歴史

2022年6月28日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説はすべてウソなんだ!
 女王国名は「邪馬壱国」が真実なんだ!
 「邪馬壱国」は出雲地方であったのだ!

 だから 邪馬台国説は すべて真っ赤なウソだ!
 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 バカにされるな コケにされるな 日本国民ョ!
 もう十分に ダマされた
 ――邪馬台国説が真っ赤なウソと断定できる遺跡を
 前人たちが作って 現在まで残っている!
 だから 学者たちの真っ赤なウソにあやつられるな!
 バカにされるな コケにされるな 
 デクのボウになるな 愛しき日本国民ョ!
 邪馬台国説は日本人をぶっ壊す最も卑劣なデタラメだ
 邪馬台国説は日本国をぶっ壊す最悪の疫病神なんだ

◆学者たちが「約1700年前、倭女王の卑弥呼が住んでいた地所は〔邪馬台国〕であった」と伝える書物は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。というのも、3世紀後半に生存した中国の晋(しん)につかえていた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』の「魏書東夷伝末尾にある倭人伝」は通称『魏志倭人伝』とよばれることになったからである。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』は残っていないが――現存する12世紀の刊本(かんぽん)の『魏志倭人伝』には「倭女王(卑弥呼)が居住した都であった地所は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。だから、学者たちはじめ学界も認めてマスメディアがヤタラに力説する「邪馬台国」は【誤読の、空想の産物】、真っ赤なウソだったのである。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと信用してはならない」という固い信念のもとに邪馬台国説を主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』の全記事は正しく、真実であったのである。
 だから、当然、卑弥呼は「邪馬壱国」に住んでいたことになる。
 というのも、邪馬台国説の論法に疑問を抱き、「『魏志倭人伝』の全記事は正しいのではないか。だから、卑弥呼が住んだ都の名は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しく真実であったと【科学】が証明されることになるからである。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来300年間も学界の伝統となった邪馬台国説は「九州に邪馬台国があった」、「邪馬台国は畿内にあった」と論争をつづけるが、両説は矛盾点・不合理・不正・非理などが発生していっこうに【科学】が成立しないために決着することができない。それというのも「邪馬壱国」と記してあるものを「邪馬台国であった」と誤読して、さらに「『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて立論する方法が正しい」と言い張る邪馬台国説は最初から空想の産物、真っ赤なウソだったからである。

◆「わが国が中国から漢字を最初に習得(しゅうとく)したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、わが国の学界が「絶対的に正しい」とされる定説である。
 しかし、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「倭国には、中国で用いられる楷書(かいしょ)で構成される語と同義になるように変換することができる上古漢字があった」と証言する記事が2か所ある。
 「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初に登場する記事は「倭国では、挙事(きょじ/祭りはじめ何か事をおこすとき)、行来(こうらい/遠くの地へ旅して帰還するとき)、云為(うんい/神に雨ごいや子どもの誕生などの願いごとを云って祈るとき)、骨を灼()いて卜するが、まず吉凶を占う目的は〔挙事、行来、云為〕のいずれなのかを告げる。その卜辞(ぼくじ/占いに用いる言葉と文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字であった」と説明している。
 もう一つの記事は「倭国の王が使節を派遣して魏都や帯方郡(朝鮮半島のソウル市周辺にあった魏の出張政庁があった郡の名)や諸韓国に到着したときの倭国の国書、あるいは帯方郡に倭国に使節を派遣したときの文書において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では捜露(そうろ/一字一字ずつ点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換)して、女王の卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように務めていた」と説明している。だから、わが国の学界が「絶対的に正しい」と信じる「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、日本人の常識となる定説の実体は【『魏志倭人伝』を誤読した空理空論】であったことになる。

 「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったのである。
 『魏志倭人伝』が「令亀法」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」であった「上古漢字」は「銀河文字」であったのである。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された「倭国の上古漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状」であった。この上古漢字は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになった。というのも、上古漢字・銀河文字は王政(王道政治)の権力基盤であったからである。ゆえに、上古の銀河文字は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。倭国で用いられていた銀河文字は、現在における世界や国家を破壊する「核」のごとき絶大な威力があった。ゆえに、倭の卜辞に用いられた上古の銀河文字は、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑となると厳重に定められていたのである。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、上古漢字・銀河文字は後漢時代後半の1世紀ごろに出現した「楷書(かいしょ)を音符(字音記号)」に用いていた。
 楷書も「漢字」とよばれるゆえ、楷書の字源・字形の原形・原義は卑弥呼が用いていた上古漢字と同じく「銀河各部の形状」であった。だから、伊都国の役人たちは港から見える・水平線から昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書における相違点を研究して、上古の銀河文字と楷書の変換における差錯(誤訳)による失敗で国交に支障が生じないように努めていたのである。
 〔注 たとえば倭の銀河文字の[]の字義は「地図の形となる海岸線」を意味した。中国の楷書の[]の字義は「身分が賤(いや)しい」であった。「賤しい」の[][]に「淺()い」の右側の[]が加わる字であるゆえ「貝が採れる海の淺い地域、つまり海岸線」となる。だから、楷書の[]の字義は銀河文字の字源・字義を失った転義であったことになる〕。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は銀河文字を発明した。だから、漢字は倉頡によって発明された。いまだ書いた文字史料が出土しない倉頡文字は銀河各部が字源・字形・字義となる銀河文字だったのである。
 倉頡は銀河文字が反体制側の人々が習得したならば容易に黄帝王朝は崩壊するということに気づいて、「文字は銀河から作られたと暴露する人物はじめその一族全員を死刑にする」、「書いた文字が用済みになったならば、ただちに消さない人物とその一族、また消し忘れた人物とその一族全員を死刑にする」という厳重な掟を定めた。だから、中国において倉頡文字を書いた史料は出土しないことになった。
 このような倉頡が発明した銀河文字がわが国に伝来して習得されていたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』の大半の記事は「現在まったく不明となった、倉頡が発明した銀河文字の秘密」を科学的に解明できる重大な歴史史料であったことになる。
 ところが、現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
 でも、もしも新井白石以後の学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方をしていたならば、「倉頡伝説は真実を伝えていた」と逆転していたことになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は「紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ところが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は、中国の現存する最古の上古音の漢字音よりも断然(だんぜん)新しい。このように、〔現在の学界の、漢字習得の定説〕は白川静著『字統』における〔わが国の漢字音〕における指摘に反して不合理となって【科学】が成立しない。
 いっぽう、『魏志倭人伝』の「倭国には楷書と差錯する令亀法(れいきのほう/甲骨文字)のごときの上古漢字・銀河文字があった」と説明する2ヵ所の記事は、白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕の指摘に合致して真実を伝えていたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく上古漢字の漢字音が随所に記載されている。だから、【『古事記』上巻に記載される〔音〕という注がつく文字】は、白川静著『字統』が「現存する中国の最古の上古音よりも古い」と指摘する、【わが国の国語に残っている現存する最古の漢字音】であったことになる。
 漢字を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば、ただちに消さない者、消し忘れた者、またその者の一族全員は神罰が下されて死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めたが、「〔音(字音)〕だけは消滅しなくてもよい」と禁止しなかった。ゆえに、『古事記』上巻に多数記載された文字は楷書を〔音〕をあらわす記号に用いているが、この『古事記』上巻に記載された上古漢字・銀河文字の【字源・字形・字義】は【銀河各部の形状】であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』が「倭国の卑弥呼が用いていた」と伝えている銀河文字は、中国では五帝時代・夏后(かこう)時代・殷代前半に用いられていたことになる。

 現在、学界では今から約3300年前から出現する甲骨文字を「漢字の最も古い祖型」と定める。しかし、倉頡伝説が伝えているように、今から約5000年前に倉頡が漢字を発明していたゆえ、「甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と断定する定説は根本的に間違っていたことになる。
 「漢字の最も古い祖型」は「銀河各部の形状を字源・字形・字義」とする上古漢字・銀河文字であり、『魏志倭人伝』は2か所の記事で「漢字の最も古い祖型の銀河文字」について説明している。
 殷代後半の甲骨文字は総字数が4000字を越えた。このため、「書いた文字は用済みになっても消さなくてよい。しかし、文字は銀河から作られたと容易にわかるように暴露した人物とその一族はただちに死刑にする」と厳重に定めた。だから、この「文字は銀河から作られたと絶対に暴露してはならない」という掟のために、現在の学者たちは「漢字は銀河(銀漢)から作られた事実」に気づかない。

◆上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく銀河文字は、中国において「上古音」と名づけられた最古の漢字音となる周代初頭より以前の殷代、夏代(かだい/夏后時代)、五帝時代のいずれかの時代にわが国に伝来して習得されたことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』成立(712)より10年前の702年、中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記事がある。この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになる。
 つまり、「後稍夏音を習う」という言は「672年の壬申の乱から9年後の681317日、天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀および上古の諸事を記定』させました。このとき、天武天皇は『夏音』を稍々習う(復興する)ことにせよと命じました」と意味するものであったことになる。
 だから、第7回遣唐使が告げた「夏音」という語は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭に伝来して、わが国が習得した夏音文字」を意味したことになる。というのも、『魏志倭人伝』に記される「大夫(だいふ)」という語の語源は「夏代初頭に、中国から名門・益(えき)氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を横断して日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学問を広めた」とあらわすものであったからである。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050前の周代初頭の中国の上古音よりも約1000年も古いことになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国の学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるは6世紀である」という主張に唯々諾々(いいだくだく)と従う定説は、()『魏志倭人伝』の「倭国には令亀(れいき)の法のごとき上古漢字があった」と伝える二つの記事と、()太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)でテーマにして詳細に記述した夏音文字の説明と、()音韻学の研究成果の三つの確かな史料を無視して排除する、【科学】に反する空理空論であったのである。
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◆上記した681317日において「後稍夏音を習う」つまり「夏音文字を稍々復興する」ことにした天武天皇の「帝紀および上古の諸事の記定の命令」は、後年(720年正月28)に元明天皇に献上したが拒絶されて正史になれなかった書物『古事記』という書名になった。つまり、天武天皇の命令「上古の諸事の記定」における[][][]の3字を抜粋すると『古事記』という書名になる。その証拠に、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて夏音文字が記載されている。たとえば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所は、総字数381字で構成されそのうち〔音〕という注がつく夏音文字は計32字である。ゆえに、総字数381字中の夏音文字の32字は「稍(やや)」ということになる。『古事記』上巻における各説話は、〔音〕という注がつく夏音文字を稍々(やや)記載して作られている。ゆえに、遣唐使が「後稍夏音を習う」と表現した「天武天皇の世で実現しなかった歴史書編纂事業における夏音文字の復興命令」は『古事記』上巻で実現されたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字は――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音である。

 「『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と表記されている。
 「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
 上記のフリガナつきの文章だと見た目の印象が煩雑(はんざつ)になって、むしろ文意が混沌として判然としないと思われるので、下記のごとくフリガナ無しの文章をも示すことにした
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記の「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は「臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇陛下に申し上げます。漢字は銀河から作られました。中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏音文字が伝来して、わが国は五帝時代に用いられた銀河漢字・書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字の学術を習得しました」と説明するものであった。
 だから、【「古事記上巻 并せて序」の冒頭文を構成する34の全漢字の字源・字形・字義】は「【漢字が作られた銀河各部の形状】を観察して芸術的に思考する(つまり、右脳思考する)と正しく訳することができる」と『古事記』上巻における歴史解明方法を説明するものであったことになる。
 要するに、上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字をもって「参神造化の首」つまり「縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に移住した名門益氏の王子と若者たちによって()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字の学芸】と、()【五帝時代の最後の舜帝(しゅんてい)時代初頭から末までの約200250年間、代々、益氏がその官職を受け継いで完成させた正確な中国の海岸線地図(つまり、[]の字源の「海岸線地図」)と正確な地図作製方法】が伝来した。前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った造形芸術)の前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年に及ぶ芸術の参神(つまり、前期縄文・中期縄文・後期縄文時代初頭までの参時代の芸術の神)の伝統によって、中国の学問とわが国の芸術はともに同じ銀河範囲の各部の形状を観察して作成し成立するものであったため、益氏がもたらした学問と芸術の教えはわが日本列島の土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、太安万侶が説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、その使()中国に詣(いた)るに、皆大夫(だいふ)と称す。夏后少康(しょうこう)の子云々(うんうん)。」という記事がある。
 この記事の末部の「夏后少康の子」というのは「夏王朝の4代目の皇帝・少康の王子」と意味する。ゆえに、倭の使節が皆(みな)、中国に到着すると「大夫」と名乗ったのは「夏王朝の始祖の帝禹()の後をついで帝となった益の孫の王子や若者たちのごとく、荒海逆巻(あらなみさかま)く玄界灘を渡って中国に到着した」と誇示する、「吾は神に祝福された男だ 英雄だ」とあらわす語であったのである。
 万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日、「ますらを」は「益荒男」と表記する。ゆえに、「益荒男」は「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男(おのこ)だ」という意味を略して成立した語であったのである。
 益氏は五帝時代の四番目の帝尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する重職」に任命されて、代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の帝禹の遺言で帝位についた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは玄界灘を渡って日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭には「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」は「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下には[]の字が配せられる。

◆前述したように、「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれることになった。
 漢字の発明を伝える伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。漢字作成理論は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡によって発明された。
 倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝える。これゆえ、学者たちは「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と倉頡伝説を全面的に否定する。学者たちは――漢字は中国の民族の結晶であり、長い歴史のなかで発展してしだいに体系を整えてきたものであると考えるべきであると主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』は――漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた。また、中国の夏代初頭に名門益氏の王子・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を教えひろめた――と伝えている。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記載される【倭国の対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】によって、上記した【漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた歴史】が【科学】が成立して証明される。
 だから、『魏志倭人伝』に記載される【対馬国から狗奴国までの30の小国名は倉頡伝説が真実を伝えていると証明することができる【科学】が成立する確かな証拠であるゆえ――学者たちの「倉頡伝説は荒唐無稽のウソである」という主張は荒唐無稽の空想であったことが決定的となる。
 〔注 なお、邪馬壱国の東の海上にある名称不明の小国と、侏儒国(しゅじゅこく)・裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)という4か国は、わが国に益氏の王子と若者たちが夏代初頭に移住して漢字(銀河文字)が伝来した状況を説明している歴史史料となる。〕

 要するに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」の名称であった。「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」は「出産児の顔の形」に相似する。その「出産児の顔となる銀河部には両目、出産児の頭となる銀河部の後頭部に「目の形」にソックリの銀河部位があり、出産児の顔のアゴ()には「細い切れ長の目」の銀河部位がある。ゆえに、「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」には「目の形に相似する箇所が四つある」ゆえ、「漢字作成理論」は「四つ目」と表現され、「漢字作成理論を発明した倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれることになったのである。
 倭女王の卑弥呼は「四つ目の銀河における横顔において、目の形がある後頭部とアゴに隣接する西側の銀河部位」を「邪馬(やま)」と名づけた。この「邪馬」は「出産児が産道を通過する頭蓋骨」をあらわし、[()]の字源銀河は「母体の子宮に相当する銀河」であったゆえ、卑弥呼は倭国の首都が所在する地所を「邪馬壱国」と名づけたのである。
 したがって、女王国名となった「邪馬壱」は「四つ目の怪人倉頡」と名づけられた秘密の銀河部と【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を文字作成目的とした倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。

◆「四つ目の怪人倉頡の銀河部」は「漢字」の[]の字源部の中枢部である。
 「全漢字が作られた銀河の範囲」は、天文学では通称「夏の銀河」とよばれる。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。「夏の銀河」は「夏の星座がすべて漬()かる銀河」の通称である。
 「夏の銀河」は「はくちょう座の尾の部分(東の端)からさそり座の頭部(西の端)までの、壮麗で明瞭で巨大な銀河」である。
 「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」とよばれる銀河もあるが、「夏の銀河」は「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河よりも壮麗で、もっとも形がはっきりしていて、もっとも巨大である」。
 ゆえに、「テレビの画面に映し出される銀河」の大半は「夏の銀河」であり、「夏の銀河」は「銀河」・「銀漢」の代名詞である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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 漢字作成理論を発明した倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。また、現在のロシアのプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・乱暴・冷酷・強欲・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して反乱をおこして帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと深刻に心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 上記の【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は〔音(字音)〕が存在したが、文字を書いた史料は出土しないことになった。殷代後半の甲骨文字は4000字を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことにしたので、文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
 そして、上記の【2】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「字源が解明できる・夏の銀河各部の名称」を定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に秘められた【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文の学芸の秘密】を解明するためには、「夏の銀河の各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河の名称」を定めた。
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◆以上のごとく、【A】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」にて、『魏志倭人伝』は「女王卑弥呼が倭国の都と定めた地所の名は邪馬台国と書いてある」と主張して、「邪馬台国は九州であった」または「邪馬台国は畿内であった」と主張する学者たちの意見は【100パーセント誤読の産物】であったのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す。だから、女王国名は「邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 というのも、「女王国名は邪馬壱国であった」と考えて、さらに「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と定めて1ヵ所も【誤読】を加えない論法にすると、『魏志倭人伝』の全記事は矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して「邪馬壱国は山陰の出雲地方であった」ことになる。だから、「女王国名は邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 このように卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住してことになり、卑弥呼は九州にも大和・畿内にも邪馬台国にも住んでいなかったことになるゆえ、邪馬台国説は「雲をつかむような真っ赤なウソ」であったことになる。また、国名の「邪馬壱」は前述したように【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞】であると証明される。このように、「卑弥呼が住んだ地所は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明されて【科学】が成立して論理が完結(かんけつ)する。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国説の実体はまぎれもなく100パーセントの空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

 【B】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」では「邪馬台国説は完全に空理空論である」と【科学】を用いて立証した。
 学者たちは女王国の所在地について【「天の北極」がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて考える。ゆえに、この論法だと「天の北極の高度を緯度に換算する方法」で、倭の使節と船乗りたちは魏と国交を結ぶために玄界灘を往来したことになる。しかし、この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で科学的視点にもとづいて証明したように――倭の使節と船乗りは海上の位置と方角を精確に測定できなかったゆえ、倭の使節と船乗りたちは玄界灘はじめその先の大海を渡れず朝鮮半島に到着することが出来ずに全員死んでいたことになる。
 したがって、倭の使節は玄界灘を渡ることもまた往来することができなかったことが事実となると――『魏志倭人伝』には「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も、ましてや『魏志倭人伝』を構成する約2000字もすべて忽然(こつぜん)と消滅して、『魏志倭人伝』には1字も書かれていなかった真っ白な白紙であったことになる。
 だから、邪馬台国説の実体は「【科学】に反する、完全なる空理空論、空想、デタラメであった」ことが簡単明瞭に証明される。
 科学的視点に立って考えると――倭の使節は「原始のときから人類が精確に1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた【天頂にある緯度線と子午線をキャッチする方法】」をもって玄界灘を渡って魏と国交を結んで、無事に帰還していたことが明白となる。
 下に、倭の使節が往来した海の名「玄界灘」のうちの先頭字[]の字源解説図を配した。
 下図の左側の上部は、[(とう)]の字形解説図である。[]の字形は【天頂にある緯度線と子午線の図案】である。[]の下の[(よう)]の字源は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、[]の字形は「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する胎児の図案」である。
 結局、[][]を加える[]の字は「大海を往来するとき、胎児()のごとく無欲になって[]の字源【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチすれば、命(いのち)を手に入れることができるという、大海を往来するときの心得」をあらわした。
 だから、魏と国交を結ぶために倭の使節が往来した陸地から遠く離れた波の荒い大海が「玄界灘」と名づけられた秘密は――[]の字源「産道を通過する胎児のごとく無欲」になって、[]の字源「天頂にある緯度線と子午線をキャッチ」すれば死なずに往来できたゆえ――倭の使節が往来した九州の沖の大海は「玄界灘」と名づけられたのである。
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 【C】このブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で解説したように、『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があったと伝える二つの記事」は真実であった。
 『魏志倭人伝』の2ヵ所の記事が「倭には上古漢字が存在した」と伝える、この上古漢字は「夏音文字」であった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。わが国が習得した夏音文字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を保存していた。
 上記したように、今から約4000年前、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国には中国から夏音文字が伝来して習得されたのである。
 だから、わが国の考古学の見解に従って「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【科学】に反する空想であったのである。
 漢字は【字源・字形・字義・字音】の4つの要素で構成される。前述したとおり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状】であった。そして、倉頡は「口から発する言(ことば)となる字音はあらわすことができる」と定めたゆえ、『魏志倭人伝』には卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて残った。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名は()夏音文字の字音(をあらわす楷書)()後漢時代後半から出現した楷書の字音が混じりあう状況となっているゆえ、人名・小国名・官職名をすべて楷書の字音で読めば「『魏志倭人伝』には夏音文字が記載されて残っていない」と主張することができる。しかし、『古事記』の上巻には〔音〕という注がつき、楷書を字音の音符に用いて多数夏音文字が記載されている。だから、『古事記』上巻にもとづいて『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名にも夏音文字の字音は用いられて幾つか残っていると主張することができる。

 以上のごとく、【邪馬台国説が100パーセント空理空論・虚妄(きょもう/デタラメ)であること】は、上記した【A】【B】【C】の3点によっていとも簡単に証明される。
 【A】のごとく「女王国名は『魏志倭人伝』のとおり邪馬壱国であった」と考えると、「邪馬壱」という3字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器、の研究を作成目的として倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞」であったことが解明できる。また、【B】科学的視点に立って【魏と国交を結んだ倭の使節はどのように緯度を精確に測定して玄界灘を往来したのか】と考えると、【学者たち全員が主張する・現在の日本列島地図にもとづくの考え方では、倭の使節は玄界灘を往来できなかったこと】になる。また、【C】『魏志倭人伝』にある「2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に、わが国にはすでに漢字が伝来していた」と説明する二つの記事によって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論であったことになる。
 以上、邪馬台国説論者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しくない」という主張に反して、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない全記事が正しい歴史史料であったことになる。
 この結果、『魏志倭人伝』に記述された真実は日本国の根本的な成り立ちや現在生きているわれわれ日本人の思想や行動と密接な関係をもつということが明らかになる。
 だから、学界やマスメディアの「邪馬台国説はもっとも正しい意見である」とする無責任な意見の言うとおりになってデタラメ・真っ赤なウソの邪馬台国説を破棄せずに放置していることは日本国が壊され、日本人の生活における最も大事なものを失って日本人が壊される――ということに、日本人は気づかねばならないことになる。

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2022年6月24日 (金)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は完全に空想である
 すべての真実を何もかもぶっこわすウソだ
 邪馬台国説にはダマされるな
 邪馬台国説は徹底的に無視せよ
 日本国民はすっかりダマされている
 邪馬台国説にバカにされるな
 日本国民をコケにされている
 邪馬台国説は学者たちのタワゴトなのだ
 日本が日本である真実をぶっこわすフェイクだ
 日本人が日本人である真実をぶっこわすウソだ
 その証拠に 「邪馬台国説は空想だ」と完全証明できる遺跡が現存する

◆このブログは前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」に続いて、邪馬台国説が【空想の産物】である事実を証明できる、学者たちが徹底的に無視して偽(いつわ)る問題点を暴くことにした。
 今回は、前回に増して【邪馬台国説が完全な空想であったという事実】が簡単明瞭となる。
 邪馬台国説は【誤読の、空想】であることは誰にも否定できない明白なる事実である。
 というのも、【邪馬台国説が簡単明瞭に、完全なる空想であると断定できる遺跡】が現存するからである!

 倭女王の卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦180年頃から250年頃のわが国の様子を説明する確かな歴史史料であった。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。通称『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国(やまたいこく)であった」と断定する。しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、前回のグログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように、わが国の学界はじめ学者たちが「邪馬壱国」と記しているにもかかわらず「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」とウソをつく邪馬台国説は、日本国民をダマしてコケにし、愚弄(ぐろう)する完全なる【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 ためしに邪馬台国説の考え方を全部否定して、真っ先に「邪馬壱国」は「邪馬壱国」と読むことから始めて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみると――さまざまな疑問が生ずるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決することができる。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しいことになり、「卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」ことになる。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる証拠・理由はいくつかの遺跡・遺物のほか、さまざまな日本文化や風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは『魏志倭人伝』が歴史史料としての重大性に気づいて、「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と後世に警告(けいこく)したのである。
 特に注目すべきは、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように――1725年に死去した新井白石が立論した【空想の産物】の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を知って「日本国が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる! わが国において上古に存在した音文字(上古漢字)が消滅する!」と激しいショックを受けた皇室は、白石の死から13年後の1738年の第115代桜町(さくらまち)天皇の即位で本格的に大嘗祭(だいじょうさい)を復興することにした。
 だから、2019(令和元年)1114日の午後6時から開始された、全国のテレビ画面に映し出されて日本国民が目撃した今上陛下の大嘗祭における様子は「邪馬台国説は空想なり」と日本国民に警告する学問儀式であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」、つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、「白石以来300年間も受け継がれている邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空想・デタラメとなる」、このいたって簡単な絶対的な仕組み・原理を、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説をとなえる学者たちはじめわが国の学界やマスメディアはまったく理解できない。
 その証拠に、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない。信用できる記事はどのように考え方をしたならば信用できるのかと考えなければならない」と主張する。このため、【誤読】が【誤読】を生み、【空想】はさらに深く【空想】へとおちいり、【科学】がいっこうに成立せず論争は果てしなく続いて決着しない。
 「邪馬壱国」を「邪馬壱国」と読んで、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加えないという立論方法を確立すれば――『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する真実となる。だから、1ヵ所も【誤読】が加えない邪馬壱国説のみが唯一真実の意見となる。この邪馬壱国説に反して、仰山(ぎょうさん)な【誤読】を加えてもいっこうに【科学】が成立しない邪馬台国説はまぎれもなく【空想】であったのである。
 邪馬台国説は【仰山な誤読を加えた空想】であったゆえ、新井白石以来300年たっても論争を決着することができないのである。

◆このブログでは、邪馬台国説は【空想】であった事実が前回のブログよりさらに簡単明瞭に決定的にわかる秘密について解説する。
 このブログでは――邪馬台国説の考え方だと、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はすべて粉砕消滅して1字も書かれていなかったことになる。2000字の『魏志倭人伝』が一気に1字も書かれていない事態となる邪馬台国説は明らかにウソ・フェイク・空想・デタラメということになる問題点――をテーマとする。

 邪馬台国説論者たち全員と学界は現在の日本列島地図を立論基盤にして「九州は本州の西端に所在し、東海地方と北陸地方は九州の東方に在る」と考える。
 しかし、『魏志倭人伝』は「九州は本州における〔北〕に所在し、東海地方と北陸地方は九州の〔南〕に在る。つまり、卑弥呼王朝は本州地理について時計回りに90度方位は転回して〔東〕は〔南〕となると定める転回本州列島地理を制定していた」と記述する。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始のときから生命をまもって生活した方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。だから、九州以下の本州日本列島地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、現在の本州において〔西〕にある九州は〔北〕、本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本州列島地理の方位規定を定理していたのである。
 だから、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の正体は『魏志倭人伝』にある方位記事に多数の【誤読】を加えて立論する【空想の産物】であったのである。

 だいいち、邪馬台国説のごとく現在の日本地図にもとづいて「〔天の北極がある方角〕が〔北〕」と断定すると、【原始のときから人は緯度を精確に測定できなかったこと】になるため、大海で囲まれる日本列島はヒトが一人も居住していない無人島であったことになる。日本列島には人が一人も住んでいなかったことになると、「邪馬台国」とよばれる地所も存在しないことになり、「卑弥呼」とよばれた倭女王も住んでいなかったことになり、さらにもちろん約2000字で構成される『魏志倭人伝』には1字も存在しない白紙であったという結論になるゆえ、邪馬台国説は「完全なる空想!」とただちに断定できる。
 だから人類は【緯度を精確に測定できる眼力と本能】をもって大海に囲まれる日本列島に渡来して居住した。ゆえに、【原始のときから、人が緯度を精確にできるは方法(眼力と本能)】と【胎児の頭が骨盤入口を通りぬけて、頭が出産するまでの医学の様子】を合体する【学術】にもとづいて――『魏志倭人伝』は倭人国を構成した対馬国(つしまこく)から黒歯国(こくしこく)までの33ヵの国名に用いられる文字(ただし、1国は国名が記述されていない)をもって「本州の〔東〕は〔南〕に伸びている」と説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)まで、倭人国(わが国)の使節は帯方郡(たいほうぐん/魏の出張機関政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)・魏都・洛陽(らくよう)に到着して魏と国交を結んだ様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡の東南にある大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 倭人国の使節は九州の港から出帆(しゅっぱん)して玄界灘を渡って帯方郡に至り、さらに魏都に到着し、任務が終わって帰路についたときにも玄界灘を渡って倭国に帰還した。
 したがって、魏は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や、倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた国書(文書)に書かれた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。この倭国に関する資料は魏王朝から晋王朝へと受け継がれて、晋王朝で秘蔵されていた倭国の資料を閲覧(えつらん)した歴史編纂官の陳寿が『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕に書き写したゆえに、『魏志倭人伝』が現存することになったのである。
 だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば魏は倭国の様子をまったく知ることができなかったことになるゆえ――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 したがって、1字も書かれていない白紙の『魏志倭人伝』には、前述したように「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も存在せず、また『魏志倭人伝』の約2000字もパッと真っ白な煙となって1字も残らずにすべて消滅してこの世にまったく存在しなかったことになる。
 これゆえ、「い」のいちばん・真っ先に〔倭国の使節と船乗りたちは【玄界灘を往来できた方法】〕を有していたと考えるべきことになる。いいかえると、〔倭国の使節・船乗りたちが【玄界灘を往来できた科学の秘密】を解明して始めて、「『魏志倭人伝』はこの世に実際に存在する歴史書であった」と証明することができる。
 ところが、前述したように、邪馬台国説学者たちのごとく【現在の日本列島地図と同じく、〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める方法】で考えると、〔倭国の使節・船乗りたちは【玄界灘を往来できなかったこと】〕になる。
 だから、『魏志倭人伝』に「本州の〔西〕にある九州は〔北〕に在った。本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕にあった」と伝える〔転回本州列島地理〕は、【原始のときから人類が大海に囲まれる日本列島に住み着いた方法】をもって考えられていたことになる。この【科学的事実】は『魏志倭人伝』研究において真っ先・最初に必ず解明しなければならい事項となる。

◆倭国の使節と船乗りたちは〔原始からの人類の慣習と伝統〕にもとづいて、〔【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定して(1度の60分の1の1分以内の精度で緯度を測定できる方法で緯度を測定して)〕、玄界灘を往来していた。
 上記した【天頂緯度線のキャッチ】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図において〔西〕に在る九州は〔北〕に位置し、現在の日本地図において〔東〕に在る東海地方や北陸地方(愛知県・静岡県や石川県・富山県)は〔南〕に位置するという、転回地理・方位規定を考えていたのである。
 だから、倭人国の使節は断じて〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘を往来しなかったことになる。

◆上記したように、学者たちは全員「卑弥呼王朝は、現在の日本地図と同じく北極星や天の北極がある方向を〔北〕と定める本州地理を考えていた」と断定する。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。
 ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には【90分の直径の円を描く〔北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力】がそなわっていなかった。
 だから、すべての時代において、〔天の北極〕では精確に緯度が測定できなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように【〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかった】ゆえ、卑弥呼時代における【1200分の円周の直径の中心・緯度となる〔天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力】は、人類にはそなわっていなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 だから、学者たち全員の視座(しざ)は【科学】にまったく反している。

◆卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)より以前――そのすべての時代において、精確に緯度を測定する手段は【天頂緯度線をキャッチする方法】であった。
 ゆえに、【天頂緯度線をキャッチすると、精確に緯度が測定できる事実】にもとづき、現在の日本列島地図における経緯度原点は旧東京天文台の子午儀の中心の緯度(北緯3539175148秒/東京都港区麻布板倉3-18)である。
 (注 旧東京天文台の子午儀の経度は東経13944405020秒である。
 だから、倭国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。この【天頂緯度線のキャッチする方法】は、原始のときから人類が精確に緯度を測量していた習慣と伝統によるものであった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「原始以来、人類が【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度を測定していた方法】に則(のっと)って、卑弥呼王朝は九州以下の本州地理を時計回りに90度転回すると定めていた」と伝えていたことになる。

 下図に〔漢字[](とう)の字源・字形解説図〕を配した。
 下図が示すように[]は「天頂緯度線と子午線」から構成される。
 これゆえ注目すべきは、現在の日本列島地図における経緯度原点となる旧東京天文台の子午儀の中心は下図の[]の字源・字形「天頂緯度線と子午線」を表示していることになる。したがって、「旧東京天文台の子午儀の中心」は[]の字源・字形・字義をあらわしている。
 だから、「旧東京天文台の子午儀の中心」は「倭国の使節と船乗りたちは【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して玄界灘を往来していた」とあらわしている。
000031_20220624105801
◆下の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 下図の右上に、漢字[(とう)]を配した。
0000157_20220624105901  
 「天頂緯度線」イコール「観測者が居る観測地点の緯度」である。だから、【天頂緯度線のキャッチ(測定)】は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味した。
 原始のときから、ヒトの脳には、【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、ヒトは【天頂緯度線をキャッチする訓練】を励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、【天頂緯度線(つまり、精確に緯度)をキャッチ】してたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ、わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代(後期弥生時代後半)の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な眼力)をもって【天頂緯度線をキャッチすること】ができた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定めた」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であったのである。
 というのも、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ】して〈いのち・命〉を原始のときからまもってきたからである。

[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
K102_20220624110001
 [] の下につく[]の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。
 だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、中国で漢字が発明された太古以来卑弥呼時代までの学(学問)において「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわしていると考えられていたことになる。というのも、幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できたからである。
 (注 分娩室における妻の出産の様子を立ち会った夫は、上記した――幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できる)。
 ゆえに、[亠]の字源は「倭人国の使節は〔天頂にある緯度線と子午線〕をキャッチして玄界灘を往来していた」と伝え、[幺]の字源「骨盤入口から膣口までの産道を通過する胎児の頭の様子」は「天頂緯度線のキャッチを成功させる心得」をあらわしていた。ゆえに、[亠]に[幺]が加わる[玄]の字は「九州から遠く離れる灘(波が荒い)となる大海」が「玄界灘」と名づけられた由来を伝えていたのである。

 前述したように、[亠]は「天頂緯度線と子午線」で構成される。[幺]の字源は「産道を通過する出産児」である。ゆえに、[亠]と[幺]で構成される[玄]の字は「[亠]、つまり天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力」と「[幺]、つまりせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な【命】のいとなみ」をあらわした。
 人間の目には[亠]の字源【天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力】がそなわっており、この〔眼力〕で人は【命】が確保できた。ゆえに、[亠]の字源「日々の生活にあって【命】を確保できた天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力」と[幺]の字源となった「【命】が成立する、骨盤入口から膣口までのせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な様子」は同一視されて、両者ともに【命】を直接的にあらわすことになったのである。
 したがって、[玄]の字は「ヒトは原始のときから【[亠]・天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして大海を往来し、遠くの地まで旅しても、【命】を失わずに家族が待つ家に帰還できた」とあらわすことになった。
 だから、『古事記』上巻に登場する「王・女王・英雄たちの名の後ろに付けられる尊称」は[命]の字が用いられたのである。 

◆『魏志倭人伝』に登場する倭の使節は「天の北極の高度で緯度を換算する方法」で玄界灘を往来しなかった。「玄界灘」の名の由来が明確に示すように――倭の使節は原始以来の慣習であった[]の字源・字形・字義となった【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして玄界灘を往来した。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や朝鮮半島や中国における各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿(ちんじゅ)はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を定める目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ本州列島地理】を制定しなかった。
 というのも、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになるからである。したがって、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。だから、【「約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は、ただちに空想、空理空論であると断定すべきことになる。
 原始のときから人々は[](天頂にある緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って日本列島に居住したーーこの事実は日本人が知っておくべき真実である。しかし、この事実は、今日の日本人が知らざる真実である。

◆今回のブログは、ここまでの説明で終われば「邪馬台国説が空想である事実」がすっきりと簡単明瞭となる。
 しかし、〔なぜ卑弥呼王朝は、[]の字源「天頂緯度線と子午線」と[]の字源「骨盤入口から膣口までのせまい産道を、頭を回旋(かいせん)しながら誕生する胎児の様子」を一体化する学術を用いて、転回本州列島地理を成立させたのか〕、その具体的な説明がなされていない。
 それゆえ、これから【卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理が成立した原因】について解説する。
 これからおこなう〔転回本州列島地理の成立原因の解説〕によって、新たにいくつかの疑問点が生じるが、これら疑問点はすべていくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。また、いくつかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などによって疑問は解消できる。これらの解説と証明は長大となっていろいろな問題・事柄が錯綜(さくそう)してむしろ難解となるが、これを一気に解決できる『魏志倭人伝』と同時代に製作された「1千万坪の大鳥の形をした地図」が、静岡県浜松市に現存する。
 これから、早速、卑弥呼王朝が制定した〔転回本州列島地理が成立した原因〕について解説する。

◆日本列島の東端には、亜熱帯地区の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する。
 先史時代から、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると石槍(いしやり)と鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼は生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島の黒曜石は関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島から伊豆諸島まで30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から北陸・石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事情について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するものの、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。
 わが国の学者たちは全員〔どのようにして『魏志倭人伝』に登場する倭国の使節を往来できたのか〕、あるいは〔なぜ『魏志倭人伝』はなぜ「本州の〔東〕は〔南〕へ延びている」と説明するのか〕と疑問を抱かない。ゆえに、約3万年前の後期旧石器人たちが〔[](天頂の緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って神津島の黒曜石を入手して家族が待つ家に帰還した交通〕について知っていない。

 現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州列島地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

◆九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
 神津島は約3万年前から良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、日本列島の西端にある沖ノ島は日本列島の東端にある神津島と同緯度であることは、卑弥呼が生存した以前の昔から多くの人々に知られていたのである。
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 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。 
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 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は【原始から受け継がれた[]のキャッチ】を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は九州の南に所在する」と転回本州列島地理を制定したのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理にもとづくと、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は、前回のブログで解説したとおりに「山陰の出雲地方」であったことがいとも簡単にわかる。
 というのも、『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種なり」と記述しているからである。転回本州地理においては、現在の日本地図の〔北〕にある日本海は〔東〕となる。『魏志倭人伝』の「皆倭種なり」という説明は「4つの大きな島と約180の小島で構成される群島」に合致するゆえ、日本海上には「隠岐群島」のみが「邪馬壱国より東の日本海に浮かぶ皆倭種なりの小国」となる。だから、いとも簡単に「卑弥呼が居住していた邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と確信することができる。
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◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく、卑弥呼王朝は〔原始のときからの伝統である()[]の字源(天頂にある緯度線と子午線のキャッチ)の慣習と、()[]の字源「せまい産道を、頭を回旋しながら通過する出産児の様子を注目した医学」が合体する学術に則(のっと)って【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕の合致】に注目して、上図の「転回本州列島地理」を立論していたことになる。

 静岡県西部(旧国の遠江)の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形は、下図に示すがごとく〔1千万坪の大鳥の形〕をしている。この〔1千万坪の大鳥の地図の形〕に、わたくしは別名「卑弥呼の地上絵」、あるいは「建比良鳥(たけひらどり)の地上絵」という別名をつけた。
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 上図の「卑弥呼の地上絵」つまり「1千万坪の大鳥の地図の形」は、3世紀後半(260頃~290年頃)に約30年の年月を費やして、遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)一族が「卑弥呼が立論した転回本州地理と、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を子孫代々失われずに永久保存するために図化した遺跡である。言いかえると、現在まで残った「細江町の1千万坪の大鳥の形をした地図の形」は()『魏志倭人伝』に記述された歴史と、()『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕に記述された【日本国(小国・日本)が起源した歴史】を永久保存するために製作された遺跡である。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は『三国志』は280年~289年に成立したことになる。ゆえに、『三国志』魏書東夷伝倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように浜松市北区細江町の「1千万坪の大鳥の地上絵」は260年頃~290年頃まで約30年間を費やして完成させた地図遺跡であるからして、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』の同時代の3世紀後半に作成されたことになる。
 したがって、「細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、卑弥呼王朝には遠江の豪族・建比良鳥命のように正確な地図を作成する職(官職)につく人物たちが各地方に存在して大勢(おおぜい)参加していたにちがいない。ゆえに、正確な地図を作成する職につく人々による調査・測量によって、上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における倭国の33の小国の地図の形」が明らかになったのである。
 『魏志倭人伝』は「現在の静岡県西部・旧国の遠江は、倭国の一員の不呼国(ふここく)であった」と記す。当時、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を設計して伊耶那美命・壱与(いよ)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する地上絵を製作することを、3世紀後半に天下を統治していた大和王朝は、即刻に死刑すると厳重に禁止していた。しかし、熱血漢・遠江の建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを倫命(りんめい/人間としておこなわなければならない使命)として、大和の崇神(すじん)天皇王朝に歯向かって残した。このため、従来「全記事が正しいことは絶対にありえない」という定説となっていた『魏志倭人伝』の全記事は実は正しかったが証明されることになる。また、「『古事記』上巻の日本神話は虚構(作り物)である」という定説も【誤読の、空想の産物】であったことになり、『古事記』上巻・日本神話は歴史を伝えていた事実が明白となる。

 『魏志倭人伝』の全記事は正しく「卑弥呼王朝は時計回りに90度方位が転回する本州列島地理を制定していた」と伝えていたのである。これゆえ、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)には――天武天皇が672年に上古の歴史書を編纂する詔(みことのり)を指令するときに「邦家(ほうけ)の経緯(けいい)、王化(おおか)の鴻基(こうき)」と述べた――と記す箇所がある。
 「邦家の経緯」は「国家組織の根本」と意味するとされる。上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の解説図」において、沖ノ島と神津島の緯度線(北緯3415)は「経度線」となる。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理では「経度」は「緯度」に変化するゆえ、天武天皇は「国家組織の根本」を「邦家の経緯」と表現したのである。
 天武天皇の「王化の鴻基」という言は「天皇政治の基軸」と訳される。上に示した〔中国の「北冷南暖」と倭の「西冷東暖」の解説図〕における、中国の〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の地図の形〕は〔鳥の両翼の形〕に観える。ゆえに、天武天皇は「転回本州列島地理の基軸」となった「中国海岸線地図の形」を「王化の鴻基」と表現したのである。
 下図が示すように、〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の形〕は〔鳥の両翼の形〕となる。
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 天武天皇が「邦家の経緯、王化の鴻基」と表現した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の秘密」を、遠江の建比良鳥命は「1千万坪の地図の形」を設計した。これゆえ、遠江の建比良鳥命が製作した「卑弥呼の地上絵(細江町の1千万坪の大鳥の地上絵)」は「王化の鴻基」つまり「1千万坪の大鳥()の形」に設計され、また「邦家の経緯」をあらわすため「大鳥の地上絵における緯度線が経度線になるように90度転回すると、中国の海岸線地図の形があらわれる仕掛け」が設けられている。
 したがって、「卑弥呼の地上絵」によって、上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国の範囲(地図)の形〕は事実であったと証明される。
 要するに、『魏志倭人伝』と同時代に製作された「卑弥呼の地上絵」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国名の地図の形の秘密」を簡略的にしかも濃密にコンパクト化した遺跡であった。これゆえ、現存する「細江町の、卑弥呼の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)」によって、新井白石以後から現在までの学者たちによって排除されて不明となった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された上古の学問と歴史の秘密を復興することができる。

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2022年6月19日 (日)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は絶対に信じるな!
 邪馬台国説はすべて空想の産物である!
 邪馬台国説を正しいと思いこむ――わが国の学界の見識は根底から間違っている!
 邪馬台国説が完全なる空想の産物である事実、根拠・理由をこれより解説する

◆「倭女王・卑弥呼(ひみこ)は2世紀末(180年ころ)3世紀半ば(240年ころ)に生存した」と記述する歴史書は『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』である。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国であった」と断定する。
 しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、わが国の学界はじめ学者たちが「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」と断定する意見は【空想の産物】であった!
 陳寿が著作した『三国志』は「魏書」・「呉書」・「蜀書」(65)から成る。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)を著作した。古田氏は著書『「邪馬台国」はなかった』において――南宋紹煕刊本『三国志』全体にある【壹】()86字、【臺】()56字を一字ずつテイネイに調べ、【壹()】の字を【臺()】と誤記する事例が一ヵ所も存在しないことを証明した。
 したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国に居住していた」と記していた。だから、「邪馬台国」は【空想の産物】であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と記していない。にもかかわらず、学界はじめ学者たちは「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と断定するゆえ、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の実体は、当然、【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 しかし、邪馬台国説を主張する学者たちはじめわが国の学界は、邪馬台国九州説と邪馬台国説畿内説が【空想の産物】となる道理をまったく理解することができない。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は【空想】となる――このようないたって簡単明白な仕組み・道理を、邪馬台国説学者たちはじめわが国の学界は思考停止して理解することができない。

◆今から約300年前に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)1725(享保10)69歳で没した。
 晩年の白石は1716(正徳6)60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して〔「邪馬台国は大和(現在の奈良県)であった」という邪馬台国大和説〕を立論した。さらにその後年、白石は著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで〔「邪馬台国は筑後山門(やまと)郡であった」という邪馬台国九州説〕を立論した。
 学者たちは、今から約300年前に立論した新井白石の邪馬台国説が【誤読による、空想の産物】である実体にまったく気づかない。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1字も【誤読】を加えなければ『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する。だから、『魏志倭人伝』の全記事は事実を伝えていたことになる――このような邪馬台国説にとって実に不都合きわまりない真実が存在することを、学者たちは誰一人も気づかない。
 他方、『魏志倭人伝』に「文献批判」と名づける【多数の誤読】を加えて「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と断定する九州説と畿内説は、両説共にいっこうに現在においても【科学】が成立しない。ゆえに、九州説と畿内説は【空想】だったことになる。
 『魏志倭人伝』が記しているとおりに卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと設定すると「邪馬壱国は山陰・出雲地方(現在の島根県と鳥取県西部)であった」ことになり、『魏志倭人伝』には一点も矛盾点も不合理な点も存在しないことになって、全記事の【科学】が成立する。
 だから、新井白石が立論した邪馬台国大和説と邪馬台国筑後山門郡説はじめ、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国畿内説もまた【空想の産物】と断定しなければならない。
 学界が信頼する現在の邪馬台国説の実体は、新井白石の【空想】をますます肥大化させた、白石の邪馬台国説より退化する【空想の産物】なのである。
 邪馬台国説は「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む【誤読意見】に合致させるために、自説に都合がよい主観・批判・捏造(ねつぞう)などを多数加えるために【科学】が成立しない。
 ところが、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない書籍であった。だから、【誤読】を1ヵ所も加えなければ『魏志倭人伝』の全記事において【科学】が成立して、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」という真実が明らかとなる。

◆『日本書紀』巻第九の神功(じんぐう)皇后紀における神功皇后39年には『魏志倭人伝』にある魏の景初(けいしょ)三年(西暦239)の記事が挿入(そうにゅう)され、翌神功皇后40年には『魏志倭人伝』の正始(せいし)元年(240)の記事が引用され、神功皇后43年には『魏志倭人伝』の正始4(243)の記事が引用されている。
 このような『日本書紀』巻第九の神功皇后紀にある『魏志倭人伝』の引用記事を注目して、新井白石は「卑弥呼は神功皇后であった」と主張した。
 しかし、現在の考古学の成果によって、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と第15代応神(おうじん)天皇の中間の時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではなかったことになる。
 というのも、考古学の成果によって、第10代の崇神(すじん)天皇を葬った陵墓の築造年代は3世紀後半から4世紀初頭であると検証されているからである。だから、第10代崇神天皇以前の第9代開化(かいか)天皇の治世、晩年の卑弥呼は生存していたことになるゆえ、第14代仲哀天皇と第15代応神天皇の中間時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではない。
 『魏志倭人伝』の正始元年(240)の記事は「魏の出張機関の政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の帯方郡(たいほうぐん)の使節は倭王に拝謁(はいえつ)した」と説明している。ゆえに、「倭女王、卑弥呼は240年ころに没し、卑弥呼の後を男王が最高位の倭王を受け継いで、帯方郡の使節と面会した」と考えられる。というのも、『魏志倭人伝』の末部は「魏の正始八年(247)ころ、卑弥呼は以(すで)に死んでいた。卑弥呼を葬る大きな陵墓を作り、円墳部の直径は百余歩(150メートル)であった。卑弥呼陵には百余人の奴婢(ぬひ)を徇葬(じゅんそう)させた。さらに、卑弥呼の死後に男王を立てる(つまり、男王が倭王に就任した)」と説明しているからである。したがって、卑弥呼は240年ころに没していたならば、「247年ころに卑弥呼の陵墓が築造されていた」という説明は合理となる。
 この結果、卑弥呼が没したときの倭王(男王)は第7代孝霊天皇か第8代孝元天皇であったと推定される。ゆえに、上記したように第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 
◆考古学においては、遺跡や遺物からして大和王朝は3世紀後半から起源して栄えたと考えられている。ゆえに、大和王朝の基礎を築いた天照大神は、考古学の成果にもとづくと、3世紀後半~4世紀初頭に生存したと考えられる。
 したがって、上記したように、考古学によって大和(奈良県天理市柳本)に所在する第10代崇神天皇の陵墓は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと推定されているゆえ、「崇神天皇」の異名(いみょう)が「天照大神」であったと考えられる。
 『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀初頭部には〔疫病の流行〕について説明する箇所がある。
 この〔疫病の流行〕にある[天照大神に関する記事]を、宇治谷孟(うじたにつとむ)訳『日本書紀()(講談社発行)は下記のごとく現代語訳する。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。よって堅固(けんご)な石の神籬(ひもろぎ/神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、渟名城入姫命(ぬないりびめのみこと)に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩()せてお祀りすることができなかった。」
 上記の記事が示しているように、崇神天皇は天照大神を崇拝していた。
 だから、考古学の研究成果からしても『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「天照大神」は「崇神天皇」であったと考えるべきことになる。大和朝廷の基礎を築いた崇神天皇は天照大神を崇拝するものであったため、「崇神天皇」は人々に「天照大神」という異名でよばれることになったのである。
 『古事記』上巻では「天照大神は女性」であったと記述している。ゆえに、『日本書紀』が「崇神天皇の生母」と記す「伊香色謎命(いかがしこめのみこと)」も「天照大神」とよばれていたことになる。
 だから、考古学の研究成果にもとづくと、大和王朝の基礎を築いた「天照大神」は「崇神天皇と崇神天皇の生母(伊香色謎命)」であったことになる。

◆上記したように、第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は、下記のごとく説明する。
 「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。開化天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚なされた。また、継母(ままはは)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚なされた。」
 開化天皇の第二后の伊迦賀色許売命(女性の天照大神)は、開化天皇の父・第八代孝元天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は開化天皇の継母であった。
 『古事記』は崇神天皇の生母を「伊迦賀色許売命」と記し、『日本書紀』は「伊香色謎命」と記し、両者は共に「いかがしこめのみこと」と読む。ゆえに、開化天皇の第二后にして継母のイカガシコメノミコト(伊迦賀色許売命=伊香色謎命)は、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「女性の天照大神」であったことになる。もちろん、「男性の天照大神」は「伊迦賀色許売命の実子の崇神天皇」であったことになる。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は、『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と「伊耶那美命(いざなみのみこと)」の先頭2字と同じである。ゆえに、「開化天皇」は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「伊耶那岐命」であった。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の初頭には「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊郡品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と記す、注目すべき重大な文がある。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国のすべてのものの生みの親となったのです。したがって、朝廷が皇室の最高神とする皇祖・天照大神(崇神天皇母子)よりも伊耶那美命・伊耶那岐命の二霊のほうが偉大です」と解釈しなければならず、「陰陽斯に開けて」という文中にある[]の字は「開化天皇」の[]を表示するものであったにちがいない。つまり、この「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖となる」という文は「『古事記』編纂スタッフは時の律令体制に歯向かって、朝廷が絶対に後世に伝えてならぬと厳重に禁止する、皇祖・天照大神の聖性を汚す開化天皇と正妃竹野比売の歴史を、上巻に記述する」と固く熱く決意した情念を明示するものであったことになる。
 『古事記』と『日本書紀』は共に「崇神天皇は開化天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた第二子」と記す。
 しかし、崇神天皇は開化天皇の養子であり、孝元天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子どもであったことが、『古事記』中巻の崇神天皇紀における〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕に記述されている。この〔建波邇安王の反逆〕の箇所には「崇崇神天皇は、庶兄(まませ)建波邇安王と呼んだ」と記されている。したがって、崇神天皇は「孝元天皇を父とする建波邇安王は庶兄、つまり建波邇安王は崇神天皇の異母兄」であったと述べているゆえ、「孝元天皇を父とする開化天皇もまた、崇神天皇の異母兄」であったことになる。
 このように「開化天皇は崇神天皇の異母兄」であったゆえ、「開化天皇は崇神天皇の実父」ではなかった。ということは〔崇神天皇は孝元天皇と継母・伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子〕であり、ゆえに〔崇神天皇は開化天皇の養子であった〕ことになる。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話初頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕は「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚する時、小国・日本の建国理念を〔愛〕にしましょうと提唱し、小国・日本の人民はじめ卑弥呼は統治した倭人国の国中の人民たちも【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するようになった」と伝えている。
 『古事記』編纂スタッフと『日本書紀』編纂スタッフは、天照大神(崇神天皇母子)を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて崇拝する律令体制に抵抗して、開化天皇の正妃の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企てた。時の律令体制と朝廷は、天皇の権力を神格化して絶大化するため、大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて、天照大神の聖性を絶対に汚してはならぬと厳重に禁止した。しかし、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受けついだ歴史を伝えようと企てた『古事記』編纂スタッフの情念は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すことになった。
 だから、『古事記』の編纂事業は時の律令体制に真っ向から反逆する事業であった。ゆえに『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕には、皇祖・天照大神の聖性を絶対に汚してならぬと厳重に禁止する律令体制への反逆が表示されることになった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕は「熊野、つまり熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社」を「黄泉国」と表記して、「伊耶那岐命がクーデターを決行して倭女王・天照大神(伊迦賀色許売命)を失脚させた歴史」を記述するものであった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕を要約すると下記のごとくなる。
――倭女王に就任した伊耶那岐命(開化天皇)の正妃・伊耶那美命(竹野比売)が没すると、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命が倭女王に就任した。倭女王・伊迦賀色許売命は『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の陵墓と同じく多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に葬る残虐非道な徇葬(じゅんそう/八雷神の儀式)をおこなった。徇葬を最も嫌悪した愛妻・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】の遺志をまもるために、桃子三箇(もものみみつ)つまり小国・日本の兵士たちと地元の熊野の戦士たちで構成される三軍の協力を得て伊耶那岐命はクーデターを決行した。伊耶那岐命は少数の日本兵(桃子三箇のうちの一軍)を率いて、伊耶那美命の陵墓・大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地に築造され陵墓)の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸(なきがら)を収める棺(ひつぎ)を略奪し、伊耶那岐命一行は桃子三箇の本隊(日本兵と熊野の戦士たちで構成される本隊)が待機する黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと/現・熊野速玉大社の境内)に向かって逃走(とうそう)した。
 そして、伊耶那岐命は桃子三箇(日本兵と熊野の戦士たち)を指揮して、伊耶那岐命一行を追跡してきた伊耶那美命の陵墓を護衛していた倭国の大軍・千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を現熊野速玉大社の境内にて撃破した。
 おどろくべきことに、夫の伊耶那美命への愛に対する嫉妬と憤怒と憎悪で身を焦()がした天照大神・伊迦賀色許売命は大斎原に築造された宮殿から熊野速玉大社付近までの真っ暗な夜の熊野路を執念深(しゅうねんぶか)く追ってきた。日本兵に捕らわれた天照大神は、伊耶那岐命がいる熊野速玉大社から約1km南の黄泉比良坂(よもつひらさか/和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の急坂の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社の御神体の巨大なコトビキ岩)の前に連行された。
 千引石の前にいた伊耶那岐命は日本兵に連行された妻(第二后)天照大神と対面すると真っ先に、天照大神に事戸(ことど/離縁)を言い渡した。
 怒った天照大神は伊耶那岐命に「あなたがこのような暴力をもって神聖な国家儀式の徇葬を冒涜(ぼうとく)するならば! あなたの国の人草(ひとくさ/人民。つまり【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国民の母親)から出産する胎児たちが骨盤入口を通りぬけて骨盤出口を至るとき、そのせまい堅(かた)い骨盤出口で、一日に千人の子どもたちの頭を絞(くび)りつぶして死ぬように、わたくしは神に祈願して必ず実現する」と誓った。
 これに対して、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は国民に【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するように熱心に説いて、一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓った。
 だから〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に「徇葬をおこなった倭女王」の名を「天照大神」と表記すると、『古事記』は即座に献呈を拒絶されて焚書(ふんしょ)される。ゆえに、編纂スタッフは「天照大神」を「伊耶那美命」に[]の字を加えて「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」という偽名(ぎめい)にした。したがって、「伊耶那美神命」は「天照大神」ではないことになるゆえ、『古事記』を献上する元明(げんめい)天皇も納得して『古事記』を正史にするであろうと企んだのである。
 紀元前4、5世紀に生存した中国の思想家の老子(ろうし)は「虚偽をもって実は真実を伝える仮装(カムフラージュ)の方法、つまり反実仮装」という技法を考案して、時の王朝の政策に逆らった。『古事記』編纂スタッフは〔反実仮装〕を用いて、後人(後世の学者たち)に「黄泉国の伊耶那美神命」は「天照大神」であると伝えようとしたのである。
 『古事記』献呈された第43代元明天皇は「黄泉国の伊耶那美神命」は〔反実仮装〕によって「天照大神・伊迦賀色許売命」と解釈できると察知して、反逆の史書『古事記』の献呈を拒絶した。ゆえに、『古事記』は正史として認められず、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』において『古事記』編纂に関する記事はすべて削除されて抹殺された。このため、江戸時代の国学者の賀茂真淵(かものまぶち/16971769)は『古事記』は偽作ではないかと疑った。
 しかし、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であった。その証拠に、伊耶那岐命が伊耶那美神命に離縁を言い渡した黄泉比良坂(神倉神社の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石・ゴトビキ岩を御神体する神倉神社の祭神は天照大神である。だから、「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であって「伊耶那美命」ではなかったことになる。
 ゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁された天照大神は〔伊耶那岐命の妻(第二后)〕という戸籍を失った。そこで、天照大神・伊迦賀色許売命は、第7代孝霊天皇の娘の名「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」を受け継いだ。前述したように、「崇神天皇は孝霊天皇の孫の開化天皇の異母弟であったゆえ、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑・大伯母(おおおば)」に相当する。これゆえ、『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば/大伯母)であった」と記している。
 崇神天皇の生母で姑であった倭迹迹日百襲姫命を葬る陵墓は「箸墓(はしはか)古墳」とよばれる全長280m、高さ30mの大型前方後円墳であり、奈良県桜井市に所在する。考古学の成果では箸墓古墳は3世紀後半に築造されたとされる。だから、今まで解説してきたように、箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命の陵墓)は崇神天皇の生母・天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではない。

◆前述したように、考古学の成果によって、第10代崇神天皇陵は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと定まっている。
 しかし、春日の伊耶河宮の近辺の奈良市油坂町に所在する第9代開化天皇陵・春日率川坂本陵(かすがのいざかわのさかもとのみささぎ)は、その墳丘規模から5世紀末から6世紀初頭に築造されたと定まる。
 前述したように、宇治谷孟訳『日本書紀()』は崇神天皇紀初頭部にある〔疫病の流行〕の記事は、下記のごとく現代語訳している。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。」
 上記のごとく、崇神天皇は――養父の伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いでクーデターを決行して、生母・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命(天照大神)を倭女王から失脚させたことを――激しく憎悪した。だから、崇神天皇は開化天皇・伊耶那岐命から天下を譲られたにもかかわらず、その恩を忘れて、開化天皇の陵墓は築造しなかったのである。
 3世紀後半にて天照大神・崇神天皇が基礎を築いた大和王朝が衰退して、5世紀末から6世紀初頭では難波(なにわ)王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を崇拝して栄えた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇の陵墓は大和王朝が衰退した5世紀末から6世紀初頭に築造されることになった。
 (注 『古事記』下巻の仁徳天皇紀の冒頭は「仁徳天皇は難波の高津宮に居住した」と記す。そして、吉備の黒比売(くろひめ)を愛した仁徳天皇は、故郷の吉備に逃げ帰った黒比売を追って淡路島に到着した時、天皇は伊耶那岐命・開化天皇と結婚するときに伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した「淤能碁呂島」を詠む和歌を作っている。このように、難波王朝は【日本建国の〔愛〕の理論】を尊重崇拝して栄えた)
 『古事記』中巻の開化天皇紀が「開化天皇と正妃竹野比売が結婚して生まれた御子(みこ)の、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」の異名は、『古事記』上巻に登場する英雄「須佐之男命(すさのをのみこと)」であった。開化天皇・伊耶那岐命は母を倭女王から失脚させたことを恨む天照大神と実子・須佐之男命が天下を二分して戦争して国民が困窮するのを避けるため、養子の天照大神に大和を首都する四国・山陽・畿内の高天原(たかまのはら)を統治するようにして帝位を譲った。そして、実子の須佐之男命に旧国出雲(現・島根県東部)を中心とする九州・山陰地方一帯を統治するように命じて死去した。
 というのも、『魏志倭人伝』が「卑弥呼が居住した邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」、つまり「現在の島根県と鳥取県西部であったからである。だから、伊耶那岐命・開化天皇は実子の須佐之男命に「邪馬壱国中心部の出雲に移住して大和の天照大神・崇神天皇と天下二分して戦争してはならぬ」と遺言して没したのである。
 これゆえ、『日本書紀』の崇神天皇紀にある〔疫病の流行〕の記事では、須佐之男が居住した邪馬壱国・出雲地方は高天原の中心の大和・奈良県よりも広大な大国であった。ゆえに、「邪馬壱国・出雲地方の地霊」は「倭大国魂神」と表現されることになった。あるいは、須佐之男命は生母が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであったゆえ、「山陰出雲地方の地霊」は「日本大国魂神」とも表現されることになったのである。
 
須佐之男命が大和・高天原・伊耶河宮から移住した山陰出雲地方の地霊」を、天照大神・崇神天皇は「大国」の二字がつく「倭大国魂神」または「日本大国魂神」と名づけた。これゆえ、須佐之男命の娘の須世理毘売(すせりびめ)と結婚した「出雲王朝を統治した大穴牟遅命(おおなむぢのかみ)」は「大国主神」という異名でよばれることになったのある。

◆邪馬壱国・出雲を統治した大国主神は大和の天照大神・崇神天皇王朝に敗れて国譲(くにゆず)りした。『日本書紀』神代紀の一書は「大国主神が国譲りした時、大和の天照大神王朝は出雲大社・天日隅宮(あまのひすみのみや)を建造した」と記述している。
 出雲大社の本殿と裏山の中間に、素鵞社(そがのやしろ)が所在する。素鵞社は須佐之男命を祀る。
 
出雲大社の本殿の北側は裏山(八雲山)、出雲大社の南は「神園(しんえん)」とよばれる地域であり、出雲大社の東は「亀山」、出雲大社の西は「鶴山」である。このような出雲大社を囲む地所を上空から撮影した航空写真の形は「ヤンマトンボ」とよばれる「大形のトンボの姿」に相似する。つまり、出雲大社の「円形の裏山」を「ヤンマトンボの頭」に見立てると、「神園」は「トンボの胴体と尾の形」に相似し、「亀山と鶴山」は「トンボの羽の形」となる。これゆえ、出雲大社の裏山と境内周辺の航空写真は「ヤンマトンボの形」に観える。
 「トンボ」の古称は「あきづ」、「あきづ」は漢字2字で「秋津」・「蜻蛉」と記す。「蜻蛉」は「日本列島」を意味する。ゆえに、「卑弥呼の陵墓であった出雲大社の裏山と境内周辺の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「蜻蛉(トンボ)の形」をしているゆえ、日本列島における最初の国家「倭人国」と最初の王朝を築いた卑弥呼に由来して「蜻蛉」は「日本列島」と意味することになったと考えられる。それゆえ、「ヤンマトンボ」の「ヤンマ」は「邪馬壱国」の「邪馬」を「ヤンマ」と訛(なま)った可能性がある。
 そして、特に注目すべきは出雲大社の円形の裏山「八雲山」の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩」に合致して「直径が約150m」である。
 現在、出雲大社の境内の平面図は〔前方後円墳〕のうちの〔前方墳〕の左右対称の形に少し歪(ゆがん)んでいるが――古来にあっては〔前方墳の形〕であったと推定できる形状となる。したがって、円形の八雲山・裏山の〔後円墳部〕と 出雲大社の境内の〔前方墳部〕で前方後円墳の形となるゆえ、円丘(えんきゅう/円形の自然丘陵)の八雲山と出雲大社の境内は、前期前方後円と分類される卑弥呼の墓であったにちがいない。
 というのも、上田宏典(うえだひろのり)著『前方後円墳[第2版](学生社発行)61ページは「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に低い方形の前方部をつけたものが多い」と指摘するからである。
 卑弥呼の墓は、3世紀後半に築造された箸墓古墳や崇神天皇陵よりも前の、3世紀中半に築造されたゆえ、前期前方後円墳となる。卑弥呼の墓における「八雲山」は〔径百余歩の円形の自然丘陵〕であるゆえ、上田氏が指摘する「前期前方後円墳の特徴」をあらわす。
 だから、出雲大社の裏山と境内は卑弥呼の陵墓であったにちがいない。
 大国主神は国譲りする時、崇神天皇王朝を巧みに煽(おだ)てて奴婢百余人が徇葬され卑弥呼の墓が築造された地所に、壮大な天日隅宮・出雲大社を建造させて「大和の天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命もまた伊耶那美命の陵墓を築造する時に残虐な徇葬を行った」と表示するようにした。これゆえ、大和王朝に一矢(いっし)をむくいた大国主神は『古事記』上巻では人民に敬愛された英雄として伝えられることになったのである。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓には百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬者(じゅんそうしゃ)となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造事業をおこなった、卑弥呼の後を継いだ男の倭王に対して国中の人民たちは徇葬を憎悪して服従せず、武器を持って倭国軍と戦った。ゆえに、倭国軍は千余人の人民を殺した」と記述する。
 卑弥呼の晩年に生存した伊耶那美命は、伊耶那岐命と結婚した時(233年頃)、小国・日本の政治理念を「国中に多数の子どもが健やかに誕生する【愛】にする」と提唱した。これゆえ、伊耶那美命が高らかに掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本の人民たちはじめ卑弥呼が統治した倭人国の国中の多数の人民たちもまた尊崇(そんすう)した。よって、『魏志倭人伝』に「卑弥呼以(すで)に死す。大きな冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇ずる者、奴婢百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず。更に相誅殺(あいちゅうさつ)と。時に当たりて千余人を殺す」と記述されたのである。
 この記事はさらに続き、「復()た卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()し、国中遂に定まる。政(せい)等、檄(げき)を以て壱与を告喩(こくゆ)す。壱与、倭の大夫(だいふ)率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣わし、政等の還(かえ)るを送らしむ」と記している。
 上記の文中の「卑弥呼の宗女の壱与」とは「卑弥呼が支配する巫女界(宗女)を代表とする壱与」と意味し、「年十三なるを王と為す」とは「卑弥呼の後を継いだ男王・倭王はかつて233年頃に十三歳にて小国・日本の女王に就任した壱与を、魏の正始八年・西暦247年ころに倭女王に就任させた」と意味するものであった。だから「年十三なるを王と為す壱与」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命」であった。これゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊崇した倭国の国中の人民たちは、卑弥呼の陵墓を造るときの残虐非道な徇葬儀式を憎悪して、武器を持って反乱して倭国軍と戦ったのである。
 徇葬を決行した男王・倭王は壱与・伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱したために、国中の人民たちは反乱をおこした責任をとって小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命が反乱を鎮(しず)めなければならないと責任を転嫁(てんか)して、男王は壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させた。これゆえ、伊耶那美命が倭女王に就任したため、伊耶那美命を敬愛する倭国の国中の反乱者たちは武器を捨てて倭王軍との戦いを終息させた。ゆえに、この状況は『魏志倭人伝』に「国中遂に定まる」と記述されることになったのである。
 『魏志倭人伝』の「卑弥呼が以に死す」という記事の前には、「正始八年(247)、倭の女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もとり)不和であった。倭は載斯烏越(そしあお)等を派遣して帯方郡に詣(いた)り、倭国軍と狗奴国とが戦う状況を説明した。よって、帯方郡は塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を倭国に派遣した。倭国に到着した政(張政)は、狗奴国は討伐すべしと説く檄(軍書)を作って、倭女王・壱与に告喩した」と説明する記事がある。ところが、【愛】を重んじる壱与・伊耶那美命は、政の檄による告喩に反対して応じず、狗奴国の男王との話し合いによる平和的な解決を望んだ。
 これゆえ、倭王(男王)と倭王朝は伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命を「倭女王・壱与の代役」に立てた。天照大神は政の檄の告喩を承諾して狗奴国を討伐した。この状況を、『魏志倭人伝』は上記したように「政等、檄を以て壱与(天照大神)を告喩す」と記し、さらに狗奴国討伐以後について「壱与、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わし、政等の帯方郡に還(かえ)るを送らしむ」と記述したのである。
 『魏志倭人伝』末部にある「張政の二度おこなった檄による告喩」の記事は――壱与・伊耶那美命が狗奴国討伐を拒否したため、天照大神・伊迦賀色許売命が「壱与の代役」になって狗奴国討伐を決行した――と伝えていたことになる。
 このような経緯があったゆえ、壱与・伊耶那美命が死去すると天照大神・伊迦賀色許売命が倭女王に就任することになった。熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造するとき、天照大神は国家権力を誇示するため残酷な徇葬を強行した。この結果、伊耶那岐命と桃子三箇(もものみみつ/日本軍の兵士たちと熊野の戦士たち)のクーデターによって、天照大神・伊迦賀色許売命は倭女王から失脚した。
 『魏志倭人伝』の末部が記述しているように、「伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命・竹野比売と、第二后の天照大神・伊迦賀色許売命」は共に「壱与」と表記された。ゆえに、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕では「徇葬を強行した天照大神」は「伊耶那美命」に[]の字が加わる「伊耶那美神命」と表記された。伊耶那岐命・竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は具体的に表現すると「国中に多数の子どもが健やかに誕生する」ということになる。ゆえに、和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された伊耶那美神命・天照大神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ/人民たち)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と、つまり「一日に必ず【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の千人の胎児たちの頭をせまい骨盤の出口で絞()めつぶして殺す」と、神に誓って詛(のろ)ったのである。

712年に成立した『古事記』は「初代神武天皇は137歳で没し、第6代孝安天皇は123歳で没し、第7代孝霊天皇は106歳で没し、第10代崇神天皇は168歳で没し、第11代垂仁天皇は153歳で没し、第12代景行天皇は137歳で没した」と、いずれも享年は百歳を超えていたと記している。(『古事記』は第2代綏靖(すいぜい)天皇の享年は45歳、第3代安寧(あんねい)天皇の享年は49歳、第4代懿徳(いとく)天皇の享年は45歳、第5代孝昭(こうしょう)天皇の享年は93歳、第8代孝元(こうげん)天皇の享年は57歳、第9代開化天皇の享年は63歳、第13代成務(せいむ)天皇の享年は95歳、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の享年は52歳と記す)

 政府による大規模な歴史書の編纂(へんさん)事業としては、第40代天武朝以前にさかのぼると、推古天皇二十八年(620)の十二月に「皇太子(聖徳太子)・島大臣(蘇我馬子)、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造(おみのむらじとものみやつこくにのみやつこ)百八十部并(ももあまりやそともをあは)せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す」ということになる。
 わが国最初の官撰国史の事業である推古天皇28(620)の〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの享年数(きょうねんすう)は、『古事記』とほぼ同様であったにちがいない。というのも、『古事記』の下巻の最後尾は簡単な推古天皇紀で終わっているからである。ゆえに、〔『古事記』の中巻と下巻の天皇記〕は推古天皇時代に編纂された歴史書と同じく〔推古天皇までの天皇記〕となったにちがいない。
 『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「その俗は正しい歳を知らず、春耕(春の耕作期)を一年、秋収(秋の収穫期)を一年と数えている」と説明する、現在の1年を2年と数える〔二倍暦〕の注がある。この『魏志倭人伝』の〔注〕にある二倍暦の影響や、また上古の暦数は60回で一周して元にもどる干支(えと)であったために正確に十進法の暦数に換算することができなかった。ゆえに、推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの各代天皇の享年はおよそ二倍となったため――医学が未発達で短命であったはずの上古の天皇が現在の医学が発達した平均寿命よりも長寿となって、百歳を優に超える天皇が数人も存在することになったのである。
 そして、『日本書紀』の第35代皇極(こうぎょく)天皇4年6月13日は「蘇我蝦夷(そがのえみし)らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの第38代天智天皇)に奉献(たてまつ)った」と記している。
 船史恵尺の素早い行動で焼失するのをまぬがねた〔国記〕は、推古天皇時代に編纂された〔国記〕であったにちがいない。この〔国記〕は『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)が「本辞(ほんじ)」と記す書籍の原典(資料)であったことになる。(つまり、『古事記』上巻の序に「本辞」・「旧辞(きゅうじ)」・「先代の旧辞」などと名づけられた書籍の原典は推古天皇時代に成立した〔国記〕であったことになる)
 その証拠に、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の後半部で――太安万侶(おおのやすまろ)が「上古の言葉と字義(こころ)は共に素朴で、文章に書きあらわしますと、どういう漢字を用いてらよいか困難となります」――と説明する音文字は、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数記載されている。けれども、『古事記』中巻と下巻には〔音〕という注がつく上古の漢字は一字も記載されていない。だから、〔音〕という注がつく上古漢字が多数記載される『古事記』上巻の原典は推古天皇時代に成立した〔音文字〕で書かれていた〔国記〕、つまり船史恵尺の素早い行動で焼失しなかった〔国記〕であったことになる。
 いっぽう、皇極天皇4年(645)には推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕は蘇我蝦夷の邸宅で焼失した。ゆえに、〔音〕という注がつく上古漢字が1字も記載されていない『古事記』中巻・下巻の「帝紀(天皇記)」は、『古事記』そのものが朝廷に反逆して【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えようとした書籍であったゆえ民間の家々に残っていた各代天皇の享年を用いて編纂されることになった。しかし、諸家における各代天皇の享年数はもろもろの事情によって不統一で不確かなうえに、推古天皇時代にすでに誤っていた〔天皇記〕の享年数を思い出して適合させるものであったゆえ、事実と相違する虚数となったことになる。
 『古事記』成立から8年後に成立した『日本書紀』においても、『古事記』と同じ環境であったゆえ、その「天皇紀」における各代天皇の享年は虚数であったことになる。
 要するに、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフには、上古の天皇たちの享年数を正確に復元することは不可能であったのである。

 『古事記』と『日本書紀』は、各代天皇の生年と没年、またいつ即位していつ退位したかなど、西暦年数に変換できる形で記していない。ただ、どの天皇の次にどの天皇が継いだかを記しているだけである。そして、『古事記』は、その存在が確実とされる第15代応神天皇は130歳まで生きたと記す。『日本書紀』は111歳まで応神天皇は生きて41年もの長いあいだ在位したと記す。また第16代仁徳天皇は87年も在位したことになっている。
 このよう不正確な状況の原因は、上記したように、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフは〔上古における各天皇の享年数〕を正しく復元できる資料と方法を完全に失っていたからである。
 『古事記』と『日本書紀』の紀年には延長工作があることは、明治時代の那賀通世(なかみちよ/18511908)などが立論して、現在、定説となっている。

◆このブログの初頭部で指摘したように、第114代中御門天皇の在位中の1716(正徳6)に、60歳の新井白石は『古史通或問』を著作して邪馬台国大和説を立論し、その後に著書『外国之事調書』なので邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。
 しかし、白石の邪馬台国説は【空想】であった。というのも、『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の範囲は出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)、現在の島根県と鳥取県西部」であったからである。そして、卑弥呼が居住した宮殿は出雲(現在の島根県東部)の意宇(おう)平野の一画に所在したと考えられる。
 新井白石は中御門天皇の在位中の1725(享保10)69歳で没した。
 白石の空想の産物・邪馬台国説を知った朝廷は「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と激しいショックを受け、また恐怖をも抱いた。
 それというのも、いままで解説してきたように、白石のごとく『魏志倭人伝』を誤読して女王国名を「邪馬台国」と定めて「邪馬台国は大和であった、または九州に存在した」と設定すると、『古事記』と『日本書紀』における〔天皇記〕の上古の各代天皇の享年数の延長工作のために、日本国の起源つまり小国・日本は西暦233年頃に誕生したことが不明となり、大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大神は崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であった秘密が解明できなくなり、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残った上古の漢字(音文字)が存在しないことになって消滅し、わが国における学問の起源と文化の根源は失われて不明となり、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀における日本神話は歴史ではないと断定されることになる――と、皇室は心配したからである。
 (注 現在、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」という意見が絶対的な定説である。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられ定説以前に存在した上古の音文字は残り、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて定説以前に存在した漢字(音文字)が多数記載されている。このように、現在、定説によって太安万侶が説明する上古漢字は消滅して存在しないことになっている)
 「論より証拠」のごとく、現在、定説によって確かに存在した上古漢字が消滅してしまったごとく、朝廷は白石の【空想の産物】の邪馬台国説によって「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! 上古の音文字が消滅する! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と予想して、激しいショックを受け、また恐怖をも抱いたのである。

◆『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は「伊耶那美命・竹野比売の死後、倭女王に就任した天照大神・伊迦賀色許売命が多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓に埋葬した徇葬儀式を指揮した史実と、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚した歴史」を記述するものであったゆえ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶した。
 元明天皇は715(霊亀元)92日、娘の元正天皇(氷高皇女)に譲位して上皇となった。
 『日本書記』編纂スタッフは、元明天皇の『古事記』献呈拒否に懲()りて、元正天皇に献上した『日本書紀』神代紀には天照大神の聖性を汚す具体的な記述を削除(さくじょ)した。ゆえに、『日本書紀』は献呈が許可されて正史(政府が編纂したと認める歴史書)となった。
 しかし、『日本書記』は崇神天皇紀における〔疫病の流行〕の箇所で崇神天皇母子が天照大神であると説明していた。また、『日本書紀』崇神天皇紀の〔四道将軍〕の箇所には、伊耶那岐命に離縁されて「倭迹迹日百襲姫命」と名乗ることにした天照大神・伊迦賀色許売命について記述していた。この〔四道将軍〕の箇所の後半にて、倭迹迹日百襲姫命は大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったとする抽象的表現(譬え話)をもって、倭迹迹日百襲姫命(天照大神・伊迦賀色許売命)が【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して国民を弾圧した様子をからかって風刺している。その証拠に、「倭迹迹日百襲姫命は箸(はし)が陰部につきささって死去した。そこで大市(おおち/奈良県桜井市の北部)に葬られた。だから、当時の人々は、その墓を名づけて、箸墓と風刺した」と記述している。
 (注 上古には、現在のような食事の時に用いる2本の細い棒の形をしたハシ()は中国から伝来していなかった。しかし、『古事記』上巻の〔須佐之男命の八俣の大蛇説話〕には「箸」が登場する。この「箸」は令和元年の大嘗祭において供饌(きょうせん/供物の食物)の儀にて今上陛下が用いた「ピンセットのような竹製の食物をはさむV字形の器具」であった。つまり、[]の字の上部は竹冠であるゆえ、「1本の竹をピンセットのように折り曲げた形」が〔箸の原形〕であったゆえ、上古には「箸墓」の「箸」は存在したことになる)
 『古事記』の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の末部は天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁された和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの子どもたちは、神(大物主神)に祈願して、せまい堅い骨盤出口で一日に必ず千人ずつ頭を絞()めつぶして殺す」と誓ったと記述する。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の「骨盤出口にて胎児の頭を絞めてつぶして殺す」という詛(のろ)いを、3世紀後半の人々は「陰部(骨盤出口)にいる胎児の頭を箸でつきさして死産させる」と風刺したのである。
 7205月に成立して元正天皇に献上された時は、『日本書紀』の書名は『日本紀』でああった。『日本紀』成立の翌72112月に没した元明上皇は『日本紀』崇神天皇紀に記述された〔天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性を汚す風刺〕に気づいた。ゆえに、上皇は『日本紀』成立直後の721(上皇が存命中)に宮廷で『日本紀』を講義・研究する講筵(こうえん/講書)を開始させた。というのも、先代の天武天皇は天皇の権力の絶大化をはかるため、天照大神を皇室がもっとも崇拝する祖先の皇祖と定めて崇拝するための大嘗祭(だいじょうさい)を起源させていたからである。ゆえに、天武・持統・文武の後に天皇に即位した元明上皇は『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における皇祖・天照大神がおこなった徇葬指揮の記事に気づき、そして『日本紀』成立直後に箸墓築造記事における天照大神の風刺にも気づいて、皇祖・天照大神の聖性をまもるために、いわゆる「講書(こうしょ)」を行うように指示したのである。この「講書」の目的は「学者たちが箸墓記事で天照大神・倭迹迹日百襲姫命を風刺していると解釈したならば誤りと忠告して、天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性が汚されないようにするための隠ぺい政策」であったのである。

◆『日本書紀』成立直後から始まった講筵(講書)10世紀半ばの平安時代中期までおこなわれた。そして、天武天皇から始まった大嘗祭は応仁の乱が始まる前年の1466(文政1)に行われた第103代後土御門(ごつちみかど)天皇即位まで実施された。
 後土御門天皇即位以後の戦国時代、大嘗祭は中断され9代220年後の第113代東山天皇の1687(貞享4)にいったん略儀で再興された。しかし、次の第114代中御門天皇朝では行われず、次の第115代桜町天皇の1738(元文3)の即位にて、大嘗祭は本格的に復興された。
 第108代天皇であった後水尾(ごみずのを)上皇は、皇室が衰退し武家が栄えることになった原因は()『古事記』上巻の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と()天照大神が決行した徇葬の両歴史の隠ぺい工作にあると考えて反省した。このため、後水尾上皇は『日本書紀』神功皇后紀に魏の年号が記載された『魏志倭人伝』を基軸にして、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された歴史を復興する学問研究をおこなった。
 この後水尾上皇から始まった学問研究は以後にも継続されたため、第113代東山天皇の即位で新しい大嘗祭が行われることになったのである。東山天皇の即位における大嘗祭では、以前の天武天皇から始まった天照大神の徇葬隠ぺい政策の大嘗祭と異なって、『魏志倭人伝』末部に登場する壱与(伊耶那美命)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を新たに演出し、そして旧来の伝統をも受け継いで天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀ることにした。しかし、東山天皇の大嘗祭は経費をかけず小規模におこなったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】の演出が満足できず不成功・失敗した。
 【日本建国の【愛】の理念】を演出する儀式を成功するためには多額の経費が必要となった。それゆえ、桜町天皇の即位では将軍吉宗が1735(享保20)8月に幕府五万石以上の諸大名に命じて朝廷に銀を贈らせ即位を祝賀する協力によって、新・大嘗祭が本格的におこなわれることになった。
 したがって、桜町天皇の即位以後の新・大嘗祭は大規模となり、明治天皇の即位の大嘗祭では天高く千木(ちぎ)がそびえる悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)を設ける大嘗宮(だいじょうぐう)が建造されるようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】は天皇陛下の頭上に差し上げられる御菅蓋(ごかんがい)と、そして悠紀殿と主基殿に向かって天皇陛下一行が進む・陛下の御前で左右2名の侍従が円形に巻い葉薦(はごも)を解き延べる御筵道(ごえんどう)で表示されることになった。
 (注 元明上皇が始めた『日本紀』の講書名「講筵」と、新・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす舞台装置の「御筵道」は、共に[]の字がつく。ゆえに、「講筵」は学問研究であったゆえ、「御筵道」の[]の字は新・大嘗祭もまた学問研究の大祭であることを示すものであった。ゆえに、令和元年の大嘗祭について幾人かの学者たちや一部のキリスト教関係団体は「憲法の政教分離に違反する、極めて宗教的な儀式」と指摘したが、令和元年の大嘗祭は「【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する、邪馬台国説は空想である」と表示した学問儀式であったのである)
 【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式は、2019(令和元年)1114日の午後6時半から開始された今上陛下の大嘗祭における東の悠紀殿に向かう天皇陛下一行の御筵道を進む御菅蓋儀式の様子を映すテレビ画面に映し出されて日本国民は目撃した。翌15日の午前0時半から、西側の主基殿に向かって天皇陛下一行は御筵道を進んで【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する御菅蓋儀式を行った。

◆前記したように、新井白石は中御門天皇の在位中に邪馬台国説を立論して、中御門天皇の在位中の1725年に69歳で没した。だから、中御門天皇が即位した時には白石は邪馬台国説をいまだ立論していなかったゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は実施されなかった。
 白石は邪馬台国説を中御門天皇の在位中に発表したゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は中御門天皇の次の桜町天皇の即位で実施されることになった。
 だから、新・大嘗祭は白石の死から13年後の1738年の桜町天皇の即位で行われた。
 したがって、173811月の桜町天皇の大嘗祭以来、令和元年11月までに行われた大嘗祭は「新井白石の邪馬台国説は空想である」とあらわす学問儀式であった。
 このように、新・大嘗祭で「白石の邪馬台国説は空想の産物」と表示されたにもかかわらず、学界は「白石によって『魏志倭人伝』に始めて学問的検討が加えられた」と思い込む。実際は「白石の邪馬台国説から空想・幻想が学問にすり変わって退化した」というサカサマ状態となったのである。

 
◆以上のごとく、つい最近の4年前に、日本全国のテレビに映し出された令和の大嘗祭は「『魏志倭人伝』の全記事は正しい。卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」とあらわす、1660年頃から後水尾上皇が学問研究として始めた、その後に受け継がれた学問儀式であった。
 ところが、学者たちは【学問の常道・基本原理】を無視して、『魏志倭人伝』に数か所の【誤読】を加えて【空想の邪馬台国説】を立論しつづけている。
 学者たちは邪馬台国説が【空想の産物】である事実にまったく気づいていない。
 ためしに邪馬台国説の思考方法を全否定して、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみれば――様々な疑問が生じるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったのである。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる根拠・理由は大嘗祭はじめ幾つかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは「日本神話は歴史を語る」と証明できる『魏志倭人伝』の重大性に気づいて「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」という警告を残したのである。
 にもかかわらず、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない、信用できない記事はどのように考え方をしたならば信用できることになるかと考えなければならない」と主張する。このため、「卑弥呼は邪馬台国に住んでいた」と主張するがいっこうに【科学】が成立せず、【誤読】が【誤読】を生んでこれからも論争は果てしなく続くことになる。
 新井白石から始まった邪馬台国説は、正しく【空想の産物】だったのである。

 このブログでは、【1】卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であったと証明した。
 次回のブログでは、【2】学者たちは全員〔天の北極がある方向〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図で邪馬台国説を立論する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始から生命をまもった方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。ゆえに、九州以下本州地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、時計回りに90度転回して(経度軸が緯度軸になって)、現在の日本地図の〔西〕は〔北〕・〔東〕は〔南〕となると卑弥呼王朝は本州地理の方位規定を制定したことになる。だから、現在の日本地理を立論基盤とする邪馬台国説は明白に【空想の産物】であったのである。
 卑弥呼王朝が〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定めていたと断定すると、日本列島には人間が一人も居住していなかったことになる。卑弥呼王朝は大海に囲まれる日本列島に渡って生存した人類が原始から位置(緯度)と方角(経度)を測定し方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めて、本州の〔東〕は〔南〕に伸びていると制定したのである。
 さらに、次の次の回〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11〕では、【3】現在、定説によって排除されてその存在が消滅した上古の漢字(音文字)は確かに存在していたことを証明する。前述したように、『古事記』上巻の序は「わが国には上古の漢字(音文字)があった」と記述し、また『古事記』上巻には〔音〕という注がついて多数の〔上古の音文字〕が残っている。同様に、『魏志倭人伝』の2か所の記事も「わが国には上古の音文字があった」と伝え、卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には〔上古の音文字〕が用いられている。そして、カールグレーンが開発した西洋の言語学・音韻学によって「わが国には、中国に現存する最も古い〔上古音〕よりもさらに古い・最古の漢字音が残っている」と解明されている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という常識となる定説は根本的に誤っていることになる。
 上記した【1】【2】【3】の3つの真実によって、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったとことが【科学】が成立して証明され、新井白石から始まった邪馬台国説は【科学が成立しない、空想】であったことが事実となる。

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2022年5月25日 (水)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説はすべてが空理空論である
 日本国民は もういいカゲンに
 邪馬台国説にダマされるな!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆上記したように、学界やマスメディアなどが扇動(せんどう)する〔邪馬台国九州説と、邪馬台国畿内説〕は完全なる空理空論・デタラメである。
 これゆえ、〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕が明々白々の空理空論・科学に反するデタラメであると気づかない学界とマスメディアは〔邪馬台国説が空理空論・デタラメであると簡単明瞭に証明できる科学的知見〕を喪失(そうしつ)していることになる。

◆〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕で有名な文献史料の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が記述した計1983字に、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成されている。
 『魏志倭人伝』はわが国の2世紀末(西暦180年ころ)~3世紀半ば(西暦250年ころ)までの様子を記述する歴史書である。ゆえに、『魏志倭人伝』は中国の後漢時代末の180年ころ~中国が魏・漢()・呉の三国に分かれて鼎立(ていりつ)していた三国時代晩期までのわが国(西日本)の様子を説明する文献史料ということになる。(なお、漢()263年に滅び、魏は265年に滅び、呉は280年に滅亡した)
 『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)までにおいて、倭人国の使節は魏都(洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)に到着して外交を結んでいた様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡・魏の都(洛陽)に至る、その中間に在る大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 上記したように、『魏志倭人伝』には「倭人国の使節は魏都・帯方郡政庁に到着した」と記述されているゆえ、倭人国の使節は九州沖の玄界灘を往来して魏都と帯方郡政庁と外交を結んでいたことになる。
 したがって、魏(中国)は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた倭の国書に書かれていた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。

◆だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 言いかえると、倭国の使節が玄界灘を往来することができたからこそ、『魏志倭人伝』は確かな文献史料ということになる。
 よって、倭国の使節が玄界灘を往来できなかったならば、魏(中国)は倭人国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子をまったく知らなかったことになるゆえ、『魏志倭人伝』は実在しなかったことになる。
 これゆえ、倭の使節と船乗りたちはどのような方法で位置(緯度)と方位(経度)を測定して玄界灘を往来したのか――この秘密を論点にすると、学界は『魏志倭人伝』研究において学問としての出発点となる科学的知見をまったく有していないことが明々白々となる。この【倭人国の使節が玄界灘を往来した方法の科学的知見】にもとづいて考えると、学界が最も正しい意見と評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであることがいとも簡単・明瞭に明白となる。

 というのも、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は――卑弥呼王朝は、現在の日本列島地図と同じく、北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定めて日本列島の本州地理を考えていた――と断定しているからである。
 しかし、【倭人国の使節や船乗りが玄界灘を往来できた科学的知見】にもとづくと――倭人国の使節や船乗りは【北極星や天の北極を〔北〕と定める目星】とはしなかった事実が科学的に証明される。
 というのも、『魏志倭人伝』は――九州の〔西の端〕を【時計回りに90度転回】して本州の〔北の端〕と定め、本州の東端にある東海地方の静岡県は〔東〕ではなく〔南〕に位置する、つまり【現在の日本地図の方位規定に対して時計回りに90度転回する方位規定にもとづく、本州転回地理】を、卑弥呼王朝は制定していた――と記述しているからである。(『魏志倭人伝』の本州地理を説明する九州の西端(ただし、現在方位)となる末盧国以下の記事には、全部で12か所の方位記事がある。この全12か所の本州における方位記事は【時計回りに90度転回する方位規定】で説明されており、1ヵ所も矛盾せず・すべて合理となる)
 要するに卑弥呼王朝は――対馬国(現在の長崎県対馬)は一大国(現在の長崎県壱岐)より〔北〕、一大国は対馬国の〔南〕に在ると定めた。このような〔北〕の対馬・〔南〕の一大国の〔南北〕に対して、九州以下の本州日本列島地理における方位は【時計回りに90度転回して西→北・東→南になる】と定理した。(つまり、〔九州の西端〕は〔本州列島地理の北端〕、〔本州の東端にある静岡県〕は〔本州列島地理における南端〕に所在すると定めた)
 以上のごとく、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は現在の日本地図と同じく本州の〔北〕は〔北〕であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図と相違して、現在の本州の〔北〕は〔東〕となる、つまり本州における方位は時計回りに90度ずつ変位(転回)する」と証言している。

◆これより〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕は約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであったことが簡単・容易に証明される科学的知見】について解説する。

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 上の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 上図の右上に、漢字[(とう)]を配した。[]は「天頂緯度線、天頂点、子午線」で構成される。
 「天頂緯度線」は「観測地点の緯度」をあらわす。だから、「天頂緯度線のキャッチ(測定)」は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味することになる。
 原始のときから、ヒトの脳には、〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、天頂緯度線をキャッチする訓練に励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、「天頂緯度線(つまり、精確に緯度)」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ――わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な能力)をもって天頂緯度線をキャッチできた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができた。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定理した」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であった。
 というのも、上記したように、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(緯度を精確に測定)】して〈いのち〉を原始のときからまもってきたからである。

 上図の右上にある漢字[(とう)]は、下図に示すように「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と、90度交わる子午線」から構成される。
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 上図の[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、医術が未発達であった太古以来人類は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。(というのも、出産児の頭が骨盤入口を通りぬけてせまい産道を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの出産児の頭の旋回による〈神秘的な命のいとなみ〉は実際に目撃できたからである)。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡と外交を結んでいた。したがって、倭人国の使節は「産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲になって、[亠](天頂緯度線と子午線)をキャッチ」して玄界灘を往来していたことになる。だから、「倭人国の使節が往来した九州の陸地から遠く離れる大海」は「[玄]の字源・字形・字義をあらわす大海」であったゆえ「玄界灘」と名づけられたのである。

 日本列島における西の端には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島がある。日本列島の東端には、伊豆諸島の神津島(こうづしま)がある。沖ノ島と神津島は、共に北緯3414分に位置する。
 神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部(愛知県・静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登地方)まで分布していた。
 なんと神津島の黒曜石は約3万年の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。
 神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人たちは【天頂緯度線をキャッチできる能力(本能と眼力)】を有していた。だから、伊豆半島から遠く隔たる大海を往来し、滋賀県・近江や北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海であると注目するが、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。というのも、現代史学は【原始のときから人類が天頂緯度線をキャッチして大海を往来した海洋航海についての科学的知見】を喪失(そうしつ)している。このため、この旧石器時代の神津島の海洋航海の秘密をまったく解明することができない。
 要するに、現代史学が【「約3万年前の旧石器人たちは天頂緯度線をキャッチできた」という科学的事実】に気づけば、旧石器人たちが大海に浮かぶ神津島の黒曜石を手にいれることができた秘密がいとも簡単に明白となる。
 現代史学は『魏志倭人伝』に記述された本州列島地理における【時計回りに90度転回する方位規定】〕は約3万年前の旧石器人たちが神津島の黒曜石を手に入れた海洋航海における【天頂緯度線のキャッチの習慣・伝統】にもとづいていることにまったく気づいていない。
 現代史学は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕をまったく有していない。だから、旧石器人たちが神津島から黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。言いかえると〔人間の、頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力〕や〔[][]の字源・字形〕は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕を表示するものであることに現代史学が気づけば、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は完全なる空理空論・デタラメであったと即座に断定することができる。

◆学界は〔現在の日本列島地図を思考基盤にする邪馬台国九州説・邪馬台国説畿内説は完全なる空理空論・デタラメである実体〕にまったく気づいていない。
 これから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の思考基盤の【北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定める日本列島地図(地理)】では人類は原始の時代にすでに滅亡していたことになり、現在の日本列島にはヒトは一人も居住していない結果になる事実を証明する。これゆえ、もちろん、現在の日本列島地図を思考基盤とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の主張だと〔卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、日本列島にはヒトが一人も住んでいなかったことになる【科学的事実】〕について証明する。

 学者たちは全員、〔原始以来、人類は天頂緯度線をキャッチできたという科学的知見〕をまったく有していない。
 だから、学者たちは全員、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、現在と同じく天の北極や北極星がある方角を〔北〕と定めていた。したがって、『魏志倭人伝』の九州以下の本州(本土)列島地理の方位は現在と同じであった」と思いこむ。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】にまったく反している。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。

下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔90分の直径の円を描く北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかったゆえ、ましてや卑弥呼時代の〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力を、人類は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神(しにがみ)であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 いっぽう、前述したように、原始のときから人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように「玄界灘」の先頭字[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの天頂緯度線をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や旅の各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を規定する目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、もとより、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ日本列島地理】を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史上に存在しなかった書物であったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメ、インチキであったのである。

◆現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

 上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した【天の北極の高度を緯度に換算する方法】はまったく別物である。
 というのも、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】だと〔1度の60分の11分の誤差以内で精確に緯度が測量できた〕ゆえ、魏・帯方郡と倭を隔てる大海・玄界灘を往来できて魏と倭は国交を結ぶことができたと【科学】が成立する。しかし、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと玄界灘に入った倭の使節は途中で死滅して魏・帯方郡に到着できず、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかったことになるゆえ、どうして約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実在するのかと矛盾・不合理も甚(はなは)だしい結果となって【科学】がまったく成立しないことになるからである。
 『魏志倭人伝』は「原始から受け継がれた習慣【天頂緯度線をキャッチする方法】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図における方角と時計回りに90度転回する方位規定の本州日本列島地理を制定していた」と説明していたのである。

 このように、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と【天の北極の高度を緯度換算する方法】を比較すると、【天の北極が在る方角を〔北〕と定める現在の日本地図を思考基盤】とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は空理空論、科学的知見を喪失する非科学説、デタラメであったと直(ただ)ちに断定できる。
 
◆前述したように、九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
S394
 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
S15
 現在の日本列島地図では〔天の北極〕と〔倭地(本州)地理〕が1セットとなって一体化するが、卑弥呼時代では〔原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣〕と〔倭(本州)地理〕が一体化することになり、ゆえに〔天の北極〕と〔倭地理〕はまったく別物・無関係であって一体化しないことになったのである。
 前述したように、卑弥呼王朝が「倭地理の東端にある神津島は中国の海岸線地域の南部に在る」と立論した神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から本土に運ばれて利用されていた。旧石器人たちは〔天頂緯度線をキャッチする方法〕で神津島と本土の中間の大海を往来していたのである。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は〔原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの【科学】〕を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は南に所在する」と転回日本列島地理を制定したのである。
S14
 上図のごとく【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて、『魏志倭人伝』は朝鮮半島の帯方郡から倭地における対馬国・一大国以下32か国の小国の所在地を説明していたことになる。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように、[()][()]、そして[()][]の字源・字義は「時計回りに90度を方位は転回する」であった。
 ゆえに、卑弥呼は上図の転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭人国」と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り(倭人在帯方東南大海之中)」は、「【原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣】にもとづいて卑弥呼王朝は方位規定を時計回りに90度転回する本州地理を制定して、国名を倭人国と定めた」と説明していたことになる。 

◆日本列島は大海で包囲されている。
 この大海で隔てられる日本列島に、原始からどのような方法でヒトは住み着いて生活できたのか?
 ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(精確に緯度を測定)】して日本列島に到着し、鬱蒼(うっそう)として原始林におおわれる樹々(きぎ)のあいだに見える夜空の【天頂緯度線をキャッチ】して遠くの各地に旅して生活必需品を求め〈いのち〉をまもって生活していたのである。
 だから、約3万年前の後期旧石器時代には太平洋に浮かぶ神津島から産出される黒曜石が本土に運ばれ、約1700年前の後期弥生時代には沖ノ島と神津島が同緯度であることを卑弥呼王朝は知っていたのである。
 また、わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように――約4000年前の中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、約4250年前の五帝時代末の舜(しゅん)帝の治世から「正確な中国海岸線地図作成する官職」の「虞()」に約250年間も従事していた名門・益(えき)氏の王子と若者たちが日本列島の東北地方に定住した。益氏は〔正確な中国海岸線地図とその南北の気候〕を伝え、約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、黄帝につかえた【倉頡(そうきつ)が黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を発明した、その理論(漢字作成理論)】を教えひろめた。
 だから、卑弥呼王朝は【同緯度の沖ノ島と神津島による〔西冷東暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて「日本列島の東方は中国海岸線の南の方へ延びる」と定める転回本州地理を制定したのである。この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡が作った「いね()」の象形とされる[]の字によって確立され、黄帝は[]の標識を「黄帝軍の軍門の形」と定めた。倉頡は【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(かいせん/第1回旋と第4回旋)】を[]の字源・字形・字義に定めて[]は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。倉頡が作った[]の字源・字義は後にそのまま[]の字に受け継がれ、また[]の字にも受け継がれた。
  倉頡は[]の字をもって【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(1回旋と第4回旋)】で表現することにした。というのも、当時は出産児が時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけることができずに死亡する事故が多発していたゆえ、倉頡は「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の姿勢(側身形)」をもって〈いのち(人の生命)〉をあらわすことにしたのである。このため、約3300年前に出現した契文(けいぶん/甲骨文字)と約3000年前から出現した金文(きんぶん)[]の字形は「頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬける(1回旋するときの)、出産児がアゴを胸につけてヒザを曲げる屈位(くつい)の側身形(姿勢)の図案」となった。つまり、[]の字源・字形(字の原形)・原義は「出産児が頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけるときの、アゴを胸につけヒザを曲げる屈位の姿勢(側身形)」であった。
 だから、「本州の〔東〕は〔南〕となると定めた転回本州地理」は[][]の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国家名を「倭人」と定めたのである。

◆以上のごとく、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の研究における出発点は【天頂緯度線のキャッチ】と定めなければならなかったのである。
 『魏志倭人伝』研究の出発点を【天頂緯度線のキャッチ】と定めれば、全体としての【科学】も成立し、『魏志倭人伝』の記事と関係する考古学はじめ音韻学・漢字学(漢字の起源)・卑弥呼時代の正確な地図作成方法など様々な学術分野における【科学】が成立する。
 ところが、学界そして学者全員は【天頂緯度線のキャッチ】を『魏志倭人伝』の研究における出発点と定めない。ゆえに、『魏志倭人伝』の研究に絶対に必要不可欠な【天頂緯度線のキャッチ】という科学的知見を喪失する学界は邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が完全なる空理空論・デタラメであることに気づかない!
 愛おしき日本人よ もういいカゲンに、邪馬台国説にダマされるな もう十分タップリ日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説にバカにされるな 邪馬台国説にダマされるということは 日本人としての尊厳を冒涜(ぼうとく)されることであり 要するに日本人としてのいのちと心と魂を愚弄(ぐろう)されて 最も貴き大事なものを奪われて魂のヌケガラ・フヌケになるということなのである! だから 邪馬台国説にはバカにされるな 愛おしき日本国民ヨ 目覚めよ!

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2022年4月18日 (月)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・7

#邪馬台国説はすべてデタラメ、インチキ、ウソだった!


◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説は無視せよ!
 日本国民は、もういいカゲンに
 邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆倭女王・卑弥呼で登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。晋王朝に秘蔵されていた【西暦200年~250年ころに魏へ送られた倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観(自分の考え)をいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末尾に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末尾の倭人伝〕が通称『魏志倭人伝』とよばれる古文献である。

 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――〔今から約4000年前に、【わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事】を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の国書の記事〕がそのまま書き写されていたのである。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は――西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を卑弥呼が夏音文字で書いた【倭の国書】から書き写された――つまり、その実体は倭国(わが国)で作られた歴史史料であったことになる。

◆わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。
 つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 前述したように、『魏志倭人伝』は「夏代初頭に習得した夏音文字を用いて卑弥呼が書いた文書(国書)」にもとづく史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。
 上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
 【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書は「賤(いや)しい」と意味した。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義が「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 この三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、わが国は夏音文字を習得していた」と明確に示していた。
 にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。そして、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成された。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。だから、伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】を字書にして、夏音文字を楷書に正しく変換することができたのである。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――「倭女王・卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と主張した、江戸中期に生存した新井白石(16571725)の意見は空理空論であると断定されていた。ゆえに、邪馬台国説は、もともと、『魏志倭人伝』をデタラメ読みした誤読の空論であったのである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する歴史書である」と確信されていた。ゆえに、現在、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りとされており――黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然(げんぜん)と残っている。
 だから、『魏志倭人伝』の【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】の記述によって【「黄帝と倉頡は歴史上に実在した人物であった」という事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であったのである。
 その証拠に、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6」でも解説したように――卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であった。
 中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。これゆえ、中国でも・諸韓国でも・わが国でも【国防のために黄帝軍の無敵であった軍事力】が渇望(かつぼう)されることになった。このため、当時は【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視した空論であったのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真の左側は東・右側は西となる形式〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕を配した。
 前に提示した〔夏の銀河各部の名称図〕の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。この「鬼の姿に似る銀河のうちの、その横顔の銀河」を、私は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
 下の図における下部の「鬼の横顔に似る銀河」には、「目」と見立てられる箇所が4ヵ所ある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」と定めた。
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 中国では、古来より「漢字は倉頡によって発明された」と伝えられていた。この倉頡伝説では「倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれた。下図の「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説において「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」であった。
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 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説を簡略化すると下記のごとくなる。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述したように、倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は揚子江に到着して禾(いね/稲)を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して禾()を大事に育てた」と意味した。
 なお、倉頡は[()]の字を作った。後に倉頡が作った[]の下に[]が加わる[()]の字が作られ、さらに人偏が加わる[()]の字が作られた。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察しないで無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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◆黄帝は東洋最古の医学書『内径』を作ったと伝わる。
 前述したように、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――『魏志倭人伝』によって「黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器】を研究した事実」が証明される。また、『魏志倭人伝』によって、「倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすことができる文字を発明すること】であったと証明される。

 出産時の生子(せいし/赤ちゃん)の頭蓋骨が骨盤入口(骨産道)を通りぬける様子は、膣(ちつ)の入口(膣口/ちくこう)から見える。
 出産児の頭蓋骨は骨盤入口を通りぬけるとき――骨盤入口の断面は正円形ではなく、上部では左右のほうが広く、下部では前後のほうが広いので、そこを通りぬける出産児の頭はその仕組みに応じて「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口から誕生する。
 このような出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ膣口から頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は、上記したように膣口から見える――つまり、分娩室に入室してわが子が誕生する瞬間を見学したいと希望して妻の出産に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃することができる。
 出産児の頭蓋骨が健気(けなげ)に膣口を目指して産道を通りぬける4回の回旋シーンは、言葉であらわすことができないほど感きわまって泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【出産児が産道をとおりぬける、最も神秘的な感動きわまりない光景】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」をあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に豊かな実りをあたえて飢えさない」という政治スローガンを表示する字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすことにした。また、倉頡は[]は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える」という政治スローガンを示す字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわした。

◆黄帝と倉頡は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した。当時は、わが国において中期縄文時代初頭であった。当時、わが国には【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】を造形モチーフとして作られた有名な妊娠土偶(にんしんどぐう)がある。
 わが国における最古の国宝は、長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館が所蔵する「縄文のビーナス」呼ばれる土偶である。この「縄文のビーナス」は、上記したように、黄帝と倉頡が生存した中期縄文時代初頭に制作された。
 上記したように、「縄文のビーナス」は【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】をモチーフにして造形された。
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 上の写真で示した「縄文のビーナス」の身長は27センチである。この土偶は壊れた箇所が無い・完全の形で出土された。「縄文のビーナス」は妊娠土偶であると指摘されている。
 つまり、身長が27センチは子宮に宿る第12週~第20週くらいの胎児、あるいは当時は栄養が豊かではなかったゆえ第15週~第25週くらいの胎児の身長をあらわしているのであろう。(注 現在における第12週~第20週の胎児の身長は平均2030センチとされる)
 上記したように、尖石縄文考古館では「縄文のビーナス」を「妊娠土偶」と指摘する。ゆえに、「縄文のビーナス」は八ヶ岳山麓地域における「子宮に宿る胎児と出産と女性の生殖器(子宮や骨盤)に対する知識」を造形した土偶であったと考えるべきことになる。
 だから、「縄文のビーナス」の造形モチーフは【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と共通する。
 さらに、「縄文のビーナス」は【黄帝の医学研究】の造形モチーフと共通するだけではない――特に注目すべきは【倉頡が作った「十字の銀河」の中央に〔イネの茎と穂が垂れる図書〕を重ねて作った[]】の造形モチーフとも共通する。
 その証拠に、上の写真が示すように「縄文のビーナスの胸部」は「十字の銀河の胸部」と同じ「十字形」である。また「縄文のビーナス」の表面はよく磨かれて光沢があり、材料の粘土にはキラキラ輝く雲母(うんも)が混じり、「十字の銀河」の金色の輝きに合致する。
 だから、「縄文のビーナス」は上に提示した〔[][][]の字源・字形・字義となった、秋の収穫期に畑一面に黄金色に輝く禾(イネ)の穂の図書〕を重ねる「十字の銀河」をモデルにして「子どもの出産と女性の生殖器の知識」を表現する土偶であったことになる。さらに「縄文のビーナス」の「ハート形の顔、切れ長のつり上がった両目、ちょこっと尖った鼻、小さなおちょぼ口」は「胎児や出産児の顔かたち」をあらわす。あるいは、腹部は「妊婦した母親のおなか」、臀部(でんぶ)は「妊娠した母親の大きなお尻(しり)」を表現している。

◆下に示したように、「十字の銀河」は〔女体の姿〕に相似する。
 上記したように、「十字の銀河」をモデルにして「縄文のビーナス」は作られた。その証拠に、「縄文のビーナスの胸部」と「十字の銀河の胸部」は共に「十字形」である。
 しかし「縄文のビーナスの腰」と「十字の銀河の腰の形」は異なって合致しない。
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 下に、〔女性の上から見た骨盤腔(こつばんこう/骨盤の空洞)と「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)」の図〕を示した。
 下図に示すように、〔女性の腹部側の骨盤腔〕と〔十字の銀河の北側の頭の穴〕の形が合致し、〔女性の臀部(おしりがある背側)の骨盤腔〕と〔十字の銀河の南側の頭の穴〕の形が合致して、〔女性の骨盤腔と十字の銀河の頭の暗黒天体部〕の両者の形は相似する。
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 下に〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の図〕を示した。
 この〔女性の骨盤図のおける下部は臀部側、上部が腹部側〕となる。
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 上図のおける〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の合体形〕のイラストを、下に配した。
 下のイラストと〔縄文のビーナスにおける腰部から上の体形〕は共通する。だから、〔縄文のビーナスの腰〕は〔女性の骨盤〕を表現したと考えるべきことになる。
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 上図における〔縄文のビーナスにおける腹部から上の上半身〕は〔正面形〕である。しかし、上図の〔骨盤の形〕は〔縄文のビーナスの腹部〕と〔臀部・背側の形〕を合致させ、〔縄文のビーナスの背側〕に〔骨盤の腹部側の形〕を合致させている。ゆえに、〔縄文のビーナスの腹背〕と〔骨盤の腹背〕の両者の向きは〔正反対〕となって不合理・矛盾する。
 しかし、下図に示すように、膣口から頭が誕生する時の出産児(赤ちゃん)の顔は、母体の背(臀部)を正面とする。だから、上図の〔縄文のビーナスの上半身と骨盤を合体するイラスト〕は「赤ちゃんの頭が誕生するときの、骨盤と赤ちゃんの顔の向き」をあらわす。ゆえに、「縄文のビーナスの腰の形」は「子の出産」を表現するデザインであったことになる。
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 下図は〔縄文のビーナスの正面と出産児の頭が誕生したときの、骨盤・出産児の顔の合体図〕である。下図が示すように、〔縄文のビーナスの顔〕と〔出産児の頭が誕生したときの、出産児の顔〕の向きは共通する。
(注 なお、下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の34ページにある〔縄文のビーナスの正面図〕に〔骨盤図〕を合体した)
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 「縄文のビーナス」が出土した尖石遺跡群における棚畑(たなばたけ)遺跡は北緯36度に所在する。
 下図に示すように、「縄文のビーナス」が制作された5000年前(中期縄文時代初頭)、「縄文のビーナス」が出土した北緯36度の棚畑遺跡の天頂緯度線(+赤緯36)が「上から見た女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部の中央部」を貫通していた。
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 今から約5000年前の中国の黄帝時代とわが国の中期縄文時代初頭、そして卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、天頂緯度をキャッチして緯度と方位を精確に測定して、人々は遠くの地や大海を旅して家族が待つ家に帰還していた。
 ゆえに、下図の〔縄文のビーナスの背面図における帽子とか髪型〕と指摘されている部分の頂部には「渦巻き文」が刻まれている。
 だから、「縄文のビーナスの帽子または髪型」は「骨盤」、言いかえると「女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部」を表現するデザインであった。したがって、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤の頂部に刻まれる渦巻き」は「せまい産道を通りぬける、出産児の4回の回旋」を表現する意匠(いしょう)であった。
 (注 下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の35ページにある〔縄文のビーナスの背面図〕である)
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 上図における「縄文のビーナスの頭部の骨盤頂部に刻まれる渦巻き」は「尖石遺跡集落群の天頂緯度(北緯36度)」と「出産児が4度回旋して通りぬける産道」の合体意匠である。というのも、縄文人たちは「天頂緯度線のキャッチ(緯度の精確な測量)」と「出産児の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたからである。
 つまり、縄文人たちは「瞬時(4~6秒間くらい)に天頂緯度線をキャッチして【命】を手に入れ」、出産児は「瞬時に産道を通りぬけて【命】を手に入れ」ていた。ゆえに、「【命】を手にいれることができる天頂緯度線をキャッチする黄金色に輝く十字の銀河の、その頭部」と、「はじめ無色透明であったもの胎児の皮脂(ひし)などで黄金色となる羊水で潤(うるお)う産道を通りぬけて【命】を手に入れる出産児の黄金色の羊水を浴びる頭」の両者は、尖石集落に住む人々にとって【黄金色に輝く、最も貴い命】をあらわすことになった。
 だから、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤頂部に刻まれる渦巻き文」は「天頂緯度線のキャッチ」と「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を表現する意匠であった。
 「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を倉頡は[禾]の字で「時計回り90度転回する、第1回旋と第4回旋)」をあらわし、[呉]の字で「反時計回りに90度転回する、第2回旋と第3回旋」をあらわした。
 いっぽう、「縄文のビーナス」は「骨盤を頭にかぶる帽子のごとく造形して、その骨盤頂部に刻む渦巻き文」で「産道を通過する出産児の4回の回旋」を表現した。
 上記したように、「縄文のビーナスの頭がかぶる帽子(骨盤頭頂部)に刻まれる渦巻き文」は【縄文人たちは、日々、天頂緯度線をキャッチして精確に緯度と方位を測量するを習慣にしていた】と、現在に伝えている。
 言いかえると、「縄文のビーナス」は【縄文人たちは、天の北極を基準にして方位と緯度を測量していなかった】と、現在に伝えている。

◆下図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 原始のときから、ヒトの脳には、下図に示す〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬(たんれん)すれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂の銀河部を地理代わりにして、「天頂緯度線」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
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 上図の右上にある漢字[亠(とう)]は「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と90度交わる子午線」から構成される。
 下図は、〔[(げん)]の字源解説図〕である。[][]の下に[(よう)]が加わる。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチすると欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな子)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわす字であった。
 だから、[]の字源が示すように、また上記したように、中期縄文時代初頭の尖石集落の人々は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。また、同時代の黄帝や倉頡はじめ中国の人々も「天頂緯度線のキャッチと、幺(出産児)の産道の通過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたことになる。
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◆前述したように、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角を【北】と定めるものであった。だから、『魏志倭人伝』に記された方位は現在の日本地図と同じく考えなければならない」と主張する。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】がまったく成立しない空理空論であった。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔北極星〕を目星(めぼし)にして〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 この〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度を、1分以内の精度で測量できる本能〕は、人の脳にはそなえていなかった。また〔精確に1分以内の精度で測量できる眼力〕も、人は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。これゆえ、「天の北極と北極星」は人々の【命】を奪う死神(しにがみ)であった。だから、原始・上古・古代にあって「天の北極と北極星」は日本列島地図の【北】を表示する基準にはならなかった。
 邪馬台国説をとなえた新井白石以来現在まで約300年間も、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角が【北】と定まっていた。ゆえに、『魏志倭人伝』に記述された方位は現在の日本地図で考えるべきである」と主張する。しかし、上記したように【天の北極は「死の闇」に閉ざされた、命が絶たれる天体部】であった。だから、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、〔不吉な【死】の天体部、天の北極〕を〔地理における方位の基準〕とするはずがなかった。
 いっぽう、原始のときから、人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは大海上や旅の各地で天頂緯度線をキャッチして朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していた。だから、魏と倭の国交を結ぶ〔倭の国書〕を魏王朝は手に入れることができ、後に晋王朝に秘蔵された〔倭の国書〕を閲覧した陳寿が〔倭の国書の記事〕をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼王朝は〔天の北極や北極星〕を【北】と定める日本列島地図を制定するはずがなかった。というのも、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りは玄界灘で死滅し、〔倭の国書〕を魏都に届けることができなかったからである。だから、もとより、卑弥呼王朝は〔天の北極と北極星がある方角を【北】と定める、日本列島地理〕を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本地図の基(もと)に方位を考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史史料として存在しなかったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる【学者たちの、現在の日本地図で立論する視座】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメであったのである。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に記される「一大国」は「一支国」の誤記であったと主張する。
 しかし、倉頡は「十字の銀河の腰にある子宮の相当する銀河部」を「十字の銀河の子宮」と定めた。そして、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 だから、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて小国名を「一大国」と定めた。ゆえに、「一支国」が正しいという意見は空論であった。

 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この【「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準】にして――[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて、下図に示す【本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある】と定める【転回日本列島地理】を卑弥呼王朝は制定したことになる。
 つまり、下に示す【対馬国と一大国を除く、九州以下の本州地理における方位】は、卑弥呼が統治した国名「倭」の字源をあらわすことになる。
 下に、【[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】を配した。
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 上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ百里行くと不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 したがって、上に提示した【転回日本列島地理】に示したように――倭女王の卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」であった。「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心」は、下記の記事ともすべて合致して合理となる「山陰出雲、現在の島根県東部」であった。
 上記の旅程記事に関係する、下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していたことになる。
 『魏志倭人伝』は九州について「女王国(山陰出雲地方)より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」。つまり「女王国(山陰出雲地方)より以北には、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()が存在するが、この余白地域は女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と説明している。ゆえに、「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域」は、「現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県」であった。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国(山陰出雲地方)の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に配した【転回日本列島地理】に図示したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国(出雲)の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中土で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆上に提示したように、卑弥呼王朝は【「九州の末盧国以下の本州の地理」を、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で統一する列島地理】を制定していた。
 だから、『魏志倭人伝』は「末盧国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴国がある。奴国の東へ百里行くと不弥国に到着する」と記述する。
 下の〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲・旅程基点の地図〕が示すように――〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の福岡市の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は、上記した『魏志倭人伝』の〔末盧国から不弥国までの旅程記事〕にすべて合致するゆえ、すべて合理となって【科学】が成立する。
 これゆえ、『魏志倭人伝』の全記事は正確であり「卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定していた」と説明していたことになり、邪馬台国説はデタラメ読みした空理空論であったことになる。
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 さらに、下図に示すように、「末盧国」であった「佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐をのぞく長崎県)」には、卑弥呼王朝が制定した[]の字源の方位規定が現在も残っている。
 下図の「末盧国の地宜」は「[]の転回方位規定にもとづいて横転する飯器(はんき/飯(めし)を炊く土器」に相似すると見立てられた。というのも、「末盧国」の[]の字について、『説文解字』は「飯器」とするからである。「末盧国」の[]は「秋の収穫期の末期」を意味すると考えられる。というのも、『説文解字』は[()]の字源を「寄(かりや)なり。秋冬には去り、春夏には居る」と解説するからである。[][]の字は相似し、「末盧国の地宜」は「秋の収穫の末期に、収穫を祝って炊く飯器の形」に相似する。
 だから、「末盧」という小国名は「秋の収穫期の末期に、収穫を祝って炊く飯器」であったことになる。
 下に示す〔[]の転回方位にもとづく末盧国の地理〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は矛盾せず合理となる。また「西彼杵(にしそのぎ)」「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も合理となる。だから、「末盧国、現在の佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに現在まで残ったことになる。
 現在の日本地図の方位規定にもとづくと――「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならず不合理である。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵」と「東彼杵」という地名も矛盾する。
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◆上に提示した【九州以下の本州の方位が[]の字源をあらわす転回日本列島地理】は、『魏志倭人伝』の方位記事と一ヵ所も矛盾しない。そして、【転回日本列島地理】は『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も主観を加えずに客観的思考に徹する意見であるゆえ、【科学】が成立する。
 だから、『魏志倭人伝』は、上に提示した【本州地理が[]の字源「東→南」へ時計回りに90度方位が転回する日本列島地理】を卑弥呼王朝が制定していた――と説明していたことになる。
 しかし、学者たちは全員、「北極星や天の北極は〔北〕の基準となる」ゆえ、卑弥呼王朝が〔東・西・南・北〕の方位を絶対に誤るはずがないゆえ、卑弥呼王朝は現在と同じく天の北極を〔北〕とする本州地理観を有していたと断定して、上に提示した【転回日本列島地理】を即座に「誤っている」と否定する。
 だが、前述したように、上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した「天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法」と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した「天の北極の高度を緯度に換算する方法」を比較すれば――〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図を用いて立論する邪馬台国説はわずか1時間足らずで完全に空理空論、非科学説、臆説(おくせつ)であったと断定できる。

 以上のごとく、邪馬台国説はすべてデタラメ・インチキ・ウソであったのである。
 『魏志倭人伝』によって日本国民が日本人として生きる真理、権利が明らかとなる。
 だから、邪馬台国説に日本国民は棄てられ、日本人として生きる人権を侵害され、日本人として生きる尊厳を冒涜されて侮辱されている!

 日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は無視せよ! 日本国民は、もういいカゲンに 邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説に バカにされるな! 愛おしき日本国民ヨ! 目覚めよ!

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2022年4月13日 (水)

新刊「邪馬台国」は存在しなかった

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邪馬台国説は完全なる空理空論だった。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記している。
本書は「邪馬壱国」という女王国名の由来を詳細に明確に科学的に証明して、邪馬台国説が完全なる空理空論であることを証明した。

愛おしき日本人よ。邪馬台国説にダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな!

日本国民は、もうイイカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
もう十分、日本国民はダマされた! 愛おしき日本国民よ! 目覚めよ!

 

 

 

 

書籍紹介

現代史学が力説する邪馬台国説は日本四千年の学問史を消滅させる誤読の空論であった

令和元年の大嘗祭は4000年の学問史を示す大祭であった。だから大嘗祭は宗教儀式ではない。

【日本四千年の学問史】大川誠一

ダウンロード - nihon_4000nen_no_gakumonshi.pdf (約2.03MB:無料版)

 

kindle版の『日本国誕生史の証明」と『大嘗祭の証明」を販売を開始しました。
各書はともに1000円。
いままで類をみない画期的で魅力のある著作物にしましたので、どうぞよろしくお願い申しげあげます。

 

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2022年4月 9日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6

#日本人ヨ! いとおしき日本人よ!


◆日本人ヨ!

(いと)おしき日本人よ!

邪馬台国説にはダマされるな!

 邪馬台国説は相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を伝える歴史書にして、倭女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』は280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。歴史編纂官の特権から陳寿は晋王朝が秘蔵していた【魏へ送られた倭の国書】を閲覧することができた。【倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には漢字の起源の秘密を保存する太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観・自分の考えをいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』とよんでいる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――【今から約4000年前に、わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の文書】をそのまま書き写して、陳寿は『魏志倭人伝』を著作した。
 わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 『魏志倭人伝』は「倭国は夏代初頭に夏音文字を習得した」という歴史の基(もと)に説明する史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。

◆上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書では「賤(いや)しい」とする。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義は「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には漢字の起源の秘密や、もしくは太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 このような三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、倭は夏音文字を習得していた」と明確に示している。にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであった。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしもウクライナを侵略したプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』によって「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。だから、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然と残っている事実――が明確となる。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】によって【黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であった。
 それというのも、卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であったからである。
 
中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、【黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策】が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。
 中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。
 「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすために、[]の字を作った。つまり[]の字源は「巫女(みこ)たちが祈祷し祝って生まれた人民たちの子どもたちが、この世に満ち満ちあふれる」であった。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「夏の銀河」であった。
 このように、卑弥呼が生存した時代は中国と諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を示すことになった。だから、中国はじめ諸韓国と倭国の自衛・国防にあって【黄帝と倉頡の学問の復興】が最も重視され、真っ先に必要とされたのである。
 したがって、卑弥呼が【倭国の国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在した王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると押しとおして「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と日本国民をダマす。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器、つまり子宮・産道・骨盤や骨盤入口など」であった。
 だから、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)」の研究】と、【「女性の生殖器()」の研究】をあらわした。
 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」を「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」を「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである。したがって、小斜径より2センチ大きい前後径の場合、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の頭蓋骨の小斜径」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨がせまい産道を通りぬけることができる仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]について説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であった。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている」と証明できた文献史料であった。
 というのも、上に示した「四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現していたからである。
 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説は下記のごとく説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。


◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。

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◆前述した「邪馬」の「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる、小斜径の頭蓋骨」は骨盤入口をくぐりぬけるときに「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口(ちくこう)から脱出して誕生する。
 この出産児の骨盤入口をくぐりぬけてから膣口を脱出した頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は目で見ることができる――つまり、分娩室に入室して妻の出産の様子に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃できる。
 この出産児が産道を通りぬける頭蓋骨の4回の回旋の光景は、言葉であらわすことができないほど感動的で泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【黄帝の医学研究における最も神秘的な生命のいとなみ】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」はあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反()時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]の字は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に飢えさないとする」という政治スローガンを表示すると定めて、黄帝の仁徳・慈愛の政策をあらわした。[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をそのまま受け継いだ[][]の字も「五穀豊穣、黄帝の仁徳・慈愛の政策」を表示することになった。また、[]そして[]の字は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える意」をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間にある「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆〔一大国の地宜(海岸線の地図の形)〕は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられ、また【漢字作成理論を象徴する聖獣】の「フタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地域に岐(わか)れる〕。ゆえに、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となった。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪()め」である。ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも中国や諸韓国が侵略・来襲してきたならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられた。
 [伊]の字は「100頭のジャコウウシが外に鼻を・中央に背中を向けて、円陣(円形の軍陣)を組む習性」をあらわした。[]の字は「円形の城壁をめぐらす軍事都市」をあらわした。ゆえに、脊振山地(せふりさんち)の北側の現在の福岡県糸島市から脊振山地の南側の佐賀県佐賀市一帯の小国名を、卑弥呼は「伊都国」と定めたことになる。
 また、伊都国王「一大率」という名が示すように、「伊都国」という小国名は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわした。ゆえに、伊都国は「倭国の自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬国・瀚海・一大国から外へと逐()いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆卑弥呼は、国名を「倭人国」と定めた。
 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準にして[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて「本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある」と定める転回日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を配した。
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上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ行く百里に不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 さらに下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していることになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は九州について「女王国より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」、つまり「女王国より以北では、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()は、女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と記述する。
 この「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域は、現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県であった。この余の旁国地域は、上の【転回日本列島地理】では『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国以北に所在して、女王国から遠く離れている」。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に示した【転回日本列島地理】の右側に記したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆現代の日本列島地図にもとづいて考える邪馬台国説学者たちは、上に提示した【[]の字源をあらわす、本州が時計回りに90度転回する日本列島地理】が『魏志倭人伝』の旅程と方位記事にすべて合致するゆえ【科学】が成立して事実を伝えていたことに気づかない。
 『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると、〔卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定した事実〕が【科学】が成立して証明される。
 []の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついでいた。
 下に現在方位にもとづく「末盧国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
 2世紀初頭に成立した〔字書の聖典〕とよばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、「末盧」は「秋の穀物の収穫作業の末期(終わり)、飯(めし)を炊く五穀豊穣の祝い」を意味したと考えられる。
 下の地図に示したように、末盧国の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海にそそぐ塩田川(しおだがわ)の上流を結ぶ地域を結んで境界線と定めると――〔末盧国北部の地宜〕は「縄文時代の飯を炊く土器の形」に相似し、〔末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島地宜〕は「飯器を炊くカマドの炎の形」に相似する。
 ゆえに、〔末盧国〕は〔松浦川と塩田川より以西の佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐を含まない)〕であったことになる。
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 上の末盧国における「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならない。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵(にしそのぎ)」と「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も矛盾する。
 下に示す〔[]の転回方位規定にもとづく末盧国の地宜〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は合理となる。また「西彼杵」「東彼杵」という地名も合理となる。
 だから、「末盧国、佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに保存されて現在まで残っている。
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◆だから、前述したように、卑弥呼王朝は【末盧国以下の本州の方位規定を、[]の字源をあらわす「時計回りに90度転回させる」日本列島地理】を制定したことになる。
 前に示した【転回日本列島地理】では〔末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旅程基点〕が明確に示されていない。
 ゆえに、下に〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲と旅程基点の地図〕を配した。
 下の図の〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は『魏志倭人伝』の記事とすべて合致する。
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 だから、前に提示した【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】に表示したように、倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国の範囲は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県西部」であったことになる。
 そして、「現在方位の北」は「[]の字源の転回方位の東」となるゆえ、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆、倭種なり」と記述する小国は日本海に浮かぶ「隠岐群島」であったことになる。というのも、日本海には「皆、倭種なり」と説明する「多数の島からなる群島」は隠岐群島以外一ヵ所も存在しないゆえ、「皆、倭種なりの小国」は隠岐群島であったと限定することができるからである。
 したがって、隠岐群島が東となる出雲(現在の島根県東部)が、邪馬壱国の中心地であったことになる。
 下の図は、新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレース(転写)して転回方位地図としたものである。
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 上の〔古代出雲の「邪馬壱」をあらわす地図〕の左上部には、〔神門水海(かんどのみずうみ)〕があり、右下部には〔佐太神社が所在する松江市中央部〕がある。
 上の地図における「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸と邪(なな)め」となり[馬]の字源「子どものフタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわした。また、「松江市中央部」が[壱]の字源をあらわす地宜となる。
 だから、「旧国出雲」は倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」であった。
 「神門水海」は「子のフタコブラクダの姿」に相似する。神門水海が隣接する「[]の地宜」と記した「出雲大社が所在する、フタコブラクダの横顔に似る地域」は「母親のフタコブラクダの横顔」に相似する。「[]の地宜」と記した「母親のフタコブラクダの横顔」は「子のフタコブラクダ(神門水海)の背中を口で嘗()めて撫でている形状」となる。ゆえに、この「フタコブラクダの母親が子を慈(いつく)しみ愛(いと)おしむ情景」は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわす。

◆注目すべきは、「[]の地宜」の転回方位の真南(現在方位の東)の「宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」に相当する。
 前述したように、「対馬国の上県の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てられ、「対馬国の下県の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられた。したがって、邪馬壱国における「[]の地宜」と「宍道湖の地宜」は「馬・フタコブラクダの正面形と足が一対」すなわち「対馬」という小国名に合致する。
 「対馬国」の南の「現在の長崎県壱岐」は「一大」とよばれた「十字の銀河の子宮」に見立てられて小国名が「一大国」になった。そうすると、上の図における[]と記した「佐太神社がある松江市中央部」が「一大国」に相当する。
 このような邪馬壱国中央は〔対馬の「邪馬」」と〔一大の[]〕」をあらわす地宜となるゆえ、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めたのである。卑弥呼は「邪馬壱国より以北には特に伊都国の一大率を配置して、対馬国・瀚海・一大国の外へ侵略・来襲する外敵を逐いはらう軍王」に就任して、共に国防に努力していたのである。
前述したように、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸にも邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 下図に示すように、「転回方位の南端(現在方位の東端)の宍道湖の地宜」は「人の足首より下の足の側身形」に相似する。ゆえに、「人の足の側身形に相似する宍道湖の湖岸」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に見立てられ、宍道湖に隣接する「松江市中央部」は「十字の銀河の子宮」に相当するゆえ[]の字源をあらわした。だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と理路整然と説明していた。
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◆上図の下部に示したように「宍道湖の足の側身形に相似する爪先(つまさき)」が指差す方向に意宇(おう)平野がある。[]の字源を示す「松江市中央部の南(転回方位)」からカーブを描く矢印の方向に意宇平野がある。ゆえに、「南→西の、時計回りの90度の転回」は[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をあらわす。
 また、「南→西の、時計回りの90度の転回」は「邪馬」つまり「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門がせまい産道を通りぬけるとき、時計回りに90度転回する第1回目と第4回目の回旋」をもあらわす。
 だから、意宇平野は[]の字源と「邪馬」の語をあらわす聖地であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が住む宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』は卑弥呼が住んだ宮殿について「倭女王の卑弥呼は婢()千人を侍(はべ)らせ、(中略)、女王の宮殿には楼観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、常に兵器を持った兵士が守衛している」と記述する。
 また、『魏志倭人伝』には「その国、本(もと)男子をもって王となす。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事もある。
 中国において獣性に支配される残忍な戦争が続いて一気に人口が激減していた西暦180年頃、倭国においても各国が憎しみあう戦争で乱れていた。ところが一女子が[]の字源と「邪馬壱」という語をあらわす転回日本列島地理を立論し、この転回日本列島地理をもって鬼神(きじん)の啓示(けいじ/鬼神がしめす真理)を説き、もしも中国や諸韓国が侵略すれば乱れた倭国は一気に滅亡すると指摘し警告して戦乱を終息させた。この一女子は後に「卑弥呼」とよばれる倭女王に就任し、伊都国の一大率と共に国防に努力したことになる。
 中国の後漢時代の戦争には、「媚蠱(びこ)」とよばれる「敵軍の呪的(じゅてき)戦力を高める巫女(みこ)、つまり敵軍の媚蠱を殺す魔女」がいた。ゆえに、西暦180年頃の倭国でも、戦いの先頭に霊力が強いとされた巫女が呪的戦力を高める魔女として活躍していたにちがいない。霊力の最も強いと信じられた女性は夏の銀河の暗い箇所までよく見える最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女であった。この「魔女となった13歳くらいの乙女たち」は[]とよばれた。ゆえに、卑弥呼は国中の千人の婢を宮殿に集めて、ふたたび婢(魔女)たちが活躍することになる大乱を防いでいたのである。
 だから、卑弥呼が住む宮殿が「敵の来襲を見張る高いやぐらを設営し、敵と戦う城柵を厳重にめぐらし、常に兵器を持った兵士が守衛していた」のは、卑弥呼が【倭国一の強大な戦力】を有して国内の反乱を防いで国家安定を図るためであったからである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が夏の銀河の各部の形状から文字を作った理論】と、()【夏代初頭に益氏が教えひろめた夏音文字の学術】を理路整然と説明していた歴史書にして学術書であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』は、現在のウクライナ・ロシア戦争から日本国がどのように国防に努めたらよいか、その方法を学ぶことができる最良の教科書である。
【A】ウクライナ・ロシア戦争において「米国や欧州、そしてウクライナ自身はロシアに侵略されないための努力が足りなかった」と批判する人々がいる。このような批判を重視するならば、日本は侵攻されないための外交を真っ先に努めなければならないことになる。
 日本が侵攻されると心配する最大の脅威は尖閣諸島や東シナ海・南シナ海の「歴史的権利」を主張する中国である。しかし、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史】にもとづいて日本が中国との国交に努力すれば、中国の脅威をとりのぞくことができるにちがいない。
 というのも、神話とされた黄帝は中国のすべての漢民族に祖先神と崇められ、中国の文物(学問、芸術、信仰)の制度を創造したとされ、中国人のアイデンティティーであるからである。この【中国の精神的支柱である黄帝の神話】は、『魏志倭人伝』によって【唯一無二の真実の歴史】となる。したがって、わが国が中国と誠実な国交に努めるならば、プーチンのごとくウクライナを理不尽に侵略したような愚行を、中国が強行するはずがない。
 『魏志倭人伝』はじめわが国の文物(学問・芸術・信仰)はじめ様々な遺跡や習慣・風俗などに残る多数の史料でも科学的に証明される【唯一無二の歴史となる黄帝の歴史】は、むしろ黄帝の国・中国にとって積極的に日本との友好・共栄共存に努めるべき重大な政策にして課題とすべきことになるゆえ、中国との友好を望むわが国を中国が侵略する原因・根拠・理由は皆無となるため、中国が侵略するという脅威は杞憂(きゆう)であったことになる。

【B】専制主義の中国と自由主義諸国との対立はじめ、尖閣諸島や台湾海峡が原因で中国の軍事的拡大が決行される事態となった場合――ウクライナ・ロシア戦争によって明白になったように、わが国はウクライナのごとく世界中の多数の国々を味方につける必要がある。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で具体的に解説したように、『魏志倭人伝』によって現代55億人余の人々が使用する文字の始祖・ルーツとなる古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた、漢字と同じく「夏の銀河各部の形状」から作られた事実が科学的に証明される。したがって、わが国は「文字と学術を発明した人類の歴史が科学的に証明された重大な国」と世界中の国々から注目され愛され尊敬されるにちがいない。
 これゆえ、世界制覇を目論む中国や理不尽な北朝鮮に侵攻されることになっても、北米はじめヨーロッパやアジア太平洋・アフリカ・南米などの世界中の国々は、中国や北朝鮮を野蛮な侵略国として非難し、わが国に必ず味方して援助するにちがいない。
 だから、早々にわが国は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史の解明】を国家的規模で着手する必要がある。

【C】日本の国防は【黄帝を国防の守り神とした卑弥呼の軍事政策】から始まり、国防政策は朝廷・皇室そして将軍・武家たちによって積み重ねられ――このような国防の歴史によって育成された国防意識を日本人はDNAとして受けついでいる。
 ゆえに、なぜ国家をまもらないのか、何のために戦うのか、どうして国土をまもるために戦わなければならないのか――日本国民が戦う意志や意欲を有する対策はじめとする様々な要素からなる多元的で一体性を持った国防を強化増大化するためには、『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼の国防政策からはじまる国防の歴史研究】が真っ先に必要となる。

◆だから、日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな! 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! 日本国民ヨ! 目覚めよ!
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論、妄想であったうえに、日本国の国力を蝕(むしば)む癌(ガン)であり、亡国の元凶(がんきょう)であったのだ! 

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2022年4月 3日 (日)

邪馬台国説 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・5

#日本国民よ、いつまでも邪馬台国説にダマされるな


◆邪馬台国説にダマされるな!

 邪馬台国説は無視して相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
 もう十分に、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事を誤読してデッチあげたペテン、インチキである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで正確に理解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝(こうてい)が研究した医学】と【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせんぜん)と説明していた史料であった。ゆえに、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という真実が【科学】が成立して完全証明されていた。

『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論の説明】は、わが国の幾つかの遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、現在における日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して残っている事実――が明確となる。

だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論と、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実の歴史】であったことになる。

歴史哲学・歴史科学を研究する学者たちの中には「唯一無二の歴史の真実は存在しない」と思いこむ人々がいるが――『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字発明】は、上記のごとく現在のわが国の日々の生活にも融合・同化して受け継がれているゆえ――【唯一無二の真実の歴史】は確かに存在することになる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】を説明する歴史書であった。また、『魏志倭人伝』は黄帝の史官(記録官)であった【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす文字を銀河各部の形状から文字(漢字)を作った理論】を説明する学術書であった。
 倭女王・卑弥呼(ヒミコ)は、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論と医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治して、中国や諸韓国の侵攻・侵略から衛(まも)る国防に努めた。
 
というのも、中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかったからである。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばは、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。

中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。

「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の医学研究】をあらわすために、[]の字を作った。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「倉頡が文字(漢字)を作るモデルとなった銀河」であった。
 上記したように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代は中国の魏・呉・漢と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問と、その歴史の復興】が渇望されて自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であったのである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政治理論と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 現在、中国においては、益氏が日本列島に定住した夏代初頭は神話であって歴史ではない。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって、中国の神話・伝説に登場する黄帝・倉頡・帝禹・帝益と益氏の王子と若者たちは一気に歴史上に生存した人々となる。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

1725年に死去した新井白石以後から現在までの邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の記事を正確に読むことができず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には、「倭人国には夏音文字が存在した」と伝えていたと解釈すべき記事が【A】【B】【C】の三ヵ所存在する。この記事をルビ無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の腹の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる

【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる有力な王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国(いとこく)を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換して、誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであったことになる。
 【C】『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると言いはり「邪馬台国」と誤読する。
 このような三つの事例が示すように、新井白石以後の邪馬台国説学者たち全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志を有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」によって形成され、これゆえ夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであり、ゆえに楷書の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏の全星座が漬かる銀河の範囲」、言いかえると「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡することに気づいた。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を最も厳重な機密にしないと、プーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、【『魏志倭人伝』に記述された倉頡が発明した漢字作成理論】や、【漢字の字源・字形の原形・原義の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を表示することになった。だから、中国と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡の学問と、その歴史の復興】は自衛・国防に真っ先に必要とされることになったのである。
 だから、卑弥呼が【国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は邪馬壱国であった」と記す。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。

 「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 このように、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)と女性の生殖器()」の研究】をあらわした。

 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」は「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。前後径の状況になると、小斜径より約2センチ大きくなるため、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の小斜径となる頭蓋骨」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 (注 邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである)
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨の仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]が説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆前掲した〔夏の銀河の写真の左上端よりやや下部〕は、〔夏の銀河各部の名称図〕において左上の「三つ輪の銀河の北端」となる。「三つ輪の銀河の北端」は〔蒙古のゴビ沙漠の天頂(北緯42)〕となる。
 したがって、前掲した〔夏の銀河の写真〕は〔夏の銀河の範囲〕をあらわす。
 だから、「夏の銀河における北の端(北限)」をあらわすため、「ゴビ沙漠」と「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が必要となった。ゆえに、倉頡は[]の字源を「フタコブラクダ」と定めて、「馬」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

 上記したように――ゴビ沙漠からヒトが南を正面して〔夏の銀河〕を見たとき、〔ヒトの左手側は夏の銀河の東方、ヒトの右手側は夏の銀河の西方〕となる。ゆえに、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく、倉頡は【漢字の字形を左東・右西】と定めた。

 しかし、〔ゴビ沙漠から南を正面する夏の銀河の形状〕は、下の図に示すように「人体」に相似する「十字の銀河」は「頭が地のほうに向き足が天のほうに向く、逆さとなる人の(逆立ちした)姿」に見えて不自然である。
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◆倉頡は「十字の銀河」を「地面に立つ女性(妊婦)の姿」と定めるため、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【上が北、下が南】と定め、【漢字の字形の定式】は上記した通り【左東・右西】と定めた。
 これゆえ、前掲した〔夏の銀河の写真〕は倉頡が定めた【漢字の字形の定式(上が北・下が南/左が東・右が西)】をあらわす。

 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】の則(のっと)る〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆下に[(か/イネ()]の字源銀河解説図を配した。[][]の字源は下に示した「[]のイネの穂が〔南から西へ〕と垂れる形式」をそのまま受けついだ。ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 下に〔地面に植わる禾(イネ)をあらわす、[]の字形解説図〕を配した。
 下図の右側〔[]の穂の転回図〕における〔禾の穂が「北→東」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は、上図と同じく「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「南のかた、江(こう)に至り、熊湘(ゆうしょう)に登り、北のかた、葷粥(くんいく)を逐()ふ」という文がある。
 この文は「黄帝が率いる遠征軍は、南は北緯3130分の長江口・揚子江に至り、熊湘という名の地に登った。熊湘から北へ引き返して、黄帝の遠征軍は本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還した。そして、馬・フタコブラクダを家畜とするゴビ沙漠の住民・葷粥の別名匈奴(きょうど)が北から来襲し侵略してきたゆえ逐いはらった」と説明していたことになる。
 したがって、上に配した〔イネの穂が南に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍が長江の河口の長江口・揚子江に至り、熊湘の地に登った」と表現していたことになる。
 また、上に配した〔イネの穂が北に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江で育成される稲を採取して、北の本拠地に帰還して稲を大事に育てた。そして匈奴が来襲してきたゆえ逐いはらった」と表現するものとなる。

◆これまで解説してきた事情を、倉頡伝説は下記のごとく説明していたのである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾()を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

前述したように、倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた。そして、来襲する横暴な匈奴を逐いはらった」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって歪(ゆが)めて変えることができなかったゆえ、後世の人々は文字、つまり夏の銀河の各部の形状を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

 
◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であったと説明する。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。

 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆一大国の地宜(海岸線の地図の形)が示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」と直接に関係する【漢字作成理論を象徴する聖獣】のジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地域に岐(わか)れる」ゆえ、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となる。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に相似すると見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸にも緯度軸にも邪()め」である。
 ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも外敵(魏、燕(えん)、諸韓国)が来襲したならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられて「伊都国」と名づけられた。
 そして、伊都国王「一大率」という名が示すように、伊都国は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわして「自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬・瀚海で逐いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆邪馬台国九州説の理由・根拠となる吉野ケ里遺跡は、伊都国に所在する。『魏志倭人伝』は「九州の所在する倭人国の一員となる小国は末盧(まつら)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国の四ヵ国であった」と説明する。だから、九州には女王国は存在しなかったゆえ、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論・幻想であったことになる。

 下に1番目国の対馬国から数えて24番目国の「邪馬国の地宜」を配した。
 前述したように、「邪馬」は「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・ミゾ・口の形」である。前述した[]の字源「時計回りに90度転回する〔北→東・南→西〕と定める方位規定もとづく、大和の地宜」は「邪馬」の語源「草をモグモグと食べてふくらむ鼻・ミゾ・口の形」となる。ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。
 だから、邪馬台国畿内(大和)説もまた〔デタラメ読みの論法〕を駆使(くし)した空理空論・幻想であったことになる。
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〔山陰・出雲地方の地宜〕は、明確に「邪馬」の語源と[]の字源をあらわす。だから、卑弥呼は山陰・出雲に居住していた。『魏志倭人伝』の山陰出雲・邪馬壱国までの方位記事は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にすべて合致して【科学】が成立する。したがって、卑弥呼は出雲の一画に居住していた、これが真実であったのである。

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2022年3月29日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4

#邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている

◆日本国民よ! 邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている!
 目覚めよ! 日本国民よ! 邪馬台国説学者たちと邪馬台国説の大ウソをたれ流しつづけるNHKテレビと朝日新聞出版は日本国民を虐殺しようとしている!
 邪馬台国説は日本国を衰退させ滅亡しようとする祟(たた)りであり、すべてがウソ、ペテン、インチキなのである。

◆現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアは5年後、もしくは10年後には壊滅・衰亡するにちがいないと指摘されている――このような状況から、多くの人々はウクライナ戦争が停戦あるいは終戦したあと、中国と日本は戦争となるかもしれないと心配する。
 しかし、いまが今、多くの日本人が邪馬台国説の詐偽・ペテンに気つけば、中国は日本には侵攻できない歴史的経緯・理由・根拠を知ることができる。
 というのも――【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除(はいじょ)・カットせずに、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解(どっかい)すれば――【A】中国と日本のあいだには互いに攻撃・戦争しあう理由・根拠・大義名分が存在しないことが明らかとなり、【B】わが国にあっても卑弥呼時代から今日にいたるまでの自衛・国防の歴史の一貫性が明確となり、この一貫した自衛・国防の歴史によって国民が国家・国土を衛(まも)る熱烈な魂やアイデンティティーが鮮烈によみがえるからである。
 だから、いま、わが国の自衛・国防を真剣に誠実に考える時であるとするならば、真っ先に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解して真実の歴史を知らなければならない。

◆邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合(ふつごう)な記事は何ヵ所でも排除・カットできる、【二】邪馬台国にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、〔ウクライナに侵攻するプーチン流の言いがかり・捏造(ねつぞう)・こじつけ論法〕を駆使(くし)して、日本国民をダマしている。
 その証拠に――邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に「邪馬壱(やまい)国」と記される、その[()]の字を指差して[()]と書いてあるとダマして、ウソ八百の邪馬臺()国説をまくしたててまんまと日本国民をダマしている。
 『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
 だから、「邪馬壱国」と書いてあるものを「邪馬台国」と書いてあるとダマす学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版が主張する邪馬台国説は、日本の自衛・国防を無能化する、また中国が東方へと侵略・膨張せんとする暴走(戦争)に加担(かたん)する最悪・愚劣きわまりない最大・最悪の祟り・呪(のろ)いである。
 「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む無知・無学によって獣性(じゅうせい)に支配される悲惨で残酷な戦争になるかもしれないということである。

◆〔プーチン流のデタラメ・インチキ論法〕を駆使する邪馬台国説では、ウクライナ侵攻後の中国の「大きな中国にならんとする野望による侵攻」を助長・加勢することになる。
 他方、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する邪馬壱国説ならば「自らを世界の中心に置く大国・中国にならんとする野望・野心による周辺諸国への侵攻の誤り」を諭(さと)すことができる。というのも、邪馬壱国説ならば「五千年前に生存した中国の始祖・黄帝(こうてい)の政治理念、つまりほんとうの中国の在り方」が明確となるからである。
 黄帝の名は軒轅(けんえん)といい、過去に中国で暮らしたほとんどすべての民族から祖先神と崇(あが)められた帝王であるが――現在、学説においては「神話上の人物」とされる。
 しかし、過去においては中国の始祖として歴代の王朝はたえず黄帝を崇めて祭り、人々は自分たちの祖先は黄帝であると信じて疑わなかった。共産党政権となった現在においても多くの人々が黄帝を祭る廟と墓の「黄帝陵」を参詣している。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在する。
 中国とはどのようにあればよいのか、中国人とはどのようであればよいのかと考えるとき、中国の人々にとって黄帝への思いを欠くことはできない。黄帝は中国の学問・芸術・信仰などの制度を創造したとされる、中国人のアイデンティティーであり、精神的支柱である。中国を世界の中心に置き、周辺諸国の民族を抱き込んで慈(いつく)しむ――このような中国人たちが伝統的に受け継ぐ世界観は、黄帝の政治理念を誤解して成立する。
 しかし、中国の始祖・黄帝の事績と理念と情念は『魏志倭人伝』の「倭人国」という国家名と「邪馬壱国」はじめとする34の小国名に秘められている。
 だから、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すれば黄帝は神話から歴史へ一気に登場する状況となる。つまり、黄帝は神話上の人物ではなく歴史上の人物であったのである。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭(わが国の中期縄文時代初頭)、黄帝が天下を治めていた。
 この黄帝の治世、倉頡(そうきつ)伝説は「黄帝の史官(記録官)であった倉頡が漢字を発明した」と伝える。この倉頡伝説では「倉頡は四つ目の怪人であった」と語られる。ゆえに、現在、学者たちによって「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されることになった。
 このように、黄帝と倉頡の伝説は神話すなわち歴史を伝えるものではないと確定された。
 しかし、紀元前1世紀にあって、当時の知識人たちが深く考えずに「神話である」と無視する意見に反論して、司馬遷(しばせん)は『史記』第一の〔五帝本紀〕の初頭部に歴史と考えられる事績を選んで黄帝について記述している。
 『魏志倭人伝』における主なる記事(「倭人国」という国家名と34の小国名に用いられる漢字の字源)は、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と詳細に説明している。
 「黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作った」と伝わる。
 『魏志倭人伝』は大半の記事をもって「『内経』とは【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】であった、そして倉頡の漢字の作成目的は【黄帝の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった」と説明している。
(
注 司馬遷著『史記』の黄帝紀には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字の発明】に関する記事は無い。しかし、【黄帝の医学研究】と【倉頡の漢字の発明】は『魏志倭人伝』に理路整然と詳細に記述されて、歴史であったことが【科学】が成立して証明することができる。)

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【黄帝が研究した、出産する児(赤ちゃん)5枚に分かれる頭蓋骨がせまい産道をくぐり抜けることができる仕組み(機能)】を「邪馬」とあらわし、【黄帝が研究した女性の生殖器の子宮・産道・骨盤】を[]とあらわして、卑弥呼が居住した女王国の名称を【邪馬壱国】と定めた」と記述している。
 だから、[]の字を[]と書いてあるとダマす邪馬台国説はただちに空理空論、すべてウソであったのである。
 『魏志倭人伝』は【邪馬壱国】という女王国名をもって「黄帝と倉頡は神話上の人物ではなく、歴史上の人物であった」と証言している。
 つまり、『魏志倭人伝』の55%・約1100字の記事(倭人国の34の小国名とこの小国名に関する記事)は――倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。倉頡は天文学で通称「夏の銀河」とよばれる「夏にもっとも長時間に見ることができる銀河の各部の形状」から、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす漢字を作る理論を発明した。この【倉頡が発明した漢字作成理論】は、中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏后王朝の始祖・帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と益氏の若者たちが日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)流域に定住して、東北地方から関東一円に居住する諸氏族(諸民族)に教えひろめた。よって、わが国は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と説明していたのである。
 (注 学界が神話と断定した夏后時代初頭の夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて現存する。また、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。だから、日本の国語には神話とされた夏后時代初期の漢字音が多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は夏音文字の漢字音である。)

◆再度くりかえす、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・カット(削除)できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた」という事実と、【5】わが国は今から約4000年前の夏代初頭(夏后時代初頭)に夏音文字と精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法を習得した」という事実、この【三つの事実】のもとに『魏志倭人伝』は著作されている。
 その証拠に、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると矛盾点が一点も生じず、【科学】が成立して事実であったと証明されるからである。さらに、幾つかの遺跡や日本人の様々な慣習によって『魏志倭人伝』は全記事は【科学】が成立して正確無比であると証明される。

◆『魏志倭人伝』は【A】「倭国には令亀(れいき)の法、つまり亀の甲羅(腹甲)に文字を刻む甲骨文字のごとくの初期漢字・夏音文字があった」と記述し、【B】「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書で使用する楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が相違していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都(いと)国の男王・一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちは、魏都・帯方郡・諸韓国から送られてきた文書の楷書と倭国の王たちが書いた文書の夏音文字を逐一(ちくいち)点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字に同義になるように正しく変換していた」と説明する記事がある。あるいは【C】121年頃に完成した『説文解字』は「卑弥呼」の[]の字源を「賤(いや)しい」と解説するように字源を失っていた。いっぽう、倭の夏音文字における[]の字は正しい字源を保存して「中国の海岸線。また中国の海岸線の地図の形」を意味した。
 280年から289年ころに『魏志倭人伝』の著作した陳寿(ちんじゅ)は、晋王朝につかえた歴史編纂官であった。陳寿は優れた深い学識を有する歴史家であった。ゆえに、陳寿は倭の国書にあった上記した【A】から【C】までの三つの記事はじめその他の記事から、「倭には字源を失わず正しく保存する甲骨文字より以前の、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする初期漢字が存在する。また倭には【倉頡が発明した漢字作成理論】も存在するにちがいない」と直観・推断した。だから、陳寿は倭の国書に主観・批判・注などをいっさい加えず、倭の国書の記事をそのまま書き写して『魏志倭人伝』を著作したことになる。
 その証拠に、前述したように『魏志倭人伝』の約55%・約1100字の記事は「倭国は、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と、学界が「神話」と断定した黄帝時代と夏代初頭(夏后時代初頭)の文物(学問・芸術・宗教)について理路整然と詳細に科学的に説明している。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について1ヵ所も説明していない。ゆえに、邪馬台国説はすべてがウソ、ペテン、インチキであり、また日本国を衰退させ破滅せんとする祟りであったのである。

◆学界が倉頡伝説を「荒唐無稽のデタラメ」と断定した原因「四つ目の怪人・倉頡」の実体は「黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきて、中国各地の緯度が精確に(160分の60分の11分の精度で)測定できる羅針盤となった、【四つ目の銀河】」であったのである。
 【四つ目の銀河】を「倉頡の横顔」に見立てると【倉頡が発明した漢字作成理論】は夏の銀河の各部の形状から作られた多数の文字の字源が理路整然とした一つの統合体となる。ゆえに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」、言いかえると「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であったことになる。
 陳寿が【倭の国書の記事】をそのまま書き写して著作した『魏志倭人伝』によって「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であったと証明される。よって、学界の「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである」という断定は全面的な誤り・空論であったことになる。倉頡伝説は「漢字の起源の歴史」について説明していたのである。

◆夏音文字の字源・字形・字義となった「夏の銀河の各部の形状の写真」、また楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった「夏の銀河の各部の形状の写真」を、下に示した。
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◆倉頡は【字源・字形・字義を夏の銀河の各部の形状としても、文字として通用すること】に気づいた。
 また、倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制者側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を厳重な機密にしないと、プーチンのごとく横暴・傲慢(ごうまん)・冷酷な人々が文字の知識を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい悲劇・不幸をあたえるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
【倉頡の死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えるため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族をも死刑にする


 上記の【三】の掟のために、後期縄文時代初頭以後、あるいは卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)にあっても、夏音文字を書いた史料は消滅して出土しないことになったのである。
 上記の【二】の掟のために、「夏の銀河各部の名称」はつけられないことになった。また、現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」を定めていない。しかし、【漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。それゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【倉頡が発明した漢字】は現在の核のごとく絶大な恐怖心を与える存在となった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方を教えた犯罪者のごとくにあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大罪人・大悪党となった。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称した。また、黄帝時代には中国とわが国における各地の天頂に、そして紀元前11世紀初頭の周代初頭以後は次第にやや北側に位置するようになって、「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「四つ目の銀河」がめぐってきた。
 だから「漢字」の語源や「四つ目の怪人・倉頡(四つ目の銀河)」によって、各代の天皇はじめ研究熱心な皇族たちはじめ、権力者となった武士たち(源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)や仏教の高僧たちや名だたる芸術家たちは【夏の銀河各部の形状が文字(字源・真の字形・真の字義)である秘密】を知っていた。しかし、彼らは【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもって「漢字は銀河から作られた」と暴露しなかった。
 江戸時代初期、日光東照宮の造営に集められた大工や彫刻家たちなどの大半の芸術家たちは【漢字は夏の銀河から作られた秘密】を察知し、また【倉頡が死刑と定めた掟】が世を支配している状況を知っていた。ゆえに、名工の左甚五郎は「三猿(さんえん)の「見ざる・聞かざる・言わざる」の彫刻を作って「死刑になるのはマッピラ御免(ごめん)こうむりますから、漢字が作られた銀河は見ません・漢字は銀河から作られたという話はいっさい聞きません・漢字は銀河から作られたという秘密はいっさい言いません」と誓い、三猿彫刻を見物する人々にもしも銀河から漢字が作られた事実に気づいたならば、見ざる・聞かざる・言わざるを決めこんで命をまもるのが肝心である」と警告することにしたのである。

◆倉頡伝説は「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天を祝福して禾(か/イネ・麦などの穀物)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである」と説明する。
 「天は祝福して禾を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえた」という説明は「五帝時代より以前の三皇時代の大王となった包犧(ほうぎ)氏、女媧(じょか)氏、神農(しんのう)氏の天に昇って銀河部位となった三氏族の死霊は、倉頡が発明した文字によって自分たちの歴史が後世に伝えることができたと感激して夏の銀河が輝く夜な夜な雨を降らせて(つまり、感激して泣いた涙の雨を降らせて)豊かな禾の実り(五穀豊穣)を地上にもたらした」と意味し――また「倉頡は【黄帝が目標とした仁徳・慈愛の政治】を表現する[]の字を作った」と説明するものであった。
 黄帝時代、下に示す「四つ目の銀河」が中国各地(黄帝陵の天頂から太湖南岸までの各地の天頂)にめぐってきた。「四つ目の銀河」は上の「夏の銀河の各部の名称図」における左上の私が「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河における左端(東端)の「鬼の横顔に似る銀河」である。
 下に示したように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目」の形が四つある。この「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であると伝えて、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったのである。
 下に示したように、黄帝時代、「四つ目の銀河」は黄帝陵と太湖南岸の天頂にめぐってきた。ゆえに、「四つ目の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきたことになる。
 この「四つ目の銀河」は「黄帝の政治理念の仁徳・慈愛」をあらわした。
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◆前述したように、卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」のうちの「邪馬」は「出産する児(赤ちゃん)が骨盤入口を通りぬけ、さらにせまい産道をくぐりぬけることができる頭蓋骨の仕組み」である。
 下に示す2図のうち、上図は〔産道を通過する時の出産児の「邪馬」の頭蓋骨図〕であり、下図は〔出産児の頭蓋骨の形に相似する「邪馬」の銀河図〕である。
 つまり、「邪馬」は〔出産児の後頭骨にある「小泉門(しょうせんもん)」、2枚の頭頂骨にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨(2枚)の中間にある「大泉門(だいせんもん)」と名づけられる、結合組織性の膜(まく)〕である。この「邪馬」の膜によって赤ちゃんの5枚に分かれる頭蓋骨は重ねあわせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬけて誕生することができる仕組みとなる。
 だから、「邪馬」という語は【黄帝の「子どもの出産」研究の核心部】をあらわした。
(
注 なお、[]の字形は「骨盤入口の通過に失敗して死亡する出産児の姿」を図化したものである。ゆえに、[]の字源は「骨盤入口の通過に失敗した出産児の姿に相似する銀河」ということになる。)
 下図の「邪馬」の銀河図に示したように――「出産児の頭蓋骨・小泉門に相当する銀河部」は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部とアゴにある両目」と隣接する。
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◆卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 []の字源は下に示す、私が「十字の銀河」と名づけた――その「十字の銀河の、子宮に相当する銀河部と、腰や産道に相当する部分」となる。
 したがって、[]の字は【黄帝の「女性の生殖器」の研究】をあらわした。
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◆下の図に示すように、右側の西から()「邪馬の銀河」、次に()「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」、そして()[]の字源銀河」の、三つの銀河がならぶ。
 「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」は西の「邪馬の銀河」と東の[]の字源「十字の銀河の子宮」の中間にある。つまり、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は「【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究の核心部】をあらわす銀河」であった。
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◆『魏志倭人伝』によって、[][]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受け継いだことを証明することができる。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解明図〕ということになる。
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◆上の図に示しているように――倉頡は「十字の銀河」に「禾(イネ)をデザインする図書」を重ねて、その「禾の穂」を「十字の銀河の子宮から四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」の方へ垂らして、[]の字を作った。禾(イネ)の生育に適する地域は中国南方の太湖周辺地域である。ゆえに、倉頡は〔禾の穂を「十字の銀河の南部」から「四つ目の銀河の口」の方へ垂らす〕と定めて、[]の字源と字形を成立させた。
 下に、五帝時代初頭の黄帝時代初頭の黄帝陵と太湖南岸の天頂緯度線図を配した。下図が示すように、禾の育成適合地域となる中国南部に所在する太湖の天頂には[]の字源「十字の銀河の子宮と、腰・産道に相当する箇所」がめぐってきていた。
 ゆえに、上の〔[][][]の字源銀河の解明図〕における「禾の穂の垂れる図形」は合理、理屈にあっている。
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◆このように、学者たちが「四つ目の怪人・倉頡」を「荒唐無稽のデタラメである」と断定した意見は鼻の先の合点(がってん)、つまり学者たちがトッサに思いついた早合点・空理空論であったのである。
 「四つ目の怪人・倉頡」は「四つ目の銀河」であった。だから、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河の各部の形状から漢字を作った」と伝える文献史料であったことになる。
 わが前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3」で詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)であった。
 わが国が夏音文字を習得した夏代初頭は、現在、歴史ではなく神話と定められている。
 しかし、『魏志倭人伝』や『古事記』上巻の序は「中国の五帝時代後半と夏代初頭における聖天子で有名な堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹()の三代につかえた名門・益(えき)氏の王子と若者たちは玄界灘を横断して、日本列島の日本海沿岸地域を北上して男鹿半島・米代川流域に定住して、中国の文物(学問・芸術・鬼神信仰)を関東一円までの氏族に教えひろめた」と説明し、『魏志倭人伝』には幾つかの夏音文字が記され『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。だから、「神話に登場する神々(堯・舜・禹・益)は人間と同じく文字を使っていた」ことになる学者たちの説は不条理・不合理で学説の体(てい)をまったくなしていない。「夏音文字」は歴史遺産であるゆえ【わが国における夏代初頭における夏音文字の習得】はただちに歴史上の事実であったと断定すべきことになる。
 だから、【学問の基本定理】にしたがって【1】『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除・カットせず、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――()倉頡伝説は事実を伝えていた、()倉頡は夏の銀河の各部の形状を観て漢字を作る方法を発明した、()わが国が漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭であった――この【三つの事柄は事実】であったと証明される。

◆いままで証明したとおり――『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【中国に住むすべての民族を思いやって慈しむ政治を志した黄帝の政治理念、つまり仁徳・慈愛】を説明する書物であった。また、【黄帝の政治理念の仁徳・慈愛と「子どもの出産と女性の生殖器の研究」をあらわすことができる文字を発明した倉頡の漢字作成理論】を説明する学術書でもあったのである。
 中国のほとんどすべての民族に敬愛されて崇拝された中国の始祖・黄帝は、プーチンのごとき自己の欲望を満たすために冷酷非情・野蛮な方法で人民を苦しめる支配者たちを征伐したが、その軍行はプーチンのごとき支配者に苦しめられる弱き人民を助けるためだったのである。
 司馬遷著『史記』第一・五帝本紀の黄帝紀には「天地の大法、陰陽五行の運行、死生の説、安危の説に順い、四時の宜にしたがって百穀草木を播植し、鳥獣虫蛾の類まで慈愛をそそいだ」という記事がある(この現代語訳は、野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦訳者『史記()』平凡社発行から転載した)
 ゆえに、黄帝は鳥獣虫蛾の類まで愛をそそぐ、慈しみの政治を目指した。
 そして、いつしか中国の周辺諸国は長いあいだ、中国文化に影響されることになった。このため、何か事あれば手を差しのべなければならない、さらに周辺諸国を抱き込んで慈しまなければならないといった意識が中国人の伝統的な世界観となった。
 だけど黄帝は〔天地の大法にしたがって人民を慈しむ政治がおこなわれる周辺諸国への侵攻・侵略は断じてしてはならない〕と厳重に禁止した。
 これゆえ、黄帝は、倉頡が作った[]の字は「仁徳・慈愛の政治理念」をあらわすものであったゆえ、彼は[]の字形を「黄帝軍の門の形」に用いた。
 白川静著『字統』(平凡社発行)[]の字源・字形・字義について「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形で、(中略)、一字にして別義のある字である」と解説する。
 上に表示した[][]の字源銀河解説図と[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわしていた。
 だから『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで解明できる邪馬壱国説は、ウクライナ・ロシア戦争の停戦・終戦後におこると軍事学者や研究者たちや政治家たちが心配・予想する、中国の侵攻・侵略を阻止する日本の自衛・国防における強力な盾(たて)となる。

◆『魏志倭人伝』は学者たちが「黄帝時代や夏代初頭は神話であって歴史ではない」と断定した伝説を、一気に「歴史であった」と一転することができる学問書であったのである。
 中国は黄帝の国であり、黄帝は仁徳と慈愛を政治の目標・理念とした。ゆえに、プーチンのごとくの横暴で狡猾な侵攻・侵略は、中国の始祖・黄帝は厳重に禁止している。
 また、『魏志倭人伝』の対馬国以下34の小国記事は【卑弥呼の国防戦略(国防論)】をも説明している。卑弥呼の自衛・国防の考えは江戸時代まで受けつがれ、そして令和元年(2019)11月におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)でも表示された。令和の大嘗祭は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわす大祭(たいさい)であったのである。ゆえに、『魏志倭人伝』にはウクライナの国民のごとくロシア軍と戦わなければならない日本国民の心と魂と生き方が示されることになり、わが国の国防力が一段と数倍に増大・強大化する方法が記述されている最も注目すべき大事な書物であったことになる。
 だから、日本の自衛・国防について早急に真剣に考えなければならなくなった現在――軍事学者や研究者たち・自衛隊・政治家たちそして国民は、『魏志倭人伝』が日本の自衛・国防に不可欠で最も重大な書物である事実を認識しなければならないことになった。
 要するに、『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
 邪馬台国説は中国と日本国が戦争をして多くの人々がムダに血を流しかねない、無責任きわまりない下品で愚劣きわまりないウソ・ペテン、日本の祟りであったのである。
 次回からのブログでは、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす「倭人国」、「邪馬壱国」はじめとする小国名やその他の記事の秘密を解明することにする。

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2022年3月17日 (木)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3

#邪馬台国説のウソ・欺瞞で日本は滅亡する

◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国・邪馬台国がどこであったか」について説明する書物であると――学者たちは断定する。
 しかし、『魏志倭人伝』は、その約85パーセントの記事で「漢字は、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)によって発明された」と説明する学術書であった。
 だから、邪馬台国説は100パーセントのデタラメ、インチキ・捏造(ねつぞう)である。
 『魏志倭人伝』には倭国における34ヵ国の小国名が記述されている。これら34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を組織する統合体(仕組み)となる。この34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と正確に説明する。〈倭国の34の小国名とその関連記事〉はじめ〈「卑弥呼」などの人名や官職名〉や〈倭の風俗・慣習記事〉や〈その他〉の合計約85パーセントの記事によって、【倉頡が発明した漢字作成理論】が詳細に具体的に【科学】にのっとって解明できる。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」の前半で詳細に説明したように――現在、15億人が用いる漢字は、今から約5000年前、中国において〈夏の銀河〉から作られて起源した。また、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)は、今から約5100年前、漢字と同じく、〈夏の銀河〉から作られて起源した。現在、古代エジプト文字と始祖(ルーツ)とする文字を使用している人々は55億人以上となる。ゆえに、古代エジプト文字をルーツとする文字を使用する55億人と漢字を使用する人々の15億人を合計すると、〈夏の銀河〉から作られて起源した文字を使用する人々は約70億人となる。世界の総人口は約80億人である。したがって、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字のルーツ(古代エジプト文字と漢字)は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られたことになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は【地球上の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られて起源した真実】が科学的に解明できる貴重な学術書ということになる。
 下に、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字が起源した〈夏の銀河の写真〉を配した。
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◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で〔卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱(やまい)国」がほんとうで、「邪馬台国」は真っ赤なウソであった。
 わが国の邪馬台国説学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版はウソと欺瞞(ぎまん)をあやつるプーチン・フェイク(プーチン流のウソ・詐欺・インチキ・デタラメ)を駆使(くし)して「卑弥呼が居住していた女王国の名は『邪馬台国』であった」とデッチあげ、「『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明した書物である」と大ボラをふいてダマしている。
 しかし、実際には、『魏志倭人伝』は〔女王国名〕を「邪馬壱国」と記している。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏は1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作して――『魏志倭人伝』には卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」と記す事実を証明した。
 現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』には、事実、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壹国」つまり「邪馬壱国」であったと記す。
 『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。もしも約2000字で構成される〔日本を紹介する本〕に「日本の首都は北京である」と記されていたならば、この本は一気にデタラメ本・インチキ本・フェイク本となる。
 だから、同様に「卑弥呼が居住した女王国は邪馬壱国であった」と記す『魏志倭人伝』に「いや違う、邪馬台国であったと記してある」とウソをつく学者たち・NHKテレビ・朝日新聞出版の邪馬台国説は捏造(ねつぞう)、フェイク・デタラメということになる。
 邪馬台国説は、〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除(はいじょ)・削除(さくじょ)できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つの虚偽〕を駆使して構築される。
 しかし、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・削除できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河から作られた」という事実と、【5】「わが国が漢字を最初に習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭・わが国の後期縄文時代初頭であった」という事実、これら【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』は著作されている。
 したがって、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】をもって著作された『魏志倭人伝』は「現在、世界の9割・約70億の人々が使用する文字は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られた」という真実が科学的に証明できる貴重な学術書である。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という真実は日本文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源となり、日本人の精神的支柱となった。
 現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアの国力は5年後、もしくは10年後に壊滅的に衰退するにちがいない。
 ゆえに、次に中国と北朝鮮の脅威をめぐる有事・戦争がおきたとき、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が夏の銀河各部の形状から漢字を作成した学術】が日本における最強最良の核の抑止力となる。だから、大国ロシアと小国ウクライナ戦争終結後における、日本が有する最強最良の盾・賢明な国防力は【文字は夏の銀河から作られた事実を現在まで保存したわが国の歴史と文化と民俗】ということになる。
 というのも、現在の小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争は、小国・日本と大国・倭の長い間の対立に類似しているからである。

 233年頃から235年頃、小国・日本は〔愛〕の理念をかかげて誕生した。このとき以来、国民的な小国・日本と【倉頡の漢字作成理論の学術】を独占管理して強大な権力を重視した強権的国家体制の大国・倭はどちらが国家体制として優っているかをめぐって対立することになった。ゆえに、小国・日本と大国・倭の対立は小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争に類似する。小国・日本の誕生以後、小国・日本の政治体制勢力と大国・倭の政治体制勢力の対立は、その後長いあいだ続いた。やがて702年頃、大国の倭は〔愛〕の理念のもとに誕生した小国・日本の歴史を抹殺するために、国名を「日本国」と改めてゴマカした。しかし、大国・倭と小国・日本の対立は終息せず、皇室とやがて台頭する〔愛〕の日本建国理念の復興を願う武士たちの対立となった。鎌倉幕府を創設した源頼朝、室町幕府を創設した足利尊氏、織田信長、江戸幕府を創設した徳川家康は日本建国の〔愛〕の理念の復興を熱烈に願って生涯追い求めた――この痕跡は、日本の歴史上に明確・鮮烈に残っている。そして、次第に勢力が衰退する皇室と日本建国の〔愛〕の理念の復興を願う武士の対立は、江戸幕府が1659(万治2)に修学院離宮(京都市左京区)を造営して、その上御茶屋(かみのおちゃや)の大庭園に【小国・日本の〔愛〕の建国理念と、倉頡が発明した漢字作成理論】を設計する「浴竜池(よくりゅういけ)」を作って後水尾(ごみずのお)上皇を説得して終息した。
 修学院離宮の上御茶屋の窮邃亭(きゅうすいてい)には、二つの八角形を組み合わせた特異な扁額に掲げられる。この扁額には、後水尾上皇の宸筆(しんぴつ)の「窮邃」の2字が書かれている。「窮邃」の[][]を加えると「邃古」となる。「邃古」という語は「上古」と意味する。ゆえに、「窮邃」は「わが国の上古史を正しく窮(きわ)める」と意味した。後水尾上皇は「窮邃」という語で「『古事記』上巻の全記事は〔愛〕を建国理念とした小国・日本の政治体制と強大な権力を重視した大国・倭の政治体制が対立した実際の歴史を記述するものであった。この政治体制をめぐる長い対立によって、【倉頡の漢字作成理念の学術】と【小国・日本の〔愛〕の建国理念】の両方が日本国にとって欠くことができない国家基盤であるという事実が明白となった」と表現したのである。
 このような歴史があったため、わが国には最古の漢字音の夏音文字が現在まで存在し、つい最近の令和元年(2019)1114日に、【倉頡の漢字作成理論と、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をあらわす学問儀式・大嘗祭(だいじょうさい)がおこなわれたのである。
 だから、233年ころに小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国して以来、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史を窮邃する(『古事記』上巻に記述された小国・日本誕生史とその後の1659年までの歴史研究を窮めた)成果は、日本が核の脅威をめぐる有事・戦争にまきこまれたときに最も賢明な対策となり、最強最良の核の抑止力・国防力となる。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という歴史史料は『魏志倭人伝』だけではなく()『古事記』上巻、()『魏志倭人伝』が著作された同時代(3世紀後半)に作製された1千万坪の大鳥の地上絵が(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として)現存し、()室町時代に作られたとされる竜安寺の石庭、()17世紀前半に作られた桂離宮離宮の庭園、()17世紀半ばに作られた修学院離宮の庭園などの幾つかの遺跡が存在し、さらに()上記した〈小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国したときから始まって、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史〉に、そして()日本の漢字と漢字文化、識字率がほぼ100パーセントという事例や、()皇室最大の神事である大嘗祭、あるいは()赤ちゃんが屈位になって骨盤入口を通りぬける姿勢を表示するアゴを胸につけてする日本人特有のお辞儀はじめとする風俗・慣習など様々な史料が大量に存在する。

 古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――邪馬台国説学者たちのごとく、前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が幾つも存在し、しかも現在において古文献に記述されたとおりの風俗・習慣が存続して残っているならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判して否定した意見はすべて誤読の空論・妄想であったことになり、前人が作った文献の記述はなんびとにも否定できない事実であったことになる――と定まる絶対原理が存在する。
 この〔古代史学における絶対原理〕によって――紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの意見は臆説・空想・妄想であったと証明された。
 『魏志倭人伝』は280年~289年ころに著作された。上記した()〔現存する、1千万坪の大鳥の地上絵(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)〕は260年頃に作製が着手されて290年頃に完成した。ゆえに、『魏志倭人伝』と〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は同時代(3世紀後半)に作られた。
 下に、『魏志倭人伝』と同時代に作製された〔1千万坪の大鳥の地上絵〕を示した。この遺跡は、『魏志倭人伝』は〔【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する正確無比の学術書であった事実〕が完全証明できる、古代史学の絶対原理が成立する“日本版のトロイの遺跡”である。
 つまり、〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は「233年頃にかかげられた小国・日本の〔愛〕の建国理念を後世へ伝える」を作製目的として【倉頡が発明した漢字作成理論、中国の海岸線地図、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をハイブリットして図化・設計した古地図遺跡である。
 だから、〔古代史学における絶対原理〕にもとづき、邪馬台国説は「学説」の体(てい)をまったくなしていない100パーセントの空理空論・妄想であったのである。
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◆『魏志倭人伝』の全記事は正確無比で、真実を伝えていた。
 そして特に注目すべきは、『魏志倭人伝』に記述された「文字は夏の銀河から起源した」という真実は日本国特有の遺産ではなく、地球上の人類9割・70億の人々の遺産でもある。したがって、「文字は夏の銀河から起源した」という真実は人類の文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源であり、人類の精神的支柱となる。
 だから、プーチンがウクライナを威嚇するがごとく日本国が核で脅迫されることになったならば「日本破壊は人類の殲滅(せんめつ)だ! 日本国と日本国民は犠牲にしてはならぬ」と世界の人々は立ち上がるにちがいない。
 だからこそ、『魏志倭人伝』が「文字は夏の銀河から作られて起源した」と伝える真実は、わが国における最強最良の核の抑止力・防衛力となる。

人類にとって最も重大な真実を欺瞞と捏造とウソで固めたプーチン・フェイクを用いて排除・抹殺する邪馬台国説学者たちとデマ・邪馬台国説を流すNHKテレビと朝日新聞出版は日本国と日本国民の破滅・滅亡に夢中になる。ゆえに、彼らは日本国・日本国民の敵であり、そして人類の敵ということになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と定める考古学の意見に黙って従う学界の定説は誤りであることを、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古いと指摘していることになる。この『字統』の指摘に反して、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する漢字音は、中国に現存する最古の漢字音よりも新しい。だから、考古学と学界の主張は音韻学研究成果を排除・無視する無知・空論であったことになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 だが、わが国に現存する最古の字音は〔紀元前1046年・周代初頭の漢字音〕よりも古い。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記述がある。この「後稍夏音を習う」と遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになり、「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(少しだけ)夏音(かおん)文字を習うことにした(復興することにした)」と伝えていたことになる。
 第7回遣唐使が告げた「夏音」は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来して、わが国が習得した漢字の字音」と意味した。したがって、わが国は今から約4100年前の夏代初頭に夏音文字を習得していたことになる。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050年前の周代初頭の中国の最古の字音(上古)よりも約1000年古いことになる。
 下に、〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という主張に黙って従う定説は、音韻学の研究成果を無視・排除する空理空論であったことになる。
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◆上記した「夏音文字を稍々復興することにした、681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸事の記定の政策』」は、後年(720)に元明天皇に献上された歴史書『古事記』という書名になった。天武天皇の政策『上古の諸事の記定』を注目し、さらにその政策における3字を抜粋(ばっすい)すると[][][]、つまり『古事記』となる。
 『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく文字・語が多数記載される。この『古事記』上巻に記載される音文字が夏音文字であり――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の字音よりも古い、現存する最古の漢字音である。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の書き下し文をルビ無しで、下記に示した。
 「臣安万侶言す。夫れ根元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」

この文は、要するに「参神造化(さんじんぞうか)の首(はじめ)」つまり「前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶をつくる造形芸術)の約2000年に及ぶ参神の伝統によって、後期縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に渡来した名門益(えき)氏の王子と若者たちが教えひろめた()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と()【倉頡は発明した漢字作成理論】と()【夏音文字】と()【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を習得した」と説明していたことになる。
 上記の文に登場する「益氏の王子と若者たち」は「“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち」であった。益氏は五帝時代の四番目の帝王尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝王舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する官職」に任命されて代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の禹帝の遺言で帝王となった。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えることになった。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭に「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)
が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」が「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下の隅には「夏音文字」をあらわす[]の字が配せられている。

◆『古事記』は第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と報告した時より10年後の、720(和銅五年)1月28日に、元明天皇に献上された。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の記事は「益氏の王子と若者たちは東北地方から関東一円までの諸氏族に、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡は発明した漢字作成理論】と【夏音文字】と【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を教え広めた」と説明するものであった。
 ゆえに、『古事記』上巻の序の末部には、下記のごとく太安万侶が説明する記事があり、この記事を現代語に訳すると次のごとくになる。
 「上古に習得した(夏音文字)のことばとその意味は朴(すなお/夏の銀河各部の形状をそのまま)にあらわしていますから、現在(『古事記』編纂当時)の楷書で書きあらわしますと、どういう漢字を用いたらよいか難(むずか)しいです。すべて訓をあらわして楷書で記述しますと、夏音文字が伝える心情に及ばない(一致しない)(つたな)い訳(やく)になる場合があります。そうかといって、すべて夏音文字だけを用いて記述しますと、文章が長くなります。これゆえ、ある一句には、夏音文字と楷書による訓を交えて用い、ある一事(事柄)を記す場合には、すべて楷書で訓を用いて記録することにしました。そして、夏音文字の辞理(夏の銀河の各部の形状があらわす字源と語源)が見えない(不明の)ときは注をもって明らかにし、意味が容易に理解できる場合は、別に注はつけませんでした。また、姓に用いる〔楷書の日下〕は〔夏音文字の玖沙訶〕と同義、名に用いる〔楷書の帯〕は〔夏音文字の多羅斯〕と同義ですので、このような類例は従来の記述に従い、改めませんでした。」
 このように、太安万侶は「夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義は、共に夏の銀河の各部の形状である」と指摘している。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より、倭の使者は中国に到着すると皆(みな)自らを大夫と称す。夏后(かこう)少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられる」と説明する記事がある。
 『万葉集』における万葉仮名「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらお」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「帝益の孫の王子と若者たちは荒波が逆巻(さかま)く玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住した勇猛果敢にして立派な男たち」と伝える語であったのである。
 前述したように、帝益の孫の王子(天祖)と若者たちは日本列島の東北地方の男鹿・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた。
 上記の「大夫を称す」の後につづく「夏后少康の子、会稽に封ぜられる」という記事は「夏王朝四代皇帝の少康の王子は、呉の会稽に封ぜられた」と意味するゆえ――その前の「大夫」という語は「“夏后の始祖”禹帝の後を継いだ益帝の孫の王子」とあらわすものであったにちがいない。だから、玄界灘を越えて中国に到着した倭の使者たちは「帝益の孫の王子や若者たちのごとく勇猛果敢に玄界灘を征服した」と皆が皆同様に自画自賛して「大夫」と称したのである。
 このように、『魏志倭人伝』には、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた帝益の王子(天祖)と若者たちの記事が存在する。

◆『魏志倭人伝』には、「倭国には夏音文字があった」と説明する34字の記事がある。この記事にルビを無しに記すと、下記のごとくなる。
 「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輙ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う」
 上記の文を現代語に訳すると「倭の習俗では、行事をおこなうときや遠い地へ旅して家に帰ってくるときや云為(うんい)つまり「雲為」すなわち「雨乞い」をするときには、骨を焼いて卜(うらな)い、その吉凶を占(うらな)う。最初に卜することを告げるが、その卜辞は令亀の法、つまり中国の殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の法理のごとく、鹿の骨を焼いて生ずる裂け目を見て、その吉凶の兆(きざし)を占う」となる。
 上記の「倭の卜辞は令亀の法のごとし」という文は「倭の卜占の辞(ことばと文字)は殷代後半の甲骨文字の法理のごとし」とあらわすゆえ、倭国には「甲骨文字のごとき絵文字の夏音文字があった」ことになる。
 だから、前述したとおり、【一】白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して「音韻学の研究によると、わが国の国語には中国に現存する最古の漢字音(上古音)よりも古い、漢字音が残っていることが明らかとなった」という指摘は正しいことになる。また、【二】太安万侶が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭の「参神造化の首(はじめ)」の記事や末部の「楷書の日下と夏音文字の玖沙訶は同義、楷書の帯と夏音文字の多羅斯は同義」という記事はじめ、その他の「わが国には夏音文字があった」と説明する語句や文章は事実を伝えていたことになる。ゆえに、【三】『古事記』上巻の随所に〔音〕と注がつく文字は「夏代初頭に習得した夏音文字」であったことになる。さらに、【四】『新唐書』日本伝にある「後稍夏音を習う」という文は「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日における天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と説明するものであったことになる。
 【倉頡が死刑と定めた掟】によって「書いた文字が用済みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員を死刑にする」と厳しく定まっていた。したがって、卜辞に用いた夏音文字はすべて消滅されることになったゆえ、夏音文字が書かれた資料は発掘されないことになった。だから、「出土史料が存在しないから夏音文字は存在しなかった」ということにはならず、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河の各部の形状】で存在し、【夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数記載されて現存する】ことになった。

◆『魏志倭人伝』には、67字で「倭国には夏音文字があった」と記述した下記に示す記事もある。この記事をルビ無しで記すと、次のごとくなる。
 「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣
るに差錯あるを得ざらしむ」
 この記事を現代語に訳すると「女王国(邪馬壱国)より以北には特別に一大率(いちだいそつ)を配置して、諸国を検察させているので、諸国は彼を畏れはばかっている。一大率は常に伊都国に居住して治めている。倭国の国中における刺史(警視総監と検察庁長官と国防大臣を兼備する権力者)のごとき男王である。倭国の有力な王たちが使節を派遣して魏の都や魏の出張政庁が所在する帯方郡や諸韓国にゆくとき、また、帯方郡の使節が倭国にくるときには、すべて伊都国の津()で持参する文書や賜物を捜露(そうろ/慎重に点検し、確認して)、女王・卑弥呼のもとに届いたとき差錯(相違)がないようにしていた」となる。
 上記の記事が説明しているように――倭王朝をささえる有力な王たち、つまり女王・卑弥呼や外務長官の難升米(なしめ)はじめ幾人かの王たちが使節を派遣するときの魏都や帯方郡や諸韓国へ送る文書や賜物、あるいは帯方郡の使節が倭国に到来したときの文書と賜物は、伊都国の港で慎重に点検し、確認していた。というのも、倭国の王たちは日常的に夏音文字を使用するものであったゆえ、魏都・帯方郡・諸韓国で使用する楷書の知識が乏(とぼ)しかったからである。ゆえに、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に最も精通する一大率が九州・伊都国に居住して配下を教育して、夏音文字と楷書の変換において国交断絶あるいはさまざまな不祥事がおきる原因の誤訳や誤記が生じないように捜露(慎重に点検)していたことになる。たとえば、「卑弥呼」の[]の楷書は「賤しい。身分が低い」と意味した。夏音文字の[]の字義は「産道入口を通りぬける出産児がアゴを胸につける屈位置の姿勢。天上から地を見下す屈位の姿勢になると見える地宜(ちぎ/平面的な地図の形)を形成する海岸線の形」であった。このように、楷書と夏音文字には字義が差錯(相違)する事例が幾つかあり、国交を結ぶ際に障害になった。夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に夏の銀河の各部の形状であった。そして、伊都国において広大な夏の銀河全域が見えるあるいは字源となる暗い所がよく見える場所は海に面する港である。だから、夏音文字と楷書の同義を学習した一大率の配下の役人たちは伊都国の港から見える夏音文字の各部の形状を観察して夏音文字と楷書を正しく変換する業務に勤めていたことになる。
 このように、倭国には確かに夏音文字が存在した。
 以上のごとく、邪馬台国説学者たちは〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除・削除できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つのウソ〕をハイブリットするウソ・デタラメ・インチキをまき散らしている。現在、ロシアとウクライナの戦争において、ロシアは不都合な情報はすべて排除・カットしてウソ・デタラメ・インチキをデッチあげて、そのウソが「すべて事実である」と国民に説明して洗脳している。だから、邪馬台国説はプーチンのフェイクと同様に、“最悪最低の、ひどいウソつき”と言うことになる。

◆前述した【〔愛〕を理念とした小国・日本の誕生史から1659年の修学院離宮造営までの、小国・日本の国民的政治体制と大国・倭の強権的国家体制が対立した歴史の経緯】は、わがブログ〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3〕の前にて紹介したわが拙著、すなわちkindle版・電子書籍『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)で詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。また、わが拙著、電子書籍『日本四千年の学問史』(無料)において、概略的に解説した。なお、デザインエッグ株式会社から発行したムゲンブックス『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』もある。
 なお、邪馬台国説はすべてがウソ・フェイクである事実が容易に理解できる、PDF用『「邪馬台国」は存在しなかった』(1500円の予定)という拙著の著作を開始して、1ヵ月から2ヵ月後には完成させる予定である。

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