漢字の起源と発明を解明す・39
『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(1)
◆【漢字】は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬(つ)かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ぶ。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【銀漢・夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆邪馬台国や卑弥呼について説明する古書は通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ・233―297)が記述した計1983字と、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成される。
『魏志倭人伝』は陳寿著『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾にある〔倭人伝〕である。
つまり、晋(しん)王朝の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)であった陳寿が著作した正史『三国志』の65巻のうちの〔魏書東夷伝末尾の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。
山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行・1981年11月30日第18刷発行)は、29ページで「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇―二八九)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指定する。
ゆえに、『三国志』65巻における〔魏書東夷伝末尾の「倭人伝」〕、つまり『魏志倭人伝』は西暦280年~289年に著作された。
現在、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』の原書は現存せず、成立から約900年後の12世紀末における紹煕刊本(しょうきかんぽん)として現存する。
このため、約900年後の刊本がすべて原本のとおりに正確に写して残したのであろうか?
当然、誤記・誤解が加えられて一部分が不正確になったにちがいないと疑われる。
◆ゆえに、現在、学界においては、上記したように3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原本が残らずに、900年後の紹煕年間に作成された刊本として残った点や、
下記の3点の説明は「事実に反して誤っている」と断定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述する。しかし、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀のであるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている
【2】また『魏志倭人伝』は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、「日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びていない」。だから、「【南】へ伸びる」と説明する転回日本列島地理は事実に反して誤っている
【3】紹煕刊本は、女王卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹(壱)国(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺(台)国(やまたいこく)」こそが正しい
下に示すように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬臺(台)国」ではなく、「邪馬(壹)壱国」と記す。
この「漢字の起源と発明を解明す」題するブログは、上記した【1】を39回(今回)の問題をテーマとし、【2】を次回(40回)の問題をテーマとし、【3】は41回の問題をテーマとして詳細に解説し、【1】【2】【3】の記事は事実を伝えることを証明して――【『魏志倭人伝』は倉頡が発明した文字作成理論と夏音文字をわが国は約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した事実を記述する最高最良の書物】であることを、(1)(2)(3)の3回に分けて詳細に解説して証明することにした。
上記の『魏志倭人伝』に記述される【1】【2】【3】の3点の事柄は、「学界、あるいは考古学における定説に反する説明」である。
ゆえに、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』〔邪馬臺台国を中心に〕(光文社発行・1980年6月25日第4刷発行)における考古学学者・江上波夫(えがみなみお)氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」では、上記した『魏志倭人伝』における3点の事柄の記述について、下記のごとく批判する。
「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいは、どのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」
ところが、わが国の言語学・音韻学(おんいんがく)・文献史料史学の視点のもとづくと、
――【わが国が最初に漢字を習得したのは、考古学が定める5世紀】ではないことになる。
言語学・音韻学・文献史料にもとづくと、【わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の紀元前21世紀末(後期縄文時代初頭)であった】ことになる。
ゆえに、上記した『魏志倭人伝』の【1】「わが国には2世紀末から3世紀中半において、すでに漢字知識があった」という記述は【事実】であったがことになり、また【科学】が成立して正しかったことになる。
また、【2】も【3】も【1】と同様に確かな証拠によって【事実】が成立し、また【科学】が成立する。
だから、考古学の「【1】わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」という定説は【事実】に反する非科学的な意見であり、根本的に錯覚(さっかく)にして幻想であったことになる。
◆わが国における古代中国文字研究の第一人者は白川静(しらかわしずか)博士とされる。
白川静博士は字書『字統(じとう)』(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』の序におけるの9ージ末尾の3行目~10ページの最初から3行目までは、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記末尾の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
今から約4000年前の、紀元前2000年頃(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国が習得した夏音文字(かおんもじ)の字音である。
上記の紀元前2000年頃は、中国の夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)に相当する。
白川静著『字統』が指摘するように、わが国には中国における最古の漢字音よりも古い漢字音が残っている。
中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
わが国の古書に多数残っている夏音文字は、紀元前2050年頃の夏代黎明期に中国から名門氏族が渡来し教えひろめて――紀元前2000年頃にはわが国の各地・各氏族が習得していた漢字音である。
したがって、中国の最古の字音・上古音よりもわが国の夏音(夏音文字の字音)は約1000年も古い。
だから、わが国は最初に中国の漢字を習得したのは、考古学が断定する5世紀ではなく、
言語学・音韻学の研究成果にともとづくと、下図に示すように、紀元前2000年頃の夏代黎明期(わが国の後期縄文時代初頭)であったことになる。
◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら)う)」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)が「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。
壬申の乱の9年後の681年(天武天皇10年)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて、「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)」を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興せよ)」という天武天皇の命令は、681年(天武天皇10年)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、言いかえると――「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
◆『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」であって、〔中巻・下巻の記事とは無関係〕であり、したがって【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という指摘がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という指摘がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という指摘がつく夏音文字】について説明する。
この「〔音〕と指摘される夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は下記のごとくであり――この冒頭文は「【わが国は後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)に夏音文字を習得した】と説明していた。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫(そ)れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其(そ)の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文や〔創世の神々説話〕冒頭の三柱(みはしら)の神々記事に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝(こ)り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の三柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(約2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2000年頃)、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】によって【漢字は銀漢各部の形状から作られて起源した知識】や【夏代黎明期の夏音文字】を習得して、また【五帝時代から夏代黎明期までの歴史】を知ることができました。」
「古事記上巻 并せて序」の末部は、【夏音文字を楷書に変換した作業】を下記のごとく説明する。
「上古の時、言(ことば)・意(こころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字に於(お)きて即(すなわ)ち難(かた)し。已(すで)に訓(くん)に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以ちて連ねたるは、事の趣(おもむき)更(さら)に長し。是(ここ)を以ちて今、或(ある)は一句の中に、音訓を交(まじ)へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録(しる)す。即ち辞理の見え叵(がた)きは注を以ちて明(あきらか)にし、意況(いきょう)の解(さと)り易きは更に注せず。亦(また)姓(うぢ)に於きて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂(い)ひ、名に於きて帯(たい)の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此(かく)の如き類(たぐひ)は、本(もと)の随に改めず。」
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「上古の(夏音文字)の語と語意は(夏の銀河各部の形状)を素直(すなお)に図案するものであったゆえ、夏の銀河各部の形状にもとづかない字を多数有する現在の楷書の文章に書き改める作業は難(むずか)しいです。すべて楷書の字訓であらわしますと、ただ声に出してあらわす楷書の字音と異なって節(ふし)をつけて歌う夏音文字の歌詞の心をすべて表現することはできません。そうかといって、すべて夏音文字の〔音〕を連ねるようにしますと、文章がたいへん長くなります。ゆえに、ここ(『古事記』上巻)では、ある一句の場合には〔音〕(夏音文字の字音)と〔訓〕(楷書の字訓)とを混じえて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて楷書の字訓を用いて記すことにしました。そして、辞理(辞の作成理論、つまり「天理と地理を重ね積み重ねた辞の理論」)を捜(さが)し見つけることができない場合は〔注〕を加えて明らかにし、意味がわかりやすい場合には〔注〕を加えませんでした。また姓(うじ)における楷書の【日下】は夏音文字では【玖沙訶】と言い、名における楷書の【帯】を夏音文字では【多羅斯】と言うような、日常的に常用して知れわたる類には、従来の記述に従いそのまま楷書で記して〔音〕と記す指摘を加えませんでした。」
〔注 上記した文中にある「辞理」という語は「天理(銀河各部の形状)と地理を重ね積み重ねた辞の理論」の略称――つまり、「辞理」は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。〕
前述したように、『古事記』の中巻と下巻には、〔音〕という指摘が存在しない。
〔音〕という指摘は、『古事記』の上巻だけに限って随所(ずいしょ)に加えられている。
だから、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」と題されることになった。
したがって、「古事記上巻 并せて序」末部にある文中にある〔音〕は、「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すべきことになる。
〔音〕を「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すると、「古事記上巻 并せて序」の末部にある文章は、上記したように現代語に訳することができる。
上記の現代語訳が正しい事実は、幾種類(いくしゅるい)かの史料(証拠)を提示して具体的に明確に証明することができる。
ゆえに、従来の学者たちの解釈は文字面(もじつら)だけを撫(な)でる、誤訳であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、上記した【「古事記上巻 并せて序」の末部の説明】を次回(40回)~46回?までのテーマにして解説して事実であったことを証明する。
◆夏音文字は、紀元前2050年頃、“夏(か)の始祖”の帝禹(ていう)の後を継ぐ帝益(ていえき)の孫の王子と益氏の青年たちが日本列島の東北地方・秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住し――紀元前2000年頃、東北地方や関東地方の各地に住む氏族たちによって夏音文字は習得された。
〔夏音文字の日本列島習得史〕は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回まで7回をもって詳細に解説して証明した。
この7回における〔夏音文字の日本列島習得史の解説〕を、これから要略する。
司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀(かほんぎ)・第二は、下記のごとく帝益について説明する。
「帝禹は益を挙(あ)げて十年間、政治をまかせた。
帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい・北緯39度の中国の天津であろう)にいたって崩(ほう)じ、天下を益にさずけた。
帝益は三年の禹の喪(も)が終わると、禹の息子の啓(けい)に帝位を譲(ゆず)って、箕山(きざん・北緯38度の黄河の河口地域、つまり黄河口地域であろう)の南の地(天津より南東の北緯35度近辺の、山東半島の付け根の辺りの地所であろう)に隠棲(いんせい・隠居)した。
禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。
ゆえに、諸侯(しょこう)は賢人(けんじん)であった啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。」
〔注、なお、「帝禹が居住した会計(かいけい)」は「八郎潟の西の偏(北緯40度)と同緯度の、現在の中国北部の、北緯40度の北京」であったと考えられる。
つまり、帝禹は会計・北京市を首都とし、補佐役の益は会稽・天津に居住していたと考えられる。〕
上記したように、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は〔帝益が禹の子の啓に譲った理由〕を「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についたのが短期間であったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」と指摘する。
しかし、この理由はほんとうの理由でなかった。
ほんとうの理由は――帝禹と啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。
帝禹は〔五帝時代以来の、国家を作らずに、多数の氏族から最も優秀な人物を帝に選ぶ、多数の氏族が共同する政治体制〕の継続(けいぞく)、つまり〔国家を作らない・氏族共同政治体制の継続〕を願った。
一方、啓は〔国家を樹立(じゅりつ)して、最も優秀な氏族が子孫代々帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させる政治体制〕、つまり〔世襲王朝・国家政治体制〕を欲求(よっきゅう)した。
だから、帝禹は臨終の際、益に「国家を樹立しない、氏族共同政治体制を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継がせた。
しかし、諸侯は禹が願った「国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続」を望まず、啓が主張する〔世襲王朝・国家政治体制〕に賛同して、帝益のもとを去った。
ゆえに、帝益は中国ではもはや禹が継続を切望した〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕はまったく望まれていないと判断して――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山の南の地に隠居したのである。
そして、益は禹の遺志(いし)である〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いていたため、中国と日本列島を隔(へだ)てる大海を小舟で漕(こ)いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、〔禹の遺志の、氏族共同政治体制の継続事業〕は、広大荒漠(こうだいこうばく)たる大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な腕力を有する益の孫の王子と将来益氏を継ぐ青年たちによって決行された。
このため、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか・第六)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封(ほいう)ぜられたか不明である」と記述されている。
このように、名門・益氏が中国のどの地に封ぜられたか不明になったのは、益氏を受け継ぐ青年王子と若者たちが大海を渡って日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(帝禹が首都とした会計・北京と同じ北緯40度の地)に移住したからである。
中国には益氏の老人や女性たちが残ったために勢力が年々衰退した。ゆえに、中国では益氏が封ぜられた地が不明になって、益氏は忽然(こつぜん)と消えることになったのである。
益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史について、
720年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)初頭部は下記のごとく説明する。
「昔、わが天神(あまつかみ・つまり字源となる天の銀漢が神)のタカムスビノミコト(中期縄文時代を支配した男神の高産巣日神)とオオヒルメノミコト(中期縄文時代を支配した女神)は、この豊原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、つまり日本列島)を天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、つまり帝益の孫の王子)に授けられた。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲露(くもじ)をおしわける先ばらいを立てて)、益氏の王子一行は旅の目的地(つまり、会計・北京と同緯度の八郎潟の西の偏)に到着した。このとき、この地域はいまだ野蛮(やばん)で草昧(そうまい・辞理が確立されていない状況)であった。そこで、蒙昧(もうまい・学術が存在せずに文化が低い状況)の中にありながら、みずからの正しい教え(倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字の教えなど)を養育して、この八郎潟の西の偏(ほとり)より一帯を治めた。
その後、わが天祖(帝益の孫の王子)と皇祖(こうそ・帝益の孫の王子の子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」
〔注、(1)上記の「彦火瓊瓊杵尊(帝益の孫の王子)は天のいわくらを開き、雲露をおしわける先ばらいを立てて」という説明は――「旅路をさえぎる大きな岩のような障害を乗り越え、曇った夜空では旅路の位置を精確に知ることができないが晴れた夜空を待って精確に旅路の位置を知ることができる天頂緯度線を精確にキャッチする役目の緯度測定能力が優秀な若者を王子一団の先頭に立てて」と意味したことになる。
また、(2)上記の末尾の「その後、倭が天祖と皇祖は神の聖のように徳高く、慶(善政)を積みかさね、暉(恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」という説明は――要するに「紀元前2050年頃に八郎潟の西の地に定住した天祖と天祖の息子の皇祖が教え広めた【倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字など、中国で開発された先端学術】は、紀元前2000年頃には東北地方・関東地方における各地の氏族にゆきとどいて習得された」と意味したことになる。
(3)だから、上記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭部の説明は、「天祖(帝益の孫の王子)が、箕山の南に隠棲した帝益に帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島に定着させる事業】を命じられて、男鹿半島・八郎潟より西の地に定住した」と伝えていたことになる。〕
◆『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。
このように、『魏志倭人伝』の冒頭の字は【倭】である。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が幾度となく解説して証明したように――【倭】の字源は
「現在方位の【東】が時計回りに転回して【南】となる」がごとく、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
このブログの前ページにて紹介した上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』の〔邪馬臺国を中心に〕(光文社発行)の直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」には、下記のような指摘がある。
――内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。
上の記事に登場する「内藤」は「明治時代の学者・内藤湖南(ないとうこなん)氏」である。
上の記事の後半の「『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という否定意見はまちがっていた。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて――
『魏志倭人伝』の「不弥国(ふみこく)から南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日」という水行の【南】」は、
「不弥国・宗像市(むなかたし)の神湊(こうのみなと)から出発し、宗像市神湊の【西】にある沖ノ島に立ち寄って、沖ノ島から【東】(現在方位)にある山口県萩市の見島(みしま)を【倭】の字源の【南】(転回方位)にする」ものであった――そして、『魏志倭人伝』は「見島から山口県の長門市(ながとし)の港に到着する」と説明していたのである。
〔注 上記した「漢字の起源と発明を解明す・18」において、〔宗像国から投馬国までの水行〕について――「【倭】の字源の転回方位の真西(現在方位の真南)となる長門港までの航路」が「二十日の水行(航路)」であったことになる――と解説した。
この【西】が【南】になる解釈は、【呉】の字源「現在方位を逆時計回りに90度転回する方位規定」を説明していることになる。この誤記について、「漢字の起源と発明を解明す・18」を読んだ人々にご迷惑・混乱をあたえてしまったゆえ、なにとぞここで訂正することをご寛容(かんよう)のほどお許しねがいたい。
このブログの何回かの後の回にて――【倭】の字源の転回方位にもとづき宗像市の神湊を【沖ノ島より南】と定め、【倭】の字源の転回方位だと山口県萩市は【東】となる。ゆえに、【北(沖ノ島)から東(見島】によって【倭】の字源が成立する。しかし、なにゆえ不弥国の宗像市から投馬国の山口県の長門港は【東】にあるのにもかかわらず、『魏志倭人伝』は【南】にあると記述したのかについての秘密――についてこのブログの後の回で解明する予定である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて――
『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と記す、「邪馬壹(壱)国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在における島根県の西部・東部と鳥取県の西部」であったと解説し証明した。
邪馬壹(壱)国の中心地域は、旧国の出雲・島根県東部の松江市であった。
『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という、水行記事がある。
【松江市の北(現在方位)にある隠岐群島を【東】(転回方位)にする】と、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が合理となる。ゆえに、【倭】の字源に従うと【北】が【東】となる。
だから、『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事は間違いではなく、【倭】の字源の方位にもとづいて説明して正しかったことになる。
したがって、上記した直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」の文中にある――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は『魏志倭人伝』の記事の表層の所々をつまみ食いした粗雑な意見・軽率な論考であったことになる。
『後魏書』の【魏】の字の偏(へん)は【委】であり、【倭】の旁部(つくりぶ)もまた【委】である。
ゆえに、【魏】の偏【委】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
だから、――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は、軽率な愚見(ぐけん)であったことになる。
『後魏書』は6世紀半ばで成立した。
ゆえに、倭人国のみにかぎって保存されていたのではなく――中国でも「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は保存されて実在したことになる。
古代のわが国と中国の航海者たちは、水行において【委】の字源【「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と、【呉】の字源「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」を駆使(くし)して大海原の藻屑(もぐず)となって命を失わないようにして航海していたのである。
つまり、古代の航海者たちや人々は「地理(大海の方位)には【委】の字源と【呉】の字源の転回方位が存在する」と信じていた。
〔注 原始から人類は円周運動をする天頂の緯度を観測して生命をまもって生存したゆえ「方位も円周する」と考えていた。ゆえに、縄文人・弥生人もまた方位は円周(周旋)して変位して3種類存在すると確信していた。だから、縄文時代・弥生時代では、方位は現在のように天の北極を基準にして一つではなかった。一つではなく、[(1)【北】は【南】となって180度変位する方位規定と、(2)「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と(3)「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」が存在し、それら3種類の方位規定が合体して成立する]と定めていた。このため、方位規定は【難解な学問】となった。ゆえに、【倉頡が発明した文字作成理論と夏代黎明期に出現した方位理論は学問】となった。後世、この【学問(方位理論)】を最も理解した人物が帝王となり、あるいは理解した人が身分の高い地位につき、あるいは氏族の長となった。この【学論】が理解できない人々は道に迷って命を落とすことになった。〕
◆下記の『魏志倭人伝』の記事もまた、【倭】の字源に則(のっと)って「時計回りに90度方位を転回して、現在方位の【東北】は【東南】になる」と説明する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回までに詳細に解説して証明したように、
下の『魏志倭人伝』の後半部にある記事もまた、「帝益の孫の王子一行が八郎潟の南の海岸に上陸して、八郎潟の西の偏に定住した」と説明して、【倭】の字源を表示する。
この『魏志倭人伝』の後半部にある記述は下記のごとくである。
「黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくとなる。
――黒歯国(現在の石川県北部の能登)がある。黒歯国・能登の東南に、船で行くと一年ばかりで到着できる地がある。その倭地を船に乗って訪れると、海中に陸から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいはこの大きな島から遠く離れて小さい島が存在し、あるいはこの小さい島からまた小さい島が連なり、これらの黒歯国から周旋方位(【倭】の字源の「現在方位を時計回りに90度転回して「東北」が【東南】となる方位規定)にて五千余里ばかりの距離に、(帝益の孫の王子一行が上陸した地がある)。
〔注1 上記の文中には「倭地を参問するに」という文があるように――この文先頭の【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、『魏志倭人伝』の九州の末盧国(まつろこく)以下本州の黒歯国・能登までの方位記事にもとづくと、「倭地(日本列島)の【東】は時計回りに90度転回して【南】に伸びる」と説明している。
注2 上記した文の末部は「周旋五千余里可り」である。ゆえに、「倭地は【東】に伸びずに【南】に伸びる、時計回りに90度転回する方位規定」について「周旋」と表現したのである。
「周旋」という語は「天頂となる天体部は円周運動をする」と意味した。だから周旋(円周運動をする)方位規定にもとづくと、「黒歯国から東南に益氏が上陸した八郎潟の西の偏(ほとり)に近い海岸が存在する」と『魏志倭人伝』は説明していた。つまり、「周旋」は上記した「倉頡が発明した3種の方位論と夏代黎明期に出現した3種の方位論」を表現していた。
要するに、黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した地点は、現在方位で能登の【東北】となる八郎潟より南の、現在の秋田県の潟上市(かたがみし)天王町の海岸に上陸したことになる。
夏代黎明期に定住した益氏は【東北地方の北端】を【東北地方の南端】であると立論した。ゆえに、日本列島・本州の【北(北端)】は【南】となり、本州は【北】ではなく【南】に伸びることになった。
卑弥呼もまた「九州以下の本州の【東】は【南】へ伸びると立論して証明した。
このため、卑弥呼が立論した転回日本列島地理と益氏の東北地方転回地理は合致して、九州から東北地方までは本州の能登地方のあたりから曲がっても【南】へ伸びることになった。
この結果、『魏志倭人伝』は「日本列島は能登からもまた【南】へ伸びて、天王町は能登の【東南】にある」と記述したのである。
注3 『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「春に耕作を始める日を一年とし、秋に収穫する日を一年とする、中国の暦の一年を二年と数える二倍歴がある」という注がある。したがって、上記した「船行一年」は「船行して現在の半年であった」と意味したと考えられる。〕
下図に、【倭】の字源や「周旋」という語に則(のっと)り「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて【東】に伸びずに【南】に伸びる転回倭地図(転回日本列島地図)を示した。
下に、【倭】の字源や「周旋」という語の秘密にもとづいて「現在方位が時計回りに90度転回する方位規定の黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した秋田県潟上市の天王町の海岸までの地図」を配した。
下図に示したように、上記した『魏志倭人伝』の「海中洲島の上に絶在し」という文は「新潟県、日本海上の佐渡島」をあらわし、「或いは絶え」という文は「日本海に浮かぶ、新潟県北部の孤島・粟島(あわしま)」を説明し、「或いは連なり」という文は「山形県方西端の、日本海上の孤島・飛島(とびしま)」を説明していたことになる。
現在方位の場合、黒歯国・能登から天王町の海岸までは【東北】である。
しかし、下図に示すように、【倭】の字源や「周旋(天体部が円を描く運行)」に則(のっと)ると、黒歯国・能登から天王町の海岸の方位は、『魏志倭人伝』の記事に合致して【東南】となる。
◆『魏志倭人伝』の前半部には「古自(いにしえよ)り以来、其(そ)の使(し)中国に詣(いた)るに自ら大夫(だいふ)と称す」と伝える記事がある。
上記のごとく、「大海を越えて中国に到着した倭人国の使者は、昔から自ら【大夫】と名乗った」。
『万葉集』(万葉仮名の音文字)における【大夫】は「ますらを」と読む。
「ますらを」は、現在では【益荒男」】表記する。
したがって、【益荒男】は「名門・益氏の王子と若者たちは中国から日本列島に渡来(とらい)して定住した。ゆえに、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて中国に到着した、名門益氏の王子と若者のごとく勇敢な男性である」を意味した語の略称(りゃくしょう)であったことになる。
ゆえに、【大夫】は【益荒男】は同義であり、【大夫】の語源は「帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。
◆『魏志倭人伝』の中半部には、下のような記事があり――この記事は「2世紀後半(170年頃~240年頃)の卑弥呼時代には漢字知識、つまり夏音文字が存在した」と説明している。
「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置きて諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国(いとこく)に治(じ)す。国中において刺史(しし)のごときところ有り。王、使(し)を遣(つか)わして京都(けいと・魏の都の洛陽)・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国に詣(いた)り、また、郡の倭国に使(つかい)するや、皆(みな)津(つ)に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)を捜露(そうろ)し、女王に詣るに差錯(ささく)あるを得(え)ざらしむ。」
上記の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置して倭国における諸国(34の小国)の様子を検察していた。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった。倭女王・卑弥呼が使節を魏都・朝鮮半島北部に魏の出張政庁機関が所在する帯方郡・諸韓国に派遣するときには、すべて伊都国の港において、卑弥呼が夏音文字で書いた文書と魏都・帯方郡・諸韓国が楷書で書いた文書(つまり、伝送の文書)の文や語句の意味が合致して同じとなるように、また倭国と魏都・帯方郡・諸韓国と取り交わす賜物(しぶつ・贈り物)の名称をあらわす夏音文字と楷書の意味が同義となるように、逐一(ちくいち)点検し確認して、すなわち夏の銀河各部の形状で捜し露(あら)わにして、倭女王・卑弥呼のもとに届いたときに差錯(間違い)が生じないようにしていた。」
上の『魏志倭人伝』の記事には「伝送の文書、賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ」という文がある。
この文は「魏都・帯方郡・諸韓国と倭人国が取り交わす文書、または贈り物の名称に用いられた文字は、伊都国の港で、楷書を連ねる語と夏音文字で連なる語の意味が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにして(見つけて)、卑弥呼のもとに到着した時に差錯(誤記)が生じないようにしていた」と意味した。
というのも、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の大半の字源・字形・字義と卑弥呼が用いる夏音文字の字源・字形・字義のすべて】は、夏の銀河各部の形状から図案するものであったからである。
ゆえに、楷書と夏音文字で構成される語は、夏の銀河の部分で合致することになった。
だから、「捜露」つまり「楷書と夏音文字の両者の語義が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにした(見つけた)。」と記されたのである。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39回」にて記したように、
「古事記上巻 并せて序」の末部の記事には「辞理の見え叵(がた)きは」という文がある。
前述したように、夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状から作られて生まれた。
楷書の字源・字形・字義もまた、夏の銀河各部の形状から作られた。
しかし、夏音文字の語に用いられる字を楷書に変換して両者の意味が一致する夏の銀河の部分を捜し露わにする、つまり見つけだす作業(楷書と夏音文字の辞の意味が合致する夏の銀河の部分を見つける作業)は困難であった。
ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の末部には、夏音文字と楷書との変換作業について「夏の銀河各部の形状を見て、両者の辞が合致させる作業は難(むず)かしい」と説明されて、「辞理は見え叵きは」と記されたのである。
【辞理】という語は「辞は完全な合理からなる天理(夏の銀河各部の形状・位置)と、不合理な点や弱点を少数有する地理から構成される」と定めた、倉頡が発明した理論】の略称である。
このような「地理には不合理な点が少数存在すると定めた理論」は【卑】の字源となった。
「夏の銀河の形状・位置は完全で不合理な点が存在しないと定める道理」は、【尊】の字源となった。
中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』である。
『易経』における周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)冒頭にある「天尊地卑(天は尊く地は卑し)」という文は「天理は完全であるゆえ【尊】の字源となり、地理には少数の不合理な点があるゆえ【卑】の字源となった」と解釈しなければならない。
ゆえに、「天は尊く、地は下賤(げせん)である」という解釈は誤訳となる。
だから、「卑弥呼」の【卑】は「地理、つまり【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理をとなえた、最高に優れる地理学者」と意味した。
◆上の「伊都国の記事」が説明しているように、倭人国には【夏音文字】が存在した。
前記したように、『魏志倭人伝』を著作した陳寿(ちんじゅ)は晋(しん)の歴史編纂官であったため、【晋王朝に秘蔵されていた――西暦200年~250年頃に帯方郡や魏に送られた倭人国の国書(つまり、卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で楷書に変換した倭人国の国書)】を閲覧(えつらん)することができる権利を特別に許可されていたのである。
陳寿は倭の国書にある『魏志倭人伝』の「対馬国の南は瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)で、瀚海の南は一大国である」という記述は「倉頡が発明した文字作成理論を最初に学習する基本知識」を説明するものでははないかと推理した。
また、【倭】は夏音文字で倉頡伝説に登場する【禾(か・稲)】と字源は同じではないか、「邪馬壱国」の【邪馬】の語源は「瀚海に生息するフタコブラクダ」ではないか、「卑弥呼」の【卑】は【益】と同義で「地理学の最高知識者」を意味するものだはないか、倭人国の諸国名に登場する「不弥国」と「不呼国」の【不】は夏王朝を始まったときに帝禹(ていう)が作った字ではないか、また「不弥国」の夏音文字【弥(彌)】は倉頡が作った【爾】が進化した字ではないか、あるいは「不呼国」の夏音文字【呼】は倉頡が作った【乎】が進化した字ではないかなどと推理した。
ゆえに、陳寿は「一大率が治める伊都国の港で卑弥呼が用いる文字を魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に書き直して意味が同じようにする」と説明する倭の国書から「倭国には太古に習得した漢字が存在する。この太古文字は魏や晋、そして朝鮮半島で使用される楷書の字源・字義を正しく変換できる能力(学術知識)がある」と推定した。
言いかえると、陳寿は「倭人国の太古漢字は楷書と同じく夏の銀河各部の形状から作られた秘密」に精通し、「漢字は五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明して起源した」と伝える伝説は事実を伝えていることを知っていたのである。
だから、陳寿は主観(自分の考え)を一切(いっさい)加えず、【倭の国書】にある記事をそのまま書き写すようにして『三国志』魏書東夷伝の末尾に〔倭人伝〕(つまり『魏志倭人伝』)を配置した。
『魏志倭人伝』の後半部の記事を注目すると――上記したように、倭の国書は200年~250年頃に作成されたと推測される。
ゆえに、陳寿は3世紀初頭~3世紀中半に作られた倭の国書の記事を抜粋(ばっすい)・書写して『魏志倭人伝』を構成した。
多数の考古学や邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は中国人が作った歴史史料であるゆえ、倭の様子を正しく伝えることができず、幾つかの誤記や矛盾や不合理な記事が存在するのが当然である」と主張するが――
上記したように、『魏志倭人伝』は倭人国で作られた国書をほとんどそのまま書写するようにして作成されたゆえ、「わが国で作られた文献史料」と解して読まなければならない。
現在の学界は「漢字は中国の五帝時代の初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明して起源したと伝える伝説は、を荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と指摘して否定する。
しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回などで詳細に解説して証明したように――倉頡伝説は「倉頡が夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法を発明し起源した」と事実を語るものであった。
ゆえに、倉頡伝説は作り話であると疑う人々は「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回を参照していただきたい。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
〔注 上記したように倉頡は文字作成理論(文字の学芸知識)を容易に理解できるように説明する者はその一族全員にも神罰がくだって厳しく罰せられて死滅することになると忠告するゆえ、前記した「古事上巻 并せて序」の全文は非常に難解に作られている。〕
【倉頡が死刑と定めた(Ⅲ)の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】は発見されないことになった。
しかし、前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』・8世紀初頭に成立した『古事記』上巻・8世紀後半に編集された『万葉集』の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数保存された。
上記したように――倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配して――【死刑となる3つの掟】を定めた。
この【3つの掟】を破ると、犯した本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員が死刑に処せたれた。
だから、『魏志倭人伝』の伊都国の記事は「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置し、一大率は倭国における諸国の様子を検察していたのである。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった」と説明していたのである。
『魏志倭人伝』には「乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為(な)し、名づけて卑弥呼と曰(い)う」という記事がある。
したがって、倭王朝(卑弥呼王朝)は夏音文字と楷書に精通する伊都国の男王・一大率と夏音文字の最高権威者の卑弥呼が共に立って、【倉頡が定めた3つの掟】を厳重にまもって検察し統治する政権であったことになる。
◆前記したように、「わが国には夏代黎明期に用いられた夏音文字が存在した」と記述する古書には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使が「後稍(のちやや)、夏音を習う」と中国に報告した――と伝える『新唐書』日本伝はじめ、
下記に示すように、『魏志倭人伝』・『古事記』の「上巻 并せて序」と上巻・『万葉集』などがある。
(Ⅰ)『魏志倭人伝』はさまざまな記事で「卑弥呼時代(170年~240年頃)、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明する
(Ⅱ)また、夏音文字は「古事記上巻 并せて序」にて意符・音符に用いた楷書との関係が説明され、さらに夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて多数残っている
(Ⅲ)『万葉集』に収まれられる多数の和歌に用いられる万葉仮名(和歌の原文に用いられる文字)にも夏音文字が楷書で記されて多数残っている
上記したように『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』と同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字に秘められる字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる。
このように、上記した文献史料史学に則(のっと)り、
また、白川静著『字統』の序にある言語学・音韻学の研究成果を説明する「わが国の漢字音」と題する記事を注目すると、
考古学が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する意見の実体は臆測(おくそく)・偏見(へんけん)の産物であり錯覚・幻想であったことになる。
上記した考古学における漢字習得説は埼玉県行田(なめた)市に所在する稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣銘」に刻まれていた楷書にもとづく。
注目すべきは――「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」という定説の証拠となる稲荷山鉄剣銘に刻まれる「意富比垝」は「おほひこ」、「弖已加利獲居」は「てよかりわけ」と読み、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される文字、そして『万葉集』の万葉仮名と同じく楷書を字音と字義に用いる。
だから、稲荷山鉄剣銘の文字は「夏音文字の字音を楷書で表記した遺物」であったと考えられる。
ゆえに、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と断定することはできない。
◆以上のごとく、このブログの初頭部で――『魏志倭人伝』は「2世紀末から3世紀中半、倭人国(わが国)には漢字知識があった」と記述する。
しかし、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀であるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている――と学界やメディアは即座に否定するがちがいない。
しかし、『魏志倭人伝』の(1)「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に詣(いた)ると自らを大夫と称した」という記事や
(2)「伊都国を治める一大率」について説明する記事や、
(3)「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき云々」から「周旋五千余里ばかり」という文までの3種の記事は
「今から約4000年前の紀元前2050年頃、中国から名門・益氏の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して、夏音文字はじめとする当時の中国における先端学術を教え広めた。ゆえに、日本列島の東北地方・関東地方の各地に住む氏族たちは、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)、夏音文字を習得していた」と事実を語っていたことになる。
だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは約4000年前であった」。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「2世紀末から3世紀中半には、わが国には中国の三皇時代の結縄(けつじょう・易占に用いた記号)・五帝時代に作られた書契(しょけい)・夏代黎明期に出現した音文字(夏音文字)などの漢字知識が保存されて残っていた」ことになって、
『魏志倭人伝』の説明は正しく、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」と学界やメディアが主張する定説は誤っていたことになる。
『魏志倭人伝』は考古学が主張する【邪馬台国】について説明する古書ではなかった。
『魏志倭人伝』は「漢字が起源した秘密が科学的に解明できる最高・最良の史料」であった。
『魏志倭人伝』は「わが国は夏代黎明期に夏音文字を習得した。この夏音文字は卑弥呼時代(2世紀末から3世紀中半)において、倭人国の諸国で常用される漢字であった」と説明する古書であった。
だから、『魏志倭人伝』の全記事が正しいことを証明すれば――倉頡が発明した文字作成理論(辞理)の秘密が具体的にしかも【科学】が成立して解明できる仕組みになっている。
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