G-T0XYQT12LL アルファベットの起源: 卑弥呼の逆襲

アルファベットの起源

2024年10月28日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・36

始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史について説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。
これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって、
詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、
益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に居住したと伝えている。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸したであろう。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」であったのではないかと推定される。

注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」が夏音文字(かおんもじ)の【奴()】の字源・字義をあらわすことであった。
というのも、今から約4000年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)の両手の形や両脇(りょうわき)の形はいわゆる「C字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図は、「今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。
下図に示すように、倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の時代、()「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右手(西の手)」と、()「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵(こうていりょう・黄帝の廟と墓)の天頂にめぐってきた。
また、当時、()「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、()「十字の銀河の右足(西の足)」と、()「十字の銀河の子宮中央」が長江口(ちょうこうこう・長江の河口中央)の天頂にめぐってきた。
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上図の「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3535)が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、
下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。
下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。
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下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。
下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。
「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。
【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字(最初の文字)である。
ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。
【女偏】に【又】が加わる【奴()】の夏音文字(かおんもじ)は【又】と同義とあって「右手」を意味した。
したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河(右手)と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲(渦巻き)」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。
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わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は【奴()】の字について、下記のごとく解説する。
「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷(どれい)とする。『説文解字』は――奴婢(ぬひ)、みな古の辠(ざい・罪)人なり――とする。」
上記の【奴()】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴(な。ぬ)】の字源・原義を失った、後世(周代初頭以後)の転義であったことになる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が15回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、
『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、
白川静著『字統』や『説文解字』が【奴()】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。
だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前2050年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、
夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、
「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、
「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕(たがや)すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する18歳くらいの青年」を意味した。
ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬(ほうむ)る墓に循(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳(ひとみ)がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲(いけいえ)に選ばれたのである。

また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。
また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」にて詳細に解説したように、
対馬国(つしまこく)から数えて16番目の姐奴国(つなこく)18番目の蘇奴国(さなこく)20番目の華奴蘇奴国(かなさなこく)などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴()】の字源解説と異なり、
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

上記の4つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。
前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。
また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約4000年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な5基の土偶(どぐう)が共通する、土偶の両手と両脇(りょうわき)の「C字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。

以上のごとく、「後期縄文時代に作られた5基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な3点の事柄を表現することになった。
(
)「強大な力を有する聖獣(せいじゅう)の、ジャコウウシ」
(
)「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手(西の手)と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部

(C)「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】

◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。
白川静著『字統』は【倭】の字について「委()は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。
下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被(かぶ)りものを飾(かざ)るように観える、十字の銀河の図」である。
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上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、
下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。
このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。
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前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた5基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯40度」である。
下図に、今から約4000年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。
下図に示した「+赤緯40度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎(北緯40)の天頂」にめぐってきた。
また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手(西の手)と脇腹(わきばら)」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯37度の土地の天頂にめぐってきた。
そして、下図が示すように、当時(後期縄文時代初頭)、「十字の銀河の胸部と左手(東の手)の銀河部」が黄帝陵(北緯3535)の天頂を通過した。
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下に、群馬県の吾妻郡(あがつまぐん)吾妻町の郷原遺跡(ごうばら)遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。
下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被(かぶ)る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。
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下図に示したように、「男鹿半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、
「男鹿半島端の入道崎から以北のC字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹(わきばら)C字形」に造形された。
「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。
この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。
だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。
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ハート形土偶が出土した郷原遺跡(郷原集落)は、北緯3634分である。
下図は、約4000年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。
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〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術 第1巻 原史美術』(小学館発行)は下記のごとく指摘する。
「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもC字形曲線によっているという点である。つまり、体側(たいそく)はC字形と逆C字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」
下図に、上記の指摘を図示した。
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下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。
注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫()られていることである。
だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、
「黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵(北緯3535)の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。
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ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は
「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代(中期縄文初頭)の黄帝陵の天頂の位置」と
「現在(つまり、後期縄文初頭)の郷原集落の天頂の位置」を表示して、
【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。
当時の縄文人たちにとって、【精確(せいかく)な天頂緯度の測定】は【命(いのち)】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。
だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代(中期縄文初頭)と現在(後期縄文時代初頭)()北緯40(益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏)と、()ハート形土偶が出土した郷原集落と、()黄帝陵の天頂緯度を表示する機能(役割)がそなわっていたと考えられる。
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◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、
名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏(ほとり)を本拠地にして、
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字】などを教えひろめたために、
各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。
このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、
上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、
「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のC字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。

◆下図における左図は、千葉県銚子市(ちょうしし)に所在する余山貝塚(よやまかいづか・北緯3545)から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。
下図の右図は、埼玉県岩槻市(いわつきし)の真福寺貝塚(しんぷくじかいづか・北緯3556)から出土した「みみずく土偶」の図である。
両土偶の両脇はハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。
「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。
ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。
このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。
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下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡(かめがおかいせき・北緯4053)から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の図を配した。
顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。
この土偶の円環状(えんかんじょう)の枠取(わくど)りをほどこし、その中のレンズ状曲面に1本の沈線(ちんせん)を刻んだ目は「光を遮断(しゃだん)するもの」と見立てられた。
ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。
この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径(どうこうけい)を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。
この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。
下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にC字形と逆C字形に造形されている。
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上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。

◆下図は、長野県茅野市(ちのし)の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。
「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。
仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯36度の長野県茅野市の中ッ原遺跡(なかっぱらせき)から出土した。
仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様にC字形と逆C字形に造形される。
さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。
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この女神の仮面には1枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断(しゃだん)して瞳孔径を最大(mm~8mm)に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。

「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。
この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」を包囲する。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、
黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。
『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹(ひょう)が参加していた」とも記述する。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)に、〔虞()〕の要職に就()くことを命令された」と記述する。
【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。
ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。
この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。
ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖(しそ)」の帝禹(ていう)が天下を治めるまでの約200年~250年間、代々益氏の首長は【虞】の要職(ようしょく)に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事(じゅうじ)して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。

したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、
「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。
上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、
益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。

「虎」といえば、前ページでも指摘したように、
夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体(妊婦)が雷鳴(らいめい)や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。

また、夏音文字【奴】の字源・字義は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」
(
)「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する18歳くらいの青年」
(
)「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。
下図は、「仮面の女神の正面図」である。
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上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、
「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)を為()す」という文があり、
この文は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。
危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。
ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛(まも)る骨盤(こつばん)」に見立てられ、
また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、
【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣(せいじゅう)】と定められた。
だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。

下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。
黄帝陵は北緯3535分である。
黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生(ぐんせい)していた。
したがって、黄帝時代、冬になると北緯3535分より以北の黄土高原は凍土地帯(とうどちたい・ツンドラ地帯)になって、ジャコウウシは群生していたことになる。
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それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯3634分、
後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯3545分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯3556分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯36度であるゆえ、
これら4基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原(ツンドラ地帯)の緯度とほぼ同じであったことになる。
だから、これら4基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。
これら4基の土偶からして、北緯4053分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。

◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市(いしまきし)から阿武隈川(あぶくまがわ)の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視(ぎょうし)していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。
ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。
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下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。
ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
したがって、下図に示したように、
(
)「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、
(
)「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。
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その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市(しおがまし)に所在する島の名は「寒風沢島(さぶさわじま)」、
男鹿半島の根元にある成層火山(せいそうかざん)の名は「寒風山(かんぷうざん)」であり、
両者は「寒風」の2字が合致する。
火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風(れっぷう)なかで完全にからだを保護して-70℃の酷寒(こっかん)にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色(あんかっしょく)の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛(ぼうぎょもう)でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。
したがって、「寒風沢島」という名も「-70℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。

では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。
卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立(ていりつ)して覇権(はけん)を争った状況は「中原(ちゅうげん)に鹿を逐()う」と表現された。
つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。
司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益(ていえき)は故・帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に争わずに譲(ゆず)った」と記述されている。
この「帝益の戦争で決めずに禅譲(ぜんじょう)した事績(じせき)」を表現した名称が、
「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。
オスの鹿が争うとき、角(つの)の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定(さだめ)て争わない。
ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競(きそ)われた」と伝えられることになった。
その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。
ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。
以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、3世紀の三国時代(卑弥呼時代)以後に成立したと考えられる。

前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、
2200年後の卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀半ば)において、
『魏志倭人伝』における34の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度(ひんど)が最多になったのであろう。
『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と10ヵ国存在して、最多である。
また、そのうちの2ヵ国は「奴国」という同名である。
上記したように、後期縄文時代、()「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と()「男鹿半島」の2ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が2国存在することになったのであろう。

◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠」は北緯4130分~北緯42度に位置する。
下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端(大間町)」は北緯4130分である。
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ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。
下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島(つがるはんとう)「の西部にある「十三湖(じゅうさんこ)」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。
ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島(なつどまりはんとう)は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。
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下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯4130分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。
「陸奥湾(むつわん)」は「女性の骨盤(こつばん)」に見立てられた。
倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛(まも)る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。
だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱()】の字源・字義をあらわした。
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上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬(やま)」という語をあらわした。
というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。
ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。
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下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門(しょうせんもん)」、頭頂骨(とうちょうこつ)にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門(だいせんもん)」もまた、「邪馬」とよばれた。
出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。
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「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪(なな)め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径(しゅういけい)で骨盤入口を通過する」。
今日の産婦人科では「出産児が頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。
せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気(けなげ)な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命(いのち)】の尊厳(そんげん)をあらわす光景である。
だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。

以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。
だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊(死霊)が棲む地】となって結縄(けつじょう)・書契(しょけい)・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。
その証拠に、712年1月28日に成立した〔古事記上巻 并(あわ)せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。
この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。

◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国(つしまこく)に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(いちだいこく)に至る」という記事がある。
上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。
「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。

下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
そして、「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ)」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対(いっつい)になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。
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『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。
「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。
下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱()】の字源をあらわした。
これゆえ、「一大国」は「【壱()】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐(わか)れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。
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下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪(なな)め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。
上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。
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だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石(あらいはくせき)以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。
「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。
白石以来約300年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和(やまと)」の「やま」や「山門(やまと)の「山」である。

「邪馬」は「子宮から堅(かた)い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。
いっぽう、「邪馬臺()国」の【臺()】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台(うてな)」のあいだには関連性はまったくない。
だから、「邪馬」と【臺()】は結ぶつくことができないゆえ、本来(ほんらい)、「邪馬臺()国」という語は不条理(ふじょうり)きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。

以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消(まっしょう)することができない。
「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。
白石以来の約300年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。
だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合(ふつごう)な記事を抹消し無視する独断(どくだん)と偏見(へんけん)であったことになる。

前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯3535分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。
「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯3535分である。
だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。

日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯3535分あたりとなる。
ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳(はしはかこふん)や纏向遺跡(まきむくいせき)が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯3535分ではないことが一目でわかる。
同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。
この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。

◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文章である。
この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後(どんづまり)は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。
そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。

前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後(どんづまり)」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。
また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国(壱岐)」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、
「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。
だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。

以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、
「白石以来300年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。

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2024年9月 7日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・29

魏の名将・司馬懿(しばい)による燕(えん)の公孫淵(こうそんえん)討伐と【倉頡の文字作成理論】の関係

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて30番目の「狗奴国(くなこく)」は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と、広島県東部の一画(福塩線が通る地域より東部)と岡山県、いわゆる吉備地方(きびちほう)」であった。
旧国だと「狗奴国」は「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方」であった。
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『魏志倭人伝』は「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった」と記述する。
下図に示す「小豆島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「狗(いぬ)の姿」に相似する、つまり「狩猟犬(しゅりょうけん)」に見立てられた。
また「岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、つまり「狩猟犬の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、ジャコウウシの群れがいる方向へと逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「小豆島の地宜」の【狗】「狩猟犬の姿」と、「児島半島の地宜」の【奴】「ジャコウウシの姿」にもとづき、卑弥呼は「吉備地方」の小国名を「狗奴国」と定めた。
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前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り首尾一貫(しゅびいっかん)して1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているために【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、上記したように「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【論理的に合理】が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」では、下記のごとく指摘した。
魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)以前の、漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、220年において、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、
魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記した「銀河の中心・胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河」を、これから以後は「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

すぐ前のページにて「220年に、後漢の献帝(けんてい)から禅譲(ぜんじょう)をうけて、魏の曹丕(そうひ・文帝)が帝位についた」と指摘(してき)した――その「220年の元号」は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号は――漢は赤の火徳によって天下を治めたゆえ、当時の五行説(ごぎょうせつ)では「火」の次は「土」とされ、この「土徳」の色は「黄色」とされていたため――「黄色の初め」すなわち「黄初」という元号となった。

しかし、「黄初」という元号は、上記したように、漢の赤の火徳の次を意識した元号名であるが、
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事をも意識して「魏が天下を治める」と表示するものでもあった。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」は――208(漢の建安十三年)に蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が、赤壁(せきへき)の戦いで魏の曹操(そうそう)を大破(たいは)し、天下三分の大勢(たいせい)となった以来の3世紀の黎明における東南の地平線から昇る「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」に近似(きんじ)していたからである。
ゆえに、魏の220年の「黄初」という元号は、「天下三分の大勢となった、この黄色い土徳の黎明の時(初期)に、魏が天下を治めることを誓う」と表示するものであったと考えられる。

◆下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における、天の北極と春分点の位置を求めて、
「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)することが明らかになる。
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したがって、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していたと考えられる。
つまり、「黄武」という元号をもって「呉は黄帝軍の強大な武力を有して天下を治める」と誓いを立てたにちがいない。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。

呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であったからである。
当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていた。
このため――呉との軍事同盟が知られると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされて燕は滅亡すると、公孫淵は考えたと推測(すいそく)される。

上記したように、呉の孫権は燕の公孫淵が呉との同盟を拒否したのは、倭人国が燕の背後の脅威となり、魏と倭人国の軍に挟み撃ちにされて燕は滅亡すると恐れたからと推測したにちがいなく、
孫権は東鯷人国(とうていじんこく)が倭人国の背後が脅威となるように――倭人国の隣国の東鯷人国遠征を決意した。
この呉軍の遠征は、広大な太平洋を横断して日本列島に到着しなければならない。
だから、孫権が並々(なみなみ)ならぬ決意でおこなわれた東鯷人国遠征は公孫淵の同盟拒否の原因は燕の背後の脅威の倭人国にあると推定したにちがいなく――天下を手中に入れるためにはどうしても燕を天下二分の呉・蜀連合軍側に引き入れる必要があるということで、倭人国の背後の脅威となる東鯷人遠征を決行したと考えられる。

230(黄竜二年)、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国における夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。
おそらく、呉の遠征軍の大型船による漕()ぎ手の力では、呉軍の大型船は台湾沖の黒潮(くろしお)に押し流されて横断できなかったのであろう。
ゆえに、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅して、大失敗した。
遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は再度の東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。

◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する記事がある。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
ゆえに、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
上記したように、当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――つまり、「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたときに、魏軍を助けて倭軍も出兵(しゅっぺい)し・共に戦う軍事同盟」を意味するものであった。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と記述されてるが、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかった。
しかし、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため――魏軍のエースの司馬懿が留守(るす)し、また魏都洛陽には兵は手薄(てうす)になって防衛戦力が弱体化していたにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を一気(いっき)に襲撃すれば魏は滅亡する可能性があった。
しかし、孫権は――名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には何か秘策(ひさく)を企(たくら)み、大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない。ゆえに、呉・蜀の連合軍が一気に洛陽を攻めれば多数の兵を失って窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になった孫権は呉・蜀の連合軍を待機させて洛陽を攻撃しなかった。

◆前述したように――238年より18年前の220年、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫(せま)って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は【黄初】であった。
魏が毌丘倹(かんきゅうけん)を最高責任者に任命して237年に開始した燕の公孫淵討伐は【景初元年の夏】であった。
毌丘倹の公孫淵討伐は失敗したため、翌238年に司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
司馬懿の軍は、【景初二年の六月】には遼東(りょうとう)に到着していた。
司馬懿の軍が遼東に到着した同じ【景初二年の六月】、倭人国が派遣した使節・難升米(なしめ)一行は帯方郡に到着していた。
そして、【景初二年の十二月】には、難升米一行は卑弥呼に与えられる「親魏倭王(しんぎわおう)」の爵位(しゃくい)と金印紫綬授与の約束をとりつけている。
難升米一行はすぐに帰国の途()につかずに魏都洛陽に長期滞在(ちょうきたいざい)して、重病で面会できない明帝に面会したごとく見せかける偽装工作(ぎそうこうさく)に参加している。

これらの経緯(けいい)には――司馬懿が公孫淵討伐の作戦にあって呉の孫権の動きを様々に推理しながら、公孫淵討伐を用意周到(よういしゅうとう)・綿密(めんみつ)な戦略のもとにおこなわれた一面があらわれている。
その証拠に、魏の曹丕が献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、司馬遷(しばせん)著『史記』に記述された【最初の禅譲】は、夏本紀(第二)に記述された「帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期(かだいれいめいき)の歴史である。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
ゆえに、司馬懿は『史記』夏本紀(第二)に記述された【益が啓に禅譲した歴史】について知っていたはずである。
この帝益の先祖がなしとげた第一の功績は「天球上(てんきゅうじょう)において太陽が一年間に通過する道――つまり、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置(そくりょうそうち)の発明」であった。
この益氏の先祖が発明した「黄道の測量装置」によって、【景】の字源・原義が成立した。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景】の字源について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、「地上千里にして日景に一寸の差があるという――と指摘(してき)する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における前者の「日景を正して、以て地の中を求む」という文を具体的に説明すると、

「夏代黎明期、帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置によって地面に正確に図化された【夏の銀河像】は西北の地平線下に潜(もぐ)る形状」であった。
また、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における後者の「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明する文を具体的に説明すると、
「五帝時代の4番目の帝王に就任した堯代初頭(ぎょうだいしょとう)において、夏代黎明期に帝位についた帝益(ていえき)の先祖の益が発明した黄道(こうどう)の測量方法と測量装置で明らかになった、その日の正午に南中(なんちゅう)した太陽はその翌日の正午に南中するまでの時間はちょうど一日ではなく、一日よりわずかの時間(数分)短い事象(じしょう)」を指していた。

下に、「黄道」、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道の大円(大きな円軌道)」が「天の赤道」と2327分の傾きで交わる図を配した。
下図における「黄道の大円の一日の目盛り」は「その日の太陽が正午に南中(子午線通過)してから翌日の正午に南中する時間」は、今日の時間でいうと「24時間ではなく、4分短い23時間56分で一周していること」になる。
この事象を、『周礼』の〔大司徒〕は「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明した。
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◆下に配した【夏】の金文形は、上記した【景】の字源・原義の秘密を伝えていた。
下図に示すように、【夏】の金文形は「ぎょしゃ座とおうし座」を象(かたど)り、【夏代黎明期における春分点は、おうし座のα星の西となりに所在した。】
この「ぎょしゃ座とおうし座」を図案する【夏】の金文形は異彩(いさい)を放(はな)ち、個性的で印象ふかい形をしている。
というのも、【漢字の字形】は【夏の銀河各部の形状】を図案するが定式(ていしき)であるにかかわらず――この定式をまもらず下図の【夏】の金文は〔星座の形〕を図案するからである。
〔星座〕を図案するものは、「へびつかい座とヘルクレス座」を図案する【道】の金文形の二例のみしか、わたくしは知らない。
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上記したように、益氏の先祖は五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に「黄道の測量方法と測量装置」を発明したと考えられる。
下に、「帝堯代における秋分の日の午前〇時の天文図」(夏至の午前6時・冬至の夕刻6時・春分の日の正午の天文図)を配した。
下図に示したように、帝堯代には、上図の【夏】の金文形の字源「ぎょしゃ座とおうし座、そして春分点が南中(なんちゅう・子午線通過していた)
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上図が示しているように、秋分の日の午前〇時には【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬()かる春分点」が「春分の日の正午における太陽の南中高度」に合致して位置した。
このときの【大半の夏の銀河の姿】は西北の地平線(つまり、地の中)に潜(もぐ)っていた。

下図は、帝禹が生存した夏代黎明期(かだいれいめいき)における、【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬かる春分点が春分の日の正午の太陽の高度と合致する天文図」である。
下図に示すように、上図の「帝堯代初頭における秋分の日の午前〇時の天文図」と同様に、「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時における【大半の夏の銀河】」もまた地の中に潜っていた。
ゆえに、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と解説した。
帝禹が発明した日景測量、つまり「日々【夏の銀河の各部位】を測量する方法と測量装置で地面に図化した【夏の銀河像】」は、
下図のごとく、「その大半が西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であった。
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帝禹(ていう)が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した夏代黎明期より約400年前に、帝益(ていえき)の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明していた。
ゆえに、帝禹が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した紀元前2080年頃? 【黄道の大円における一日の目盛り】は、つまり「その日の太陽が正午に南中してから翌日の正午に南中するまでの時間は一日よりわずか短い事象」は解明されていた。

これゆえ、上図の「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」において「南中した【夏】の金文形(ぎゃしゃ座とおうし座を図案する金文形)」は、
『周礼』の〔大司徒」の【景】の「日景を正して、以て地の中を求む」や「地上千里にして日景に一寸の差があるという」とする字源解説とともに、【景】の字源・字義を伝える役割を有することになった。

前述したように――魏の公孫淵討伐が開始された237年の魏の元号は――【景】に【初】が加わる【景初】であった。
しかも、毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者に就()いておこなわれた公孫淵討伐の開始は、【夏】をあらわして【景初元年の夏】であった。
また、毌丘倹の公孫淵討伐が失敗したため、司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。

このような【景初】という元号の【景】の字源に、夏代黎明期に生存した帝益が密接に関係した。
前述したように、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、
司馬遷著『史記』に記述された【最初の禅譲】は夏本紀(第二)に記述された「帝益が帝禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期の歴史であった。
ゆえに、「景初」という元号の「【景】の字源にもとづいて決行された毌丘倹の公孫淵討伐の初め(開始)」は――金文形の【夏】の字に因(ちな)んで【景初元年の夏】と決めたにちがいない。
毌丘倹が公孫淵討伐に失敗したため、「司馬懿による公孫淵討伐」は――【景】の字源にもとづいて、上図の【夏】の金文形となった「ぎゃしゃ座とおうし座」が、帝益が禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲した夏代黎明期における春分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)した高度(位置)」に因み、「景初二年の【春】」と決めたにちがいない。

なお、参考までに、下に「卑弥呼が生存した3世紀の三国時代の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図に示すように、3世紀の【夏】の字源「ぎょしゃ座とおうし座」は、春分の日の正午の太陽の南中高度には位置していなかった。
ゆえに、「景初」という元号の由来(ゆらい)にはならなかった。
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以上のごとく、【景初】という元号は――夏代の初め(黎明期)、その先祖が【景】の字源となった「黄道の測量方法と測量装置」を考案した益氏の子孫の帝益が禹の息子の啓へ禅譲した、その歴史に因(ちな)んで決行された」とあらわしている。

◆前述したように――【呉の黄竜元年(229)】、帝位についた呉の孫権は、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否された。
【翌黄竜二年(230)】、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国(とうていじんこく)に遠征(えんせい)させた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)して、遠征は大失敗した。
この【黄竜】という元号は――前述したように「夏の銀河における【巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河】が地平線の東南から昇る光景は、黄帝時代と229年・230年は相似する」とあらわしていた。
ゆえに、公孫淵討伐が決行された【魏の景初】という元号について――司馬懿は英才(えいさい)・孫権ならば、【夏代黎明期と229年・230年の黎明(れいめい・夜明け)に、「夏の銀河」が東の地平線が昇る光景は相似する様子】をあらわすという知識を必ず有していると推定して――司馬懿は、「孫権は一気に魏都を攻撃しない」と推理して公孫淵討伐の戦略を組み立てたにちがいない。
言いかえると、司馬懿は――孫権は益氏(えきし)が移住した地は倭人国であろうと推定し、この推定と共に夏代黎明期の歴史を利用して――公孫淵討伐の作戦を企(くわだ)てたことになる。

魏の景初元年(237)・景初二年(238)当時――孫権は230(黄竜二年)における、一万の水軍を日本列島の倭人国の背後の東鯷人国に遠征させて台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅した作戦の大失敗に精神的に大ショックをうけて・トラウマになっていたにちがいない。
このため、孫権は倭人国が使節を派遣して魏と結ぶ軍事同盟に過度(かど)に反応(はんのう)して、用心(ようじん)深く・慎重(しんちょう)になりすぎたため――司馬懿が大軍を率いて兵が手薄(てうす)になって留守(るす)にした魏都洛陽を孫権が一気に攻撃する動きを封(ふう)じるに大いに役立つことになったのである。
こういう次第(しだい)であったゆえ、孫権は天下二分の呉・蜀連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃しなかった。

◆『史記』を著作した司馬遷(しばせん)は、「太史公(たいしこう)」と称(しょう)された。
ゆえに、今日『史記』と呼ばれる歴史書の書名を、司馬遷は『太史公書(たいしこうしょ)』とした。
三国時代以後、『太史公書』は『史記』と呼ばれることになった。
「太史公」は現代風にいうと「歴史局の長・総裁(そうさい・トップ)」を意味した。

しかし、世間では「太史公」は「星占い、つまり占星(せんせい)の長」であると思われていた。
というのも、司馬遷の父の司馬談(しばだん)は占星術と易学を熱心に研究していたからである。
しかし、当時における「占星術と易学」は〔「夏の銀河各部の形状」から文字を作成した【倉頡の文字作成理論】の研究を隠蔽(いんぺい)する方法〕であった。
【倉頡の文字作成理論】は国家・王朝が最も厳重(げんじゅう)な機密であった。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論】を世間が知るように研究すると本人はもちろん家族あるいは一族まで死刑となった。
だから、「占星術と易学の研究」という名のもとに偽(いつわ)って、司馬談は【倉頡の文字作成理論】を熱心に研究したのである。

司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)には、倉頡や【倉頡の文字作成理論】について1字も記述していない。
しかし、司馬遷は、倉頡の歴史や【倉頡の文字作成理論】に精通(せいつう)していた。
ゆえに、倉頡についての説明は書き出すと詳細になって国家・王朝が最高の大罪(たいざい)とする【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する行為】まで深まってしまうのを自重(じちょう)して――司馬遷は『太史公書』つまり『史記』が焚書(ふんしょ)される、つまり反逆の書とされてすべて燃やされてしまうのをふせぐために、倉頡について1字も記述しないことにしたにちがいない。
紀元前126年に二十歳になった司馬遷は、真っ先に中国南方の淮河(わいがわ)・長江の地域に旅した。
この淮江への旅は、【倉頡の文字作成理論の研究・学習】を目的にしたにちがいない。
司馬遷は淮江からはじめて中国のほとんどの全域を周遊(しゅうゆう)し、民情に接し、様々な史蹟を見学している。
これらの旅も【倉頡の文字作成理論の研究・学習】が目的であったにちがいない。
というのも、【正しい歴史書を著作するため】には、どうしても【倉頡の文字作成理論を研究し・学習する必要】があったからである。

◆司馬懿(しばい)は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
だから、司馬懿は『史記』に精通していたゆえ、五帝本紀(第一)・夏本紀(第二)はじめ陳杞世家(ちんきせいか・第六)の「帝王になった益の子孫は中国のどこの地に封ぜられたか不明である」という記事についても知っていたにちがいない。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であるゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

司馬懿は魏軍のエースにしてトップの長であった。
ゆえに、倭人国から帯方郡、帯方郡から魏都へ送られた倭人国からの文書は司馬懿の手元に届けられ集められた。
だから、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は――公孫淵討伐より以前に送られていた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で魏が用いる楷書に書き代えた国書を読んで――「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する。益氏の子孫はおそらく倭人国に移住したと思われる」と察知したことになる。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」であったと記す。
「司馬懿」と「邪馬壱」の3字は、両者の先頭の字は【司】と【邪】と相違するが、次の【馬懿】と【馬壱】はほぼ同じである。
つまり【懿】の偏は【壹()】であるゆえ、「邪馬壱国」の後ろ2字「馬壱」の【壹()】と同じとなる。
したがって、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、【壹()】の字源は「十字の銀河の子宮。または女性の生殖器官の骨盤・子宮・産道」であると知っていた。

倭人国から大海を越えて帯方郡や魏都に到着する倭人国の使者たちが必ず「大夫(だいふ)」と名乗る
ゆえに、司馬懿は「大夫」の意味について興味を抱き研究した――あるいは倭人国の使者たちから聞きただして、「大夫」は「夏代黎明期、益氏の王子と若者たちが荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて倭人国に到着した。その大海を越えて吾は帯方郡や魏都に到着した」と倭人国の使者たちが自画自賛(じがじさん)する語であることを知ったにちがいない。
『万葉集』の「大夫」は「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と記す。
ゆえに、「大夫・益荒男」は「中国から荒波逆巻く大海を渡って日本列島に定住した益氏の王子と若者たち」をあらわす語であったことになる。

◆前記したように、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」と指摘する。
このような【景】の字の解説は、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、すなわち「黄道の大円」について説明している。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「地上千里して日景に一寸の差があるという」という解説を、
〔現代における時間の分〕に換算(かんざん)すると、1(黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×241440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
このように4分短いのは地球が太陽のまわりを回っているために起()きる。
この一日4分ずつ短いずれは、一年すると前年の初めの位置にもどって360度の大きな円形となる。

『周礼』は紀元前11世紀に生存した周公旦(しゅうこうたん)が作ったと指摘されていたが、現在では戦国時代末期に成立したと考えられている。
『周礼』には「周王朝の文物・習俗・政治制度」について記述され、戦国時代以後の儒者(じゅしゃ)たちにとって理想的な制度とみなされた。このため、後漢時代や三国時代には『周礼』に通じる人々も存在し、あるいは研究する人々もいた。また、『周礼』は古来の学術や文学などを研究する人々にとって重要な経典(きょうてん)であった。
前ページに示した「ぎゃしゃ座とおうし座に漬かる、春分点」をあらわす【夏】の金文は周代に出現した古代漢字であり、上記した【景】の「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」字源解説の出典『周礼』の〔大司徒〕は、周代の文物・習俗・政治制度について説明する経典であった。
これゆえ、三国時代において『周礼』は人々に注目されていた経典であったゆえ、司馬懿も『周礼』を読んでいたにちがいない。
ゆえに、前述したように、司馬懿は【夏】の金文形「ぎゃしゃ座とおうし座」の秘密と、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説の秘密について精通していたにちがいない。

◆下図に示すように、邪馬壱国だ・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の足摺岬(あしずりみさき)を貫通している。
「足摺岬」の別称は「蹉跎岬(さだみさき)」である。
『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」になった――と説明する。
「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。
【馬】の字源「フタコブラクダ」の歩き方は「側体歩(そくたいほ)」といって「同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」。
このような「フタコブラクダの側体歩」はあたかも「フタコブラクダがつまずいて転ぶかのように観える」。

上図に示した東経133度が佐太神社の門前を貫通する様子をあらわした「古代出雲の地宜(ちぎ)」における右上には――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)に、「邪馬壱国」のうちの【邪馬】をあらわす「神門水海(かんどのみずうみ)」が所在した。
この「神門水海の地宜」は「出産した直後に両足で立たんとする【馬】・フタコブラクダの子どもの姿」に相似する。
「神門水海」における「フタコブラクダの前足は短く、後ろ足が長い」ゆえ、その様子は「つまずいて転ぶ」ことになる。
また、「宍道湖」は「片足の形」に相似するゆえ、「片足ではつまずいて転ぶ」ことになる。
このように、邪馬壱国の「神門水海」と「宍道湖」は「つまずいて転ぶ」という「蹉跎」という語をあらわした。

以上のごとく、烏奴国(あなこく)・高知県の蹉跎岬・佐太岬と邪馬壱国・島根県の佐太神社の門前を通過する東経133度は【景】の字源・原義をあらわした。

◆【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
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前述したように、「司馬懿」という名は先頭の【司】と【邪】の字は異なるが、後ろの【馬壱】と【馬懿】はほぼ同じである。
ゆえに、司馬遷の子孫であるゆえ【倉頡の文字作成理論】に精通していた司馬懿は自分の名に用いられる【懿】の字源、また【壹】の字源について熟知(じゅくち)していたにちがいないので――「邪馬壹()国」という名に用いられる【壹】の字源は「十字の銀河の子宮」であり、
しかも、上記したように、彼は「十字の銀河の西端から東端まで」は【景】の字源となることを知っていたにちがいない。
このような事情から、237年の魏の元号は司馬懿の意見にしたがって、明帝は【景初】と定めたにちがいない。

司馬懿は、249年にクーデターを起こして魏の実権を掌握(しょうあく)した。
2年後の2519月7日に、司馬懿は死去した。享年(きょうねん)73歳であった。
265
年、魏が滅び、司馬懿の孫の晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)が、武帝と称した。
280
年、武帝が天下を統一して、西晋(せいしん)王朝が創設された。
このような経緯から、司馬懿は、西晋の礎(いしづえ)を築いた人物とされた。

前述したように、司馬懿は『魏志倭人伝』に記述されていた【倭人国から送られた国書】を読んで「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を詳細に知っている」と察知し、
司馬懿は「【倭人国の国書】は中国にとってもきわめて重大にして貴重な学問書である」と認識(にんしき)して大事に保管(ほかん)した。
ゆえに、西晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)に任命された陳寿(ちんじゅ)は、西晋王朝に秘蔵(ひぞう)されていた【倭人国の国書】を閲覧(えつらん)して、
武帝(司馬炎)が治める太康年間(たいこうねんかん・280年~289)に完成させた『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』の作成資料として【倭人国の国書】を書き写して年代順にならべて記したことになる。
よって、国家と王朝が最も厳重な機密(きみつ)にして独占管理して書物に直接的に詳細に正確に記述することを厳(きび)しく禁止していたがゆえ、
中国では誰(だれ)一人も【倉頡の文字作成理論】を詳細に・正確に・組織的に説明する書物を作成すれば焚書(ふんしょ)され抹消(まっしょう)されたがために残さなかった【倉頡の文字作成理論】が詳細に・組織的に・論理が成立して説明される、きわめて希少価値(きしょうかち)の高い『魏志倭人伝』が残ることになったのである。

以上からして、名将・司馬懿は【倭人国の国書】を読んで【景初】という元号の基(もと)に孫権対策と公孫淵討伐の作戦を綿密(めんみつ)に立て、この戦略を明帝に意見を具申(ぐしん)して、公孫淵討伐を決行したと考えるべきことになる。

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2024年8月22日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・26

「鬼」と「食料」に関する大和近隣の志摩・伊賀・紀伊の小国名を解明する

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
「夏の銀河」のほかに、もちろん「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」も存在する。
しかし、「夏の銀河」が「もっとも印象的な、各部の形状なもっとも明確な、迫力にみちた銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
ゆえに、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であった。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国(つしまこく)から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」、
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」。

◆このブログでは――前回の「漢字の起源と発明を解明す・25」までにおいて、
卑弥呼が定めた最初の対馬国から数えて20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、すべての小国名に用いられる文字の字源・原義と各小国名の地宜(ちぎ)が理にかなって合理であることを詳細に解説して証明した。
このような「20ヵ国すべての小国名と地宜との関係において、まったく矛盾点が存在しない系統的な合理」が成立するのは、卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各小国名において前後の関係が共通項(きょうつうこう)で統一されるように配慮(はいりょ)していたからである。
今回のこのブログでは、(C)「【倭】の字源における男性グループ」のうちの、
対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」・22番目の「為吾国(いがこく)」・23番目の「鬼奴国(きなこく)」・24番目の「邪馬国(やまこく)」の4小国名に用いられる文字の字源・原義は、4小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)とすべて理にかなっていることを解説して証明する。
したがって、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国」という4小国名を定めたことになる。

下図に示すように、卑弥呼は対馬国から21番目の小国「現在の三重県南部、旧国の志摩(しま)」を「鬼国」、22番目の小国「現在の三重県北西部、旧国の伊賀」を「為吾」、23番目国となる「現在の熊野を除く和歌山県、旧国の紀伊西部」を「鬼奴国」、24番目国となる「現在の奈良県、旧国の大和」を「邪馬国」という小国名に定めた。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう〔各小国名は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて定められているという解説〕が煩雑(はんざつ)にならずに容易・明確にするためには、【夏の銀河の各部】に名称をつける必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、「鬼の姿に似る銀河」がある。
わたくしは「鬼の姿に似る銀河の東部」を「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
下図に示すように、【鬼】の金文形(周代に出現した字形)は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)・後頭部」と国際天文学で「北アメリカ星雲」と名づけられた星雲を包囲する「コールサック」と呼ばれる「暗黒天体部を細長く狭く長方形に区切った部分」が【鬼】の字源銀河となった。
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上図に示したように、「北アメリカ星雲」に隣接する銀河を、わたくしは「長方形の暗黒天体部」と名づけた。
 「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの東の端」ということになる。
【鬼】の金文形の上部は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)から後頭部」を図案し、【鬼】の金文形の下部は「北アメリカ星雲を包囲する細長く長方形」に区切る。

下図に示したように、「耳」のイラストを加えた箇所は「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀部河となる。
「北アメリカ星雲」も「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀河部となる。
下図に示したように、「【鬼】の金文形上部」は「飢()えてやせて小さくなった顔」をあらわす。
そして、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開く目の形をした銀河部と、鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部」は「餌が無く飢えたときの、弱い鷹(たか)の雛(ひな)と同じ巣に棲()む強い鷹の雛(ひな)の両目」をあらわした。
「飢えた強い鷹の雛は同じ巣に棲む弱い雛を餌(えさ)にする」。
ゆえに、「【耳】、すなわち弱い鷹の雛を食べる」ということで、【食】に【耳】を加えた【餌】の字義は「えさ」となった。
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上図における「北アメリカ星雲の色」は、下のカラー写真に示すごとく「血のごとく、真っ赤」である。
だから、「北アメリカ星雲」は「強い鷹の雛の餌となる弱い雛の、血で真っ赤にそまる死体」に見立てられた。
下のカラー写真における左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
下のカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
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下に、対馬国から21番目の小国「鬼国(きこく)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」を配した。
「鬼国」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」であった。
下図に示したように、「志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。
そして、「志摩の英虞湾(あごわん)周辺の地宜」は「餌を食べる鷹のくちばしと口の形」に相似する。
したがって、「志摩の地宜」は「哺乳類(ほにゅうるい)・鳥類・爬虫類(はちゅうるい)・両生類・魚類などの餌を肢(あし)のするどい爪(つめ)でつかんで、くちばしでむしりとって食べる鷹の横顔」に相似する。
また、「志摩の地宜」は「弱い雛を餌にして食べる強い鷹の雛の横顔」にも相似する。
だから、「志摩の地宜」は「鬼(かみ)が支配する自然界における冷酷で厳(きび)しい弱肉強食の法則」をあらわしているということで――卑弥呼は「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。
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712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』は、上巻・中巻・下巻の3巻で構成される。
この【『古事記』の序】は「上巻・中巻・下巻の3巻の【序】」ではない。
【『古事記』の序】は「上巻だけの【序】」である。
【『古事記』の序】は「上巻のみの【序】である」ため、【古事記上巻 并(あわ)せて序】と表記された。
『古事記』上巻のみの随所に〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記されて残る。

【古事記上巻 并せて序】は「夏音文字の伝来と習得や、夏音文字は夏の銀河各部の形状から作られた秘密や、夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にしたがって作成された秘密など」をきわめて難解な文章で解説している。
というのも、「夏音文字」は「朝廷が栄えるための政権基盤であった最高学問であったため、その学芸知識が容易(ようい)に理解できるように説明すると反体制側の人々に習得されて革命に利用されれば朝廷は滅亡すると心配された。だから、朝廷と国家は厳重に独占管理して、その秘密を容易に理解できるように説明する者はじめ、その家族および一族全員をも死刑にすると定められていた」。
これゆえ、【古事記上巻 并せて序】はきわめて難解な文章で構成されることになった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に具体的に解説して証明したように、
【古事記上巻 并せて序】冒頭の「臣安万呂言(しんやすまろまを)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの文章を要略すると、下記のごとく説明していたことになる。
「元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。わが国では前期縄文時代初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代初頭までの約2000年間の参時代、夏の銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造っていました。この縄文参時代における土器・土偶を造る芸術(造化)の神の伝統にもとづいて、後期縄文時代初頭に、中国から大海を越えてわが日本列島に渡来して定住した名門益(えき)氏が教え広めた夏音文字の学芸を習得しました。」

【古事記上巻 并せて序】の前半部に、「天武天皇と『古事記』撰録(せんろく)の企て」に関する記事がある。
この箇所の末部には、下記の記事がある。
「時に舎人(とねり)有り、姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是()れ廿八。人と為()り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す。即(すなわ)ち阿礼に勅語(ちょくご)して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞(きゅうじ)とを誦み習はしめたまひき。然(しか)れども運(とき)移りて世異(よかは)りて、未だ其の事を行ひたまはざりき」

上記の後半の「即ち阿礼に勅語して」という文から最後までの記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「そこで天武天皇は稗田阿礼に命令されて、帝皇の日継(天皇記)と先代の旧辞(『古事記』上巻の原書となった、夏音文字で書く上古史書)とを誦み習得(復興)させることにした。しかしながら天武天皇は崩御(ほうぎょ)され、時勢は移り変わって、いまだその撰録の事業は完成していません。」

上記した記事前半の「時に舎人有り」から「耳に払るれば心に勒す」までの記事を、
図にすると、下図のごとくなる。
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上図が示しているように、
(
)「十字の銀河」は「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」に見立てられた。
(
)「鬼の横顔に似る銀河のおける、十字の銀河を見る両目と後頭部につく大きく見開く目・アゴにつく切れ長の細い目まで」は「目に度(わた)れば」と表現された。
(
)「鬼の横顔に似る銀河の口」は「口に誦み」と表現された。
(
)前ページにて【鬼】・【耳】・【餌】の字源解説において、「【耳】の字源銀河部位は、餌(えさ)となって存在しないこと」になった。
このため「耳に払るれば」、つまり「耳は払われて形が存在しない」と表現された。
(
)「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体の十字の銀河を見る、鬼の横顔に似る銀河の両目における【心(心臓)】に相当する箇所」は「心に勒す」と記された。

以上のごとく、【古事記上巻 并せて序】は朝廷と国家が独占管理して最も厳重な秘密とした「上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記される夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて夏の銀河各部の形状から作られた」と説明していたのである。

◆『魏志倭人伝』の卑弥呼が定めた34の小国名もまた朝廷と国家が最も厳重な秘密とした「【倉頡の文字作成理論】にもとづいて、夏の銀河各部の形状から作られた文字の字源・原義」を説明するものであった。

対馬国から数えて22番目の小国は「為吾国(いがこく)」である。
「為吾国」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」であった。
古語において――「為吾国」の【吾】の字は「あ」または「あれ」と読み、「男性の一人称、俺(おれ)」を意味した。
下図における右側に配した「伊賀の地宜」と左側の「鬼の横顔に似る銀河の形」は、共に【吾】の「男性の顔の形」に相似する。
また、下に示した右図の「伊賀の地宜」は左図の「頭に角(つの)を生やす、鬼の横顔に似る銀河の形」に相似する。
〔なお、「伊賀の地宜」が「鬼の横顔に似る銀河の形」に相似すると容易に見立てることが察知できるように、下図の左側の銀河図の定式は〈右西・左東〉であるが、地図の一般形式に合わせて〈右東・左西〉にあらためた。〕
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「為吾国」の【為()】の字義は「ため。なす。つくる」ではなく、【偽()】の「まねする。いつわる」であった。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は、「長い鼻を有する象(ゾウ)の姿に相似する。
「象る」は「かたどる」と読み、「物の形をまねる。物の形に似せて作る」と意味する。
下図における「北アメリカ星雲」は「象の鼻と横顔の形」に相似する。
ゆえに、「北アメリカ星雲」が【為】・【偽】の字源銀河であった。
つまり、「北アメリカ星雲」は「象る(物の形にまねる。物の形に似せて作る)」の語源でもあった。
下図における「激流の銀河」は「大雨が降って洪水し、河川が氾濫(はんらん)して早瀬(はやせ)の水のごとく渦巻き瀧(たき)つあふれる急流」に酷似(こくじ)する。
だから、「激流の銀河」は「洪水・氾濫の河川の水の渦巻きあふれる形状に似せてまねる」ということで【偽】の字源となった。
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下図に、約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の状況を示した。
下図に示すように、中国南部の長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の中央)を「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目の中央」を貫通していた。
下図に名称を記さなかったが、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い目」の西となりは「北アメリカ星雲」である。
下図に示すように、「北緯3130分の長江口中央の緯度線」は「北アメリカ星雲の南部」をも貫通していたことになる。
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上図より前にて解説した「【偽】・【為】の字源銀河図」において、「北アメリカ星雲」は「象の横顔・鼻の形」に相似すると見立てられ――この「象の・鼻の形」から連想して【為】の契文形は「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全横顔身の形」に象(かたど)られた。
下図に示すように、長江口(北緯3130)の真西には「太湖(たいこ)」が所在する。
黄帝時代において「北アメリカ星雲の南部」が「太湖の北端(北緯3130)」の天頂にめぐってきた。
「太湖の地宜」は【為】の契文形と同じ「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全身の形」となる。
ゆえに、【為】の契文形の字源銀河「北アメリカ星雲」が「象の全身の形」に象られた、その事情は「北アメリカ星雲」を「太湖の象の全身の地宜に見立ててまねするもの」であったことになる。
【為】の契文形となった「北アメリカ星雲の鼻」は「激流の銀河のある南」の方に伸びる。
いっぽう、下図の「太湖における象の鼻」は「東」の方に伸びる。
だから、()【為】の字源銀河「象の鼻と横顔の北アメリカ星雲は太湖の象の全身の形」と異なり、
また、()「北アメリカ星雲の象の鼻は南に伸びるが、太湖の地宜の象の鼻は東へ伸びて」両者の形が異なるゆえ――「象の全身の姿」を象る【為】の契文形は【偽】の「いつわる」という字義を有することになったのである。
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上記したように、小国名「為吾」は「偽の吾(俺の顔)」ということになるゆえ、「頭に角(つの)を生やす鬼に似せて作る仮面をかぶる男性の顔()」を意味した。
下に示すように、「冬の銀河」に漬()かる「ぎょしゃ座とおうし座」が【夏】の金文形になった。
下図に示す「おうし座アルファ星」の西となりの「春分点」は、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して夏音文字を教え広めた紀元前2050年頃~紀元前2000年頃における春分点である。
下図の【夏】の金文形のごとく星座の形が字源になった事例はきわめて少なく――おそらく下図の【夏】のほかに【道】の「へびつかい座とヘルクレス座」の二例のみであろう。
下図の「ぎょしゃ座とおうし座」を字源とする【夏】の金文形は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」を表現している。
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下図に示すように、上図の【夏】の金文形における「鬼の仮面をかぶる顔(ぎょしゃ座)の部分の形」は「為吾国・伊賀の地宜」に相似する。
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だから、上記したように、小国名の「為吾」は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の顔」をあらわした。
その「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」は、上記したように【夏】の金文形「ぎょしゃ座とおうし座の形」をもって表現された。
というのも、上図に示したように、わが国が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を習得した後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)における春分点は「おうし座のα星の西となりに所在した」からである。
だから、【夏】の金文形が示すように、小国名の「為吾」は「夏でも春のごとく涼しい森林深き山国」と意味するものであったにちがいない。
その証拠に、「為吾国、旧国の伊賀」は「鈴鹿(すずか)山脈や室生(むろう)火山群などで周囲を山で囲まれている」。

『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が「其の俗、正歳四節(せいさいしせつ)を知らず、但(ただ)し、春耕(しゅんこう)・秋収(しゅうしゅう)を計って年紀を為()す」と説明する注がある。
つまり、裴松之は「倭人国では、春の耕作時を一年と数え、秋の収穫時を一年と数える、今日の一年を二年とする二倍暦であった」と指摘している。
この二倍歴にもとづいて、倭人国では春の耕作時と秋の収穫時において「豊かな食料の恵みを祈願・祝い感謝して男性が鬼の仮面をかぶって踊り舞う儀式」がおこなわれていた。
ゆえに、卑弥呼は「旧国の伊賀の地宜」から「春の耕作期と秋の収穫期に舞う鬼の仮面をかぶる男性の顔」を想像して、小国名を「為吾国(いがこく)」と定めたことになる。
上記したような為吾国における「鬼の仮面の、鬼」と「食料の儀式」が共通項(きょうつうこう)となって――対馬国から22番目国の為吾国の次となる23番目の小国は「鬼奴国」ということになった。

◆下図に示したように、対馬国(つしまこく)から数えて22番目の「為吾国(いがこく)」に隣接(りんせつ)するのは24番目の「邪馬国(やまこく)」である。
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番目の次の23番目の「鬼奴国(きなこく)」は、24番目国の「邪馬国」を飛び越えて23番目国となる。
というのも、「22番目の為吾国の地宜」と「23番目の鬼奴国の地宜」は「鬼」と「食料」が共通項(きょうつうこう)となるが――「邪馬国の地宜」は「鬼の形」となって共通しないために――卑弥呼は「邪馬国」を23番目国ではなく24番目国としたことになる。
そして、「23番の鬼奴国の地宜」と「24番目の邪馬国の地宜」は「食料」と「王者の風格」という点で共通する。
だから、卑弥呼は「為吾国」を22番目国、「鬼奴国」を23番目国、「邪馬国」を24番目国とした。
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下図に示すように、23番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」である。
前ページにて詳細に解説して証明したように「鬼国・志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。ゆえに、【鬼】は「鷹」を意味したゆえ、小国名の「鬼奴」の【鬼】も「鷹」を意味した。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」の小国「姐奴国(つなくに)」と「華奴蘇奴国(かなさなこく)」において詳細に解説し証明したように、
小国名「鬼奴」の【奴】は「体を空中に浮かす強力な翼」を意味した。

下図に示すように、「鬼奴国、旧国の紀伊西部の地宜」は「鬼の鷹が大空高く強大な力を示す大きな翼で悠然(ゆうぜん)と飛翔(ひしょう)する姿」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の和歌山県西部」の小国名を「鬼奴国」と定めた。
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大型種の鷹()は食物連鎖(しょくもつれんさ)の最高位となる。
上図の「鬼奴国(きなこく)の地宜」が示す「大きな翼をひろげて悠然と大空高く飛ぶ鷹の姿」は「王者の風格(ふうかく)」をあらわして雄々(おお)しい。
(
)このように、地宜が「鬼()の仮面をかぶる男子の顔に相似する為吾国」と、地宜が「鬼()が大きな翼をひろげて大空を飛翔する、鬼奴国」は共に「鬼」で共通する。
(
)また、「為吾国の地宜が示す、顔に鬼の仮面をかぶって舞う男子の姿」は「食物が豊かに実るを祈願し、あるいは豊かな食物を祝い・感謝する儀式」であった。
また、「鬼奴国の地宜」に相似すると見立てられた「大きな翼をひろげて悠然と大空を飛翔する大型の鷹の姿」は「食物連鎖の最高位の風格」を示すことになった。
だから、前述したように、「為吾国と鬼奴国」は「食物(食料)」が共通項となった。

◆対馬国(つくしまこく)からの23番目国の「鬼奴国」の【鬼】は「食物連鎖の最高位の、大型種の鷹」をあらわした。
これゆえ、次の24番目国の「邪馬国(やまこく)」は「倭人国において最も豊かな食料に恵まれていた」と考えられる。
というのも、「鬼奴国の地宜」が示す「大きな翼をひろげて大空を悠然と飛翔する鷹の姿」が「王者の風格」をあらわすように、
「邪馬国の地宜」もまた「倭人国において最も豊かな食料に恵まれる王国の風格」をあらわしているからである。
だから、「鬼奴国と邪馬国」は「食物」と「王者の風格」で共通した。

『魏志倭人伝』は、対馬国から24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」であったと列記(れっき)する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の13回・19回・20回・21回にて詳細に解説して証明したように、
下図に示す「餌(えさ)の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、【邪馬】と名づけられた。
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上図の「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、
「今日の産婦人科における医学用語の【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨(ずがいこつ)が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわさることができる仕組み】をあらわす語でもあった。
というのも、「せまい産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」に酷似(こくじ)するからである。
だから、下図に示したように「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」もまた【邪馬】と名づけられた。
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上記したように、「食料の草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」は【邪馬(やま)】と名づけられた。
下図に示すように、「転回方位の、旧国の大和(やまと)、現在の奈良県の地宜」は【邪馬】の「食料の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の横顔」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の奈良県」の小国名を「邪馬国(やまこく)」と定めた。
下図の「奈良県の地宜が示す、【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子をあらわす。
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奈良県の大和盆地には多数の川が流れこみ、水量豊かな穀物の生育に恵まれていた。
ゆえに、邪馬国・大和は倭人国で最も食料(農作物)に恵まれた王国であったと考えられる。
このため、当時において最高の学術国であった首都の邪馬壱国・出雲地方よりも邪馬国・大和は豊かな経済で栄える王国であったであろう。
上図の「邪馬国・大和の地宜の、その【馬】のフタコブラクダの横顔」は「フタコブラクダのボスが泰然(たいぜん)・悠然(ゆうぜん)として草を食べる王者の風格」をあらわしている。
だから「邪馬国」は「倭人国で最も豊かな食料に恵まれた王国」であったにちがいない。
以上のごとく、「邪馬国」は「現在の奈良県、大和」であった。
したがって、「奈良県・大和」は「邪馬台国」ではなく「邪馬国」であった。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。
ゆえに、「邪馬台国」は最初から空想の世界へと迷いこんだ空理空論であり、ナンセンスきわまりない早合点(はやがってん)の錯覚(さっかく)であったことになる。

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2024年8月19日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・25

愛あざやかに蝶が舞う琵琶湖周辺の5小国の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と、【東南の地平線から「銀河系の中心方向周辺の銀河」が昇る黎明(れいめい・夜明け)の天文図の光景】をもって、喩(たと)え話(ばなし)にして説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・24」では、
最初の対馬国から数えて13番目の「弥奴国(みなこく)」は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」であったことを証明した。
また、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河」であったと証明した。
さらに、対馬国から15番目の「不呼(ふこ)国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であったと証明した。
上記の「弥奴国、好古都国、不呼国」の3小国は、(B)「【倭】の字源における女性グループ」に組する。

このブログでは、対馬国から16番目の「姐奴国(つなこく)」と、17番目の「対蘇国(つさこく)」と、18番目の「蘇奴国(さなこく)」と、19番目の「呼邑国(こおこく)」と、20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」の位置と範囲を解明する。
これら「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国」もまた、()「【倭】の字源における女性グループ」の5小国である。
これら「5小国の地宜の解説と証明」によって、()「【倭】の字源における女性グループ」に属する10ヵ国すべての小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわしている証明が完了する。

下の図に示したように――
16
番目の「姐奴国」は「現在の福井県中・北部の敦賀市(つるがし)以北の、旧国の越前(えちぜん)」であった。
17
番目の「対蘇国」は「現在の岐阜県中・南部の、旧国の美濃(みの)」であった。
18
番目の「蘇奴国」は「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」であった。
19
番目の「呼邑国」は「現在の滋賀県であり、旧国の近江(おうみ)」であった。
20
番目の「華奴蘇奴国」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
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上記した19番目の「呼邑国」の【呼】の字源は「鳰(にお)」であり、現在の滋賀県・旧国の近江の「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
「呼邑国」以外の「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国」という4小国の名称は「蝶の羽化(うか)、成虫と蛹(さなぎ)、蝶の餌(えさ)となる草の華(はな)など」をあらわしている。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説して証明したように、15番目の「不呼国、現在の静岡県・旧国の遠江の浜名湖の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「花弁が集まる花冠(かかん)」に相似する。
したがって、「蝶は花(花冠)の蜜を餌」とするゆえ、
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番目の「花の地宜の浜名湖が所在する不呼国(ふここく)」に続く16番目の「姐奴国(つなこく)」は「背中に大きな羽根が生える、アゲハチョウなどの美しい蝶の形をした小国」であった。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「5小国名の範囲と位置の秘密」を解明するには、「蝶の成虫と蛹(さなぎ)に見立てられた銀河」を表示する必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「十字の銀河」の北となりのバック(背景)となる銀河と、「鬼の姿に似る銀河」の北となりの銀河を「羽根()の形」に相似すると見立てると――

下図のごとく、「十字の銀河」は「蝶の羽根の一部」と化し、「鬼の姿に似る銀河」が「蝶の成虫の体」となる。
また、「鬼の姿に似る銀河」のみだと、その形は「蛹(さなぎ)の姿」に相似する。   
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◆上記したように、15番目の「不呼国、遠江の浜名湖は、蝶が蜜を吸う花の形」に相似する。
ゆえに、16番目の「「姐奴国(つなこく)、現在の福井県中・北部の、旧国の越前の地宜」は「背中に大きな翼が生える蝶、アゲハチョウの成虫の姿」に相似すると見立てられた。
下に、「姐奴国の地宜」が「背中に大きな羽根が生えた美しく艶(あで)やかな蝶(チョウの姿に相似する様子」を図示した。
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これまでわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が詳細に解説し証明したように、「姐奴国」の【奴】の字源・原義は「ジャコウウシの強大な力」であったゆえ、要するに「強大な力」であった。
ゆえに、「姐奴国」の【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

「姐奴国(つなこく)」の【姐】の字は偏【女】に【且()】が加わって成立する。
【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな俎板(まないた)の初文(最初の文字)」である。
【且】の古代字形(契文形・金文形)には様々も異なる形があるゆえ、字源となった銀河や事物について決定することはできない。
しかし、「女性の背中は乳房や腹部の凹凸がある正面形と異なって、俎板(まないた)の食材をのせる面のごとく平らである」。
だから、【姐】の字は「背中が美しい妖艶な気っ風(きっぷ)のよい姐御(あねご)や、また豊かな乳房を有するたくましい母親」を意味することになったと考えられる。
上図に示した「姐奴国・越前の地宜における蝶の胸部は、たくましい母親の豊かな乳房の形」をしている。
ゆえに、『説文解字』は【姐】の字を「蜀(しょく)の人、母を謂()ひて姐といふ」と解説し、
白川静著『字統』は【姐】の字について「姉御(あねご)という」と解説する。

◆下の上図に示すように、「旧国の美濃(みの)の・東部の地宜」は「ジャコウアゲハの成虫の姿」におよそ相似すると見立てられ、
「美濃の西部の地宜」は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に相似すると解釈された。
ゆえに、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹が一対となる小国」、つまり「成虫と蛹の一対の国」を略して、卑弥呼は小国名を「対蘇国(つさこく)」と定めた。
「対蘇国」の【蘇】は「幼虫が死んだようになった蛹(さなぎ)から蘇(よみがえ)って成虫になる」を意味した。
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「美濃」は、「現在の岐阜県の中部・南部」であり、この県名の「岐阜(ギフ)」という名がつく「ギフチョウ」と呼ばれる「アゲハチョウ」が生息する。
【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣の【牛】の字源の「ジャコウウシ」と同じく「ジャコウアゲハ」は共に麝香(ジャコウ)の匂いがする。
この点からしても、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹の姿が一対となる小国」ということで「対蘇(つさ)国」と、卑弥呼は名づけたことになる。
〔注 ジャコウウシのオスとジャコウアゲハのオスが麝香の匂いがはなつが――ジャコウアゲハのオスの姿は人の男性よりも女性の姿に相似するというイメージのほうが強い。ゆえに、卑弥呼は対蘇国・美濃を「【倭】の字源における女性のグループ」に組するようにしたのである。〕

白川静著『字統』は【蘇】の字について、下記のごとく解説する。
――『説文解字』は「桂荏(けいじん)なり」とあり、紫蘇(しそ)の類であるとする。字は蘇息・蘇生の意に用いる。金文には国名に用い、字を穌に作る。その字形は、あるいは魚に桂荏などを加え、生気を保たせる意をもつものであるかも知れない。国名以外の古い用法がみえず、字義を確かめがたい。

上記のごとく、白川静著『字統』の【蘇】の字源解説は不明確である。
対馬国から15番目の「不呼国(ふここく)」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であった。
「遠江」の小国名【不呼】の「花の台(うてな)」に見立てられた「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の北東岸」には、「都田川(みやこだがわ)が上流から運ぶ土砂と水を外()く河口」がある。
下に、中央に「都田川」、右上に「引佐細江」を配した地図を示した。
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上図中央の「都田川流域(みやこだがわりゅういき)の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜(ちぎ)」は「子宮で育つ胎児」に、また「胎児が育つ子宮」に、あるいは「胎児が大きく育った出産児が通過する産道」に見立てられた。

大量の雨が降ると、都田川が氾濫(はんらん)して沖積平野一面が水に漬()かる。
洪水の水が引いてしばらくすると、都田川に魚が棲()みはじめ、禾(いね)科の草が沖積平野に繁茂(はんも)して蘇(よみがえ)り、また様々な艸(くさ)が繁茂して蘇生(そせい)する。
しかし、以前と同様に、沖積平野には小さな木が生えても、大木はほとんど生えない。
ゆえに、【蘇】の字には【木】の字が組しておらず――【蘇】の字は【艸冠(くさかんむり)】の下に【魚】と【禾】の字を加えて組織される。

つまり、漢字が起源した五帝時代初頭以来、鉄製の鍬が出現した古代まで――
わが国においては、中期縄文時代初頭(中国の五帝時代初頭)から3世紀中半の卑弥呼時代まで――河川の氾濫(はんらん)による洪水によって従来と同じ生活が再び維持(いじ)され、あるいは上流から肥沃(ひよく)な土が押し流されて豊かな実りをもたらすことになった。
つまり、洪水の後に従来と同様な生活が蘇生し、あるいはより豊かな実りを手に入れる幸運にも恵まれることもあった。
ゆえに、「様々な艸(くさ)が繁茂(はんも)して蘇生(そせい)し、川に魚がもどってきて棲()み、禾(いね)科の植物が川の流域の土地に繁茂して以前と同様の生活が蘇(よみがえ)る」ということで、【蘇】の字が成立することになったと考えられる。

中期縄文時代初頭(五帝時代初頭)から卑弥呼時代までにおいて、わが国においては、洪水・氾濫(はんらん)よりも日照り・旱魃(かんばつ)に苦しんでいたのである。
日照りが続いて乾いて堅く(かた)くなった田や畑の土を、当時の原始的な木製の鋤(すき)で耕す農作業は大変な重労働となった。
いっぽう、洪水に見舞われた土は泥状でやわらかいゆえ、当時の木製の鍬でもたやすく耕すことができた。
だから、上記したように「洪水で再びもとの生活がもどってくる」ということで、【蘇()】の字が成立したと考えられる。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編者『シンポジウム 弥生人の四季』(六興出版発行)は、〔金属の刃先〕と題して、下記のごとく説明する。
「弥生時代後期後半にはくわやすきの刃先に鉄が用いられた。岡山県の上東(じょうとう)遺跡出土のすきの身の先端部には、鉄の刃先を挿入(そうにゅう)した痕跡が残っている。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものだが、従来の木の刃先と比べれば、開墾・耕作に伴う負担が大幅に軽減させた。この鉄製の鍬・鋤先は中国・朝鮮半島に類品がなく、国産品と考えられている。」

上記先頭の「弥生時代後期後半」は「卑弥呼が生存した同時代」となる。
上記のごとくの「薄い鉄板の両側を折り曲げた簡単な鉄製の鋤(すき)」を用いても、日照りが続いて堅くなった土を耕すのは木製の鋤とほぼ変わらず大変な重労働であったにちがいない。

◆下に、対馬国から13番目の弥奴国(みなこく)・尾張、14番目の好古都国(こかたこく)・参河、15番目の不呼国(ふここく)・遠江、そして17番目の対蘇国(つさこく)・美濃の4小国図を配した。
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前ページにて解説したように、「不呼国・遠江の都田川流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)」は「胎児や女性生殖器官の子宮や産道」に相似すると見立てられた。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説し証明したように、
「弥奴国・尾張の知多半島(ちたはんとう)」は「女性生殖器官の卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ・卵管」に見立てられ、「知多半島北部の陸地」は「子宮」に見立てられた。
「好古都国・参河の渥美半島(あつみはんとう)」は「女性生殖器官の卵巣(らんそう)」に見立てられ、「渥美半島北部の参河の陸地」は「子宮」に見立てられた。

上図に示したように、対蘇国・美濃は弥奴国・尾張と好古都国・参河と隣接する。
したがって、対蘇国・美濃も女性生殖器官と関連を有すると考えるべき必要がある。
下に、卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管と卵巣(らんそう)と子宮と産道の図を配した。
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下に、上図に「卵巣上体(らんそうじょうたい)と子宮広間膜(しきゅうこうかんまく)を加える女性の生殖器官の半分形」を示した。
「女性の背中側にある卵巣上体・子宮広間膜」は「羽根()」のような形をしている。
ゆえに、「女性の羽根のような形をした卵巣上体・子宮広間膜を含む生殖器官」は「羽根が背中に生える蝶の成虫」に相似すると見立てられたにちがいない。
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下図に示すよう、「女性の生殖器官の大半を包囲して、子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤の形」もまた「蝶の成虫の姿」に相似する。
このような事情からも、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の地宜」は「蝶」や「蛹(さなぎ)」をあらわすことになった。
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◆下に、「蘇奴国・若狭の地宜」と「蛹の背中を裂()いて、羽化(うか)し始める蝶の姿」が相似する様子をあらわした。
「蘇奴」の【蘇】は「死骸(しがい)のような蛹から命がよみがえる蝶」をあらわし、【奴】は「蛹の背中を裂く強大な力」をあらわす。
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アゲハチョウの幼虫は4回の脱皮(だっぴ)をくりかえして蛹となり、その蛹の姿は強大な力を有するジャコウウシに似て太くずんぐりとしている。
「アゲハチョウの4回の脱皮」は「骨盤入口に入りこむときから膣口(ちくこう)から頭が誕生するまでの出産児の4回の回旋(かいせん)」に共通すると見立てられたにちがいない。
ジャコウアゲハは幼虫から死骸のごとき蛹となり、その蛹の背中を裂いて命が蘇(よみがえ)り、わずか数分で空中をひらひらと舞う成虫となる、強くてたくましい命を示す。
ゆえに、「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」の小国名を、卑弥呼は「蘇奴国(さなこく)」と定めたことになる。

◆下図に示すように、「現在の滋賀県、旧国の近江(おうみ)」は、対馬から19番目の「呼邑国(こおこく)」であった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」における「不呼国・遠江」にて詳細に解説して証明したように、【呼】の字源は「鳰(にお)」であった。
「近江、琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
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【囗()】の下に【巴()】を加える【邑(ゆう)】の字について、白川静著『字統』は「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐ)らしている形。(中略)。巴は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
したがって、上図における「琵琶湖を包囲する比良山地(ひらさんち)・野坂山地(のさかさんち)・伊吹山地(いぶきさんち)・鈴鹿山地(すずかさんち)」は「城壁」に見立てられたことになる。
つまり、「滋賀県・近江」は【呼】の字源地宜の「鳰ノ海」の周囲に【邑】の「多くの人が住む地域」であるゆえ、
卑弥呼は「呼邑国(こおこく)」という小国名に定めたことになる。

卑弥呼は――上図における「滋賀県・近江の地宜」は【呼】の字源「鳰ノ海」が「子宮と子宮にて育つ胎児」、【邑】の字源「城壁となる山地」を「骨盤」に見立てた――と考えられる。
つまり、卑弥呼は【呼】の字源の「鳰ノ海を羊水に潜(もぐ)っていても窒息しないで死なずに生きることができる不思議な生命力を有する胎児」に見立て、
また、卑弥呼は【呼】の字源「鳰の海」を「【邑】の字源・骨盤に包囲されてまもられる子宮」に見立てて、
「旧国の近江」の小国名を「呼邑国(こおこく)」と定めたことになる。

しかし、日本一最大の湖の「琵琶湖」を、「カイツブリ科最大のカンムリカイツブリ」と見立てずに、なぜ「カイツブリ科最小の鳰の姿」に相似すると見立てたのであろうか?
その理由は、下図に示すように、「琵琶湖の南端の岸の形」が「カンムリカイツブリの頭の形」に相似しないからである。
下図に示したように「琵琶湖の南端の岸の形」は「鳰の頭の形」に相似する。
だから、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。
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下に、「琵琶湖の地宜」を示した。
この「琵琶湖の地宜」は「母親の鳰が翼をひろげてはばたいて巣の過熱(かねつ)をふせぎ卵に涼しい風を送って冷やしている姿」をあらわしている。
つまり、「琵琶湖の北岸」は「涼しい風を送って巣の卵をひやす母親の鳰のはばたく翼」ということになる。
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内田亨代表著作者『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は、下記のごとく「鳰の巣の温度」について説明する。
(鳰の巣の温度は)、常に水温・気温より多少高く保持される。つまり太陽熱が巣材(すざい)中にたもたれ、巣材の醗酵(はっこう)熱も加わり(これは弱いが)、親鳥が長く巣を去っても卵はひえない。親鳥が卵を巣材でおおって去るのは、卵をかくすことのほかに直射による加熱をさけるためもあるらしい。(中略)。なお、東映製作の映画「水辺の鳥」で、露出卵(ろしゅつらん)あるいは巣材をかぶせた卵の上に親鳥が立って、翼をひろげてふるわせ、空気を送る動作が撮影されている。親鳥が巣の過熱を感じたときにおこなう反応的行動と思われる。」

上図の「琵琶湖の地宜」は「加熱する巣の卵に涼しい風を送るため、母親の鳰が卵の上に立って翼をはばたく姿」に相似すると見立てられた。
だから、「鳰の海、琵琶湖の地宜」は、上記した「鳰の親鳥が巣の温度を管理する、母親の深い強い愛」をあらわした。

◆対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
下図に示すように、対馬国から17番目の「対蘇国の地宜」は「ギフチョウやジャコウアゲハの蛹(さなぎ)と成虫が一対となる形」に見立てられ、18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化(うか)し始める蝶の姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化した蝶が華(はな)の化身(けしん)となり、羽根の【奴(強大な力)】で体を持ち上げて空中をひひらと舞う姿」をあらわしている。
だから、卑弥呼は「現在の京都府南部の、旧国の山城」の小国名を「華奴蘇奴国」とした。
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したがって、「華奴蘇奴国の地宜」は「死骸のような蛹(さなぎ)から美しく命が蘇(よみがえ)り、華(はな)のように華麗な蝶の成虫がわずか数分で【奴(強大な力)】で体を浮かせて空を舞う、強くたくましい命」を示していることになる。
ということは、「華奴蘇奴国の地宜」は、前ページで解説した19番目の「呼邑国」の「鳰ノ海・琵琶湖の地宜」が示すように「母親の子への強い愛情」を示していることになる。
言いかえると、「華奴蘇奴国の地宜」は「自らの身を裂いてたとえ死んでもよいから、妊娠したわが子を生まんとする強い母性」をあらわしていることになる。

上図に右下に示したように、「華奴蘇奴国」の【華】の金文形は「蝶の形に相似する小さな花を房(ふさ)のようにつける藤のような華(はな)の形」をあらわしている。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ダイコンを餌にするモンシロチョウの成虫の姿」に相似する。
モンシロチョウの餌となる「ダイコンの花」は、「小さな花が房(ふさ)のようにつく華」である。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ウスバシロチョウの成虫の姿」に相似し、「ウスバシロチョウの餌となる草のムラサキケマン」は「小さな花が房のようにつく紫色の華」である。
あるいは、「華奴蘇奴国の地宜」は「スジグロシロチョウの成虫の姿」に相似し、「スジグロシロチョウの餌となるイヌガラシやタネツケバナの華」は「小さな花が房のようについている」。

以上のごとく、「華奴蘇奴国の地宜」は「小さな花が房のようにつく華が咲く草を餌とする、小さな可憐(かれん)な様々な蝶の姿」に相似する。

対馬国から20番目の「華奴蘇奴国」の【華】は「蝶の餌(えさ)となる草に咲く花」をあらわす。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説し証明したように、次の21番目の「鬼国(きこく)の地宜」も「鷹の巣の雛(ひな)の餌」をあらわしていた。
下図に示すように、「鬼国、旧国の志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の地宜」は「飢()えたときに、強く育った雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌にして食べる形」をしている。
このように、20番目の「華奴蘇奴国」と21番目の「鬼国」という小国名は「餌」が共通する仕組みになっていて、巧妙(こうみょうにリレーがなされている。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊(こくれい)のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

そして、今回のブログをもって、対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、
(B)
「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国の小国名」は、
【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「各小国の地宜と各小国に用いられる文字の字源・字義」がすべて理にかなって合理が成立する仕組みになっていることを解説して証明した。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが主張するように「邪馬台国を説明した古文献」ではなかった。

『魏志倭人伝』の大半の記事は「卑弥呼の死から約40年後に、晋(しん)王朝が秘蔵(ひぞう)していた卑弥呼が書いた文書を伊都国の港で魏王朝の人々は用いる楷書に書き直した文書(倭人国の国書)を晋の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が1字も誤らないように慎重(しんちょう)に書き写した史料」、そのものであったことになる。
だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】についえ詳細に具体的に組織的に説明する古文献」であったことになる。

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2024年5月16日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・11

新井白石から始まる300年続く邪馬台国説は
【原始から続く科学】に反する空理空論である

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
現在、学界は「漢字を発明したと伝える、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と断定する。
しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」で証明したように、「倉頡伝説は荒唐無稽である」という定説は学者たちの早合点(はやがって)による憶説(おくせつ)であった。

倉頡は【夏の銀河の各部の形状から文字を作る理論(方法)】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXYA(ピクスタ)が撮影した。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が1回~10回まで繰り返して指摘しているように、また前回(10)で証明したように、
倭女王・卑弥呼が登場する書物で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「邪馬台国について説明する史料」ではない。
というのも、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が居住した倭人国の首都は、邪馬壹())国」と記しているからである。
また、『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しない。
「邪馬壹()国が正しく、邪馬臺()国は偽り・空想である証明」は、このブログ「漢字の起源とは発明を解明す」では、多分、2ヵ月後の7月にて詳細に具体的におこなう予定である。

『魏志倭人伝』に登場する「対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明」は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を後世に伝える、最も貴重な文献であった。

江戸中期に生存した新井白石(16571725)から約300年後の、現在の学者たちは、『魏志倭人伝』に幾つかの誤読を加え、その誤読で成立させた意見を誇示(こじ)して、「『魏志倭人伝』は邪馬臺()国について説明する書物である」という幻想を、日本国民が信じるように騙し続けている。

◆『魏志倭人伝』の記事を、【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて素直に読むとーー東へ延びているはずの日本列島の本州は南の方に延びていることになる。
そして、『魏志倭人伝』は初頭で、「対馬国の南の一海を渡る千余里して、一大国がある」と説明する。
対馬国は現在の長崎県北部にある対馬であり、一大国は対馬の南にある壱岐(いき)であった。

ゆえに、対馬国・北と一大国・南と定める方位規定は現在の日本地図の南北に合致する。
このため、学者たちはじめ多数の研究者たちは「対馬国と一大国の南北関係からして、東が南となるはずがない。だから、日本列島の本州は東ではなく南へ延びるという説明は誤っている」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』の「本州は東ではなく、南に延びる」という説明は、【倉頡の文字作成理論】を伝えるもので――【倭】の字源にもとづく卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理を語るものであった。

だから、『魏志倭人伝』においてはーー【現在の日本地図における、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】を正当性の盾(たて)・つまり理由にする思考方法は、まったく通用しない。

◆邪馬台国説学者たちはまったく気づいていないが――【現在の日本地図のごとく、天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方法】だと、倭人国の使者たちは魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏都の洛陽(らくよう)に到着できなくなる。
したがって、邪馬台国沖縄説の場合、倭の使者たちや船乗りたちは大海を越えて帯方郡や魏都に到着できなかったために、魏と国交を結べなかったことになる。
倭人国は魏と国交を結べなかったということは、魏は倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。
そうすると、約2000字で構成された『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

2000字の『魏志倭人伝』は1字も文字が記されていなかった白紙に化けるという話は、まさにキツネにつままれるデタラメであり、空理空論ということになる。

さらに、『魏志倭人伝』における
「古(いにしえ)より以来、倭人国の使者が中国に詣(いた)るに皆自らを大夫(だいふ)と称した」という記事はじめ、
「倭人国の外相(外務大臣)の難升米(なしめ)は大海を渡って魏都に到着し、後年、倭人国に帰国していた」という説明と、また
「倭の載斯烏越(そしあお)は大海を渡って帯方郡に到着して、倭国における相攻撃(あいこうげき)し合う内乱の様子を説明して、倭人国に帰国した」という説明と、あるいは
「倭の掖邪狗(ややこ)等二十人は魏都・洛陽に到着した」という説明などは
すべてまったくウソであったことになる。
しかし、このような「倭の使者たちは大海を渡ることができなかった」という状況が事実であったとしたならば、
前述したように2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が記されなかった白紙であったことになりーーこのような結果は絶対に信じることはできない。
ゆえに、この点からしても邪馬台国学者たちの意見は空理空論であったと確信できる。

◆上記したように――【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、倭人国の使者たちや使者たちと行動を共にした船乗りたちは、帯方郡と魏を隔(へだ)てる大海を往来することができないことになる。
というのも、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと「倭人国の使者たちと船乗りたちは大海を往来できなかった」という事実が――下図の「歳差状況図(天の北極の位置図)」によって明確に証明することができるからである。

緯度を測る簡単な方法は、天の北極を中心に円を描く北極星のかたよりをキャッチして地平線(水平線)から天の北極までの高度を計測する方法である。
天の北極の高度が3535分ならば、その観測地点は北緯3535分ということになる。
しかし、この方法だと、原始や古代には精密に北極星のかたよりを計測できる器具がなかったので――原始や古代の人々には、北極星のかたよりが精密に測量することができなかった。
原始や古代の人々が大海を往来して生存していくためには、【1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測ることができなければならなかった】。
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上図が示すように、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790(中国の五帝時代)のりゅう座α星と、現在から約76年後の西暦2100年頃のこぐま座α星である。
上記した二つの北極星が天の北極を中心として描く円の直径は1.5(90分・満月の3個分)である。
ゆえに、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極の高度)をキャッチすることになるが――この方法では【人間の目は命を失わずにすむ、1度の60分の1の1分の精度】で測定することはできない。
したがって、北極星のかたよりで天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、人々は旅先で命を絶った。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使者たちは出港してまもなく、大海にて命を失った。
だから、【天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】だと、『魏志倭人伝』は字が1字も記されていない白紙であったことになる。

上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10度離れていた。
ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約20度つまり1200分の円を描いていたことになる。
直径が約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置(高度)は命を失わずにすむ1分の精度で測量することは、人間の目では不可能である。
だから、原始や古代においては、遠くの地に旅して家族が待つ故郷に帰還するときや大海を往来するときに、人々が天の北極の高度を緯度に換算する方法では命を失うことになった。

このように、【現在の天の北極や北極星がある方角を「北」と定める方位規定】にもとづいて、「『魏志倭人伝』の日本列島の東は南へ延びる地理は完全に間違っている」という主張・意見は【原始から続いた科学】、
いいかえると【『魏志倭人伝』が説明する卑弥呼時代の真実や事実を解明するために必ず前もって知っていなければならない根本的な科学】に反する空理空論ということになる。
ゆえに、『魏志倭人伝』が「日本列島の東は南に延びる」と説明する転回日本列島地理には真実のカケラもない雲をつかむような作り話であると結論づけてしまうことは断じてできない。

◆下図は、【天頂点(てんちょうてん)と天頂緯度線】についての説明図である。
【天頂点】は【観測地点から90度の高度】、つまり【観測者にとって、最も高い天体部】である。
下図の右上に示すように――天頂点と重なる銀河部位の軌道は天頂点に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」となる。
この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
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上図に示した、銀河部位が天頂点に接近して西から東へ進む軌道は、「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」となる。
この「平らな【一】の字を示す天頂緯度線」を4秒から6秒間でキャッチすると、【1度の60分の1の1分の精度】で緯度が測定できた。
原始のときから、人間の目には日々鍛錬すると【1分の精度で緯度がキャッチできる能力】を有することができ、人間の脳には「【亠】をキャッチすれば命を失わずに生存することができると感知して行動する本能」がそなわっていた。

1度の60分の1の1分の精度で緯度を測る方法は、天頂点と重なる銀河部位の運行(軌道)において最も高くなって平らな【一】の線となる天頂緯度線を寸時(4秒~6秒の間)にキャッチすればーー1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できる。
天頂緯度線の中央の天頂点は、【重力の方向を上方にのばして天球と交わる天頂点の角度をあらわす度数(距離)】となる。
ゆえに、天頂点と天頂緯度線の度数は、天の赤道から天頂点までの角距離である。
天頂緯度線をキャッチする観測地点は、地球の赤道からの角距離である。
地球の赤道の天頂は、天の赤道となる。
だから、観測地点の角距離と天頂点の角距離は同一となる。
この「緯度の測定の方法」は「赤道座標」と呼ばれ、「北緯」は「+赤緯(プラスせきい)」と表現される。

つまり、「地球の赤道より北の北半球の3535分の地の緯度」は「+赤緯(せきい)3535分」であり、「地球の赤道より北の北半球の3130分の地の緯度」を「+赤緯3130分」である。
だから、【赤道座標の方法】を用いると、人類は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた。

卑弥呼が統治した倭人国では【天の北極や北極星を緯度の測定の基準点】とせずに、【赤道座標における天頂点を緯度の測定の基準点とし、天頂緯度線を緯度の測定の基準線】とした。
ゆえに、【天頂緯度線をキャッチして緯度を測定していた卑弥呼王朝】は、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「日本列島の本州は東に延びずに、南へ延びている」と考えたのである。
ゆえに、卑弥呼王朝は「方位が時計回りに90度転回して東が南となる本州地図」を制定した。
以上のごとく、【『魏志倭人伝』の「日本列島は東に延びずに、南へ延びる」と説明する転回日本列島地理】は【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。

◆人類は【1度の60分の1の1分の緯度差を測定することができる、天頂緯度線をキャッチする方法】を、食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から受け継いだ。
というのも、人類は本能的に、【亠】の字源「天頂緯度線・天頂点・子午線」をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有し、そして【亠】をキャッチする技(わざ)を工夫(くふう)して磨いた。
だから、原始のときから卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばまで、人々は1分の精度で緯度が測定できた。

この【亠】をキャッチする能力(眼力)をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれた原始時代やまた氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において絶滅したことになる。
人類が滅びなかったのは、【亠】をキャッチできる能力が目に、【亠】をキャッチしようとする本能(本能行動)が頭脳にそなわっていたからである。

原始から卑弥呼時代まで、遠くの地を旅して家族が待つ家に帰還する人々や大海を往来した人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を測定する方法は【亠】のキャッチのみ、ただ一つであった。

北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法では、人類は原始の時にすでに絶滅していたことになる。
このように、原始から卑弥呼時代までは、「天の北極」は「緯度の測定の基準点」にはならなかったので、「天の北極」は「方位規定の基準点」にもならなかったのである。
卑弥呼時代は、「天頂点」が「緯度測定の基準点」であり、「天頂緯度線」が「緯度測定の基準線」であった。
これが原因で、卑弥呼は「日本列島の本州は東ではなく南に延びている」と考えた。
また、【倉頡の文字作成理論】の学芸を取得した倭人国の王たちや女王たちは卑弥呼が立論した「日本列島は東ではなく南に延びる転回倭地理」を真実と考えた。

◆上記した「日本列島の本州が時計回り90度回転して東が南となる方位規定」は、倉頡が作った【禾()】「稲(いね)」の字源・原義となった。
【禾】の下に【女】が加わる【委()】の字源・原義も、また【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭()】の字源も「方位が時計回りに90度回転して、北→東・東→南・南→西・西→北に変位すると定まる方位規定」であった。
だから、『魏志倭人伝』の「日本列島の東は南へ延びる」という説明は、倉頡が作った【禾】の字源・原義を伝えるものであり、結局(けっきょく)、【倉頡が発明した文字作成理論】を語っていたことになる。

【学】の字源、「学問」の語源は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「日本列島は東ではなく南に延びる」という地理は「学問における定理」をあらわしていた。
だから、時計回りに90度転回して「東が南になる」という方位規定は、「民間における方位規定」、つまり「通常の方位規定」ではなかった。

倉頡は、下に示す3つの掟(おきて)を定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろんその家族そして一族全員をも死刑にする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

したがって、五帝時代に作られた文字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音(かおん)文字、殷代(いんだい)前半期の漢字は、
【神々の名】や、【物の名(鳥や獣の名、諸々の事象・事物の名)】や、【国名】や、【地名】、【氏族名】などで残ることになった。
つまり、五帝時代・夏代・殷代前半期の漢字は【神々の名】、【物の名】、【国名】、【地名】、【氏族名】などをあらわす、厳重な秘密にまもられる文字であったので――実際は文字として存在するものであった。
ゆえに、五帝時代・夏代・殷代前半の漢字を記した史料は発掘されていないが、
『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴国までの30の小国名によって、五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は失われずに保存されていたと証明される。
したがって、現代の学界の「文字を書いた史料が発掘されない、五帝時代の書契と夏代の漢字は文字として認めることはできない」と主張する定説は、錯覚・空想であったことになる。

『魏志倭人伝』には――
「紀元前2070年頃の夏代の黎明期(れいめいき)
帝王になった益(えき)氏の王の孫の王子と若者たちが大海を越えて秋田県の男鹿半島・八郎潟の東方の地に定住して、
(
)【三皇時代の易占に用いた記号の結縄(けつじょう)】、
(
)【五帝時代の書契】、
(
)【夏音文字】、
(
)【倉頡の文字作成理論】、
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、
(
)【精密な中国海岸線地図と精密に地図を作製する土地三角測量】などを
教え広めた」と説明する記事がある。

日本列島の海岸線を1本の線にしてつなぐと、日本列島の海岸線は中国の海岸線の約3倍も長いという。
ゆえに、【精密な日本列島の海岸線】は【倉頡の文字作成理論】はじめ【五帝時代の書契】、【夏音文字】を保存するのに適していた。
言いかえると、【日本列島の海岸線】は【字源・原義】を保存するのに適していた。
だから、卑弥呼時代において、わが国には【神々の名】・【物の名】・【地名】をあらわした文字によって【倉頡の文字作成理論】と【字源・原義】が失われずに保存されることになったのである。

ゆえに、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて証明したように――「対馬国」と「一大国」という小国名と、「瀚海(かんかい)」という沙漠名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす役目を有していた。

◆この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでは、【原始からつづく科学】にもとづく【倉頡が考えた天頂緯度線による方向規定】に注目してーー
『魏志倭人伝』の全記事は事実・真実を伝えており、1ヵ所も誤記がないことを証明する。

ゆえに、「軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」と定める
吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法の放射性炭素年代測定を手掛かりにして奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に空理空論であったことが明白となる。

西欧近代科学の合理思想にもとづく学問的成果による邪馬台国説に対して、
その証明方法が原始的で古びて幼稚であったとしても、『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も間違いが無い事実を証明したならばーー
卑弥呼が住んだ王国にふさわしい大型遺跡の吉野ヶ里遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と、
現代における先端科学的方法(放射性炭素年代測定)を用いて奈良県桜井市の纏向遺跡を根拠・理由とする邪馬台国大和説は
共に明白に空理空論であったことになる。

上記した指摘が事実・真実であることは、下記の冤罪(えんざい)事件の事例によって証明される。

ある町で、5人を残忍きわまりなく方法で殺害した事件がおきた。
その町を担当する県警は、DNA型鑑定をもちいて一人の被害者の着衣に付着していた体液と容疑者Aの体液が一致したとして、容疑者Aを真犯人として逮捕した。
しかし、容疑者Aはアリバイを語って無罪を主張した。
でも、容疑者Aの言は無視され、最高裁で5人の殺人によって死刑が確定された。
容疑者Aの妻が夫の無罪を信じて、こつこつと数年がかりで様々な土地にめぐり、また様々な人々に会って、ついに夫のアリバイが成立する証人を発見した。
この結果、以前のDNA型鑑定は県警の思い込みによる冤罪・空論であったと証明されて、容疑者Aは釈放された。

以上のごとく、
地味(じみ)な【天頂緯度線による緯度測定の方法】を注目すると、
『魏志倭人伝』の全記事は正しく1ヵ所も誤記が存在しないことになる。
よって、「『魏志倭人伝』には幾つかの誤記がある」と主張する、現在の二つの華々しい有力説の、
邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は
共に明らかに空理空論であったことになる。

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2024年5月13日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・10

続・「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた

◆このブログは前回「漢字の起源と発明を解明す・9」における解説・証明が不十分であったので、その続きである。
前回のブログでは――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は真っ赤なウソで、わが国は現在(2024)から約4070年前に漢字を初めて習得していた事実を解明した。
わが国が最初に漢字を習得した約4070年前は、中国では夏代(かだい)の黎明期(れいめいき)であった。
夏代黎明期は、わが国の中期縄文時代末に相当する。
夏代黎明期の文字を、わが国では「夏音(かおん)」と呼んだ。
だから、このブログでは「夏代黎明期の漢字」を「夏音文字」と呼ぶことにした。

【わが国における夏音文字の習得】については、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」で詳細に証明し解説した。
また、前回のブログでも、簡単に解説・証明した。
夏音文字は『魏志倭人伝』と、そして『古事記』上巻の随所に失われずに残っている。
『古事記』上巻并(あわ)せて序は、【夏音文字の習得の歴史(状況)と夏音文字の音符・意符に用いた楷書(かいしょ)との関係など】を、きわめて難解な文章で説明している。

【夏音文字の習得】によって、
(
)【精密な中国海岸線地図と、精密な地宜(ちぎ・平面的に図化した地図)の作成方法】
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(
)【倉頡が発明した文字作成理論】
(
)【三皇(さんこう)時代の易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)
(
)【五帝時代に作られた漢字、つまり書契(しょけい)】など、わが国は約4070年前に習得した。

これゆえ、現在における「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。

◆今から約5000年前に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が文字(漢字)を発明した。
現在、「倉頡は文字を発明した」という伝説は、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の話」と否定されている。
しかし、3世紀後半に成立した『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって、倉頡伝説は事実を語っていた事実が明確となる。
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】と、【夏代黎明期に夏音文字をわが国が習得した歴史】を具体的に説明していた文献であったのである。

倉頡は【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明した。
【倉頡が発明した文字作成理論】によって、【すべての物の名をあらわす文字】が作られた。
ゆえに、【五帝時代初頭以前に用いられたすべての物の名】は、【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って改められて新しく作り変えられたと考えるべきことになる。

今から約6000年前から約5000年前までに天下を治めた三つの時代の大王の名は、【倉頡の文字作成理論】によって包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた。
この状況を倉頡伝説は「死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現する。
つまり「死霊」は「包犠、女媧、神農の三時代に生きた人々」を意味する。
「包犠・女媧・神農が天下を治めた時代の歴史は倉頡が文字を作って後世に伝えることができるようにした。ゆえに、三皇時代の人々の死霊が感激し泣く声が夜な夜な空に輝く【夏の銀河各部の形状】から聞こえるようになった」と説明していたのである。

上記したように、
倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る方法】を発明した。
「夏の銀河」とは「夏の星座が漬()かる銀河、夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を示した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことになる。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

◆わが国には約4070年前に夏音文字が伝来して、【倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】が習得された。
夏音文字が習得された以前にあっても、【多数の物の名】があったはずである。
しかし、【夏音文字が習得された中期縄文時代末(紀元前2050年頃)より以前の物の名】は【倉頡の文字作成理論】によって、次第(しだい)に次第に新しく改められて消滅したことになる。

ということは――夏音文字の習得より約2300年後の3世後半に著作された『魏志倭人伝』に記された約2000字のうちの大半の文字は、【倉頡の文字作成理論】によって作られた文字であったことになる。
その証拠に、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・9」において証明したとおり――『魏志倭人伝』初頭に登場する、下に示す【対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地図の形】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていた。
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上の【対馬国・瀚海・一大国の地図】は、下に配した【黄帝・倉頡が居住した本拠地の地図の状況】をあらわした。
倉頡は下図の【ゴビ沙漠・瀚海】と【ムウス沙漠と黄土高原を包囲して長方形状に水が流れる黄河上流地域の状況】にもとづいて【文字作成理論の基本原理】を発明した。
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ゆえに、【対馬・瀚海・一大国の地図】は【ゴビ沙漠・瀚海と、長方形状の黄河上流地域の地図における概況】をあらわしていたことになる。
だから、【対馬・瀚海・一大の地図】は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。

卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半)以前、中国では夏王朝の夏音文字以後に殷代後半の契文(けいぶん・甲骨文字)、周王朝の金文、秦(しん)王朝の隷書(れいしょ)、後漢王朝の楷書(かいしょ)と変化・進化していたために、かなり多くの文字が字源や原義が失った。
いっぽう、わが国では4070年前に夏音文字を習得してから卑弥呼時代まで、天下を治めた王朝が出現しなかった。だから、倭人国で使用され卑弥呼が精通した夏音文字は、その大多数の文字が夏代黎明期当時の状態のままで残ったため、多数の文字の字源と原義が保存されていたことになる。
このような状況について、『魏志倭人伝』は「一大率(いちだいそつ)が住む伊都(いと)国の港では、かなりの多くの文字が字源・原義を失った魏都・帯方郡(たいほうぐん)で用いる楷書(かいしょ)と、卑弥呼はじめ倭人国で用いる字源・原義をほとんど失わない夏音文字は差錯(ささく・相違)していたので、伝えたり送ったりする文書の文字を点検し・確認して間違わないようにしていた」と説明している。
これゆえ、『魏志倭人伝』に記され、倭人国の伊都国の港で楷書に書き代えられた夏音文字には字源・原義が保存されて失っていなかった。
この「漢字の起源発明を解明す」というブログによって、卑弥呼時代が生存した2世紀末から3世紀半ばにいて、中国には幾つかの文字が字源・原義を失っていた事実が明らかになる。

【ゴビ沙漠・瀚海】によって、『魏志倭人伝』に記された【馬】の字源・原義は「ゴビ沙漠に生息したフタコブラクダ」であったと考えるべきことになる。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ば、中国における【馬】の字義は字源を失う「ウマ」であって、「フタコブラクダ」ではなかった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、「ゴビ沙漠・瀚海に生息するフタコブラクダ」であったのである。

【長方形状に包囲する黄河上流地方の黄土高原】には【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息していた。
「ジャコウウシ」は「犠牲(いけにえ)」に用いられた。
ゆえに、「犠牲」の2字の偏は【牛】の字で、「ジャコウウシは犠牲に用いられた」とあらわしている。
『説文解字』は、【牛】の字源を「大牲なり」と解説する。つまり「大牲」は「大きな牲(いけにえ)」を意味する。
だから、【牛】の字源は「ウシ」ではなく、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
下に示すように、【瀚海の南にある一大国・壱岐の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】において、【西側の地宜は馬・フタコブラクダの姿】に相似し、【一大国・壱岐の東側の地宜は大きな牛・ジャコウウシの姿】に相似する。
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以上のごとく、【一大国・長崎県北部の壱岐の地宜】は【ゴビ沙漠・瀚海の他に、漢字が発明された、長方形状に包囲される黄河上流地域における、西のムウス沙漠にも馬・フタコブラクダが生息していた。また、東の黄土高原に牛・ジャコウウシが生息していた状況】をあらわしている。
このように、卑弥呼は【対馬国・瀚海・一大国の地図】をもって、【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわした。
したがって、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に解説する文献であったのである。

◆『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。

卑弥呼は「現在の長崎県北部の壱岐」を「一大国」と名づけた。
卑弥呼は、【天】の字源は「至高にして上なし。一大に従ふ」と説明されることを知っていた。
ゆえに、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
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前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()「文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた掟のために――現在、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。
これから行う【字源解説】には、【夏の銀河各部の名称】が決めないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、黄帝陵は北緯3535分であり、長江口の中央部は北緯3130分である。
黄帝時代、「黄帝陵の天頂」を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ通過し、「長江口の天頂」には「十字の銀河の子宮中央」が通過した。
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◆前述したように、『説文解字』は【天】の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
【天】の字源銀河は【大】字形の「十字の銀河」であった。
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【一】の字源は「十字の銀河の円形の頭部中央を貫通した、黄帝陵の天頂緯度線」であった。
また、【一】の字源「十字の銀河の子宮中央を貫通した、長江口の天頂緯度線」であった。
だから、『説文解字』は【天】を「至高に上なし。一大に従ふ」と解説した。
【大】の上に【一】を加えると、【天】の字形となる。
ゆえに、「一大に従ふ」と解説されることになった。

倉頡は【「十字の銀河」を「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母」】と定めた。
倉頡は【「十字の銀河の子宮」を「万物の名を生む子宮」】と定めた。
ゆえに、倉頡は【一】の字源「小さな、十字の銀河の子宮」から「万物の名をあらわす全文字を生む子宮」と定めた。
したがって、倉頡は【「一即大、大即一」の文字作成理論】を発明した。

「一即大、大即一」の理論の【大】は「夏の銀河各部の形状から作られた大量の文字」にかぎらず、【大】は「万物の名」をもあらわした。
つまり、「一即大、大即一」は「一の小さい場(子宮)から大量(万物)の名とその名をあらわす文字が生まれる、あるいは大量(万物)の名とその名をあらわす文字は一の小さい場(子宮)に入っている」と定める理論であった。
だから、「十字の銀河の子宮」は「一大」と名づけられた。
また、「十字の銀河の子宮」は【一】と【壹()】の字源でもあった。

『説文解字』は【物】の字源を「万物なり」と解説する。
前ページで証明したように、【物】の偏【牛】の字源は「ジャコウウシ」である。
【勿(ぶつ)】の字源は「ジャコウウシを射る弓」または「餌場(えさば)の凍ったスゲや苔(こけ)などの食料を掘る犂(すき)のようなジャコウウシの前足」であった。
つまり、【長崎県北部の壱岐における東部の、ジャコウウシに類似する地宜】は【万物。または万物の名】をあらわした。
だから、「壱岐」は【一】と【大】の字源をあらわしたので、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めたのである。

「一大国の地宜」は西のムウス沙漠に生息した【馬】の字源「フタコブラクダ」と、東の黄土高原に生息した【牛】の字源「ジャコウウシ」に相似する地域とに分かれる。
倉頡は「黄土高原に生息したジャコウウシ」を【物】の原義「万物なり」と定めたのである。
そして、倉頡は「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」を【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣(せいじゅう)と定めた。
ゆえに、「一大国には、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣に相似する地宜を区分する【岐】(わかれみち)が在る」ということでーー後世、「一大国」は【壱岐】という名に変わった。

下図に示すように、「ジャコウウシ」と「第5週はじめの胎児(たいじ)の側身形」は相似する。
ゆえに、「ジャコウウシ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の姿」に相似するゆえ、【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
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下図に示すように、「フタコブラクダの両目」と「第7週ごろの胎児の両目」は、共に「顔の両端」にある。
「フタコブラクダの両目の睫毛(まつげ)」は「新生児の両目の睫毛」と同じく長い。
ゆえに、「フタコブラクダ」は【一】と【壱】の字源「女性の子宮で育つ胎児の両目」や「子宮から出産した新生児の睫毛」に相似するゆえ、「フタコブラクダ」も【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣となった。
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以上のごとく、学者たちは「一大国」の「一大」は「一支」の誤記であると指摘するが、「一大国」という名称は正しく重大な【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわしていたことになる。

◆下に、再度、「ゴビ沙漠・瀚海と、ムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概略図」を配した。
「黄帝陵」の真北、黄河北岸側にある地所の名は「包頭(パオトウ)」である。
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倉頡は「包頭から南の黄帝陵を正面とする、南上・下北を天の方式(天理)」と定めた。
また、「黄帝陵から北に所在する包頭を正面とする、上北・下南を地の方式(地理)」と定めた。
天理、すなわち南(黄帝陵)を正面として天体を観察する人の右手は西(右西)・左手は東(左東)となる。
地理、すなわち北(包頭)を正面とする人の右手は東(右東)・左手は西(左西)となる。
ゆえに、「天理の南上・下北の方式」と「地理の上北・下南」の両者は、上下が180度相反する対称的関係となる。
また、「天理の方式となる、南(南の空)を正面とする観察者の右西・左東」と「地理の方式となる、北(北の空)を正面とする観察者の右東・左西」の両者は、左右が180度相反する対称関係となる。

ゆえに、「南天を正面とする天理と北を正面とする地理の上下が180度相反する対称関係」に加える「南天を正面として観察する人と北を正面とする人の左右が180度相反する対称関係」は、「天頂点と重なる銀河部位の一日360(180度の2倍)の円形の運行」と「太陽の一日360度の円形の運行」に相似すると――倉頡は見立てて、「字形も360度の運行」をあらわすようにした。
しかし、現在、「天理と地理における左右の手・東西の180度相反する対称関係」は、前ページに配した「天理をあらわす夏の銀河の写真と、地図(地理)の方位規定」で示されている。
その証拠に、【夏の銀河の場合は左東・右西となって、地図の左西・右東と180度相反する】。

あるいは、「天理と地理における左右の手と東西の180度相反する関係」は「鏡の実像(写る人)と虚像(鏡に写る映像)の関係」にて表示される。
だから、『魏志倭人伝』には「鏡は倭人の好物なり」という記事がある。

ところが、卑弥呼時代(2世紀後半~3世紀中半まで)に存在した鏡は――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代には、発明されていなかった。
黄帝時代においては、「王妃たちが姿を写す鏡とした、清流の水飲み場の澄んだ平らな水面、つまり水鏡(みずかがみ)」が存在した。
【毎】の契文形(甲骨文字の字)や金文形(周代に用いられた文字の形)は「王妃が屈(かが)んで容姿を水鏡に写すときのポーズ」のごとくにデザインされている。

ゆえに、【海】の偏【三水(さんずい)】は「水鏡」をあらわした。
だから、偏【三水】に【毎】を加える【海】の字源は「王妃が蹲(つくば)って、姿を映す水飲み場の水鏡」であったことになる。

日本庭園の露地(ろじ)には、「つくばい(蹲踞、蹲)」が設置される。「つくばい」は「茶室に入る前に、蹲(つくば)って手を清めるために置かれた手水鉢(ちょうずばち)」である。
「石で作製する、蹲踞(つくばい)の頂上の中心にある、石を浅く彫る水を溜()める箇所」は「海」と呼ばれている。
この「つくばいの、水鏡となる海」には「天頂の景色」が映る。
このようには、日本の茶道には、現在においても【海】の字源・原義となった「蹲い(手水鉢)」が残っている。

◆下に、「長方形状に包囲する黄河上流地域における、黄土高原における川幅の狭い清流」を図示した。
この「黄土高原に流れる清流の水飲み場」が、【海】の字源・原義となったのである。
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下は、「黄帝時代の天頂緯度線」の図である。
下図が示すように、「黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線」は下図の右側にある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の後頭部から頭頂部」を貫通し、「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。
この「人の横顔に酷似する銀河の輪郭(りんかく)」は上図の「黄土高原を包囲して黄河上流も水が西から東へ長方形状に流れる様子」に相似する。
「人の横顔に酷似する銀河」は「海(水飲み場の水鏡)に姿を写すために、俯(うつむ)く王妃の横顔」のイメージとなる。
ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」は【毎】の字源「海(水飲み場の水鏡)に姿を写す王妃の横顔」に見立てられた。
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図の左側に「長方形の暗黒天体部」がある。
この「長方形の暗黒天体部」は「長方形状の黄河上流地域」に見立てられた。
また、「長方形の暗黒天体部」は【海】の字源「水飲み場の水鏡」にも見立てられた。

下に、「ゴビ沙漠・瀚海」のイメージとなる「三つ輪の銀河」と、「美しく麗(うるわ)しい王妃の姿」に見立てられた「十字の銀河」の図を示した。
「十字の銀河の子宮」は、【隹(すい)】の字源となった。
『説文解字』は【隹】の字源を「鳥の短尾なるものの總名なり」と解説する。
要するに、「十字の銀河」が字源銀河となる【隹】の原義は「小鳥」であった。
【「三つ輪の銀河」は「円形に広がる波紋(はもん)」】に見立てられ、【「十字の銀河の子宮」に見立てられた小鳥」は「美しく麗しい、カワセミ(翡翠)」】をあらわすと定められた。
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「カワセミ」は「餌の魚を捕らえるために水中に潜(もぐ)る」。
その「カワセミが水中に潜った直後、水面に円形の波紋がひろがる」。
ゆえに、「円形の、三つ輪の銀河」にもとづいて、上記したように【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられたのである。
カワセミは清流や地下から湧き出る泉から流れる川などの、水が澄み樹木が繁茂(はんも)する林や森に棲()む。
ゆえに、【海】の字源「水飲み場の水鏡」は、樹木の木陰となる場所が適している。

というのも、人間の目は、自動露出カメラのように、本人の意志の無関係に、明るさに応じて虹彩(こうさい・絞り)がはたらいて、瞳孔径(どうこうけい・瞳孔の直径)が約2mmから約8mmまで変化する仕組みになっているからである。
暗闇(くらやみ)では、瞳孔径は7mmぐらいまで拡大される。
夜の暗闇(くらやみ)における樹木の木陰では、瞳孔径が最大8mmぐらい拡大して【天頂にめぐってくる夏の銀河の各部分】が一段とよく見えるようになる。
だから、【海】の字源「水鏡となる場所」は、「カワセミが棲む清流・地下から水が湧く泉が池や川となる森林の樹木の暗い木陰」ということになった。

以上のごとく、「瀚海」の【瀚】の字源・字義は「カワセミ」であった。
【瀚】の偏【三水】を欠いた【翰】の字義は「やまどり」である。
ゆえに、【翰】は「山地の渓流付近に棲む、ヤマセミ」であったことになる。
だから、【翰】に偏【三水】が加わる【瀚】は「水鳥の、カワセミ」を意味した。
それゆえ、上記したように「カワセミのメス」に見立てられた「王妃」が化粧し着飾(きかざ)る、その美しい魅力を失わないように、姿を映した水鏡」は、【海】の字源であったことになる。

◆しかし、いままで説明してきた【海】の字源となった「水鏡の用途」は【見せかけ・騙(だま)しの用途】を説明するものであった。
というのも、注目すべきことには「カワセミの巣穴の近く」には「ダミー(見せかけ・騙し)の穴」が存在するからである。
ゆえに、いままでの【海】の解説は「ダミー・騙(だま)し」の字源解説であったことになる。
【倉頡の文字作成理論】は最も強大な権力を手に入れる方法となったため、【海】の字源「水鏡」の【真(ほんとう)の用途】)が察知されて反体制側の人々に文字の学芸を習得されて革命に利用されないように、王妃は【真の用途】について人目を騙して気づかれないようにしなければならなかった。

王妃は王朝の崩壊を防御し政権基盤を強固するために、毎夜、天頂とその付近の銀河の形状を映す「水鏡」の【海】で、文字を学ぶように求められた。
したがって、真の【海】の字源となる物は、「毎夜、王妃が字源・原義となった天頂付近にめぐってくる銀河各部の形状が撮影される【水鏡】の映像を観察して文字を学ぶための装置」であったことになる。
つまり、真の【海】の字源は、「毎夜、文字を学ぶために、王妃が住む宮殿の庭園に設置された、字源・原義となった銀河の形状を映す蹲(つくば)いや、せせらぎ(水が流れる、浅瀬)や池」であったことになる。

さらに、拡大解釈されて「【瀚・カワセミが棲()む平坦な川、池、湖」も「海」と呼ばれることになった。
その証拠に、滋賀県の「琵琶湖」の古称は「鳰のうみ()」であった。
わが国では、古代において「湖」を「海」と呼んでいた。

「カワセミが棲む平坦な川、池、湖」は、つまり「空から平坦な地面を見下ろした川、池、湖の形」は【且()】という字であらわされることになった。
ゆえに、【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな板」つまり俎板(まないた)」を意味した。
そして、「空」をあらわす【宀(べん)】の下に【且】を加える【宜()】の字義は「食材をのせる俎板の面のごとく、平面的な図形」となった。
よって、「地宜」という語は「平面的に図化した地図の形」と意味することになった。

前述したように、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
「ゴビ沙漠」には「オアシス(沙漠の中の水がわく池と樹木が繁茂する緑地)」がある。
「オアシスの池の水」は「清く澄んで、天頂の景色を映す」。
ゆえに、「オアシス」は「海」と呼ばれ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と呼ばれたことになる。
したがって、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したことになる。

このブログの前ページにて用いた「ゴビ沙漠・瀚海」の字源銀河「三つ輪の銀河」と、【馬】「フタコブラクダ」の字源となった「十字の銀河」の図を、再度、下に配した。
前述したように、下図における【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は「カワセミ」に見立てられた。
前述したように、黄帝時代、「北緯3130分の長江口の中央の天頂」には「カワセミ」に見立てられた「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
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前述したように、上図における左上の「三つ輪の銀河における、最上部の円形の銀河」は「カワセミがダイビング(潜水)した直後にできた円形の波紋」に見立てられた。
黄帝時代、この「三つ輪の銀河における、最上部の円形の中心」は「北緯42度のゴビ沙漠・瀚海の南部」の天頂にめぐってきた。
だから、「カワセミが水中に飛び込んでできた円形の波紋」は「ゴビ沙漠」に見立てられて、「ゴビ沙漠」は「カワセミ()の海」つまり「瀚海」と名づけられることになったのである。

◆下に、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
下図の最下部には、「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」。
つまり、「鬼の横顔に両目」、「鬼の横顔の後頭部」には「大きく開く目」、「鬼の横顔のアゴ」には「細長(ほそなが)の切れ目」があり、「目に相似する箇所」は合計四つある。
この「鬼の横顔にある、四つの目の銀河」を、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
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下に示すように「十字の銀河」は「子宮に胎児が宿る、妊婦像」に見立てられて【文】の字源となった。
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下図に示すように、「十字の銀河の子宮がある腹部」が【宀(べん)】の字源となり、「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)」が【子】の字源となった。【宀】に【子】が加わって【字】の字形が成立した。
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下図に示す「小鳥」はじめ「カワセミ」をあらわす【隹】の字源「十字の銀河の子宮」は、前述したように【一】と【壱】の字源を象徴する聖獣の「のフタコブラクダとジャコウウシ」をあらわした。
だから、「十字の銀河の子宮」は「鳥と獣」をあらわした。
「十字の銀河の子宮」は「西から東へ歩いてきた、左手に弓を持つ男性の後ろ足」と重なる。
ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「足跡」に見立てられた。
これゆえ、倉頡伝説には「鳥獣の足跡」という語が登場する。

◆現在、学者たちは「人間には目が四つあるはずがない! 【四つ目の怪人・倉頡】は空想の産物だ、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話だ」と断定して、倉頡伝説を全面否定する。
前述したように、倉頡伝説は【子】の字源「出産児や胎児の顔」をあらわす「鬼の横顔に似る銀河」、言いかえると「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現したのである。

倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
――太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントをえて、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。

上記の倉頡伝説は、【夏の銀河における「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の形状】が現在に示しているように、下記のごとき事実を語っていたことになる。
――今から約5000年前の黄帝時代、「四つ目の銀河」に見立てられた倉頡は、「鳥獣の足跡」と呼ばれた「十字の銀河の子宮」を「万物の名をあらわす文字が生まれる子宮」と定めた。
ゆえに、文字は倉頡によって、はじめて文字が作られるようになった。
倉頡は、今から約6000年前の三皇時代の易占(うらない)に用いられた記号の結縄から文字(書契)へと代えたので、天(夏の銀河)は祝福するかのように慈雨(じう)を降らせたため、禾(稲や麦など)が豊かに実るようになった。
倉頡によって夜な夜なの空に輝く【夏の銀河各部の形状】は【後世に三皇時代の歴史を伝える文字】となったので、三皇時代に天下を治めた包犠(ほうぎ)と女媧(じょか)と神農(しんのう)の三氏族の死んだ霊魂は感激して泣いて慈雨を降らせ、また三皇氏族の子孫たちは感激して泣いたという。

中国の古代において、下図のごとく「顔に目を四つ描く倉頡の肖像画」が発見されている。
このような倉頡の肖像画は、騙(だま)し絵であったのである。
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倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人の倉頡の正体」は「四つ目の銀河」であった。
【倉頡の文字作成理論】の中枢である「四つ目の銀河」のごとく、「顔に二つの目、後頭部に大きく見開いた目、アゴに切れ長の細い目を描く倉頡の肖像画」を描いた人物は、国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密を暴露した大罪を犯したことになって、その者はじめ家族および一族全員までも死刑となった。
だから、死刑をまぬがれるために「四つ目の銀河」と異なって、「倉頡の肖像画は「顔に目を四つ目描く騙し絵」となったのである。
その事実も知らないで、近代から現代までの学者たちは「倉頡伝説は荒唐無稽の話」と早合点(はやがってん)して見事に大失敗をして転(こけ)たのである。
以上、倉頡伝説は間違いなく事実を語っていたことになる。

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2024年5月12日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・9

「対馬国」と「一大国」の記事は【漢字の起源と発明の秘密】を説明していた

◆中国の正史『三国志』における〔魏書東夷伝〕の末部にある「倭人伝」の通称は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれている。
『魏志倭人伝』は、その初頭に登場する「対馬国」から「狗奴(くな)国」までの30の小国名で――今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した【文字(漢字)作成理論】について詳細に・具体的に・体系的に解説していた。

しかし、近世(18世紀前半ころ)から現代までの学者たちによって「倉頡伝説は荒唐無稽の空想・虚偽」とされることになった。
というのも、江戸中期の新井白石(17571725)が晩年に提唱した邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)、そして白石以後現在まで約300年間続く邪馬台国畿内説と九州説によって――『魏志倭『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・学術的に解説する、奇跡的に優れた文献であった真価が抹殺(まっさつ)されてまったく不明となった。
この結果、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を明確に学術的に説明した文献ではないことになった。

 

『三国志』は晋(しん)の著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年までに編修したとされる。『魏志倭人伝』に記される最終年は247(魏の正始8年)である。ゆえに、陳寿はその247年の約40年後には、早くも『魏志倭人伝』を成立させていたことになる。
陳寿や女王卑弥呼が生存した3世紀後半において「倉頡伝説は事実を伝える」と認知されていた。そして、【倉頡が発明した文字作成理論】は【学】の字源・原義となって【中国と倭人国における最高の学問】であった。
ゆえに、陳寿が生存した3世紀における「優秀な歴史家や学者の条件」は「倉頡伝説は事実を伝える」と解釈できる、あるいは証明できる学識を有していることであった。
かつては、『三国志』は中国の正史のなかでも史料価値が高い良史として評価されていた。ゆえに、著者の陳寿は優れた歴史家であったとされた。
だから、優秀な歴史家にして晋の歴史編纂官であった陳寿はその役職がら晋王朝に秘蔵される【倭人国から送られた国交文書】を閲覧(えつらん)することができ、「倭人国には【倉頡の作成理論】が存在する」と察知したにちがいない。
それゆえ、陳寿は【倭人国から送られた文書】を1ヵ所も誤記しないように細心の注意をはらって点検し確認して『魏志倭人伝』を著作したと考えるべきことになる。
したがって、白石以後の学者たちによって「『魏志倭人伝』には多数の誤記が存在する」と主張されているが、著者の陳寿や『魏志倭人伝』を代々書写した人々の努力によって――『魏志倭人伝』は1ヵ所も誤記が存在しない特別に優秀な歴史書であったのである。

◆『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
『魏志倭人伝』の冒頭から138字目・139字目は「瀚海(かんかい)」である。


つまり、『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海の名は瀚海であった」と説明する。
この記事における「一大国」という小国名を、学者たちは誤記として「一支国」と改める。

しかし、「一大国」が正しく、「一支国」では【倉頡は発明した文字作成理論】がまったく解明できなくなる。
したがって、『魏志倭人伝』の著者の陳寿は「一大国」の「一大」は【倉頡の作成理論】をあらわしていると察知したにちがいない。

「一大国」は「一支国」は誤りで、「一大国」という小国名こそが正しかった。
「一大」は【倉頡の文字作戦方法における重大な理論「一即大、大即一」をあらわしていた。だから、「一大国」こそが正しいことになる。
さらに、すべての学者たちは「瀚海」にまったく注目せずに無視するが、この「瀚海」によって【漢字の起源と発明の秘密】が明白となる。
つまり、小国名「対馬」と「一大」と海の名の「瀚海」と、「『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴国までの30の小国名によってーー『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に・具体的に・体系的に・学術的に・解説する文献であったことが明白となる。
『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬壹(壱・やまい)国なり」と記す。
しかし、学者たちは「女王(卑弥呼)が都とする所は邪馬臺(台・やまたい)国」であったと断定する。
ところが、「対馬国」と「一大」と「瀚海」の記事を注目すると――「卑弥呼が居住した倭人国の首都は邪馬壹()国であり、邪馬臺()国ではなかった事実」が証明される。

「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
陳寿は〔晋王朝が秘蔵する、倭人国から魏へ送られた国書(国交文書)〕に「瀚海(ゴビ沙漠)」という記述があることに注目したにちがいない。
常識にもとづくと、倭国の対馬国と一大国の中間は瀚海・ゴビ沙漠であるはずがない。
しかし、陳寿は【倉頡が発明した文字作成原理】を解説するためには、「対馬国と一大国の中間は瀚海と定めるべきである」という学識を陳寿は有していたにちがいない。ゆえに、陳寿は〔倭の国書〕のとおりに「一大国」と記し、また「瀚海(ゴビ沙漠)」という海の名を削除(さくじょ)しなかった。
これゆえ、『魏志倭人伝』には「瀚海(ゴビ沙漠)」という記事が残った。

以上のごとく、すべての邪馬台国説は【倉頡が発明した文字作成理論】が解明し、証明できるもっとも重大な記事をことごとく無視し抹殺(まっさつ)した空理空論であり――あるいは記述されていない事柄をもって捏造(ねつぞう)した虚妄(きょもう)であった。

◆倉頡は「夏の星座が漬()かる、夏に最も長時間見ることができる、いわゆる【夏の銀河】の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。
【夏の銀河】は通称「天の川」、または「銀河」、「銀漢」と呼ばれた。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と、中国でもわが国でも表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。

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◆前述したように、『魏志倭人伝』には「(対馬国より)、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う」という記事がある。
下図に「対馬国と瀚海と一大国の地図」を配した。
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『魏志倭人伝』には「牛馬は無し」という記事がある。
ゆえに、「倭人国」には、【牛】と【馬】は生息していなかった。
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀中半当時、中国では【牛】の字義を日常的に「ウシ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【牛】の字源・原義は「ジャコウウシ」であった。
また、中国では【馬】の字義を日常的に「ウマ」と解釈して字源・原義を失っていた。
しかし、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。

ゆえに、「対馬国」の【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
つまり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したゆえ、【馬】の字源・原義は「瀚海・ゴビ沙漠に生息し、沙漠に住む人々にとっては欠くことができない大切な家畜のフタコブラクダ」であった。

下に、「瀚海とムウス沙漠と黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)の概略図」を配した。
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上図の上部に「瀚海」があり、その南では「ムウス沙漠」を西から東へ長方形状に黄河が包囲する。
この長方形状となる地域の西部(ムウス沙漠)は東部より低い平原地帯であった。
黄帝時代、この【西部の平原地帯(ムウス沙漠)】には【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息していた。

そして、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域は高原地帯となる。
この高原地帯は、現在、「黄土高原」と呼ばれている。
この「黄土高原」は、秋になると【凍土(とうど)地帯(ツンドラ地帯)】となった。
この【凍土地域・黄土高原】に【牛】の字源・原義の「ジャコウウシ」が生息した。

黄帝時代、【牛】の字源「ジャコウウシ」の群れが北のゴビ沙漠・瀚海から南進して黄河を渡った。さらに、【牛】の「ジャコウウシの群れ」は南へと進み、黄帝陵が所在する黄土高原(凍土地帯)にも進入して生息した。
いままで説明したように――黄河が包囲する長方形状の地域の西部の平原・ムウス沙漠に【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息し、東部の黄土高原・凍土地帯に【牛】の字源「ジャコウウシ」が生息した。この状況を――「一大国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」があらわしていた。
下に、一大国の地図の形(地宜)を示した。
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上図に示すように、「一大国・長崎県壱岐の西部海岸線側の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する。
また、「一大国の東部側の地宜」は【牛】の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。
つまり、「一大国の地図(地宜)」は「黄河が長方形状に包囲する地域の西部のフタコブラクダが生息したムウス沙漠・平原地帯をあらわし、また東部にはジャコウウシが生息した高い黄土高原(凍土地帯)をあらわした。
だから、『魏志倭人伝』の「対馬国・瀚海・一大国の記宜」は「ゴビ沙漠・瀚海の南に黄帝陵が所在した」ように、「黄帝につかえた倉頡は文字(漢字)を発明した史実」を伝えていたことになる。

◆倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた【夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪をおかしたことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん・甲骨文字)によって破られた。
というのも、契文(甲骨文字)の文字数(異なる字義をあらわす文字の数)4600以上となり、亀の甲羅に刻んだ文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。
ゆえに、()の掟は殷代後半から破られることになった。このために、後世に契文を書いた史料が発掘されることになった。
下に「漢字の生長史」を示した。
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上の「漢字生長史」に示したように――今から約5000年前(紀元前3000年頃)から始まる五帝時代に作られ文字は「書契(しょけい)」と名づけられた。
今から約4090年前(紀元前2070年頃)から始まる夏代(かだい)の漢字を、わが国では「夏音(かおん)文字」と呼んだ。
殷代(いんだい)は今から約3600年前(紀元前1600)から始まるとされる。
五帝時代に作られた漢字の書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。また、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の文字は、【様々な物の名や地名】や【字音】として存在した。
したがって、卑弥呼が考案した【「対馬」・「一大」という小国名】と、中国で成立した【「瀚海」という海の名】は【夏の銀河各部の形状】から作られたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種(みなわしゅ)なり」と説明する記事がある。この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸()国、そして黒歯(こくし)国の3ヵ国がある」と説明する。
さらに、「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの地域(秋田県の男鹿半島・八郎潟)に参問至るべき(到着する)」と説明する。
このような記事は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・序」にて詳細に解説したように――今から約4070年前(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り、九州から北上して秋田県の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に居住した――と伝えていた。
名門益氏の王子と若者たちは
(
)【精密な中国海岸線地図と、精密な地図(地宜)の作成方法】
(
)【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
(
)【倉頡が発明した文字作成理論】
(
)【三皇時代の易占に用いられた記号、つまり結縄(けつじょう)
(
)【五帝時代に作られた文字、つまり書契】
(
)【夏代黎明期(紀元前2050年頃)の夏音文字】などを教え広めた。
(
注 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)は――五番目の帝舜(しゅん)の時代に、益氏の王は「虞()」という重職に命じられた――と記す。
「虞」は「中国の海岸線の精密地図作製の役職」であった。帝舜の治世は200年~250年間であったと考えられる。ゆえに、益氏は200年~250年間、代々、精密な中国海岸線地図作製の任務についていたことになる。だから、益氏は()【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】をわが国にもたらしたことになる。)

このような「名門益氏の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した歴史」について――前ページで解説した『魏志倭人伝』初頭の
(
)【対馬国、瀚海、一大国の地宜(地図)の秘密】と、
(
)【黄河上流が長方形状に包囲するムウス沙漠・黄土高原の地宜】との照合によって
(
)「女王国の東の海を渡ること千余里の名称不明の小国」についての記事と、
(
)「侏儒国・裸国・黒歯国」についての記事と、
(
)「黒歯国から東南の大海を航行して周旋五千余里ばかりの地域に参問する」という記事をもって
事実を伝えていたと証明することができる。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702(大宝2)629日に中国に派遣された第7回遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と告げた――という記事がある。
遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」とは「672(天武天皇元年)におきた壬申(じんしん)の乱の後、稍々(やや・少しだけ)夏音文字を復興することにした」と意味した。
第7回遣唐使が派遣された年(702)から10年後の712(和銅5)1月28日に、『古事記』が元明天皇に献上された。この『古事記』の〔序〕は極めて珍しい。
わたくしは〔序〕を有する様々な本を読んだが、『古事記』のような〔序〕は『古事記』の一例のみである。
つまり、『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成されるが、『古事記』の〔上巻のみの序〕で〔中巻・下巻の序〕ではない。
それゆえ、『古事記』の〔序〕は「古事記上巻 序并」、すなわち〔『古事記』上巻并(あわ)せて序〕と表記された。

『古事記』には、上巻のみに、その随所に〔音〕という注がつけられて数々の夏音文字が保存されている。
したがって、『古事記』の序は「『古事記』上巻のみにある、〔音〕という注がつく夏音文字について解説する序」であった。
だから、「古事記上巻 并序(『古事記』上巻并せて序」ということになったのである。
『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は計381字で構成され、そのうち〔音〕という注がつく夏音文字の字数の計は、下記の32字である。
「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)
「淤能碁呂(おのごろ)
「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)
「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)
「久美度邇(くみどに)」の五つの語に使用された文字は計32字である。
しかし、〔音〕という注を省略した「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」という10字の夏音文字がある。
ゆえに、夏音文字は合計42字となる。
楷書と夏音文字で構成される総字数は381字に対して、夏音文字は42字である。
ゆえに、第7回遣唐使が説明したとおりに、「壬申の乱の後に、稍々(11パーセント)、夏音文字を復興した様子」が示されている。
上記の淤能碁呂島聖婚説話はじめ『古事記』上巻の各説話においては、第7回遣唐使の言のとおりに「夏音文字が稍々(少数)記される状況」、つまり「稍々、夏音文字を習う構造」になっている。

このように、益氏(えきし)がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体は楷書で記されて(楷書を音符・意符に用いて)、多数残っている。
『古事記』上巻并せて序を要約・大略すると、下記のごとくになる。
――わが国は、【夏の銀河の各部の形状】をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭(夏代黎明期)までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。
この土器・土偶を造った参神造化(芸術の参神)2000年の伝統によって、
益氏がもたらした
【精密な中国海岸線地図と、精密な地図の作成方法】
【黄帝の女性生殖器と出産の研究】
【倉頡が発明した文字作成理論】
【三皇時代の易占に用いた記号(結縄)
【五帝時代に作られた文字(書契)
【夏代黎明期の夏音文字】などを、縄文の諸氏族は習得した。
『古事記』上巻の随所には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた【夏の銀河各部の形状】である。
ゆえに、【『古事記』上巻において〔音〕という注がつく夏音文字を記す楷書】もまた【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。
【倉頡の文字作成理論】を反体制側が手に入れ、革命に利用すると容易に王朝は崩壊する。だから、この学問知識は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得して保存された夏音文字については理解が容易ではないきわめて難解な文章を作って説明することにした。

◆『魏志倭人伝』にも、『古事記』上巻同様に多数の夏音文字が楷書で記されて残っている。
また、『魏志倭人伝』における【対馬国から狗奴国までの30の小国名記事】は【益氏が教授した、倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明している。
にもかかわらず、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断言する。
しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が伝えているように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、現代(2024)から約4070年前の中期縄文時代末(夏代黎明期)であった」。
江戸時代中期の新井白石(16571725)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。全記事を絶対に信用してはならない」と主張する。
この学者たちが「多数の誤記」と断定した全記事こそが、【倉頡の文字作成理論】を伝えていたのである。

学者たちは【『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解など】を加えて、【倉頡の文字作成理論と、夏音文字が伝来した歴史】を300年間も、抹殺(まっさつ)・無視してきた。
しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記が存在せず、全記事は正確であった。
したがって、【『魏志倭人伝』は絶対に1ヵ所も誤読を加えてはならない文献】であったのである。

◆前述した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の()の掟によって――現在に至っても、【夏の銀河各部の名称】が存在しない。

これから着手する【字源解説】において、【夏の銀河各部の名称】が存在しないと、非常に不便である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の左上には、わたくしが「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」と名づけた両銀河がある。
この「三の輪の銀河」と「十字の銀河」の図を、下に配した。
「三つ輪の銀河」における小さな星々は円をえがき、渦を巻く。その円と渦は重なり合って「三つ輪」となる。
この「三つ輪の銀河の渦巻く無数の小さい星々」は、月光にきらめく沙漠の砂粒(すなつぶ)のようにキラキラと光る。
だから、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
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上図に示したように――「三つ輪の銀河」の西側にある「十字の銀河の、両手を左右に広げる人間の姿に相似する部分」もまた月光にきらめく砂粒のごとくキラキラと光る。
ゆえに、「十字の銀河の全身」は「ゴビ沙漠・瀚海の砂粒のように、あるいは夜空の星々のように、キラキラ輝く壮麗な女性の姿や妊婦像」に相似する。
その証拠に「十字の銀河の腰の部分」には「子宮に相当する箇所」がある。
だから上記したように、「三つ輪の銀河」」は「ゴビ沙漠・瀚海」に見立てられた。
この結果、「三つ輪の銀河」の東となりの「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられて【馬】の字源となった。

下図の左側は、「三つ輪の銀河」を「ゴビ沙漠・瀚海」に、「十字の銀河」を【馬】の字源「フタコブラクダ」に見立てた解説図である。
下図の右側は、【馬】の契文形(甲骨文字の字形)である。
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上図に示したように、「十字の銀河」は「契文形における、【馬】の字源・字形の原形・原義」であった。
したがって、「十字の銀河」は「契文の上に配した〔楷書(かいしょ)における、【馬】の字源・字形の原形・原義」でもあったことになる。
もちろん、「十字の銀河」は「夏音文字における、【馬】の字源・字形・原義」でもあった。

下図は「対馬」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)と【馬】の字源銀河の解説図である。
下図が証明するように、卑弥呼は「対馬国の上県(かみあがた)地宜」を【馬】の字源「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
また、「対馬国の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「砂漠を歩くに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
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だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿(正面形)と、足底または足跡の一対(いっつい)の形」をあらわしているということで――「一対」の【対】に【馬】が加わって小国名を、卑弥呼は「対馬」と定めた。

『魏志倭人伝』には「対馬国」、「投馬(とうま)国」、「邪馬壱国」、「斯馬(しま)国」、「邪馬国」という5つの小国が登場する。
注目すべきことには――この5ヵ国のうちの4つの小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は【馬】の字源「フタコブラクダの姿や横顔の形」に相似し、あるいは「斯馬国」は「フタコブラクダに密接に関わる沙漠」に見立てられた「砂丘」で有名である。

◆下図の右側に、「十字の銀河の子宮」の図を配した。
下図の左側は、「一大国の地宜」である。「一大国は、今の長崎県北部の壱岐」であった。
卑弥呼は「壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、「壱岐」を「一大国」と名づけた。
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後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は「字典の聖典(せいてん)」と尊重された。
『説文解字』は、卑弥呼が歴史上に始めて登場する年(170年頃)より約50年前の121年に成立していたとされる。
『説文解字』は、【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
この【天】の字源解説は「それ以上の上が無い、最も高い天体部の天頂である」と意味した。
卑弥呼は現在の長崎県北部壱岐の小国名を、【天】の字源解説文「至高にして上なし。一大に従ふ」にある、「一大」と定めた。
下に、【天】の字源「天頂(天頂点)」と重なる銀河部位の軌道を図示した。
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下図に、「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線」をあらわした。
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)は「黄帝の遠征軍は、江(こう)に至る」、つまり「長江口(長江の河口の湾)に到着した」と記す。
下図に示したように、当時、黄帝陵は北緯3535分であった。
長江口の中央部は北緯3130分であった。
長江口まで遠征した黄帝軍に同行した倉頡は、長江口中央の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってくることを知った。
この【「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央である様子」】にもとづいて、倉頡は【漢字作成理論】を考案した。
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◆「長江口中央の天頂」は「十字の銀河の子宮の中央」であることを知った倉頡が考案した【文字作成理論】をあらわした文が、前述した『説文解字』の【天】の字源解説の「至高にして上なし。一大に従ふ」であったのである。
だから、卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】をあらわすために「現在の長崎県壱岐」を「一大国」と名づけたのである。
ゆえに、『魏志倭人伝』に記された「一大国」を学者たちは誤記として「一支国」と改悪するが――前述したように、「一大国」という小国名は【倉頡の文字作成理論】を伝える正確な記事であった。

「一大国」だと『魏志倭人伝』の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に体系的にあらわしていることが確実に証明できる。
「一支国」に改めると、【倉頡の文字作成理論】を解明できる糸口・確証を失ってまったく不明となる。

◆倉頡は【ゴビ沙漠・瀚海と長方形状にムウス沙漠・黄土高原などを包囲する黄河上流地域の地宜】を【文字作成理論の基本】と定めた。
だから、「対馬国・瀚海・一大国」は【文字作成理論】の基本「ゴビ沙漠・瀚海と長方形状に包囲する黄河上流地域」の模型(基本)となり――『魏志倭人伝』のすべての小国名は【倉頡の文字作成理論】に則(のっと)って作られたことが解明できる仕組みになっている。
言いかえると、【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」の地図】を注目すれば、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明していた文献であった事実が証明される。
だから、すべての邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、空理空論であったことになる。
ここまでの【「対馬国」と「瀚海」と「一大国」に関する解説・証明】はいまだ中途半端(ちゅうとはんぱ)で不十分である。
だから、次回「漢字の起源と発明を解明す・10」においても続けて解説し証明する。

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2024年4月28日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・8

『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地を「邪馬壱国であった」と記す

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定されている。

しかし、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』は「倉頡が漢字を発明したのは事実である」、言いかえると【漢字の起源と発明の秘密】を詳細に伝える文献であった。

つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が漢字を発明したのは事実である」と詳細に直接的に説明する史料であった。

『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住いた」と記す。ところが、多数の学者たちは「邪馬壱国」という記事を「邪馬台国」と誤読してさも事実がごとく平然と誤魔化(ごまか)す。

ゆえに、多数の国民は「卑弥呼が居住したのは邪馬台国であった」と思い込んでいる。

 

『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には、侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り(計4ヵ国の小国があり)」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。

上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約400年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

だから、益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符にして)多数残っている。

『古事記』上巻并(あわ)せて序は――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が教授する【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得できた。よって、益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】にもとづく精密地図作製地図方法の原理も習得できた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書で記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字をあらわす楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

『魏志倭人伝』には【倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明され、『古事記』上巻には多数の夏音が残っている。

にもかかわらず、現在、考古学をはじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

というのも、江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来現在までの約300年間、学者たちは「『魏志倭人伝』には誤った記事が多数存在する。だから、全記事を絶対に信用してはならない」とする立論方法を定めているからである。

言いかえると、白石から現在までの学者たちは「『魏志倭人伝』の多数の記事に自説に都合のよいように誤読・曲解を加える立論する方法】こそが学問的に最も正しい」と主張する。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確であると証明できる。

したがって、『魏志倭人伝』に1ヵ所も誤読・曲解を加えずに正確に読解すると「『魏志倭人伝』の主なる内容は、【倉頡が発明した文字作成理論】」を具体的にこと細やかに説明する文献であったと証明される。

よって、新井白石以来300年、学者たちによって『魏志倭人伝』が説明した【漢字の起源と発明の秘密】は解明されずに抹殺(まっさつ)されていたことになる。

 

◆黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は「夏の銀河の各部の形状から文字を作る方法」を発明した。

「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」、いいかえると「夏に最も長時間見える銀河」のことである。

「夏の銀河」は「天の川」、「銀河」、「銀漢」などと呼ばれている。

「銀漢の各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【銀漢=夏の銀河の写真】を示した。この写真は、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。

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倉頡はみずからが発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵視する一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝が容易に滅亡するにちがいないと心配した。これゆえ、倉頡は下記に示

す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。

 

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】

Ⅰ 倉頡は【夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた秘密】を容易に簡単に理解できるように暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにすると定めた

Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にすると定めた

 

◆【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻んだ契文によって破られた。というのも契文(甲骨文字)の文字数(文字の種類)4600以上となり、亀の甲羅に刻む文字をいちいち消すのが非常に面倒となった。このため、【()の掟】は殷代後半から破られたために、後世に契文は発掘されることになった。

五帝時代のはじめての書契はじめ夏代の夏音文字や殷代前半に出現した文字の字源・字形・原義は、【夏の銀河各部の形状】として存在した。

【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの()()は、殷代後半以後の王朝によって厳重にまもられた。このため、近世・現代の学者たちは中国とわが国において「銀漢(夏の銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と表記した事実に気づかなかった。

だから、【倉頡が死刑と定めた3つの掟の掟】によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半に出現した文字は【夏の銀河各部の形状】であった。つまり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半の文字の字源・字形・原義は【夏の銀河各部の形状】であったことに――近世・現代の学者たちはまったく気づかなかった。

このため、近世・現代の学者たちは――『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、わが国が最初に習得した夏代黎明期の夏音文字を伝える多数の文字、つまり楷書を夏音の音符に用いて多数残っているきわめて重大な事実も――まったく気づかなかった。

さらに、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴国までの30の小国名をもって【今から約5000年前に発明された、倉頡の文字作成理論】が詳細に具体的に組織的に説明されている事実に、白石以来約300年間、学者たちはまったく気づかなかった。

したがって、5世紀6世紀以前、わが国においては五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、上記した【夏の銀河の各部の形状】として存在していたのである。

ゆえに、近世・現代のわが国の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論をとなえつづけている。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の古代王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを心配し、独占管理して厳重に機密を保持した。

にもかかわらず、卑弥呼はなにゆえ「【倉頡の文字作成理論】は厳重に機密にしなければならない」という絶対的タブー(禁忌)を犯して、【倉頡の文字作成理論】について説明したのであろうか?

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・7」にて解説し証明したように――卑弥呼は「中国の王朝が、わが国(倭人国)は文字が存在しない、文化の低い弱小国ではなく、中国における【最高の学問】である【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と誇示するため、30の小国名をもってあえてタブーを犯して【倉頡の文字作成理論】をあらわし、中国には占領されない国防政策を積極的に推進したからである。

当時、【隷書に近い原始的な楷書(かいしょ)】を用いていた中国と友好関係を結ぶためには、【卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる夏音文字】を正しく翻訳する役所がどうしても不可欠となった。

ゆえに、『魏志倭人伝』には下記のごとき一群の(67字で構成される)記事がある。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。

つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀県佐賀市であった。

『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

前述したように、倭国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。

したがって、諸国の王たちが小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論】を容易に理解できるように暴露する大罪を検察する役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚したのである。

上記したように、『魏志倭人伝』は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し明らかに)していた。ゆえに、帯方郡からの文書や賜物の名称に用いる楷書は正確に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

つまり、魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「楷書」であったが、卑弥呼や倭人国の王たちが用いる文字は「夏音文字」であった。

だから、伊都国の港では魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる「夏の銀河各部の形状」と合致する倭国の夏音文字の字源となる「夏の銀河各部の形状」を捜しあてて(捜露して)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳する必要があったことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたと考えられる。

このように、上記した「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符となった楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」と事実を伝えていた。

それというのも、【楷書の字源・字形の原形・原義】は【倉頡の文字作成理論の産物】であり、【夏音文字の字源・字形・字義】も同様に【倉頡の文字作成理論の産物】であったうえに――【楷書も夏音文字も、夏の銀河各部の形状から作られた】からであった。

 

◆前述したように、『魏志倭人伝』には「邪馬臺(台・やまたい)国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。

下に示すように、『魏志倭人伝』は「女王(卑弥呼)の都とする所」は「邪馬壹(壱・やまい)国」と記す。

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中国の正史『後漢書』倭伝には「邪馬臺国〔今、案ずるに名は邪摩惟(やまい)という音の訛(なま)り也〕」という記事と〔注〕がある。

「邪馬臺国」の「邪馬臺」が正しければ、〔注〕は「邪摩堆」でなければならない。

しかし、〔注〕は【堆】ではなく【惟】であり、つまり「邪摩惟(やまい)」と記す。「壱岐」は夏音文字「いき」であるゆえ、夏音文字だと「邪馬壱」は「やまい(邪摩惟)」と音することになる。

したがって、上に示したように、『魏志倭人伝』における「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は【邪馬壹国】であった」と考えるべきことになる。

このような観点からしても、『魏志倭人伝』は倭人国の首都は邪馬壹()国であった」と記していたにちがいない。

だから、新井白石以来約300年間、学者たちが断定しつづけた【邪馬臺()国論】は『魏志倭人伝』に記述されていない虚偽をあたかも事実のごとく捏造(ねつぞう)する空理空論であったことになる。

 

◆『魏志倭人伝』は、対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の次は「末盧(まつろ)国」、その次は「伊都(いと)国」、さらに次は「奴()国」であったと列記する。

そして、特に注目すべきは「一大国から末盧国へ至る水行と方位」について記載していないことである。

 

『魏志倭人伝』は「末盧国から東南陸行五百里、伊都国に至る」、「伊都国から東南の奴国に至るに百里」と記す。

『古事記』における「末羅県(まつらのあがた)」は「現在の佐賀県唐津市呼子町、唐津市鎮西町、唐津市地方」であったと比定される。

しかし、「末盧国の中心地(旅程基点)は、現在の唐津市ではなく、唐津市の南南西の長崎県松浦市」であったと考えられる。

『日本書紀』の「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市前原(まえばる)町近辺であった」と比定される。

『日本書紀』の「儺県(なのあがた)」は「現在の福岡市地域にあった」と比定される。

『後漢書』倭伝に「建武中元二(57)年、倭の奴国は貢物を奉じて朝賀(ちょうが)した。後漢の光武帝は印綬を賜った」と記す。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から発見された「漢委奴国王」と5字が」刻まれた金印は、この時に与えられた印綬とされる。

ゆえに、「儺県」の県都(旅程基点)は「志賀島の東方の福岡市東区香椎宮(かしいみや)であった」と考えられる。

 

上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国の旅程基点の佐賀県の松浦市(あるいは唐津市)から伊都国の福岡県糸島市前原町の方角は〔東南〕陸行五百里であった」と説明する。しかし「松浦市(あるいは唐津市)から糸島市前原町までは、現在方位で〔北北東〕」となる。

また、『魏志倭人伝』は「伊都国の糸島市前原町から奴国の福岡市東区香椎宮へ至る方角は〔東南〕」と記すが、現在方位では「糸島市前原町から〔北北東〕に香椎宮」が所在する。

ゆえに、幾人かの先人の学者たちは「『魏志倭人伝』の旅程基点の方角は」「『古事記』『日本書紀』の比定地の方位と約45度または約90度相違する」と指摘した。

九州地図を時計回りに90度転回すると、下図のごとくになる。

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上図に示したように、「末盧国の松浦市(または唐津市)から〔東南〕に伊都国の糸島市前原町が所在する」。ゆえに、『魏志倭人伝』の「末盧国から〔東南〕陸行五百里、伊都国に至る」という記事は合理となる。

また、上図が示しているように「伊都国の糸島市前原町から〔東南〕に奴国の福岡市香椎宮」が所在する。ゆえに、『魏志倭人伝』の「伊都国から〔東南〕奴国に至るは百里」という記事も合理となる。

 

◆前ページにて「特に注目すべき」と指摘したように、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国に至る方位」を記していない。この「方位を記さない原因」は、『魏志倭人伝』が「対馬国から、南一海を渡る千余里、一大国に至る」と説明しているからと考えられる。

というのも、「一大国と対馬国は〔南北〕」に対して、「末盧国以下、伊都国・奴国の旅程基点の方位」は「時計回りに90度転回する方位」となって――人々が疑問を抱き・また不合理となる。だから、「一大国から末盧国」の方位を『魏志倭人伝』は不明(不記載)としたのである。

 

「時計回りに90度転回する方位」は、「倭人国」の「【倭】の字源・字形の原形(字源となる夏の銀河部の形状)、原義」をあらわした。

このため、末盧国以下狗奴(くな)国までの28の各小国地図は「倭人国」の――【倭】の字源・字源となる「夏の銀河部の形状・原義」をあらわす、時計回りに90度転回する方位――に則(のっと)ることになった。

その証拠に、一大国と末盧国の旅程基点の方角を不明とした――その末盧国には【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定をあらわす地名」が現存する。

 

下図は、現在方位に則る末盧国の範囲を示す地図である。

「末盧国」の【盧】について、卑弥呼が歴史上に登場する約50年前の2世紀初頭に成立した「字書の聖典」と尊重される中国の『説文解字(せつもんかいじ)』は、「末盧国」の【盧】の字を「飯器なり」と解説する。「飯器具」とは「炊飯器、つまり飯を炊()く土器」を意味する。

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上図に示すように、「末盧国の東の境界線は、唐津湾にそそぐ松浦川と有明海(ありあけうみ)にそそぐ塩田川(しおたがわ)とを結んで区切られていた」と考えられる。これゆえ、末盧国北部の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「縄文時代の飯を炊く土器(飯器)の形」に相似する。

また、末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜は「飯器を炊く炎の形」に相似する。

したがって、「末盧国」は「松浦川と塩田川より以西の、佐賀県の西部(現在方位)と対馬と壱岐を除く長崎県全域)」であったことになる。

 

上図に示すように、「東松浦」は〔北〕に所在するゆえ「北松浦」と名づけるべきことになり不合理となる。また「北松浦」は〔西〕に在るので「西松浦」、また「西松浦」は〔南〕にあるので「南松浦」と名づけるべきことになる。

さらに、「東彼杵郡」は〔北〕に在るゆえ「北彼杵郡」と名づけるべきことになり、「西彼杵郡」は〔南〕に在るので「南彼杵郡」と名づけるべきことになる。

 

下図に【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国の地図を示した。

下図に示すように、「北松浦」は「東松浦の〔北〕」に在り、〔西松浦〕は「東松浦」の〔西〕に在り、「東松浦」は「西松浦の〔東〕」に在るので、「松浦地方」の方位名は【倭】の字源に合致して合理となる。

また、「東彼杵郡」の〔西〕に「西彼杵郡」と「西彼杵半島」が所在する。だから、「彼杵」という地名に冠する方位名も、【倭】の字源を表示して合理となる。

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以上のごとく、「末盧国」には、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」が失われずに現存する。

 

◆『魏志倭人伝』には、「倭人国地図(日本列島地図)」について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」と指摘する記事がある。

下に「中国の会稽・東治と、実際の日本列島像と【倭】の字源をあらわす転回日本列島像」を図示した。

下図が示すように、「実際の日本列島像(地図)は、会稽・東治の〔東北〕にある」。ゆえに、「実際の日本列島像」は「当に(当然)、会稽・東治の東に在るべし」ではなく、まさに不合理となる。

しかし、「【倭】の字源をあらわす転回日本列島像(地図)」は、会稽・東治の〔東〕にある。ゆえ、『魏志倭人伝』の「当に会稽・東治の東に在るべし」という記事に合致する。

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つまり、下に示す上図のごとく、卑弥呼王朝では「九州以下の倭人国地図」を「現在の日本地図」のごとく定めていなかった。

卑弥呼王朝が定めた「倭人国全土地図」は――下に示した下図のごとく、【倭】の字源をあらわす「時計回りに90度転回する地図」であった。

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下に配する右図は、明(みん)の建文4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」における部分図をあらわす概略図である。

この地図の日本列島地図では【倭】の字源を示して「〔西〕の九州は90度転回して〔北〕となり、〔東〕に伸びる本州は90度転回して〔南〕へ伸びる」。

下の左図は、『魏志倭人伝』に登場する対馬国から黒歯(こくし)国までの34の小国の所在地をあらわす「転回日本列島地理論の図」である。

右図(転回日本列島地図)は左図の「混一疆理歴代国都之図における日本列島地図」に合致する。

だから卑弥呼王朝は、下図のごとく倭人国地図を定めていたことになる。

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上の左図に示したように――「卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国」は、「現在の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)」であった。

九州は末盧国・伊都国・奴国・不弥(ふみ)国の4小国と詳細不明の余白の国(現在の大分県・宮城県・鹿児島県)から成る。

そして、邪馬台国九州説の根拠とする吉野ヶ里遺跡は伊都国に所在するゆえ、卑弥呼が居住した女王国ではなかった。

したがって、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論であった。

上の左図に示したように――旧国の大和(現在の奈良県)は「邪馬(やま)国」であった。

だから、箸墓(はしはか)古墳や纏向(まきむく)遺跡を根拠とする邪馬台国畿内(大和)説もまた『魏志倭人伝』の記事と全く無関係の空理空論・捏造であった。

 

『魏志倭人伝』には「女王国より以北は、その戸数・道里を得可(うべ)きも、其の余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)して詳を得可からず」という記事がある。

上の左図における「現在の大分県・宮城県・鹿児島県」は「女王国・邪馬壱国から以北」にある。また、「大分県・宮城県・鹿児島県」は「其の戸数・道里を得られた(記された)末盧国・伊都国・奴国・不弥国を除く九州全土から余る(余白の)(かたわら)の国」である。さらに、「其の余の旁国(大分県・宮城県・鹿児島県)」は「女王国・邪馬壱国から遠く絶えて詳を得可らずの(詳細が不明となる)地域」である。

 

また、『魏志倭人伝』には「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国は畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」という記事がある。

上の左図に示したように、「一大率が常に居住し治めていた伊都国(現在の福岡県糸島市と佐賀県佐賀市)」は、『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国より以北」に所在する。

 

さらに、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」という記事がある。

上の左図に示したように、島根県の隠岐群島は転回方位に則ると女王国・邪馬壱国の〔東〕にあり、海を渡ること千余里の小国でもある。また、隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、最も大きな島・島後(どうご)の4つの大島と約180の小島からなる。ゆえに、『魏志倭人伝』は「隠岐の群島」を「皆倭種なり」と記したのである。

 

上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)において、直木孝次郎氏は「邪馬臺国の位置論」と題して執筆した研究論文にて「内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解すべきであるとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」と指摘している。

上の記事に登場する「内藤」とは「明治時代の歴史学者・内藤湖南(こなん)博士」である。

上の記事末部の「これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝(の陸行)とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という批判・否定は完全に誤っていたのである。上図の「実際の日本列島像と転回日本列島図」などで表示したように、倭人の条(『魏志倭人伝』)に記述された日本陸地図(九州以下の本州の陸地図)における「南」は今日の日本地図のである。

『後魏書』勿吉伝は6世紀半ばに成立した。

したがって、卑弥呼が没してから約300年後においても、中国では「東と南をかね、西と北とをかねる」・【倭】の字源「時計回り90度転回する方位規定」が保存されて失っていなかったことになる。

 

以上のごとく、邪馬台国説学者たちが「『魏志倭人伝』には多数の誤記がある」という主張は真っ赤なウソで――これらの記事はすべて【倭】の字源を伝える当時の学問上における事実であった。

『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記がなく、全記事が正しかったのである。

 

◆考古学者たちは、放射性同位元素をてがかりにして「奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡にある箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓である」と主張する。

この「箸墓古墳が卑弥呼の墓である」であると主張する学者たちは「卑弥呼が居住した王国は邪馬台国であった」と断定する。

しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国が、女王(卑弥呼)が都する所なり」と明記する。

前ページでも指摘したように――『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地域は現在の出雲市と松江市であった」と記す。

だから、大和の箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。

『日本書紀』巻第五・崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と明記する。だから、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではありえない。

邪馬台国・箸墓卑弥呼の墓説は、【『魏志倭人伝』の全記事のほとんどを自説に都合のよいように誤読・曲解するという詐欺やウソ】を駆使(くし)して立論する。

しかし、【『魏志倭人伝』】に1ヵ所も誤読・曲解・偏見を加えずに正確に読むと――卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地は現在の島根県出雲市と松江市であったことになる。

【2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、出雲市には「邪馬」と表示する地図の形が、また松江市は「壹()」の字源を示す地域となる。

だから、先端科学の放射性同位元素を駆使(くし)しても――『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も誤読・歪曲・偏見・無視を加えないように読解しなければ、『魏志倭人伝』にまったく記述されていない虚偽を捏造(ねつぞう)した空理空論であるゆえ、いっこうに【科学】が成立せず真実をつきとめることはできない。

結局、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とは全く無関係の【非科学】きわまりない空理空論であったのである。

 

◆次回から、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、〔対馬国から狗奴国までの30の小国名に秘める【倉頡が発明した文字作成理論】を逐一(ちくいち)詳細に具体的に【全体的合理】が成立するように解明して――『魏志倭人伝』の全記事は正しかった事実を完全証明する。

この30の小国名に秘められる【倉頡が発明した文字作成理論の解説・証明】によって、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論・100パーセントのデタラメであった事実が完全証明される。

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2024年4月22日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・7

中国に占領されないための卑弥呼の国防政策

 

◆中国には「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。

この伝説を、現在、学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定する。

しかし、倉頡伝説は事実を語っていた。すなわち、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)を作る理論】を発明した。

【夏の銀河】は【天の川】または【銀河】、【銀漢】などと呼ばれる。

【銀漢各部の形状から作られた文字】であったから、中国でもわが国でも略して【漢字】と表記した。

【銀漢=夏の銀河】は【夏に最も長時間見られる銀河】である。

下は【夏の銀河の写真】であり、わが国における天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。

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◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』、すなわち、わが国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子を説明する『魏志倭人伝』の主なる内容は――現代の学者たちが「荒唐無稽のウソ」と断定する【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に明確に説明する文献であった。

しかし、江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)が提唱した邪馬台国大和(畿内)説と邪馬台国九州説にもとづき、『魏志倭人伝』における主なる内容は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に体系的に説明する文献ではなくなった。

そして、白石以後現在までの約300年間のあいだに「『魏志倭人伝』には多数の誤った記事が存在する。だから、すべての記事は正しいなんて絶対に信用してはならない」という立論方法が確立された。

このような邪馬台国説の立論方法を全面否定して――『魏志倭人伝』のすべての記事に1ヵ所も誤読を加えずに信用して思慮深く思索(しさく)すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に伝えていた文献であったことが明白となる。

つまり、『魏志倭人伝』は、【「倭人国」という国家名はじめ対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名】をもって、「倉頡が文字は発明したのは事実である」と詳細に正確に直接的に説明している。

また、『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱(やまい)国の東、海を渡ること千余里の皆(みな)倭種なり」と説明する小国と、この「名称不明の小国の南には侏儒(しゅじゅ)国と裸()国・黒歯(こくし)国の3か国が有り」と説明し、さらに「黒歯国から東南の大海を航行して周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に参問(到着)する」と説明する記事がある。

上記の記事は、このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――今から約4050年前(紀元前21世紀末)の夏代黎明期(かだいれいめいき)・わが国の中期縄文時代末、中国から帝益(えき)の孫の王子(天祖)と若者たちが大海を渡り九州から北上して東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住した――と伝えていた。

名門益氏の王子と若者たちは()【精密な中国海岸線地図】、()【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、()【倉頡が発明した文字作成理論】、()「三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)」、()「五帝時代に作られた最初の漢字の書契(しょけい)()「夏代黎明期の夏音(かおん)文字」を教え広めた。

 

◆益氏がもたらした夏代黎明期の夏音文字は、712年正月に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて書体を楷書で表記して(楷書を音符・意符に用いて)多数残っている。

『古事記』は上巻・中巻・下巻の3巻から構成される。

『古事記』の序は、きわめて特殊な序である。

つまり、「『古事記』の序」は「『古事記』上巻并(あわ)せて序」と記される。

「『古事記』上巻并せて序」とは、つまり「『古事記』の序は上巻だけの序」であって、「『古事記』の序は中巻・下巻の序ではない」とあらわしている。

というのも、『古事記』の上巻の随所だけに〔音〕という注がつく夏代黎明期の夏音文字は楷書を音符・意符に用いて記載されているゆえ、「『古事記』上巻并せて序」は「『古事記』の序は上巻だけの序」ということになる。

『古事記』上巻并せて序は、下記のごとく【夏音文字の習得と、そして倉頡の文字作成理論の一端】を説明する。

――わが国は、「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において、多数の土器・土偶(どぐう)を造った。この土器・土偶を造った参神の造化(芸術)の伝統によって、名門益氏が伝えた【精密な中国海岸線地図】、そして【精密地図作製方法】を習得できた。また、益氏が教授した【黄帝の女性生殖器官の研究】・【倉頡の文字作成理論】・「三皇時代の結縄」・「五帝時代の書契」・「夏代黎明期の夏音文字を習得をもできた。『古事記』上巻には夏音文字を楷書を音符・意符に用いて記したが、楷書の字源・原義もまた「夏の銀河各部の形状」である。だから、【『古事記』上巻の〔音〕という注がつく夏音文字を表記する楷書】は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残す。【倉頡の文字作成理論】は反体制側の手中に入り、彼らに革命に利用されたならば容易に王朝が崩壊する。だから、その知識は中国でもわが国でも国家と王朝が独占管理して厳重な機密としなければならない。したがって、この『古事記』上巻并せて序では、わが国が習得した夏音文字について理解が容易ではない難解な文章をもって説明することにした――と解説している。

 

だから、『古事記』上巻と『魏志倭人伝』にて証明できるように、「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4070年前の夏代黎明期(わが国の中期縄文時代末)」であった。

にもかかわらず、現在、考古学界はじめとする学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。

上記したように【新井白石以後の近代・現代の学者たちは、『魏志倭人伝』に自説に都合のよいように多数の誤読・曲解を加え、また自説に都合の悪い記事を無視・削除(さくじょ)する立論方法】を駆使(くし)して〔邪馬台国説〕を主張する。

しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も誤記がなく、全記事が正確な文献であった。

新井白石が邪馬台国大和説と邪馬台国説九州説を立論する17世紀以前、わが国の天皇家はじめ学問に精通した武将や高僧たちは、『魏志倭人伝』を【倉頡の文字作成理論を説明する聖典】として崇拝していた。

ゆえに、新井白石が1725年に没してから13年後の1738年に皇室は【大嘗祭(だいじょうさい)】を本格的に復興して【倉頡の作成理論】を演出・儀式化して後世に伝えた。

【令和元年(2019)1114日に行われた大嘗祭】は【新井白石以来約300年継続される、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論、真っ赤な大ウソである】と表明する大祭であった。

言いかえると、【令和の大嘗祭】は【『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】と【名門益氏の東北地方の男鹿半島・八郎潟縄文文化圏に定住して夏音文字を教え広めた――と読解できる文献であった】と表示する祭儀であったのである。

 

◆今から約5000年前の黄帝王朝以後の中国の各代における王朝はじめわが国の王朝は、【倉頡の文字作成理論】が反体制側の手中に入り、革命や反乱に利用されるのを予想し、独占管理して厳重に機密を保持した。

しかし、倭女王・卑弥呼は30の小国名をもって国家と王朝が独占管理して厳重に機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】が解明できる仕組みにした。

倭女王・卑弥呼は【「反体制側の手中に入らないように、厳重に機密にしなければならない」と定まる絶対的タブー(禁忌)】を犯して――なにゆえ、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】について詳細に説明することにしたのであろうか。

卑弥呼が生存した170年~240年当時において、【倉頡の文字作成理論】は中国とわが国における【最高学問】であった。

 

『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道(きどう)を事(まつ)()く衆を惑(など)わす」と説明する記事がある。

上の記事にもとづくと――『魏志倭人伝』の記事は西暦250年頃の記事で終わっている。ゆえに、250年から780年前の170年頃に、倭国は大乱したと考えられる。

上の記事が説明するように、170年頃、卑弥呼は、倭人国の女王に就任した。

上の記事は「卑弥呼は黄帝が祭った鬼道(鬼神の道)をもって民衆の心を一つにまとめた」と意味した。

というのも、上の記事における「衆を惑わす」の【惑】の字上部の【或】の周囲を【囗()】で包むと【國】という字となる。ゆえに、【或】の下に【心】が加わる【惑】の原義は「中心に(ひとつに」まとめる」であって、多数の学者たちが解釈するように「妖(あや)しく惑わす、だます」と意味するものではなかった。だから、「衆を惑わす」とは「民衆の心を一つにまとめて国を治めた」と意味した。

 

その証拠に、今年(2024)317日の21時から始まったNHKテレビの「最新古代史ミステリー・邪馬台国と卑弥呼の謎」というタイトルの放送において、上の「鬼道」とは――老子(紀元前5・4世紀)に生存した中国の思想家」が『老子』上篇(道経)で説く「道教」であった――と指摘した。

その証拠に、紀元前1世紀に成立した司馬遷著『史記』五帝本紀は「天子が天地山川をまつった封禅(ほうぜん)の儀式をおこなうのが常例であるが、古来の天子がおこなった封禅の儀式のうちで、黄帝のおこなった儀式がもっとも最も盛大であったといわれる」と記述している。

だから、「卑弥呼がまつった鬼道」は「黄帝がまつっていた鬼神への信仰」であった。

『魏志倭人伝』は【黄帝につかえた倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に説明する書物であった。ゆえに、当然、「卑弥呼は黄帝がまつった鬼神の道に精通していた」のである。

『魏志倭人伝』は【今から約5000年前に生存した倉頡の文字作成理論】と【今から約4070年前の夏代黎明期の夏音文字】について説明する書物であった。ゆえに、「卑弥呼は鬼道を事(まつ)って能()く衆を惑わす」の【惑】の字義は原義の「まとめる」であって、現在の原義を失った転義の「考えをみだす。あざむきだます」ではなかったことになる。

 

◆前ページにて紹介したように、『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まること七、八十年にて倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う。鬼道を事(まつり)て能()く衆を惑わす」という記事がある。

 

上の記事のごとく――卑弥呼は男王と共に国家(倭人国)を樹立した。

ところが、多くの学者たちは「卑弥呼は鬼道を事りて能く衆を惑わす」という記事を、「卑弥呼は占い・巫術(ふじゅつ)を用いて民衆を妖(あや)しくまどわしていた(だましていた)」と訳する。

しかし、このようなオカルト的解釈が事実であったとしたならば――学問・文化を誇る中国は学問が劣る文化の低い野蛮な弱小の倭人国を躊躇(ちゅうちょ)なく占領したにちがいない。

卑弥呼は中国に「倭人国は学問が存在しない、文化が劣る弱小国」と解釈されて占領されることをおそれた。

だから、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論は国家と王朝を安定させるために、必ず厳重に機密にしなければならないという掟】を破って、30の小国名をもって【倉頡の文字作成理論】をあらわすことにしたのである。

つまり、30の小国名をもって共に立つ卑弥呼と男王は、中国の王朝に「倭人国は【倉頡の文字作成理論】の学問に精通する国家である事実」を、国交を結んで伝えることにした。

言いかえると、倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する事実を明らかにすれば、中国は「倭人国は中国における【最高の学問、倉頡の文字作成理論】が存在する強国である」と察知するにちがいないと考えたことになる。

 

卑弥呼と共立国家体制を組織することにした男王は「九州・伊都国に居住する一大率(いちだいそつ)」であった。

「一大率」については、前記した「卑弥呼」の名が始めて登場する一群の記事の前にて説明される。

「一大率」について説明する一群(67)記事の書き下し文は、下記のごとくである。

「女王国自()り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及(また)、郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨(のぞ)みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女王い詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ。」

 

一大率が常に治めていた伊都国は九州に所在した。つまり、伊都国は現在の福岡県糸島市・佐賀市であった。

上記したごとく、『魏志倭人伝』は「伊都国の一大率に倭人国の諸国を検察させていた。諸国は一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っていた。一大率は倭国において刺史のごときであった」と説明する。

前述したように――倭人国の対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名は卑弥呼王朝が独占管理して厳重な機密にしなければならない【倉頡の文字作成理論】を表現するものであった。したがって、諸国の王たちが30の小国名に秘められる【倉頡の文字作成理論の秘密】を容易に理解できるように説明して暴露する大罪を検察する刺史の役目が一大率であった。

だから、【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳しく監視して、そのような大罪を犯した王はじめその家族及び一族全員を死刑にする権限を、卑弥呼は一大率に与えたことになる。これゆえ、諸国の人々は一大率を畏憚していたのである。

 

上の一大率についての記事は――倭国における諸国の王が魏都(京都)・帯方郡・諸韓国に使者を派遣するとき、また帯方郡が倭国に使者を派遣するときに持参する文書や賜物の名称に使用される文字(楷書)は、すべて伊都国の港で管理する役人たちが【字源となる夏の銀河各部】を捜露(捜し露わに)して、卑弥呼が用いる文字(夏音文字)に翻訳していた。つまり、帯方郡から送られる文書や賜物の名称に用いられる楷書は正確に夏音文字に訳されて女王卑弥呼のもとに届いたときに間違いがないようにしていた――と説明している。

このように、『魏志倭人伝』は――魏都・帯方郡・諸韓国が使用する文字は「隷書に近い原始的な楷書」であった。また、卑弥呼はじめ倭人国の王たちが用いる文字は「夏代黎明期に用いられた夏音文字」であった――と伝えていたことになる。

【夏音文字の字源・字形・字義は、夏の銀河各部の形状】であり、【楷書の字源・字形の原形・原義も、夏の銀河各部の形状】であった。

だから、上の記事における「捜露」という語が示しているように――伊都国の港において、役人たちは魏都・帯方郡・諸韓国が文書・賜物の名称に用いた楷書の字源となる【夏の銀河各部の形状】合致する倭国の夏音文字の字源となる【夏の銀河各部の形状】を捜露(捜しあてて)、楷書と夏音文字の字義・語義が合致するように正確に訳していたことになる。

ということは、伊都国の港では楷書に詳しい一大率政権の役人と夏音文字に精通する卑弥呼政権の役人が数人ずつ組んで、楷書と夏音文字が正確に訳する業務に努めていたにちがいない。

だから、上の「伊都国の一大率」について説明する一群(67)の記事は「【夏音文字の音符・意符に用いられた楷書の字源・字形の原形・原義】は【夏の銀河各部の形状】であった」という事実を伝えていたことになる。

その証拠に、倭人国の対馬国から狗奴国までの30の小国名は【夏音文字と楷書が夏の銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする、倉頡の作成理論】を説明していた。

前述したとおり、当時、中国でもわが国でも【倉頡の文字作成理論】は【最高の学問】であった。

卑弥呼王朝は「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する、最高の学問を習得した国家」であると中国王朝に表示して、中国に占領されないように防衛していたのである。

 

220年、後漢が滅び、三国時代となった。

魏の曹操(そうそう・155220)が没し、子の曹丕(そうひ・187226)が後漢の献帝(けんてい)を廃して洛陽に都を置き、国を魏()と称した。

221年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび・玄徳・161223)がみずから漢中王と称して蜀漢を創建し、次いで献帝より帝位を譲られた。

223年、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)は蜀と呉が協力して魏を倒して中国を治める「天下二分の計」を企てた。

この「天下二分の計」に、呉の孫権(そんけん・182252)が承諾し、蜀と呉は軍事同盟を結んだ。

228年、赤壁(せきへき)の戦いで魏軍が大敗した。諸葛孔明も赤壁の戦いに参加した。

2009年5月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する映画「レッドクリフ」の1部と2部が上映された。この映画名は「赤壁」を英語で「レッドクリフ」と呼ぶことにしたもので、赤壁の戦いの様子を克明に描いていた。

わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な勝利をおさめた。呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割は2万の呉の水軍が担(にな)った。

229年、呉の孫権が自立して帝と称し、建業(今の南京)に都を置いた。

 

当時、魏の北側(背後)に4番目の国として公孫淵(こうそんえん)が魏の持節(じせつ)・揚烈(ようれつ)将軍・遼東大守(りょうとうたいしゅ)となって治める「燕(えん)」が所在した。

229年(呉の黄竜元年)、呉帝に即位した孫権は、魏の背後にある燕の軍が魏に反旗を翻(ひるがえ)し、「天下二分の計」を結んだ呉と蜀の軍が前面から攻撃すれば魏は滅亡すると考えた。それというのも、孫権は公孫淵が魏の配下の地位に不満を抱いているにちがいないと考えたからである。孫権は、密使に託して公孫淵に「燕王」の地位を約束した。しかし、公孫淵はこの説得に応じなかった。

というのも、燕の背後には、魏の出張機関の帯方郡庁を訪問して魏と国交を結ぶ、【倉頡の文字作成理論】を30の小国名であらわす学術強力国家・倭人国が存在したからである。

倭人国を「【倉頡の文字作成理論】を有する、東夷の大国」と解釈した公孫淵は、呉と蜀との同盟に参加した燕の動きを魏に察知されれば、魏と倭の挟(はさ)み討()ちにあってみずからの生命を失い燕が滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、孫権が派遣した密使の説得をことわった。

 

『後漢書』倭伝の末部に記載されているように――日本列島・倭人国の背後に秦(しん)の始皇帝の時代(紀元前246―同220)に方士の童〈どう・青年〉男女数千人をひきいた徐福(じょふく)一行が定住した東鯷人(とうていじん)国が存在した。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽(かいけい)にて交易をしていた。

孫権は――倭の背後の東鯷人国に1万の水軍を遠征させれば、東鯷人国が呉に占領されると背後の脅威になると倭人国は考えて、必ずや多数の兵を東鯷人国に出動させるにちがいない。そうなれば、魏の要請があっても倭人国は燕との戦いに少数の兵しか送ることができない。ゆえに、倭人国は燕の背後の脅威にはならず、公孫淵は安心して呉と蜀の連合軍側につくにちがいない――と考えて呉軍の東鯷人国遠征を決意した。

『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜(こうりゅう)2年(230)、皇帝の孫権は衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万」と説明する。

前述したように、228年の「赤壁の戦い」において、80万の魏軍を撃破して劇的な勝利をおさめた呉・蜀連合軍の中心的役割を担(にな)ったのは2万の呉の水軍であった。

この2万の半分の呉の精鋭1万の水軍が、日本列島に遠征しようとしたのである。

この呉の遠征軍は台湾と与那国島の海峡を渡ることができず、8割から9割の兵を失って壊滅した。この呉1万の水軍が日本列島遠征を失敗で呉の兵力はいちじるしく減退したために、8年後(238)、呉は天下取りの好機を逃すことになった。

 

◆呉の黄竜元年(229)に続いて、孫権は呉の嘉禾(かか)元年(232)にも、遼東の公孫淵へ使者を送った。このときの呉の使者のうちの数人を山東半島で拿捕(だほ)した魏は、公孫淵が孫権と軍事同盟を結ぶ気配を察知した。

234年、中国史上最高の軍事戦略家とされる蜀の名臣諸葛孔明が五丈原(ごじょうげん)にて享年54歳で病死した。

五丈原で孔明と対決した魏の将軍は司馬懿(しばい・175251)であった。

司馬懿は『史記』を著作した太史令(だいしれい)の司馬遷の後裔であった。「太史令」という役職は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を厳重にまもる長官」であり、「司馬」という姓の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。ゆえに、司馬懿は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

232年に公孫淵が呉の孫権と軍事同盟を結んだ気配を察知した魏は、237(魏の景初元年)の夏、幽州の長官・刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)による公孫淵の討伐を開始した。しかし、この年の公孫淵討伐は失敗した。公孫淵は、魏に背き「燕王」と称した。

 

翌景初2年(238)、魏軍のエースの司馬懿が公孫淵討伐の最高責任者となり、司馬懿は4万の兵を率いて春、首都の洛陽を出発した。6月には、司馬懿軍は遼東に到着した。

この景初2年(238)の6月、『魏志倭人伝』は「倭女王は難升米(なしめ)らを帯方郡に派遣して、魏の明帝(めいてい)に拝謁(はいえつ)して、朝献(ちょうけん)したいと申し出た」と記述する。

この「倭女王の難升米一行を帯方郡に派遣した」という記事は「倭と魏が軍事同盟を結んで、司馬懿の公孫淵討伐に協力した」と説明するものであったのである。

司馬懿軍が遼東に到着した2ヵ月後の8月24日、公孫淵は襄平(じょうへい)の城外で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

さらに4ヵ月後の12月、『魏志倭人伝』は「倭の使節の難升米一行が洛陽に到着した。魏の明帝は詔書を発し、倭女王卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)に任命するという返事を書いた」と記述する。

しかし、明帝は重病であった。ゆえに、難升米一行は明帝に面会できなかったはずである。しかし、司馬懿は重病な明帝と公孫淵討伐によって兵力がいちじるしく削減(さくげん)されて弱体化した魏都の様子を、呉の孫権に察知されまいと奇策(きさく)を企んでいた。

つまり、司馬懿は――倭人国から送られた文書に記述されていた「【倉頡の文字作成理論】をあらわす30の小国名」を洛陽に潜(ひそ)む呉の間者たちが知ることができるように手配し、しかも、難升米一行が重病で面会できないはずの明帝に面会する偽装をもって――8年前(230)に決行した1万の水軍の日本列島遠征に失敗して精神的ショックを負った孫権が魏と倭人国との軍事同盟に重視して慎重になるにちがいない。ゆえに、孫権は一気に兵力が弱体化した魏都を攻撃しないにちがいないと企んだことになる。

つまり、司馬懿は――英才・孫権ならば「倭人国の30の小国名は【倉頡の文字作成理論】をあらわす。ゆえに、倭人国は東夷の大国にちがいない」と考え、「倭の使節一行が魏都に到着して明帝と面会した」という報告を間者たちから受けたならば、彼は慎重(しんちょう)に用心して魏に罠(わな)有りと考えて魏都を即刻に攻撃することに待ったをかけ、まず倭の国力の調査に時間をさくことを優先(ゆうせん)するにちがいない――と考えて、この奇策に賭()けたのである。

司馬懿の策略にはまった孫権は、魏を滅亡させる千歳一隅(せんさいいちぐう)の絶好のチャンスを逃(のが)して、司馬懿軍が留守した魏都の攻撃を呉軍に命令しなかった。

 

司馬懿が公孫淵を討伐して洛陽に凱旋(がいせん)したのは、景初3年(239)正月であった。明帝は危篤状態であり、司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間に合った。

魏は倭女王卑弥呼に外国の臣下に与える最高の爵位(しゃくい)の「親魏倭王」の金印紫綬(きんいんしじゅ)をさずけた。

この爵位は、卑弥呼と西域の大月氏(だいげっし)国の王の二人以外には与えなかった。

だから、公孫淵の討伐と呉軍に魏都が攻撃されずに魏の窮地を救った功績によって、卑弥呼は最高位の爵位を与えられたことになる。

以上のごとく、卑弥呼の「30の小国名で【倉頡の文字作成理論】をもって、倭人国を東夷の大国として認めさせて同盟を結んで、中国には占領されない」と計画した国防政略は成功したことになる。

 

前述したように、呉の孫権が魏を滅亡させる千歳一隅のチャンスを逃した原因は――倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強力の国家であると、魏・呉と燕では解釈されていたからである。

だから、魏は卑弥呼に中国の臣下に与える最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけた。

現在の絶対的定説の「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀であった」という意見が事実であったならば、3世紀における倭人国は「漢字知識・学問を有しない、野蛮で文化が劣る弱小国であった」と、魏・呉・燕では解釈したことになる。

そんな倭人国と魏が軍事同盟を結ぶはずもなく、巫術(魔術)をもって民衆を妖しくだました卑弥呼に最高の爵位「親魏倭王」の金印紫綬をさずけるはずもない。

しかし、『魏志倭人伝』における主なる記事の内容は【倉頡の文字作成理論】だったのである。

つまり、中国では対馬国から狗奴国までの30の小国名を知って、「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を有する強大な国家である」と察知していたことになる。

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2024年3月10日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・5

「卑弥呼」という名でも、今日の日本地図と異なって転回日本列島像となった

 

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、下に示す「夏の銀河各部の形状」を図案して「文字を作る方法・理論」を発明した。

「夏の銀河」は「天の川」あるいは「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

「夏の銀河」とは「夏に長時間見ることができる銀河」、あるいは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」のことである

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黄帝は【女性の生殖器官と出産の研究】をした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・4」で詳細に解説して証明したように――【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を造形して文字を作る方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】を合体して構築された。

 

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。

超音波装置によって、1980年代ごろからようやく胎児の羊水の中での様子が少しずつ明らかになってきた。

だから、約5000年前の黄帝時代、羊水の中で過ごす胎児の様子はまったく謎のうえに謎であった。

出産後の人間は1時間も水中にもぐったままでいれば確実に死ぬ。

にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中で過ごすが、胎児はなぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――黄帝は、この秘密を解明することができなかった。

それゆえ、この秘密を「八丁もぐりの、50秒ほど潜水することができるカンムリカイツブリ」に喩(たと)えることを、倉頡は思いついた。

というのも、下図に示すように、「女性の生殖器官の側身形」は「水鳥の側身形」に相似しているからである。

K304 

倉頡は、「カンムリカイツブリ」をあらわす【爾()】の字を作った。

【爾】、のちに【弓偏】に【爾】を加えた【彌()】が「カンムリカイツブリ」」をあらわすことになった。

カイツブリ目カンムリカイツブリ属で最大の水鳥・カンムリカイツブリの全長は4661㎝、両翼を広げた長さは8590㎝である。

カンムリカイツブリの大きさと、体長2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。だから、「カンムリカイツブリ」は「胎児」体長に適合しない。

「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週から第40週の体長が4853㎝くらいの生子(せいし・赤ちゃん)」と同じくらいである。

ゆえに、【彌()】は「カンムリカイツブリ」と「出産予定日の第38週から第40週ころの赤ちゃん」に見立てられた。

 

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「第12週から第20週まで、水中(羊水)で生活する胎児」に喩えることにした。

鳰の全長は2529㎝である。第12週から第20週の胎児の体長は2030㎝くらいである。

これゆえ、倉頡は「第12週から第20週の水中生活者の胎児」を「鳰」に喩えることにした。

倉頡は【乎】の字で「鳰」をあらわしたが、のちに【口】に【乎】が加わる【呼】が「鳰」をあらわすことになった。

鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さな体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。

だから、倉頡は「鳰」を「第20週もの長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息死しない胎児」に喩えることにした。

『説文解字』は【呼】の字について「息を外()くなり」と解説する。

したがって、「鳰」は「子宮の中で息を外きつづけて、羊水を吸い込んで窒息死しない胎児」に見立てられたことになる。

 

◆『易経(えききょう)』は中国の五経の第一に挙げられる古典である。

『易経』の周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)の冒頭文は「天は尊く地は卑(いや)しくして、乾坤(けんこん)定まる。卑高(ひこう)をもって陳(つら)なり、貴賎位す」である。

この文は「天の尊い夏の銀河の象(かたち)と地の卑しい形(かたち)によって、天と地が定まる。地の【卑】と天の【高】をもって、【貴】と【賤】の位が定まる」と意味するのであろうか。

上記のように訳すると【卑】の字義は【貴】「尊い」の反対語「賤(いや)しい」ということになる。

 

しかし、【卑】の字源・原義は「賤しい」ではなかったと考えられる。

前記した『易経』周易繋辞上伝の冒頭の「卑高をもって陳なり、貴賤位す」という文とその後につづく幾つかの文を省略して、「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」という文を冒頭の「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる」という文に加えると、次のごとき文になる。

「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる。(中略)。天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」

上記の文は「天は地よりも高く尊い、地は天よりも卑つまり低い。ゆえに天と地に分かれて定まる。天の【銀河各部のかたち】は多種多様にさまざまな事物に相似するゆえ【象】ということになり、【地図における各地のかたち】は多くても三、四種の事物に相似するだけであるゆえ【形】ということになる」と解釈できる。

文字となった夏の銀河各部には名称が存在しないが、わたくしは幾つかに小分けして名称をつけた。たとえば、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河部は【天・人体・女体・男の体・妊婦・人体の正面形・人体の背面形・東から西へ歩く女性の側身形・西から東へ歩く男性の側身形・男女の交わり・木・木の枝・柱・聿()・港()・馬(フタコブラクダ)の側身形)・十字路・オス鹿の角・炎など多数の事例のかたち】に変わる。

だから、『易経』は「天に在りては象を成す」と表現した。

「中国の山東半島の地のかたち」は最初「オス鹿の横顔」に相似する、次に「天を飛翔する【彌()のカンムリカイツブリの横顔】に相似する、さらに「【馬】のフタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。

このように、【天の夏の銀河各部】よりも【地図における各地のかたちが相似すると想像される事例が少ない】。

ゆえに、『易経』は「地にありては形を成す」と表現した。

つまり、上記の『易経』周易繋辞上伝は【卑】の「賤しい」は字源・原義を失った用法であるが――【卑】の字源・原義は「天から下界を見下ろすと、中国大陸と大海の境となって、地(地図)の形をあらわす、海岸線の形」であったと伝えていると考えられる。

したがって、『易経』が成立した紀元前5世紀頃は、【卑】の字は字源・原義を失う「賤しい」と字源・原義を伝える「中国の海岸線」の二つの用法が併存(へいぞん)していたことになる。

 

712年正月に成立した『古事記』上巻并(あわ)せて序の後半には「名は文命よりも高く、徳は天乙(てんいつ)に冠(まさ)りたり」という文がある。

この文を訳すると「夏の始祖の帝禹()の裨益(補佐役)であった益の名前の尊さは禹よりも高く、殷(いん)の湯王(とうおう)の裨益であった伊尹(いいん)は湯王よりも徳が高くすぐれていた」となる。

だから、上記の文は【卑】の字源・原義が「賤しい」ではなく「帝王の次に尊い」と意味したことを示している。

 

卑弥呼が歴史上に始めて登場する約50年前の120年頃に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は【卑】の字を「賤しきものなり」と解説する。

ゆえに、2世紀前半の中国では【卑】の字源・原義は失われていたと考えると早合点・軽率(けいそつ)となる。

というのも、卑弥呼と同年代を生存した蜀(しょく)の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい・181234)が書いた、「それを読んで泣かない者は人間で非ず」とたたえられるほどの名文章「出師(すいし)の表(ひょう)」には、「裨補」という語が登場するからである。

わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【裨】の字について「裨補・裨益を原義とする」と解説する。

ゆえに、「裨補」・「裨益」の【裨】は「帝王を補佐する第二に偉大な尊い王」と意味した。

以上からして、【卑】の字源・原義は「天の夏の銀河各部の象(かたち)の次に尊い、中国の海岸線」であったと考えるべきことになる。

 

このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3回と4回で詳細に解説したように――倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北部の中国国土の地図における方位規定は、時計回りに90度転回して北は東・東は南・南は西・西は北に変ずる」と定めた。また、倉頡は【呉】の字を作って「淮河より南部の中国国土地図における方位規定は、逆時計回りに90度転回して北は西・西は南・南は東・東は北に変ずる」と定めた。

そうすると、下図の「中国の海岸線は地図に属するゆえ、淮河より北部の海岸線は【禾】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか、また淮河より南部の海岸線も【呉】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか」と疑われることになった。

しかし、下図に示した「中国の海岸線」を【禾】と【呉】の方位規定で曲げると「中国の海岸線ではなくなってしまう」――したがって、「中国の海岸線」は「【禾】と【呉】の方位規定で曲がり変ずることができない、【禾】と【呉】と無関係の独立した線」と定められた。

ゆえに、〔「中国の海岸線は【禾】と【呉】の方位規定には左右されない」と決める原理〕をあらわす【卑】の字が必要となった。

だから、【卑】の字源・原義は下図のごとく、「【禾】と【呉】の方位規定に左右されて曲がらない、中国の海岸線」ということになった。

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◆文字が作られた「夏の銀河各部」には「名称」が存在しない。『魏志倭人伝』が説明する【倉頡の文字作成理論】を解明・証明する際に、「夏の銀河各部の名称」が無いと非常に不便である。

それゆえ、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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『易経』周易繋辞上伝には、【卑】の字源・原義の「中国の海岸線」について――下記のごとく説明する記事がある。

「易は天地と準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯してもって地理を察す。」

 

上記の文は――易は天の夏の銀河各部の象と地の中国国土の形に準(なぞら)れて作られた。だから、天と地の道を弥綸する(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)ことになった。仰いでは天文を観、天から地上を俯瞰(ふかん・見下ろす)と地図の形を察(あきらか)になる――と意味する。

上記の「弥綸す」を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」という訳は、高田真治・後藤基己訳者『易経()(岩波書店発行)を転用した。

 

上記した「夏の銀河各部の名称図」の左上には、わたくしが「十字の銀河」、「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河がある。

下図に示すように、「十字の銀河」は【楷書の、之繞(しんよう)】となった。また「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「長方形の暗黒天体部とその南の銀河」は「鹿の首」の形に相似すると見立てられて【道】の字源・字形・字義となった。

下図に示した【道】の字源「オス鹿の首の形をした銀河」は、五帝時代初頭から現在まで、中国とわが国の全国各地の天頂を弥綸する(洩れなく包みこむ)

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下図に「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地図の形」を配した。

「廟島列島」は「オス鹿の角」に相似すると見立てられ、「山東半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「鹿の首」に相似すると見立てられた。

ゆえに、下図は【道】の字源「オス鹿の首の形をした地宜」となる。

したがって、上図の「[道の字源銀河]と下図の「[]の字源となる地宜」について、『易経』は「易は天地と準(なぞら)う」と表現した。

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下図に示す「山東半島の地宜」は【彌()】の字源「カンムリカイツブリの首(横顔)」に見立てられた。

そして、「山東半島の付け根より北の海岸線」と「山東半島の付け根より南の長江口までの海岸線」は【弥】の「カンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。

さらに、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)、さらに南方に伸びる海岸線」は【綸】の字義「長江口と杭州湾の陸側に食い込む海岸線の糸は解(ほど)けるかのごとくで解けずに、杭州湾の南岸からさらに円弧を描いて・つくろいおさめる糸のごとくの海岸線」をあらわすことになった。

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上記したように、【道】の字源銀河「オス鹿の首の形をした銀河」は「中国全土を弥綸す(洩れなく包みこむ)」。

そして「中国全土に造られた道路における各地の緯度」は「北と南に伸びる中国海岸線の天頂緯度線に弥綸す。つまり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線における緯度で表示される」。

したがって、『易経』は「故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と表現した。

だから、上図の「中国国土図と大海の図」は【卑】の字源・原義「中国全土を弥綸す」つまり、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」であったことになる。

 

下図に、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。

下図に示すように、「杭州湾」は〔南を上・北を下にする〕と「鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似すると見立てられた。

「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」。

ゆえに、「河口」の【口】に【乎】が加えられた【呼】の字は「鳰」をあらわすことになった。

鳰はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国の流れのゆるやかなみられる河川、湖沼、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。

【呼】の契文(けいぶん・甲骨文字)と金文の古代字形は【乎】と同一字形である。

『説文解字』は【呼】の字を「息を外()くなり」と解説する。

上記したように、「杭州湾」は「銭塘江の水が河口から外き出される」。

ゆえに、「銭塘江の水が外き出される、河口」が【口】になった。そして、【口】に【乎】が加えられる【呼】は「杭州湾の地宜」にもとづいて「鳰」をあらわすことになった。

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以上のごとく――【卑】の字源・原義は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」。

【彌()】の字源・原義は「山東半島とその付け根より北と南の長江口までの海岸線」。

【呼】の字源・原義は「杭州湾の海岸線」であった。

下図は【卑】・【弥】・【呼】つまり「卑弥呼」の語源となった「中国の海岸線」の解明図である。

『魏志倭人伝』は倭女王の名を「卑弥呼」と記す。

この「卑弥呼」という名は「中国の海岸線」を意味したのである。

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◆日本地図が示しているように、日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島が在り、東端には伊豆諸島の神津島(こうづしま)が在る。

下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度である。

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先史時代から現在まで、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出する。

黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(いしほうちょう・石器)として利用された。

神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。

神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期石器時代から使用されていたことが明らかととなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。

神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。

約3万年前の旧石器人たちは【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチする能力を有していた。これゆえ、旧石器人たちは30km以上隔たる海を往来でき、また北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができた。

この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。

人類は原始のときから、脳に【亠】をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。

だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した(旅した)原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない!死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀河輝く天文を地理代わりにして【亠】をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存していたのである。

 

【亠】の下に【幺(よう)】、すなわち「産道を通過する出産児のごとく、無欲になれば【亠】をキャッチすることができるという心得」をあらわす【幺】を加えると、【玄】の字となる。

したがって、上図の「同緯度の沖ノ島と神津島」は「古代の人々が【亠】をキャッチして1度の60分の1の1分以内の誤差で精密に緯度を測定して、大海を往来した航海方法」を現在に明確に科学的に伝えていることになる。

上図の左側に配した沖ノ島は【玄】の字が名につく「玄界灘」に浮かぶ。

ゆえに、魏・帯方郡と倭国の使節と船乗りたちは大海・玄界灘を、産道を通過する出産児のごとく無欲になって【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして往来したことになる。

上記したように、沖ノ島と神津島は日本列島の東西の端にあってはるかに遠く離れているが――沖ノ島は西の大海・沖ノ島に浮かび、神津島は東の大海に浮かんで、両島は太古以来、〔【亠】をキャッチする海洋航海〕で有名であったにちがいない。

『魏志倭人伝』は倭女王に就任する以前の「卑弥呼」を、「一女子」と記す。その一女子は太古からの〔【亠】をキャッチする習慣・伝統〕に因()り、上図のごとく沖ノ島と神津島が同緯度(北緯3415)であることを知っていたのである。

沖ノ島では、福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に所在する宗像大社の沖津宮(おきつみや)を祭る。

 

◆日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る。しかし、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端に在る神津島では冬になっても雪が降らない。

ゆえに、下図の右側に示したように、日本列島は「西冷東暖(せいれいとうだん)」となる。

中国の海岸線北部の気候は冷たく、中国の海岸線南部の気候は暖かい。

ゆえに、下図の左側に示したように、中国の海岸線地域は「北冷南暖(ほくれいなんだん)」となる。

このように、日本列島・沖ノ島の「西冷」と中国の海岸線北部の「北冷」は、「冷たい気候」で一致する。また、日本列島・神津島の「東暖」と中国海岸線南部の「南暖」は、「暖かい気候」で合致する。

したがって、倭女王に就任する一女子は――日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国の海岸線南部の暖かい気候の〔南〕の方に伸びている――と確信した。

だから、一女子は下図の右側に示したごとく――日本列島の方位規定は倉頡が作った【禾】の字源・原義のごとく「時計回りに90度転回している」と立論した。

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170年頃に上図における「転回日本列島像論」を立論した一女子は――大乱して諸国が互いに戦っている男王たちに、このまま戦争を続けていれば中国(後漢)では戦争で多数の人命が失われているきわめて残酷な状況からして、領土の拡大を図る大国の中国(後漢)はいずれ倭国を占領するにちがいないと訴えた。

この訴えに男王たちは当時の後漢の状況から反論できず、倭国内は「中国に占領される!」という恐怖が充満(じゅうまん)することになった。これゆえ、男王たちは反省して戦争の終息を決断したため、倭国の大乱は鎮圧(ちんあつ)されることになった。

だから、後期縄文時代以来長らく氏族共同体制であった倭国において、始めて国家が樹立され、王朝が創立されることになった。

この国家を統治する最高位の女王に「転回日本列島像」を立論した一女子が選ばれた。

 

「転回日本列島像」は「中国の海岸線における北冷南暖」を基軸にして立論された。

前述したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字をあらわした。

だから、倭女王は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。

卑弥呼王朝は【倭】の字源・原義となった「時計回りに90度転回する日本列島地図」を制定して、下図のごとく、34ヵ国の小国名で【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字の日本列島伝来】を表示する政策を推進した。

この政策は、中国の後漢、その後の三国時代における魏の戦略や呉・蜀の天下二分同盟の戦略によって倭人国が占領されないための防衛対抗策であったと考えられる。

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『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。

下図に示すように、「【倭】の字源にのっとる転回日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東に在る」。

しかし、邪馬台国説の立論基盤である「現在と同じ方位規定にもとづく日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東北に在る」ゆえ、不合理にして矛盾する。

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「【倭】の字源・原義にのっとる転回日本列島地図」は、『魏志倭人伝』に記される全ての方位記事に合致して一点も不合理ではなく矛盾しない。

他方、邪馬台国説の立論基盤の「現在の日本地図における方位」は、『魏志倭人伝』における全記事に合致せず、幾つかの方位記事に対して不合理・矛盾する。

 

◆以上のごとく、新井白石以来300年継続する学者たちの邪馬台国説はまったく科学に反する空理空論であった。

(1)というのも、「邪馬台国説の立論基盤である日本地図」は「天の北極」を基準にして「北」を「北」と定めるからである。

しかし、卑弥呼時代の北極星(こぐま座β星)は天の北極から半径約10度・直径1200分の円周運動していた。このため、北極星のかたよりを測量して天の北極の高度を緯度換算する方法では魏・朝鮮半島の帯方郡と倭人国の間の大海・玄界灘を渡る際に必須であった1度の60分の1の1分の精密さで緯度が測定できない。

したがって、魏と倭人国は国交を結ぶことができなかったゆえ、魏では倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった真っ白けの白紙にして空白であったことになる。

『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙ではない。『魏志倭人伝』は、約2000字で構成される。

だから、邪馬台国説が空理空論であったと断定すべきことになる。

 

(2)このブログで詳細に解説して証明したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義をあらわした。

原始時代以来、人類は【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチして大海を渡りまた遠くの地を旅していた。

ゆえに、【亠】の観測を日々鍛錬する卑弥呼時代の人々は日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端に在る伊豆諸島の神津島が同緯度であることを知っていた。

日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ「西冷」となり、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らないゆえ「東暖」となる。

いっぽう、「中国の海岸線北方地域の気候」は「冷たい」ゆえ「北冷」となり、「中国の海岸線南方地域の気候」は「暖かい」ゆえ「南暖」となった。

このため、「中国の海岸線」における「北冷」と日本列島の沖ノ島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、「中国の海岸線」の「南暖」と日本列島の神津島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する状況を注目した一女子によって「方位規定が時計回りに90度転回する、日本列島地理」が立論された。

上記したように、「転回日本列島地図」の基軸となった「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義となったゆえ、「転回日本列島地図」を立論した一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

魏・帯方郡と倭人国の使節は大海・玄界灘を、卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」の原理となった【亠(天頂緯度線と子午線)】をキャッチして往来した。

だから、魏と倭人国は国交を結ぶことができたゆえ、『魏志倭人伝』には約2000字をもって倭の様子が説明されることになった。

このように「魏・帯方郡・と倭人国の使者たちは【亠】をキャッチして大海・玄界灘を往来した」と考えると『魏志倭人伝』の全記事は合理で一ヵ所も矛盾しない。

いっぽう、「現在の同じ日本地図を立論基盤とする、邪馬台国説」は科学あるいは事実にまったく反する不合理・矛盾だらけの空理空論であると証明される。

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