漢字の起源と発明を解明す・40ー2
『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(2)
◆前々回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」で指摘したように、
『古事記』冒頭の「古事記上巻 并(あわ)せて序」の末部には――姓(うじ)も於きて日下(にちげ)を「玖沙訶(くさか)と謂(い)ひ、名に於きて帯(たい)を「多羅斯(たらし)」と謂ふ、此(かく)の如(ごと)き類(たぐい)は、本(もと)の随(ずい)に改めず――という文がある。
この文は「姓に用いる楷書の日下を夏音文字では玖沙訶と記し、名に用いる楷書の帯は夏音文字では多羅斯と記す。このような類例は従来から日常的に頻繁(ひんぱん)に用いられて知られていることゆえ、夏音文字をそのまま用いて楷書に改めませんでした」と意味した。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で指摘したように、「朝顔」の語源となった「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」がある。
下に、「北天の最輝部」の図を配した。
下図の上部には、はくちょう座γ星がある。
はくちょう座γ星の周囲は円形となり、「円の中心に点」がある古代字の【日】の字形に合致する。
だから、【日】の字の下にある「北天の最輝部」は「日下」の語源であった。
楷書「日下」の語源銀河部と夏音文字「玖沙訶」の語源銀河部は同一ヵ所である。
ゆえに、下図の「はくちょう座γ星と北天の最輝部」は「日下」と「玖沙訶」の語源であった。
下図は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」における[「日下=玖沙訶」と「帯=多羅斯」の語源解説図]である。
「日下=玖沙訶」の語源は上記した「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」と「鬼の横顔に似る銀河の額」の両者となる。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の額」が楷書「日下」、夏音文字「玖沙訶」となる。
また、「十字の銀河の北側(胸部)にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の額」は三垂(さんすい・三本の線状の銀河部位)でつながる。
したがって、「十字の銀河の胸部にある乳房」もまた「日下」にして「玖沙訶」の語源であった。
「十字の銀河の乳房」は「帯(おび)をまきつける腰」にある。
「帯をまきつける腰」もまた「日下=玖沙訶の語源となる乳房」と同じく「乳房」の形をしている。
ゆえに、「十字の銀河の腰にある乳房」は楷書「帯」の語源で、夏音文字「多羅斯」の語源であった。
「十字の銀河の腰にある乳房」から「鬼の横顔に似る銀河の口」までも、また三垂でつながる。
だから、「鬼の横顔に似る銀河の口」が「帯」と「多羅斯」の語源であった。
古語「垂乳根(たらちね)」は「母」と「父」を意味し、「垂乳根」の「乳」の字義は「乳房」である。
ゆえに、上図の「多羅斯」と「垂乳根」の語源は共に「母と父が帯を巻く腰にある乳房」であった。
上図の「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、垂乳根の語源「帯をまきつける腰にある乳房」は「乳児が乳を飲む乳房」ということになる。
「乳児が飲む乳の色」は、上記したように、「北天の最輝部の、銀白色と朱鷺(とき)の体のうす桃色」に相似する。
だから、「帯」と「多羅斯」の語源は「十字の銀河の腰にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の口(乳児が乳を飲む口の銀河)」であったことになる。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」で解説したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦の腹部に見立てられて、聖域]とされた。
もう一つの「朝顔」の語源は、下図に示す「四つ目の銀河・十字の銀河の顔と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」であった。
そして、「日下・玖沙訶」の語源は「四つ目の銀河と十字の銀河の右手(西側)の脇(わき)にある北側の乳房」、「帯・多羅斯」の語源は「四つ目の銀河の口と十字の銀河の子宮と重なる南側の乳房」であった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道」に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。
したがって、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」は倉頡の文字作成理論はじめ倉頡が作った文字や夏代黎明期に作られた夏音文字、そして黄帝時代や夏代黎明期の歴史について語るとき――頻繁(ひんぱん)に用いられた「漢字は夏の各部の形状から作られた秘密」を示す[「朝顔」の語源]を示唆(しさ)する暗号のような語であったことになる。
ゆえに、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」という語が確かな証拠となって「わが国は夏音文字を紀元前2000年頃に習得した」と証明されることになる。
だから、学界が「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀である」と主張する絶対的定説は粗雑(そざつ)軽率(けいそつ)きわまりない考えにもとづく錯覚・空理空論であったことになる
◆上記したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は[「騙し」の意味を有さない、子どもを孕(はら)む妊婦のお腹(なか]に見立てられて、聖域]とされた。
また、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮(子宮と産道)もまた「朝顔」とよばれた。このうち「十字の銀河の子宮」も[胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道]に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域]と定められた。
しかし、前回の「漢字の起源と発明を解明す・40―1」にて解説した【扁】の字について説明した、下図における(1)と(2)の「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河(胎児の姿に似る銀河)までの、大きな夏の銀河」は「騙し」の意味を有することになった。
ゆえに、「騙」の旁部(つくりぶ)は【扁】となった。
ただし、【扁】の字源銀河となった(3)は「騙し」の意を有さないことになった。
五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、【馬】の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」と定め、地理の「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」と【馬】「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜の、フタコブラクダ」に「騙し」の意味を有するようにした。
だから、【騙】の偏は【馬】となった。
奈良県高市明日香村に所在する「牽牛市塚古墳(けんごしづかこふん)」は、大・中・小の八角形が三段に積み重なる設計となる。
この最下段の大の八角形は上に図を配した【扁】の字源「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの、大きな夏の銀河」をデザインする。
この【扁】の字源銀河を説明する、上に図を配した(1)と(2)をデザインする大の八角形は「騙し」の意味を有する。
中段の中の八角形は、上記した「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」をデザインする。
この中の八角形は「騙し」の意味を有さない。
最上部の小の八角形は、上記した「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)と十字の銀河の顔、そして十字の銀河の子宮(子宮と産道)」をデザインする。
この小の八角形も「騙し」の意味を有さない。
牽牛子塚古墳(あさがおづかこふん)は、7世紀中葉~8世紀初頭(飛鳥時代)の女帝、第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう・第37代・斉明天皇)と娘の間人皇女(はしひとのひめこ)の合葬墓とする説がある。
というのも、以前より、牽牛子塚古墳の内部は巨石をくりぬいた2つの墓室を設けた特異な構造になっていることを知られていたからである。
間人皇女は、第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう)の皇后であった。
当時は、兄妹であっても父親と母親が異なれば、恋愛あるいは結婚も普通におこなわれていた。しかし、同父同母となる関係となると、当時においても、国法を犯す重大な罪として厳(きび)しく禁止されていた。間人皇女は、このタブーを犯した。
間人皇女は、同父同母の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の第38代天智天皇)とタブーとされる密通(近親相姦)をしていた。
孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は同じ血を分けた兄の中大兄皇子であった。このことは、公然の秘密であった。
このタブーのために中大兄皇子は、国法を犯した大罪の報いを受けなければならなかった。
孝徳天皇が没した直後、皇太子・中大兄皇子は帝位に就かなかった。中大兄皇子は、母の皇極天皇を再度担ぎ出し、帝位に就けて斉明天皇とした。
孝徳天皇が亡くなった直後に中大兄皇子が天皇に即位しなかったのは、彼が同父同母の妹の間人皇后と男女関係を持ったからである。
つまり、「中大兄皇子が即位すれば、神の怒り、つまり地中深く棲(す)む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒して、必ず大災害(凶事)が起きる」と噂(うわさ)する世論に屈したからと考えられる。
斉明天皇は、上記のごとく「斉明天皇は中大兄皇子と間人皇女との兄妹の近親相姦を見て見ぬ振りして許している。しかし、中大兄と間人の密通の大罪を地中深く棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が許さず祟(たた)って必ず大災害が起きるにちがいない」と噂(うわさ)されていたのである。
ゆえに、斉明天皇は牽牛子塚古墳を築造して――陵墓の最下段の大の八角形で「牽牛(ジャコウウシ)の死霊を騙(だま)しなだめる」ようにした。
また、陵墓の中段の中の八角形で「人の横顔に酷似する銀河」を「斉明天皇自身」に見立て、「コールサック」を「斉明天皇の腹部」に見立てて、自分の腹部から生んだ息子の中大兄と娘の間人を厳しくとがめて人の道にそむく密通をやめさせなかった母親の責任として――斉明天皇は死後には必ず大災害(ジャコウウシの死霊の激怒)を騙しなだめて防ぐと誓ったにちがいない。
そして、最上段の小の八角形で「四つ目の銀河」を「中大兄皇子」、「十字の銀河」を「娘の間人皇女」に見立て、「十字の銀河の子宮」を「間人皇女と中大兄皇子の密通」に見立てて――先に墓に入った亡き娘の間人に近親相姦の罪を後悔させて、娘の死霊にも激怒する牽牛の死霊を騙しなだめて地上に大災害が起きるのを防ぐようにさせると決意を示すものであったと考えられる。
◆倉頡が発明した「辞理(文字作成理論)」において――天理(夏の銀河)の場合は南を正面にし、地理では北を正面にした。
ゆえに、銀河図の場合は左(左手側)が東、地理では左は西となった。
上記のごとく、倉頡が「(1)天理の場合は南を正面にし、(2)地理の場合は北を正面とする」と定めた理論は――夏代黎明期には「(1)地理の北を天理の南に変えて180度転位する。ゆえに、(2)地理では北は天理の場合の南となる」と定められて、【臺(台)】と【壹(壱)】の字が生まれた。
つまり、夏代黎明期における帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は、上記したように「(1)地理の北は天理の場合の南となって180度転位する」と定めた。
倉頡は「妊婦の形に相似する、十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られたすべての文字を生む母体」と定めた。
したがって、「十字の銀河の子宮(子宮・産道)」は「夏の銀河の各部からすべての文字を生む子宮(子宮・産道)」と定めた。
つまり、「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【瀚】と【海】の字源」となり、また同様に「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【牽】と【牛】と【子】の字源」となった。
「三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮」より大きい。
また、「胎児の姿に似る銀河」もまた「十字の銀河の子宮」よりはるかに大きい。
だから、倉頡は「【一(十字の銀河の産道)】より多数の文字が出産する」と定めたため、「十字の銀河の帯がまきつく腰にある子宮」の夏音文字の語「多羅斯」の先頭字は【多】である。
要するに、倉頡は「【一】の字源(十字の銀河の産道)は【多(多数の文字)】を出産し、【多(多数の文字)】は【一】の字源(十字の銀河の産道)に集約される」と定める、「一即多、多即一の理論」を発明した。
「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「子どもを中心にしてならぶジャコウウシの1グループ・百頭余りの群れ」に相似する見立てられた。
「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシの姿に似る銀河」に相似すると見立てられた。
そして、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
下図に示すように、【勿(ぶつ)】の字源銀河は「三つ輪の銀河の西となりの、十字の銀河の左手が持つ銀河部」である。この銀河の形は「犂(すき)で土を撥(は)ねる形」とされた。
だから、「夏の銀河の西端の、ジャコウウシの姿に似る銀河」は「【牛】の字源、ジャコウウシが餌場(えさば)の土を角(つの、即ち犂)で撥ねて餌の苔(こけ)を食べる姿」に見立てられた。
ゆえに、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は【勿】の字源「ジャコウウシが犂で土を撥ねる姿」、つまり「食料の苔を食べるために、ジャコウウシが角(即ち、犂)で土を撥ねる形」ということになった。
わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、
偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を――勿は犂で土を撥ねる形。『説文解字』は「萬物なり」と訓し、「牛を大物と為(な)す。天地の数は牽牛より起こる。故に牛に従ふ」という――と解説する。
前述したように、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は「牽牛の姿に似る銀河」であった。
「牽牛」は【一】の字源であり、この【一】の字源は「牽牛の姿に似る銀河」であり、また「萬物」をあらわしたので、「一即万(萬)物、万物即一」という理論となった。
上記したように、「三つ輪の銀河」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが作る円陣」、「三つ輪の銀河の西となりの銀河部は【勿】の字源」であるゆえ、「三つ輪の銀河の【牛】」と「三つ輪の銀河に隣接する銀河の【勿】」を加えると、【物】の字となる。
『説文解字』は【物】は「万物なり」と訓するゆえ、「三つ輪の銀河と、そのとなりの【勿】の字源銀河部」は【物】の字訓は「万物なり」ということになった。
上記したように、「【一】の字源の、十字の銀河の子宮につながる産道」は「夏の銀河各部から作られたすべての文字を出産する産道」であったゆえ、「一即万物、万物即一」となった。
だから、倉頡は「一即万物(多)、万物(多)即一の理論」を考案したことになる。
このような倉頡が考案した「一即万物(一即多)、万物即一(多即一)」の理論は、現代の分子生物学でDNAという「小さな場に大きな情報が入っている」という先端科学の考え方に共通する。
『魏志倭人伝』の34の小国名は現代の先端科学のDNAの構造や、そして「17世紀のデカルトが提唱した西欧近代の合理思考の意見は必ずしもすべて正しいとは言えない。誤りも多々ある」と批判・否定する現在の先端科学の合理を超える合理を積み重ねる考え方で構成されている。
約5000年前に生存した倉頡は、すでに現在の先端科学の考え方を発明していたのである。
◆白川静著『字統』は、倉頡が作った【禾(か)】の字について「いねの象形」と解説する。
【禾】の字源銀河は「女体に相似する、十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の口」である。
ゆえに、夏代黎明期では【禾】の下に【女】を加える【委(い)】の字が作られ、【委】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口(くち)」であった。
「十字の銀河」は「人(東半分が男性、西半分が女性。また、人の正面と背面の姿)」に観えるゆえ、夏代黎明期には偏【人】に【委】を加える【倭(わ)】の字が作られ、【倭】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
だから、【禾】【委】【倭】の地理字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
上記したように、「【禾】【委】【倭】の天理の字源」は「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。
「【禾】【委】【倭】の地理字源」は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」となった。
この地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は「出産児があおむけになって頭が先に子宮口に入りこむ(1)第1回旋(だいいちかいせん)」と、(2)娩出期(べんしゅつき)終わりに出産児の顔が母体の背側に向けるときの第4回旋における、頭を時計回りに90度転回する様子」をあらわした。
五帝時代初頭の黄帝時代に相当する中期縄文時代初頭、また卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)、そして万葉時代の8世紀初頭――遠くの地に旅する人々や大海を往来する人々は天頂緯度線、つまり旅の各地点の天頂にめぐってきた緯度線、現在の+赤緯(プラスせきい)を測量して命を保持して家族が待つ家に帰還していた。
「+赤緯」は「地球の赤道の天頂より北半球における各地の天頂緯度」である。
したがって、「+赤緯」は要するに「北緯」ということになる。
だから、「北緯35度35分の土地の天頂緯度」もまた「北緯35度35分」ということになる。
下図は「五帝時代初頭の黄帝時代、中国の各地の天頂緯度線をあらわす図」である。
下図が示すように、黄帝時代、北緯35度35分の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯31度30分の長江口(長江の河口がある湾)の中央(上海付近)」の天頂を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。
司馬遷著『史記』五帝本紀は――黄帝の遠征軍は「江」つまり「長江口がある湾の中央の地(上海あたり)」に至って、帰還した――と記述している。
したがって、黄帝の軍は、遠征各地の天頂緯度線をキャッチして南の長江口がある湾中央の地(上海あたり)まで遠征した後、帰路につき上海あたりから北上して山東半島の付け根にある日照(にっしょう・黄帝陵と同緯度の北緯35度35分)に到着し、日照から遠くの西方に洛陽(らくよう)に至り、洛陽から故郷(黄帝陵が所在する居住地)へ帰還したと考えられる。
上図は、「十字の銀河」が「中国各地の天頂」にめぐってきたことを示す。
これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「中国全土(中国全土の天頂緯度線が測量できる基準(ものさし)」に見立てた。
「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央に、倉頡は「禾(稲)の形の図書(ずしょ)」を重ねて、【禾の図書を育成適性地・長江口がある湾中央周辺地域がある、つまり「十字の銀河の子宮」がある「南」】に配した。
そして、倉頡はその「十字の銀河の南にある禾の図書」をさらに南へ伸ばし、「禾の穂」が「鬼の横顔に似る銀河の口」がある「西」へと垂れるようにした。
とうのも、「禾(稲)の穂に実る米」は「人の口に入れる食料」となるからである。
これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる地理字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
下図の左側の【禾】の字形は、右上の(1)の図書である。
(1)の【禾】の字形は稲が地面に根をはって植わっていないとあらわす。ゆえに不自然・不合理である。
(1)の【禾】の字形の上下を180度転回すると(2)となる。
(2)は【禾】字源「時計回りに90度の転回方位規定」を表示しない。というのも、(2)は[北]が[西]を向くことになるゆえ、「反時計回りに90度の転回方位規定」を示すからである。
(2)を裏返しにすると、(3)の【禾】の字形(契文形)となる。
なお、このブログの初頭で説明したように、倉頡は「天理が正面とする南は、北を正面とする地理の北となる」という文字作成理論を確立させた。
ゆえに、倉頡は【禾】の字を作り、みずからの文字作成理論に則(のっと)って下図の(1)天理」の【禾】の図書の南は、地理の【禾】の図書における(2)と(3)のごとく北となると定めた。
下図に示したように、上図(3)の「地面に植わる【禾】の形」は、[北]が[東]に変位する「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を明示する。
下に、【呉】の字源地理「反時計回りに90度転回する方位規定」を配した。
白川静著『字統』の【呉】について、「[北]が[西]に変わる様子をあらわす【口(さい)】は「祝祷の器。【口】の下の字形は人が一手をあげて祝祷の形である【口(さい)】をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。
要するに、【呉】の金文形は「巫女(みこ)が児どもの誕生を祈祷(きとう)するときに用いる土器の【口(さい)】を右肩の上にかかげて祈ると願いがかない、出産児が産道を通過して元気に誕生した様子を見て慶(よろこ)ぶ巫女が身をくねらせて舞う姿」を図案するものであった。
下図は「[北]が[西]に反時計回りに90度転回する様子」を示す。
ゆえに、【呉】の字形は「出産児が産道を通過するときの反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわした。(「回旋」は「かいせん」と読む)。
だから、下図は、【呉】の字源は「反時計回りに90度転回する方位規定」であると表現している。
下図に示すように、倉頡は、長江口以北地域の地名は【禾】、長江口より以南地域の地名は【呉】と定めた。
ゆえに、上記した倉頡が定めた地名にもとづき、【禾】の地域の川の名には【河】の字が用いられ、【呉】の地域の川の名には【江】の字が用いられて二分されている。
◆現代史学は気づいていないが――原始のときから、人類には【天頂緯度を1度60分の60分の1の1分の精度でキャッチできる能力】が目にそなわり、【大脳には本能行動として1分の精度で測量できる能力】がそなわっていた。
下図は、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」、つまり「天頂緯度線」を示す。
下図の右上に示したように、天頂緯度線は天頂点で子午線と90度・直角に交わって【亠(とう)】という漢字となった。
下図に、「原始のときからの、人類が天頂緯度を測量するときの姿勢」を示した。
天頂緯度を測量する人の姿勢は「時計回りに90度転回する方位規定」となった「出産児の第1回旋」をあらわした。
つまり、「天頂緯度を測量する人のポーズ」は「出産児があおむけ(レスリングのバックドロップのような姿勢)になって子宮口を通りぬけるときの、時計回りに90度転回する方位規定をあらわす第1回旋の状況」をあらわした。
天頂緯度を測量する人は産道を通過する出産児のごとく無欲になれば「誤差を1分(60秒)の精度」で天頂緯度を測定できた。
しかし、「必ず天頂緯度をキャッチする」と欲を有すると、「誤差が1分の精度」では測量できず、死産する出産児のごとく命を失った。
だから、上図の「天頂緯度を測量する人の頭・顔」を「出産児の頭・顔」に見立て、原始のときから「天頂緯度を精密に測定するときには、産道を通過する児のごとく無欲になれ」という忠告を、命をまもる心得(こころえ)にして、人類は命を後世につなげてきたことになる。
◆上記のごとくの方法で、原始のときから人類は天頂緯度を精密に測定して命をまもってきた。
これゆえ、紀元前2050年ころ、帝益の孫の王子一行は広大な大海で隔てる中国の会計(北京)・会稽(天津)と同緯度の日本列島・東北地方の八郎潟の偏(ほとり)に移住できた。
上記の「天頂の緯度を測量した方法」ならば「近辺の土地の緯度測量」はもちろん、「大海で遥かに隔てられる土地の緯度測量」も同様に緯度が精密に測定できた。
日本地図を開くと――日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島があり、遠く隔てた東端には伊豆諸島の神津島(こづしま)がある。
下図に示すように、沖ノ島と神津島は天頂緯度が同じ同緯度(北緯34度15分)である。
沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候地であり、亜熱帯地域の神津島は冬でも雪が降らず暖かい。
ゆえに、下図に記したごとく、沖ノ島を「西冷」とし、神津島を「東暖」と呼ぶことにした。
下図に示すように、「中国の北部(禾)の海岸線地域の気候は南部海岸線地域(呉)より冷たい」。
「中国の南部の海岸線地域の気候は北部海岸線地域より暖かい。
ゆえに、中国の北部の海岸線地域は「北冷」、南部の海岸線地域は「南暖」となる。
下図に示すように、中国の海岸線地域の「北冷」と日本列島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、中国の海岸線地域の「南暖」と日本列島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する。
ゆえに、下図に示すように、日本列島の暖かい気候の「東」は中国海岸線の暖かい気候の「南」のほうへ伸びていると――卑弥呼は立論した。
『魏志倭人伝』が記す末盧国(まつろくに)以下にある方位記事に則(のっと)ると、
日本列島は[東]に伸びずに[南]へ伸びることになる。
この方位記事によって、上図に示すように、本州の[西]にある九州が[北]に所在することになる。
ゆえに、対馬国・一大国を除く日本列島は【禾】【委】【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則って転回していたことになる。
下の上図は、現代の日本列島における九州が北陸・東海地方よりも西方にある本州地図である。
下の下図は、卑弥呼立論した九州が北陸・東海地方より北方にある転回本州地図である。
上の下図の【禾】【委】【倭】の字源に則る転回日本列島地理は、卑弥呼が錯覚した事実ではない地理であった。
しかし、卑弥呼は錯覚の転回日本列島地理を立論したことは事実であり、この転回日本地理によって倭女王に就任したのは歴史上の事実であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』には卑弥呼が考えた転回日本列島地理が記述されることになった。
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は原始以来の人類が受け継いできた天頂緯度測量にもとづく科学的意見であり、
紀元前2050年頃に八郎潟の偏(ほとり)に定住した益氏の王子が帝禹と帝益がとなえた方位論にもとづいて「下北半島・津軽半島は東北地方の南端となる」と教えた学術意見と合致した。(現在は下北半島・津軽半島は東北地方の北端にあると定まっている)。
このブログの初頭部で説明したように、紀元前3000年頃の黄帝時代初頭に生存した倉頡は「天理は南を正面にする。地理は北を正面する」と文字作成理論を定めた。
ゆえに、紀元前2100年頃に生存した帝禹(ていう)と帝益(ていえき)は「地理の正面の北は天理の正面の南となる」と論じて、「地理における北の地は北に在らず、南に在る」と定めた。
紀元前2050年頃にわが国の東北地方に定住した帝益の孫の王子は「帝禹と帝益の考え方に則(のっと)って、日本列島・本州の北端の下北半島・津軽半島は北(北端)に存在せず南(南端)に位置する」と定義した。
ゆえに、日本列島・本州地理は下図のごとくに転回することになった。
上図に示した益氏の孫の王子が立論した転回本州地理は、東北地方の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて立論した考え方であった。
ゆえに、日本列島の西部地域における九州は本州の最北・九州より東の北陸・東海地方が南に伸びている状況を益氏が立論して以来約2200年間も立証されていなかった。
益氏の孫の王子か約2200年後の西暦170年頃、上図のごとく、卑弥呼によって同緯度の沖ノ島・神津島の西冷・東暖の気候状況を注目して、益氏の王子が教えた転回本州地理は正しかったと証明された。
これゆえ、卑弥呼が提唱した「本州の東は東ではなく、南に伸びる」という意見は、益氏が教えた倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字の学術を修得した本州西部地域に居住する王・女王・氏族の長(おさ)たちは「正しい。まさに真実である」と賛同した。
そして、彼らは「これ以上、大乱をつづけて日々争っていると、地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊に激怒されて祟(たた)られ、大地(本州)は海中に沈没して人はじめすべてが滅亡するにちがいない」と深刻に悩(なや)んで心配するようになった。
だから、卑弥呼が立論した本州・西部地域の転回地理は倭国の大乱を一気に鎮静化(ちんせいか)する強大な威力を有した。
ゆえに、卑弥呼は本州・西部地域における最高位の女王に選ばれて就任し、わが国最初の「倭人国」が創立されることになった。
益氏の王子が教えた「下北半島・津軽半島は日本列島の北端ではなく南端となるという転回日本列島地理」は「東北地方一円の地中に棲む牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめて大災害が起きないようにした地理」であった。
だから、益氏の王子が立論した転回日本列島地理と同じく転回日本列島地理をとなえた卑弥呼は――卑弥呼が居住する地域辺一円の地中に棲む牽牛の死霊が激怒しないように騙しなだめて大乱が再びおきないようにしていた方策がなされて宮城を設営していた――ことになる。
というのも、『魏志倭人伝』には「倭の女王の卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)と素(もと)より和せず、(中略)、相攻撃しあう」と説明する記事が存在するからである。
本州・西部地域の倭人国において、男王・卑弥弓呼が治める狗奴国は卑弥呼と敵対(てきたい)していた。このため、大乱は倭人国の国中が完全に鎮静化(ちんせいか)したのでなく、狗奴国とは互いに小競(こぜ)り合いをして燻(くすぶ)っており、狗奴国軍が卑弥呼が住む宮城に攻撃してくるような情勢であったのである。
それゆえ、『魏志倭人伝』は狗奴国との争いが拡大して大乱とならないように、卑弥呼は地中の牽牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒しないように騙しなだめていた様子を下記のごとく説明する。
「名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道(きどう)を事(まつ)って能(よ)く衆を惑(まど)わす。年已(ねんすで)に長大なるも夫婿(ふせい)無し。男弟有りて佐(たす)けて国を治む。王と為(な)りし以来、見る者少なく、婢(ひ)千人を以て自ら侍(じ)せしむ。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞を伝えて出入す。居処(きょしょ)は宮室・楼観(ろうかん・見張り櫓)・城柵(じょうさく)を厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持(じ)して守衛す。」
上記のごとく、卑弥呼は軍事的施設の城を構成する柵(さく)をおそらくジャコウウシが敵にそなえる円陣のごとく円形にならべ、この円形の柵内(城内)に見張り櫓(やぐら・楼観)を建造して狗奴国軍が攻撃してくるのを日々警戒し、城の出入り口の門に兵を配置して守衛させていた。
卑弥呼は、城の柵内(さくない)の一画に建造した宮室に住んでいた。
卑弥呼を弟が補佐して国を治めていた。
その他に、一人の男子が飲食を給仕(きゅうじ)していた。
この男子の役割は、カワセミの求愛給仕行為からオスが嘴(くちばし)にくわえる魚をメスが受け取って食べる習性を真似(まね)したものと考えられる。
カワセミは、巣穴の近くにダミー(騙し)の穴を作る。
ゆえに、卑弥呼が居処する宮室にはダミー(贋物)の宮室が作られていたであろう。
卑弥呼を見た者は少なかったのは――おそらく地中に棲むジャコウウシの死霊が激怒するのを騙しなだめるために、卑弥呼も常に地中に潜(もぐ)るかのごとく姿を見せないようにする呪術(じゅずつ・まじな)いをおこなっていたからと考えられる。
卑弥呼が婢千人を侍(はべら)せていたのは――13歳くらいの婢(乙女)たちは最も強大な魔力を有すると信じられていたため、婢は倭国の大乱の戦場において呪(のろ)いの儀式をおこなって敵の呪的(じゅてき)な戦力を奪うことができる魔女として従事していた。婢は敵の魔女(呪術者・婢)も殺すことができる呪力を有するとされた。
だから、卑弥呼は城内に優秀な魔力を有する婢千人を生活させて、戦場で彼女たちが魔力を再び発揮しないようにして大乱が起きないようにしていたにちがいない。
以上のごとく、『魏志倭人伝』が説明してた「日本列島の東は南に伸びる」という転回地理は、卑弥呼が立論した【倭】の字源を表示する実在した地理であった。
「卑弥呼」の【卑】の字源・原義は「偉大な地理学者」であり、『説文解字』が解説する「下賤(げせん)なり」は字源・原義を失った誤った字説であった。
卑弥呼がとなえた転回日本列島地理は、倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の帝禹と帝益が立論した[北」(本州北端の下北半島・津軽半島)を[南]とする転回地理の意見と合致した。
だから、『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は歴史上に実在した事実であったことになる。
邪馬台国説学者たちは「本州の東は東ではなく、南に伸びる」と説明する転回日本列島地理は誤っている、事実ではない」と否定するが、この意見は空理空論あったことになる。
◆以上のごとく、わが国には確実に【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】が存在し、7世紀中半~8世紀初頭の飛鳥時代にも王朝基盤となる学術として存続していた。
だから、2世紀末~3世紀中半までのわが国の様子を約2000字で記述する『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】を【系統的に合理を超える合理の成立】をもって説明する、現在において先端科学的な論考で構成される最高・最良の史料であった。
次回の漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41―1」では【臺(台)】と【壹(壱)】の字源の相違を明確にし、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壹(壱)国であった」ことを証明する。
これゆえ、現存する12世紀末の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の「邪馬壹国」という表記は誤字ではなく正しかったことになる。
だから、卑弥呼が統治する倭人国には「邪馬臺(台)国」という名の王国は実在しなかったことになり,18世紀前半に新井白石がとなえて以来今日までの約300年間も多くの学者たちが継承してきた邪馬臺(台)国説は誤読の産物の空理空論であった事実が明白となる。
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