G-T0XYQT12LL 卑弥呼: 卑弥呼の逆襲

卑弥呼

2025年6月11日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・41ー1

卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった()

◆今から約5000年前(紀元前3000年ころ)の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河】各部の形状を図案して文字をつくる理論を発明した。
よって、漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆3世紀末に著作された『三国志』における魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾の倭人伝(わじんでん)は、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
3世紀末に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。
『魏志倭人伝』は12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)として残っている。

『魏志倭人伝』は、下に記す3種の事柄を説明していた。
しかし、学界は定説はじめ有力説にもとづいて、これら3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】『魏志倭人伝』紹煕刊本は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』紹煕刊本における九州の末盧国(まつろこく)以下の【方位を示す記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない
だから、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の「日本列島の【東】は【南】に伸びていると説明する転回日本列島地理は事実を伝えるものではない」と主張する
【3】『魏志倭人伝』紹煕刊本は、女王卑弥呼の王国名を「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。しかし、現在における大多数の学者たちは「邪馬臺()国こそが正しい」と主張する

『魏志倭人伝』の紹煕刊本における上記の3種の記事はすべて正しかった。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)に、漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細に解説して証明した。
ゆえに、上記した【1】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―1と40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを詳細に解説して証明した。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、卑弥呼は倭女王に選ばれ、「倭人国」という名の国家が創設された。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を「事実を伝えるものではない」と否定する――邪馬臺()国説学者たちの主張は、【1】同様に【2】についても事実に反して誤っていたことになる。
このブログでは、【3】『魏志倭人伝』紹煕刊本に「邪馬壹国(やまいこく)に至る、女王の都とする所なり」と記されたとおり――倭人国の首都所在地の名は「邪馬壹()国」であった事実を証明する。
ゆえに、「卑弥呼が都とした地は邪馬臺()国であった」と主張する学者たちやメディアの意見もまた、【1】と【2】と同様に、史料の表層(ひょうそう)を一瞥(いちべつ)しただけの軽率(けいそつ)で粗雑(そざつ)な意見であったことになる。

◆上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本に記述された【1】【2】【3】の3点の事柄は――学界、あるいは考古学界における定説に反する記事・説明」である。
この3点の記事が原因となって、学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事や説明を信用してはならない。ゆえに、信用してはいけないのはどの点なのか、どのように解釈したならば信用できる意見となるのか、などを示して、『魏志倭人伝』を取りあつかわなければならない」と主張する。
上記した【1】【2】【3】の記事・説明は「事実を伝えている」と科学的に証明することができる。
ゆえに、『魏志倭人伝』紹煕刊本の記事・説明は全部正しかったことになる。
いいかえると、纏向遺跡(まきむくいせき)にもとづく邪馬臺国畿内説と吉野ヶ里遺跡を理由とする邪馬臺国九州説をはじめすべての邪馬臺国説は空想・空理空論であったことになる。

『魏志倭人伝』は多数の学者たちが主張する【邪馬臺国】について説明する古書ではなかった。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論によって漢字が起源した秘密を科学的に解明できる最高・最良の史料】であった。
要するに、上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本における【1】【2】【3】の記事・説明は事実を伝えていたことを証明すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的にしかも科学的に伝えていた書物であったことになる。
言いかえると、『魏志倭人伝』は――現在、中国において神話とされる五帝時代初頭の黄帝時代(紀元3000年頃)における(A)【倉頡が発明した文字作成理論】、(B)【五帝時代初頭の黄帝時代における最初の文字の作成(字源・字形の原形・原義の成立)】、そして(C)【夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2100年~同2000年頃)における夏音文字(かおんもじ)に関する歴史】が解明できる――神話が歴史に一挙(いっきょ)に大変貌する最高・最良の史料であった。

『魏志倭人伝』は「わが国は、紀元前2000年頃の中国における夏代黎明期(わが国における後期縄文時代初頭)に夏音文字を習得(しゅうとく)した。この夏音文字は卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)において、倭人国の諸国で常用されていた」と説明している。
言いかえると、倭の34ヵ国の小国名をあらわす文字は夏音文字を楷書に改めたものであった。
だから、上記したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼王朝が政権基盤とした【学術知識】、つまり【()倉頡の文字作成理論、()五帝時代初頭の黄帝に関する歴史、()夏代黎明期に作られた夏音文字と夏代黎明期の歴史】を科学的に具体的に伝える学術書であった。
したがて、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が主張する定説は根本的に誤っていた。
その証拠に――夏音文字は『魏志倭人伝』はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘がついて多数残っている。また、『万葉集』において「万葉仮名」とよばれる文字となって多数残っている。
〔注 ただし夏音文字の字形では残らず、夏音文字は楷書を音符・意符に用いて残る。〕

◆上記したように、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名(名称)をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

上記したように、倉頡は、Ⅲ「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝え、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするために――「名()」、つまり「地名はじめ様々な事物の名称など」を文字であらわして残すことを――倉頡は許可した。
そして、倉頡は――地名は地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて作る――と定めた。ゆえに、地図(地宜)は王朝が独占管理して絶対に知られないように厳重な機密とされた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史を伝える地名」は【学】の字(字源・字義)となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
そして、1世紀末の後漢時代に作られた楷書もまた、基本的に倉頡の文字作成理論に従って夏の銀河各部の形状から作られた。
ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字は後世に作られた楷書の字源となって残った。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていない。
しかし、上記したように――五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書を音符・意符に用いる名(地名や事物の名など)で残った。この地名に用いられた文字(漢字)が歴史を伝えることになったため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論を具体的に詳細に科学的に解明できる最高・最良の書物】となった。
また、前記したように五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される楷書で残っており、あるいはまた『万葉集』の万葉仮名(楷書)となって残っている。

以上のごとく、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、【五帝時代初頭の黄帝時代の書契・倉頡の文字作成理論・夏代黎明期の夏音文字は地名や事物の名をあらわす文字(漢字)となって現存する事実――そしてこの地名や事物の名をあらわす文字は歴史を伝える確かな史料となる事実】を科学的に具体的に証明する。

◆現在の学者たちは、「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と否定する。
しかし、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。

倉頡伝説は下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄(三皇時代の易占に用いた記号)に代えたので、天は祝福して、禾(か・稲。稲や麦などの穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」

中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。
この「倉頡の肖像画」は、事実を隠蔽(いんぺい)するための騙(だま)し絵であった。
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上に示した「倉頡の肖像画」は「人の顔面に四つの目」を描く。
現代の学者たちは、この「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。
これゆえ、彼らは倉頡の肖像画に騙された自らの大失敗にまったく気づかず、倉頡伝説の説明を歪曲(わきょく)して「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高(こえだか)に主張する。

上記したように、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
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上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。
下に、「十字の銀河と、四つ目の怪人・倉頡(つまり、「鬼の横顔に似る銀河」)を配した。
下図が示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼(二つの目)となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目が一つ」ある。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。
だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図に示した「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。
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前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。ゆえに、「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化(ごまか)して隠ぺいするための騙し絵」であったことになる。
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◆倉頡がつかえた黄帝は〔女性の生殖器官と出産〕を研究した。
倉頡は〔黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕をも、【文字作成理論】に加えた。
さらに、倉頡は〔天頂緯度線の測量〕をも、【文字作成理論】に加えた。

したがって、【倉頡が発明した文字作成理論】は
〔1〕 夏の銀河各部の形状
〔2〕 黄帝の女性の生殖器官と出産の研究
〔3〕 天頂緯度線の測量
の3つの事柄が結合(けつごう)して造形(図化)された。
ゆえに、〔倉頡が後世に残すことを許可した名(地名はじめ事物の名など)〕は、上記した〔1〕〔2〕〔3〕の3つの事柄が結合して成立した。

◆上記したように、【倉頡の文字作成理論】には、〔2 黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕が加えられた。
下図に示すように、倉頡は「ラッパの形に相似する子宮の正面形」を【台】の字(字源・字形・字義)と定めた。
そして、倉頡は【一】の字を作って「出産児が通過する産道」をあらわすことにした。
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上図の「女性の生殖器官の正面器官の正面形の上下を反転した図」を、下に示した。
下の左図に示すように、「台形に相似する形の子宮」は「産道をのせる台(だい)」に観()える。
ゆえに、「子宮の正面形」が【台】の字源となった。
「子宮で育つ児()」は、今日、「胎児(たいじ)」と呼ぶ。
「胎児」の【胎】は【肉偏()】に【台】を加えた字である。
だから、【胎】の原字(最初の文字)は【台】であった。
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今日、「ヒトの命は、女性が受胎(じゅたい)した卵と男性の精子(せいし)の結合(受精)から始まる」とする。女性の卵巣(らんそう)から排卵(はいらん)された卵は卵管に入り、ふつうはここで精子を受精し、卵管のはたらきによって子宮内へと送られ、肥厚(ひこう)した子宮内膜(しきゅうないまく)の中に入り込んで、着床(ちゃくしょう)する。
五帝時代は医学の研究・知識が未発達であったゆえ、上記した「女性の卵と男性の精子」、「受精」、「卵管のはたらき」などは「想像・推測」の段階で未解明であった。
しかし、黄帝は「着床」(上の右図に示した)については解明していた。
ゆえに、黄帝は「ヒトの命は着床における胎芽期(たいがき)から始まる」と定めた。
つまり、「胎児期(台の児が成長する時期)」は「()胎芽期と第4週前半から第12週ころまでの第1期」、「()子宮上部の子宮底(しきゅうてい)のほうに頭をむける第12週から第20週ころまでの第2期」、「()子宮底と180度の反対方向にある子宮口(しきゅうこう)のほうに頭を向ける第20週ころから出産予定日となる第40(10カ月)までの第3期」と区分けされた。

「産道」は「出産児が通過する道」である。
この「児の出産期」は「()開口期(かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまで)の第1期」、「()娩出期(べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから出産児の頭が母体の背側に向いて誕生するまで)の第2期」、そして「()後産期(こうざんき・誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了するまで)の第3期」と区分けされた。
上記した「胎児期における()の胎芽期から出産期において()の出産が完了するまでの約十カ月の児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めた。
〔現在は、後産期に生きている出産児の年齢を0才とする〕。
倉頡は「産道を通過できずに死亡する児」の年齢を「一才」と数えないことにした。
だから、倉頡は「産道・出産期・出産児」を【一】の字源・字形・字義とした。

◆前ページにて指摘したように、【倉頡が発明した文字作成理論】には〔3 天頂緯度線の測量〕が加えられて組織された。
五帝時代、夏代(かだい)、また卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいて、人々は〔天頂緯度線〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。
というのも、原始のときから人類は〔天頂緯度線をキャッチして、1度の60分の1の1分の精度で測定できる本能(頭脳)と眼力を有していたため生存できたからである。
だから、人類は途中で滅亡せずに後世へと種(しゅ)を受け継ぐことができた。

原始、そして五帝時代、夏代の太古、また上古の卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、人々は〔天の北極の高度〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。
というのも、【天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を定めると、必ず命を失う】からであった。

下図は、25,800年で一周する天の北極(円周線上)と北極星の位置図である。
〔緯度〕は、〔北極星が描く円の中心となる天の北極の高度(地平線・水平線からの高さ〕によって定まる。
つまり、〔天の北極の高度が3515分の地点の緯度〕は〔北緯3515分〕となる。
北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、西暦2100年ころのこぐま座α星である――天の北極を中心にして円を描く、この二つの北極星の円の直径は約1.5(90)である。
だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径における中心(天の北極)をキャッチすることになるが――このような方法だと人類の目は命を失わずにすむ1度の60分の1の1分の誤差内で測定することができなかった。
したがって、北極星と天の北極で緯度測定する方法だと、原始・太古・上古において、定住せずに日々移動するような生活をしていた人類は、その移動生活を始めた直後から緯度(位置)も経度(方角)がまったく不明となって必ず【生】を失い【命】が絶たれた。
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上図に示したように、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)の北極星(こぐま座β星)は天の北極から遠く約10(1度60分の10倍の、600)も離れていた。ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約1200分の円を描いていたことになる。
卑弥呼時代の人々にとって直径・約1200分の円を描く、その中心となる天の北極の高度を生存できる1分以内の精度で測定することは不可能であった。
だから、卑弥呼時代では、【必ず命を失う天の北極】で〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。
卑弥呼時代では、【原始のときから1分以内の精度で測量できた天頂点と天頂緯度線と子午線(南北線)4秒~6秒ぐらいでキャッチする方法】で緯度と方角を測定していたのである。

◆下に、漢字【亠(とう)】の拡大図を示した。
下図の【亠】の字形は、天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するときに形成される。
脳にそなわる本能と神秘的な眼力によって原始のときから、ヒトは[天頂点と重なる銀河部位の軌道における、【亠】つまり「天頂点と天頂緯度線と南北線(子午線)]をキャッチすると、1度の60分の1の1分以内の誤差内で測定できた。
ゆえに、原始・太古・上古・古代の人々は天頂緯度線を測定する眼力と技術を日々鍛錬(たんれん)して〔緯度〕と〔方角〕を精確(せいかく)に測量できた。ゆえに、はるか遠くの地を旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還(きかん)することができた。
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下に、上図【亠】について説明した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕を配した。
〔天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するとき〕、1度の60分の1の1分の誤差内で精確に測定できる【亠】が形成される。
これゆえ、天頂緯度線測量の眼力と技術を鍛錬した人類は【亠】(天頂点・天頂緯度線・子午線)をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を知ることができた。だから、人類ははるか遠くに旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還することはできたのである。
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原始のときから現在まで、天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を1分以内の精度で測量することはできなかった――これは、科学的に証明できる明白なる事実である。
その証拠に、現在においても、精確に緯度を測量しなければならないときは【亠】をキャッチして〔経度〕と〔緯度〕を計測している。
つまり、現在、〔精密な日本列島地図〕は〔旧東京天文台の子午儀の中心(東京都港区麻布飯倉318)の経度(東経13944)と緯度(北緯3539)を原点〕と定めて作製されている。
現在の北極星(こぐま座α星)は天の北極に接近して約直径100分の円を描いているが、現在の発達した道具をもってしても精確に1秒以内の誤差内で〔緯度(東西)〕と〔経度(南北)〕が測量できない。
ゆえに、旧東京天文台の子午儀の中心の天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔経度〕を測定して、精密な日本列島地図を作製している。
だから、古代歴史学においては「人類は〔天の北極星〕を基準にして〔緯度〕と〔経度〕を測定して生存していたのではなく、天頂【亠】をキャッチして生存していたと断定しなければならない」。
考古学者はじめ様々な分類の古代歴史学者たちは、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していた事実にまったく気づいていない。彼らは、〔天の北極〕で〔緯度〕と〔方角〕を測定していたと思い込んでいる。
だから、学者たちは、『魏志倭人伝』が「日本列島の【東】は【南】に伸びる」と説明する転回日本列島地理は「天頂緯度線」をあらわす【亠】と「産道を通過する出産児の時計回りに90度転回する第一回旋(だいいちかいせん)と第四回旋が合体して成立した方位規定」をあらわす【倭()】の字源に則(のっと)って錯覚した史実であった状況を解明することができない。
卑弥呼は天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めるものであったゆえ、日本列島の【東】は【南】に伸びると錯覚した。
当時、学術(倉頡の文字作成理論)に長()けた諸国の王や王女、氏族の首長、巫女(みこと)と覡(げき・神官)たちは天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。ゆえに、彼らは卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は神聖な真実を示していると断定して、錯覚地理であるとは考えなかったのである。
このような事情を知らない邪馬臺()国説学者たちは「『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は史実ではない」と否定する。ゆえに、「天の北極で緯度と方角を定めていた」と思い込む彼らの意見はきわめて非科学的な空想や空理空論の類(たぐい)ということになる。
以上のごとく、〔天の北極の高度による緯度測量〕と〔天頂緯度測量〕を比較すれば、邪馬臺国説が空理空論であることはいとも簡単に明白となる。

五帝時代・夏代・卑弥呼時代、「観測地点の緯度天頂緯度は同数」と定めていた。
つまり、現在、「北緯3535分の天頂緯度」は「+赤緯(プラスせきい)3535分」である。
このように「観測地点の北緯」と「+赤緯」は同数である。
だから、このブログでは「観測地点の天頂緯度」と「観測地点の緯度」は同数とする。
このブログでは北緯の数値を記して、この数値をもって天頂緯度(+赤緯)をもあらわすことにした。

前記したように、原始のときから古代において、天頂緯度をキャッチすれば〔緯度〕と〔方角〕を正しく計測できた。
だから、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を精確に測定して生存していたのである。

◆下に、「天頂緯度を測定する人の姿勢(側身形)」を図示した。
天頂緯度をキャッチするためには、【身】の金文形が示しているように――胎児をみごもる出産まぢかの妊婦の側身形のごとく前へお腹(おなか)をつき出さなければならない。
ゆえに、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、【身】の金文形を「みごもっている人の側身形」と解説する。

天頂緯度を測量するときには「必ず天頂を測定するぞ」と欲を有すると天頂緯度の測定を失敗する。
天頂緯度を測量するときには〔産道を通過する出産児のごとく無欲〕になれば、天頂緯度がキャッチできる。
天頂緯度を測定する人の姿勢は出産第1期(開口期・かいこうき)の終わりの出産児のごとくのポーズとなる。つまり、出産児の顔は仰向(あおむ)けになって子宮口(しきゅうこう)に頭を入れる。
また、出産第2期(娩出期・べんしゅうき)の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける。
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下に、上記末部に「出産第2期(娩出期・べんしゅうき)の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける」と説明した――出産第2期(娩出期)の終わりにおける出産児の側身形を示した。
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以上のごとく、天頂緯度を測定するときの心得・ポーズ(姿勢)は産道を通過する出産児の様子に合致した。
ゆえに、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論における方位規定】では〔黄帝の女性の生殖器官(子宮や産道)と出産の研究〕と〔天頂緯度線の測量〕が結合することになった。
また、〔夏の銀河における各部の形状〕は〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕を明確に印象深く示し、さらに〔夏の銀河の各部位から中国各地の天頂緯度がキャッチすることができた〕。
これゆえ、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論】では〔夏の銀河各部の形状〕をもって〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕と〔天頂緯度の測量の様子・イメージ〕が図化(造形)されることになった。

◆『魏志倭人伝』は前半部にて「邪馬壹国(やまいこく)、女王の都とする所なり」と記述する。
そして、『魏志倭人伝』は末部で「壹与(いよ)、倭の大夫(たいふ)の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣(つか)わし、政(せい)等の還(かえ)るを送らしむ。因()りて臺(だい)に詣(いた)る」と記述する。
上記したように、『魏志倭人伝』は「倭の使節の率善中郎将の掖邪狗等二十人が魏の出張機関政庁が所在する韓国の帯方郡(たいほうぐん)に到着すると、(247年・魏の正始8)に張政等が帯方郡の大守(たいしゅ)に就任した魏都の洛陽(らくよう)へ送り還(かえ)らせることになった。よって倭の使節の掖邪狗一行は臺(魏都・洛陽)に参詣した」と説明する。

上記したように、「倭女王・卑弥呼が都と定めた邪馬壹国」という記事における「邪馬壹国」の【壹】は、倉頡が作った【一】「産道(出産児が通過する道)。出産」を夏の始祖・禹が改めた字であった。
したがって、【壹】の字は倉頡の【一】と同じく「産道。出産」をあらわした。
また、「因りて臺に詣る」という記事の【臺】は、倉頡が作った【台】「子宮。胎児」を夏の始祖・禹が改めた字であった。
ゆえに、【臺】の字は倉頡の【台】と同じく「子宮。胎児」をあらわした。

そして、【一】と【壹】は「無事に産道を通過して誕生した児」のイメージから「旦(朝日)。朝(東北の地平線上に昇る夏至の朝日が刺す光景)」をあらわすことになった。
また、【台】と【臺】は「子宮組織と結合する着床」のイメージとなるとされて「夕日。夕(地平線下に没する直前の夏至の夕日が照る光景)」をあらわすことになった。

『魏志倭人伝』を著作した晋(しん)につかえた著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は、禹によって「魏の都・洛陽」を【臺】とあらわすことになった事情を知っていたのである。
また、陳寿は上記したように――【一】と【壹】は「産道。出産。朝日。地平線上に昇る夏至の朝日の刺す光景など」をあらわし、【壹】の下の【豆】は「産道を通過する出産児の頭」、つまり【頭】の原字である秘密を知っていた。
また、陳寿は倉頡が作った【台】を禹が【臺】の字に改め、その【台】と【臺】は「子宮。胎児。夕日。地平線下に没する夏至の夕日が照る光景など」をあらわし、【臺】の下の【至】は「子宮組織と結合する着床」をあらわすことを知っていたのである。
だから、陳寿は「倭人国の首都所在地の名は邪馬壹国である」と確信していたにちがいない。

◆中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)には、下記のごとくの文がある。
「易は天地と準(なぞらう)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察(あきらか)にする」
この文の先頭の【易】の字源を、『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」と解説する。
「蜥易(蜥蜴)」は「トカゲ」を意味する。
トカゲは「必ずもとの巣にもどる」という帰家性(きかせい)を有する。
ゆえに、【易】の字源は「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰還することができた、天頂緯度線をキャッチして緯度と経度を1度の60分の1の1分の誤差内で測量できる術(じゅつ・技術)」であった。

上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す」という文中にある「弥綸」という語は「洩れなく包みこむ、つくろいおさめる」と意味する。
下図に示すようにーー中国全土の地図の形は、山東半島が水鳥の【弥(カンムリカイツブリ)】の頭部に相似すると見立てられ、山東半島の付け根の胸部では左()と右()に羽根の形となって分かれる。その羽根は長江口(ちょうこう)と杭州湾(こうしゅうわん)で破れ裂ける形となるが、杭州湾の南岸から円弧を描いてつくろいおさまって羽根の形にもどる。
ゆえに、中国中国全土の地図の形は「海岸線の水鳥【弥】(カンムリカイツブリ)が羽根をひろげて飛ぶ姿に洩れなく包まれる形」となる。
だから、下図は上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらか)にする」という文をあらわした。
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というのも、下図に示すように、地図の形は「【弥】の頭部の形に相似すると解された『山東半島の地図の形はオス鹿の横顔』にも相似する」と見立てられ、「山東半島の北にある、廟島列島(びょうとうれっとう)の地図の形」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられたからである。
ゆえに、下図の「廟島と山東半島の地宜(地図の形)」は【道】の字源となった。
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下図に示すように、「天頂に位置する、十字の銀河」は「オス鹿の角の形」に相似すると見立てられ、「十字の銀河より南の銀河」は「オス鹿の横顔」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」は「鹿の背中」に見立てられた。
ゆえに、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・十字の銀河より南の銀河」は【道】の字源となった。
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上の左側の【道】の字における「鹿の角の、東西南北をあらわす十字の形」は【行】の字源となる。
下図の左上に【行】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)を配した。
白川静著『字統』は【行】の字を「十字路の形」と解説する。
したがって、下の右図に示すように「十字の銀河の胸部」が「東西南北の十字路の形」を示すゆえ、【行】の字源・字形・字義は「十字の銀河の胸部」であった。
下の左側下に、【十】の契文形を配した。
【十】の字源を、『説文解字』は「数の具(そな)はれるものなり。一は東西と為()し、丨(こん)は「南北」と為す。則(すなわ)ち四方中央が備(そな)わり」と解説する。
白川静著『字統』は契文・金文が【十】を【丨】の形に図案するのを注目して――『説文解字』の【十】の字形解説と異なり「算具に用いる縦(たて)の木の線である」と批判する。
しかし、下の右図に示したように――黄帝につかえた倉頡が【文字作成理論】を発明した約5000年前、倉頡や黄帝が居住していた本拠地であったにちがいない黄帝陵(こうていいりょう)の天頂緯度線(3535)は「十字の銀河の頭部の中央」を貫通(かんつう)していた。
この天頂緯度線【一(東西)】の中央に【丨(南北・経度線)】を交差させると――「十字の銀河の胸部」で【十】つまり「十字路」の形となる。
ゆえに、【十】の契文形の【丨】は「黄帝陵の経度線」、【十】の金文形の【丨】は「南北線(経度線)上に緯度の目盛を一点加えた図案」であった。
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黄帝時代、こと座γ星が黄帝陵の天頂にめぐってきた。
「こと座α星・ベガ」は「七夕(たなばた)星」と呼ばれる。
「こと座の北部」は「三角形」、「こと座の南部」は「四角形(菱形)」で構成される。ゆえに「三角形+四角形=七角形」となる。だから、「こと座ベガ」は「七夕星」というぐあいに【七】の字を用いて表記された。
この【七】の契文と金文の両字形は、【十(十字形)】に図案された。
ゆえに、【七】の【十】との混同をふせぐために、上図に示した「十字の銀河における十字形となる胸部」は【丨】の形に図案されることになった。

「天の十字の銀河と地の廟島列島」は共(とも)に「オス鹿の横顔の角の形」に見立てられて、【道】という名()、つまり【道】の字源・字形(原形)・字義(原義)となった。
ゆえに、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準う。故に能()く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と説明した。
この文中にある「弥綸」という語は「【弥】の字源・水鳥のカンムリカイツブリが羽根をひろげて空を飛ぶ姿に観える地図の形は中国全土を洩れなく包みこむ」と意味した。
この「弥綸」と表現される海岸線の地図の形は――五帝時代の最後(五番目)の帝に就任した舜(しゅん)が益氏(えきし)の首長に「虞()」という重職に就()くように命令し、夏代黎明期までおよそ200年間も益氏が「虞」の役職を代々務めた功績(こうせき)によって精確になったと考えられる。
「虞」という役職は「中国全土を洩れなく包みこむ精確な海岸線地図と、中国各地の山林・湖沼・川沢の精確な地図を作製する長官」であった。
五帝時代末の帝舜の時代では、すでに「十字の銀河」で「精確な地図を作製するための経緯度原点(経度と緯度が交わるの原点)」を設定し、「土地を三角測量して、精確な地図を作製する方法」、つまり「現代の精密日本列島地図を作製する方法の原則」が確立されていたことになる。
ゆえに、益氏は中国全土を弥綸する中国海岸地図はじめ、各地にある山林・湖沼・川沢などの地図を精確に作製していたことになる。

中国において、「易」は約6000年前の三皇(さんこう)時代(わが国の前期縄文時代)から始まった。
ゆえに、「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰ることができる技術の易」には「地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が必要となった――このため、包犠氏(ほうぎし)の首長が天下を治めた三皇時代初頭から地図の作製が起源したと考えられる。
包犠氏、女媧氏(じょかし)、神農氏(しんのうし)が天下を治めた三皇時代から五帝時代初頭の黄帝が姓を「公孫(こうそん)」、名を「軒轅(けんえん)」であった帝王となる以前において――下図に示すように、「山東半島から南の弥(カンムリカイツブリ)の首と羽根が交わる胸部までの地図の形」と、「山東半島から西の黄河口(こうがこう)・渤海湾(ぼっかいわん)西岸までの地図の形」が明らかになっていたと考えられる。
この三皇時代から五帝時代黎明期までの地図の作製方法は「十字の銀河」で「地図の経緯度原点」を設定して、「経度と緯度が四点で交わる方形」をもって地図が作製されていたと考えられる。ゆえに、当時、「三角測量」はいまだ確立されていなかったことになる。
ゆえに、前記した『易経』繋辞上伝の文中における「故に能く弥綸す」という記事を省(はぶ)く「易は天地と準う。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、三皇時代から五帝時代黎明までの地図作製方法を伝えていたことになる。
というのも、『説文解字』は【準】の字源を「平(たいら)なり」と解説するからである。
ゆえに、当時は「天の夏の銀河の形は高低差がなく平らである」と定め、「地理の形にもまた高低差がなく平らである」と定めて地図が作製されていたことになる。
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上図に示すように、黄河口の東海岸を擦(こす)る経度線(東経11848)より少し西にずれる地所に所在する「莒県(チュウシエン)陵陽河(りょうようが)の遺跡」から、「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる、灰色の爆弾型の土器が出土した。
県名に用いられる【莒(きょ)】の字義は「いも」である。
「灰陶尊の酒器の形」は、「十字の銀河」の西方にある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」に似せて作られた。この「人の横顔に酷似する銀河」は「長(なが)いも(俗称・とろろいも/白い色のとろろ汁を作るいも)の形」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」と「灰陶尊」は【莒】の字義「長いもの形」に似せて造形されることになった。
【艸(草冠)】の下の【呂(りょ)】を『説文解字』は「背呂(はいりょ)なり」と解説して「背骨(せぼね)」であると説明する。
上図に示したように、莒県陵陽河の経度線(東経11848)が擦(こす)る黄河口の地点は「廟島列島・山東半島が相似するオス鹿の横顔に対して、背骨の上端(北端)」となる。
ゆえに、「黄河口北端と莒県陵陽河を結ぶ経度線」は「背骨」のイメージとなる。
「陵陽河」の【陵】の字は上記した「字形が【丨】となった十字の銀河の銀河における十字形の胸部」と、また「【十】字形にデザインされた【七】の字源の七角形のこと座」を意味した。
次の【陽】は「人の横顔に酷似する銀河におけるはくちょう座γ星」と、また「夏の夜に、もっとも明るく、もっとも青白く輝く、最輝星(さいきせい)のこと座・ベガ(七夕星)」】はあらわした。
黄帝時代、【陽】の字源となった「はくちょう座γ星」と「こと座γ星」の両星は黄帝陵(北緯3535)の天頂にめぐってきた。
最後の【河】の字は、【呂】の字と同じく「黄河口(黄河の河口)」を意味した。
結局(けっきょく)、灰陶尊が出土した遺跡名「莒県陵陽河」は、「瘤(こぶ)のような形をした黄河口の東海岸をこする経度線(東経11848)から少し西にずれる、黄河口の南方にある地所の名(名称)」をあらわしていたことになる。

◆灰陶尊は、年代測定によって約5000年前(紀元前3000年頃)の遺物とされた。
ゆえに、灰陶尊は五帝時代黎明期の黄帝が公孫軒轅(こうそんけんえん)と呼ばれていた時代の遺物であったと考えられる。

灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くには、下図の右上に配する図書(ずしょ)がある。この図書を、中国の学界では「漢字の原型」と考えている。
下図の右上の図書のうち、「()最上部は日輪(太陽)」、「()中央は【幽】の原型」、「()最下部は真っ赤に燃える火炎、つまり地中の太陽」〕をあらわしていたと考えられる。
()中央」の図書は、下図の右下の【幽】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)における下部の図書に相似する。
【幽】の字は「火に燻ぶって黒くなる」を意味する。
この()()()が一体化した図書を、中国の学界では【旦(たん)】をあらわしていると考えている。
ゆえに、灰陶尊の図書は「幽(かす)かにうす暗い、日が出ずる【旦】()の赤く染まる東の空」を表現していたことになる。
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夏至の日の朝の太陽は、東から30度の東北の地点から昇る。
下図に示すように、五帝時代黎明期また今日においても――「夏至の日の朝(午前6時)、【山東半島の付け根に所在する日照の海岸から東北30度の地点となる山東半島の東端の石島(中国では「シータオ」と音する)の海岸】から太陽が昇る景色)」が見える。
だから、莒県陵陽河(きょけんりょうようが)の遺跡から出土した灰陶尊の図書は「夏至の日の午前6時、日照の海岸にて目撃できる石島から日が出ずる【旦】の景色」を表現していたことになる。
前記したように、倉頡は「日が出ずる朝」を「産道・出産」に見立てて【一】と定めた。
夏代黎明期、“夏の始祖”の禹()は――壺(子宮・産道)のうち、豆()を前にして産道(壺の上部)を進み、膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの様子をあらわす、倉頡が作った【一】の「字源・字義」――をあらわす【壹】の字を作った。
ゆえに、下図に示すように――「石島の海岸から上る朝日」は「産道・出産」をあらわして【一】・【壹】を示すことになった。
このため、「観測地地点の日照の海岸」も【一】・【壹】をあらわすことになり、「日照と同緯度(北緯3535)の黄帝陵」もまた【一】・【壹】を表示することになった。
その証拠に、「黄帝陵」は「黄帝を祀(まつ)る廟(びょう)」である。
【廟】は【广(げん)】の右下に【朝】を加わる字であるから、【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】となる。
下図の右上にある「オス鹿の角に見立てられた廟島列島(びょうとうれっとう)」も「石島」と同じく【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】の字源となった。その証拠に、「廟島列島」の【廟】もまた【广(げん)】の右下に【朝】を加える字であるから、【朝】は【一】・【壹】をあらわしている。
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白川静著『字統』(平凡社発行)は、【廟】の字について「广(げん)」と朝とに従う。もと朝礼を行なうところで、それがまた廟所であったが、のち祭政が分離して、宗廟の意とある」と解説する。
つまり、上図に示したように――【廟】の字源は「日照の海岸と山東半島の東端の石島を結ぶ方角(30度の方角)から上る夏至の日に朝日が出ずる景色を祭る儀式・儀礼」であった。

◆下図の左上に、「渤海湾(ぼっかいわん)の西海岸・黄河口の北海岸・莱州湾(らいしゅうわん)の東海岸を太い直線で結んだ」。
この「太い直線」は、【邪(なな)めの線】となる。
この【邪めの線】は「産道を通過して出産する【馬】・フタコブラクダの子の姿」をあらわした。
下図の左上に「折れ曲がる瘤(こぶ)」と記したように――「産道を通過して出産するときの【馬】・フタコブラクダの子の瘤」は「親のフタコブラクダのごとく山なりに隆起せず、背中から薄い板のごとくなって折れ曲がる。ゆえに、産道を通過するときのフタコブラクダの子の背中は平らとなる」。
つまり、「出産するフタコブラクダの子の瘤は産道に突っかかって通過の邪魔(じゃま)にならないよう折れ曲がり、産道の通過が円滑(えんかつ・スムース)になるように背中が平らとなる」。
だから、下図における「山東半島」は「出産するフタコブラクダの子の頭・顔の形」に、「莱州湾(らいしゅうわん)」は「出産するフタコブラクダの子の後頭部の形」に、「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線」は「産道を通過するフタコブラクダの子の瘤が折れ曲がって平らとなる背の形」になり――「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平らとなる【馬】・フタコブラクダの子の体形」は「邪めに曲がる」。
なお、「山東半島東端の石島から青島(ちんたお)までの地図の形」もまた「【馬】・フタコブラクダのアゴ・首の形」に酷似する。
ゆえに、下図における「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線は邪めに曲がる体形」をあらわすゆえ【邪】、「産道を通過するフタコブラクダの頭・顔の形」は【馬】、「石島が所在する山東半島の東海岸」は「旦・朝日・出産」が意となる【壹】をあらわした。
だから、「山東半島とその付け根となる北と南の海岸の地図の形」は、「邪馬壹(やまい)」と名づけられることになった。
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上図の「邪馬壱の体形」は、背中と頭の状況が――不自然な形となる。
ゆえに、「邪馬壱の体形」が「自然体となるイメージ図(印象図)」を下図に示した。
黄帝時代や夏代黎明期はじめその後の契文(甲骨文字)や金文および楷書なども倉頡の文字作成理論にもとづいて、【()夏の銀河各部の形状、()天頂緯度観測、()黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて図案された。
だから、黄帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字で表示された地名もまた、【()夏の銀河各部の形状、()天頂緯度観測、()黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて成立したことになる。
このような文字(地名)作成方法のイメージにもとづく「邪馬壱の自然体の形」を図示すると、下図のごとくなる。
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上図に示したように、「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平となるフタコブラクダの子の様子をあらわす線は緯度線(東経38度線・東経36度線)と邪めとなる」ゆえ、【邪めの線】すなわち【邪】をあらわす。
「山東半島の地図の形」は「フタコブラクダの顔」に相似するゆえ、【馬】「フタコブラクダ」をあらわす。
「山東半島の東海岸」から「夏至の日の朝(午前6時)、朝日が上がる」ゆえ、【壹】「旦・朝日・出産」をあらわした。
黄帝時代や夏代黎明期の人々は、上図のごとく「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図」に変形を加えて「邪馬壱」と名づけていた。
したがって、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「産道を通過するときのフタコブラクダの子の様子」をあらわしたゆえ、「邪馬壱」と呼ばれていたことになる。
『魏志倭人伝』に「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記された「邪馬壱国」には「緯度線と邪めになるフタコブラクダの出産児の姿をした地図の形」が存在した。
だから、「倭人国の首都所在地」は「邪馬壱国」と名づけられたのである。

以上のごとく、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「邪馬壹(邪馬壱)」と名づけられ、「邪馬臺(邪馬台)」とは名づけられなかった。
というのも「廟島列島」と「石島・山東半島東端」はって【臺】「夕日」をあらわさず、【壹】「朝日」のみをあらわすからである。

◆以上のごとく、莒県陵陽河の遺跡から出土した灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くにほどこされていた図書は、中国の学者たちが考えたとおり、【日】の下に【一】が加わる【旦】をあらわして「日照の海岸から見える、山東半島東端の石島から日が出ずる夏至の日の午前6時の景色」を表現していたことになる。
以上のような【一・壹】の字源にもとづくと――「中国の東方に所在する倭地は日が出ずる朝日の国」となるゆえ『魏志倭人伝』の原書には「邪馬壹()国」と記されていたにちがいなく、「日が没する夕日」をあらわす「邪馬臺()国」と記されていなかったことになる。
だから、学界やメディアが「最も正しい科学的意見」と思いこむ邪馬臺国説は「『魏志倭人伝』に書かれていない虚偽」を主張する非理非学の作り話・空想であったことになる。

『魏志倭人伝』は前半部で「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記し、末部で「因()って臺に詣(いた)る」と記す。
この末部の文中の【臺】は「魏の都・洛陽(らくよう)」の意となる。
このブログでは、「なぜ【臺】は「洛陽」を意味することになったのか」、この点が明確になるように解説しなかった。
次回のブログでは、【臺】が「洛陽」の意となった経緯について詳細に明白となるように解説する。

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2025年4月21日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・40ー2

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった()


◆前々回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」で指摘したように、
『古事記』冒頭の「古事記上巻 并(あわ)せて序」の末部には――姓(うじ)も於きて日下(にちげ)を「玖沙訶(くさか)と謂()ひ、名に於きて帯(たい)を「多羅斯(たらし)」と謂ふ、此(かく)の如(ごと)き類(たぐい)は、本(もと)の随(ずい)に改めず――という文がある。
この文は「姓に用いる楷書の日下を夏音文字では玖沙訶と記し、名に用いる楷書の帯は夏音文字では多羅斯と記す。このような類例は従来から日常的に頻繁(ひんぱん)に用いられて知られていることゆえ、夏音文字をそのまま用いて楷書に改めませんでした」と意味した。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で指摘したように、「朝顔」の語源となった「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。
下に、「北天の最輝部」の図を配した。
下図の上部には、はくちょう座γ星がある。
はくちょう座γ星の周囲は円形となり、「円の中心に点」がある古代字の【日】の字形に合致する。
だから、【日】の字の下にある「北天の最輝部」は「日下」の語源であった。
楷書「日下」の語源銀河部と夏音文字「玖沙訶」の語源銀河部は同一ヵ所である。
ゆえに、下図の「はくちょう座γ星と北天の最輝部」は「日下」と「玖沙訶」の語源であった。
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下図は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」における[「日下=玖沙訶」と「帯=多羅斯」の語源解説図]である。
「日下=玖沙訶」の語源は上記した「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」と「鬼の横顔に似る銀河の額」の両者となる。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の額」が楷書「日下」、夏音文字「玖沙訶」となる。
また、「十字の銀河の北側(胸部)にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の額」は三垂(さんすい・三本の線状の銀河部位)でつながる。
したがって、「十字の銀河の胸部にある乳房」もまた「日下」にして「玖沙訶」の語源であった。
「十字の銀河の乳房」は「帯(おび)をまきつける腰」にある。
「帯をまきつける腰」もまた「日下=玖沙訶の語源となる乳房」と同じく「乳房」の形をしている。
ゆえに、「十字の銀河の腰にある乳房」は楷書「帯」の語源で、夏音文字「多羅斯」の語源であった。
「十字の銀河の腰にある乳房」から「鬼の横顔に似る銀河の口」までも、また三垂でつながる。
だから、「鬼の横顔に似る銀河の口」が「帯」と「多羅斯」の語源であった。
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古語「垂乳根(たらちね)」は「母」と「父」を意味し、「垂乳根」の「乳」の字義は「乳房」である。
ゆえに、上図の「多羅斯」と「垂乳根」の語源は共に「母と父が帯を巻く腰にある乳房」であった。
上図の「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、垂乳根の語源「帯をまきつける腰にある乳房」は「乳児が乳を飲む乳房」ということになる。
「乳児が飲む乳の色」は、上記したように、「北天の最輝部の、銀白色と朱鷺(とき)の体のうす桃色」に相似する。
だから、「帯」と「多羅斯」の語源は「十字の銀河の腰にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の口(乳児が乳を飲む口の銀河)」であったことになる。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で解説したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦の腹部に見立てられて、聖域]とされた。
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もう一つの「朝顔」の語源は、下図に示す「四つ目の銀河・十字の銀河の顔と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」であった。
そして、「日下・玖沙訶」の語源は「四つ目の銀河と十字の銀河の右手(西側)の脇(わき)にある北側の乳房」、「帯・多羅斯」の語源は「四つ目の銀河の口と十字の銀河の子宮と重なる南側の乳房」であった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道」に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。
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したがって、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」は倉頡の文字作成理論はじめ倉頡が作った文字や夏代黎明期に作られた夏音文字、そして黄帝時代や夏代黎明期の歴史について語るとき――頻繁(ひんぱん)に用いられた「漢字は夏の各部の形状から作られた秘密」を示す[「朝顔」の語源]を示唆(しさ)する暗号のような語であったことになる。
ゆえに、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」という語が確かな証拠となって「わが国は夏音文字を紀元前2000年頃に習得した」と証明されることになる。
だから、学界が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する絶対的定説は粗雑(そざつ)軽率(けいそつ)きわまりない考えにもとづく錯覚・空理空論であったことになる

◆上記したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦のお腹(なか]に見立てられて、聖域]とされた。
また、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮(子宮と産道)もまた「朝顔」とよばれた。このうち「十字の銀河の子宮」も[胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道]に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。

しかし、前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」にて解説した【扁】の字について説明した、下図における()()の「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河(胎児の姿に似る銀河)までの、大きな夏の銀河」は「騙し」の意味を有することになった。
ゆえに、「騙」の旁部(つくりぶ)は【扁】となった。
ただし、【扁】の字源銀河となった()は「騙し」の意を有さないことになった。
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五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、【馬】の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」と定め、地理の「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」と【馬】「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜の、フタコブラクダ」に「騙し」の意味を有するようにした。
だから、【騙】の偏は【馬】となった。

奈良県高市明日香村に所在する「牽牛市塚古墳(けんごしづかこふん)」は、大・中・小の八角形が三段に積み重なる設計となる。
この最下段の大の八角形は上に図を配した【扁】の字源「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの、大きな夏の銀河」をデザインする。
この【扁】の字源銀河を説明する、上に図を配した()()をデザインする大の八角形は「騙し」の意味を有する。
中段の中の八角形は、上記した「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」をデザインする。
この中の八角形は「騙し」の意味を有さない。
最上部の小の八角形は、上記した「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)と十字の銀河の顔、そして十字の銀河の子宮(子宮と産道)」をデザインする。
この小の八角形も「騙し」の意味を有さない。

牽牛子塚古墳(あさがおづかこふん)は、7世紀中葉~8世紀初頭(飛鳥時代)の女帝、第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう・第37代・斉明天皇)と娘の間人皇女(はしひとのひめこ)の合葬墓とする説がある。
というのも、以前より、牽牛子塚古墳の内部は巨石をくりぬいた2つの墓室を設けた特異な構造になっていることを知られていたからである。
間人皇女は、第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう)の皇后であった。
当時は、兄妹であっても父親と母親が異なれば、恋愛あるいは結婚も普通におこなわれていた。しかし、同父同母となる関係となると、当時においても、国法を犯す重大な罪として厳(きび)しく禁止されていた。間人皇女は、このタブーを犯した。
間人皇女は、同父同母の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の第38代天智天皇)とタブーとされる密通(近親相姦)をしていた。
孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は同じ血を分けた兄の中大兄皇子であった。このことは、公然の秘密であった。
このタブーのために中大兄皇子は、国法を犯した大罪の報いを受けなければならなかった。
孝徳天皇が没した直後、皇太子・中大兄皇子は帝位に就かなかった。中大兄皇子は、母の皇極天皇を再度担ぎ出し、帝位に就けて斉明天皇とした。
孝徳天皇が亡くなった直後に中大兄皇子が天皇に即位しなかったのは、彼が同父同母の妹の間人皇后と男女関係を持ったからである。
つまり、「中大兄皇子が即位すれば、神の怒り、つまり地中深く棲()む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒して、必ず大災害(凶事)が起きる」と噂(うわさ)する世論に屈したからと考えられる。

斉明天皇は、上記のごとく「斉明天皇は中大兄皇子と間人皇女との兄妹の近親相姦を見て見ぬ振りして許している。しかし、中大兄と間人の密通の大罪を地中深く棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が許さず祟(たた)って必ず大災害が起きるにちがいない」と噂(うわさ)されていたのである。
ゆえに、斉明天皇は牽牛子塚古墳を築造して――陵墓の最下段の大の八角形で「牽牛(ジャコウウシ)の死霊を騙(だま)しなだめる」ようにした。
また、陵墓の中段の中の八角形で「人の横顔に酷似する銀河」を「斉明天皇自身」に見立て、「コールサック」を「斉明天皇の腹部」に見立てて、自分の腹部から生んだ息子の中大兄と娘の間人を厳しくとがめて人の道にそむく密通をやめさせなかった母親の責任として――斉明天皇は死後には必ず大災害(ジャコウウシの死霊の激怒)を騙しなだめて防ぐと誓ったにちがいない。
そして、最上段の小の八角形で「四つ目の銀河」を「中大兄皇子」、「十字の銀河」を「娘の間人皇女」に見立て、「十字の銀河の子宮」を「間人皇女と中大兄皇子の密通」に見立てて――先に墓に入った亡き娘の間人に近親相姦の罪を後悔させて、娘の死霊にも激怒する牽牛の死霊を騙しなだめて地上に大災害が起きるのを防ぐようにさせると決意を示すものであったと考えられる。

◆倉頡が発明した「辞理(文字作成理論)」において――天理(夏の銀河)の場合は南を正面にし、地理では北を正面にした。
ゆえに、銀河図の場合は左(左手側)が東、地理では左は西となった。
上記のごとく、倉頡が「()天理の場合は南を正面にし、()地理の場合は北を正面とする」と定めた理論は――夏代黎明期には「()地理の北を天理の南に変えて180度転位する。ゆえに、()地理では北は天理の場合の南となる」と定められて、【臺()】と【壹()】の字が生まれた。
つまり、夏代黎明期における帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は、上記したように「()地理の北は天理の場合の南となって180度転位する」と定めた。

倉頡は「妊婦の形に相似する、十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られたすべての文字を生む母体」と定めた。
したがって、「十字の銀河の子宮(子宮・産道)」は「夏の銀河の各部からすべての文字を生む子宮(子宮・産道)」と定めた。
つまり、「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【瀚】と【海】の字源」となり、また同様に「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【牽】と【牛】と【子】の字源」となった。
「三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮」より大きい。
また、「胎児の姿に似る銀河」もまた「十字の銀河の子宮」よりはるかに大きい。

だから、倉頡は「【一(十字の銀河の産道)】より多数の文字が出産する」と定めたため、「十字の銀河の帯がまきつく腰にある子宮」の夏音文字の語「多羅斯」の先頭字は【多】である。
要するに、倉頡は「【一】の字源(十字の銀河の産道)は【多(多数の文字)】を出産し、【多(多数の文字)】は【一】の字源(十字の銀河の産道)に集約される」と定める、「一即多、多即一の理論」を発明した。

「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「子どもを中心にしてならぶジャコウウシの1グループ・百頭余りの群れ」に相似する見立てられた。
「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシの姿に似る銀河」に相似すると見立てられた。
そして、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
下図に示すように、【勿(ぶつ)】の字源銀河は「三つ輪の銀河の西となりの、十字の銀河の左手が持つ銀河部」である。この銀河の形は「犂(すき)で土を撥()ねる形」とされた。
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だから、「夏の銀河の西端の、ジャコウウシの姿に似る銀河」は「【牛】の字源、ジャコウウシが餌場(えさば)の土を角(つの、即ち犂)で撥ねて餌の苔(こけ)を食べる姿」に見立てられた。
ゆえに、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は【勿】の字源「ジャコウウシが犂で土を撥ねる姿」、つまり「食料の苔を食べるために、ジャコウウシが角(即ち、犂)で土を撥ねる形」ということになった。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、
偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を――勿は犂で土を撥ねる形。『説文解字』は「萬物なり」と訓し、「牛を大物と為()す。天地の数は牽牛より起こる。故に牛に従ふ」という――と解説する。
前述したように、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は「牽牛の姿に似る銀河」であった。
「牽牛」は【一】の字源であり、この【一】の字源は「牽牛の姿に似る銀河」であり、また「萬物」をあらわしたので、「一即万()物、万物即一」という理論となった。
上記したように、「三つ輪の銀河」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが作る円陣」、「三つ輪の銀河の西となりの銀河部は【勿】の字源」であるゆえ、「三つ輪の銀河の【牛】」と「三つ輪の銀河に隣接する銀河の【勿】」を加えると、【物】の字となる。
『説文解字』は【物】は「万物なり」と訓するゆえ、「三つ輪の銀河と、そのとなりの【勿】の字源銀河部」は【物】の字訓は「万物なり」ということになった。
上記したように、「【一】の字源の、十字の銀河の子宮につながる産道」は「夏の銀河各部から作られたすべての文字を出産する産道」であったゆえ、「一即万物、万物即一」となった。
だから、倉頡は「一即万物()、万物()即一の理論」を考案したことになる。
このような倉頡が考案した「一即万物(一即多)、万物即一(多即一)」の理論は、現代の分子生物学でDNAという「小さな場に大きな情報が入っている」という先端科学の考え方に共通する。
『魏志倭人伝』の34の小国名は現代の先端科学のDNAの構造や、そして「17世紀のデカルトが提唱した西欧近代の合理思考の意見は必ずしもすべて正しいとは言えない。誤りも多々ある」と批判・否定する現在の先端科学の合理を超える合理を積み重ねる考え方で構成されている。
5000年前に生存した倉頡は、すでに現在の先端科学の考え方を発明していたのである。

◆白川静著『字統』は、倉頡が作った【禾()】の字について「いねの象形」と解説する。
【禾】の字源銀河は「女体に相似する、十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の口」である。
ゆえに、夏代黎明期では【禾】の下に【女】を加える【委()】の字が作られ、【委】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」であった。
「十字の銀河」は「人(東半分が男性、西半分が女性。また、人の正面と背面の姿)」に観えるゆえ、夏代黎明期には偏【人】に【委】を加える【倭()】の字が作られ、【倭】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
だから、【禾】【委】【倭】の地理字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。

上記したように、「【禾】【委】【倭】の天理の字源」は「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
「【禾】【委】【倭】の地理字源」は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」となった。
この地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は「出産児があおむけになって頭が先に子宮口に入りこむ()第1回旋(だいいちかいせん)」と、()娩出期(べんしゅつき)終わりに出産児の顔が母体の背側に向けるときの第4回旋における、頭を時計回りに90度転回する様子」をあらわした。

五帝時代初頭の黄帝時代に相当する中期縄文時代初頭、また卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)、そして万葉時代の8世紀初頭――遠くの地に旅する人々や大海を往来する人々は天頂緯度線、つまり旅の各地点の天頂にめぐってきた緯度線、現在の+赤緯(プラスせきい)を測量して命を保持して家族が待つ家に帰還していた。
「+赤緯」は「地球の赤道の天頂より北半球における各地の天頂緯度」である。
したがって、「+赤緯」は要するに「北緯」ということになる。
だから、「北緯3535分の土地の天頂緯度」もまた「北緯3535分」ということになる。

下図は「五帝時代初頭の黄帝時代、中国の各地の天頂緯度線をあらわす図」である。
下図が示すように、黄帝時代、北緯3535分の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯3130分の長江口(長江の河口がある湾)の中央(上海付近)」の天頂を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。
司馬遷著『史記』五帝本紀は――黄帝の遠征軍は「江」つまり「長江口がある湾の中央の地(上海あたり)」に至って、帰還した――と記述している。
したがって、黄帝の軍は、遠征各地の天頂緯度線をキャッチして南の長江口がある湾中央の地(上海あたり)まで遠征した後、帰路につき上海あたりから北上して山東半島の付け根にある日照(にっしょう・黄帝陵と同緯度の北緯3535)に到着し、日照から遠くの西方に洛陽(らくよう)に至り、洛陽から故郷(黄帝陵が所在する居住地)へ帰還したと考えられる。
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上図は、「十字の銀河」が「中国各地の天頂」にめぐってきたことを示す。
これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「中国全土(中国全土の天頂緯度線が測量できる基準(ものさし)」に見立てた。
「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央に、倉頡は「禾()の形の図書(ずしょ)」を重ねて、【禾の図書を育成適性地・長江口がある湾中央周辺地域がある、つまり「十字の銀河の子宮」がある「南」】に配した。
そして、倉頡はその「十字の銀河の南にある禾の図書」をさらに南へ伸ばし、「禾の穂」が「鬼の横顔に似る銀河の口」がある「西」へと垂れるようにした。
とうのも、「禾()の穂に実る米」は「人の口に入れる食料」となるからである。
これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
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下図の左側の【禾】の字形は、右上の()の図書である。
(
)の【禾】の字形は稲が地面に根をはって植わっていないとあらわす。ゆえに不自然・不合理である。
(
)の【禾】の字形の上下を180度転回すると()となる。
(
)は【禾】字源「時計回りに90度の転回方位規定」を表示しない。というのも、()[][西]を向くことになるゆえ、「反時計回りに90度の転回方位規定」を示すからである。
(
)を裏返しにすると、()の【禾】の字形(契文形)となる。
なお、このブログの初頭で説明したように、倉頡は「天理が正面とする南は、北を正面とする地理の北となる」という文字作成理論を確立させた。
ゆえに、倉頡は【禾】の字を作り、みずからの文字作成理論に則(のっと)って下図の()天理」の【禾】の図書の南は、地理の【禾】の図書における()()のごとく北となると定めた。
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下図に示したように、上図()の「地面に植わる【禾】の形」は、[][]に変位する「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を明示する。
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下に、【呉】の字源地理「反時計回りに90度転回する方位規定」を配した。
白川静著『字統』の【呉】について、「[][西]に変わる様子をあらわす【口(さい)】は「祝祷の器。【口】の下の字形は人が一手をあげて祝祷の形である【口(さい)】をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。
要するに、【呉】の金文形は「巫女(みこ)が児どもの誕生を祈祷(きとう)するときに用いる土器の【口(さい)】を右肩の上にかかげて祈ると願いがかない、出産児が産道を通過して元気に誕生した様子を見て慶(よろこ)ぶ巫女が身をくねらせて舞う姿」を図案するものであった。
下図は「[][西]に反時計回りに90度転回する様子」を示す。
ゆえに、【呉】の字形は「出産児が産道を通過するときの反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわした。(「回旋」は「かいせん」と読む)
だから、下図は、【呉】の字源は「反時計回りに90度転回する方位規定」であると表現している。
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下図に示すように、倉頡は、長江口以北地域の地名は【禾】、長江口より以南地域の地名は【呉】と定めた。
ゆえに、上記した倉頡が定めた地名にもとづき、【禾】の地域の川の名には【河】の字が用いられ、【呉】の地域の川の名には【江】の字が用いられて二分されている。
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◆現代史学は気づいていないが――原始のときから、人類には【天頂緯度を1度60分の60分の1の1分の精度でキャッチできる能力】が目にそなわり、【大脳には本能行動として1分の精度で測量できる能力】がそなわっていた。
下図は、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」、つまり「天頂緯度線」を示す。
下図の右上に示したように、天頂緯度線は天頂点で子午線と90度・直角に交わって【亠(とう)】という漢字となった。
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下図に、「原始のときからの、人類が天頂緯度を測量するときの姿勢」を示した。
天頂緯度を測量する人の姿勢は「時計回りに90度転回する方位規定」となった「出産児の第1回旋」をあらわした。
つまり、「天頂緯度を測量する人のポーズ」は「出産児があおむけ(レスリングのバックドロップのような姿勢)になって子宮口を通りぬけるときの、時計回りに90度転回する方位規定をあらわす第1回旋の状況」をあらわした。
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天頂緯度を測量する人は産道を通過する出産児のごとく無欲になれば「誤差を1(60)の精度」で天頂緯度を測定できた。
しかし、「必ず天頂緯度をキャッチする」と欲を有すると、「誤差が1分の精度」では測量できず、死産する出産児のごとく命を失った。
だから、上図の「天頂緯度を測量する人の頭・顔」を「出産児の頭・顔」に見立て、原始のときから「天頂緯度を精密に測定するときには、産道を通過する児のごとく無欲になれ」という忠告を、命をまもる心得(こころえ)にして、人類は命を後世につなげてきたことになる。

◆上記のごとくの方法で、原始のときから人類は天頂緯度を精密に測定して命をまもってきた。
これゆえ、紀元前2050年ころ、帝益の孫の王子一行は広大な大海で隔てる中国の会計(北京)・会稽(天津)と同緯度の日本列島・東北地方の八郎潟の偏(ほとり)に移住できた。
上記の「天頂の緯度を測量した方法」ならば「近辺の土地の緯度測量」はもちろん、「大海で遥かに隔てられる土地の緯度測量」も同様に緯度が精密に測定できた。

日本地図を開くと――日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島があり、遠く隔てた東端には伊豆諸島の神津島(こづしま)がある。
下図に示すように、沖ノ島と神津島は天頂緯度が同じ同緯度(北緯3415)である。
沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候地であり、亜熱帯地域の神津島は冬でも雪が降らず暖かい。
ゆえに、下図に記したごとく、沖ノ島を「西冷」とし、神津島を「東暖」と呼ぶことにした。
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下図に示すように、「中国の北部()の海岸線地域の気候は南部海岸線地域()より冷たい」。
「中国の南部の海岸線地域の気候は北部海岸線地域より暖かい。
ゆえに、中国の北部の海岸線地域は「北冷」、南部の海岸線地域は「南暖」となる。
下図に示すように、中国の海岸線地域の「北冷」と日本列島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、中国の海岸線地域の「南暖」と日本列島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する。
ゆえに、下図に示すように、日本列島の暖かい気候の「東」は中国海岸線の暖かい気候の「南」のほうへ伸びていると――卑弥呼は立論した。
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『魏志倭人伝』が記す末盧国(まつろくに)以下にある方位記事に則(のっと)ると、
日本列島は[]に伸びずに[]へ伸びることになる。
この方位記事によって、上図に示すように、本州の[西]にある九州が[]に所在することになる。
ゆえに、対馬国・一大国を除く日本列島は【禾】【委】【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則って転回していたことになる。
下の上図は、現代の日本列島における九州が北陸・東海地方よりも西方にある本州地図である。
下の下図は、卑弥呼立論した九州が北陸・東海地方より北方にある転回本州地図である。
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上の下図の【禾】【委】【倭】の字源に則る転回日本列島地理は、卑弥呼が錯覚した事実ではない地理であった。
しかし、卑弥呼は錯覚の転回日本列島地理を立論したことは事実であり、この転回日本地理によって倭女王に就任したのは歴史上の事実であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』には卑弥呼が考えた転回日本列島地理が記述されることになった。

卑弥呼が立論した転回日本列島地理は原始以来の人類が受け継いできた天頂緯度測量にもとづく科学的意見であり、
紀元前2050年頃に八郎潟の偏(ほとり)に定住した益氏の王子が帝禹と帝益がとなえた方位論にもとづいて「下北半島・津軽半島は東北地方の南端となる」と教えた学術意見と合致した。(現在は下北半島・津軽半島は東北地方の北端にあると定まっている)

このブログの初頭部で説明したように、紀元前3000年頃の黄帝時代初頭に生存した倉頡は「天理は南を正面にする。地理は北を正面する」と文字作成理論を定めた。
ゆえに、紀元前2100年頃に生存した帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は「地理の正面の北は天理の正面の南となる」と論じて、「地理における北の地は北に在らず、南に在る」と定めた。
紀元前2050年頃にわが国の東北地方に定住した帝益の孫の王子は「帝禹と帝益の考え方に則(のっと)って、日本列島・本州の北端の下北半島・津軽半島は北(北端)に存在せず南(南端)に位置する」と定義した。
ゆえに、日本列島・本州地理は下図のごとくに転回することになった。
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上図に示した益氏の孫の王子が立論した転回本州地理は、東北地方の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて立論した考え方であった。
ゆえに、日本列島の西部地域における九州は本州の最北・九州より東の北陸・東海地方が南に伸びている状況を益氏が立論して以来約2200年間も立証されていなかった。
益氏の孫の王子か約2200年後の西暦170年頃、上図のごとく、卑弥呼によって同緯度の沖ノ島・神津島の西冷・東暖の気候状況を注目して、益氏の王子が教えた転回本州地理は正しかったと証明された。

これゆえ、卑弥呼が提唱した「本州の東は東ではなく、南に伸びる」という意見は、益氏が教えた倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字の学術を修得した本州西部地域に居住する王・女王・氏族の長(おさ)たちは「正しい。まさに真実である」と賛同した。
そして、彼らは「これ以上、大乱をつづけて日々争っていると、地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊に激怒されて祟(たた)られ、大地(本州)は海中に沈没して人はじめすべてが滅亡するにちがいない」と深刻に悩(なや)んで心配するようになった。
だから、卑弥呼が立論した本州・西部地域の転回地理は倭国の大乱を一気に鎮静化(ちんせいか)する強大な威力を有した。
ゆえに、卑弥呼は本州・西部地域における最高位の女王に選ばれて就任し、わが国最初の「倭人国」が創立されることになった。

益氏の王子が教えた「下北半島・津軽半島は日本列島の北端ではなく南端となるという転回日本列島地理」は「東北地方一円の地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめて大災害が起きないようにした地理」であった。
だから、益氏の王子が立論した転回日本列島地理と同じく転回日本列島地理をとなえた卑弥呼は――卑弥呼が居住する地域辺一円の地中に棲む牽牛の死霊が激怒しないように騙しなだめて大乱が再びおきないようにしていた方策がなされて宮城を設営していた――ことになる。
というのも、『魏志倭人伝』には「倭の女王の卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)と素(もと)より和せず、(中略)、相攻撃しあう」と説明する記事が存在するからである。
本州・西部地域の倭人国において、男王・卑弥弓呼が治める狗奴国は卑弥呼と敵対(てきたい)していた。このため、大乱は倭人国の国中が完全に鎮静化(ちんせいか)したのでなく、狗奴国とは互いに小競(こぜ)り合いをして燻(くすぶ)っており、狗奴国軍が卑弥呼が住む宮城に攻撃してくるような情勢であったのである。

それゆえ、『魏志倭人伝』は狗奴国との争いが拡大して大乱とならないように、卑弥呼は地中の牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめていた様子を下記のごとく説明する。
「名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)って能()く衆を惑(まど)わす。年已(ねんすで)に長大なるも夫婿(ふせい)無し。男弟有りて佐(たす)けて国を治む。王と為()りし以来、見る者少なく、婢()千人を以て自ら侍()せしむ。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞を伝えて出入す。居処(きょしょ)は宮室・楼観(ろうかん・見張り櫓)・城柵(じょうさく)を厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持()して守衛す。」

上記のごとく、卑弥呼は軍事的施設の城を構成する柵(さく)をおそらくジャコウウシが敵にそなえる円陣のごとく円形にならべ、この円形の柵内(城内)に見張り櫓(やぐら・楼観)を建造して狗奴国軍が攻撃してくるのを日々警戒し、城の出入り口の門に兵を配置して守衛させていた。
卑弥呼は、城の柵内(さくない)の一画に建造した宮室に住んでいた。
卑弥呼を弟が補佐して国を治めていた。
その他に、一人の男子が飲食を給仕(きゅうじ)していた。
この男子の役割は、カワセミの求愛給仕行為からオスが嘴(くちばし)にくわえる魚をメスが受け取って食べる習性を真似(まね)したものと考えられる。
カワセミは、巣穴の近くにダミー(騙し)の穴を作る。
ゆえに、卑弥呼が居処する宮室にはダミー(贋物)の宮室が作られていたであろう。
卑弥呼を見た者は少なかったのは――おそらく地中に棲むジャコウウシの死霊が激怒するのを騙しなだめるために、卑弥呼も常に地中に潜(もぐ)るかのごとく姿を見せないようにする呪術(じゅずつ・まじな)いをおこなっていたからと考えられる。
卑弥呼が婢千人を侍(はべら)せていたのは――13歳くらいの婢(乙女)たちは最も強大な魔力を有すると信じられていたため、婢は倭国の大乱の戦場において呪(のろ)いの儀式をおこなって敵の呪的(じゅてき)な戦力を奪うことができる魔女として従事していた。婢は敵の魔女(呪術者・婢)も殺すことができる呪力を有するとされた。
だから、卑弥呼は城内に優秀な魔力を有する婢千人を生活させて、戦場で彼女たちが魔力を再び発揮しないようにして大乱が起きないようにしていたにちがいない。

以上のごとく、『魏志倭人伝』が説明してた「日本列島の東は南に伸びる」という転回地理は、卑弥呼が立論した【倭】の字源を表示する実在した地理であった。
「卑弥呼」の【卑】の字源・原義は「偉大な地理学者」であり、『説文解字』が解説する「下賤(げせん)なり」は字源・原義を失った誤った字説であった。
卑弥呼がとなえた転回日本列島地理は、倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の帝禹と帝益が立論した[北」(本州北端の下北半島・津軽半島)[]とする転回地理の意見と合致した。
だから、『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は歴史上に実在した事実であったことになる。
邪馬台国説学者たちは「本州の東は東ではなく、南に伸びる」と説明する転回日本列島地理は誤っている、事実ではない」と否定するが、この意見は空理空論あったことになる。

◆以上のごとく、わが国には確実に【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】が存在し、7世紀中半~8世紀初頭の飛鳥時代にも王朝基盤となる学術として存続していた。
だから、2世紀末~3世紀中半までのわが国の様子を約2000字で記述する『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】を【系統的に合理を超える合理の成立】をもって説明する、現在において先端科学的な論考で構成される最高・最良の史料であった。

次回の漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41―1」では【臺()】と【壹()】の字源の相違を明確にし、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壹()国であった」ことを証明する。
これゆえ、現存する12世紀末の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の「邪馬壹国」という表記は誤字ではなく正しかったことになる。
だから、卑弥呼が統治する倭人国には「邪馬臺()国」という名の王国は実在しなかったことになり,18世紀前半に新井白石がとなえて以来今日までの約300年間も多くの学者たちが継承してきた邪馬臺()国説は誤読の産物の空理空論であった事実が明白となる。

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2025年3月 9日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・39

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった()

【漢字】は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬()かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ぶ。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【銀漢・夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆邪馬台国や卑弥呼について説明する古書は通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ・233297)が記述した計1983字と、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成される。
『魏志倭人伝』は陳寿著『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾にある〔倭人伝〕である。
つまり、晋(しん)王朝の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)であった陳寿が著作した正史『三国志』の65巻のうちの〔魏書東夷伝末尾の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。

山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行・19811130日第18刷発行)は、29ページで「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇―二八九)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指定する。
ゆえに、『三国志』65巻における〔魏書東夷伝末尾の「倭人伝」〕、つまり『魏志倭人伝』は西暦280年~289年に著作された。
現在、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』の原書は現存せず、成立から約900年後の12世紀末における紹煕刊本(しょうきかんぽん)として現存する。
このため、約900年後の刊本がすべて原本のとおりに正確に写して残したのであろうか? 
当然、誤記・誤解が加えられて一部分が不正確になったにちがいないと疑われる。

◆ゆえに、現在、学界においては、上記したように3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原本が残らずに、900年後の紹煕年間に作成された刊本として残った点や、
下記の3点の説明は「事実に反して誤っている」と断定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述する。しかし、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀のであるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている
【2】また『魏志倭人伝』は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、「日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びていない」。だから、「【南】へ伸びる」と説明する転回日本列島地理は事実に反して誤っている
【3】紹煕刊本は、女王卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺()(やまたいこく)」こそが正しい
下に示すように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬臺()国」ではなく、「邪馬()壱国」と記す。

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この「漢字の起源と発明を解明す」題するブログは、上記した【1】を39(今回)の問題をテーマとし、【2】を次回(40)の問題をテーマとし、【3】は41回の問題をテーマとして詳細に解説し、【1】【2】【3】の記事は事実を伝えることを証明して――【『魏志倭人伝』は倉頡が発明した文字作成理論と夏音文字をわが国は約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した事実を記述する最高最良の書物】であることを、()()()の3回に分けて詳細に解説して証明することにした。

上記の『魏志倭人伝』に記述される【1】【2】【3】の3点の事柄は、「学界、あるいは考古学における定説に反する説明」である。
ゆえに、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』〔邪馬臺台国を中心に〕(光文社発行・1980625日第4刷発行)における考古学学者・江上波夫(えがみなみお)氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」では、上記した『魏志倭人伝』における3点の事柄の記述について、下記のごとく批判する。
「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいは、どのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」

ところが、わが国の言語学・音韻学(おんいんがく)・文献史料史学の視点のもとづくと、
――【わが国が最初に漢字を習得したのは、考古学が定める5世紀】ではないことになる。
言語学・音韻学・文献史料にもとづくと、【わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の紀元前21世紀末(後期縄文時代初頭)であった】ことになる。
ゆえに、上記した『魏志倭人伝』の【1】「わが国には2世紀末から3世紀中半において、すでに漢字知識があった」という記述は【事実】であったがことになり、また【科学】が成立して正しかったことになる。
また、【2】も【3】も【1】と同様に確かな証拠によって【事実】が成立し、また【科学】が成立する。
だから、考古学の「【1】わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」という定説は【事実】に反する非科学的な意見であり、根本的に錯覚(さっかく)にして幻想であったことになる。

◆わが国における古代中国文字研究の第一人者は白川静(しらかわしずか)博士とされる。
白川静博士は字書『字統(じとう)(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』の序におけるの9ージ末尾の3行目~10ページの最初から3行目までは、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

上記末尾の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
今から約4000年前の、紀元前2000年頃(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国が習得した夏音文字(かおんもじ)の字音である。
上記の紀元前2000年頃は、中国の夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)に相当する。

白川静著『字統』が指摘するように、わが国には中国における最古の漢字音よりも古い漢字音が残っている。
中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
わが国の古書に多数残っている夏音文字は、紀元前2050年頃の夏代黎明期に中国から名門氏族が渡来し教えひろめて――紀元前2000年頃にはわが国の各地・各氏族が習得していた漢字音である。
したがって、中国の最古の字音・上古音よりもわが国の夏音(夏音文字の字音)は約1000年も古い。
だから、わが国は最初に中国の漢字を習得したのは、考古学が断定する5世紀ではなく、
言語学・音韻学の研究成果にともとづくと、下図に示すように、紀元前2000年頃の夏代黎明期(わが国の後期縄文時代初頭)であったことになる。
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◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)が「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて、「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)」を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興せよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、言いかえると――「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。

◆『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」であって、〔中巻・下巻の記事とは無関係〕であり、したがって【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という指摘がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という指摘がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という指摘がつく夏音文字】について説明する。
この「〔音〕と指摘される夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は下記のごとくであり――この冒頭文は「【わが国は後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)に夏音文字を習得した】と説明していた。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」

「古事記上巻 并せて序」の全文や〔創世の神々説話〕冒頭の三柱(みはしら)の神々記事に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の三柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2000年頃)、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】によって【漢字は銀漢各部の形状から作られて起源した知識】や【夏代黎明期の夏音文字】を習得して、また【五帝時代から夏代黎明期までの歴史】を知ることができました。」

「古事記上巻 并せて序」の末部は、【夏音文字を楷書に変換した作業】を下記のごとく説明する。
「上古の時、言(ことば)・意(こころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字に於()きて即(すなわ)ち難(かた)し。已(すで)に訓(くん)に因()りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以ちて連ねたるは、事の趣(おもむき)(さら)に長し。是(ここ)を以ちて今、或(ある)は一句の中に、音訓を交(まじ)へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録(しる)す。即ち辞理の見え叵(がた)きは注を以ちて明(あきらか)にし、意況(いきょう)の解(さと)り易きは更に注せず。亦(また)(うぢ)に於きて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂()ひ、名に於きて帯(たい)の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此(かく)の如き類(たぐひ)は、本(もと)の随に改めず。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「上古の(夏音文字)の語と語意は(夏の銀河各部の形状)を素直(すなお)に図案するものであったゆえ、夏の銀河各部の形状にもとづかない字を多数有する現在の楷書の文章に書き改める作業は難(むずか)しいです。すべて楷書の字訓であらわしますと、ただ声に出してあらわす楷書の字音と異なって節(ふし)をつけて歌う夏音文字の歌詞の心をすべて表現することはできません。そうかといって、すべて夏音文字の〔音〕を連ねるようにしますと、文章がたいへん長くなります。ゆえに、ここ(『古事記』上巻)では、ある一句の場合には〔音〕(夏音文字の字音)と〔訓〕(楷書の字訓)とを混じえて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて楷書の字訓を用いて記すことにしました。そして、辞理(辞の作成理論、つまり「天理と地理を重ね積み重ねた辞の理論」)を捜(さが)し見つけることができない場合は〔注〕を加えて明らかにし、意味がわかりやすい場合には〔注〕を加えませんでした。また姓(うじ)における楷書の【日下】は夏音文字では【玖沙訶】と言い、名における楷書の【帯】を夏音文字では【多羅斯】と言うような、日常的に常用して知れわたる類には、従来の記述に従いそのまま楷書で記して〔音〕と記す指摘を加えませんでした。」
〔注 上記した文中にある「辞理」という語は「天理(銀河各部の形状)と地理を重ね積み重ねた辞の理論」の略称――つまり、「辞理」は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。〕

前述したように、『古事記』の中巻と下巻には、〔音〕という指摘が存在しない。
〔音〕という指摘は、『古事記』の上巻だけに限って随所(ずいしょ)に加えられている。
だから、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」と題されることになった。
したがって、「古事記上巻 并せて序」末部にある文中にある〔音〕は、「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すべきことになる。
〔音〕を「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すると、「古事記上巻 并せて序」の末部にある文章は、上記したように現代語に訳することができる。
上記の現代語訳が正しい事実は、幾種類(いくしゅるい)かの史料(証拠)を提示して具体的に明確に証明することができる。
ゆえに、従来の学者たちの解釈は文字面(もじつら)だけを撫()でる、誤訳であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、上記した【「古事記上巻 并せて序」の末部の説明】を次回(40)46回?までのテーマにして解説して事実であったことを証明する。

◆夏音文字は、紀元前2050年頃、“夏()の始祖”の帝禹(ていう)の後を継ぐ帝益(ていえき)の孫の王子と益氏の青年たちが日本列島の東北地方・秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住し――紀元前2000年頃、東北地方や関東地方の各地に住む氏族たちによって夏音文字は習得された。
〔夏音文字の日本列島習得史〕は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回まで7回をもって詳細に解説して証明した。
この7回における〔夏音文字の日本列島習得史の解説〕を、これから要略する。

司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀(かほんぎ)・第二は、下記のごとく帝益について説明する。
「帝禹は益を挙()げて十年間、政治をまかせた。
帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい・北緯39度の中国の天津であろう)にいたって崩(ほう)じ、天下を益にさずけた。
帝益は三年の禹の喪()が終わると、禹の息子の啓(けい)に帝位を譲(ゆず)って、箕山(きざん・北緯38度の黄河の河口地域、つまり黄河口地域であろう)の南の地(天津より南東の北緯35度近辺の、山東半島の付け根の辺りの地所であろう)に隠棲(いんせい・隠居)した。
禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。
ゆえに、諸侯(しょこう)は賢人(けんじん)であった啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。」
〔注、なお、「帝禹が居住した会計(かいけい)」は「八郎潟の西の偏(北緯40)と同緯度の、現在の中国北部の、北緯40度の北京」であったと考えられる。
つまり、帝禹は会計・北京市を首都とし、補佐役の益は会稽・天津に居住していたと考えられる。〕

上記したように、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は〔帝益が禹の子の啓に譲った理由〕を「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についたのが短期間であったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」と指摘する。
しかし、この理由はほんとうの理由でなかった。
ほんとうの理由は――帝禹と啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。
帝禹は〔五帝時代以来の、国家を作らずに、多数の氏族から最も優秀な人物を帝に選ぶ、多数の氏族が共同する政治体制〕の継続(けいぞく)、つまり〔国家を作らない・氏族共同政治体制の継続〕を願った。
一方、啓は〔国家を樹立(じゅりつ)して、最も優秀な氏族が子孫代々帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させる政治体制〕、つまり〔世襲王朝・国家政治体制〕を欲求(よっきゅう)した。
だから、帝禹は臨終の際、益に「国家を樹立しない、氏族共同政治体制を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継がせた。
しかし、諸侯は禹が願った「国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続」を望まず、啓が主張する〔世襲王朝・国家政治体制〕に賛同して、帝益のもとを去った。
ゆえに、帝益は中国ではもはや禹が継続を切望した〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕はまったく望まれていないと判断して――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山の南の地に隠居したのである。

そして、益は禹の遺志(いし)である〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いていたため、中国と日本列島を隔(へだ)てる大海を小舟で漕()いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、〔禹の遺志の、氏族共同政治体制の継続事業〕は、広大荒漠(こうだいこうばく)たる大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な腕力を有する益の孫の王子と将来益氏を継ぐ青年たちによって決行された。
このため、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか・第六)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封(ほいう)ぜられたか不明である」と記述されている。
このように、名門・益氏が中国のどの地に封ぜられたか不明になったのは、益氏を受け継ぐ青年王子と若者たちが大海を渡って日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(帝禹が首都とした会計・北京と同じ北緯40度の地)に移住したからである。
中国には益氏の老人や女性たちが残ったために勢力が年々衰退した。ゆえに、中国では益氏が封ぜられた地が不明になって、益氏は忽然(こつぜん)と消えることになったのである。

益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史について、
720
年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)初頭部は下記のごとく説明する。
「昔、わが天神(あまつかみ・つまり字源となる天の銀漢が神)のタカムスビノミコト(中期縄文時代を支配した男神の高産巣日神)とオオヒルメノミコト(中期縄文時代を支配した女神)は、この豊原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、つまり日本列島)を天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、つまり帝益の孫の王子)に授けられた。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲露(くもじ)をおしわける先ばらいを立てて)、益氏の王子一行は旅の目的地(つまり、会計・北京と同緯度の八郎潟の西の偏)に到着した。このとき、この地域はいまだ野蛮(やばん)で草昧(そうまい・辞理が確立されていない状況)であった。そこで、蒙昧(もうまい・学術が存在せずに文化が低い状況)の中にありながら、みずからの正しい教え(倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字の教えなど)を養育して、この八郎潟の西の偏(ほとり)より一帯を治めた。
その後、わが天祖(帝益の孫の王子)と皇祖(こうそ・帝益の孫の王子の子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」

〔注、()上記の「彦火瓊瓊杵尊(帝益の孫の王子)は天のいわくらを開き、雲露をおしわける先ばらいを立てて」という説明は――「旅路をさえぎる大きな岩のような障害を乗り越え、曇った夜空では旅路の位置を精確に知ることができないが晴れた夜空を待って精確に旅路の位置を知ることができる天頂緯度線を精確にキャッチする役目の緯度測定能力が優秀な若者を王子一団の先頭に立てて」と意味したことになる。
また、()上記の末尾の「その後、倭が天祖と皇祖は神の聖のように徳高く、慶(善政)を積みかさね、暉(恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」という説明は――要するに「紀元前2050年頃に八郎潟の西の地に定住した天祖と天祖の息子の皇祖が教え広めた【倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字など、中国で開発された先端学術】は、紀元前2000年頃には東北地方・関東地方における各地の氏族にゆきとどいて習得された」と意味したことになる。
(
)だから、上記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭部の説明は、「天祖(帝益の孫の王子)が、箕山の南に隠棲した帝益に帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島に定着させる事業】を命じられて、男鹿半島・八郎潟より西の地に定住した」と伝えていたことになる。〕

◆『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。
このように、『魏志倭人伝』の冒頭の字は【倭】である。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が幾度となく解説して証明したように――【倭】の字源は
「現在方位の【東】が時計回りに転回して【南】となる」がごとく、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
このブログの前ページにて紹介した上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』の〔邪馬臺国を中心に〕(光文社発行)の直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」には、下記のような指摘がある。
――内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。

上の記事に登場する「内藤」は「明治時代の学者・内藤湖南(ないとうこなん)氏」である。
上の記事の後半の「『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という否定意見はまちがっていた。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて――
『魏志倭人伝』の「不弥国(ふみこく)から南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日」という水行の【南】」は、
「不弥国・宗像市(むなかたし)の神湊(こうのみなと)から出発し、宗像市神湊の【西】にある沖ノ島に立ち寄って、沖ノ島から【東】(現在方位)にある山口県萩市の見島(みしま)を【倭】の字源の【南】(転回方位)にする」ものであった――そして、『魏志倭人伝』は「見島から山口県の長門市(ながとし)の港に到着する」と説明していたのである。
〔注 上記した「漢字の起源と発明を解明す・18」において、〔宗像国から投馬国までの水行〕について――「【倭】の字源の転回方位の真西(現在方位の真南)となる長門港までの航路」が「二十日の水行(航路)」であったことになる――と解説した。
この【西】が【南】になる解釈は、【呉】の字源「現在方位を逆時計回りに90度転回する方位規定」を説明していることになる。この誤記について、「漢字の起源と発明を解明す・18」を読んだ人々にご迷惑・混乱をあたえてしまったゆえ、なにとぞここで訂正することをご寛容(かんよう)のほどお許しねがいたい。
このブログの何回かの後の回にて――【倭】の字源の転回方位にもとづき宗像市の神湊を【沖ノ島より南】と定め、【倭】の字源の転回方位だと山口県萩市は【東】となる。ゆえに、【北(沖ノ島)から東(見島】によって【倭】の字源が成立する。しかし、なにゆえ不弥国の宗像市から投馬国の山口県の長門港は【東】にあるのにもかかわらず、『魏志倭人伝』は【南】にあると記述したのかについての秘密――についてこのブログの後の回で解明する予定である。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて――
『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と記す、「邪馬壹()国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在における島根県の西部・東部と鳥取県の西部」であったと解説し証明した。
邪馬壹()国の中心地域は、旧国の出雲・島根県東部の松江市であった。
『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という、水行記事がある。
【松江市の北(現在方位)にある隠岐群島を【東】(転回方位)にする】と、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が合理となる。ゆえに、【倭】の字源に従うと【北】が【東】となる。
だから、『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事は間違いではなく、【倭】の字源の方位にもとづいて説明して正しかったことになる。
したがって、上記した直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」の文中にある――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は『魏志倭人伝』の記事の表層の所々をつまみ食いした粗雑な意見・軽率な論考であったことになる。

『後魏書』の【魏】の字の偏(へん)は【委】であり、【倭】の旁部(つくりぶ)もまた【委】である。
ゆえに、【魏】の偏【委】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
だから、――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は、軽率な愚見(ぐけん)であったことになる。

『後魏書』は6世紀半ばで成立した。
ゆえに、倭人国のみにかぎって保存されていたのではなく――中国でも「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は保存されて実在したことになる。
古代のわが国と中国の航海者たちは、水行において【委】の字源【「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と、【呉】の字源「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」を駆使(くし)して大海原の藻屑(もぐず)となって命を失わないようにして航海していたのである。
つまり、古代の航海者たちや人々は「地理(大海の方位)には【委】の字源と【呉】の字源の転回方位が存在する」と信じていた。
〔注 原始から人類は円周運動をする天頂の緯度を観測して生命をまもって生存したゆえ「方位も円周する」と考えていた。ゆえに、縄文人・弥生人もまた方位は円周(周旋)して変位して3種類存在すると確信していた。だから、縄文時代・弥生時代では、方位は現在のように天の北極を基準にして一つではなかった。一つではなく、[()【北】は【南】となって180度変位する方位規定と、()「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と()「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」が存在し、それら3種類の方位規定が合体して成立する]と定めていた。このため、方位規定は【難解な学問】となった。ゆえに、【倉頡が発明した文字作成理論と夏代黎明期に出現した方位理論は学問】となった。後世、この【学問(方位理論)】を最も理解した人物が帝王となり、あるいは理解した人が身分の高い地位につき、あるいは氏族の長となった。この【学論】が理解できない人々は道に迷って命を落とすことになった。〕

◆下記の『魏志倭人伝』の記事もまた、【倭】の字源に則(のっと)って「時計回りに90度方位を転回して、現在方位の【東北】は【東南】になる」と説明する。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回までに詳細に解説して証明したように、
下の『魏志倭人伝』の後半部にある記事もまた、「帝益の孫の王子一行が八郎潟の南の海岸に上陸して、八郎潟の西の偏に定住した」と説明して、【倭】の字源を表示する。
この『魏志倭人伝』の後半部にある記述は下記のごとくである。
「黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくとなる。
――黒歯国(現在の石川県北部の能登)がある。黒歯国・能登の東南に、船で行くと一年ばかりで到着できる地がある。その倭地を船に乗って訪れると、海中に陸から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいはこの大きな島から遠く離れて小さい島が存在し、あるいはこの小さい島からまた小さい島が連なり、これらの黒歯国から周旋方位(【倭】の字源の「現在方位を時計回りに90度転回して「東北」が【東南】となる方位規定)にて五千余里ばかりの距離に、(帝益の孫の王子一行が上陸した地がある)
〔注1 上記の文中には「倭地を参問するに」という文があるように――この文先頭の【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、『魏志倭人伝』の九州の末盧国(まつろこく)以下本州の黒歯国・能登までの方位記事にもとづくと、「倭地(日本列島)の【東】は時計回りに90度転回して【南】に伸びる」と説明している。
注2 上記した文の末部は「周旋五千余里可り」である。ゆえに、「倭地は【東】に伸びずに【南】に伸びる、時計回りに90度転回する方位規定」について「周旋」と表現したのである。
「周旋」という語は「天頂となる天体部は円周運動をする」と意味した。だから周旋(円周運動をする)方位規定にもとづくと、「黒歯国から東南に益氏が上陸した八郎潟の西の偏(ほとり)に近い海岸が存在する」と『魏志倭人伝』は説明していた。つまり、「周旋」は上記した「倉頡が発明した3種の方位論と夏代黎明期に出現した3種の方位論」を表現していた。
要するに、黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した地点は、現在方位で能登の【東北】となる八郎潟より南の、現在の秋田県の潟上市(かたがみし)天王町の海岸に上陸したことになる。
夏代黎明期に定住した益氏は【東北地方の北端】を【東北地方の南端】であると立論した。ゆえに、日本列島・本州の【北(北端)】は【南】となり、本州は【北】ではなく【南】に伸びることになった。
卑弥呼もまた「九州以下の本州の【東】は【南】へ伸びると立論して証明した。
このため、卑弥呼が立論した転回日本列島地理と益氏の東北地方転回地理は合致して、九州から東北地方までは本州の能登地方のあたりから曲がっても【南】へ伸びることになった。
この結果、『魏志倭人伝』は「日本列島は能登からもまた【南】へ伸びて、天王町は能登の【東南】にある」と記述したのである。
注3 『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「春に耕作を始める日を一年とし、秋に収穫する日を一年とする、中国の暦の一年を二年と数える二倍歴がある」という注がある。したがって、上記した「船行一年」は「船行して現在の半年であった」と意味したと考えられる。〕

下図に、【倭】の字源や「周旋」という語に則(のっと)り「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて【東】に伸びずに【南】に伸びる転回倭地図(転回日本列島地図)を示した。
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下に、【倭】の字源や「周旋」という語の秘密にもとづいて「現在方位が時計回りに90度転回する方位規定の黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した秋田県潟上市の天王町の海岸までの地図」を配した。 
下図に示したように、上記した『魏志倭人伝』の「海中洲島の上に絶在し」という文は「新潟県、日本海上の佐渡島」をあらわし、「或いは絶え」という文は「日本海に浮かぶ、新潟県北部の孤島・粟島(あわしま)」を説明し、「或いは連なり」という文は「山形県方西端の、日本海上の孤島・飛島(とびしま)」を説明していたことになる。
現在方位の場合、黒歯国・能登から天王町の海岸までは【東北】である。
しかし、下図に示すように、【倭】の字源や「周旋(天体部が円を描く運行)」に則(のっと)ると、黒歯国・能登から天王町の海岸の方位は、『魏志倭人伝』の記事に合致して【東南】となる。
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◆『魏志倭人伝』の前半部には「古自(いにしえよ)り以来、其()の使()中国に詣(いた)るに自ら大夫(だいふ)と称す」と伝える記事がある。
上記のごとく、「大海を越えて中国に到着した倭人国の使者は、昔から自ら【大夫】と名乗った」。
『万葉集』(万葉仮名の音文字)における【大夫】は「ますらを」と読む。
「ますらを」は、現在では【益荒男」】表記する。
したがって、【益荒男】は「名門・益氏の王子と若者たちは中国から日本列島に渡来(とらい)して定住した。ゆえに、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて中国に到着した、名門益氏の王子と若者のごとく勇敢な男性である」を意味した語の略称(りゃくしょう)であったことになる。
ゆえに、【大夫】は【益荒男】は同義であり、【大夫】の語源は「帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。

◆『魏志倭人伝』の中半部には、下のような記事があり――この記事は「2世紀後半(10年頃~240年頃)の卑弥呼時代には漢字知識、つまり夏音文字が存在した」と説明している。
「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置きて諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国(いとこく)に治()す。国中において刺史(しし)のごときところ有り。王、使()を遣(つか)わして京都(けいと・魏の都の洛陽)・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国に詣(いた)り、また、郡の倭国に使(つかい)するや、皆(みな)()に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)を捜露(そうろ)し、女王に詣るに差錯(ささく)あるを得()ざらしむ。」

上記の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置して倭国における諸国(34の小国)の様子を検察していた。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった。倭女王・卑弥呼が使節を魏都・朝鮮半島北部に魏の出張政庁機関が所在する帯方郡・諸韓国に派遣するときには、すべて伊都国の港において、卑弥呼が夏音文字で書いた文書と魏都・帯方郡・諸韓国が楷書で書いた文書(つまり、伝送の文書)の文や語句の意味が合致して同じとなるように、また倭国と魏都・帯方郡・諸韓国と取り交わす賜物(しぶつ・贈り物)の名称をあらわす夏音文字と楷書の意味が同義となるように、逐一(ちくいち)点検し確認して、すなわち夏の銀河各部の形状で捜し露(あら)わにして、倭女王・卑弥呼のもとに届いたときに差錯(間違い)が生じないようにしていた。」

上の『魏志倭人伝』の記事には「伝送の文書、賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ」という文がある。
この文は「魏都・帯方郡・諸韓国と倭人国が取り交わす文書、または贈り物の名称に用いられた文字は、伊都国の港で、楷書を連ねる語と夏音文字で連なる語の意味が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにして(見つけて)、卑弥呼のもとに到着した時に差錯(誤記)が生じないようにしていた」と意味した。
というのも、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の大半の字源・字形・字義と卑弥呼が用いる夏音文字の字源・字形・字義のすべて】は、夏の銀河各部の形状から図案するものであったからである。
ゆえに、楷書と夏音文字で構成される語は、夏の銀河の部分で合致することになった。
だから、「捜露」つまり「楷書と夏音文字の両者の語義が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにした(見つけた)。」と記されたのである。

このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39回」にて記したように、

「古事記上巻 并せて序」の末部の記事には「辞理の見え叵(がた)きは」という文がある。
前述したように、夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状から作られて生まれた。
楷書の字源・字形・字義もまた、夏の銀河各部の形状から作られた。
しかし、夏音文字の語に用いられる字を楷書に変換して両者の意味が一致する夏の銀河の部分を捜し露わにする、つまり見つけだす作業(楷書と夏音文字の辞の意味が合致する夏の銀河の部分を見つける作業)は困難であった。

ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の末部には、夏音文字と楷書との変換作業について「夏の銀河各部の形状を見て、両者の辞が合致させる作業は難(むず)かしい」と説明されて、「辞理は見え叵きは」と記されたのである。
【辞理】という語は「辞は完全な合理からなる天理(夏の銀河各部の形状・位置)と、不合理な点や弱点を少数有する地理から構成される」と定めた、倉頡が発明した理論】の略称である。

このような「地理には不合理な点が少数存在すると定めた理論」は【卑】の字源となった。
「夏の銀河の形状・位置は完全で不合理な点が存在しないと定める道理」は、【尊】の字源となった。
中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』である。
『易経』における周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)冒頭にある「天尊地卑(天は尊く地は卑し)」という文は「天理は完全であるゆえ【尊】の字源となり、地理には少数の不合理な点があるゆえ【卑】の字源となった」と解釈しなければならない。
ゆえに、「天は尊く、地は下賤(げせん)である」という解釈は誤訳となる。
だから、「卑弥呼」の【卑】は「地理、つまり【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理をとなえた、最高に優れる地理学者」と意味した。

◆上の「伊都国の記事」が説明しているように、倭人国には【夏音文字】が存在した。
前記したように、『魏志倭人伝』を著作した陳寿(ちんじゅ)は晋(しん)の歴史編纂官であったため、【晋王朝に秘蔵されていた――西暦200年~250年頃に帯方郡や魏に送られた倭人国の国書(つまり、卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で楷書に変換した倭人国の国書)】を閲覧(えつらん)することができる権利を特別に許可されていたのである。
陳寿は倭の国書にある『魏志倭人伝』の「対馬国の南は瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)で、瀚海の南は一大国である」という記述は「倉頡が発明した文字作成理論を最初に学習する基本知識」を説明するものでははないかと推理した。
また、【倭】は夏音文字で倉頡伝説に登場する【禾(か・稲)】と字源は同じではないか、「邪馬壱国」の【邪馬】の語源は「瀚海に生息するフタコブラクダ」ではないか、「卑弥呼」の【卑】は【益】と同義で「地理学の最高知識者」を意味するものだはないか、倭人国の諸国名に登場する「不弥国」と「不呼国」の【不】は夏王朝を始まったときに帝禹(ていう)が作った字ではないか、また「不弥国」の夏音文字【弥()】は倉頡が作った【爾】が進化した字ではないか、あるいは「不呼国」の夏音文字【呼】は倉頡が作った【乎】が進化した字ではないかなどと推理した。
ゆえに、陳寿は「一大率が治める伊都国の港で卑弥呼が用いる文字を魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に書き直して意味が同じようにする」と説明する倭の国書から「倭国には太古に習得した漢字が存在する。この太古文字は魏や晋、そして朝鮮半島で使用される楷書の字源・字義を正しく変換できる能力(学術知識)がある」と推定した。
言いかえると、陳寿は「倭人国の太古漢字は楷書と同じく夏の銀河各部の形状から作られた秘密」に精通し、「漢字は五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明して起源した」と伝える伝説は事実を伝えていることを知っていたのである。
だから、陳寿は主観(自分の考え)を一切(いっさい)加えず、【倭の国書】にある記事をそのまま書き写すようにして『三国志』魏書東夷伝の末尾に〔倭人伝〕(つまり『魏志倭人伝』)を配置した。

『魏志倭人伝』の後半部の記事を注目すると――上記したように、倭の国書は200年~250年頃に作成されたと推測される。
ゆえに、陳寿は3世紀初頭~3世紀中半に作られた倭の国書の記事を抜粋(ばっすい)・書写して『魏志倭人伝』を構成した。
多数の考古学や邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は中国人が作った歴史史料であるゆえ、倭の様子を正しく伝えることができず、幾つかの誤記や矛盾や不合理な記事が存在するのが当然である」と主張するが――
上記したように、『魏志倭人伝』は倭人国で作られた国書をほとんどそのまま書写するようにして作成されたゆえ、「わが国で作られた文献史料」と解して読まなければならない。

現在の学界は「漢字は中国の五帝時代の初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明して起源したと伝える伝説は、を荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と指摘して否定する。
しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回などで詳細に解説して証明したように――倉頡伝説は「倉頡が夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法を発明し起源した」と事実を語るものであった。
ゆえに、倉頡伝説は作り話であると疑う人々は「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回を参照していただきたい。

倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
〔注 上記したように倉頡は文字作成理論(文字の学芸知識)を容易に理解できるように説明する者はその一族全員にも神罰がくだって厳しく罰せられて死滅することになると忠告するゆえ、前記した「古事上巻 并せて序」の全文は非常に難解に作られている。〕

【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】は発見されないことになった。
しかし、前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』・8世紀初頭に成立した『古事記』上巻・8世紀後半に編集された『万葉集』の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数保存された。

上記したように――倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配して――【死刑となる3つの掟】を定めた。
この【3つの掟】を破ると、犯した本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員が死刑に処せたれた。
だから、『魏志倭人伝』の伊都国の記事は「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置し、一大率は倭国における諸国の様子を検察していたのである。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった」と説明していたのである。

『魏志倭人伝』には「乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為()し、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事がある。
したがって、倭王朝(卑弥呼王朝)は夏音文字と楷書に精通する伊都国の男王・一大率と夏音文字の最高権威者の卑弥呼が共に立って、【倉頡が定めた3つの掟】を厳重にまもって検察し統治する政権であったことになる。

◆前記したように、「わが国には夏代黎明期に用いられた夏音文字が存在した」と記述する古書には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使が「後稍(のちやや)、夏音を習う」と中国に報告した――と伝える『新唐書』日本伝はじめ、
下記に示すように、『魏志倭人伝』・『古事記』の「上巻 并せて序」と上巻・『万葉集』などがある。

(
)『魏志倭人伝』はさまざまな記事で「卑弥呼時代(170年~240年頃)、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明する
(
)また、夏音文字は「古事記上巻 并せて序」にて意符・音符に用いた楷書との関係が説明され、さらに夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて多数残っている
(
)『万葉集』に収まれられる多数の和歌に用いられる万葉仮名(和歌の原文に用いられる文字)にも夏音文字が楷書で記されて多数残っている

上記したように『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』と同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字に秘められる字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる。

このように、上記した文献史料史学に則(のっと)り、
また、白川静著『字統』の序にある言語学・音韻学の研究成果を説明する「わが国の漢字音」と題する記事を注目すると、
考古学が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する意見の実体は臆測(おくそく)・偏見(へんけん)の産物であり錯覚・幻想であったことになる。
上記した考古学における漢字習得説は埼玉県行田(なめた)市に所在する稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣銘」に刻まれていた楷書にもとづく。

注目すべきは――「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」という定説の証拠となる稲荷山鉄剣銘に刻まれる「意富比垝」は「おほひこ」、「弖已加利獲居」は「てよかりわけ」と読み、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される文字、そして『万葉集』の万葉仮名と同じく楷書を字音と字義に用いる。
だから、稲荷山鉄剣銘の文字は「夏音文字の字音を楷書で表記した遺物」であったと考えられる。
ゆえに、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と断定することはできない。

◆以上のごとく、このブログの初頭部で――『魏志倭人伝』は「2世紀末から3世紀中半、倭人国(わが国)には漢字知識があった」と記述する。
しかし、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀であるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている――と学界やメディアは即座に否定するがちがいない。
しかし、『魏志倭人伝』の()「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に詣(いた)ると自らを大夫と称した」という記事や

(2)「伊都国を治める一大率」について説明する記事や、
(
)「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき云々」から「周旋五千余里ばかり」という文までの3種の記事は
「今から約4000年前の紀元前2050年頃、中国から名門・益氏の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して、夏音文字はじめとする当時の中国における先端学術を教え広めた。ゆえに、日本列島の東北地方・関東地方の各地に住む氏族たちは、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)、夏音文字を習得していた」と事実を語っていたことになる。
だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは約4000年前であった」。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「2世紀末から3世紀中半には、わが国には中国の三皇時代の結縄(けつじょう・易占に用いた記号)・五帝時代に作られた書契(しょけい)・夏代黎明期に出現した音文字(夏音文字)などの漢字知識が保存されて残っていた」ことになって、
『魏志倭人伝』の説明は正しく、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」と学界やメディアが主張する定説は誤っていたことになる。

『魏志倭人伝』は考古学が主張する【邪馬台国】について説明する古書ではなかった。
『魏志倭人伝』は「漢字が起源した秘密が科学的に解明できる最高・最良の史料」であった。
『魏志倭人伝』は「わが国は夏代黎明期に夏音文字を習得した。この夏音文字は卑弥呼時代(2世紀末から3世紀中半)において、倭人国の諸国で常用される漢字であった」と説明する古書であった。
だから、『魏志倭人伝』の全記事が正しいことを証明すれば――倉頡が発明した文字作成理論(辞理)の秘密が具体的にしかも【科学】が成立して解明できる仕組みになっている。

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2025年2月14日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・38

わが国には中国の甲骨文字より約700年前の【最古の漢字出土史料】が実在した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20250214142901

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得(しゅうとく)して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
【書かれた夏音文字は消されて後世に残らないことになった】が
前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』と8世紀初頭に成立した『古事記』上巻の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数残った。

◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』が完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「〔音〕という注がつく夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとく【わが国が後期縄文時代初頭(紀元前2050年頃)に習得した夏音文字】についてである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2050年頃)において、益氏(えきし)がもたらした【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」

◆前記したように、『魏志倭人伝の後半部』には、下記のごとく――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――と説明する。
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
上記したように、『魏志倭人伝』の後半部にある文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。

◆白川静博士は、わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる。
白川静博士は『字統』(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
益氏が、紀元前2050年頃(わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏代黎明期)から、わが国に教え広めた夏音文字の字音である。
益氏が教え広めた夏音(夏音文字の字音)は、『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名はじめ動物や事物の名称などになって、楷書を意符・音符にして多数残っている。
また、夏音は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の記される夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。

中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在する夏音文字は益氏の王子と若者たちが紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国にもたらした漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
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1955(昭和30)の夏、長野県茅野市の尖石(とがりいし)の縄文住居跡から石板(せきばん)が出土した。
この石板には、5つの図書が刻まれていた。
この【石板に刻まれていた5つの図書】は、【『魏志倭人伝』の随所】と【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する、最古の漢字音を示す夏音文字】、つまり【中国の甲骨文字(契文)よりも約700年前の、最古の漢字の夏音文字】であったと可能性大となる。

要するに、わが国には【甲骨文字(契文)よりも古い、最古の夏音文字の出土史料】が実在したと考えられる。
ところが、この石板の図書(夏音文字の出土史料)は偽作と解釈されて、現在廃棄(はいき)され失われて残っていない。

この石板は、三笠宮一行によって発見された。
この石板の出土地は、昔から「尖り石さま」といって祭られていた土地であった。
「尖り石さま」の丘の麓には、直径1m、高さ1mぐらいの三角錐状(さんかくすいじょう)の岩石がある。その表面には、多年にわたる刃物の研()いだ痕(あと)が残っている。
この石板は、「尖り石さま」の丘の麓にある岩石から100mほど斜面を登った台地から発掘された。
そこは、縄文時代の住居跡であった。

長野県茅野市の尖石縄文考古館の玄関近くには、約5000年前(紀元前2500年頃、中期縄文時代初頭)に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶が常設展示(じょうせつてんじ)されている。
この「縄文のビーナス」は尖石の棚畑遺跡(たなばたけいせき)、つまり尖石の環状集落(かんじょうしゅうらく)の中央広場の穴の中に埋蔵(まいぞう)されていた。
「縄文のビーナス」は27㎝の完形(かんけい)・大形の妊娠土偶とされ、わが国最古の国宝である。

尖石縄文考古館の玄関近くには、「縄文のビーナス」の傍(かたわ)らに、もう一つの国宝「仮面の女神」という土偶が常設展示されている。
この国宝「仮面の女神」もまた、大形の妊娠土偶である。
「仮面の女神」は尖石の中ッ原遺跡(なかっぱらいせき)から出土した、約4000年前(わが国において益氏から夏音文字を習得した紀元前2000年頃、後期縄文時代初頭)に作られた、34㎝の完形・大形の妊娠土偶とされる。
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だから、尖石縄文考古館に所蔵された「石板に刻まれる5つの図書」は、「仮面の女神が作られた約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)に習得された夏音文字」であった可能性がある。
あるいは、この「5つの石板画」は後世に刻まれた夏音文字の出土史料であったにちがいない。

前々回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・36」にて詳細に解説したように、
「仮面の女神」は「わが国が習得した、精確(せいかく)な中国海岸線地図」と密接に関連する。
「仮面の女神」が被(かぶ)る「三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図の作成方法となる土地三角測量法」をあらわしていた。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝時代を説明する記事には「黄帝が虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「土地三角測量をおこなって地図を作製する役職の長官。また、長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は土地三角測量して地図を作製する長官とその氏族に戦闘を教えた」と説明していたことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀には、「益氏は、五帝時代最後の帝王・舜(しゅん)に、【虞()】という重職(じゅうしょく)に就()くように命令された」という記事がある。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確(せいかく)な中国海岸線地図を作製する長官」に任命されたことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図の作製と測量」は「中国の南部の呉から着手(ちゃくしゅ)する」と定められた。
このため、上記したように、「益氏の役職」は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「夏王朝(かおうちょう)が始まるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の重職に就()き、一族の先頭に立って中国海岸線測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力したことになる。

「虎」といえば、夏音文字の【奴()】の字と密接に関連した。
夏音文字の【奴】は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげていきみ・きある怒責(どせき)」をあらわした。
だから、「土地三角測量の三角形の仮面をかぶる、仮面の女神」の土偶は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する妊婦」をも表現するものであったと考えられる。

夏音文字の【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器官」などをあらわした。

下図は、「仮面の女神の正面図」である。
下図に示すように、「仮面の女神」の「妊娠」を形つくる腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)す」という記事があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが組む円陣を参考にして、軍兵たちは円陣を作って自衛した」と意味した。
ジャコウウシの群れは危険を察知すると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくすジャコウウシの子」は「子宮で育つ胎児(たいじ)」に見立てられて、
「ジャコウウシ」は【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部に刻まれる同心円形文様」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」を表現するものであったにちがいない。
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◆上図に示す「仮面の女神」は「わが国が夏音文字を習得した後期縄文時代初頭」に作られた(上図は尖石縄文考古館発行『仮面土偶発掘の記録』の20ページ21ページから転載)
そして、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、「仮面の女神」が作られた後期縄文時代初頭において日本列島各地の氏族たちが習得した。
この「紀元前2000年頃に、日本列島の各地で習得された夏音文字」は「紀元前1300年頃から出現した契文(けいぶん・甲骨文字)や紀元前1046年頃から出現した金文よりも字源・原義を失わない、【倉頡の文字作成理論】により失わない漢字の祖型(そけい)」であった。
ゆえに、前記した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に刻まれていた5つの図書」は「夏音文字」であったと考えるべきことになる。

「5つの夏音文字が刻まれていた石板」は1955(昭和30)の夏以降から1994(平成6年)頃までは尖石縄文考古館に所蔵されていた。
その以後いつであったかは定かではないが、新聞記事で「石板に刻まれる5つの絵柄は、後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作と考えられるゆえ――尖石縄文考古館は廃棄(はいき)することにした」ということを知った。
しかし、「後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作」と考えるのは、早計(そうけい)で軽率(けいそつ)で独断(どくだん)であったことになる。
もしも「石板に刻まれた5つの図象」が「仮面の女神と同時代の後期縄文時代初頭の作品」であったとしたならば、「仮面の女神」と同様に「国宝」に値(あたい)する貴重な出土史料であったことになる。
たとえ、尖石縄文考古館が考えたとおりに「後世の作品」であったとしても――この「石板画」は「夏音文字であった可能性」はとなる。

その証拠に、前記したように「夏音文字」は、712年1月28日に元明天皇(げんめいてんのう)に献上された『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在するからである。
【中国の最古の漢字よりも約1000年も古い、現在における最古の夏音文字の字音】が『古事記』上巻の随所に、あるいは『魏志倭人伝』に多数記載されて残って実在する。
だから、――【尖石遺跡における縄文時代の住居跡から発掘された、石板に刻まれた5つの図書】は「音文字であった可能性」が大となる。

712
年当時、『上古の諸事』・『本辞(ほんじ)」』・『旧辞(きゅうじ)』・『先代(せんだい)の旧辞』などと呼ばれた『古事記』上巻の原典(げんてん)となった古文書には「夏音文字」が多数記されて残っていた。
ゆえに、「わが国に、夏音文字が存在していた年代」は「紀元前2050年頃~712年頃まで」ということになる。
したがって、「尖石の縄文住居跡から発掘された石板画」がたとえ「712年とほぼ同時代の8世紀初頭の作品であった」としても「後期縄文時代と8世紀の夏音文字の字体・字形はほぼ同じ」となるゆえ「後世の偽作」ということにはならない。
だから、尖石縄文考古館の判断は非情に軽率な独断であったことになり、「尖石の縄文遺跡から出土した5つの石板画」は「夏音文字であった」可能性が大となる。

◆下図に、「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」を示した。
この石板の大きさは、幅40㎝、長さ30㎝、厚さ20㎝である。
0000293
前述したように、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における
(
)は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」であった。
この()の掟のためであろうか――現在においても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20250214144101
上図の左上の端に、わたくしが「三つ輪の銀河」と名づけた銀河がある。
この「三つ輪の銀河」の西となりの銀河を「十字の銀河」、「十字の銀河」の西となりの銀河を「鬼の横顔に似る銀河」、「十字の銀河」の南となりの銀河を「激流の銀河」と、わたくしは名づけた。
下図は「三つ輪銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河の図」である。
0000294
上図の「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」を観察した心象(イメージ)にもとづいて、
前ページに示した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に線で刻まれた5つの夏音文字)」を、
わたくしは「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯()れ 川の水も涸()れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈()る」
と解読した。

下に、(A)「来る日も来る日も日照りつづく」、 (B)「草と木が枯れ 川の水も涸れる」、(C)「天の神に」、(D)「雨が」、(E)「大量に降るように祈()る」の解読図を配した。
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下図に示すように、(A)「夏音文字」は「日光」をあらわす「複数の放射線の中央」に、「二つの太陽がならぶ」ゆえ「来る日も来る日も」と解読した。
この「二つの太陽の夏音文字」には斜体【y】字形の夏音文字が重なる。
この斜体【y】字状の図書は、「日照り。水がれ」を意味する「干魃(かんばつ)」の【Y】字形の【干】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)や金文形に相似する。
ゆえに、この「斜体【y】字形の図書」は「【干】の夏音文字」であったと考えられる。
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下図は、(B)「石板の右下の夏音文字の上部」における「川岸に群生する葦(あし)の穂と茎と、木の絵柄」の解読図である。
下図に示すように(B)「葦の穂と茎の絵柄」は「茂(しげ)る葉が落ちて葉冠部(ようかんぶ)が枯れて細る木の形」に観()える。
ゆえに、(B)の絵柄(夏音文字)を「草と木は枯れる」と解読した。
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下図に示す、(B)「石板の右下の、下部の絵柄」を「縦の線」と、そして「川底がむき出しの水が流れていない川」を表現していると解釈した。
下図の右の端(はし)にある(B)「長い縦線(たてせん)」は「葉が落ちて枯れて茎だけになった草」と、「葉が落ちてやせ細って枯れた、幹だけになった木の幹(みき)」を表現していると解した。
この(B)「枯れた草と木をあらわす、長い縦線」は「上部の右端(みぎはし)の、枯れた葦の穂と茎の絵柄」と重なる。
ゆえに、上記したように、上図における(B)「石板における右下の上部の絵柄」は「草と木が枯れる」と解読した。
また、下図の上部の(B)における「川」をあらわす図書は「川底がむきだしの水が流れない川の様子」をあらわしているのに対して、下図に下部の(B)「激流の銀河」は「水があふれんばかりに豊富な川の様子」をあらわしている。
ゆえに、この(B)石板画の「川」の図書の形状から「川の水も涸れる」と解読した。
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下図に示すように、(C)「石板画中央の絵柄」は【天】の金文形に相似する。
ゆえに、(C)「石板画中央の絵柄(夏音文字)」を「天に。つまり天の神に」と解読した。
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下図に示すように、(D)「縦線(たてせん)」は「雨」と解読した。
縦線からなる漢字【丨】の字音は「こん」と「し」である。
白川静著『字統』は漢字【丨】について――上下の通ずる関係をあらわす・『説文解字』は「上下、通ずるなり。引いて上行するは、讀みて恖()の若(ごと)くし、引いて下行するは、讀みて退(很・こん)の若くす」という。上行の字は草が初生とされるものであるから、象形となる――と解説する。
だから、(D)「縦線」は夏音文字の【丨(こん)】、つまり「上()から下()へと落下する雨が。下行する雨が」と解読した。
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下図に示すように、「十字の銀河の胸部から鬼の横顔に似る銀河の角(つの)と額(ひたい)」にかけて「三垂(さんすい・三本の縦線)が垂れる銀河部」があり、また「十字の銀河の乳房から鬼の横顔に似る銀河の口」にかけて「三垂(三本の縦線)が垂れる銀河部」がある。
この「二か所の銀河部から三垂」は「三本の線」で「大量の雨」を表現していると考えたゆえ、
(E)
「三垂(三本の縦線)」を「(雨が天から)大量に降るように祈()る」と解読した。
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以上のごとく、「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は、
「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯れ 川の水も涸れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈()る」という文を構成する夏音文字であったことになる。

◆尖石縄文考古館は、「5つの夏音文字の石板画」の他に、もう一つ夏音文字が線刻(せんこく)された石刻画を所蔵した。
この石刻画も廃棄(はいき)されたのであろうか? それとも残っているのかについては、わたくしは知らない。
この「夏音文字の石刻画」は、下図のごとくである。
下図に示したように、この夏音文字は「左手(東側の手)に弓を持つ人物」が描(えが)かれている。
ゆえに、この絵柄は【射】の夏音文字を刻む遺物と考え在られる。
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古語では「弓を持つほうの手」を「弓手(ゆんで)」とよび、つまり「左手(ひだりて)」を意味する。

ゆえに、前述したように――上図の線刻画のおける「弓を持つ手」は「左手」となる。
下図に示すように、「十字の銀河」は「左手(東側の手)」に「弓」を持つ。
つまり、下部の「十字の銀河の図」において、【南】を正面とするゆえ【向かって左側】は【左=東】となる。
【夏音文字・甲骨文字(契文)・金文・篆文(てんぶん)や楷書など全漢字の形式】は、【左=東・右=西】と定まる。
ゆえに、上図の石刻画の人物は、「十字の銀河」と同じく「左手に弓を持っている」ことになる。
このよに、上図の石板における人物画は全漢字の形式【左=東・右=西】に合致している。
だから、上図の「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」」は【「十字の銀河」を図案する夏音文字】であったと考えるべきことになる。
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上図の「左手に弓を持つ人物の石刻画」は、もしかしたならば「後期縄文時代初頭の造化の神の、神産巣日神(かむむすひのかみ)」を表現しているのではあるまいか。
前ページにて現代語に訳したように、「古事記上巻 并(あわ)せて序」の冒頭文にある「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文は、
「【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶(どぐう)を作った、前期縄文時代の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文時代の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、さらに後期縄文時代初頭の神産巣日神などの約2000年間における造化芸術の神の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)に益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確(せいかく)な地図を作製する方法】を習得した」と説明していたことになる。

下図は、尖石台地(北緯36)における「造化参神の図」である。
下図に示すように、「十字の銀河における左手に持つ弓」の東となりは「三つ輪における、もっとも南の輪の銀河」である。
下図に示すように、()「神産巣日神の天頂緯度線」は「三つ輪の銀河におけるもっとも南の輪の銀河中央」を貫通している。
だから、尖石縄文考古館が所蔵した「左手に弓を持つ人物を描く石刻画」は「益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確な地図を作製する方法】を習得した、後期縄文時代の造化芸術の神・神産業巣日神」を表現するものであったと推測される。
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以上のごとく、前ページにて示した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」から図案された【夏音文字】であったと考えられる。
また、「尖石縄文考古館蔵の弓手(左手)に弓を持つ人物の石刻画」も、「十字の銀河」を図案する【夏音文字】であったと考えられる。

前ページで解説した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」のモデルとなった「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は【倉頡の文字作成理論の基幹(きかん)銀河】となる。
言いかえると、「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は、
倉頡伝説が「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代()えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜()な夜な聞こえたという」と説明する銀河となる。

前回のブログ」漢字の起源と発明を解明・37」にて解説したように、下図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡」をあらわし、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」となった秘密をあらわす。
その証拠に、下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
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だから、このような観点からしても「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」と「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」は、両方とも「夏音文字の出土史料」であったと考えるべきことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)は七人の子、つまり子弟の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)が従っていた」と記述する。
「不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命」は「精確阿な中国海岸線地図を知っている、三角土地測量して精確な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は、
「宗像王の天菩比命に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の建比良鳥命」であった。

下に、遠江(現在の静岡県西部)の豪族・建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県浜松市浜名区の細江町(ほそえちょう)の行政区画を表示する地図を配した。
現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」であるが、その以前は「静岡県浜松市北区細江町」であった。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」または「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
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下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮(はちまんぐう)の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」は、このブログの前ページで解説した尖石縄文考古館が常設展示する国宝「仮面の女神」が顔に被(かぶ)る「三角形の仮面」と密接に関連する。
つまり、「仮面の女神の、三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図作成方法の基礎となる土地三角測量法」をあらわした。
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このような「大三角形」の基(もと)に三角形の網(あみ)や鎖(くさり)を形作(かたちづく)って、その頂(いただき)に三角点を埋設(まいせつ)し、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精確な地図を作製できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による土地三角測量を行うことができなかった。
ゆえに、建比良鳥命とその一族は卑弥呼の地上絵の作製を260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させた。

『魏志倭人伝』に記された最終年号は「魏の正始八年」、つまり西暦247年であり、その以後にも記事が少し続くゆえ、『魏志倭人伝』の記事は250年頃の様子を伝えて終わることになる。
ゆえに、「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」は『魏志倭人伝』の記事の終末年直後の10年後には早くも着手されていたことになる。
通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は、陳寿著(ちんじゅちょ)『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部にある〔倭人伝〕である。『三国志』魏書は280年~289年に成立した。
だから、上記したように卑弥呼の地上絵は260年に作製が着手されて290年頃に完成したゆえ、
『魏志倭人伝』と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。

現在まで、細江町内(卑弥呼の地上絵内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どたく)が出土している。
これらの銅鐸を天頂緯度の測定(そくてい)と三角土地測量に使用して、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年~290年頃に作製されたことになる。

◆卑弥呼の地上絵内(細江町の中川)の悪ヶ谷(あくがたに)遺跡から1口の悪ヶ谷鐸(総高64㎝ 明治45年3月2日に発見)が出土した。
悪ヶ谷鐸は、三遠式の縦横凸線帯(じゅうおうとっせんたい)の六区画・袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸である。
この悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん・胴体)には【夏音文字と同じく線描(せんびょう)の――オス鹿と二羽の鳥の絵画】が鋳出(ちゅうしゅつ)されていた。
悪ヶ谷鐸は東京国立博物館が所蔵している。

悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込(いこ)まれていた【オス鹿と二羽の鳥の絵画】は、
中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)に、
「精確な中国海岸線地図」について説明する、下記のごとくの文をあらわしていると考えられる。
「易(えき)は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す。」
高田真治・後藤基己(もとみ)訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記の「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩()れなく包みこむ」と訳する。

上記した『易経』繋辞上伝の「「易は天地と準う」という文の先頭の【易】の字について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)」と解説する。
「蜥易」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには、かならずもとのすみみかにもどるという帰家性(きかせい)がある。
ゆえに、「易は天地と準う」という文は「遠くの地に旅する人や大海を渡る人は、旅の途中における各地点で観測する天頂緯度と観測地点の緯度を同一とする原理に則(のっと)れば、かならず家族が待つ家に帰還(きかん)することができる」と意味した。

下図に示すように、【道】の字源銀河は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
「オス鹿の横顔に似る銀河」における「オス鹿の角(つの)」は「十字の銀河」、そして「オス鹿の横顔」は「鬼の横顔に似る銀河や、北アメリカ星雲・ペリカン星雲、長方形の暗黒天体部、長方形の暗黒天体部の南の銀河部」によって形成される。
「オス鹿の横顔に似る銀河」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)から現在まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。
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下図に示すように、中国の「廟島列島(びょうとうれっとう)」は「オス鹿の角」に見立てられ、「山東半島(さんとうはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下図の「廟島列島と山東半島」は【道】の字源をあらわす地宜となった。
だから、悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込まれていた「オス鹿の絵」は「天のオス鹿の横顔に似る銀河と、地の廟島列島・山東半島」、つまり上記した『易経』繋辞上伝における「天地の道」をあらわすものであったことになる。
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下図に示す「山東半島の地宜」は【弥】の字源「水鳥のカンムリカイツブリの頭部の形」に相似するとも見立てられ、「山東半島の付け根から北と南へ延びる海岸線の形」は「空を飛翔(ひしょう)するカンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。
「山東半島から南に延びる海岸線」は「長江口(長江の河口)と杭州湾(こうしゅうわん)」で「裂()けて破れるような形状」となるが、「杭州湾の南端からは、もとどおりにつくろいおさめる形」となって緩(ゆる)やかな曲線を描く海岸線となる。
だから、『易経』繋辞上伝は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」を「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
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下図に示すように、【綸】の字をあらわす「杭州湾の地宜」は夏音文字の【呼】の字源でもある「水鳥の鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似する。
ゆえに、悪ヶ谷鐸の胴部にある「二羽の鳥の絵柄」は【弥】の字源「カンムリカイツブリ」と、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」を表示するものであったと考えられる。
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以上からして、『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」という文は、
――遠くの地を旅する人や大海を渡る人が、かならず家族が待つ家に帰ることができる方法は、旅の途中で度々(たびたび)観測する地点における天頂緯度とその観測各地点の緯度は同じと定める方法のみ一つである。ゆえに、中国各地の天頂には【道】の字源銀河「オス鹿の横顔に似る銀河」が通過し、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜となり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の形は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」に相似し、「杭州湾」は【綸】の字をあらわすことになった。仰いで各地点で天頂緯度をキャッチして、その緯度を俯してもって観測地点の緯度と定めて、各地域で土地三角測量すれば、中国全土を洩れなく包みこむ精確な中国海岸線地図が作製できた――と説明していたことになる。

◆前述したように、わが国の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子は「精確な中国海岸線地図と、精確な地図を作製する土地三角測量」を教え広めた。
ゆえに、3世紀後半(260年頃~290年頃)、不呼国(ふここく)・遠江の一画に1千万坪の「精確な中国海岸線地図を図化する、卑弥呼の地上絵」が作製された。

下図に示す「卑弥呼の地上絵における頭部と両翼(細江町の境界線)」は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」となって「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」を表示している。
下図の左下の「細江町の境界線」、言いかえると「細江町と隣接する引佐町(いなさちょう)の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【綸】の字をあらわす「杭州湾・鳰の形」となる。
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その証拠に、下図に示すように、「引佐町の金指地区・井伊谷地区の地宜」は「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
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下図に示すように、()【弥】の「カンムリカイツブリの頭部を有する大鳥の地宜」と、()「都田川(みやこだがわ)の沖積平野(ちゅうせきへいや)」と、()「象の顔と鼻の形の地宜」とで構成される。
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上図における()「象の地宜における強力の鼻息(はないき)」を【弥】の「大鳥の地宜の西南の翼」に吹きかけて、「大鳥の地宜」における【弥】の頭を東に向くように引佐(いなさ)すると、要するに「左へ引く」と、下図における右図のごとくになる。
下図の右図「【弥】の頭と東の境界線の形」は、左図の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の形」に相似する。
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すぐ前にて図示したように、「細江町の境界線で区切られる引佐町の金指・井伊谷地区の地宜」は夏音文字の字源【呼】の字源をあらわすとともに、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」に合致して「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
だから、「卑弥呼の地上絵」は『易経』繋辞上伝における
「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であったことになる。

下図に、悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん)に鋳込めらた「オス鹿と、二羽の鳥の絵画」を示した。
いままで解説してきたように、下図の「オス鹿の絵」は【道】つまり「天地の道」、「二羽の鳥の絵」は【弥】と【綸】をあらわしている。
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上図の「悪ヶ谷鐸のオス鹿の二羽の鳥の絵柄」は「文字」ではなく、要するに「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であった。
ゆえに、この「悪ヶ鐸の絵画」は「夏音文字」の字形を用いる、あるいは「夏音文字」の字形を真似(まね)する図書であったと考えられる。

だから、今日まで多数出土して発見されたいわゆる「銅鐸絵画」は「夏音文字の字形に影響されて、線で描く図書」であったと考えられる。

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2025年1月 6日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・37

中国の漢字の歴史は今から5000年前から始まる

◆わたくしは長い間グラフィックデザイナーを職業していたゆえ、20歳ころから「漢字は銀河から作られたのではないか」と想像していた。
というのも、漢字のもっとも古い祖型(そけい)とされる甲骨文字(こうこつもじ)における【山】、【水】、【火】という字の形は1種のみだからである。
「山」にはさまざまな形の山があり、「水」の形をデザインするならば様々な形となり、「火」の形もさまざまであるにもかかわらず字形が1種というのは――天に輝く銀河において「山」の字はここから作る、「川」の字はここの銀河部が「川」のイメージとなるからここから作る、「火」の字はこの銀河部が「火」に観()えるからこの銀河部から作ると定めたのであろうと考えたゆえ、
【山】、【川】、【火】の甲骨文字の字形は1種になったのであろうと想像した。

そして、小林石寿編者『拓影展大 甲骨文字字典』(木耳社発行)には、多種様々に図案することができる事柄・事象をあらわす字においても、形が1種のみの甲骨文字が多数記載されていた。
だから、「さまざまな甲骨文字は、ここの銀河部から作る」と定めていたのであろうと考えたゆえ、1種のみの字形の字が多数存在するのであろうと推理した。

漢和辞典で調べると、中国でもわが国同様に「漢字」を「漢字」と表記することを知った。
ゆえに、漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られて起源したと考えることにした。
「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」を【夏の銀河】と呼ぶ。
「春の銀河」、「秋の銀河」は中国・わが国の天頂にめぐってこないうえに各部の形状の印象は漠然(ばくぜん)として何に似ているのか想像がつかない、「冬の銀河」は天頂にめぐってくるが様々な字形を作ることができる形状に乏(とぼ)しく多数の文字を作ることができない。
【夏の銀河】は中国・わが国の天頂にめぐってきて、もっとも巨大で、各銀河部がさまざまに印象ふかい形状からなるゆえ、それらの心象(イメージ)を図案すればさまざまな多数の文字を作ることができるいちがいないと――わたくしには思えた。

ゆえに、わたくしは「【夏の銀河】から漢字は作られた」と推定した。
というのも、星座や星の写真集には「夏の銀河の写真」が多数所載(しょさい)され、また「夏の銀河」は通称「天の川」と呼ばれ、また「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれるからである。
だから、「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記したと、わたくしは考えた。
また、【夏】の字は「中国の人」を意味する。
ゆえに、「【夏の銀河】から文字を作った」ゆえ【夏】の字は「中国の人」を意味することになったのであろうとわたくしは考えた。
また、三皇時代、五帝時代の後の時代は「夏代」であることからしても、
【夏の銀河】から王朝名が「夏」になったのであろうと思えたゆえ、「漢字は【夏の銀河】の各部の形状から作られた」と考えることにした。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、前回(36)までにおいて、
「今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した」と解説して証明してきた。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。

上記の「帝紀及び上古の諸事の記定」の原文は「令記定帝紀及上古諸事」である。
この原文の「令[]定帝紀及上[][]」のうちの[][][]の3字をもって、『古事記』という書名が成立したという一説が存在する。
この一説は正しく、きっと『古事記』という書名は「令[]定帝紀及上[][]」のうちの[][][]の3字をもって成立したにちがいない――とわたくしは推断(すいだん)した。

天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとくである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージを有する銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地を表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶を作る芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)において、益氏(えきし)が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」

◆『魏志倭人伝』には「古自(いにしえよ)り以来、其()の使()、中国に詣(いた)るに皆(みな)、自(みずか)ら大夫(だいふ)と称す」という記事がある。
日本列島と中国の中間の大海を越えて中国に到着した使者の「大夫」は、万葉仮名では「ますらを」と読まれ、今日の「ますらお」は「益荒男」と表記される。
ゆえに、「大夫・益荒男」という語は「日本列島と中国を隔(へだ)てる、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を横断(おうだん)した益氏の王子と若者たちのごとく、大海を越えて中国に到着した勇敢(ゆうかん)な男性」を意味した。

前記したように、『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある、
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
という上記の文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。

司馬遷(しばせん)著『史記』の陳杞世家(ちんきせいか・第六)には、下記のような記事がある。
「帝益の子孫はどこに封ぜられたか不明である。」
益氏の子孫への血を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島の地に移住したため、中国に残った年寄りたちの益氏は衰退し滅亡した。だから、中国では益氏の子孫はどこに封じられたか不明となったのである。

◆益氏が教え広めた【夏音文字】について、白川静著『字統』(平凡社発行)は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音(夏音文字の字音)である。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の随所に記される、〔音〕という注がつく夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。

漢字の〔最も古い字形として残った甲骨文字の字音〕は、不明で現在まで残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻に残っている夏音文字は紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国が習得した漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
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実は、わたくしは白川静著『字統』(平凡社発行・1985年1月7日 初版第八刷)を、1985年の11月か12月ころに購入した。
ゆえに、夏代がいつから始まるのか確かな年数を知っていなかった。
陳舜臣(ちんしゅんしん)著『中国の歴史 1 神話から歴史へ』(平凡社発行・1981年1月14日 初版第四刷)の初頭部には中国の三皇・五帝時代や古代文明の年代が記されていたゆえ、これらの記事をもとづいて「夏代(夏王朝)の始まり」は紀元前2000年頃と推定した。
というのも、後述する司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される帝堯代(ていぎょうだい)の四時(しじ・四季)の天文説明における春分点の位置が「紀元前2500年頃」を表示したからである。
ゆえに、帝堯の次が帝舜(ていしゅん)の時代、その次が帝禹(ていう)や息子の帝啓(ていけい)が統治した夏代始めとなるゆえ――夏代は紀元前2000年頃から始まるであろうと推理した。

しかし、2000年の1110日の朝日新聞の朝刊第3面の「中国最古の夏王朝 紀元前2070年成立」という記事によって、夏代の始まりは紀元前2070年であることを知った。
この記事は、下記のごとく説明していた。
――「夏商周断代工程」と名づけられた研究計画は、中華人民共和国の国家的プロジェクトとして1996年にスタートした。歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んだ。
中国古代王朝の年代確定作業を進めてきた専門家チームは、200011月9日、「夏王朝」は紀元前2070年に成立、紀元前1600年に「商」()に滅ぼされ、商は紀元前1046年に「周」に滅ぼされたという結論に達したと発表した。

上記のごとく、「紀元前2070年から夏代が始まる」という説は確かな意見である。
ゆえに、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)の記事による「帝益の箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)」、そして「帝禹(ていう)の遺志(いし)・氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続させる事業を益氏の王子と若者たちによって決行されて、彼らが大海を越えて九州に上陸して男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを教え広めるまでには約20年の年月が費(つい)やされた――と推定して、紀元前2050年頃から日本列島各地の氏族たちは【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを習得しはじめたと、わたくしは考えることにした。

◆前述したように、わたくしは司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される「帝堯代(ていぎょうだい)初頭の四時(しじ・春分、夏至、秋分、冬至)の夕刻における星の位置の説明記事に注目して、
帝堯代初頭は紀元前2500年頃であることを知った。
それというのも、司馬遷著『史記』五帝本紀における帝堯代初頭の四時の夕刻の星空を説明する記事における、春分点の位置が紀元前2500年頃を表示するからであった。

上記した司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭の天文記事は、下記のごとく記述する。
「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す。」
上記の文を現代語に訳すると「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」となる。
上記した「星は【鳥】」という星は、光度が1.8等の、北斗七星の第5星のおおぐま座のε(エプシロン)星である。
わたくしは、上記の帝堯代の春分の日の夕刻の天文図から、春分点の位置で帝堯代初頭の年代を算出(さんしゅつ)するために、紀元前2250年と紀元前2500年の春分点を設定(せってい)した2種の天文図を作成した。
この天文図の作成方法については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」の末部に、過去の春分点の位置を知る算出方法について「歳差状況図(天の北極の位置図)」を用いて詳細に説明した。

この結果、『史記』五帝本紀に記述された帝堯代初頭の春分の日の夕刻の星空の状況が表示する春分点は現在から黄道の北極を中心とした角距離63度過去へもどった紀元前2500年の天文図の位置に合致した。
ゆえに、わたくしは帝堯代初頭を紀元前2500年頃であったと定めた。
下図は、帝堯代の春分の日の夕刻の星空図である。
下図が示し、また『史記』五帝本紀の帝堯代の記事が説明するとおり――紀元前2500年・帝堯代の春分の日の夕刻には【鳥】と名づけられた「北斗七星の第5星のおおぐま座ε星」が南中(子午線通過)しようとしていた。
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◆この帝堯代初頭の春分点による時代年数の解明に先立って、
わたくしは、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏に【夏の銀河】の提供を依頼する事情について説明する書状を送ると――藤井氏は、早速、このブログ初頭に配した【夏の銀河の写真】を送付してくださった。

そこで、わたくしは藤井旭氏が提供してくださった【夏の銀河の各部】に、下記のごとく名称をつけることにした。
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上図のごとく、わたくしは【夏の銀河の写真】の左上から、「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」、「激流の銀河」、そして「鬼の姿に似る銀河」と名称をつけたとき、
「頭に角(つの)を生()やす鬼の横顔に相似する銀河」には「目が四つ存在すること」に気づいた。そこで、「鬼の姿に似る銀河」を「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」に二分することにした。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
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上図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」こそ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体であると、わたくしは直感した。
学者たちは、下図に示す後漢の墓の内部から発見された石に刻みつけた画像や古代絵画の「四つ目の、倉頡の肖像画」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と早合点して軽率(けいそつ)に断定した。
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しかし、【夏の銀河】における「鬼の横顔に似る銀河」には、石に刻まれた画や古代絵画と異なった箇所の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴに、目に相似する形の銀河部」がある。
つまり、「古代絵画の倉頡の肖像画」と「鬼の横顔に似る銀河における、四つ目の銀河」は、前者が虚・後者が実(本物)で、前者と後者は別物ということになる。
倉頡伝説における「四つ目の怪人・倉頡の本物」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」であり、
いっぽう、古代絵画の「倉頡の肖像画」は「贋物(にせもの)」であったことになる。
学者たちは「四つ目の怪人・倉頡の贋物(倉頡の肖像画)」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」と早合点して断定したことになる。

◆「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の東となりは「十字の銀河」である。
下図に示すように、「十字の銀河の左半身(東側)は男性の姿」のイメージとなるが、「十字の銀河の西半身(西側)には乳房・妊婦の腹部(おなか)・子宮に相当する箇所」がある。
ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に相似すると見立てた。
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時は1980年代であった。
1970
年代以来、世には「ヒトの1つの受精卵(じゅせいらん)の核(かく)にふくまれているDNAの量は、塩基(えんき)の4文字で約70億字の遺伝的命令文に相当する。この量はアルファベット文字でほぼ30億字の文章となり、大英博物館百科事典の15組分・約360冊に匹敵(ひってき)する」などという情報が満ちあふれていた。
この「DNA遺伝子学の小さな場に大きな情報が入っている」という発見に影響されたわたくしは、「十字の銀河にある子宮に相当する箇所」を「十字の銀河の子宮」と名づけることにした。
そして、現代の分子生物学のDNA遺伝子理論よりもに先駆(さきが)けて――倉頡は「現代のDNA遺伝子理論と同様に、小さな場に大きな情報が入っていると考える「一即多、多即一」という文字作成理論を発明した」と――わたくしは考えることにした。
これゆえ、わたくしは「女体に相似する十字の銀河」は「【夏の銀河各部の形状】から作られたすべての文字が生まれる母体」と考えることにした。

前述したように、わたくしはグラフィックデザイナーを職業としていたため、当時ブームとなるT・R・ブレークスリー著・大前研一訳編『右脳革命』(ブレジデント社発行 1982年3月25日第16)を愛読していた。
『右脳革命』が推奨(すいしょう)しているように、「感覚(イメージ)を優先して右脳思考」すると、【夏の銀河各部の形状】は「多数の甲骨文字や周代に作られた金文の字形」に相似すると感じた。
ゆえに、わたくしは「殷代(いんだい)後半から出現した甲骨文字と周代の金文は共に、現代の漢字と異なり、言葉をあらわす記号として作られた左脳思考による文字」ではないと考えることにした。
いいかえると、「甲骨文字と金文は感覚(イメージ)を優先して芸術的造形的に考えて作られた右脳思考の作品、つまり右脳思考によって作られた文字」と、わたくしは考えることにした。
そして、わたくしは【夏の銀河各部の形状】から右脳思考を発揮(はっき)すれば「多数の文字」が作ることができると感じ、また「十字の銀河の子宮」は「【夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む子宮】に見立てることができる推理した。
だから、「倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する、一即多、多即一の理論】を発明したと確信した。

下図に示すように、「腹部(おなか)に子どもが宿る形」に図案される【文】の金文は「妊娠した女性の腹部(おなか)のように腹部が丸い十字の銀河」から作られた――とわたくしは解釈した。
K35

下図に示すように、【字】の金文の上部の【宀(べん)】は「十字の銀河」が字源・字形・字義となり、下部の【子】は「胎児・出産児・乳児などの姿に相似する、鬼の姿に似る銀河」が字源・字形・字義となった――と解した。
K34
というのも、『説文解字』は【字】の字について「乳(にゅう)するなり」と解説するからである。

この「乳するなり」という解説を「乳房を吸う」と解釈して、下図に示すように――【「乳児の姿に似る鬼の姿に似る銀河」が「十字の銀河の乳房」を吸う様子】――に見立てた。
ゆえに、前ページに図示したように、【宀(べん)(字義は「産屋(うぶや))の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」と解釈して、【字】の字源は「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」と断定した。
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あるいは、「古事記上巻 并(あわ)せて序」は「稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習(しょうしゅう)」について、
「目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」と説明しているが、
下図のごとく、上記の文をわたくしは右脳思考して銀河の形状図で表現することにした。
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「目に度れば」という文は「鬼の横顔に似る銀河の両目から後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部・アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部まで」が表示し、「口に誦み」は「鬼の横顔に似る銀河の口」が示す。
そして、「耳に払るれば」は「鬼の横顔に似る銀河の〔耳〕に相当する箇所にある北アメリカ星雲は耳の形に相似しない」ゆえ、「払って落したごとく、鬼の横顔に似る銀河の耳は存在しない」と示している。
「心に勒す」は「鬼の身に相当する銀河の心臓部にある、心に記し刻む」と意味する。
つまり、「耳に払るれば心に勒す」は――【夏の銀河各部の形状】を見て、そのイメージをあらわす言を口から小声を出して歌うように誦()んで、耳を払い落すようにして雑音を入れずにそのイメ―ジを心に記し刻むようにすれば、【夏の銀河各部の形状から作られたすべての夏音文字】は「十字の銀河の子宮」から生まれたものであるゆえ、すべての夏音文字の字源・字形・字義は知ることができる――と意味したことになる。
つまり、稗田阿礼が暗誦(あんしょう)していた夏音文字で記されていた『古事記』上巻の原典『上古の諸事』の文章は――今日の流行歌手が500曲~600曲もの多数の詞を暗誦しているように、記憶力を増大させるために小声に出して歌う(これを、「口に誦み」と表現した)方法で、【夏の銀河各部の形状】を情景化して、この情景を心象化(しんしょうか)して覚えていたことになる。

◆以上のごとくからして、「十字の銀河」と「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は、【夏の銀河各部の形状から作られた全漢字の中枢部(ちゅうすうぶ)ということになった。
「十字の銀河の形」は【大】字形である。
前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』には「大夫」という語が記される。
「大夫」の【夫】の字形は上部の「簪(かんざし)」をあらわす図書【一】に下部の【大】が加わって成立する。

「字書の聖典」と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は【夫】の字について、
「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一を以(もっ)て簪(しん)に象(かたど)るなり。周制(しゅうせい)。八寸を以て尺と為()し、十尺を丈と為す。人は長(たけ)八尺なり。故に丈夫といふ」と解説する。
周制の「一尺」は今日の「22.5㎝」である。
そうすると、上記した「人は長八尺なり。ゆえに丈夫といふ」という『説文解字』の解説は――【夫】の字源となる「十字の銀河」の見掛けの大きさは、健康で丈夫な背の高い男性の、八尺(180)くらいの身長とほぼ同じである――と説明していることになる。

上記したように、『説文解字』は「十字の銀河の見掛けの大きさ(身長)」を「十尺を丈(一丈)と為す。人の長八尺なり」と指摘する。
ゆえに、「十字の銀河の見掛けの大きさ」は下図のごとくになる。
つまり「十字の銀河の頭部から足までの身長」は「八尺・八度」、「十字の銀河の頭が被(かぶ)る飾り」が「二尺・二度」、ゆえに「十字の銀河の頭が被る飾りから足までの大きさ」は「一丈・十尺・十度」ということになる。
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わたくしは、藤井旭氏から提供された【夏の銀河の写真における「十字の銀河」】の身長を、つまり上図に示した「十字の銀河の頭が被る飾りから足まで」を――印刷用製版カメラで「10(10)」に拡大して「1㎝・1度・1尺」になるようにした。
次に、天の北極と春分点の位置が紀元前3500年と紀元前3000年となる2種の天文図を作製した。
最初に、紀元前3000年の天文図で、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と黄帝軍が遠征した長江口(長江の河口中央)の緯度線(天頂緯度線)と、全漢字の中枢部となる「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」の関係を調べることにした。

そうすると、「紀元前3000年における長江口と黄帝陵の天頂緯度線」は、下図のごとくになった。
下図に示すように、紀元前3000年では――「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形の銀河部中央」を貫通する+赤緯3535分は「十字の銀河の頭部中央」を貫通して、北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線ということになった。
また、北緯3130分の長江口の天頂緯度線(+赤緯3130)は「四つ目の怪人・倉頡の銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央を貫通して、「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。
ゆえに、下図の状況から、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。
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◆倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代()えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜()な夜な聞こえたという。」

前述したように、わたくしは「夜な夜なに出現する【夏の銀河各部の形状】から文字(漢字)は作られた」と考えていたため、
倉頡伝説が「倉頡がはじめて文字を作り、古来の結縄に代えたので、天は祝福して禾を降らせ、死霊の感泣する声が夜な夜な聞こえた」という説明を、
「倉頡がはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄、つまり易占(うらない)に用いた記号に代えて、倉頡がはじめて文字を作り、三皇時代に大王となって天下を治めた包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)三氏族の天に昇った死霊は夜な夜なに出現する天頂の銀河の輝きとなって、いっせいに感激して涙を流して泣き祝福して、三氏族の死霊の涙は恵(めぐ)みの雨となって降り、豊かな禾(穀物)を地上にもたらした」と、芸術的に造形的に右脳思考をもって解釈した。

言語をあつかって「一度に一つずつ進行する論理的思考」に長()ける左脳思考の場合、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」と表現されるであろうが、
【夏の銀河の各部の形状】を感覚(イメージ)でとらえる造形的能力に優(すぐ)れる複数の心象(イメージ)を同時に進行することができる右脳思考だと――「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を当然、「文字を発明した倉頡」と「四つ目の銀河」を合体化して「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったと、わたくしは考えた。

だから、上図に示した「紀元前3000年における長江口(ちょうこうこう)と黄帝陵の天頂緯度線図」は「倉頡伝説が事実であること」を証明していると考えた。
というのも、下図に示すように――【「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は跪(ひざまず)いて「十字の銀河」を尊び敬い仰ぎ見て拝礼(はいれい)する姿勢(ポーズ)】に観えたからである。
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ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「黄帝」に見立て、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を「黄帝につかえた倉頡」に見立てた。
だから、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわしていると、わたくしは確信した。

そして、下図のごとくも、倉頡伝説の説明について考えた。
倉頡伝説の「天は祝福して禾(か・穀物)を降らせた」という説明における「地上を祝福する天」は「十字の銀河」と解釈した。
()はじめ粟(ぞく・穀物)などの作物(さくもつ)は、天から降る雨によって枯れずに育つ。
ゆえに、倉頡伝説はイメージを重視する右脳思考にもとづいて「天は祝福して禾を降らせる」と造形的に表現するものであったことになる。
下図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は【倉】【蒼】【吉】【頁】【頡】【蔵】【臓】などの字源となったと解釈した。
下図に示すように、「十字の銀河が重なる乳房から四つ目の怪人・倉頡の銀河における口までに垂れる三本線の銀河部」と「十字の銀河の右手(西側の手)から四つ目の怪人・倉頡の銀河の角(つの)や額(ひたい)までに垂れる三本線の銀河部」は「天から降る雨」または「天から降る禾」をあらわすイメージとなる。
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前ページに配した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」にて示したように、「中国南部の長江の河口中央(北緯3130)」の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってきた。
長江口の真西には太湖(たいこ)が所在する。
長江口・太湖地方は、禾()がよく育つ適性育成地である。

ゆえに、下図に示すように、倉頡は「長江口・太湖地方や長江口南部で育つ、禾()の穂」を「十字の銀河の子宮」や「十字の銀河の股(また)」がある南方に向け、
「禾の穂」を「鬼の姿に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の食物(禾、つまり米や麦の飯)を食べる口がある西へと垂らす(転回する)」と定めて、【禾】の字を創(つく)ったと考えることにした。
だから、下図の左上に示したように、倉頡が創った【禾】の字は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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上図の「十字の銀河は、前述したように「女体」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加える【委()】の字も倉頡が創った【禾()】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するため、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭()】の字も倉頡が創った【禾】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

白川静著『字統』はじめすべての字典は【禾】【委】【倭】の字源が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と解説しない。
しかし、上図の右下に配した【禾】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)は【禾】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を表現している。
倉頡は、上図の「【禾】の字源銀河解説図」における「横になる【禾】の字形」は、そのままだと不自然であると考えた。
上図の右下に配した契文形のごとく、倉頡は【禾】の字形を「イネ()が地面に植わる形」にした。

下図に示すように、倉頡は()「禾の穂が南から西へ90度垂れる図書」を、()禾の根が地面に植わるように180度天地をひっくり返す形にしたが、「禾の穂は逆時計回りに90度転回する北から西へと垂れる形」になって矛盾した。
このため、()「南から西へと転回するように、禾の穂が時計回りに90度転回する北から東へ垂れる形」に、【禾】の字形を定めた。
前ページに示した「【禾】の字源銀河解説図における、右下の【禾】の契文形」は、上図の()の図書の形と合致して、【禾】の字形(契文形)は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。
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なお、上図の()の図書(契文)が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていることを、
下の左図(契文形)は「禾()の穂が、北から東へ垂れる(時計回りに90度転回する)形」となって明確に示すようにした。
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そして、上図の左上の「十字の銀河の中央に、【禾】の稲(穂・茎・葉・根)をあらわす図書を重ねる様子」から、
下図に示すように、【大】字形の「十字の銀河」が【天】の字源・字形となることが推定できた。
というのも、【天】は【大】(大字形)の上に【一】の図書を加えて構成されるからである。
0000292
上記の推定にもとづき、不弥国(ふみこく)の宗像王の名が「天菩比命(あめのほひのみこと)」であることに注目した。
そうすると、天照大御神・大和王朝に逆らって抵抗した出雲国造(いずもこくぞう)の名も「天菩比命」であり、「天菩比命」は「天穂日命(あめのほひのみこと)」とも表記することにもおのずと注目することになった。
「稲の苗は2、3本であるが、育って実()がみのって穂が垂れると稲の茎の本数は倍以上に増えている。」
ゆえに、【菩】の字は「禾()は穂が実るときに茎が【倍】に増える草である」とあらわしていると考えた。
つまり、【咅】の字から【菩】と【倍】の字が作られたことになる。
というのも、【咅()】は「成熟すると茎が【倍】に増える草」であるから、【草冠】に【咅】が加わる【菩】という字が作られ、【人偏】に【咅】を加える【倍】の字が作られた。
このような秘密にもとづいて、「天菩比命」は「天穂日命」とも表記されることになり、【菩】の字は「穂が実ると茎が倍に増える草」と示していることになる。
だから、「天菩比命」という名は【天】の字源「十字の銀河の中央」に、「稲の穂の図書」を重ねて、【禾】【委】【倭】の字形は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を伝えているにちがいないと、わたくしは考えた。
以上をもって、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。

◆このブログの前ページにて指摘したように、わたくしは「五帝時代初頭の黄帝時代の年代」を調べるために、紀元前3500年と紀元前3000年の天の北極・春分点をあらわす2種の天文図を作製した。
実は、この2種の天文図は天の北極と春分点の位置は異なるものの、黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は共に「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河中央から、十字の銀河の頭部の中央」を貫通してほぼ同一であった。
ゆえに、この「歳差状況図(天の北極の位置図)」をもとづく年代算出方法では、黄帝時代は紀元前3500年、または紀元前3000年ということになった。
そこで、このブログの前ページで紹介した「夏商周断代工程」と名づけて中華人民共和国が国家的プロジェクトとして1996年にスタートして、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んで200011月9日に結論に達した、
紀元前2070年に「夏王朝」が成立、紀元前1600年に「商王朝(殷王朝)」がはじまり、紀元前1046年に「周王朝」が始まったという意見にもとづき、
さらに、このブログの前ページにて紹介したように、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代(ていぎょうだい)初頭の天文記事における春分点の位置・紀元前2500年をも考慮して、
五帝時代冒頭の黄帝時代初頭は紀元前3000年頃であったと、わたくしは決定することにした。

上記したように、商王朝(殷王朝)554年間存続し、夏王朝は470年間存続し、帝堯代から夏代初頭までは430年間ということになる。
五帝時代は、()黄帝時代、()帝顓頊(ていせんぎょく)時代、()帝嚳(ていこく)時代、そして()帝堯時代・()帝舜(ていしゅん)時代と続くゆえ、
上記した商王朝の554年間と夏王朝の470年間の存続からして――黄帝時代初頭から帝堯代初頭までは約1000年間よりも約500年間であったと考えたほうが妥当(だとう)な意見であろうと考えて、
わたくしは「黄帝時代は、帝堯代より約500年前の紀元前3000年頃(BC3000年頃)から始まった」と決定することにした。

◆以上、わたくしの意見を図表に表示すると、下図のごとくになる。
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なお、中国の西安(せいあん)郊外の半坡(はんぱ)遺跡から、合計112点の記号が発見され、記号の種類を整理すると全部で22種類にまとめられた。
中国の学界は半坡遺跡の推定年代は紀元前4800年~紀元前4300年であるとする。
また、黄河流域に栄えた大汶口(だいもんこう)文化の遺跡から発見された陶器上には絵文字にちかい図書がほどこされていた。
大汶口文化全体の年代は紀元前4300年頃から始まり、紀元前2500年頃に龍山(りゅうざん)文化へと進展したと、中国の学界では考えられている。
半坡遺跡から発見された記号と大汶口文化の遺跡から発見された図書を、中国では「陶文(とうぶん)」と呼ぶ。
この「陶文」を、わたくしは「三皇時代、つまり包犠氏(ほうぎし)の時代、女媧氏(じょかし)の時代、神農氏(しんのうし)の時代」の、易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)であったと推定し、
三皇時代の始まりは紀元前4300年頃~紀元前4000年までであったと推定し――上図の「漢字生長史」には「三皇時代の始まりを紀元前4000年頃(BC4000年頃)」と表示した。

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2024年10月28日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・36

始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史について説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって、
詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、
益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に居住したと伝えている。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸したであろう。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」であったのではないかと推定される。

注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が夏音文字(かおんもじ)の【奴()】の字源・字義をあらわすことであった。
というのも、今から約4000年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)の両手の形や両脇(りょうわき)の形はいわゆる「C字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は、「今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図に示すように、倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の時代、()「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右手(西の手)」と、()「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵(こうていりょう・黄帝の廟と墓)の天頂にめぐってきた。
また、当時、()「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右足(西の足)」と、()「十字の銀河の子宮中央」が長江口(ちょうこうこう・長江の河口中央)の天頂にめぐってきた。
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上図の「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3535)が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、
下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。
下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。
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下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。
下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。
「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。
【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字(最初の文字)である。
ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。
【女偏】に【又】が加わる【奴()】の夏音文字(かおんもじ)は【又】と同義とあって「右手」を意味した。
したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河(右手)と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲(渦巻き)」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は【奴()】の字について、下記のごとく解説する。
「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷(どれい)とする。『説文解字』は――奴婢(ぬひ)、みな古の辠(ざい・罪)人なり――とする。」
上記の【奴()】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴(な。ぬ)】の字源・原義を失った、後世(周代初頭以後)の転義であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が15回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、
白川静著『字統』や『説文解字』が【奴()】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。
だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前2050年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、
「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、
「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕(たがや)すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する18歳くらいの青年」を意味した。
ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬(ほうむ)る墓に循(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳(ひとみ)がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲(いけいえ)に選ばれたのである。

また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。
また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」にて詳細に解説したように、
対馬国(つしまこく)から数えて16番目の姐奴国(つなこく)18番目の蘇奴国(さなこく)20番目の華奴蘇奴国(かなさなこく)などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴()】の字源解説と異なり、
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

上記の4つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。
前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。
また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約4000年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)が共通する、土偶の両手と両脇(りょうわき)の「C字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。

以上のごとく、「後期縄文時代に作られた5基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な3点の事柄を表現することになった。
(
)「強大な力を有する聖獣(せいじゅう)の、ジャコウウシ」
(
)「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手(西の手)と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部

(C)「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】

◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。
白川静著『字統』は【倭】の字について「委()は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。
下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被(かぶ)りものを飾(かざ)るように観える、十字の銀河の図」である。
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上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、
下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。
このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。
0000274
前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた5基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯40度」である。
下図に、今から約4000年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。
下図に示した「+赤緯40度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎(北緯40)の天頂」にめぐってきた。
また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手(西の手)と脇腹(わきばら)」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯37度の土地の天頂にめぐってきた。
そして、下図が示すように、当時(後期縄文時代初頭)、「十字の銀河の胸部と左手(東の手)の銀河部」が黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した。
0000275

下に、群馬県の吾妻郡(あがつまぐん)吾妻町の郷原遺跡(ごうばら)遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。
下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被(かぶ)る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。
0000276

下図に示したように、「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、
「男鹿半島端の入道崎から以北のC字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹(わきばら)C字形」に造形された。
「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。
この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。
だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。
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ハート形土偶が出土した郷原遺跡(郷原集落)は、北緯3634分である。
下図は、約4000年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。
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〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術 第1巻 原史美術』(小学館発行)は下記のごとく指摘する。
「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもC字形曲線によっているという点である。つまり、体側(たいそく)はC字形と逆C字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」
下図に、上記の指摘を図示した。
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下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。
注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫()られていることである。
だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、
「黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵(北緯3535)の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。
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ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は
「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵の天頂の位置」と
「現在(つまり、後期縄文初頭)の郷原集落の天頂の位置」を表示して、
【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。
当時の縄文人たちにとって、【精確(せいかく)な天頂緯度の測定】は【命(いのち)】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。
だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代(中期縄文初頭)と現在(後期縄文時代初頭)()北緯40(益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏)と、()ハート形土偶が出土した郷原集落と、()黄帝陵の天頂緯度を表示する機能(役割)がそなわっていたと考えられる。
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◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、
名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏(ほとり)を本拠地にして、
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】などを教えひろめたために、
各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。
このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、
上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、
「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のC字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。

◆下図における左図は、千葉県銚子市(ちょうしし)に所在する余山貝塚(よやまかいづか・北緯3545)から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。
下図の右図は、埼玉県岩槻市(いわつきし)の真福寺貝塚(しんぷくじかいづか・北緯3556)から出土した「みみずく土偶」の図である。
両土偶の両脇はハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。
「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。
ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。
このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。
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下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡(かめがおかいせき・北緯4053)から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の図を配した。
顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。
この土偶の円環状(えんかんじょう)の枠取(わくど)りをほどこし、その中のレンズ状曲面に1本の沈線(ちんせん)を刻んだ目は「光を遮断(しゃだん)するもの」と見立てられた。
ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。
この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径(どうこうけい)を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。
この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。
下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形されている。
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上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。

◆下図は、長野県茅野市(ちのし)の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。
「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。
仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯36度の長野県茅野市の中ッ原遺跡(なかっぱらせき)から出土した。
仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様にC字形と逆C字形に造形される。
さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。
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この女神の仮面には1枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断(しゃだん)して瞳孔径を最大(mm~8mm)に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。

「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。
この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」を包囲する。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、
黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、〔虞()〕の要職に就()くことを命令された」と記述する。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖(しそ)」の帝禹(ていう)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の要職(ようしょく)に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。

したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、
「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。
上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、
益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。

「虎」といえば、前ページでも指摘したように、
夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。

また、夏音文字【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
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上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。
危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、
【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。

下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。
黄帝陵は北緯3535分である。
黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生(ぐんせい)していた。
したがって、黄帝時代、冬になると北緯3535分より以北の黄土高原は凍土地帯(とうどちたい・ツンドラ地帯)になって、ジャコウウシは群生していたことになる。
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それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯3634分、
後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯3545分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯3556分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯36度であるゆえ、
これら4基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原(ツンドラ地帯)の緯度とほぼ同じであったことになる。
だから、これら4基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。
これら4基の土偶からして、北緯4053分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。

◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市(いしまきし)から阿武隈川(あぶくまがわ)の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視(ぎょうし)していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。
ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。
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下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。
ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
したがって、下図に示したように、
(
)「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、
(
)「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
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その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市(しおがまし)に所在する島の名は「寒風沢島(さぶさわじま)」、
男鹿半島の根元にある成層火山(せいそうかざん)の名は「寒風山(かんぷうざん)」であり、
両者は「寒風」の2字が合致する。
火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風(れっぷう)なかで完全にからだを保護して-70℃の酷寒(こっかん)にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色(あんかっしょく)の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛(ぼうぎょもう)でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。
したがって、「寒風沢島」という名も「-70℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。

では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。
卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立(ていりつ)して覇権(はけん)を争った状況は「中原(ちゅうげん)に鹿を逐()う」と表現された。
つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。
司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益(ていえき)は故・帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に争わずに譲(ゆず)った」と記述されている。
この「帝益の戦争で決めずに禅譲(ぜんじょう)した事績(じせき)」を表現した名称が、
「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。
オスの鹿が争うとき、角(つの)の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定(さだめ)て争わない。
ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競(きそ)われた」と伝えられることになった。
その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。
ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。
以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、3世紀の三国時代(卑弥呼時代)以後に成立したと考えられる。

前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、
2200年後の卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)において、
『魏志倭人伝』における34の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度(ひんど)が最多になったのであろう。
『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と10ヵ国存在して、最多である。
また、そのうちの2ヵ国は「奴国」という同名である。
上記したように、後期縄文時代、()「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と()「男鹿半島」の2ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が2国存在することになったのであろう。

◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」は北緯4130分~北緯42度に位置する。
下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端(大間町)」は北緯4130分である。
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ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。
下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島(つがるはんとう)「の西部にある「十三湖(じゅうさんこ)」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。
ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島(なつどまりはんとう)は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。
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下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯4130分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。
「陸奥湾(むつわん)」は「女性の骨盤(こつばん)」に見立てられた。
倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛(まも)る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。
だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱()】の字源・字義をあらわした。
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上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬(やま)」という語をあらわした。
というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。
ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。
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下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨(とうちょうこつ)にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門(だいせんもん)」もまた、「邪馬」とよばれた。
出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。
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「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪(なな)め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径(しゅういけい)で骨盤入口を通過する」。
今日の産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気(けなげ)な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命(いのち)】の尊厳(そんげん)をあらわす光景である。
だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。

以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。
だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊(死霊)が棲む地】となって結縄(けつじょう)・書契(しょけい)・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。
その証拠に、712年1月28日に成立した〔古事記上巻 并(あわ)せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。
この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。

◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国(つしまこく)に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(いちだいこく)に至る」という記事がある。
上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。

下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
そして、「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ)」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対(いっつい)になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。
「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。
下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱()】の字源をあらわした。
これゆえ、「一大国」は「【壱()】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐(わか)れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。
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下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。
上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。
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だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石(あらいはくせき)以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。
「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。
白石以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和(やまと)」の「やま」や「山門(やまと)の「山」である。

「邪馬」は「子宮から堅(かた)い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。
いっぽう、「邪馬臺()国」の【臺()】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台(うてな)」のあいだには関連性はまったくない。
だから、「邪馬」と【臺()】は結ぶつくことができないゆえ、本来(ほんらい)、「邪馬臺()国」という語は不条理(ふじょうり)きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。

以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消(まっしょう)することができない。
「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。
白石以来の約300年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。
だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合(ふつごう)な記事を抹消し無視する独断(どくだん)と偏見(へんけん)であったことになる。

前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。
「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯3535分である。
だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。

日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯3535分あたりとなる。
ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳(はしはかこふん)や纏向遺跡(まきむくいせき)が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯3535分ではないことが一目でわかる。
同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。
この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。

◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文章である。
この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後(どんづまり)は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。
そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。

前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後(どんづまり)」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。
また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国(壱岐)」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、
「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。
だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。

以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「白石以来300年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。

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2024年10月 7日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・34

卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

◆冒頭に示した【夏の銀河】の地平線上に出現する形はドーム状に半円形である。
しかし、倉頡(そうきつ)は、このブログ冒頭のカラー写真のごとく平面化して「南を正面にして、左上に【夏の銀河の東北部】」を配置し、「右下に【夏の銀河の西南部】」を配置して、
下図の左側に示したように、倉頡は【夏の銀河の基本形として、1本の斜線」に図化(ずか)することにした。
そして、下図の左側に示したように、倉頡は「北を正面にして、右上に地理(地図)の東北部」を配置し、「左下に地理(地図)の西南部」を配置して、「地理(地図)の基本形として、1本の斜線」に図化することにした。

ゆえに、下図の左側に示したように、「【夏の銀河】の斜線と地理の斜線」は【X】字形に交わることになり――この【X】の交わりを倉頡は【文字作成理論の基本形式】と定めた。
だから、【倉頡の文字作成理論の基本形式】をあらわした【X】の図書は文字となり、下図の中央に配する【X・爻(こう)】の字源となり、また契文前期の字形(けいぶんけい・甲骨文字前期の字形)となった。
あるいは、下図の右側に配したように、上部に【X】に配し下部に「建物」をあらわす図書が加えられて文字となり、この文字は【学】の字源となり、また契文前期の字形となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、【X・爻】の字を「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説する。
また、白川静著『字統』は【学】の字を「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。
さらに、白川静著『字統』は【爻】の字源解説にて、【学】について「学は一定年齢のものが隔離された生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と指摘する。
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ゆえに、【爻】の【X】は「学問の起源」、つまり「【倉頡の文字作成理論】における最初に知っておくべき基本知識」となった。
だから、【学】とは「【倉頡の文字作成理論】を学ぶ施設」であった。
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、中国から大海を越えて名門益氏(えきし)の王子と若者たちが九州に上陸し、さらに北進(ほくしん)して男鹿半島・八郎潟の西の辺(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めた。
これゆえ、わが国の神社建築は屋上に【学】の起源をあらわす千木(ちぎ)がそなえつけられることになったのである。

◆現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的(けいとうてき)な合理】つまり【科学】を成立させて証明したように、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と説明しているからである。

『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()
国邑(こくゆう)を為()す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
対馬国(つしまこく)と一大国(いちだこく)の北と南の記事を除(のぞ)く、【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。

新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」

上記したように、対馬国と一大国の北と南とする記事を除く、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を幾つか有する。このため、【科学】がまったく成立しない。

『魏志倭人伝』は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
下図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』が説明する対馬国と一大国の方位記事を除く、「転回日本列島像における全方位記事」は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点(むじゅんてん)もなく【科学】が成立する。
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今から約300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき)がとなえて以来、多数の学者たちが主張することになった邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記された全方位記事に対して幾つかの点で矛盾し不合理となって、【科学】がまったく成立しない。
というのも、白石以来の邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちは、「『魏志倭人伝』を邪馬台国について説明する古文献である」と思い込んでいるが原因で、その意見は論理が完結(かんけつ)せず幾つかの矛盾点と不合理な点を有することになって【科学】が成立しない状況になるからである。
しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献」であったと考えれば――【倉頡の文字作成理論】から生成された【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理もなく矛盾点もなくなり【科学】が成立する仕組みになっている。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・33」では、下記の事柄について詳細に解説した。

『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明する。この「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同じである。
ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していることになる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、伊耶那岐命・開化天皇は異母弟の皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
伊耶那岐命・開化天皇は「邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原(うなばら)」と表現して、愛妻・伊耶那美命とのあいだに生まれた息子の須佐之男命(すさのおのみこと)に分治した。

ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には天照大御神に分治した「高天原の邪馬国・大和」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在した。

したがって、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。

「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみことと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「崇神天皇・御真木入日子印恵命は天照大御神を崇拝して祭った」と記述している。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだのである。
天照大御神を崇拝して祭ったゆえ「天照大御神」と人々に異名(いみょう)で呼ばれた皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)は、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐(とうばつ)して天下を掌握(しょうあく)して、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)す強権政策(きょうけんせいさく)を決行した。

時を移りて――須佐之男命が没して、邪馬壱国・出雲地方は大国主神(おおくにぬしのかみ)が治める時代となった。
『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話〕における「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」の箇所は、
「邪馬壱国・出雲地方を治めた王の大国主神は、大和の天照大御神王朝に討伐された。討伐された大国主神は、邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷(うつ)し、天照大御・神御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを承認した」と説明する。
この承認の際、大国主神は「皇太子・御真木入日子印恵命が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめるために、壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するため、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱(みやばしら)を立て、高天原・出雲の空に千木(ちぎ)を高くそびえさせる社殿を建造してくだされば、この邪馬壱国・出雲を邪馬国・大和の天子が治めることを承認します」と誓った。

また、大国主神は天照大御神に下記のごとく誓った。
「僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき。

上記の文を、現代語に訳すると、下記のごとくある。
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就()くことができたことになる。

◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)を「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記すことである。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

前々回と前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3233回で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。

【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差がある」と解説した。

前ページにて解説したように、大国主神は天照大御神・崇神天皇王朝に「天高く千木がそびえる壮大な神殿を大和王朝が築造してくださったならば、わたくし(大国主神)の後を継ぐ王たちは代々、皆(みな)、こぞって大和王朝を尊敬してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と誓ったにもかかわらず、
出雲王権の後を受け継ぐことになった不弥国・宗像大社の王一族を代表する天菩比命(あめのほひのみこと・天穂日命)は、天照大御神と大国主神との約束をまもらなかった。

天照大御神・大和の崇神天皇が大国主神との約束で出雲大社を建造したとき、祭祀(さいし)を司(つかさど)ったのは不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命一族を代表する天菩比命であった。
出雲大社の祭祀を司る天菩比命は、天照大御神と大国主神との約束にもとづいて「天照大御神の第二子」ということになったゆえ、
出雲大社の本殿では天照大御神を尊崇(そんすう)して祭らなければならないにもかかわらず、
出雲国の国造(こくそう)に就任した天菩比命は大国主神が誓った約束を守らず、出雲大社の本殿では大国主神を主神として祭った。

つまり、上記したように大国主神は「わたくしは多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」
と言って誓ったにもかかわらず――天菩比命(あめのほひのみこと)は邪馬壱国・出雲の中心地域から遠くの場所に隔離(かくり)して大国主神を祭らずに――邪馬壱国・出雲の中心地域に建造された出雲大社の主神を大国主神として祭った。
ゆえに、出雲国の国造の天菩比命は大国主神の誓いをまもらず、大和・天照大御神王朝に逆(さか)らい反抗したことになる。

だから、大和王朝は出雲王権の天菩比命に虚仮(こけ)にされ名誉を傷つけられたということで、
出雲国造の天菩比命の反抗は不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命の指図(さしず)によるものと考えたにちがいなく
天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと・後の景行天皇)が、宗像王の天菩比命を征討(せいとう)するために大和軍を率いて遠征することになった。
この「天孫邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国への遠征した様子」を、『古事記』上巻では「天孫邇邇芸命の降臨(こうりん)」と表現する。

『古事記』上巻における〔天孫邇邇芸命の説話〕は「天孫・大和の遠征軍を猿田毘古神(さるたびこのかみ)が先導(せんどう)した」と説明する。
この「猿田毘古神の先導」の箇所の冒頭は「ここに天孫日子番能邇邇芸命が天降(あも)りなされようとする(つまり、邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国へ遠征しようとした)時に、天降りの道が多くの道に分かれている所に居て、上は高天原(たかまのはら、つまり大和)を照らし、下は葦原中国あしはらのなかつくに、つまり出雲)を照らす、神がいた」と、「猿田毘古神」について説明する。

上記のごとく、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕は、容易に理解できない難しい抽象的な文をもって「天孫邇邇芸命(後の景行天皇)の不弥国の宗像王の天菩比命の討伐」について説明する。
ゆえに、「猿田毘古神の先導」の次の「天孫の降臨」の箇所では、
「天孫邇邇芸命が率いる大和軍が宗像王の天菩比命を討伐するために遠征した道程(みちのり)」を、下記のごとく説明している。

◆「故(ゆえ)、爾(ここ)に天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔らして、天之石位(あめのいはくら)を離れ、天之八重(あめのやえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天浮橋(あめのうきはし)に宇岐士摩理蘇理多々弖(うきじまりそりたたして)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐()しき。」


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「ここに天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の勅命(ちょくめい)によって、天孫邇邇芸命は天の石位(いわくら)を離れ、天(あめ)の八重(やえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて・つまり、伊都国の地宜が示すようにジャコウウシの群れが毎年通う・知り分ける道をゆっくりと進むジャコウウシの姿のごとく、威風堂々と)、途中(とちゅう)、天(あめ)の浮橋(うきはし、つまり関門海峡)からさらに進んで空に浮いている島(夏の銀河に沿って並ぶ天頂緯度を測量できる天体部)に胸を張って立って測量して(つまり、お腹(なか)をぐーんと前に出して天頂の緯度をキャッチして)、筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に到着して、その頂上に登った。」

『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)の初頭記事は、「益氏の王子・天祖(てんそ)の日子能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ひこほのににぎのみこと)」について下記のごとく説明した。
「わが天神(あまつかみ)の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と天照大御神は、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けられた。そこで、天祖・益氏の王子は天のいはくらを開き、雲路(くもじ)を押し分けて、先払いを立てて地上に降臨された。」
このように、上記した『古事記』上巻の〔天孫の降臨記事〕と『日本書紀』の神武天皇紀の天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事の両者は酷似(こくじ)する。
だから、前述したように、「大和王朝は天孫・邇邇芸命を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀は、下記のごとく説明する。
「帝益(ていえき)は帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した。」
ゆえに、上記した『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所に登場する「筑紫の日向の高千穂(たかちほ)の久士不流多気(くしふるたけ)」は、
通説では「宮崎県西臼杵郡の高千穂」、「鹿児島県と宮崎県の境にある霧島高千穂」などと解釈されるが、
「帝益が隠棲した地の北に所在した箕山」と類似する名の「福岡県と佐賀県の県境の標高405mの基山(きざん)」であったことになる。
というのも、「箕山」と「基山」はともに「きざん」と読み、【箕】と【基】の原字(最初の文字)は共に【其】であるからである。

だから、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」は「福岡県と佐賀県の県境にある基山」であったと考えるべきことになる。
基山から東の坊住山(ぼうじゅうやま)にかけて665年に新羅(しらぎ)・唐からの侵攻(しんこう)に備えて天智天皇が築いた基肄城跡(きいじょうせき)がある。
基山は草山で県立自然公園になっている。

「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所の末部には「真来通(まきとお)る」という語が記される。
「真来通る」が「真木立(まきた)つ」ともいい、「南と北の地所が同一経度となる」と意味した。
ゆえに、上記した「基山」をあらわす「高千穂の久士布流多気」の「久士布流多気」の6字には〔音〕という注がつくが――この6字の夏音文字「久士布流多気」は言いかえると「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすものであったと考えられるゆえ、
「串触る岳」とは「南北の地所が同経度となる串(くし・経度線)が触れる(貫通する)山」であったことになる。

下図に示すように、鳥栖市(とすし)の真木(まき)・基山・宗像神社(辺津宮)の三者は共に同一の東経13030分の串(経度線)で「真来通る」。
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実は、鳥栖市の真木・基山を貫通する東経13030分の串(経度線)は、下図に示す宗像神社の辺津宮(へつみや)に築造される本殿ではなく、その西方の奥にある高宮祭場(たかみやさいじょう)を貫通している。
つまり、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)はほぼ同じ経度線とされ、宗像神社の辺津宮の本殿(東経130.514333)は基山・高宮祭場の経度線から一寸の差となってわずか東寄りに位置するとされた。

高宮祭場は宗像大神の降臨の地と伝えられる。
ゆえに、下図に示す「宗像大社の高宮祭場(東経130.51349)と、その東の辺津宮の本殿(東経130.51433)の経度の差」が、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「地上千里にして一寸の差がある」と解説する、その「一寸の差」をあらわした。
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◆前述したように、【箕】と【基】の原字は共に【其】であり、
下図の右上に配したように、【箕】と【其】の契文形は同一形である。
白川静著『字統』は【X・爻】の字を「千木のある建物」と解説する。
【学】の契文形について、白川静著『字統』は「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。

下図の左上に示したように、またこのブログの初頭の【夏の銀河のカラー写真】をもって説明したように――
【爻】の字は「〔南〕を正面にして地平線上に出現する半円形(ドーム形)の【東北部から西南部の夏の銀河】を平面化して1本の斜線」にし、
また「〔北〕を正面にして地理の東北・西南は1本の斜線に図化」して、
この「1本の斜線化した両者をX字形に交(まじ)えて【倉頡の文字作成理論の基本形式】」をあらわした。

下図の中央下に配する【其】の契文形は中央の軌道図(きどうず)が示しているように――「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度をあらわす軌道にける、地平線下に潜(もぐ)る軌道をあらわす図書」の【U】の中に【X()】が加わって構成される。
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古代、人々は、下図のごとく、日々【天頂緯度をキャッチ】して【命(いのち)】をまもっていた。
下図の右上に示すように、【亠(とう)】の字源は「天頂緯度線・天頂点・子午線」の三者から構成される。
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下図に示すように、【亠】における「子午線は南北の経度線」に合致する。
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前ページにて解説した「[][]の原字[]の字源解説図」にて、【其】の契文形における【U】の図書が「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度の軌道における、地平線下に潜る(もぐる)軌道」であった理由は、
「春分の日(秋分の日)の太陽は真東の地平線から登り、真西の地平線に没し、正午には天頂から真南に位置して子午線(経度線・真来通る)」を示すゆえ、結局、上図の【亠】の字のごとく「東と西を結ぶ緯度線と子午線」を示すことなったからである。

それゆえ、【U】字形に図案された「春分の日(秋分の日)の太陽の日没から翌日の日の出までの地平線下に潜る軌道」は「【景】の字源となった帝禹が発明した【地平線下に潜る夏の銀河】を地面に図化した測量方法と、帝益の先祖の益氏が発明した太陽の天球上における軌道となる黄道の測量」をあらわすことになった。
ゆえに、【周礼】が〔大司徒〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」、あるいは「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する――この「【景】の測量」は「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜(もぐ)る軌道」で表現されることになった。
だから、「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜る軌道」は【其】の字源となり――【其】の契文形の外枠(そとわく)は【U】の図書に図案されることになったのである。

ゆえに、東経13030分の「基山」の【基】の字は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「日景を正して、以て地の中を求む」とあらわすことになった。
その証拠に、前述したように、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)を結ぶ経度線より少し東に寄る宗像神社の辺津宮本殿(130.51433)は、『周礼』の〔大司徒〕の【景】の「地上千里にして日景に一寸の差がある」と字源解説をあらわした。
だから、「基山」は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命」の説話に登場する「高千穂の久士布流多気(串触る岳)」であったことになる。

◆司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は「帝益は帝禹の三年の喪が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」と説明する。
この「箕山」は、「黄河口(こうがこう)、つまり黄河の河口」であったと考えられる。
下図に示すように、「黄河口の海岸線は山形(やまなり)」であるゆえ、「黄河口の海岸線」は「地平線上の軌道」に相似すると見立てられたにちがいない。
ゆえに、「黄河口の地底」は「地平線下の軌道」をあらわすと見立てられて【U】の図書に図案されることになった。
そして、「黄河の上流は西南、黄河口は東北」に在るゆえ、「【夏の銀河】の東北・西南の形式と対称形」となって【X】字形に交わる。
だから、「黄河口」は【U】の中に【X】が加わる【箕】の字源となった。
かくして「黄河口」は【其】の字源となったが、この【其】の字形が「籾殻(もみがら)を除去(じょきょ)する農具の箕()の形」に相似すると想像されたため、「黄河口」は「箕山」と名づけられたと考えられる。
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ということは、「帝益が隠棲した、箕山の南の地」は、上図に示す「日照」であったのではなかろうか。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて詳細に解説したように――、
上図に示した山東半島北端の「石島」は「夏至の日の朝日が直(じか)に刺す処(ところ)」であり、山東半島の南端にある「日照」は「夏至の夕日照る処」であるからである。

ゆえに、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、下記のごとく説明する。
――是に詔()りたまはく、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故(ゆえ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と詔()りたまひて、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷椽(ひぎ)たかしりて坐()しき。


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――ここにおいて、天孫邇邇芸命は「ここは(遠くの)韓国・朝鮮半島に面し、(近くは)笠紗(かささ・つまり不弥国の津屋崎町の菅笠(すげがさ)の形に相似する地宜)の前を基山からの真来通る経度線が貫通する宗像の地域は朝日の直(じか)に刺す国、夕日の日照る国である。ゆえに、ここは実に吉なる地である」と仰せられて、地底の岩盤に太い宮柱を立て、高天原(たかまのはら)に千木(ちぎ)が高くそびえる宮殿(宗像神社の辺津宮)を建造してお住まいになった。

下図に示すように、「山東半島の付け根より南の海岸線の形」は「長江口(ちょうこうこう)が人の鼻、杭州湾が人の口」に見立てられるゆえ、「人の横顔」に類似する。
だから、「山東半島」は「頭上に被(かぶ)る笠(かさ)」に見立てられた。
「山東半島」は「カンムリカイツブリの横顔」に相似すると見立てられて【弥】の字源を示す地宜(ちぎ)となった。
【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの顔の色」は「絹の紗(うすぎぬ)のごとくキラキラと光り輝く銀白色」である。
だから、「山東半島」は「笠」に「紗」が加わる「笠紗」と表現されることになった。
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「山東半島」は「韓国(朝鮮半島)」に面する。
ゆえに、上記したように、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、「ここは韓国(からくに)に向かい」と説明する。

下図に示す「津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線の地宜(ちぎ)」は、「山東半島の地宜」と同じく、【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭()部」に相似すると見立てられた。
だから、「津屋崎町の海岸線より東の、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)とを結ぶ経度線(東経13030)」は、
上記した「天孫邇邇芸命の降臨」の記事の末部では、「津屋崎町の地宜」が「山東半島の地宜」に類似して「カンムリカイツブリの横顔」をあらわすゆえ、「笠紗の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて」、つまり「笠紗に見立てられた津屋崎町の海岸線の前を、基山と宗像大社の高宮祭場を結ぶ経度線(東経13030)が貫通する」と表現されることになったのである。
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以上のごとく、「天孫邇邇芸命」は「【景】の字源の遠征を行った。
だから、天孫は「【景】を行った」ということで、皇位に就()くと「景行天皇」と呼ばれることになった。

この【景】の字源については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」にて詳細に解説したように、『魏志倭人伝』の後半部にある、
「又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」
と記述される――男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した名門益氏の王子と若者たちの、
その孫の代に築造された秋田県の鹿角市(かづのし)に所在する大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」における、下に示す「万座遺跡外帯の東側の配石群の平面図が夏の銀河像」をあらわして現在に伝えている。
下図の左図は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説した「地面に図化した、地平線下に潜る【夏の銀河像】」であった。
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また、下図に示す大湯環状列石遺構の野中堂遺跡における「日時計組石(ひどけいくみいし)」と呼ばれる特殊石組も、『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する秘密を現在に伝えている。
この【景】の字源の秘密は「太陽が前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」をあらわしている。
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しかし、いままで説明したように、「基山と宗像大社の高宮祭場とを結ぶ東経13030分の経度線より少し東に寄る宗像大社辺津宮の本殿の位置」も、「地上千里にして日景に一寸の差がある」という【景】の字源の秘密を現在に伝えていることになる。
だから、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて指摘したように――「高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)と佐太神社の本殿とを結ぶ東経133度より少し東側の佐太神社の鳥居の辺り」もまた、「地上千里に「して日景に一寸の差がある」という【景】の字源を現在に伝えていることになる。

738年、45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に、全国に国郡の地図作成の命令が下された。
当時、国号は「倭人国」ではなく「日本」に改定され、【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定の習慣」は朝廷はじめ地方の官庁でも衰退していたのであろう。
このため、「能登から東南に男鹿半島・八郎潟がある」という意見、あるいは「日本列島の東は南に伸びると定めた卑弥呼の転回日本列島地理」は間違っているのではないかと疑問視され否定されるようになっていたにちがいない。
そして、738年以後の796年の50代・桓武天皇(かんむてんのう)の時代でも、国郡図の修正(しゅうせい)が命じられた。
このような国郡図の改定政策は、「行基図(ぎょうぎず)」と呼ばれる稚拙(ちせつ)な概要日本列島地図が発行されて行われた。
ということは、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は【倉頡の文字作成理論の産物】であったため、
この【倉頡の文字作成理論】は朝廷と国家が最も厳重な機密にして独占管理するものであったことからして――【倉頡の文字作成理論にもとづいて発明された地図作製方法】によって「精密な日本地図が作成されていた事実」を反体制側の人々に気づかれないようにするために、稚拙な概要日本地図、つまり通称「行基図」をもって「日本列島の東は東である」と明記する概要日本地図を多数作製して国郡図の方位を改定する事業が行われたことになる。

しかし、このような多数の「行基図」を作成しておこなった「日本列島の方位規定の改定事業」によって、「1度60分の60分の1分の精度で緯度が測定できた天頂緯度測量」を衰退し廃絶(はいぜつ)されるようになった。
ゆえに、天頂緯度をキャッチして行われていた遣唐使(けんとうし)の派遣は、59代・宇多天皇(うだてんのう)の治世(じせい)894年の第18回をもって廃止されることになった。
多数の「行基図」と二度の国郡図改定事業の影響で「天頂緯度線をキャッチする航法は間違っていた」という意見が世に次第に強まって否定されるようになったため――遣唐使はじめ遣唐使船の船乗りたちは天頂緯度を測量して大海を往来する航法に自信喪失(じしんそうしつ)して、この航法に命を委(ゆだ)ねることに信頼できなくなって大海を渡ることができなくなったが原因で、894年の第18回遣唐使の派遣は廃止されることになったのである。

原始・太古にあっても、また第18回遣唐使が廃止された9世紀末においても、大海を往来する方法は【1度・60分の60分の1の1分の精度で緯度が精確に測定できる、天頂緯度を測量する方法】のみ一つであった。
【天の北極の高度】でも緯度は測量できたが、この方法では1度・60分の60分の1の1分の精度では測量できず、おおよそにしか緯度が測量することができないため、大海を往来することができず命を失うことになった。

その証拠に、702年6月29日に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回の遣唐使の最下位の幹部であった山上憶良(やまのうえのおくら)は、
『万葉集』の894番の「好去好来(こうきょこうらい)の歌一首」と題する長歌を作り、
この長歌の後半部で、下記のごとく証言している。
「大御神(おおみかみ)たち 船舳(ふねのへ)に 御手(みて)うちかけて 墨縄(すみなわ)を 延()へたるごとく」
上記の部分を現代語に訳すると「大御神たちが船の舳先(へさき)に御手をおかけになって、まるで墨縄をまっすぐに張って延ばしたようにお導(みちび)きになさる」ということになる。

もしも「遣唐使船は【天の北極の高度】で緯度を換算して大海を往来した」としたなれば、【天の北極の高度】を「墨縄を 垂らし計(はか)るに」と憶良は詠()んだことであろう。
あるいは、【天の北極の高度】を別の方法で「高度」をあらわす語で表現していたにちがいない。
憶良は「墨縄を 延へたるごとく」と詠み、「遣唐使船は【天頂緯度を測量する方法】で大海を往来した」と明確に表現して証言している。

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2024年10月 2日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・33

卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。

『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()
国邑(こくゆう)を為()す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。

新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」

上記したように、『魏志倭人伝』に記される末盧国(まつろこく)から黒歯国(こくしこく)までの32の小国における全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を多数有する。ゆえに、まったく【科学】が成立しない。

『魏志倭人伝』の全方位記事は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
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上図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』の全方位記事は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点もなく【科学】が成立する。

他方、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・16571725)以後の学者たちが主張した邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の場合は、『魏志倭人伝』の全方位記事に矛盾し不合理な点を幾つか存在して【科学】が成立しない。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献であったと考えるべきことになる。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不記の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
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隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて詳細に解説したように――
益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この(鳥)と名付けられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記される。

下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
前述したように、【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」は「【鳥】と名づけられた光度1.8等の星がある、北斗七星」に見立てられたことになる。
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下に「卑弥呼が生存した3世紀における、夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に近似(きんじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
それゆえ、「中ノ島」が「りゅう座α星の周辺」に見立てられたことになる。
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『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していない。ということは、卑弥呼は「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前においてまた以後においても、さらに3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、人間にとってもっとも大事な命(いのち)と直接に関係しないゆえ、天文学においても無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」を指した。だから――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。

しかし、後世、『魏志倭人伝』に記された「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(また)国有り。皆、倭種なり。(中略)。周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの、【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理に則(のっと)って【石川県北部の旧国の能登から東南の周旋五千余里ばかりに、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る】と、卑弥呼が立論した難解な意見が注目されて重大事となり、後年、波紋(はもん)をよび論争されることになった。
このため、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」の「隠岐群島の島前(どうぜん)」における、
上記した「天の北極に見立てられる地点」に、
卑弥呼の死後、3世紀に生存した壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみもみこと)の時代には名称が必要とされることになった。
そこで、壱与・伊耶那美命は「天の北極(つまり、島前における天の北極に見立てられる地点)」を「隠伎」と名づけ、「島前」を「隠伎之三子島」と名づけた。
この伊耶那美命が「隠伎之三子島」と名づけた事績(じせき)を、『古事記』上巻は「国生み」と表現する。
この「国生み」という名称について「伊耶那美命が隠伎三子島を妊娠(にんしん)して生んだ」と解釈されているが――この解釈は誤りで、「国生み」は要するに「【倉頡の文字作成理論】の学識にもとづいて考えて地名をつけた」と意味するものであったことになる。

3世紀当時、遠くの地を旅する人々や大海を往来する人々をはじめ日常生活においても人々は天頂緯度をキャッチして1度・60分の60分の1の1分以内の精度で測定(そくて)して、みずからの命(いのち)をまもっていた。
原始以来、人類は天頂緯度を精確にキャッチできる眼力と本能が頭脳にそなわっていた。
このため、人々は、日々、眼力を鍛錬(たんれん)して天頂緯度をキャッチして命をまもっていた。
「天の北極の高度」によって「おおよその緯度」を知ることができる。
下図の右上に示すように、3世紀の北極星(こぐま座β星)は天の北極から約10度離れていた。

ゆえに、直径約20度、つまり【直径が約1200分の円が描く北極星の中心点・天の北極の高度】を精密に(1度・60分の1の1分の精度で)測定することは人間の目では不可能であった。
このように〔人々にとって、天の北極は【命】と無関係〕であった。
このため、卑弥呼の時代には「天の北極」は名無しの権兵衛(ごんべえ)でも許されたゆえ、
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」という「島前」には小国名が記されていなかったのである。
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前述したように、卑弥呼が〔益氏が男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと立論した意見〕が波紋(はもん)をひろげて注目されると名無しの権兵衛である状況は不便となった。
このため、壱与・伊耶那美命の倭女王としての教養(【倉頡の文字作成理論】の学問)の深さが試(ため)されることになった。
壱与・伊耶那美命は〔天頂緯度をキャッチして命をまもる、その【命】(天頂緯度)と無関係の夏の銀河部〕にして「円の中心・天の北極」のイメージに合致する「銀河の中心(銀河宇宙の中心)」を注目した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の右下に、わたくしが「銀河の中心」と名づけた銀河がある。
この「銀河の中心」は「銀河系宇宙の中心」のことである。
この「銀河の中心の東となり」は「巨龍(きょりゅう)の顔の銀河」、「銀河の中心の西となり」は「胎児の姿に似る銀河」である。

夏音文字には【龍】という字が存在しなかった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて詳細に解説して証明したように、
小国「巳百支国(じはきこく)」は「現在の京都府北部の、旧国の丹後(たんご)」であった。
「巳百支国」の【支】の字源となる地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、
下に示す「丹後の大浦半島」であった。
「大浦半島の地宜」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、夏音文字における【支】の字源は「銀河の中心の東となりの、巨龍の顔の銀河」であった。
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下図に示すように、「銀河の中心」は「両腕を左右に伸ばした、人の姿に似る暗黒天体部」に漬()かる。
ゆえに、伊耶那美命は「銀河の中心が漬かる、人の姿に似る暗黒天体部」を注目し――
この「暗黒天体部」は「銀河の中心を中心にして渦巻く、巨大な渦巻の中に隠れる」ゆえ、【隠】の字であらわすことにした。
また、その「暗黒天体部は人の姿」に相似するゆえ、伊耶那美命は【人】に見立て、
上記したように、「銀河の中心の東となりの、巨龍の顔の銀河」は【支】の字源であったゆえ、
伊耶那美命は、人偏(にんべん)に【支】を加えて【伎】とし、
【隠】に【伎】を加えて、「天の北極」を「隠伎」と名づけることにした。
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「銀河の中心」には無数の星と星間物質(せいかんぶっしつ)が入り乱れ、「銀河の中心」を中心にして巨大な渦(うず)を巻く。
以上のごとく、伊耶那美命は、その「巨大な渦巻の中央に隠れる、人の姿に似る暗黒天体部」を「天の北極」に見立てて「隠伎」と名づけた。

◆『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明して
「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同一であるをもって、
『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していると考えられる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、
伊耶那岐命・開化天皇は皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
また、伊耶那岐命・開化天皇は皇太子・月読命(つきよみのみこと)、つまり「開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた日子坐王(ひこいますのみこ)であろう」に「夜之食国(よるのおすくに)」、つまり「徐福の子孫が栄えた東鯷人国・小国の日本であろう」を分治した。
また、伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命との間に生まれた皇太子・須佐之男命(すさのおのみこと)に「海原(うなはら)」を分治した。

『魏志倭人伝』は「益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」について、下記のごとく説明する。
「卑弥呼は、益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)につい――黒歯国(こくしこく)・旧国の能登(現在の石川県北部)の東南に所在し、その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となり、あるいは小さい島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

上記のごとく、卑弥呼は「日本海」について表現したため、
伊耶那岐命・開化天皇は「日本海に面する邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原」と表現して、須佐之男命に分治した。
ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には、天照大御神に分治した「高天原」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在したことになる。

ということは、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。

◆「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「御真木入日子印恵命・崇神天皇は天照大御神を崇拝して祭った」と記述する。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだことになる。
天照大御神を崇拝して祭った皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)について、
『日本書紀』の崇神天皇紀の〔四道将軍〕の記事冒頭記事で、下記のごとく説明している。
「大彦命(おおびこのみこと)を北陸に派遣(はけん)し、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に派遣し、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に派遣した。そして詔(しょう)して『もし教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と命令した。」

この記事の後には、天照大御神・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)の異母兄の武埴安彦(たけはにやすびこ)の叛乱が起きたので、天照大御神に命令された大和軍は武埴安彦を討伐(とうばつ)したと詳細に説明している。
上記のごとく、高天原を分治された天照大御神・御真木入日子印恵命は皇太子であって天下を手に入れた天皇ではなかったので、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐して天下を掌握(しょうあく)し、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)さなければならなかったのである。

『古事記』中巻の崇神天皇紀は、天照大御神・御真木入日子印恵命の居殿は「師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)」であったと記す。
『日本書紀』の崇神天皇紀は「師木の水垣宮」は「磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)」と記す。
天照大御神・御真木入日子印恵命が居住した「磯城の瑞籬宮」は、今日の奈良県桜井市金星付近に所在したとされ、
「磯城」の2字の字義に反して――「磯(海岸)に所在する城」ではなく「内陸地の桜井市」に所在した。

つまり、下図に示すように、天照大御神・御真木入日子印恵命は「激流の銀河」を【磯】に見立て、「黒歯国(こくしこく)」に見立てた「正方形の暗黒天体部」を【城】と【瑞籬】と表現して、居殿名を「磯城の瑞籬宮」と名づけたことになる。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」で解説したように、
下図に示したように、「黒歯国」に見立てられた「正方形の暗黒天体部」は『古事記上巻 并(あわ)せて序』の〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』撰録(せんろく)の企て〕の初頭部にある「潜龍元(せんりょうげん)を体(たい)す」という語によって――「鬼の横顔に似る銀河より北側の暗黒天体部」に移動して解釈しなければならなかった。
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『古事記上巻 并せて序』においては、「潜龍元を体す」という語は「天皇(天子)の資格(しかく)がありながら、いまだ天皇の位(くらい)についていない皇太子」を意味した。
つまり、『古事記上巻 并せて序』の「潜龍元を体す」という語は「672年6月24日に起きた壬申(じんしん)の乱のとき、皇太子であった大海人皇子(おおあまおうじ・後の40代・天武天皇)」をあらわした。
皇子一行は50人足らずで一行は近江軍から逃(のが)れて東国(あずまのくに)へ入った。
6月26日の朝、大海人皇子は朝明郡(あさけのこおり・三重県三重郡)の迹太川(とおかわ)のほとりで、天照大御神を遥拝(ようはい)された。

この大海人皇子(後の40代・天武天皇)が遥拝された天照大御神(御真木入日子印恵命、後の10代・崇神天皇)もまた、上記したように、「潜龍元を体す」、つまり「天皇(天子)の位(くらい)にいちばん近いが、帝位についていない皇太子」であった。
要するに、朝明郡の迹太川のほとりで「潜龍元を体す、大海人皇子(後の40代・天武天皇)」は同じ境遇であった遥(はる)か遠くの吉野宮(よしのみや)にて祀(まつ)っていた「潜龍元を対す、天照大御神(後の10代・崇神天皇)」に向かって拝まれて戦勝祈願したことになる。

◆『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつなかつくに)のことむけ説話〕において「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」について、下記のごとく記述する。
――爾(ここ)に答へて白(まお)さく、「僕()が子等二(ふたはしら)の神の白(まを)す随(まにま)に、僕()も違(たが)はじ。此()の葦原中国(あしはらのなかつくに)は、命(みこと)の随(まにま)に既(すで)に献(たてまつ)らむ。唯(ただ)()が住所(すみか)をば、天(あま)つ神の御子(みこ)の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、登陀流(とだる)(あめ)の御巣如(みすな)して、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷木(ひぎ)たかしりて治め賜(たま)はば、僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事主神(やえことぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき」


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
――ここに大国主神は「わたくしの子どもの事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の二柱(二名)が申したとおりに、わたくしは邪馬国(やまこく)・大和の天照大御神王朝にそむきません。この葦原中国・邪馬壱国(やまいこく)は、天照大御神の仰せのままにすっかり差し上げましょう。ただ、わたくしの住まいのために、天つ神の御子(みこ)である天照大御神が神聖な皇位におつきになったことを国中に知らしめる、天空まで登る(とどく)壮大な御殿を建造するために、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱を立て、邪馬壱国・出雲の高天原に千木(ちぎ)が高くそびえる神殿を建造してくださるならば、わたくしは〈百足(ももた)らず〉多くの道の曲がり角を経て行く、遠いところに隠れておりましょう。また、わたくしの子どもの多くの神()たちは、つまり八重事代主神の神々(王たち)が前後一列になって服従しておつかえするようにいたすならば、邪馬国・大和の天照大御神王朝にそむく者は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

上記のごとく、『古事記』上巻の「大国主神の国譲り」の説話において、「邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷し、天照大御神・御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを――大国主神が承認することを誓った」と説明していることになる。

上記した先頭の「天(あま)つ神の御子(みこ)の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす」という文は「天つ神の御子が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめる」と意味したゆえ、
要するに、「皇太子・御真木入日子印恵命(天照大御神)が神聖な天皇の位に就任したことを世に知らしめる」ということであった。
次の「登陀流(とだる)(あめ)の御巣如(みすな)して、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかものはら)に氷木(ひぎ)たかしりて治め賜(たま)はば」という文は、
「壮大な天まで登る高さの御殿を建造するがごとく、地底の岩盤に宮柱を太く立て、高天原・出雲の空に千木を高くそびえさせて社殿を建造して、この邪馬壱国・出雲を邪馬国の天子が治めるならば」と意味した。
ゆえに、邪馬国・大和の御真木入日子印恵命王朝によって天まで登る(とどく)ような高い出雲大社が建造された。
〔注 上記した文の先頭の「登陀流(とだる)」の3字には〔音〕の注がつく。ゆえに、前ページに配した[「黒歯国」となった「潜龍元を体す」の解説図]における「黒歯国」に見立てられた「鬼の横顔の北側の、正方形の暗黒天体部」が「能登」の夏音文字の【登】、その「正方形の暗黒天体部の隅丸角(すみまるかど)にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が夏音文字の【陀】、その「正方形の暗黒天体部の隅丸角にある、激流の銀河」が夏音文字の【流】と解釈した。ゆえに、「登陀流天の御巣如し」という文を、[「黒歯国」となった「潜龍元を体す」の解説図]のイメージにもとづいて、「壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するがごとく」と訳した〕。

上記したごとく、大国主神は大和の天照大御神に「僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき――と誓った。
つまり、前ページにて現代語に訳したように、大国主神は天照大御神王朝に、
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神たち(つまり、王たち)は、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで服従しておつかえいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就くことができたことになる。

◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)の「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記される。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。

【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した。

前述したように、『古事記』上巻の「大国主神の国譲(くにゆず)り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
この〔天孫邇邇芸命の説話〕では、「天孫は【景】の字源をあらわす、真来通(まきとお)る測量(つまり、経度線測量)を行って、大国主神の誓いを反故(ほご)にする黒幕(くろまく)となって邪馬国(やまこく)の大和王朝の強権政策(きょうけんせいさく)に逆(さか)らって抵抗(ていこう)する不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命(あめのほひのみこと)を討伐した」と、全文を抽象的に表現して説明する。
だから、「天孫邇邇芸命は【景】の字源をあらわす経度線測量(東経13030分の測量)を行って、宗像王の天菩命を討伐した」ゆえ、天孫は皇位に就()くと【景】に【行】が加わる「景行天皇」と名づけられることになった。
「天孫」が「後の12代・景行天皇」であったと証明できる、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕の解説・証明をこれから続けると長くなるので、今回のブログはこれ以上続行せずに次回でおこなうことにする。

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2024年9月21日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・32

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」までに詳細に解説して――【倭】の字源を論理基盤して『魏志倭人伝』の全記事は全体的に組織的に合理が成立するからである。
ゆえに――『魏志倭人伝』の記事によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されることになる。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、“夏の始祖(しそ)”の帝禹(ていう)の遺志「五帝時代以来存続してきた、国家を作らない・氏族共同政治体制」を新天地・日本列島にて継続させるために、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが荒波逆巻(あらうみさかま)く大海を、小舟を漕()いで横断(おうだん)して日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟地方に定住した――という歴史が記述されている。
なお、上記の帝禹の遺志「国家を作らない、氏族共同政治体制」を継続させるために、益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった中国における事情の経緯(けいい)の詳細は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて解説した。

男鹿半島・八郎潟地方の地に定住した益氏(えきし)の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史について、720年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)の初頭部は下記のごとく説明する。
「昔(むかし)、わが天神(あまつかみ)のタカミムスビノミコトとオオヒルメノミコトは、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた(つまり、益氏の王子、つまり天祖・彦火瓊瓊杵尊に日本列島において帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制】を定着させる事業を命令じた)。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路(くもぢ)をおしわける先ばらいを立てて(つまり、曇った夜空では測量できないが晴れる夜空を待って天頂緯度を精確に測量する役目の若者を先頭にして、益氏の王子の一団は)、旅の目的地に到着した。このとき、この地域はまだ野蛮(やばん)で草眛(そうまい)であった。そこで、蒙昧(もうまい)の中にありながら、みずからの正しい教え(学術)を養(やしな)って、この西の偏(ほとり)を治めた。
その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」

上記した【夏代黎明期(かだいれいめいき)、益氏の王子(彦火瓊瓊杵尊)と若者たち一団が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)】について、
『魏志倭人伝』の後半部の記事は、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す・30」に解説したように、
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(
)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
白川静著『字統』(平凡社発行)は「『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が、
(
)【景】の字について「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する――と指摘する。
というのも、()「地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状況の形状」であるゆえ、『周礼』の〔大司徒〕は「以て地の中を求む」と説明することになったのである。

また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(
)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」であった。
「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(おおきな円形)」となる。
上記したように、この「黄道の大円」は【景】の字源となった。

前記したように、白川静著『字統』は――『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字説(字源解説)の後に、
【景】の字について追加する「地上千里して日景に一寸の差があるという」という文意は、
「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。

◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(東経133.00639)からずれて、佐太神社の鳥居(東経133.008)の辺(あた)りを擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿(西・現在方位)から鳥居の辺り(東・現在方位)までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわしている。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の本殿を結ぶ東経133(東経133.00639)より東の鳥居の辺り(東経133.008)」が【景】の字源・原義をあらわした。
これゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇った。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
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◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字目くらいの箇所に、
前ページで紹介した――名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏に定住した記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種なり」という小国は、「倭種」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って「現在方位の北」が「東」に変位する――つまり「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真北(現在方位)の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。

隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。

又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。

下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)の、旧国の加賀(かが)」であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
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「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の顔と頭」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。

『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺(三度~四度)」と説明されることになったのである。
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上記したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。

結局(けっきょく)、「旧国の加賀」の小国名の「侏儒」は「五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡と【倉頡が発明した文字作成理論】」をあらわした。
というのも、「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説では、「侏儒」という語をあらわした「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「四つ目の怪人・倉頡」と表現したからである。
そして、「旧国の越中」の小国名の「裸」は「暑い夏に裸になって過ごす赤ん坊の上半身」をもって「夏代が生まれた初期(つまり、夏代黎明期)、【倉頡の文字作成理論と夏音文字の学術】が日本列島において初めて産声(うぶごえ)をあげた」と意味するものであったと考えられる。

下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
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この小国名が「黒歯」となった「熊が冬眠する洞穴(ほらあな)」は、
前記した『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある「益氏の王子・天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事の中に登場する
「天のいわくらを開き」という文をもってあらわされている。 

『日本書紀』の古書には「天開」の2字の横に小さな字で「アマノイハクラヲ」と記されている。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国」の小国名の「熊が冬眠する洞穴」にもとづいて、
『日本書紀の古書には「アマノイハクラヲ」と小さい字が添えられたことになる。
というのも、『日本書紀』巻第九の神功皇后紀(じんぐうこうごうき)には『魏志倭人伝』の景初三年六月・正始元年・正始四年の記事が引用されているからである。
つまり、『日本書紀』が成立した720年当時、すでに以前から天皇家はじめ皇族や『日本書紀』編纂(へんさん)スタッフや研究者たちは朝廷が最も厳重な機密とした秘書(ひしょ)の『魏志倭人伝』を研究していた。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の「天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事における「天開」の2字の横に「アマノイハクラヲ」という説明が加えられるようになったにちがいない。
これゆえ、『日本書紀』の神武天皇紀を現代語訳する諸々(もろもろ)の書物は「天開」の2字を「天のいわくらを開き」と訳している。

◆「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名は「黒歯国(こくしこく)」であった。
下図に、「黒歯」の「正方形の暗黒天体部」と【歯】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)を示した。
【歯】の字源は「長方形の暗黒天体部における北部(現在方位)における、正方形の暗黒天体部」であった。
「正方形の暗黒天体部」は「暗黒」で「黒い」ゆえ【黒】、「正方形の暗黒天体部」は【歯】の字源であるゆえ――【黒】に【歯】が加わる「黒歯」という小国名になった。
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下図の左上に示すように、小国名「黒歯」となった銀河部は「正方形の暗黒天体部」であった。
0000255 上図が示すように、【黒歯】という小国名になった「正方形の暗黒天体部」は「侏儒国の、四つ目の銀河」と「裸国の、鬼の身に相当する銀河」の〔南となり〕にある。
ゆえに、前述した解説では、【黒歯の銀河部】は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河、またの名が四つ目の怪人・倉頡の銀河)」の〔北となり〕の「暗黒天体部」に在るべきはずなのに――
上図の【黒歯】をあらわす「四つ目の銀河の南となりの、正方形の暗黒天体部」は不合理となる。

この「黒歯国」という小国名には、『古事記上巻 并(あわ)せて序』における〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』の撰録(せんろく)の企て〕の箇所にある「潜龍(せんりょう)(げん)を体(たい)す」という語が関係する。
上記の「潜龍元を体す」という語は「水中に潜(ひそ)んでいまだ雲を起こさない龍」の意から、「天子たるべき徳をすでに備(そな)えている皇太子」を意味した。
しかし、上記の意は転義(てんぎ)であって、
「潜龍元を体す」の本義(ほんぎ)は「水中に潜んでいる龍が雲を起こして大雨を降らして氾濫(はんらん)することがなく、急流となって水がスムーズに流れる黄河上流」を意味するものであったと考えられる。

「黄帝陵(こうていりょう)を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「氏族共同政治体制の元(もと・始め)となる地域であった」。
だから、「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「元を体す」と表現された。
したがって、「潜龍」という語は「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流では、長方形状の西から北へと黄河の水が流れる隅(すみ・角)が円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴(あば)れずに氾濫せずにスムーズに流れ、また北から東へと黄河の水が流れる隅()も円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴れずに氾濫しない状況」を意味したことになる。

下に、「五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の図」を配した。
黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部にある大きく開いた目の中央」を貫通していた。
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下図は「黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の図」である。
下図が示すように――包頭がある北緯40度近辺(きんぺん)には黄河の北端が流れ、銀川がある西から北へと水が流れる隅()は円くなっているために水はスムーズに流れ、また北から東へと水が流れる隅()も円くなっているために水はスムーズに流れる。
ゆえに、この「西と東の隅丸角(すみまるかど)の水中に潜む龍、つまり雲が天におおって大雨が降っても東西の隅丸角の水は急流になっても氾濫しない状況」を
「潜龍元を体す」と表現するものであったことになる。
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上図に示した「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は、「黒歯国」という小国名になった「長方形の暗黒天体部」に見立てられた。
「長方形の暗黒天体部」は「侏儒国」に見立てられた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の南となりにある。
しかし、上記したように、「長方形の暗黒天体部」に見立てた「北緯40度近辺の土地を流れる、黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)となる、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の中央」より北となりの「暗黒天体部」に見立てられるべきことになる。
下に、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)より南と北にある長方形の暗黒天体部」を図示した。
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上図に示すように、「南の長方形の暗黒天体部の西の隅丸角にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
また、「南の長方形の暗黒天体部の東の隅丸角にある、激流の銀河」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
上図に左上に示したように、「北の長方形暗黒天体部における、正方形の暗黒天体部」が小国名の「黒歯」をあらわす。
上図に示すように、「鬼の姿に似る銀河における首の部分」が【元】の字源中央となり、
「鬼の横顔に似る銀河から鬼の身に相当する銀河まで」が【元】の字源銀河部となる。
以上のごとく、「潜龍元を体す」という語を利用して、卑弥呼は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。

◆前ページにて説明したように、現在方位にもとづく「石川県北部(現在方位)の、旧国の能登における七尾湾の地宜(ちぎ)」を、卑弥呼は「熊が冬眠する暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てた。
ゆえに、「七尾湾」を「黒い毛でおおわれる熊」に見立てて【黒】、
また、「七尾湾」を「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てたゆえに【黒】、
そして、「七尾湾の湾口(わんこう)の北岸と南岸」を【歯】に相似すると見立てて、
前記した「潜龍元(せんりょうげん)を体す」という語にもとづく「黒歯」の解釈と共に、
「七尾湾周辺の地宜」にもとづき「能登」の小国名を、卑弥呼は「黒歯国」と定めた。

『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」と説明する。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
ゆえに、転回方位にもとづく「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
また、転回方位にもとづく「黒歯国における北」は「午前〇時」、「黒歯国の南」は「正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
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これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
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下図は「春分の日となり、冬眠するのをやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
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◆『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。


上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味した。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となった。

これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。

「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
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上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」にて幾度もくりかえして解説し証明したように、
卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
したがって、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように陸行の場合には「男鹿半島は東」となるゆえ、
「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。

いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。

だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」と、合理となる船行を用いて黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したことになる。

当時、【倭】の字源「時計回りに90度転回させる方位規定」に則って、
下図のごとく「本州の東は南に伸びる」と定めた、卑弥呼が立論した「転回日本列島地理論」は絶対に正しいと信じられていた。
だから、卑弥呼が「能登から船行で東南の方向に、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る」と立論した意見は正しいと信じられて、誰にも誤っていると組織的に合理が成立するように立論することができなかったゆえ否定することができなかったのである。
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つまり、現在、大半のわが国の市民たちが「新井白石以来300年も多数の学者たちが主張する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、空理空論であるはずがない」と信じているように――
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は正しいと信じられていたのである。

◆前ページにて「潜龍元を体す」という語が示す「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流の北端の位置は北緯40度近辺」であった。
現在の中華人民共和国の首都の北京(ペキン)の中心座標は、北緯40度近辺となる北緯3954分である。
北京より東南約120kmへだたる天津(テンシン)の中心座標も、北緯40度近辺の北緯3907分である。
天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)、つまり益氏の王子が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)も、北緯40度近辺の地域となる。
ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)に記される「帝禹(ていう)が住んでいた夏の首都の、会計(かいけい)」は「現在の北京」であったにちがいない。
また、『史記』夏本紀が「帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい)に至って崩じ、天下を益に授けた」と説明する「会稽」は、「帝禹の政治を補佐した益が住んでいた、現在の天津」であったにちがいない。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて詳細に解説したように、益氏の王子と若者たちは帝禹の遺志「五帝時代以来存続した国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続するために移住した」。
だから、益氏の定住地は、帝禹が住んだ会計・北京と帝禹が崩じた会稽・天津とほぼ同緯度の地域、つまり男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)であったと考えるべきことになる。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸した。
そこは、下図に示したように、「八郎潟」を「女性の生殖器官」に見立てると「膣口(ちつこう)」に相当する地点となる。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町が、帝禹が夏の首都とした会計・北京と同緯度のあたりとなる。
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上図に示したように、益氏の王子と若者たちが上陸した船越水道の出入口の東岸から夏至の太陽の日の出の方角(東北29)に花輪盆地(はなわぼんち)が所在する。
花輪盆地には、世界文化遺産となった大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が在る。
大湯環状列石は後期縄文時代初頭に築造されたとされる。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭にある天祖・彦火瓊瓊杵尊の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)の定住記事にある「その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した」と説明する――天祖の孫の代に大湯環状列石は築造されたと考えられる。

下図に示すように、世界文化遺産の大湯環状列石は「花の形をした盆地における、【花のめしべ】に相当する地所に築造された」。
その位置は、下図の右上に図示したように、「十字の銀河の頭がかぶる穀霊(こくれい)のかぶりものの中央」に相当する。
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下に、【倭】の字源となる「十字の銀河における〔穀霊〕のかぶりものの解説図」を配した。
この「〔穀霊〕のかぶりもの」は「花の形」にデザインされていたにちがいない。
ゆえに、大湯環状列石遺構が築造された後期縄文時代初頭、「十字の銀河の頭の北となりの、花の形をしたかぶりものの中央・めしべに相当する部分」が、大湯環状列石遺構の天頂にめぐってきていたことになる。
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◆大湯環状列石は、秋田県の鹿角市(かづのし)花輪町大湯の中通りに所在する。
下図に示すように、大湯環状列石は東側が直径42mの野中堂遺跡(のなかどういせき)、西側が直径48mの万座遺跡(まんざいせき)で構成される。
野中堂遺跡と万座遺跡には「日時計組石(ひどけいくみいし)」と名付けられた特殊組石がある。
下図に示すように、〔野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡の日時計組石の中心〕と〔万座遺跡の中心・万座遺跡の日時計組石の中心〕を結ぶ線は、【夏至の日没方向(西北29)】を指差す。
ゆえに、大湯環状列石は益氏が【倉頡の文字作成理論はじめ夏音文字の学芸をひろめるために築造した施設】であった。
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要するに、万座遺跡は『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「日景を正して、以て(もっ)て地の中を求む」と解説した施設、
野中堂遺跡は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した施設であった。

下図は、1951年・1952年の国営調査によって検出された野中堂遺跡の平面図である。
下図に示したように、野中堂遺跡の中心から夏至の日没方向に、日時計組石がある。
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下図に示すように、野中堂遺跡の中心には垂直に柱が建てられて補助の棒を用いて日々の正午の太陽の南中高度が計測され、〔天球上における、日々の太陽の南中高度の位置〕が記録された。
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太陽が地平線に沈んで姿を消しても、まだ空は真っ暗にならないので、銀河や星が見えない。
このうす暗い時間を「薄明時(はくめいじ)」といい、太陽が地平線の下に18度まで沈むと、ようやく薄明時が終わって、空が真っ暗となり、銀河と星たちが見えて天文が出そろう。
ゆえに、太陽が没する時は銀河や星は見えないため――太陽が地平線に没する夕刻、太陽がどの天球上に所在するのか、その位置を測量することはできない。
しかし、薄明時において、下図に示す北斗七星(ほくとしちせい)でもっとも光が強いおおぐま座のε星・第5星の衡(こう・漢名)は見える。北斗七星の第5星の光度は1.8等である。
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上図に示すように、「北斗七星のε星・第5星、漢名(シナ天文の名称)の衡は、五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)において、【鳥】と呼ばれていた。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭における四時(春分・夏至・秋分・冬至)の銀河・星などの天文の状況を伝える春分の夕刻の記事は、
「日は中、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と説明する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、北斗七星の第5星・【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めた」と意味した。

下図は、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の箇所に記述された「帝堯代初頭の春分の日の太陽が西の地平線に没する午後6時の銀河・星空図」である。
下図に示すように、司馬遷著『史記』五帝本紀に記述されたとおり、帝堯代初頭の春分の日の夕刻には北斗七星の第5星の【鳥】が子午線通過(南中)しようとしていた。
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帝堯代に生存した益氏の先祖は、前ページにて説明した「〔正午の太陽の南中光度〕の測量方法と測量装置」と、北斗七星の第5星の【鳥】を利用して野中堂遺跡の日時計組石で午前〇時を計測して
『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した、いいかえると「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道(こうどう)」が測量できるように発明した。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀に「益は帝堯の時代に挙用(きょよう)された」と記述されることになったと考えられる。

北斗七星の第5星の【鳥】は周極星(しゅうきょくせい)である。
周極星は地平線下に沈むことはない。
それゆえ、太陽が地平線に沈むときにも見える周極星の光度1.8等の【鳥】ならば、天球上における黄道の大円を測量することができる目星(めぼし)として最適である。

下図は、野中度遺跡の日時計組石の平面図である。
下図上部の「北」は「太陽が円を描いて運動する軌道における〔北〕の位置を示し、この〔北〕に太陽が位置する時に【午前〇時】となる。
したがって、下図に示すように、太陽が地平線に没した方角を日時計組石の縁(ふち)の地面に棒でひっかいて印(しるし)をつけ、同様にその時の【鳥】の方角にも日時計組石の縁に印をつけると、
地中に没した太陽が「北」に位置するまでの角距離Aと【鳥】が移動する角距離Bが等しくなった時が【午前〇時】となる。
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【鳥】が移動する角距離Bと太陽が地平線に没して真北まで移動する角距離を等しくした【午前〇時】における、前ページにて説明した【その日の正午の太陽の南中高度に合致する天体部(銀河部や星や暗黒天体部など)の位置】を【その日の天球上における太陽の位置】と定めれば、「黄道」が測量できる。 
つまり、【その日の正午の太陽の南中高度の天体部イコールその日の午前〇時の南中天体部】と定めて――その状況を毎日記録する測量を一年間おこなえば天球上における黄道の大円が完成する。
だから、野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して【午前〇時】を計って黄道を測量するための装置であったことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の四時の天文状況記事における末部は、
「一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した」と記述する。
「日時計組石の一周を360度・360寸」に見立てると、「360寸÷366日=0.98寸」となる。
ゆえに、太陽は日々、約一寸(0.98)ずつの差でその日の正午から翌日の正午までを運行していることが明らかになった。
〔注 前ページにて説明したように、太陽はその日の正午から翌日の正午までを4分短い、23時間56分で一周する。〕
ゆえに、上記した「4分短い」を、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した。

「帝禹が崩じた会稽」の【稽】の字義は「考える」である。
野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であった。
ゆえに、野中堂遺跡は帝禹が崩じた【会稽】という地名をあらわす施設であったにちがいない。

◆下図は、前ページにて紹介した野中堂遺跡の平面図と同様に、1951年・1952年に国営調査によって検出された万座遺跡の平面図である。

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下の右図は、瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える【夏の銀河の光景図】である(日本天文学会編『新星座早見』・三省堂発行における【夏の銀河図】から転載した)
前ページにおける【夏の銀河のカラー写真】は、瞳孔径(どうこうけい)が最大より少し縮小した時の絞(しぼ)りで撮影した【夏の銀河の形状】である。
ゆえに、瞳孔径・写真機の絞りの相違によって、【夏の銀河の形】は相違する。

下の左右の両図は類似しあうゆえ、万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図には【夏の銀河の面影(おもかげ)】が残っていたことになる。
今日まで約4000年余の長い間、時には持ち出された石もあったであろうが、万座遺跡の東側の外帯配石群には【夏の銀河の面影】が残っていた。
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上記では、「万座遺跡の東側の外帯配石群」と記したが――天文図・銀河図は〔南〕を正面とし、地図・地理は〔北〕を正面とするゆえ、「地図の東側」は「天文図・銀河図の場合では西側」となる。
ゆえに、上図のおける左側は「万座遺跡の西側の【夏の銀河の形】を図化する外帯配石群」ということになる。

下に、「大湯環状列石が築造された、約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図が示すように、【夏の銀河の大半】は〔西北の地平線下〕に没していた。
だから、〔万座遺跡に残る【夏の銀河の面影】〕は「秋分の日の午前〇時の西北の地平線下に、その大半が潜る【夏の銀河】を地面に図化した配石群」であったことになる。
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よって、〔万座遺跡に残る【夏の銀河像】〕は、「西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であったゆえ、
『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」と「【景】の字源を解説したのである。

前ページにおいて、野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であったゆえ、【会稽】をあらわす施設であった」と指摘した。

帝禹(ていう)は、〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止するか〕のようにして、〔万座遺跡の中心に野中堂遺跡の正午の太陽の南中高度を測量する装置同様の装置〕と〔万座遺跡の日時計組石〕を会〔あ〕わせ用いて【夏の銀河の各部の高度】を計算し計測したにちがいない。
だから、万座遺跡は帝禹が住んだ首都【会計】という名をあらわす施設であったことになる。
しかし、どのような計算・計測方法を帝禹は用いて〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止する〕かのようにして、地面に【夏の銀河像】を図化することができたのであろうか?
わたくしにはまったく解明することができない。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』に記述された益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟地方の定住記事は、
【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、
【夏の銀河各部の形状から文字を作る、倉頡の文字作成理論】を用いて一点の矛盾(むじゅん)も無く不合理な点もなく組織的に全体的に合理が成立するように論理が構築(こうちく)されている。
ゆえに、学者たちは「『魏志倭人伝』には多くの不合理な点や矛盾点がある」と指摘するが――このような意見は明白に誤っている。

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2024年9月19日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・31

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」までに詳細に解説して【系統的な合理】つまり【科学】が成立して証明したように、『魏志倭人伝』には「倉頡伝説は事実であった」と記述されているからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す」の29回と30回にて解説したように――
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(
)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、上記の()【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する。
というのも、()「帝禹が発明した測量方法と測量装置で地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状態の形状」であったゆえ、【景】の字源は「以て地の中を求む」と説明されることになったのである。

また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(
)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置によって明らかになった黄道の大円上における一日の目盛りにおける一寸の差」であった。
下図に示すように、「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(大きな円形)」となる。
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上記したように、「黄道の大円における一日の目盛りにおける一寸の差」が【景】の字源となった。
ゆえに、上記した『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字源解説の後に、
【景】の字源について「地上千里して日景に一寸の差があるという」と追加解説する。
この「地上千里して日景に一寸の差がある」という字源解説は「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。

そして、上記の『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」から「周旋五千余里可り」までの記事は――「【景】の字源」、すなわち「黄道の大円上にある春分の日の午前〇時の、天の北極周辺の北斗七星(ほくとしちせい)・こぐま座・りゅう座の3星座の状況」が表示する夏代黎明期(れいめいき)――帝王に就任した益(えき)と帝益の孫の王子と益氏の若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を語っている。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法などを
教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは3回前の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
(
)卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事と、()この30の小国記事における方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位記事」をもってすべて合理となり、1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理が成立してすべて正しいと証明された。

いっぽう、邪馬台国説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。
ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。

上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて、帝益の孫の王子と益氏を受け継ぐ若者たちが大海を越えて新天地・日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった経緯(けいい)を詳細に説明した。
要するに、帝禹は「五帝以来の多数の氏族から最も優秀な人物を帝王に選んで国家を作らずに多数の氏族が共同する政治体制の継続(けいぞく)」、つまり【氏族共同政治体制の継続】を願った。
一方、帝禹の息子の啓は「帝王にふさわしい優秀な特定の氏族が子孫代々(しそんだいだい)帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させて、国家を樹立(じゅりつ)する」、つまり【世襲王朝・国家政治体制】を欲求(よっきゅう)して、対立していた。
ゆえに、帝禹は臨終の際、帝禹の政治を補佐した益(えき)に「【氏族共同政治体制】を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継()がせた。
しかし、諸侯は禹が願った【氏族共同政治体制の継続】を望まず、啓が主張する【世襲王朝・国家政治体制】に賛成して、帝益のもとを去った。
これゆえ、益は中国ではもはや禹が切望(せつぼう)した【氏族共同政治体制の継続】は断念(だんねん)しなければならないと結論し――三年の禹の喪()が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山(きざん)の南の地に隠居した。

そして、益は禹の遺志(いし)である【国家・王朝を作らない、氏族共同政治体制の継続】を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いたため、中国から日本列島へ渡る中間にある大海を小舟で漕()いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、禹の遺志【氏族共同政治体制の継続事業】は、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な力を有する腕力をかねそなえる帝益の孫の王子と益氏の将来を継()ぐ若者たちによって実行された。
かくして、益氏の王子と若者たちは大海を横断して、九州から日本海沿いに北進して秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に到着して定住した。

◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(ほんでん)からずれて、佐太神社の鳥居を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿から東の鳥居の辺りまでの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
〔注 佐太神社の中心点は東経133.00639度である。ということは、佐太神社の本殿より東方の鳥居の辺りを貫通する地所は、東経133.00639度より東寄りの東経133.008度となる。ゆえに、この「東経133.008度の地所」が【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある」を示すことになる。〕 
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬・東経133.00639)より東方となる邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の鳥居の辺りを通過する東経133.008度の地所」が【景】の字源・原義をあらわすことになる。
このような秘密があったゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇り、出雲10郡のうち3郡半の神主を支配していた。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
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だから、「十字の銀河の子宮」は【壱】の字源・原義であったゆえ、「十字の銀河の子宮」に見立てられた「佐太神社が所在する島根県松江市の地宜(ちぎ)」は【壱】の字源・原義をあらわした。
『魏志倭人伝』は「倭人国の首都が所在した王国名」は「邪馬壱国(やまいこく)」と記す。
したがって、「卑弥呼が居住した王国名」は「邪馬台国」ではなかったことになり、邪馬台国説は空理空論であったと断定できる。

◆約2000時で構成される『魏志倭人伝』における1300字くらいの箇所に、
前ページで紹介した――【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】をもたらした名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史を説明する記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種」という小国は、下図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の右端に示した「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真東の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。
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隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

下図に示したように、隠岐群島でもっとも大きな島の「島後の地宜(ちぎ)」は、ほぼ「円形」である。ゆえに、「島後の地宜」は【景】の字源となる「黄道の大円」はじめ「天の赤道」、「太陽の23時間56分で一周する日周弧(にっしゅうこ)」、さらに「夏の銀河の各部位が一周する軌道(きどう)」などに見立てられた。
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他方(たほう)、「道前の知夫里島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が解説する【景】の字源「益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置」と密接に関係する。
言いかえると、「道前の3島」は「烏奴国(あなこく)・高知県の足摺岬(佐太岬・東経133.00639)よりすこし東方となる、邪馬壱国(やまいこく)・島根県松江市の佐太神社の鳥居の辺りを通過する【景】の字源をあらわす地(東経133.008)」と直接的に関係する。

下に、「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の図」を配した。
前述したように、益氏の先祖は五帝時代における四番目の帝王・堯代(ぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に黄道を測量する方法と測量装置を発明した。
益氏の先祖は、下図の「おおぐま座の北斗七星(ほくとしちせい)の第5星のε(エプシロン)星」を、黄道を測量する方法の目星(めぼし)に用いた。
「北斗七星の第5星のε星」は、【鳥】と名づけられた。
この【鳥】と名付けられた星は「光度が1.8等であり、北斗七星中でもっとも光が強い」。
〔注 後世、「北斗七星の第5星・ε星」は漢名(シナ天文学の名称)」では「衡(こう)」となった〕。
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司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は帝堯代初頭における春分の日の夕刻の天文記事は「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と記述する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」と意味した。
下に、「帝堯代初頭の春分の日の夕刻の天文図」を配した。
この天文図が示すように、【鳥(北斗七星の第5星・ε星)】は春分の日の夕刻に子午線通過しようとしていた。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』の「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」という小国は「隠岐群島」であった。
『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話における〔国生み〕の箇所では、「隠岐群島の島前」を「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」と記される。

下図は、現在方位に則(のっと)る「隠伎之三子島図」である。
注目すべきは――「地上千里して日景色に一寸の差があるという」と説明された「【景】の字源の東経133度線、つまり「高知県の足摺岬(佐太岬)と島根県松江市の佐太神社の鳥居の辺りを通過する東経133度の経度線が、知夫里島(ちぶりじま)の東端と西ノ島東方を貫通している」。
このことは重大な問題なので――うっかり見逃すとこれから解説する事柄がさっぱり理解できなくなるので――再度くりかえします、注目すべきは「東経133度の経度線が、知夫里島東端と西ノ島東方を通過」して、【景】の字源をあらわした。

『魏志倭人伝』は「小国名不明の隠岐群島」を「皆、倭種なり」と記した。
【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、下に【倭】の字源「転回方位」にもとづいて「島前の知夫島・西ノ島・中ノ島の3島の地宜」を配した。
下図における左側の「西ノ島」は「餌をノドに飲み込んで太くなった首を長くのばして両翼を広げて飛ぶ鳥の姿」に相似する。
だから、「西ノ島」は「【鳥】と名づけられた光度1.8等の星がある、北斗七星」に見立てられたことになる。
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下に「卑弥呼時代における夏至の日の午後6時・冬至の日の午前6時・春分の日の午前〇時に、【夏の銀河】が地平線上に昇る時の、天の北極と北斗七星(おおぐま座の一部)・こぐま座・りゅう座の図」を配した。
「知夫里島の地宜(ちぎ)」はよく見ると柄杓(ひしゃく)の形に近似(きんじ)する。
ゆえに、「知夫里島」は「こぐま座(小北斗)」に見立てられたことになる。
そして、「中ノ島」が「りゅう座α星周辺」に相当する。
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『魏志倭人伝』は「隠岐群島の小国名」を記していないということは、卑弥呼が「隠岐群島」の小国名を定めなかったことになる。
五帝時代より以前において以後においても、3世紀の三国時代においても「天の北極」は人々に無視され、学問(天文学)においても無視される天体部であった。
ゆえに、「天の北極」は「名称無き天体部」であった。
だから、「名無き天体部」と言えば「天の北極」を指したので――卑弥呼は「天の北極周辺の星座」に見立てられる「隠岐群島の島前」の名称や「隠岐群島」の小国名を考えなくても批判されずに許されたのであろう。
しかし、後世、『魏志倭人伝』に記された「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(また)国有り。皆、倭種なり。(中略)。周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの、転回日本列島地理に則(のっと)って【石川県北部の旧国の能登から東南の周旋五千余里ばかりに、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る】と、卑弥呼が立論した複雑で難解な意見が重大事となり波紋(はもん)をよび論争されることになった。
このため、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り」の「隠岐群島の島前(どうぜん)」は名無しの権兵衛(ごんべえ)ではすまされず――卑弥呼が死去して間もなく、名称が必要になって「隠岐群島」は「隠伎国」、「隠岐群島の島前」は「隠伎之三子島」と名づけられることになった。

◆前ページに配した「卑弥呼時代における、春分の日の午前〇時のおける天の北極周辺の北斗七星・こぐま座・りゅう座の図」は「秋分の日の正午の図」でもあった。
「秋分の日の正午の天文」は人間の目では見ることができないが――
【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「23時間56分で一周する、前日の正午から翌日の正午までの日景」では「正午」が基準となった。
つまり、益氏の先祖が発明した【景】の字源「黄道を測量方法と測量装置」によって――「春分の日の午前〇時には、秋分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)する高度に一致して夜空の真南に位置する」ということが明らかになった。
言いかえると、「春分の日の午前〇時には、秋分点が秋分の日の正午に太陽が南中する高度に合致して夜空の真南に位置する」という事実が明らかになった。

『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。

又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。

下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)にして、旧国の加賀(かが)であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
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「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の横顔」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。

『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺」と説明されることになったのである。
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これゆえ、下図に示すように、「旧国の加賀」は「四つ目の銀河」、つまり「四つ目の怪人・倉頡の銀河」に見立てられた。
上記したように、『魏志倭人伝』は「侏儒国」の説明に、「人の長さ(たけ)三、四尺」という文を加える。
紀元前10世紀~紀元前1世紀(周・春秋・戦国・前漢)までの「一尺」は「22.5㎝」であった。
ゆえに、「三、四尺」は、「67.5㎝~90㎝」となる。
したがって、卑弥呼時代の「四つ目の怪人・倉頡の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は、言いかえると「四つ目の銀河の角(つの)からアゴまでの見掛けの長さ」は「67.5㎝~90(3度~4度)」であったことになる。
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すぐ前にて完成したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。

下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠(とうみん)する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「黒色の毛でおおわれる熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
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◆「侏儒国」の旧国名は「加賀」である。
邪馬壱国・島根県松江市の北部に「加賀の潜戸(くけど)」が在る。
「加賀の潜戸」は古代から神秘的な場所として有名である。
「加賀の潜戸伝説」は卑弥呼の死(240年頃)から約490年後の、733年に成立した『出雲国風土記』に記述されている。
加賀の潜戸伝説では「佐太神社の祭神(さいじん)・佐太大神(さだのおおかみ)が加賀の潜戸の洞穴から誕生した」と語られる。
この「加賀の潜戸伝説」は「佐太大神の父親」は「神魂命(かむむすひのみこと)」、「佐太大神の母親」は「枳佐加比売命(きさかひめのみこと)」と伝える。

『古事記上巻 并(あわ)せて序』の冒頭部には「参神造化(さんじんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文がある。
この「参神造化の首(はじめ)」は「夏の銀河の各部をモデルにして、前期縄文時代・中期縄文時代、そして後期縄文時代の首(初め)に、土器・土偶(どぐう)を作った芸術(造化)の参神」を意味した。
この参神における「前期縄文時代の芸術の神」の名は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」であり、「中期縄文時代の芸術の神」の名は「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」であり、
そして、「後期縄文時代初頭の首(初め)の芸術の神」の名は「神産巣日神(かみむすひのかみ)」であった。

つまり、「佐太の大神」の父親の「神魂命(かむむすひのみこと)」は「後期縄文時代の首(初頭)の芸術の神・神産巣日神(かむむすひのかみ)」であった。
だから、「佐太大神の父親」は――倭地の各地の氏族たちが夏の銀河の各部のモデルにして土器・土偶を造った前期縄文初頭からの約2000年間の芸術の伝統にもとづいて、名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して教え広めた【倉頡の文字作成理論と、三皇時代の結縄(けつじょう)と五帝時代の書契(しょけい)と夏代黎明期の夏音文字など】を習得した、【後期縄文時代初頭の造化(芸術)の神】であったことになる。
「佐太大神の母親」の「枳佐加比売命(きさかひめのみこと)」は「赤貝の古称」であるとされる。
ということは、「夏代黎明期(中期縄文時代末期~後期縄文時代初頭)の八郎潟の干潟(ひがた)」には、佐太大神の母親となった赤貝が大量に生息していたのであろうか。

ゆえに、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」に見立てられた、「加賀の潜戸」における「加賀」という地名が同じ旧国名が「加賀」であった「侏儒国」は、卑弥呼の没後に「生まれたばかりの佐太大神」をもあらわすことになった。
したがって、「加賀・侏儒国」は「父・神産巣日神と母・枳佐加比売の間に生まれた赤ん坊の佐太大神の顔や頭」に見立てられて、
「出産した時すでに三、四尺の身の長(たけ)もあったという、大きな赤ん坊」であった。
だから、「佐太大神」は「【景】の祭神」にして「後期縄文時代初頭に習得した【倉頡の文字作成理論と夏音文字】の祭神」でもあったことになる。

「佐太大神が生まれた加賀の潜戸」は「能登の地宜」に相似する「熊が冬眠する巣」に見立てられた「暗黒の洞穴」である。
加賀の潜戸伝説は――枳佐加比売は加賀の潜戸の潮の流れにしたがって出現した「角(つの)で作った弓矢」を手に取って「わたくしの夫を象徴する弓矢ではない」と投げ捨てた。次に、「金の弓矢」が流れ出てきて、早速(さっそく)、手に取って坐(すわ)って、「暗い巌窟(いわや)だよ」と言って、その矢で射通(いとう)した――と説明する。
加賀の潜戸伝説に登場する「金の弓を用いて巌窟を射通した金の矢」は「金色の光」をあらわすことになる。
『説文解字』は【景】の字源を「光なり」と解説する。
白川静著『字統』は――『説文解字』の「光なり」は「光景とは日の光をいう」――と指摘する。
だから、加賀の潜戸説話の「金の矢」は【景】の字源となった「午前〇時を定める目星となった北斗七星の第5星・【鳥】が輝く光と、あるいは正午に南中する日(太陽)の光」をあらわしていた。
ゆえに、上記したように、「佐太大神」は「【景】の字源をあらわした祭神」であり、【倉頡の文字作成理論と夏音文字を祀(まつ)る祭神】でもあったことになる。

ゆえに、いままで解説してきたように、「侏儒国」と「裸国」という小国名は、『出雲国風土記』における〔加賀の潜戸(くけど)の伝説〕では「出産したばかりの裸の佐太大神」あらわした。

◆『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」という文がある。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源をあらわしている。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
だから、「侏儒国、裸国、黒歯国における北」は「午前〇時」、「3小国の南」は「正午」に見立てられた。
ゆえに、「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てられた。
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これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」をあらわした。
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下図は「春分の日となり、冬眠をやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられた。
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上図の「転回方位」にもとづく「七尾湾・能登島の図」は「冬眠する能()と縦穴(たてあな)」に見立てられ、前ページには配した現在方位にもとづく「七尾湾・能登島の図」は「冬眠する能()と横穴(よこあな)」に見立てられた。
ゆえに、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚(せいこん)説話〕に登場する「淤能碁呂島(おのごろしま)」という語は、
――日本列島の本州の地底は淤(どろ・沼)のように柔らかいので、「緯度」に見立てられた「能()の横穴」は時計回りに90度転回して「縦穴」となった。
ゆえに、下図に示すように、本州の方位は【倭】の字源「時計回りに90度転回」して緯度軸は経度軸になって縦になる。
また、下図に示す日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島、言いかえると【碁】つまり「碁石の石」に似る沖ノ島と日本列島の東端にある【碁】つまり「将棋の駒(こま)」のような形をした伊豆諸島の神津島は、【呂】すなわち同緯度である――と意味した。
だから、「淤能碁呂島」という語の中にある【能】の字源地宜は「七尾湾と能登島」であった。
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◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」において、
「黄道の大円上の月日の目盛りが、西から東に向かっての移動」は「今日から未来への時間の流れ」をあらわし、
これとは逆向きに「東から西に向かっての移動」は「今日から昔(過去)への時間の流れ」をあらわしたと指摘した。
ゆえに、下図の【昔】の金文形は「東から西に向かっての移動、昔(過去)への時間の流れ」をあらわしている。
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下に、「へびつかい座とヘルクレス座」を象(かたど)る【道】の金文形を配した。
へびつかい座とヘルクレス座のすべての星は光度が2等以下であるが、多数の星たちが+赤緯(せきい)0度から+赤緯42度までに位置するため、北緯0度から北緯42度までの天頂緯度が精確(せいかく)に測量することができた。
ゆえに、「へびつかい座とヘルクレス座」は「北緯0度~北緯42度の土地に住む人々が遠くの地へ旅するときや、大海を横断するときの道を案内する緯度(天頂緯度)が精確に測量できる羅針盤(らしんばん)」となった。
だから、「へびつかい座とヘルクレス座」は「道」を意味する文字(金文)となった。
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下図に示すように、「黒歯国の能登島の子熊の姿に相似すると見立てられた地宜」は【道】の金文となった「子熊の姿に観える、へびつかい座とヘルクレス座の形」に相似すると見立てられた。
また、「【道】の金文形中央の字形」は「子熊の姿」に相似する。
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前ページで指摘したように「侏儒国」は「四つ目の銀河」、つまり「鬼の横顔に似る銀河」に、「裸国」は「鬼の身に相当する銀河」に見立てられた。
そして、「黒歯国」は「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)より北となりの暗黒天体部」に見立てられた。
この「鬼の姿に似る銀河の北となりの暗黒天体部」の西方には「人の横顔に酷似する銀河」があり、「人の横顔に酷似する銀河」の西方には「こと座」があり、「こと座」から離れた西方には「【道】の金文形となった、へびつかい座とヘルクレス座」がある。
したがって、「黒歯国」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河の北となりの暗黒天体部」から遠く離れた西方にある「へびつかい座とヘルクレス座」までの「東から西へ向かっての移動」は、上記したように「昔(過去)への時間の流れ」をあらわした。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復(また其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文は、「昔(むかし)、昔(むかし)」という意味を含んでいる。

『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。


上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、名門・益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味する。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となる。

◆これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事は、現代語に訳すると下記のごとくになる。

「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
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上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
前ページの「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」に示したように――卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように「男鹿半島は東」となるゆえ、
陸行の場合、「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。

いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。
だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」と、合理となる船行をもって黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したのである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』の大半を占()める【倉頡の文字作成理論】に関する全記事には1ヵ所も不合理・矛盾点はなく、すべて合理で統一されているゆえ【組織的に合理】が成立する。
ただし、卑弥呼が「日本列島の本州の東は南へ伸びる」と立論した転回日本列島地理は事実に反するが――
この「【倭】の字源に則(のっと)る転回日本列島地理」の基(もと)に思考・読解すると――『魏志倭人伝』の大半を占める【倉頡の文字作成理論】を説明する全記事は【不合理・矛盾点は1ヵ所も存在せず、系統的な合理的認識】、つまり【科学】が成立する仕組みになっている。

だから、『魏志倭人伝』は新井白石以来約300年間も多数の学者たちが主張する「邪馬台国説のための史料」ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する史料であったことになる。

◆なお、このブログを読む多くの人々がすでに気づいているであろうが、『出雲国風土記』の「加賀の潜戸伝説」は、
『魏志倭人伝』の「隠岐群島、侏儒国、裸国、黒歯国、そして黒歯国から東南にある男鹿半島・八郎潟地方までの船行を説明する記事」にもとづいて創作されたことになる。

今回のブログの解説には説明不足の点がいまだ幾つか残っている。
たとえば、「帝禹(ていう)が発明した【夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置】について、また「益氏が発明した【黄道の測量方法と測量装置】などについて具体的に説明しなかった。
次回のブログでは、このような説明不足な点について具体的に明確に解説する。

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