G-T0XYQT12LL アルファベットの起源: 卑弥呼の逆襲

アルファベットの起源

2025年4月21日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・40ー2

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった()


◆前々回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」で指摘したように、
『古事記』冒頭の「古事記上巻 并(あわ)せて序」の末部には――姓(うじ)も於きて日下(にちげ)を「玖沙訶(くさか)と謂()ひ、名に於きて帯(たい)を「多羅斯(たらし)」と謂ふ、此(かく)の如(ごと)き類(たぐい)は、本(もと)の随(ずい)に改めず――という文がある。
この文は「姓に用いる楷書の日下を夏音文字では玖沙訶と記し、名に用いる楷書の帯は夏音文字では多羅斯と記す。このような類例は従来から日常的に頻繁(ひんぱん)に用いられて知られていることゆえ、夏音文字をそのまま用いて楷書に改めませんでした」と意味した。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で指摘したように、「朝顔」の語源となった「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。
下に、「北天の最輝部」の図を配した。
下図の上部には、はくちょう座γ星がある。
はくちょう座γ星の周囲は円形となり、「円の中心に点」がある古代字の【日】の字形に合致する。
だから、【日】の字の下にある「北天の最輝部」は「日下」の語源であった。
楷書「日下」の語源銀河部と夏音文字「玖沙訶」の語源銀河部は同一ヵ所である。
ゆえに、下図の「はくちょう座γ星と北天の最輝部」は「日下」と「玖沙訶」の語源であった。
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下図は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」における[「日下=玖沙訶」と「帯=多羅斯」の語源解説図]である。
「日下=玖沙訶」の語源は上記した「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」と「鬼の横顔に似る銀河の額」の両者となる。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の額」が楷書「日下」、夏音文字「玖沙訶」となる。
また、「十字の銀河の北側(胸部)にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の額」は三垂(さんすい・三本の線状の銀河部位)でつながる。
したがって、「十字の銀河の胸部にある乳房」もまた「日下」にして「玖沙訶」の語源であった。
「十字の銀河の乳房」は「帯(おび)をまきつける腰」にある。
「帯をまきつける腰」もまた「日下=玖沙訶の語源となる乳房」と同じく「乳房」の形をしている。
ゆえに、「十字の銀河の腰にある乳房」は楷書「帯」の語源で、夏音文字「多羅斯」の語源であった。
「十字の銀河の腰にある乳房」から「鬼の横顔に似る銀河の口」までも、また三垂でつながる。
だから、「鬼の横顔に似る銀河の口」が「帯」と「多羅斯」の語源であった。
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古語「垂乳根(たらちね)」は「母」と「父」を意味し、「垂乳根」の「乳」の字義は「乳房」である。
ゆえに、上図の「多羅斯」と「垂乳根」の語源は共に「母と父が帯を巻く腰にある乳房」であった。
上図の「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、垂乳根の語源「帯をまきつける腰にある乳房」は「乳児が乳を飲む乳房」ということになる。
「乳児が飲む乳の色」は、上記したように、「北天の最輝部の、銀白色と朱鷺(とき)の体のうす桃色」に相似する。
だから、「帯」と「多羅斯」の語源は「十字の銀河の腰にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の口(乳児が乳を飲む口の銀河)」であったことになる。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で解説したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦の腹部に見立てられて、聖域]とされた。
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もう一つの「朝顔」の語源は、下図に示す「四つ目の銀河・十字の銀河の顔と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」であった。
そして、「日下・玖沙訶」の語源は「四つ目の銀河と十字の銀河の右手(西側)の脇(わき)にある北側の乳房」、「帯・多羅斯」の語源は「四つ目の銀河の口と十字の銀河の子宮と重なる南側の乳房」であった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道」に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。
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したがって、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」は倉頡の文字作成理論はじめ倉頡が作った文字や夏代黎明期に作られた夏音文字、そして黄帝時代や夏代黎明期の歴史について語るとき――頻繁(ひんぱん)に用いられた「漢字は夏の各部の形状から作られた秘密」を示す[「朝顔」の語源]を示唆(しさ)する暗号のような語であったことになる。
ゆえに、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」という語が確かな証拠となって「わが国は夏音文字を紀元前2000年頃に習得した」と証明されることになる。
だから、学界が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する絶対的定説は粗雑(そざつ)軽率(けいそつ)きわまりない考えにもとづく錯覚・空理空論であったことになる

◆上記したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦のお腹(なか]に見立てられて、聖域]とされた。
また、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮(子宮と産道)もまた「朝顔」とよばれた。このうち「十字の銀河の子宮」も[胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道]に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。

しかし、前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」にて解説した【扁】の字について説明した、下図における()()の「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河(胎児の姿に似る銀河)までの、大きな夏の銀河」は「騙し」の意味を有することになった。
ゆえに、「騙」の旁部(つくりぶ)は【扁】となった。
ただし、【扁】の字源銀河となった()は「騙し」の意を有さないことになった。
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五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、【馬】の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」と定め、地理の「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」と【馬】「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜の、フタコブラクダ」に「騙し」の意味を有するようにした。
だから、【騙】の偏は【馬】となった。

奈良県高市明日香村に所在する「牽牛市塚古墳(けんごしづかこふん)」は、大・中・小の八角形が三段に積み重なる設計となる。
この最下段の大の八角形は上に図を配した【扁】の字源「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの、大きな夏の銀河」をデザインする。
この【扁】の字源銀河を説明する、上に図を配した()()をデザインする大の八角形は「騙し」の意味を有する。
中段の中の八角形は、上記した「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」をデザインする。
この中の八角形は「騙し」の意味を有さない。
最上部の小の八角形は、上記した「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)と十字の銀河の顔、そして十字の銀河の子宮(子宮と産道)」をデザインする。
この小の八角形も「騙し」の意味を有さない。

牽牛子塚古墳(あさがおづかこふん)は、7世紀中葉~8世紀初頭(飛鳥時代)の女帝、第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう・第37代・斉明天皇)と娘の間人皇女(はしひとのひめこ)の合葬墓とする説がある。
というのも、以前より、牽牛子塚古墳の内部は巨石をくりぬいた2つの墓室を設けた特異な構造になっていることを知られていたからである。
間人皇女は、第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう)の皇后であった。
当時は、兄妹であっても父親と母親が異なれば、恋愛あるいは結婚も普通におこなわれていた。しかし、同父同母となる関係となると、当時においても、国法を犯す重大な罪として厳(きび)しく禁止されていた。間人皇女は、このタブーを犯した。
間人皇女は、同父同母の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の第38代天智天皇)とタブーとされる密通(近親相姦)をしていた。
孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は同じ血を分けた兄の中大兄皇子であった。このことは、公然の秘密であった。
このタブーのために中大兄皇子は、国法を犯した大罪の報いを受けなければならなかった。
孝徳天皇が没した直後、皇太子・中大兄皇子は帝位に就かなかった。中大兄皇子は、母の皇極天皇を再度担ぎ出し、帝位に就けて斉明天皇とした。
孝徳天皇が亡くなった直後に中大兄皇子が天皇に即位しなかったのは、彼が同父同母の妹の間人皇后と男女関係を持ったからである。
つまり、「中大兄皇子が即位すれば、神の怒り、つまり地中深く棲()む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒して、必ず大災害(凶事)が起きる」と噂(うわさ)する世論に屈したからと考えられる。

斉明天皇は、上記のごとく「斉明天皇は中大兄皇子と間人皇女との兄妹の近親相姦を見て見ぬ振りして許している。しかし、中大兄と間人の密通の大罪を地中深く棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が許さず祟(たた)って必ず大災害が起きるにちがいない」と噂(うわさ)されていたのである。
ゆえに、斉明天皇は牽牛子塚古墳を築造して――陵墓の最下段の大の八角形で「牽牛(ジャコウウシ)の死霊を騙(だま)しなだめる」ようにした。
また、陵墓の中段の中の八角形で「人の横顔に酷似する銀河」を「斉明天皇自身」に見立て、「コールサック」を「斉明天皇の腹部」に見立てて、自分の腹部から生んだ息子の中大兄と娘の間人を厳しくとがめて人の道にそむく密通をやめさせなかった母親の責任として――斉明天皇は死後には必ず大災害(ジャコウウシの死霊の激怒)を騙しなだめて防ぐと誓ったにちがいない。
そして、最上段の小の八角形で「四つ目の銀河」を「中大兄皇子」、「十字の銀河」を「娘の間人皇女」に見立て、「十字の銀河の子宮」を「間人皇女と中大兄皇子の密通」に見立てて――先に墓に入った亡き娘の間人に近親相姦の罪を後悔させて、娘の死霊にも激怒する牽牛の死霊を騙しなだめて地上に大災害が起きるのを防ぐようにさせると決意を示すものであったと考えられる。

◆倉頡が発明した「辞理(文字作成理論)」において――天理(夏の銀河)の場合は南を正面にし、地理では北を正面にした。
ゆえに、銀河図の場合は左(左手側)が東、地理では左は西となった。
上記のごとく、倉頡が「()天理の場合は南を正面にし、()地理の場合は北を正面とする」と定めた理論は――夏代黎明期には「()地理の北を天理の南に変えて180度転位する。ゆえに、()地理では北は天理の場合の南となる」と定められて、【臺()】と【壹()】の字が生まれた。
つまり、夏代黎明期における帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は、上記したように「()地理の北は天理の場合の南となって180度転位する」と定めた。

倉頡は「妊婦の形に相似する、十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られたすべての文字を生む母体」と定めた。
したがって、「十字の銀河の子宮(子宮・産道)」は「夏の銀河の各部からすべての文字を生む子宮(子宮・産道)」と定めた。
つまり、「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【瀚】と【海】の字源」となり、また同様に「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【牽】と【牛】と【子】の字源」となった。
「三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮」より大きい。
また、「胎児の姿に似る銀河」もまた「十字の銀河の子宮」よりはるかに大きい。

だから、倉頡は「【一(十字の銀河の産道)】より多数の文字が出産する」と定めたため、「十字の銀河の帯がまきつく腰にある子宮」の夏音文字の語「多羅斯」の先頭字は【多】である。
要するに、倉頡は「【一】の字源(十字の銀河の産道)は【多(多数の文字)】を出産し、【多(多数の文字)】は【一】の字源(十字の銀河の産道)に集約される」と定める、「一即多、多即一の理論」を発明した。

「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「子どもを中心にしてならぶジャコウウシの1グループ・百頭余りの群れ」に相似する見立てられた。
「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシの姿に似る銀河」に相似すると見立てられた。
そして、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
下図に示すように、【勿(ぶつ)】の字源銀河は「三つ輪の銀河の西となりの、十字の銀河の左手が持つ銀河部」である。この銀河の形は「犂(すき)で土を撥()ねる形」とされた。
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だから、「夏の銀河の西端の、ジャコウウシの姿に似る銀河」は「【牛】の字源、ジャコウウシが餌場(えさば)の土を角(つの、即ち犂)で撥ねて餌の苔(こけ)を食べる姿」に見立てられた。
ゆえに、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は【勿】の字源「ジャコウウシが犂で土を撥ねる姿」、つまり「食料の苔を食べるために、ジャコウウシが角(即ち、犂)で土を撥ねる形」ということになった。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、
偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を――勿は犂で土を撥ねる形。『説文解字』は「萬物なり」と訓し、「牛を大物と為()す。天地の数は牽牛より起こる。故に牛に従ふ」という――と解説する。
前述したように、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は「牽牛の姿に似る銀河」であった。
「牽牛」は【一】の字源であり、この【一】の字源は「牽牛の姿に似る銀河」であり、また「萬物」をあらわしたので、「一即万()物、万物即一」という理論となった。
上記したように、「三つ輪の銀河」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが作る円陣」、「三つ輪の銀河の西となりの銀河部は【勿】の字源」であるゆえ、「三つ輪の銀河の【牛】」と「三つ輪の銀河に隣接する銀河の【勿】」を加えると、【物】の字となる。
『説文解字』は【物】は「万物なり」と訓するゆえ、「三つ輪の銀河と、そのとなりの【勿】の字源銀河部」は【物】の字訓は「万物なり」ということになった。
上記したように、「【一】の字源の、十字の銀河の子宮につながる産道」は「夏の銀河各部から作られたすべての文字を出産する産道」であったゆえ、「一即万物、万物即一」となった。
だから、倉頡は「一即万物()、万物()即一の理論」を考案したことになる。
このような倉頡が考案した「一即万物(一即多)、万物即一(多即一)」の理論は、現代の分子生物学でDNAという「小さな場に大きな情報が入っている」という先端科学の考え方に共通する。
『魏志倭人伝』の34の小国名は現代の先端科学のDNAの構造や、そして「17世紀のデカルトが提唱した西欧近代の合理思考の意見は必ずしもすべて正しいとは言えない。誤りも多々ある」と批判・否定する現在の先端科学の合理を超える合理を積み重ねる考え方で構成されている。
5000年前に生存した倉頡は、すでに現在の先端科学の考え方を発明していたのである。

◆白川静著『字統』は、倉頡が作った【禾()】の字について「いねの象形」と解説する。
【禾】の字源銀河は「女体に相似する、十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の口」である。
ゆえに、夏代黎明期では【禾】の下に【女】を加える【委()】の字が作られ、【委】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」であった。
「十字の銀河」は「人(東半分が男性、西半分が女性。また、人の正面と背面の姿)」に観えるゆえ、夏代黎明期には偏【人】に【委】を加える【倭()】の字が作られ、【倭】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
だから、【禾】【委】【倭】の地理字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。

上記したように、「【禾】【委】【倭】の天理の字源」は「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
「【禾】【委】【倭】の地理字源」は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」となった。
この地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は「出産児があおむけになって頭が先に子宮口に入りこむ()第1回旋(だいいちかいせん)」と、()娩出期(べんしゅつき)終わりに出産児の顔が母体の背側に向けるときの第4回旋における、頭を時計回りに90度転回する様子」をあらわした。

五帝時代初頭の黄帝時代に相当する中期縄文時代初頭、また卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)、そして万葉時代の8世紀初頭――遠くの地に旅する人々や大海を往来する人々は天頂緯度線、つまり旅の各地点の天頂にめぐってきた緯度線、現在の+赤緯(プラスせきい)を測量して命を保持して家族が待つ家に帰還していた。
「+赤緯」は「地球の赤道の天頂より北半球における各地の天頂緯度」である。
したがって、「+赤緯」は要するに「北緯」ということになる。
だから、「北緯3535分の土地の天頂緯度」もまた「北緯3535分」ということになる。

下図は「五帝時代初頭の黄帝時代、中国の各地の天頂緯度線をあらわす図」である。
下図が示すように、黄帝時代、北緯3535分の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯3130分の長江口(長江の河口がある湾)の中央(上海付近)」の天頂を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。
司馬遷著『史記』五帝本紀は――黄帝の遠征軍は「江」つまり「長江口がある湾の中央の地(上海あたり)」に至って、帰還した――と記述している。
したがって、黄帝の軍は、遠征各地の天頂緯度線をキャッチして南の長江口がある湾中央の地(上海あたり)まで遠征した後、帰路につき上海あたりから北上して山東半島の付け根にある日照(にっしょう・黄帝陵と同緯度の北緯3535)に到着し、日照から遠くの西方に洛陽(らくよう)に至り、洛陽から故郷(黄帝陵が所在する居住地)へ帰還したと考えられる。
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上図は、「十字の銀河」が「中国各地の天頂」にめぐってきたことを示す。
これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「中国全土(中国全土の天頂緯度線が測量できる基準(ものさし)」に見立てた。
「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央に、倉頡は「禾()の形の図書(ずしょ)」を重ねて、【禾の図書を育成適性地・長江口がある湾中央周辺地域がある、つまり「十字の銀河の子宮」がある「南」】に配した。
そして、倉頡はその「十字の銀河の南にある禾の図書」をさらに南へ伸ばし、「禾の穂」が「鬼の横顔に似る銀河の口」がある「西」へと垂れるようにした。
とうのも、「禾()の穂に実る米」は「人の口に入れる食料」となるからである。
これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
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下図の左側の【禾】の字形は、右上の()の図書である。
(
)の【禾】の字形は稲が地面に根をはって植わっていないとあらわす。ゆえに不自然・不合理である。
(
)の【禾】の字形の上下を180度転回すると()となる。
(
)は【禾】字源「時計回りに90度の転回方位規定」を表示しない。というのも、()[][西]を向くことになるゆえ、「反時計回りに90度の転回方位規定」を示すからである。
(
)を裏返しにすると、()の【禾】の字形(契文形)となる。
なお、このブログの初頭で説明したように、倉頡は「天理が正面とする南は、北を正面とする地理の北となる」という文字作成理論を確立させた。
ゆえに、倉頡は【禾】の字を作り、みずからの文字作成理論に則(のっと)って下図の()天理」の【禾】の図書の南は、地理の【禾】の図書における()()のごとく北となると定めた。
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下図に示したように、上図()の「地面に植わる【禾】の形」は、[][]に変位する「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を明示する。
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下に、【呉】の字源地理「反時計回りに90度転回する方位規定」を配した。
白川静著『字統』の【呉】について、「[][西]に変わる様子をあらわす【口(さい)】は「祝祷の器。【口】の下の字形は人が一手をあげて祝祷の形である【口(さい)】をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。
要するに、【呉】の金文形は「巫女(みこ)が児どもの誕生を祈祷(きとう)するときに用いる土器の【口(さい)】を右肩の上にかかげて祈ると願いがかない、出産児が産道を通過して元気に誕生した様子を見て慶(よろこ)ぶ巫女が身をくねらせて舞う姿」を図案するものであった。
下図は「[][西]に反時計回りに90度転回する様子」を示す。
ゆえに、【呉】の字形は「出産児が産道を通過するときの反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわした。(「回旋」は「かいせん」と読む)
だから、下図は、【呉】の字源は「反時計回りに90度転回する方位規定」であると表現している。
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下図に示すように、倉頡は、長江口以北地域の地名は【禾】、長江口より以南地域の地名は【呉】と定めた。
ゆえに、上記した倉頡が定めた地名にもとづき、【禾】の地域の川の名には【河】の字が用いられ、【呉】の地域の川の名には【江】の字が用いられて二分されている。
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◆現代史学は気づいていないが――原始のときから、人類には【天頂緯度を1度60分の60分の1の1分の精度でキャッチできる能力】が目にそなわり、【大脳には本能行動として1分の精度で測量できる能力】がそなわっていた。
下図は、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」、つまり「天頂緯度線」を示す。
下図の右上に示したように、天頂緯度線は天頂点で子午線と90度・直角に交わって【亠(とう)】という漢字となった。
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下図に、「原始のときからの、人類が天頂緯度を測量するときの姿勢」を示した。
天頂緯度を測量する人の姿勢は「時計回りに90度転回する方位規定」となった「出産児の第1回旋」をあらわした。
つまり、「天頂緯度を測量する人のポーズ」は「出産児があおむけ(レスリングのバックドロップのような姿勢)になって子宮口を通りぬけるときの、時計回りに90度転回する方位規定をあらわす第1回旋の状況」をあらわした。
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天頂緯度を測量する人は産道を通過する出産児のごとく無欲になれば「誤差を1(60)の精度」で天頂緯度を測定できた。
しかし、「必ず天頂緯度をキャッチする」と欲を有すると、「誤差が1分の精度」では測量できず、死産する出産児のごとく命を失った。
だから、上図の「天頂緯度を測量する人の頭・顔」を「出産児の頭・顔」に見立て、原始のときから「天頂緯度を精密に測定するときには、産道を通過する児のごとく無欲になれ」という忠告を、命をまもる心得(こころえ)にして、人類は命を後世につなげてきたことになる。

◆上記のごとくの方法で、原始のときから人類は天頂緯度を精密に測定して命をまもってきた。
これゆえ、紀元前2050年ころ、帝益の孫の王子一行は広大な大海で隔てる中国の会計(北京)・会稽(天津)と同緯度の日本列島・東北地方の八郎潟の偏(ほとり)に移住できた。
上記の「天頂の緯度を測量した方法」ならば「近辺の土地の緯度測量」はもちろん、「大海で遥かに隔てられる土地の緯度測量」も同様に緯度が精密に測定できた。

日本地図を開くと――日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島があり、遠く隔てた東端には伊豆諸島の神津島(こづしま)がある。
下図に示すように、沖ノ島と神津島は天頂緯度が同じ同緯度(北緯3415)である。
沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候地であり、亜熱帯地域の神津島は冬でも雪が降らず暖かい。
ゆえに、下図に記したごとく、沖ノ島を「西冷」とし、神津島を「東暖」と呼ぶことにした。
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下図に示すように、「中国の北部()の海岸線地域の気候は南部海岸線地域()より冷たい」。
「中国の南部の海岸線地域の気候は北部海岸線地域より暖かい。
ゆえに、中国の北部の海岸線地域は「北冷」、南部の海岸線地域は「南暖」となる。
下図に示すように、中国の海岸線地域の「北冷」と日本列島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、中国の海岸線地域の「南暖」と日本列島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する。
ゆえに、下図に示すように、日本列島の暖かい気候の「東」は中国海岸線の暖かい気候の「南」のほうへ伸びていると――卑弥呼は立論した。
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『魏志倭人伝』が記す末盧国(まつろくに)以下にある方位記事に則(のっと)ると、
日本列島は[]に伸びずに[]へ伸びることになる。
この方位記事によって、上図に示すように、本州の[西]にある九州が[]に所在することになる。
ゆえに、対馬国・一大国を除く日本列島は【禾】【委】【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則って転回していたことになる。
下の上図は、現代の日本列島における九州が北陸・東海地方よりも西方にある本州地図である。
下の下図は、卑弥呼立論した九州が北陸・東海地方より北方にある転回本州地図である。
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上の下図の【禾】【委】【倭】の字源に則る転回日本列島地理は、卑弥呼が錯覚した事実ではない地理であった。
しかし、卑弥呼は錯覚の転回日本列島地理を立論したことは事実であり、この転回日本地理によって倭女王に就任したのは歴史上の事実であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』には卑弥呼が考えた転回日本列島地理が記述されることになった。

卑弥呼が立論した転回日本列島地理は原始以来の人類が受け継いできた天頂緯度測量にもとづく科学的意見であり、
紀元前2050年頃に八郎潟の偏(ほとり)に定住した益氏の王子が帝禹と帝益がとなえた方位論にもとづいて「下北半島・津軽半島は東北地方の南端となる」と教えた学術意見と合致した。(現在は下北半島・津軽半島は東北地方の北端にあると定まっている)

このブログの初頭部で説明したように、紀元前3000年頃の黄帝時代初頭に生存した倉頡は「天理は南を正面にする。地理は北を正面する」と文字作成理論を定めた。
ゆえに、紀元前2100年頃に生存した帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は「地理の正面の北は天理の正面の南となる」と論じて、「地理における北の地は北に在らず、南に在る」と定めた。
紀元前2050年頃にわが国の東北地方に定住した帝益の孫の王子は「帝禹と帝益の考え方に則(のっと)って、日本列島・本州の北端の下北半島・津軽半島は北(北端)に存在せず南(南端)に位置する」と定義した。
ゆえに、日本列島・本州地理は下図のごとくに転回することになった。
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上図に示した益氏の孫の王子が立論した転回本州地理は、東北地方の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて立論した考え方であった。
ゆえに、日本列島の西部地域における九州は本州の最北・九州より東の北陸・東海地方が南に伸びている状況を益氏が立論して以来約2200年間も立証されていなかった。
益氏の孫の王子か約2200年後の西暦170年頃、上図のごとく、卑弥呼によって同緯度の沖ノ島・神津島の西冷・東暖の気候状況を注目して、益氏の王子が教えた転回本州地理は正しかったと証明された。

これゆえ、卑弥呼が提唱した「本州の東は東ではなく、南に伸びる」という意見は、益氏が教えた倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字の学術を修得した本州西部地域に居住する王・女王・氏族の長(おさ)たちは「正しい。まさに真実である」と賛同した。
そして、彼らは「これ以上、大乱をつづけて日々争っていると、地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊に激怒されて祟(たた)られ、大地(本州)は海中に沈没して人はじめすべてが滅亡するにちがいない」と深刻に悩(なや)んで心配するようになった。
だから、卑弥呼が立論した本州・西部地域の転回地理は倭国の大乱を一気に鎮静化(ちんせいか)する強大な威力を有した。
ゆえに、卑弥呼は本州・西部地域における最高位の女王に選ばれて就任し、わが国最初の「倭人国」が創立されることになった。

益氏の王子が教えた「下北半島・津軽半島は日本列島の北端ではなく南端となるという転回日本列島地理」は「東北地方一円の地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめて大災害が起きないようにした地理」であった。
だから、益氏の王子が立論した転回日本列島地理と同じく転回日本列島地理をとなえた卑弥呼は――卑弥呼が居住する地域辺一円の地中に棲む牽牛の死霊が激怒しないように騙しなだめて大乱が再びおきないようにしていた方策がなされて宮城を設営していた――ことになる。
というのも、『魏志倭人伝』には「倭の女王の卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)と素(もと)より和せず、(中略)、相攻撃しあう」と説明する記事が存在するからである。
本州・西部地域の倭人国において、男王・卑弥弓呼が治める狗奴国は卑弥呼と敵対(てきたい)していた。このため、大乱は倭人国の国中が完全に鎮静化(ちんせいか)したのでなく、狗奴国とは互いに小競(こぜ)り合いをして燻(くすぶ)っており、狗奴国軍が卑弥呼が住む宮城に攻撃してくるような情勢であったのである。

それゆえ、『魏志倭人伝』は狗奴国との争いが拡大して大乱とならないように、卑弥呼は地中の牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめていた様子を下記のごとく説明する。
「名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)って能()く衆を惑(まど)わす。年已(ねんすで)に長大なるも夫婿(ふせい)無し。男弟有りて佐(たす)けて国を治む。王と為()りし以来、見る者少なく、婢()千人を以て自ら侍()せしむ。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞を伝えて出入す。居処(きょしょ)は宮室・楼観(ろうかん・見張り櫓)・城柵(じょうさく)を厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持()して守衛す。」

上記のごとく、卑弥呼は軍事的施設の城を構成する柵(さく)をおそらくジャコウウシが敵にそなえる円陣のごとく円形にならべ、この円形の柵内(城内)に見張り櫓(やぐら・楼観)を建造して狗奴国軍が攻撃してくるのを日々警戒し、城の出入り口の門に兵を配置して守衛させていた。
卑弥呼は、城の柵内(さくない)の一画に建造した宮室に住んでいた。
卑弥呼を弟が補佐して国を治めていた。
その他に、一人の男子が飲食を給仕(きゅうじ)していた。
この男子の役割は、カワセミの求愛給仕行為からオスが嘴(くちばし)にくわえる魚をメスが受け取って食べる習性を真似(まね)したものと考えられる。
カワセミは、巣穴の近くにダミー(騙し)の穴を作る。
ゆえに、卑弥呼が居処する宮室にはダミー(贋物)の宮室が作られていたであろう。
卑弥呼を見た者は少なかったのは――おそらく地中に棲むジャコウウシの死霊が激怒するのを騙しなだめるために、卑弥呼も常に地中に潜(もぐ)るかのごとく姿を見せないようにする呪術(じゅずつ・まじな)いをおこなっていたからと考えられる。
卑弥呼が婢千人を侍(はべら)せていたのは――13歳くらいの婢(乙女)たちは最も強大な魔力を有すると信じられていたため、婢は倭国の大乱の戦場において呪(のろ)いの儀式をおこなって敵の呪的(じゅてき)な戦力を奪うことができる魔女として従事していた。婢は敵の魔女(呪術者・婢)も殺すことができる呪力を有するとされた。
だから、卑弥呼は城内に優秀な魔力を有する婢千人を生活させて、戦場で彼女たちが魔力を再び発揮しないようにして大乱が起きないようにしていたにちがいない。

以上のごとく、『魏志倭人伝』が説明してた「日本列島の東は南に伸びる」という転回地理は、卑弥呼が立論した【倭】の字源を表示する実在した地理であった。
「卑弥呼」の【卑】の字源・原義は「偉大な地理学者」であり、『説文解字』が解説する「下賤(げせん)なり」は字源・原義を失った誤った字説であった。
卑弥呼がとなえた転回日本列島地理は、倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の帝禹と帝益が立論した[北」(本州北端の下北半島・津軽半島)[]とする転回地理の意見と合致した。
だから、『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は歴史上に実在した事実であったことになる。
邪馬台国説学者たちは「本州の東は東ではなく、南に伸びる」と説明する転回日本列島地理は誤っている、事実ではない」と否定するが、この意見は空理空論あったことになる。

◆以上のごとく、わが国には確実に【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】が存在し、7世紀中半~8世紀初頭の飛鳥時代にも王朝基盤となる学術として存続していた。
だから、2世紀末~3世紀中半までのわが国の様子を約2000字で記述する『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】を【系統的に合理を超える合理の成立】をもって説明する、現在において先端科学的な論考で構成される最高・最良の史料であった。

次回の漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41―1」では【臺()】と【壹()】の字源の相違を明確にし、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壹()国であった」ことを証明する。
これゆえ、現存する12世紀末の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の「邪馬壹国」という表記は誤字ではなく正しかったことになる。
だから、卑弥呼が統治する倭人国には「邪馬臺()国」という名の王国は実在しなかったことになり,18世紀前半に新井白石がとなえて以来今日までの約300年間も多くの学者たちが継承してきた邪馬臺()国説は誤読の産物の空理空論であった事実が明白となる。

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2025年4月13日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・40ー1

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった()

◆漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』は、下に記す3種の事柄を説明する。
しかし、学界は定説や有力説にもとづいて、これら3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろこく)以下の記事にある【方位記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。
だから、邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びるといると説明する転回日本列島地理は誤っている」と否定する。
【3】『魏志倭人伝』の12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)は、女王卑弥呼が王国名を「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺()国」こそが正しい。

上記の3種の記事はすべて正しかったのである。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭、最初に漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細して証明した。
ゆえに、上記の【1】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。
だから、学界の定説は根本的に誤っていた。
次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを解説して証明する。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、倭人国は卑弥呼を倭女王に選び国家を創設することになった。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を否定する、学者たちやメディアが最も正しいと思い込む邪馬台国説もまた、【1】同様に、史料の表層を一瞥(いちべつ)しただけの軽率(けいそつ)で粗雑な意見であったことになる。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
ところが、現在の学者たちは即座に「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と否定する。
でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。

倉頡伝説は下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄(三皇時代の易占に用いた記号)に代えたので、天は祝福して、禾(か・稲。稲や麦などの穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」

中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。
この「倉頡の肖像画」は、騙(だま)し絵であった。
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上に示した「四つ目の倉頡の肖像画」は「人物画(地上に住む人の顔に目を四つ描く絵)」であった。だから「騙し絵」ということになる。
この事実も知らないで、現代の学者たちは「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。
これゆえ、彼らは自らの大失敗にまったく気づかず「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高(こえだか)に主張する。

倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
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上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。
下に、「天理(天にある道理)の十字の銀河」と「天理の四つ目の怪人・倉頡」つまり「鬼の横顔に似る銀河」を配した。
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下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼(二つの目)となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目は一つ」あるゆえ、
「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。
だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。
前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化(ごまか)して隠ぺいするための騙し絵」であったのである。
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倉頡(そうきつ)は「天理(夏の銀河各部の形状)と、天理と異なる地理とで構成される」と「辞理(文作成理論)」を定めた。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」において、「辞理」という語は「古事記上巻 并せて序」の末部に登場すると指摘した。
つまり、「古事記上巻 并せて序」末部の「辞理の見え叵(がた)きは、注を以()ちて明らかにし、意況(いきょう)の解(さと)り易(やす)きは、更(さら)に注せず」という文の先頭が「辞理」という語である。
前述したように、【天理(夏の銀河各部の形状)は完全なる合理からなり、地理は天理と異なって少数の不合理な点や欠点や弱点を有する」という理論】が【辞理】であった。
ゆえに、中国の五経の第一にあげられる『周易(しゅうえき)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)の冒頭文は「天尊地卑」、つまり「天理は尊く、地理は卑し(地理は天理より劣る)」と記述する。
倭女王名の「卑弥呼」の【卑】は「地理は卑し」の【卑】と同義であり、
つまり、夏音文字【卑】は「地理に精通する大学者」を意味し、断じて今日のごとく「下賤(げせん)である」と意味するものではなかった。

◆このブログが幾度となく解説したように、『魏志倭人伝』の「倭人国には牛と馬は無い(つまり、生息していない)」という記述における【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」を意味し、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」と意味した。
これゆえ、【現代の学者たちは四つ目の肖像画を見て「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけ)作り話である」と騙(だま)された】の【騙】の偏に用いられた【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。

下図に示すように、【馬】の字源となった銀河は【「十字の銀河」とその東となりの「三つ輪の銀河」】であった。
「十字の銀河」は「月光にきらめく沙(すな)のように壮麗な妊婦の姿」をしており、「三つ輪の銀河」は「月光に沙がきらめく土地の沙漠、つまり瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)をあらわす、天理」となった。
「三つ輪の銀河」は夏の銀河において最も東に位置し、「三つ輪の銀河」の東となりは「秋の銀河の西端(にしはし)」である。
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ゆえに、【馬】の字形は「天理」の「十字の銀河」から図案された。
下図に示すように、「十字の銀河」が【馬】の字形となり、「三つ輪の銀河」の字形は「馬(フタコブラクダ)が生息するゴビ沙漠」に相当すると見立てられて図案された。
だから、【馬】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「十字の銀河」を「フタコブラクダの姿」に相似するように図案された。
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『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南一海を度(わた)る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国(長崎県北部の壱岐)に至る」と記述する。
これゆえ「対馬国の南の海」は「瀚海(かんかい)」と名づけられ、「瀚海は対馬国と一大国の中間の、現在の東水道」であった。
上記したように、「瀚海」は「馬が生息するゴビ沙漠」を意味した。
下に、「対馬国・瀚海・一大国の図」を配した。
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下図に示す「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を見て――卑弥呼は「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜のフタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てた。
「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠・瀚海を歩くのに都合(つごう)がよい、じょうぶな足の指を有する大きな足底、あるいは沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
【馬】の字源銀河は、上記したように「十字の銀河」である。
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上図に示したように――「下県の、フタコブラクダの足底の形(爪先の形)」は[]に向く。ゆえに、卑弥呼は、瀚海(ゴビ沙漠)を対馬の[]に配置したが、
「対馬の[]にある現在の西水道」もまた「瀚海」であったと示していた。
だから、「対馬の上県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の正面形」となって【対】し、
「対馬・下県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の足底の形で【対】するゆえ、
卑弥呼は小国名を【対】に【馬】を加える「対馬国」と定めた。
また、「対馬国の上県の地宜は「[]に進む【馬】の形となって、[]に瀚海がある形」、
「対馬国の下県の地宜」は[]に進む【馬】の形」となって、[]にも瀚海がある形」を示す。
したがって、【瀚海の位置が[][]に対することになる】ゆえ、卑弥呼は小国を「対馬国」と名づけることにしたのである。

前ページで図示したように、「天理の馬は瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠の西となり」にある。
それに対し、「地理の瀚海・ゴビ沙漠は対馬国の南の一海」となる。
だから、「瀚海の北にある[対馬]の【馬】」は、「だまし」の漢字【騙】の偏となる【馬(フタコブラクダ)】をあらわした。

下図は、瀚海の南にある「一大国、現在の長崎県北部の壱岐」の地図である。
一大国における、「現在方位の西部は、馬の顔とコブ」に見立てられ、「壱岐の大半を占める東部(現在方位)の地域は「牛の全身の形」に見立てられた。
夏音文字【牛】は「ジャコウウシ」を意味したゆえ、「壱岐の大半を占める東部地域」は「ジャコウウシの全身の形」に見立てられて、「地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」になった。
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上図に示したように、一大国は「【牛】と【馬】の地宜に岐(わか)れる」。
だから、後世、「一大国」は「壱岐」と表記された。
というのも、倉頡は【牛】と【馬】」を【一】の字源と定め、また【一】の字源は「子が子宮口(しきゅうこう)から産道を通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生し、その後の後産期(こうざんき)までの様子」をあらわすようにした。
言いかえると、倉頡は【一】の字源を【牛】と【馬】と定めるため、「子どもが出産するに通過する産道」と「後産期の様子」をも【一】の字源にした。
ゆえに、【牛】と【馬】は【一】の字源「人の出産の様子」をあらわす聖獣(せいじゅう)となった。

司馬遷著(しばせんちょ)『史記』夏本紀(かほんぎ)初頭部は下記のごとく説明する。
「禹()の父の鯀(こん)が帝舜(ていしゅん)に治水工事(ちすいこうじ)を命じられた。しかし鯀の治水が実状にそぐわず、なんにも成果をあげていなかったので、鯀を羽山(うざん)におしこめられて死にいたらしめた。
帝舜は、鯀の子の禹に、鯀の治水事業を継続させた。」
禹の治水工事の成功しでたとき、倉頡が作った【一】は、夏音文字で【壹()】と表記されるようになったと考えられる。
また、倉頡が作った【台】を、夏音文字では【臺】と表記されるようになったと考えられる。
〔注 この【壹】と【臺】の誕生の秘密は、「漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41-1」にて解説する。〕

【壱】の旧字は禹が作った【壹】である。
【壹】の上部(【壺】の上部)は「分娩のはじまりとなって、子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい・すっかり開く)状態から出産が始まる」を表現し、
【壹】の下部の【豆】は「出産の始まりから後産期で出産が完了するまで、出産児が頭を前にして産道を通過し、さらに後産期の出産児の様子」をあらわした。
つまり、「レスリングのバックドロップのように出産児はあおむけになって子宮口(しきゅうこう)に頭が入れると、その後、頭を前にして産道を進むと膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産期に卵膜(らんまく)・臍帯(さいたい)・胎盤後血腫(たいばんこうけいしゅ)などが押し出されて出産が完了するまで、出産児の頭は5回も転回する」。
したがって、【頭】の原字(げんじ・最初の文字)は【豆】であった。
だから、【壹】の字は「子宮口の全開大から始まる出産は、後産期で完了する様子」をあらわした。

下に、五帝時代に生存した黄帝(こうてい)を祀(まつ)る廟(びょう)と墓となる黄帝陵(こうていりょう)の位置を示す地図を示した。
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上の図における「黄帝陵より左側の黄河上流の形」は「頭が縦(たて・アゴから頭までの距離)に長くなる、その出産児の鼻の形」に相似する。
ゆえに、「長方形状の黄河上流地域の地図」は「出産児が西に顔を向ける形の地理」となった。
その「地理の瀚海・ゴビ沙漠は出産児の頭の上から遠く離れた北にあり、そして東西に広がる」。
ところが、前ページで示した「瀚海(かんかい)と【馬】の天理図(字源解説図)」では、「三つ輪の銀河・瀚海(かんかい)は東にあって南北に広がり、十字の銀河・【馬】も南北に伸び」、「三つ輪の銀河と十字の銀河は連結する」。
そして、倉頡(そうきつ)は「天理の四つ目の怪人・倉頡(鬼の横顔に似る銀河)」を「出産児の頭()」に見立てた。
また、倉頡は「地理の黄河上流の長方形状の形」も「出産児の頭()」に見立てた。
ゆえに、「天理の瀚海図(字源図)」と「地理の瀚海図」は同一ではなく、その相違は明確である。
「天理・銀河の瀚海」を「フタコブラクダが生息する地のゴビ沙漠」と解釈する考えは、イメージ(映像や心像)をもって同じであると誤魔化(ごまか)し騙(だま)す産物であった。
だから、「瀚海に生息する【馬】・フタコブラクダ」は、「だまし」を意味する文字【騙】の偏となった。

上記した【馬】の天理字源は「十字の銀河」、【馬】の地理字源は「フタコブラクダ」、「瀚海」の天理字源は「三つ輪の銀河」、「瀚海」の地理語源は「ゴビ沙漠」とする定理は、倉頡の発明であった。だから、【馬】の字源と「瀚海」の語源は「辞理(文字作成理論)」を学ぶにあたって真っ先に知らなければならない基本中の基本知識であった。

貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢中和辞典』(角川書店発行)は「【翰(かん)】の字義は「やまどり。雉(きじ)の一種」とする。
ゆえに、【翰】・「やまどり」は「ヤマセミ」であったと考えられる。
というのも、偏【三水】に【翰】を加えると【瀚】になるからである。
「三つ輪の銀河」は「水鳥のカワセミが飛び込んだ水面にできる水輪(みなわ・円形の波紋)の形」にソックリである。
ゆえに、扁が【三水】の【瀚】は「水鳥のカワセミ」を意味したにちがいない。
瀚・カワセミの巣穴(すあな)の近くには「ダミー・贋物(にせもの)の穴」がある。
この「ダミーの穴」は言いかえると「騙(だま)しの穴」である。
だから、「ゴビ沙漠に生息する馬(フタコブラクダ)」と共に、「地理のゴビ沙漠」もまた「騙しの穴を作るカワセミの海」、つまり「瀚海」と名づけられたのである。

◆なぜ、「騙し」が必要になったかといえば――黄帝が居住した黄帝陵周辺を黄河が長方形状に包囲し、黄河陵周辺の東方の近くには黄河の水が北(上流)から南(下流)に一直線状に流れる。
このため、黄河の水は急流となり、大雨が降れば洪水となり氾濫(はんらん)して大災害となっていたにちがいない。
黄帝陵周辺に住む人々は――夏の銀河の西端の形状を観()[亡くなった牛(ジャコウウシ)]が地中深く潜(ひそ)み、その[牛の死霊が激怒して暴れる]のが原因で洪水となり、黄河は氾濫する――と考えたようである。

下に、「巨龍の銀河の尾」から「さそり座α星」までの夏の銀河の東部から西端までの図を配した。
この図における右下にある「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」を、黄帝や倉頡はじめ黄帝陵周辺に住む人々は「牛(ジャコウウシ)の群れが円陣を組む、その円陣の中心」と見立てた。
というのも、牛(ジャコウウシ)は敵の気配を察知すると1グループ・百頭ぐらいの群れが円陣を組み、この防御体勢となる円陣の中心に「牛の子ども」を配置して隠したからである。
ゆえに、下図の右下の「胎児の姿に似る銀河」は[メスの牛が孕(はら)む胎児]に見立てられた。
また、「胎児の姿に似る銀河」と「銀河の中心」と「巨龍の銀河の顔がある、夏の銀河の西南部」は「百頭余りの牛の群れが組む円陣」と見立てられた。
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上図における右下の「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来する気配を察知すると、防御(ぼうぎょ)する牛・ジャコウウシの姿勢」に相似する。
「防御の姿勢となる、牛(ジャコウウシ)の姿に銀河(胎児の姿に似る銀河)」を「1グループ・百頭余りの牛の群れを牽引(けんいん)する先頭の牛」に見立てると、
(A)
「巨龍の銀河の顔」は「群れを牽引する先頭の牛に従う二番目の牛」 に見立てられ、「巨龍の銀河の最後尾となる、わし座α星(牽牛星・彦星)付近の巨龍の最後尾の銀河」は「百頭余りの群れの最後尾の牛」と見立てられた。

上図における下部の左下「巨龍の銀河の顔から牽牛星(彦星)付近の巨龍の最後尾」までは、上記した(A)「百頭余りの牛(ジャコウウシ)を牽引する先頭(胎児の姿に似る銀河)にしたがう二番目の牛から最後尾の牛」に見立てられた――この(A)の他に、「巨龍の銀河の顔」は(B)(C)つまり計3種の物に相似すると見立てられた。

上図における左下()「巨龍の銀河の顔」は「北から南に下って黄帝陵周辺地域に生息した、牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野性の馬(フタコブラクダ)の群れを牽引する先頭の馬」に見立てられた。
ゆえに、上図における左上の()「わし座α星・彦星」は「牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野生の馬(フタコブラクダ)における最後尾の馬」に見立てられた。
実は、(B)「彦星」の【彦】は「牛・ジャコウウシ」を意味せず、【彦】の字は「大きく育った馬((タコブラクダ)を意味した。
また、【彦】は【顔】の原字(最初の文字・【顔】の偏は【馬】)であり、【彦】の字源は「大きく育った馬(フタコブラクダ)の顔」に見立てられた「巨龍の銀河の顔」であった。

作家にして詩人であった故・井上靖(いのうえやすし)氏は、『地中海』という詩集にある「落日」と題する詩にて「匈奴という遊牧民族の伝説」について、冒頭から
「匈奴(きょうど)は平原に何百尺かの殆(ほとん)ど信じられぬくらいの深い穴を穿(うが)ち、死者をそこに葬り、一匹の駱駝(ラクダ)を殉死(じゅんし)せしめて、その血をその墓所の上に注(そそ)風習があった。云々」
と表現する。

上図における(B)「巨龍の銀河の顔から尾までの全体像」は――上記したように、[(ジャコウウシ)]の群れについてきた[野性の馬(フタコブラクダ)群れ]をあらわし、そして「巨龍の銀河の顔」は「[]の子(銀河の中心と胎児の姿に似る銀河)の死霊を襲って追い回していじめる地中深く葬られた[]の死霊」をあらわした。
これゆえ、【死霊の[]の群れは死霊の[]の子たちをまもって激怒(げきど)する。だから、黄河の水が氾濫して災害をもたらす】――と黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。

下に、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄帝陵の地図を配した。
この黄河上流における北部から東部には、黄河から枝分かれする細い川がある。
その細い川を参考にして、黄帝は黄帝陵東部の黄河から細い水路を造成する治水工事を命じて、激流する黄河の水をゆるやかにして氾濫を防(ふせ)ぐとともに田(農地)に用いる水とした。
また、黄帝は「黄河と水路の連結部に堤防を築いて、氾濫をふせぐ治水工事」を命じたと考えられる。
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上記したように、黄帝陵周辺に住む人々は――地中深く葬られた[]の群れの死霊が、「銀河の中心」と「胎児の姿に似る銀河」に見立てられた[]の子たちの死霊を襲って追い回しいじめる様子を、[]の親の死霊の群れが激怒して洪水となり黄河が氾濫する――と考えた。
ゆえに、下図における左の(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河」に見立てられた。
また、下図における(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「洪水で、氾濫する黄河」に見立てられた。
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上図における「巨龍の銀河の顔」と「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」の形状について――
藤井旭(ふじいあきら)氏が著作した『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)115ページにて、「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と説明する。
ゆえに、黄帝陵周辺に住む人々は「銀河系の中心と、その東側の巨龍の銀河の顔、その西側の胎児の姿に似る銀河(防御の姿勢となるジャコウウシの姿に似る銀河)」は「洪水で大きな渦を巻いて氾濫して濁流(だくりゅう)する黄河の水」を連想した。
だから、()「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河の氾濫は、馬・フタコブラクダたちの死霊が牛・ジャコウウシの子たちの死霊を追い回していじめる様子を親の牛・ジャコウウシたちの死霊が激怒して起きる」と、黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。

以上のごとく、黄帝陵周辺に住む人々は「急流の黄河や地中」には「強大な力を有するジャコウウシの死霊が棲()む」とおそれた。このため、「急流の黄河に棲むジャコウウシの死霊を騙(だま)して宥(なだ)めて氾濫をふせぐ必要」があった。
だから、倉頡は【馬】の字源「フタコブラクダ」と「瀚海(かんかい)」つまり「ゴビ沙漠」をもって「牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒するのを騙してなだめる方法」を考案することにしたのである。

いままで解説してきたように、五帝時代初頭の黄帝時代には、すでに地図が作製されていたことになる。
ゆえに、倉頡は黄帝陵を包囲する黄河上流地域はほぼ長方形にして、出産児の頭の形に相似することを知っていた。
倉頡が発明した文字作成理論は【黄河上流地域の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】から始まった。
したがって、黄帝時代には、かなり精度の高い地図を作製されていたと考えるべきことになる。
倉頡は「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡(そうきつ)が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝えて、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするため――地宜(ちぎ・地図の形)をあらわす地名を作って残すことを、倉頡は許可した。
しかし、倉頡は容易に地図の形が察知できる文字で地名を作ることを厳重に禁止し、地名には「騙し」を加えあるいは難(むずか)しく考えて作らなければならないと定めた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ『騙し』を加えて難解する作業」は【学】の字となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)、夏代黎明期に作られた文字は後世において基本的に夏の銀河各部の形状から作られた楷書に変換できて残った。
したがって、倉頡が作った文字は司馬遷(しばせん)著『史記』に残り、倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書の字源・字形・字義や語句となって残った。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていないが――『史記』や『魏志倭人伝』や『古事記』上巻における様々な名をあらわす楷書や『万葉集』の万葉仮名となって残っている。

倉頡は、地図を王朝が独占管理して厳重な機密とするようにした。
だから、独自に地図を作製する人物・家族・一族全員には、「騙し」を加えて難しい知識にしてあらわした地名の秘密を容易に理解できるように説明した人物・家族・一族全員には、厳しい神罰が下されて死刑とするという掟を倉頡は定めたことになる。

前述したように、倉頡は反体制者たちが辞理(文字作成理論)を理解し手に入れて革命に利用したならば、容易に黄帝王朝は滅亡すると心配して、辞理を難解・複雑にした。
ゆえに、倉頡は[辞理に「瀚海・三つ輪の銀河と【馬】の「十字の銀河」と、「瀚海・ゴビ沙漠」の【馬】の「フタコブラクダ」との形状の差錯(ささく・相違)]を辞理に加えて、辞理が容易に理解できないように難解・複雑にしたのである。
だから、黄帝時代や夏代黎明期には高度な地図が作製されていたと考えて――『魏志倭人伝』の34の小国はじめ、中国の黄河流域やわが国の東北地方の地宜(平面的に図化した地図の形)と地名に用いられる文字を注目して――小国名に用いられる文字の字源・字形・字義について字源字書の説明にもとづいて推理すると――『魏志倭人伝』の全34の小国の地宜・位置・範囲は4~6時間ぐらいで解明でき、また中国の黄帝時代と夏代黎明期の歴史、そしてわが国の東北地方の地宜と地名に残った夏代黎明期の歴史も解明できるようになっている。

◆次に【騙】の旁部(つくりぶ)の【扁】の字源銀河と、「だまし」を意味することになった理由・根拠について解明する。
古代の人々が“字書の聖典”と尊重した許慎(きょしん)著『説文解字(せつもんかいじ)』は、
【扁(へん)】の字源を「署(しょ)するなり。戸册(こさつ)に従ふ。戸册なるものは、門に署するの文なり」と解説する。
白川静著『字統』(平凡社発行)は、上記の「『説文解字』の字源解説は「網戸(あみど)の形。戸の下部を網戸の形に作る。その両扁のものを扉という」と説明する。
このような『説文解字』と『字統』の解説は字源を失っている。その証拠に【扁】の字が「だまし」の意を有することなったのかまったく不明である。

下の左図は「夏の銀河点描図(夏の銀河の全域図)」である。
この左図は日本天文学会編『新星座早見』(三省堂発行)の夏の銀河の全域図を、わたくしがトレシングペーパーに点描しなおして作製した。
右図は「夏の銀河輪郭(りんかく)図」である。したがって、輪郭の中は空白ではなく、空白部の全面もまた銀河ということになる。
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上図は、【「三つ輪の銀河」から「胎児の姿に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
下の左図は、【「三つ輪の銀河」から夏の銀河の中間にある「わし座α星のアルタイル・牽牛星(けんぎゅうせい)・彦星までの銀河」を削除(さくじょ)した――【「わし座α星・牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
つまり、下の左図は【扁】の字源となった【「牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までを全域とした図】である。
右図は、【扁】の字源銀河の全域輪郭図である。
〔注 下の2図における右下には、出産児の誕生における後産期(こうざんき)をあらわすさそり座α星・アンタレスがある。しかし、この2図とも、さそり座α星が欠けている。〕
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下の左図()は、【扁】の字源銀河全域輪郭図を180度転回した図である。
中央図()は、左図()の上下を180度転回した図である。
右図()は、中央図()を書いた薄い紙の裏面からも見えるようにして、その裏面の形をあらわした図、つまりこの「裏返しの図」が【扁】の字源銀河図である。
「右図()の裏返しとなる中央図()」は「内裏(だいり)」の語源となった。
「内裏」とは「昔の天皇の御殿(ごてん)。つまり皇居・禁裏」を意味する。
下の()(Ⅱの)図は、【扁】の字が「騙(だま)し」の字義を有することになった秘密の解明図である。
つまり、()()【扁】の字源銀河による「騙し」は――洪水で黄河が氾濫して大災害とならないように、【牛】の字源・ジャコウウシの死霊が激怒しないようにやわらげ静める――を表示している。
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上の左の銀河図()は、実際に見えない――今から約4100年~4000年前頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)、現代の暦による冬至(12月の21)の夕刻6(18)、その全域は北の地中深く(地平線下)に潜(もぐ)って見えない。
上の中央の銀河図()は、左図()の銀河の上下を180度転回した「内裏」の語源銀河であるが、偽(にせ)の銀河であって実際にはまったく見ることができない。
ゆえに、上記したように、()()の2図は「激怒する死霊の牛(ジャコウウシ)を騙しなだめる」という意味を有することになった。

上の右の銀河図()は、夏至の日の622日の18時の夕刻、東南東(東から約10度の南)の地平線(水平線)を擦(こす)るように牽牛星・彦星が昇る様子をあらわしている。
しかし、この夏至の日の夕刻18時には銀河は見えない。というのも、夏至の日の夕刻18時は太陽が地平線と重なるため、この太陽の光によって【扁】の字源銀河は見えない。
右図()は夏至の日の夕刻18時と20時の銀河図の両方をかねている。
太陽が地平線下に没して18度の深さに至って星や銀河が見える夜となる夏至の日の20時、牽牛星・彦星は東南東(東から約30度の方角)に位置し、地平線から約30度の高度に輝いていた。
だから、夏至の日の20時ならば右図()の【扁】の字源銀河は見えた。
したがって、()における夏至の日の20時の【扁】の字源銀河は「騙(だま)し」の意味を有さないことになった。

奈良県高市明日香村には「牽牛子古墳(けんごしづかこふん)」と呼ぶ国の指定遺跡がある。
この古墳の墳丘(ふんきゅう)は大・中・小の八角形を積み重ねて設計されている。
ここからは、「上記したように、この古墳名と同じく「牽牛子」の振り仮名(ルビ)を「けんごし」とする。
「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」の別称ということで、国の史跡に指定されたときには、「牽牛子塚古墳」は「あさがおつかこふん」という読みがついていた。

下に、「牽牛子(けんごし)」の語源解説図を示した。
「胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシがアゴを地面に向けて正面を見て、頭を首より低くする姿勢」に酷似(こくじ)する。
言いかえると、「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来するとき、人がジャコウウシを狩猟するときの牛・ジャコウウシの姿勢、あるいはオスのジャコウウシがメスをめぐって闘う姿勢」などに相似する。
ゆえに、ここからは「胎児の姿に似る銀河」を「牽牛子(けんごし)の銀河」、または「牛・ジャコウウシに似る銀河」と呼ぶ場合もある。
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前述したように、防御体勢となる牛・ジャコウウシの群れは円陣を組み、ジャコウウシの群れは皆円陣の中心にいる子のほうに背中をむけ、敵に顔を向ける。
ゆえに、「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」は「牛・ジャコウウシの子がいる所」となる。
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河から成る円形」は「牽牛・ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられたゆえ、「ジャコウウシの子がいる銀河の中心」は「牽牛の子」略して「牽牛子」となる。

前述したように、「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「胎児の姿に似る銀河」でもある。
ゆえに、「牛・ジャコウウシに似る銀河=胎児の姿に似る銀河」を「ジャコウウシの子の姿に似る銀河」と名づけると、
これまた「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「牽牛子」という名となる。

◆下図に示すように、夏至の日の朝日は東から30度の地平線(水平線)の方角から出()ずる。
春分・秋分の日の朝日は東の地平線から出ずる。
冬至の日の朝日は東から30度の地平線の方角から出ずる。
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下に図示したように、夏の銀河の東端に「三つ輪の銀河」がある。
「三つ輪の銀河」は「北の輪(円形)の銀河・中央の輪(円形)の銀河・南の輪(円形)の銀河」という三つの輪の銀河が重なりあう形となる。
したがって、「北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられ、「中央の輪の銀河」は「春分・秋分の日の朝日」に見立てられ、「南の輪の銀河」は「冬至の日の朝日」に見立てられた。
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すぐ前のページに図示したように、夏の銀河の西端には「さそり座α星・アンタレス」が在る。
再度、この図を下に配置した。
下図が示すように、「牽牛子の銀河の腰からさそり座α星までの銀河」は「ラッパの形に似る朝顔の花」に形似する。
上記したように、「三つ輪の銀河における北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられた。
「朝顔の花」は「夏の朝方」に咲く。
ゆえに、上記したように「牽牛子の銀河の腰からさそり座までの銀河」は「夏の朝方に咲く朝顔」に見立てられた。
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東端の「三つ輪の銀河」から西端の「さそり座α星」までの夏の銀河は巨大である。
だから、奈良県高市明日香村に所在する牽牛子塚古墳の墳丘における最下段の八角形は「三つ輪の銀河からさそり座α星・朝顔の花の台(うてな・萼拊)までの巨大な夏の銀河」をあらわした。

◆「牽牛星・彦星が漬()かる銀河(【扁】の字源となる東端の銀河)」から西北の方角の隣(となり)には、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、国際的に天文学界が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。
「北天の最輝部」は「北半球の人々が最も輝いて見える銀河の部分」と意味する。
「人の横顔に酷似する銀河」の東となりの暗黒天体部は、国際的に天文学界において「コールサック」と呼ばれている。
「コールサック」の「コール」は「石炭」を、「サック」は「袋」を意味する。ゆえに、「コールサック」は「石炭を入れる袋のごとく真っ黒の天体部」ということになる。
「コールサックの形」は「丸くなって前につきだした妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。

下に、「コールサックと人の横顔に酷似する銀河の図」を配した。
光がまったく目に入らない暗闇から「コールサック」を見ると、瞳孔(どうこう)が最大に拡大して「コールサック」は真っ黒く見える。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部がはなつ光」を「人の目に入る光」と見立てると――光が目に少し入ったために瞳孔が最大より少し縮小して、「コールサックの色」は「夏の朝にラッパの形に似る美しい花が咲く朝顔の紫色」に見える。
ゆえに、「コールサック」は「紫色の朝顔の花」にも見立てられた。
上記したように、「コールサック」は「子どもを孕(はら)む妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。

よって、「コールサック」は「朝顔」と、そして「人の横顔に似る銀河」は「子どもを生む女性の横顔」に見立てられた。
だから、「人の横顔に酷似する銀河」もまた「コールサック」同様に「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に似る銀河」は「東の空が明るくなる朝」を示して[]に顔を向けているゆえ、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の強い朝日が直射(ちょくしゃ)する顔」に見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天の最輝部の眩(まばゆ)い銀白色の輝き」は「夏の朝の強い陽射し」が連想されるからである。
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朝顔の花は夜間に咲かない。
ところが、「コールサック」と「人の横顔に似る銀河」の「夜間に咲く朝顔の解釈」は「騙し」の意味を有するものと解釈されないことになった。
というのも、「コールサック」は「妊婦の腹部、つまり胎児が生活するところ」に相似するからである。
だから、「胎児が生活するところ」と見立てられた「コールサック」は「神聖なところ、つまり聖域(せいいき)」であるゆえ、「騙し」の意味は有さないと定められた。

このような「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの朝顔」は、明日香村の牽牛子塚古墳における中くらいの大きさの中段の八角形をあらわした。

◆すぐ前ページにて指摘したように、夏の銀河の東端は「三つ輪の銀河」である。
この「三つ輪の銀河における、北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」及び「夏の強い朝の陽射し」に見立てられた。
「三つ輪の銀河」の西隣(にしとなり)は「十字の銀河」、「十字の銀河」の西隣には「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」がある。
下に図示した「十字の銀河」は「夏の強い朝日の陽射し」に見立てられた「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「十字の銀河の顔」は「夏の強い朝日を浴()びる顔」、略して「朝顔」と呼称されることになった。
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また、上図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の顔)」も「「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「四つ目の銀河」もまた「夏の強い朝日の陽射を浴びる顔」と見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「朝顔の花」に見立てられた。

朝顔の花は夜に咲かない。
しかし、「十字の銀河の顔」・「四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮」は、前述した「人の横顔に酷似する銀河」・「コールサック」と同様に「騙し」の意味を有さないと定められた。
というのも、前述したように、「胎児が生活する女性(妊婦)の正面形」に相似する「コールサック」は「騙しの意味を有さない、聖域」と解釈されることになったからである。
だから、「十字の銀河の子宮」の、「子宮」も「胎児が羊水(ようすい)に潜(もぐ)って水中生活するところ」であるゆえ、「騙しを有さない、聖域」と定められた。

「十字の銀河の顔の朝顔」と「四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」との三者グループの大きさは、上記した「人の横顔に酷似する銀河の朝顔」と「コールサックの朝顔」よりも小さい。
だから、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」は明日香村の牽牛子塚古墳における最上段・小の八角形をあらわした。

◆下図は「十字の銀河」と子宮」の図である。
わたくしが「十字の銀河の子宮」とつけた名は、実は「十字の銀河の子宮と産道」の略称であった。
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下図の左図は、「女性の生殖器官」における「産道」と「子宮」と「卵管(らんかん)」と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)と「卵巣(らんそう)」の図である。
「子宮」から左右に分かれる「卵管・卵管膨大部」と「卵巣」を削除(さくじょ)すると、右図のごとく「産道」と「子宮」の形になる。
倉頡は、【台】という字を作り、「子宮」を「台形」に見立てて、「子宮で40週間余も生活する子」を「台の子」とした(つまり後世に「台の子」は「胎児」と表記された)
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上図に示したように、倉頡は【一】の字を作り、【一】は「産道」を意味するようにした。
台の子(胎児)が育って出産するとき、子宮口(しきゅうこう)にあおむけになって頭を入れ、さらに頭を前にして産道を進み、膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産後期(こうざんき)に出産児の付属物が娩出(べんしゅつ)されて出産が完了するまでに生きている児の年齢を「一才」と数えた。

つまり、倉頡は【一】の字源・字義を「出産の第一期の開口期(かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまでの時期)から、第二期の娩出期(べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから胎児の頭が母体の背側に向いて誕生するまでの時期)、そして第三期の後産期(誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了する)まで」と定めた。
だから、古代では後産期において生きている出産児の年齢を「一才」と数えた。
〔現在は、後産後に生きている出産児の年齢を〇歳とする〕。

すぐ前ページに配した「女性の産道と子宮の形」の図を、再度、下に配した。
下の右図に記したように、倉頡は「子宮」は「朝顔の花の形」に相似すると見立てた。
そして、倉頡は「産道」を「朝顔の花(花弁)をのせる台」と定めた。
この「朝顔の花をのせる台」の「台」を、現在では「うてな」と読み、「萼拊(がくふ)」とも呼ぶ。
上記したように、倉頡は【一】の字源を「産道」と定めたにもかかわらず、「産道」を「台(朝顔の花をのせる台)」と呼んだ。
このように、「産道」は【一】の字源にして「台(朝顔の花をのせる台)」を解されたゆえ、矛盾することになった。
ゆえに、白川静著『字統』(平凡社発行)は【不】の字について――否定・打消しの「ず」に仮借(かしょく)して用いる。もと象形で花の萼拊の形である――と解説する。
要するに、『字統』は――朝顔の萼拊は「朝顔の花をのせる台」ではあるが、「子宮」を「朝顔の花」に見立てたときは「産道」は【一】の字源であるゆえ、「あくまで産道は【一】の字源であるから、産道を[]と解釈してはいけない」と否定された――と説明するものであったことになる。
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◆黄帝は「女性の生殖器官(せいしょくきかん)と出産」について研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は「黄帝の医学研究の教えや意見」と「自分の意見」を合体して、卵から第4週の前半に心臓ができる胎芽期(たいがき)より出産が完了する後産期(こうざんき)までの児()は八変化して誕生すると考えることにした。
この「児の八変化」における黄帝と倉頡の合体意見を、現在の医学用語を用いて説明する。
倉頡は「児の八変化」を
(
)胎芽期と第4週前半から第12週ころまでの胎児期(たいじき)()子宮上部の子宮底(しきゅうてい)のほうに頭をむける第12週から第20週ころまで育つ胎児期、()子宮底と180度の反対方向にある子宮口(しきゅうこう)のほうに頭を向ける第20週ころから出産予定日の第40週までの胎児期、()あおむけになって子宮口(骨盤の入口)に頭を時計回りに90度転回する時、()出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、()出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、()出産児が頭を時計回りに90度転回して母体の背側に顔を向ける時、()後産期における出産児の姿勢、
上記のごとく、八種類に分けた。

上記の「()から()までにおける四回の出産児の変化」を、現在医学では「回旋(かいせん)」とよぶ。つまり、()時計回りの90度の転回」は「第1回旋」、()反時計回りの90度の転回」は「第2回旋」、()反時計回りの90度の転回」は「第3回旋」、()時計回りの90度の転回」は「第4回旋」とよぶ。

黄帝は、()の胎芽期における児どもは水稲(すいとう・水田の稲)が牛・ジャコウウシの餌場(えさば)のような形をした田の周辺の粘膜(ねんまく)に、苔(こけ)のような細胞が餌場のような形をした田へ向かって侵入して――児どもの命が始まると考えたようである。
その後、つまり第8週の中頃の児どもは、だいぶ人らしく見える胎児となる。
ゆえに、胎芽期から始まる児どもは子宮の中の羊水(ようすい)に漬かって約10ヶ月も長い期間過ごす水中生活者である。
出産した人は1時間も水中に潜っていれば窒息死(ちっそくし)して確実に死ぬ。
にもかかわらず、子宮内の児どもは約40週間もの長いあいだ羊水に潜ったまま過ごしても、なぜか窒息しないのいか、黄帝はこの秘密を解明できなかった。
ゆえに、倉頡は()の胎児を鳰(にお)で、()の胎児をカンムリカイツブリで喩(たと)えることにした。
倉頡は、()胎児の体長(たいちょう)2030センチである。この体長さは水鳥の鳰と同じぐらいであった。
(にお)は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活する。湖や川や沼の池に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰は人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。ゆえに、倉頡は約9週間も母体の子宮の羊水の中にもぐったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息しない胎児」に喩えることにした。
カンムリカイツブリ目カイツブリ属最大のカンムリカイツブリの体長(4661センチ)()出産予定日の第38週ころから第40ころの胎児の体長(4853センチ)と同じくらいである。
カンムリカイツブリは鳰よりも長く水中に潜ることができるゆえ、「八丁もぐり」とも呼ばれる。
ゆえに、倉頡は「()の胎児」を「カンムリカイツブリ」で喩えることにした。
そして、倉頡は「カンムリカイツブリの姿」を図案する【爾()】の字を作り、「鳰の姿」を図案する【乎()】の字を作った。
夏代黎明期では【爾】の字に偏【弓】が加わって【彌(弥・み)】となり、【乎】には偏【口】が加わって【呼()】となった。
だから、『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の【弥】は「カンムリカイツブリ」を意味し、【呼】は「鳰」を意味した。

以上のごとく、奈良県高市明日香村に所在する古墳名に用いられる「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」とも解されることになった。
上記したように、倉頡は「胎芽期」から「後産期」までの出産児の状況を八種類に分けた。
ゆえに、「牽牛子」と「2種類の朝顔」は「八角形」にされるようになった。
上記の「2種類の朝顔」は「()人の横顔に酷似する銀河・コールサック」と、()「十字の銀河の顔・四つ目の銀河と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」である。
だから、牽牛子塚古墳の墳丘は「牽牛子」と「2種類の朝顔」の計3種の銀河を大・中・小の八角形を三段積み重なる形に設計されている。

なお、特に注目すべきは――メスをめぐってジャコウウシのオスが角(つの)と角をつきあわせて押し合い闘うときの、二頭の角の形である。
下に、闘う二頭のオスの写真を配した。
この写真は、星野道夫記念ライブラリーが発行した絵葉書から転載した。
この写真が示すように、ジャコウウシの二頭の角は【八】の金文形をあらわす。
白川静著『字統』は【八】の字について――両分の形。左右に両分して数える数えかたによって、数の八を示す。『説文解字』は「別るるなり」と訓し、その形について「分別して相背く形に象(かたど)る」という――と解説する。
下の写真の二頭のオスの角の形は、白川静著『字統』と『説文解字』の【八】の字説に合致する。
ゆえに、【八】の字源は「メスをめぐって闘うときの二頭のオスの角の形」であった。
ということは、倉頡は「闘うジャコウウシのオス二頭の角の形」を【八】の字源にしたと考えられる。
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◆下図は、「上半分」が「中の人の横顔に酷似する銀河・コールサック」、下半分が「牽牛子(ジャコウウシ)」をデザインする――「大・中・小の積み重なる三段」の「三」をあらわす[【参】の金文形における「朝顔」の語源銀河と【扁】の字源銀河との合体形]となる――【参】の字源銀河説明図である。
この左右の両図には、「東に向く顔を向ける妊婦の胸部を西に向くように180度転回して、東を向いていた妊婦の顔から腹部までを西に向くようにした」という工作が加えられている。
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上図における上半分」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部」の図案をもって「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」を表現する。
ゆえに、「上図の上半分」は「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの、朝顔」の語源銀河図となる。
上の左図()に記した「彦星・牽牛星」は「向きが東から西へ180度転回する胸部」をあらわす。
上の左図()における「牽牛子の銀河」は「向きが東から西へ180度転回する腹部」をあらわす。
ゆえに、「上の()()()の3図の下半分」は「彦星・牽牛星から牽牛子の銀河までの範囲の、夏の銀河」をあらわし、前ページで解説した【扁】の字源銀河をあらわす。

下に、【参】の金文形の解説図を配した。
左図は()「東に向く妊婦の横顔と西に向く妊婦の腹部」をあらわす「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの女体図」である。この左図()は【参】の金文形ではない。
中央図は()「右図の【参】の金文形の裏返しの、東に向いて踊る妊婦図(女体図)」である。この中央図()もまた【参】の金文形ではない。
右図は、前ページに配した()【参】の金文形である。
(
)【参】の金文形は「子どもが誕生して喜ぶ、西を向いて踊る女性の姿」を表現している。
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◆ここまでの解説に至っても、斉明天皇は奈良県高市明日香村に所在する八角形に設計された牽牛子塚(けんごしづか)古墳を築造したのか、その秘密についていまだ解説していない。
次回「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では、斉明天皇が牽牛子塚古墳を築造した秘密について説明した後に――いまだ全貌を説明していない【倉頡の文字作成理論】について解説した後に、
今回のブログのテーマ「『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろくに)以下の記事にある【方位記事】が「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する――について解説する。
邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びると説明する転回日本列島地理は誤っている」と断定して、このような不合理な転回日本列島の解釈は誤りで、実際には存在しなかったと主張する。
この邪馬台国説学者たちの転回日本列島地理の否定意見は『魏志倭人伝』の文字面(もじづら)を撫()でただけの粗雑(そざつ)な考えによる邪推(じゃすい)で、要するに空理空論であった。
つまり、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定していた。
だから、この「漢字の起源と発明を解明す・40―1」と「漢字の起源と発明を解明す・40―2」のテーマ「日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した地図であったゆえ、歴史上に実在した」という解説と証明は、次の「漢字の起源と発明を解明す・40―2」でおこなうことにした。

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2025年3月 9日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・39

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった()

【漢字】は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬()かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ぶ。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【銀漢・夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆邪馬台国や卑弥呼について説明する古書は通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ・233297)が記述した計1983字と、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成される。
『魏志倭人伝』は陳寿著『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾にある〔倭人伝〕である。
つまり、晋(しん)王朝の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)であった陳寿が著作した正史『三国志』の65巻のうちの〔魏書東夷伝末尾の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。

山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行・19811130日第18刷発行)は、29ページで「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇―二八九)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指定する。
ゆえに、『三国志』65巻における〔魏書東夷伝末尾の「倭人伝」〕、つまり『魏志倭人伝』は西暦280年~289年に著作された。
現在、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』の原書は現存せず、成立から約900年後の12世紀末における紹煕刊本(しょうきかんぽん)として現存する。
このため、約900年後の刊本がすべて原本のとおりに正確に写して残したのであろうか? 
当然、誤記・誤解が加えられて一部分が不正確になったにちがいないと疑われる。

◆ゆえに、現在、学界においては、上記したように3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原本が残らずに、900年後の紹煕年間に作成された刊本として残った点や、
下記の3点の説明は「事実に反して誤っている」と断定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述する。しかし、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀のであるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている
【2】また『魏志倭人伝』は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、「日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びていない」。だから、「【南】へ伸びる」と説明する転回日本列島地理は事実に反して誤っている
【3】紹煕刊本は、女王卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺()(やまたいこく)」こそが正しい
下に示すように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬臺()国」ではなく、「邪馬()壱国」と記す。

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この「漢字の起源と発明を解明す」題するブログは、上記した【1】を39(今回)の問題をテーマとし、【2】を次回(40)の問題をテーマとし、【3】は41回の問題をテーマとして詳細に解説し、【1】【2】【3】の記事は事実を伝えることを証明して――【『魏志倭人伝』は倉頡が発明した文字作成理論と夏音文字をわが国は約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した事実を記述する最高最良の書物】であることを、()()()の3回に分けて詳細に解説して証明することにした。

上記の『魏志倭人伝』に記述される【1】【2】【3】の3点の事柄は、「学界、あるいは考古学における定説に反する説明」である。
ゆえに、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』〔邪馬臺台国を中心に〕(光文社発行・1980625日第4刷発行)における考古学学者・江上波夫(えがみなみお)氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」では、上記した『魏志倭人伝』における3点の事柄の記述について、下記のごとく批判する。
「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいは、どのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」

ところが、わが国の言語学・音韻学(おんいんがく)・文献史料史学の視点のもとづくと、
――【わが国が最初に漢字を習得したのは、考古学が定める5世紀】ではないことになる。
言語学・音韻学・文献史料にもとづくと、【わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の紀元前21世紀末(後期縄文時代初頭)であった】ことになる。
ゆえに、上記した『魏志倭人伝』の【1】「わが国には2世紀末から3世紀中半において、すでに漢字知識があった」という記述は【事実】であったがことになり、また【科学】が成立して正しかったことになる。
また、【2】も【3】も【1】と同様に確かな証拠によって【事実】が成立し、また【科学】が成立する。
だから、考古学の「【1】わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」という定説は【事実】に反する非科学的な意見であり、根本的に錯覚(さっかく)にして幻想であったことになる。

◆わが国における古代中国文字研究の第一人者は白川静(しらかわしずか)博士とされる。
白川静博士は字書『字統(じとう)(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』の序におけるの9ージ末尾の3行目~10ページの最初から3行目までは、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

上記末尾の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
今から約4000年前の、紀元前2000年頃(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国が習得した夏音文字(かおんもじ)の字音である。
上記の紀元前2000年頃は、中国の夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)に相当する。

白川静著『字統』が指摘するように、わが国には中国における最古の漢字音よりも古い漢字音が残っている。
中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
わが国の古書に多数残っている夏音文字は、紀元前2050年頃の夏代黎明期に中国から名門氏族が渡来し教えひろめて――紀元前2000年頃にはわが国の各地・各氏族が習得していた漢字音である。
したがって、中国の最古の字音・上古音よりもわが国の夏音(夏音文字の字音)は約1000年も古い。
だから、わが国は最初に中国の漢字を習得したのは、考古学が断定する5世紀ではなく、
言語学・音韻学の研究成果にともとづくと、下図に示すように、紀元前2000年頃の夏代黎明期(わが国の後期縄文時代初頭)であったことになる。
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◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)が「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて、「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)」を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興せよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、言いかえると――「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。

◆『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」であって、〔中巻・下巻の記事とは無関係〕であり、したがって【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という指摘がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という指摘がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という指摘がつく夏音文字】について説明する。
この「〔音〕と指摘される夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は下記のごとくであり――この冒頭文は「【わが国は後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)に夏音文字を習得した】と説明していた。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」

「古事記上巻 并せて序」の全文や〔創世の神々説話〕冒頭の三柱(みはしら)の神々記事に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の三柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2000年頃)、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】によって【漢字は銀漢各部の形状から作られて起源した知識】や【夏代黎明期の夏音文字】を習得して、また【五帝時代から夏代黎明期までの歴史】を知ることができました。」

「古事記上巻 并せて序」の末部は、【夏音文字を楷書に変換した作業】を下記のごとく説明する。
「上古の時、言(ことば)・意(こころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字に於()きて即(すなわ)ち難(かた)し。已(すで)に訓(くん)に因()りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以ちて連ねたるは、事の趣(おもむき)(さら)に長し。是(ここ)を以ちて今、或(ある)は一句の中に、音訓を交(まじ)へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録(しる)す。即ち辞理の見え叵(がた)きは注を以ちて明(あきらか)にし、意況(いきょう)の解(さと)り易きは更に注せず。亦(また)(うぢ)に於きて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂()ひ、名に於きて帯(たい)の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此(かく)の如き類(たぐひ)は、本(もと)の随に改めず。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「上古の(夏音文字)の語と語意は(夏の銀河各部の形状)を素直(すなお)に図案するものであったゆえ、夏の銀河各部の形状にもとづかない字を多数有する現在の楷書の文章に書き改める作業は難(むずか)しいです。すべて楷書の字訓であらわしますと、ただ声に出してあらわす楷書の字音と異なって節(ふし)をつけて歌う夏音文字の歌詞の心をすべて表現することはできません。そうかといって、すべて夏音文字の〔音〕を連ねるようにしますと、文章がたいへん長くなります。ゆえに、ここ(『古事記』上巻)では、ある一句の場合には〔音〕(夏音文字の字音)と〔訓〕(楷書の字訓)とを混じえて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて楷書の字訓を用いて記すことにしました。そして、辞理(辞の作成理論、つまり「天理と地理を重ね積み重ねた辞の理論」)を捜(さが)し見つけることができない場合は〔注〕を加えて明らかにし、意味がわかりやすい場合には〔注〕を加えませんでした。また姓(うじ)における楷書の【日下】は夏音文字では【玖沙訶】と言い、名における楷書の【帯】を夏音文字では【多羅斯】と言うような、日常的に常用して知れわたる類には、従来の記述に従いそのまま楷書で記して〔音〕と記す指摘を加えませんでした。」
〔注 上記した文中にある「辞理」という語は「天理(銀河各部の形状)と地理を重ね積み重ねた辞の理論」の略称――つまり、「辞理」は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。〕

前述したように、『古事記』の中巻と下巻には、〔音〕という指摘が存在しない。
〔音〕という指摘は、『古事記』の上巻だけに限って随所(ずいしょ)に加えられている。
だから、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」と題されることになった。
したがって、「古事記上巻 并せて序」末部にある文中にある〔音〕は、「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すべきことになる。
〔音〕を「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すると、「古事記上巻 并せて序」の末部にある文章は、上記したように現代語に訳することができる。
上記の現代語訳が正しい事実は、幾種類(いくしゅるい)かの史料(証拠)を提示して具体的に明確に証明することができる。
ゆえに、従来の学者たちの解釈は文字面(もじつら)だけを撫()でる、誤訳であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、上記した【「古事記上巻 并せて序」の末部の説明】を次回(40)46回?までのテーマにして解説して事実であったことを証明する。

◆夏音文字は、紀元前2050年頃、“夏()の始祖”の帝禹(ていう)の後を継ぐ帝益(ていえき)の孫の王子と益氏の青年たちが日本列島の東北地方・秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住し――紀元前2000年頃、東北地方や関東地方の各地に住む氏族たちによって夏音文字は習得された。
〔夏音文字の日本列島習得史〕は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回まで7回をもって詳細に解説して証明した。
この7回における〔夏音文字の日本列島習得史の解説〕を、これから要略する。

司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀(かほんぎ)・第二は、下記のごとく帝益について説明する。
「帝禹は益を挙()げて十年間、政治をまかせた。
帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい・北緯39度の中国の天津であろう)にいたって崩(ほう)じ、天下を益にさずけた。
帝益は三年の禹の喪()が終わると、禹の息子の啓(けい)に帝位を譲(ゆず)って、箕山(きざん・北緯38度の黄河の河口地域、つまり黄河口地域であろう)の南の地(天津より南東の北緯35度近辺の、山東半島の付け根の辺りの地所であろう)に隠棲(いんせい・隠居)した。
禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。
ゆえに、諸侯(しょこう)は賢人(けんじん)であった啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。」
〔注、なお、「帝禹が居住した会計(かいけい)」は「八郎潟の西の偏(北緯40)と同緯度の、現在の中国北部の、北緯40度の北京」であったと考えられる。
つまり、帝禹は会計・北京市を首都とし、補佐役の益は会稽・天津に居住していたと考えられる。〕

上記したように、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は〔帝益が禹の子の啓に譲った理由〕を「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についたのが短期間であったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」と指摘する。
しかし、この理由はほんとうの理由でなかった。
ほんとうの理由は――帝禹と啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。
帝禹は〔五帝時代以来の、国家を作らずに、多数の氏族から最も優秀な人物を帝に選ぶ、多数の氏族が共同する政治体制〕の継続(けいぞく)、つまり〔国家を作らない・氏族共同政治体制の継続〕を願った。
一方、啓は〔国家を樹立(じゅりつ)して、最も優秀な氏族が子孫代々帝位を世襲(せしゅう)して王朝を継続させる政治体制〕、つまり〔世襲王朝・国家政治体制〕を欲求(よっきゅう)した。
だから、帝禹は臨終の際、益に「国家を樹立しない、氏族共同政治体制を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継がせた。
しかし、諸侯は禹が願った「国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続」を望まず、啓が主張する〔世襲王朝・国家政治体制〕に賛同して、帝益のもとを去った。
ゆえに、帝益は中国ではもはや禹が継続を切望した〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕はまったく望まれていないと判断して――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲(ぜんじょう)して箕山の南の地に隠居したのである。

そして、益は禹の遺志(いし)である〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕を新天地・日本列島にて成就(じょうじゅ)すると決意した。
しかし、益は老いていたため、中国と日本列島を隔(へだ)てる大海を小舟で漕()いで横断できる体力をすっかり失っていた。
ゆえに、〔禹の遺志の、氏族共同政治体制の継続事業〕は、広大荒漠(こうだいこうばく)たる大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な腕力を有する益の孫の王子と将来益氏を継ぐ青年たちによって決行された。
このため、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか・第六)には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封(ほいう)ぜられたか不明である」と記述されている。
このように、名門・益氏が中国のどの地に封ぜられたか不明になったのは、益氏を受け継ぐ青年王子と若者たちが大海を渡って日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(帝禹が首都とした会計・北京と同じ北緯40度の地)に移住したからである。
中国には益氏の老人や女性たちが残ったために勢力が年々衰退した。ゆえに、中国では益氏が封ぜられた地が不明になって、益氏は忽然(こつぜん)と消えることになったのである。

益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した歴史について、
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年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)初頭部は下記のごとく説明する。
「昔、わが天神(あまつかみ・つまり字源となる天の銀漢が神)のタカムスビノミコト(中期縄文時代を支配した男神の高産巣日神)とオオヒルメノミコト(中期縄文時代を支配した女神)は、この豊原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、つまり日本列島)を天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、つまり帝益の孫の王子)に授けられた。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲露(くもじ)をおしわける先ばらいを立てて)、益氏の王子一行は旅の目的地(つまり、会計・北京と同緯度の八郎潟の西の偏)に到着した。このとき、この地域はいまだ野蛮(やばん)で草昧(そうまい・辞理が確立されていない状況)であった。そこで、蒙昧(もうまい・学術が存在せずに文化が低い状況)の中にありながら、みずからの正しい教え(倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字の教えなど)を養育して、この八郎潟の西の偏(ほとり)より一帯を治めた。
その後、わが天祖(帝益の孫の王子)と皇祖(こうそ・帝益の孫の王子の子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」

〔注、()上記の「彦火瓊瓊杵尊(帝益の孫の王子)は天のいわくらを開き、雲露をおしわける先ばらいを立てて」という説明は――「旅路をさえぎる大きな岩のような障害を乗り越え、曇った夜空では旅路の位置を精確に知ることができないが晴れた夜空を待って精確に旅路の位置を知ることができる天頂緯度線を精確にキャッチする役目の緯度測定能力が優秀な若者を王子一団の先頭に立てて」と意味したことになる。
また、()上記の末尾の「その後、倭が天祖と皇祖は神の聖のように徳高く、慶(善政)を積みかさね、暉(恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」という説明は――要するに「紀元前2050年頃に八郎潟の西の地に定住した天祖と天祖の息子の皇祖が教え広めた【倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字など、中国で開発された先端学術】は、紀元前2000年頃には東北地方・関東地方における各地の氏族にゆきとどいて習得された」と意味したことになる。
(
)だから、上記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭部の説明は、「天祖(帝益の孫の王子)が、箕山の南に隠棲した帝益に帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島に定着させる事業】を命じられて、男鹿半島・八郎潟より西の地に定住した」と伝えていたことになる。〕

◆『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。
このように、『魏志倭人伝』の冒頭の字は【倭】である。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が幾度となく解説して証明したように――【倭】の字源は
「現在方位の【東】が時計回りに転回して【南】となる」がごとく、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
このブログの前ページにて紹介した上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』の〔邪馬臺国を中心に〕(光文社発行)の直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」には、下記のような指摘がある。
――内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。

上の記事に登場する「内藤」は「明治時代の学者・内藤湖南(ないとうこなん)氏」である。
上の記事の後半の「『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という否定意見はまちがっていた。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」にて――
『魏志倭人伝』の「不弥国(ふみこく)から南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日」という水行の【南】」は、
「不弥国・宗像市(むなかたし)の神湊(こうのみなと)から出発し、宗像市神湊の【西】にある沖ノ島に立ち寄って、沖ノ島から【東】(現在方位)にある山口県萩市の見島(みしま)を【倭】の字源の【南】(転回方位)にする」ものであった――そして、『魏志倭人伝』は「見島から山口県の長門市(ながとし)の港に到着する」と説明していたのである。
〔注 上記した「漢字の起源と発明を解明す・18」において、〔宗像国から投馬国までの水行〕について――「【倭】の字源の転回方位の真西(現在方位の真南)となる長門港までの航路」が「二十日の水行(航路)」であったことになる――と解説した。
この【西】が【南】になる解釈は、【呉】の字源「現在方位を逆時計回りに90度転回する方位規定」を説明していることになる。この誤記について、「漢字の起源と発明を解明す・18」を読んだ人々にご迷惑・混乱をあたえてしまったゆえ、なにとぞここで訂正することをご寛容(かんよう)のほどお許しねがいたい。
このブログの何回かの後の回にて――【倭】の字源の転回方位にもとづき宗像市の神湊を【沖ノ島より南】と定め、【倭】の字源の転回方位だと山口県萩市は【東】となる。ゆえに、【北(沖ノ島)から東(見島】によって【倭】の字源が成立する。しかし、なにゆえ不弥国の宗像市から投馬国の山口県の長門港は【東】にあるのにもかかわらず、『魏志倭人伝』は【南】にあると記述したのかについての秘密――についてこのブログの後の回で解明する予定である。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて――
『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と記す、「邪馬壹()国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在における島根県の西部・東部と鳥取県の西部」であったと解説し証明した。
邪馬壹()国の中心地域は、旧国の出雲・島根県東部の松江市であった。
『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という、水行記事がある。
【松江市の北(現在方位)にある隠岐群島を【東】(転回方位)にする】と、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が合理となる。ゆえに、【倭】の字源に従うと【北】が【東】となる。
だから、『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事は間違いではなく、【倭】の字源の方位にもとづいて説明して正しかったことになる。
したがって、上記した直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」の文中にある――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は『魏志倭人伝』の記事の表層の所々をつまみ食いした粗雑な意見・軽率な論考であったことになる。

『後魏書』の【魏】の字の偏(へん)は【委】であり、【倭】の旁部(つくりぶ)もまた【委】である。
ゆえに、【魏】の偏【委】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
だから、――『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は、軽率な愚見(ぐけん)であったことになる。

『後魏書』は6世紀半ばで成立した。
ゆえに、倭人国のみにかぎって保存されていたのではなく――中国でも「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は保存されて実在したことになる。
古代のわが国と中国の航海者たちは、水行において【委】の字源【「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と、【呉】の字源「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」を駆使(くし)して大海原の藻屑(もぐず)となって命を失わないようにして航海していたのである。
つまり、古代の航海者たちや人々は「地理(大海の方位)には【委】の字源と【呉】の字源の転回方位が存在する」と信じていた。
〔注 原始から人類は円周運動をする天頂の緯度を観測して生命をまもって生存したゆえ「方位も円周する」と考えていた。ゆえに、縄文人・弥生人もまた方位は円周(周旋)して変位して3種類存在すると確信していた。だから、縄文時代・弥生時代では、方位は現在のように天の北極を基準にして一つではなかった。一つではなく、[()【北】は【南】となって180度変位する方位規定と、()「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」と()「現在方位を反時計回りに90度転回する方位規定」が存在し、それら3種類の方位規定が合体して成立する]と定めていた。このため、方位規定は【難解な学問】となった。ゆえに、【倉頡が発明した文字作成理論と夏代黎明期に出現した方位理論は学問】となった。後世、この【学問(方位理論)】を最も理解した人物が帝王となり、あるいは理解した人が身分の高い地位につき、あるいは氏族の長となった。この【学論】が理解できない人々は道に迷って命を落とすことになった。〕

◆下記の『魏志倭人伝』の記事もまた、【倭】の字源に則(のっと)って「時計回りに90度方位を転回して、現在方位の【東北】は【東南】になる」と説明する。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~36回までに詳細に解説して証明したように、
下の『魏志倭人伝』の後半部にある記事もまた、「帝益の孫の王子一行が八郎潟の南の海岸に上陸して、八郎潟の西の偏に定住した」と説明して、【倭】の字源を表示する。
この『魏志倭人伝』の後半部にある記述は下記のごとくである。
「黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくとなる。
――黒歯国(現在の石川県北部の能登)がある。黒歯国・能登の東南に、船で行くと一年ばかりで到着できる地がある。その倭地を船に乗って訪れると、海中に陸から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいはこの大きな島から遠く離れて小さい島が存在し、あるいはこの小さい島からまた小さい島が連なり、これらの黒歯国から周旋方位(【倭】の字源の「現在方位を時計回りに90度転回して「東北」が【東南】となる方位規定)にて五千余里ばかりの距離に、(帝益の孫の王子一行が上陸した地がある)
〔注1 上記の文中には「倭地を参問するに」という文があるように――この文先頭の【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
ゆえに、『魏志倭人伝』の九州の末盧国(まつろこく)以下本州の黒歯国・能登までの方位記事にもとづくと、「倭地(日本列島)の【東】は時計回りに90度転回して【南】に伸びる」と説明している。
注2 上記した文の末部は「周旋五千余里可り」である。ゆえに、「倭地は【東】に伸びずに【南】に伸びる、時計回りに90度転回する方位規定」について「周旋」と表現したのである。
「周旋」という語は「天頂となる天体部は円周運動をする」と意味した。だから周旋(円周運動をする)方位規定にもとづくと、「黒歯国から東南に益氏が上陸した八郎潟の西の偏(ほとり)に近い海岸が存在する」と『魏志倭人伝』は説明していた。つまり、「周旋」は上記した「倉頡が発明した3種の方位論と夏代黎明期に出現した3種の方位論」を表現していた。
要するに、黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した地点は、現在方位で能登の【東北】となる八郎潟より南の、現在の秋田県の潟上市(かたがみし)天王町の海岸に上陸したことになる。
夏代黎明期に定住した益氏は【東北地方の北端】を【東北地方の南端】であると立論した。ゆえに、日本列島・本州の【北(北端)】は【南】となり、本州は【北】ではなく【南】に伸びることになった。
卑弥呼もまた「九州以下の本州の【東】は【南】へ伸びると立論して証明した。
このため、卑弥呼が立論した転回日本列島地理と益氏の東北地方転回地理は合致して、九州から東北地方までは本州の能登地方のあたりから曲がっても【南】へ伸びることになった。
この結果、『魏志倭人伝』は「日本列島は能登からもまた【南】へ伸びて、天王町は能登の【東南】にある」と記述したのである。
注3 『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「春に耕作を始める日を一年とし、秋に収穫する日を一年とする、中国の暦の一年を二年と数える二倍歴がある」という注がある。したがって、上記した「船行一年」は「船行して現在の半年であった」と意味したと考えられる。〕

下図に、【倭】の字源や「周旋」という語に則(のっと)り「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて【東】に伸びずに【南】に伸びる転回倭地図(転回日本列島地図)を示した。
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下に、【倭】の字源や「周旋」という語の秘密にもとづいて「現在方位が時計回りに90度転回する方位規定の黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した秋田県潟上市の天王町の海岸までの地図」を配した。 
下図に示したように、上記した『魏志倭人伝』の「海中洲島の上に絶在し」という文は「新潟県、日本海上の佐渡島」をあらわし、「或いは絶え」という文は「日本海に浮かぶ、新潟県北部の孤島・粟島(あわしま)」を説明し、「或いは連なり」という文は「山形県方西端の、日本海上の孤島・飛島(とびしま)」を説明していたことになる。
現在方位の場合、黒歯国・能登から天王町の海岸までは【東北】である。
しかし、下図に示すように、【倭】の字源や「周旋(天体部が円を描く運行)」に則(のっと)ると、黒歯国・能登から天王町の海岸の方位は、『魏志倭人伝』の記事に合致して【東南】となる。
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◆『魏志倭人伝』の前半部には「古自(いにしえよ)り以来、其()の使()中国に詣(いた)るに自ら大夫(だいふ)と称す」と伝える記事がある。
上記のごとく、「大海を越えて中国に到着した倭人国の使者は、昔から自ら【大夫】と名乗った」。
『万葉集』(万葉仮名の音文字)における【大夫】は「ますらを」と読む。
「ますらを」は、現在では【益荒男」】表記する。
したがって、【益荒男】は「名門・益氏の王子と若者たちは中国から日本列島に渡来(とらい)して定住した。ゆえに、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて中国に到着した、名門益氏の王子と若者のごとく勇敢な男性である」を意味した語の略称(りゃくしょう)であったことになる。
ゆえに、【大夫】は【益荒男】は同義であり、【大夫】の語源は「帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。

◆『魏志倭人伝』の中半部には、下のような記事があり――この記事は「2世紀後半(10年頃~240年頃)の卑弥呼時代には漢字知識、つまり夏音文字が存在した」と説明している。
「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置きて諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国(いとこく)に治()す。国中において刺史(しし)のごときところ有り。王、使()を遣(つか)わして京都(けいと・魏の都の洛陽)・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国に詣(いた)り、また、郡の倭国に使(つかい)するや、皆(みな)()に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)を捜露(そうろ)し、女王に詣るに差錯(ささく)あるを得()ざらしむ。」

上記の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置して倭国における諸国(34の小国)の様子を検察していた。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった。倭女王・卑弥呼が使節を魏都・朝鮮半島北部に魏の出張政庁機関が所在する帯方郡・諸韓国に派遣するときには、すべて伊都国の港において、卑弥呼が夏音文字で書いた文書と魏都・帯方郡・諸韓国が楷書で書いた文書(つまり、伝送の文書)の文や語句の意味が合致して同じとなるように、また倭国と魏都・帯方郡・諸韓国と取り交わす賜物(しぶつ・贈り物)の名称をあらわす夏音文字と楷書の意味が同義となるように、逐一(ちくいち)点検し確認して、すなわち夏の銀河各部の形状で捜し露(あら)わにして、倭女王・卑弥呼のもとに届いたときに差錯(間違い)が生じないようにしていた。」

上の『魏志倭人伝』の記事には「伝送の文書、賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ」という文がある。
この文は「魏都・帯方郡・諸韓国と倭人国が取り交わす文書、または贈り物の名称に用いられた文字は、伊都国の港で、楷書を連ねる語と夏音文字で連なる語の意味が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにして(見つけて)、卑弥呼のもとに到着した時に差錯(誤記)が生じないようにしていた」と意味した。
というのも、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の大半の字源・字形・字義と卑弥呼が用いる夏音文字の字源・字形・字義のすべて】は、夏の銀河各部の形状から図案するものであったからである。
ゆえに、楷書と夏音文字で構成される語は、夏の銀河の部分で合致することになった。
だから、「捜露」つまり「楷書と夏音文字の両者の語義が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにした(見つけた)。」と記されたのである。

このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39回」にて記したように、

「古事記上巻 并せて序」の末部の記事には「辞理の見え叵(がた)きは」という文がある。
前述したように、夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状から作られて生まれた。
楷書の字源・字形・字義もまた、夏の銀河各部の形状から作られた。
しかし、夏音文字の語に用いられる字を楷書に変換して両者の意味が一致する夏の銀河の部分を捜し露わにする、つまり見つけだす作業(楷書と夏音文字の辞の意味が合致する夏の銀河の部分を見つける作業)は困難であった。

ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の末部には、夏音文字と楷書との変換作業について「夏の銀河各部の形状を見て、両者の辞が合致させる作業は難(むず)かしい」と説明されて、「辞理は見え叵きは」と記されたのである。
【辞理】という語は「辞は完全な合理からなる天理(夏の銀河各部の形状・位置)と、不合理な点や弱点を少数有する地理から構成される」と定めた、倉頡が発明した理論】の略称である。

このような「地理には不合理な点が少数存在すると定めた理論」は【卑】の字源となった。
「夏の銀河の形状・位置は完全で不合理な点が存在しないと定める道理」は、【尊】の字源となった。
中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』である。
『易経』における周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)冒頭にある「天尊地卑(天は尊く地は卑し)」という文は「天理は完全であるゆえ【尊】の字源となり、地理には少数の不合理な点があるゆえ【卑】の字源となった」と解釈しなければならない。
ゆえに、「天は尊く、地は下賤(げせん)である」という解釈は誤訳となる。
だから、「卑弥呼」の【卑】は「地理、つまり【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理をとなえた、最高に優れる地理学者」と意味した。

◆上の「伊都国の記事」が説明しているように、倭人国には【夏音文字】が存在した。
前記したように、『魏志倭人伝』を著作した陳寿(ちんじゅ)は晋(しん)の歴史編纂官であったため、【晋王朝に秘蔵されていた――西暦200年~250年頃に帯方郡や魏に送られた倭人国の国書(つまり、卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で楷書に変換した倭人国の国書)】を閲覧(えつらん)することができる権利を特別に許可されていたのである。
陳寿は倭の国書にある『魏志倭人伝』の「対馬国の南は瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)で、瀚海の南は一大国である」という記述は「倉頡が発明した文字作成理論を最初に学習する基本知識」を説明するものでははないかと推理した。
また、【倭】は夏音文字で倉頡伝説に登場する【禾(か・稲)】と字源は同じではないか、「邪馬壱国」の【邪馬】の語源は「瀚海に生息するフタコブラクダ」ではないか、「卑弥呼」の【卑】は【益】と同義で「地理学の最高知識者」を意味するものだはないか、倭人国の諸国名に登場する「不弥国」と「不呼国」の【不】は夏王朝を始まったときに帝禹(ていう)が作った字ではないか、また「不弥国」の夏音文字【弥()】は倉頡が作った【爾】が進化した字ではないか、あるいは「不呼国」の夏音文字【呼】は倉頡が作った【乎】が進化した字ではないかなどと推理した。
ゆえに、陳寿は「一大率が治める伊都国の港で卑弥呼が用いる文字を魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に書き直して意味が同じようにする」と説明する倭の国書から「倭国には太古に習得した漢字が存在する。この太古文字は魏や晋、そして朝鮮半島で使用される楷書の字源・字義を正しく変換できる能力(学術知識)がある」と推定した。
言いかえると、陳寿は「倭人国の太古漢字は楷書と同じく夏の銀河各部の形状から作られた秘密」に精通し、「漢字は五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明して起源した」と伝える伝説は事実を伝えていることを知っていたのである。
だから、陳寿は主観(自分の考え)を一切(いっさい)加えず、【倭の国書】にある記事をそのまま書き写すようにして『三国志』魏書東夷伝の末尾に〔倭人伝〕(つまり『魏志倭人伝』)を配置した。

『魏志倭人伝』の後半部の記事を注目すると――上記したように、倭の国書は200年~250年頃に作成されたと推測される。
ゆえに、陳寿は3世紀初頭~3世紀中半に作られた倭の国書の記事を抜粋(ばっすい)・書写して『魏志倭人伝』を構成した。
多数の考古学や邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は中国人が作った歴史史料であるゆえ、倭の様子を正しく伝えることができず、幾つかの誤記や矛盾や不合理な記事が存在するのが当然である」と主張するが――
上記したように、『魏志倭人伝』は倭人国で作られた国書をほとんどそのまま書写するようにして作成されたゆえ、「わが国で作られた文献史料」と解して読まなければならない。

現在の学界は「漢字は中国の五帝時代の初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明して起源したと伝える伝説は、を荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と指摘して否定する。
しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回などで詳細に解説して証明したように――倉頡伝説は「倉頡が夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法を発明し起源した」と事実を語るものであった。
ゆえに、倉頡伝説は作り話であると疑う人々は「漢字の起源と発明を解明す」の10回と37回を参照していただきたい。

倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
〔注 上記したように倉頡は文字作成理論(文字の学芸知識)を容易に理解できるように説明する者はその一族全員にも神罰がくだって厳しく罰せられて死滅することになると忠告するゆえ、前記した「古事上巻 并せて序」の全文は非常に難解に作られている。〕

【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】は発見されないことになった。
しかし、前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』・8世紀初頭に成立した『古事記』上巻・8世紀後半に編集された『万葉集』の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数保存された。

上記したように――倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配して――【死刑となる3つの掟】を定めた。
この【3つの掟】を破ると、犯した本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員が死刑に処せたれた。
だから、『魏志倭人伝』の伊都国の記事は「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国(邪馬壱国)より以北には、特別に男王の一大率を配置し、一大率は倭国における諸国の様子を検察していたのである。ゆえに、諸国は彼(一大率)を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史(現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王)のごときであった」と説明していたのである。

『魏志倭人伝』には「乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為()し、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事がある。
したがって、倭王朝(卑弥呼王朝)は夏音文字と楷書に精通する伊都国の男王・一大率と夏音文字の最高権威者の卑弥呼が共に立って、【倉頡が定めた3つの掟】を厳重にまもって検察し統治する政権であったことになる。

◆前記したように、「わが国には夏代黎明期に用いられた夏音文字が存在した」と記述する古書には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使が「後稍(のちやや)、夏音を習う」と中国に報告した――と伝える『新唐書』日本伝はじめ、
下記に示すように、『魏志倭人伝』・『古事記』の「上巻 并せて序」と上巻・『万葉集』などがある。

(
)『魏志倭人伝』はさまざまな記事で「卑弥呼時代(170年~240年頃)、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明する
(
)また、夏音文字は「古事記上巻 并せて序」にて意符・音符に用いた楷書との関係が説明され、さらに夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて多数残っている
(
)『万葉集』に収まれられる多数の和歌に用いられる万葉仮名(和歌の原文に用いられる文字)にも夏音文字が楷書で記されて多数残っている

上記したように『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』と同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字に秘められる字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる。

このように、上記した文献史料史学に則(のっと)り、
また、白川静著『字統』の序にある言語学・音韻学の研究成果を説明する「わが国の漢字音」と題する記事を注目すると、
考古学が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する意見の実体は臆測(おくそく)・偏見(へんけん)の産物であり錯覚・幻想であったことになる。
上記した考古学における漢字習得説は埼玉県行田(なめた)市に所在する稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣銘」に刻まれていた楷書にもとづく。

注目すべきは――「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」という定説の証拠となる稲荷山鉄剣銘に刻まれる「意富比垝」は「おほひこ」、「弖已加利獲居」は「てよかりわけ」と読み、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される文字、そして『万葉集』の万葉仮名と同じく楷書を字音と字義に用いる。
だから、稲荷山鉄剣銘の文字は「夏音文字の字音を楷書で表記した遺物」であったと考えられる。
ゆえに、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と断定することはできない。

◆以上のごとく、このブログの初頭部で――『魏志倭人伝』は「2世紀末から3世紀中半、倭人国(わが国)には漢字知識があった」と記述する。
しかし、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀であるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている――と学界やメディアは即座に否定するがちがいない。
しかし、『魏志倭人伝』の()「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に詣(いた)ると自らを大夫と称した」という記事や

(2)「伊都国を治める一大率」について説明する記事や、
(
)「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき云々」から「周旋五千余里ばかり」という文までの3種の記事は
「今から約4000年前の紀元前2050年頃、中国から名門・益氏の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して、夏音文字はじめとする当時の中国における先端学術を教え広めた。ゆえに、日本列島の東北地方・関東地方の各地に住む氏族たちは、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)、夏音文字を習得していた」と事実を語っていたことになる。
だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは約4000年前であった」。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「2世紀末から3世紀中半には、わが国には中国の三皇時代の結縄(けつじょう・易占に用いた記号)・五帝時代に作られた書契(しょけい)・夏代黎明期に出現した音文字(夏音文字)などの漢字知識が保存されて残っていた」ことになって、
『魏志倭人伝』の説明は正しく、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」と学界やメディアが主張する定説は誤っていたことになる。

『魏志倭人伝』は考古学が主張する【邪馬台国】について説明する古書ではなかった。
『魏志倭人伝』は「漢字が起源した秘密が科学的に解明できる最高・最良の史料」であった。
『魏志倭人伝』は「わが国は夏代黎明期に夏音文字を習得した。この夏音文字は卑弥呼時代(2世紀末から3世紀中半)において、倭人国の諸国で常用される漢字であった」と説明する古書であった。
だから、『魏志倭人伝』の全記事が正しいことを証明すれば――倉頡が発明した文字作成理論(辞理)の秘密が具体的にしかも【科学】が成立して解明できる仕組みになっている。

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2025年2月14日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・38

わが国には中国の甲骨文字より約700年前の【最古の漢字出土史料】が実在した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得(しゅうとく)して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密(きみつ)とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
【書かれた夏音文字は消されて後世に残らないことになった】が
前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』と8世紀初頭に成立した『古事記』上巻の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数残った。

◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・37」にて、紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年1月28日、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』が完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「〔音〕という注がつく夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとく【わが国が後期縄文時代初頭(紀元前2050年頃)に習得した夏音文字】についてである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前2050年頃)において、益氏(えきし)がもたらした【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」

◆前記したように、『魏志倭人伝の後半部』には、下記のごとく――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――と説明する。
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
上記したように、『魏志倭人伝』の後半部にある文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。

◆白川静博士は、わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる。
白川静博士は『字統』(平凡社発行)を著作した。
白川静著『字統』は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、
益氏が、紀元前2050年頃(わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏代黎明期)から、わが国に教え広めた夏音文字の字音である。
益氏が教え広めた夏音(夏音文字の字音)は、『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名はじめ動物や事物の名称などになって、楷書を意符・音符にして多数残っている。
また、夏音は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の記される夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。

中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った甲骨文字(契文)の字音」は、不明で現在において残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在する夏音文字は益氏の王子と若者たちが紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国にもたらした漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
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1955(昭和30)の夏、長野県茅野市の尖石(とがりいし)の縄文住居跡から石板(せきばん)が出土した。
この石板には、5つの図書が刻まれていた。
この【石板に刻まれていた5つの図書】は、【『魏志倭人伝』の随所】と【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する、最古の漢字音を示す夏音文字】、つまり【中国の甲骨文字(契文)よりも約700年前の、最古の漢字の夏音文字】であったと可能性大となる。

要するに、わが国には【甲骨文字(契文)よりも古い、最古の夏音文字の出土史料】が実在したと考えられる。
ところが、この石板の図書(夏音文字の出土史料)は偽作と解釈されて、現在廃棄(はいき)され失われて残っていない。

この石板は、三笠宮一行によって発見された。
この石板の出土地は、昔から「尖り石さま」といって祭られていた土地であった。
「尖り石さま」の丘の麓には、直径1m、高さ1mぐらいの三角錐状(さんかくすいじょう)の岩石がある。その表面には、多年にわたる刃物の研()いだ痕(あと)が残っている。
この石板は、「尖り石さま」の丘の麓にある岩石から100mほど斜面を登った台地から発掘された。
そこは、縄文時代の住居跡であった。

長野県茅野市の尖石縄文考古館の玄関近くには、約5000年前(紀元前2500年頃、中期縄文時代初頭)に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶が常設展示(じょうせつてんじ)されている。
この「縄文のビーナス」は尖石の棚畑遺跡(たなばたけいせき)、つまり尖石の環状集落(かんじょうしゅうらく)の中央広場の穴の中に埋蔵(まいぞう)されていた。
「縄文のビーナス」は27㎝の完形(かんけい)・大形の妊娠土偶とされ、わが国最古の国宝である。

尖石縄文考古館の玄関近くには、「縄文のビーナス」の傍(かたわ)らに、もう一つの国宝「仮面の女神」という土偶が常設展示されている。
この国宝「仮面の女神」もまた、大形の妊娠土偶である。
「仮面の女神」は尖石の中ッ原遺跡(なかっぱらいせき)から出土した、約4000年前(わが国において益氏から夏音文字を習得した紀元前2000年頃、後期縄文時代初頭)に作られた、34㎝の完形・大形の妊娠土偶とされる。
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だから、尖石縄文考古館に所蔵された「石板に刻まれる5つの図書」は、「仮面の女神が作られた約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)に習得された夏音文字」であった可能性がある。
あるいは、この「5つの石板画」は後世に刻まれた夏音文字の出土史料であったにちがいない。

前々回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・36」にて詳細に解説したように、
「仮面の女神」は「わが国が習得した、精確(せいかく)な中国海岸線地図」と密接に関連する。
「仮面の女神」が被(かぶ)る「三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図の作成方法となる土地三角測量法」をあらわしていた。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝時代を説明する記事には「黄帝が虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「土地三角測量をおこなって地図を作製する役職の長官。また、長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は土地三角測量して地図を作製する長官とその氏族に戦闘を教えた」と説明していたことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀には、「益氏は、五帝時代最後の帝王・舜(しゅん)に、【虞()】という重職(じゅうしょく)に就()くように命令された」という記事がある。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確(せいかく)な中国海岸線地図を作製する長官」に任命されたことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図の作製と測量」は「中国の南部の呉から着手(ちゃくしゅ)する」と定められた。
このため、上記したように、「益氏の役職」は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「夏王朝(かおうちょう)が始まるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の重職に就()き、一族の先頭に立って中国海岸線測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力したことになる。

「虎」といえば、夏音文字の【奴()】の字と密接に関連した。
夏音文字の【奴】は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげていきみ・きある怒責(どせき)」をあらわした。
だから、「土地三角測量の三角形の仮面をかぶる、仮面の女神」の土偶は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する妊婦」をも表現するものであったと考えられる。

夏音文字の【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器官」などをあらわした。

下図は、「仮面の女神の正面図」である。
下図に示すように、「仮面の女神」の「妊娠」を形つくる腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)す」という記事があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが組む円陣を参考にして、軍兵たちは円陣を作って自衛した」と意味した。
ジャコウウシの群れは危険を察知すると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくすジャコウウシの子」は「子宮で育つ胎児(たいじ)」に見立てられて、
「ジャコウウシ」は【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部に刻まれる同心円形文様」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」を表現するものであったにちがいない。
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◆上図に示す「仮面の女神」は「わが国が夏音文字を習得した後期縄文時代初頭」に作られた(上図は尖石縄文考古館発行『仮面土偶発掘の記録』の20ページ21ページから転載)
そして、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、「仮面の女神」が作られた後期縄文時代初頭において日本列島各地の氏族たちが習得した。
この「紀元前2000年頃に、日本列島の各地で習得された夏音文字」は「紀元前1300年頃から出現した契文(けいぶん・甲骨文字)や紀元前1046年頃から出現した金文よりも字源・原義を失わない、【倉頡の文字作成理論】により失わない漢字の祖型(そけい)」であった。
ゆえに、前記した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に刻まれていた5つの図書」は「夏音文字」であったと考えるべきことになる。

「5つの夏音文字が刻まれていた石板」は1955(昭和30)の夏以降から1994(平成6年)頃までは尖石縄文考古館に所蔵されていた。
その以後いつであったかは定かではないが、新聞記事で「石板に刻まれる5つの絵柄は、後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作と考えられるゆえ――尖石縄文考古館は廃棄(はいき)することにした」ということを知った。
しかし、「後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作」と考えるのは、早計(そうけい)で軽率(けいそつ)で独断(どくだん)であったことになる。
もしも「石板に刻まれた5つの図象」が「仮面の女神と同時代の後期縄文時代初頭の作品」であったとしたならば、「仮面の女神」と同様に「国宝」に値(あたい)する貴重な出土史料であったことになる。
たとえ、尖石縄文考古館が考えたとおりに「後世の作品」であったとしても――この「石板画」は「夏音文字であった可能性」はとなる。

その証拠に、前記したように「夏音文字」は、712年1月28日に元明天皇(げんめいてんのう)に献上された『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在するからである。
【中国の最古の漢字よりも約1000年も古い、現在における最古の夏音文字の字音】が『古事記』上巻の随所に、あるいは『魏志倭人伝』に多数記載されて残って実在する。
だから、――【尖石遺跡における縄文時代の住居跡から発掘された、石板に刻まれた5つの図書】は「音文字であった可能性」が大となる。

712
年当時、『上古の諸事』・『本辞(ほんじ)」』・『旧辞(きゅうじ)』・『先代(せんだい)の旧辞』などと呼ばれた『古事記』上巻の原典(げんてん)となった古文書には「夏音文字」が多数記されて残っていた。
ゆえに、「わが国に、夏音文字が存在していた年代」は「紀元前2050年頃~712年頃まで」ということになる。
したがって、「尖石の縄文住居跡から発掘された石板画」がたとえ「712年とほぼ同時代の8世紀初頭の作品であった」としても「後期縄文時代と8世紀の夏音文字の字体・字形はほぼ同じ」となるゆえ「後世の偽作」ということにはならない。
だから、尖石縄文考古館の判断は非情に軽率な独断であったことになり、「尖石の縄文遺跡から出土した5つの石板画」は「夏音文字であった」可能性が大となる。

◆下図に、「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」を示した。
この石板の大きさは、幅40㎝、長さ30㎝、厚さ20㎝である。
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前述したように、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における
(
)は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」であった。
この()の掟のためであろうか――現在においても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上の端に、わたくしが「三つ輪の銀河」と名づけた銀河がある。
この「三つ輪の銀河」の西となりの銀河を「十字の銀河」、「十字の銀河」の西となりの銀河を「鬼の横顔に似る銀河」、「十字の銀河」の南となりの銀河を「激流の銀河」と、わたくしは名づけた。
下図は「三つ輪銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河の図」である。
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上図の「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」を観察した心象(イメージ)にもとづいて、
前ページに示した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に線で刻まれた5つの夏音文字)」を、
わたくしは「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯()れ 川の水も涸()れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈()る」
と解読した。

下に、(A)「来る日も来る日も日照りつづく」、 (B)「草と木が枯れ 川の水も涸れる」、(C)「天の神に」、(D)「雨が」、(E)「大量に降るように祈()る」の解読図を配した。
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下図に示すように、(A)「夏音文字」は「日光」をあらわす「複数の放射線の中央」に、「二つの太陽がならぶ」ゆえ「来る日も来る日も」と解読した。
この「二つの太陽の夏音文字」には斜体【y】字形の夏音文字が重なる。
この斜体【y】字状の図書は、「日照り。水がれ」を意味する「干魃(かんばつ)」の【Y】字形の【干】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)や金文形に相似する。
ゆえに、この「斜体【y】字形の図書」は「【干】の夏音文字」であったと考えられる。
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下図は、(B)「石板の右下の夏音文字の上部」における「川岸に群生する葦(あし)の穂と茎と、木の絵柄」の解読図である。
下図に示すように(B)「葦の穂と茎の絵柄」は「茂(しげ)る葉が落ちて葉冠部(ようかんぶ)が枯れて細る木の形」に観()える。
ゆえに、(B)の絵柄(夏音文字)を「草と木は枯れる」と解読した。
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下図に示す、(B)「石板の右下の、下部の絵柄」を「縦の線」と、そして「川底がむき出しの水が流れていない川」を表現していると解釈した。
下図の右の端(はし)にある(B)「長い縦線(たてせん)」は「葉が落ちて枯れて茎だけになった草」と、「葉が落ちてやせ細って枯れた、幹だけになった木の幹(みき)」を表現していると解した。
この(B)「枯れた草と木をあらわす、長い縦線」は「上部の右端(みぎはし)の、枯れた葦の穂と茎の絵柄」と重なる。
ゆえに、上記したように、上図における(B)「石板における右下の上部の絵柄」は「草と木が枯れる」と解読した。
また、下図の上部の(B)における「川」をあらわす図書は「川底がむきだしの水が流れない川の様子」をあらわしているのに対して、下図に下部の(B)「激流の銀河」は「水があふれんばかりに豊富な川の様子」をあらわしている。
ゆえに、この(B)石板画の「川」の図書の形状から「川の水も涸れる」と解読した。
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下図に示すように、(C)「石板画中央の絵柄」は【天】の金文形に相似する。
ゆえに、(C)「石板画中央の絵柄(夏音文字)」を「天に。つまり天の神に」と解読した。
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下図に示すように、(D)「縦線(たてせん)」は「雨」と解読した。
縦線からなる漢字【丨】の字音は「こん」と「し」である。
白川静著『字統』は漢字【丨】について――上下の通ずる関係をあらわす・『説文解字』は「上下、通ずるなり。引いて上行するは、讀みて恖()の若(ごと)くし、引いて下行するは、讀みて退(很・こん)の若くす」という。上行の字は草が初生とされるものであるから、象形となる――と解説する。
だから、(D)「縦線」は夏音文字の【丨(こん)】、つまり「上()から下()へと落下する雨が。下行する雨が」と解読した。
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下図に示すように、「十字の銀河の胸部から鬼の横顔に似る銀河の角(つの)と額(ひたい)」にかけて「三垂(さんすい・三本の縦線)が垂れる銀河部」があり、また「十字の銀河の乳房から鬼の横顔に似る銀河の口」にかけて「三垂(三本の縦線)が垂れる銀河部」がある。
この「二か所の銀河部から三垂」は「三本の線」で「大量の雨」を表現していると考えたゆえ、
(E)
「三垂(三本の縦線)」を「(雨が天から)大量に降るように祈()る」と解読した。
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以上のごとく、「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は、
「来る日も来る日も日照りつづく 草と木が枯れ 川の水も涸れる 天の神に 雨が 大量に降るように祈()る」という文を構成する夏音文字であったことになる。

◆尖石縄文考古館は、「5つの夏音文字の石板画」の他に、もう一つ夏音文字が線刻(せんこく)された石刻画を所蔵した。
この石刻画も廃棄(はいき)されたのであろうか? それとも残っているのかについては、わたくしは知らない。
この「夏音文字の石刻画」は、下図のごとくである。
下図に示したように、この夏音文字は「左手(東側の手)に弓を持つ人物」が描(えが)かれている。
ゆえに、この絵柄は【射】の夏音文字を刻む遺物と考え在られる。
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古語では「弓を持つほうの手」を「弓手(ゆんで)」とよび、つまり「左手(ひだりて)」を意味する。

ゆえに、前述したように――上図の線刻画のおける「弓を持つ手」は「左手」となる。
下図に示すように、「十字の銀河」は「左手(東側の手)」に「弓」を持つ。
つまり、下部の「十字の銀河の図」において、【南】を正面とするゆえ【向かって左側】は【左=東】となる。
【夏音文字・甲骨文字(契文)・金文・篆文(てんぶん)や楷書など全漢字の形式】は、【左=東・右=西】と定まる。
ゆえに、上図の石刻画の人物は、「十字の銀河」と同じく「左手に弓を持っている」ことになる。
このよに、上図の石板における人物画は全漢字の形式【左=東・右=西】に合致している。
だから、上図の「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」」は【「十字の銀河」を図案する夏音文字】であったと考えるべきことになる。
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上図の「左手に弓を持つ人物の石刻画」は、もしかしたならば「後期縄文時代初頭の造化の神の、神産巣日神(かむむすひのかみ)」を表現しているのではあるまいか。
前ページにて現代語に訳したように、「古事記上巻 并(あわ)せて序」の冒頭文にある「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文は、
「【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶(どぐう)を作った、前期縄文時代の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文時代の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、さらに後期縄文時代初頭の神産巣日神などの約2000年間における造化芸術の神の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)に益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確(せいかく)な地図を作製する方法】を習得した」と説明していたことになる。

下図は、尖石台地(北緯36)における「造化参神の図」である。
下図に示すように、「十字の銀河における左手に持つ弓」の東となりは「三つ輪における、もっとも南の輪の銀河」である。
下図に示すように、()「神産巣日神の天頂緯度線」は「三つ輪の銀河におけるもっとも南の輪の銀河中央」を貫通している。
だから、尖石縄文考古館が所蔵した「左手に弓を持つ人物を描く石刻画」は「益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確な地図を作製する方法】を習得した、後期縄文時代の造化芸術の神・神産業巣日神」を表現するものであったと推測される。
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以上のごとく、前ページにて示した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」は「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」から図案された【夏音文字】であったと考えられる。
また、「尖石縄文考古館蔵の弓手(左手)に弓を持つ人物の石刻画」も、「十字の銀河」を図案する【夏音文字】であったと考えられる。

前ページで解説した「尖石の縄文住居跡から出土した5つの石板画」のモデルとなった「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は【倉頡の文字作成理論の基幹(きかん)銀河】となる。
言いかえると、「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は、
倉頡伝説が「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代()えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜()な夜な聞こえたという」と説明する銀河となる。

前回のブログ」漢字の起源と発明を解明・37」にて解説したように、下図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡」をあらわし、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」となった秘密をあらわす。
その証拠に、下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
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だから、このような観点からしても「尖石の縄文住居跡から発掘された5つの石板画」と「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」は、両方とも「夏音文字の出土史料」であったと考えるべきことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)は七人の子、つまり子弟の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)が従っていた」と記述する。
「不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命」は「精確阿な中国海岸線地図を知っている、三角土地測量して精確な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は、
「宗像王の天菩比命に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の建比良鳥命」であった。

下に、遠江(現在の静岡県西部)の豪族・建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県浜松市浜名区の細江町(ほそえちょう)の行政区画を表示する地図を配した。
現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」であるが、その以前は「静岡県浜松市北区細江町」であった。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」または「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
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下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮(はちまんぐう)の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」は、このブログの前ページで解説した尖石縄文考古館が常設展示する国宝「仮面の女神」が顔に被(かぶ)る「三角形の仮面」と密接に関連する。
つまり、「仮面の女神の、三角形の仮面」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代より開発(かいはつ)された「精確な地図作成方法の基礎となる土地三角測量法」をあらわした。
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このような「大三角形」の基(もと)に三角形の網(あみ)や鎖(くさり)を形作(かたちづく)って、その頂(いただき)に三角点を埋設(まいせつ)し、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精確な地図を作製できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による土地三角測量を行うことができなかった。
ゆえに、建比良鳥命とその一族は卑弥呼の地上絵の作製を260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させた。

『魏志倭人伝』に記された最終年号は「魏の正始八年」、つまり西暦247年であり、その以後にも記事が少し続くゆえ、『魏志倭人伝』の記事は250年頃の様子を伝えて終わることになる。
ゆえに、「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」は『魏志倭人伝』の記事の終末年直後の10年後には早くも着手されていたことになる。
通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は、陳寿著(ちんじゅちょ)『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部にある〔倭人伝〕である。『三国志』魏書は280年~289年に成立した。
だから、上記したように卑弥呼の地上絵は260年に作製が着手されて290年頃に完成したゆえ、
『魏志倭人伝』と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。

現在まで、細江町内(卑弥呼の地上絵内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どたく)が出土している。
これらの銅鐸を天頂緯度の測定(そくてい)と三角土地測量に使用して、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年~290年頃に作製されたことになる。

◆卑弥呼の地上絵内(細江町の中川)の悪ヶ谷(あくがたに)遺跡から1口の悪ヶ谷鐸(総高64㎝ 明治45年3月2日に発見)が出土した。
悪ヶ谷鐸は、三遠式の縦横凸線帯(じゅうおうとっせんたい)の六区画・袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸である。
この悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん・胴体)には【夏音文字と同じく線描(せんびょう)の――オス鹿と二羽の鳥の絵画】が鋳出(ちゅうしゅつ)されていた。
悪ヶ谷鐸は東京国立博物館が所蔵している。

悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込(いこ)まれていた【オス鹿と二羽の鳥の絵画】は、
中国の五経(ごきょう)の第一にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)に、
「精確な中国海岸線地図」について説明する、下記のごとくの文をあらわしていると考えられる。
「易(えき)は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す。」
高田真治・後藤基己(もとみ)訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記の「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩()れなく包みこむ」と訳する。

上記した『易経』繋辞上伝の「「易は天地と準う」という文の先頭の【易】の字について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)」と解説する。
「蜥易」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには、かならずもとのすみみかにもどるという帰家性(きかせい)がある。
ゆえに、「易は天地と準う」という文は「遠くの地に旅する人や大海を渡る人は、旅の途中における各地点で観測する天頂緯度と観測地点の緯度を同一とする原理に則(のっと)れば、かならず家族が待つ家に帰還(きかん)することができる」と意味した。

下図に示すように、【道】の字源銀河は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
「オス鹿の横顔に似る銀河」における「オス鹿の角(つの)」は「十字の銀河」、そして「オス鹿の横顔」は「鬼の横顔に似る銀河や、北アメリカ星雲・ペリカン星雲、長方形の暗黒天体部、長方形の暗黒天体部の南の銀河部」によって形成される。
「オス鹿の横顔に似る銀河」は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)から現在まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。
S822

下図に示すように、中国の「廟島列島(びょうとうれっとう)」は「オス鹿の角」に見立てられ、「山東半島(さんとうはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下図の「廟島列島と山東半島」は【道】の字源をあらわす地宜となった。
だから、悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込まれていた「オス鹿の絵」は「天のオス鹿の横顔に似る銀河と、地の廟島列島・山東半島」、つまり上記した『易経』繋辞上伝における「天地の道」をあらわすものであったことになる。
S821
下図に示す「山東半島の地宜」は【弥】の字源「水鳥のカンムリカイツブリの頭部の形」に相似するとも見立てられ、「山東半島の付け根から北と南へ延びる海岸線の形」は「空を飛翔(ひしょう)するカンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。
「山東半島から南に延びる海岸線」は「長江口(長江の河口)と杭州湾(こうしゅうわん)」で「裂()けて破れるような形状」となるが、「杭州湾の南端からは、もとどおりにつくろいおさめる形」となって緩(ゆる)やかな曲線を描く海岸線となる。
だから、『易経』繋辞上伝は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」を「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
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下図に示すように、【綸】の字をあらわす「杭州湾の地宜」は夏音文字の【呼】の字源でもある「水鳥の鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似する。
ゆえに、悪ヶ谷鐸の胴部にある「二羽の鳥の絵柄」は【弥】の字源「カンムリカイツブリ」と、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」を表示するものであったと考えられる。
S213 

以上からして、『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。故(ゆえ)に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」という文は、
――遠くの地を旅する人や大海を渡る人が、かならず家族が待つ家に帰ることができる方法は、旅の途中で度々(たびたび)観測する地点における天頂緯度とその観測各地点の緯度は同じと定める方法のみ一つである。ゆえに、中国各地の天頂には【道】の字源銀河「オス鹿の横顔に似る銀河」が通過し、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜となり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の形は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」に相似し、「杭州湾」は【綸】の字をあらわすことになった。仰いで各地点で天頂緯度をキャッチして、その緯度を俯してもって観測地点の緯度と定めて、各地域で土地三角測量すれば、中国全土を洩れなく包みこむ精確な中国海岸線地図が作製できた――と説明していたことになる。

◆前述したように、わが国の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した益氏の王子は「精確な中国海岸線地図と、精確な地図を作製する土地三角測量」を教え広めた。
ゆえに、3世紀後半(260年頃~290年頃)、不呼国(ふここく)・遠江の一画に1千万坪の「精確な中国海岸線地図を図化する、卑弥呼の地上絵」が作製された。

下図に示す「卑弥呼の地上絵における頭部と両翼(細江町の境界線)」は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」となって「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」を表示している。
下図の左下の「細江町の境界線」、言いかえると「細江町と隣接する引佐町(いなさちょう)の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【綸】の字をあらわす「杭州湾・鳰の形」となる。
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その証拠に、下図に示すように、「引佐町の金指地区・井伊谷地区の地宜」は「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
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下図に示すように、()【弥】の「カンムリカイツブリの頭部を有する大鳥の地宜」と、()「都田川(みやこだがわ)の沖積平野(ちゅうせきへいや)」と、()「象の顔と鼻の形の地宜」とで構成される。
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上図における()「象の地宜における強力の鼻息(はないき)」を【弥】の「大鳥の地宜の西南の翼」に吹きかけて、「大鳥の地宜」における【弥】の頭を東に向くように引佐(いなさ)すると、要するに「左へ引く」と、下図における右図のごとくになる。
下図の右図「【弥】の頭と東の境界線の形」は、左図の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の形」に相似する。
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すぐ前にて図示したように、「細江町の境界線で区切られる引佐町の金指・井伊谷地区の地宜」は夏音文字の字源【呼】の字源をあらわすとともに、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」に合致して「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
だから、「卑弥呼の地上絵」は『易経』繋辞上伝における
「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であったことになる。

下図に、悪ヶ谷鐸の鐸身(たくしん)に鋳込めらた「オス鹿と、二羽の鳥の絵画」を示した。
いままで解説してきたように、下図の「オス鹿の絵」は【道】つまり「天地の道」、「二羽の鳥の絵」は【弥】と【綸】をあらわしている。
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上図の「悪ヶ谷鐸のオス鹿の二羽の鳥の絵柄」は「文字」ではなく、要するに「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であった。
ゆえに、この「悪ヶ鐸の絵画」は「夏音文字」の字形を用いる、あるいは「夏音文字」の字形を真似(まね)する図書であったと考えられる。

だから、今日まで多数出土して発見されたいわゆる「銅鐸絵画」は「夏音文字の字形に影響されて、線で描く図書」であったと考えられる。

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2025年1月 6日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・37

中国の漢字の歴史は今から5000年前から始まる

◆わたくしは長い間グラフィックデザイナーを職業していたゆえ、20歳ころから「漢字は銀河から作られたのではないか」と想像していた。
というのも、漢字のもっとも古い祖型(そけい)とされる甲骨文字(こうこつもじ)における【山】、【水】、【火】という字の形は1種のみだからである。
「山」にはさまざまな形の山があり、「水」の形をデザインするならば様々な形となり、「火」の形もさまざまであるにもかかわらず字形が1種というのは――天に輝く銀河において「山」の字はここから作る、「川」の字はここの銀河部が「川」のイメージとなるからここから作る、「火」の字はこの銀河部が「火」に観()えるからこの銀河部から作ると定めたのであろうと考えたゆえ、
【山】、【川】、【火】の甲骨文字の字形は1種になったのであろうと想像した。

そして、小林石寿編者『拓影展大 甲骨文字字典』(木耳社発行)には、多種様々に図案することができる事柄・事象をあらわす字においても、形が1種のみの甲骨文字が多数記載されていた。
だから、「さまざまな甲骨文字は、ここの銀河部から作る」と定めていたのであろうと考えたゆえ、1種のみの字形の字が多数存在するのであろうと推理した。

漢和辞典で調べると、中国でもわが国同様に「漢字」を「漢字」と表記することを知った。
ゆえに、漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られて起源したと考えることにした。
「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」を【夏の銀河】と呼ぶ。
「春の銀河」、「秋の銀河」は中国・わが国の天頂にめぐってこないうえに各部の形状の印象は漠然(ばくぜん)として何に似ているのか想像がつかない、「冬の銀河」は天頂にめぐってくるが様々な字形を作ることができる形状に乏(とぼ)しく多数の文字を作ることができない。
【夏の銀河】は中国・わが国の天頂にめぐってきて、もっとも巨大で、各銀河部がさまざまに印象ふかい形状からなるゆえ、それらの心象(イメージ)を図案すればさまざまな多数の文字を作ることができるいちがいないと――わたくしには思えた。

ゆえに、わたくしは「【夏の銀河】から漢字は作られた」と推定した。
というのも、星座や星の写真集には「夏の銀河の写真」が多数所載(しょさい)され、また「夏の銀河」は通称「天の川」と呼ばれ、また「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれるからである。
だから、「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記したと、わたくしは考えた。
また、【夏】の字は「中国の人」を意味する。
ゆえに、「【夏の銀河】から文字を作った」ゆえ【夏】の字は「中国の人」を意味することになったのであろうとわたくしは考えた。
また、三皇時代、五帝時代の後の時代は「夏代」であることからしても、
【夏の銀河】から王朝名が「夏」になったのであろうと思えたゆえ、「漢字は【夏の銀河】の各部の形状から作られた」と考えることにした。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、前回(36)までにおいて、
「今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した」と解説して証明してきた。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら))」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。

壬申の乱の9年後の681(天武天皇10)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681(天武天皇10)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。

上記の「帝紀及び上古の諸事の記定」の原文は「令記定帝紀及上古諸事」である。
この原文の「令[]定帝紀及上[][]」のうちの[][][]の3字をもって、『古事記』という書名が成立したという一説が存在する。
この一説は正しく、きっと『古事記』という書名は「令[]定帝紀及上[][]」のうちの[][][]の3字をもって成立したにちがいない――とわたくしは推断(すいだん)した。

天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。

「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとくである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝()り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージを有する銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地を表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶を作る芸術神(造化の神)における(2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)において、益氏(えきし)が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」

◆『魏志倭人伝』には「古自(いにしえよ)り以来、其()の使()、中国に詣(いた)るに皆(みな)、自(みずか)ら大夫(だいふ)と称す」という記事がある。
日本列島と中国の中間の大海を越えて中国に到着した使者の「大夫」は、万葉仮名では「ますらを」と読まれ、今日の「ますらお」は「益荒男」と表記される。
ゆえに、「大夫・益荒男」という語は「日本列島と中国を隔(へだ)てる、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を横断(おうだん)した益氏の王子と若者たちのごとく、大海を越えて中国に到着した勇敢(ゆうかん)な男性」を意味した。

前記したように、『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある、
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
という上記の文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。

司馬遷(しばせん)著『史記』の陳杞世家(ちんきせいか・第六)には、下記のような記事がある。
「帝益の子孫はどこに封ぜられたか不明である。」
益氏の子孫への血を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島の地に移住したため、中国に残った年寄りたちの益氏は衰退し滅亡した。だから、中国では益氏の子孫はどこに封じられたか不明となったのである。

◆益氏が教え広めた【夏音文字】について、白川静著『字統』(平凡社発行)は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音(夏音文字の字音)である。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の随所に記される、〔音〕という注がつく夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。

漢字の〔最も古い字形として残った甲骨文字の字音〕は、不明で現在まで残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻に残っている夏音文字は紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国が習得した漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
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実は、わたくしは白川静著『字統』(平凡社発行・1985年1月7日 初版第八刷)を、1985年の11月か12月ころに購入した。
ゆえに、夏代がいつから始まるのか確かな年数を知っていなかった。
陳舜臣(ちんしゅんしん)著『中国の歴史 1 神話から歴史へ』(平凡社発行・1981年1月14日 初版第四刷)の初頭部には中国の三皇・五帝時代や古代文明の年代が記されていたゆえ、これらの記事をもとづいて「夏代(夏王朝)の始まり」は紀元前2000年頃と推定した。
というのも、後述する司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される帝堯代(ていぎょうだい)の四時(しじ・四季)の天文説明における春分点の位置が「紀元前2500年頃」を表示したからである。
ゆえに、帝堯の次が帝舜(ていしゅん)の時代、その次が帝禹(ていう)や息子の帝啓(ていけい)が統治した夏代始めとなるゆえ――夏代は紀元前2000年頃から始まるであろうと推理した。

しかし、2000年の1110日の朝日新聞の朝刊第3面の「中国最古の夏王朝 紀元前2070年成立」という記事によって、夏代の始まりは紀元前2070年であることを知った。
この記事は、下記のごとく説明していた。
――「夏商周断代工程」と名づけられた研究計画は、中華人民共和国の国家的プロジェクトとして1996年にスタートした。歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んだ。
中国古代王朝の年代確定作業を進めてきた専門家チームは、200011月9日、「夏王朝」は紀元前2070年に成立、紀元前1600年に「商」()に滅ぼされ、商は紀元前1046年に「周」に滅ぼされたという結論に達したと発表した。

上記のごとく、「紀元前2070年から夏代が始まる」という説は確かな意見である。
ゆえに、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)の記事による「帝益の箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)」、そして「帝禹(ていう)の遺志(いし)・氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続させる事業を益氏の王子と若者たちによって決行されて、彼らが大海を越えて九州に上陸して男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを教え広めるまでには約20年の年月が費(つい)やされた――と推定して、紀元前2050年頃から日本列島各地の氏族たちは【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを習得しはじめたと、わたくしは考えることにした。

◆前述したように、わたくしは司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される「帝堯代(ていぎょうだい)初頭の四時(しじ・春分、夏至、秋分、冬至)の夕刻における星の位置の説明記事に注目して、
帝堯代初頭は紀元前2500年頃であることを知った。
それというのも、司馬遷著『史記』五帝本紀における帝堯代初頭の四時の夕刻の星空を説明する記事における、春分点の位置が紀元前2500年頃を表示するからであった。

上記した司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭の天文記事は、下記のごとく記述する。
「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す。」
上記の文を現代語に訳すると「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」となる。
上記した「星は【鳥】」という星は、光度が1.8等の、北斗七星の第5星のおおぐま座のε(エプシロン)星である。
わたくしは、上記の帝堯代の春分の日の夕刻の天文図から、春分点の位置で帝堯代初頭の年代を算出(さんしゅつ)するために、紀元前2250年と紀元前2500年の春分点を設定(せってい)した2種の天文図を作成した。
この天文図の作成方法については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」の末部に、過去の春分点の位置を知る算出方法について「歳差状況図(天の北極の位置図)」を用いて詳細に説明した。

この結果、『史記』五帝本紀に記述された帝堯代初頭の春分の日の夕刻の星空の状況が表示する春分点は現在から黄道の北極を中心とした角距離63度過去へもどった紀元前2500年の天文図の位置に合致した。
ゆえに、わたくしは帝堯代初頭を紀元前2500年頃であったと定めた。
下図は、帝堯代の春分の日の夕刻の星空図である。
下図が示し、また『史記』五帝本紀の帝堯代の記事が説明するとおり――紀元前2500年・帝堯代の春分の日の夕刻には【鳥】と名づけられた「北斗七星の第5星のおおぐま座ε星」が南中(子午線通過)しようとしていた。
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◆この帝堯代初頭の春分点による時代年数の解明に先立って、
わたくしは、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏に【夏の銀河】の提供を依頼する事情について説明する書状を送ると――藤井氏は、早速、このブログ初頭に配した【夏の銀河の写真】を送付してくださった。

そこで、わたくしは藤井旭氏が提供してくださった【夏の銀河の各部】に、下記のごとく名称をつけることにした。
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上図のごとく、わたくしは【夏の銀河の写真】の左上から、「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」、「激流の銀河」、そして「鬼の姿に似る銀河」と名称をつけたとき、
「頭に角(つの)を生()やす鬼の横顔に相似する銀河」には「目が四つ存在すること」に気づいた。そこで、「鬼の姿に似る銀河」を「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」に二分することにした。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
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上図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」こそ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体であると、わたくしは直感した。
学者たちは、下図に示す後漢の墓の内部から発見された石に刻みつけた画像や古代絵画の「四つ目の、倉頡の肖像画」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と早合点して軽率(けいそつ)に断定した。
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しかし、【夏の銀河】における「鬼の横顔に似る銀河」には、石に刻まれた画や古代絵画と異なった箇所の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴに、目に相似する形の銀河部」がある。
つまり、「古代絵画の倉頡の肖像画」と「鬼の横顔に似る銀河における、四つ目の銀河」は、前者が虚・後者が実(本物)で、前者と後者は別物ということになる。
倉頡伝説における「四つ目の怪人・倉頡の本物」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」であり、
いっぽう、古代絵画の「倉頡の肖像画」は「贋物(にせもの)」であったことになる。
学者たちは「四つ目の怪人・倉頡の贋物(倉頡の肖像画)」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」と早合点して断定したことになる。

◆「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の東となりは「十字の銀河」である。
下図に示すように、「十字の銀河の左半身(東側)は男性の姿」のイメージとなるが、「十字の銀河の西半身(西側)には乳房・妊婦の腹部(おなか)・子宮に相当する箇所」がある。
ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に相似すると見立てた。
K95


時は1980年代であった。
1970
年代以来、世には「ヒトの1つの受精卵(じゅせいらん)の核(かく)にふくまれているDNAの量は、塩基(えんき)の4文字で約70億字の遺伝的命令文に相当する。この量はアルファベット文字でほぼ30億字の文章となり、大英博物館百科事典の15組分・約360冊に匹敵(ひってき)する」などという情報が満ちあふれていた。
この「DNA遺伝子学の小さな場に大きな情報が入っている」という発見に影響されたわたくしは、「十字の銀河にある子宮に相当する箇所」を「十字の銀河の子宮」と名づけることにした。
そして、現代の分子生物学のDNA遺伝子理論よりもに先駆(さきが)けて――倉頡は「現代のDNA遺伝子理論と同様に、小さな場に大きな情報が入っていると考える「一即多、多即一」という文字作成理論を発明した」と――わたくしは考えることにした。
これゆえ、わたくしは「女体に相似する十字の銀河」は「【夏の銀河各部の形状】から作られたすべての文字が生まれる母体」と考えることにした。

前述したように、わたくしはグラフィックデザイナーを職業としていたため、当時ブームとなるT・R・ブレークスリー著・大前研一訳編『右脳革命』(ブレジデント社発行 1982年3月25日第16)を愛読していた。
『右脳革命』が推奨(すいしょう)しているように、「感覚(イメージ)を優先して右脳思考」すると、【夏の銀河各部の形状】は「多数の甲骨文字や周代に作られた金文の字形」に相似すると感じた。
ゆえに、わたくしは「殷代(いんだい)後半から出現した甲骨文字と周代の金文は共に、現代の漢字と異なり、言葉をあらわす記号として作られた左脳思考による文字」ではないと考えることにした。
いいかえると、「甲骨文字と金文は感覚(イメージ)を優先して芸術的造形的に考えて作られた右脳思考の作品、つまり右脳思考によって作られた文字」と、わたくしは考えることにした。
そして、わたくしは【夏の銀河各部の形状】から右脳思考を発揮(はっき)すれば「多数の文字」が作ることができると感じ、また「十字の銀河の子宮」は「【夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む子宮】に見立てることができる推理した。
だから、「倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する、一即多、多即一の理論】を発明したと確信した。

下図に示すように、「腹部(おなか)に子どもが宿る形」に図案される【文】の金文は「妊娠した女性の腹部(おなか)のように腹部が丸い十字の銀河」から作られた――とわたくしは解釈した。
K35

下図に示すように、【字】の金文の上部の【宀(べん)】は「十字の銀河」が字源・字形・字義となり、下部の【子】は「胎児・出産児・乳児などの姿に相似する、鬼の姿に似る銀河」が字源・字形・字義となった――と解した。
K34
というのも、『説文解字』は【字】の字について「乳(にゅう)するなり」と解説するからである。

この「乳するなり」という解説を「乳房を吸う」と解釈して、下図に示すように――【「乳児の姿に似る鬼の姿に似る銀河」が「十字の銀河の乳房」を吸う様子】――に見立てた。
ゆえに、前ページに図示したように、【宀(べん)(字義は「産屋(うぶや))の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」と解釈して、【字】の字源は「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」と断定した。
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あるいは、「古事記上巻 并(あわ)せて序」は「稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習(しょうしゅう)」について、
「目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」と説明しているが、
下図のごとく、上記の文をわたくしは右脳思考して銀河の形状図で表現することにした。
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「目に度れば」という文は「鬼の横顔に似る銀河の両目から後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部・アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部まで」が表示し、「口に誦み」は「鬼の横顔に似る銀河の口」が示す。
そして、「耳に払るれば」は「鬼の横顔に似る銀河の〔耳〕に相当する箇所にある北アメリカ星雲は耳の形に相似しない」ゆえ、「払って落したごとく、鬼の横顔に似る銀河の耳は存在しない」と示している。
「心に勒す」は「鬼の身に相当する銀河の心臓部にある、心に記し刻む」と意味する。
つまり、「耳に払るれば心に勒す」は――【夏の銀河各部の形状】を見て、そのイメージをあらわす言を口から小声を出して歌うように誦()んで、耳を払い落すようにして雑音を入れずにそのイメ―ジを心に記し刻むようにすれば、【夏の銀河各部の形状から作られたすべての夏音文字】は「十字の銀河の子宮」から生まれたものであるゆえ、すべての夏音文字の字源・字形・字義は知ることができる――と意味したことになる。
つまり、稗田阿礼が暗誦(あんしょう)していた夏音文字で記されていた『古事記』上巻の原典『上古の諸事』の文章は――今日の流行歌手が500曲~600曲もの多数の詞を暗誦しているように、記憶力を増大させるために小声に出して歌う(これを、「口に誦み」と表現した)方法で、【夏の銀河各部の形状】を情景化して、この情景を心象化(しんしょうか)して覚えていたことになる。

◆以上のごとくからして、「十字の銀河」と「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は、【夏の銀河各部の形状から作られた全漢字の中枢部(ちゅうすうぶ)ということになった。
「十字の銀河の形」は【大】字形である。
前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』には「大夫」という語が記される。
「大夫」の【夫】の字形は上部の「簪(かんざし)」をあらわす図書【一】に下部の【大】が加わって成立する。

「字書の聖典」と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は【夫】の字について、
「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一を以(もっ)て簪(しん)に象(かたど)るなり。周制(しゅうせい)。八寸を以て尺と為()し、十尺を丈と為す。人は長(たけ)八尺なり。故に丈夫といふ」と解説する。
周制の「一尺」は今日の「22.5㎝」である。
そうすると、上記した「人は長八尺なり。ゆえに丈夫といふ」という『説文解字』の解説は――【夫】の字源となる「十字の銀河」の見掛けの大きさは、健康で丈夫な背の高い男性の、八尺(180)くらいの身長とほぼ同じである――と説明していることになる。

上記したように、『説文解字』は「十字の銀河の見掛けの大きさ(身長)」を「十尺を丈(一丈)と為す。人の長八尺なり」と指摘する。
ゆえに、「十字の銀河の見掛けの大きさ」は下図のごとくになる。
つまり「十字の銀河の頭部から足までの身長」は「八尺・八度」、「十字の銀河の頭が被(かぶ)る飾り」が「二尺・二度」、ゆえに「十字の銀河の頭が被る飾りから足までの大きさ」は「一丈・十尺・十度」ということになる。
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わたくしは、藤井旭氏から提供された【夏の銀河の写真における「十字の銀河」】の身長を、つまり上図に示した「十字の銀河の頭が被る飾りから足まで」を――印刷用製版カメラで「10(10)」に拡大して「1㎝・1度・1尺」になるようにした。
次に、天の北極と春分点の位置が紀元前3500年と紀元前3000年となる2種の天文図を作製した。
最初に、紀元前3000年の天文図で、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と黄帝軍が遠征した長江口(長江の河口中央)の緯度線(天頂緯度線)と、全漢字の中枢部となる「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」の関係を調べることにした。

そうすると、「紀元前3000年における長江口と黄帝陵の天頂緯度線」は、下図のごとくになった。
下図に示すように、紀元前3000年では――「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形の銀河部中央」を貫通する+赤緯3535分は「十字の銀河の頭部中央」を貫通して、北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線ということになった。
また、北緯3130分の長江口の天頂緯度線(+赤緯3130)は「四つ目の怪人・倉頡の銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央を貫通して、「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。
ゆえに、下図の状況から、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。
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◆倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代()えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜()な夜な聞こえたという。」

前述したように、わたくしは「夜な夜なに出現する【夏の銀河各部の形状】から文字(漢字)は作られた」と考えていたため、
倉頡伝説が「倉頡がはじめて文字を作り、古来の結縄に代えたので、天は祝福して禾を降らせ、死霊の感泣する声が夜な夜な聞こえた」という説明を、
「倉頡がはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄、つまり易占(うらない)に用いた記号に代えて、倉頡がはじめて文字を作り、三皇時代に大王となって天下を治めた包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)三氏族の天に昇った死霊は夜な夜なに出現する天頂の銀河の輝きとなって、いっせいに感激して涙を流して泣き祝福して、三氏族の死霊の涙は恵(めぐ)みの雨となって降り、豊かな禾(穀物)を地上にもたらした」と、芸術的に造形的に右脳思考をもって解釈した。

言語をあつかって「一度に一つずつ進行する論理的思考」に長()ける左脳思考の場合、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」と表現されるであろうが、
【夏の銀河の各部の形状】を感覚(イメージ)でとらえる造形的能力に優(すぐ)れる複数の心象(イメージ)を同時に進行することができる右脳思考だと――「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を当然、「文字を発明した倉頡」と「四つ目の銀河」を合体化して「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったと、わたくしは考えた。

だから、上図に示した「紀元前3000年における長江口(ちょうこうこう)と黄帝陵の天頂緯度線図」は「倉頡伝説が事実であること」を証明していると考えた。
というのも、下図に示すように――【「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は跪(ひざまず)いて「十字の銀河」を尊び敬い仰ぎ見て拝礼(はいれい)する姿勢(ポーズ)】に観えたからである。
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ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「黄帝」に見立て、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を「黄帝につかえた倉頡」に見立てた。
だから、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわしていると、わたくしは確信した。

そして、下図のごとくも、倉頡伝説の説明について考えた。
倉頡伝説の「天は祝福して禾(か・穀物)を降らせた」という説明における「地上を祝福する天」は「十字の銀河」と解釈した。
()はじめ粟(ぞく・穀物)などの作物(さくもつ)は、天から降る雨によって枯れずに育つ。
ゆえに、倉頡伝説はイメージを重視する右脳思考にもとづいて「天は祝福して禾を降らせる」と造形的に表現するものであったことになる。
下図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は【倉】【蒼】【吉】【頁】【頡】【蔵】【臓】などの字源となったと解釈した。
下図に示すように、「十字の銀河が重なる乳房から四つ目の怪人・倉頡の銀河における口までに垂れる三本線の銀河部」と「十字の銀河の右手(西側の手)から四つ目の怪人・倉頡の銀河の角(つの)や額(ひたい)までに垂れる三本線の銀河部」は「天から降る雨」または「天から降る禾」をあらわすイメージとなる。
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前ページに配した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」にて示したように、「中国南部の長江の河口中央(北緯3130)」の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってきた。
長江口の真西には太湖(たいこ)が所在する。
長江口・太湖地方は、禾()がよく育つ適性育成地である。

ゆえに、下図に示すように、倉頡は「長江口・太湖地方や長江口南部で育つ、禾()の穂」を「十字の銀河の子宮」や「十字の銀河の股(また)」がある南方に向け、
「禾の穂」を「鬼の姿に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の食物(禾、つまり米や麦の飯)を食べる口がある西へと垂らす(転回する)」と定めて、【禾】の字を創(つく)ったと考えることにした。
だから、下図の左上に示したように、倉頡が創った【禾】の字は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
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上図の「十字の銀河は、前述したように「女体」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加える【委()】の字も倉頡が創った【禾()】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するため、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭()】の字も倉頡が創った【禾】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

白川静著『字統』はじめすべての字典は【禾】【委】【倭】の字源が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と解説しない。
しかし、上図の右下に配した【禾】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)は【禾】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を表現している。
倉頡は、上図の「【禾】の字源銀河解説図」における「横になる【禾】の字形」は、そのままだと不自然であると考えた。
上図の右下に配した契文形のごとく、倉頡は【禾】の字形を「イネ()が地面に植わる形」にした。

下図に示すように、倉頡は()「禾の穂が南から西へ90度垂れる図書」を、()禾の根が地面に植わるように180度天地をひっくり返す形にしたが、「禾の穂は逆時計回りに90度転回する北から西へと垂れる形」になって矛盾した。
このため、()「南から西へと転回するように、禾の穂が時計回りに90度転回する北から東へ垂れる形」に、【禾】の字形を定めた。
前ページに示した「【禾】の字源銀河解説図における、右下の【禾】の契文形」は、上図の()の図書の形と合致して、【禾】の字形(契文形)は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。
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なお、上図の()の図書(契文)が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていることを、
下の左図(契文形)は「禾()の穂が、北から東へ垂れる(時計回りに90度転回する)形」となって明確に示すようにした。
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そして、上図の左上の「十字の銀河の中央に、【禾】の稲(穂・茎・葉・根)をあらわす図書を重ねる様子」から、
下図に示すように、【大】字形の「十字の銀河」が【天】の字源・字形となることが推定できた。
というのも、【天】は【大】(大字形)の上に【一】の図書を加えて構成されるからである。
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上記の推定にもとづき、不弥国(ふみこく)の宗像王の名が「天菩比命(あめのほひのみこと)」であることに注目した。
そうすると、天照大御神・大和王朝に逆らって抵抗した出雲国造(いずもこくぞう)の名も「天菩比命」であり、「天菩比命」は「天穂日命(あめのほひのみこと)」とも表記することにもおのずと注目することになった。
「稲の苗は2、3本であるが、育って実()がみのって穂が垂れると稲の茎の本数は倍以上に増えている。」
ゆえに、【菩】の字は「禾()は穂が実るときに茎が【倍】に増える草である」とあらわしていると考えた。
つまり、【咅】の字から【菩】と【倍】の字が作られたことになる。
というのも、【咅()】は「成熟すると茎が【倍】に増える草」であるから、【草冠】に【咅】が加わる【菩】という字が作られ、【人偏】に【咅】を加える【倍】の字が作られた。
このような秘密にもとづいて、「天菩比命」は「天穂日命」とも表記されることになり、【菩】の字は「穂が実ると茎が倍に増える草」と示していることになる。
だから、「天菩比命」という名は【天】の字源「十字の銀河の中央」に、「稲の穂の図書」を重ねて、【禾】【委】【倭】の字形は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を伝えているにちがいないと、わたくしは考えた。
以上をもって、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。

◆このブログの前ページにて指摘したように、わたくしは「五帝時代初頭の黄帝時代の年代」を調べるために、紀元前3500年と紀元前3000年の天の北極・春分点をあらわす2種の天文図を作製した。
実は、この2種の天文図は天の北極と春分点の位置は異なるものの、黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は共に「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河中央から、十字の銀河の頭部の中央」を貫通してほぼ同一であった。
ゆえに、この「歳差状況図(天の北極の位置図)」をもとづく年代算出方法では、黄帝時代は紀元前3500年、または紀元前3000年ということになった。
そこで、このブログの前ページで紹介した「夏商周断代工程」と名づけて中華人民共和国が国家的プロジェクトとして1996年にスタートして、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んで200011月9日に結論に達した、
紀元前2070年に「夏王朝」が成立、紀元前1600年に「商王朝(殷王朝)」がはじまり、紀元前1046年に「周王朝」が始まったという意見にもとづき、
さらに、このブログの前ページにて紹介したように、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代(ていぎょうだい)初頭の天文記事における春分点の位置・紀元前2500年をも考慮して、
五帝時代冒頭の黄帝時代初頭は紀元前3000年頃であったと、わたくしは決定することにした。

上記したように、商王朝(殷王朝)554年間存続し、夏王朝は470年間存続し、帝堯代から夏代初頭までは430年間ということになる。
五帝時代は、()黄帝時代、()帝顓頊(ていせんぎょく)時代、()帝嚳(ていこく)時代、そして()帝堯時代・()帝舜(ていしゅん)時代と続くゆえ、
上記した商王朝の554年間と夏王朝の470年間の存続からして――黄帝時代初頭から帝堯代初頭までは約1000年間よりも約500年間であったと考えたほうが妥当(だとう)な意見であろうと考えて、
わたくしは「黄帝時代は、帝堯代より約500年前の紀元前3000年頃(BC3000年頃)から始まった」と決定することにした。

◆以上、わたくしの意見を図表に表示すると、下図のごとくになる。
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なお、中国の西安(せいあん)郊外の半坡(はんぱ)遺跡から、合計112点の記号が発見され、記号の種類を整理すると全部で22種類にまとめられた。
中国の学界は半坡遺跡の推定年代は紀元前4800年~紀元前4300年であるとする。
また、黄河流域に栄えた大汶口(だいもんこう)文化の遺跡から発見された陶器上には絵文字にちかい図書がほどこされていた。
大汶口文化全体の年代は紀元前4300年頃から始まり、紀元前2500年頃に龍山(りゅうざん)文化へと進展したと、中国の学界では考えられている。
半坡遺跡から発見された記号と大汶口文化の遺跡から発見された図書を、中国では「陶文(とうぶん)」と呼ぶ。
この「陶文」を、わたくしは「三皇時代、つまり包犠氏(ほうぎし)の時代、女媧氏(じょかし)の時代、神農氏(しんのうし)の時代」の、易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)であったと推定し、
三皇時代の始まりは紀元前4300年頃~紀元前4000年までであったと推定し――上図の「漢字生長史」には「三皇時代の始まりを紀元前4000年頃(BC4000年頃)」と表示した。

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2024年10月28日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・36

始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史について説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって、
詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、
益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に居住したと伝えている。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸したであろう。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」であったのではないかと推定される。

注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が夏音文字(かおんもじ)の【奴()】の字源・字義をあらわすことであった。
というのも、今から約4000年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)の両手の形や両脇(りょうわき)の形はいわゆる「C字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は、「今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図に示すように、倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の時代、()「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右手(西の手)」と、()「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵(こうていりょう・黄帝の廟と墓)の天頂にめぐってきた。
また、当時、()「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右足(西の足)」と、()「十字の銀河の子宮中央」が長江口(ちょうこうこう・長江の河口中央)の天頂にめぐってきた。
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上図の「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3535)が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、
下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。
下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。
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下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。
下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。
「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。
【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字(最初の文字)である。
ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。
【女偏】に【又】が加わる【奴()】の夏音文字(かおんもじ)は【又】と同義とあって「右手」を意味した。
したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河(右手)と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲(渦巻き)」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は【奴()】の字について、下記のごとく解説する。
「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷(どれい)とする。『説文解字』は――奴婢(ぬひ)、みな古の辠(ざい・罪)人なり――とする。」
上記の【奴()】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴(な。ぬ)】の字源・原義を失った、後世(周代初頭以後)の転義であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が15回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、
白川静著『字統』や『説文解字』が【奴()】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。
だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前2050年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、
「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、
「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕(たがや)すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する18歳くらいの青年」を意味した。
ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬(ほうむ)る墓に循(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳(ひとみ)がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲(いけいえ)に選ばれたのである。

また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。
また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」にて詳細に解説したように、
対馬国(つしまこく)から数えて16番目の姐奴国(つなこく)18番目の蘇奴国(さなこく)20番目の華奴蘇奴国(かなさなこく)などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴()】の字源解説と異なり、
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

上記の4つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。
前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。
また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約4000年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)が共通する、土偶の両手と両脇(りょうわき)の「C字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。

以上のごとく、「後期縄文時代に作られた5基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な3点の事柄を表現することになった。
(
)「強大な力を有する聖獣(せいじゅう)の、ジャコウウシ」
(
)「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手(西の手)と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部

(C)「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】

◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。
白川静著『字統』は【倭】の字について「委()は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。
下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被(かぶ)りものを飾(かざ)るように観える、十字の銀河の図」である。
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上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、
下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。
このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。
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前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた5基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯40度」である。
下図に、今から約4000年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。
下図に示した「+赤緯40度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎(北緯40)の天頂」にめぐってきた。
また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手(西の手)と脇腹(わきばら)」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯37度の土地の天頂にめぐってきた。
そして、下図が示すように、当時(後期縄文時代初頭)、「十字の銀河の胸部と左手(東の手)の銀河部」が黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した。
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下に、群馬県の吾妻郡(あがつまぐん)吾妻町の郷原遺跡(ごうばら)遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。
下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被(かぶ)る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。
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下図に示したように、「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、
「男鹿半島端の入道崎から以北のC字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹(わきばら)C字形」に造形された。
「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。
この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。
だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。
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ハート形土偶が出土した郷原遺跡(郷原集落)は、北緯3634分である。
下図は、約4000年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。
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〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術 第1巻 原史美術』(小学館発行)は下記のごとく指摘する。
「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもC字形曲線によっているという点である。つまり、体側(たいそく)はC字形と逆C字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」
下図に、上記の指摘を図示した。
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下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。
注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫()られていることである。
だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、
「黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵(北緯3535)の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。
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ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は
「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵の天頂の位置」と
「現在(つまり、後期縄文初頭)の郷原集落の天頂の位置」を表示して、
【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。
当時の縄文人たちにとって、【精確(せいかく)な天頂緯度の測定】は【命(いのち)】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。
だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代(中期縄文初頭)と現在(後期縄文時代初頭)()北緯40(益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏)と、()ハート形土偶が出土した郷原集落と、()黄帝陵の天頂緯度を表示する機能(役割)がそなわっていたと考えられる。
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◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、
名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏(ほとり)を本拠地にして、
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】などを教えひろめたために、
各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。
このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、
上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、
「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のC字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。

◆下図における左図は、千葉県銚子市(ちょうしし)に所在する余山貝塚(よやまかいづか・北緯3545)から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。
下図の右図は、埼玉県岩槻市(いわつきし)の真福寺貝塚(しんぷくじかいづか・北緯3556)から出土した「みみずく土偶」の図である。
両土偶の両脇はハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。
「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。
ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。
このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。
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下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡(かめがおかいせき・北緯4053)から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の図を配した。
顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。
この土偶の円環状(えんかんじょう)の枠取(わくど)りをほどこし、その中のレンズ状曲面に1本の沈線(ちんせん)を刻んだ目は「光を遮断(しゃだん)するもの」と見立てられた。
ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。
この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径(どうこうけい)を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。
この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。
下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形されている。
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上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。

◆下図は、長野県茅野市(ちのし)の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。
「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。
仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯36度の長野県茅野市の中ッ原遺跡(なかっぱらせき)から出土した。
仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様にC字形と逆C字形に造形される。
さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。
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この女神の仮面には1枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断(しゃだん)して瞳孔径を最大(mm~8mm)に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。

「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。
この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」を包囲する。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、
黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、〔虞()〕の要職に就()くことを命令された」と記述する。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖(しそ)」の帝禹(ていう)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の要職(ようしょく)に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。

したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、
「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。
上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、
益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。

「虎」といえば、前ページでも指摘したように、
夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。

また、夏音文字【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
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上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。
危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、
【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。

下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。
黄帝陵は北緯3535分である。
黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生(ぐんせい)していた。
したがって、黄帝時代、冬になると北緯3535分より以北の黄土高原は凍土地帯(とうどちたい・ツンドラ地帯)になって、ジャコウウシは群生していたことになる。
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それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯3634分、
後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯3545分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯3556分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯36度であるゆえ、
これら4基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原(ツンドラ地帯)の緯度とほぼ同じであったことになる。
だから、これら4基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。
これら4基の土偶からして、北緯4053分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。

◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市(いしまきし)から阿武隈川(あぶくまがわ)の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視(ぎょうし)していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。
ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。
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下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。
ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
したがって、下図に示したように、
(
)「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、
(
)「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
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その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市(しおがまし)に所在する島の名は「寒風沢島(さぶさわじま)」、
男鹿半島の根元にある成層火山(せいそうかざん)の名は「寒風山(かんぷうざん)」であり、
両者は「寒風」の2字が合致する。
火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風(れっぷう)なかで完全にからだを保護して-70℃の酷寒(こっかん)にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色(あんかっしょく)の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛(ぼうぎょもう)でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。
したがって、「寒風沢島」という名も「-70℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。

では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。
卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立(ていりつ)して覇権(はけん)を争った状況は「中原(ちゅうげん)に鹿を逐()う」と表現された。
つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。
司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益(ていえき)は故・帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に争わずに譲(ゆず)った」と記述されている。
この「帝益の戦争で決めずに禅譲(ぜんじょう)した事績(じせき)」を表現した名称が、
「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。
オスの鹿が争うとき、角(つの)の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定(さだめ)て争わない。
ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競(きそ)われた」と伝えられることになった。
その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。
ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。
以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、3世紀の三国時代(卑弥呼時代)以後に成立したと考えられる。

前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、
2200年後の卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)において、
『魏志倭人伝』における34の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度(ひんど)が最多になったのであろう。
『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と10ヵ国存在して、最多である。
また、そのうちの2ヵ国は「奴国」という同名である。
上記したように、後期縄文時代、()「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と()「男鹿半島」の2ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が2国存在することになったのであろう。

◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」は北緯4130分~北緯42度に位置する。
下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端(大間町)」は北緯4130分である。
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ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。
下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島(つがるはんとう)「の西部にある「十三湖(じゅうさんこ)」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。
ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島(なつどまりはんとう)は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。
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下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯4130分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。
「陸奥湾(むつわん)」は「女性の骨盤(こつばん)」に見立てられた。
倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛(まも)る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。
だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱()】の字源・字義をあらわした。
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上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬(やま)」という語をあらわした。
というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。
ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。
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下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨(とうちょうこつ)にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門(だいせんもん)」もまた、「邪馬」とよばれた。
出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。
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「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪(なな)め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径(しゅういけい)で骨盤入口を通過する」。
今日の産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気(けなげ)な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命(いのち)】の尊厳(そんげん)をあらわす光景である。
だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。

以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。
だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊(死霊)が棲む地】となって結縄(けつじょう)・書契(しょけい)・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。
その証拠に、712年1月28日に成立した〔古事記上巻 并(あわ)せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。
この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。

◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国(つしまこく)に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(いちだいこく)に至る」という記事がある。
上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。

下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
そして、「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ)」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対(いっつい)になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。
「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。
下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱()】の字源をあらわした。
これゆえ、「一大国」は「【壱()】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐(わか)れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。
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下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。
上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。
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だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石(あらいはくせき)以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。
「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。
白石以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和(やまと)」の「やま」や「山門(やまと)の「山」である。

「邪馬」は「子宮から堅(かた)い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。
いっぽう、「邪馬臺()国」の【臺()】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台(うてな)」のあいだには関連性はまったくない。
だから、「邪馬」と【臺()】は結ぶつくことができないゆえ、本来(ほんらい)、「邪馬臺()国」という語は不条理(ふじょうり)きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。

以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消(まっしょう)することができない。
「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。
白石以来の約300年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。
だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合(ふつごう)な記事を抹消し無視する独断(どくだん)と偏見(へんけん)であったことになる。

前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。
「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯3535分である。
だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。

日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯3535分あたりとなる。
ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳(はしはかこふん)や纏向遺跡(まきむくいせき)が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯3535分ではないことが一目でわかる。
同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。
この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。

◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文章である。
この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後(どんづまり)は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。
そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。

前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後(どんづまり)」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。
また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国(壱岐)」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、
「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。
だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。

以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「白石以来300年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。

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2024年9月 7日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・29

魏の名将・司馬懿(しばい)による燕(えん)の公孫淵(こうそんえん)討伐と【倉頡の文字作成理論】の関係

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて30番目の「狗奴国(くなこく)」は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と、広島県東部の一画(福塩線が通る地域より東部)と岡山県、いわゆる吉備地方(きびちほう)」であった。
旧国だと「狗奴国」は「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方」であった。
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『魏志倭人伝』は「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった」と記述する。
下図に示す「小豆島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「狗(いぬ)の姿」に相似する、つまり「狩猟犬(しゅりょうけん)」に見立てられた。
また「岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、つまり「狩猟犬の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、ジャコウウシの群れがいる方向へと逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「小豆島の地宜」の【狗】「狩猟犬の姿」と、「児島半島の地宜」の【奴】「ジャコウウシの姿」にもとづき、卑弥呼は「吉備地方」の小国名を「狗奴国」と定めた。
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前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り首尾一貫(しゅびいっかん)して1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているために【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、上記したように「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【論理的に合理】が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」では、下記のごとく指摘した。
魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)以前の、漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、220年において、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、
魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記した「銀河の中心・胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河」を、これから以後は「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

すぐ前のページにて「220年に、後漢の献帝(けんてい)から禅譲(ぜんじょう)をうけて、魏の曹丕(そうひ・文帝)が帝位についた」と指摘(してき)した――その「220年の元号」は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号は――漢は赤の火徳によって天下を治めたゆえ、当時の五行説(ごぎょうせつ)では「火」の次は「土」とされ、この「土徳」の色は「黄色」とされていたため――「黄色の初め」すなわち「黄初」という元号となった。

しかし、「黄初」という元号は、上記したように、漢の赤の火徳の次を意識した元号名であるが、
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事をも意識して「魏が天下を治める」と表示するものでもあった。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」は――208(漢の建安十三年)に蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が、赤壁(せきへき)の戦いで魏の曹操(そうそう)を大破(たいは)し、天下三分の大勢(たいせい)となった以来の3世紀の黎明における東南の地平線から昇る「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」に近似(きんじ)していたからである。
ゆえに、魏の220年の「黄初」という元号は、「天下三分の大勢となった、この黄色い土徳の黎明の時(初期)に、魏が天下を治めることを誓う」と表示するものであったと考えられる。

◆下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における、天の北極と春分点の位置を求めて、
「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)することが明らかになる。
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したがって、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していたと考えられる。
つまり、「黄武」という元号をもって「呉は黄帝軍の強大な武力を有して天下を治める」と誓いを立てたにちがいない。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。

呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であったからである。
当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていた。
このため――呉との軍事同盟が知られると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされて燕は滅亡すると、公孫淵は考えたと推測(すいそく)される。

上記したように、呉の孫権は燕の公孫淵が呉との同盟を拒否したのは、倭人国が燕の背後の脅威となり、魏と倭人国の軍に挟み撃ちにされて燕は滅亡すると恐れたからと推測したにちがいなく、
孫権は東鯷人国(とうていじんこく)が倭人国の背後が脅威となるように――倭人国の隣国の東鯷人国遠征を決意した。
この呉軍の遠征は、広大な太平洋を横断して日本列島に到着しなければならない。
だから、孫権が並々(なみなみ)ならぬ決意でおこなわれた東鯷人国遠征は公孫淵の同盟拒否の原因は燕の背後の脅威の倭人国にあると推定したにちがいなく――天下を手中に入れるためにはどうしても燕を天下二分の呉・蜀連合軍側に引き入れる必要があるということで、倭人国の背後の脅威となる東鯷人遠征を決行したと考えられる。

230(黄竜二年)、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国における夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。
おそらく、呉の遠征軍の大型船による漕()ぎ手の力では、呉軍の大型船は台湾沖の黒潮(くろしお)に押し流されて横断できなかったのであろう。
ゆえに、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅して、大失敗した。
遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は再度の東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。

◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する記事がある。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
ゆえに、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
上記したように、当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――つまり、「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたときに、魏軍を助けて倭軍も出兵(しゅっぺい)し・共に戦う軍事同盟」を意味するものであった。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と記述されてるが、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかった。
しかし、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため――魏軍のエースの司馬懿が留守(るす)し、また魏都洛陽には兵は手薄(てうす)になって防衛戦力が弱体化していたにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を一気(いっき)に襲撃すれば魏は滅亡する可能性があった。
しかし、孫権は――名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には何か秘策(ひさく)を企(たくら)み、大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない。ゆえに、呉・蜀の連合軍が一気に洛陽を攻めれば多数の兵を失って窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になった孫権は呉・蜀の連合軍を待機させて洛陽を攻撃しなかった。

◆前述したように――238年より18年前の220年、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫(せま)って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は【黄初】であった。
魏が毌丘倹(かんきゅうけん)を最高責任者に任命して237年に開始した燕の公孫淵討伐は【景初元年の夏】であった。
毌丘倹の公孫淵討伐は失敗したため、翌238年に司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
司馬懿の軍は、【景初二年の六月】には遼東(りょうとう)に到着していた。
司馬懿の軍が遼東に到着した同じ【景初二年の六月】、倭人国が派遣した使節・難升米(なしめ)一行は帯方郡に到着していた。
そして、【景初二年の十二月】には、難升米一行は卑弥呼に与えられる「親魏倭王(しんぎわおう)」の爵位(しゃくい)と金印紫綬授与の約束をとりつけている。
難升米一行はすぐに帰国の途()につかずに魏都洛陽に長期滞在(ちょうきたいざい)して、重病で面会できない明帝に面会したごとく見せかける偽装工作(ぎそうこうさく)に参加している。

これらの経緯(けいい)には――司馬懿が公孫淵討伐の作戦にあって呉の孫権の動きを様々に推理しながら、公孫淵討伐を用意周到(よういしゅうとう)・綿密(めんみつ)な戦略のもとにおこなわれた一面があらわれている。
その証拠に、魏の曹丕が献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、司馬遷(しばせん)著『史記』に記述された【最初の禅譲】は、夏本紀(第二)に記述された「帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期(かだいれいめいき)の歴史である。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
ゆえに、司馬懿は『史記』夏本紀(第二)に記述された【益が啓に禅譲した歴史】について知っていたはずである。
この帝益の先祖がなしとげた第一の功績は「天球上(てんきゅうじょう)において太陽が一年間に通過する道――つまり、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置(そくりょうそうち)の発明」であった。
この益氏の先祖が発明した「黄道の測量装置」によって、【景】の字源・原義が成立した。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景】の字源について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、「地上千里にして日景に一寸の差があるという――と指摘(してき)する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における前者の「日景を正して、以て地の中を求む」という文を具体的に説明すると、

「夏代黎明期、帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置によって地面に正確に図化された【夏の銀河像】は西北の地平線下に潜(もぐ)る形状」であった。
また、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における後者の「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明する文を具体的に説明すると、
「五帝時代の4番目の帝王に就任した堯代初頭(ぎょうだいしょとう)において、夏代黎明期に帝位についた帝益(ていえき)の先祖の益が発明した黄道(こうどう)の測量方法と測量装置で明らかになった、その日の正午に南中(なんちゅう)した太陽はその翌日の正午に南中するまでの時間はちょうど一日ではなく、一日よりわずかの時間(数分)短い事象(じしょう)」を指していた。

下に、「黄道」、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道の大円(大きな円軌道)」が「天の赤道」と2327分の傾きで交わる図を配した。
下図における「黄道の大円の一日の目盛り」は「その日の太陽が正午に南中(子午線通過)してから翌日の正午に南中する時間」は、今日の時間でいうと「24時間ではなく、4分短い23時間56分で一周していること」になる。
この事象を、『周礼』の〔大司徒〕は「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明した。
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◆下に配した【夏】の金文形は、上記した【景】の字源・原義の秘密を伝えていた。
下図に示すように、【夏】の金文形は「ぎょしゃ座とおうし座」を象(かたど)り、【夏代黎明期における春分点は、おうし座のα星の西となりに所在した。】
この「ぎょしゃ座とおうし座」を図案する【夏】の金文形は異彩(いさい)を放(はな)ち、個性的で印象ふかい形をしている。
というのも、【漢字の字形】は【夏の銀河各部の形状】を図案するが定式(ていしき)であるにかかわらず――この定式をまもらず下図の【夏】の金文は〔星座の形〕を図案するからである。
〔星座〕を図案するものは、「へびつかい座とヘルクレス座」を図案する【道】の金文形の二例のみしか、わたくしは知らない。
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上記したように、益氏の先祖は五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に「黄道の測量方法と測量装置」を発明したと考えられる。
下に、「帝堯代における秋分の日の午前〇時の天文図」(夏至の午前6時・冬至の夕刻6時・春分の日の正午の天文図)を配した。
下図に示したように、帝堯代には、上図の【夏】の金文形の字源「ぎょしゃ座とおうし座、そして春分点が南中(なんちゅう・子午線通過していた)
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上図が示しているように、秋分の日の午前〇時には【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬()かる春分点」が「春分の日の正午における太陽の南中高度」に合致して位置した。
このときの【大半の夏の銀河の姿】は西北の地平線(つまり、地の中)に潜(もぐ)っていた。

下図は、帝禹が生存した夏代黎明期(かだいれいめいき)における、【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬かる春分点が春分の日の正午の太陽の高度と合致する天文図」である。
下図に示すように、上図の「帝堯代初頭における秋分の日の午前〇時の天文図」と同様に、「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時における【大半の夏の銀河】」もまた地の中に潜っていた。
ゆえに、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と解説した。
帝禹が発明した日景測量、つまり「日々【夏の銀河の各部位】を測量する方法と測量装置で地面に図化した【夏の銀河像】」は、
下図のごとく、「その大半が西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であった。
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帝禹(ていう)が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した夏代黎明期より約400年前に、帝益(ていえき)の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明していた。
ゆえに、帝禹が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した紀元前2080年頃? 【黄道の大円における一日の目盛り】は、つまり「その日の太陽が正午に南中してから翌日の正午に南中するまでの時間は一日よりわずか短い事象」は解明されていた。

これゆえ、上図の「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」において「南中した【夏】の金文形(ぎゃしゃ座とおうし座を図案する金文形)」は、
『周礼』の〔大司徒」の【景】の「日景を正して、以て地の中を求む」や「地上千里にして日景に一寸の差があるという」とする字源解説とともに、【景】の字源・字義を伝える役割を有することになった。

前述したように――魏の公孫淵討伐が開始された237年の魏の元号は――【景】に【初】が加わる【景初】であった。
しかも、毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者に就()いておこなわれた公孫淵討伐の開始は、【夏】をあらわして【景初元年の夏】であった。
また、毌丘倹の公孫淵討伐が失敗したため、司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。

このような【景初】という元号の【景】の字源に、夏代黎明期に生存した帝益が密接に関係した。
前述したように、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、
司馬遷著『史記』に記述された【最初の禅譲】は夏本紀(第二)に記述された「帝益が帝禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期の歴史であった。
ゆえに、「景初」という元号の「【景】の字源にもとづいて決行された毌丘倹の公孫淵討伐の初め(開始)」は――金文形の【夏】の字に因(ちな)んで【景初元年の夏】と決めたにちがいない。
毌丘倹が公孫淵討伐に失敗したため、「司馬懿による公孫淵討伐」は――【景】の字源にもとづいて、上図の【夏】の金文形となった「ぎゃしゃ座とおうし座」が、帝益が禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲した夏代黎明期における春分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)した高度(位置)」に因み、「景初二年の【春】」と決めたにちがいない。

なお、参考までに、下に「卑弥呼が生存した3世紀の三国時代の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図に示すように、3世紀の【夏】の字源「ぎょしゃ座とおうし座」は、春分の日の正午の太陽の南中高度には位置していなかった。
ゆえに、「景初」という元号の由来(ゆらい)にはならなかった。
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以上のごとく、【景初】という元号は――夏代の初め(黎明期)、その先祖が【景】の字源となった「黄道の測量方法と測量装置」を考案した益氏の子孫の帝益が禹の息子の啓へ禅譲した、その歴史に因(ちな)んで決行された」とあらわしている。

◆前述したように――【呉の黄竜元年(229)】、帝位についた呉の孫権は、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否された。
【翌黄竜二年(230)】、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国(とうていじんこく)に遠征(えんせい)させた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)して、遠征は大失敗した。
この【黄竜】という元号は――前述したように「夏の銀河における【巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河】が地平線の東南から昇る光景は、黄帝時代と229年・230年は相似する」とあらわしていた。
ゆえに、公孫淵討伐が決行された【魏の景初】という元号について――司馬懿は英才(えいさい)・孫権ならば、【夏代黎明期と229年・230年の黎明(れいめい・夜明け)に、「夏の銀河」が東の地平線が昇る光景は相似する様子】をあらわすという知識を必ず有していると推定して――司馬懿は、「孫権は一気に魏都を攻撃しない」と推理して公孫淵討伐の戦略を組み立てたにちがいない。
言いかえると、司馬懿は――孫権は益氏(えきし)が移住した地は倭人国であろうと推定し、この推定と共に夏代黎明期の歴史を利用して――公孫淵討伐の作戦を企(くわだ)てたことになる。

魏の景初元年(237)・景初二年(238)当時――孫権は230(黄竜二年)における、一万の水軍を日本列島の倭人国の背後の東鯷人国に遠征させて台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅した作戦の大失敗に精神的に大ショックをうけて・トラウマになっていたにちがいない。
このため、孫権は倭人国が使節を派遣して魏と結ぶ軍事同盟に過度(かど)に反応(はんのう)して、用心(ようじん)深く・慎重(しんちょう)になりすぎたため――司馬懿が大軍を率いて兵が手薄(てうす)になって留守(るす)にした魏都洛陽を孫権が一気に攻撃する動きを封(ふう)じるに大いに役立つことになったのである。
こういう次第(しだい)であったゆえ、孫権は天下二分の呉・蜀連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃しなかった。

◆『史記』を著作した司馬遷(しばせん)は、「太史公(たいしこう)」と称(しょう)された。
ゆえに、今日『史記』と呼ばれる歴史書の書名を、司馬遷は『太史公書(たいしこうしょ)』とした。
三国時代以後、『太史公書』は『史記』と呼ばれることになった。
「太史公」は現代風にいうと「歴史局の長・総裁(そうさい・トップ)」を意味した。

しかし、世間では「太史公」は「星占い、つまり占星(せんせい)の長」であると思われていた。
というのも、司馬遷の父の司馬談(しばだん)は占星術と易学を熱心に研究していたからである。
しかし、当時における「占星術と易学」は〔「夏の銀河各部の形状」から文字を作成した【倉頡の文字作成理論】の研究を隠蔽(いんぺい)する方法〕であった。
【倉頡の文字作成理論】は国家・王朝が最も厳重(げんじゅう)な機密であった。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論】を世間が知るように研究すると本人はもちろん家族あるいは一族まで死刑となった。
だから、「占星術と易学の研究」という名のもとに偽(いつわ)って、司馬談は【倉頡の文字作成理論】を熱心に研究したのである。

司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)には、倉頡や【倉頡の文字作成理論】について1字も記述していない。
しかし、司馬遷は、倉頡の歴史や【倉頡の文字作成理論】に精通(せいつう)していた。
ゆえに、倉頡についての説明は書き出すと詳細になって国家・王朝が最高の大罪(たいざい)とする【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する行為】まで深まってしまうのを自重(じちょう)して――司馬遷は『太史公書』つまり『史記』が焚書(ふんしょ)される、つまり反逆の書とされてすべて燃やされてしまうのをふせぐために、倉頡について1字も記述しないことにしたにちがいない。
紀元前126年に二十歳になった司馬遷は、真っ先に中国南方の淮河(わいがわ)・長江の地域に旅した。
この淮江への旅は、【倉頡の文字作成理論の研究・学習】を目的にしたにちがいない。
司馬遷は淮江からはじめて中国のほとんどの全域を周遊(しゅうゆう)し、民情に接し、様々な史蹟を見学している。
これらの旅も【倉頡の文字作成理論の研究・学習】が目的であったにちがいない。
というのも、【正しい歴史書を著作するため】には、どうしても【倉頡の文字作成理論を研究し・学習する必要】があったからである。

◆司馬懿(しばい)は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
だから、司馬懿は『史記』に精通していたゆえ、五帝本紀(第一)・夏本紀(第二)はじめ陳杞世家(ちんきせいか・第六)の「帝王になった益の子孫は中国のどこの地に封ぜられたか不明である」という記事についても知っていたにちがいない。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であるゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

司馬懿は魏軍のエースにしてトップの長であった。
ゆえに、倭人国から帯方郡、帯方郡から魏都へ送られた倭人国からの文書は司馬懿の手元に届けられ集められた。
だから、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は――公孫淵討伐より以前に送られていた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で魏が用いる楷書に書き代えた国書を読んで――「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する。益氏の子孫はおそらく倭人国に移住したと思われる」と察知したことになる。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」であったと記す。
「司馬懿」と「邪馬壱」の3字は、両者の先頭の字は【司】と【邪】と相違するが、次の【馬懿】と【馬壱】はほぼ同じである。
つまり【懿】の偏は【壹()】であるゆえ、「邪馬壱国」の後ろ2字「馬壱」の【壹()】と同じとなる。
したがって、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、【壹()】の字源は「十字の銀河の子宮。または女性の生殖器官の骨盤・子宮・産道」であると知っていた。

倭人国から大海を越えて帯方郡や魏都に到着する倭人国の使者たちが必ず「大夫(だいふ)」と名乗る
ゆえに、司馬懿は「大夫」の意味について興味を抱き研究した――あるいは倭人国の使者たちから聞きただして、「大夫」は「夏代黎明期、益氏の王子と若者たちが荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて倭人国に到着した。その大海を越えて吾は帯方郡や魏都に到着した」と倭人国の使者たちが自画自賛(じがじさん)する語であることを知ったにちがいない。
『万葉集』の「大夫」は「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と記す。
ゆえに、「大夫・益荒男」は「中国から荒波逆巻く大海を渡って日本列島に定住した益氏の王子と若者たち」をあらわす語であったことになる。

◆前記したように、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」と指摘する。
このような【景】の字の解説は、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、すなわち「黄道の大円」について説明している。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「地上千里して日景に一寸の差があるという」という解説を、
〔現代における時間の分〕に換算(かんざん)すると、1(黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×241440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
このように4分短いのは地球が太陽のまわりを回っているために起()きる。
この一日4分ずつ短いずれは、一年すると前年の初めの位置にもどって360度の大きな円形となる。

『周礼』は紀元前11世紀に生存した周公旦(しゅうこうたん)が作ったと指摘されていたが、現在では戦国時代末期に成立したと考えられている。
『周礼』には「周王朝の文物・習俗・政治制度」について記述され、戦国時代以後の儒者(じゅしゃ)たちにとって理想的な制度とみなされた。このため、後漢時代や三国時代には『周礼』に通じる人々も存在し、あるいは研究する人々もいた。また、『周礼』は古来の学術や文学などを研究する人々にとって重要な経典(きょうてん)であった。
前ページに示した「ぎゃしゃ座とおうし座に漬かる、春分点」をあらわす【夏】の金文は周代に出現した古代漢字であり、上記した【景】の「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」字源解説の出典『周礼』の〔大司徒〕は、周代の文物・習俗・政治制度について説明する経典であった。
これゆえ、三国時代において『周礼』は人々に注目されていた経典であったゆえ、司馬懿も『周礼』を読んでいたにちがいない。
ゆえに、前述したように、司馬懿は【夏】の金文形「ぎゃしゃ座とおうし座」の秘密と、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説の秘密について精通していたにちがいない。

◆下図に示すように、邪馬壱国だ・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の足摺岬(あしずりみさき)を貫通している。
「足摺岬」の別称は「蹉跎岬(さだみさき)」である。
『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」になった――と説明する。
「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。
【馬】の字源「フタコブラクダ」の歩き方は「側体歩(そくたいほ)」といって「同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」。
このような「フタコブラクダの側体歩」はあたかも「フタコブラクダがつまずいて転ぶかのように観える」。

上図に示した東経133度が佐太神社の門前を貫通する様子をあらわした「古代出雲の地宜(ちぎ)」における右上には――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)に、「邪馬壱国」のうちの【邪馬】をあらわす「神門水海(かんどのみずうみ)」が所在した。
この「神門水海の地宜」は「出産した直後に両足で立たんとする【馬】・フタコブラクダの子どもの姿」に相似する。
「神門水海」における「フタコブラクダの前足は短く、後ろ足が長い」ゆえ、その様子は「つまずいて転ぶ」ことになる。
また、「宍道湖」は「片足の形」に相似するゆえ、「片足ではつまずいて転ぶ」ことになる。
このように、邪馬壱国の「神門水海」と「宍道湖」は「つまずいて転ぶ」という「蹉跎」という語をあらわした。

以上のごとく、烏奴国(あなこく)・高知県の蹉跎岬・佐太岬と邪馬壱国・島根県の佐太神社の門前を通過する東経133度は【景】の字源・原義をあらわした。

◆【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
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前述したように、「司馬懿」という名は先頭の【司】と【邪】の字は異なるが、後ろの【馬壱】と【馬懿】はほぼ同じである。
ゆえに、司馬遷の子孫であるゆえ【倉頡の文字作成理論】に精通していた司馬懿は自分の名に用いられる【懿】の字源、また【壹】の字源について熟知(じゅくち)していたにちがいないので――「邪馬壹()国」という名に用いられる【壹】の字源は「十字の銀河の子宮」であり、
しかも、上記したように、彼は「十字の銀河の西端から東端まで」は【景】の字源となることを知っていたにちがいない。
このような事情から、237年の魏の元号は司馬懿の意見にしたがって、明帝は【景初】と定めたにちがいない。

司馬懿は、249年にクーデターを起こして魏の実権を掌握(しょうあく)した。
2年後の2519月7日に、司馬懿は死去した。享年(きょうねん)73歳であった。
265
年、魏が滅び、司馬懿の孫の晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)が、武帝と称した。
280
年、武帝が天下を統一して、西晋(せいしん)王朝が創設された。
このような経緯から、司馬懿は、西晋の礎(いしづえ)を築いた人物とされた。

前述したように、司馬懿は『魏志倭人伝』に記述されていた【倭人国から送られた国書】を読んで「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を詳細に知っている」と察知し、
司馬懿は「【倭人国の国書】は中国にとってもきわめて重大にして貴重な学問書である」と認識(にんしき)して大事に保管(ほかん)した。
ゆえに、西晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)に任命された陳寿(ちんじゅ)は、西晋王朝に秘蔵(ひぞう)されていた【倭人国の国書】を閲覧(えつらん)して、
武帝(司馬炎)が治める太康年間(たいこうねんかん・280年~289)に完成させた『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』の作成資料として【倭人国の国書】を書き写して年代順にならべて記したことになる。
よって、国家と王朝が最も厳重な機密(きみつ)にして独占管理して書物に直接的に詳細に正確に記述することを厳(きび)しく禁止していたがゆえ、
中国では誰(だれ)一人も【倉頡の文字作成理論】を詳細に・正確に・組織的に説明する書物を作成すれば焚書(ふんしょ)され抹消(まっしょう)されたがために残さなかった【倉頡の文字作成理論】が詳細に・組織的に・論理が成立して説明される、きわめて希少価値(きしょうかち)の高い『魏志倭人伝』が残ることになったのである。

以上からして、名将・司馬懿は【倭人国の国書】を読んで【景初】という元号の基(もと)に孫権対策と公孫淵討伐の作戦を綿密(めんみつ)に立て、この戦略を明帝に意見を具申(ぐしん)して、公孫淵討伐を決行したと考えるべきことになる。

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2024年8月22日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・26

「鬼」と「食料」に関する大和近隣の志摩・伊賀・紀伊の小国名を解明する

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
「夏の銀河」のほかに、もちろん「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」も存在する。
しかし、「夏の銀河」が「もっとも印象的な、各部の形状なもっとも明確な、迫力にみちた銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
ゆえに、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であった。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国(つしまこく)から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」、
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」。

◆このブログでは――前回の「漢字の起源と発明を解明す・25」までにおいて、
卑弥呼が定めた最初の対馬国から数えて20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、すべての小国名に用いられる文字の字源・原義と各小国名の地宜(ちぎ)が理にかなって合理であることを詳細に解説して証明した。
このような「20ヵ国すべての小国名と地宜との関係において、まったく矛盾点が存在しない系統的な合理」が成立するのは、卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各小国名において前後の関係が共通項(きょうつうこう)で統一されるように配慮(はいりょ)していたからである。
今回のこのブログでは、(C)「【倭】の字源における男性グループ」のうちの、
対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」・22番目の「為吾国(いがこく)」・23番目の「鬼奴国(きなこく)」・24番目の「邪馬国(やまこく)」の4小国名に用いられる文字の字源・原義は、4小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)とすべて理にかなっていることを解説して証明する。
したがって、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国」という4小国名を定めたことになる。

下図に示すように、卑弥呼は対馬国から21番目の小国「現在の三重県南部、旧国の志摩(しま)」を「鬼国」、22番目の小国「現在の三重県北西部、旧国の伊賀」を「為吾」、23番目国となる「現在の熊野を除く和歌山県、旧国の紀伊西部」を「鬼奴国」、24番目国となる「現在の奈良県、旧国の大和」を「邪馬国」という小国名に定めた。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう〔各小国名は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて定められているという解説〕が煩雑(はんざつ)にならずに容易・明確にするためには、【夏の銀河の各部】に名称をつける必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、「鬼の姿に似る銀河」がある。
わたくしは「鬼の姿に似る銀河の東部」を「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
下図に示すように、【鬼】の金文形(周代に出現した字形)は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)・後頭部」と国際天文学で「北アメリカ星雲」と名づけられた星雲を包囲する「コールサック」と呼ばれる「暗黒天体部を細長く狭く長方形に区切った部分」が【鬼】の字源銀河となった。
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上図に示したように、「北アメリカ星雲」に隣接する銀河を、わたくしは「長方形の暗黒天体部」と名づけた。
 「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの東の端」ということになる。
【鬼】の金文形の上部は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)から後頭部」を図案し、【鬼】の金文形の下部は「北アメリカ星雲を包囲する細長く長方形」に区切る。

下図に示したように、「耳」のイラストを加えた箇所は「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀部河となる。
「北アメリカ星雲」も「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀河部となる。
下図に示したように、「【鬼】の金文形上部」は「飢()えてやせて小さくなった顔」をあらわす。
そして、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開く目の形をした銀河部と、鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部」は「餌が無く飢えたときの、弱い鷹(たか)の雛(ひな)と同じ巣に棲()む強い鷹の雛(ひな)の両目」をあらわした。
「飢えた強い鷹の雛は同じ巣に棲む弱い雛を餌(えさ)にする」。
ゆえに、「【耳】、すなわち弱い鷹の雛を食べる」ということで、【食】に【耳】を加えた【餌】の字義は「えさ」となった。
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上図における「北アメリカ星雲の色」は、下のカラー写真に示すごとく「血のごとく、真っ赤」である。
だから、「北アメリカ星雲」は「強い鷹の雛の餌となる弱い雛の、血で真っ赤にそまる死体」に見立てられた。
下のカラー写真における左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
下のカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
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下に、対馬国から21番目の小国「鬼国(きこく)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」を配した。
「鬼国」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」であった。
下図に示したように、「志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。
そして、「志摩の英虞湾(あごわん)周辺の地宜」は「餌を食べる鷹のくちばしと口の形」に相似する。
したがって、「志摩の地宜」は「哺乳類(ほにゅうるい)・鳥類・爬虫類(はちゅうるい)・両生類・魚類などの餌を肢(あし)のするどい爪(つめ)でつかんで、くちばしでむしりとって食べる鷹の横顔」に相似する。
また、「志摩の地宜」は「弱い雛を餌にして食べる強い鷹の雛の横顔」にも相似する。
だから、「志摩の地宜」は「鬼(かみ)が支配する自然界における冷酷で厳(きび)しい弱肉強食の法則」をあらわしているということで――卑弥呼は「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。
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712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』は、上巻・中巻・下巻の3巻で構成される。
この【『古事記』の序】は「上巻・中巻・下巻の3巻の【序】」ではない。
【『古事記』の序】は「上巻だけの【序】」である。
【『古事記』の序】は「上巻のみの【序】である」ため、【古事記上巻 并(あわ)せて序】と表記された。
『古事記』上巻のみの随所に〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記されて残る。

【古事記上巻 并せて序】は「夏音文字の伝来と習得や、夏音文字は夏の銀河各部の形状から作られた秘密や、夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にしたがって作成された秘密など」をきわめて難解な文章で解説している。
というのも、「夏音文字」は「朝廷が栄えるための政権基盤であった最高学問であったため、その学芸知識が容易(ようい)に理解できるように説明すると反体制側の人々に習得されて革命に利用されれば朝廷は滅亡すると心配された。だから、朝廷と国家は厳重に独占管理して、その秘密を容易に理解できるように説明する者はじめ、その家族および一族全員をも死刑にすると定められていた」。
これゆえ、【古事記上巻 并せて序】はきわめて難解な文章で構成されることになった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に具体的に解説して証明したように、
【古事記上巻 并せて序】冒頭の「臣安万呂言(しんやすまろまを)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの文章を要略すると、下記のごとく説明していたことになる。
「元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。わが国では前期縄文時代初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代初頭までの約2000年間の参時代、夏の銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造っていました。この縄文参時代における土器・土偶を造る芸術(造化)の神の伝統にもとづいて、後期縄文時代初頭に、中国から大海を越えてわが日本列島に渡来して定住した名門益(えき)氏が教え広めた夏音文字の学芸を習得しました。」

【古事記上巻 并せて序】の前半部に、「天武天皇と『古事記』撰録(せんろく)の企て」に関する記事がある。
この箇所の末部には、下記の記事がある。
「時に舎人(とねり)有り、姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是()れ廿八。人と為()り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す。即(すなわ)ち阿礼に勅語(ちょくご)して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞(きゅうじ)とを誦み習はしめたまひき。然(しか)れども運(とき)移りて世異(よかは)りて、未だ其の事を行ひたまはざりき」

上記の後半の「即ち阿礼に勅語して」という文から最後までの記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「そこで天武天皇は稗田阿礼に命令されて、帝皇の日継(天皇記)と先代の旧辞(『古事記』上巻の原書となった、夏音文字で書く上古史書)とを誦み習得(復興)させることにした。しかしながら天武天皇は崩御(ほうぎょ)され、時勢は移り変わって、いまだその撰録の事業は完成していません。」

上記した記事前半の「時に舎人有り」から「耳に払るれば心に勒す」までの記事を、
図にすると、下図のごとくなる。
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上図が示しているように、
(
)「十字の銀河」は「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」に見立てられた。
(
)「鬼の横顔に似る銀河のおける、十字の銀河を見る両目と後頭部につく大きく見開く目・アゴにつく切れ長の細い目まで」は「目に度(わた)れば」と表現された。
(
)「鬼の横顔に似る銀河の口」は「口に誦み」と表現された。
(
)前ページにて【鬼】・【耳】・【餌】の字源解説において、「【耳】の字源銀河部位は、餌(えさ)となって存在しないこと」になった。
このため「耳に払るれば」、つまり「耳は払われて形が存在しない」と表現された。
(
)「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体の十字の銀河を見る、鬼の横顔に似る銀河の両目における【心(心臓)】に相当する箇所」は「心に勒す」と記された。

以上のごとく、【古事記上巻 并せて序】は朝廷と国家が独占管理して最も厳重な秘密とした「上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記される夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて夏の銀河各部の形状から作られた」と説明していたのである。

◆『魏志倭人伝』の卑弥呼が定めた34の小国名もまた朝廷と国家が最も厳重な秘密とした「【倉頡の文字作成理論】にもとづいて、夏の銀河各部の形状から作られた文字の字源・原義」を説明するものであった。

対馬国から数えて22番目の小国は「為吾国(いがこく)」である。
「為吾国」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」であった。
古語において――「為吾国」の【吾】の字は「あ」または「あれ」と読み、「男性の一人称、俺(おれ)」を意味した。
下図における右側に配した「伊賀の地宜」と左側の「鬼の横顔に似る銀河の形」は、共に【吾】の「男性の顔の形」に相似する。
また、下に示した右図の「伊賀の地宜」は左図の「頭に角(つの)を生やす、鬼の横顔に似る銀河の形」に相似する。
〔なお、「伊賀の地宜」が「鬼の横顔に似る銀河の形」に相似すると容易に見立てることが察知できるように、下図の左側の銀河図の定式は〈右西・左東〉であるが、地図の一般形式に合わせて〈右東・左西〉にあらためた。〕
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「為吾国」の【為()】の字義は「ため。なす。つくる」ではなく、【偽()】の「まねする。いつわる」であった。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は、「長い鼻を有する象(ゾウ)の姿に相似する。
「象る」は「かたどる」と読み、「物の形をまねる。物の形に似せて作る」と意味する。
下図における「北アメリカ星雲」は「象の鼻と横顔の形」に相似する。
ゆえに、「北アメリカ星雲」が【為】・【偽】の字源銀河であった。
つまり、「北アメリカ星雲」は「象る(物の形にまねる。物の形に似せて作る)」の語源でもあった。
下図における「激流の銀河」は「大雨が降って洪水し、河川が氾濫(はんらん)して早瀬(はやせ)の水のごとく渦巻き瀧(たき)つあふれる急流」に酷似(こくじ)する。
だから、「激流の銀河」は「洪水・氾濫の河川の水の渦巻きあふれる形状に似せてまねる」ということで【偽】の字源となった。
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下図に、約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の状況を示した。
下図に示すように、中国南部の長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の中央)を「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目の中央」を貫通していた。
下図に名称を記さなかったが、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い目」の西となりは「北アメリカ星雲」である。
下図に示すように、「北緯3130分の長江口中央の緯度線」は「北アメリカ星雲の南部」をも貫通していたことになる。
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上図より前にて解説した「【偽】・【為】の字源銀河図」において、「北アメリカ星雲」は「象の横顔・鼻の形」に相似すると見立てられ――この「象の・鼻の形」から連想して【為】の契文形は「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全横顔身の形」に象(かたど)られた。
下図に示すように、長江口(北緯3130)の真西には「太湖(たいこ)」が所在する。
黄帝時代において「北アメリカ星雲の南部」が「太湖の北端(北緯3130)」の天頂にめぐってきた。
「太湖の地宜」は【為】の契文形と同じ「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全身の形」となる。
ゆえに、【為】の契文形の字源銀河「北アメリカ星雲」が「象の全身の形」に象られた、その事情は「北アメリカ星雲」を「太湖の象の全身の地宜に見立ててまねするもの」であったことになる。
【為】の契文形となった「北アメリカ星雲の鼻」は「激流の銀河のある南」の方に伸びる。
いっぽう、下図の「太湖における象の鼻」は「東」の方に伸びる。
だから、()【為】の字源銀河「象の鼻と横顔の北アメリカ星雲は太湖の象の全身の形」と異なり、
また、()「北アメリカ星雲の象の鼻は南に伸びるが、太湖の地宜の象の鼻は東へ伸びて」両者の形が異なるゆえ――「象の全身の姿」を象る【為】の契文形は【偽】の「いつわる」という字義を有することになったのである。
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上記したように、小国名「為吾」は「偽の吾(俺の顔)」ということになるゆえ、「頭に角(つの)を生やす鬼に似せて作る仮面をかぶる男性の顔()」を意味した。
下に示すように、「冬の銀河」に漬()かる「ぎょしゃ座とおうし座」が【夏】の金文形になった。
下図に示す「おうし座アルファ星」の西となりの「春分点」は、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して夏音文字を教え広めた紀元前2050年頃~紀元前2000年頃における春分点である。
下図の【夏】の金文形のごとく星座の形が字源になった事例はきわめて少なく――おそらく下図の【夏】のほかに【道】の「へびつかい座とヘルクレス座」の二例のみであろう。
下図の「ぎょしゃ座とおうし座」を字源とする【夏】の金文形は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」を表現している。
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下図に示すように、上図の【夏】の金文形における「鬼の仮面をかぶる顔(ぎょしゃ座)の部分の形」は「為吾国・伊賀の地宜」に相似する。
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だから、上記したように、小国名の「為吾」は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の顔」をあらわした。
その「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」は、上記したように【夏】の金文形「ぎょしゃ座とおうし座の形」をもって表現された。
というのも、上図に示したように、わが国が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を習得した後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)における春分点は「おうし座のα星の西となりに所在した」からである。
だから、【夏】の金文形が示すように、小国名の「為吾」は「夏でも春のごとく涼しい森林深き山国」と意味するものであったにちがいない。
その証拠に、「為吾国、旧国の伊賀」は「鈴鹿(すずか)山脈や室生(むろう)火山群などで周囲を山で囲まれている」。

『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が「其の俗、正歳四節(せいさいしせつ)を知らず、但(ただ)し、春耕(しゅんこう)・秋収(しゅうしゅう)を計って年紀を為()す」と説明する注がある。
つまり、裴松之は「倭人国では、春の耕作時を一年と数え、秋の収穫時を一年と数える、今日の一年を二年とする二倍暦であった」と指摘している。
この二倍歴にもとづいて、倭人国では春の耕作時と秋の収穫時において「豊かな食料の恵みを祈願・祝い感謝して男性が鬼の仮面をかぶって踊り舞う儀式」がおこなわれていた。
ゆえに、卑弥呼は「旧国の伊賀の地宜」から「春の耕作期と秋の収穫期に舞う鬼の仮面をかぶる男性の顔」を想像して、小国名を「為吾国(いがこく)」と定めたことになる。
上記したような為吾国における「鬼の仮面の、鬼」と「食料の儀式」が共通項(きょうつうこう)となって――対馬国から22番目国の為吾国の次となる23番目の小国は「鬼奴国」ということになった。

◆下図に示したように、対馬国(つしまこく)から数えて22番目の「為吾国(いがこく)」に隣接(りんせつ)するのは24番目の「邪馬国(やまこく)」である。
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番目の次の23番目の「鬼奴国(きなこく)」は、24番目国の「邪馬国」を飛び越えて23番目国となる。
というのも、「22番目の為吾国の地宜」と「23番目の鬼奴国の地宜」は「鬼」と「食料」が共通項(きょうつうこう)となるが――「邪馬国の地宜」は「鬼の形」となって共通しないために――卑弥呼は「邪馬国」を23番目国ではなく24番目国としたことになる。
そして、「23番の鬼奴国の地宜」と「24番目の邪馬国の地宜」は「食料」と「王者の風格」という点で共通する。
だから、卑弥呼は「為吾国」を22番目国、「鬼奴国」を23番目国、「邪馬国」を24番目国とした。
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下図に示すように、23番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」である。
前ページにて詳細に解説して証明したように「鬼国・志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。ゆえに、【鬼】は「鷹」を意味したゆえ、小国名の「鬼奴」の【鬼】も「鷹」を意味した。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」の小国「姐奴国(つなくに)」と「華奴蘇奴国(かなさなこく)」において詳細に解説し証明したように、
小国名「鬼奴」の【奴】は「体を空中に浮かす強力な翼」を意味した。

下図に示すように、「鬼奴国、旧国の紀伊西部の地宜」は「鬼の鷹が大空高く強大な力を示す大きな翼で悠然(ゆうぜん)と飛翔(ひしょう)する姿」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の和歌山県西部」の小国名を「鬼奴国」と定めた。
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大型種の鷹()は食物連鎖(しょくもつれんさ)の最高位となる。
上図の「鬼奴国(きなこく)の地宜」が示す「大きな翼をひろげて悠然と大空高く飛ぶ鷹の姿」は「王者の風格(ふうかく)」をあらわして雄々(おお)しい。
(
)このように、地宜が「鬼()の仮面をかぶる男子の顔に相似する為吾国」と、地宜が「鬼()が大きな翼をひろげて大空を飛翔する、鬼奴国」は共に「鬼」で共通する。
(
)また、「為吾国の地宜が示す、顔に鬼の仮面をかぶって舞う男子の姿」は「食物が豊かに実るを祈願し、あるいは豊かな食物を祝い・感謝する儀式」であった。
また、「鬼奴国の地宜」に相似すると見立てられた「大きな翼をひろげて悠然と大空を飛翔する大型の鷹の姿」は「食物連鎖の最高位の風格」を示すことになった。
だから、前述したように、「為吾国と鬼奴国」は「食物(食料)」が共通項となった。

◆対馬国(つくしまこく)からの23番目国の「鬼奴国」の【鬼】は「食物連鎖の最高位の、大型種の鷹」をあらわした。
これゆえ、次の24番目国の「邪馬国(やまこく)」は「倭人国において最も豊かな食料に恵まれていた」と考えられる。
というのも、「鬼奴国の地宜」が示す「大きな翼をひろげて大空を悠然と飛翔する鷹の姿」が「王者の風格」をあらわすように、
「邪馬国の地宜」もまた「倭人国において最も豊かな食料に恵まれる王国の風格」をあらわしているからである。
だから、「鬼奴国と邪馬国」は「食物」と「王者の風格」で共通した。

『魏志倭人伝』は、対馬国から24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」であったと列記(れっき)する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の13回・19回・20回・21回にて詳細に解説して証明したように、
下図に示す「餌(えさ)の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、【邪馬】と名づけられた。
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上図の「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、
「今日の産婦人科における医学用語の【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨(ずがいこつ)が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわさることができる仕組み】をあらわす語でもあった。
というのも、「せまい産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」に酷似(こくじ)するからである。
だから、下図に示したように「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」もまた【邪馬】と名づけられた。
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上記したように、「食料の草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」は【邪馬(やま)】と名づけられた。
下図に示すように、「転回方位の、旧国の大和(やまと)、現在の奈良県の地宜」は【邪馬】の「食料の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の横顔」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の奈良県」の小国名を「邪馬国(やまこく)」と定めた。
下図の「奈良県の地宜が示す、【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子をあらわす。
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奈良県の大和盆地には多数の川が流れこみ、水量豊かな穀物の生育に恵まれていた。
ゆえに、邪馬国・大和は倭人国で最も食料(農作物)に恵まれた王国であったと考えられる。
このため、当時において最高の学術国であった首都の邪馬壱国・出雲地方よりも邪馬国・大和は豊かな経済で栄える王国であったであろう。
上図の「邪馬国・大和の地宜の、その【馬】のフタコブラクダの横顔」は「フタコブラクダのボスが泰然(たいぜん)・悠然(ゆうぜん)として草を食べる王者の風格」をあらわしている。
だから「邪馬国」は「倭人国で最も豊かな食料に恵まれた王国」であったにちがいない。
以上のごとく、「邪馬国」は「現在の奈良県、大和」であった。
したがって、「奈良県・大和」は「邪馬台国」ではなく「邪馬国」であった。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。
ゆえに、「邪馬台国」は最初から空想の世界へと迷いこんだ空理空論であり、ナンセンスきわまりない早合点(はやがってん)の錯覚(さっかく)であったことになる。

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2024年8月19日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・25

愛あざやかに蝶が舞う琵琶湖周辺の5小国の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と、【東南の地平線から「銀河系の中心方向周辺の銀河」が昇る黎明(れいめい・夜明け)の天文図の光景】をもって、喩(たと)え話(ばなし)にして説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・24」では、
最初の対馬国から数えて13番目の「弥奴国(みなこく)」は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」であったことを証明した。
また、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河」であったと証明した。
さらに、対馬国から15番目の「不呼(ふこ)国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であったと証明した。
上記の「弥奴国、好古都国、不呼国」の3小国は、(B)「【倭】の字源における女性グループ」に組する。

このブログでは、対馬国から16番目の「姐奴国(つなこく)」と、17番目の「対蘇国(つさこく)」と、18番目の「蘇奴国(さなこく)」と、19番目の「呼邑国(こおこく)」と、20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」の位置と範囲を解明する。
これら「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国」もまた、()「【倭】の字源における女性グループ」の5小国である。
これら「5小国の地宜の解説と証明」によって、()「【倭】の字源における女性グループ」に属する10ヵ国すべての小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわしている証明が完了する。

下の図に示したように――
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番目の「姐奴国」は「現在の福井県中・北部の敦賀市(つるがし)以北の、旧国の越前(えちぜん)」であった。
17
番目の「対蘇国」は「現在の岐阜県中・南部の、旧国の美濃(みの)」であった。
18
番目の「蘇奴国」は「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」であった。
19
番目の「呼邑国」は「現在の滋賀県であり、旧国の近江(おうみ)」であった。
20
番目の「華奴蘇奴国」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
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上記した19番目の「呼邑国」の【呼】の字源は「鳰(にお)」であり、現在の滋賀県・旧国の近江の「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
「呼邑国」以外の「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国」という4小国の名称は「蝶の羽化(うか)、成虫と蛹(さなぎ)、蝶の餌(えさ)となる草の華(はな)など」をあらわしている。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説して証明したように、15番目の「不呼国、現在の静岡県・旧国の遠江の浜名湖の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「花弁が集まる花冠(かかん)」に相似する。
したがって、「蝶は花(花冠)の蜜を餌」とするゆえ、
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番目の「花の地宜の浜名湖が所在する不呼国(ふここく)」に続く16番目の「姐奴国(つなこく)」は「背中に大きな羽根が生える、アゲハチョウなどの美しい蝶の形をした小国」であった。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「5小国名の範囲と位置の秘密」を解明するには、「蝶の成虫と蛹(さなぎ)に見立てられた銀河」を表示する必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「十字の銀河」の北となりのバック(背景)となる銀河と、「鬼の姿に似る銀河」の北となりの銀河を「羽根()の形」に相似すると見立てると――

下図のごとく、「十字の銀河」は「蝶の羽根の一部」と化し、「鬼の姿に似る銀河」が「蝶の成虫の体」となる。
また、「鬼の姿に似る銀河」のみだと、その形は「蛹(さなぎ)の姿」に相似する。   
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◆上記したように、15番目の「不呼国、遠江の浜名湖は、蝶が蜜を吸う花の形」に相似する。
ゆえに、16番目の「「姐奴国(つなこく)、現在の福井県中・北部の、旧国の越前の地宜」は「背中に大きな翼が生える蝶、アゲハチョウの成虫の姿」に相似すると見立てられた。
下に、「姐奴国の地宜」が「背中に大きな羽根が生えた美しく艶(あで)やかな蝶(チョウの姿に相似する様子」を図示した。
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これまでわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が詳細に解説し証明したように、「姐奴国」の【奴】の字源・原義は「ジャコウウシの強大な力」であったゆえ、要するに「強大な力」であった。
ゆえに、「姐奴国」の【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

「姐奴国(つなこく)」の【姐】の字は偏【女】に【且()】が加わって成立する。
【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな俎板(まないた)の初文(最初の文字)」である。
【且】の古代字形(契文形・金文形)には様々も異なる形があるゆえ、字源となった銀河や事物について決定することはできない。
しかし、「女性の背中は乳房や腹部の凹凸がある正面形と異なって、俎板(まないた)の食材をのせる面のごとく平らである」。
だから、【姐】の字は「背中が美しい妖艶な気っ風(きっぷ)のよい姐御(あねご)や、また豊かな乳房を有するたくましい母親」を意味することになったと考えられる。
上図に示した「姐奴国・越前の地宜における蝶の胸部は、たくましい母親の豊かな乳房の形」をしている。
ゆえに、『説文解字』は【姐】の字を「蜀(しょく)の人、母を謂()ひて姐といふ」と解説し、
白川静著『字統』は【姐】の字について「姉御(あねご)という」と解説する。

◆下の上図に示すように、「旧国の美濃(みの)の・東部の地宜」は「ジャコウアゲハの成虫の姿」におよそ相似すると見立てられ、
「美濃の西部の地宜」は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に相似すると解釈された。
ゆえに、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹が一対となる小国」、つまり「成虫と蛹の一対の国」を略して、卑弥呼は小国名を「対蘇国(つさこく)」と定めた。
「対蘇国」の【蘇】は「幼虫が死んだようになった蛹(さなぎ)から蘇(よみがえ)って成虫になる」を意味した。
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「美濃」は、「現在の岐阜県の中部・南部」であり、この県名の「岐阜(ギフ)」という名がつく「ギフチョウ」と呼ばれる「アゲハチョウ」が生息する。
【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣の【牛】の字源の「ジャコウウシ」と同じく「ジャコウアゲハ」は共に麝香(ジャコウ)の匂いがする。
この点からしても、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹の姿が一対となる小国」ということで「対蘇(つさ)国」と、卑弥呼は名づけたことになる。
〔注 ジャコウウシのオスとジャコウアゲハのオスが麝香の匂いがはなつが――ジャコウアゲハのオスの姿は人の男性よりも女性の姿に相似するというイメージのほうが強い。ゆえに、卑弥呼は対蘇国・美濃を「【倭】の字源における女性のグループ」に組するようにしたのである。〕

白川静著『字統』は【蘇】の字について、下記のごとく解説する。
――『説文解字』は「桂荏(けいじん)なり」とあり、紫蘇(しそ)の類であるとする。字は蘇息・蘇生の意に用いる。金文には国名に用い、字を穌に作る。その字形は、あるいは魚に桂荏などを加え、生気を保たせる意をもつものであるかも知れない。国名以外の古い用法がみえず、字義を確かめがたい。

上記のごとく、白川静著『字統』の【蘇】の字源解説は不明確である。
対馬国から15番目の「不呼国(ふここく)」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であった。
「遠江」の小国名【不呼】の「花の台(うてな)」に見立てられた「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の北東岸」には、「都田川(みやこだがわ)が上流から運ぶ土砂と水を外()く河口」がある。
下に、中央に「都田川」、右上に「引佐細江」を配した地図を示した。
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上図中央の「都田川流域(みやこだがわりゅういき)の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜(ちぎ)」は「子宮で育つ胎児」に、また「胎児が育つ子宮」に、あるいは「胎児が大きく育った出産児が通過する産道」に見立てられた。

大量の雨が降ると、都田川が氾濫(はんらん)して沖積平野一面が水に漬()かる。
洪水の水が引いてしばらくすると、都田川に魚が棲()みはじめ、禾(いね)科の草が沖積平野に繁茂(はんも)して蘇(よみがえ)り、また様々な艸(くさ)が繁茂して蘇生(そせい)する。
しかし、以前と同様に、沖積平野には小さな木が生えても、大木はほとんど生えない。
ゆえに、【蘇】の字には【木】の字が組しておらず――【蘇】の字は【艸冠(くさかんむり)】の下に【魚】と【禾】の字を加えて組織される。

つまり、漢字が起源した五帝時代初頭以来、鉄製の鍬が出現した古代まで――
わが国においては、中期縄文時代初頭(中国の五帝時代初頭)から3世紀中半の卑弥呼時代まで――河川の氾濫(はんらん)による洪水によって従来と同じ生活が再び維持(いじ)され、あるいは上流から肥沃(ひよく)な土が押し流されて豊かな実りをもたらすことになった。
つまり、洪水の後に従来と同様な生活が蘇生し、あるいはより豊かな実りを手に入れる幸運にも恵まれることもあった。
ゆえに、「様々な艸(くさ)が繁茂(はんも)して蘇生(そせい)し、川に魚がもどってきて棲()み、禾(いね)科の植物が川の流域の土地に繁茂して以前と同様の生活が蘇(よみがえ)る」ということで、【蘇】の字が成立することになったと考えられる。

中期縄文時代初頭(五帝時代初頭)から卑弥呼時代までにおいて、わが国においては、洪水・氾濫(はんらん)よりも日照り・旱魃(かんばつ)に苦しんでいたのである。
日照りが続いて乾いて堅く(かた)くなった田や畑の土を、当時の原始的な木製の鋤(すき)で耕す農作業は大変な重労働となった。
いっぽう、洪水に見舞われた土は泥状でやわらかいゆえ、当時の木製の鍬でもたやすく耕すことができた。
だから、上記したように「洪水で再びもとの生活がもどってくる」ということで、【蘇()】の字が成立したと考えられる。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編者『シンポジウム 弥生人の四季』(六興出版発行)は、〔金属の刃先〕と題して、下記のごとく説明する。
「弥生時代後期後半にはくわやすきの刃先に鉄が用いられた。岡山県の上東(じょうとう)遺跡出土のすきの身の先端部には、鉄の刃先を挿入(そうにゅう)した痕跡が残っている。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものだが、従来の木の刃先と比べれば、開墾・耕作に伴う負担が大幅に軽減させた。この鉄製の鍬・鋤先は中国・朝鮮半島に類品がなく、国産品と考えられている。」

上記先頭の「弥生時代後期後半」は「卑弥呼が生存した同時代」となる。
上記のごとくの「薄い鉄板の両側を折り曲げた簡単な鉄製の鋤(すき)」を用いても、日照りが続いて堅くなった土を耕すのは木製の鋤とほぼ変わらず大変な重労働であったにちがいない。

◆下に、対馬国から13番目の弥奴国(みなこく)・尾張、14番目の好古都国(こかたこく)・参河、15番目の不呼国(ふここく)・遠江、そして17番目の対蘇国(つさこく)・美濃の4小国図を配した。
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前ページにて解説したように、「不呼国・遠江の都田川流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)」は「胎児や女性生殖器官の子宮や産道」に相似すると見立てられた。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説し証明したように、
「弥奴国・尾張の知多半島(ちたはんとう)」は「女性生殖器官の卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ・卵管」に見立てられ、「知多半島北部の陸地」は「子宮」に見立てられた。
「好古都国・参河の渥美半島(あつみはんとう)」は「女性生殖器官の卵巣(らんそう)」に見立てられ、「渥美半島北部の参河の陸地」は「子宮」に見立てられた。

上図に示したように、対蘇国・美濃は弥奴国・尾張と好古都国・参河と隣接する。
したがって、対蘇国・美濃も女性生殖器官と関連を有すると考えるべき必要がある。
下に、卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管と卵巣(らんそう)と子宮と産道の図を配した。
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下に、上図に「卵巣上体(らんそうじょうたい)と子宮広間膜(しきゅうこうかんまく)を加える女性の生殖器官の半分形」を示した。
「女性の背中側にある卵巣上体・子宮広間膜」は「羽根()」のような形をしている。
ゆえに、「女性の羽根のような形をした卵巣上体・子宮広間膜を含む生殖器官」は「羽根が背中に生える蝶の成虫」に相似すると見立てられたにちがいない。
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下図に示すよう、「女性の生殖器官の大半を包囲して、子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤の形」もまた「蝶の成虫の姿」に相似する。
このような事情からも、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の地宜」は「蝶」や「蛹(さなぎ)」をあらわすことになった。
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◆下に、「蘇奴国・若狭の地宜」と「蛹の背中を裂()いて、羽化(うか)し始める蝶の姿」が相似する様子をあらわした。
「蘇奴」の【蘇】は「死骸(しがい)のような蛹から命がよみがえる蝶」をあらわし、【奴】は「蛹の背中を裂く強大な力」をあらわす。
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アゲハチョウの幼虫は4回の脱皮(だっぴ)をくりかえして蛹となり、その蛹の姿は強大な力を有するジャコウウシに似て太くずんぐりとしている。
「アゲハチョウの4回の脱皮」は「骨盤入口に入りこむときから膣口(ちくこう)から頭が誕生するまでの出産児の4回の回旋(かいせん)」に共通すると見立てられたにちがいない。
ジャコウアゲハは幼虫から死骸のごとき蛹となり、その蛹の背中を裂いて命が蘇(よみがえ)り、わずか数分で空中をひらひらと舞う成虫となる、強くてたくましい命を示す。
ゆえに、「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」の小国名を、卑弥呼は「蘇奴国(さなこく)」と定めたことになる。

◆下図に示すように、「現在の滋賀県、旧国の近江(おうみ)」は、対馬から19番目の「呼邑国(こおこく)」であった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」における「不呼国・遠江」にて詳細に解説して証明したように、【呼】の字源は「鳰(にお)」であった。
「近江、琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
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【囗()】の下に【巴()】を加える【邑(ゆう)】の字について、白川静著『字統』は「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐ)らしている形。(中略)。巴は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
したがって、上図における「琵琶湖を包囲する比良山地(ひらさんち)・野坂山地(のさかさんち)・伊吹山地(いぶきさんち)・鈴鹿山地(すずかさんち)」は「城壁」に見立てられたことになる。
つまり、「滋賀県・近江」は【呼】の字源地宜の「鳰ノ海」の周囲に【邑】の「多くの人が住む地域」であるゆえ、
卑弥呼は「呼邑国(こおこく)」という小国名に定めたことになる。

卑弥呼は――上図における「滋賀県・近江の地宜」は【呼】の字源「鳰ノ海」が「子宮と子宮にて育つ胎児」、【邑】の字源「城壁となる山地」を「骨盤」に見立てた――と考えられる。
つまり、卑弥呼は【呼】の字源の「鳰ノ海を羊水に潜(もぐ)っていても窒息しないで死なずに生きることができる不思議な生命力を有する胎児」に見立て、
また、卑弥呼は【呼】の字源「鳰の海」を「【邑】の字源・骨盤に包囲されてまもられる子宮」に見立てて、
「旧国の近江」の小国名を「呼邑国(こおこく)」と定めたことになる。

しかし、日本一最大の湖の「琵琶湖」を、「カイツブリ科最大のカンムリカイツブリ」と見立てずに、なぜ「カイツブリ科最小の鳰の姿」に相似すると見立てたのであろうか?
その理由は、下図に示すように、「琵琶湖の南端の岸の形」が「カンムリカイツブリの頭の形」に相似しないからである。
下図に示したように「琵琶湖の南端の岸の形」は「鳰の頭の形」に相似する。
だから、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。
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下に、「琵琶湖の地宜」を示した。
この「琵琶湖の地宜」は「母親の鳰が翼をひろげてはばたいて巣の過熱(かねつ)をふせぎ卵に涼しい風を送って冷やしている姿」をあらわしている。
つまり、「琵琶湖の北岸」は「涼しい風を送って巣の卵をひやす母親の鳰のはばたく翼」ということになる。
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内田亨代表著作者『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は、下記のごとく「鳰の巣の温度」について説明する。
(鳰の巣の温度は)、常に水温・気温より多少高く保持される。つまり太陽熱が巣材(すざい)中にたもたれ、巣材の醗酵(はっこう)熱も加わり(これは弱いが)、親鳥が長く巣を去っても卵はひえない。親鳥が卵を巣材でおおって去るのは、卵をかくすことのほかに直射による加熱をさけるためもあるらしい。(中略)。なお、東映製作の映画「水辺の鳥」で、露出卵(ろしゅつらん)あるいは巣材をかぶせた卵の上に親鳥が立って、翼をひろげてふるわせ、空気を送る動作が撮影されている。親鳥が巣の過熱を感じたときにおこなう反応的行動と思われる。」

上図の「琵琶湖の地宜」は「加熱する巣の卵に涼しい風を送るため、母親の鳰が卵の上に立って翼をはばたく姿」に相似すると見立てられた。
だから、「鳰の海、琵琶湖の地宜」は、上記した「鳰の親鳥が巣の温度を管理する、母親の深い強い愛」をあらわした。

◆対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
下図に示すように、対馬国から17番目の「対蘇国の地宜」は「ギフチョウやジャコウアゲハの蛹(さなぎ)と成虫が一対となる形」に見立てられ、18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化(うか)し始める蝶の姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化した蝶が華(はな)の化身(けしん)となり、羽根の【奴(強大な力)】で体を持ち上げて空中をひひらと舞う姿」をあらわしている。
だから、卑弥呼は「現在の京都府南部の、旧国の山城」の小国名を「華奴蘇奴国」とした。
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したがって、「華奴蘇奴国の地宜」は「死骸のような蛹(さなぎ)から美しく命が蘇(よみがえ)り、華(はな)のように華麗な蝶の成虫がわずか数分で【奴(強大な力)】で体を浮かせて空を舞う、強くたくましい命」を示していることになる。
ということは、「華奴蘇奴国の地宜」は、前ページで解説した19番目の「呼邑国」の「鳰ノ海・琵琶湖の地宜」が示すように「母親の子への強い愛情」を示していることになる。
言いかえると、「華奴蘇奴国の地宜」は「自らの身を裂いてたとえ死んでもよいから、妊娠したわが子を生まんとする強い母性」をあらわしていることになる。

上図に右下に示したように、「華奴蘇奴国」の【華】の金文形は「蝶の形に相似する小さな花を房(ふさ)のようにつける藤のような華(はな)の形」をあらわしている。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ダイコンを餌にするモンシロチョウの成虫の姿」に相似する。
モンシロチョウの餌となる「ダイコンの花」は、「小さな花が房(ふさ)のようにつく華」である。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ウスバシロチョウの成虫の姿」に相似し、「ウスバシロチョウの餌となる草のムラサキケマン」は「小さな花が房のようにつく紫色の華」である。
あるいは、「華奴蘇奴国の地宜」は「スジグロシロチョウの成虫の姿」に相似し、「スジグロシロチョウの餌となるイヌガラシやタネツケバナの華」は「小さな花が房のようについている」。

以上のごとく、「華奴蘇奴国の地宜」は「小さな花が房のようにつく華が咲く草を餌とする、小さな可憐(かれん)な様々な蝶の姿」に相似する。

対馬国から20番目の「華奴蘇奴国」の【華】は「蝶の餌(えさ)となる草に咲く花」をあらわす。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説し証明したように、次の21番目の「鬼国(きこく)の地宜」も「鷹の巣の雛(ひな)の餌」をあらわしていた。
下図に示すように、「鬼国、旧国の志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の地宜」は「飢()えたときに、強く育った雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌にして食べる形」をしている。
このように、20番目の「華奴蘇奴国」と21番目の「鬼国」という小国名は「餌」が共通する仕組みになっていて、巧妙(こうみょうにリレーがなされている。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊(こくれい)のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

そして、今回のブログをもって、対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、
(B)
「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国の小国名」は、
【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「各小国の地宜と各小国に用いられる文字の字源・字義」がすべて理にかなって合理が成立する仕組みになっていることを解説して証明した。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが主張するように「邪馬台国を説明した古文献」ではなかった。

『魏志倭人伝』の大半の記事は「卑弥呼の死から約40年後に、晋(しん)王朝が秘蔵(ひぞう)していた卑弥呼が書いた文書を伊都国の港で魏王朝の人々は用いる楷書に書き直した文書(倭人国の国書)を晋の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が1字も誤らないように慎重(しんちょう)に書き写した史料」、そのものであったことになる。
だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】についえ詳細に具体的に組織的に説明する古文献」であったことになる。

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2024年5月16日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・11

新井白石から始まる300年続く邪馬台国説は
【原始から続く科学】に反する空理空論である

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
現在、学界は「漢字を発明したと伝える、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」で証明したように、「倉頡伝説は荒唐無稽である」という定説は学者たちの早合点(はやがって)による憶説(おくせつ)であった。

倉頡は【夏の銀河の各部の形状から文字を作る理論(方法)】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXYA(ピクスタ)が撮影した。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が1回~10回まで繰り返して指摘しているように、また前回(10)で証明したように、
倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「邪馬台国について説明する史料」ではない。
というのも、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都は、邪馬壹())国」と記しているからである。
また、『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しない。
「邪馬壹()国が正しく、邪馬臺()国は偽り・空想である証明」は、このブログ「漢字の起源とは発明を解明す」では、多分、2ヵ月後の7月にて詳細に具体的におこなう予定である。

『魏志倭人伝』に登場する「対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明」は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を後世に伝える、最も貴重な文献であった。

江戸中期に生存した新井白石(16571725)から約300年後の、現在の学者たちは、『魏志倭人伝』に幾つかの誤読を加え、その誤読で成立させた意見を誇示(こじ)して、「『魏志倭人伝』は邪馬臺()国について説明する書物である」という幻想を、日本国民が信じるように騙し続けている。

◆『魏志倭人伝』の記事を、【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて素直に読むとーー東へ延びているはずの日本列島の本州は南の方に延びていることになる。
そして、『魏志倭人伝』は初頭で、「対馬国の南の一海を渡る千余里して、一大国がある」と説明する。
対馬国は現在の長崎県北部にある対馬であり、一大国は対馬の南にある壱岐(いき)であった。

ゆえに、対馬国・北と一大国・南と定める方位規定は現在の日本地図の南北に合致する。
このため、学者たちはじめ多数の研究者たちは「対馬国と一大国の南北関係からして、東が南となるはずがない。だから、日本列島の本州は東ではなく南へ延びるという説明は誤っている」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』の「本州は東ではなく、南に延びる」という説明は、【倉頡の文字作成理論】を伝えるもので――【倭】の字源にもとづく卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理を語るものであった。

だから、『魏志倭人伝』においてはーー【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】を正当性の盾(たて)・つまり理由にする思考方法は、まったく通用しない。

◆邪馬台国説学者たちはまったく気づいていないが――【現在の日本地図のごとく、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方法】だと、倭人国の使者たちは魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏都の洛陽(らくよう)に到着できなくなる。
したがって、邪馬台国沖縄説の場合、倭の使者たちや船乗りたちは大海を越えて帯方郡や魏都に到着できなかったために、魏と国交を結べなかったことになる。
倭人国は魏と国交を結べなかったということは、魏は倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。
そうすると、約2000字で構成された『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

2000字の『魏志倭人伝』は1字も文字が記されていなかった白紙に化けるという話は、まさにキツネにつままれるデタラメであり、空理空論ということになる。

さらに、『魏志倭人伝』における
「古(いにしえ)より以来、倭人国の使者が中国に詣(いた)るに皆自らを大夫(だいふ)と称した」という記事はじめ、
「倭人国の外相(外務大臣)の難升米(なしめ)は大海を渡って魏都に到着し、後年、倭人国に帰国していた」という説明と、また
「倭の載斯烏越(そしあお)は大海を渡って帯方郡に到着して、倭国における相攻撃(あいこうげき)し合う内乱の様子を説明して、倭人国に帰国した」という説明と、あるいは
「倭の掖邪狗(ややこ)等二十人は魏都・洛陽に到着した」という説明などは
すべてまったくウソであったことになる。
しかし、このような「倭の使者たちは大海を渡ることができなかった」という状況が事実であったとしたならば、
前述したように2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が記されなかった白紙であったことになりーーこのような結果は絶対に信じることはできない。
ゆえに、この点からしても邪馬台国学者たちの意見は空理空論であったと確信できる。

◆上記したように――【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、倭人国の使者たちや使者たちと行動を共にした船乗りたちは、帯方郡と魏を隔(へだ)てる大海を往来することができないことになる。
というのも、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと「倭人国の使者たちと船乗りたちは大海を往来できなかった」という事実が――下図の「歳差状況図(天の北極の位置図)」によって明確に証明することができるからである。

緯度を測る簡単な方法は、天の北極を中心に円を描く北極星のかたよりをキャッチして地平線(水平線)から天の北極までの高度を計測する方法である。
天の北極の高度が3535分ならば、その観測地点は北緯3535分ということになる。
しかし、この方法だと、原始や古代には精密に北極星のかたよりを計測できる器具がなかったので――原始や古代の人々には、北極星のかたよりが精密に測量することができなかった。
原始や古代の人々が大海を往来して生存していくためには、【1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測ることができなければならなかった】。
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上図が示すように、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790(中国の五帝時代)のりゅう座α星と、現在から約76年後の西暦2100年頃のこぐま座α星である。
上記した二つの北極星が天の北極を中心として描く円の直径は1.5(90分・満月の3個分)である。
ゆえに、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極の高度)をキャッチすることになるが――この方法では【人間の目は命を失わずにすむ、1度の60分の1の1分の精度】で測定することはできない。
したがって、北極星のかたよりで天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、人々は旅先で命を絶った。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使者たちは出港してまもなく、大海にて命を失った。
だから、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、『魏志倭人伝』は字が1字も記されていない白紙であったことになる。

上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10度離れていた。
ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約20度つまり1200分の円を描いていたことになる。
直径が約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置(高度)は命を失わずにすむ1分の精度で測量することは、人間の目では不可能である。
だから、原始や古代においては、遠くの地に旅して家族が待つ故郷に帰還するときや大海を往来するときに、人々が天の北極の高度を緯度に換算する方法では命を失うことになった。

このように、【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて、「『魏志倭人伝』の日本列島の東は南へ延びる地理は完全に間違っている」という主張・意見は【原始から続いた科学】、
いいかえると【『魏志倭人伝』が説明する卑弥呼時代の真実や事実を解明するために必ず前もって知っていなければならない根本的な科学】に反する空理空論ということになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』が「日本列島の東は南に延びる」と説明する転回日本列島地理には真実のカケラもない雲をつかむような作り話であると結論づけてしまうことは断じてできない。

◆下図は、【天頂点(てんちょうてん)と天頂緯度線】についての説明図である。
【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【観測者にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
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上図に示した、銀河部位が天頂点に接近して西から東へ進む軌道は、「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」となる。
この「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」を4秒から6秒間でキャッチすると、【1度の60分の1の1分の精度】で緯度が測定できた。
原始のときから、人間の目には日々鍛錬すると【1分の精度で緯度がキャッチできる能力】を有することができ、人間の脳には「【亠】をキャッチすれば命を失わずに生存することができると感知して行動する本能」がそなわっていた。

1度の60分の1の1分の精度で緯度を測る方法は、天頂点と重なる銀河部位の運行(軌道)において最も高くなって平らな【一】の線となる天頂緯度線を寸時(4秒~6秒の間)にキャッチすればーー1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できる。
天頂緯度線の中央の天頂点は、【重力の方向を上方にのばして天球と交わる天頂点の角度をあらわす度数(距離)】となる。
ゆえに、天頂点と天頂緯度線の度数は、天の赤道から天頂点までの角距離である。
天頂緯度線をキャッチする観測地点は、地球の赤道からの角距離である。
地球の赤道の天頂は、天の赤道となる。
だから、観測地点の角距離と天頂点の角距離は同一となる。
この「緯度の測定の方法」は「赤道座標」と呼ばれ、「北緯」は「+赤緯(プラスせきい)」と表現される。

つまり、「地球の赤道より北の北半球の3535分の地の緯度」は「+赤緯(せきい)3535分」であり、「地球の赤道より北の北半球の3130分の地の緯度」を「+赤緯3130分」である。
だから、【赤道座標の方法】を用いると、人類は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた。

卑弥呼が統治した倭人国では【天の北極や北極星を緯度の測定の基準点】とせずに、【赤道座標における天頂点を緯度の測定の基準点とし、天頂緯度線を緯度の測定の基準線】とした。
ゆえに、【天頂緯度線をキャッチして緯度を測定していた卑弥呼王朝】は、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「日本列島の本州は東に延びずに、南へ延びている」と考えたのである。
ゆえに、卑弥呼王朝は「方位が時計回りに90度転回して東が南となる本州地図」を制定した。
以上のごとく、【『魏志倭人伝』の「日本列島は東に延びずに、南へ延びる」と説明する転回日本列島地理】は【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。

◆人類は【1度の60分の1の1分の緯度差を測定することができる、天頂緯度線をキャッチする方法】を、食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から受け継いだ。
というのも、人類は本能的に、【亠】の字源「天頂緯度線・天頂点・子午線」をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有し、そして【亠】をキャッチする技(わざ)を工夫(くふう)して磨いた。
だから、原始のときから卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばまで、人々は1分の精度で緯度が測定できた。

この【亠】をキャッチする能力(眼力)をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれた原始時代やまた氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において絶滅したことになる。
人類が滅びなかったのは、【亠】をキャッチできる能力が目に、【亠】をキャッチしようとする本能(本能行動)が頭脳にそなわっていたからである。

原始から卑弥呼時代まで、遠くの地を旅して家族が待つ家に帰還する人々や大海を往来した人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を測定する方法は【亠】のキャッチのみ、ただ一つであった。

北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法では、人類は原始の時にすでに絶滅していたことになる。
このように、原始から卑弥呼時代までは、「天の北極」は「緯度の測定の基準点」にはならなかったので、「天の北極」は「方位規定の基準点」にもならなかったのである。
卑弥呼時代は、「天頂点」が「緯度測定の基準点」であり、「天頂緯度線」が「緯度測定の基準線」であった。
これが原因で、卑弥呼は「日本列島の本州は東ではなく南に延びている」と考えた。
また、【倉頡の文字作成理論】の学芸を取得した倭人国の王たちや女王たちは卑弥呼が立論した「日本列島は東ではなく南に延びる転回倭地理」を真実と考えた。

◆上記した「日本列島の本州が時計回り90度回転して東が南となる方位規定」は、倉頡が作った【禾()】「稲(いね)」の字源・原義となった。
【禾】の下に【女】が加わる【委()】の字源・原義も、また【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭()】の字源も「方位が時計回りに90度回転して、北→東・東→南・南→西・西→北に変位すると定まる方位規定」であった。
だから、『魏志倭人伝』の「日本列島の東は南へ延びる」という説明は、倉頡が作った【禾】の字源・原義を伝えるものであり、結局(けっきょく)、【倉頡が発明した文字作成理論】を語っていたことになる。

【学】の字源、「学問」の語源は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「日本列島は東ではなく南に延びる」という地理は「学問における定理」をあらわしていた。
だから、時計回りに90度転回して「東が南になる」という方位規定は、「民間における方位規定」、つまり「通常の方位規定」ではなかった。

倉頡は、下に示す3つの掟(おきて)を定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろんその家族そして一族全員をも死刑にする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

したがって、五帝時代に作られた文字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音(かおん)文字、殷代(いんだい)前半期の漢字は、
【神々の名】や、【物の名(鳥や獣の名、諸々の事象・事物の名)】や、【国名】や、【地名】、【氏族名】などで残ることになった。
つまり、五帝時代・夏代・殷代前半期の漢字は【神々の名】、【物の名】、【国名】、【地名】、【氏族名】などをあらわす、厳重な秘密にまもられる文字であったので――実際は文字として存在するものであった。
ゆえに、五帝時代・夏代・殷代前半の漢字を記した史料は発掘されていないが、
『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴国までの30の小国名によって、五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は失われずに保存されていたと証明される。
したがって、現代の学界の「文字を書いた史料が発掘されない、五帝時代の書契と夏代の漢字は文字として認めることはできない」と主張する定説は、錯覚・空想であったことになる。

『魏志倭人伝』には――
「紀元前2070年頃の夏代の黎明期(れいめいき)
帝王になった益(えき)氏の王の孫の王子と若者たちが大海を越えて秋田県の男鹿半島・八郎潟の東方の地に定住して、
(
)【三皇時代の易占に用いた記号の結縄(けつじょう)】、
(
)【五帝時代の書契】、
(
)【夏音文字】、
(
)【倉頡の文字作成理論】、
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、
(
)【精密な中国海岸線地図と精密に地図を作製する土地三角測量】などを
教え広めた」と説明する記事がある。

日本列島の海岸線を1本の線にしてつなぐと、日本列島の海岸線は中国の海岸線の約3倍も長いという。
ゆえに、【精密な日本列島の海岸線】は【倉頡の文字作成理論】はじめ【五帝時代の書契】、【夏音文字】を保存するのに適していた。
言いかえると、【日本列島の海岸線】は【字源・原義】を保存するのに適していた。
だから、卑弥呼時代において、わが国には【神々の名】・【物の名】・【地名】をあらわした文字によって【倉頡の文字作成理論】と【字源・原義】が失われずに保存されることになったのである。

ゆえに、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて証明したように――「対馬国」と「一大国」という小国名と、「瀚海(かんかい)」という沙漠名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす役目を有していた。

◆この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでは、【原始からつづく科学】にもとづく【倉頡が考えた天頂緯度線による方向規定】に注目してーー
『魏志倭人伝』の全記事は事実・真実を伝えており、1ヵ所も誤記がないことを証明する。

ゆえに、「軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」と定める
吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法の放射性炭素年代測定を手掛かりにして奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に空理空論であったことが明白となる。

西欧近代科学の合理思想にもとづく学問的成果による邪馬台国説に対して、
その証明方法が原始的で古びて幼稚であったとしても、『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も間違いが無い事実を証明したならばーー
卑弥呼が住んだ王国にふさわしい大型遺跡の吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法(放射性炭素年代測定)を用いて奈良県桜井市の纏向遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に明白に空理空論であったことになる。

上記した指摘が事実・真実であることは、下記の冤罪(えんざい)事件の事例によって証明される。

ある町で、5人を残忍きわまりなく方法で殺害した事件がおきた。
その町を担当する県警は、DNA型鑑定をもちいて一人の被害者の着衣に付着していた体液と容疑者Aの体液が一致したとして、容疑者Aを真犯人として逮捕した。
しかし、容疑者Aはアリバイを語って無罪を主張した。
でも、容疑者Aの言は無視され、最高裁で5人の殺人によって死刑が確定された。
容疑者Aの妻が夫の無罪を信じて、こつこつと数年がかりで様々な土地にめぐり、また様々な人々に会って、ついに夫のアリバイが成立する証人を発見した。
この結果、以前のDNA型鑑定は県警の思い込みによる冤罪・空論であったと証明されて、容疑者Aは釈放された。

以上のごとく、
地味(じみ)な【天頂緯度線による緯度測定の方法】を注目すると、
『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も誤記が存在しないことになる。
よって、「『魏志倭人伝』には幾つかの誤記がある」と主張する、現在の二つの華々しい有力説の、
邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は
共に明らかに空理空論であったことになる。

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