邪馬台国説はサギ・騙されるな・6
▼現在、学者たちはじめメディアは「邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説こそが、もっとも正しい意見である」と主張する。しかし、学者たちとメディアが推奨する九州説と畿内説は根も葉も無い・完全なる空理空論・デタラメ・ウソ八百である。
この事実は何人も否定できない事実である。
だから、邪馬台国説学者たちとメディは、日本国民を欺(あざむ)き詐(いつわ)り真っ赤なウソをついていることになる。
邪馬台国九州説も邪馬台国畿内説も、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない、完全なる誤読の空理空論である。
邪馬台国説九州説と邪馬台国説をとなえる学者たちとメディアは日本国民を蔑視する、日本人の尊厳を徹底的にバカにする、日本人の命と魂を愚弄(ぐろう)する、日本人にとって最悪・最大の災(わざわい)いである――この事実は何人も否定できない事実である。
九州説と畿内説をとなえる学者たちは学者ではあらず詐欺師であり、邪馬台国説に同調して真実を語り偽りを徹底的に暴く使命と責任をまったくはたさないメディアはメディアではあらず、サギの片棒をかつぐ大ホラ吹きであると言わざるをえない。
この事実は、大言壮語であらず、絶対的な事実であり、何人も否定できない真実である。
日本人が最も蔑視すべきデタラメは邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説である。
その証拠に、2年前の令和元年11月14日の夕刻から翌日の夜明け前まで――日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭は「邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明する、皇室最大の神事であった。
だから、日本学問史において最も重大な真実・真理を排除した江戸中期の新井白石の邪馬台国説に従って諸先生方が主張する州説と畿内説は、日本人に最悪・最大の災いということになる。
なにゆえ、2年前の令和元年11月14日におこなわれた大嘗祭が「新井白石以来約300年間も受け継がれた九州説と畿内説が【誤読の空理空論】である」と表明する皇室最大の神事であるか――この事情は、下記に要約した説明することにした
★「倭人国の地理学」のトリセツ・15
▼新井白石(1657-1725)は1716年(正徳6)60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して、邪馬台国大和説を提唱した。その後年、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説を立論した。
白石が邪馬台国大和説を発表した『古史通或問』を著作した年は、すでに1709年(宝永6)6月21日に114代中御門(なかみかど)天皇が即位してから7年後のことであった。白石が『古史通或問』が著作した1716年かその数年後のことかは判然としないが、いずれにせよ皇室が白石の邪馬台国説を知ったのは、中御門天皇の代であった。というのも、白石は1725年(享保10)5月19日に69歳で没し、中御門天皇は1735年(享保20)3月21日に退位しているから――皇室が、白石の畿内説と九州説を知ったのは、中御門天皇の時代であったことになる。
白石の邪馬台国説を知った朝廷は「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問は土台から一気に崩壊する! わが国の文化が根底から滅びる!」と激しいショックをうけ、恐怖をいだいた。というのも、3世紀後半に大和朝廷の基礎を築いた天照大神母子王朝(10代崇神天皇母子王朝)以来、朝廷は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を国家基盤、皇室の存続基盤、学問基盤、日本の文化基盤と定めていたからである。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(5回)まで――紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音(かおん)文字を習得するときに、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が【漢字作成理論】を発明した――歴史を詳細に解説し証明してきた。
漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】から起源する。したがって、古代の人々は倉頡を“漢字の始祖”と呼んで崇拝した。
この【倉頡が発明した漢字作成理論】が具体的に詳細に科学的に解明できる史料が――なんと、『魏志倭人伝』であったのである。つまり、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった。『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を科学的に具体的に詳細に総合的に説明する歴史書であった。約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事は【倉頡が発明した漢字作成理論とともに習得した夏音文字の学芸】を説明するものであった。
ところが、「新井白石がとなえた邪馬台国大和説と九州説は正しい」と熱中する学者たちによって《『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を解明するための歴史書》と化してしまい、まったく本来の役目をはたさない史料となった。
『魏志倭人伝』は《1ヵ所も【誤読】を加えずに読解すれば、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を解明することができる。だから、この解明方法を知っていた朝廷は、白石がとなえた邪馬台国説に「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問は土台から一気に崩壊する! わが国の文化が根底から滅びる!」と激しいショックをうけ、恐怖をいだいたのである。
前述したように、皇室は、3世紀後半に大和朝廷の基礎を築いた天照大神母子王朝(10代崇神天皇母子王朝)以来、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字が学芸】を政権基盤として代々存続するものであった。もしも学者たちが、あるいはメディアが本来の使命と責任にもとづいて『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに全記事を忠実に読解していたならば――天照大神母子王朝以後、皇室は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤にして代々存続するものであった実体を容易に解明できていたことになる。
しかし、学者たちはあるいはメディアは新井白石がとなえた【空理空論の邪馬台国説】にのめりこんで夢中になり、【多数の誤読】を加える方法こそ正しい考えかたであると思い込み、『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を決定するための書物であるとまったく根も葉もないデラタメを日本中にまきちらすようになった。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を明確に説明する歴史書である実体に気づく学者は、現在、一人も存在しないことになった。
◆皇室は112代天皇であった霊元(れいげん)上皇が指揮して、中御門天皇が1735年3月21日に退位する以前から、新井白石がとなえた空理空論の邪馬台国説は大嘗祭を復興して処置すると計画して着々と準備した。しかし、1733年(享保17)8月6日、大嘗祭を本格的に復興して「白石の邪馬台国説を空理空論である」とあらわす事業を指揮していた霊元上皇は、79歳で没した。中御門天皇が1737年4月11日に没すると――その翌年、つまり白石の死から13年後となる1738年(元文13)11月19日に、霊元上皇が計画した通り、早速「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と示す大嘗祭が115代桜町天皇の即位式でおこなわれた。
徳川家康以来、江戸幕府は『魏志倭人伝』を【後期縄文時代初頭以来受け継がれた、この日本という国を作った学問史を語る最も重大な歴史書】であると位置づけていた。ゆえに、桜町天皇の即位式がおこなわれた大嘗祭は、幕府の協力をえて皇室が戦国時代から220年間中断していた祭儀を本格的に復興するものであった。桜町天皇の即位式で「白石の邪馬台国説は空理空論」と表示された大嘗祭を、皇室はその後代々継続した。
だから、前述したように、2年前の令和元年11月14日の夕刻から翌日の夜明け前まで、日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭は「白石の邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明する、皇室最大の神事であったのである。
令和の大嘗祭は「『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして、わが国最初の【倭人国】を創設した――と伝える歴史書であった」と表明する、皇室最大の神事であったのである。
このような事情によって、新井白石の邪馬台国説に従う諸先生方が熱っぽく語る九州説と畿内説は【日本国民にとって最悪・最大の災厄】である――この事実は何人も否定できない絶対的な真実である。
◆前回(5回)までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて繰り返して解説・証明してきたように――今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は「夏の銀河」(夏の星座が漬かる銀河)から漢字を作る方法を発明した。
『魏志倭人伝』は【卑弥呼王朝の政権基盤であった、倉頡が発明した漢字作成理論を伝える歴史書】であった。だから、『魏志倭人伝』は九州説や畿内説が主張する邪馬台国の所在地を究明するための史料でなかった。その証拠に、1738年の桜町天皇の即位式の大嘗祭かれ受け継がれて令和の大嘗祭でも「邪馬台国説は誤読の空論である」と日本国民に表明したように、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も関係しない空理空論である。
「銀河」の別名は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
下に、その各部の形状から漢字が作られた「夏の銀河」(漢字作成銀河)の写真を配した。
【1】倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、「文字は銀河各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即座に死刑にすると定めた。
【2】また、倉頡は「文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」と定めた。
このため、今日になっても、「夏の銀河の各部をあらわす名称」が存在しない。「夏の銀河の各部の名称が存在しないと、【漢字の字源銀河・字形となった銀河・字義となった銀河】の解説・証明に不便となるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河の各部の名称」を定めた。
【3】倉頡は「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員まで即刻に死刑にする」と定めた。
紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半の甲骨文字(契文)においては頻繁(ひんぱん)に政事(まつりごと)において易卜が行われ、その都度(つど)【3】の掟をまもることが面倒になったため、【3】の掟を破られた。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟を厳重にまもったゆえ、現在「漢字が夏の銀河の各部の形状から作られた事実」が不明となり、「夏の銀河の各部」には名称が存在しないことになった。
甲骨文字以後には、【3】の掟は破ってもよいことになった。『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』に記載されて現在まで残った原初漢字の夏音(かおん)文字は、楷書で表記される。この事情は、卑弥呼が歴史上に始めて登場して国家と王朝を創立した180年頃に、後漢王朝が用いていた漢字が楷書であったからである。
原初漢字の夏音文字が『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』に記載されて残っている。この夏音文字を、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(5回)めでに詳細に解説して証明したように、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏初頭)に習得した。
◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」で解説した「歳差(さいさ)という天文現象を利用して今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における中国の各地の天頂にめぐってきた銀河を再現すると――上に示した「夏の銀河(文字作成銀河)の各部の名称」における左上にある、下記のごとく私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国の各地の天頂にめぐってきたことになる。
倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
黄帝は【ヒトの生命の神秘】を研究するために【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。この医学研究は先代の三皇時代には着手されていなかった。ゆえに、倉頡の文字発明の目的は、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を作成することになった。
だから、倉頡は【黄帝の女性の生殖器と子どもの出産の研究をあらわすことができる文字】を【夏の銀河の各部の形状から作る理論】を発明した。
下に配した上図に示したように、「十字の銀河」の西半分には《女性の乳房、妊婦の腹部、子宮に相当する箇所》がある。ゆえに、倉頡は「女体に似る十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られた全漢字を生む母体」と定めた。これゆえ、下に配した上図が示すように、周代に作られた金文の[文]の字形は「十字の銀河」を「母体の正面形」に見立て「女体の腹部(子宮)に胎児が宿る様子」を表現する図案となった。
また、上に配した周代に用いられた金文形が示すように、倉頡は「十字の銀河」を[宀(べん)]の字源とし、「鬼の姿に似る銀河」を[子]の字源として、[宀]の下に[子]を加える[字]という字を作った。[宀]は「家」をあらわした。というのも、三皇時代にあっても五帝時代にあっても、妻と子や親の命と生活をまもるために男たちは、獲物や石器などを求めて遠くの地に旅して目的を達成したならば家族が待つ家、つまり[宀]に帰還したからである。金文が用いられた周代になると、家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するとともに、宗廟(そうびょう)を建て、家族の中心である祖先をまつった。ゆえに、[宀]は「宗廟」をあらわすことになった。
上に示した[文]と[字]は、【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
倉頡は、[字]の作字に欠陥があることに気づいた。というのも、倉頡が作った[字]の字は「子ども(出産児)は、母体の腹側(「十字の銀河の腹側」)に顔の正面を向いて出産する」かのごとくにも解釈できるからである。
しかし、下の図に示すように、出産第二期の娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいて、出産児は顔を母体の背側(臀部)を正面して誕生する。だから、倉頡は「出産児の顔は母体の背側(臀部)を正面して誕生する」と表示する字を作ることにした。
◆倉頡は「十字の銀河における、母体の腹部」を180度回転して「十字の銀河における、母体の背側の臀部(お尻)」と見立てる[禾]の字を考案した。[禾]に[委]が加わる[委]の字が作られ、さらに[倭]の字が作られた。
下の上図が示すように、「[禾][委][倭]の字源銀河解説図」に示すように、[委]と[倭]の初文(最初の文字)となる[禾(か)]の字は「母体をあらわす十字の銀河中央に、《イネ(稲)》をデザインする図書」を重ねて作られた。
したがって、上の[禾]の字源銀河解説図において留意すべきは「十字の銀河における母体の腹部は母体の臀部であって、腹部ではない」ということである。
[禾]の字形は――イネの穂は「鬼の横顔に似る銀河の口」へ向かって垂れる形――となった。ゆえに、[禾]の字源・字形・字義は「イネの穂が「南」(十字の銀河の南)から「西」(鬼の横顔に似る銀河の口)へ垂れる」とあらわすことになった。つまり、[禾]の字源・字形・字義において「〔南〕から時計回りに90度転回して〔西〕と化(な)る」と定められた。
以上のごとく、[禾]の字は【倉頡が発明した漢字作成方法の基本字】となった。
[禾]の字源・字形・字義は「方位が時計回りに90度転回して北→東・東→南・南→西・西→北に化る」と定められた。また、[禾]の字源・字形・字義は「イネ。小麦。イネや小麦などの穀物(五穀)。五穀豊穣」などをあらわすことになった。つまり、[禾]の字は、「人民の胃袋を穀物(食物)で満たす」という最高の政治スローガンをあらわすことになった。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」でも解説したように――倉頡は、上に示した「イネの穂は十字の銀河の南部から、鬼の横顔に似る銀河の口の方へと垂れる」と定める[禾]の作字方法に加えて、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定める[禾]の作字方法をも考案した。
「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星である。ゆえに、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国では「火(か)」「大火(たいか)」と名づけられ、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する晩秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
黄帝時代では、秋分の日の太陽が真西の地平線に没する午後6時、大火は真西から約10度の方角(西南西)の地平線スレスレの低い高度の空に位置し、30分後には地平線下に没した。したがって、黄帝時代の秋分の日の夕刻においては、太陽と大火の地平線に没する時間はほぼ同じで、太陽の30分後に大火が地平線に没した。この状況から、上に示した「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定めて倉頡が創った[禾]の字源・字形・字義は「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い地域の方位は、時計まわりに90度転回する」をあらわすことになった。
倉頡は、「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い地域の方位は、逆時計まわりに90度転回する」をあらわす、下に示すように[呉]の字も創った。下に示した「[呉]の字源銀河解説図と金文形」の図における北緯35度36分は黄帝時代(約5000年前)の黄帝陵の天頂緯度線である。黄帝陵は陝西(せんせい)省の黄陵県に所在し、今も黄帝の廟と墓とされて祭られている。
上に配した「さそり座α星がある方へ、イネの穂を垂らす銀河図」における「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河がある夏の銀河の西端」を「巫女(みこ)の腰」と見立て、下に配した「[呉]の字源銀河解説図」における「人の横顔に酷似する銀河」を「巫女の横顔」に見立て、「夏の銀河の東端となる、十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」を「しなやかに踊る巫女の手」と見立てて、さらに「こと座となる明るい星たち」を「無事に子どもが出産した祝い、子どもの出産を祈祷する時に巫女が用いる土器、つまり祝祷(しゅくとう)の土器の[口(さい)]の字源」に見立てて、[呉]の字が作られた。これゆえ、わが国の古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[呉]の字について「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。この『字統』の解説に登場する「一手」の[一]の字源は、下の「[呉]の字源銀河解説図」における「十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」である。
◆白川静著『字統』(平凡社発行)は、[禾]の字について「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形。のち同形の字とされ、一字にして別義のある字である。」と解説する。
上記したように、『字統』は――「いね」をあらわす図書の、のちに「軍門」をあらわす図書となった――と解説する。しかし、おそらく[禾]の字は「いね」をあらわし、また「軍門」をもあらわす図書であったと考えられる。というのも、[禾]の字を倉頡は黄帝が研究した「出産児の頭が狭い産道を通過するときの広形機能(骨重積)」にもとづいて作ったからである。これゆえ、黄帝は[禾]の図案を利用して「軍門」をあらわすことにしたと考えられる。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」でも解説したように、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・巻一の黄帝に関する記事には「土徳(どとく)の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」という記事がある。
「黄帝」を号することになった黄帝の土徳には二つの瑞祥(ずいしょう/めでたいことがおきるきざし)があり、そのうちの一つの瑞祥は「黄龍(こうりゅう)」、もう一つの瑞祥は「地螾(ちいん)」であった。
前掲した〔「大火西に下る頃」の[禾]の字源銀河解説図〕を再度、下に示す。
前述したように、上に示す[禾]の字源銀河解説図における下部にある「さそり座α星」は夏から秋までのイネや麦の収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星で、わが国では「豊年星」、中国では「火(か)」「大火(たいか)」と呼んだ。中国では「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(イネや麦などの穀物)を収穫する秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
黄帝時代においては、秋分の日の午前6時に、大火は真西から約10度の方角(西南西)、しかも地平線スレスレの低い高度の空に位置して30分後には地地平線に没した。
だから、大火(さそり座α星)が魁(さきがけ/先頭)となって、「胎児の姿に似る銀河・銀河の中心(銀河系宇宙の中心方向)・巨龍の顔の銀河」が南東の土(地平線)から昇って、南の土(地平線)近くを運行し――秋分の夕刻6時には、大火は土(地平線)スレスレの方角(西南西)に位置して30分後に土の下(地平線下)に没したゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀には「土徳の瑞あり、ゆえに黄帝と号す」と記述されることになったのである。
◆下に「夏の銀河、つまり漢字作成銀河」のカラー写真(PIXTA・ピクスタ提供)のカラー写真示した。このカラー写真の右上「黄金色(こがねいろ)に輝く銀河」が、上に示した〔「大火西に下る頃」の[禾]の字源銀河解説図〕における下部の「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」が所在する箇所となる。
上の写真が示すように、「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」は「収穫期に実がたわわに実って垂れるイネや麦の穂のように、黄金色」である。だから、上の〔「大火西に下る頃」の[禾]の字源銀河解説図〕に示したように、「黄金色にイネと麦の実がたわわに実る[禾]の穂は、夏の銀河(漢字作成銀河)の南(南端)からさそり座α星がある西へと垂れる」と定理されることになったのである。
上のカラー写真が示すように、「巨龍の顔の銀河周辺」は黄金色の輝くも、「巨龍の顔の銀河」は白く透き通るがごとく淡黄色に輝く。これゆえ、【黄帝の医学研究を表現する文字を作る、これを目的とした倉頡の発明】では「巨龍の顔の銀河の形状」は「分娩時の出産児が淡黄色の羊水とともに出産するとき、狭(せま)い産道を5枚の頭蓋骨が組み合わさって潜(くぐ)りぬける、いわゆる産婦人科の医学用語〔骨重積(こつじゅうせき/広形機能)〕、この神秘的な機能」に見立てられたことになったのである。
上の「女性生殖器の側身形の図」に示したように、「産道(外子宮口から膣口まで)」は狭い。そして、羊水は初め無色無臭・透明であるが、妊娠末期(10ヶ月後)には胎児の皮脂(ひし)などが混じるために淡黄色をおびるようになる。
出産児の体の中でいちばん大きい頭が〔狭い産道〕を通りぬけるとき、「5枚に分かれる出産児の頭蓋骨は、巨龍の顔の銀河のごとく淡黄色になった羊水とともに、産道を容易に通りぬけるために重ね合わせる神秘的な機能、つまり産婦人科の用語〔骨重積の機能〕」を有する。
だから、[龍]は「水神の霊獣」とされることになった。「水神」の「水」は「巨龍の顔の銀河のごとく、淡黄色になった羊水」であり、[龍]の字源「巨龍の顔の銀河」は「5枚に分かれる出産児の頭蓋骨が重ね合わせて、狭い産道を通過する機能」をあらわすことになった。
出産児が狭い産道を通りぬけるときに頭蓋骨が重ね合わさる機能は、五帝時代や卑弥呼が生存した古代においては「ヒトに命を与えるために、鬼神(かみ)がなす不思議な仕業(しわざ)うち、最も不思議な仕業だ!」であった。だから、出産児の骨重積の機能は「なんで神はこのような作業を加えて人に命を与えるのか? 永遠に解明できない、もっとも不思議な現象」であったのである。
ゆえに、現在の産婦人科において「骨重積」あるいは「広形機能(こうけいきのう)」と名づけられた機能は、黄帝の医学研究において神が人に与えた最も不思議な神聖な秘密にして、人間にはこの秘密は永遠に解明できない最高峰の学識と定められたのである。
この出産児の頭蓋骨の機能について、司馬遷著『史記』五帝本紀は「土徳の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」と説明している。したがって、『史記』五帝本紀は「土徳の瑞祥(めでたいことが起こるしるし)の一つの、黄龍」は「巨龍の顔の銀河のごとく淡黄色に輝く羊水とともに、出産児が狭い産道を通りぬけるときに頭蓋骨の重ね合わせる機能の瑞祥をあらわした」と説明していたことになる。
上の〔「大火西に下る頃」の[禾]の字源銀河解説図〕に示したように、「巨龍の顔の銀河」の西隣は「胎児の姿に似る銀河」である。
「胎児の姿に似る銀河」は、下に示すカラー写真「絨毛(じゅうもう)に包まれる3ヵ月の胎児の姿」に相似する。
したがって、「胎児の姿に似る銀河の西端(背)」が、もう一つの瑞祥「地螾」に見立てられたことになる。[螾(いん)]の字義は「みみず(蚯蚓)」である。土の中にすむ蚯蚓はうす赤く伸びちぢむ。ゆえに、「地螾」の瑞祥は「子宮に宿る胎児が育った様子をあらわす目出度いしるしの瑞祥の、赤いみみず腫(ば)れの腹部にできる妊娠線」を意味したことになる。
以上のごとく、「五帝時代初頭に女性生殖器と子どもの出産を研究した帝」は「黄金色に輝く、さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河の形状」から「黄帝」と号されることになった。だから、「分娩時の出産児の頭蓋骨」に見立てられた「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」は「人民の胃袋を禾(五穀)で満たす」という[禾]の字源・字義の中枢部(イネの穂が時計回りに南から西へ垂れる、転回方位規定をあらわす)となった。
だから、上記した理由・根拠からして、[禾]の字源・字義は「黄帝軍の軍門」をもあらわすことになったと考えられる。
◆その証拠に、産道を通過する出産児の頭蓋骨は4回周旋(しゅうせん)するが、第1回周旋では縦長の児の頭蓋骨は横長の骨盤入口に合わせて時計回りに90度転回する。ゆえに、[禾]の字源のおいては「時計回りに90度転回(回旋)する」と定められた。その後は、骨盤は出口までは出産児の頭蓋骨に合致して縦長のスペースとなっているため、第2回周旋は逆時計回りの90度の転回となる。第3回周旋は第2回周旋と同じく逆時計回りの転回となるゆえ、第2回と第3回の周旋は逆時計回りに90度転回する[呉]の字源に合致する。第4回周旋は第1回周旋と同じく[禾]の字源と同じ時計回りの転回となる。
このように、出産児の縦(経・たて)長の頭蓋骨は横(緯・よこ)長の骨盤入口にあわせて転回し、その後は経長(たてなが)の骨盤入口へ経長の児頭が入って下降が進んでいく。ゆえに、倉頡は「分娩時における出産児の頭蓋骨が重ね合わせる4回の周旋」にもとづいて[禾]と[呉]の字を作って「緯度が時計回りまた逆時計回りに90度転回して経度のごとく経(縦/たて)に化(な)る規定」をあらわしたのである。
(注 産婦人科では出産児の「頭蓋骨の転回」を「回旋(かいせん)」と表現する。しかし、『魏志倭人伝』は後半部に登場する「倭の地を参問するに、(中略)、周旋五千余里可(ばか)り」という記事をもって、「出産児の頭蓋骨の転回」を「周旋」と書き記す。ゆえに、産婦人科の用語の「回旋」を、私は「周旋」と表記することにした。)
◆このブログの初頭部において指摘したように――新井白石が死去した13年後の1738年(元文13)11月19日に115代桜町天皇の即位式でおこなわれた大嘗会(だいじょうえ/大嘗祭)は「白石が唱えた邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明した皇室最大の神事であった。言いかえると大嘗会は「『魏志倭人伝』に記述された【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】」をあらわす皇室最大の神事」であった。
したがって、令和元年11月14日におこなわれた、日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭もまた「白石の邪馬台国説と同じ九州説と畿内説は【誤読の空理空論】である。『魏志倭人伝』は、【倉頡が発明した漢字作成理論】を卑弥呼王朝は政権基盤としたと説明する歴史書であった」と伝える皇室最大の神事であったのである。
大嘗会は「(1)邪馬台国説は誤読の空理空論である。(2)『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する歴史書である」と伝える神事であった――この事実は何人にも否定できない【科学】が成立する真実である。
◆下に、前掲した〔[文]と[字]の字源銀河と金文形の図〕のおける、[字]の字源銀河図を配した。『説文解字』は[字]の字源を「乳するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は[字]の字源を「女性(母親や乳母)が乳を与えて子ども(乳児)を育てる」と解説する。
上の〔『説文解字』の[字]の「乳するなり」の字源解説図〕における「女性の乳房」は「十字の銀河の子宮と重なる、十字の銀河の乳房に似る銀河」である。
上の図に「乳するなり」と記した「十字の銀河の乳房に似る銀河と鬼の横顔に似る銀河の中間の3本線の銀河」は「子どもが飲む乳液」に見立てられることになる。
下に、〔「大嘗会」の[大]と[嘗]の字源となった銀河図〕を配した。
上の〔「大嘗会」の[大]と[嘗]の字源銀河解説図〕における、左図に示したように大字形の「十字の銀河」が[大]の字源・字形の原形・原義となった。
上に示した右図は〔『説文解字』の[字]の「乳するなり」の字源銀河図〕と同じである。
したがって、上の右図における「嘗・乳するなり」と記した銀河部が「鬼の横顔に似る銀河の口・唇・舌が嘗める箇所」となって、[嘗]の字源となる。
[字]と[大][嘗]の字源銀河は、前掲した〔[禾][委][倭]の字源銀河図〕とも合致する。
また、[大]の字源「十字の銀河」は[文]の字源である。
したがって、【倉頡が発明した漢字作成原理の[文]と[字]】は「大嘗祭・大嘗会」の語源であったことになる。さらに、[字]と[大][嘗]の字源銀河は、上記したように[禾][委][倭]の字源銀河図とも合致する。ゆえに、[大][嘗]の字源銀河は【倉頡が発明した漢字作成方法の基本字[禾]の字源・字形の原形・原義】をもあらわしていることになる。
だから、[大]と[嘗]の両字から成る大嘗祭は「黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究をあらわす文字を、倉頡は夏の銀河の各部の形状から作成する理論を発明した。この秘密は『魏志倭人伝』に詳細に記述されている」と表明する神事であったことになる。
以上のごとく、このブログの初頭で指摘したように、新井白石の死から13年後の1738年に本格的に復興された桜町天皇の大嘗祭から令和までの大嘗祭は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する歴史書であった。新井白石がとなえた邪馬台国説と同じ九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と1ヵ所も合致しない、完全なる【誤読の空理空論】である」と表明する皇室最大の神事であったことになる。
次回は、【[亠(とう)]の字源、つまり[玄]のキャッチ(天頂緯度線と子午線のキャッチ)】に注目すれば――学者たちやメディアが熱中する邪馬台国説九州説と邪馬台国畿内説は【科学】はまったく成立しない空理空論であることが簡単明瞭に証明される事実を解説することにする。
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