漢字の起源と発明を解明す・34
卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について(2)
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬(つ)かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
◆冒頭に示した【夏の銀河】の地平線上に出現する形はドーム状に半円形である。
しかし、倉頡(そうきつ)は、このブログ冒頭のカラー写真のごとく平面化して「南を正面にして、左上に【夏の銀河の東北部】」を配置し、「右下に【夏の銀河の西南部】」を配置して、
下図の左側に示したように、倉頡は【夏の銀河の基本形として、1本の斜線」に図化(ずか)することにした。
そして、下図の左側に示したように、倉頡は「北を正面にして、右上に地理(地図)の東北部」を配置し、「左下に地理(地図)の西南部」を配置して、「地理(地図)の基本形として、1本の斜線」に図化することにした。
ゆえに、下図の左側に示したように、「【夏の銀河】の斜線と地理の斜線」は【X】字形に交わることになり――この【X】の交わりを倉頡は【文字作成理論の基本形式】と定めた。
だから、【倉頡の文字作成理論の基本形式】をあらわした【X】の図書は文字となり、下図の中央に配する【X・爻(こう)】の字源となり、また契文前期の字形(けいぶんけい・甲骨文字前期の字形)となった。
あるいは、下図の右側に配したように、上部に【X】に配し下部に「建物」をあらわす図書が加えられて文字となり、この文字は【学】の字源となり、また契文前期の字形となった。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は、【X・爻】の字を「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説する。
また、白川静著『字統』は【学】の字を「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。
さらに、白川静著『字統』は【爻】の字源解説にて、【学】について「学は一定年齢のものが隔離された生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と指摘する。
ゆえに、【爻】の【X】は「学問の起源」、つまり「【倉頡の文字作成理論】における最初に知っておくべき基本知識」となった。
だから、【学】とは「【倉頡の文字作成理論】を学ぶ施設」であった。
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、中国から大海を越えて名門益氏(えきし)の王子と若者たちが九州に上陸し、さらに北進(ほくしん)して男鹿半島・八郎潟の西の辺(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めた。
これゆえ、わが国の神社建築は屋上に【学】の起源をあらわす千木(ちぎ)がそなえつけられることになったのである。
◆現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的(けいとうてき)な合理】つまり【科学】を成立させて証明したように、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と説明しているからである。
『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依(よ)り
国邑(こくゆう)を為(な)す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
対馬国(つしまこく)と一大国(いちだこく)の北と南の記事を除(のぞ)く、【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)』(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」
上記したように、対馬国と一大国の北と南とする記事を除く、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を幾つか有する。このため、【科学】がまったく成立しない。
『魏志倭人伝』は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
下図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』が説明する対馬国と一大国の方位記事を除く、「転回日本列島像における全方位記事」は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点(むじゅんてん)もなく【科学】が成立する。
今から約300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき)がとなえて以来、多数の学者たちが主張することになった邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記された全方位記事に対して幾つかの点で矛盾し不合理となって、【科学】がまったく成立しない。
というのも、白石以来の邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちは、「『魏志倭人伝』を邪馬台国について説明する古文献である」と思い込んでいるが原因で、その意見は論理が完結(かんけつ)せず幾つかの矛盾点と不合理な点を有することになって【科学】が成立しない状況になるからである。
しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献」であったと考えれば――【倉頡の文字作成理論】から生成された【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理もなく矛盾点もなくなり【科学】が成立する仕組みになっている。
◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・33」では、下記の事柄について詳細に解説した。
『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明する。この「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同じである。
ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していることになる。
『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、伊耶那岐命・開化天皇は異母弟の皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
伊耶那岐命・開化天皇は「邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原(うなばら)」と表現して、愛妻・伊耶那美命とのあいだに生まれた息子の須佐之男命(すさのおのみこと)に分治した。
ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には天照大御神に分治した「高天原の邪馬国・大和」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在した。
したがって、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。
「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみことと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「崇神天皇・御真木入日子印恵命は天照大御神を崇拝して祭った」と記述している。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだのである。
天照大御神を崇拝して祭ったゆえ「天照大御神」と人々に異名(いみょう)で呼ばれた皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)は、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐(とうばつ)して天下を掌握(しょうあく)して、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)す強権政策(きょうけんせいさく)を決行した。
時を移りて――須佐之男命が没して、邪馬壱国・出雲地方は大国主神(おおくにぬしのかみ)が治める時代となった。
『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話〕における「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」の箇所は、
「邪馬壱国・出雲地方を治めた王の大国主神は、大和の天照大御神王朝に討伐された。討伐された大国主神は、邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷(うつ)し、天照大御・神御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを承認した」と説明する。
この承認の際、大国主神は「皇太子・御真木入日子印恵命が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめるために、壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するため、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱(みやばしら)を立て、高天原・出雲の空に千木(ちぎ)を高くそびえさせる社殿を建造してくだされば、この邪馬壱国・出雲を邪馬国・大和の天子が治めることを承認します」と誓った。
また、大国主神は天照大御神に下記のごとく誓った。
「僕(あ)は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)僕(あ)が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為(な)りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき。
上記の文を、現代語に訳すると、下記のごとくある。
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。
だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就(つ)くことができたことになる。
◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)を「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記すことである。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。
前々回と前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の32・33回で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。
【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差がある」と解説した。
前ページにて解説したように、大国主神は天照大御神・崇神天皇王朝に「天高く千木がそびえる壮大な神殿を大和王朝が築造してくださったならば、わたくし(大国主神)の後を継ぐ王たちは代々、皆(みな)、こぞって大和王朝を尊敬してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と誓ったにもかかわらず、
出雲王権の後を受け継ぐことになった不弥国・宗像大社の王一族を代表する天菩比命(あめのほひのみこと・天穂日命)は、天照大御神と大国主神との約束をまもらなかった。
天照大御神・大和の崇神天皇が大国主神との約束で出雲大社を建造したとき、祭祀(さいし)を司(つかさど)ったのは不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命一族を代表する天菩比命であった。
出雲大社の祭祀を司る天菩比命は、天照大御神と大国主神との約束にもとづいて「天照大御神の第二子」ということになったゆえ、
出雲大社の本殿では天照大御神を尊崇(そんすう)して祭らなければならないにもかかわらず、
出雲国の国造(こくそう)に就任した天菩比命は大国主神が誓った約束を守らず、出雲大社の本殿では大国主神を主神として祭った。
つまり、上記したように大国主神は「わたくしは多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」
と言って誓ったにもかかわらず――天菩比命(あめのほひのみこと)は邪馬壱国・出雲の中心地域から遠くの場所に隔離(かくり)して大国主神を祭らずに――邪馬壱国・出雲の中心地域に建造された出雲大社の主神を大国主神として祭った。
ゆえに、出雲国の国造の天菩比命は大国主神の誓いをまもらず、大和・天照大御神王朝に逆(さか)らい反抗したことになる。
だから、大和王朝は出雲王権の天菩比命に虚仮(こけ)にされ名誉を傷つけられたということで、
出雲国造の天菩比命の反抗は不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命の指図(さしず)によるものと考えたにちがいなく
天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと・後の景行天皇)が、宗像王の天菩比命を征討(せいとう)するために大和軍を率いて遠征することになった。
この「天孫邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国への遠征した様子」を、『古事記』上巻では「天孫邇邇芸命の降臨(こうりん)」と表現する。
『古事記』上巻における〔天孫邇邇芸命の説話〕は「天孫・大和の遠征軍を猿田毘古神(さるたびこのかみ)が先導(せんどう)した」と説明する。
この「猿田毘古神の先導」の箇所の冒頭は「ここに天孫日子番能邇邇芸命が天降(あも)りなされようとする(つまり、邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国へ遠征しようとした)時に、天降りの道が多くの道に分かれている所に居て、上は高天原(たかまのはら、つまり大和)を照らし、下は葦原中国あしはらのなかつくに、つまり出雲)を照らす、神がいた」と、「猿田毘古神」について説明する。
上記のごとく、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕は、容易に理解できない難しい抽象的な文をもって「天孫邇邇芸命(後の景行天皇)の不弥国の宗像王の天菩比命の討伐」について説明する。
ゆえに、「猿田毘古神の先導」の次の「天孫の降臨」の箇所では、
「天孫邇邇芸命が率いる大和軍が宗像王の天菩比命を討伐するために遠征した道程(みちのり)」を、下記のごとく説明している。
◆「故(ゆえ)、爾(ここ)に天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔らして、天之石位(あめのいはくら)を離れ、天之八重(あめのやえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天浮橋(あめのうきはし)に宇岐士摩理蘇理多々弖(うきじまりそりたたして)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐(ま)しき。」
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「ここに天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の勅命(ちょくめい)によって、天孫邇邇芸命は天の石位(いわくら)を離れ、天(あめ)の八重(やえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて・つまり、伊都国の地宜が示すようにジャコウウシの群れが毎年通う・知り分ける道をゆっくりと進むジャコウウシの姿のごとく、威風堂々と)、途中(とちゅう)、天(あめ)の浮橋(うきはし、つまり関門海峡)からさらに進んで空に浮いている島(夏の銀河に沿って並ぶ天頂緯度を測量できる天体部)に胸を張って立って測量して(つまり、お腹(なか)をぐーんと前に出して天頂の緯度をキャッチして)、筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に到着して、その頂上に登った。」
『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)の初頭記事は、「益氏の王子・天祖(てんそ)の日子能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ひこほのににぎのみこと)」について下記のごとく説明した。
「わが天神(あまつかみ)の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と天照大御神は、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けられた。そこで、天祖・益氏の王子は天のいはくらを開き、雲路(くもじ)を押し分けて、先払いを立てて地上に降臨された。」
このように、上記した『古事記』上巻の〔天孫の降臨記事〕と『日本書紀』の神武天皇紀の天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事の両者は酷似(こくじ)する。
だから、前述したように、「大和王朝は天孫・邇邇芸命を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。
司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀は、下記のごとく説明する。
「帝益(ていえき)は帝禹(ていう)の三年の喪(も)が終わると、帝位を禹の子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した。」
ゆえに、上記した『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所に登場する「筑紫の日向の高千穂(たかちほ)の久士不流多気(くしふるたけ)」は、
通説では「宮崎県西臼杵郡の高千穂」、「鹿児島県と宮崎県の境にある霧島高千穂」などと解釈されるが、
「帝益が隠棲した地の北に所在した箕山」と類似する名の「福岡県と佐賀県の県境の標高405mの基山(きざん)」であったことになる。
というのも、「箕山」と「基山」はともに「きざん」と読み、【箕】と【基】の原字(最初の文字)は共に【其】であるからである。
だから、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」は「福岡県と佐賀県の県境にある基山」であったと考えるべきことになる。
基山から東の坊住山(ぼうじゅうやま)にかけて665年に新羅(しらぎ)・唐からの侵攻(しんこう)に備えて天智天皇が築いた基肄城跡(きいじょうせき)がある。
基山は草山で県立自然公園になっている。
「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所の末部には「真来通(まきとお)る」という語が記される。
「真来通る」が「真木立(まきた)つ」ともいい、「南と北の地所が同一経度となる」と意味した。
ゆえに、上記した「基山」をあらわす「高千穂の久士布流多気」の「久士布流多気」の6字には〔音〕という注がつくが――この6字の夏音文字「久士布流多気」は言いかえると「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすものであったと考えられるゆえ、
「串触る岳」とは「南北の地所が同経度となる串(くし・経度線)が触れる(貫通する)山」であったことになる。
下図に示すように、鳥栖市(とすし)の真木(まき)・基山・宗像神社(辺津宮)の三者は共に同一の東経130度30分の串(経度線)で「真来通る」。
実は、鳥栖市の真木・基山を貫通する東経130度30分の串(経度線)は、下図に示す宗像神社の辺津宮(へつみや)に築造される本殿ではなく、その西方の奥にある高宮祭場(たかみやさいじょう)を貫通している。
つまり、基山(東経130.51023度)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349度)はほぼ同じ経度線とされ、宗像神社の辺津宮の本殿(東経130.514333度)は基山・高宮祭場の経度線から一寸の差となってわずか東寄りに位置するとされた。
高宮祭場は宗像大神の降臨の地と伝えられる。
ゆえに、下図に示す「宗像大社の高宮祭場(東経130.51349度)と、その東の辺津宮の本殿(東経130.51433度)の経度の差」が、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「地上千里にして一寸の差がある」と解説する、その「一寸の差」をあらわした。
◆前述したように、【箕】と【基】の原字は共に【其】であり、
下図の右上に配したように、【箕】と【其】の契文形は同一形である。
白川静著『字統』は【X・爻】の字を「千木のある建物」と解説する。
【学】の契文形について、白川静著『字統』は「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。
下図の左上に示したように、またこのブログの初頭の【夏の銀河のカラー写真】をもって説明したように――
【爻】の字は「〔南〕を正面にして地平線上に出現する半円形(ドーム形)の【東北部から西南部の夏の銀河】を平面化して1本の斜線」にし、
また「〔北〕を正面にして地理の東北・西南は1本の斜線に図化」して、
この「1本の斜線化した両者をX字形に交(まじ)えて【倉頡の文字作成理論の基本形式】」をあらわした。
下図の中央下に配する【其】の契文形は中央の軌道図(きどうず)が示しているように――「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度をあらわす軌道にける、地平線下に潜(もぐ)る軌道をあらわす図書」の【U】の中に【X(爻)】が加わって構成される。
古代、人々は、下図のごとく、日々【天頂緯度をキャッチ】して【命(いのち)】をまもっていた。
下図の右上に示すように、【亠(とう)】の字源は「天頂緯度線・天頂点・子午線」の三者から構成される。
下図に示すように、【亠】における「子午線は南北の経度線」に合致する。
前ページにて解説した「[箕]と[基]の原字[其]の字源解説図」にて、【其】の契文形における【U】の図書が「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度の軌道における、地平線下に潜る(もぐる)軌道」であった理由は、
「春分の日(秋分の日)の太陽は真東の地平線から登り、真西の地平線に没し、正午には天頂から真南に位置して子午線(経度線・真来通る)」を示すゆえ、結局、上図の【亠】の字のごとく「東と西を結ぶ緯度線と子午線」を示すことなったからである。
それゆえ、【U】字形に図案された「春分の日(秋分の日)の太陽の日没から翌日の日の出までの地平線下に潜る軌道」は「【景】の字源となった帝禹が発明した【地平線下に潜る夏の銀河】を地面に図化した測量方法と、帝益の先祖の益氏が発明した太陽の天球上における軌道となる黄道の測量」をあらわすことになった。
ゆえに、【周礼】が〔大司徒〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」、あるいは「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する――この「【景】の測量」は「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜(もぐ)る軌道」で表現されることになった。
だから、「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜る軌道」は【其】の字源となり――【其】の契文形の外枠(そとわく)は【U】の図書に図案されることになったのである。
ゆえに、東経130度30分の「基山」の【基】の字は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「日景を正して、以て地の中を求む」とあらわすことになった。
その証拠に、前述したように、基山(東経130.51023度)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349度)を結ぶ経度線より少し東に寄る宗像神社の辺津宮本殿(130.51433度)は、『周礼』の〔大司徒〕の【景】の「地上千里にして日景に一寸の差がある」と字源解説をあらわした。
だから、「基山」は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命」の説話に登場する「高千穂の久士布流多気(串触る岳)」であったことになる。
◆司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は「帝益は帝禹の三年の喪が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」と説明する。
この「箕山」は、「黄河口(こうがこう)、つまり黄河の河口」であったと考えられる。
下図に示すように、「黄河口の海岸線は山形(やまなり)」であるゆえ、「黄河口の海岸線」は「地平線上の軌道」に相似すると見立てられたにちがいない。
ゆえに、「黄河口の地底」は「地平線下の軌道」をあらわすと見立てられて【U】の図書に図案されることになった。
そして、「黄河の上流は西南、黄河口は東北」に在るゆえ、「【夏の銀河】の東北・西南の形式と対称形」となって【X】字形に交わる。
だから、「黄河口」は【U】の中に【X】が加わる【箕】の字源となった。
かくして「黄河口」は【其】の字源となったが、この【其】の字形が「籾殻(もみがら)を除去(じょきょ)する農具の箕(み)の形」に相似すると想像されたため、「黄河口」は「箕山」と名づけられたと考えられる。
ということは、「帝益が隠棲した、箕山の南の地」は、上図に示す「日照」であったのではなかろうか。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて詳細に解説したように――、
上図に示した山東半島北端の「石島」は「夏至の日の朝日が直(じか)に刺す処(ところ)」であり、山東半島の南端にある「日照」は「夏至の夕日照る処」であるからである。
ゆえに、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、下記のごとく説明する。
――是に詔(の)りたまはく、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故(ゆえ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と詔(の)りたまひて、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(ま)しき。
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――ここにおいて、天孫邇邇芸命は「ここは(遠くの)韓国・朝鮮半島に面し、(近くは)笠紗(かささ・つまり不弥国の津屋崎町の菅笠(すげがさ)の形に相似する地宜)の前を基山からの真来通る経度線が貫通する宗像の地域は朝日の直(じか)に刺す国、夕日の日照る国である。ゆえに、ここは実に吉なる地である」と仰せられて、地底の岩盤に太い宮柱を立て、高天原(たかまのはら)に千木(ちぎ)が高くそびえる宮殿(宗像神社の辺津宮)を建造してお住まいになった。
下図に示すように、「山東半島の付け根より南の海岸線の形」は「長江口(ちょうこうこう)が人の鼻、杭州湾が人の口」に見立てられるゆえ、「人の横顔」に類似する。
だから、「山東半島」は「頭上に被(かぶ)る笠(かさ)」に見立てられた。
「山東半島」は「カンムリカイツブリの横顔」に相似すると見立てられて【弥】の字源を示す地宜(ちぎ)となった。
【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの顔の色」は「絹の紗(うすぎぬ)のごとくキラキラと光り輝く銀白色」である。
だから、「山東半島」は「笠」に「紗」が加わる「笠紗」と表現されることになった。
「山東半島」は「韓国(朝鮮半島)」に面する。
ゆえに、上記したように、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、「ここは韓国(からくに)に向かい」と説明する。
下図に示す「津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線の地宜(ちぎ)」は、「山東半島の地宜」と同じく、【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭(顔)部」に相似すると見立てられた。
だから、「津屋崎町の海岸線より東の、基山(東経130.51023度)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349度)とを結ぶ経度線(東経130度30分)」は、
上記した「天孫邇邇芸命の降臨」の記事の末部では、「津屋崎町の地宜」が「山東半島の地宜」に類似して「カンムリカイツブリの横顔」をあらわすゆえ、「笠紗の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて」、つまり「笠紗に見立てられた津屋崎町の海岸線の前を、基山と宗像大社の高宮祭場を結ぶ経度線(東経130度30分)が貫通する」と表現されることになったのである。
以上のごとく、「天孫邇邇芸命」は「【景】の字源の遠征を行った。
だから、天孫は「【景】を行った」ということで、皇位に就(つ)くと「景行天皇」と呼ばれることになった。
この【景】の字源については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」にて詳細に解説したように、『魏志倭人伝』の後半部にある、
「又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り、復(ま)た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」
と記述される――男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した名門益氏の王子と若者たちの、
その孫の代に築造された秋田県の鹿角市(かづのし)に所在する大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」における、下に示す「万座遺跡外帯の東側の配石群の平面図が夏の銀河像」をあらわして現在に伝えている。
下図の左図は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説した「地面に図化した、地平線下に潜る【夏の銀河像】」であった。
また、下図に示す大湯環状列石遺構の野中堂遺跡における「日時計組石(ひどけいくみいし)」と呼ばれる特殊石組も、『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する秘密を現在に伝えている。
この【景】の字源の秘密は「太陽が前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」をあらわしている。
しかし、いままで説明したように、「基山と宗像大社の高宮祭場とを結ぶ東経130度30分の経度線より少し東に寄る宗像大社辺津宮の本殿の位置」も、「地上千里にして日景に一寸の差がある」という【景】の字源の秘密を現在に伝えていることになる。
だから、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて指摘したように――「高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)と佐太神社の本殿とを結ぶ東経133度より少し東側の佐太神社の鳥居の辺り」もまた、「地上千里に「して日景に一寸の差がある」という【景】の字源を現在に伝えていることになる。
◆738年、45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に、全国に国郡の地図作成の命令が下された。
当時、国号は「倭人国」ではなく「日本」に改定され、【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定の習慣」は朝廷はじめ地方の官庁でも衰退していたのであろう。
このため、「能登から東南に男鹿半島・八郎潟がある」という意見、あるいは「日本列島の東は南に伸びると定めた卑弥呼の転回日本列島地理」は間違っているのではないかと疑問視され否定されるようになっていたにちがいない。
そして、738年以後の796年の50代・桓武天皇(かんむてんのう)の時代でも、国郡図の修正(しゅうせい)が命じられた。
このような国郡図の改定政策は、「行基図(ぎょうぎず)」と呼ばれる稚拙(ちせつ)な概要日本列島地図が発行されて行われた。
ということは、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は【倉頡の文字作成理論の産物】であったため、
この【倉頡の文字作成理論】は朝廷と国家が最も厳重な機密にして独占管理するものであったことからして――【倉頡の文字作成理論にもとづいて発明された地図作製方法】によって「精密な日本地図が作成されていた事実」を反体制側の人々に気づかれないようにするために、稚拙な概要日本地図、つまり通称「行基図」をもって「日本列島の東は東である」と明記する概要日本地図を多数作製して国郡図の方位を改定する事業が行われたことになる。
しかし、このような多数の「行基図」を作成しておこなった「日本列島の方位規定の改定事業」によって、「1度60分の60分の1分の精度で緯度が測定できた天頂緯度測量」を衰退し廃絶(はいぜつ)されるようになった。
ゆえに、天頂緯度をキャッチして行われていた遣唐使(けんとうし)の派遣は、59代・宇多天皇(うだてんのう)の治世(じせい)の894年の第18回をもって廃止されることになった。
多数の「行基図」と二度の国郡図改定事業の影響で「天頂緯度線をキャッチする航法は間違っていた」という意見が世に次第に強まって否定されるようになったため――遣唐使はじめ遣唐使船の船乗りたちは天頂緯度を測量して大海を往来する航法に自信喪失(じしんそうしつ)して、この航法に命を委(ゆだ)ねることに信頼できなくなって大海を渡ることができなくなったが原因で、894年の第18回遣唐使の派遣は廃止されることになったのである。
原始・太古にあっても、また第18回遣唐使が廃止された9世紀末においても、大海を往来する方法は【1度・60分の60分の1の1分の精度で緯度が精確に測定できる、天頂緯度を測量する方法】のみ一つであった。
【天の北極の高度】でも緯度は測量できたが、この方法では1度・60分の60分の1の1分の精度では測量できず、おおよそにしか緯度が測量することができないため、大海を往来することができず命を失うことになった。
その証拠に、702年6月29日に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回の遣唐使の最下位の幹部であった山上憶良(やまのうえのおくら)は、
『万葉集』の894番の「好去好来(こうきょこうらい)の歌一首」と題する長歌を作り、
この長歌の後半部で、下記のごとく証言している。
「大御神(おおみかみ)たち 船舳(ふねのへ)に 御手(みて)うちかけて 墨縄(すみなわ)を 延(は)へたるごとく」
上記の部分を現代語に訳すると「大御神たちが船の舳先(へさき)に御手をおかけになって、まるで墨縄をまっすぐに張って延ばしたようにお導(みちび)きになさる」ということになる。
もしも「遣唐使船は【天の北極の高度】で緯度を換算して大海を往来した」としたなれば、【天の北極の高度】を「墨縄を 垂らし計(はか)るに」と憶良は詠(よ)んだことであろう。
あるいは、【天の北極の高度】を別の方法で「高度」をあらわす語で表現していたにちがいない。
憶良は「墨縄を 延へたるごとく」と詠み、「遣唐使船は【天頂緯度を測量する方法】で大海を往来した」と明確に表現して証言している。
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