡県浜松市」は旧国「遠江」であるゆえ、卑弥呼が治めた倭人国の範囲は西日本の端っこにある遠江までとなるからである。その証拠に、上に示した「遠江に所在する1千万坪の大鳥の地上絵」には――旧国「遠江」は『魏志倭人伝』に「不呼(ふこ)国」と記された小国であったと明確に表示されている。

◆倉頡は、天文学において通称「夏の銀河」と呼ぶ、この銀河各部の形状から漢字を作成する理論を考案した。「夏の銀河」は「夏の全星座が漬()かる巨大な銀河」である。
 下に、「夏の銀河の写真」、言いかえると「漢字(文字)作成銀河の写真」を示した。
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1】倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、「文字は銀河各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即座に死刑にすると定めた。
2】また、倉頡は「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河(夏の銀河)の各部に名称を付けた者と一族全員もまた即座に死刑にする」と定めた。
 だから、今日になっても夏の銀河の各部をあらわす名称が存在しない。夏の銀河の各部の名称が無いと、【漢字の字源銀河・字形となる銀河・字義となる銀河】の解説・証明するに非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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3】 倉頡は地面・灰・雪の上や石に線で刻んで書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者はまた消し忘れた者も許さず、その者の一族全員まで即刻に死刑にすると定めた。
 『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に記載されて残った夏音文字は、楷書で表記されている。この事情は、卑弥呼が歴史上に始めて登場して国家と王朝を創立した180年頃に、後漢王朝が用いていた漢字は楷書(原初的な楷書)であったからである。甲骨文字以後、倉頡が定めた【3】「書いた文字は用済みになった時、文字を消さない者または消し忘れた者とその一族全員まで、神罰が下って即刻に死刑にする」と定めた掟は破られた。ゆえに、夏音文字を楷書で表記することは許可されていたゆえ、夏音文字は楷書で表記されることになって現存することになったのである。

 倉頡が定めた【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字・書契(わが国では「刻木」という)、夏后(かこう)時代の原初漢字・夏音文字、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃の殷(いん)代の原初漢字は文字を書いた資料が発見されていない。だから、学者たちは「五帝時代から殷代前半までの漢字は存在しなかった」と断定し、「書いた文字の資料が発見された紀元前1300年頃から始まる、亀の甲羅に文字を刻んだ殷代前半の甲骨文字を最古の漢字である」と思い込む。
 【五帝時代初頭から殷代前半終わりまでの原初漢字】は【夏の銀河の各部の形状と、中国各地の地宜(ちぎ)と地名】が【字源・字形・字義】となって存在することになったのである。
 したがって、夏音文字は『魏志倭人伝』に記載された人名・小国名・官職名に用いられて残っており、また、夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残っている。
 現在のわが国の歴史学においては『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字を「残っていない」と断定しているが、この定説は空想・幻想・虚妄であったことになる。
 このような観点からして、『魏志倭人伝』と同一時代に作製された上に示した「1千万坪の大鳥の地上絵(卑弥呼の地上絵)」は極めて重大な遺跡ということになる。
 というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』が約1100字・約55パーセントの記事が説明する【倉頡が創った原初漢字と夏音文字の字源・字形・字義】は地宜(ちぎ/平面的に図化した地上絵)と「不呼国」などの地名で表示されたからである。遠江の豪族・建比良鳥命とその氏族の人々は約30年間費やして〔1〕『魏志倭人伝』の全記事と〔2〕〔音〕という注がつく夏音文字が随所に記された『古事記』上巻の上古史が【科学】にもとづいて、今日、証明できる「1千万坪の大鳥の地上絵・卑弥呼の地上絵」を、なんと偶然の一致で『魏志倭人伝』が著作された同時代に作製したのである。
 「卑弥呼の地上絵」によって、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字は、確かにわが国は習得して実在した】と【科学】が成立して証明されることになる。

◆《天の北極の位置》と《春分点の位置が分かると同時に夏至点・秋分点・冬至点もわかる二分二至点》は〈黄道の北極〉を中心にして25,800年で大きな円を描いて一周する。円は360度であるから、25,800年割る360年は71.666年となる。つまり、《天の北極》と《春分点》は〈黄道の北極〉を中心にして描く二つの大円の線上を71.666年毎に1度ずつ移動している。この現象を「歳差(さいさ)」という。
 したがって、「歳差」によって――今から5000年前の五帝初頭においては、5,000年割る71.666年は69.77年となり四捨五入して70年となるゆえ――《五帝時代の天の北極》は《現在の天の北極より〈黄道の北極〉を中心とした70度昔の方へ戻った位置》にあり、《五帝時代の春分点》は《現在の春分点より〈黄道の北極〉を中心とした70度昔の方へ戻った位置》にある。
 五帝時代の《天の北極の位置》と《春分点の位置》に則(のっと)ると、五帝時代における中国全土の各地のおける天頂にめぐってきた銀河部が明らかとなる。

 倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝えられる。
 黄帝は【ヒトの生命の神秘】を研究するために【女性生殖器と胎児の出産】を研究した。この医学研究は先代の三皇時代には着手されていなかった。ゆえに、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字が存在しなかった。黄帝の【女性生殖器と胎児の出産研究】をあらわす文字の発明は倉頡の役目となり、倉頡は【女性生殖器と胎児の出産をあらわす文字】を【夏の銀河各部の形状から作成する理論】を発明した。
 五帝時代初頭において中国全土の天頂にめぐってきた「夏の銀河」における銀河部は西から東へ向かって列挙すると、(1)ヘルクレス座・へびつかい座 (2)天文学で「北天の最輝部」と名付けられた銀河部、(3)私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河の3ヵ所である。
 〔注 なお、上記した天文学が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた銀河は、「北半球の土地に居住する人々が最も輝いて見える銀河部」のことである〕。

◆上記した「歳差」という天文現象に則って5000年前へもどした五帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた(3)「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を下に示した。
K42
 上の左側「十字の銀河の西半分」には、下に示すように「女性の乳房」・「妊婦の腹部」・「妊婦の腹部と重なる子宮に相当する部分」がある。
K41
 だから、倉頡は「女性のイメージをあらわす十字の銀河の形状」を注目して【黄帝の女性生殖器の研究】をあらわす文字(漢字)を創った。上に示した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線の図」が示すように、「十字の銀河」とその西隣の「鬼の横顔に似る銀河」を注目して、倉頡は【黄帝の胎児の出産の研究】をあらわす「文字」を創った。「鬼の横顔に似る銀河における横顔」には「二つの目」があり、「鬼の横顔に似る銀河の首(後頭部とアゴ)」にも二つの目がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」には合計目が四つあるため、倉頡の異名は「四つ目の怪人」と呼ばれた。
 「漢字は倉頡が発明した」と伝える倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と表現されることになったため――現代学者たちは「人間には目が四つ無い! だから倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定する。
 このため、現在、倉頡が漢字を発明した歴史を研究する学者は一人も存在しない。言いかえると、『魏志倭人伝』に誤読・歪曲・主観的意見などいっさい加えずに、全記事を信用して客観的に慎重に11字について深く思考していれば――この思考方法・理論的方法によって『魏志倭人伝』は「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた歴史」が解明・証明されていたことになる。
 「九州説と畿内説が最も正しい」と決定する現在の歴史学の思考方法・理論的方法は――歴史書にはウソも書かれている。『魏志倭人伝』の全記事を軽々しく正しいと信用してはいけない。なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどの点なのか、あるいはどのような考え方をしたならば信用できることになるのか、などと見きわめて、『魏志倭人伝』を利用しなければならない――と定める。
 しかし、現代史学の思考方法と意見に反して『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明する、全記事が正しい文献であった。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は――黄帝時代には「四つの目の銀河部がある、鬼の横顔に似る銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた、倉頡は夏の銀河から漢字を作る理論を考案した――という事実を伝えていた。しかし、現在の学者たちは「人間には目が四つあるはずがない! 倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメだ」と断定する。この意見が空論であったと同じく、現在の学者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しいなんていうことは絶対にありえない」という理論的方法も事実に反した空理空論であったのである。
 【黄帝の子どもの出産の研究】をあらわすイメージとなった「鬼の横顔に似る銀河には目が四つある」という事実を後世に伝えて、倉頡は「四つ目の怪人」と呼称された。
 だから、「四つ目の怪人倉頡」は漢字が「夏の銀河」から作られた秘密を伝えるものであったゆえ――漢字が「夏の銀河」から作られたことは真実であり事実であったことになる。

◆黄帝の医学研究をあらわす文字を作る、これを目的とした倉頡は、「母体に似る十字の銀河」を「夏の銀河の各部の形状から作った全漢字を生む母体」と定めた。これゆえ、下に示すように、周代に用いられた金文の[]の字形は「十字の銀河」を「母体の正面形」に見立て「女体の腹部(子宮)に胎児が宿る様子」を表現する図案となった。
S61
 また、下の金文形が示すように、倉頡は「十字の銀河」を[(べん)]の字源とし、「鬼の姿に似る銀河」を[]と字源として、[]の下に[]を加える[]を作った。[]は「当時の男たち、家族が飢えて死なないように命と生活をまもるために、獲物や石器などを求めて遠くの地に旅して目的を達成したならば帰還した、家族が待つ家」をあらわした。後世、家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するとともに、宗廟(そうびょう)を建て、家族の中心である祖先をまつった。ゆえに、[]は「五帝時代の原始的な宗廟」、「後世の宗廟」をあらわすことになった。
S62
 前の[]の字源銀河解説図と上の[]の字源銀河解説図は、【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
 つまり、倉頡は「子どもを生む十字の銀河」を「夏の銀河各部の形状から作られた全漢字を生む母体」、「十字の銀河における子宮となる銀河部」を「夏の銀河各部の形状から作られた全漢字を生む子宮」と定めた。
 というのも、前に示した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」が示すように――[]の字源「十字の銀河の頭部中央から子宮南端までの緯度の丈(たけ)」と[]の字源「鬼の姿に似る銀河のうちの、横顔に似る銀河(四つ目の横顔)に似る銀河の丈」は同じである。ということは――「母体の身長」と「子(出産児)の顔の長さ」が同じとなる。さらに、「胎児」は「母体の子宮で育って生まれる」が――「母体の子宮に相当する、十字の銀河の子宮」よりも「胎児の横顔となる、鬼の横顔に似る銀河」のほうがはるかに大きい。
 この矛盾・不合理を解決するため――倉頡は「夏の各部の形状から作られた、たとえば夏の銀河の大半の巨大な形状から作られた字も、小さな十字の銀河の子宮から生まれる」と定めることにした。この工夫(くふう)によって、【「大きな鬼の姿に似る銀河」から作られた[]も「小さい十字の銀河の子宮」から生まれる】という、理論が発明された。
 つまり、倉頡は【小さな「十字の銀河の子宮」から大きな銀河から作った文字が生まれる、夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から生まれた全文字は「十字の銀河の子宮」から生まれる】という、漢字作成原理を発明した。この【倉頡が発明した漢字作成原理】は【一即多、多即一】でもあった。なぜならば、【[]の字源「十字の銀河の子宮」は、夏の銀河各部の形状から作られた「多数の文字」を生む子宮】であるから【一即多】となり、また【多即一】ということになるからである。
 だから、[][]の字源銀河解説図は【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆「分娩のはじまりから子宮口がすっかり開くまでの時期」を「出産第一期・開口期(かいこうき)」という。正常分娩の場合には骨盤入口の上では胎児のアゴを胸につけた姿勢で胎児の背は母体の左または右にある。中ほどにくると胎児の頭は邪(なな)め後ろ(母体の臀部(お尻の方)に顔を向け、出口では胎児は顔の正面を母体の後方・臀部の正面に向ける状態で、開口期の終わりとする。
 下の図に示すように、出産第二期・娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいても、胎児は顔の正面を母体の後方・臀部の正面に向ける状態となる。
S341  前に示した[]の字源銀河解説図において、胎児の顔となる「鬼の横顔に似る銀河、その顔」は「母体の腹部を正面」にして開口期と娩出期の終わる時の姿勢となる。ゆえに、倉頡は[]の字源銀河解釈において、「十字の銀河の腹部」を「母体の腹部」と見立てると不合理・矛盾するということに気づいた。
 そこで、倉頡は「十字の銀河における、母体の腹部」を180度転回して「十字の銀河における、母体の臀部(お尻)」と見立てる(解釈する)字を考案した。
 下の左図「[][][]の字源銀河解説図」に示すように、[()]の字は「母体をあらわす十字の銀河中央に、《イネ()》をデザインする図案」重ねて作られた。
K115
 注目すべきは――上の[]の字源銀河解説図のおける「十字の銀河のおける母体の腹部は母体の腹部ではない。180度転回して母体の臀部(でんぶ)、娩出期終わりの出産児の顔の正面となる母体のお尻」である。
 []の字形は――イネの穂を「鬼の横顔に似る銀河の口」へ向かって垂れる形――となった。したがって、[]の字形は――イネの穂が「南」(十字の銀河の南)から「西」(鬼の横顔に似る銀河の口)へ垂れる。だから、[]の字は「〔南〕から時計回りに90度転回して〔西〕と化()る」――をあらわすことになった。
 上の左図の[]の字形は、「地面に植わるイネの状況」に観えない。
 したがって、[]の契文(けいぶん)形=甲骨文字の字形は、上の右図「地面に植わる[(イネ)]の形」のごとく図案されて、その「イネの穂は〔北〕から時計回りに90度転回して〔東〕と化()る」と定められた。
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 なにゆえ、[]の字形のおける「穂」は「十字の銀河の腹部を、母体の臀部」に見立てて、「十字の銀河の臀部」の後方「鬼の横顔に似る銀河」の方へ転回することになったかと言えば――その原因・理由は、下に図示したように、「鬼の横顔に似る銀河における横顔」は「イネと麦の花」に相似し、「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)」は「イネと麦の芒(のぎ/花の外殻の針のような突起)」のごとくに観えるからである。
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 以上のごとく、倉頡が創った[]の字源・字形・字義は「方位が時計回りに90度転回して北→東・東→南・南→西・西→北に化る」と定められた。また、[]の字源・字形・字義は「イネ。麦。イネや麦などの穀物(五穀)。五穀豊穣」などをあらわすことになり、最高の政治スローガン「人民の胃袋を穀物(食物)で満たす」とあらわすことになった。
 []の下に[]の字(「女体に相似する、十字の銀河」)が加わって[]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体の形」に相似するゆえ、人偏に[]の字が作られた。
 [][]は、[]の字源・字義をそのまま受け継ぐことになったため「時計回りに方位が90度転回する規定」をあらわすことになった。
 だから、前回(1)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文の先頭の[]という字をもって――「日本列島の本土・九州の末盧国以下の方位規定は時計回りに90度転回して、本土の〔西〕となる九州は〔北〕と化()り、本土の〔東〕にある能登半島・伊豆半島は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本土地理を制定していた」と説明していたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【末盧国より以後の記事に配された12カ所の方位記事】は「時計回りに90度転回する方位規定」で統一され、[]の字源・字義の「時計回りに方位が90度転回する規定」と合致して【科学】が成立する。
 したがって、『魏志倭人伝』は「倭人国には【倉頡が発明した漢字作成理論(作成原理と作成方法)】と夏音文字の学芸が存在した」と説明したことになる。
 また、【末盧国より以後の記事に配された12カ所の方位記事】は――【末盧国から黒歯(こくし)国までの、倭人国31ヵ所全部の本土における小国名】は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】にもとづいて定められた――と説明していることになる。
 だから、『魏志倭人伝』は1ヵ所もウソの記述が存在しない歴史書であった。この事実は、上記した「1千万坪の大鳥の地上絵」によって、【科学】が成立して証明される。

◆倉頡は、また、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と考えて、[]の字を作った。
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 上の右下端にある「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝く夏の星空でひときわ目立つ巨星の一等星である。これゆえ、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国で「火()」「大火(たいか)」と名づけられ、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する晩秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 卑弥呼時代には、上の図の最下部に記した「南」は「晩秋(陰暦八月上旬)、大火(さそり座α星)が最南端に位置して子午線通過状況」を示し、「西」は「陰暦八月上旬の午後7時頃に、大火が西に下る頃、つまり地平線近くの西空に位置する状況」を表現した。
 黄帝時代においては、秋分の日の午後6時に、大火は真西から約10度の方角(西南西)、しかも地平線スレスレの低い高度の空に位置して30分後には地平線下に没した。この状況を注目して、倉頡は[]の字を創ったことになる。
 この秘密を伝えて、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・巻一には「土徳(どとく)の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」という記事がある。「黄帝」を号することになった黄帝の土徳には二つの瑞祥(ずいしょう/めでたいことが起こるきざし)があり、そのうちの一つの瑞祥は「黄龍(こうりゅう)」である。
 上に示した「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)周辺の巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河」は黄色く輝く。ゆえに「黄色く輝く巨龍の銀河の顔の銀河」は「黄龍の瑞祥」をあらわした。というのも「黄龍の顔の銀河」は「土(南東の地平線)」から昇り、「土(真南の地平線)」近くを通過し(つまり、子午線通過し)、「土(南西の地平線)」の下に没するからである。だから、「黄龍の顔の銀河」は「黄帝」と号することになった土徳(地平線に近い銀河部のイメージが示す徳)をあらわして「黄龍」と名づけられた瑞祥をあらわしたことになる。
 もう一つの土徳の瑞祥は「地螾(ちいん)」と名づけられた。
 上の「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における「黄色く輝く、胎児の姿に似る銀河の西端」が「地螾」の瑞祥をあらわした。「地螾」の[]は「土の徳」を、[]は「寅の体毛のように黄色く輝く胎児の姿に似る銀河」があらわした。[]の字義は「蚯蚓(みみず)」である。土の中にすむ蚯蚓のからだは、うす赤くよく伸び縮みする。ゆえに、「地螾」は「子宮に宿る胎児が育って出産様子をあらわす目出度いしるしの瑞祥の、赤いみみず腫()れの妊婦の腹部にできる妊娠線」を意味したことになる。
 以上のごとく、『史記』五帝本紀の黄帝の記事は――常に地平線近くを運行する(1)「黄龍(黄色い巨龍の顔の銀河)」と(2)「地螾(黄色い胎児の姿に似る銀河の西端)」の二つの土徳の瑞祥の銀河部によって、「倉頡がつかえた女性の生殖器と胎児の出産を研究した帝」は「黄帝」と号されることになった――と伝えていたのである。
 

◆ところが、「黄龍」と「地螾」の瑞祥によって、「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における[]の字源解釈に疑問符?が生じることになる。
 というのも、[]の字源解釈における「禾の穂が垂れる、【南→西】の転回方位」にもとづくと――「地螾・妊娠線」をあらわす「胎児の姿に似る銀河の西端」は「母体の臀部」でなければならないのに、「母体の腹部」となるゆえ、「何!ンゥ ?」ということになる。
 「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」を中心とする「巨龍の顔の銀河と胎児の姿に似る銀河」の様子について――藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と表現する。
 だから、「銀河の中心」周辺銀河は混乱・渦を巻いて東西が入り乱れて見える。ゆえに、「巨龍の顔の銀河」と「胎児の姿に似る銀河」は入り乱れて東西が入れ変わり、「胎児の姿に似る銀河」は「黄龍の瑞祥」と化()って「妊婦の臀部」と解釈することができる――と倉頡は考えたことになる。
 これゆえ、倉頡は「逆時計回りに方位が90度転回する、北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定」をあらわす[()]の字を考案した。
 上の〔南〕となる「大火西に下る頃」の[]の字源銀河部を「巫女(みこ)の腰」と見立てると、〔北〕となる「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・人の横顔に酷似する銀河」は「巫女の顔としなやかに踊る巫女の手」に観える。
 ゆえに、下の図に示す「人の横顔に酷似する銀河」は「踊る巫女の顔」に見立てられ、「こと座」は「巫女の肩の上にかざす[(さい)]」に見立てられて、[]の字の上半身が成立した。[呉]の下半身はもちろん「銀河系の中心方向にむらがる無数の星と入り乱れる星間物質が黄龍と地螾の瑞祥となって、わきあがる入道雲のような迫力にみちて渦巻く黄色く輝く銀河」ということになる。
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 上の[呉]の金文形右上の[口(さい)]は「無事に胎児が出産したと祝い・胎児の出産を祈祷する時巫女が用いる土器、つまり祝祷の器」をあらわした。[呉]の金文形は「北→西」つまり「逆時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわす。言いかえると、「巫女の頭上となる「鬼の姿に似る銀河の臀部」の〔北〕は〔西〕の「こと座・祝祷の器(口)」となる」ゆえ、「北→西」は「逆時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわした。

 下に、「十字の銀河」に[(さい)]が加わる[]の字源銀河解説図を示した。
 「十字の銀河」は「子授け祈願する時、子どもの誕生を祝う時に女性や巫女が舞う姿」に見立てられ、「十字の銀河の肩の上」にある[]は、「子どもの誕生を祝祷するときの土器」の図案である。
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 「十字の銀河」を「子授け祈願する時、また子どもの出産を祝う時に用いる土器」に見立てれば、女性や巫女たちが子授け祈願する時や子どもが誕生した時に[口・さいの土器]をかかげて祝祷して身をくねらせて舞う姿を日常生活にあって人々は見慣れていたゆえ、[]の字は「逆時計回りに〔北〕が〔西〕に90度転回して変位する考え」を示すことになった。また、帝が人心を安定させて国家を治めるために[]の字源・字形・字義が示す「国土に多数の子どもが満ちあふれる」をも政治スローガンとして掲げる必要があった。また、人民にとっても[]の字源・字形・字義が表示する「多数の子どもが生まれて、幸せにくらす状況」は最も望ましいことであった。
 白川静著『字統』は[]の字について「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。
 倉頡は、「大火西に下る頃」の[]の字源銀河における「?(疑問)」から[]の字を作って――現在の淮河(わいがわ)河口と長江口(ちょうこうこう)の中間地で中国全土を北部と南部に分けて、中国の北部地理は[]となって方位が時計回りに90度転回し、中国の南部は[]となって逆時計回りに90度転回して、石斧の刃の孔に柯()の先端がぴったり合うがごとく中国全土はがっちりと結合・固定して動かない(不動となる)――と立論した。
 ゆえに、現在、中国北部の川の名は石斧の柯()に先端をあらわして「某河」となり、中国南部の川の名は石斧の柯を固定する孔をあらわして[某江]となる。中国南部の川の河口は入江のごとく陸地の内側へと凹むゆえ石斧の孔に符合し、中国北部の河口は陸地から海へ向かって突き出て(凸状となって)石斧の孔にぴったり合って動かない柯の先端の形状に符合する。
 倉頡は「五穀豊穣」をあらわす[]の字で「中国北部の都における地平線より外界となる遠く離れる地域までの地理は時計回りに方位が90度転回する」と定義した。また、倉頡は「国土に多数の子どもが生まれる」をあらわす[]の字で「中国南部の都における地平線より外界となる遠く離れる地域までの地理は逆時計回りに方位が90度転回する」と定義した。

 以上のごとく、上に図示した【[][]の字源銀河図=字形銀河図】は、【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわした。
 このブログでは【[][]の字源銀河解明をもって、倉頡が発明した漢字作成原理】を、【[][]の字源銀河解明をもって、倉頡が発明した漢字作成方法】を解明し証明した。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】の説明は未だ十分ではない。というのも、倉頡は【漢字作成原理と作成方法を象徴する聖獣】も定めたからである。
 次回のブログでは【倉頡が発明した漢字作成理論を象徴する聖獣の秘密】を解明する。

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2021年1月 8日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・1

▼新年早々、2021年1月元日の午後7時から午後9時までの2時間――NHKBSプレミアムテレビ・3チャンネルは「邪馬台国サミット」と題して、九州説VS近畿説をとなえる第一線の研究者たちを一堂に会して、【魏志倭人伝のウソを読み解く】ことを目的とした番組を放送した。しかし、あいにくのところ『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝えるもので、一片のウソも偽りも有していない歴史書である。だから、ウソが一片も存在しない『魏志倭人伝』を相手にしたため、この番組の魂胆(こんたん)が明瞭となり、「邪馬台国サミット」自体の陰謀つまり――「魏志倭人伝はウソの記述が多い書物である」という認識を国民の頭脳にすっかり植え付けて、近畿説と九州説が100パーセントの空論説であるようなことは絶対にありえないと国民に信じこませようとした情報操作の陰謀――が明らかとなった。したがって、この番組は九州説と近畿説第一線の「先生」とか言うレッテルのついた研究者たちを一堂に集めて、九州説と畿内説のウソで丸めた空理空論を2時間も垂れ流し続けるものであったため、それこそ鼻にひっかけるにゃあたらない・ひどい番組であった

★「倭人国の地理学」のトリセツ・10

◆このブログは前回の13回までは「フェイク&まぼろしの邪馬台国」と題していた。
 ところが、新年早々からNHKテレビが上記のごとく学問を鼻にかけてお高くとまって一貫して空理空論のみで終始した、ひどい番組を放送した。このため、私はやむをえずお色直し・お化粧直しをおこなわざるをえないことになって、今回からブログ名を「邪馬台国説はサギ・騙(だま)されるな」と変えることにした。
 しかし今回から始まるブログは前回の「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の続篇であることを示すために、副題の『「倭人国の地理学」のトリセツ』は前回の9回につづいて10回として変えないことにした。
 前回・13回のブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」で発表したように――私は九州説と畿内説が完全なる空理空論であると証明できる遺跡を発見している。
 だから、この遺跡にもとづいて、上記したように――正月早々のNHKテレビの「邪馬台国説サミット」に集めた九州説と畿内説をとなえる第一線の研究者たちが情報操作して「魏志倭人伝はウソの記事が多い」という認識を国民の頭脳に植え付けようとした意図的な思惑・詐欺(さぎ)を暴露しなければならない次第とあいなった。
 この遺跡によって、『魏志倭人伝』が説明する「日本列島の〔東〕は〔南〕へ伸びる」と説明する日本列島地理は【わが国が習得した原初漢字の秘密】を巧妙に表現する、卑弥呼が立論した学術意見を伝えるものであったことになる。だから、『魏志倭人伝』が説明する【卑弥呼が立論した日本列島地理で原初漢字の秘密を表現した学術理論体系】と比較すると、「邪馬台国サミット」で披露された諸先生方の意見は「学説」という高貴な粉飾をいささかもまとっていないデタラメ・インチキである事実が明確となった。
 これからのわが解説は、この遺跡にもとづいておこなう。

◆「邪馬台国サミット」においては――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は虚偽・誤記が多い、著者の陳寿の情報操作が加えられている文献である――と主張された。しかし、このブログが前回までで解説し指摘したように、また私が発見した遺跡にもとづくと『魏志倭人伝』には1ヵ所もウソの記述も情報操作も存在しないことになる。だから、九州説と畿内説のように、『魏志倭人伝』には多数の【誤読・歪曲・主観的推論】などの無駄な不必要な手間をいっさい加える必要がない。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。この文中に登場する「帯方」は「現在の朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡」のことである。この冒頭記事から後に続く、対馬国へ到り次の一大(いちだい)国に到着しさらに日本列島本土の末盧(まつろ)国に至るまでの旅程記事には、7ヵ所の方位記事がある。
 この【対馬国・一大国までの旅程記事】は、黄帝陵(黄帝の廟と陵墓)の所在地を華北地図(モンゴル・中華人民共和国地図)で調べればわかるように「モンゴル・ゴビ砂漠の南には毛烏素(ムウス)沙漠があり、さらに南には陝西省(せんせいしょう)黄陵県(こうりょうけん)に黄帝陵が在る」と説明するものであったのである。
 なにゆえ【対馬国・一大国の旅程記事をもって、黄帝陵の所在地】が説明されることになったかと言うと――前回のブログにて解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭34字で「わが国に、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭に用いられた夏音(かおん)文字が伝来した。紀元前4000年頃の前期縄文時代から後期縄文時代初頭までの約2000年間に及ぶ夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちによって、夏音文字は習得された。というのも、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は夏の銀河の各部の形状から漢字を作る原理と方法を発明し、夏音文字は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法に則(のっと)って作られていたからである。つまり、わが国の縄文時代初頭の芸術家たちは約2000年前の前期縄文初頭から夏の銀河の各部をモデルにして土器・土偶を作っていたゆえ、夏の銀河各部の形状から漢字を作る倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字を習得することができたのである」と説明するものであったからである。
 だから、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の歴史】、つまり【わが国が習得した原初漢字の秘密】を卑弥呼は「対馬国・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」をもって説明する方法を考案した。つまり、【対馬国・一大国の旅程記事】は「卑弥呼は【倭地(日本列島)にて習得した原初漢字の歴史】を【対馬国・一大国の地宜】で表現できる学術理論を考案した」と伝えている。
 だから、『魏志倭人伝』には「対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 上記に示した文中にある「瀚海」を注目すると【対馬国・一大国の旅程記事】には【わが国は倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を習得した歴史についての説明】が秘められていることになる。
 卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。「瀚海」は「モンゴルのゴビ砂漠」を意味する。
 だから「瀚海」には重大な役目があった。ゆえに、卑弥呼は「瀚海より北にある対馬国をゴビ砂漠より北のモンゴル」に見立て、「瀚海より南の一大国をゴビ砂漠より南にある毛烏素(ムウス)沙漠と黄帝陵」に見立てれば【わが国が原初漢字を習得した歴史を説明できる、とした学術理論】をとなえた。このため――【対馬国・一大国の旅程記事】には「わが倭地(日本列島)においては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する機能が秘められていたのである。
 20211月元日のNHKテレビの夜の「邪馬台国サミット」に集まった諸先生方は『魏志倭人伝』に記述された「瀚海(ゴビ砂漠)」について無視して一言もふれなかった。しかし、この「瀚海」無視によって「邪馬台国サミット」の目的「魏志倭人伝はウソが多い書物である」と国民が認識するように情報操作していた先生方の目論見(もくろみ)は「九州説と畿内説以外の説は学問的価値が無い」と他の説を排除するためであったことが露呈した。

◆『魏志倭人伝』は九州本土の末盧国の記事から末部の「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六年、倭女王は大夫(だいふ)難升米(なしめ)を遣わして郡(帯方郡)に詣(いた)る」までの記事には――「方位」を表示する記事が12ヵ所ある。
 この日本列島・本土の12カ所の方位記事に1ヵ所も【誤読・歪曲・主観的推論】を加えないで忠実に読解すると――日本列島の〔西〕に所在する末盧国・伊都(いと)国は〔北〕に位置し、九州の〔東〕の能登半島・伊豆半島は〔南〕に方位が転回して所在することになる。
 この『魏志倭人伝』に記述された「〔西〕の九州が時計回りに90度方位が転回して〔北〕、九州の〔東〕にある能登半島・伊豆半島が時計回りに90度方位が転回して〔南〕となる方位規定」は、女王卑弥呼が国名に用いた[]の字源・字形の原形・原義をあらわした。
 倉頡は【天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる銀河各部の形状から漢字を作る学芸】を考案した。「夏の銀河」とは「夏の星座が漬かる巨大な銀河」である。
 倉頡は中国全土の各地の天頂にめぐってきた銀河、つまり【漢字(文字)作成原理】となった[]の字源銀河とその隣の[]の字源銀河から、最高・最良の政治スローガンをあらわす「人民の胃袋を食物で満たす」を意味する[()]の字を考案した。
 この[]の字は【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】である。
 なお、【倉頡が発明した漢字作成原理】は【「夏の銀河」の東端にある、中国全土各地の天頂にめぐってきた[][]の二字の字源・字形の原形・原義となる二つの銀河】で構成された。

[]の字形は[]の字源銀河中央に「イネ()根・茎・葉・穂」をデザインする図書を重ね、[]の字源「人の姿に相似する銀河」における、その東部の「人の口」に観える銀河部の方へ「稲(イネ)の穂が垂れる形」に図案された。ゆえに、[]の字義は「イネ。麦。穀物(五穀)」そして「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」つまり「豊かな穀物が実るようにして、人民の胃袋を満たす政治をおこなう」という政治スローガンをあらわすことになった。[]の字源銀河は「食物(イネ・麦など)を食べて腹部が丸くなって満腹になった人の姿」や「お腹が円い妊婦の姿」に相似するゆえ、[]の下に[](「妊婦」をあらわす図書)が加わって[]の字が作られた。「五穀豊穣」は「人々の胃袋を食物・禾で満たす」と意味するゆえ、[]をあらわす人偏に[]の字が加わって[]の字が作られた。[]の字源・字形・字義は[]の字源・字義を受け継いで「五穀豊穣」をあらわすことになった。上記したように、[][](人々の胃袋を食物[]で満たす形状)の字は共に「五穀豊穣」をあらわすことになるゆえ、結局、国名の「倭人」の2字は「豊かな穀物が実るように、人民の胃袋を満たす政治をおこなう」という政治スローガンをあらわした。
 上記したように――[]の字形は[]の字源銀河中央に「イネ()根・茎・葉・穂」をデザインする図書を重ね、[]の字源となる「人の禾(食物)を食べる口の形をした銀河部」に「稲(イネ)の穂が垂れる形状」に図案された。この「人の口の方へ垂れるイネの穂のカーブ」は「南から西への時計回りに90度転回するカーブ」となる。だから、[]の字源・字形・字義は「五穀豊穣」の他に「北→東・東→南・南→西(イネの穂が人の口の方へ垂れるカーブ)・西→北、つまり方位が時計回りに90度転回する規定」をも表示することになった。そして、[][]の字源・字義を受け継ぐものであったゆえ、[]の字源・字義もまた「北→東・東→南・南→西(イネの穂が人の口の方へ垂れるカーブ)・西→北、つまり方位が時計回りに90度転回する規定」をもあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 ということは、『魏志倭人伝』冒頭に登場する「倭人」の2字は「[][]の字源・字義にもとづいて、末盧国以下の本土における方位規定は時計回りに90度転回して、倭地(日本列島)の〔東〕は〔南〕へ伸びると定めた地理」をあらわしていたことになる。
 その証拠に、上記したように、末盧国以下の本土における12カ所の方位記事を1ヵ所も変えないで忠実に再現すると、時計回りに90度転回して〔西〕の九州は〔北〕となり、九州の〔東〕の能登半島・伊豆半島は時計回りに90度転回して〔南〕に所在することになる。
 このように、【『魏志倭人伝』冒頭の、[]の字源・字義】と【末盧国以下の本土における12カ所の方位記事】の両者が示す方位規定は矛盾せずに合致して【科学】が成立する。
 だから『魏志倭人伝』冒頭早々から――卑弥呼は「遠くの能登半島や伊豆半島までをあらわす倭地本土地理において、九州は〔西〕にあらず〔北〕に所在し、能登半島・伊豆半島がある〔東〕は本土の〔東〕ではあらず、〔南〕と化()る」と定めた。つまり、卑弥呼は【[]の字源・字義に則(のっと)る転回本土地理】を立論した。これゆえ、卑弥呼が立論した倭人国地理は偉大であると絶賛され、【原初漢字の学芸知識】を有する面々によって卑弥呼は倭女王に推奨され、倭女王に就任した卑弥呼はわが国における最初の国家「倭人国」を創設した――と説明していたことになる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は冒頭2字の「倭人」という語をもって――卑弥呼王朝は卑弥呼が立論した【本土の〔西端〕の九州は〔北〕に位置し、本土の〔東端〕は〔南〕へと伸びる転回地理】を制定した――と説明するものであったことになる。
 このような【本土転回地理論】にもとづくと、倭女王卑弥呼が居住した王国の中心地域は現在の山陰出雲(島根県東部)であったことになる。当時の出雲の宍道湖周辺は[][][()]の字源・字形・字義に合致する地宜(ちぎ/平面的に図化される地図の形となる地所)が所在した。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと、〔北→東〕となる。ゆえに、出雲より〔北〕にある地所が「女王国の東」となる。したがって「出雲の北方約40㎞の日本海上に浮かぶ、知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(とうぜん)と、最も大きな島の島後(とうご)4つの大島と約180の小島からなる隠岐群島」が「皆、倭種なり」と記された小国であったことになる。
 本土北の沿岸よりも〔北〕が〔東〕と化()る、その〔本土の東となる日本海上〕に浮かぶ「大小の島々からなる群島や列島等」が「皆」と表現されることになる。ゆえに、この「皆」の字義に合致する日本海上に所在する小国は「隠岐群島」のみ一ヵ所しか存在しない。だから、出雲こそが女王国・邪馬壱国であったと簡単・容易にわかる。〔注 なお邪馬壱国の範囲は現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆であったと考えられる〕。
  
◆NHKテレビは、五度か六度、女王国名に用いる[]の字を大写しにした。
 この字は[]つまり[]ではない。この字は、まちがいなく[]つまり[]である。だから、女王国名は「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」であったことになる。
 後漢書』倭国伝には「邪馬臺国」という4字の後に小字で「案今名邪摩惟音之訛也」つまり「今の名を案ずるに邪摩惟とする音の訛(なまり)也」と記す注がある。この注の「邪摩惟」の[]の字音は「イ()・ユイ(ユヰ)」であり、「ダイ」あるいは「ト」という字音は無い。だから、「邪摩惟」という注は「邪馬台(ヤマタイ)」・「邪馬台(ヤマト)」とは読めない。一方、多くの夏音文字は一字一音であるゆえ、「邪馬壱」は「ヤマイチ」ではなく、[]は「イ」と読むべきことになるゆえ「邪馬壱」は「ヤマイ・邪摩惟」と読むことができる。
 だから、卑弥呼が居住していた女王国の名称は「邪馬壱(ヤマイ)国」であって、「邪馬台国」ではなかった。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記した箇所は1ヵ所も存在しない。したがって、「邪馬台国」は空想の産物であったことになる。
 だから、九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は、即刻、空理空論・空想・虚妄であったと断定すべきことになる。

◆下に――中国大陸・朝鮮半島の地図に対する卑弥呼が立論した【転回列島像(本土転回方位規定地図)】と【実際列島像(九州説と畿内説が立論基盤とする日本地図)】――を示した。
K576

 「邪馬台国サミット」番組は開始から50分から55分頃に発表することになった、「三国志研究の第一人者」とNHKテレビが紹介した先生は――上に示した【南へ伸びる転回列島像】は「『魏志倭人伝』の著者の陳寿が、〔魏の敵国である呉に対して、倭人国の地図を南へ延ばして呉に近くなる東方に倭人国が存在すると情報操作をして、魏に味方するために倭人国が呉の東方の脅威(きょうい)とするための意図的な思惑によるウソの地図〕であった――と主張した。
 しかし、陳寿は蜀(しょく)に仕えたゆえ、魏に味方にして呉を脅かす必要はなかった。さらに、魏・呉・蜀滅亡後、陳寿は晋(しん)に仕えて、晋の武帝の晩年である太康(たいこう)年間(280年~289)の著作郎(歴史編纂官)時代に『三国志』を著作した。『魏志倭人伝』は『三国志』一部の「倭人伝」、つまり「『三国志』の魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称である。ゆえに、『魏志倭人伝』は280年~289年に成立したことになる。だから、陳寿には魏に味方して呉を脅かす動機が無かった。よって、【陳寿情報操作説】は明確に空理空論であった。ゆえに、この先生の使命は【陳寿情報操作説】をもって「魏志倭人伝のウソを読み解く」ことであったことになる。
 【陳寿情報操作説】は「邪馬台国サミット」のテーマ「魏志倭人伝のウソを読み解く」を最も明確に示す意見である。ゆえに、諸先生方も【陳寿情報操作説】に協力して「魏志倭人伝には多くのウソの記述がある。したがって、魏志倭人伝のウソを読み解いた九州説と畿内説こそが正しい」とする意見を強調して終始一貫して主張していた。だから、「邪馬台国サミット」を開催した目的・意図は〔九州説と畿内説に対して、国民が信頼して疑問を抱かないようにするための対策〕であったことになる。

 【陳寿情報操作説】を説明した先生は――『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし」という記事がある――と指摘した。
 〔注 上記した地図には南宋紹煕刊本(12世紀)の表記にもとづいて「東治」とした。「東治」を「東冶」と表記する出典もある〕。
 上に示した【実際の列島像】は「会稽の東治(東冶)の東北に所在」するゆえ矛盾し、また[]の字源・字義にも合致しないゆえ――『魏志倭人伝』と無関係の地図となる。ゆえに、【実際の列島像】を用いて立論する九州説と畿内説の実像は『魏志倭人伝』の全記事と無関係の空理空論・空想・虚像であったことになる。
 上に示した【[]の字源・字義をあらわす、南へ伸びる転回列島像】は、『魏志倭人伝』の記事に合致して会稽と東治(東冶)の東にある。だから、【転回列島像】は卑弥呼が立論した【倭地の東方が南へ伸びる転回倭人国地理】を示すものであったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まる七、八十年に倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と記述する。
 この記事が示すように、西暦170年頃~180年頃には男王たちが戦いあって倭国は乱れていたが、卑弥呼によって戦乱は終息したことになる。
 この終戦の原因は、卑弥呼が立論した【日本列島地理】であったのである。
 前述したように、卑弥呼は【瀚海(ゴビ砂漠)からはるか南の陝西省黄陵県を本拠地とした黄帝と漢字を発明した倉頡の歴史は、対馬国・瀚海・一大国の地宜・方位であらわす地理で表現できる学術理論】を発表した。また、卑弥呼が立論した倭人国地理は「対馬国・一大国の南北」に合致するように「〔西〕の九州を〔北〕の対馬国に見立てて〔北〕になるように[]の字源に合致するように転回し、〔東〕の能登半島・伊豆半島を〔南〕の一大国に見立てて[]の字源に合致するように転回して〔南〕と定める本土地理」が合体して整然と組織化されていた。だから、卑弥呼が考えた【転回日本列島地理】は、天と地の神霊を呼び起こす最も神聖な最高峰の学問的偉業を示すことになった。このため【転回日本列島地理】を尊重せずになおも戦争をつづけるならば、相攻伐(あいこうばつ)して乱れる倭地全土に神が厳しく罰を与えるにちがいないと信じられることになった。
 というのも、当時の最も強大な権力は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】であったからである。この事実は、わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の6回~10回までに詳細に解説した。つまり――7世紀初頭、推古天皇の摂政であった聖徳太子がおこなった崇仏政策について世間は「仏教よりも仏教の経典に用いられる難解きわまりない楷書を解読した巫女と覡(げき/神官)が精通した【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】のほうがはるかに尊い。太子の巫覡蔑視・朝廷からの排斥は明らかに失政だ」と批判して太子を虚仮(こけ)にして馬鹿もの扱いをした。だから、「世間の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学術】のほうが尊いという評価は虚仮(ウソ)だ。ただ仏のみ是が真なり」と世間の評判に反論した太子は天皇になれなかった。このように――当時、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が世を支配する最大の権力であった。
 これゆえ、倭国が乱れていた180年当時、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】にもとづく偉大なる発見を無視すると神(鬼神)は厳しく罰するにちがいないと確信されていた。【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸知識】を有していた男王・皇女・巫女や覡(げき/神官)・諸氏族の長・豪族たちの面々は、一刻も早く戦乱を終息させて【転回日本列島地理】を立論した卑弥呼を女王に選んで国家を建設しなければならないと願望するようになった。
 というのも、当時、中国軍の倭国遠征が深刻な心配の種子(たね)であったゆえ、倭国はいつまでも乱れているわけにはいかなかったのである。

◆国家を建設するにあたって、卑弥呼は三つの心配すべき問題点があった。
 その一つは、国家建設の直接原因となった中国軍の倭国遠征であった。後漢の西暦146年頃の中国の人口は約四千七六〇万人であったが、その後は戦乱がつづいたために約140年後の180年頃には、中国は一気に約4分の1(約1200万人)の人口を失っていたと推測される(というのも、魏・呉・蜀の並び立つ戦乱の三国時代の人口は、約八〇〇万人そこそこであったからである)
 ゆえに、卑弥呼はじめ倭地の人々は中国の人口が激減する殺戮(さつりく)すさまじい覇権争いによって、倭地の住民たちを人狩りして人口を増やすための中国遠征軍の来襲を想像して恐れていたにちがいない。だから、いつまでも戦争を続けていれば中国遠征軍によって倭地は占領されてしまうのではないかという恐怖が国中にひろがっていた。これゆえ、来襲する中国軍に対抗できる国家の樹立を人々は願望するようになった。このような状況であったゆえ、卑弥呼は中国の侵略に備えて、中国遠征軍来襲を恐れる各地の諸氏族をたばねて国家を建設して女王になることを決意しなければならなかったのである。
 二つ目の心配は、国家を建設して王朝を樹立すると【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が政権基盤となるため、この学芸を反体制側の氏族や王たちが巧みに狡猾に利用して革命・反乱をおこすと、卑弥呼王朝が崩壊・滅亡することを心配しなければならなかった。ゆえに、その対策が必要となった。
 三つ目の心配は、『魏志倭人伝』が「倭女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」と記述しているように、狗奴国の男王・卑弥弓呼は「従来ずっと国家を建設せずにやってきた。国家を建設すれば中国と同様に天下を手中に入れようとする王たちが各地に出現して激しい覇権争いがおこって倭国は従来よりも乱れる」と主張して、国家建設に反対して卑弥呼王朝に和せず(参加せず)に卑弥呼を憎悪・敵視した。ゆえに、倭人国創設と倭女王就任には、狗奴国の卑弥弓呼の攻撃にもそなえる必要があった。

◆卑弥呼は三つの心配を解決するため、『魏志倭人伝』が「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す」と記述するように、伊都国の一大率との共立国家体制を築くことにしたのである。
 つまり、(1)卑弥呼は中国からの侵略・襲撃を防衛するために九州・伊都国に一大率を配置することにした。
 また、卑弥呼は(2)【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を巧みに・狡猾に利用する革命・反乱を防ぐために、一大率に特別に強大な検察力を与えて諸国の王たちが畏(おそ)れ憚(はばか)るようにして、卑弥呼王朝が滅亡しないようにすることにした。ゆえに、『魏志倭人伝』は「魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる夏音文字は差錯(ささく・相違)していたので、伊都国の港で楷書と夏音文字の意味が同義となるように点検し確認して誤訳が生じないようにしていた」と説明する。だから、卑弥呼は一大率に強大な検察力と【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を厳重に管理する権限を与えて、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を利用して興す革命・反乱を厳重に取り締まる役目も与えていたことになる。
 さらに、卑弥呼は(3)狗奴国の男王が兵を挙げた時、狗奴国討伐を指揮する倭人国軍の総大将を一大率と定めていたと考えられる。
 だから、卑弥呼は一大率に諸国の王たちよりも特に強力な権力を与えたゆえ、『魏志倭人伝』における「すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事は、「倭人国は女王卑弥呼と伊都国の男王一大率による共立国家であった」と説明していたことになる。
 
◆以上のごとく、2021年元日の夜にNHKテレビが「邪馬台国サミット」と名づけた催しに一堂に会した諸先生方は1ヵ所もウソの記述が存在しない『魏志倭人伝』に対して、「魏志倭人伝には、多くのウソが記述されている」と誤った認識を国民に植え付けようとしていたことになる。
 2時間に及ぶ「邪馬台国サミット」の様子は、NHKオンデマンドの「邪馬台国サミット・2021」を視聴すれば確かめることができる。

 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は次回から幾回かに分けて――『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」について解説する。この「1千万坪の大鳥の地上絵」によって「約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事には1ヵ所もウソの記述は存在しない」という事実が証明される。
 この遺跡によって、新井白石以後約300年に及ぶ邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を無視・削除したが原因で空理空論であったことが明らかとなる。この遺跡は『魏志倭人伝』を研究した学者たちの想像をはるかに超える壮大な歴史ロマンに満ちあふれ、その秘密を探求すれば探求するほど内からの情感が深まって永遠なる真理を知ることができる。
 この遺跡は紀元前3100年頃に起源した古代エジプト文字(ヒエログリフ)も漢字と同じ「夏の銀河各部の形状から作られ事実」も【科学】が成立して解明・証明することができる。だから、同じ3世紀後半に作られた文献『魏志倭人伝』と遺跡「1千万坪の大鳥の地上絵」は日本古代史に限った遺産ではなく世界史的第一級の遺産ということになる。
 「邪馬台国サミット」の諸先生方が信じる九州説と畿内説は、未解明の古代エジプト文字(ヒエログリフ)の起源・字源も解明できる『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源史の証言】を抹殺する完全なる空理空論であったのである。

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2020年12月30日 (水)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・13

▼考古学界とメディアは、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』研究を決着する意見であると自慢する。しかし、この二説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であるゆえ、日本国中を騙(だま)す詐欺(さぎ)ということになる

★「倭人国の地理学」のトリセツ・9

◆このブログは前々回(11)と前回(12)で――考古学が主張する「文字・漢字」の定義によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、明らかに空理空論であることを証明した。
 考古学が主張する【漢字習得の定説】は――わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの始め3行目までの「わが国の漢字音」と題する記事――を注目するとただちに空理空論であると確信できる。この記事は音韻史研究によって「わが国の国語には、中国において現存する最も古い上古音よりもさらに古い漢字音が残っている」という成果が明らかになったと指摘する。だから、考古学の発掘調査結果によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された定説は、ただちに空理空論となる。
 というのも、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説よりもはるか以前、つまり約2500年~2600年前の後期縄文時代初頭の紀元前21世紀末に中国から伝来して習得された原初漢字の夏音(かおん)文字が――2世紀末~3世紀半ばのわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』と6世紀末から7世紀前半のわが国の様子を伝える『隋書』倭国伝と712年に成立した『古事記』上巻には――多数記載されて残っているからである。

◆『魏志倭人伝』と『隋書』倭国伝と『古事記』上巻に記載されて多数残っている後期縄文時代初頭に夏音文字が習得された時、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は発明した漢字作成原理・作成方法】も習得された。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字の字源・字形・字義を解明すると【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】がわが国に存在したと証明される。
 つまり、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の日本神話は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にのっとって歴史が解明できる仕組みになっている。この歴史解明方法は『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)全体の記事テーマとなる。しかし、学者誰一人も『古事記』上巻の序全体のテーマが【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識にのっとっとれば歴史が解明できる方法の説明】であることに気づかない。ゆえに、この重大な『古事記』上巻の序が説明する歴史解明方法を無視し排除するため、考古学者はじめとする学者たちには『古事記』上巻に記述された歴史が解明することができない。

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。ゆえに「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した。こんな簡単・容易に想像できる事実に、今日の学者たちとメディアまったく気づかない。だから、学者たちとメディアは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)が説明する歴史解明方法の記述の存在にまったく気づかず、知ったかぶりをして約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説をもっとも正しい意見であると吹聴(ふいちょう)して日本中を騙(だま)そうとしている。
 上記したように、「漢字」は「銀漢(銀河)」から作られた。漢字が作成された銀河は、天文学では「夏の銀河」と呼ばれる。「夏の銀阿」とは、つまり「夏の星座が漬かる巨大な銀河の帯」である。
 上記したように、今日のすべての学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった事実を知っていない。
 その証拠に、わが国の中国古代漢字・字源研究の第一人者とされる白川静博士は【漢字が夏の銀河の各部から作られた事実】を知らず、みずからが研究して解明した字説(字源解説)が【夏の銀河の各部の形状を説明するものであること】についてまったく気づいていない。
 倉頡は、【夏の銀河の各部の形状から漢字を作る作成原理と作成方法】を発明した。
 倉頡はみずからが発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字(漢字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す【3つの掟】を破った本人はじめ、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(1)
 夏の銀河(漢字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言葉(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解ができない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(2)
 文字を容易に理解するため、文字となる夏の銀河(漢字作成銀河)の各部に名称をつけた者とその一族
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、上記したように「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した事実を、今日の学者たちは誰一人も気づかない。
 上記した倉頡が定めた(2)の掟のため、紀元前1世紀に完成したシナ天文において〔夏の銀河に浸かる各部星座(星宿)の名称は作られた〕が、星座よりも明確な形を有する〔夏の銀河の各部の名称〕は現在にあっても存在しない。
 倉頡が死刑と定められた(3)の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した計約4700字も作られた甲骨文字において、この掟をその都度まもるのはたいへん面倒になったため破られることになった。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻に残っているわが国の夏音文字は、甲骨文字以後に作られた(3)の掟を守らなくてもよい楷書にて表記されることになった。
 甲骨文字以前の【五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字】は倉頡が定めた(3)の掟を厳重にまもった。だから、これらの原初漢字を書いた資料はいまだ出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】によって成立する。そのうちの【字源・字形・字義の3つの要素】は【夏の銀河の各部の形状】であった。
 倉頡が【死刑と定めた3つの掟】によって、【原初漢字(五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)における字源・字形・字義】は【夏の銀河の各部の形状】となって実在することになった。
 この【原初漢字は夏の銀河の各部の形状となって実在した事実】に気づかない考古学者たちは――漢字が書かれた最古の資料が出土・発見された、その時にわが国は漢字を習得したにちがいないと――と考える。だから、考古学界は、漢字(楷書)が書かれた最古の資料の出土・発見にもとづいて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した。また、江戸時代中期の新井白石(16571725)以後の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたと想像する人物が一人も存在しなかったため、この伝統にもとづいて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となった。だから、考古学者はじめとする学者たちが定義した【わが国が最初に漢字を習得した意見】は事実に合致しない【非科学】にして【主観的偏見】による空理空論であったことになる。
 というのも、前述したように、【1】『魏志倭人伝』、【2】『隋書』倭国伝、【3】『古事記』の三史書には、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に習得した多数の夏音文字が記載されて残っているからである。

 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――(1)漢字は夏の銀河から創られた、(2)夏音文字は後期縄文時代初頭に習得した、その時、(3)【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。ゆえに、(4)夏音文字と夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された上古(神話)の歴史は鮮烈に歴史が甦(よみがえ)る――と『古事記』上巻だけでなく、『魏志倭人伝』のおける歴史解明方法についても説明していることになる。

◆わが国の考古学者たちは「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空論に憑()りつかれている。このため、彼らは吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説こそが邪馬台国論争を決着することができる意見であると主張する。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の基に構成されている『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると記す。したがって、「邪馬台国」という地は存在しない絵空事・空想である。ゆえに、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 また、古代史研究家の古田武彦氏は『三国志』全体に記載される[()]86個、[()]56個の文字を逐一調べ、[()]の字を[()]と記す誤記が一例も無いことを証明した。『魏志倭人伝』という文献名は「『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝の通称」であり、『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝=『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」と記してある。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国だった」と主張する、考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は【非科学】と【主観的偏見】による空理空論・デタラメであったのである。

◆考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は空理空論・真っ赤なウソであると断定できる、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた遺跡が存在する。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著「魏志倭人伝』(講談社発行)29ページは「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇-二八九)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 つまり、『三国志』は晋につかえた著者の陳寿が著作郎・歴史編纂官に任じられた280年~289年までの帝太康の時代に著作したことになる。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝であるからして280年~289年に成立したことになる。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記述された【わが国には倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が存在した】と【倭女王卑弥呼が居住した王国は邪馬壱国であった】、この二つ問題は一挙に事実であったと【科学】が成立して証明することができる確かな遺跡が現在まで残っている。
 この奇跡の史料は、静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示するちょうど1千万坪(33.9)の地図の形である。
 この旧国遠江に所在する細江町の1千万坪の地図は、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』と同時代の260年頃~290年頃まで約30年間費やして作製された。
 この細江町の地図内の7ヵ所の地所から9口の銅鐸が出土した。この銅鐸が出土した7ヵ所の地所は「遺跡」と呼ばれている。つまり、(1)小野遺跡、(2)船渡遺跡、(3)悪ヶ谷遺跡、(4)滝峯遺跡、(5)不動平遺跡、(6)穴の谷遺跡、(7)滝峯才四郎谷遺跡と呼ばれている。
 だから、この7つの遺跡が所在する・1千万坪の細江町の形は、3世紀後半に作られた地図遺跡であった。この地図遺跡(現在の細江町の行政区域を表示する、平面的に図化された地図)によって――『魏志倭人伝』の全記事は正しく、学者たちが立論するがごとく1ヵ所も誤読・歪曲・主観的偏見を加える必要がない――という事実が明らかとなる。


 細江町の7遺跡から出土した9口の銅鐸は三河と遠江に多数分布する銅鐸であり、「三遠(さんえん)しき銅鐸」と呼ばれる。この三遠式銅鐸は、最末期の銅鐸であるとされる。物部氏の関連性に注目すると、最末期の三遠式銅鐸の製作・使用年代は260年頃~290年頃であったことになる。だから、細江町の地図は、260年頃~290年頃までの30年間を費やして作製されたことになる。
 完全な形で細江町の滝峯遺跡から出土した滝峯第1号鐸の原寸大に作る模造鐸を、198611月に、私は静岡県沼津市のW板金所の主人に注文して銅板で作っていただいた。
 完成した模造鐸の筒()の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔径(瞳孔の直径)が最大に拡大された。そして筒の上()にある二つの孔から舞の中央に垂直に立つ厚さ2,3mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎみると、その鈕は板ではなく細い一本の線()と化して見えるようになった。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくり微調整して最も細くなるようにすると、銅鐸の筒はおのずと精確に地面に対して垂直(90度の角度)に立っていた。この時、鈕の頂上に取りつけられる「渦巻双耳(うずまきそうじ)」と名づけられた部分に刻まれる文様が矢を射当てる的(まと)のように同心円形となり、その的の中心点が天頂点とぴったりと重なり、私の視線は矢のようになって的の中心となる天頂点に命中する仕組みになっていた。
 考古学者たちは「銅鐸は鳴器や祭器であって、銅鐸は天頂点をキャッチする・[]をキャッチして緯度を精確に測量する器具ではない」と反論する前に、“論より証拠”という諺(ことわざ)の通りに、模造鐸を作り筒の中に顔を突っ込んで銅鐸を地面に対して垂直に立てて舞孔から仰ぎみれば、その視線は天頂点を命中する仕組みになっていることが実際に体験することができる。
 銅鐸の筒の中の眼は天頂点を「命中する」の「命中」の[]の上部の[(しゅう/三合]の字源・字義は「天頂点をキャッチして緯度を精確に測量して経緯度原点地を設置し、経緯度原点地を基に土地三角測量をし、この土地三角測量の基点の基に三角形の網や鎖を形作って、精密な地図を作製する」である。
 また、上記した滝峯第1号鐸の模造鐸による観測者の視線が天頂点を命中するまでの装置や手順は、古代における精密な地図を作製する方法と天頂点をキャッチして精確に緯度を測定する方法に合致する。
 新村出編『広辞苑』(岩波書店)は【天頂点】を「地球上の観測点における重力の方向(鉛直線)を上方に延ばして天球と交わる点」と説明する。地面に垂直に立つ銅鐸の筒の中の測量士の視線がキャッチする鈕の影が最も細い線が天頂緯度線とぴったり重なって、渦巻双耳の文様が的の同心円形となって、測量士の視線が矢となって命中する的の中心にぴったり重なる箇所は【天頂点】となる。【天頂点】は「高度90度」で「それ以上の上となる箇所が無い、最も高い天空」であるゆえ、“字書の聖典”と呼ばれた字源解説書の『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし」と解説して、[]の字源・字形・字義は「天頂点」であったと解説する。

◆いわゆる中国の五経の第一に挙げられる中国の古典『易経』の繋辞上伝(けいじじょうでん)には「仰いでもって天文を観、俯()してもって地理を察(あきらかに)す」という記事がある。この記事は「仰いで天頂緯度線と天頂点と重なる[]の字源となった銀河部位をキャッチして精確に緯度を測定して、地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を明らかにした」と伝えている。
 また、『易経』繋辞下伝(けいじげでん)には「仰いでは天象を観()、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)を類するように文字を作った」と説明する記事がある。
 上記した『易経』の繋辞の上伝と下伝の記事は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】について今日に伝える記事である。
 この『易経』の繋辞の上伝・下伝が伝える【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】が、260年頃~290年頃に作製された細江町の1千万坪の地宜(地図)に失われずに残っている。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は280年~289年に著作され、細江町の1千万坪の地宜は260年頃から始めて290年頃に完成したゆえ、『魏志倭人伝』と細江町の1千万坪の地宜はまったく同時代に作られたことになる。
1】 細江町の地図には『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】と【「卑弥呼」の3字の字源・字形・字義】が証明できる機能(役割)がそなわっている。そして、細江町の地図によって【『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明される。ゆえに、考古学の研究成果によるすべての邪馬台国説は迷妄・空理空論であり、卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住したと証明され、『魏志倭人伝』は「文献批判」という名の「誤読・歪曲・考古学の主観的偏見」を1ヵ所も必要としない、全記事が正しい文献であったと証明される。
2】細江町の地図は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【小国・日本は〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史】を後世に伝えるために作製された。だから、淤能碁呂島聖婚説話は実際に起きた歴史であったことになる。
3】細江町の地図は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのをのみこと)の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という、遠江の豪族一族によって作製された。ゆえに、細江町の地図には「建比良鳥命」という名をあらわす機能がそなわり、また「天照大御神と須佐之男命の誓約説話の記事」をも表示する機能もそなわっている。したがって、天照大御神と須佐之男命は3世紀に生存した歴史上の人物であったことになる。
4】つまり、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字と倉頡が発明した夏の銀河の各部の形状を字源・字形の原形・原義とする漢字作成原理と作成方法を習得した。そして、夏音文字と夏音文字の音を記す楷書の両方の文字の字源・字形の原形・原義も銀河各部の形状であった。したがって、〔音〕という注が付く夏音文字と夏音文字の音記号に用いる楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は鮮烈に甦(よみがえ)る――と、歴史解明方法を説明していたことが事実となる。
 江戸中期の新井白石以後の『古事記』を研究した本居宣長(1730-1801)をふくむ全学者たちは、「古事記上巻 幷せて序」の主題(主なる内容)が【歴史解明方法の説明】であることにまったく気づいていない。
 だから、新井白石以後の学者たちは伝統的に「古事記上巻 幷せて序」に記述され歴史解明方法の説明文が読解せず、空理空論となる誤った方法で『古事記』上巻の記事を解釈する。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとれば、現在の考古学者はじめとする学者たちの邪馬台国説と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の意見は学問的に無価値・空理空論となる。また、考古学者たちの『記』『紀』に記述された天皇の陵墓の意見には誤読・非科学・主観的偏見によるものも混在していることが明白となる。
 以上のごとく、現在の学者たちは歴史解明方法を説明する「古事記上巻 幷せて序」の記事を無視して勝手に解釈するため、『古事記』上巻に記述された歴史が解明できない。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話冒頭の――ここに天(あま)つ神々の命(みこと)以ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命に(中略)()りて――という文と、後ろのある――(伊耶那岐命と伊耶那美命は)その島に天降(あも)り坐()した――という文を、現代語に訳すると前者の文は「天(天頂点の軌道・天頂線緯線)のキャッチを最も重視する倭女王卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々は伊耶那岐命と伊耶那美命に小国・日本への赴任を命じた」と意味することになり、後者の文は「伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本へ赴任する道中、天頂緯度線を測定して淤能碁呂島に到着した」と意味するものであったことになる。
 しかし、学者たちは前者の冒頭文を「雲の上に住む天空の神々の一同は、雲の上に住む伊耶那岐命と伊耶那美命に命令した」と訳し、後者の文を「伊耶那岐命と伊耶那美命は雲上の天空から淤能碁呂島に降下した」と解釈する。だから、現在の学者たちのごとく「古事記上巻 幷せて序」の歴史解明方法を排除・無視する方法で解釈すると、歴史を解明することができない。


◆「古事記上巻 幷せて序」の「わが国には夏の銀河各部の形状から漢字を作った倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字を習得した」という説明に則(のっと)って『魏志倭人伝』を読解すると、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事には1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加える必要がないことになる。ゆえに、多数の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加えて立論される、考古学自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であったことになる。つまり、卑弥呼はその地図の形が当時(2世紀末~3世紀半ば)に「邪馬壱」と示していた山陰出雲に居住し、その王国名は邪馬壱(やまい)国であったことになる。 

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2020年12月28日 (月)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・12

▼【漢字は銀河各部の形状から作られた事実】を今日の学者たちは誰一人も知っていない。このため、今日、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は絶対に正しいと思いこまれているが、この絶対視される定説は明白なる空理空論である事実が簡単に容易に証明できることに学者の誰一人も気づいていない

★「倭人国の地理学」のトリセツ・8

◆考古学はじめ今日の学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見を絶対視する。ゆえに、この定説は「空理空論である」と指摘すると“戯言(たわごと)!”と一笑される。
 しかし、このブログの前回(11)でも説明したように――わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目から10ページの始めから3行目までの「わが国の漢字音」と題する記事における、下記に示す指摘を注目すれば「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は「確かに空理空論である」と断定すべきことになる。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」

◆このブログが1回から前回(11)まで一貫して解説して証明しているように、【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書には【紀元前2070年頃~紀元前2050年の後期縄文時代初頭に中国からわが国に伝来して習得された夏音(かおん)文字】が記載されている。
 したがって、上記した三史書に【夏音文字】は記されて「夏音文字が存在する事実」を確認できるので「夏音文字は存在しない」と表現するわけにはいかず、当然、「夏音文字は中国から伝来して、わが国は習得していたのは事実である」と断言しなければならないことになる。
 中国の現存する最古の漢字音は「紀元前1046年の周代初頭から2世紀頃の後漢後期までの漢字音」で、「上古音」と呼ばれる。
 上記した白川静著『字統』の「わが国の漢字音」と題した記事が指摘しているように――
1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書に記載されて残っている多数の夏音文字は、中国に現存する最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀末の漢字音である。 
 一方、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音初期の紀元前11世紀周代初頭の上古音はもちろん上古音末期の後漢後期(2世紀頃)よりも新しい漢字音となる。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されて絶対に否定することができないと思い込まれている定説は、明確に空理空論・虚妄(きょもう)である。
 学者たちの誰一人も注目しないが――上記した白川静著『字統』における「わが国の漢字音」と題する記事が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」という指摘を注目すれば――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対に正しいと信じられている定説はただちに空論・虚妄であることに気づく。
 だから、【中国の上古音よりも古い、わが国の国語として残されている最古の漢字音】は【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書に記載されている【夏音文字】であったことになる。

▼【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書の記事によって、わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した時に、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえていた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】も習得したことになる。
 “漢字の始祖”と崇拝された倉頡は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる巨大な銀河各部の形状から漢字を作る原理と方法を発明した。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でも日本でも「漢字」と呼称した。「漢字作成銀河」は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる。「夏の銀河」は「夏の星座が漬かる銀河の帯」あるいは「夏に最も長時間みることができる銀河の帯」である。
 紀元前3000年頃から始める五帝時代から7世紀初頭の隋代に完成した楷書までの全漢字は、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って【夏の銀河各部の形状を表現・表示する図案】となるように作られた。
 このブログの2回と7回にて解説したように――倉頡はみずから発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す【3つの掟】を破った本人はもちろん、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(1)
 夏の銀河(漢字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解ができない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(2)
 文字を容易に理解するため、文字となる夏の銀河(漢字作成銀河)の各部に名称をつけた者と一族
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、「銀河」の別称は「銀河漢」であるから「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた事実――このように簡単に容易に想像できる事実に、今日の学者たちは誰一人もまったく気づいていない。その証拠に、わが国の中国古代漢字と字源研究の第一人者とされる字源字書『字統』を著作した白川静博士は【漢字が夏の銀河の各部から作られた事実】を知らないため、みずからが研究して解明した大半の字説(字源解説)が【夏の銀河各部の形状を説明するものであること】について知っていない。
 121年に後漢の安帝に上呈した“字書の聖典”と呼ばれる字源字字書『説文解字(せつもんかいじ)』の著者の許慎(きょしん)は【漢字が銀河各部の形状から作られた事実】を知っていたから、その字説(字源解説)の大半は【銀河各部の形状を説明するもの】であった。
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、今日の学者たちは誰一人も【漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた事実】を知っていないゆえ、すべての学者たちは『魏志倭人伝』に記される[]の字源・字形・字義は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にのっとって【夏の銀河の形状】で表示されるものである事実に気づいていない。また対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名を10小国ずつ3つのグループに分けて【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】について説明する仕組みになっており、あるいは【小国名に用いられるすべての文字の字源は夏の銀河各部の形状である】という事実にも気づいていない。しかし、江戸時代半ばまでの各代の天皇たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】が皇室存続の権勢基盤であったため、【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。また【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた学識】は天下を治めるにあたって不可欠な基礎知識であったゆえ、源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康たちは【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。また、漢字で書かれる仏教の経典を理解するため、名だたる高僧たちも【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。
 そして、上記した倉頡が定めた(2)の掟のために、現在においても〔夏の銀河の各部の名称〕は存在しない。
 倉頡が死刑と定めた(3)の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した約4670(解釈されたものは1723字、未解釈異体のものは2949)も作られた甲骨文字において掟をその都度まもるのはたいへん面倒になったため破られることになった。このため、甲骨文字は字形を示す資料が多数出土することになったゆえ、現代史学では「甲骨文字は最古の漢字、甲骨文字は最も古い漢字の祖型である」と断定する。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟を厳重にまもったため、【甲骨文字の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状である事実】に――現在の学者たちは誰一人も気づいていない。
 甲骨文字以前の【五帝時代の書契(わが国では「刻木」と称した)】・【夏代の夏音文字】・【殷代前半の原初漢字】は、倉頡が死刑と定めた(3)の掟は厳重にまもったゆえ、書いた文字の資料がいまだ出土・発見されていない。また、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に登場する夏音文字を書いた資料も、倉頡が定めた(3)の掟を厳重にまもったために出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】によって成立する。
 そのうちの【字源・字形・字義の3つの要素】の本家本元は【夏の銀河の各部の形状】である。
 考古学は――漢字が書かれた最古の資料が出土・発見された、そのときにわが国は漢字を習得した――と考える。だから、夏音文字を書いた資料が出土・発見されないゆえ、わが国が縄文時代初頭に夏音文字を習得した事実は絶対にあるはずがないと思い込む。したがって、考古学は、漢字(楷書)が書かれた最古の資料にもとづいて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した。
 しかし、事実は【倉頡が死刑と定めた掟】によって【漢字の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状】となった。このため、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法を解明することができる、ほんとうの漢字は天空に輝く夏の銀河各部の形状】ということになった。
 だから、考古学が考える【わが国が最初に漢字を習得した意見】は空理空論であった。
 今日のわが国の考古学は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定するが原因で――『魏志倭人伝』が【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を伝える文献であり、その人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも証明できる史料であった――この事実をまったく知っていない。つまり、考古学者たちは『魏志倭人伝』の記事内容についてまったく知っていない。
 というのも、考古学者たちのごとく『魏志倭人伝』に【誤読・歪曲・主観的偏見(すなわち、文献批判)】を1ヵ所でも加えたならば即刻に空理空論・虚妄となるからである。
 したがって、考古学自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説は『魏志倭人伝』の記事に多数の【誤読・歪曲・主観的偏見(すなわち、文献批判)】を加えて立論するゆえ、正真正銘(しょうしんしょうめい)の空理空論・虚妄説であったことになる。 

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フェイク&まぼろしの邪馬台国・11

▼わが国には「考古学」と呼べる学問は存在しない
「学問」の水準に達しない、[学]の字を欠く「考古術(考古学的技術)」ならば存在する

★「倭人国の地理学」のトリセツ・7

◆上記したように、わが国における「考古学」は断じて「考古学」と呼ぶことはできない。
 だから、わが国で「考古学」と名づけられるものは「考古術」と呼ぶべきことになる。
 というのも、わが国で一般的に「考古学」と言っているものは、再度言うが【学問】の体(てい)をなしていないからである。それは【非科学】と【主観的偏見】、言いかえると【空理空論】と【無知】に支配されるものであるゆえ、「考古術」と名づけるべきことになる。

◆わが国は、考古術によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となった。
 この定説は、要するに【非科学】と【主観的偏見】によって立論された空理空論である。だから、「考古学」と呼べず、この分野は「考古術」と呼ぶべきことになる。
 というのも、このブログが前回(10)までで証明してきたように――【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書は「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に原初漢字・夏音(かおん)文字を習得した。この時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法習得した」と説明しているからである。
 上記の【1】【2】【3】の三つの史書に記述された「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を習得した」と説明する記事を、考古技術者(一般的にいう「考古学者」)たちの誰一人も読解(つまり、正しく理解)することができない。
 だから、考古技術者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
 もしも【1】【2】【3】の三史書に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得説明】について学者やメディアが読解できていたならば、当然のことであるが「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は誰も信じず、すでに空理空論であるということになっていた。
 しかし、この「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という虚妄説に学界はじめメディアも賛成して言いなりになったため、現在「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」いう虚妄説が絶対に否定することができない定説となっている。

◆夏音文字は『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に多数記載されて現在まで残っている。ゆえに、考古技術者たちがどのように弁護・反論しても「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は空理空論であることは明白なる事実である。
 また、上記した【1】【2】【3】の三史書の他に、【4】わが国の古代中国漢字研究者の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までの文に「わが国の漢字音」という題をつけて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が空理空論であることを、下記のごとく指摘している。この重大な指摘に、学者の誰一人も注目しない。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 中国の現存する最古の漢字音は「紀元前1046年の周代初頭から2世紀頃の後漢後期までの漢字音」で、「上古音」と呼ばれる。
 上記した白川静著『字統』の「わが国の漢字音」と題した記事が指摘しているように――
1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』、【3】『隋書』の三史書に記載されて残っている多数の夏音文字は、中国に現存する最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀末の漢字音である。 
 一方、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音初期の紀元前11世紀周代初頭の上古音はもちろん上古音末期の後漢後期(2世紀頃)よりも新しい漢字音となる。だから、漢字習得の定説の実体は空理空論・虚妄であったことになる。
 このように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されて絶対に否定することができないと思い込まれている定説は、【非科学】と【主観的偏見】による産物であったことになる。
 上記した白川静著『字統』における「わが国の漢字音」と題する記事が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」という指摘に注目すれば――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と信じられている定説はただちに空理空論であると断定することができる。

◆「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空論に憑()りつかれた考古技術者たちは、この空論を立論基盤にして構築した吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説こそが邪馬台国論争を決着することができる意見であると主張する。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の基に構成されている『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると記す。したがって、「邪馬台国」という地は存在しない絵空事・空想であった。ゆえに、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 また、古代史研究家の古田武彦氏は『三国志』全体に記載される[()]86個、[()]56個の文字を逐一調べ、[()]の字を[()]と記す誤記が一例も無いことを証明した。『魏志倭人伝』という文献名は「『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝の通称」であり、『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝=『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」と記してある。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国だった」と主張する、考古術界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は【非科学】と【主観的偏見】による空理空論・デタラメであったことになる。

◆なお、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って思考すると『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と説明していることになる。この邪馬壱国出雲地方説は『魏志倭人伝』の全体記事と矛盾も不合理な点が1ヵ所もなく【科学】が成立する。だから、邪馬壱国出雲地方説は事実であったことになり、邪馬壱国出雲地方説こそが卑弥呼が居住した王国所在地論争を決着させる意見ということになる。
 だから、考古術界が論争を決着することができると自信たっぷりに自慢する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない学問的に無価値の荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであったことになる。
 
◆「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論に憑()りつかれた考古技術者たちは――『古事記』と『日本書紀』(『記』『紀』)8世紀に律令国家によって編纂(へんさん)されたものであるゆえ、史料的に価値には限界がある――と主張する。
 よって、考古技術者たちは『記』『紀』に記述された天皇陵についての学問的意見は、自分たちの研究成果のほうが正しいと自惚(うぬぼ)れている。
 しかし、8世紀に成立した『古事記』と『日本書紀』は断じて律令国家によって編纂されたものではない。
 『記』『紀』は人民たちの尊厳と魂の自立となり日々の生活のよりどころとなった【伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を伝える反逆の歴史書であった。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は律令国家が「皇祖・天照大神の聖性を汚すゆえ絶対に後世には伝えてはならぬ」と厳重に禁じていたからである。天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命)は強大な権力を最も尊重し、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・蔑視して大和朝廷の基礎を築いた。ゆえに、律令国家体制を推進する40代天武天皇以後、皇室は天照大神を皇室が最も偉大な先祖と崇拝する皇祖と定めた。しかし、天照大神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)は【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し蔑視したため、伊耶那美命の陵墓を築造する時に、多数の奴婢(ぬひ/18才くらいの青年と13才くらいの乙女)たちを殺して、伊耶那美命陵に埋める徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この天照大神が決行した残酷な徇葬を後世の人々に絶対に知られたくないゆえ、律令国家は【日本国建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならないと厳重に禁じたのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話では、「天照大神」は「伊耶那美命の墓の築造を陣頭指揮した倭女王」であったゆえ「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と名づけて、編纂スタッフは『古事記』が即刻献呈拒否されないように皇室が欲求する偽書(つまり、「天照大神」を「伊耶那美神命」という偽名で表示したゆえ、偽の歴史を記述した書物となる)を作成したと示して元明(げんめい)天皇から献呈の承認を手に入れようと企てた。この編纂スタッフの企みを元明天皇はただちに見抜いて『古事記』の献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史になれなかった。この伊耶那岐命の黄泉国訪問説話では「残忍な徇葬儀式」は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と表記された。「八雷神」は「殺されて八つの雷神の姿になって伊耶那美命の棺の周囲に葬られて配置された青年と乙女たちをあわれんで、天の神が雷鳴轟かせて五穀豊穣の慈雨を降らす、いわゆる徇葬儀式」をあらわしていたのである。
 以上のごとく、『古事記』また『日本書紀』もまた書名の「日本」が示すように【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるを作成目的に編纂された律令国家に歯向かう反逆の歴史書であった。
 この事実は――正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』が多数の記事で「舎人親王を頭領とする伊耶那美命崇拝派の皇族・貴族・万葉歌人たちが、対立する天照大神崇拝派の面々を排除して『記』『紀』を編纂した」と伝えている。言いかえると、『続日本紀』に記述された舎人親王(676735)に関する記事を抜粋して舎人親王の一生を再現すると、舎人親王は皇祖天照大神の聖性をいちじるしく汚す【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えようとした日本史上に稀(まれ)にみる反逆児であったことが明らかとなる。ところが、学者たちは『続日本紀』はじめ幾つかの舎人親王についてのさまざまな資料によって知ることができる舎人親王の一生についてまったく調査・研究をおこなっていない。
 だから、学者たちの誰一人も舎人親王の一生についてまったく知っていないため、今日、『古事記』と『日本書紀』は律令国家によって編纂されたと思い込まれている。

◆このブログの3回にて、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の記事を詳細に説明して現代語に訳したように「わが国は後期縄文時代初頭、【原初漢字・夏音文字】」を習得し、この夏音文字を習得したときに【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】も知得した。
 「わが国は後期縄文時代に夏音文字を習得した」事実についてまったく知っていない考古技術者たちは、『記』『紀』に見える「この古墳は某天皇の陵墓」といった記述はしばしば考古術の成果と矛盾するゆえ、彼らは「『記』『紀』には強引なこじつけが多く含まれている」と主張する。
 しかし、考古技術者たちは(1)「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思い込む空論が原因で、(2)吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない空理空論に憑()りつかれ、さらに(3)反逆の歴史書『古事記』と『日本書紀』の編纂の主宰者(しょさいしゃ)であった舎人親王の一生についてまったく知っていない。
 このように考古技術者たちは空論に空論を重ねその上にさらに無知を重ねるため、「『記』『紀』に記述された天皇の陵墓の記述は強引にこじつけたもので誤っている」と主張する。
 しかし、考古術の研究は上記した(1)(2)の空論と(3)の無知によって、強引にこじつけた非科学な主観的偏見の要素が濃い産物である。このように自分たちの研究成果は空論と無知が加わって成立するものである事実にまったく気づいていない考古技術者たちは「『記』『紀』の天皇陵の記事は矛盾する」と指摘するが、自分たちの研究成果にも矛盾点と空理空論と非科学的な意見が存在する事実を棚にあげる。
 だから、考古術の天皇の陵墓に関する研究成果を全面的に信用してはならない。

◆上記した「考古術」を「考古学」と改めて、これまで説明・証明してきた事柄をまとめると、次のごとくなる。
1〕わが国は後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得したことは事実であった。ゆえに、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する意見は空理空論となる。
2〕『魏志倭人伝』は明確に「倭女王卑弥呼は邪馬壱国・山陰出雲地方に居住した」と記述する。ゆにえ、考古学が論争を決着することになると自慢する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は全なる誤読の空理空論であったことになる。
3〕考古学は「『古事記』と『日本書紀』は8世紀の律令国家によって編纂された」と主張するが、『古事記』と『日本書紀』は皇祖・天照大神の聖性を汚すゆえ後世に伝えてはならないと禁止する律令国家に歯向かって【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を記述した歴史書であった。ゆえに、考古学の『記』『紀』に対する意見もまた空理空論である。
 第一、「『古事記』は8世紀の律令国家によって編纂された書物」であるならば、どうして元明天皇は献呈して正史にしなかったのか、この点が意味不明となって矛盾し不合理となる。『日本書紀』は『古事記』献呈拒否に懲りて【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】が曖昧模糊(あいまいもこ)となり【天照大神が徇葬儀式を陣頭指揮した事績】を省略した、編纂スタッフの作成目的と動機がかなえられない失敗作品となったゆえ、律令国家にとっては「好都合の書物」となったゆえ正史となったのである。
4〕考古学の研究成果だと「『記』『紀』の天皇の陵墓(古墳)の記述は矛盾し、強引なこじつけが多く含まれている」ということになる。しかし、考古学は上記した〔1〕〔2〕〔3〕の空理空論にのっとって『記』『紀』の天皇陵の記事には誤記が含まれると指摘する。だから、考古学の成果には〔1〕〔2〕〔3〕の虚妄と迷妄とが含まれていることになるので、考古学の研究成果は全面的に信頼できない。したがって、『記』『紀』の天皇陵の記述と考古学の研究成果に合致しない『記』『紀』の天皇陵の記事は必ずしもすべて誤っているとは言えない。

 だから、わが国の考古学は上記した〔1〕から〔4〕までの【空理空論・非科学・主観的偏見】に支配されて「学問」の体(てい)を成していないものであるゆえ――このブログの冒頭で指摘したように、わが国には「考古学」と呼ぶことができる学問は存在せず、[]が欠けた「考古術」ならば存在することになる。 

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2020年12月22日 (火)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・10

▼現在、わが国の古代史学においては――何百のウソを主張した米国の大統領のトランプ現象で満ち満ちあふれている
 日本古代史学においては、学者たちがつくウソが真実の歴史よりも勝る
 その証拠に、『魏志倭人伝』の研究において、虚妄が真実よりも優る
 学者たちが扇動する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は、この国を根本・根底から崩壊させる最悪のデタラメ・ウソ百まんだらのトランプ発言である
 だから、ウソつき学者たちが主張する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説を日本中に拡散する朝日新聞とNHKテレビの歴史秘話ヒストリアもまた、日本国を根本・根底から崩壊させるウソつきメディアである 

★「倭人国の地理学」のトリセツ・6

 

◆このブログは6回~9回までで、詳細に証明したように――頭脳がとびぬけて優秀で、学者たちが“日本古代史上最高の政治家”と称賛し、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有し、偉大な多数の事績を残した天皇に次ぐ高位であった摂政(せっしょう)の、当然、天皇になれたはずであった聖徳太子(573621)がなぜ天皇になれなかったか――この原因は、仏教を興隆(こうりゅう)させるために、太子はわが国に保存されていた【紀元前3000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】を虚妄であると蔑視したからである。
 「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文は――聖徳太子が妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮(こけ)にして、唯仏のみ真なり」と語った―と伝えている。仏教用語の「虚仮」は「虚妄」「偽り」を意味したが、転じて「人を馬鹿にする語」となった。ゆえに、太子は「世間の真実と思い込む【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は虚仮・虚妄・偽りであり、ただ仏の教えのみが真実である」と主張して、世間の評判に反発した。しかし、世間は「太子は無能だ! 天皇になれる資格がない! 太子の主張こそが虚仮・デタラメだ!」と虚仮にして馬鹿にした。
 このように、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は最大・最高・最強・最良の真実であった。

 【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】が無かったならば、後世に真実の歴史はもちろん、インドから起源した仏教も中国でもわが国でも漢字(文字)が無かったゆえ求得(きゅうとく)できなかった。この道理が太子はまったくわかっていないゆえ、世間は太子を「能無し! ただ【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】のみが真なり」と酷評して切り捨てたのである。

◆聖徳太子が天皇になれなかった原因が明確に示すように――【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は、中国とわが日本国の根本となる最大・最高・最強・最良の真実であった。
 この最高・最良の真実の【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にもとづいて、『魏志倭人伝』は成立する。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って全記事が事実のみを説明している完璧な文献であった。
 したがって、その完璧な出来ばえであったゆえに『魏志倭人伝』に1ヵ所でも【誤読=文献批判】はじめ【記事の歪曲】や【記事の排除・無視】などを加えたならば直(ただ)ちに、その意見は空理空論となる。
 吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』に【多数の誤読=文献批判】はじめ【幾つかの記事の歪曲】を加えて、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を排除・無視する。したがって、両説は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法は、わが国には保存されていなかった】と断言するゆえ、『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない日本歴史学における最大・最悪の空理空論となった。

◆現在、定説となる日本神話虚構説もまた【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法は、わが国には保存されていなかった】と断言する。だから、現在は、定説・日本神話虚構説の空理空論が原因で、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された歴史はまったく解明されていない。
 織田信長と徳川家康は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学識】を有していた。ゆえに、二人は『古事記』上巻と日本書紀神代紀が説明する、【倉頡がつかえた黄帝の土徳をあらわす「黄竜」と密接に関係する日本国誕生史】に精通していた。
 信長が使用した有名な印判に彫られていた「天下布武」という語は【黄帝の天下平定の討伐】をあらわしていた。
 家康が死去する一年前(1615)に制定した「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文も【倉頡が発明した漢字原理と作成方法】と密接に関係した。というのも、この文は「天子諸芸能において、第一番目に大事なのは皇室が天武天皇以後に“皇祖・天照大神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)”と定めて今日まで保存してきました【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】です。しかし、皇室は皇祖・天照大神の聖性が汚されると心配して、『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に絶対に伝えてはならないと、長いあいだ禁止しつづけてきました。しかしながら、この対策が災いして、浅学菲才な学者たちの迷妄や比叡山の僧侶たちの虚妄などの伝統によって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】と【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は共に歴史的事実ではなかったという虚妄・誤解が世間を支配するようになって、いまや消滅して失われる危機的な状況にあります。ですから、この危機的状況から脱出するために、この際【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を復興して、この国の根本を成す重大な【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】を存続させる必要があります」と、朝廷を説得するものであったのである。だから、この文は、家康が一生を賭けた胸の奥に秘めた【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】の復興への情熱、つまり熱き心願をあらわしていた。

◆現在の学者たちは「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思い込む。このため、信長と家康が正しく解釈できた【1】『魏志倭人伝』、【2】「古事記上巻 幷せて序」(『古事記』上巻の序)、【3】『隋書』倭国伝に記述された聖徳太子が天皇になれなかった原因記事が「わが国は後期縄文時代初頭(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)に夏音文字を習得する時に、倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法をも習得した」と説明する記事を読解することができないため排除・無視する。
 だから、現在、学者たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を伝える諸文献の記事を【誤読】を用いて徹底的に排除して「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。これゆえ、【わが国は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の学識を習得して保存した史実】を知っている学者は、現在、一人もいない。


◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』に登場する倭の使者の一人の名を前者では「掖邪拘」、後者では「掖邪狗」と記すゆえ、前者に用いられる[拘]か後者に用いられる[狗]のどちらかが誤記となる。また、「その道里を計るに会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。この「東治県」は「東冶(とうや)県」であり、現在の福建省福州市であったと指摘されている。さらに、現存する『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の注が計56字あり、このうち一ヵ所で「誤字がある」と指摘する。
 したがって、1983字に裴松之の56字が加わって合計2009字で構成される『魏志倭人伝』は「二千字のうち、三字の誤字がある」ということになる。「千三(せんみ)つ」という日本語は「ほんとうのことは千のうちわずか三つぐらいの意」から「うそつき」・「詐欺師」を意味する。
 約二千字のうち誤字が三字ある『魏志倭人伝』は「わが国に【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法があった】と証言する貴重な史料であり、全記事が正しく一ヵ所も誤りがない奇跡の文献である。
 このような『魏志倭人伝』に対して、邪馬台国説学者たちは「わが国には【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は存在しなかった」と断定し、しかも邪馬台国説は二千字の『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も合致しない。
 だから、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は「千三つ」以上の「大うそつき」ということになる。その証拠に、聖徳太子は「【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の学術】は存在する」と認めて排除したが――吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説は「【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は存在しない」と全面否定するゆえ、両説をとなえる学者たちは聖徳太子よりもさらに上回るウソつきである。だから、世間から「大馬鹿野郎!」「大うそつき!」「詐欺師」と虚仮にされ蔑視されても文句はいえない。
 以上からして――ひたすら【誤読】を駆使(くし)してデッチあげた吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の虚偽と詐欺を日本中にまきちらす朝日新聞とNHKテレビの歴史秘話ヒストリアは日本国を根本・根底から崩壊させる勢力であるからして、聖徳太子の時代と同様に世間は「無能だ! くだばれ! ウソつきメディア!」と虚仮にして愚弄してよいことになる。

◆【1】『魏志倭人伝』と、【2】「古事記上巻 幷せて序」(『古事記』上巻の序)と、【3】『隋書』倭国伝に記述された聖徳太子が天皇になれなかった原因記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、言いかえると中国の夏初頭に、“夏の始祖”の禹帝(うてい)の後を継いだ益帝(えきてい)の孫の王子と青年たちが日本列島に定住して夏音文字を広めた。この夏音文字によって紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの易占(うらない)に用いられた記号の結縄(けつじょう)と紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が考案した原初漢字の刻木(中国では「書契」と呼称する)をも習得した」と説明するものであった。
 上記したように、『魏志倭人伝』の全記事は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則って成立する、【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えることができない完璧な文献であった。そして、下記に示す記事は明確に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を説明する記事であった。ただし、この記事には振り仮名を表示していない。

(1)
 その俗、挙事行来に云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如し――という、「令亀の法」の記事
(2)
 女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣
り、また、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ――という、「倭の差錯文字」の記事

 上記の(1)「令亀の法」つまり「倭の卜占に用いられた文字は、亀の甲羅に文字を刻んだ殷代(いんだい)後半に用いられた甲骨文字のような原初漢字であった」という記事と、(2)「倭の差錯文字」つまり「倭の小国・伊都国の港では、魏の都の洛陽(京都)と魏王朝の出張政庁が所在した朝鮮半島のソウル付近の帯方郡と諸韓国(朝鮮半島)で使用されていた楷書と差錯(相違)する倭の原初漢字」の記事は、【わが国における倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得と保存】を、具体的に説明している。
 だから、『魏志倭人伝』においては――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に直接つながる・上記した(1)(2)の記事のほうが、卑弥呼が居住した王国所在地よりも数段も重大な学術テーマであった。
 つまり、学者たちは「『魏志倭人伝』と言えば邪馬台国の所在地である」と世間を欺(あざむ)き、【誤読】を駆使して『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しないデタラメの邪馬台国説を「ほんとうの話である」と主張して騙(だま)そうとしている。

▼同志社大学名誉教授・考古学者の森浩一氏は――奈良時代に創られた漢風の諡号(しごう)は古墳時代にはなかった。ゆえに、古墳に「仁徳天皇陵」と表記するのはおかしい。したがって、地名を利用して「大山(だいせん)古墳」と呼ぶべきである――と主張した。ゆえに、現在、「仁徳天皇陵」を「大山古墳」という表記こそが正しく定説とすべきであるという主張にもとづき、「大山古墳」と表記する教科書もある。
 しかし、わが国には後期縄文時代に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】
を習得し、古墳時代以前の3世紀(卑弥呼時代・中国の三国時代)には魏都・帯方郡・書韓国で用いていた楷書をも習得していた。ゆえに、森浩一教授の「大山古墳説」は空理空論であった。
 『古事記』下巻冒頭の仁徳天皇紀には「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我()が国見れば 淡島 淤能碁呂島(おのごろしま) あぢまさの 島も見ゆ 佐気都島(さけつしま)見ゆ」と仁徳天皇が作った和歌が記載されている。
 この和歌に登場する「淤能碁呂島」は、『古事記』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭の淤能碁呂島聖婚説話に登場する「淤能碁呂島」である。この「淤能碁呂」の4字に、『古事記』は「淤自()り以下四字は音を以てす」という〔注〕を付ける。したがって、仁徳天皇が詠んだ長歌に登場する「淤能碁呂」の4字は夏音文字であった。
 森浩一教授は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『隋書』倭国伝が説明する【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得記事】を読解ですることができずに【誤読】した。これゆえ、「わが国には夏音文字が無かった」と思い込む森教授は「古墳時代時代には、もちろん、わが国には文字が無かった。だから、当時、漢風の諡号も無かった」と虚妄説・空理空論を主張したのである。

◆わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得し、この学識は現在も保存されている。
 令和元年(2019)1114日の夕方の午後6時半から開始され翌日の午前4字頃に終わった、各社テレビが一斉に放送した大嘗宮の儀(大嘗祭)は――【紀元前3000年頃の倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏音文字】とそして【230(呉の黄竜2)頃におこなわれた淤能碁呂島におけるイザナキノミコトとの結婚式にてイザナミノミコトが「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えて「五帝時代初頭の黄帝が中国を平定した恩恵・愛のごとく、小国・日本は〔愛〕を柱にして建国いたしましょう」と誓った日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であったのである。
 だから、現在までわが国は皇室の大嘗祭をもって【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は失われずに保存されて残っている。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を排除し無視する邪馬台国説と『記』『紀』における日本神話説と〔愛〕の和歌集『万葉集』の和歌の解釈や様々な意見たとえば織田信長・徳川家康に関する学者たちの意見は、すべて空理空論・虚妄・捏造・【科学】に反する出鱈目(でたらめ)である。

 したがって、このブログの冒頭で指摘したように、現在の学者たちの誰一人も【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】について知らない。これが原因で、日本古代史に関する学者たちの意見はトランプ発言で満ち満ち、古代史学においてはウソが真実に勝って蔓延(はびこ)り、この国を根本・根底から崩壊させる邪馬台国説・日本神話説が朝日新聞やNHKテレビの歴史秘話ヒストリアはじめ様々なメディアや出版界によって国中にひろがっている。

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2020年12月19日 (土)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・9

▼このブログは6回~8回までで、『隋書』倭国伝の記事となった聖徳太子が天皇になれなかった原因を詳細に解説した
 学者たちは、聖徳太子が天皇になれなかった失政を明記する『隋書』倭国伝にある「文字無し」から「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」までの記事を、「倭国には文字が無かった」と解釈する。
 しかし、この記事は――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡を太子が排除して崇仏政策を推進したため、にわかに蘇我大臣家の権勢が皇室よりも盛んとなった。ゆえに、世間は「太子は無能だ! 大王(天皇)になれる資格が無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた――と伝えていたのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・5

◆上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学者たちが断定した定説は空理空論であり――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に【原初漢字・夏音文字】を知得した。この時に【紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。
 この【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】については、【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字で説明する。【2】『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字はじめ、「古事記上巻 幷せて序」の末部でも説明している。また、【3】上記した聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝える「文字無し」かた「尤も巫覡を信ず」までの記事も説明している。さらに、【4】【紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に、わが国は夏音文字を習得したという意見】は、わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)の「わが国の漢字音」における音韻学の成果による科学的な意見にも合致する。そして、【5】「銀河」の別称は「銀漢」であるから「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と名づけたという意見にも【科学】が成立して合致する。

◆大和朝廷が起源して以来、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を強大な権勢を維持するための岩盤学問であったが――崇仏政策を推進するために聖徳太子は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】に精通した巫覡を国家と皇室が擁護する制度を廃止しようとした。しかし、この太子の方針を世間は「朝廷の権勢を一気に衰弱させる失政である。太子は無能だ! 太子は天皇になる資格は無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた。

世間が虚仮にして痛烈に酷評した聖徳太子の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を精通する巫覡の排除政策の失政によって、蘇我氏の権勢がにわかに盛んとなり推古天皇の権勢は一気に衰弱した。このため、推古天皇は後継者を定めることができず死去した。これによって、馬子の子で、ときの大臣蝦夷(えみし)の権勢はさらに盛んとなった。
 当時、天皇を継承する皇族に田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人がいた。田村皇子は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は聖徳太子の子であった。
 大臣蝦夷は、田村皇子を天皇に即位すると決めていた。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村皇子と山背大兄王のどちらを天皇に選ぶかについて意向をたずね、全員の一致が得られないと知ると、反対派のおじ境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ちとり反対派を沈黙させ、田村(たむら)皇子を629年に即位させた。
これが、33代推古天皇の後を継いだ34代舒明(じょめい)天皇である。
 蝦夷と子の入鹿(いるか)は舒明天皇を武力で威圧して見下し、皇后の宝(たから)皇女と入鹿はあたかも情を交わす仲のごとく卑劣な噂を立てて舒明天皇を悩ませた。また、壮大な馬子の墓の築造工事を開始して、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁する蘇我大臣家の家督者こそが天皇に最もふさわしいと誇示した。飛鳥の島之荘(しまのしょう)に築造された全長18.7mのわが国における最大級の規模をもつ横穴式石室の巨石が露出する特別史跡・石舞台(いしぶたい)古墳は626(推古天皇34)に桃原(ももはら)に葬られた馬子の墓といわれる。
 横暴な蝦夷・入鹿父子に侮られる苦悩の日々を送った舒明天皇は、641年に崩御した。翌642年、蝦夷は舒明天皇の皇后の宝皇女を即位させた。これが、第35代皇極(こうぎょく)天皇である。
 643106日、蝦夷は大臣の位を子の入鹿(いるか)にゆずった。翌月111日、入鹿は兵をつかわせて山背大兄王一家を襲撃して皆殺しにした。このように、入鹿は父蝦夷以上に横暴であったゆえ、人々は彼を畏怖(いふ)した。また、入鹿は舒明天皇死後も依然として皇極天皇と情を結んでいるかのごとくふるまって権勢を大きく見せかけたにちがいなく、皇極女帝は屈辱と我慢の日々を送ることになったと推測される。

◆『万葉集』3番の長歌には「天皇、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)する時に時に、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連老(はしひとのむらじおゆ)に献(たてまつ)らしむる歌」という題詞がついている。この題詞に登場する「天皇」は「舒明天皇」である。ゆえに、3番の題詞は「舒明天皇、宇智の野で狩りをなされた時に、舒明天皇の御子息の中大兄(なかのおおえの)皇子が間人連老に献らした歌」であったことになる。
 『万葉集』4番は、3番の長歌の反歌(はんか)である。
 3番の長歌と4番の反歌は、その詠まれている内容からして「蝦夷・入鹿父子を憎悪して草深い宇智の野原(現在の奈良県五條市の野)で、お父上(舒明天皇)は馬に乗って朝狩りと夕狩りに励み、蘇我父子への怨み・憎悪をはらさんとして弓の稽古に明け暮れています」と、間人連老が中大兄皇子に報告した和歌であったことになる。
 『万葉集』5番の長歌には「讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」という題詞がつく。ゆえに、5番は「舒明天皇が讃岐国の安益郡(香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)に行幸した時に、小国・日本国の軍王であったイザナキノミコト(後の9代開化天皇/『魏志倭人伝』の末部に登場する載斯烏越・そしあお)が倭女王卑弥呼と素より不和であった狗奴(くな)(山陽の吉備地方)を討伐した時に、本陣をかまえた飯野山(いいのやま)の山を見て作った歌」であったことになる。
 この5番の長歌で、舒明天皇は「霞(かす)み立つ長い春の一日がいつ暮れたかわからないがごとく、皇后の宝皇女と蘇我入鹿とが情を通じているというウワサは真実なのかそれとも単なるウワサだかはっきりしない状態に悶々として心が痛み、蘇我大臣家の権力へなびく皇后を離縁しようと悩む今日このごろである。このような、鵺(ぬえ)の鳥の声のごとく暗く悲嘆にくれる状況を断ち切るために、皇后に行幸の行く先を告げないで、ひとり決心して旅に出ることにした。言葉にも出すにも畏(おそ)れおおい狗奴国討伐を指揮した軍王イザナキノミコト・載斯烏越の所縁(ゆかり)の安益郡の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、軍王が本陣を設営した讃岐富士・飯野山から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖(そで)を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまをみていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、つい離縁しようとした妻が愛しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。網の浦の乙女たちが焼く灼熱(しゃくねつ)の塩の熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間(はざま)で苦悶するわが心よ」と表現している。

 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌には「岡本天皇の御製(みうた)一首 幷せて短歌」と題詞がつく。34代舒明天皇と皇后・宝皇女(35代皇極天皇・37代斉明天皇)の二人が「岡本天皇」と呼ばれた。歌の内容からして岡本天皇は皇后の宝皇女であったことになるゆえ、485番・486番・487番の三首は宝皇女が作ったことになる。
 宝皇女は485番の短歌で、次のように表現している。
 「神代の壱与(いよ/夏音文字の名称)が倭女王に即位する以前――イザナミノミコトが小国・日本の女王に就任して淤能碁呂島(おのごろしま)でイザナキノミコトと結婚した時に『日本国の建国理念は〔愛〕にしましょう』と高らかに唱え、イザナミノミコトの死後に日本の軍王・載斯烏越(そしあお/夏音文字の名称)・イザナキノミコトが開化天皇に即位してイザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこなった。このため国民はこの世に多数満ち満ちて、【日本建国の〔愛〕の理念】をまもる人民たちは空一面をおおって飛翔する味鴨(あじかも)の大群のごとくわたくしの目の前を通りすぎますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと入鹿の仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたくしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。」(485)
 次の486番の短歌では、下記のごとく表現している。
 「山の端()に、味鴨の大群が愛むつまじく鳴きさわいで飛んでいきますが、この味鴨の大群を見ていると、わたくしは寂しくてなりません。あなたはわたくしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたくしを抱いてくれませんもの……」(486)
 次の487番の和歌に登場する「鳥籠(とこ)の山」は「琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)」であり、また「不知哉(いさや)川」は「現在の滋賀県彦根市の南限となる愛知川(えちがわ)」である。愛知川の河口()と沖島(西)の中間を、『日本書紀』が「イザナミノミコトが葬られた地」と記述する花の窟(いわや)神社と同経度線(東経136度線)が貫通する。愛知川河口・沖島の東方には、『古事記』が「イザナキノ大神は淡海(近江)の多賀(たが)に坐すなり」と記す、イザナキノミコトの墓であった多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)が鎮座する。ゆえに、舒明天皇と宝皇女が生存した7世紀においては〈沖島(鳥籠の山)と愛知川(不知哉川)と多賀大社が所在する地域〉は〈イザナミノミコトが唱えイザナキノミコトが遺志を継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす地霊を呼び興(おこ)す地〉、すなわち〈イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史の秘密を知ることができる聖地〉であった。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】の[]に【日本国誕生史の秘密を知ることができる】の[]が加わって、彦根市の南限となる川の名は夏音文字の字音で「愛知川(えちがわ)」と呼ばれることになったのである。
 したがって、次の487番の和歌では、下記のごとく表現している。
 「近江路(滋賀県)の琵琶湖に浮かぶ鳥籠の山(沖島)の東方を流れる不知哉川(愛知川)、この川の名が“知らない(不知)”と示すように、わたくしの心を知ろうとせずにわたくしを疑ってわたくしの言葉を信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたくしのことを恋しく思っていてくださるのでしょうか。」(487)

◆なお、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵はイザナキノミコトが死去した時に築造された陵墓ではない。墳墓規模等から、9代開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭頃に築造されたと推定されている。ゆえに、3世紀半ば頃に死去したイザナキノミコトの墓は多賀大社であった。開化天皇陵は、おそらく230年~260年頃に生存していた英雄イザナキノミコトを讃えて5世紀末から6世紀初頭頃に築造された古墳ということになる。
 『古事記』中巻の崇神(すじん)天皇紀の〔建波邇王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の条で、10代崇神天皇は9代開化天皇・イザナキノミコトが崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚してイザナキノミコトの第二后となったゆえ養子(父は8代孝元天皇)にして異母弟であったと説明する。
 イザナキノミコトの養子であった10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命はイザナミノミコトが唱え、イザナキノミコトが受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。これゆえ、『日本書紀』崇神天皇紀の〔疫病の流行〕の条は「崇神天皇は天照大神を崇拝して祭り、【日本建国の〔愛〕の理念】を「日本大国魂神」と名づけて憎悪し呪(のろ)って霊力を衰弱させて祭らなかった」と記述する。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して呪った崇神天皇母子は「天照大神」という異名で呼ばれることになった。崇神天皇はイザナキノミコトに天下を譲られたにもかかわらず、恩知らずの崇神帝・天照大神は養父・イザナキノミコト・開化天皇の陵墓を築造しなかった。ゆえに、イザナキノミコト・開化天皇の墓は愛妻・イザナミノミコトと結婚した淤能碁呂島と所縁(ゆかり)が深い多賀大社に所在することになったのである。

◆以上のごとく、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)時代(629年~6456月まで)は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを朝廷が擁護する制度を聖徳太子が廃止しようとしたが原因で、一気に皇室の権勢が衰え蘇我大臣家の権勢が盛んとなり、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁護する蘇我大臣家の横暴に悩まされて皇室が天下を奪われて滅亡しかねない危機的状況に陥(おちい)っていたことになる。

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子の大失敗によって天下を治めることができる権勢の岩盤学問であった【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を手に入れた蘇我大臣家は皇室に代わって天下を治める野心を抱いて横暴になったのである。
 しかし、蘇我家の天下取りは失敗して、舒明天皇と宝皇女の子の中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる、上記した乙巳の変にて蘇我家は滅ぼされ、大化の改新が断行された。改新の断行によって、律令制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。
 中大兄皇子は38代天智(てんじ)天皇に即位した。天智天皇の死は、天智帝の子の大友(おおとも)皇子と舒明帝と宝皇女の子にして天智帝の弟・大海人(おおあま)皇子との対立が決定的となり、壬申(じんしん)の乱となった。

◆乱に勝利した大海人は浄御原(きよみはら)宮で即位し40代天武(てんむ)天皇となった。天武天皇は強大な権力をにぎって、天皇の権力の絶大化をはかった。これゆえ、天武天皇は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を最も重視して大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命母子)を皇室が最も崇拝する先祖の皇祖(こうそ)とする方針を示した。
 天武天皇の没後の690(持統天皇4)、天武帝の遺志を継いだ41代持統(じとう)天皇は伊勢神宮の20年ごとの式年造替という制度を起源させた。壮大な伊勢神宮を創建し、そして天照大神を伊勢神宮で恒常的に祀ったのは持統上皇・42代文武(もんむ)天皇の時代の698(文武天皇2)であった。
 天武天皇と持統天皇は――イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史によって、天照大神が多数の奴婢(ぬひ)を殺してイザナミノミコトの墓に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した歴史が語られることになって天照大神の聖性がいちじるしく汚されるゆえ、イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を絶対に後世に伝えてはならないと禁止して、――天照大神を皇統の聖性を表象(ひょうしょう)する至上神と定めて、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を抹殺するために伊勢神宮を創建することにしたのである。
 だから、『古事記』編纂スタッフは【銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)と定めた倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】でイザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を後世に伝えることにしたのである。
 ゆえに、この策略を真っ先に伝えるために『古事記』上巻の序は「古事記上巻 幷せて序」という名称となった。この「古事記上巻 幷せて序」の文を作ることになった太安万侶は、その冒頭34字で「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象いまだ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首をなす」という文を作って、このブログの3回で詳細に解説して現代語訳したように、要するに「上巻の〔音〕という注がつく夏音文字と夏音文字を表記する楷書も共に【夏音文字を取得した時に一緒に習得した倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法に則(のっと)る銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)】であるからして、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】をはじめ上古史の真相が解明できる」と警告(けいこく)して、『古事記』上巻の歴史解明方法を説明した。
 だから、「古事記上巻 幷せて序」冒頭文の「参神造化の首をなす」の後につづく11字は「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文という文をもって、「陰のイザナミノミコトと陽のイザナキノミコトがわが国のすべてのものの生みの親である」と記述して、「天武天皇・持統天皇が皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すゆえ、後世に絶対に伝えてはならぬと厳重に禁止する【日本建国の【愛】の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるために『古事記』を作成した」と――『古事記』作成目的を伝えている。

◆現在の定説・日本神話虚構説は――『古事記』上巻に登場する天照大神は雲の上の天空・高天原に住んでいたと断定する。しかし、『古事記』は――天照大神は10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であり、天照大御神は「高天原」つまり「大和国」に居住していたと歴史を伝えていたのである。現在の学者たちが主張する定説だと『古事記』上巻における神聖なる至上神は天照大神ということになる。しかし、『古事記』上巻のイザナキノミコトの黄泉国(よみのくに)訪問説話は――イザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した倭女王の天照大神・伊迦賀色許売命はイザナミノミコトの墓の玄室に多数の奴婢の死体=八雷神(やくさのいかづちのかみ)を納めるため、多数の奴婢を殺す徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した――と歴史を伝えている。したがって、『古事記』上巻は天照大神を神聖な最高神と絶賛するものではなく、天照大神は残虐非道な徇葬を決行した歴史を伝えていたのである。
 だから、学者たちの定説の日本神話虚構説は「古事記上巻 幷せて序」に記述された歴史解明方法を読解できないため、太安万侶が説明する歴史解明方法を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【誤読の産物の空理空論】であったのである。
 「古事記上巻 幷せて序」に記述されたとおり、『古事記』の作成目的は【イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史、つまり日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることであった。
 『古事記』上巻・日本神話は【銀河文字】をもって解明する歴史書であったのである。

◆以上からして、このブログが前回(8)まで詳細に解説・証明したように、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の実体は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を【誤読】を駆使(くし)して成立させた空理空論であった。したがって、世間が聖徳太子を虚仮(こけ)にしたと同様に、正真正銘の空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説に対して日本国民は「無能! 役立たず」と言って怒りを爆発すべきことになる。
 また、無能・役立たずの両説を「いちばん正しい」と賞賛して虚妄(デタラメ)をまき散らして日本国民を洗脳しようとするNHKテレビと朝日新聞に対して“ウソつき! 邪馬台国説は誤読の空理空論だ!”と怒りを爆発すべきことになる。

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フェイク&まぼろしの邪馬台国・8

▼NHKテレビの歴史秘話ヒストリはじめ朝日新聞が「いちばん正しい」と太鼓判をおして推奨する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の二つの意見は、日本学問史上における最大に悪質な空理空論である
 というのも、邪馬台国説を立論する文献史料『魏志倭人伝』は約2000字で構成されるが、そのうちの約55パーセント・約1100字の記事は【今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・作成方法と、今から約4000年前の後期縄文時代初頭にわが国が習得した夏音文字の学識】について説明しているからである。
 だから、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説の実体は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を抹殺・無視して捏造(ねつぞう)した、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係な、正当な理由・根拠がゼロの完全なる空理空論である!

★「倭人国の地理学」のトリセツ・4

◆このブログの3回で解説した内容を要約すると――(1)『魏志倭人伝』冒頭の11字の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文と、(2)『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)冒頭の34字の「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。それ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象いまだ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)をなす」という、この二つの文は共に「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国から“夏の始祖”禹()帝の後を継いだ益(えき)帝の孫・王子と若者たちが日本列島に定住して夏音(かおん)文字を普及(ふきゅう)させた。この夏音文字を習得した時、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成原理と作成方法】をも取得した」と説明するものであった。

◆ゆえに、前々回(6)と前回(7)のブログで解説したように――『隋書』倭国伝に下記に示した「文字無し」という文から始まる記事に登場する「唯(ただ)刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ」という文は、「夏音文字を習得したときに、五帝時代に用いられた原初漢字の刻木(中国では「書契」と称した)と紀元前4000年頃から始まる三皇時代の易卜(うらない)に用いた記号の結縄をも習得した。ゆえに、現在(7世紀初頭の推古天皇時代)、わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏代(かだい)初頭の夏音文字が保存されていた」と、遣隋使は隋王朝に説明していたことになる。
 遣隋使が「わが国に、三皇時代の易卜に用いる記号の結縄と五帝時代の原初漢字・刻木と夏代初頭の原初漢字・夏音文字」と説明した『隋書』倭国伝の記事は次のごとくである。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 前回(7)のブログにて現代語に訳したとおり、上記の文は末尾の「尤も巫覡を信ず」という文から前へ前へと解釈すると、次のごとく内容が明瞭となる。
 「倭国では、巫女(みこ)と覡(げき/神官)が成し遂げた業績は尤(もっと)も当然至極(とうぜんしごく)最大・最高に偉大なる功績であるとたたえられた。ゆえに、世間は巫覡を摂政の聖徳太子よりも最も信頼して尊重した。巫覡たちは中国の卜筮(うらない)を知ろうとして、朝鮮半島の百済から輸入(求得)した仏経(仏教の経典)の解読に挑戦して成功した。この仏経には、隋で開発された最新の漢字である楷書はじめ、隋代以前の中国で作られた画数が多くて至極(しごく)難しい楷書が数珠(じゅず)ならびに続く。ゆえに、仏経に用いられる楷書解読作業は最高難度の事業であった。しかし、倭国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭において夏音(かおん)文字を習得した時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が考案した刻木(中国では「書契」と称する)と紀元前4000年頃に出現した卜筮()に用いる記号であった結縄をも習得した。夏音文字が伝来した後期縄文時代初頭以来、卜筮を専門職とした巫女と覡たちは【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に精通していた。隋における最新の楷書はじめ中国で作られたすべての漢字は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に則(のっと)って作られたゆえ、この学識に精通する巫女と覡は【仏経に用いられた楷書の解読という偉業】を成し遂げることができた。ゆえに、倭国には隋で作られた最新の文字(楷書)は無かったが、巫覡の偉業によって隋の文字(楷書)をいちはやく習得した。だから、倭国には隋で作られた最新の楷書が存在することになった。」

▼『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ピミカ」と読むと、中国に現存する最古の漢字音「上古音」の字音となる。中国の上古音は紀元前1040年頃の周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される夏音文字は中国で現存する最古(周代初頭)の上古音よりも約1000年前の漢字音である。したがって、わが国に残っている夏音文字の字音が現存する最古の漢字音となる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目で、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 現在、「わが国に最初に漢字が伝来したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となる。しかし、この定説だと――わが国に現存する最古の漢字音は、中国の現存する上古音のおける終末期・2世紀頃の後漢後期よりも新しい漢字音となる。だから、学者たちが主張する定説は、【科学】が成立せず明らかに虚妄(きょもう)である。
 しかし、『魏志倭人伝』冒頭の11字と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)冒頭の34字、そして前記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事が伝えるわが国が習得した原初漢字・夏音文字の字音は――上記した白川静著『字統』が指摘しているとおり、中国の最古の漢字音より約1000年前の漢字音ということになり、【科学】が成立して事実となる。
 その証拠に――『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて、多数の夏音文字が記載されているゆえ、実際に夏音文字は存在する。
 だから、学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説は【科学】が成立しない完全なるデタラメであった。

◆『隋書』倭国伝にも、「阿毎(アメ)」、「多利思比孤(タリシヒコ)」、「阿輩鶏弥(オホキミ?)」、「利歌弥多弗利(ワカミトホリ?)」などの夏音文字が記載されている。
 したがって、前記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの文中における最初の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は「隋で用いられた最新の漢字である楷書は無い。しかし、五帝時代の刻木と三皇時代の結縄ならば有る」と解釈しなければならない。
 【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は、朝廷が強大な権勢を維持するための不可欠な学識であった。したがって、わが国において国家と王朝が充実して次第に成長すると、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を反体制側が習得して革命に利用されて朝廷が滅亡しないように用心されることになったゆえ、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫女と覡は国家体制に組み入られるようになった。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は国家と朝廷が独占管理して厳重に機密が保持された。
 このような事情があったゆえ、32代崇峻(すしゅん)天皇・33代推古(すい)天皇王朝にあっては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通した巫覡たちは、当然、朝廷に擁護されていたことになる。
 594(推古天皇2)、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に、積極的な仏教崇拝政策をおこなうように詔(しょう)した。この崇仏(すうぶつ)政策を推進するにあたって、摂政の聖徳太子は隋の崇仏政策を取り入れて最新漢字・楷書による学問を普及(ふきゅう)するためには、文字として未発達な【原初漢字の銀河文字】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に精通した巫女と覡たちはもはや必要ではないと考えた。だから、太子は、国家と朝廷が巫女と覡を擁護する制度を廃止しようとした。
 それゆえ、太子に排除された巫覡たちは大臣の蘇我馬子に擁護を頼った。巫覡たちは太子に一矢(いっし)を報いるため、仏教の経典に用いられる隋の最新漢字・楷書を解読した。
 多分、太子は仏経に用いられた隋の最新の楷書は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちにでも解読できると予想していたにちがいない。しかし、仏経に用いられる楷書の解読は【銀河文字の学識】を有する皇族や貴族たちには成し遂げられない難事業であった。このため、蘇我大臣家に擁護される巫覡による仏経に用いられる最新漢字の楷書の解読は、皇族と貴族たちと世間が絶賛する偉業となった。
 太子の巫覡を排除する方針は一気に朝廷の権勢を弱体化させ、巫覡を擁護した蘇我大臣家は思いがけない幸運にめぐまれて権勢が盛んとなり朝廷を脅かすことになった。
 皇族と貴族はじめ世間(世論)は蘇我家が朝廷を見下して横暴になった状況を嘆き、この原因を作った太子を虚仮(こけ)・馬鹿にして、「太子は無能だ! 大王(天皇)になる資格が無い」と切り捨てたのである。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に、聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ真なり」と語ったと記されている。「虚仮」という仏教語には「馬鹿にする」という意味がなく、「虚仮」は「虚妄・偽り」を意味したゆえ、太子は「世間のわれに対する批評は虚妄・ウソだ。ただ仏のみが真実なり。われが正しい!」と言ったつもりであろうが――世間は太子を「虚仮・馬鹿!」と太子を痛烈(つうれつ)に酷評したのである。

◆聖徳太子は仏教に夢中にならずに従来の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の重大性に気づいて、旧来とおりに朝廷は巫覡たちを擁護すると明示して崇仏政策を推進すれば、世間に虚仮(こけ)にされず、巫覡による仏教の経典に用いられた最新漢字・隋の楷書の解読事業も太子の手柄となって世間に尤も信頼されることになり、蘇我大臣家の権勢も盛んにならなかった。だから、世間は「なにゆえ、巫覡たちを排除する必要があるのか? 太子の発想は朝廷の権勢を衰退させるのに決まっているのに、この道理を太子が理解していないのはまったく解せない」と世間は太子の巫覡排除の方針をあきれかえったことになる。
 聖徳太子の巫覡排除の失政はその後に大きな影響を及ぼし、33代推古天皇の後を継いだ34代舒明(じょめい)天皇から35代皇極(こうぎょく)天皇の時代(629年から6456月まで)は、皇室よりも権勢が盛んになった蘇我大臣家に見下されて皇室は滅亡の危機に陥った。
 さらに、太子の巫覡排除の失政は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を重視して大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇統の聖性を表象する至上神・皇祖に定めた律令体制を確立させることになり、この律令体制の強大な権力を重視する政治体制に歯向かい逆らって【〔愛〕を国家理念とした小国・日本の誕生史】を後世に伝える『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』が編纂されることになった。
 これらの歴史の経緯からして、『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫覡たちを聖徳太子が排除した失政を説明するものであったのである。
 だから、学者たちが主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識を習得した】と証言する諸文献の記事を誤読してデッチあげた空理空論であったことになる。

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2020年12月16日 (水)

フェイク&まぼろし邪馬台国・7

▼前回のブログ(6回)で指摘いたように、推古天皇の摂政(せっしょう/天皇に代わって政治を執る、天皇に次ぐ高位)にして、頭脳がとびぬけて優秀で、現代の学者たちが「日本古代史上の最高の政治家だった」と褒めちぎる偉人で、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有した聖徳太子(573-621)は、当然、天皇になれるはずであったにもかかわらず、太子みずからの失政によって天皇になれなかった
 この原因は『隋書(ずいしょ)』倭国伝に記述されているが、この重大な記事を、現代の学者たちは誰ひとりも正確に読解することができない


★「倭人国の地理学」のトリセツ・3

◆上記した、聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝えている『隋書』倭国伝の記事は下記のごとくである。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は末尾の「尤も巫覡を信ず」という文から、前へ前へと解釈すると意味が明瞭となる。ゆえに、末尾から先頭の文までを現代語に訳すると、次のごとくになる。
 「倭国では、巫女(みこ)と覡(げき/神官)が成し遂げた業績は尤(もっと)も当然至極(とうぜんしごく)最大・最高に偉大なる功績であるとたたえられた。ゆえに、世間は巫覡を摂政の聖徳太子よりも最も信頼して尊重した。巫覡たちは中国の卜筮(うらない)を知ろうとして、朝鮮半島の百済から輸入(求得)した仏経(仏教の経典)の解読に挑戦して成功した。この仏経(仏教の経典)は隋で開発された最新の漢字である楷書はじめ、隋代以前の中国で作られた画数が多くて至極(しごく)難しい楷書が数珠(じゅず)ならびに続く書物である。ゆえに、仏経に用いられる楷書解読事業は最高難度の作業であった。しかし、倭国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭において夏音(かおん)文字を習得した時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が考案した刻木(中国では「書契・しょけい」と称する)と紀元前4000年頃に出現した卜筮()に用いる記号であった結縄をも習得していた。夏音文字が伝来した後期縄文時代初頭以来、卜筮を専門職とした巫女と覡たちは【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に精通していた。隋における最新の楷書はじめ中国で作られたすべての漢字は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に則(のっと)って作られたゆえ、この学識に精通する巫女と覡は〈仏経に用いられた楷書の解読という偉業〉を成し遂げることができた。ゆえに、倭国には隋で作られた最新の文字(楷書)は無かったが、巫覡の偉業によって隋の文字(楷書)をいちはやく習得した。だから、倭国には隋で作られた最新の楷書が存在することになった。」

▼このブログにおける1回~3回までで詳細に解明し、また3回で『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を詳細に解説して現代語に訳したように――わが国には紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字が伝来して習得した。この夏音文字を習得した時に、三皇時代の易(卜筮)に用いた記号も結縄と五帝時代に用いた刻木(書契)と【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得したことになる。
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ピミカ」と読むと中国に1046年おいて現存する最古の漢字音「上古音」の字音となる。中国の上古音は紀元前1040年頃の周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される夏音文字は中国で現存する最古(周代初頭)の上古音よりも約1000年前の漢字音である。したがって、わが国に残っている夏音文字の字音が現存する最古の漢字音となる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目で、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられる夏音文字の字音は、現存する最古の漢字音となる。
 夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されている。
 『隋書』倭国伝にも、「阿毎(アメ)」、「多利思比孤(タリシヒコ)」、「阿輩鶏弥(オホキミ?)」、「利歌弥多弗利(ワカミトホリ?)」などの夏音文字が記載されている。したがって、上記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの文中における最初の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は「隋で用いられた最新の漢字である楷書は無い。しかし、五帝時代の刻木と三皇時代の結縄ならば有る」と解釈しなければならない。
 現代の学者たちは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を読んで「紀元前21世紀の後期縄文時代初頭、中国から夏代初頭の夏音文字がわが国に伝来して習得した」と説明していることを理解することができない。このため、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀または6世紀であった」と思い込むゆえ、夏音文字が記載されている『隋書』倭国伝にある上記した「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事を正確に理解できず誤読する。
 このため、「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事は聖徳太子が天皇になれなかった原因を説明していることに――学者たちはまったく気づかない。

◆今から約4000年前にわが国が夏音文字の学識を習得した後期縄文時代初頭以後、巫女と覡たちは【(1)卜筮()の記号に用いられた三皇時代の結縄と、(2)倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と五帝時代に作られた刻木(書契)と、(3)夏音文字の学識】にもとづいて、吉凶を占っていたことになる。
 だから、卑弥呼が国家(倭国)を創設し王朝を樹立した2世紀末~3世紀半ばの倭国における卜占の様子を、『魏志倭人伝』は「その俗、挙事行来云為する所有れば、すなわち骨を灼()きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(れいき)の法の如(ごと)し」と伝えている。
 上記の記事が示すように、『魏志倭人伝』は「行事をおこなう時・遠くの地に旅して故郷に戻ってくる時・また云為(うんい=雲為)つまり雨乞い祈祷する時に、巫覡たちは骨を灼いて吉凶を占った。(中略)。その易卜に用いる辞(文字の形)は令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとくの字形であった」と記述している。
 このブログの2回にて指摘したように――倭国の原初漢字・夏音文字は漢字を発明した倉頡が定めた【死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもったため、結縄・刻木・夏音文字を書いた資料が出土しない。つまり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は、下記のごとくである。

(1)
 漢字は銀河(天文学における通称「夏の銀河」)から作られた秘密を暴露した者とその一族全員
(2)
 文字を容易に習得するため、文字となる「夏の銀河」(文字作成銀河)各部に名称を付けた者とその一族全員
(3)
 書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族全員

 倉頡が定めた(3)の掟は、甲骨文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟を厳重にまもったため、現代の学者たちは【すべての漢字は銀河(夏の銀河)から作られた事実】に気づかない。その証拠に、中国でもわが国でも「漢字」というのは「銀漢(銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と呼称することになった――この語源の秘密について、現代の学者たちは知っていない。
 甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破っても良いことになった。これゆえ、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』等では、夏音文字は楷書で表記されることになった。
 紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡は、みずからが発明した漢字の学識が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は上に記した【死刑と定めた3つの掟】を破った人物はもちろん、この大罪を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めたのである。
 したがって、わが国において国家と王朝(朝廷)が充実して次第に強化されると、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡は国家体制になかに組み入れられるようになり、【銀河文字の学識】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は国家と朝廷が独占管理して機密を厳重に保持されることになった。

◆だから、32代崇峻(すしゅん)天皇・33代推古(すい)天皇王朝にあっては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通した巫覡たちは、朝廷が擁護していたことになる。
 594(推古天皇2)、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に「三宝(さんぼう)を興隆せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。この崇仏(すうぶつ)政策を推進するにあたって、摂政の聖徳太子は隋の崇仏政策を取り入れて最新漢字の楷書の学問を普及(ふきゅう)するためには、文字として未発達な【銀河文字】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に精通した巫女と覡たちは必要がないと考えた。だから、太子は、国家と朝廷が巫女と覡を擁護する制度を廃止しようとした。
 それゆえ、太子に排除された巫覡たちは大臣の蘇我馬子に擁護を頼ることになった。巫覡たちは太子に一矢(いっし)を報いるため、仏教の経典に用いられる隋の最新の楷書を解読した。
 多分、太子は仏経に用いられた隋の最新の楷書は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちにでも解読できると予想していたにちがいない。
 しかし、仏経に用いられる最新漢字の楷書の解読は【銀河文字の学識】を有する皇族や貴族たちに成し遂げられない難事業であった。このため、蘇我大臣家に擁護される巫覡による仏経に用いられる最新の楷書の解読は、皇族と貴族たちが絶賛する偉業となった。
 太子の巫覡を排除する方針は一気に朝廷の権勢を弱体化させ、巫覡を擁護した蘇我大臣家が棚(たな)からぼた餅ということで幸運にめぐまれて朝廷を脅かす権勢を得て盛んとなった。
 だから、皇族と貴族はじめ世間(世論)は仏経に用いられる楷書を解読した巫覡を尤(もっと)も信頼し、蘇我家の権勢がにわかに盛んとなり横暴になった状況を嘆き、太子を虚仮(こけ)にして、太子が強行した巫覡の排除は思慮に欠ける大失敗であったゆえ「無理が通れば、道理が引っ込む」と酷評したのである。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に、聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ真なり」と語ったと記されている。太子みずからが「世間に虚仮にされた」と語っているとおり、「仏教のみが真実である。旧来の【銀河文字の学識】は時代遅れと定めてきっぱりと廃し、これからは隋の最新楷書を出発点とする学術革命がなされらければならない」と自画自賛する太子の巫覡排除政策を世間は「実に、愚劣!」と酷評したが原因で、聖徳太子は天皇になれなかったのである。
 〔注 上記の「虚仮(こけ)」は仏教用語である。[]は「虚妄・虚偽」を意味し、[]は「【真実】に対して実体のないこと」を意味した。ゆえに、太子のことば「世間は虚仮にして、唯(ただ)仏のみ是()れ真なり」は「世間が賞賛する巫覡たち仏経からの楷書解読はウソで実体のない空(むな)しいものだ。ただ仏の教えだけが真実である」と訳すべきことになるかもしれない。しかし、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」という太子の言における「虚仮」には文脈からして今日の同じく「馬鹿にする。愚弄する。ナンセンス・空理空論と軽蔑する」と意味したにちがいないと考えられる。〕

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子は仏教の興隆政策の際に巫覡らを排除しようとした方針は天皇になれない大失敗、失政であった――これは確実なことであったことになる。
 
 『日本書紀』における推古天皇十五年(607)に「小野妹子(おののいもこ)を大唐()に遣わす」という記事は、『隋書』倭国伝では「大業三年(607)、その王の多利思比弧(たりしひこ)が、使を遣わして朝貢(ちょうこう)す。使者いわく『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。ゆえに遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人、来て仏法を学ぶ』と」と記述された。
 そして、上記の記事に続けて『隋書』倭国伝は「その国書にいわく『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや、云々』と。帝、これを覧()て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい/中国の外相)にいっていわく『蛮夷の書、無礼なる者あり、復()た以聞(いぶん)するなかれ』と」と記述する。
 帝つまり隋の煬帝(ようだい)が鴻臚卿(外相)に「野蛮な東夷の倭国の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(上表)するようなことは無いようにしろ」と怒った、その倭の国書の「日出ずるところの天子が、書を日没する処の天子に致す、恙はないか。云々」という文は、聖徳太子が書いた。
 煬帝は暴君であったが若いときには学問を好んで研究に励んだ。ゆえに、煬帝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】を有していた。だから、『隋書』倭国伝に「文字無し。唯刻木結縄のみ、云々」と記述されたことからして、倭国には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】があると察知し、また「煬帝」を「海西の菩薩天子」と表現したゆえ、倭の国書の「書を日没する処の天子」と記した[]の字には「生命が終える」という仏教で用いる語の意味がなく、【銀河文字の学識】にもとづいて[]の字源・原形(銀河各部の形状)・原義に則って「日が地平線の下に潜(もぐ)っても、とてつもなく強大な力で、朝になれば日が地平線上に昇って命が蘇(よみがえ)る」と解釈しなければならないことに気づいた。
 ゆえに、煬帝は倭の国書を誤訳して憤激した過ちを反省して、翌年(大業四年、推古天皇十六年・608)に、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい/裴世清)を倭国に派遣している。
 そして、隋王朝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法】に則(のっと)って新しい漢字・楷書を作成するものであった。
 ゆえに、暴君の煬帝さえもその秘密の重大性に気づいて恥じていさぎよく自らの過ち(誤解)を改めて裴清を派遣した。にもかかわらず、聖徳太子は朝廷の権勢を盛大にする原動力【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】つまり【銀河各部の形状を字源・字形・字義とする銀河文字の学識】に最も精通する巫覡たちを排斥した施策(しさく)は政事(まつりごと)の絶対法則・基本原理を疎(おろそ)かにした最悪の愚策であると世論に酷評された。
 だから、聖徳太子は天皇にはなれなかったのである。

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