漢字の起源と発明を解明す・36
始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。
◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史について説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって、
詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、
益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に居住したと伝えている。
下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸したであろう。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」であったのではないかと推定される。
注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が夏音文字(かおんもじ)の【奴(な)】の字源・字義をあらわすことであった。
というのも、今から約4000年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)の両手の形や両脇(りょうわき)の形はいわゆる「C字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は、「今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図に示すように、倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の時代、(1)「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、(2)「十字の銀河の右手(西の手)」と、(3)「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵(こうていりょう・黄帝の廟と墓)の天頂にめぐってきた。
また、当時、(1)「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、(2)「十字の銀河の右足(西の足)」と、(3)「十字の銀河の子宮中央」が長江口(ちょうこうこう・長江の河口中央)の天頂にめぐってきた。
上図の「黄帝陵の天頂緯度線(北緯35度35分)が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、
下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。
下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。
下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。
下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。
「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。
【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字(最初の文字)である。
ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。
【女偏】に【又】が加わる【奴(な)】の夏音文字(かおんもじ)は【又】と同義とあって「右手」を意味した。
したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河(右手)と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲(渦巻き)」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は【奴(ど)】の字について、下記のごとく解説する。
「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷(どれい)とする。『説文解字』は――奴婢(ぬひ)、みな古の辠(ざい・罪)人なり――とする。」
上記の【奴(ど)】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴(な。ぬ)】の字源・原義を失った、後世(周代初頭以後)の転義であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が15回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、
白川静著『字統』や『説文解字』が【奴(ど)】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。
だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前2050年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。
◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、
「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、
「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕(たがや)すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する18歳くらいの青年」を意味した。
ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬(ほうむ)る墓に循(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳(ひとみ)がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲(いけいえ)に選ばれたのである。
また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。
また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」にて詳細に解説したように、
対馬国(つしまこく)から数えて16番目の姐奴国(つなこく)、18番目の蘇奴国(さなこく)、20番目の華奴蘇奴国(かなさなこく)などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。
だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴(ど)】の字源解説と異なり、
(1)「強大な力を有するジャコウウシ」
(2)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(3)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(4)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。
上記の4つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。
前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。
また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約4000年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)が共通する、土偶の両手と両脇(りょうわき)の「C字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。
以上のごとく、「後期縄文時代に作られた5基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な3点の事柄を表現することになった。
(A)「強大な力を有する聖獣(せいじゅう)の、ジャコウウシ」
(B)「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手(西の手)と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部
(C)「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】
◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。
白川静著『字統』は【倭】の字について「委(い)は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。
下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被(かぶ)りものを飾(かざ)るように観える、十字の銀河の図」である。
上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、
下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。
このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。
前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた5基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯40度」である。
下図に、今から約4000年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。
下図に示した「+赤緯40度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎(北緯40度)の天頂」にめぐってきた。
また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手(西の手)と脇腹(わきばら)」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯37度の土地の天頂にめぐってきた。
そして、下図が示すように、当時(後期縄文時代初頭)、「十字の銀河の胸部と左手(東の手)の銀河部」が黄帝陵(北緯35度35分)の天頂を通過した。
下に、群馬県の吾妻郡(あがつまぐん)吾妻町の郷原遺跡(ごうばら)遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。
下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被(かぶ)る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。
下図に示したように、「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、
「男鹿半島端の入道崎から以北のC字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹(わきばら)のC字形」に造形された。
「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。
この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。
だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。
ハート形土偶が出土した郷原遺跡(郷原集落)は、北緯36度34分である。
下図は、約4000年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。
〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術 第1巻 原史美術』(小学館発行)は下記のごとく指摘する。
「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもC字形曲線によっているという点である。つまり、体側(たいそく)はC字形と逆C字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」
下図に、上記の指摘を図示した。
下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。
注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫(ほ)られていることである。
だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、
「黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵(北緯35度35分)の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。
ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は
「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵の天頂の位置」と
「現在(つまり、後期縄文初頭)の郷原集落の天頂の位置」を表示して、
【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。
当時の縄文人たちにとって、【精確(せいかく)な天頂緯度の測定】は【命(いのち)】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。
だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代(中期縄文初頭)と現在(後期縄文時代初頭)の(1)北緯40度(益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏)と、(2)ハート形土偶が出土した郷原集落と、(3)黄帝陵の天頂緯度を表示する機能(役割)がそなわっていたと考えられる。
◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、
名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏(ほとり)を本拠地にして、
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】などを教えひろめたために、
各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。
このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、
上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、
「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のC字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。
◆下図における左図は、千葉県銚子市(ちょうしし)に所在する余山貝塚(よやまかいづか・北緯35度45分)から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。
下図の右図は、埼玉県岩槻市(いわつきし)の真福寺貝塚(しんぷくじかいづか・北緯35度56分)から出土した「みみずく土偶」の図である。
両土偶の両脇はハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。
「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。
ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。
このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。
下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡(かめがおかいせき・北緯40度53分)から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の図を配した。
顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。
この土偶の円環状(えんかんじょう)の枠取(わくど)りをほどこし、その中のレンズ状曲面に1本の沈線(ちんせん)を刻んだ目は「光を遮断(しゃだん)するもの」と見立てられた。
ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。
この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径(どうこうけい)を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。
この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。
下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形されている。
上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。
◆下図は、長野県茅野市(ちのし)の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。
「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。
仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯36度の長野県茅野市の中ッ原遺跡(なかっぱらせき)から出土した。
仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様にC字形と逆C字形に造形される。
さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。
この女神の仮面には1枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断(しゃだん)して瞳孔径を最大(7mm~8mm)に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。
「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。
この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」を包囲する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、
黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。
司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、〔虞(ぐ)〕の要職に就(つ)くことを命令された」と記述する。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖(しそ)」の帝禹(ていう)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の要職(ようしょく)に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。
したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、
「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。
上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、
益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。
「虎」といえば、前ページでも指摘したように、
夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。
また、夏音文字【奴】の字源・字義は
(1)「強大な力を有するジャコウウシ」
(2)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(3)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(4)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。
前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為(な)す」という文があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。
危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、
【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。
下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。
黄帝陵は北緯35度35分である。
黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生(ぐんせい)していた。
したがって、黄帝時代、冬になると北緯35度35分より以北の黄土高原は凍土地帯(とうどちたい・ツンドラ地帯)になって、ジャコウウシは群生していたことになる。
それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯36度34分、
後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯35度45分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯35度56分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯36度であるゆえ、
これら4基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原(ツンドラ地帯)の緯度とほぼ同じであったことになる。
だから、これら4基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。
これら4基の土偶からして、北緯40度53分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。
◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市(いしまきし)から阿武隈川(あぶくまがわ)の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視(ぎょうし)していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。
ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。
下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。
ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
したがって、下図に示したように、
(1)「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、
(2)「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市(しおがまし)に所在する島の名は「寒風沢島(さぶさわじま)」、
男鹿半島の根元にある成層火山(せいそうかざん)の名は「寒風山(かんぷうざん)」であり、
両者は「寒風」の2字が合致する。
火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風(れっぷう)なかで完全にからだを保護して-70℃の酷寒(こっかん)にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色(あんかっしょく)の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛(ぼうぎょもう)でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。
したがって、「寒風沢島」という名も「-70℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。
では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。
卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立(ていりつ)して覇権(はけん)を争った状況は「中原(ちゅうげん)に鹿を逐(お)う」と表現された。
つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。
司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益(ていえき)は故・帝禹(ていう)の三年の喪(も)が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に争わずに譲(ゆず)った」と記述されている。
この「帝益の戦争で決めずに禅譲(ぜんじょう)した事績(じせき)」を表現した名称が、
「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。
オスの鹿が争うとき、角(つの)の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定(さだめ)て争わない。
ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競(きそ)われた」と伝えられることになった。
その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。
ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。
以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、3世紀の三国時代(卑弥呼時代)以後に成立したと考えられる。
前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、
約2200年後の卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)において、
『魏志倭人伝』における34の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度(ひんど)が最多になったのであろう。
『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と10ヵ国存在して、最多である。
また、そのうちの2ヵ国は「奴国」という同名である。
上記したように、後期縄文時代、(1)「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と(2)「男鹿半島」の2ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が2国存在することになったのであろう。
◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」は北緯41度30分~北緯42度に位置する。
下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端(大間町)」は北緯41度30分である。
ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。
下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島(つがるはんとう)「の西部にある「十三湖(じゅうさんこ)」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。
ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島(なつどまりはんとう)は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。
下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯41度30分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。
「陸奥湾(むつわん)」は「女性の骨盤(こつばん)」に見立てられた。
倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛(まも)る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。
だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱(一)】の字源・字義をあらわした。
上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬(やま)」という語をあらわした。
というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。
ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。
下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨(とうちょうこつ)にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門(だいせんもん)」もまた、「邪馬」とよばれた。
出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。
「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪(なな)め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径(しゅういけい)で骨盤入口を通過する」。
今日の産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気(けなげ)な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命(いのち)】の尊厳(そんげん)をあらわす光景である。
だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。
以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。
だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊(死霊)が棲む地】となって結縄(けつじょう)・書契(しょけい)・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。
その証拠に、712年1月28日に成立した〔古事記上巻 并(あわ)せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。
この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。
◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国(つしまこく)に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う。一大国(いちだいこく)に至る」という記事がある。
上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。
下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
そして、「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ)」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対(いっつい)になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。
『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。
「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。
下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱(一)】の字源をあらわした。
これゆえ、「一大国」は「【壱(一)】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐(わか)れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。
下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。
上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。
だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石(あらいはくせき)以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。
「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。
白石以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和(やまと)」の「やま」や「山門(やまと)の「山」である。
「邪馬」は「子宮から堅(かた)い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。
いっぽう、「邪馬臺(台)国」の【臺(台)】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台(うてな)」のあいだには関連性はまったくない。
だから、「邪馬」と【臺(台)】は結ぶつくことができないゆえ、本来(ほんらい)、「邪馬臺(台)国」という語は不条理(ふじょうり)きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。
以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰(い)う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消(まっしょう)することができない。
「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。
白石以来の約300年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。
だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合(ふつごう)な記事を抹消し無視する独断(どくだん)と偏見(へんけん)であったことになる。
前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯35度35分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。
「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯35度35分である。
だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。
日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯35度35分あたりとなる。
ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳(はしはかこふん)や纏向遺跡(まきむくいせき)が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯35度35分ではないことが一目でわかる。
同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。
この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。
◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文章である。
この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後(どんづまり)は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。
そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。
前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後(どんづまり)」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。
また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国(壱岐)」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、
「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。
だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。
以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「白石以来300年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。
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