アルファベットの起源

2022年5月25日 (水)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説はすべてが空理空論である
 日本国民は もういいカゲンに
 邪馬台国説にダマされるな!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆上記したように、学界やマスメディアなどが扇動(せんどう)する〔邪馬台国九州説と、邪馬台国畿内説〕は完全なる空理空論・デタラメである。
 これゆえ、〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕が明々白々の空理空論・科学に反するデタラメであると気づかない学界とマスメディアは〔邪馬台国説が空理空論・デタラメであると簡単明瞭に証明できる科学的知見〕を喪失(そうしつ)していることになる。

◆〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕で有名な文献史料の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が記述した計1983字に、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成されている。
 『魏志倭人伝』はわが国の2世紀末(西暦180年ころ)~3世紀半ば(西暦250年ころ)までの様子を記述する歴史書である。ゆえに、『魏志倭人伝』は中国の後漢時代末の180年ころ~中国が魏・漢()・呉の三国に分かれて鼎立(ていりつ)していた三国時代晩期までのわが国(西日本)の様子を説明する文献史料ということになる。(なお、漢()263年に滅び、魏は265年に滅び、呉は280年に滅亡した)
 『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)までにおいて、倭人国の使節は魏都(洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)に到着して外交を結んでいた様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡・魏の都(洛陽)に至る、その中間に在る大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 上記したように、『魏志倭人伝』には「倭人国の使節は魏都・帯方郡政庁に到着した」と記述されているゆえ、倭人国の使節は九州沖の玄界灘を往来して魏都と帯方郡政庁と外交を結んでいたことになる。
 したがって、魏(中国)は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた倭の国書に書かれていた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。

◆だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 言いかえると、倭国の使節が玄界灘を往来することができたからこそ、『魏志倭人伝』は確かな文献史料ということになる。
 よって、倭国の使節が玄界灘を往来できなかったならば、魏(中国)は倭人国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子をまったく知らなかったことになるゆえ、『魏志倭人伝』は実在しなかったことになる。
 これゆえ、倭の使節と船乗りたちはどのような方法で位置(緯度)と方位(経度)を測定して玄界灘を往来したのか――この秘密を論点にすると、学界は『魏志倭人伝』研究において学問としての出発点となる科学的知見をまったく有していないことが明々白々となる。この【倭人国の使節が玄界灘を往来した方法の科学的知見】にもとづいて考えると、学界が最も正しい意見と評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであることがいとも簡単・明瞭に明白となる。

 というのも、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は――卑弥呼王朝は、現在の日本列島地図と同じく、北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定めて日本列島の本州地理を考えていた――と断定しているからである。
 しかし、【倭人国の使節や船乗りが玄界灘を往来できた科学的知見】にもとづくと――倭人国の使節や船乗りは【北極星や天の北極を〔北〕と定める目星】とはしなかった事実が科学的に証明される。
 というのも、『魏志倭人伝』は――九州の〔西の端〕を【時計回りに90度転回】して本州の〔北の端〕と定め、本州の東端にある東海地方の静岡県は〔東〕ではなく〔南〕に位置する、つまり【現在の日本地図の方位規定に対して時計回りに90度転回する方位規定にもとづく、本州転回地理】を、卑弥呼王朝は制定していた――と記述しているからである。(『魏志倭人伝』の本州地理を説明する九州の西端(ただし、現在方位)となる末盧国以下の記事には、全部で12か所の方位記事がある。この全12か所の本州における方位記事は【時計回りに90度転回する方位規定】で説明されており、1ヵ所も矛盾せず・すべて合理となる)
 要するに卑弥呼王朝は――対馬国(現在の長崎県対馬)は一大国(現在の長崎県壱岐)より〔北〕、一大国は対馬国の〔南〕に在ると定めた。このような〔北〕の対馬・〔南〕の一大国の〔南北〕に対して、九州以下の本州日本列島地理における方位は【時計回りに90度転回して西→北・東→南になる】と定理した。(つまり、〔九州の西端〕は〔本州列島地理の北端〕、〔本州の東端にある静岡県〕は〔本州列島地理における南端〕に所在すると定めた)
 以上のごとく、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は現在の日本地図と同じく本州の〔北〕は〔北〕であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図と相違して、現在の本州の〔北〕は〔東〕となる、つまり本州における方位は時計回りに90度ずつ変位(転回)する」と証言している。

◆これより〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕は約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであったことが簡単・容易に証明される科学的知見】について解説する。

0000157_20220525092301
 上の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 上図の右上に、漢字[(とう)]を配した。[]は「天頂緯度線、天頂点、子午線」で構成される。
 「天頂緯度線」は「観測地点の緯度」をあらわす。だから、「天頂緯度線のキャッチ(測定)」は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味することになる。
 原始のときから、ヒトの脳には、〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、天頂緯度線をキャッチする訓練に励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、「天頂緯度線(つまり、精確に緯度)」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ――わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な能力)をもって天頂緯度線をキャッチできた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができた。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定理した」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であった。
 というのも、上記したように、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(緯度を精確に測定)】して〈いのち〉を原始のときからまもってきたからである。

 上図の右上にある漢字[(とう)]は、下図に示すように「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と、90度交わる子午線」から構成される。
000031_20220525092601
 上図の[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、医術が未発達であった太古以来人類は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。(というのも、出産児の頭が骨盤入口を通りぬけてせまい産道を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの出産児の頭の旋回による〈神秘的な命のいとなみ〉は実際に目撃できたからである)。
K102_20220525092501
◆前述したように、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡と外交を結んでいた。したがって、倭人国の使節は「産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲になって、[亠](天頂緯度線と子午線)をキャッチ」して玄界灘を往来していたことになる。だから、「倭人国の使節が往来した九州の陸地から遠く離れる大海」は「[玄]の字源・字形・字義をあらわす大海」であったゆえ「玄界灘」と名づけられたのである。

 日本列島における西の端には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島がある。日本列島の東端には、伊豆諸島の神津島(こうづしま)がある。沖ノ島と神津島は、共に北緯3414分に位置する。
 神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部(愛知県・静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登地方)まで分布していた。
 なんと神津島の黒曜石は約3万年の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。
 神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人たちは【天頂緯度線をキャッチできる能力(本能と眼力)】を有していた。だから、伊豆半島から遠く隔たる大海を往来し、滋賀県・近江や北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海であると注目するが、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。というのも、現代史学は【原始のときから人類が天頂緯度線をキャッチして大海を往来した海洋航海についての科学的知見】を喪失(そうしつ)している。このため、この旧石器時代の神津島の海洋航海の秘密をまったく解明することができない。
 要するに、現代史学が【「約3万年前の旧石器人たちは天頂緯度線をキャッチできた」という科学的事実】に気づけば、旧石器人たちが大海に浮かぶ神津島の黒曜石を手にいれることができた秘密がいとも簡単に明白となる。
 現代史学は『魏志倭人伝』に記述された本州列島地理における【時計回りに90度転回する方位規定】〕は約3万年前の旧石器人たちが神津島の黒曜石を手に入れた海洋航海における【天頂緯度線のキャッチの習慣・伝統】にもとづいていることにまったく気づいていない。
 現代史学は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕をまったく有していない。だから、旧石器人たちが神津島から黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。言いかえると〔人間の、頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力〕や〔[][]の字源・字形〕は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕を表示するものであることに現代史学が気づけば、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は完全なる空理空論・デタラメであったと即座に断定することができる。

◆学界は〔現在の日本列島地図を思考基盤にする邪馬台国九州説・邪馬台国説畿内説は完全なる空理空論・デタラメである実体〕にまったく気づいていない。
 これから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の思考基盤の【北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定める日本列島地図(地理)】では人類は原始の時代にすでに滅亡していたことになり、現在の日本列島にはヒトは一人も居住していない結果になる事実を証明する。これゆえ、もちろん、現在の日本列島地図を思考基盤とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の主張だと〔卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、日本列島にはヒトが一人も住んでいなかったことになる【科学的事実】〕について証明する。

 学者たちは全員、〔原始以来、人類は天頂緯度線をキャッチできたという科学的知見〕をまったく有していない。
 だから、学者たちは全員、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、現在と同じく天の北極や北極星がある方角を〔北〕と定めていた。したがって、『魏志倭人伝』の九州以下の本州(本土)列島地理の方位は現在と同じであった」と思いこむ。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】にまったく反している。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。

下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
K51_20220525093101

 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔90分の直径の円を描く北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかったゆえ、ましてや卑弥呼時代の〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力を、人類は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神(しにがみ)であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 いっぽう、前述したように、原始のときから人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように「玄界灘」の先頭字[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの天頂緯度線をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や旅の各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を規定する目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、もとより、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ日本列島地理】を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史上に存在しなかった書物であったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメ、インチキであったのである。

◆現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

 上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した【天の北極の高度を緯度に換算する方法】はまったく別物である。
 というのも、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】だと〔1度の60分の11分の誤差以内で精確に緯度が測量できた〕ゆえ、魏・帯方郡と倭を隔てる大海・玄界灘を往来できて魏と倭は国交を結ぶことができたと【科学】が成立する。しかし、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと玄界灘に入った倭の使節は途中で死滅して魏・帯方郡に到着できず、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかったことになるゆえ、どうして約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実在するのかと矛盾・不合理も甚(はなは)だしい結果となって【科学】がまったく成立しないことになるからである。
 『魏志倭人伝』は「原始から受け継がれた習慣【天頂緯度線をキャッチする方法】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図における方角と時計回りに90度転回する方位規定の本州日本列島地理を制定していた」と説明していたのである。

 このように、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と【天の北極の高度を緯度換算する方法】を比較すると、【天の北極が在る方角を〔北〕と定める現在の日本地図を思考基盤】とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は空理空論、科学的知見を喪失する非科学説、デタラメであったと直(ただ)ちに断定できる。
 
◆前述したように、九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
S394
 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
S15
 現在の日本列島地図では〔天の北極〕と〔倭地(本州)地理〕が1セットとなって一体化するが、卑弥呼時代では〔原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣〕と〔倭(本州)地理〕が一体化することになり、ゆえに〔天の北極〕と〔倭地理〕はまったく別物・無関係であって一体化しないことになったのである。
 前述したように、卑弥呼王朝が「倭地理の東端にある神津島は中国の海岸線地域の南部に在る」と立論した神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から本土に運ばれて利用されていた。旧石器人たちは〔天頂緯度線をキャッチする方法〕で神津島と本土の中間の大海を往来していたのである。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は〔原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの【科学】〕を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は南に所在する」と転回日本列島地理を制定したのである。
S14
 上図のごとく【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて、『魏志倭人伝』は朝鮮半島の帯方郡から倭地における対馬国・一大国以下32か国の小国の所在地を説明していたことになる。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように、[()][()]、そして[()][]の字源・字義は「時計回りに90度を方位は転回する」であった。
 ゆえに、卑弥呼は上図の転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭人国」と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り(倭人在帯方東南大海之中)」は、「【原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣】にもとづいて卑弥呼王朝は方位規定を時計回りに90度転回する本州地理を制定して、国名を倭人国と定めた」と説明していたことになる。 

◆日本列島は大海で包囲されている。
 この大海で隔てられる日本列島に、原始からどのような方法でヒトは住み着いて生活できたのか?
 ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(精確に緯度を測定)】して日本列島に到着し、鬱蒼(うっそう)として原始林におおわれる樹々(きぎ)のあいだに見える夜空の【天頂緯度線をキャッチ】して遠くの各地に旅して生活必需品を求め〈いのち〉をまもって生活していたのである。
 だから、約3万年前の後期旧石器時代には太平洋に浮かぶ神津島から産出される黒曜石が本土に運ばれ、約1700年前の後期弥生時代には沖ノ島と神津島が同緯度であることを卑弥呼王朝は知っていたのである。
 また、わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように――約4000年前の中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、約4250年前の五帝時代末の舜(しゅん)帝の治世から「正確な中国海岸線地図作成する官職」の「虞()」に約250年間も従事していた名門・益(えき)氏の王子と若者たちが日本列島の東北地方に定住した。益氏は〔正確な中国海岸線地図とその南北の気候〕を伝え、約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、黄帝につかえた【倉頡(そうきつ)が黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を発明した、その理論(漢字作成理論)】を教えひろめた。
 だから、卑弥呼王朝は【同緯度の沖ノ島と神津島による〔西冷東暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて「日本列島の東方は中国海岸線の南の方へ延びる」と定める転回本州地理を制定したのである。この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡が作った「いね()」の象形とされる[]の字によって確立され、黄帝は[]の標識を「黄帝軍の軍門の形」と定めた。倉頡は【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(かいせん/第1回旋と第4回旋)】を[]の字源・字形・字義に定めて[]は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。倉頡が作った[]の字源・字義は後にそのまま[]の字に受け継がれ、また[]の字にも受け継がれた。
  倉頡は[]の字をもって【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(1回旋と第4回旋)】で表現することにした。というのも、当時は出産児が時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけることができずに死亡する事故が多発していたゆえ、倉頡は「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の姿勢(側身形)」をもって〈いのち(人の生命)〉をあらわすことにしたのである。このため、約3300年前に出現した契文(けいぶん/甲骨文字)と約3000年前から出現した金文(きんぶん)[]の字形は「頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬける(1回旋するときの)、出産児がアゴを胸につけてヒザを曲げる屈位(くつい)の側身形(姿勢)の図案」となった。つまり、[]の字源・字形(字の原形)・原義は「出産児が頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけるときの、アゴを胸につけヒザを曲げる屈位の姿勢(側身形)」であった。
 だから、「本州の〔東〕は〔南〕となると定めた転回本州地理」は[][]の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国家名を「倭人」と定めたのである。

◆以上のごとく、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の研究における出発点は【天頂緯度線のキャッチ】と定めなければならなかったのである。
 『魏志倭人伝』研究の出発点を【天頂緯度線のキャッチ】と定めれば、全体としての【科学】も成立し、『魏志倭人伝』の記事と関係する考古学はじめ音韻学・漢字学(漢字の起源)・卑弥呼時代の正確な地図作成方法など様々な学術分野における【科学】が成立する。
 ところが、学界そして学者全員は【天頂緯度線のキャッチ】を『魏志倭人伝』の研究における出発点と定めない。ゆえに、『魏志倭人伝』の研究に絶対に必要不可欠な【天頂緯度線のキャッチ】という科学的知見を喪失する学界は邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が完全なる空理空論・デタラメであることに気づかない!
 愛おしき日本人よ もういいカゲンに、邪馬台国説にダマされるな もう十分タップリ日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説にバカにされるな 邪馬台国説にダマされるということは 日本人としての尊厳を冒涜(ぼうとく)されることであり 要するに日本人としてのいのちと心と魂を愚弄(ぐろう)されて 最も貴き大事なものを奪われて魂のヌケガラ・フヌケになるということなのである! だから 邪馬台国説にはバカにされるな 愛おしき日本国民ヨ 目覚めよ!

| | コメント (0)

2022年4月 3日 (日)

邪馬台国説 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・5

#日本国民よ、いつまでも邪馬台国説にダマされるな


◆邪馬台国説にダマされるな!

 邪馬台国説は無視して相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
 もう十分に、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事を誤読してデッチあげたペテン、インチキである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで正確に理解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝(こうてい)が研究した医学】と【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせんぜん)と説明していた史料であった。ゆえに、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という真実が【科学】が成立して完全証明されていた。

『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論の説明】は、わが国の幾つかの遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、現在における日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して残っている事実――が明確となる。

だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論と、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実の歴史】であったことになる。

歴史哲学・歴史科学を研究する学者たちの中には「唯一無二の歴史の真実は存在しない」と思いこむ人々がいるが――『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字発明】は、上記のごとく現在のわが国の日々の生活にも融合・同化して受け継がれているゆえ――【唯一無二の真実の歴史】は確かに存在することになる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】を説明する歴史書であった。また、『魏志倭人伝』は黄帝の史官(記録官)であった【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす文字を銀河各部の形状から文字(漢字)を作った理論】を説明する学術書であった。
 倭女王・卑弥呼(ヒミコ)は、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論と医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治して、中国や諸韓国の侵攻・侵略から衛(まも)る国防に努めた。
 
というのも、中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかったからである。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばは、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。

中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。

「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の医学研究】をあらわすために、[]の字を作った。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「倉頡が文字(漢字)を作るモデルとなった銀河」であった。
 上記したように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代は中国の魏・呉・漢と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問と、その歴史の復興】が渇望されて自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であったのである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政治理論と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 現在、中国においては、益氏が日本列島に定住した夏代初頭は神話であって歴史ではない。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって、中国の神話・伝説に登場する黄帝・倉頡・帝禹・帝益と益氏の王子と若者たちは一気に歴史上に生存した人々となる。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

1725年に死去した新井白石以後から現在までの邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の記事を正確に読むことができず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には、「倭人国には夏音文字が存在した」と伝えていたと解釈すべき記事が【A】【B】【C】の三ヵ所存在する。この記事をルビ無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の腹の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる

【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる有力な王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国(いとこく)を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換して、誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであったことになる。
 【C】『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると言いはり「邪馬台国」と誤読する。
 このような三つの事例が示すように、新井白石以後の邪馬台国説学者たち全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志を有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」によって形成され、これゆえ夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであり、ゆえに楷書の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏の全星座が漬かる銀河の範囲」、言いかえると「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。下に「夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220403103401
◆倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡することに気づいた。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を最も厳重な機密にしないと、プーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、【『魏志倭人伝』に記述された倉頡が発明した漢字作成理論】や、【漢字の字源・字形の原形・原義の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
00003_20220403103501

◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を表示することになった。だから、中国と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡の学問と、その歴史の復興】は自衛・国防に真っ先に必要とされることになったのである。
 だから、卑弥呼が【国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は邪馬壱国であった」と記す。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。

 「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 このように、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)と女性の生殖器()」の研究】をあらわした。

 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」は「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
000040_20220403103701
 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
000043_20220403104001
 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。前後径の状況になると、小斜径より約2センチ大きくなるため、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の小斜径となる頭蓋骨」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 (注 邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである)
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨の仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]が説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆前掲した〔夏の銀河の写真の左上端よりやや下部〕は、〔夏の銀河各部の名称図〕において左上の「三つ輪の銀河の北端」となる。「三つ輪の銀河の北端」は〔蒙古のゴビ沙漠の天頂(北緯42)〕となる。
 したがって、前掲した〔夏の銀河の写真〕は〔夏の銀河の範囲〕をあらわす。
 だから、「夏の銀河における北の端(北限)」をあらわすため、「ゴビ沙漠」と「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が必要となった。ゆえに、倉頡は[]の字源を「フタコブラクダ」と定めて、「馬」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

 上記したように――ゴビ沙漠からヒトが南を正面して〔夏の銀河〕を見たとき、〔ヒトの左手側は夏の銀河の東方、ヒトの右手側は夏の銀河の西方〕となる。ゆえに、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく、倉頡は【漢字の字形を左東・右西】と定めた。

 しかし、〔ゴビ沙漠から南を正面する夏の銀河の形状〕は、下の図に示すように「人体」に相似する「十字の銀河」は「頭が地のほうに向き足が天のほうに向く、逆さとなる人の(逆立ちした)姿」に見えて不自然である。
000095_20220403104201
◆倉頡は「十字の銀河」を「地面に立つ女性(妊婦)の姿」と定めるため、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【上が北、下が南】と定め、【漢字の字形の定式】は上記した通り【左東・右西】と定めた。
 これゆえ、前掲した〔夏の銀河の写真〕は倉頡が定めた【漢字の字形の定式(上が北・下が南/左が東・右が西)】をあらわす。

 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】の則(のっと)る〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
000038_20220403104401
 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
000091_20220403104601
◆下に[(か/イネ()]の字源銀河解説図を配した。[][]の字源は下に示した「[]のイネの穂が〔南から西へ〕と垂れる形式」をそのまま受けついだ。ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
K115_20220403104801

 下に〔地面に植わる禾(イネ)をあらわす、[]の字形解説図〕を配した。
 下図の右側〔[]の穂の転回図〕における〔禾の穂が「北→東」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は、上図と同じく「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
00004_20220403104901
 司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「南のかた、江(こう)に至り、熊湘(ゆうしょう)に登り、北のかた、葷粥(くんいく)を逐()ふ」という文がある。
 この文は「黄帝が率いる遠征軍は、南は北緯3130分の長江口・揚子江に至り、熊湘という名の地に登った。熊湘から北へ引き返して、黄帝の遠征軍は本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還した。そして、馬・フタコブラクダを家畜とするゴビ沙漠の住民・葷粥の別名匈奴(きょうど)が北から来襲し侵略してきたゆえ逐いはらった」と説明していたことになる。
 したがって、上に配した〔イネの穂が南に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍が長江の河口の長江口・揚子江に至り、熊湘の地に登った」と表現していたことになる。
 また、上に配した〔イネの穂が北に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江で育成される稲を採取して、北の本拠地に帰還して稲を大事に育てた。そして匈奴が来襲してきたゆえ逐いはらった」と表現するものとなる。

◆これまで解説してきた事情を、倉頡伝説は下記のごとく説明していたのである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾()を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

前述したように、倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた。そして、来襲する横暴な匈奴を逐いはらった」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって歪(ゆが)めて変えることができなかったゆえ、後世の人々は文字、つまり夏の銀河の各部の形状を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

 
◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であったと説明する。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。

 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
000012_20220403105101
 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
000014_20220403105201
 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
000015_20220403105301

 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
000019_20220403105401

◆一大国の地宜(海岸線の地図の形)が示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」と直接に関係する【漢字作成理論を象徴する聖獣】のジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地域に岐(わか)れる」ゆえ、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となる。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に相似すると見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸にも緯度軸にも邪()め」である。
 ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも外敵(魏、燕(えん)、諸韓国)が来襲したならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
000074_20220403105501

 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられて「伊都国」と名づけられた。
 そして、伊都国王「一大率」という名が示すように、伊都国は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわして「自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬・瀚海で逐いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆邪馬台国九州説の理由・根拠となる吉野ケ里遺跡は、伊都国に所在する。『魏志倭人伝』は「九州の所在する倭人国の一員となる小国は末盧(まつら)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国の四ヵ国であった」と説明する。だから、九州には女王国は存在しなかったゆえ、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論・幻想であったことになる。

 下に1番目国の対馬国から数えて24番目国の「邪馬国の地宜」を配した。
 前述したように、「邪馬」は「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・ミゾ・口の形」である。前述した[]の字源「時計回りに90度転回する〔北→東・南→西〕と定める方位規定もとづく、大和の地宜」は「邪馬」の語源「草をモグモグと食べてふくらむ鼻・ミゾ・口の形」となる。ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。
 だから、邪馬台国畿内(大和)説もまた〔デタラメ読みの論法〕を駆使(くし)した空理空論・幻想であったことになる。
000042_20220403105701

〔山陰・出雲地方の地宜〕は、明確に「邪馬」の語源と[]の字源をあらわす。だから、卑弥呼は山陰・出雲に居住していた。『魏志倭人伝』の山陰出雲・邪馬壱国までの方位記事は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にすべて合致して【科学】が成立する。したがって、卑弥呼は出雲の一画に居住していた、これが真実であったのである。

| | コメント (0)

2021年9月 2日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・26

▼わが国の学界が絶対に正しいと言いきる絶対的な定説にも――学者たちの思考停止(しこうていし)・無知(むち)が原因で根本的に誤る、クレージーなデタラメが存在する。
 この代表的な事例が、学界が「わが国が最初に漢字を習得(しゅうとく)したのは5世紀あるいは6世紀である」とする、絶対的定説である。この絶対的定説はほぼ全国民が絶対的に正しい学説と信じている常識であり、またすべてのメディアとジャーナリストたちもまた絶対に正しい学説であるちがいないと信じている。
 しかし、この絶対的定説はクレージーにして不毛(ふもう)な空理空論・デタラメであった。

◆というのも、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙(だま)されるな」が前回(25)まで詳細に科学的に証明したように――倭女王・卑弥呼(ひみこ)が登場する歴史書で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の約85パーセントの記事は「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、言いかえるとわが国の後期縄文時代初頭である」と記述するからである。この『魏志倭人伝』に記述された「漢字習得の真実(事実)」はわが国に現存する多数の資料(遺跡、遺物などのさまざまな種々雑多な史料)によって詳細に具体的に科学的に証明される。
 上記した『魏志倭人伝』は大半の記事で「後期縄文時代初頭に、わが国は漢字を習得した」と説明する事実はわが国の学界にとってきわめて不都合な真実である。このため、このような記事は『魏志倭人伝』には「いっさい、存在しない」と、もちろん、学界は定めている。したがって、『魏志倭人伝』が大半の記事で「中国の夏代初頭に漢字を習得した」と説明する事実は学者たちによって排除(はいじょ)され無視され、闇に葬り去られている。

◆『魏志倭人伝』だけでなく、『古事記』上巻の序もまた「わが国が漢字を最初に習得したのは、後期縄文時代初頭(今から約4000年前)であった」という事実を語っている。
 だから、学界はじめメディアやジャーナリストが太鼓判(たいこばん)を押す「わが国が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とする絶対的な定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述された真実を学者たちが排除し無視してデッチあげたクレージーな不毛の空理空論であった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて強引(ごういん)に邪馬台国説をデッチあげた。この白石のクレージーな邪馬台国説に、学者たちはすっかり魂(たましい)をうばわれ意のままにあやつられ隷従(れいじゅう)し、約300年ものあいだ思考停止して、いっこうに【多数の誤読】を加えて成立する立論方法は根本的にあやまっているのではないかという疑問を抱かうとしない。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ、その約85パーセントの記事は「わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった」と伝えていることが科学的に証明される事実を――学者たちはまったく知らない。

◆「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実は――現在は、誰にも容易(ようい)に理解できる明白なる事実となる。
 言いかえると、「わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった」という事実は、現在、誰にも容易に理解できる明白なる事実なっている。
 現在は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する絶対的定説は学者たちの思考停止・無知がなせる完全なるデマであり、完璧(かんぺき)なる空理空論であり、非科学きわまりないデタラメである。この事実を学者たちや学界やメディアやジャーナリストたちは信じないであろうが――現在、ゴマカしたり、弁解したりすることができない学問的事実となり、明白なる科学的事実となっている。

◆隣国の韓国では「漢字は韓国が最初に作った。最古の漢字の甲骨文字(こうこつもじ)は韓国の先祖の東夷(とうい)族が作ったからである」というクレージーな下品なデマ・ウソが横行(おうこ)しているようであるが――漢字は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。だから、韓国の学者たちが主張するように漢字は甲骨文字から始まったのではない。
 中国では、古来、「漢字は、黄帝につかえた倉頡が発明した」と伝えられていた。この倉頡伝説には「四つ目の怪人・倉頡」が登場する。この「四つ目の怪人・倉頡」について、学者たちは「人間には四つの目がない。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである。漢字は長い歴史の中で発展してしだいに体系を整えてきたものであり、倉頡ひとりの発明品であるはずがない」と、倉頡伝説を全面否定する。
 しかし、今から約5000年前に黄帝・倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂(てんちょう)には「人間の横顔にソックリの銀河部」がめぐってきた。この「人間の横顔にソックリな銀河部には四つの目」がある。だから、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」をもって――漢字は銀河から作られた。「銀河」の別称は「銀漢」、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた――と伝えていたことになる。
 倉頡伝説のとおり、「漢字は倉頡が発明した」ことは事実であった。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は「倉頡伝説は事実であった」と学問的に科学的に証明できる確かな資料であったからである。ところが、わが国の学者たちは新井白石以来約300年も、【多数の誤読】を加えて「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地について記述した書物であった」とする真っ赤なウソ・デマを日本国中にまき散らした。これゆえ、いままで「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が詳細に学問的に科学的に証明することができなかったのである。
 世に名高い邪馬台国説九州説と邪馬台国説畿内説は学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! アマテラスオオミカミを最高神と称賛する日本神話虚構説もまたは学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! 『古事記』上巻は愛の女王・イザナミノミコトをわが国のすべてを生んだ祖(おや)と絶賛(ざっさん)して歴史の事実を伝える書物であった! その証拠に、織田信長と徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されている【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を幼少のころから学び、『古事記』上巻に記述されたイザナミノミコトの歴史を正確に読解してイザナミノミコトに熱烈にあこがれる生涯をつらぬいた。
 わが国には「【夏音文字の学芸】を習得した時に同時に【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と伝える確かな資料であった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ、遺跡・遺物、地上絵(平面的に図化した地図)、文化・伝統、また【夏音文字と倉頡が発明した作成理論】を学習した多数の前人たちが存在する。というのも、【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の知識】は【学問】であったゆえ、遺跡・遺物が残り、文化・伝統としてうけ継がられことになった。だから、わが国の学問は【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得した約4000年前の後期縄文時代初頭から始まったことになる。
 そして、現在、とうとう、「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が明確に学問的に科学的に証明できる状況となった。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわ・しずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんにん)学がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ摘要しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 上記したように、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学の成果によって、現存する中国の最古の漢字音よりも、わが日本国の国語として残っている最古の漢字音のほうが古いことが明らかとなった」と指摘する。
 下に配した〔漢字生長史〕に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、この上古音における最古は今から約3070年前(紀元前1046)ごろの漢字音である。
 学界が自信たっぷりに「わが国が、漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説を下の〔漢字生長史〕に加えると――最下部、つまり『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼が生存した三国時代/3世紀(220年~280)より下部に記入することになる。したがって、学界が主張する絶対的定説の「5世紀あるいは6世紀に習得した漢字音」は「中国の上古音」よりも新しいことになる。だから、学界の漢字習得の絶対的定説は西洋の音韻学の成果に反する空理空論となる。
 下の〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国が最初に漢字を習得したのは中国から夏音文字の学芸が伝来した後期縄文時代初頭であった。だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は真っ赤なウソ・ナンセンス・非科学きわまりないデタラメであったという事実は、現在、明白なる事実となる。
Photo_20210902143001
 【1】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えず忠実に読解すると、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得したとき、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した」と説明していることになる事実を知っていない。
 【2】わが国の学者たちは、わが国には【現存する最古の漢字音(夏音文字の字音)】が『魏志倭人伝』と『古事記』に多数残っている事実を無視する。
 【3】わが国の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解する方法が学問における初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則であることを知らない。
 【4】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加える必要がない、正確無比(せいかくむひ)の資料であることを知らない。
 【5】これゆえ、わが国の学者たちは邪馬台国説と日本神話虚構説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【多数の誤読】を加えたデッチあげた空理空論、非科学きわまりないデタラメであることに気づいていない。

◆上に配した〔漢字生長史〕が示すように、また、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されているように――わが国は今から約4080年前ころの後期縄文時代初頭、紀元前21世紀末ころ(紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころ)の中国の夏代初頭に原初漢字・夏音文字を習得した。
 この【わが国が夏代初頭に習得した漢字音】について、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学によって、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
 わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国に現存する最古の漢字よりも約1000年前の漢字音である。だから、夏音文字の字音は現存する最古の漢字音である。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』には――702年に中国に渡来した第7回遣唐使は中国王朝に「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習(なら)う」と告げた――という記事がある。わが国の遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という説明は「672年の壬申(じんしん)の乱の後、稍々(少し)夏音文字を習う(復興する)にした」と意味した。
 その証拠に、第7回遣唐使が中国に渡った702年の10年後の712(和銅5)正月28日に成立した『古事記』上巻には、〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載されて残っている。
 『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の夏音文字について、白川静著『字統』は「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘したのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話は、合計381字で構成される。そのうち、〔音〕という注が付く夏音文字は【1】「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」の7字、【2】「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、【3】「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、【4】「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、【5】「久美度邇(くみどに)」の4字、計32字である。淤能碁呂島説話における合計381字の文字のうちの32字・8パーセントの夏音文字は「稍(やや)」つまり「わずか8パーセント」ということになる。
 だから、『古事記』上巻の各説話には、702年に中国に渡った遣唐使が中国王朝に「稍夏音(やや・かおん)を習う(復興する)ことにした」と語ったとおり、夏音文字の漢字音を「稍(やや)の文字数」で記載されて残った。ゆえに、各説話に稍(やや)の文字数で記される夏音文字を合計すると、『古事記』上巻全体には多数の夏音文字が記載されていることになる。
 ゆえに、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『古事記』上巻の序にて太安万侶(おおのやすまろ)が「わが国が最初に漢字の習得したのは後期縄文時代である」と記述した警告(けいこく)と、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残る夏音文字の存在を無視して強引にこじつけた空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆現在、「中国の最古の漢字音は紀元前11世紀ころから始まる上古音である」という知識は学者ならば当然(とうぜん)そなわっていなければならない、容易に知得できる常識である。
 また、学者ならば「西洋の言語学・音韻学によって、現存する最古の漢字音は中国の上古音ではなく、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて残る、後期縄文時代初頭に習得された夏音文字の字音である」という事実も、当然、知っておかねばならない常識である。
 ところが、上記した当然していなければならない事実・常識をわが国の学者たちは知っていない。このような非常識な学者たちの口車(くちぐるま)に乗せられて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とデマを流しつづけるメディアやジャーナリストの現況は、あまりにもお粗末(おそまつ)といわざるをえない。
 というのも、メディアやジャーナリストたちは空理空論・ウソ・デマを暴(あば)き、真実・事実を伝える義務と使命を背負っているからである。上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、学者たちが「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて強引(ごういん)にこじつけたデタラメ・真っ赤なウソ・空理空論であったことは明白なる事実である。
 だから、メディアやジャーナリストたちは、いまがいま、(1)漢字習得の定説と(2)邪馬台国説と(3)日本神話は【誤読】の空理空論であったという事実を世に発表して、自らの義務と使命をはたさなければならないことになる。

◆夏音文字は3世紀後半(280年~289)に著作された『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名に用いられて多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」、倭国(わこく)の外相「難升米」を夏音文字で読むと「ナシメ」、帯方郡大守(たいほうぐんたいしゅ)に倭国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将「載斯烏越」お「ソシアオ」と読むと、夏音文字の字音となる。
 また、令和元年1114日・15日におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)における重要な建物の「悠紀殿」の「悠紀」を「ゆうき」と読まずに「ユキ」という読み方、主基殿の「主基」を「しゅき」と読まずに「スキ」という読み方は夏音文字の漢字音であったのである。
 千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題して、下記のごとく指摘する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)。現在の中国音では「ピーミーフー」である。
 上記したように、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、「ヒ」とは読まない。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むのは、夏音文字の漢字音である。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を主張する学者たちは「卑弥呼」の3字を夏音文字の字音で「ヒミコ」と読む。だから、邪馬台国説学者たちは、自らの意思に反して不本意(ふほんい)にも、「今から約4000年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)、わが国は夏音文字を習得した」という事実を承認していることになる。

◆前述したように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は――「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して中国で日本でも「漢字」と称した――と伝えていたキーワードであった。
 この「漢字」という名称の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する資料(書物)であることが証明されていた。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」とよぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよぶ銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。ゆえに、「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」とよぶことにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
Ginga_20210902143201
◆天文学はじめ種々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河部・字形の原形となった銀河部・原義となった銀河部》の解説と証明をおこなう際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めた。
00003_20210902143301
◆今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)は「文字作成銀河各部の形状から文字を作る方法(作成理論)」を発明した。
 倉頡はみずから考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、この大罪(たいざい)を犯(おか)した人物の一族全員まで厳(きび)しく神罰(しんばつ)が下されて即刻(そっこく)死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(文字作成銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露(ばくろ)した者はもちろん、その者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えやすくするため、文字作成銀河の各部に名称をつけた者、またその者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【三】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰が下されて死刑にする

◆五帝時代の原初漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。この五帝時代の書契、次のわが国の夏音文字と中国の夏代に用いられた夏代文字、次の殷代(いんだい)前半の原初漢字は上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもった。したがって、五帝時代から殷代前半までの原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年以後から出現した殷代後半の甲骨文字は多数の文字数となったため、いちいち倉頡が定めた【三】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となった。このため、【三】の掟はまもらなくても死刑は免除(めんじょ)されることになった。これゆえ、甲骨文字によって【三】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料は多数出土した。甲骨文字においては、倉頡が定めた【一】と【二】の掟を厳重にまもった。ゆえに、学者たちは「銀漢から作られた文字」あるいは「銀漢各部の形状が文字であった」ゆえ、「漢字」と呼ばれることになった秘密に気づかず、また、わが国には原初漢字・夏音文字が残っていることも気づかず、さらに『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝える確かな資料であることにも気づかない。

◆漢字は字源・字形・字義と、そして字音の4つの要素によって成立する。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、上掲(じょうけい)した写真の「文字作成銀河の各部の形状」が「字源」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「字形の原形」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「漢字の原義」となった。
 つまり、学者たちは書いた文字の資料が多数出土した殷代後半の甲骨文字と西周時代の金文を「真の漢字」・「真の字形」「真の字義」を示すものであると断定する。しかし、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、書いた文字が用済みになると必ず消されることになったため、五帝時代・夏代・殷代前半では、人の手で消すことができない「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」となった。
 実際に、「文字作成銀河の各部の形状」は「字源・字形・字義」となった。だから、倉頡は「字源・字形・字義をあらわす文字作成銀河の各部の形状」でも「ことばをあらわす記号、すなわち文字」になることに気づき、上記した【死刑と定める三つの掟】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を王朝が独占管理してもっとも厳重(げんじゅう)な機密とするようにした。だから、五帝時代の書契(しょけい)・夏音文字における「字源」・「字形」・「字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であったことが歴史的事実となった。
 ところが、学者たちは「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」をあらわすゆえ、「文字作成銀河の各部の形状」が「言葉をあらわす文字」となる事実にまったく気づかない。
 夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に、2世紀の後漢時代後半から出現して7世紀初頭の隋代(ずいだい)にて完成した楷書を音符(おんぷ)にして記載される。夏音文字の字音をあらわす音符に用いられたほとんどの楷書もまた夏音文字と同じく【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られた。ゆえに、「楷書における真の字源・真の字形・真の字義」もまた「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 学界が「漢字の最も古い祖型(そけい)」と定める殷代後半に用いられた甲骨文字の字音を伝える資料は発見されていない。だから、甲骨文字も【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られたゆえ、「甲骨文字における真の字源・真の字形・真の字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 上記したように、現在、甲骨文字の字音は無いと定められる。だから、甲骨文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする、字源・字形・字義の3つの要素から成る、字音が無い不完全な漢字である。
 いっぽう、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とし、『魏志倭人伝』と『古事記』に楷書で「字音」が記載されるゆえ、4つの要素が成立する完全なる漢字である。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に【多数の誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した空理空論・真っ赤なウソであったのである。

3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、下記のごとく三つの記事で「倭には文字があった」と明確に伝えている。
 (1)倭における占いに用いる辞(じ/文字とことば)について、『魏志倭人伝』には「其の辞()は、令亀(れいき)の法の如(ごと)く」、つまり「其の辞は、亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとき文字があった」と伝える記事がある。
 この「甲骨文字のごとき文字」は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭に、中国から伝来した夏音文字であった。したがって、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする漢字であった。だから、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」と存在するものであったゆえ、確かに実在した文字であったことになる。
 (2)『魏志倭人伝』には「倭の伊都(いと)国の津()では京都(けいと/中国の魏の首都洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一画の郡)・諸韓国が用いる文字(楷書)と倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字を、逐一(ちくいち)点検し、確認して、楷書と倭の文字の両者の間に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」と伝える記事がある。
 魏の都と朝鮮半島(帯方郡・諸韓国)で用いられた楷書は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字もまた「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。だから、倭の伊都国の港では「文字作成銀河」を字源字書と定めて、魏都と朝鮮半島で用いる楷書と字形が差錯(相違)する卑弥呼が文書に書いた文字を逐一点検し、確認して、間違い・誤訳が生じないように正しく変換することができた。2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に用いられていた漢字を書いた資料は出土していない。ゆえに、『魏志倭人伝』の記述された倭の文字は【倉頡が死刑と定めた掟】によって、書いた文字が使用済みになったならば必ず消滅しなければならなかった、「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした夏音文字であったことになる。
 (3)2000字で構成される『魏志倭人伝』の後半には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中、洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という、76(4パーセント)の記事がある。
 上記の76(4パーセント)の記事は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から16回までで、「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、夏王朝の帝王に就任した益(えき)の孫の王子と若者たち一行が中国からわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝え教えひろめた。益氏が伝授した【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】は、今から約6000年前の前期縄文時初頭~後期縄文時代初頭までの約2000年間、文字作成銀河の形状をモデルにして土器・土偶を作った東北地方から関東地方までの芸術家たちによって習得された」と伝えていたことを、詳細に具体的に科学的に解説して証明した。
 だから、上記した『魏志倭人伝』の(1)(2)(3)3つの記事は「後期縄文時代初頭、わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した。これゆえ、2世紀末~3世紀半ばに生存した倭女王・卑弥呼は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして、天下を治めていた」という事実を証言するものであったことになる。

◆その証拠に、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」における17回~25(前回)までにおいても――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約85パーセント・約1700字の記事で「わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した」と説明している――と詳細に明確に科学的に解説して証明した。
 (注 上記した(1)(2)(3)の記事は、この約85パーセント・約1700字の記事に含まれる)
 『魏志倭人伝』における【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を説明する約85パーセント・約1700字の記事のうち――【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を約55パーセント・約1100字で直接的に、後半の「景初二年六月」という約30パーセント・約600字で【倉頡が発明した漢字作成理論】を間接的に説明している。
 残る『魏志倭人伝』の約15パーセント・約300字は倭人国の風習・生息する動植物・作物などを伝えている。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名(倭人国の首都が所在した国名)を「邪馬壱(やまい)国」と記す。だから、学者たちが主張するように「邪馬台国」とは記していない。
 中国の正史『三国志』のうち〔魏書東夷伝(ぎしょとういでん)〕末部の倭人伝を、通称『魏志倭人伝』とする。
 古代史研究家の先年に亡くなった故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される【壹()86字、【臺()56字を逐一(ちくいち)調査し、【壹()】の字を【臺()】と誤記した例が1字も存在しないことを証明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回「対馬国・一大国」という小国名の秘密の解明と、わがブログ20回における「邪馬壱国」という小国名の秘密の解明と、わがブログの25回において詳細に具体的に【科学】が成立するように証明したように――「邪馬壱国」の【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわした。だからこそ、倭女王の卑弥呼が居住した王国名は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわす「邪馬壱国」であったと記述した『魏志倭人伝』は、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を明確に詳細に説明していた資料であったのである。
 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。だから、学者たちが主張する邪馬台国説(邪馬台国九州説・邪馬台国畿内説)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える詐術(イカサマ)の方法で【倉頡が発明した漢字作成理論】を抹殺(まっさつ)したクレージーなデタラメ・国民を小馬鹿にする不毛の空理空論だったのである。
 学者たちは多数の【誤読】を加えて空理空論の邪馬台国説と日本神話虚構説をもって日本国民を徹底的(てっていてき)に愚弄(ぐろう)し、日本国家を衰滅させる暴力・暴言・デマを蔓延(はびこ)らさせ、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の存続に尽力(じんりょく)した皇室の滅亡をはかる大罪(たいざい)を犯し、日本人・日本国にとって最も重大な真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと躍起(やっき)になっている!

 『魏志倭人伝』には34の小国が登場する。
 そのうち、前記した『魏志倭人伝』の後半部にある76(4パーセント記事)の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり」の小国名不明の1国とその後に列記された侏儒国・裸国・黒歯国の4国を除くと――『魏志倭人伝』の前半部には、対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までは30の小国が登場する。
 対馬国から狗奴国までの30の小国をふり仮名無しで列記すると、下記のごとくなる。
 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、狗奴国。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25(前回)までで詳細に具体的に科学的に解説して証明したように――卑弥呼は上記の30の小国名と「倭人国」という国家名をもって、【文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と表示した。このため、『魏志倭人伝』は【文字作成銀河の各部の形状】を目で見ながら【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を思考する書物となった。そして、中国の晋(しん)王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『魏志倭人伝』は学者たちの想像を超()える、1ヵ所も【誤読】を必要としない正確無比の歴史書であった。
 一方、わが国の学者たちは真っ先に「『魏志倭人伝』には信用してはいけない多数の記述がある」という幻想にとり憑()かれる。さらに、学者たちは「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という幻想にとり憑かれる。だから、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する書物であったという幻想にとり憑かれて、すべてを台無しにした。

◆『古事記』上巻の序は――紀元前3000年ころの五帝時代初頭から『古事記』が成立した8世紀までの漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】に則って作られた」と説明する資料であった。この重大な資料をも、学者たちは多数の【誤読】を加えて台無しにした。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が【倉頡が発明した漢字作成理論】を記述した確かな資料であったことは、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前にて紹介したわが著書、すなわちkindle版『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)の電子書籍でも詳細に具体的に解説して証明した。
 また、無料・電子書籍「四千年前に日本には漢字が伝来した『日本四千年の学問史』」においても、詳細に具体的に解説して証明した。

◆わが国の文化・国民的思想・民度・宗教観・日本人の魂の根元などさまざまな重大な諸問題は、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡が発明した漢字作成理論】を詳細に具体的に科学的に説明する資料であった」という――この事実に則(のっと)っている。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡伝説は事実であった】と学問的に科学的に証明できる資料であったという――この事実は、今後、世界的に強大な力(ちから)となって社会を大きく変革させるにちがいない。
 というのも、わがブログ「古代エジプト文字の字源」(27)にて詳細に具体的に証明したように、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)もまた漢字と同じく「文字作成銀河の各部の形状」から作られたからである。
 古代エジプト文字は現在におけるアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界70ヵ国以上の公用語の文字と使用されるABC・アルファベットのルーツである。また、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字(アメリカ・ヨーロッパ・アフリカのABCアルファベット)だけでなく、現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字のルーツでもある。
 ゆえに、現代における世界中の大半の人々が使用する文字は「文字作成銀河の各部の形状」から起源したことになる。したがって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「世界の大半の人々が使用する文字は、文字作成銀河の各部から作られた」という事実が証明できるきわめて重大な資料となる。
 太古の昔から、人類は万物の形状に相似する銀河をみつめてきた。この銀河から古代エジプト文字と漢字が起源した。この事実を具体的に学問的に科学的に検証(けんしょう)できる資料の存在に誰も気づいていなかったが、この資料が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻であったのである。この発見は、学者にとってだけでなく、人類にとってもワクワクする話題なのである。
 というのも、文字は現代の国々の繁栄や富や名誉や尊厳やまた現代文化・文明の出発点・基礎・土台・原動力となったからである。ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって解明される文字の起源の学問的・科学的なワクワクする発見は、必ずや強大な力となって世界中に大きな変革をもたらすにちがいない。『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が文字の起源を解明できる資料であった事実はわが国の学者たちやメディアやジャーナリストたちには不都合な真実のためしばらくは隠蔽(いんぺい)されるであろうが、人類にとってワクワクするエキサイティングな話題であるゆえ、この発見はいずれ世界中に知れ渡るにちがいない。それゆえ、この事実は日本社会に衝撃的(しょうげきてき)に大きな変革をもたらすことになり、結局、個々の日本人にとっても大きな変革がもたらされるにちがいない。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論であってもまったく興味無い、自分には関係ないと思うようにしても――上記したように、あなたの実生活に直接的にさまざまな影響をおよぼす、あなたが生きるうえできわめて重大なエキサイティングな問題であるゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論・デタラメ・ウソ八百であることを前もって知っておいて、自分がどのように日々を生きるべきか、大きな変革に犠牲(ぎせい)にならないように巧(たく)みにじょうずに対処しなければならないことになる。

 (1)「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という「絶対的定説」はじめ、(2)『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を伝える文献である」という「定説」や、(3)「『古事記』上巻の日本神話は歴史を伝えるものではなく、虚構(きょうこう)・作り物である」という「定説」と称される学者たちの意見の知識は正しいにちがいないと鵜呑(うの)みにしてすっかり信用し、定説や有力説に心酔(しんすい)して思い込み・贔屓(ひいき)の度が激しくなると、定説や有力説の大きな誤りが見えなくなり、明白なる決定的な間違いに気づくことができなくなる。
 上記した三つの定説は日本国民を徹底的に貶(おとし)めて愚弄(ぐろう)する空理空論、日本国家を衰滅させる元凶(げんきょう)にして、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を存続させた皇室の滅亡をはかる大罪にして、日本人のいのちの根元となる真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと学者たちが夢中(むちゅう)になるクレージーな暴力・暴言である。
 現在、学者たちは前人が残した『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解することを頑固(かたくな)に拒絶して、学問の初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則を無視して多数の【誤読】を加える方法で真実・事実を曲げ、たくみに詭弁(きべん)を駆使(くし)して、日本国民を愚弄し、日本人の生活を直(ちょく)に脅(おびや)かし、メディアやジャーナリストを手なずけて日本国家を衰滅させる、皇室の滅亡をはかるクレージーなデタラメを日本中に蔓延(まんえん)させて支配することに夢中になっている。
 絶対にゆるしてはならない!

| | コメント (0)

2012年1月27日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・41

 【文字】は【銀河各部の形状】から作られた。
 この秘密は最も強大な権力基盤であり莫大な富を手に入れる方法であったので、この秘密を単純明快に説明する者は即刻死刑となった。
  ゆえに、『古事記』に「文字は銀河から作られた」と単純明快に記述することはできなかった。
  しかし、『古事記』作成においては竜安寺の石庭の設計モチーフとなる全体論的な考え方をすれば「文字が銀河から作られた」と察知できる複雑な方法を用いて伝えるように命令されていた。つまり、『古事記』の編纂(へんさん)では、中国の正史『新唐書』日本伝が記載するように、『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った遣唐使が述べた「後稍(のちやや)夏音を習う」という方針が定められていた。
  この「後稍夏音を習う」という史書作成の方針は「672年の壬申(じんしん)の乱の後、天武(てんむ)天皇の遺志を継ぐ持統(じとう)上皇が、夏音文字を稍々(やや)復興する方法で皇祖・天照大神が夏音文字の学芸に精通する聡明な偉大な女性であった讃(たた)える国家神話を作成せよ。しかし、伊耶那美命の陵墓を築造した時に、天照大神が多数の青年と乙女たちを殺した徇葬(じゅんそう)を決行した歴史は削除(さくじょ)せよ」とする、持統上皇が言動の端々(はしばし)で示す命令であった。

  686年9月、天武天皇が世を去るとまもなく、皇后(後の持統天皇)は息子・草壁(くさかべ)皇子の脅威となる『日本書紀』が「天武天皇の第三皇子」と記して皇位継承順位が草壁皇子の次とする大津皇子を謀反のかどで自殺を命じて葬った。この大津皇子の自殺は皇后の謀略であることは明らかであった。この後、皇后と皇太子・草壁皇子の共治体制がとられたが、689年、草壁皇子が28歳で他界すると、翌690年皇后はみずから即位し、持統天皇となった。
 692年2月、中納言の三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)が上奏(じょうそう)して直言し、持統帝の伊勢行幸が、農時の妨(さまた)げになることを諌(いさ)めたが聞き入れず、翌月に天皇は伊勢に行幸した。
  697年、持統天皇は孫の軽(かるの)皇子に譲位した。これが文武天皇である。
  この譲位の時に、持統上皇が作った和歌は下記の『万葉集』28番である。
  「春過ぎて、夏来(きた)るらし 白たへの 衣干(ころもほ)したり 天(あめ)の香具山(かぐやま) 
   この和歌は「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)から〔春〕は伊耶那美命をあらわすことになった。しかし、今は天照大神が象徴される〔夏〕となり、伊耶那美命を象徴する天の香具山は天照大神の都であるわが藤原の宮いっぱいに夏の陽射しを浴びて干される真っ白な衣に隠れて見えない。とうとう皇祖・天照大神の時代が到来して、伊耶那美命を崇拝する時代は終わったのだ!」と意味するものであったにちがいない。
  翌698年、天照大神を恒常的に鎮祭(ちんさい)させる伊勢神宮の壮大な宮殿が完成した。この時点で、天照大神は皇室の至上神の皇祖と定まったことになる。
 ゆえに、1年前に上皇が作った『万葉集』28番の和歌は、702年に中国に渡った遣唐使jが述べた「後稍夏音を習う」という命令を示すものであったにちがいない。

 このような経緯から、持統上皇が言動の端々で示して、従わなければ大津皇子のように殺すと脅迫(きょうはく)するところの「後稍夏音を習う」の方針に従って『古事記』は作成された。
  しかし、編纂スタッフは朝廷と律令体制の欲求(よっきゅう)に背(そむ)いて天照大神が徇葬を決行した歴史を記述すると決意していた。
  したがって『古事記』は反逆の史書でありながら、元明天皇が献呈を認める正史にしようと謀(はか)る史書でもあった。このため、幾つかの仕掛けが仕組まれた。
  たとえば、681年に天武天皇が史書作成を命令した真意は要するに「稍夏音を習う」という虚言・マヤカシであったが、その言葉の表面だけを読みとれば「真実の歴史を記述せよ」という勅令(ちょくれい)となる。ゆえに、『古事記』の序に「諸家で所蔵する帝紀と旧辞は、すでに真実と違い、偽りが多く加えられているとのことである。そこで帝紀を書物として著(あらわ)し、旧辞をよく調べ正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と天武天皇の詔(みことのり)を記載し、この天武天皇の詔の言葉を逆手(さかて)にとって『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に天照大神が徇葬を決行した事実を記載した。
 また、前回で指摘したように『老子』25章の〔反実仮装〕を利用して〔「黄泉国の伊耶那美命」は「天照大神」と表記して「伊耶那美命は伊耶那美命であらず、その正体は天照大神」である〕という表現して、編纂スタッフは天照大神が徇葬を決行した歴史を後世に伝えようとした。
 要するに、『古事記』上巻と序は天照大神が徇葬を決行した歴史を記述する伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を基軸(きじく)にして構築(こうちく)されるものであった。

  夏音文字においては、【銀河各部の形状】が【文字】となった。この秘密は、編纂スタッフにとって好都合であった。
 〔音〕という注が付く夏音文字をもって【銀河各部の形状】が【文字】であることを伝えれば、後世の人々は『古事記』に使われる夏音文字以外の【すべての文字(万葉仮名)】もまた【銀河各部の形状】であると察知する。この秘密に気づけば、後人たちは【銀河】を観て上巻・日本神話の歴史の真相を正しく知ることができる。
  この漢字の秘密を、字源を解説する聖典の『説文解字』は序で「けだし文字は経芸の本(もと)、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記述する。このように、『説文解字』の序は「銀河から作られた文字は経すなわち科学(天文地理学と漢字作成原理〔鳥獣の文〕の基盤となる女性の生殖器官の医学)と芸術の根本である。また、文字は王道政治が起源した最も強力な政治基盤である。そして【字源】は【銀河各部の形状】であるゆえ、この【銀河各部の形状】によって前人が後人に正しい歴史を伝え、後人が過去の歴史を正しく知ることができる方法である」と証言する。

   だから、『古事記』上巻・中巻・下巻の3巻の序は、「上巻  序并」(上巻 并(あわ)せて序)と表記された。
  現存する『古事記』の諸本の中で最古の古写本は、愛知県名古屋市中区の大須(おおす)観音の真福寺(しんぷくじ)文庫が所蔵する僧・賢瑜(けんゆ)が応永4年(1371)から翌5年にかけて書写したものである。この古写本には「古事記上巻  序并」と記されている。これゆえ、現在、出版されるほとんど書物の『古事記』の序は、「上巻 并せて序」と表記する。
  『古事記』の序は、上巻だけの序であった、中巻・下巻の序ではない。
  上巻の随所には、〔音〕という注が付く1字1音文字が記載される。
  この文字は、夏代初頭・後期縄文時代初頭に習得した夏音文字である。この夏音文字で、すべての文字は銀河から作られたことを後人に伝えるため、きわめて異例な序にしたのである。

  『古事記』序の冒頭記事は「臣安万侶(しんやすまろ)、言(もう)す。それ混元すでに凝(こ)りて、気象いまだ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す」である。
  上記の「元明天皇に臣太安万侶がもうしあげます」から「誰かその形を知らむ」までの文は、前期縄文時代より以前の縄文人たちが天頂緯度を測定した銀河の形状、すなわち「三つ輪の銀河」や「十字の銀河」の北部の混沌(こんとん)としたなんの形に相似するのか表現のしようがない銀河の形状をを表現している。
  わが国の草創期と早期の縄文土器は、深鉢(ふかばち)しか作られていなかった。この深鉢の形状は、底部を丸くした土器で天頂点となる銀河部位の軌道、底部が平らな土器で天頂点に接近した状況の天頂点を通過する銀河部位の軌道、尖(とが)った底の土器で天頂点を表現するものであったにちがいない。
  深鉢に水を入れて、水面を天頂点を映す鏡にしていたと考えられる。
  これら草創期・早期の丸底(まるぞこ)・平底(ひらぞこ)・尖底(せんてい)の土器は口縁部(こうえんぶ)を下にして地面に置くと、底が上となり天を示すことになる。尖底深鉢の底にあっては、尖った底が天頂を指し示す。
  ゆえに、これらの土器の表面の文様は、『古事記』序の初頭にて安万侶が「その天頂点となる銀河部の状況は混沌としていたので土を固めて深い鉢にしたものの、鉢に水を入れて天頂点を映してもその天頂点付近の天体部には気をまったく感じられず象(かたち)も存在しないので、名をつけることができず天頂点の個性をどうあらわしたらよいのか方法がなかった。だから、この時代の縄文人たちがどの天体部位を天頂点として土器を造形していたのか、後世のわれわれは知ることができない」と表現したとうりの文様となっている。

  安万侶が「参神造化の首(はじめ)」と表現した参神は、上巻初頭部で「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)」であると記される。
  今から6000年前の縄文前期から、縄文人の相違工夫によって、多種の用途に対応する新しい形の土器を作る造化革命が、関東地方から起こった。ゆえに、「天之御中主神」は縄文前期に関東地方の天頂を通過した「三つ輪の銀河の緯度軸」を表現するものであったのである。
 というのも、「十字の銀河」の東隣に無数の星が群がって四つの輪の輪郭(りんかく)で区分けされる。いちばん南の輪の銀河部は、関東地方の参神の時代の天頂を通過していなかった。ゆえに、わたくしは「三つ輪の銀河」と名づけた。
 夏音文字に精通する天照大神と子の崇神(すじん)天皇が居住した大和の三輪(みわ)山(奈良県桜井市三輪町)は古くから最も聖なる山といわれ、神の山と崇(あが)められてきた。つまり、この山は「造化の参神」に由来する神の山であったので「三輪山」と呼ばれることになったにちがいない。ゆえに、「造化の参神」の天頂緯度軸が貫通した三つ輪で区切られる銀河部を、わたくしは「三つ輪の銀河」と名づけた。
 〔歳差〕という天文現象を用いて、今から6000年前の縄文前期の東北地方北部の天頂緯度軸の状況を調べると、「三つ輪の銀河」のうちの「最北の輪の銀河」を貫通していたことが明らかとなる。そして、土器の造化革命が起きた関東地方においては「三つ輪の銀河」のうちの「中央の輪の銀河」の北部を貫通していた。この「中央の輪の銀河」の北端に、鳥や鹿のヘビや龍の首の形をした銀河部がある。この動物の首の形に相似する銀河は約1.5度、満月の直径は約0.6度であるから、肉眼で見える。ゆえに、安万侶の「参神造化の」と表現した「参神」は「三つ輪の銀河を貫通した天頂緯度軸」であったことになる。
  したがって、「高御産巣日神」は「縄文中期の三つ輪の銀河を貫通した天頂緯度軸」であり、「神産巣日神」は「縄文後期の三つ輪の銀河を貫通した天頂緯度軸」であったことになる。

 日本最古の国宝は、長野県茅野(ちの)市の尖石(とがりいし)縄文考古館に常設展示される“縄文のビーナス”と呼ばれる高さ27cmの土偶(どぐう)である。この土偶は今から約5000年前の後期縄文時代初頭のものとされる。この土偶は環状(かんじょう)集落の中央広場の小さい穴の中に横たわって埋まっていた。大形完形の妊娠土偶である。この土偶が出土した尖石台地は、北緯36度である。
  「造化の参神」の名は、この北緯36度の尖石台地の前期・中期・後期縄文における「三つ輪の銀河」を貫通した天頂緯度軸の形状を調べると、その三神の名の由来を容易に理解できる。
 今から約4000年前の後期縄文時代初頭、夏音文字の学芸をもたらした益氏は北緯40度の男鹿半島・米代(よねしろ)川縄文文化圏に居住した。この夏音文字であると証明できる5文字を刻む「日売大可美(ひめのおおかみ)」と解読できる石板1点と「左手に弓に似る形を有するの十字の銀河」を図案化した図書を石に刻む1点の2点の遺物が尖石台地から出土し、尖石縄文考古館に所蔵されている。というのも、この石に刻まれた図書がなにゆえ夏音文字文字かといえば、たとえば後者の〔左手に弓を持つ人〕を描く図書の場合、縄文のビーナスが作られた今から約5000年前に「十字の銀河の左手に持つ弓に似る形の先端(北端)」が尖石台地の天頂点にめぐってきたからである。
 この夏音文字の5文字が刻まれる石板と「左手に弓を持つ十字の銀河」を図案化した夏音文字を刻む石が示すように、縄文のビーナスのような優れた造化作品を夏音文字が伝来する約950年前に創造していた尖石台地の芸術家たちは、益氏が住む男鹿半島・米代川縄文文化圏に旅して夏音文字を習得したのである。
  縄文のビーナスが作られた中期縄文時代初頭、北緯36度の尖石台地の天頂点に白鳥座α(アルファ)星が重なり、「十字の銀河の頭の上部」を通過し、「三つ輪の銀河の中央の輪の銀河の中央部あたり」を貫通していた。
  縄文のビーナスの胸部は「十字の銀河」の胸部と同じく十字形である。「十字の銀河」には〔子宮〕に観える部位があり、この「十字の銀河の子宮」は「妊婦のおなかの形の銀河部」と重なる。ゆえに、縄文のビーナスは妊娠土偶である。漢字作成原理〔鳥獣の文〕は「十字の銀河の子宮」を〔女性の子宮(生殖器官)〕に見立てて、〔万物の情(イメージ)に類似するように多数の漢字を生む〕という発明である。ゆえに、尖石台地の芸術家たちには、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕は理解できた。
  「十字の銀河」は〔鏡餅(かがみもち)〕の形に相似して、「円い十字の銀河の頭」に上部に「小さな餅が重なるような凸部」がある。この「十字の銀河の頭部の凸部」と「十字の銀河の頭部中央の冎(あな)を円形に包む銀河部」は、縄文のビーナスの頭にかぶる〔帽子〕のモデルとなる。
 この帽子の頂上部には渦巻きが刻まれ、この〔渦巻きの文様〕で「尖石台地の天頂に、十字の銀河の頭部の凸部と、無数の星が渦巻く三つ輪の銀河の銀河が通過した」と表示される。
  「十字の銀河の頭部中央の冎」は〔縄文のビーナスの小さな顔〕に見立てられ、その〔両目〕は「鬼の横顔に似る銀河の首につく両目」の形に作られ、〔鼻とおちょぼ口〕は〔両目〕のモデルとなった中間にある〔鼻〕に相当する部分と〔おちょぼ口〕の形をした銀河部がモデルとなって造形された。  
  その腰のあたりの背後からポパイのような太い腕と大きな手が縄文のビーナスの上半身を抱(かか)え上げる。「十字の銀河」は〔左手〕に見立てられて[左]の字源となり、「鬼の姿に似る銀河」は〔右手〕に見立てられて[右]の字源となった。この[右]の字源となった「鬼の姿に似る銀河」は[左]の「十字の銀河」よりもはるかに太くて大きい。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」の印象から〔縄文のビーナスの上半身を抱え上げる両手〕が造形されたことになる。
 縄文のビーナスの両足は両足は短く、左足が前足となり前に半歩出で少しだけ長い。「十字の銀河の妊婦のおなかのように観える銀河部」は「十字の銀河の短い右足」にも相当する。ゆえに、縄文のビーナスの両足は「十字の銀河の右足」にもとづいて短くし、「十字の銀河の左足」は長いので左足を少し長めにしたことになる。
  そして、縄文のビーナスの側身形は「コールサック」の形にそっくりに作られている。
  また、縄文のビーナスの背中の〔頭部をおおう帽子の下端から臀部(でんぶ)まで〕の形は「十字の銀河の頭部」の形状に相似し、そのビーナスの背面の〔十字形の中心部〕は尖石台地の東西の緯度と南北の子午軸を測定した天頂点となった「十字の銀河の頭部の凸部・冎の中心」に相当するようになっている。

 上記したように、縄文のビーナスの太い腕と大きな手のモデルは「鬼の姿に似る銀河」である。「鬼の姿に似る銀河」は〔右手〕に見立てられて[右]の字源となり、[又]の字源ともなった。ゆえに、[又]の字義は「みぎ(右)」であり、字音も[右]と同じ「ユウ」である。
 「鬼の姿に似る銀河」は〔女性の子宮に宿る胎児〕に見立てられて[女]の字源をあらわすことになり、[女]に[又]が加わる[奴]の字源となった。この[奴]の字源の「鬼の姿に似る銀河」は東にある「十字の銀河」が歩く・通る〔地面〕のように観えるので、[奴]の字源となった「鬼の姿に似る銀河」は[土]の字源にもなり、〔通路〕に見立てられて[通]の字源にもなった。さらに、[奴]の字源「鬼の姿に似る銀河」は〔通路のように堅い土〕に見立てられて[堅]の字源にもなった。これゆえ、『説文解字』は[堅]の字源を「剛(かた)きなり」すなわち「堅い土」と解説する。
  だからこそ、『魏志倭人伝』における[奴]の字義は「堅い土を開墾・耕作できる強い力がある若者の太い腕と大きな手」や「18歳ぐらいの屈強な若者」をあらわすことになった。
 また[奴]の字源は「各天体部の円周運動をする原動力となる巨大な力(エネルギー)」、あるいは「洪水で氾濫する水のすさまじいエネルギーの威力を示す渦巻き」をあらわすことになった。
 あるいは、『魏志倭人伝』では「鬼の姿に似る銀河」の東の「十字の銀河の子宮」と南の〔産道〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」のイメージが結びついて「さまざまな強い力で胎児を出産させる母体の子宮や骨盤や直腸などの仕組み」も[奴]の字義をあらわすことになり、さらに「鬼の姿に似る銀河」を〔鳥と蝶の体〕に見立てまた北側の「鳥や蝶の羽の形に似る銀河」に見立てて、「空に体を浮揚(ふよう)させて飛ぶことができる鳥や蝶の翼」も[奴]の字義を示すことになった。

 『魏志倭人伝』の伊都(いと)国の隣国の「奴(な)国」は北九州の福岡市の〔博多湾〕が〔母体の骨盤〕の形に相似し、オス鹿の横顔のような形の伊都国・糸島半島が「オス鹿の横顔に似る銀河」の形に相似するので〔博多湾〕は〔産道〕に見立てられた。ゆえに、「福岡市街」は「奴国」であったことになる。
  小国の「弥奴(みな)国」は愛知県西半分の「尾張」であった。尾張の地図の上南・下北にすると、南の〔知多半島〕は[弥]の字源の「カンムリカイツブリ」の〔頭・首〕に観え、「尾張」という地名のごとく〔尾に相当する北部が張って広がる地域〕はカンムリカイツブリの[奴]の字源「空を飛ぶことができる翼」のように観える。だから、「尾張」は「弥奴国」であった。
  小国「姐奴(つな)国」は福井県中部・北部の「越前」である。越前は北部が広大で、若狭(わかさ)と東西二つに分かれる敦賀(つるが)半島がある南部が狭くて小さい。敦賀半島は越前の太い大きな綱(つな)と若狭の細い小さな綱の二つの綱の結び目のように観える。だから、万葉仮名式に読むと「つな(綱)」と読める「姐奴」は「越前」であったことになる。越前北部の地形は[奴]の字義「若者の隆々(りゅうりゅう)と盛り上がる二の腕の力瘤(ちからこぶ)や頑丈(がんじょう)な肩甲骨(けんこうこつ)」の形に相似する。
 敦賀半島で越前と境界を分ける福井県南西部の「若狭」が「蘇奴(さな)国」であった。[蘇]は「幼虫が死骸(しがい)のような蛹(さなぎ)となって、命が蘇(よみが)えるように羽化(うか)して美しい成虫となる蝶」をあらわす。上記したように、[奴]の字源「鬼の姿に似る銀河」は[右]の字源で、また「18歳ぐらいの若者」である。ゆえに、旧国名の先頭には[若]の字が配され、福井県南部は〔狭い地形〕であるので「若狭」となった。また、「鬼の姿に似る銀河」は〔「十字の銀河」に似る人が歩いた通路〕に見立てられて、[通]の字源となり[通]の初文の[甬(よう)]の字源でもあった。この[甬]と[虫]が組み合わさる字は「さなぎ」を字義とする[蛹]である。つまり、[奴]の字源の「鬼の姿に似る銀河」は[虫]の字源でもあった。ゆえに、「若狭」の上南・下北の地形は〔蝶の幼虫と蛹〕の姿に相似するということで「蘇奴国」という名になった。
  「華奴蘇奴(かなさな)国」は京都府の「山城(やましろ)」であった。東上・西下の「山城」の地形は山地の草原に生息する〔ヒメシロチョウの成虫〕の両翼を広げた形に相似し、〔蛹〕の形にも相似する。ヒメシロチョウが食べる草は、華(はな)が藤色のクサフジやツルフジバカマである。[華]の金文形は「藤やクサフジのような房状の花びらと葉」の形に相似するように図案される。ゆえに、「華奴蘇奴国」は「山城」であっことになる。
  小国「鬼(き)国」は三重県南部の「志摩(しま)」であると考えられる。「志摩」の地形は「タカが嘴(くちばし)に餌をくわえる頭部」の形に相似する。志摩の〔英虞(あご)湾〕は〔タカの口〕の形に相し、〔英虞湾の南岸〕は〔餌を加えるタカの嘴〕の形に相似する。[鬼]の金文形は「北アメリカ星雲と長方形の暗黒天体部」の形に相似し、「北アメリカ星雲」を〔餌となる獲物にめがけて急降下するタカ〕に見立て、「長方形の暗黒天体部」は[皿]の字源であるので〔皿形のタカの巣〕をあわすものとなる。ゆえに、小国名の[鬼]の字義は「タカ(鷹)」となる。
 小国「鬼奴(きな)国」は和歌山県と三重県の一部の「紀伊」である。「紀伊」の地形は〔[鬼]のタカが[奴]の翼で空を飛ぶ姿〕に相似するので「鬼奴国」となる。
 「烏奴(あな)国」は高知県・徳島県の「土佐・阿波」、烏奴国の隣国の「奴国」は愛媛県・香川県「伊予・讃岐(さぬき)」であった。
  徳島県の北東端にある「鳴門の渦潮」の潮流は時速20km以上になることもあり、世界でも最高級の速度であるといわれる。轟々(ごうごう)とすさまじい音響を立てて豪快に渦巻く渦は直径は20m以上に達するものもある。この地の底からかきまわすかのごとく巨大に渦を巻く鳴門の渦潮の地響きは、瀬戸内海の女神が妊婦のごとく怒責(どせき)すなわち怒るがごとき大きな声を挙げて四国の土地に豊かな農作物を恵み、多数の子どもたちを出産させて子孫繁栄をもたらす、「非常に強大なエネルギー」をあらわす[奴]の字義を示すものとなる。土佐・阿波南四国の中央部に浦戸(うらと)湾があり、この〔浦戸湾〕の形は〔烏〕の体のように黒い「コールサック」の形に似ている。この〔浦戸湾〕と〔鳴門の渦潮〕は、南四国全体の陸地と比較すると〔小さい穴〕のように観えるので、「南四国(土佐・阿波)」の小国名は「烏奴(あな)国」となったのである。
 伊予・讃岐の北四国中央の燧灘(ひうちなだ)は人の〔首〕の形に相似し、〔伊予・讃岐〕の地は[奴]の字義となる「屈強の若者の肩甲骨や肩の筋肉」に相似する。また、〔伊予・讃岐〕の地を[奴]の字源となる「女性の骨盤」、〔燧灘〕は〔胎児が出産する骨盤口〕のようにも観える。ゆえに、伊都国の隣国の博多湾に面する福岡市街の奴国と同じ字を用いる、烏奴の隣国の「奴国」は「北四国(伊予・讃岐)」であったことになる。
  奴国の次は、小国名に[奴]の字が付く狗奴(くな)国である。 この狗奴国について、『魏志倭人伝』は末部で「倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」と書く。ゆえに、奴国は倭国の境界となり、狗奴国は倭国の一員ではなかった。この状況を、『魏志倭人伝』は前半部で「次に烏奴国有り。次に奴国あり。これ女王の境界の尽(つ)くる所なり。その南に狗奴国有り」と書く。
   日本列島は東に伸びる。しかし、『魏志倭人伝』は「倭の道里を計るに、当然、呉の会稽(かいけい)や東治(とうじ)の東に所在するべし」と説明して、日本列島は〔東に伸びず〕に「南に伸びる」と記述する。つまり、卑弥呼王朝は方位規定を90度転回して〔東〕を「南」とする日本列島地理を制定し、この「90度の方位規定」は[倭]の字源をあらわすものであり、また日本列島に[人]の字源となる「長方形の暗黒天体部」がめぐってきたので、国の正式名は「倭人国」と定めた。ゆえに、「奴国の南に有る狗奴国」は現在方位だと「狗奴国は奴国の東に有る」ことになる。奴国の中心地は現在の愛媛県の県都の松山市であったとすると、松山市の東に岡山県の県都の岡山市がある。この岡山市が狗奴国の中心地ということになる。
  岡山県の南の瀬戸内海に香川県の小豆島(しょうどしま)が浮かぶ。この小豆島の形は〔狗〕の形に相似するので、小豆島も狗奴国であったにちがいない。小豆島の西の児島半島の形も〔狗の背中から尾まで〕の形に相似する。[狗]の字源は〔犬の姿〕に相似する「コールサック」である。「人の横顔に酷似する銀河」は〔人の横顔〕に類似する〔中国の海岸線〕に見立てられたので、「人の横顔に酷似する銀河の東隣の「コールサック」は〔黄海や東シナ海〕に見立てられた。これゆえ「コールサック」を〔小豆島と播磨灘〕に見立てると、その北の〔岡山県の陸地〕は[奴]の字源の「鬼の姿に似る銀河」に相当する。だから、「狗奴国」は「香川県小豆島と岡山県」であったことになる。

  以上のように、縄文のビーナスのポパイのように太い腕と大きな手は、『魏志倭人伝』の小国名において9ヵ国の名に使用される頻度(ひんど)が最多の[奴]の字源を示すものとなる。
  日本最古の国宝・縄文のビーナスは夏音文字が日本列島に伝来する約950年前に作られた土偶である。縄文のビーナスの上半身を抱え上げる腕と手は、益氏がもたらした夏音文字の[奴]を示すものであったから、尖石台地の芸術家たちには[奴]の字源は容易に理解できたにちがいない。尖石台地の土器や土偶が示す縄文芸術ならば、夏音文字は習得できた。
  縄文時代も同様に弥生時代もまた、堅い地面を開墾し耕作するには「奴」の若者の太い腕と大きな手が不可欠であったから、『魏志倭人伝』の小国名で使用頻度が最多の文字となったのである。

 縄文のビーナスが作られた今から約5000年前の後期縄文時代初頭における北緯36度の尖石台地の天頂緯度軸は、白鳥座α星から「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形に似る銀河の北端」、そしてその隣の「鬼の横顔に似る銀河の角の先端(北端)」、さらに「十字の銀河の頭部の凸部」を通過した。この天頂緯度軸が通過した「鬼の横顔に似る銀河の角の先端」と「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形に似る銀河の北端」は、縄文のビーナスが頭にすっぽりかぶる〔帽子〕のモデルとなった。というのも、縄文のビーナスの側身形における〔帽子〕の傾きは、「鬼の横顔に似る銀河の角の先端から後頭部につく目の形に似る銀河部」までの形状に相似するからである。その〔帽子〕の頂上部が〔平ら〕であるのは、天頂点と重なる時の銀河部位の軌道は[玄]の字源となる「真東から真西へと平らな極細の線」を描くからである。

  縄文のビーナスの〔帽子〕の平らな頂上部には〔渦巻き〕の文様が刻まれる。
  山梨県東八代郡御坂(みさか)町の花鳥山遺跡から出土した諸磯(もろいそ)C式の深鉢は、『古事記』の上巻が記す天之御中主神の時代、すなわち今から約6000年前から約5000年前までの前期縄文時代に作られたとされる。この深鉢の中央部より下段は筒形となり、中央部分でいったんくびれ、上段は波状口縁(はじょうこうえん)に向かって朝顔の花のごとく大きく外反(がいはん)する器形となる。この上下二段に規則的な渦巻き文がくりかえされている。
  山梨県東八代郡御坂町の桂野遺跡から出土した勝坂(かつさか)深鉢は、高御産巣日神の時代、すなわち今から約5000年前から約4000年前の中期縄文時代に作られた。この深鉢は底部がすぼまり、胴部は円筒形である。この胴部全面を強力なエネルギーが感じられる大中小さまざまな大きさの渦巻き文が埋めつくし、余白として残した部分に波状文、平行線文、二分の一の渦巻き文などで装飾されている。
  また、縄文中期に作られた新潟県信濃川流域の火炎式土器の胴部もエネルギーあふれ出る渦巻き文で飾られ、口縁部の火炎の突起部も渦を巻くかのごとくに造形される。
  そして、群馬県吾妻(あがつま)郡吾妻町の郷原遺跡から出土したハート形土偶は、神産巣日神の時代、すなわち今から約4000年前から以後の後期縄文時代に作られた。このハート形土偶の正面身体部の胸の上、両腕、両腿(もも)、また背中の首下から腹部にかけて、両腕、両腿の部分に渦巻き文がほどこされている。

  このような縄文時代の土器の表面を埋め尽くす渦巻き文と土偶にほどこされた渦巻き文は、日本列島の天頂にめぐってきた無数の星がひしめきあって集まり渦を描く「造化の参神」すなわち「三つ輪の銀河」のうちの「中央の円形の銀河部と南隣の輪の銀河部」を造形するものであった。
  草創期、早期の縄文時代においては、日本列島の天頂を「十字の銀河の頭部の北側の結縄(けつじょう)の銀河部」あるいはさらにその北側、また「三つ輪の銀河の北の輪の銀河部」がめぐってきた。この領域は銀河の帯からの外(はず)れるので、目星(めぼし)い星が見あたらない。この形状を太安万侶は『古事記』の序で「それ混元すでに凝りて、気象いまだ効(あらわ)れず、名の無く為(わざ)も無し。誰かその形を知らむ」と表現した。
 したがって、縄文前期以後の土器や土偶にデザインされた「造化の参神」をあらわす「渦巻き文」は「気象」をあらわすものであったことになる。
 前期縄文以後、天頂緯度軸の付近に縄文のビーナスがモデルとなる「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がめぐってきた。ゆえに、天頂を通過する「三つ輪の銀河の密集する星」は〔天に輝く星〕、「十字の銀河」が〔銀河〕と〔道を切り開いて歩く人〕に、「鬼の横顔に似る銀河」が〔天頂点をキャッチする人の顔〕に、「鬼の姿に似る銀河」は〔人が歩く地〕に見立てられることになった。
  このように天頂緯度軸付近に、乾坤(けんこん)すなわち「天と地」に見立てることができる天体部が出現した状況となるので、安万侶は「しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首(はじめ)を作(な)す」と表現した。

  「造化の参神」である「三つ輪の銀河」は[麗]の字源となった。「三つ輪の銀河」が天頂を通過した時、その下(南南西)に「オス鹿の横顔に似る銀河」がある。ゆえに、[麗]の字形の上部は「三の輪の銀河」、下部の[鹿]は〔三つ輪の銀河の下にオス鹿の横顔に似る銀河がある〕と表示するものとなる。
  「三つ輪の銀河」が天頂に位置する状況は、たくさんの音の無い花火が炸裂(さくれつ)して天空いっぱいに広がる息をのむ壮麗な光景、あるいは天空いっぱいに砂金が敷きつめられるような豪奢(ごうしゃ)壮麗な極みとなる。ゆえに、「三つ輪の銀河」は[麗]の字源となった。
  古代エジプトでは、【文字と学問において特に重大な銀河の形状】を【神】と呼んだ。ゆえに、古代エジプト人は、【銀河各部の銀河】から図案化した【文字】を【メドゥウ・ネチェル】すなわち【神の言葉】と呼んでいた。この【神の言葉】は精巧かつ精緻(せいち)なレリーフ(浮き彫り)、色鮮やかな壁画、贅(ぜい)を尽くした王の墓などにおいて黒・青・緑・黄・赤・白といった色を使い麗しく彩色されて装飾された。

 この古代エジプト文字の【神の言葉】と同様に、縄文土器の表面を埋め尽くして飾る渦巻き文や躍動的に駆けめぐる奔放(ほんぽう)な曲線文様の装飾や火炎のようにあるいは渦を巻くように造形される異様な突起で飾られる口縁部は、壮麗な【造化の参神の言葉】をあらわすものだったのである。
  中国から日本列島に渡来した益氏の王子と若者たちが話す夏音は縄文人たちにはまったく理解できない言葉であった。しかし、【造化の参神の言葉】を聞いて理解できる縄文の芸術家たちには、夏音文字の学芸を習得することができた。
  このように、益氏が説明する【言葉】を縄文人が自分たちの【言葉】に訳して夏音文字を習得するものではなかった。
  夏音文字は、夏音文字と造化の参神の時代の土器と土偶が作られた【銀河各部の形状】を用いて習得された。
 だから、【文字】は【銀河各部の形状】であったと断定すべきことになる。
  学者たちは【文字】は【言葉をあらわす記号】と断定するが、この定説は根本的に誤っている。また、
学者たちは、夏音文字を刻んだり書かれている史料が出土してこそ「夏音文字はわが国に伝来していたことになる」と断定するが、この断定も根本的に間違っている。
  「夏音文字は銀河各部の形状から作られた」と縄文人たちが理解して習得できたと科学的に証明できれば、夏音文字はわが国に伝来したと断定すべきことになる。

  縄文人による夏音文字の習得は、学者たちの【古代文字】は【言葉をあらわす記号】であったという定義が根本的に誤っていることを科学的に証明するものとなる。なぜならば、【古代エジプト文字】も【夏音文字】も【銀河各部の形状】であったと科学的に証明できるからである。

  白川静著『字統』(平凡社)の9頁から10頁にかけての「わが国の漢字音」と題する項目で次のように指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
  1979年に小学館が刊行した『日本古代史の旅 3 邪馬台国なぞの古代国家』は、「中国には卑弥呼が生存した魏(3世紀)以前の中古音と上古音が残っており、〔卑弥呼〕を中国の上古音で読めば〔ピミカ〕、魏以前の中古音で読めば〔ピミエクゥオ〕である」と記す。
  カールグレンの音韻学にもとづくと、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」を〔ヒミコ〕と読む字音をはじめとする人名・小国名・官職名などの字音は、中国の上古音よりも古いことになる。
  白川静博士は『字統』の19頁で「漢字は、もと1音であったはずである」と指摘する。『古事記』上巻の〔音〕という注が付く夏音文字の字音は1字1音である。
 出土史料を絶対的な史料とする「わが国において漢字を初めて習得したのは応神(おうじん)天皇時代である」と断定する日本古代史学界の定説だと、わが国の最古の字音は中国の上古音よりも新しい応神朝と同時代であった百済(くだら)や北魏(ほくぎ)、あるいは梁(りょう)などの字音でなければならないことになる。
  だから、学者たちが主張する定説は、わが国に応神朝よりはるか以前の中国の上古音よりもさらに古い1字1音の夏代初頭に習得した夏音が『古事記』上巻と『魏志倭人伝』になにゆえ残っているのか、矛盾もはなはだしく、科学的、合理的に説明することがまったく不可能となる。
  学者たちは現在の【文字】が【言葉をあらわす記号】であるから古代漢字もまた【言葉をあらわす記号】であるにちがいないと思いこむ。しかし、わが国の夏音文字と中国の甲骨文字と金文の字形と古代エジプト文字によって、【銀河各部の形状】が【文字】であると科学的に証明される。
  あるいは、「造化の参神」の秘密を科学的に具体的に解明できる縄文のビーナスが出土した長野県茅野市の尖石台地の縄文遺跡や遺物、秋田県鹿角(かづの)市の所在する夏代初頭の国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)、『魏志倭人伝』と同時代に作成された静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、京都市の竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万坪の羽のない大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園によっても、【銀河各部の形状】は【文字】であった科学的に具体的に証明できる。
  大嘗会(だいじょうえ)において天皇の頭上に高々と差し上げる王冠もまた、【銀河各部の形状】が【文字】であったと表示する。
  日本の学界の【文字の習得の定説】には科学的根拠・理由がまったく存在しない。要するに、錯覚あるいは幻想なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月20日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・38

 『魏志倭人伝』末部に近くの魏の正始8年・247年の記事に、魏の出張機関である朝鮮半島に所在した帯方郡政庁を訪問して、倭国と狗奴国(くなこく)の戦況を説明した倭の使節の長官「載斯烏越(そしあお)」という人物が登場する。
 この倭の使節の長官名の先頭字[載]の初文の字について、インターネットは「入力できない文字で、保存できない。該当の文字を削除するか別の文字に変更してください」と表示る。それゆえ、この[載]の初文を[載]と表記することにする。

 白川静著『字統』は[載]の字源について「載にことをはじめる意がある。載は戈(ほこ)をつけて祓(はら)うことを意味する字で、それは軍事をはじめるときの儀礼を意味したものとお思われる。載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるのであろう」と解説する。
 この『字統』の[載]の字源解説が示すように、載斯烏越は武将であった。
 武将であるから、倭国と狗奴国の戦況を報告する役目をになって海を渡った。
 当時、倭と魏は軍事同盟を結び、1年前の246年ころに帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)が、馬韓の首長を中心とする勢力の帯方郡の軍事基地を攻撃によって戦死した。このような韓の反乱がおきたときには、魏と軍事同盟を結ぶ倭軍が韓に出兵して支援しなければならなかった。しかし、倭にあっても狗奴国との戦いで、魏との軍事同盟の約束をはたすために倭軍を割(さ)く余力がなかった。このため、倭国が魏軍・帯方軍を支援できなかった事情を説明するために、載斯烏越は帯方郡政庁を訪問したのである。

 「載斯烏越」の[斯]は[其(き)]と[斤(きん)]は組み合わさる字である。白川静著『字統』は[斤]の甲骨文字の字形を「斧(おの)の形」と解説する。[其]の甲骨文字と金文の字形によって、[其]の字源銀河は「長方形の暗黒天体部」であると証明できる。[其]の甲骨文字と金文の字形の基本部にある[×]の図書は「長方形の暗黒天体部の南側の2連菱形枡の銀河部」をあらわしていることになる。というのも、二つの菱形が連結する部分は[×]の形になるからである。
 そうすると、[基]の「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの北部」である。「コールサックの北部」は東西に分かれて、「長方形の暗黒天体部」もその西隣の「暗黒天体部」も[斤]の字源の〔「斧の刃の形〕に相似し、「コールサックの南部」は〔斧の柄の形〕に相似する。
 この〔斧の刃の形〕の北隣は「鬼の姿に似る銀河」である。
 当時は日本列島の基準緯度・北緯35度の土地の天頂に白鳥座γ(ガンマ)星が通過した。この白鳥座γ星が天頂にめぐってきたときに「十字の銀河」のほうを見ると、「十字の銀河」周辺の「オス鹿の横顔に似る銀河」は〔葉が茂る樹木の葉冠部(ようかんぶ)〕に観え、「鬼の姿に似る銀河」は〔樹木の太い幹〕に観える。そして、〔斧の刃の形〕に相似する「コールサック北部の西側の暗黒天体部」は〔樹木の根の部分〕となる「鬼の身に相当する銀河の南の足」の部分にくいこむように観える。ゆえに、その「斧の刃の形に似る暗黒天体部」は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」の根元から切り倒す〔斧の刃〕のイメージとなる。
 『説文解字』は[斯]の字源を「柝(さ)くなり」と解説する。この字源解説に登場する[柝]の編は[木]である。この[柝]の[木]は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」ということになる。また、[斯]の字源解説の「柝くなり」は「樹木の幹を裂(さ)くなり」となるから「樹木を根元から斧を使って切り倒す」と意味するものとなる。
 上記した「軍事をはじめる」をあらわす[載]に[斯]の字義を合わせると、「鬼の姿に似る銀河」は〔人の姿〕にも観えるから、[斯]の字源となる「斧で大木を切り倒す」を意味する「柝くなり」は「戦争で多数の敵の兵を殺す」と意味するものとなる。
 
 
 以上からして、[斯]の字源銀河は〔太い樹木の幹〕に相似する「鬼の姿に似る銀河」の根元を切り倒す〔大きな斧の刃〕に観える「コールサック北部の西側の暗黒天体部」となる。
 当時(3世紀中ごろ)、日本列島の基準緯度の北緯35度の天頂緯度線は、白鳥座γ星から[斯]の字源となる「コールサックの北部の西側の暗黒天体部の中央部」から「長方形の暗黒天体部の中央部」へと貫通していた。

 「コールサック」は「載斯烏越」の[烏]の字義「カラス」の姿に相似して黒い。また、カラスは死者に群がって肉を啄(つい)ばむ。ゆえに、[載][斯][烏]の3字は武将の名であると示す。
 当時(三国時代)は中国においても、若者が軍を指揮した。魏の曹操(そうそう)の子の曹丕(そうひ)は18才で戦場に出て軍を指揮し、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)も青年軍師であり、呉の孫権(そんけん)も戦いを指揮する青年であった。つまり、中国でもわが国でも戦いは青年武将が指揮するものと定まっていたのである。というのも屈強な体力を有する生命力あふれる若者には、戦いに勝つことができる呪能(じゅのう)が最もそなわっていると信じられていたからである。
 だから、載斯烏越の「烏越」は「青」をあらわし「青年武将」を意味していたと考えられる。

 『三国志』の呉書孫権伝に、下記のような記述がある。
 「将軍衛温(えんおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ。」
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀に、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)から蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の薬を求めるように命令された方士の徐福(じょふく)が童(青年男女)数千人連れて大海を渡って日本列島に到着したが、不老長寿の薬を発見することができず、死刑をおそれて中国に帰還しなかった。この徐福一行が移住した地が東鯷人国(とうていじんこく)であり、夷州と亶州は東鯷人国にある2州である。3世紀、東鯷人国に定住した徐福一行の子孫たちは数万家となっていた。この東鯷人たちは大海を越えて定期的に呉の会稽(かいけい)港に到着して交易をしていた。しかし、この東鯷人が往来する海の道は、中国の人々には遥(はる)か遠くまで続いて道が途中で絶えて消えてしまうので、絶対に往来することはできない」と説明する。

 呉の孫権は、魏の背後の燕地(えんち)の公孫淵(こうそんえん)が燕王になれず魏の臣下であることに不満を抱いていると見抜いて、魏を倒すために魏の背後の脅威(きょうい)となる燕地の淵を呉と蜀の天下二分軍事同盟国に組み入れようと計画して、燕地に密使を派遣した。
 しかし、淵は呉と蜀の連合軍と軍事同盟を結べば、魏と軍事同盟を結ぶ卑弥呼が統治する倭軍が背後から魏が前面から燕軍を攻撃するから燕は滅亡すると考えて孫権の説得に同意しなかった。
 そこで、倭の背後の東鯷人国の海に呉の一万の水軍を遠征させせれば、東鯷人国は呉軍に占領されまいと隣国の倭に支援を求めるにちがいないと考えた。つまり倭の東鯷人国が呉軍に占領されると、東鯷人国は倭の背後の脅威となるので、倭は東鯷人国に多数の軍兵を派遣して防衛しざるをえないことになる。
 孫権は淵を味方に引き入れて呉と蜀と燕の3連合国軍で魏を倒すために――倭軍が魏軍を支援できなくすれば、淵も安心して呉・蜀連合国と軍事同盟を結ぶにちがいないと戦略を立てた。この戦略を成功させるために、東鯷人国に遠征した水軍は戦ってはならず、東鯷人国の人民が恐怖を感じるようにして帰還せよと命令していたのである。

 208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。
 わずか5万の呉・蜀連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な大勝利をおさめた。この呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割をはたしたのは2万の呉の水軍であった。
 魏の80万の大軍は赤壁の川岸に軍艦をならべ岸に密集して陣をかまえた。
 その決戦の日、折しも強風が吹いていた。
 呉の兵たちは舟に枯れ柴(しば)の束を積んで火を放ち、その舟を魏の艦列へ突っ込ませた。枯れ柴の赤い火は軍艦に燃えうつり、その火は強風で一気に勢いづいて黄色い火炎の竜となって次から次へ軍艦を呑みこみ数匹の竜と化し、さらにその火炎の竜は岸辺の陣まで延びて暴れまわり魏の大軍を壊滅させた。

 この赤壁の戦いから12年後すなわち呉の黄竜2年(230)、1万の呉の水軍は日本列島の東鯷人国への遠征の旅についた。この情報は呉の会稽港で交易する東鯷人が国王に報告したのか、あるいは232年に燕の淵への密使に任命された呉の一員が山東半島にて拿捕(だほ)されたので魏の役人たちが彼らを責めて日本列島遠征を白状させ魏から倭政府に伝えられて東鯷人国の王のもとにとどいたかは不明である。
 赤壁の戦いにもとづいて大雑把(おおざっぱ)にいうと、呉の1万の水軍は40万の魏の大軍に匹敵(ひってき)することになる。このような呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えた東鯷人国の王は卑弥呼が治める倭国に服属した。ゆえに、東鯷人国は国名が改められて「日本国」となった。

 この小国・日本の女王に13歳の壱与(いよ)が選ばれて赴任した。
 13歳の乙女は最も澄む瞳を有するものであるから、敵の戦力を奪う呪能が最も優る年齢と信じられていた。ゆえに、壱与は媚蠱(びこ)の女王であった。
 白川静著『字統』は「媚蠱」の[媚]の字源について「初義は媚蠱とよばれる呪術を行う巫女(みこ)をいう。(中略)。敵の呪的な能力を奪うことができるので、(中略)、媚とは美しき魔女、媚態(びたい)・媚辞(びじ)はすべて魔女的な行為である」と解説する。
 「壱与」の[壱]の字源銀河は「十字の銀河の子宮」である。[与]の字源銀河は「黄河の氾濫の形状に似る銀河と長方形の暗黒天体部」である。
 つまり赤壁の戦いで勝った戦績を有し〔黄竜〕という年号に遠征して火の竜と化す呉軍に対抗して、小国・日本の女王の「壱与」という名は「天(すなわち十字の銀河の子宮)から降る大雨で氾濫した激流の水中に潜(ひそ)む龍と化すように日本軍の戦力を強大にし、燃え上がる火の勢いの呉軍の戦力を大雨でことごとく消し奪って勝利を導く日本軍の魔女(媚蠱)」と意味した。

 『説文解字』は[竜(龍)]の字源を「鱗蠱(りんこ)の長なり。能(よ)く幽にして能く明、能く細にして能く巨、能く短にして能く長」と解説する。
 [火]の字源銀河は「北アメリカ星雲」である。ゆえに火攻めで魏の大軍に勝った呉軍の「黄竜」という年号の[竜]は「北アメリカ星雲」があらわすことになった。「北アメリカ星雲」は〔竜の顔面〕の形に、北アメリカ星雲の東隣の「白鳥座のξ(クサイ)星」と「白鳥座の56・57があるペリカン星雲のキツネの顔となる銀河部」は〔竜の両目〕の形に相似する。これゆえ、この〔竜の顔面〕に観える〔呉軍〕に見立てた「北アメリカ星雲」は『説文解字』が「能く明、能く細、能く短い」と解説した[竜]の字源をあらわすことになった。
 「壱与」の[与]の字源の一部となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は[水]の字源となり、水中に龍の顔が見えて潜(ひそ)むように激流・氾濫に観えるので「潜龍(せんりょう)」の語源となり、また大雨が降って龍が潜む激流・氾濫に観えるので「雨龍(あまりゅう)」の語源となった。これゆえ、〔日本軍〕に見立てる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は『説文解字』が「能く幽、能く巨、能く長」と解説する[龍]の字源をあらわした。
 したがって、竜の顔に似る「北アメリカ星雲」に見立てた火の呉軍よりも潜龍・雨龍となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」に見立てた水の日本軍の呪力は数段勝る。
 このように小国・日本の女王は瞳が最も澄む年代の13歳の乙女を選び、この乙女の名を「壱与」と定めて、赤壁の戦いで魏の大軍に勝利して黄竜2年に呉の港を出発した呉軍の能力を奪う日本軍の媚蠱とした。
 
 このような秘密が小国・日本誕生史にあったので、日本の紋章には「雨龍」という名の家紋がある。「平角雨龍」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の北部の形」と共通して〔正方形〕に図案され、「隅(すみ)立て雨龍」と「雨龍菱(あまりゅうびし)」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の南部の2連菱形の銀河部」の〔菱形〕に図案される。この「雨龍」の顔と両目は呉軍に見立てた「北アメリカ星雲」(顔面)と「白鳥座ξ星と56・57があるキツネの顔となる銀河部」(両目)に相似するように図案される。

 したがって、上記で解説した青年武将の「載斯烏越」は13歳の壱与と結婚した夫であり、呉軍を迎え撃つ小国・日本を防衛する軍王(いくさのおおきみ)であったことになる。
 ゆえに、「載斯烏越」という名の「烏越」は「青」であり、この「青」は「青年」と「水の青」を意味した。この「水の青」は、呉軍を象徴する「赤壁」の赤色の炎と「黄竜」の黄色い火に対抗する日本軍を象徴する「水の青」をあらわしたのである。
 真っ黒な「コールサック」の北部は東の「長方形の暗黒天体部」と載斯烏越の[斯]の「斤」の字源となる西の「斧の刃の形に似る暗黒部」に分かれる。この東と西に分かれる「コールサック」の北部の暗黒天体部の中央に、「北アメリカ星雲」がある。
 このように北部が東と西に分かれる「コールサック」は〔背中合わせに、東と西に分かれる烏(カラス)の姿〕に相似する。「壱与」の[与]の字源となる東の「黄河の氾濫の形状に似る銀河」の水が溢(あふ)れ越えて[斯]の字源となる「斧の刃の形に似る暗黒部」まで達すると、中央の「北アメリカ星雲」に見立てた呉軍の〔火と竜〕は〔大量の水に呑みこまれて消滅する〕ことになる。だから、日本の軍王の名に「烏越」という語が加えられたのである。

 中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文学が完成して、天頂緯度測定を習慣が廃絶(はいぜつ)された。
 このため、上記したように、『後漢書』倭伝が東鯷人国を説明する記事の末部に「所在絶遠にして往来すべからず」と記述するように、中国の人々は大海中の日本列島に渡ることができなくなった。
 しかし、当時、中国と日本列島の天頂に精密に緯度が測定できる最も理想的な「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。ゆえに、天頂緯度測定の習慣が存続する日本列島に居住する倭人と東鯷人(小国・日本人)は大海を往来できた。
 天頂緯度測定の習慣を失った1万の呉の遠征軍の8割から9割の兵士たちは位置も方角もまったく見当がつかなくなって大海原を漂流して藻屑(もくず)となって消え壊滅(かいめつ)した。
 帰還した遠征軍の将軍衛温と諸葛直を、孫権は、“功無かりき”と罰して誅殺(ちゅうさつ)した。
 この東鯷人国への1万の遠征軍は呉・蜀・燕連合軍が魏を倒すときの中心となる重大な戦力であった。ゆえに、孫権は――将軍の衛温と諸葛直に東鯷人国の沿海で、倭が東鯷人国を占領されてなるものかと大軍を派遣して防衛しざるをえないほどに呉軍の脅威を示したならば、上陸して戦わずに兵力を保持したまま帰還せよ――と命令していたにちがいないのである。本来、魏を倒すときに活躍すべき兵たちを衛温と諸葛直は8割から9割も失った。ゆえに、孫権は二人を“功無かりき”と言って処刑した。

 この回の冒頭に記述したように、247年、小国・日本の軍王の載斯烏越は帯方軍の太守の弓遵が戦死する韓の反乱に倭軍が支援できなかった倭と狗奴国の戦いを説明するために帯方郡政庁を訪問した。
 本来ならば倭の将軍がなぜ魏との軍事同盟の約束をまもれなかったのかを説明するために、帯方郡へ訪問すべきであった。ところが、倭の将軍が訪問して説明すると軍事同盟をなにゆえ守らなかったのであるかと帯方郡の太守に厳しく責められる。ゆえに、厳しく問い詰(つ)められることを避けるため、魏・帯方郡と軍事同盟を結んでいない倭の属国となった小国・日本の軍王の載斯烏越が郡を訪問したと考えられる。

 倭と敵対する狗奴国は、現在の岡山県と香川県の小豆島(しょうどしま)である。
 小豆島の地図の形は〔狗(いぬ)の姿〕に相似する。岡山県の中心部の児島(こじま)半島は〔狗の背中から尾〕の形に相似する。[狗]の字源は〔犬の姿〕に相似する「コールサック」である。
 この「コールサック」の形状から〔海〕が連想され、「鬼の姿に似る銀河」の形状から〔陸地〕が連想される。〔児島半島〕の〔狗の姿〕は西に頭があり東に後ろ足がある。この〔狗の姿〕は「鬼の姿に似る銀河」の西に頭があり東に足がある様子に共通する。ゆえに、〔児島半島〕と児島半島より北側の〔岡山県〕は「鬼の姿に似る銀河」見立てられた。
 〔狗〕の姿に似る〔小豆島〕と「コールサック北部」に見立てられる〔瀬戸内海〕に浮かぶ〔小豆島〕が[狗]の字源をあらわす地宜(ちぎ)すなわち平面的に図化した地図の形となり、〔岡山県〕に見立てられる「鬼の姿に似る銀河」は[奴]の字源となるものであったので、「小豆島と岡山県」は「狗奴国」と呼ばれることになったのである。
  この狗奴国を、日本国の軍王・載斯烏越が倭軍と日本軍を指揮することになった。だから、載斯烏越が狗奴国を征討して軍事同盟の約束を必ず守れる状況にすると約束して、倭政府は帯方郡太守の厳しい問い詰めをかわさんとしたのである。

 『魏志倭人伝』の魏の景初2年(238)年に魏の明帝が約束した詔書(しょうしょ)と印授(いんじゅ)は正始(せいし)元年(240)に帯方郡の太守・弓遵が使節を派遣して倭王(この年に、卑弥呼はすでに没していたにちがいない)に魏との軍事同盟をまもるようにと拝仮(はいか)つまり仮(かり)にあたえた。そこで、倭王は帯方郡の使節に託して前年に死去した明帝に代わる斉王に上表(じょうひょう)し、魏の恩恵に謝意をあらわした。
 正始6年(245)、魏の斉王は詔を下し、倭の外交正使(現在の外相)の難升米(なしめ)に魏軍の黄色い軍旗の黄幢(こうどう)をあたえることにし、帯方郡太守・弓遵に託して仮に授けた。この翌年(246年)に弓遵は反乱によって戦死した。
 247年、帯方郡の太守の王頎(おうき)が着任した。この年に、小国・日本の軍王の載斯烏越が帯方郡政庁を訪れて、魏との軍事同盟の約束をはたせなかった原因となった倭国と狗奴国との戦いの状況を説明した。
 小国・日本と魏・帯方郡は国交を結ぶものではなかった。
 そこで、帯方郡太守・王頎は外交の鉄則(てっそく)にまもらずに国交を結ばない日本国の軍王の載斯烏越に詔書と黄幢を手渡すと厳しく罰せられるので、帰国する載斯烏越一行の船に便乗(びんじょう)させて塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)一行を倭に派遣した。
 帯方郡使の張政は倭の外交正使の難升米に詔書と黄幢を仮に授けた。そして、魏の対東方政策の方針のとおりに反乱がおこらないように韓を制圧するためには、倭軍の支援が不可欠であるゆえ狗奴国を滅亡しなければならない立場を告げ諭(さと)す檄(げき)・軍書を作った。

 しかし、この狗奴国攻撃を小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた倭女王・壱与が反対した。
 この倭女王・壱与が狗奴国征討を反対したことは、舒明(じょめい)天皇が詠んだ『万葉集』の5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこおり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」の長歌と6番の反歌(はんか)で知ることができる。この和歌の題詞の「軍王」は載斯烏越であり、載斯烏越は狗奴国・児島半島が真正面に見える、安益郡つまり現在の綾歌(あやうた)郡の讃岐富士(飯ノ山)に本陣を構えて、魏との軍事同盟をまもるために指揮して狗奴国王権を滅亡させた。
 また舒明天皇の子の中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智天皇)が作った『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番・15番の反歌も、壱与が狗奴国討伐を反対したと伝える。13番の「大和三山の和歌」における「天の香具山(かぐやま)」は「壱与」をあらわし、「雄男しい畝傍山(うねびやま)」は「載斯烏越」、「耳梨山(みみなしやま)」は「天照大神」をあらわす。13番の和歌は――正妃の壱与は夫の載斯烏越は猛々(たけだけ)しく狗奴国を征討することばかり主張すると嘆き、第2后の天照大神は狗奴国は魏との軍事同盟はまもるべきであるから狗奴国征伐は決行すべきあると主張して、壱与と天照大神は妻の座をめぐって争った――と詠む。
 また、『播磨国風土記』の〔阿菩大神(あぼのおおかみ)〕の説話は大和三山の争いを語るものであるから、壱与が狗奴国征伐を反対したことを伝えるものとなる。

 弥生中期から後期にかけて瀬戸内海地方や大阪湾にのぞむ地域に山丘上に設けた集落が点在する。これらの集落は一般に海上や平野を眼下にのぞむ、眺望(ちょうぼう)のひらけた高い地所に設営されている。
 これらの遺跡は、弥生集落の最も一般的なあり方である農耕を中心とする集落と考えにくい特色を有している。ゆえに、これの遺跡は軍事的な狼煙台(のろしだい)の役目があった集落であると考えられている。
 注目すべきは、これら狼煙台の遺構(いこう)集落は、小豆島と岡山県をとりかこむ陣形になっている点である。ゆえに、小豆島と岡山県は卑弥呼と素(もと)より仲が悪い狗奴国であり、載斯烏越に征伐された狗奴国王権であったにちがいない。

 倭女王・壱与は狗奴国征討伐を反対したが、天照大神が代わって「壱与」の媚蠱となり、載斯烏越が讃岐富士から倭軍と日本軍を指揮して狗奴国を征討した。
 このような経緯があったので、『魏志倭人伝』は「帯方郡使の張政は二度も檄を作って、魏の立場を告げ諭した」と記述する。
 狗奴国王権は載斯烏越に討伐されて滅亡したので、難升米に拝仮された詔書と黄幢は正式に倭に授けられることになった。
 『魏志倭人伝』の最後は「代理の壱与となった天照大神は、倭の大夫率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人は派遣し、船に乗せて張政たちを帰還させた。倭の使節・掖邪狗一行は魏都に到着して、男女生口(せいこう)三十人を献上し、白珠(はくしゅ)五千孔・青の大句珠(だいくしゅ)二枚、異文(いぶん)の雑錦(ざっきん)二十匹を貢献(こうけん)した」という記事で終わる。

 以上のごとく、『魏志倭人伝』の載斯烏越が登場する正始8年から末尾までの記述は、日本国誕生史に関して説明する。
 ゆえに、夏音名の「載斯烏越」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であり、狗奴国討伐に反対した夏音名「壱与」は「伊耶那美命(いざなみのみこと)」である。
 また、正始8年から末部の記事によって、倭の使節は精密に天頂緯度を測定して大海を往来していたことが明確に証明される。というのも、〔歳差〕という天文現象に着目して、当時の銀河各部の緯度状況を再現すると、中国とわが国の天頂を「長方形の暗黒天体部」がめぐってきたことが証明されるからである。

 「長方形の暗黒天体部」「壱与」の[与]と「載斯烏越」の[斯]と[烏]の字源となった。
 「長方形の暗黒天体部」は精密に天頂緯度を測定できる最も理想的な羅針盤であった。当時、中国では紀元前1世紀に完成したシナ天文のために天頂緯度を測定する習慣が廃絶したために大海を往来できなかったが、日本列島の倭と小国・日本(東鯷人国)では天頂緯度を測定する習慣が栄えていたので大海を往来できた。このため「長方形の暗黒天体部」は「鳥居」の語源となり、今日、〔鳥居〕を見て欧米人たちは〔日本〕を連想する。しかし、欧米の人々は「長方形の暗黒天体部」の産物の〔鳥居〕を見て〔中国〕を連想しない。
 倭の使節が「鳥居の銀河・長方形の暗黒天体部」を羅針盤にして大海を往来して魏と帯方郡と国交を結んだために、『魏志倭人伝』という文献史料が現存することになった。

  『魏志倭人伝』は幾つかの記事で、実際と異なって日本列島は東に伸びずに南に伸びると証言する。
 この転回日本列島地理は夏音文字の学芸で「東を90度転回して南にする」と定義する[倭]の字源を示すものである。だから、この転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭」と定めたのである。
 つまり、卑弥呼王朝は――国内の地理では日本列島は東に伸びることになる。しかし、南北に伸びる中国の海岸線と東西に伸びる日本列島の寒暖の気候を比較にすると、日本列島の同緯度における西方の地は寒く東方の地の気候は暖かく・中国の経度軸に沿って続く海岸線における北方の地は寒く南方の地は暖かい。ゆえに、寒い日本列島の西方と中国の北方の気候が合致し、暖かい日本列島の東方と中国の南方の気候は一致する。だから、南北に伸びる中国の海岸線の気候にもとづくと、日本列島は東に伸びずに南に伸びると確信できる――と日本列島地理を定めたことになる。
 この卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理は、738年に聖武(しょうむ)天皇の時代に誤っていると改定された。
 この日本列島地理を学者たちは「著者・陳寿(ちんじゅ)の誤った地理観である」と断定する。学者たちの断定意見の通りだとすると、卑弥呼王朝は天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の天文地理学を廃絶したため、倭では天頂緯度測定の習慣が廃(すた)れ、シナ天文を習得して天の北極を最も重視していたことになる。
 そうすると、呉の遠征軍のごとく倭の使節は精密に緯度や方角をキャッチ」できなくなって大海を往来することができなくなるので、『魏志倭人伝』は1字もこの世に存在しなかったことになる。
 このように、学者たちの意見は『魏志倭人伝』のすべての記事を誤読すると言っても決して過言ではない、完全なる【誤読の産物】であり【空理空論】である。
 学者たちの意見だと“『魏志倭人伝』のほとんどの記事は絶対に信用してはいけない。ただし、『魏志倭人伝』が卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と表記するが、これを「邪馬台国」と改めることはできる。この「邪馬台国」という名称の一点のみが正しい”ということになる。
 このような愚劣きわまる学説は世界中さがしてもどこにも存在しない。
 邪馬台国学説は「学説」と呼べるものではなく、完全なる荒唐無稽(こうとうむけい)のウソ八百である。
 『魏志倭人伝』は、世界の文字が銀河から作られた真実が科学的に解明できる第1級の重大な史料である。この重大な証言を、邪馬台国学者たちはことごとく抹殺(まっさつ)した。ゆえに、【誤読】でデッチあげた邪馬台国学説は人類共通の敵である。

 次回は、『魏志倭人伝』の正始8年の記事から末尾までの記事が伝えている、天皇の王冠の下の飾り・菅笠で表現された日本国の誕生史について解説する。この日本国誕生史を先人たちは絶対に失うことはできないとまもった。しかし、邪馬台国説学者たちは「文献批判」という名の【誤読】を用いて日本国の誕生史を抹殺した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 7日 (土)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・32

 前回〔31〕において、「夏の銀河の東北部」はヒエログリフ「スカラベ」(糞を丸めて地面を転がす昆虫のフンコロガシ)の字源になったことを解説した。
 この「スカラベの姿に似る銀河」は、古代エジプト全土の天頂にめぐってきた。

 エジプトでは前王朝時代から、太陽と月は偉大なハヤブサの神「ホルスの眼」であると考えられていた。やがて、この「ホルスの眼」の太陽と月は区別されるようになり、左目(ホルスの眼)は月を象徴し、右目(ラーの目)は太陽を象徴することになった。
 「ホルスの眼」は表意文字となり、字源は人の目の形に相似する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と東隣と西隣の、白目の形に相似する暗黒部」である。
 糞(ふん)を球形に丸めて地面を転がす昆虫の〔スカラベ〕は、神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなった。
 というのも、スカラベの頭には、太陽の光線のように観える鋸(のこぎり)のようなギザギザがあり、この太陽の光線のようなキザギザを「ホルスの眼」の太陽の象徴とされる右目(ラーの目)に見立てられたからである。
 今から5000年前の第1王朝時代において、スカラベの頭にある太陽の光線のように観える鋸のようなギザギザは「ホルスの眼」の右目に見立てられた。
 首都をメンフィスと定めた紀元前3000年の第1王朝から紀元前2180年の第6王朝末期まで、「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」のうちの「北アメリカ星雲の南端」が、エジプト国土の北限となるナイル川河口の北端(北緯31度35分)の天頂を通過した。
 これに加えて、前回〔31〕で解説したように、「スカラベの姿に似る銀河」はエジプト全土の天頂を通過し、エジプト人の信仰にあって太陽は常に高い位置をしめるものであったゆえ、エジプト全土の天頂にめぐってくる銀河の形に相似する〔スカラベ〕は太陽神を象徴することになった。さらに、「ライオンの開いた口」に見立てられた「黄道が通過する夏の銀河の西南部」の形状が〔糞を球形に丸めて転がすスカラベの姿〕に相似した。「黄道」は「天球上を通過する太陽の道」であるので、スカラベは最も位が高い太陽神のシンボルとなったのである。

 紀元前2180年から始まる第7王朝ころには、ナイル川河口の北端の天頂を通過した「スカラベの頭の光線に観えるギザギザ」に符合する「北アメリカ星雲の南端」は、地中海のほうへ乗り出して緯度が高くなっていた。つまり、ナイル川河口の北端の天頂を「北アメリカ星雲」に隣接する「長方形の暗黒天体部」や「ペリカン星雲」が通過するようになった。
 「長方形の暗黒天体部」は「大きな家」すなわち「王宮」(ファラオ)の字源となった。
 前回の〔31〕でも指摘したように、「北アメリカ星雲の南端」から3度隔てる南を、「長方形の暗黒天体部」内において目印となる部位が通過した――「長方形の暗黒天体部」の南部にあっては、東と西の辺に二つの菱形「◇」の枡(ます)が連なる。この二つの菱形枡の連結部は明るい銀河の輪郭(りんかく)が線となる。この目印となる〔線〕で結ばれる東西2辺の菱形枡の連結部は、「北アメリカ星雲の南端」から緯度が3度低い南であった。
 第6王朝の末期になると、「北アメリカ星雲の南端」が北緯31度35分のナイル川河口の北端の天頂にめぐってこないのが顕著になった。北緯28度35分のヘラクレオポリスはナイル川河口の北端よりも3度南である。このヘラクレオポリスの天頂に、「長方形の暗黒天体部の東西の2辺を線で結ばれる菱形枡の連結部」がめぐってきた。
 ゆえに、第7王朝は南のヘラクレオポリスに都を遷(うつ)した。 
 「長方形の暗黒天体部」は天頂緯度が精密に測定できる最も理想的な物差しである。
 ナイル川河口北端より緯度が3度南のヘラクレオポリスならば、〔歳差(さいさ)〕という天文現象によっておこる10年ごとに傾きが変わって緯度が約1分ずつ徐々に増大する「スカラベの姿に似る銀河」の様子を、「長方形の暗黒天体部」を物差しにすれば測量できた。
 だから、第7王朝はヘラクレオポリスへ遷都したのである。

 白鳥座β星は「スカラベの姿に似る銀河の後ろ足の付け根がある尻(しり)の右側」となる。これゆえ、白鳥座β星は「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化を測量する目星となる。
 紀元前3000年に第1王朝が樹立(じゅりつ)されたエジプト王朝は、紀元前30年のクレオパトラ7世のローマの属州になって滅亡した。したがって、エジプト王朝は2970年間存続したことになる。
 この2970年間において、紀元前3000年の北アメリカ星雲の南端は北緯31度35分の土地(ナイル川河口の北端)の天頂に位置したが、紀元前30年にはエジプト北方の緯度が2度54分高い北緯34度29分の地中海上の天頂を通過するようになっていた。
 また、紀元前3000年の白鳥座β星はエジプト北部のヘラクレオポリスより15分南の北緯28度20分の天頂にめぐってきたが、紀元前30年においては3度21分低い北緯24度59分のエジプト南部のアスワンダムより北側のイドフの天頂を通過していた。
 紀元前3000年からエジプト王朝が滅亡した紀元前30年までにおいて、北アメリカ星雲の緯度は2度54分高くなった。
 しかし、同じ紀元前3000年から紀元前30年までにおいて、白鳥座β星の緯度は、逆に3度21分も低くなった。

 前回の〔31〕にて、〈ヘペレル(hprr)〉と発音する「スカラベ」という語を構成する4字の表音文字と決定詞「スカラベ」について解説した。
 決定詞「スカラベ」の左隣には、「口」の文字が上下に並ぶ。
 上の「口」は表意文字「ホルスの眼」の字源となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が〔瞳〕となる「目の形に似る銀河」である。
 この「目の形に似る銀河」の目頭(めがしら)に、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の西端」が接する。
 この「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の西端」は〔ナイル川に生息する大魚が開ける大きな口〕の形に相似する。
 また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を中央にとする「コールサック」の北部の形は、〔人の唇(くちびる)の形〕に相似する。
 この「唇の形に似るコールサック北部」の東側の北部(「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角)が「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」である。
 ゆえに、表意文字「口」の字源は「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」と隣接する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔瞳〕となる「目の形に似る銀河」となった。

 ではなにゆえ、「スカラベ」という語の中に使用される「口」の上の字は「目」の表意文字や「ホルスの眼」にならなかったのであろうか。
 前回にて解説したように、下の「口」の字源は黄道と天の赤道が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」だからである。
 上の「口」を表意文字の「目」や「ホルスの眼」にすると、「目」と「ホルスの眼」は〔黄道〕と直接的にむすびつかないので、「スカラベ」が〔黄道〕と直接的に結びつけられて神々の中で最も位が高い太陽神のシンボルに成ったことが不明となる。ゆえに、「スカラベ」という言葉の中には「黄道」と結びついて太陽神のシンボルに成ったことを明示するめに、同じ「口」の字が上下に並ばれることになったのである。

 前回にて〈ヘペル〉と発音する「~に成る」と意味する語は、上が決定詞「スカラベ」、下が表意文字「口」で構成される。この語に使われる「口」の字源は「糞を転がすスカラベの姿に似る夏の銀河の西南部」である。この「夏の銀河の西南部」に〔太陽の道〕である「黄道」が通過した。ゆえに、スカラベは「黄道」と結びつけられる、神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなった。〈ヘペル〉と発音する語においては、右目が太陽を象徴する「ホルスの眼」を用いずに、「ライオンの開ける口となる銀河」を字源とする「口」の表意文字を用いて〔スカラベがなぜ太陽神のシンボルに成ったか〕を明確化したのである。このような事情〔スカラベは太陽神のシンボルに成った〕ゆえ、〈ヘベル〉と発音する語は「~に成った」と意味することに成ったのである。
 また、下記に説明する理由からして、〔目〕よりも〔口〕との関連性のほうが勝(まさ)っている。だから、「口」の文字は「~に成る」や「スカラベ」という語を構成する中に使用されることになった。
 「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角(かど)に所在する「ナイル川に生息する大魚の口に似る銀河」は扇(おおぎ)状に広がる。
 ゆえに、この扇状に広がる「大魚の大口に似る銀河」は、扇状に広がる〔ナイル川のデルタ地帯〕に相似する。ナイル川河口の北端のジムヤート岬からポートサイド港までの湖岸の形は〔人や魚の口〕に相似する。
 前述したように、紀元前3000年の第1王朝時代、ナイル川河口の北端・ジムヤート岬の天頂に「北アメリカ星雲の北端」がめぐってきた。
 この「北アメリカ星雲の南端」と「大魚の大口に似る銀河の西端」が接合する。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔瞳〕とする「目の形に似る銀河の西端」は「長方形の暗黒天体部の東辺」の北の角と接合する。
 このような状況であるゆえ、「北アメリカ星雲の北端」がジムヤート岬の天頂にめぐってきた第1王朝時代、「目の形に似る銀河」(「ホルスの眼」の字源銀河)は〔口〕の形に相似する地中海に水を吐きだすナイル川河口のデルタ地帯とこれまた〔口〕の形に相似するジミヤート岬からポートサイド港までの湖岸の天頂を通過したことになる。
 だから、「ホルスの眼」の字源「目の形に似る銀河」は“口の形にも相似する”と見立てられて、表意文字「口」の字源にもなった。
 このような「目の形に似る銀河」が「口」の表意文字の字源となった秘密を、前回で解説した「スカラベ」という語の中に上下に並べて2字「口」の字の内の上の「口」の文字は伝えるものであったのである。

 「スカラベ」という語を構成する左端の2字は、前回の解説の通りである。
 しかし、右下の「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」、この文字の字形は「長方形の暗黒天体部」に相似するので、字源は「長方形の暗黒天体部」ではあるまいか。
 というのも、前述したように、第7王朝は「長方形の暗黒天体部の東西の辺の菱形枡の連結部を結ぶ線」を注目して、3度南のヘラクレオポリスへ遷都しているからである。
 「スカラベの姿に似る銀河」の模型・型紙(かたがみ)を作り、この型紙に緯度の目印となる部位に印をつける。また、〔長方形の板に、緯度の目盛りとなる6本の線を2列に並べる道具〕をも作成する。
 この〔長方形の緯度の目盛りをつけた道具〕に観測した「スカラベの型紙」の傾きの通りに載せれば、10年毎に徐々に微妙に変化する「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化をキャッチすることができる。
 だから、「スカラベ」という言葉の中に使用された「黒塗りの長方形の中に6本の短い線が2列に並ぶ」、この文字は「スカラベに姿に似る銀河」の傾きの変化を調査する道具を図案化するものであったのではあるまいか。

 「スカラベの姿に似る銀河」はエジプト王朝は滅亡する2970年間に、北と南に合計緯度が6度15分も増えている。この「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化による緯度の増大は、コブラが鎌首(かまくび)を起こして立ちあがる様子に似ている。
 ヒエログリフの「コブラ」は「ウラエウス」を意味する〈イアルト(iart)〉や、さまざまな女神の名の決定詞として用いられた。また、彫像やレリーフにおける王や太陽神ラーの額(ひたい)には、鎌首をもたげ、のどをふくらませた怒れるコブラが必ずといってよいほど描かれている。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔毒の牙を有するコブラの頭部〕、「コールサックの北部」は〔興奮すると、扁平(へんぺい)になるコブラの鎌首〕、「コールサックの南部」は〔怒るときの体の前半部を起立させるコブラの姿〕に相似する。
 この①「コールサック」の〔コブラの姿〕とは別に、②「鬼の姿に似る銀河」も「コブラの姿」に相似する。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣と北隣は復讐(ふくしゅう)や恨みを抱くきつくするどい切れ長の両目がある。この「怒りの両目」は〔コブラの両目〕をあらわす。この「コブラの怒りの両目」は「鬼の姿に似る銀河の首(のどと後頭部) 」にある。
 ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」のうちの「鬼の横顔に似る銀河」は〔コブラの頭部〕、「鬼の横顔に似る銀河の首につく両目」は〔怒って睨(にら)みつけるコブラの両目〕、「鬼の身体部に相当する銀河」は〔怒って立ちあがったときのコブラの体〕に観える。
 16回前の〔16〕にて指摘したように、①〔怒るコブラの姿〕に観える「鬼の姿に似る銀河」と②〔毒牙を有するコブラの頭部〕に見立てることができる「北アメリカ星雲」は、下エジプト王がかぶる王冠「赤冠(あかかんむり)」のデザインのモデルであり、ヒエログリフ「赤冠」の字源であった。ゆえに、最も位が高かった女神ウアジェトはコブラの姿をした女神であると同時に、下エジプトの王冠の体現者でもあった。

 漢字の字源においては、〔立ちあがるコブラの姿〕のような形の「コールサック」は〔女性の子宮の側面形〕に相似するとされ、コールサックの北部の「長方形の暗黒天体部」は〔出産する胎児がくぐる産道〕に見立てられ、[命]や[尊]などさまざまな重大な文字の字源となった。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔出産するときの胎児の頭が産道をくぐりぬけるための母体の陣痛(じんつう)・腹圧・怒責(どせき)〕に見立てられた。「腹圧によっておこる、まるで怒るかのごとく大声を挙げるいきみ、きばること」を「怒責」という。
  また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔膣(ちつ)の入口に胎児の頭の最も大きな部分通過して胎児の誕生してから以後の胎児の頭の螺旋(らせん)状の回転〕に見立てられた。
 3回前の〔29〕にて解説したように、ヒエログリフ「キツネの皮を3枚結びつけたもの」の字源は「ペリカン星雲と3本の閃光(せんこう)を放つ銀河部」である。この「キツネの皮を3枚結びつけたもの」は〔無事に胎児が出産するための魔除け・お守り〕であった。というのも、「ペリカン星雲」は〔キツネが後ろを振り向く姿〕にそっくりであり、漢字の字源と同じく〔母体の陣痛・腹圧・怒責〕をあらわすとともに〔膣の入口に胎児の頭が誕生した以後の胎児の頭の螺旋状の回転〕をあらわすものとなったからである。
 ゆえに、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔コブラの頭部〕に見立てられ、最高位の女神ウアジェトの姿は「コブラ」となり、ヒエログリフ「コブラ」が作られることになったのである。

 「コールサック」は〔コブラの鎌首と身体〕に見立てられた。
 この〔コブラの鎌首と鎌首の付け根〕の部分となる「コールサックの北部と南部の中間部」の西隣は、上エジプト王がかぶる〔白冠(しろかんむり)〕のモデルとなった「北天の最輝部(さいきぶ)」である。
 これゆえ、上エジプトの白冠と下エジプトの赤冠をかぶった2匹のコブラを並べて描いた絵画もある。
 「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」にある。だから、王の額に鎌首をもたげる彫像やレリーフが多数作成された。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼」となり、「ホルスの眼」の右目は太陽と同一視された。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「太陽と光線」を図案する表意文字の字源となり、「北天の最輝部」の北隣の「白鳥座γ(ガンマ)星を中心に包囲する円形の銀河部」は「◎」の形に図案化されて「太陽神ラー」の名前を構成する文字の中に使われている。
 このため、太陽神ラーの額にもコブラが鎌首をもたげた形でついている。

 王の額の頭飾り、また王冠につけた鎌首をもたげるコブラの飾り(ウラエウス)は、〔コブラの目の霊力〕をあらわすと同時に〔人の目の霊力〕をもあらわすものであった。この〔コブラの目の霊力〕は「鬼の姿に似る銀河の首につく、人の左右の目の形に酷似する怒る目の銀河」があらわすものであった。だから、「人の両目に似る銀河」であらわされる〔コブラの目の霊力〕は〔人の目の霊力〕となった。
 前述した「スカラベの姿に似る銀河」の微々たる傾きの変化は、天頂緯度測定を日課にし、日々鍛錬(たんれん)して感覚を研(と)ぎ澄ました眼力の持ち主ならば測量できた。王はこの眼力の持ち主であり、天頂緯度を1分の狂いもなく測定できる目を有することが王の資格でもあったのである。
 このように1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる眼力が帝(大王)の資格であり、帝を象徴するものであったことは中国でも同じであった。この「天頂点を1分も狂いもなくキャッチできる眼力がそなわった才能や人格」が[徳]の字源であり、[徳]は〔最高の才能〕と尊重された。
 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』において、京都市の桂離宮の庭園池に漬(つ)かる、私が”衝立岩(ついたていわ)”と名づけた岩は「天頂点を1分の狂いもなくキャッチできる能力」が[徳]の字源であったと伝えるものとなる。この衝立岩は「天の橋立」という名がつく三つの築島(つきしま)の中央の築島の南面の池の中に漬かっている。
 日々鍛えれば人間の目には、1分の狂いもなく精密に天頂緯度を測定でき、1分の差をキャッチできる能力がそなわるものなのである。この能力を、古代エジプトでは“目の霊力”と称した。

 1万年以前におこった氷河期、緯度と方位の目印がある道はまったく存在しなかった当時、この苛酷(かこく)の状況を生きぬいた人類は、1分の狂いもなく天頂点をキャッチできるバンド(一団)の頭(かしら)や魔術師や目利きの先導のもとに、日々獲物や食べ物を求めて地上を移動していたのである。このような“目の霊力”を持っていなかったならば、凍てつく氷や雪の地球上にあった、バンドは位置も方角も不明になって迷ってしまう。登山家や南極に旅する冒険家は吹雪に遭遇して位置と方位が不明になって“迷った”と感じると“死”を予感する。このように、人間は“迷った”と感じると“死”を予感する生き物である。したがって、迷ったバンドは全員が“死”を予感してパニック状態におちいって収拾(しゅうしゅう)がつかないことになり、全員が発狂して死滅する事態になる。だから、1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる目利きが頭となり魔術師となり先導者になって、“自分たちは位置も方位もきちっとわかっていて迷っていない”とバンドの人々に示して移動するものであったから、人類は氷河期に滅びずに生き伸びることができたのである。
 1分の狂いもなく天頂点をキャッチできる[徳]の能力は、日々鍛錬すれば10人の中で一人や二人や、あるいは三人ぐらいがそなわるものだったのではあるまいか。

 「太陽」を図案化するヒエログリフは①「白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部」が字源とするシンプルな太陽円盤の「◎」、②「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」を図案化する「光線を発する太陽円盤」がある。このほかに、③「聖なるコブラのウラエウス(飾り)のついた円盤」がある。このほかにも「太陽」を図案化するヒエログリフが多数あるが、上記の3つの太陽円盤が代表的なものとなる。
 ヒエログリフ「聖なるコブラと太陽円盤」の字形は〔鎌首をもたげるコブラの中央に円形の太陽円盤を配して、頭部と尾の部分を二分するもの〕である。したがって、〔中央の太陽円盤〕は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案化したものであり、〔頭部と尾に二分されるコブラ〕は「鬼の姿に似る銀河」を図案化したものである。
 前回の〔31〕において解説した〔球形の糞を転がすスカラベの姿〕に相似する「夏の銀河の西南部とさそり座α星(アンタレス)にかけての銀河」の形状もまた「コブラと太陽円盤」となった。

 「夏の銀河の西南部」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”であるから「太陽円盤」をあらわすものとなる。
 私は「夏の銀河の西南部」を凝視していた時、おもわずギョットして目をそむけて瞬間的に恐怖におそわれたことがある。まるで生きているがごとく、「夏の銀河の西南部」が「毒の牙をむきだして口を開ける獰猛(どうもう)なヘビの頭」に観えたからである。
 これゆえ、「夏の銀河の西南部とさそり座α星にかけての銀河」もまた「聖なるコブラの飾りと太陽円盤」の字源であると考えるべきことになる。
 前述したように、〈ヘベル〉と発音する「~に成る」と意味する語に使用される「口」の字源は「スカラベが糞を転がす姿に相似する夏の銀河の西南部」であった。この「口」の字源は「コブラが鎌首をもたげるコブラの口にそっくりな夏の銀河の西南部」でもあった。だから、〈ヘベル〉と発音する上に「スカラベ」・下に「口」の文字を並べる語は「スカラベの姿に成る」、「コブラの頭の形に成る」から「~に成る」と意味することになったのである。
 〈ネメス〉と発音する「王の鬘(かつら)」と称されるヒエログリフは〔鎌首をもたげるコブラと王の鬘〕を組み合わせて図案したものである。
 「青色の王冠」と称されるヒエログリフは〔鎌首をもたげるコブラと王冠〕の組み合わせである。
 この「王の鬘」と「青色の王冠」のヒエログリフの字源は、①「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と鬼の姿に似る銀河」であり、②「夏の銀河の西南部とさそり座α星にかけての銀河」ということになる。

 28回前の〔〕で解説したように、竜安寺の石庭の合計15個の石を5群に分ける石組と白砂の平庭(ひらにわ)と油土塀(あぶらどべい)とそのほかの構造体は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bの銀河からすべての文字が作られたと証言する。
 この竜安寺の石庭が証言するとおり、拙著の資料Bの銀河からすべての漢字、そしてすべてのヒエログリフが作成された。
 竜安寺の石庭は――ヒエログリフも漢字も、資料Bの銀河を観て、イメージ(映像、心像)で考える能力に優れる創造力の源泉となる右脳によって作られた――と証言する。

 古代エジプトでは、資料Bの銀河にあって学問的に芸術的に特に重大な銀河部は【神】となった。
  ゆえに、【特に重大な銀河各部】は【神】となり、そして【文字・ヒエログリフ】となった。
 そして、資料Bの【銀河各部の形状】から【神以外のさまざまなヒエログリフ】も作られ、その字数は600字から1000字とも言われている。
 表意文字も表音文字も【銀河各部の形状】から生まれた。
 エジプト王朝は、【神】となった銀河各部の名称を定めなかった。
 天地創造神話はじめ、神々に名前をつけて神話を作り、ヒエログリフの字源となる銀河各部の形状を示す仕組みにした。
 「トキの姿に似る銀河」は学術と芸術と文字の秘密を知ることができる中枢(ちゅうすう)部となる銀河各部が連結する領域であった。これゆえ、学術と芸術と文字のトト神はトキの頭を有することになり、トキの像や「トキ」を図案化したヒエログリフは「トト神」をあらわすことになった。「トキ」が「トト神」をあらわすことになったのは、【特に重大な銀河の形】は【神】であったからである。つまり、【トキの姿に似る銀河】は【トト神の姿】をあらわすものであった。
 古代エジプト人たちは天頂にめぐってくる銀河部にいちばん大事な命を委(ゆだ)ねた。ゆえに、精密に天頂緯度が測定できる銀河部は【神】であった。「夏の銀河の東北部」は〔糞を球形に丸めて地面を転がす昆虫のフンコロガシ・スカラベの真上から見た姿〕に相似し、エジプト全域の天頂緯度を測定できる物差しとなった。また、フンコロガシの姿は〔黄道〕が通過する「夏の銀河の西南部」の形にも相似する。だから、「フンコロガシの姿に似る銀河」は天文学において重大となったため、神々の中で最も位が高い太陽神のシンボルとなった。
 天の北極は、オシリスやホルスはじめとする神々の姿になった銀河はじめ、トキの姿に似る銀河、フンコロガシの姿に似る銀河などが輪の形を描いて運行する中心となる。しかし、この神々の輪の運行の中心となる、天体の運行を支配する”天帝”ともいうべき「天の北極」は【神】にはならなかった。天の北極の高度で緯度換算する方法だと、緯度(位置)と方角が不明になって旅の途中で野垂(のた)れ死にして命を失うからであった。
 エジプト王朝は〔黄道〕を示すフンコロガシは【神】と定めた同様に、二分二至(春分・夏至・秋分・冬至)を示す目星となる北斗七星の第5星の【ε(エプシロン)星】を【神】と定めた。5回前の〔27〕で解説したように、〈ヘペシュ〉と発音する6字で構成される語は「北斗七星のε星」であった。ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された紀元前2500年において、「北斗七星のε星」は春分の日の午後6時と冬至の午前零時に上経過(天の北極と天頂との中間の子午線経過)し、秋分の日の午後6時と夏至の午前零時に下経過(天の北極と地平線の北との中間の子午線経過)した。〈ヘペシュ〉と発音された「北斗七星のε星」を意味する6字で構成される語の決定詞は表意文字の「神」である。ゆえに、「北斗七星のε星」は確実に【神】であった。
 「コールサック」の形は〔扁平な鎌首をもたげて怒るコブラの姿〕に相似し、いわゆる“真っ黒な石炭袋”である「コールサック」にあって輝く小さな星たちはエジプト全土の天頂にめぐってきて、精密に緯度が測定できる目星となった。そして、「コールサック」は〔女性の生殖器官〕に見立てられるものであった。ゆえに、医学的に特に重大な銀河部であったので【神】となった。だから、最も位が高い「女神ウアジェト」は「コブラの姿」で示された。
 このように、古代エジプトでは【銀河各部の形状】は【文字】であり、【特に重大な銀河の形や星(北斗七星のε星)】は【神】となった。
 古代エジプトでは、【文字】は【銀河各部の形状】として存在したのである。

 今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に我が国に伝来した【夏音文字】もまた【銀河各部の形状】として存在するものであった。この【銀河各部の形状】が確かに【文字】であったことは、複雑なパターンの認識や処理をおこなう“芸術”と称される方法ならば再現することができ、また後世に事実であったと伝えることができた。
 この芸術の方法で【銀河各部の形状】が【文字】であったことを伝えるのが、竜安寺の石庭である。
 また、ドイツの建築家のブルーノ・タウト(1880-1938)が絶賛して世界のその存在を伝えた桂離宮の庭園も、【銀河各部の形状】が【文字】であることを明確に証言する。
 ブルーノ・タウト著╱篠田英雄訳『画帖 桂離宮』(岩波書店)は、桂離宮の庭園について下記のごとく指摘する。
 「このように御庭の諸部分は著しく分化していながら、しかもすべて相集まって一個の統一を形成している。ここに達成された美は、決して装飾的なものでなく実に精神的意味における機能的な美である。この美は、眼をいわば思考の変圧器にする、すなわち眼は、見ながらにしかも思考するのである。」
 【文字】は【銀河各部の形状】として存在したことを証言するには、上記のタウトが桂離宮の庭園について指摘したようになる。このことは、竜安寺の石庭でも言えるることである。
 竜安寺の石庭においては、5群の石組が15個の石で分化して銀河各部の形状をあらわし、5群の石組と苔(こけ)と白砂の平庭と油土塀とそのほかの構造体(知足の蹲い、鏡容池、雨落ちミゾ、磚、濡れ縁、方丈の間)も、すべての文字が作られた秋の銀河・夏の銀河が一つの帯となって最も高くそびえる銀河に統合されるようになっている。石庭の美は、決して装飾的なものでなく、かつて【銀河各部の形状】は【文字】であったことを証言し、どうしても夏音文字を廃絶(はいぜつ)できなかった日本民族の熱い魂の歴史の秘密を伝え、この世の真理について思索(しさく)する精神的な美を追求した、個々の石・石組の字源の情報が他の石・石組あるいは全体にひろがるように機能的に組織されるようになっている。石庭を見る人の眼は銀河を観る眼であり、【文字】を〔左脳があつかう言葉から生まれたもの〕としてでなく思考の変圧器で〔右脳があつかうイメージから生まれたもの〕に変え、そして眼は、石庭を見ながら右脳で思考する仕組みになっている。 
 また、金閣寺の庭園も【銀河各部の形状】が【文字】であったことを証言する文化遺産である。
 ヒエログリフが銀河から作られた真実は、竜安寺の石庭、桂離宮の庭園、金閣寺の庭園で確かなことになる。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 4日 (水)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・31

 古代エジプトでは、小さな虫の「タマオシコガネ」つまり“フンコロガシ”が、神々の中で最も位の高い太陽神のシンボルとされた。
 このような小さな昆虫が尊重され神聖視された事情は、ヒエログリフが銀河から作られたからである。
 糞(ふん)を丸めて地面に転がすフンコロガシがなぜ神々の仲間入りができたのか、この事情は我が国の史書『古事記』序の冒頭に記述されている。この『古事記』序の冒頭の記事は、現代語訳すると下記のごとくになる。
 「およそこの世の歴史の始まりにありましては、混沌(こんとん)たる天地万物の根元をとらえることができる知性がとうとう凝り固まって芽生えましたが、万物の生(いのち)あるものを形にしてとらえることができる芸術のきざしは、いまだ起源していませんでした。それゆえ、天と地は一体化されて区別もないものとして草創期・早期の縄文時代に作られた土器には表現され、天上の銀河各部には名も無く、名をつける術(すべ)も無く、銀河各部に個性的な形があるものとして考えられていませんでした。しかしながら、天と地が初めて区別されるようになって、6000年前の前期縄文時代には天頂にめぐってくる銀河の形にもとづいて天之御中主神(あめのみなかのかみ)という名をつけ土器を作って敬うようになり、5000年前の中期縄文時代には天頂にめぐってくる銀河の形から高御産巣日神(たかみむすひのかみ)という名をつけて芸術性豊かな造形で飾られる土器や土偶(どぐう)を作って神聖視するようになり、4000年前の後期縄文時代には天頂を通過した銀河の形状にもとづき神産巣日神(かむむすひのかみ)という名をつけて崇拝して多数の土器や土偶などが作られて、神の姿形(すがたかたち)を表現する参神造化(さんしんぞうか)の芸術が起源しました。」
 この後期縄文時代初頭、大海を越えて日本列島に渡ってきた名門益氏の王子と若者たちの話す夏音は縄文人たちにとってまったく意味不明で理解できなかったが、益氏がもたらした夏音文字の学芸は参神造化の知識を有する芸術家たちによって習得されることとなった。

 フンコロガシの姿に相似する銀河は、エジプト全土の最北端から最南端までの各地の緯度が精密に測定できる物差しとなった。ゆえに、その銀河は“フンコロガシの形に相似する”と知られるようになり、フンコロガシは神聖視されて地位の高い太陽神として崇拝されることになった。
 旅するとき、我ら日本民族の祖先も古代エジプト人も、天頂に位置する銀河から精密に緯度を測定すれば、道に迷わって途中で野垂(のた)れ死せずに命をまもることができて家族が待つ家に帰ることができた。だから、天頂にめぐっくる銀河は地上に住む人々のいちばん大事な命を委(ゆだ)ねる“神”となった。この“神”を地上に存在する事物の形を用いて形が有るものとし、名をつけて【神】と敬った。
 今から6000年前から以後、最北端から最南端までの約10度の緯度となる広大なエジプトの各地の天頂にめぐってくる銀河の形は、真上からフンコロガシを見た形に相似する。だから、フンコロガシは【神】と崇拝され、フンコロガシの姿は図案化されてヒエログリフとなった。
 このように、銀河から【神】と【ヒエログリフ】が作られ、この【ヒエログリフ】によって古代エジプトの学術と芸術を高められ、そして国家が繁栄することになった。

 エジプト全土の天頂を通過する銀河の形は“フンコロガシ”すなわち「スカラベ(タマオシコガネ)」の真上から見た姿に相似する。ゆえに、真上から見た「スカラベ」の姿は図案化されて文字となった。
 真上から見た「スカラベの姿」を図案した表意文字は〈ヘベル(hpr)〉と発音する。この〈ヘベル〉と発音する「スカラベの姿」を図案する文字は、「スカラベ」を意味する〈へペレル(hprr)〉と発音する語の中の決定詞として使われる。

 「スカラベの姿」をデザインする絵文字は、中央に頭・羽を有する胴体を描く。スカラベの頭には、太陽の光線のように観えるのこぎり(鋸)状のギザギザがある。
 「スカラベの姿」を図案する文字の最上部は糞を丸めて地面を転がす前足の図案を配し、最下部に後ろ足の図案を配する。
 前回の〔30〕にて、学術と文字の神「トト」をあらわす文字の字源は「トキの全身の姿(側身形)に似る銀河」であると証明した。
 この「トキの全身の姿に似る銀河」はじめ「コールサック」、「コールサックの東隣の銀河」、「十字の銀河」が一塊(ひとかたまり)となる銀河の形は、真上から見たスカラベの前足から後ろ足までの姿に相似する。
 そのうち、「トキの全身の姿に似る」・「コールサック」・「コールサックの東隣の銀河」がスカラベの頭と羽が生える胴体の形に相似する。
 「スカラベの前の両足」は「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河の北隣の銀河」の形に相似する。
 「スカラベの後ろの両足」は「トキの肢の形に相似する銀河」と「鷲(わし)座α(アルファ)星・アルタイルより北側の銀河」の形状に相似する。

 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、「スカラベの頭にある光線のように観えるギザギザ」の位置に相当した。
 この「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」の位置に合致する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、古代において、エジプトの北限となるナイル川河口北端(北緯31度35分)の天頂にめぐってきた。
 (ただし、精密にいうと、「北アメリカ星雲の南端」がナイル川河口北端の天頂にめぐってきた)。
 また、「スカラベの後ろの両足に似る銀河」は、エジプトの南限の境界線地域(北緯21度38分~北緯22度)の天頂を通過した。
 したがって、古代において子午線経過する「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザの位置から後ろ足までの銀河」は、〔エジプト全土の最北端から最南端までの天頂〕にほぼ合致して位置した。
 ゆえに、「スカラベの姿に似る銀河」が子午線経過したとき、エジプト全土の各地の緯度を測定できる物差し(羅針盤)となった。

 なお、上記の「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザから後ろ足までの銀河」が子午線経過するときに〔エジプト全土の最北端から最南部までの天頂〕に合致したのは、紀元前3000年の第1王朝から紀元前2180年の第6王朝末期までであった。
 「スカラベの頭の光線のように観えるギザギサ」に相当する「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は次第に緯度が高くなった。このため、紀元前2180年から始まる第7王朝は、第1王朝から第6王朝の首都メンフィスより南の北緯28度35分のヘラクレオポリスに遷都(せんと)した。
 「長方形の暗黒天体部」の南部の東西の辺に二つの菱形の枡(ます)が連なる。この二つの菱形枡の上下の枡の連結部は、ナイル川河口北端の天頂にめぐって「北アメリカ星雲の南端」より3度南となる。ゆえに、第7王朝はナイル川河口北端より3度南のヘラクレオポリスに首都を遷(うつ)したのである。
 〔歳差〕という天文現象によって、「スカラベの姿に似る銀河」の緯度の距離が伸びて次第に長くなった。ということは、「スカラベの姿に似る銀河」はあたかも横になって寝ていた人が徐々(じょじょ)に徐々にゆっくりと起き上がって次第に立ち姿になる状況であったことになる。徐々に徐々にわずかずつ「北アメリカ星雲」の緯度は高くなった。
 「スカラベの姿に似る銀河」の尻の部分は白鳥座β(ベータ)星がある。この白鳥座β星の緯度は、徐々に徐々にわずかずつ逆に低くなった。
 『魏志倭人伝』の末部に登場する壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみのみこと)が生存した西暦250年頃における「北アメリカ星雲」は、紀元前3000年の第1王朝よりも3度10分ほど高くなった。逆に、白鳥座β星は緯度が3度40分低くなった。
 第1王朝時代と250年の「スカラベの姿に似る銀河」の大きさは変わらない。にもかかわらず、その3250年の間に「スカラベの姿に似る銀河」の緯度が6度50分も増大したということは、前述したように子午線の方向に合致するように起き上ったことになる。
 この結果、250年になると、ナイル川河口の北端の天頂に「北天の最輝部」がめぐってきた。この「北天の最輝部」は「スカラベの胴体の上部」に相当する。
 (なお、250年当時、「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は北緯42度のローマの天頂を通過していた)。
 以上のように、西暦3000年から250年まで、「スカラベの姿に似る銀河」は〔エジプト全土の最北端から最南端までの天頂〕を覆(おお)っていた。
 紀元前30年、クレオパトラ7世がローマの属州になって、エジプト王朝は滅亡した。
 したがって、エジプト王朝が滅亡するまで、「スカラベの姿に似る銀河」を仰いで天頂緯度測定すれば、エジプト全土の各地の緯度が精密に測量できた。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bは、すべてのヒエログリフと漢字が作られた銀河の全域を示す。
 この資料Bの写真において、「夏の銀河の東北部」と記した領域が「スカラベ」の字源となった「スカラベを真上から見た姿に相似する銀河」である。

 この資料Bの写真の右下の巨大な球形の銀河を、私は「夏の銀河の西南部」と名づけた。
 9回前の〔22〕で説明したように、「夏の銀河の西南部」の中央に「銀河系の中心」がある。
 この「銀河系の中心方向」に無数の星が群がり星間物質が入り乱れるので、「夏の銀河の西南部」は渦を巻いてわきあがる入道雲のように迫力に満ちた圧倒的な形をしている。「ホルスの眼」の〔瞳〕にして「スカラベの頭の光線のように観えるギザギザ」に見立てられた「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」もまた〔渦巻きの形〕となる。
 ゆえに、「夏の銀河の西南部」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”ということになる。

 この資料Bの上を下に・下を上になるように180度転回すると、“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部」は〔球状に丸めた糞と、この糞を転がすスカラベの姿(側身形)〕に相似する。
 つまり、資料Bに「巨龍の銀河」と記した部分が「自分の身長よりも少し大き目に丸めた糞を転がすスカラベ」に、「夏の銀河部の西南部」が「球形に丸めた糞」に観える。
 この「糞を転がすスカラベの姿に似る銀河」の西側に、さそり座のα星・アンタレスが輝く。この「スカラベの姿に似る銀河」における〔スカラベの姿〕は東から西のアンタレスがある方へ向かって糞を転がして行くように観える。
 太陽はじめすべての天体は、天の北極を中心にして東から西へと円周運動をする。ゆえに、「夏の銀河の西南部」の〔糞を転がすスカラベの姿〕はまるで太陽を転がすかのように観える。
 さらに、さそり座α星・アンタレスから「糞を転がすスカラベの姿に似る銀河=夏の銀河の西南部」にかけて、「黄道(こうどう)」つまり「天球上において太陽が通過する道」が通過していた。だから、「夏の銀河の西南部」の〔糞を転がすスカラベの姿〕は〔太陽を転がすスカラベの姿〕に観えたのである。

 マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)の116頁は、古代エジプト人のスカラベへの思いを、ローマ帝政期のギリシャの文人・プルタルコス(46?-120?)が下記のごとく述べていると記述する。
 「彼らによるとスカラベにメスはいない。すべてはオスで、球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩くという。」
 〔糞を転がすスカラベの姿〕に相似する「夏の銀河の西南部」に、「太陽が通過する道」の「黄道」が通過する。
 また、黄道の北側を「天の赤道」も通過していた。
 だから、〔糞を転がすスカラベの姿〕に観える〔さそり座α星・アンタレスと球形の夏の銀河の西南部〕は「スカラベが球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天球(夏の銀河の西南部)を横切る太陽をまねて、その球を転がして歩く」と信仰されることになったのである。

 9回前の〔22〕で解説したように、「夏の銀河全像(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)」はライオンの顔よりもちょっと長いが〔ライオンの横顔〕に相似する。大スフィンクスが建造された4500年前の春分の日の午前零時の2時間後の午前2時、美しい二重星のヘレクレス座のα星・ラスアルゲチが、クフ王のピラミッドの天頂で輝いた。このラスアルゲチは、「夏の銀河全像」が相似するライオンの横顔の鼻先に隣接する。これゆえ、クフ王のピラミッドからライオンの横顔に相似する銀河の鼻先にあるラスアルゲチが位置する方角(南南東)に、ライオンの座像に似せて作られた大スフィンクスが建造された。
 このラスアルゲチと「黄道」の中間を、「天の赤道」が通過した。
 「黄道」は“巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部の北部」を通過した。
 「天の赤道」は、“巨大な「ホルスの眼」のうちの目頭(めがしら)あるいは目尻のほうにある白目(しろめ)”となる部分を通過した。いいかえると、「天の赤道」は「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」となる部分を通過した。
 また、「黄道」も「夏の銀河の西南部の北部」も「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」となる箇所を通過した。

 「天の赤道」は緯度0度(地球の赤道)の天頂にめぐってくる。
 「夏の銀河全像が相似するライオンの開ける口」に、「天の赤道」と「黄道」が通過していた。この「ライオンの開ける口」を通過する「天の赤道」の南を「黄道」が通過した。
 このような「ライオンの開ける口となる銀河」が子午線経過するとき、「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」はエジプトの東から東北東30度の天空に位置した。
 「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」は「夏の銀河全像が相似するライオンの横顔における目・鼻よりの上のたてがみ」の箇所に位置する。
 これゆえ、「ライオンの開ける口となる銀河」が子午線するとき、「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」が上(北)、「ライオンの開ける口となる銀河」は下(南)に位置することになる。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の89頁に、〈ヘパル(hpr)〉とする「~に成る」と意味する語が記載される。
 この語は2字で構成され、上に表意文字の「スカラベ」を下に〈ル(r)〉と発音する「口」を意味する語に用いられる「口」を図案化した表意文字が配置される。
 この上の「スカラベ」の字源は「真上から見たスカラベの姿に似る銀河」であり、下の「口」の字源は天の赤道と黄道が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」であるにちがいない。
 「太陽が通過する道」すなわち「黄道」は「糞を転がすスカラベの姿」に観える「夏の銀河の西南部」を通過する。この「夏の銀河の西南部」は「ライオンの開ける口」である。
 だから、「~に成る」の語に使われる「口」の文字の字源は「糞を転がすスカラベの姿に似る夏の銀河の西南部」であると考えるべきことになる。
 この「~に成る」と意味する語を構成する下の「口」の字源銀河の「夏の銀河の西南部」の形状は、上に配した「スカラベ」のごとく「糞を転がすスカラベの姿に成る」。
 
ゆえに、上に「スカラベ」、下に「口」の文字を配する語の意味は「~に成る」となったのである。

 『図説 古代エジプト文字入門』の2字で「~に成る」と意味する語の上に、5字で〈ヘペレル(hprr)〉と発音する「スカラベ」を意味する語が記載される。
 この語の決定詞は右端の真上から見た「スカラベ」を図案化する表意文字である。
 この「スカラベ」の左隣は2字とも同じ「口」を図案化した文字が上下に並ぶ。
 下の「口」の字源は「ライオンの開ける口となる銀河」である。この「黄道」が「ライオンの開ける口となる銀河」は”巨大な「ホルスの眼」の〔瞳〕”となる「夏の銀河の西南部」であり、「天の赤道」が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」は”巨大な「ホルスの眼」の目頭または目尻のほうにある白目”である。
 ゆえに、上の「口」の字源は表意文字「ホルスの眼」の字源となる「目の形に似る銀河」とであると考えられる。「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の東隣の暗黒天体部」は「ホルスの眼の目頭のほうにある白目」に相当し、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲の西隣の暗黒天体部」は「ホルスの眼の目尻のほうにある白目」に相当する。このように、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と東西の暗黒天体部」は〔目の形〕に相似する。

 『図説 古代エジプト文字入門』の58頁に、〈イレト(irt)〉と発音する「目」という語を意味する、決定詞の「目」と表音文字2字の計3字で構成される語が記載される。この表意文字「目」の字形においては、〔白目は白く、瞳は黒く塗りつぶされる〕。この「目」の語の右横は〈イル(ir)〉と発音する「行う」を意味する、表意文字「目」の異体字(いたじ)である。この「目」の異体字の字形は、「瞳となる北アメリカ星雲・ペリカン星雲と白目となる東西の暗黒天体部」と同様に、〔白目は黒く、瞳は白く〕デザインされる。つまり、この〈イル〉と発音する「目」の異体字は〔夜、天頂緯度測定を行う〕ことから「行う」を意味することになったにちがいない。

 説明をもとにもどし、5字で「スカラベ」を意味する語に使用される上下の2字が同じ「口」の字源の秘密を解説する。
 表意文字「目」の字源となる〔北アメリカ星雲・ペリカン星雲が瞳、東西の暗黒天体部が白目〕となる「目の形に似る銀河」は、表意文字〔口〕の字源でもあったのである。
 というのも、表意文字「口」の字形は表意文字「目」の字源「目の形に似る銀河」に似せて作られているからである。
 5字で「スカラベ」を意味する語に使用される、二つの「口」の文字における上の「口」は「ホルスの眼」と「目」の表意文字の「行う」を意味する異体字「目」の字源となった「目と口の形に似る銀河」ということになる。
 だから、上の「口」の字源は「ホルスの眼」の字源となった「口の形に似る銀河」、下の「口」の字源は“巨大な「ホルスの眼」の白目”となる「天の赤道」が通過する「ライオンの開ける口となる銀河」であったことになる。
 この二つの「口」の表意文字の左隣、いいかえると「スカラベ」を構成する語の左端には、上に「黒い円●の中に横に3本の白線が入る」文字を配し、下に「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」文字を配列する。
 この上の「●の中に3本の白線が入る」文字は「黄道」をあらわすと考えられる。
 つまり、上の線は「天の赤道より北側(上)となる夏至点周辺の黄道」を、中央の線は「天の赤道と黄道が交わる春分点と秋分点周辺の黄道」を、下の線は「天の赤道より南側(下)となる冬至点周辺の黄道」を示すものと考えられる。
 前回の〔30〕にて指摘したように、エジプト暦は夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に、おおいぬ座α星・シリウスが東の空に姿をあらわすを基準とする太陽暦にして恒星暦であった。ゆえに、下に配する「黒塗りの長方形の中に6本の短い白線が2列に並ぶ」文字は「正午の太陽の高度、午前零時の測量、日の出における太陽の方角、日の出直前のシリウスの位置を測量するために使用された道具」を図案化したものではあるまいか。
 あるいは、前述した「スカラベの姿に似る銀河」の傾き(起き上がる様子)の変化を測量する道具であったのかもしれない。紀元前3000年から250年までの3250年間に、「スカラベの姿に似る銀河」の緯度は6度50分も増大した。そうすると、「スカラベの姿に似る銀河」の傾きは10年間に1分18秒ずつ緯度が増えたことになる。このような1分18秒の変化ならば、特別に優れる目を有する人や「スカラベの姿に似る銀河」の傾きの変化を測量する役職に任命された天文士ならば日々眼力を鍛錬して感覚を研ぎ澄ましたにちがいないので、キャッチできたことになる。

 以上のように、〈ヘペレル〉と発音する5字で「スカラベ」を構成する語は――エジプト王朝では「スカラベは天空を横切る太陽にまねて球形に丸めた糞に精子をまいて歩き、糞の中から次々と子どもを生むようにして、永遠に命を受け継ぐ神聖な生物である」と見立てていた――と表示するものとなる。
 ゆえに、上に青い太字に示したプルタルコスが記述した古代エジプト人のスカラベへの思いは「スカラベが球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩く」という文になったのである。
 そうすると、スカラベを神々の中で最も位の高い太陽神のシンボルとするエジプト王朝においては太陽の日周運動は永遠に続くと考え、子どもたちは次から次へと生まれて、エジプトは永遠に滅亡しないと考えていたにちがいない。

 古代エジプトでは、【文字】となった【銀河】は【神】となった。
 ゆえに、①エジプト全土の天頂にめぐってきたスカラベの姿に似る【秋の銀河と夏の銀河の東北部】と②糞を転がして歩くスカラベの姿に似る【夏の銀河の西南部)】は神聖視され、スカラベは【黄道】と結びつけられて神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 1日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・30

 前回に続いて、フランスの言語学者のジャンフランソワ・シャンポリオンがロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフを解読した文字の秘密の解明を行う。

 シャンポリオンは、最初に3字で記す「ラメセス(Rameses)」という大王の名を解読し、次に3字からなる「トトメス(Thotmeses)」という大王の名を解読した。
 前回ではに、「ラメセス」の3字の秘密を解説した。
 「ラメセス」の〈メセス〉と「トトメス」の〈メス〉は同じ2字の表音文字の〈メス(mes)〉と〈ス(es)〉である。この2字の字源については、前回で解説した。
 しかし、「トトメス」の〈トト(Thot)〉の字源については、16回前の〔14〕で説明したものの、説明が不十分なままで終わった。

 「トトメス」の〈トト〉と発音する文字は、「朱鷺(とき)」の姿を図案する。
 この絵文字は、決定詞として「朱鷺」を意味する〈ヘブ(hb)〉につく。表意文字または決定詞としてトト神の名前〈ジェフゥティ(jhwti)〉を構成する文字の中に使われる。
 トト神のモデルとなるアフリカクロトキは、エジプト美術では、パピリスが生える湿地や川を描いた場面に登場する。パピリスはナイル川の両岸に密生する大型の水草である。パピリスには非常に多くの用途があり、これを編んで籠(かご)や舟を作ったほか、槌(つち)でたたいて延ばして最初の紙が作られた。紙(ペーパー)という語は、パピルスに由来する。

 〔14〕で指摘したように、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」の額(ひたい)の部分は「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる〔北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部〕である。この「北天の最輝部」は銀白色に輝く。この銀白色に輝く「北天の最輝部」は〔ボウリングのピンポ〕のような形であるので、〔ボウリングのピン〕のような形をした「白冠(しろかんむり)」の王冠のモデルと「白冠」をあらわさす文字の字源となった。白冠は上エジプトの王を示す王冠であった。この上エジプトの王は、上下エジプトの2国を統一する王であった。

 「白冠」のモデルとなった銀白色の「北天の最輝部」は、部分的に朱鷺色の靄(もや)がかかったように美しく彩(いろど)られる。
 「北天の最輝部」から[く]の字に朱鷺の首のように曲がった東側に「北アメリカ星雲」がある。
 この「北アメリカ星雲」の明るい部分は〔桃の実の形に似て、熟した桃の実のごとく赤い〕。「北アメリカ星雲」の北側の「鬼の横顔に似る銀河」は〔桃色に輝く〕。
 朱鷺色と桃色は同色系統であり、〔朱鷺色〕にわずかだけ赤みを帯びた色が〔桃色〕である。
 これゆえ、日本では「朱鷺」を「桃花鳥」とも表記した。そのわけは、「北アメリカ星雲」が〔鳥の形〕に似ているからである。
 その証拠に、「桃花鳥」の語源となった「北アメリカ星雲」は〔急降下して獲物を空中攻撃するハヤブサの姿〕に相似する。ゆえに、「ホルス神」はハヤブサの顔を天空の神となった。
 「ホルスの眼」の左目は〔月〕を象徴する目、右目は〔太陽〕を象徴する目となった。
 「ホルスの眼」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と隣接する東側と西側の銀河」が、〔人の目〕の形に相似する。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「人の目の形に似る銀河」の〔瞳〕に相当する。
 しかし、朱鷺の目は人間の目と異なって、円い。このため、「ホルスの眼」である「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔朱鷺の目〕に見立てることができる。
 ゆえに、これから「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をシンプルに「左目」あるいは「右目」と表現すると――
 「人の横顔に酷似する銀河」の方から見ると、「ホルスの眼」の字源銀河は「左目」となる。「十字の銀河」の方から見ると、「ホルスの眼」の字源銀河は「右目」となる。

 ホルス神の父は「人の横顔に酷似する銀河」がモデルとなるオシリス神である。この「人の横顔に酷似する銀河」を基準すると、「ホルスの眼」は〔月〕を象徴する「左目」となる。
 ホルス神の母はオシリスの妹であり妻であるイシス神である。
 古代エジプトにおいては、全天第一の輝星のおおいぬ座の光度-1.4等星のα(アルファ)星・シリウス「イシスの星」と称して崇拝された。つまり、イシス神はおおいぬ座シリウスの化身であった。
 今から約4900年前、エジプト暦は完成した。このエジプト暦は〔夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に、1年365.25日の周期のイシスの星(おおいぬ座のシリウス)が東の空に姿をあらわす恒星暦にして太陽暦〕であった。
 オシリスは死者の国の王であり、“夜の太陽”をあらわす太陽神とされ、再生(復活)の神であった。
 というのも、ヒエログリフの「オシリス」の字源となった「人の横顔に酷似する銀河」は夏の太陽光線のようにまばゆく銀白色に輝く「北天の最輝部」を有し、また「太陽」を意味する〈ラー(ra)〉と発音する太陽円盤の[◎]の字源部(白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部)を有するからである。
 この〔恒星暦〕にして〔太陽暦〕にもとづいて、〔恒星〕のイシスの化身であるイシスは〔太陽〕(夜の太陽)の化身であるオシリスの妹にして妻となり、ホルスの母となったのである。

 エジプト暦の元日は夏至の日であった。
 直ぐ前の行で述べたように、オシリスのモデル「人の横顔に酷似する銀河」の頭髪の生え際には白鳥星γ(ガンマ)星が所在する。この「γ星を中心にして包囲する円形の銀河」は〈ラー〉と発音する「太陽」を意味するシンプルな太陽円盤[◎]の字源となった。
 ゆえに、オシリスは太陽円盤[◎]の化身となった。
 エジプト暦が完成した今から4900年前、[◎]の字源銀河部は夏至の午前零時の20分前(23時40分)に子午線経過し、3大ピラミッドが建造された今から約4500年前には夏至の日の午前零時に子午線経過した。
 この[◎]の字源銀河部(白鳥座γ星を中心にして包囲する円形の銀河部)が夏至の午前零時頃、あるいは午前零時に子午線経過した由来によって、オシリスは〔夜の太陽の化身〕となった。午前零時は古い昨日が死んで新しい一日が誕生するので、オシリスは再生・復活の神となったのである。
 エジプト暦の基準となったイシスの星は、夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に姿をあらわした。これゆえ、〔夏至の日の日の出直前〕の神となったイシスは「夏至の日の午前零時」を象徴するオシリスの妹にして妻となった。

 イシスの息子のホルスは、大スフィンクスの古称の「地平線のホルス」となった。
 イシスは〔夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に姿をあらわす女神〕と崇拝されたゆえ、「地平線」で共通する「地平線のホルス」という名称は〔ホルスがイシスの息子であること〕をあらわした。
 また、〔恒星暦〕にして〔太陽暦〕の基準となったイシスの星の女神イシスと、右目が〔太陽〕を象徴する「ホルスの眼」は「太陽」で共通する。
 というのも、「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と3本の閃光(せんこう)を放つ線」は、光線を発している太陽円盤に図案化されて〈ウベン(wbn)〉と発音する決定詞となったからである。
 さらにに、「ホルスの眼」の〔瞳〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「朝日」をあらわす「地平線のホルス」であった。
 このように、ホルスもまた〔太陽暦〕と関連した。
 8回前の〔22〕にて解説したように、「地平線のホルス」は〔春分の日の日の出の時刻(午前6時)〕をあらわした。ゆえに、父オシリスが〔夏至の日の午前零時〕、母イシスが〔夏至の日の日の出〕を象徴する神に対して、息子の「ホルス」は〔春分の日の日の出〕を象徴する神となった。

 太陽が地平線から昇る〔東〕の「十字の銀河」を基準にすると、「ホルスの眼」は〔太陽〕を象徴する「右目」となる。
 〔夏至の日の午前零時〕の夜の神のオシリスのモデルとなる「人の横顔に酷似する銀河」を基準とすると、「ホルスの眼」は〔月〕を象徴する「左目」となる。
 前述したように、「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲」の明るい部分は①〔桃の実の形に相似して、熟した桃の実のように赤い〕。「北アメリカ星雲」の隣の「鬼の横顔に似る銀河の頬(ほお)」は②「桃の実の尻のような形にして桃色である〕。そして「鬼の横顔に似る銀河の頬より上部」は③〔桃の実の形に相似して桃色〕である。

 この〔桃の実に相似する3箇所〕は、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国(よみのくに)訪問神話の後半部に登場する「桃の子三箇(みみつ)」という名になった。
 この「桃の子三箇」は、小国・日本の男王・伊耶那岐命が指揮する黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本の乱に参加した、日本軍の兵士と和歌山県の三熊野地方に住む徐氏の子孫の戦士たちである。
 小国・日本の女王にして倭国の女王となった“愛”の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと)は、卑弥呼の墓を作った時に決行された百余人の奴婢(ぬひ)すなわち18才くらいの青年(奴)と13才くらいの乙女(婢)を殺して、卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)儀式を必ず廃止するよう、夫の伊耶那岐命に願って没した。
 ところが、後を受け継いだ倭女王・天照大御神は伊耶那美命の遺志を無視して、残虐きわまりない徇葬を決行した。
 それゆえ、伊耶那岐命と伊耶那美命に熱烈に憧れる日本兵と熊野の戦士たちは、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された伊耶那美命陵から棺(ひつぎ)を略奪する反乱をおこし、伊耶那岐命の指揮のもとに桃の子三箇は倭の大軍を黄泉比良坂の坂本(熊野速玉大社の境内)で撃破(げきは)した。
 『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与(いよ)」が「伊耶那美命」である。壱与は倭国の小国の伊耶(いや)国出身者であった。ゆえに、彼女が赴任した小国・日本の人民は“伊耶国の美しい女王”ということで「伊耶那美命」と愛称したのである。
 『魏志倭人伝』の後半部に登場する倭国と狗奴(くな)国との戦況を説明に帯方郡政庁を訪問して説明した、武将の「載斯烏越(そしあお)」が小国・日本の男王の伊耶那岐命であった。
 「鬼の横顔に似る銀河の頬より上部」は〔桃の実の形に相似して桃色〕であり、桃の実の尻の形に相似する「鬼の横顔に似る銀河の頬」は〔桃の花の花弁の一部の形〕のも観え、「北アメリカ星雲」は〔桃の実の形〕に相似し〔天から降下する鳥〕に相似し〔桃の花と台(うてな)の側面形〕に相似する。これゆえ、「朱鷺」は「桃花鳥」とも表記された。

 「桃花鳥」は「月」と同じく「つき」と読まれた。
 漢字において、「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は「朝日」に見立てられ、「十字の銀河」の真南にある「半円形の同心円の銀河部」は〔正午の高度を計測する柱の背後に隠れる正午の太陽〕に見立てられて[昼(〔晝)]の下部の「太陽」をあらわす字源部となった。
 (この[昼]の字源部となったのは「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の東端の銀河部」である)。
 そして、西側の円形の「北アメリカ星雲・ペリカン」は太陽が西に傾く〔夕〕をあらわすことになり〔満月〕に見立てられた。この〔満月〕の半分形に相当する、〔三日月〕の形に相似する「ペリカン星雲」が[夕]と[月]の字源となった。ゆえに、『説文解字』は[月]の字源を「闕(か)くるなり。太陰(たいいん)の精なり。象形」、[夕]を「莫(くれ)なり。月の半ば見ゆるに従ふ」と字源解説する。
 (なお、「鬼の横顔に似る銀河」の耳介(じかい)の方に所在する「北アメリカ星雲」は〔耳介〕の形に相似するということで、[耳]の字源となった。[門]に[耳]で[聞]の字となり、『説文解字』の[月]の字源解説に登場する[闕]も[聞]と同じく[門〕の部首を有する字となったのは、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」の「中間の暗黒天体部」が[欠ける」と意味する[闕]の字源と〔外耳孔(がいじこう)〕すなわち〔耳の孔〕に見立てられたからである)。
 だから、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は海の暗い部分がある〔満月〕や〔満ち欠けする上弦や下弦の月〕に見立てられた。
 このようなイメージ解釈によって、「桃花鳥」は「つき」と読まれることになったのである。

 前述したように、 鬼の横顔に似る銀河」は〔朱鷺色にすこしだけ赤みを帯びた桃色〕である。
 「オシリス」のモデルとなった「人の横顔に酷似する銀河」は〔トキ(アフリカクロトキ)の翼がある胴体と尾〕に相似する。
 この「人の横顔に酷似する銀河から鷲座α(アルファ)星・彦星・アルタイルが所在する銀河周辺にかけての部分」は、〔トキ(朱鷺)の肢(あし)〕の形に相似する。
 「人の横顔に酷似する銀河から鬼の姿に似る銀河の中間の明るい銀河部」は〔トキの首〕の形に相似する。
 「鬼の身に相当する銀河」が〔トキの頭(顔)〕に相似する。
 しかも、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔トキの目〕に相似する。
 「鬼の横顔に似る銀河から長方形の暗黒天体部の東の辺」が〔トキの嘴(くちばし)〕の形に相似する。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は〔トキの嘴〕となる「長方形の暗黒天体部の東の辺」と交錯して連結する。〔トキの肢〕の部分と交錯する「コールサック」は「ナイル川」に見立てられてた。ゆえに、この部分は〔トキが生息したナイル川や湿地〕をあらわす。
 太い青い字で上記したように、ナイル川の両岸には、広い範囲でパピリスが密生していた。
 「長方形の暗黒天体部」は〔パピリスの茎の外皮をはがして、何枚も重ねて槌でたたいて延ばし固めた最初の紙〕の形に相似する。
 「鬼の横顔に似る銀河」と「人の横顔に酷似する銀河」は、〔パピリスで作った舟〕の形に相似する。
 「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」と連結する上南・下北の台形に観える「長方形の暗黒天体部」は〔パピリスで作った籠〕の形に相似する。

 漢字では「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は〔水中に潜(もぐ)る龍〕に見立てられて「潜龍(せんりょう)」の語源となり、竹で編んで作った[籠]の字源となった。
 (なお、「潜龍」という語は「皇太子」を意味して、『古事記』序に記載される)。

 上記に記述した〔トキの全身の姿に似る銀河〕と同じ側身形に、決定詞の「トキ」を意味する表意文字は図案化される。
 また、〔トキの全身の姿に似る銀河〕と同じトキの姿をした多くの彫像が信仰の対象として作られた。
 多くの絵画、彫刻においてトキの頭を有する人の姿をしたトト神が造形されたが、トキそのものをトト神の象徴として表現された。
 ということは、〔トキの全身の姿に似る銀河〕こそが「トト神」であったことになる。

 〔トキの全身の姿に似る銀河〕は、すべてのヒエログリフが作られた字源銀河部の中心部となる。
 ヒエログリフの読み書きができる人物は“書記”と呼ばれ、パピリスで作った紙に文字を書いた。
 だから、トキの頭をしたトト神は、書記および筆記する行為の守護神となった。
 「ホルスの眼」が〔月〕を象徴する「左目」になるように、〔トキの尾〕に相当する「人の横顔に酷似する銀河の首」の部分が天頂にめぐってきた時に、「トキの全身に似る銀河」をキャッチできる。だから、トトは月の神となった。
 ヒエログリフを修得するに女性の生殖器や人体の仕組みはじめ天文学や動植物の知識などが必要となり、銀河から文字を作りまた先人が銀河から作った文字の字源を理解しなければならなかったので、トト神は学術(科学)と芸術の神となった。
 人間の目は、本人の意志にかかわりなく、周囲の明るさに応じて瞳孔の直径が1.5mm~8mmくらいまで縮小し、拡大する。視界の中に光がまったく入らないように暗闇の場所から銀河を観察すると暗い部分まで見え、視界の中に明るい光が入る場所から観察すると暗い部分が見えなくなって銀河全像の形が見えなくなる。真っ暗い場所においた物は見えないが、明るい場所に設置した物は見える。しかし、真っ暗い場所にしばらく止まっていると、瞳孔径が拡大して見えなかった物が見えるようになる。暗い場所と明るい場所で見た銀河の形は相違する。また、天頂緯度測定において、明るい場所だと精密に測定できないが、崖下や人里離れた木陰などの真っ暗い場所あるいは大きな帽子や冠で目に入る光を遮断(しゃだん)すれば、精密に測定できて遠い地に旅しても無事に家に帰ることができた。このような瞳孔径の仕組みは、古代の人々には不思議な“魔法”であった。ゆえに、銀河から作られた文字の神・トトは“魔術の神”にもなった。

 上記したように、「ホルスの眼」の字源の中心部となる円い「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔トキの全身の姿〕のうちの円い「トキの目」すなわと「トト神の目」となった。
 エジプト神話によれば――ホルスは、父オシリスを殺害した叔父のセトに片目をくりぬかれた。その目は切り刻まれ捨てられたが、トト神が辛抱づよくその切り刻まれたホルスの眼を集め、もとにもどしたという。
 この神話にもとづいて、表意文字にして決定詞の「ホルスの眼」は穀物の計量単位をあらわす6つの分数を示す文字となった。この6つの文字は、①1╱2、②1╱4(ホルスの眼=トトの目の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」)、③1╱8、④1╱16、⑤1╱32、⑥1╱64であるが、この6つの分数の和はトトによって復元された全体の1とならなければならない。しかし、合計は63╱64となって、1╱64だけ不足となる。この不足となる1╱64は“トトの魔術”が補ったとされる。
 「トキの目=トトの目」は「ホルスの眼」の〔瞳〕である。
 この「ホルスの眼」の〔瞳〕は「計量単位の1╱4」となる文字[○]の字源は、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 この「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央部は欠け、「暗黒天体部」となる。
 したがって、「暗黒天体部」で欠ける「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔叔父のセトに切り刻まれた瞳〕となる。
 「計量単位の1╱4」の文字[○]は〔切り刻まれた「ホルスの眼」の瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の形状と異なって、〔切り刻まれない瞳〕をあらわす〔トキの目〕の同じ円形(○)である。したがって、「計量単位の1╱4」の字形の[○]は〔トトによって復元されたホルスの瞳〕をあらわすものとなる。
 ゆえに、「ホルスの眼」から生まれた6つの文字には、円形(○)の〔トトの目〕によって、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の中央部の「暗黒天体部」は文字にはならなかったことになる。したがって、この文字にならなかった「暗黒天体部」が〔不足分の1╱64〕の“トトの魔術”ということになる。
 この“トトの魔術”の「暗黒天体部」は「ホルスの眼」の〔瞳孔〕となる。
 そうすると、古代エジプトの医学では瞳孔の直径が縮小、拡大する仕組みを、知っていたのであろうか? 
 「瞳孔」に相当する「暗黒天体部」のように、視界に光がまったく入らない真っ暗い場所では瞳孔径が最大に拡大されるゆえ、暗い部分の銀河部まで見えるようになる。
 この瞳孔径の仕組みを、前述したように”トトの魔術”と言ったのであるまいか?

 トト神は多くの場合、トキの頭部をもつ男の姿で表現された。
 しかし、マントヒヒの姿をしたトト神が少数例存在する。
 「トキのほぼ全身に似る銀河」の部分は〔マントヒヒの全身像(側身形)〕にも相似するからである。
 「鬼の横顔に似る銀河」が顔の前面に突き出た〔マントヒヒの鼻〕、「鬼の身に相当する銀河」が〔マントヒヒの顔〕、「トキの首となる銀河」が〔マントヒヒの髪〕、「人の横顔に酷似する銀河」が〔マントヒヒの肩・腕・手〕、「トキの前肢の銀河」が〔マントヒヒの両足〕の形に相似する。 

 ヒエログリフの文字数は、600~700(あるいは800~1000)といわれるが、「トキの全身の姿に似る銀河」の各部の形状から、大半のヒエログリフが作られた。
 5回前の〔25〕にて、エジプトの天地創造神話に登場する銀河の範囲を解明した。
 「トキの全身の姿に似る銀河」と「エジプトの天地創造神話に登場する銀河」から、多分90%以上のヒエログリフが作られたことになる。
 残る文字は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cで「夏の銀河の西南部」と記した銀河から作られた。
 古代エジプト王朝は銀河各部の名称を定めなかった。
 しかし、トト神を「トキの全身の姿に似る銀河」で表示し、天地創造神話、また神々の神話、またその神々の姿で、すべてのヒエログリフが作られたすべての銀河の範囲をあらわすことになった。
 だから、文字を作った銀河各部の名称を作る必要がなかったのである。
 【文字】は【銀河各部の形状】から作られた、あるいは【銀河各部の形状】は【文字】であるという秘密を守るために、銀河各部の名称を定めなかったが、トト神始めとする神々の神話や、神々の姿を表現する絵画や彫刻で、【文字】となった【銀河各部の形状】を表示していた。
 だから、この秘密を知っている王や神官や書記たちはヒエログリフが読み書きできた。
 ヒエログリフは銀河から字源・字形・字義・字音を作るものであったので、銀河は字源・字形・字義・字音を知ることができる辞典であった。

 拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Bに表示したすべての漢字が作られた銀河の範囲とすべてのヒエログリフが作成された銀河の範囲は同一である。
 漢字のすべての字源を知ることができる基本字は1400字前後である。ゆえに、いままで説明してきたように、漢字とヒエログリフの字源が同一となる例、共通する例、類似する例、漢字の字源でヒエログリフの字源が解明できる例などが多数存在するので、多くても1000字といわれるヒエログリフのすべての字源は、漢字の字源を解明すれば容易に解明できる。

 なお、私は13回前の〔17〕の冒頭部で――ヒエログリフの字源となった範囲は、拙著の資料Cの上半分の「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」となる――と記述したが、この指摘は誤っていた。
 正しくは――拙著の資料Cの写真で撮影された全範囲の「秋の銀河」と「夏の銀河」(「夏の銀河の東北部」と「夏の銀河の西南部」)であった。
 うっかり誤記したことを、ここにお詫び申し上げ
る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月30日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・29

 ロンドンの大英博物館には、「ロゼッタストーン」が展示されている。
 このロゼッタスト-ンには、一つの文章が3種の文字で整然と彫られている。ヒエログリフは14行だけが残り、デモティックは32行、ギリシャ文字は54行となっていた。
  このギリシャ語の文章は――紀元前196年の日付を持つメンフィス神官団の布告で、王プトレマイオス5世エピファネスに向けて、諸神殿に下された恩恵を称賛する――というような内容であった。
 このギリシャ語の文章から、ヒエログリフもまた文字であることが察知された。
 このヒエログリフの解読に、エジプト学者たちの挑戦が始まった。
 しかし、いっこうに謎のままで不明のままで解読は成功しなかった。
 ついに、フランス人の言語学者のジャンフランソワ・シャンポリオンがロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフの解読に成功した。
 シャンポリオンは最初に、3字を用いて「ラメセス(Rameses)」とあらわす名を解読した。この解読から、3字を用いる「トトメス(Thotmeses)」という名をも解読した。
 こシャンポリオンの「ラメセス」と「トトメス」という二人の大王の名の解読から、ヒエログリフが解読できなかった迷宮の門が開かれた。

 シャンポリオンが最初に解読したのは〈ラ(ra)〉と発音する「太陽」をあらわす[◎]の文字、〈メス(mes)〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけたもの」を図案した文字、〈ス(es)〉と発音する「折りたたんだ布」を図案する文字の3字であった。
 この「折りたたんで布」の文字は、〈ス(s)〉と発音するサ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
 「ラメセス」という名に使われる〈メス〉と発音する文字について、ジョン・レイ著╱田口未知訳『ヒエオログリフ解読史』(原書房)の106頁は「この記号は、出産する女性を守るための魔除けとして使われた三枚のキツネの毛皮を結びつけたものを象徴していた」と説明する。
 藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)の60頁と藤井旭著『新透視版 星座アルバム春夏編』(誠文堂新光社)の46頁に、3本の閃光(せんこう)を放つ銀河部と連結する「ペリカン星雲」の大きな写真がある。
 この写真の「ペリカン星雲」は「後ろを振り向くキツネの胴体(毛皮となる部分)が弧を描く形」に撮影されている。
 したがって、「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「無事に出産がなされるように魔除けとして使われた三枚のキツネの毛皮」を図案する〈メス〉と発音する文字の字源であったのである。

 国際天文学の名称は「ペリカン星雲」という名に定めているが、ペリカンの姿よりも実際は〔キツネが後ろを振り向く姿〕にソックリであるので、「キツネ星雲」という名のほうが的(まと)を射ることになる。

 満月の直径は約0.6度、ペリカン星雲のキツネの顔の部分は約0.8度であるから、肉眼でペリカン星雲が〔キツネが後ろを振りむく形〕であることが確認できる。
 〈メス〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」を図案する文字――この文字の字源である「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は、日本語の「キツネの嫁入り」の語源であるにちがいない。というのも、「キツネの嫁入り」は「日が照っていながら降る雨。ひでりあめ」を意味することになるからである。
 円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔太陽〕に見立てると「ペリカン星雲」が〔後ろを振り向くキツネの姿〕に見える。これゆえ、「3本の閃光を放つ銀河部」が「キツネの嫁入り」すなわち「日が照っていながら降る、日照り雨」のイメージとなる。
 [眔(とう)]と字は現在においては使用される文字ではないが、上の[目]はヒエログリフの「ホルスの眼」の字源となった銀河部であり、下の[水]に似た字形部は「涙」をあらわす「3本の閃光を放つ銀河部」が字源となる。この〔目から涙が垂れる形〕に図案される[眔]の甲骨文字と金文形は、ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となる[目](横目)と「3本の閃光を放つ銀河部」を「涙」に見立てて形成されたのである。したがって、[眔]の上の[目]を「ホルスの眼」の[瞳]の円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に取りかえると、「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河」は「晴れているのに、太陽が流す涙」すなわち「キツネの嫁入り」をあらわすものとなる。

 そうすると、日本の伝説に登場するキツネは、この「ペリカン星雲」に由来するものと考えられる。
 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に隣接する「長方形の暗黒天体部」は、漢字の[門]と[玄]の字源となった。また、「長方形の暗黒天体部」から神社の入り口の門の「鳥居」が作られたように、〔家の門〕や〔家の玄関〕の形状に相似する。
 また、「コールサック」は犬や狼(オオカミ)の姿に相似するので[犬]と[狼]の字源となった。それゆえ、コールサックの一部(北部)である「長方形の暗黒天体部」は〔犬の顔〕に相当する。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には「倭では結婚する場合、同姓では結婚せず、男女が互いに喜んで気に入った者たちが結婚をする。嫁入りする新婦は、夫の家に門や玄関に入るとき、必ず犬をまたぎ、そして夫が待つ所に歩み寄って互いに顔を見つめあう風習がある」と伝える記事がある。
 犬は多くの子を産むから、嫁入りする新婦は新郎の家に嫁(とつ)ぐとき、「長方形の暗黒天体部」が[犬]の字源になるのに因(ちな)んで、犬をまたぐことになったのである。また、「ペリカン星雲」は後ろを振り向くキツネの姿に酷似し、そのキツネの顔は犬の顔にも相似するので、新婦は犬をまたぐことになったのである。
 「コールサック」は〔東西に2頭の犬が顔が分かれて、この2頭の犬の胴体が一体化する形〕となる。この〔2頭の犬の顔〕は〔抱擁する男女の顔〕にも観えるので、「コールサック」は〔固く抱擁しあう男女が顔を見つめあって愛しあう姿〕に観える。
 日本語では「男女が愛し合う行為」や「男女の情事」を「濡(ぬ)れごと」という。「長方形の暗黒天体部」の東隣は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」である。ゆえに、「コールサック」は日本語の「濡れ場」の語源になった銀河部だったのである。
 だから、『隋書』倭国伝の記事となった新婦は犬をまたいだ後に新郎と互いに顔を見つめあう儀式が行うことになったのである。
 だから、この「嫁入り」の儀式から「ペリカン星雲と3本の閃光を放つ銀河部」は「キツネの嫁入り」の語源となったのである。

 「ラメセス」という名に使われる〈ス〉と発音する「折りたたんだ布」を図案する文字について、マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフ事典』(創元社)178頁は、下記のごとく解説する。
 「王名につづく呼びかけの文句〈セネブ(snb)〉の略字として用いられる。
 この文字には、すべり落ちようとする布のしなやかな動きがとらえている。古王国時代の壁画で、織機から外されたばかりの真新しい布に、この文字と同じ形をしたものがある。」
 そうすると、「折りたたんだ布」を図案する文字の字源は、この回より11回前〔18〕にて解説した【ホルスの眼の6つの部分】のうちの「1╱4」(「ホルスの眼」の瞳となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」)]と「1╱64」の銀河部(長方形の暗黒天体部の西の辺)となる。

 「折りたたんだ布」の図案文字は漢字の[卩(せつ)]の字形上部を〔半円形〕にした〔コウモリ傘の柄の形を上にしたような形〕となる。
 「折りたたんだ布」を図案する文字は、〔ペリカン星雲の南から上へと線をのばし、この線をペリカン星雲の縁(へり)を撫(な)で、さらに北の北アメリカ星雲の縁を半円形に撫で、この線をさらに長方形の暗黒天体部の西の辺へと延長する形〕に合致する。
 この線は「おりたたんだ布」の字形に合致し、字源となる銀河部の形状は、上記の『[図説]ヒエログリフ事典』が指摘するように、「すべり落ちようとする布のしなやかな動きをとらえている」という表現に合致する。
 また、「十字の銀河」が〔織機〕のように観え、「鬼の姿に似る銀河」が「機織(はたお)りする人」に観えるので、上の行で説明した「折りたたんだ布」の字源銀河部は「織機から外されたばかりの真新しい布」のように観える。
 ホルスはファラオの守護神である。
 「ホルスの眼」の〔瞳〕となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と「長方形の暗黒天体部の西の辺」は、「折りたたんだ布」の字源銀河部となる。だから、上記に示したように『[図説]ヒエログリフ事典』が「折りたたんだ布」の文字について「王名につづく呼びかけの文句〈セネブ〉の略字として用いられる」と指摘するように、〈セネブ〉の略字になったのである。

 ステファヌ・ロッシニー著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の65頁に、「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」の文字と「折りたたんだ布」を表音文字と、この2字の右側に〈メス(ms)〉と発音する「生む」を意味する決定詞の3字が配置されている。
 この右端の決定詞「生む」の字形は「娩出期(べんしゅつき)すなわち分娩中(ぶんべんちゅう)の女性」を図案化したものである。
 この「生む」の字形は「両手を前後に垂らす女性の側身形」の下に「分娩される胎児の両腕と正面の顔」が加えられる。

 出産する胎児の頭が通過する産道は、軟(なん)産道と骨(こつ)産道とに分かれる。
 軟産道は子宮口から骨盤入口までで、骨産道は骨盤入口から骨盤出口までである。
 産道が狭い場合、医学が未発達の古代においては、とくに骨産道が狭い場合には胎児が死産しあるいは母子とともに亡くなる事故が多発した。

 正常分娩の場合、軟産道をくぐりぬけた胎児の頭は骨盤入口の上において、胎児はあごを胸につけた姿勢で胎児の背中を母体の左または右に向ける。骨産道の中ほどにくると、胎児の頭は斜め後ろ(母体の背側)に顔を向け、軟産道の出口では顔はすっかり後方(母体の背中正面)に向ける位置をとる。出産第1期の開口期(かいこうき)の終わりには、ほぼこの状態になる。

 次の出産第2期の娩出期(べんしゅつき)においては、子宮口が全開大となり、陣痛(じんつう)と腹圧との力で胎児の頭はますます押し上げられ、ついに陣痛発作の時には膣(ちつ)の入口から頭が見えるようになる。しかし、陣痛がやむと胎児の頭は引っ込んでしまう。さらに進んで、胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過しようとする状態になると、胎児の頭は引っ込まないようになる。この直後に、胎児の頭が生まれる。ついで、胎児の頭はふたたび母体の左または右に向くが、これは肩の部分が骨盤出口をくぐりぬけるためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうから先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは一気に生まれる。

 決定詞「生む」の「娩出期の女性の側身形と胎児の両腕と正面の顔」を図案する文字は、上の行で説明した「胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過してあとに胎児の頭が生まれてから胎児の母体の背側の肩が出るまでの神秘的なドラマ」を描くものである。

 この膣入口に胎児の頭が見えてから以後のドラマは、実際に目で目撃することができる。
 表音文字の〈メス〉と発音する「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」と〈ス〉と発音する「おりたたんだ布」の文字は、上記の「胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過して、胎児の頭が引っ込まないようになって、母体の背の方に顔を向けて胎児の頭が生まれる。ついで、胎児の頭はふたたび母体の左または右に向き、そして母体の腹側にある肩から先に、ついで母体の背側にある肩がでると、娩出期が終わる」と説明した――胎児の頭が回転しながら出産する状況を図案するものである。

 したがって、〈ス〉の字源銀河部の一部となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔回転する渦巻き〕のごとくに観え、〈メス〉の字源「ペリカン星雲」はキツネの背中は円弧となるゆえ〔胎児の頭が膣入口から見えるようになってからの回転する動き〕をあらわすものとなる。

 「キツネ」の漢字[狐]の字源は「ペリカン星雲」であり、[弓]に[瓜]からなる[弧]の字源も「ペリカン星雲」である。というのも、「ペリカン星雲」の〔後ろを振り向くキツネの胴体〕は半円を描く「弧の形」であるからである。
 ゆえに、[狐]と[弧]はともに[瓜]の字からなる。
 そして、「ペリカン星雲」は〔瓜(うり)〕の形に相似すると見立てられて、[瓜]の字源となった。
 われわれは爪(つめ)が伸びると直ぐに切ってしまうが、爪が長くなっても切らなければ、伸びる爪の先端は「ペリカン星雲」のように丸まる。「鬼の姿に似る銀河」は「右手」に見立てられて[右]の字源・字形・字義となり、「北アメリカ星雲」は「鬼の姿に似る銀河」の右手の親指に見立てられた。「北アメリカ星雲」から円弧を描いて連結する「ペリカン星雲」は〔親指の爪を切らないまま伸びた爪の先端〕に見立てられて[爪]の字源となった。
 これゆえ、同じ字源から作られた[瓜]と[爪]の字は相似しあうことになった。
 膣の入口に胎児の頭が見えてから生まれるまで、胎児の頭は螺旋(らせん)状に回転する。「螺旋」の[螺]と[子]が組み合わさると「螺子(ねじ)」となる。「螺子」の〔捩(ね)じれの動き〕は〔出産する時の胎児の頭の回転に相似する〕ということから、〔螺旋状のミゾがついているもの〕は「螺子」と表記されることになったのである。

 〈メス〉と発音する「生む」を意味する決定詞の字形は、21回前の〔8〕にて解説した、夏音文字の最高学理の[眞]の字源をあらわすことになる。
 「生む」の字形における「分娩する母体の側身形」に対して「誕生する胎児の顔」は〔正面形〕である。だから、「生む」の決定詞の字形は「90度方位規定を転回する」と定めた[倭]の字源をあらわすものとなる。
 竜安寺の石庭の第3群の「横三尊」という名がつく石組は――主石の大石が「胎児を分娩する母体の腹部」、二つの小石は「母体の両足」、三つの石に包囲される空間は「母体の股と出産する胎児の頭」に見立てる仕組みになって――[眞]の字源をあらわす役目がある。

 [眞]の字源・字源・字義は①――子宮で育つ12週~20週の胎児の頭は母体の方に向き、20週~28週になると、180度回転して胎児の頭は母体の方に向く。この胎児が誕生するとき、胎児の顔は母体の背中正面を向く。この胎児を裏返しにして、母体の股から90度転回するように、母体の内側(腹側)へ胎児を取り上げる――このような胎児の出産の状況から成立した。
 この「母体の背中の方に顔を向いて誕生した胎児を裏返しになるようにして、母体の股から90度転回するように、母体の内側へ胎児を取り上げる」は「内裏(だいり)」の語源となった。「内裏」は「天皇の御殿。皇居」を意味する。
 そして「母体の股から90度転回するように、母体の内側に胎児を取り上げて、一つのいのちが生まれる」が、[倭]の字源となった。
 また、[眞]の字源・字形・字形は②――胎児の頭の最も大きな部分が膣入口を通過して、胎児の顔が母体の背中の方に向いて誕生し、ついで90度転回して胎児の顔は母体の左または右に向き、まず母体の腹側にある肩が先に、ついで母体の背側にある肩が出て、180度母体の内側に回転するようにして取り上げる、この膣の入口から胎児の頭が見えた直後から取り上げるまでの状況――によって成立した。
 この誕生するまでの過程において、肩の部分が狭い骨盤出口を通るために「胎児が90度転回して母体の左または右を向く」、この「90度の回転する」動きが[倭]の字源となった。
 古代では、狭い骨盤出口を通れずに死産する胎児が多かった。その時の母親は「天に胎児の生死の運命を委(ゆだ)ねる心境」であったのである。この心境こそ、[委]と[倭]の字源を示すものであった。

 卑弥呼が生存した3世紀、倭の使節は大海を越えて帯方郡政庁、魏の都の洛陽(らくよう)へ到着し、帰路にも大海を渡って家族が待つ家に帰った。この大海の往来は天頂にめぐってくるいくつかの星、そして主に「長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきたとき、精密な天頂緯度測定をおこなってなされていた。
 21回前の〔8〕で指摘したように、竜安寺の石庭は――精密な天頂緯度測定するときには「無」「無我」「無心」、あるいは「成り切る」「死に切る」の心構えを有して、天に生死の運命を委ねていた――と、今日に伝える。
 「文字」の[字]の字源は――子午線経過する[天]の字源の「十字の銀河」を〔90度〕転回させて[宀(べん)]の字源にし、[子]の字源「鬼の横顔に似る銀河」を「天頂緯度測定する人」に見立て――[宀]の下に[子]を加えて[字]となり、成立するものであった。
 ゆえに、[字]の字源・字形・字義には「天(天頂緯度測定)に生死を委ねる」という秘密があり、また「天命に生死を委ねて無心に産道をくぐりぬける胎児(子)」という秘密を有するものであったのである。
 だから、このような事情から、[倭]の字源は「天体の運行が東から南に進むように、方位規定を90度転回して〔東〕を〔南〕にする方位の転位」をあらわすものとなった。
 『魏志倭人伝』は[倭]の字源に合致して「東に伸びる日本列島が南に伸びる」と記述する。だから、卑弥呼が統治した国家の名は「倭」となった。

 左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』にて詳細に解説したように――中国沿岸地域の北部の北京・天津(てんちん)の気候は冷たく、南の呉の会稽(かいけい)の気候は暖かい。これに対し、日本列島の北緯34度15分の西の沖ノ島の気候は冷たく、同じ北緯34度15分の東の伊豆諸島の神津島(こうづしま)の気候は冬でも雪が降らず暖かい。
 そして、中国の北京・会稽の道里(距離)と日本列島の沖ノ島・神津島の距離はほぼ同じぐらいである。
 ゆえに、卑弥呼は中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕の気候が合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕の気候が合致する。そうすると中国の〔北〕と日本列島の〔西〕が〔冷〕で共通し、中国の〔南〕と日本列島の〔東〕が〔暖〕で共通する――この状況にもとづき、卑弥呼は中国大陸の南北の方向に日本列島の東西が伸びると立論した。
 この卑弥呼が立論した日本列島転回像論は小国の王たちや氏族の首長や夏音文字の学芸に精通する巫女や神官たちに、真実であると賛同された。この日本列島転回像論は、卑弥呼こそが夏音文字の学芸の最高権威者であると証明するものとなった。だから、当時の大王は夏音文字の最高権威者が選ばれるものであったゆえ、卑弥呼は女王に就任することになったのである。
 卑弥呼が立論した転回日本列島像論は[倭]の字源を示すものであったから、卑弥呼が統治する国の名は「倭」となった。
 卑弥呼が立論した日本列島転回地理は、朝廷は738年まで制定していた。

 竜安寺の石庭の第3群の横三尊の石組の母体の〔股〕から生まれる〔胎児の頭〕をあらわす空間は西を向く。この横三尊の西を天体の運行方向に合致させて北(濡れ縁や方丈がある北)に90度転回すると想定すると、[倭]の字源が成立する。
 つまり、横三尊の西を北に向けると、東の大石は南(油土塀がある南)に向くからである。
 だから、この〔東が南になる90度の転回〕は『魏志倭人伝』に「東に伸びる日本列島が南に伸びる」と記述される日本列島転回地理に合致する。
 横三尊の石組には、「倭」の字源を示す役割りがあった。
 また、5群の石組が配置される平庭は正方形が二つならぶ「長方形の暗黒天体部」を設計するものであるが、卑弥呼時代に「長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきた時の南北に長い形にしないで、[倭]の字源にもとずいて90度転回する東西に長い形(南北10m・東西20m)に設計した。
 このように、竜安寺の石庭は[倭]の字源を基調にして設計される。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記述される転回日本列島地理は卑弥呼が立論した地理であり、国名「倭」は[倭]の字源を表示するものであったのである。

 以上のように、〈メス〉と発音する「生む」を意味する決定詞と、「キツネの皮の3枚を結びつけた魔除け」と「折りたたんだ布」の2字の表音文字の計3字のヒエログリフは[倭]の字源をあらわすものとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月29日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・28

 今回もまた前回〔27〕と同じ、ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の32頁の「大熊座」と29頁の「ピラミッド」という言葉をあらわす字源や語源について解説することにする。
 今回は、前回の順序を逆にして「ピラミッド」を前に、「大熊座」を後に取り上げて解説する。

 「語(言葉)をあらわす意味がわかる絵文字」、この表意文字を「決定詞」と称する。
 発音に用いられる文字は、①単子音字(いわゆるアルファベット)、②2子音字、③3子音字、④音声補語などがある。
 これらの「発音に用いる文字」を、これからの解説では「表音文字」と一括して呼ぶことにする。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫著『図説 古代エジプト文字入門』の29頁に記載される「ピラミッド」の決定詞は、右下の②「三角形」の「ピラミッド」を意味する文字である。
 〈ベネベネト〉すなわち〈bnbnt〉と発音する表音文字は③「片足」・④「さざ波」と⑤「片足」・⑥「さざ波」である。
 つまり、③「片足」の〈b〉、④「さざ波」の〈n〉、⑤「片足」の〈b〉、⑥「さざ波」の〈n〉、「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある①「半円形」の〈t〉で〈bnbnt(ベネベネト)〉となる。
 この〈bnbnt〉の最後の〈t〉となる①「半円形」・〈トゥ〉と発音する文字は、タ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
 このタ行をあらわす基本アルファベットの表音文字の①「半円形」は、決定詞的な役割を有していることになる――というのも、前回に指摘したように、①「半円形」の字形は「春分・夏至・秋分・冬至の日の地平線上に昇る太陽」を図案するものであり、この文字の字源は「二分二至の朝日」であるからである。
 そして、5回前の〔22〕で指摘したように、3大ピラミッドとその複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスは「二分二至」を表示する建造物であった。
 だから、②「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある「二分二至の朝日」が字源である①「半円形」の文字は、決定詞を補う役割があることになる。

 上記したように、表音文字には④「音声補語」と分類される文字がある。ということは、決定詞の②「ピラミッド」の真上にある①「半円形」の文字は”決定詞補語”の役割を有するものであったことになる。
 首都であったメンフィスはナイル川の西岸に立地する。このメンフィスの東を流れるナイル川はギザのピラミッドにつながる下流ではない。ギザのピラミッドの東を流れるナイル川は本流であり、メンフィスの東に流れるナイル川は本流から分かれた西方の大地を流れる支流である。したがって、ギザのピラミッドの東を流れるナイル川はメンフィスの朝日が昇る東方に所在する。だから、決定詞の②「ピラミッド」の上に「二分二至の朝日」が字源となる決定詞補語を配置されたのである。

 メンフィスからギザのピラミドに到着するには、ナイル川の支流の西岸から東岸へと渡らなければならない。ゆえに、表音文字の〈ベネ(bn)〉の③「片足」と④「さざ波」の2字は「川を渡る」をあらわし、表音文字の〈ベネ(bn)〉の⑤「片足」と⑥「さざ波」は「ナイル川の本流の西岸を北に向かって歩く(とピラミッドに到着する)」をあらわすものとなる。
 表音文字〈ト(t)〉にして決定詞補語の①「半円形」の太陽は「ピラミッドは二分二至に地平線から昇る朝日を祭る建造物」であると示すものとなる。
 以上のように、表音文字にも「ピラミッド」という語の意味をあらわす役目がある。

 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の116頁は、「決定詞」を「表語文字」という名で呼んで、ヒエログリフの文字について下記のごとく指摘する。
 「ヒエログリフは表音文字と表語文字が併用されるシステムで、文字の多くが、文脈によって表音文字にも表語文字にもなる。つまり、表音文字と表語文字の境がはっきりせず、固定的でない。ヒエログリフは明確な区別を維持できない文字なのだ。」
 この「ヒエログリフの表音文字と表語文字(決定詞)の境がはっきりせず、固定的でない」という特性は、上記の「ピラミッド」という語に使われる文字でも示される。

 ステフェヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』の32頁の、〈ヘペシュ(hps)〉と発音する6字で「大熊座」という語の語源の秘密に、話題を変える。
 この「大熊座」の決定詞は①「神」の絵文字である。
 〈ヘパシュ(hps)〉と発音する表音文字は②「疾走するライオンの足」、③「7等分した縦長の長方形」、④「胎盤」、⑤「周囲が傾斜した池」、⑥「星」である。
 この6字で構成する言葉の決定詞を、『図説 古代エジプト文字入門』は「大熊座」と指摘する。
 しかし、③「7等分した縦長の長方形」からして、決定詞は「北斗七星」をあらわすものであったにちがいない。もっとも、北斗七星は大熊座の一部であるが、決定詞は「北斗七星」であったと考えられる。
 また、表音文字⑥「星」は「北斗七星」の7星中の一つの星を「神」と崇拝すると示すものであると考えられる。だから、決定詞①「神」は〔北斗七星の7星中の一つ星〕を「神」とするものであると考えられる。

 決定詞を「北斗七星の中の一つの星」と定めると、⑥「星」の文字は「大熊座の星たち」をあらわすものではなく、決定詞①「神」の意味に合致する、別の神聖な星をあらわしていることになる。
 ⑥「星」の文字の上は②「疾走するライオン(獅子)の片足」を図案化した文字である。
 6回前の〔22〕で指摘したように――ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、「獅子座のγ(ガンマ)星」(光度2.3等の美しい重星)は首都メンフィスの(北緯29度59分)の天頂にめぐってきた。また、「ぎょしゃ座のβ(ベータ)星」(光度2.1等の準巨星)もメンフィスの天頂を通過した。
 3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、春分の日の午前2時になる「ヘルクレス座のα(アルファ)星・ラスアルゲチ」が、3大ピラミッドと大スイフィンクスの天頂(北緯30度)の天頂で輝いた。このヘラクレス座α星・ラスアルゲチは美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星からなる。また、「ペルセウス座のγ星」も、ギザの天頂を通過した。
 これら4つの星は首都メンフィスとギザの3大ピラミッドの位置(緯度)を示す目印(めじるし)となり、メンフィスを離れ、ギザより遠い地に旅した人々が家に帰ることができる、命をまもる“守護星”となった。ゆえに、これら4つの星は神聖な星となって重視されたにちがいない。

 首都メンフィスの天頂を通過した「獅子座のγ星」は、獅子座の〔たて髪〕の箇所に位置する。
 前回〔27〕にて、〔獅子座のξ(クサイ)、ο(オミクロン)、α(アルファ)、η(エータ)の4星〕は[獅子座の前足]になるので、②「疾走するライオンの足」の字源になったと指摘した。
 獅子座の首からたて髪にかけてのα、η、γ、ζ(ゼータ)、μ(ミュー)、ε(エプシロン)の6星は西洋鎌の形となる。このため、この6星は“獅子の鎌”と呼ばれる。
 この“獅子の鎌”の星座の形は、カップと柄(え)からなる北斗七星の形に類似する。
 5000年前の第1王朝のナルメル王の時代、獅子座のγ星はギザの天頂にめぐってきた。
 3大ピラミッドが建造された4500年前当時、獅子座のγ星より40分北側、つまりγ星とζ星の中間のγ星に近い箇所が、ギザの天頂となった。
 5000年前の第1王朝時代、そして3大ピラミッドが建造された第4王朝時代、北斗七星に類似する“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップがともに子午線経過(上経過)した。
 3000年前の第3中間期の第21王朝時代においても、“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップが子午線通過した。
 獅子座のγ星とζ星付近の“獅子の鎌”の中に輻射点(ふくしゃてん)を有する流星群を“獅子座流星群”と称する。
 この“獅子座流星群”は、今日の暦において、11月14日から19日にかけて出現する。それゆえ、“11月流星群”とも呼ばれる。この“獅子座流星群”は約33年目ごとに、いちじるしい流星雨の現象をあらわすことが観測されている。
 3大ピラミッドが建造された4500年前、北斗七星のカップが子午線通過し、“獅子座流星群”が子午線通過するのは、今日の暦の11月14日の午前1時間ごろ、11月19日の午前0時40分ころであった――この時、“獅子座流星群”は3大ピラミッドの天頂点から約3度の北側(高度87度)から発射され、その流星雨は真下のピラミッドに向かって降ってきた。
 だから、⑥「星」の字源は「大熊座の星たち」ではない。
 ⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――メンフィスとギザのピラミッドの天頂で輝いた4つの星「獅子座のγ星、ぎょしゃ座β星、ヘルクレス座α星、ペルセウス座γ星」の守護星のごとく神聖にして重大な星であると示す。
 また⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――ピラミッドが作られた当時、天頂点付近にめぐってきた“獅子座流星群”の輻射点との関連がある星であったと示す。
 〔歳差(さいさ)〕という現象によって、3000年前から「獅子の鎌」が子午線通過する時に北斗七星のカップが子午線通過しなくなった。
 しかし、この〔歳差〕の影響もなく、4500年前の3大ピラミッドが建造された第4王朝時代と3000年前の第21王朝時代の「獅子の鎌」の緯度はほとんど同じであった。だから、第4王朝時代から第21王朝時代まで、“獅子座流星群”の輻射点が3大ピラミッドから3度北側を子午線通過する時、北斗七星のカップも子午線通過していた。

 ⑥「星」の真上に、前回〔27〕で解明した②「疾走する獅子・ライオンの片足」が配置される。
 この②「疾走する獅子の片足」の文字は「獅子座流星群(の輻射点)」をあらわすものであると考えられる。
 というのも、鈴木俊太郎著『星の事典』(恒星社厚生閣)の159頁は“獅子座流星群”の「流星の速度は速やかな条痕(じょうこん)を残すのが特徴である」と記述するからである。
 この流星のイメージから〔全力疾走する獅子の足〕を連想された。
 ゆえに、⑥の「星」の文字の上に、「獅子座流星群」のイメ-ジを示す②「疾走する獅子の片足」を図案する文字が配置されたのである。 

 7回前〔21〕にて指摘したように、ギザの3大ピラミッドが建造された今から約4500年前、〈ラー〉と発音する「太陽」を意味する文字[◎]の字源・字形となる「白鳥座γ星」が子午線経過する時、エジプト暦の元日となる夏至の午前零時となった。
 当時の「白鳥座γ星」の緯度は赤緯(せきい)プラス34度である。ゆえに、白鳥座γ星はギザの3大ピラミッドから4度北側を子午線経過した。ということは、獅子座流星群の輻射点は3度北側(すなわち赤緯プラス33度)を子午線経過するものであったので、白鳥座γ星と獅子座流星群の輻射点はほぼ同じ高度であったことになる。
  前回で解明したように、「北斗七星」という語に使われる④「胎盤」をあらわす文字の字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 今から4500年前の第4王朝時代、「北アメリカ星雲の北部」の赤緯はプラス33度ぐらいであったので、「北アメリカ星雲の北部」が子午線経過する時の高度は獅子座流星群の輻射点とほとんど同じであったことになる。
 第4王朝時代、「長方形の暗黒天体部の北の辺」も獅子座流星群の輻射点とほぼ同じ赤緯プラス32度を子午線経過した。
 当時、北アメリカ星雲が子午線経過する時、北斗七星の第5星の7星中最も光が強いε星が子午線のすぐ横に位置し、もうすぐ子午線上に乗ろうとしていた。「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。

 ①「神」という語に使われる表音文字は②「疾走する獅子の片足」の左隣に③「7等分した縦長の長方形」、この③の文字の左隣に④「胎盤」、③・④の下に⑤「周囲が傾斜した池」が配置される。
 ②「疾走する獅子の片足」の隣に③「7等分した縦長の長方形」に配置したのは――④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が子午線経過し、次に⑤「周囲が傾斜した池」の字源「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過する、北斗七星のε星が子午線の直ぐ東に迫って子午線上に乗る――この「わずか10分間」を表現するためのレイアウトであると考えられる。
 ③「7等分した縦長の長方形」の〔7等分〕は「7つの星」をあらわして「北斗七星」を示すものとなる。
 この③「7等分した縦長の長方形」の左隣に④「胎盤」の文字が配置される。
 ④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔渦を巻く円形〕である。北斗七星は天の北極を中心にして日周(にっしゅう)運動する。この〔北斗七星の日周運動する軌道〕と〔渦を巻く円形〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は相似する。
 だから、「北斗七星」が字源である③「7等分した縦長の長方形」は、渦を巻く円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が字源となる④「胎盤」の文字の右隣に配置されたのである。

 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は字源の「長方形の暗黒天体部」に相似せず、長いほうの2辺が長すぎる。
 この⑤の文字の上の右側に配置される③「7等分した縦長の長方形」は子午線通過する時の「長方形の暗黒天体部」の形にほぼ近いが、少し縦に寸足らずである。
 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は、「池」を意味する〈シュ(sh)〉と発音する文字を基本字とする異体字(いたいじ)である。ゆえに、⑤「周囲が傾斜した池」の字形は「池」をあらわす文字の字形をそのまま受け継いだので、正方形が二つ合体する「長方形の暗黒天体部」の形に相似しないことになった。
 そこで、③「7等分した縦長の長方形」を少し寸足らずにして、③と⑤の文字の〔長方形の中間の形〕が「長方形の暗黒天体部」の形であると示したのである。

 ③「7等分した縦長の長方形」から7つの星で構成される「北斗七星」と示され、②「疾走する獅子の片足」は〔獅子座流星群〕の形状から「わずかの時間」が連想される。
 そして、⑥「星」は複数でなっく一つであるゆえ、「北斗七星」のうちの「一つの星」をあらわすものであるにちがいない
 これゆえ、ステファヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』は、〈ヘベシュ(hps)〉と発音する決定詞①「神」は「大熊座」であると指摘するが、「北斗七星の7星中の一つの星」だけが「神」であると示していると考えるべきことになる。

 上に大きく赤字で示したように――ギザの3大ピラミッドが建造された当時、④「胎盤」の字源となる「北アメリカ星雲」が子午線経過する時、北斗七星の第5星のε星が子午線のすぐ横に接近していた。〔北斗七星のカップ〕をあらわす⑤「周囲が傾斜した池」の字源となる「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。
 ゆえに、この〔わずか10分〕は②「疾走する獅子の片足」であらわされた。
 だから、②「疾走する獅子の片足」の下に配置される⑥の「星」があらわす〔北斗七星の7星中の「神」と崇拝された星〕は「ε星」となる。
 よって、決定詞①「神」は「北斗七星のε星」となり、「大熊座」でもなく「北斗七星」でもないことになる。

 決定詞「北斗七星の神」には、顎鬚(あごひげ)がつく。
 「鬼の姿に似る銀河」の顔には顎鬚がある。この顎鬚は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する。(この連結部分は、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」となる)。
 「北斗七星のカップ」と「長方形の暗黒天体部」は⑤「周囲が傾斜した池」の文字で表示された。
 ゆえに、「北斗七星のカップ」を「長方形の暗黒天体部」に見立てると、「北斗七星のカップ」に連結する「ε星」は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する「顎鬚」の形状に合致する。
 だから、①の決定詞の「神」は「北斗七星のε星」をあらわすものであったのである。
 なお、現在のギザの大スフィンクスには顎鬚がついていたが、現在は付いていない。しかし、スフィンクスの聖なる顎鬚はカイロのエジプト博物館に所蔵されている。

 ギザの3大ピラミッドが建造された当時(4500年前)、北斗七星で最も光が強い光度1.8等のε星が、夏至点と天の北極を結ぶ子午線を擦(こす)るように東に位置した。
 これゆえ、当時の春分の日の午前零時にはε星は天の北極の西に位置し、夏至の午前零時にはε星は天の北極の北に位置し、秋分の日の午前零時にはε星は天の北極の東に位置し、当時の日の午前零時にはε星は天の北極の南に位置した。
 また、ε星は昼夜の長さが同じ春分の日の夕刻・午後6時には天の北極の南に位置し、昼の長さが最も短い夏至の日の1ヵ月前の夜の午後8字には天の北極の西に位置し、昼夜の長さが同じ秋分の日の夕刻・午後6時には天の北極の北に位置し、昼の長さが最も長い冬至の日の太陽が地平線に沈んだ時(午後4時)から2時間経過した午後6時には天の北極の東に位置した。当時から1ヵ月後には、太陽が地平線に没する午後4時頃に、天の北極の東に位置した。
 だから、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は「顎鬚が生える神」となったのである。
 6回前〔22〕にて解明したように、3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を象徴する建造物であり、ピラミッドの複合体である大スフィンクス、葬祭殿、参道、河岸神殿は「春分点・秋分点」を象徴する建造物であった。
 ゆえに、葬祭殿・参道・河岸神殿は「神」を祀る建造物であることが明確に示されるゆえ、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は①の決定詞の「神」であったのである。

 ギザの3大ピラミッドが建造された今から4500年前は、前回〔27〕で指摘した中国の五帝時代の4番目の帝である堯(ぎょう)の時代であった。
 司馬遷著『史記』五帝本紀には、春分、夏至、秋分、冬至の日の夕刻の星空の様子が記述される。この記事における「北斗七星のε星」の名は「鳥」である。
 『史記』五帝本紀は「益(益氏の首長)は帝堯の時代から挙用(きょよう)されていた」と記述する。
 『史記』五帝本紀は、次の帝舜(しゅん)の時代に「益は虞(ぐ)という重職に任命された」と記す。この「虞」という官職は「山林川沢をつかさどる官」とされるが〔川や沢が集まる中国の海岸線地域の地図を作成する官〕であったと考えられる。
 『史記』夏本紀は、「益は夏の始祖・帝禹(う)を継ぐ帝となった」と書く
 『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜の時代に、功徳をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と説明する記事がある。
 このように、中国古代史から益氏が忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏の子孫が小舟を漕いで大海を越えて日本列島に定住したからである。
 
 今から4050年前、益の子孫である帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹の遺志である氏族共同体制の継続を日本列島で実現するため、大海を越えて日本列島に移住した。
 ゆえに、秋田県鹿角(かづの)市に夏代初頭の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が作成されて現存することになり、この万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。
 かくして、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載され、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などに明確に残る夏音文字の学芸が伝来し、現在まで失われずに残ったのである。

 前々回〔26〕で指摘したように、大湯環状列石の野中堂遺跡の特殊組石「日時計組石」は北斗七星の「鳥」の星を日周運動を利用して午前零時を計測する時計装置であり、この時計装置で天球上において太陽が1年間に通過する〔黄道(こうどう)〕を観測していた。
 大湯環状列石が作製された約4000年前頃、獅子座流星群の輻射点が子午線経過してから2時間後に、北斗七星の「鳥」の星(ε星)が子午線経過した。
 現在は、獅子座流星群の輻射点が子午線経過して2時間35分ぐらい後に、北斗七星の「鳥」の星が子午線経過する。
 野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の「鳥」の星を用いて黄道を観測する装置であった。ゆえに、北斗七星の「鳥」が子午線経過する約2時間前(古代では、「2時間」を「一刻」と称した)に子午線通過する獅子座流星群の輻射点を、古代の天皇は注目していたのである。
 鈴木俊太郎著『星の事典』の159頁~160頁にかけての獅子座流星群に関する記事は、下記のごとくである。
 「この流星群の記録はわが国の古書にも多く、醍醐天皇の延喜二年(902)にはじまり、村上天皇の康保四年(967)がこれに次ぐ。この流星群の日本における記録が諸外国に比べて豊富であることは注目に値する。」

 以上のごとく、わが国とエジプトの古代史には、〔精密に緯度が測定できる天頂緯度測定〕を基軸にした天文学と【銀河各部の形状】を【文字】の字源とした学芸を、王朝の政権基盤にして厳重な機密としたという共通点がある。
 ゆえに、わが国の特別史跡の大湯環状列石、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などを調査すれば、エジプトのヒエログリフの字源の秘密の全貌が科学的に解明できるようになっている。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧