G-T0XYQT12LL ワディ・エル・ホル文字: 卑弥呼の逆襲

ワディ・エル・ホル文字

2015年5月16日 (土)

古代エジプト文字の字源・2

 「卑弥呼」の地上絵は朝廷に反逆する遺跡であった

◆わがブログ「日本が滅びる」でくりかえして解説・証明したように――『魏志』倭人伝末部に「13歳で王となった壱与(いよ)」と記された乙女は、『魏志』倭人伝に列記された小国・伊邪(=伊耶╱いや)国つまり旧国丹波の出身者であった。ゆえに、夏音名で「壱与」と呼ばれた女王を人民は「伊耶国の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称した。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
 13歳の伊耶那美命は伊耶那岐命(『魏志』倭人伝の「載斯烏越╱そしあお」)と結婚して、卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本(現在の東海・関東地方)の女王に就任して、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 この小国・日本の国作りの柱を、私は【日本建国の〔愛〕の理念】と呼ぶことにした。

 『魏志』倭人伝の末部は「卑弥呼の墓を作る時、百余人の奴婢(ぬひ╱18歳くらいの若者と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。このため、卑弥呼の後を継ぐ男王に服従しない反乱が起きて、倭政府は千余人の反乱者たちを殺した。当時、卑弥呼と素(もと)より和せない狗奴(くな)国という敵国が存在したので、徇葬を憎悪する人民の反乱は倭国が滅亡しかねない深刻な危機的状況を示すものとなった。そこで、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命を倭国に帰還させて倭女王に就任させると、反乱者たちは伊耶那美命が倭女王に就任したならば徇葬は必ず禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので遂に国中が安定した」と記述する。
 この記事が伝えるように、伊耶那美命・壱与が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は強大な倭の国家権力よりも優るほどに強大な力を示すことになった。

◆伊耶那美命は倭女王に就任してから間もなくして死去した。
 伊耶那美命の後を継ぐ倭女王に、伊耶那岐命の第二后である伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が就任した。
 伊迦賀色許売命と伊耶那岐命の父の第8代孝元天皇の間に生まれた皇子が、第10代崇神(すじん)天皇である。したがって、伊耶那岐命の養子となった崇神天皇は伊耶那岐命の異母弟であった。
 崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は「天照大御神」という異名で呼ばれた。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は、下記のごとく【日本建国の〔愛〕の理念】をめぐって倭女王の天照大御神・伊迦賀色許売命と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命の夫婦が対立した歴史があったと伝える。
――国家権力こそが最も勝るべきであると考える倭女王に即位した天照大御神は、国家権力よりも勝ると示された伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。それゆえ天照大御神は、伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬を決行して、A図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の墓を築造する事業を陣頭指揮した。

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 伊耶那美命を愛する小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む勇士たちの協力を得て、伊耶那美命の墓から棺を奪うクーデターを決行して成功させた。
 B図に示す現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の千引石(ちびきのいわ)は、現在は“ごとびき岩”と呼ばれる。この千引石の前(現在の神倉神社の社殿が建つ場所)で、伊耶那岐命は『古事記』に「伊耶那美命」と表記された天照大御神に離縁を言い渡した。

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 クーデターで倭女王から失脚された怨みと離縁を告げられた屈辱で激怒する天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ╱人民)、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」つまり「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなれと呪(のろ)って必ず一日千人ずつの胎児の頭を絞め殺す」と誓った。この呪いの詞(ことば)は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を一日に必ず千人ずつ祟(たた)り殺す」と意味するものでもあった。
 天照大御神を倭女王から失脚させて天下を奪った伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と言って、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)を継承すると誓った――というのが、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の大要である。

◆『古事記』が成立した712年当時の朝廷は、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起になり、天照大御神を皇祖と崇拝してその聖性を汚すことを厳重に禁止していた。ところが、編纂スタッフは『古事記』上巻の作成目的を【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることと定めて朝廷から正史の認可を得ようと企んだ。これゆえ朝廷が喜ぶように編纂スタッフは敬愛する伊耶那美命を侮辱するかのごとく見せかけて、残酷な徇葬を決行した「天照大御神」の名を「伊耶那美命」に「神」の1字を加えて「伊耶那美命」と表記した。編纂スタッフは、〔事実に反する方法で事実をあらわす、反実仮装(はんじつかそう)〕という表現方法で、真実の歴史を伝えようと企んだのである。だから、前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、太安万侶(おおのやすまろ)は「陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文を『古事記』序の初頭に配置した。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命がすべての生みの親となった」と意味する。したがって、安万侶は「伊耶那美命は、亡くなった伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神である」と前もって『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けられた〔反実仮装〕の仕掛けに注意するように告げていたことになる。
 『古事記』の序は世にも珍しく「上巻 併せて序」と表記される。ゆえに、三巻で構成される『古事記』の序は、中巻・下巻の序ではない。『古事記』の序は、上巻だけの序である。ということは、(1)『古事記』序を「上巻 併せて序」とした秘密と(2)『古事記』序の初頭に「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」と伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える文を配置した秘密は、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けた「天照大御神を伊耶那美命」と記した〔反実仮装〕にもとづくものであったことになる。

◆ 千引石(ごとびき岩)の前で離縁された「伊耶那美命」は「天照大御神・伊迦賀色許売命」である事実を現在に伝えて、伊耶那岐命が天照大御神に離縁を言い渡した千引石の前の空洞に社殿が建造された神倉神社の主祭神は「天照大御神」である。
 伊耶那美命は西暦250年ころに没したのであるまいか。したがって、伊耶那岐命・開化天皇は決行したクーデターは250年ころであったであろう。開化天皇は260年以前の、多分255年ころに崩御したと考えられる。
 開化天皇の死後、伊迦賀色許売命と崇神天皇の天照大御神母子王朝は、B図の千引石の前で「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ殺す」と誓った通りの政事(まつりごと)をおこなって人民を苦しめた。
 このため、五人の王たちは天照大御神王朝を倒すクーデターを計画したが、このクーデター計画は失敗した。このクーデター計画に参加した一員であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、【日本国の〔愛〕の理念】を後世に正確に伝えるために必要不可欠な〔夏音文字の学芸〕を保存するC図に示す「卑弥呼」の地上絵を作成した。

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(C) 2015 OHKAWA


 C図の「卑弥呼」の地上絵は、すべての漢字は下に掲載する文字作成銀河(天体写真家 藤井旭氏 撮影)から作られた事実を今日に伝える遺跡である。さらに、「卑弥呼」の地上絵は紀元前3100年頃に完成した形で突然に出現したヒエログリフもまた文字作成銀河から作られた事実が科学的に証明できる奇跡の遺跡である。

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◆黄泉国・熊野におけるクーデターに成功した伊耶那岐命は、後の第9代開化天皇であった。
 前述したように千引石の前で伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神は、崇神天皇の伯母()の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の戸籍と名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。ゆえに、『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は天皇の姑(おば)である」と記す。
 『魏志』倭人伝末部の卑弥呼の後を継いで徇葬を行った倭の男王は、開化天皇・伊耶那岐命の祖父の第7代孝霊天皇であったにちがいない。開化天皇と崇神天皇の父の孝元天皇は、卑弥呼の死より以前に亡くなっていたゆえ、孝霊天皇が倭の大王に就任した。卑弥呼の墓を百余人の奴婢を埋める徇葬を指揮した巫女は、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命であったと推定される。この徇葬によって国中の人民が反乱した。ゆえに、反乱の責任を取らされて倭迹迹日百襲姫命は死を求められて命を失ったのであろう。したがって、亡き倭迹迹日百襲姫命の無念を受け継ぐとともに息子の崇神天皇のクーデターによって開化天皇から天下を奪い返すという復讐の念を露骨にあらわして、天照大御神・伊迦賀色許売命は「倭迹迹日百襲姫命」という名を襲名したと考えられる。
 これゆえ、開化天皇のクーデターを怨(うら)み骨髄(こつずい)に徹(てっ)する天照大御神母子のクーデターはクーデターで報復するという憎しみを絶つために、『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕に記述されているように――D図に示すがごとく、開化天皇は崇神天皇・天照大御神に高天原(たかまのはら)を、開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)と結婚して生まれた月読命(つくよみのみこと)・日子坐王(ひこいますのみこ)に夜之食国(よるのおすくに)である小国・日本を、伊耶那美命が生んだ須佐之男命に北九州から卑弥呼が居住した山陰出雲地方の邪馬壱(やまい)国やさらに裸()国・富山県までに至る海原(うなはら)を分割して治めるように定めた。
 この三貴子の分治によって、開化天皇の後を継ぐ大王(天皇)は伊耶那美命が生んだ須佐之男命ではなく、天照大御神が生んだ皇子(後の崇神天皇)と定めて天照大御神母子がクーデターをおこなう必要がないように対処したのである。

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(C) 2015 OHKAWA


◆『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸墓(はしはか)に葬られた」と記す。伊耶那岐命・開化天皇の死後に没した天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は、“初期大和政権の発祥の地”と指摘される奈良県桜井市に所在する。天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は最古かつ最大の全長280メートルの前方後円墳である。
 開化天皇は天照大御神・倭迹迹日百襲姫命より以前に死去した。開化天皇を憎悪する天照大御神母子は、天下を譲られた恩に報いず逆に復讐して開化天皇陵を築造しなかった。ゆえに、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵は3世紀後半に築造されていない。その墳丘規模からして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。開化天皇陵は、全長105メートルの箸墓古墳の半分以下の、天照大御神母子の憎しみを今に伝える古墳である。
 天照大御神母子は、上記した千引石の前の「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ祟り殺す」という誓いの通りに、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し抹殺に努力する政策をおこなった。
 それゆえ、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼()きいさち説話〕は――天照大御神母子王朝を倒して熊野に須佐之男命王朝を樹立せんとするクーデターが計画された。しかし、この不穏な気配に気づいた死が迫った開化天皇は須佐之男命を呼びつけて「クーデターを絶対に決行してはならぬ。お前の母が提唱した〔愛〕の理念の基に多くの子どもが生まれ多くの農作物の実りを最優先する〔多賀(たが)〕に努めよと遺言して没した――と伝える。
 『古事記』上巻の〔国生み説話〕は――伊耶那美命と伊耶那岐命は二度目の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚儀式をおこなった。この時、倭女王伊耶那美命は伊予国の祭神名を「愛比売(えひめ)」と定め、現在の四国を〔愛〕をあらわす「伊予」と冠する「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と国生みして(名づけて)、【日本建国の〔愛〕の理念を最も重んじる政策を実行すると表明した――と記述する。この〔国生み説話〕では「伊予国の祭神の名を【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす愛比売、讃岐国の祭神の名を〔豊かな飯(食物)の霊が憑依(ひょうい)する〕とあらわす飯依比古(いいよりひこ)、〔穀物の総称〕である[]を国名とする粟国の祭神の名を〔豊かな実りをもたらす農地〕をあらわす大宜都比売(おおげつひめ)、土左国の祭神の名を〔健康な子どもが多数生まれる霊が憑依する〕とあらわす建依別(たけよりわけ)と定めた」と記す。ゆえに、伊予国と土左国の祭神名は「【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって多くの健やかな子が生まれる」とあらわすものとなり、讃岐国と粟(阿波)国の祭神名は「多くの農作物の実り」を示すことになった。わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、[]の字について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに開化天皇の遺言となった「多賀」という語は〔国生み説話〕における四国の祭神名に適合して「多くの子どもが生まれ、多くの農作物・食べ物に恵まれる」と意味するものであった。
 したがって、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼きいさち説話〕末部の「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐()すなり」という文は――死が迫った開化天皇は須佐之男命に、「お前の母が伊予二名島(四国)の国生みにおける小国名と祭神名であらわした『【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて多くの子どもが生まれ、多くの農作物に恵まれる』をあらわす『多賀』という名が憑依する淡海の地に、わが霊魂は坐すことにする。だから、お前は母の遺志(こころざし)である「多賀」をまもってクーデターをおこしてはならぬと遺言した――と意味するものであったことになる。

◆『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕は――【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して人民を苦しめる天照大御神母子王朝を倒すために、五人の王たちが熊野に須佐之男命王朝を創設するクーデターを計画した。しかし、父・開化天皇の「多賀」の遺言にしたがった須佐之男命は天照大御神・崇神天皇と不戦の誓約を結んだために、五人の王たちが計画したクーデターは失敗した。五人の王たちの一人は北九州の宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)であった。天の菩比命が率いる一派のメンバーは七人の建比良鳥命で構成されていた。この一人が、C図の「卑弥呼」の地上絵を作成した遠江国造の先祖の建比良鳥命であった――と記す。

◆前回のわがブログで指摘したようにC図の「卑弥呼」の地上絵は、ヒエログリフが出現してから約3350年後、倉頡が漢字を発明してから約3250年後、わが国に夏音文字が伝来してから約2300年後に、漢字とヒエログリフが上に掲載した文字作成銀河から作られたと科学的に明確に証明できる遺跡である。
 上記したように、『魏志』倭人伝が280年~289年に著作された時代(とき)を同じくして、「卑弥呼」の地上絵は遠江の豪族の建比良鳥命とその一族が“愛、あざやかに永遠であれ”と願って260年~290年ころに作成した。
 わがブログ「日本は滅びる」は1回~167回をもって、「卑弥呼」の地上絵によって『魏志』倭人伝のすべての記事は事実を伝えるものであることを科学的に明確に証明した。この結果、新井白石(16571725)から現在までの学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤は現実に絶対にありえない荒唐無稽(こうとうむけい)の空論で成り立つものであることが明らかとなった。
 邪馬台国説のごとく『魏志』倭人伝に加える〔すべての誤読〕を「文献批判」と名づける方法だと1万年たっても論争が決着しない。しかし、『魏志』倭人伝に加える〔すべての文献批判〕を「誤読」と名づければ直ちに人々は『魏志』倭人伝に忠実に読解すると【科学】という語が成立することに気づき、従来の邪馬台国説は荒唐無稽の誤読の空論であることが判明して邪馬台国論争は決着がつく。
 E図が示すように、ヒエログリフは現代ヨーロッパ文字、現代ペルシア文字、現代アラビア文字、現代ヘブライ文字、現代アムハラ文字のルーツとなる。現代ヨーロッパ文字はすなわちアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなどの世界の70ヵ国以上の公用語の文字として使われるABCアルファベットである。

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 したがって前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、世界中の7割~8割の人々が使う漢字とABCアルファベットが上に掲載した文字作成銀河から作られた事実が「卑弥呼」の地上絵とこの遺跡の複合体エリアの地宜によって明らかとなる。
 しかし、この事実は荒唐無稽の誤読の空論の邪馬台国説によって人類は失うことになる。

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2012年1月24日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・40

 『魏志倭人伝』の末部は「卑弥呼の墓を作る時、卑弥呼陵に奴婢(ぬひ)百余人を殺して埋める徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。この徇葬を倭の人民が憎悪して反乱となり、倭政府は千余人の反乱者を殺した」と説明する。

  このような卑弥呼の墓を作った時におこなわれた徇葬の数年後、壱与(いよ)・伊耶那美命(いざなみのみこと)が没した時にも、倭女王を継いだ天照大神によって残虐・野蛮な徇葬が決行された。
  このような倭王朝がおこなった徇葬への憎しみについて、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』と『新唐書(しんとうじょ)』は――702年に中国に渡った「倭」から「日本」への国号改変の承認を得る任務についた遣唐使が①「日本国は倭国の別種なり」、②「倭の名を悪(にく)み、改めて日本という名にした」、③「日本はもと小国、倭国の地を併(あわ)せた」と説明した――と記載する。

 紀元前3世紀に中国から大海を越えて日本列島に到着した徐福一行が定住した地は3世紀には「東鯷人(とうていじん)国」と呼ばれていたが、233~236年頃に卑弥呼が統治する大国の倭に服属した。
 この服属によって、東鯷人国は「日本」という国名になった。
 この小国・日本に倭の一員であった小国・伊耶(いや)国・丹波(たんば)すなわち現在の京都府中部と兵庫県の一部に住む壱与・竹野比売(たかのひめ)が女王として赴任した。
   壱与は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。日本の人民は壱与を「伊耶国からきた美しい女王」と讃(たた)えて敬愛して「伊耶那美命」と愛称した。
 また、伊耶那美命と結婚した日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・のちの第9代開化天皇を「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と愛称した。
 このように、日本は大国・倭に服属する小国であるから倭国から独立する別の国ではなかったのであるが――702年に中国に渡った遣唐使は倭は残虐な徇葬をおこなった雅(みやび)やかではない国、日本は〔愛〕の国と認識するものであったので、上記したように①「日本国は倭国の別種なり」、②「倭の名を憎み、日本という名に改めた」、そして小国の日本の軍王であった載斯烏越・伊耶那岐命・開化天皇が天照大神の徇葬に反逆する謀反(むほん)をおこして倭国を併合したので③「日本国はもと小国、倭国の地を併せた」と中国王朝に伝えたのである。
 この小国の軍王伊耶那岐命の謀反は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話に記述されている。この説話について、後半部にて解説する。

  このように日本国は伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念から始まる国であった。ゆえに、皇室が崇拝する皇祖・天照大神がおこなった徇葬を憎悪して、先人たちは日本建国の〔愛〕の理念は絶対に失うことはできないとまもりつづけた。このため、卑弥呼の陵墓を築造した時の徇葬への憎しみから始まった歴史は1490年後の1738年の大嘗会(だいじょうえ)の本格的な復興によって、天皇の王冠の意匠で日本建国の〔愛〕の理念は天皇の頭上高く差し上げられることになった。

  卑弥呼の墓に殺されて埋められた「奴」は「18歳ぐらいの青年」であり、「婢」は「13歳ぐらいの乙女」であった。この奴婢は卑弥呼の霊魂が天に昇り、再度この地上に命が蘇(よみが)えるためのお伴(とも)であった。この卑弥呼の霊魂の再生という儀式は、古代エジプトの死んだ王や王女の命を再生するために地下に莫大な費用をかけて作られた墓の風習に類似する。
  [還]と[環]の字の初義は「命が再生すること願って、死者の襟元(えりもと)に置く環形の玉」であった。[術]は十字路すなわち「東西の緯度測定と南北の子午線計測の呪霊(じゅれい) 」をあらわす字である。[道]は「天頂緯度測定と子午線計測を邪魔する呪霊を祓(はら)いながら目的地に向かって進む」をあらわす字である。
 ゆえに、昇天する卑弥呼の霊魂が途中で呪霊に邪魔(じゃま)されて消滅することなく昇天して命がこの世に再生できるように、[奴]の呪霊を排除する18歳ぐらいの屈強な若者たちの霊魂と、[婢の]呪霊の力を奪い位置と方角を精密にキャッチすることができる最も瞳が澄む年頃の13歳ぐらいの乙女たちの霊魂が、卑弥呼の霊魂に従うことになったのである。
  『後漢書』倭伝の末部の記事の中に、秦の始皇帝に蓬莱(ほうらい)の神仙の霊薬を探すように命令された徐福が「童男女数千人将(ひき)いて海に入る」という文がある。
 この文中にある「童男女」も「18歳ぐらいの青年と13歳ぐらいの乙女」を意味したと考えられる。というのも、[童]と[奴]と[婢]の3字の字源はともに「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」だからである。
 [童]の金文形には〔大きな目〕をあらわす部分は〔目〕や〔瞳〕に観える「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を図案するものであり、他の部分は「鬼の姿に似る銀河」に類似するように図案したものである。
  [奴]の[女]は「鬼の姿に似る銀河」を〔子宮に宿る胎児〕に見立てて「女性の子宮」をあらわし、[又]の字源は「青年」や「堅い地面を掘り起こすことができる強い腕や手の力」である。この[又]の字源は「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を〔堅い土でも掘り起こすことができる太い若者たちの手と腕〕に見立てて成立した。
  [婢]の[女]は[奴]と同じく「鬼の姿に似る銀河」で[女]をあらわし、[卑]の字源の中枢(ちゅうすう)部は[命]の上部[亼(しゅう)]の字源となる「鬼の姿に似る銀河の首につく細長い切れ長の目」であり、この「切れ長の目の銀河」は〔精密に天頂緯度と子午線(経度)がキャッチできる、13歳ぐらに最も澄んだ瞳を有する乙女の目〕をあらわすものとなる。

  『魏志倭人伝』の末部は――卑弥呼の墓を作った時に百余人の奴婢を殺す残虐な徇葬に憎悪する人民たちが武器を持って反乱を起こしたが、13歳で小国・日本の女王となった壱与・伊耶那美命は小国・日本で人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説く“愛の女王”であったので、彼女が倭女王に即位すると反乱は鎮(しず)まって倭国は平定された――と記述する。
  この伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話の末部の千引(ちびき)の石(いわ)の前で「(われ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と伊耶那岐命が宣誓した言葉で表示される。
  この伊耶那岐命の宣言は「亡き妻(伊耶那美命)の遺志を継ぎ、男女が愛し合って一日に千五百人の子が生まれる国作りを吾はおこなう」と誓うものであった。
  702年に「日本」への国号の改変の承認を得るために中国に渡った最下位の幹部は、万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)であった。この憶良は伊耶那美命に熱烈に憧れ、彼が作った大半の和歌は日本建国の〔愛〕の理念を詠むものである。憶良の代表作の『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」は、伊耶那岐命の千引の石の前の誓った宣言、いいかえると日本建国の〔愛〕の理念を詠むものである。

  『魏志倭人伝』末部に記載される徇葬を憎悪した反乱者たちは壱与・伊耶那美命を敬愛した。この壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、1690年後の1738年において天皇の王冠の下の菅笠(すげかさ)で表現され、絶対に失ってはいけない、強大な権力がなんとしても消滅しようとしたが消滅できなかった日本人の〔命のみなもと〕となる、強大な権力よりも黄金や宝石よりも大事な最高に勝れる理想となって日本古代史における〔花咲く魂〕となった。

  前回で解説したように、702年に持統(じとう)上皇が決意した「倭」から「日本」への国号の改変は「天照大神によって日本国が誕生した」という偽の歴史を人民に植えつけ、さらにこの偽の歴史を後世の学者たちに信じさせる、これを目的とするものであった。この上皇の偽の歴史を確立せんとする指令は、中国の正史『新唐書』日本伝に記載される遣唐使が述べた「後稍(のちやや)夏音を習う」という言葉で知ることができる。
  この遣唐使の「後稍夏音を習う」という言葉には、下記のような複雑な事情があった。
  672年の壬申の乱の9年後の681年、『古事記』の序に記載されるように、天武天皇は「諸家で所蔵する帝紀(歴代天皇の皇位継承の次第を記録した文書史料)と旧辞(上古の夏音文字で書いた歴史を記録した文書史料)は、すでに真実と違い、偽りが多く加えられているとのことである。そこで帝紀を書物として著(あら)わし、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と述べて史書の編纂(へんさん)を命じた。
  『日本書紀』には「天武天皇が史書の作成を川島皇子以下12人の皇族・貴族に命じた」という記述があるが、この史書編纂事業は結実しなかった。
  というのも、天武天皇の政策は伊耶那美命の提唱した〔愛〕の理念を否定した天照大神を崇拝して権力の強大化をはかる律令体制を推進するものであったからである。つまり、諸家も編纂スタッフも天武天皇の史書編纂の命令は伊耶那美命の〔愛〕の理念を削除(さくじょ)して、天照大神を模範(もはん)とする天皇と国家の権力の強大化を謀(はか)るウソ・マヤカシにちがいないと考えて天武天皇の命令に従わなかったのである。
   686年に天武天皇は没し、690年に皇后が即位して持統(じとう)天皇となり、天照大神を皇統(こうとう)の聖性をあらわす皇祖と定めた。
  697年、持統上皇は孫の軽皇子(かるのおうじ)に譲位した。これが、文武(もんむ)天皇である。この頃から、上皇は天武天皇の史書編纂事業の遺志を継ぎ、天照大神の幾つかの事績のうちの聖性を汚す旧辞にあるすべての記録を削除し、天照大神が夏音文字の学芸に精通する聡明な女性であったと伝える旧辞にある夏音文字で書かれた記録だけを稍々(やや)復興して、国威(こくい)の宣揚(せんよう)をはかる偽書作成の意思を示すようになった。
  このような持統上皇の謀略(ぼうりゃく)を、遣唐使は「後稍夏音を習う」と端的(たんてき)に表現したのである。

 707年に文武天皇が没し、文武天皇の生母の阿閉(あえの)皇女が天皇に即位した。
   これが元明(げんめい)天皇である。元明天皇は持統上皇の同母妹である。711年9月18日、姉の持統上皇の遺志を継いで、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に史書を完成させて献上せよと命じた。
 712年1月28日、『古事記』上巻・中巻・下巻の3巻が献上された。
  『古事記』は持統上皇の遺志を受け継ぐ元明天皇に献上するものであったので、「後稍夏音を習う」の方針にもとづいて、上巻を著作しなければならなかった。しかし、編纂スタッフは持統上皇が示した「後稍夏音を習う」という命令に背(そむ)き、『古事記』上巻のテーマを伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念と定めて、真実の歴史を記述した。

  『古事記』上巻のテーマと真実の歴史は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された。
  この説話は「伊耶那美の陵墓を築造した時、皇祖の天照大神が陣頭指揮して多数の奴婢を殺す残虐な徇葬をおこなった」と伝える。
  伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に実名で「天照大御神が徇葬をおこなった」と記述すれば、即座に元明天皇に献呈拒否され『古事記』は焚書(ふんしょ)されて正史になれなかった。
  そこで編纂スタッフは、苦肉の策として反実仮装(はんじつかそう)という方法を思いついた。つまり、「天照大神」を「黄泉国の伊耶那岐命」という名で偽装(ぎそう)して真実の歴史を後世に伝えるようにすれば、天皇と律令体制が望むとおりに伊耶那美命を汚すことになるから、元明天皇は献呈を承認して『古事記』が正史になる可能性があると活路をもとめて一計を案じた。
  当時の【学問】は現在の日本古代史学界が絶対視する西欧近代科学の合理の考え方をせず、各部分が全体へとひろがって合理から超合理を成立させる考え方を絶対視した。
  ゆえに、編纂スタッフは後世の学者たちに賭けたのである。彼らの【学問】は超合理の考え方をするものであったから、後世の学者たちは伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の各部分の〔音〕という注をつける夏音文字と語句や記事が互いに関連しあうように思考しまた全体論的に考察して、「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大神」であると見抜くにちがいないと信じた。だから、編纂スタッフ〔反実仮装〕に活路をもとめて「天照大神」を「黄泉国の伊耶那美命」とあらわすことにしたのである。

  この〔反実仮装〕と言う方法は紀元前4、5世紀に生存した老子が著作した『老子』第二十五章の文中に示される。
  この反実仮装の文は「もって天下の母と為(な)すべきも、吾れその名を知らず。これに字(あざな)して道と曰(い)い、強いてこれが名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝(ゆ)き、逝けば曰(ここ)に遠く、遠ければ曰(ここ)に反(かえ)る。ゆえに道は大なり、天は大なり。」である。
 老子が生存した時代、[天]と[大]と[道]の字源銀河となる「十字の銀河」が天頂にめぐってきた。[道]の字源は「オス鹿の横顔に似る銀河」であるが、この〔オス鹿の角〕は「十字の銀河」であった。老子の時代、〔漢字を生む母の子宮〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」が天頂にめぐってきた。この〔漢字を生む天下の母〕は“漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」であった。だから、老子は「天下の母」の名は「鳥獣の文」であり、倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と称されることを知っていた。知っていた証拠に、〔鳥獣の文〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」は[道]の字源であり、[大]の字源であり、[天]の字源であり、「十字の銀河の子宮」は曰(ここ)すなわち天頂を逝き、天頂から最も遠くなって地中の北を通過し、また曰(ここ)・天頂に反ってくる。だから、「吾れその名を知らず」の事実は「吾れその名を知る」であり、「吾れその名を知らず」は事実を偽装するものとなる。
 『老子』で使用される「学」は上記の「全体論的な超合理の考え方をする学問」のことであって、現在の古代史学界が絶対視する考え方は「学」すなわち「学問」・「学術」の考え方ではなかった。
  このような老子の考え方は1980年代において先端科学者たちに注目されるようになり、「西欧近代科学の考え方には幾つかの誤りや欠陥がある」と幾つかの国際会議を開いて世界に警告した。(米国の先端科学者たちのバイブルとされたF・カプラが著作した『タオ自然学』の英語の「Tao」(タオ)の意味は「老子の教える道」である。)

  だから、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「黄泉国の伊耶那美命」は『老子』にある反実仮装を用いたものであって、その正体は「天照大神」であり、「黄泉国」は「伊耶那美命の陵墓が築造された熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」ということになる。
 
伊耶那美陵が作られた熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)は、和歌山県東牟婁(むろ)郡本宮町に所在する。
  幾つかの誤りや欠陥を有する西欧近代科学の考え方から生まれた日本神話虚構説は、「黄泉国」を「冥土(めいど)。死の世界」と解釈し、「黄泉国の伊耶那美命」を「死者となった伊耶那美命」と断定する。
  日本神話虚構説の学者たちは、ただ文字を見て読むだけで思索(しさく)らしい思索を一切(いっさい)しようともせずに、老子の考え方と同じ日本人本来の考え方でなんにも考えようとしない。

  竜安寺の石庭は計15個ある石をどこから見ても14個しか見えないように設置して――全体論的に思考すれば石は15個あると認識できる。これが夏音文字の学芸における、日本人本来の考え方である。見たままで視点をずらす工夫もせずに視覚的な幻影に惑わされて石が14個しかないと認識する者は無学の徒と言わざるをえない――と示す。
  ゆえに、日本神話虚構説は学問の域に達するものではなく、無学の徒の考え無しの幻想であったのである。

  伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は日本人本来の全体論的な思考にもとづいて構築されている。これゆえ、説話の初頭部に登場する「黄泉国の伊耶那美命」が「天照大神」であることは、テ-マの日本建国の〔愛〕の理念が記載される説話の末部を注目すると容易に察知できる。
 この説話の末部で、伊耶那岐命は黄泉国の伊耶那美命に離縁を言い渡した後に「吾一日に千五百の産屋立てむ」と〔愛〕の宣誓をする。
  この伊耶那岐命の〔愛〕の宣言の前に、黄泉国の伊耶那美命は「あなた(汝)の国の人民を、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺す」と呪詛(のろい)の言を吐く。
 この呪詛(じゅそ)の言に登場する「あなた(汝)の国」は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」である。
  『古事記』上巻においては、出雲の大国主命が統治した国の名も「葦原中国」であると明記する。この葦原中国の山陰・出雲王権を、天照大神は武力で征服した。したがって、「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大神」であり、千引の石の前で「汝の国の人民を、一日に千頭絞り殺す」と誓った呪詛を実行したことになる。
  島根県松江市に所在する神魂(かもす)神社の本殿は、出雲大社の“男造”に対して、“女造”といわれる出雲を象徴する代表的な神社である。この神魂神社の主神は伊耶那美命である。大国主命は葦原中国・日本の女王・伊耶那美命を崇拝した。これゆえ、「山陰・出雲」は小国・日本ではなかったが、天照大神に呪詛されて「葦原中国」と呼ばれることになったのである。
  夫婦が離縁した舞台となる「千引の石」について、『古事記』は「黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞(ふさ)ぐ」と記述する。「千引の石」は「千人が綱をかけて引っぱってやっと動くくらいの巨大な岩」ということになる。和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町の神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩」は、地上60mの絶壁にそそり立つ「千引の石」にふさわしい巨岩である。この神倉神社の主神は天照大神である。
  『熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)』は「神倉山に祀っていた熊野権現(伊耶那岐命の神霊)を現在地に祀ったので、熊野速玉大社の地名は“新宮”と号されることになった」と伝える。『日本書紀』神代紀には「伊耶那岐命の“絶妻(ぜっさい)の誓い”の際に吐かれた唾(つば)から生まれた神が速玉大社である」と記述されている。この“絶妻の誓い”は〔神倉神社の御神体のごとびき岩の前で、伊耶那岐命が言い渡した離縁の誓い〕ということになる。
  つまり、『熊野権現垂迹縁起』は「最初は伊耶那岐命(熊野権現)と天照大神の夫婦が離縁した歴史的な重大な場所として神倉山(二人が離縁を誓った千引の石・きごとびき岩の前の空洞)に二人を祀っていたが、離縁した夫婦を合祀(ごうし)するのは理屈にあわないので、天照大神を神倉山(神倉神社)に単独で祀ることにし、熊野権現の伊耶那岐命の神霊を現在の速玉大社に移して祀った。ゆえに、速玉大社の地名は“新宮”と号するようになった」と説明していることになる。
  伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は〔天照大神が多数の奴婢を殺して徇葬を決行した歴史〕を記述するものであった。
  ところが、持統上皇の「後稍夏音を習う」という指示は「天照大神が徇葬を決行した歴史を削除せよ」と命令するものであったので、元明天皇は『古事記』献呈を即座に拒絶した。これゆえ、反逆の史書『古事記』は正史になれず外史となった。だからこそ、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には元明天皇の『古事記』編纂命令や完成に関する記事は削除された。
  天武天皇から聖武(しょうむ)天皇までの歴代天皇は人民が敬愛する伊耶那美命の歴史を葬って、人民に天照大神への崇拝を強要する律令体制の完成を目指した。
  もしも日本神話虚構説が断定するがごとく「黄泉国の伊耶那美命」が「伊耶那岐命に離縁された冥界(めいかい)の伊耶那美命」であったとしたならば、『古事記』は天皇と律令体制の「後稍夏音を習う」という要望とおりに作成された偽書となるので、元明天皇は即座に『古事記』の献呈を承認して正史と定めたはずであり、『続日本紀』にも元明天皇の『古事記』編纂命令と『古事記』完成は記載されたはずである。
    しかし、『古事記』の実体は反逆の史書であったので正史にはならなかった。
  だから、日本神話虚構説は空理空論ということになる。
  「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「伊耶那美の陵墓を作る時に、多数の奴婢を殺す徇葬を決行した天照大神」であった。元明天皇は反実仮装の記述を認めず、編纂スタッフの『古事記』を正史にしようとした努力はむくわれず、元明天皇は献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史となれなかった。

  伊耶那岐命の黄泉国訪問神話に登場する「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」が『魏志倭人伝』の「奴婢」である。ゆえに、この説話には「八の雷神(奴婢)の多数の死体から蛆(うじ)がわき群がって、ころころと音をたてていた」と描写される記事がある。
  雷が鳴ると大雨となり、堅い地面が泥状にやわらかくなって開墾(かいこん)・耕作が容易になる。ゆえに、「雷」は「神鳴り」または「稲妻(いなづま)」と呼ばれた。
 伊耶那美命が生存した3世紀半ば、鍬(くわ)や鋤(すき)の刃先に鉄が用いられ始めた。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものであった。
  『古事記』上巻に〔神生み〕という条(くだり)がある。この〔神生み〕にて列挙される「神」は「すぐれた発明。すぐれた学術的研究成果」を意味する。ゆえに、「神」には「発明」の意味があった。〔神生み〕の条に登場する「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」は上記の「農具の刃先を作る製鉄事業」の名称であった。
 伊耶那美命は火之迦具土神の製鉄事業における火災事故で火傷を負って死去した。つまり、銅鐸や銅矛・銅剣の青銅を熔かす溶鉱炉から開発した火之迦具土神の製錬炉は完成半ばのものであったことになる。農具の刃先に使う鉄の融点は青銅よりも融点が高い。だから、火之迦具土神の製錬炉は高熱に耐えることができず爆発して大火災となったにちがいない。
  伊耶那美命は農具の鉄の刃先を作る製鉄事業の火災事故で没し、雷は雨を降らして地面をやわらかくして開墾や耕作をしやすくしたために「神鳴り」または「稲妻」と呼ばれたように、「雷」と直結する農業の道具を開発のために伊耶那美命は没したので、『古事記』は「奴婢」を「八の雷神」と表記したのである。

  この説話に登場する、天照大神の命令で逃走する伊耶那岐命と日本兵を追跡する「予母都志許売(よもつしこめ)」は「伊耶那美陵の守衛」であろう。
  「八の雷神に千五百の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき」という記述は「天照大神の指示にしたがって多数の奴婢たちを殺した倭政府の大軍にも、天照大神は命令して逃走する伊耶那岐命と日本兵たちを追跡させた」と意味するものとなる。
   この黄泉軍・倭の大軍を撃破した「桃の子三箇(みみつ)」は「三隊に分かれた日本兵と熊野に住む徐福族の若者(戦士)たち」である。
 桃の子三箇に攻撃されて黄泉軍が大敗した「黄泉比良坂の坂本」は「熊野速玉大社の境内」ということになる。
 千引の石・ごとびき岩が前を塞(ふさ)いで行き止どまりとなる「黄泉比良坂」「神倉神社の参道」である。速玉大社の鳥居から約850m真南に神倉神社の参道の入り口がある。だから、ごとびき岩がある神倉山に登る急坂(のちの参道)の入り口へ至る通路の脇に所在した「桃の子三箇が身を潜める恰好(かっこう)の陣地」となった「後の速玉大社の境内」は「黄泉比良坂の坂本」と表記されることになった。
 伊耶那美命が主神となる那智大社の例大祭は毎年7月14日におこなわれ、“那智の火祭り”と呼ばれる。この火祭りにおいて那智大社の参道で12本の大きな松明(たいまつ)による炎の乱舞が勇壮にくりひろげられる。この大きな松明こそ、伊耶那美命の陵墓の玄室(げんしつ)に通ずる羨道(えんどう)の入り口に設置されていた「湯津津間櫛(ゆつつまくし)の男柱(おばしら)」を現在に伝えるものであろう。
 伊耶那美陵から棺(ひつぎ)を奪った伊耶那岐命と日本兵たちは、燃えさかる松明をかざして、本宮大社の旧社地から速玉大社の境内まで、鬱蒼(うっそう)と樹木が茂るあいだを割(さ)く真っ暗闇の夜道を逃走した。日本兵たちは伊耶那美命の棺を那智の火祭りに登場する神輿(みこし)のごとく担(かつ)いで逃走するものであったから、棺を担ぐ日本兵たちが転ばないように、他の兵たちは松明で明々と暗闇の道を照らすことになった。また、この松明の灯は、桃の子三箇が潜(ひそ)んで待機する速玉大社の境内へと倭の大軍を誘導する役目があったのである。
  「神倉神社の参道」は「黄泉比良坂」であった。この黄泉比良坂・神倉神社の参道を舞台にして、毎年2月6日の夜、伊耶那岐命と日本兵の一行が松明の火をかざして熊野路(熊野九里八丁)を逃走した歴史を演出する祭典がおこなわれる。この逃走劇を演出する祭典は“お燈(とう)祭り”と呼ばれる。お燈祭りは近在の男たちが1000人以上集まっておこなわれる。この祭りは伊耶那岐命と日本兵と徐福族の子孫の若者たちがおこした、残虐な徇葬を決行した天照大神への謀反(むほん)の様子を演じるものだったのである。
 以上のように、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が語る歴史は、神倉神社の“お燈祭り”と那智大社の“火祭り”にて演出されて、現在でも目撃できる。

  伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は「そのいわゆる黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂(い)う」という文で終わる。
   この「出雲国の伊賦夜坂」は熊野の「神倉神社の参道」であるから、『古事記』が完成した712年1月28日当時、神倉神社の所在地は“出雲国”と呼ばれていたことになる。
 『古事記』の〔伊耶那美命の死と火之迦具土神〕の箇所では、熊野本宮大社の旧社地の大斎原は出雲国と伯伎国(ははきのくに)の境界であり、大斎原は「比婆(ひば)の山」と称されていたと記す。
 翌713年、元明天皇は反逆の史書『古事記』がたとえ後世に残ったとしても、今日の日本神話虚構説のごとく後世の学者たちが歴史を伝えるものでないと断定することになる史籍(しせき)、すなわち風土記(ふどき)の撰上(せんじょう)を命じた。
 『続日本紀』の和銅6年(713)5月2日の条には、下記のような風土記の撰上の命令を示す記事がある。
  「畿内・七道諸国の郡郷の名に好字(よきじ)二字の表記を著(つ)け、(中略)、山川原野の名号の所由(しょゆう)また古老の相伝える旧聞異事(きゅうぶんいじ)史籍(しせき)に載せて言上(ごんじょう)せよ。
 『古事記』上巻が記載するように大斎原が出雲国と伯伎国の境であり、神倉神社が出雲国であったので、元明天皇は伊耶那岐命伊耶那美命と伊耶那岐命に関する歴史を伝える郡郷の名、山川原野の名の由来、古老たちの知識や伝説を消滅させて、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が伝える史実を台無しにするために、風土記の編纂を命令した。
  『古事記』が完成した712年、1千万坪の大鳥の地上絵を守り番であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫は現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(いいのや)に居住し、井伊谷の郷の名を「渭郷(いごう)」または「蟾郷」と号していた。(この「蟾郷」は「せんごう」あるいは「渭郷」と同じく「いごう」と読むのかもしれない。)
  「蟾郷」の[蟾]の字義は「ヒキガエル」である。伊耶那岐命が天照大神の離縁を言い渡して「吾一日に千五百の産屋を立てむ」と宣誓した神倉神社の御神体の「ごとびき岩」の「ごとびき」もまた「ヒキガエル」を意味した。
 したがって、「蟾郷」は「ごとびきの郷」という意味になる。元明天皇の風土記の編纂命令は「蟾郷」というような日本建国の〔愛〕の理念を伝える郷名の消滅を目的とするものであった。ゆえに、「蟾郷」という名を改めないで抵抗すれば家断絶の重罪に処せられることにもなりかねない。もしもそうなったならば、皇室が厳重に私家(しか)を禁止する1千万坪の大鳥の地上絵を守ることができなくなる。
 それゆえ、元明天皇の命令に服従して「蟾郷」という地名を廃することにした。ゆえに、『遠江国風土記』において「蟾郷」は好字2字の「渭伊郷」という名に改められた。
  1010年、建比良鳥命の子孫は武家の井伊氏を創設した。
  1602年、井伊氏は近江の地に移住して彦根藩主となり、家康の命令のもとに702年の遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」に因(ちな)む「夏音を習わず」(いまだ夏音文字の学芸は復興せず)と図化する3千万坪の羽の無い地上絵を完成させた。
 この大鳥の地上絵の羽に相当する地には、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命と蟾の岩(ごとびき岩)で〔愛〕の宣誓をした伊耶那岐命を合祀して主神とする多賀大社が所在する。
  井伊氏が守っていた1千万坪の細江町の大鳥の地上絵は小堀遠州が作った桂離宮の庭園となり、さらに天皇の王冠の意匠となって『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事はすべて真実の歴史を語るものであると今日に科学的に証明できる重大な史料となる。
  『魏志倭人伝』末部の倭女王・壱与は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であり、この壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を、先人たちは絶対に失うことはできないとして夏音文字の学芸をもまもって後世に真実の歴史が伝わるように願った。
  だからこそ、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念は決してなくしてはならないものであり、なんびとも排除してはいけない、なんびとにも奪われていけない、なんびとにも害されてはいけない日本人の〔魂と命のみなもと〕である。

 以上のごとく、定説・日本神話虚構説の実体は天皇の頭上高く差し上げられる王冠の真実と日本国民の〔魂と命のみなもと〕を抹殺(まっさつ)する、西欧近代科学の知識を鼻にかける、日本人本来の考え方を失った“無学の徒”に等しい学者たちの虚構・ウソ八百であったのである。 

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2012年1月20日 (金)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・38

 『魏志倭人伝』末部に近くの魏の正始8年・247年の記事に、魏の出張機関である朝鮮半島に所在した帯方郡政庁を訪問して、倭国と狗奴国(くなこく)の戦況を説明した倭の使節の長官「載斯烏越(そしあお)」という人物が登場する。
 この倭の使節の長官名の先頭字[載]の初文の字について、インターネットは「入力できない文字で、保存できない。該当の文字を削除するか別の文字に変更してください」と表示る。それゆえ、この[載]の初文を[載]と表記することにする。

 白川静著『字統』は[載]の字源について「載にことをはじめる意がある。載は戈(ほこ)をつけて祓(はら)うことを意味する字で、それは軍事をはじめるときの儀礼を意味したものとお思われる。載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるのであろう」と解説する。
 この『字統』の[載]の字源解説が示すように、載斯烏越は武将であった。
 武将であるから、倭国と狗奴国の戦況を報告する役目をになって海を渡った。
 当時、倭と魏は軍事同盟を結び、1年前の246年ころに帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)が、馬韓の首長を中心とする勢力の帯方郡の軍事基地を攻撃によって戦死した。このような韓の反乱がおきたときには、魏と軍事同盟を結ぶ倭軍が韓に出兵して支援しなければならなかった。しかし、倭にあっても狗奴国との戦いで、魏との軍事同盟の約束をはたすために倭軍を割(さ)く余力がなかった。このため、倭国が魏軍・帯方軍を支援できなかった事情を説明するために、載斯烏越は帯方郡政庁を訪問したのである。

 「載斯烏越」の[斯]は[其(き)]と[斤(きん)]は組み合わさる字である。白川静著『字統』は[斤]の甲骨文字の字形を「斧(おの)の形」と解説する。[其]の甲骨文字と金文の字形によって、[其]の字源銀河は「長方形の暗黒天体部」であると証明できる。[其]の甲骨文字と金文の字形の基本部にある[×]の図書は「長方形の暗黒天体部の南側の2連菱形枡の銀河部」をあらわしていることになる。というのも、二つの菱形が連結する部分は[×]の形になるからである。
 そうすると、[基]の「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの北部」である。「コールサックの北部」は東西に分かれて、「長方形の暗黒天体部」もその西隣の「暗黒天体部」も[斤]の字源の〔「斧の刃の形〕に相似し、「コールサックの南部」は〔斧の柄の形〕に相似する。
 この〔斧の刃の形〕の北隣は「鬼の姿に似る銀河」である。
 当時は日本列島の基準緯度・北緯35度の土地の天頂に白鳥座γ(ガンマ)星が通過した。この白鳥座γ星が天頂にめぐってきたときに「十字の銀河」のほうを見ると、「十字の銀河」周辺の「オス鹿の横顔に似る銀河」は〔葉が茂る樹木の葉冠部(ようかんぶ)〕に観え、「鬼の姿に似る銀河」は〔樹木の太い幹〕に観える。そして、〔斧の刃の形〕に相似する「コールサック北部の西側の暗黒天体部」は〔樹木の根の部分〕となる「鬼の身に相当する銀河の南の足」の部分にくいこむように観える。ゆえに、その「斧の刃の形に似る暗黒天体部」は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」の根元から切り倒す〔斧の刃〕のイメージとなる。
 『説文解字』は[斯]の字源を「柝(さ)くなり」と解説する。この字源解説に登場する[柝]の編は[木]である。この[柝]の[木]は〔樹木の幹〕に観える「鬼の姿に似る銀河」ということになる。また、[斯]の字源解説の「柝くなり」は「樹木の幹を裂(さ)くなり」となるから「樹木を根元から斧を使って切り倒す」と意味するものとなる。
 上記した「軍事をはじめる」をあらわす[載]に[斯]の字義を合わせると、「鬼の姿に似る銀河」は〔人の姿〕にも観えるから、[斯]の字源となる「斧で大木を切り倒す」を意味する「柝くなり」は「戦争で多数の敵の兵を殺す」と意味するものとなる。
 
 
 以上からして、[斯]の字源銀河は〔太い樹木の幹〕に相似する「鬼の姿に似る銀河」の根元を切り倒す〔大きな斧の刃〕に観える「コールサック北部の西側の暗黒天体部」となる。
 当時(3世紀中ごろ)、日本列島の基準緯度の北緯35度の天頂緯度線は、白鳥座γ星から[斯]の字源となる「コールサックの北部の西側の暗黒天体部の中央部」から「長方形の暗黒天体部の中央部」へと貫通していた。

 「コールサック」は「載斯烏越」の[烏]の字義「カラス」の姿に相似して黒い。また、カラスは死者に群がって肉を啄(つい)ばむ。ゆえに、[載][斯][烏]の3字は武将の名であると示す。
 当時(三国時代)は中国においても、若者が軍を指揮した。魏の曹操(そうそう)の子の曹丕(そうひ)は18才で戦場に出て軍を指揮し、蜀の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい)も青年軍師であり、呉の孫権(そんけん)も戦いを指揮する青年であった。つまり、中国でもわが国でも戦いは青年武将が指揮するものと定まっていたのである。というのも屈強な体力を有する生命力あふれる若者には、戦いに勝つことができる呪能(じゅのう)が最もそなわっていると信じられていたからである。
 だから、載斯烏越の「烏越」は「青」をあらわし「青年武将」を意味していたと考えられる。

 『三国志』の呉書孫権伝に、下記のような記述がある。
 「将軍衛温(えんおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ。」
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀に、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)から蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の薬を求めるように命令された方士の徐福(じょふく)が童(青年男女)数千人連れて大海を渡って日本列島に到着したが、不老長寿の薬を発見することができず、死刑をおそれて中国に帰還しなかった。この徐福一行が移住した地が東鯷人国(とうていじんこく)であり、夷州と亶州は東鯷人国にある2州である。3世紀、東鯷人国に定住した徐福一行の子孫たちは数万家となっていた。この東鯷人たちは大海を越えて定期的に呉の会稽(かいけい)港に到着して交易をしていた。しかし、この東鯷人が往来する海の道は、中国の人々には遥(はる)か遠くまで続いて道が途中で絶えて消えてしまうので、絶対に往来することはできない」と説明する。

 呉の孫権は、魏の背後の燕地(えんち)の公孫淵(こうそんえん)が燕王になれず魏の臣下であることに不満を抱いていると見抜いて、魏を倒すために魏の背後の脅威(きょうい)となる燕地の淵を呉と蜀の天下二分軍事同盟国に組み入れようと計画して、燕地に密使を派遣した。
 しかし、淵は呉と蜀の連合軍と軍事同盟を結べば、魏と軍事同盟を結ぶ卑弥呼が統治する倭軍が背後から魏が前面から燕軍を攻撃するから燕は滅亡すると考えて孫権の説得に同意しなかった。
 そこで、倭の背後の東鯷人国の海に呉の一万の水軍を遠征させせれば、東鯷人国は呉軍に占領されまいと隣国の倭に支援を求めるにちがいないと考えた。つまり倭の東鯷人国が呉軍に占領されると、東鯷人国は倭の背後の脅威となるので、倭は東鯷人国に多数の軍兵を派遣して防衛しざるをえないことになる。
 孫権は淵を味方に引き入れて呉と蜀と燕の3連合国軍で魏を倒すために――倭軍が魏軍を支援できなくすれば、淵も安心して呉・蜀連合国と軍事同盟を結ぶにちがいないと戦略を立てた。この戦略を成功させるために、東鯷人国に遠征した水軍は戦ってはならず、東鯷人国の人民が恐怖を感じるようにして帰還せよと命令していたのである。

 208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。
 わずか5万の呉・蜀連合軍は80万の曹操が率いる魏の大軍を撃破して劇的な大勝利をおさめた。この呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割をはたしたのは2万の呉の水軍であった。
 魏の80万の大軍は赤壁の川岸に軍艦をならべ岸に密集して陣をかまえた。
 その決戦の日、折しも強風が吹いていた。
 呉の兵たちは舟に枯れ柴(しば)の束を積んで火を放ち、その舟を魏の艦列へ突っ込ませた。枯れ柴の赤い火は軍艦に燃えうつり、その火は強風で一気に勢いづいて黄色い火炎の竜となって次から次へ軍艦を呑みこみ数匹の竜と化し、さらにその火炎の竜は岸辺の陣まで延びて暴れまわり魏の大軍を壊滅させた。

 この赤壁の戦いから12年後すなわち呉の黄竜2年(230)、1万の呉の水軍は日本列島の東鯷人国への遠征の旅についた。この情報は呉の会稽港で交易する東鯷人が国王に報告したのか、あるいは232年に燕の淵への密使に任命された呉の一員が山東半島にて拿捕(だほ)されたので魏の役人たちが彼らを責めて日本列島遠征を白状させ魏から倭政府に伝えられて東鯷人国の王のもとにとどいたかは不明である。
 赤壁の戦いにもとづいて大雑把(おおざっぱ)にいうと、呉の1万の水軍は40万の魏の大軍に匹敵(ひってき)することになる。このような呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えた東鯷人国の王は卑弥呼が治める倭国に服属した。ゆえに、東鯷人国は国名が改められて「日本国」となった。

 この小国・日本の女王に13歳の壱与(いよ)が選ばれて赴任した。
 13歳の乙女は最も澄む瞳を有するものであるから、敵の戦力を奪う呪能が最も優る年齢と信じられていた。ゆえに、壱与は媚蠱(びこ)の女王であった。
 白川静著『字統』は「媚蠱」の[媚]の字源について「初義は媚蠱とよばれる呪術を行う巫女(みこ)をいう。(中略)。敵の呪的な能力を奪うことができるので、(中略)、媚とは美しき魔女、媚態(びたい)・媚辞(びじ)はすべて魔女的な行為である」と解説する。
 「壱与」の[壱]の字源銀河は「十字の銀河の子宮」である。[与]の字源銀河は「黄河の氾濫の形状に似る銀河と長方形の暗黒天体部」である。
 つまり赤壁の戦いで勝った戦績を有し〔黄竜〕という年号に遠征して火の竜と化す呉軍に対抗して、小国・日本の女王の「壱与」という名は「天(すなわち十字の銀河の子宮)から降る大雨で氾濫した激流の水中に潜(ひそ)む龍と化すように日本軍の戦力を強大にし、燃え上がる火の勢いの呉軍の戦力を大雨でことごとく消し奪って勝利を導く日本軍の魔女(媚蠱)」と意味した。

 『説文解字』は[竜(龍)]の字源を「鱗蠱(りんこ)の長なり。能(よ)く幽にして能く明、能く細にして能く巨、能く短にして能く長」と解説する。
 [火]の字源銀河は「北アメリカ星雲」である。ゆえに火攻めで魏の大軍に勝った呉軍の「黄竜」という年号の[竜]は「北アメリカ星雲」があらわすことになった。「北アメリカ星雲」は〔竜の顔面〕の形に、北アメリカ星雲の東隣の「白鳥座のξ(クサイ)星」と「白鳥座の56・57があるペリカン星雲のキツネの顔となる銀河部」は〔竜の両目〕の形に相似する。これゆえ、この〔竜の顔面〕に観える〔呉軍〕に見立てた「北アメリカ星雲」は『説文解字』が「能く明、能く細、能く短い」と解説した[竜]の字源をあらわすことになった。
 「壱与」の[与]の字源の一部となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は[水]の字源となり、水中に龍の顔が見えて潜(ひそ)むように激流・氾濫に観えるので「潜龍(せんりょう)」の語源となり、また大雨が降って龍が潜む激流・氾濫に観えるので「雨龍(あまりゅう)」の語源となった。これゆえ、〔日本軍〕に見立てる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」は『説文解字』が「能く幽、能く巨、能く長」と解説する[龍]の字源をあらわした。
 したがって、竜の顔に似る「北アメリカ星雲」に見立てた火の呉軍よりも潜龍・雨龍となる「黄河の氾濫の形状に似る銀河」に見立てた水の日本軍の呪力は数段勝る。
 このように小国・日本の女王は瞳が最も澄む年代の13歳の乙女を選び、この乙女の名を「壱与」と定めて、赤壁の戦いで魏の大軍に勝利して黄竜2年に呉の港を出発した呉軍の能力を奪う日本軍の媚蠱とした。
 
 このような秘密が小国・日本誕生史にあったので、日本の紋章には「雨龍」という名の家紋がある。「平角雨龍」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の北部の形」と共通して〔正方形〕に図案され、「隅(すみ)立て雨龍」と「雨龍菱(あまりゅうびし)」という名の家紋は「長方形の暗黒天体部の南部の2連菱形の銀河部」の〔菱形〕に図案される。この「雨龍」の顔と両目は呉軍に見立てた「北アメリカ星雲」(顔面)と「白鳥座ξ星と56・57があるキツネの顔となる銀河部」(両目)に相似するように図案される。

 したがって、上記で解説した青年武将の「載斯烏越」は13歳の壱与と結婚した夫であり、呉軍を迎え撃つ小国・日本を防衛する軍王(いくさのおおきみ)であったことになる。
 ゆえに、「載斯烏越」という名の「烏越」は「青」であり、この「青」は「青年」と「水の青」を意味した。この「水の青」は、呉軍を象徴する「赤壁」の赤色の炎と「黄竜」の黄色い火に対抗する日本軍を象徴する「水の青」をあらわしたのである。
 真っ黒な「コールサック」の北部は東の「長方形の暗黒天体部」と載斯烏越の[斯]の「斤」の字源となる西の「斧の刃の形に似る暗黒部」に分かれる。この東と西に分かれる「コールサック」の北部の暗黒天体部の中央に、「北アメリカ星雲」がある。
 このように北部が東と西に分かれる「コールサック」は〔背中合わせに、東と西に分かれる烏(カラス)の姿〕に相似する。「壱与」の[与]の字源となる東の「黄河の氾濫の形状に似る銀河」の水が溢(あふ)れ越えて[斯]の字源となる「斧の刃の形に似る暗黒部」まで達すると、中央の「北アメリカ星雲」に見立てた呉軍の〔火と竜〕は〔大量の水に呑みこまれて消滅する〕ことになる。だから、日本の軍王の名に「烏越」という語が加えられたのである。

 中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文学が完成して、天頂緯度測定を習慣が廃絶(はいぜつ)された。
 このため、上記したように、『後漢書』倭伝が東鯷人国を説明する記事の末部に「所在絶遠にして往来すべからず」と記述するように、中国の人々は大海中の日本列島に渡ることができなくなった。
 しかし、当時、中国と日本列島の天頂に精密に緯度が測定できる最も理想的な「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。ゆえに、天頂緯度測定の習慣が存続する日本列島に居住する倭人と東鯷人(小国・日本人)は大海を往来できた。
 天頂緯度測定の習慣を失った1万の呉の遠征軍の8割から9割の兵士たちは位置も方角もまったく見当がつかなくなって大海原を漂流して藻屑(もくず)となって消え壊滅(かいめつ)した。
 帰還した遠征軍の将軍衛温と諸葛直を、孫権は、“功無かりき”と罰して誅殺(ちゅうさつ)した。
 この東鯷人国への1万の遠征軍は呉・蜀・燕連合軍が魏を倒すときの中心となる重大な戦力であった。ゆえに、孫権は――将軍の衛温と諸葛直に東鯷人国の沿海で、倭が東鯷人国を占領されてなるものかと大軍を派遣して防衛しざるをえないほどに呉軍の脅威を示したならば、上陸して戦わずに兵力を保持したまま帰還せよ――と命令していたにちがいないのである。本来、魏を倒すときに活躍すべき兵たちを衛温と諸葛直は8割から9割も失った。ゆえに、孫権は二人を“功無かりき”と言って処刑した。

 この回の冒頭に記述したように、247年、小国・日本の軍王の載斯烏越は帯方軍の太守の弓遵が戦死する韓の反乱に倭軍が支援できなかった倭と狗奴国の戦いを説明するために帯方郡政庁を訪問した。
 本来ならば倭の将軍がなぜ魏との軍事同盟の約束をまもれなかったのかを説明するために、帯方郡へ訪問すべきであった。ところが、倭の将軍が訪問して説明すると軍事同盟をなにゆえ守らなかったのであるかと帯方郡の太守に厳しく責められる。ゆえに、厳しく問い詰(つ)められることを避けるため、魏・帯方郡と軍事同盟を結んでいない倭の属国となった小国・日本の軍王の載斯烏越が郡を訪問したと考えられる。

 倭と敵対する狗奴国は、現在の岡山県と香川県の小豆島(しょうどしま)である。
 小豆島の地図の形は〔狗(いぬ)の姿〕に相似する。岡山県の中心部の児島(こじま)半島は〔狗の背中から尾〕の形に相似する。[狗]の字源は〔犬の姿〕に相似する「コールサック」である。
 この「コールサック」の形状から〔海〕が連想され、「鬼の姿に似る銀河」の形状から〔陸地〕が連想される。〔児島半島〕の〔狗の姿〕は西に頭があり東に後ろ足がある。この〔狗の姿〕は「鬼の姿に似る銀河」の西に頭があり東に足がある様子に共通する。ゆえに、〔児島半島〕と児島半島より北側の〔岡山県〕は「鬼の姿に似る銀河」見立てられた。
 〔狗〕の姿に似る〔小豆島〕と「コールサック北部」に見立てられる〔瀬戸内海〕に浮かぶ〔小豆島〕が[狗]の字源をあらわす地宜(ちぎ)すなわち平面的に図化した地図の形となり、〔岡山県〕に見立てられる「鬼の姿に似る銀河」は[奴]の字源となるものであったので、「小豆島と岡山県」は「狗奴国」と呼ばれることになったのである。
  この狗奴国を、日本国の軍王・載斯烏越が倭軍と日本軍を指揮することになった。だから、載斯烏越が狗奴国を征討して軍事同盟の約束を必ず守れる状況にすると約束して、倭政府は帯方郡太守の厳しい問い詰めをかわさんとしたのである。

 『魏志倭人伝』の魏の景初2年(238)年に魏の明帝が約束した詔書(しょうしょ)と印授(いんじゅ)は正始(せいし)元年(240)に帯方郡の太守・弓遵が使節を派遣して倭王(この年に、卑弥呼はすでに没していたにちがいない)に魏との軍事同盟をまもるようにと拝仮(はいか)つまり仮(かり)にあたえた。そこで、倭王は帯方郡の使節に託して前年に死去した明帝に代わる斉王に上表(じょうひょう)し、魏の恩恵に謝意をあらわした。
 正始6年(245)、魏の斉王は詔を下し、倭の外交正使(現在の外相)の難升米(なしめ)に魏軍の黄色い軍旗の黄幢(こうどう)をあたえることにし、帯方郡太守・弓遵に託して仮に授けた。この翌年(246年)に弓遵は反乱によって戦死した。
 247年、帯方郡の太守の王頎(おうき)が着任した。この年に、小国・日本の軍王の載斯烏越が帯方郡政庁を訪れて、魏との軍事同盟の約束をはたせなかった原因となった倭国と狗奴国との戦いの状況を説明した。
 小国・日本と魏・帯方郡は国交を結ぶものではなかった。
 そこで、帯方郡太守・王頎は外交の鉄則(てっそく)にまもらずに国交を結ばない日本国の軍王の載斯烏越に詔書と黄幢を手渡すと厳しく罰せられるので、帰国する載斯烏越一行の船に便乗(びんじょう)させて塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)一行を倭に派遣した。
 帯方郡使の張政は倭の外交正使の難升米に詔書と黄幢を仮に授けた。そして、魏の対東方政策の方針のとおりに反乱がおこらないように韓を制圧するためには、倭軍の支援が不可欠であるゆえ狗奴国を滅亡しなければならない立場を告げ諭(さと)す檄(げき)・軍書を作った。

 しかし、この狗奴国攻撃を小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた倭女王・壱与が反対した。
 この倭女王・壱与が狗奴国征討を反対したことは、舒明(じょめい)天皇が詠んだ『万葉集』の5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこおり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」の長歌と6番の反歌(はんか)で知ることができる。この和歌の題詞の「軍王」は載斯烏越であり、載斯烏越は狗奴国・児島半島が真正面に見える、安益郡つまり現在の綾歌(あやうた)郡の讃岐富士(飯ノ山)に本陣を構えて、魏との軍事同盟をまもるために指揮して狗奴国王権を滅亡させた。
 また舒明天皇の子の中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智天皇)が作った『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番・15番の反歌も、壱与が狗奴国討伐を反対したと伝える。13番の「大和三山の和歌」における「天の香具山(かぐやま)」は「壱与」をあらわし、「雄男しい畝傍山(うねびやま)」は「載斯烏越」、「耳梨山(みみなしやま)」は「天照大神」をあらわす。13番の和歌は――正妃の壱与は夫の載斯烏越は猛々(たけだけ)しく狗奴国を征討することばかり主張すると嘆き、第2后の天照大神は狗奴国は魏との軍事同盟はまもるべきであるから狗奴国征伐は決行すべきあると主張して、壱与と天照大神は妻の座をめぐって争った――と詠む。
 また、『播磨国風土記』の〔阿菩大神(あぼのおおかみ)〕の説話は大和三山の争いを語るものであるから、壱与が狗奴国征伐を反対したことを伝えるものとなる。

 弥生中期から後期にかけて瀬戸内海地方や大阪湾にのぞむ地域に山丘上に設けた集落が点在する。これらの集落は一般に海上や平野を眼下にのぞむ、眺望(ちょうぼう)のひらけた高い地所に設営されている。
 これらの遺跡は、弥生集落の最も一般的なあり方である農耕を中心とする集落と考えにくい特色を有している。ゆえに、これの遺跡は軍事的な狼煙台(のろしだい)の役目があった集落であると考えられている。
 注目すべきは、これら狼煙台の遺構(いこう)集落は、小豆島と岡山県をとりかこむ陣形になっている点である。ゆえに、小豆島と岡山県は卑弥呼と素(もと)より仲が悪い狗奴国であり、載斯烏越に征伐された狗奴国王権であったにちがいない。

 倭女王・壱与は狗奴国征討伐を反対したが、天照大神が代わって「壱与」の媚蠱となり、載斯烏越が讃岐富士から倭軍と日本軍を指揮して狗奴国を征討した。
 このような経緯があったので、『魏志倭人伝』は「帯方郡使の張政は二度も檄を作って、魏の立場を告げ諭した」と記述する。
 狗奴国王権は載斯烏越に討伐されて滅亡したので、難升米に拝仮された詔書と黄幢は正式に倭に授けられることになった。
 『魏志倭人伝』の最後は「代理の壱与となった天照大神は、倭の大夫率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人は派遣し、船に乗せて張政たちを帰還させた。倭の使節・掖邪狗一行は魏都に到着して、男女生口(せいこう)三十人を献上し、白珠(はくしゅ)五千孔・青の大句珠(だいくしゅ)二枚、異文(いぶん)の雑錦(ざっきん)二十匹を貢献(こうけん)した」という記事で終わる。

 以上のごとく、『魏志倭人伝』の載斯烏越が登場する正始8年から末尾までの記述は、日本国誕生史に関して説明する。
 ゆえに、夏音名の「載斯烏越」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であり、狗奴国討伐に反対した夏音名「壱与」は「伊耶那美命(いざなみのみこと)」である。
 また、正始8年から末部の記事によって、倭の使節は精密に天頂緯度を測定して大海を往来していたことが明確に証明される。というのも、〔歳差〕という天文現象に着目して、当時の銀河各部の緯度状況を再現すると、中国とわが国の天頂を「長方形の暗黒天体部」がめぐってきたことが証明されるからである。

 「長方形の暗黒天体部」「壱与」の[与]と「載斯烏越」の[斯]と[烏]の字源となった。
 「長方形の暗黒天体部」は精密に天頂緯度を測定できる最も理想的な羅針盤であった。当時、中国では紀元前1世紀に完成したシナ天文のために天頂緯度を測定する習慣が廃絶したために大海を往来できなかったが、日本列島の倭と小国・日本(東鯷人国)では天頂緯度を測定する習慣が栄えていたので大海を往来できた。このため「長方形の暗黒天体部」は「鳥居」の語源となり、今日、〔鳥居〕を見て欧米人たちは〔日本〕を連想する。しかし、欧米の人々は「長方形の暗黒天体部」の産物の〔鳥居〕を見て〔中国〕を連想しない。
 倭の使節が「鳥居の銀河・長方形の暗黒天体部」を羅針盤にして大海を往来して魏と帯方郡と国交を結んだために、『魏志倭人伝』という文献史料が現存することになった。

  『魏志倭人伝』は幾つかの記事で、実際と異なって日本列島は東に伸びずに南に伸びると証言する。
 この転回日本列島地理は夏音文字の学芸で「東を90度転回して南にする」と定義する[倭]の字源を示すものである。だから、この転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭」と定めたのである。
 つまり、卑弥呼王朝は――国内の地理では日本列島は東に伸びることになる。しかし、南北に伸びる中国の海岸線と東西に伸びる日本列島の寒暖の気候を比較にすると、日本列島の同緯度における西方の地は寒く東方の地の気候は暖かく・中国の経度軸に沿って続く海岸線における北方の地は寒く南方の地は暖かい。ゆえに、寒い日本列島の西方と中国の北方の気候が合致し、暖かい日本列島の東方と中国の南方の気候は一致する。だから、南北に伸びる中国の海岸線の気候にもとづくと、日本列島は東に伸びずに南に伸びると確信できる――と日本列島地理を定めたことになる。
 この卑弥呼王朝が定めた転回日本列島地理は、738年に聖武(しょうむ)天皇の時代に誤っていると改定された。
 この日本列島地理を学者たちは「著者・陳寿(ちんじゅ)の誤った地理観である」と断定する。学者たちの断定意見の通りだとすると、卑弥呼王朝は天頂緯度測定を最も重視する夏音文字の天文地理学を廃絶したため、倭では天頂緯度測定の習慣が廃(すた)れ、シナ天文を習得して天の北極を最も重視していたことになる。
 そうすると、呉の遠征軍のごとく倭の使節は精密に緯度や方角をキャッチ」できなくなって大海を往来することができなくなるので、『魏志倭人伝』は1字もこの世に存在しなかったことになる。
 このように、学者たちの意見は『魏志倭人伝』のすべての記事を誤読すると言っても決して過言ではない、完全なる【誤読の産物】であり【空理空論】である。
 学者たちの意見だと“『魏志倭人伝』のほとんどの記事は絶対に信用してはいけない。ただし、『魏志倭人伝』が卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と表記するが、これを「邪馬台国」と改めることはできる。この「邪馬台国」という名称の一点のみが正しい”ということになる。
 このような愚劣きわまる学説は世界中さがしてもどこにも存在しない。
 邪馬台国学説は「学説」と呼べるものではなく、完全なる荒唐無稽(こうとうむけい)のウソ八百である。
 『魏志倭人伝』は、世界の文字が銀河から作られた真実が科学的に解明できる第1級の重大な史料である。この重大な証言を、邪馬台国学者たちはことごとく抹殺(まっさつ)した。ゆえに、【誤読】でデッチあげた邪馬台国学説は人類共通の敵である。

 次回は、『魏志倭人伝』の正始8年の記事から末尾までの記事が伝えている、天皇の王冠の下の飾り・菅笠で表現された日本国の誕生史について解説する。この日本国誕生史を先人たちは絶対に失うことはできないとまもった。しかし、邪馬台国説学者たちは「文献批判」という名の【誤読】を用いて日本国の誕生史を抹殺した。

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2011年12月19日 (月)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から誕生した”と証言する・24

 前回(23)に続いて、〈カー〉と発音する「霊」を意味するヒエログリフの字源に関する秘密について解明する。

 前回で明らかにしたように、〈カー〉と発音する「霊」を意味するヒエログリフの字源銀河部は4ヵ所ある(ただし、3ヵ所ともいええ)。そのうち、〔上に挙げる両手〕をあらわす字源銀河部は2ヵ所、〔前にのばす両手〕をあらわす字源銀河部も2ヵ所である(1ヵ所ともいえる)。
 〔両腕の肘(ひじ)を直角に曲げて上に挙げる両手〕を図案化するヒエログリフの字源は、①「長方形の暗黒天体部」(この「両手」の銀河部は最も明確に見える)、②「十字の銀河の肘から上の両手」(この「両手」の銀河部は4ヵ所で最も微(かす)かに見える)の2ヵ所である。
 〔前にのばす両手〕を図案化するヒエログリフの字源は、③「鬼の姿に似る銀河の東(の「十字の銀河」)に向かってのばす両手」であり、この「鬼の姿に似る銀河の東に向かってのばす両手」は④「十字の銀河の西(の「鬼の姿に似る銀河」)に向かってのばす両手」となる。ゆえに、この〔前にのばす両手〕は同一の銀河部を〔東に向かってのばす両手〕と〔西に向かってのばす両手〕に分けるものであるから、1ヵ所あるいは2ヵ所と数えることができる。

 上記の①の「長方形の暗黒天体部」の概略形は〔長方形〕である。しかし、よく見ると子午線経過したとき、南の方がわずかに幅(東西距離)が広いように見える。というのも、北半分はほぼ正方形であるが、正方形のごとくに見える南半分の東と西の両方の辺をよく見ると微かに菱形[◇]が南北に二つ連結する形状となっているからである。この東西の両辺の縦軸に「2連◇(菱形)の銀河部」が連結するので、縦軸に対して菱形を半分に割った2連三角形が東へ西へとはみだしている。このため、南の方がわずかに東西の幅が広がっているかのように見えるのである。

 この「2連菱形の銀河部」は、日本で最も多い神社名「八幡宮(はちまんぐう)」の「八幡」の語源である。つまり、「八幡宮」は「長方形の暗黒天体部の南の正方形」が天頂にめぐってぎきた時代に起源した。
 菱形「◇」の4つの角は「東・西・南・北」の四つの方角を示し、菱形「◇」の4つの辺の中央は「東北・東南・西北・西南」の四つの方位を示すので、合計八方角となる。この〔八方角〕が「八幡」の[八]を示す。
 [幡]の字源は「菱形(◇)の銀河」である。
 『説文解字』は[幡]の字源を「書兒(しょじ)、觚(こ)を拭(ふ)くの布なり」と解説する。この『説文解字』の[幡]の字源解説を、白川静著『字統』(平凡社)は「いわゆる黒板拭きのような布の意とする」という注釈する。
 黒い天空を長方形に区画する「長方形の暗黒天体部」の南半分の正方形の部分にある4つの「菱形の銀河部」は、「黒板拭きの布」に見立てることができる。
 というのも、「書く」の[書]の下半分の今日は[日]であるが、正字は[聿(いつ)]の下に[者]が加わって構成される。この「者」の下は、今日と同じ[日]である。この[者]の上の字源は「十字の銀河の子宮」であり、下の[日]の字源は「長方形の暗黒天体部」である。つまり、[者]の字形は「十字の銀河から長方形の暗黒天体部」までを図案化したものである。
 [書]の上半分は、「筆(ふで)」をあらわす[聿]である。この[聿]は「十字の銀河」を「筆。石や亀の甲羅や獣の骨や木片(木簡)の表面をひっかく筆記用具」に見立て、「鬼の姿に似る銀河」を「筆を持つ右手」に見立て図案化される。なお、「文字を書く人」には「人の横顔に酷似する銀河」が見立てられたが、この「文字を書く人」は字形には表現されない。
 上記にで説明した[者]の上の字部の字源は「十字の銀河の子宮」であり、この「十字の銀河の子宮」は漢字作成原理〔鳥獣の文〕であり、つまり〔すべての漢字を生む母の子宮〕ということになる。[者]の下の[日]の字源は、上記したとうり「長方形の暗黒天体部」であり、この「長方形の暗黒天体部」は「文字を書く地面・石・亀の甲羅・獣骨・木簡・竹簡」に見立てられた。この「長方形の暗黒天体部」の一部分が、[幡]の字源「菱形(◇)の銀河」である。
 だから、真っ黒な「長方形の暗黒天体部」の一部分の[幡]の字源銀河部となる「菱形の銀河部」は「文字を消す黒板拭きの布」に見立てられたことになったのである。

 なお、竜安寺の石庭の北隣にして濡(ぬ)れ縁(えん)の端の真下より南側に、幅70cm、第5群の石組の西端から東へ21m弱ぐらい磚(せん)を敷きつめる箇所がある。
 「磚」とは「土を焼いた方形の平たい板(タイル)」である。この「磚」の一つ一つは〔菱形〕であり、磚を隙間なく敷きつめるゆえ、この箇所は菱形模様となっている。この磚は黒に近い紺色であるので、上記の[幡]の字源となる「黒に近い紺色をしている菱形の銀河部」を表現するものとなる。

 〔両手を横・水平にのばして、手のひらを上に向け、左右の手が中央で三角形となってつながる、両腕〕を図案化するヒエログリフがある。この〔中央が三角形となる両腕〕ののヒエログリフオについて、マリア・カルメラ・ベトロ著╱南條郁子訳『[図説]ヒエログリフは事典』(創元社)の59頁は、次のように解説する。

 「表意文字として、否定の副詞「ン(n)」」「ネン(nn)」や、「~しない人(物)」をあらわす否定関係代名詞「イウティ(iwty)」を構成する文字の中で使われる。決定詞として、否定をあらあわすさまざまな動詞を決定する。「知らない」を意味する「ケム(khm)」の中で、決定詞として用いられる。」

 前回(23)にて解説した〈カー〉と発音する「霊」を意味する「両腕」のヒエログリフの字形は、上記の①「長方形の暗黒天体部」のうちの「南・北の辺」を「肘より上の両手」とし、「西の辺」を「肘より下の両腕」に見立てて図案化したものである。
 この「両腕」に図案化された「西の辺」の中央に[幡]の字源「菱形の枡(ます)」がある。「西の辺」を「両手」に見立てると、この両手の中央の三角形は〔菱形の枡の半分に割った三角形〕であったことになる。
 だから、上記の「知らない」と意味する〈ケム〉の中で、決定詞として用いられるヒエログリフの字源は「長方形の暗黒天体部のうちの西の辺」となる。
 〈カー〉と発音する「霊」を意味する文字はヒエログリフの学芸を構築する基軸となる「精密に天頂緯度を測定する方法」を図案化するものであったので、【銀河各部の形状】が【文字】である秘密を明らかになることを慎重に警戒して、一度も決定詞として使用されなかった。
 しかし、王や神官や書記たちが多弁となって軽率に思わず【銀河各部の形状】が【文字】である秘密にふれて、この秘密を聞き手に察知されようとしたとき、その場を誤魔化(ごまか)すために、どうしても“知らない“と空惚(そらとぼ)ける必要があった。このような場面は日常的に度々(たびたび)あったにちがいないから、【銀河からヒエログリフが作られた秘密】を知っている王・神官・書記たちが「知らない」と空惚けることができる言葉がどうしても必要となった。だから、「長方形の暗黒天体部の西の辺」を「両手」に図案化する〔知らない〕と意味する〈ケム〉の中で決定詞となるヒエログリフが作られたのである。
 このヒエログリフは「知らない」「そんなことを言った覚えはない」「教えない」「それ以上説明しない」など否定に用いるものであったから、【ヒエログリフが銀河から作られた秘密】を守るときの方便(ほうべん)・手段として用いるのに都合(つごう)よく重宝(ちょうほう)であった。この字源銀河が察知されたときにも、”そんなことは知らない。そんなことがあるはずがない”と頑強(がんきょう)に否定しつづけることができる。ゆえに、このヒエログリフは決定詞に使用されたのである。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島丈夫訳『図説・古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の60頁に、右側に「垂直に立つ棒」をあらわすヒエログリフがあり、左側に〈カー〉と発音し「霊」を意味するヒエログリフ「上に挙げる両手」を配置するヒエログリフは、〈ケア〉と発音する「分身」と意味する。
 「垂直に立つ棒の先端」は「天頂点」を指差す。
 ゆえに〈カー〉と発音する「上に挙げる両手」のヒエログリフは「精密に天頂緯度を測定する」と表現する、「長方形の暗黒天体部」を字源とするものと考えるべきことになる。
 このヒエログリフは「霊」を意味する。[霊]は「死者から分かれたもの」であるから「分身」となる。
 だから、〈カー〉と発音する「霊」を意味する文字は、ヒエログリフの学芸が厳重な機密とした「天頂点をキャッチする」や【銀河各部の形状】が【文字】となる秘密を伝える文字だったのである。

 60頁の『図説・古代エジプト文字入門』の2字で構成する〈ケア〉と発音する「分身」を意味するヒエログリフの下に、3字で構成する〈ケア〉と発音する「牡牛(おすうし)」を意味するヒエログリフが掲載されている。
 この3字は、「牡牛の側身形」の絵文字とその下に「男根と睾丸(こうがん)」の絵文字があり、この2字の左側に〈カー〉の「上に挙げる両手」の1字が加わって構成される。
 ABC・アルファベットの[A]の字源は「牡牛の横顔」である。
 この「牡牛の横顔」は「鬼の姿に似る銀河」を〔牡牛の口・鼻〕に見立て、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を「牡牛の目〈瞳)」と見立て、〈カー〉の「上に挙げる両手」のヒエログリフの字源「長方形の暗黒天体部」を「牡牛の角が生え額(ひたい)」に見立てて成立する。
 「長方形の暗黒天体部」の東隣は、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・20〕にて登場した「ナイル川の氾濫(はんらん)の形状に似る銀河」である。
 この「長方形の暗黒天体部の北の辺」と「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」は「男根」に見立ると、「北アメリカ星雲」を「睾丸」に見立てることができる。
 4回前の〔20〕の中ほどで赤い太字をもって指摘したように、〔「十字の銀河の右足」から「鬼の姿に似る銀河の両足の中央部」へ向けて引く直線〕は、〔右足が踏んで歩いた「土(地面)」〕に見立てることができる。この直線と平行に〔「十字の銀河の左足」から「鬼の姿に似る銀河の左足(南の足)まで」を引く直線〕も「左足が踏んで歩いた「土地」〕をあらわすことになる。この〔「十字の銀河の左足」から引く直線〕は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」・「長方形の暗黒天体部の北の辺」・「北アメリカ星雲の中央部」を貫通する。
 上の記事に示したように、〔「十字の銀河の右足」が踏んで歩いた土地〕は〔牡牛の口・鼻〕に相当する「鬼の姿に似る銀河の中央部」を貫通する。〔「十字の銀河の左足」が踏んで歩いた土地〕は〔男根〕に相当する「ナイル川の氾濫に形状に相似する銀河の北端」・「長方形の暗黒天体部の北の辺」と、〔睾丸〕に相当する「北アメリカ星雲」を貫通する。人体に相似する「鬼の姿に似る銀河の胸部」に付く「北アメリカ星雲」は〔心臓〕のような形をしているが、「鬼の姿に似る銀河」の外に在るので「心臓」に見立てることはできない。だから、ヒエログリフの学芸では「北アメリカ星雲」を〔睾丸〕に見立てた。このヒエログリフ〔睾丸〕は〔睾丸がおさまる二つの陰嚢(いんのう)〕の形に相似するように〔天地ひっくりかえした(ハート〕の形にして〔「北アメリカ星雲」は「心臓」のような形に相似し、「鬼の姿の似る銀河の(ハート・胸部)に部分に付く〕と表示する。

 以上からして、「十字の銀河の右足」が歩く〔土地〕は「牡牛の口・鼻となる銀河」であるから、上記の〈ケア〉と発音する「牡牛」を意味する右上の〔牡牛の側身形〕の絵文字は「エジプトのナイル川の両岸の肥沃(ひよく)な土地」をあらわすものとなる。同様に、「十字の銀河の左足」が歩く〔男根と睾丸〕に相当する「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」・「長方形の暗黒天体部の北の辺」・「北アメリカ星雲」は「ナイル川の洪水に見舞われた泥状にやわらかくなった土地」をあらわしていることになる。ナイル川の洪水で泥状にやわらかくなった土を、軽い木製の鋤(すき)を男性に操られる牛が引っ張って耕した。
 だから、〈ケア〉と発案する「牡牛」という意味を構成する右側の上に配置する「牡牛」と右側の下に配置する「男根と睾丸」はともに「エジプトの大地」を表現するものとなる。
 この「エジプトの大地」をあらわす左側にある〈カー〉と発音する「上に挙げる両手」のヒエログリフは〔精密に天頂緯度を測定する〕とあらわす。
 ということは、「牡牛の横顔に似る銀河」が子午線通過するとき、〈カー〉の字源となる「長方形の暗黒天体部」を緯度を測定する物差しにすれば、エジプト各地の緯度は精確に測量できる――と表示するものとなる。
 だから、3字のヒエログリフで〈ケア〉と発音する「牡牛」は、地上の牡牛ではなく、エジプトの天頂にめぐってくる「牡牛の横顔に似る銀河」を意味するものだったのである。

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2011年12月13日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・21

 古代エジプトの聖刻文字・ヒエログリフの字源における代表的な秘密の事例を解明して竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言すると証明する、このシリーズにあっては、ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスの秘密についてまったく触れないわけにはいかない。
 それゆえ、3大ピラミッドと大スフィンクスの学術的に未解明な秘密が科学的に明確に解明できることについて、これから解説する。ただし、今回は3大ピラミッドの秘密だけを解明し、次回に大スフィンクスの秘密を解明する。

 エジプトの首都カイロの中心地から南西約15kmの砂漠台地に、ギザの3大ピラミッドと大フィンクスがある。この3大ピラミッドと大フィンクスは、今から約4500年前の第4王朝によって建造された。
 この第4王朝において、クフ王の後を継いだのがクフ王の子・カフラー王、カフラー王の後を継いだのがカフラー王の子・メンカウラー王である。
 北東から南西にむかって、クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラビッドが並び、中央のカフラー王のピラミッドの東側に大フィンクスが座す。

 クフ王のピラミッドは、ギザの3大ピラミッドのなかで最大で、単純に”大ピラミッド”や”第1ピラミッド”と呼ばれる。底辺の四角形の一辺は230m、高さ147mの真正ピラミッドである。
 カフラー王のピラミッドは、底辺の四角形の一辺が215m 高さが143.5mの真正ピラミッドである。ピラミッド自体の大きさは2番目であるが、クフ王のピラミッドより高い大地に建設されたので、人間の目にはいちばん大きく見える。
 メウンカウラー王のピラミッドの3大ピラミッドにあっていちばん小さく、 ほかの二つのピラミッドに比べると半分くらいの大きさしかない、底辺の四角形の一辺は108.5m 高さは65mの真正ピラミッドである。

 3大ピラミッドの底辺の四角形の4辺は、精確に東・西・南・北・東に向く。
 真正ピラミッド・四角錐(しかくすい)の頂上(頂点)から重力の方向(鉛直線)を上方に伸ばして天球と交わる点は天頂点である。だから、天頂点をキャッチして(精密に天頂緯度を測定して)、東西(緯度線)と南北(子午線)を測量してピラミッドは建造されたことになる。 

 ピラミッドが建造された当時(4500年前)、ギザ(北緯30度)の天頂緯度軸は「北天の最輝部の下部」(西)から「十字の銀河の左足」(東)までを貫通していた。このギザの天頂緯度線より約4度の北側すなわち高度86度の天空に、西側から東へ①「白鳥座γ(ガンマ)星」・②「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際の東隣にある小さな三角形の銀河部」・③「ペリカン星雲より放たれる3本線の閃光(せんこう)のような銀河部」・④「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の4つの天体部がならんだ。
 「北天の最輝部」が子午線通過する時、東方の「北アメリカ星雲」は〔三角形に近い半円形〕となり、「ペリカン星雲より放たれる3本線の閃光のような銀河部」は〔三角錐〕のように観え、この西側に「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際の東隣にある小さな三角形の銀河部」があり、さらに西側の天頂点より約4度に北側に「白鳥座γ星」が位置した この「白鳥座γ星」の周囲を白鳥座のα(アルファ)・δ(デルタ)・η(エータ)・ε(エプシロン)の4つの星が輝く。この4つの星を線で結ぶと歪(いびつ)ではあるが四角形となり、この四角形の4つの角となる星と中央にあるγ星を線で結ぶと、四角錐を真上か見た形つまり真正ピラミッドを上空から見た形となる(γ星は真正ピラミッドの頂角となる)。 

 したがって、3大ピラミッドの設計モデルは❶〔三角形に近い半円形〕の「北アメリカ星雲」、❷〔三角錐〕の形に観える「ペリカン星雲より放たれる3本線の閃光のような銀河部」、❸〔三角形〕である「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」、❹〔真正ピラミッドを上空から見た形〕のような「白鳥座γ星とα・δ・η・εの4つ星」、これら4つの天体部であったと考えられる。

 だから、「北アメリカ星雲」に呼応するのは東の「クフ王のピラミッド」であり、「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光のような銀河部」に呼応するのは「カフラー王のピラミッド」であり、「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」に呼応するのは西の「メンカウラー王のピラミッド」であったにちがいない。 

 というのも、「クフ王のピラミッド」が呼応する「北アメリカ星雲」に前回(20)で指摘した「ナイル川の氾濫(はんらん)の形状に似る銀河」が隣接するように、3大ピラミッドで最もナイル川に近づいた位置に建造されているからである。
 「カフラー王のピラミッド」が呼応する「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光ような銀河部」は「クフ王のピラミッド」が呼応する「北アメリカ星雲」より小さく、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」から離れて〔高い台地〕のイメージを示す。ゆえに銀河の形状に適合させて、カフラー王のピラミッドはクフ王のミラミッドより小さく、クフ王のピラミッドより高い台地に建設されたのである。
 「メンカウラー王のピラミッド」が呼応する「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際の東隣にある小さな三角形の銀河部」は最も最も小さく「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」より最も離れている。 ゆえに、メンカウラー王のミラミッドは3大ミラミッドでいちばん小さく、ナイル川の河岸から最も離れるように最も長い参道が作られている。
 このように、呼応する3つの銀河の形状にあわせて3大ミラミッドは作られたと考えられる。 

 メンカウラー王の時代に最も財政的に貧して大きなピラミッドを建設するのが困難であったので、メウンカウラー王のピラミッドは二つのピラミッドの半分ぐらいの大きさになったと考えると、とんでもない間違いで、3大ピラミッドは天頂周辺にめぐってくる3つの銀河部を表現するものであったにちがいない。

 3大ピラミッドに呼応する3つの銀河部が高度90度の天頂点のすぐ近くの高度86度で並んだとき、この銀河は最も高く聳(そび)え、この銀河の帯は最も荘厳にして雄大で神秘的であった。なぜならば、この銀河の帯は東の地平線から冬の銀河が昇り立ち、秋の銀河の西端にある「十字の左足」・「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」・「長方形の暗黒天体部」が天頂点近くの東方に達し、3大ミラミッドに呼応する銀河部は天頂点に迫って高い位置に昇りつめ、夏の銀河の東端となるコールサックの部位が天頂点に達し、「北天の最輝部」が天頂点近くの西方に位置し、そこから最も巨大な夏の銀河が西南の地平線に向かって聳え立っていたからである。
 この冬の銀河・秋の銀河・夏の銀河は東の地平線の端から西南の地平線の端まで1本の帯となってつながり、天頂点まで達して聳える巨大なアーチとなる光景は荘厳雄大で神秘的である。

 当時、冬の銀河の西端の角が天頂点を擦(こす)るように達するものであったが、この銀河の帯は南南東の地平線から冬の銀河の東部が出現し、「北天の最輝部」が西北の地平線へ今にも没せんとするものであったので、この後者の銀河の帯は前者の3大ピラミッドに呼応する3つの銀河部が天頂点近くまで昇る銀河の帯よりも遥かに迫力にかけた。というのも、前者の銀河の帯は最も巨大な夏の銀河の全像が天頂点に向かって聳えるものであったが、後者の銀河の帯は夏の銀河の東端だけが地平線近くに姿をあらわし、天頂に向かって昇る冬の銀河の全像は細く、最も巨大な夏の銀河全像にはるかに見劣りしたからである。

 前者の荘厳雄大な夏の銀河全像が聳え立つ銀河の帯において、北半球に住む人々が見る天体部で最も輝いて見える「北天の最輝部」は天頂点のすぐ近くの西方の高い天空に所在した。この「北天の最輝部」の形状は「夏の強い太陽の陽射し」をあらわすものとなった。このシリ-ズの15回で解説したように、「北天の最輝部」はヒエログリフの「白冠(しろかんむり)」の字源となった 天頂点のすぐ近くの西方に位置した「北の最輝部」の東隣は「白鳥座γ星を包囲する円形の銀河部」である。 

 この「白鳥座γ星が中心となる円形の銀河部」はヒエログリフ[◎]の字源・字形となった。 このヒエログリフ[◎]は表意文字として、「太陽」や「日」を意味する〈ラー(ra)〉と発音し、 〔太陽神ラー〕の名前、「昼」を意味する〈ヘルゥ(hrw)〉や「夏」を意味する〈シェメウ(smw)〉を構成する文字の中で使われ、決定詞として、太陽に関係がある言葉(「昇る」、「沈む」など)や時間をあらわす言葉(「昨日」 「1日」 「1時間」など)についた。

 「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「円形」や「円盤の形」である。
 この「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の円形の下に「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光のような銀河部」が接合する「太陽と3本の光線」を象(かたど)るヒエログリフがある。
 このヒエログリフ「太陽と3本の光線」は決定詞として、「光」「輝き」を意味する〈アクゥ(ahkhw)〉のほか、「輝く」「光線」「昇る」など、太陽の輝きに関係する言葉の中で使われ 発音は〈ウベン(wbn)〉]とされる。

 このように、〈ラー〉と発音するヒエログリフ[◎]の字源は「真正ピラミッドの頂角」に呼応する「白鳥座γ星を包囲する円形の銀河」となった。
 そして、〈アクゥ〉と発音するヒエログリフ「太陽と3本の光線」の字源は「クフ王のピラミッド」に呼応する「北アメリカ星雲」に「ペリカン星雲」を加えた円形にさらに「カフラー王のピラミッド」に呼応すると「3本線の閃光のような銀河部」の組み合わせととなった。 

 当時(今から約4500年前)、ヒエログリフ[◎]の字源・字形となる「白鳥座γ星」が子午線経過するとき、夏至の午前零時であった。 

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・17〕にて、「エジプトの太陽暦は、第1王朝時代の今から約4900年前頃に完成したとされる。このエジプト暦は、現在の太陽暦と同じく1年の長さは365.25日である。そして、全天第一の輝星おおいぬ座の主星シリウス(光度マイナス1.4等)が日の出の前に東の空に現れると、毎年きまってナイル川の洪水がおこるので、そのころを年の始めと定めた。つまり、エジプト暦の元日は、夏至の日であった」と指摘した 

 このように、エジプト暦は〔夏至の日に太陽が地平線から昇る直前に、1年365.25日の周期のおおいぬ座の主星シリウスが東の空に姿をあらわす恒星暦にして太陽暦〕であった。
 これゆえ、〔天球上において太陽が1年間に通過する大円の道〕の「黄道(こうどう)」が測量されていたので、白鳥座γ星が子午線経過するときは、エジプト暦の元旦の始めの夏至の午前零時であることを知っていたのである。
 ゆえに、「白鳥座γ星とこのγ星を包囲する円形の銀河部」が字源となるヒエログリフ[◎]は「夏至の日・元日の東の地平線から昇る直前の太陽」をあらわすものとなるので、「夏」を意味する〈シェメウ〉を構成する文字の中に使われ 未だ太陽が昇らず地平線下に沈んでいることから「沈む」、太陽が地平線上に昇り始めることから「昇る」を意味する言葉についたのである。
 ヒエログリフ[◎]の字源の白鳥座γ星から1時間後に、ヒエログリフ[太陽と3本の光線]の字源・北アメリカ星雲の東端が子午線経過した。ゆえに、ヒエログリフ[◎]は「1時間」という語につくことになったのである。また[◎]から「太陽と3本の光線」への字源銀河部の子午線経過は〔日から日の経過、すなわち昨日から今日の経過〕をあらわすことになったので「1日」という語につくことになり、[◎]の字源は〔昨日〕をあらわすので「昨日」という語につくことになったのである。

 ギザの3大ピラミッドが建造された今から約4500年前、ヒエログリフ[◎]の字源「白鳥座γ星とこのγ星を包囲する円形の銀河部」の真南に冬至点があり、真北に天の北極があり、さらに遠くの真北の地下に夏至点があった。
 エジプト暦が完成した今から約4900年前の[◎]の字源銀河部は4500年前の夏至の午前零時の子午線(天の北極と冬至点を結ぶ線)より西(4500年前における夏至の一日前の23時40分の位置)に所在した。
 したがって、年々[◎]の字源銀河部は4500年当時の夏至の日の午前零時の子午線に近づいて、東へ東へ移動した。
 上記の太い赤字で示した❸の「人の横顔に酷似する銀河の左側の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」はヒエログリフ[◎]の字源となった「白鳥座γ星が中心となる円形の銀河部」の東隣となる。この❸の銀河部の東隣は❷の「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光のような銀河部」であり、この❷の銀河部の東に❶の「北アメリカ星雲」がある。
 だから、[◎]の字源銀河が夏至の日の午前零時に近づく東へ東への移動は、❸の銀河に呼応するクフ王のピラミッドから❷の銀河部に呼応するカフラー王のピラミッドへの方向となり、さらにカウラー王のピラミッドから❶の「北アメリカ星雲」に呼応するクフ王のピラミッドへの移動となる。
 だから、クフ王のピラミッドの東にカフラー王のピラミッドがあり、カフラー王のピラミッドの東にメンカウラー王のピラミッドがある、この位置取りは、時代ごとに少しずつ東へ移動する夏至の日の午前零時直前・直後の[◎]の字源銀河部が子午線経過する様子をあらわすものとなる。
(㊟ これは、末部で説明する〔歳差(さいさ)〕という天文現象によって生ずる)。  

 鈴木駿太郎著『星の事典』(恒星社厚生閣)は、おおいぬ座の主星・シリウスについて、下記のごとく記述する。

 「古代エジプトでは”ソチ”とも”イシスの星”ともいって崇拝されていた。イシスはエジプト人の最も崇拝していた女神で、巨大な殿堂に祀られていた。エジプトにおけるすべての神殿はその内室からシリウスの昇天が見えるように設計されていたという。古代エジプトの主神オシリウスはイシスの夫であり、〔下界の支配者〕と見られ、善と生産力の神であり、ナイル川と同一視された。オシリスはギリシャ、ローマ時代になっても崇拝され、ギリシャではディオニソスになったという。」

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・17〕にて解説したように、オシリスは「北天の最輝部」をデザインする「白冠」を頭に戴(いただ)く神であり、オシリス神は「人の横顔に酷似する銀河」のイメージから創造された。
 父・オシリスと母イシスから生まれたホルスは「鬼の姿に似る銀河」からデザインされた「二重冠」を戴くファラオ(王)の守護神である。ホルス神は「鬼の姿に似る銀河の首から腰までの部分」に隣接する「眼の形に似る銀河」から創造され、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼の瞳」となった。

 3大ピラミッドに呼応する3つの銀河部が最も高くなって高度86度となる夏至の午前零時の直前・直後、オシリス神をあらわす「人の横顔に酷似する銀河」も3つの銀河部の西隣にて輝き、ホルス神をあらわす「ホルスの眼の瞳」の半分形となる「北アメリカ星雲」はクフ王に呼応するので3つの銀河部の一つとなり、冬の銀河・秋の銀河・夏の銀河が1本となってつながる巨大なアーチとなる帯となった。ゆえに、この銀河の帯の中央の天頂付近に、オシリス神とホルス神の両神が存在することになる。
 また、この銀河の帯のオシリス神とホルス神が居る最も高い天頂付近にクフ王・カフラー王・メンカウラー王の霊魂が達した状況を示すものとなり、そして新しい年が始まる元旦の午前零時を祝福して復活・再生をあらわすものとなり、この地上に”万物の新しい生命が蘇(よみがえ)る”を示す荘厳雄大な神秘的な光景となったのである。 

 なお、上記の4500年前の夏至の日の午前零時における各銀河部の緯度・高度はどうして知ることができるかといえば、〔歳差〕という天文現象を利用したからである。
 今から150億年前、宇宙は熱い火の玉として誕生し、急激な膨張「ビッグバン」をおこした。今から120億年前に、銀河が形成され、第一世代の恒星が誕生した。そして、100億年前ころに銀河と第二世代の恒星が誕生し、恒星の中で合成された重元素から惑星と生命が誕生した。
 これゆえ、百万年前と4500年前と現在の銀河各部の形状は変わらない。
 しかし、銀河各部の緯度は、現在と古代とでは異なる。
 というのも、〔歳差〕という現象が存在するからである。
 天の北極と春分点の位置は、黄道の北極を中心にして2万5千8百年で一周する。これを〔歳差〕という。円周は360度であるから、25800年割る360度は71.666となる。
 したがって、天の北極と春分点は71.7年ごとに、黄道の北極を中心とする円周上を1度ずつ移動していることになる。
 ゆえに、その古代は現在から何年前かを計算し、その差額年数を71.666で割れば、 その古代の天の北極と春分点が現在の天の北極と春分点から離れている円周上の角度(黄道の北極を中心とする角度)が算出できる。つまり、717年前の天の北極と春分点は現在の天の北極と春分点より10度過去にもどった黄道を中心とした円周上の位置にある。4500割る71.666は62.8であるので、ギザの3大ピラミッドが建造された今から4500年前の天の北極と春分点は現在の天の北極と春分点の位置より63度過去にもどった円周上に在る。 

 秋の銀河・夏の銀河などを正確に図示し・緯度は赤緯(せきい)を用いる星座盤を分解し、求めるる過去の天の北極と春分点の位置に直す星座盤を作成すれば、過去の時代の各銀河部や星の緯度は再現できる。
 赤緯は、地球の北緯90度(北極点)の天頂点をプラス90度、南緯90度(南極点)の天頂点をマイナス90度、地球の赤道の天頂点を0度と定める。ゆえに、3大ピラミッドがあるギザは北緯30度であるので、3大ピラミッドの天頂点はプラス赤緯30度となる。
 このように、赤緯だと天体緯度と土地の緯度数は同一となるので、過去の地所の天頂点は容易に知ることができる。  

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2011年12月 4日 (日)

枯山水の名園で有名な竜安寺の庭園は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・14

 中国の70パーセントの人々は、マンダリン(北京語・南京語)を話す。この中国語・マンダリンでは「漢字」を「ハンジ」と読む。 

 「銀河」を「銀漢」とも称する。「銀漢から作られた字」を略すると「漢字」となる。ゆえに、 漢字は銀河から作られ、そして【銀河各部の形状】は字源・字形・字義(本義)をあらわす【漢字(の原字)】であった。「漢字」は「文字」ともいう。【銀河各部の形状】は【文字】であった。ゆえに、「天に多数の文字は有りき」となり、これを略して「夜空」は「天文」と呼ばれるようになった。
 このように【銀河各部の形状】は【最初の文字】であったことを如実(にょじつ)に示すその証拠に、殷代(いんだい)の甲骨文字と周代の金文の字形は【銀河各部の形状】に相似するように図案化されている。

 これまで解説してきたように、竜安寺の石庭もまた【銀河各部の形状】が【文字】であったと示す。 

 現在、欧米やアフリカで使用されるABC・アルファベットの系統の起源については議論を呼んで定説は無い。
 しかし、有力説はある。この有力説によると、現在のABC・アルファベットの系統における最初の文字は、シュメール・アッカド楔形(くさびがた)文字とされる。

 なにゆえ、シュメール・アッカド楔形文字をエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)の先駆けと考えるかといえば、その理由をアンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)は107頁で、下記のごとく説明する。

 「エジプトのヒエログリフについて最も議論を呼ぶのは、おそらく、それがいつ、どこで生まれたかということであろう。楔形文字と違い、ヒエログリフは何世紀もかけて進化してきたのではなく、紀元前3100年頃、ちょうどエジプト第1王朝が少し始まる前、突然、ほとんど完成された形で出現したようにみえる。(中略)

 「ヒエログリフが創造される刺激となったのは、メソポタミアで紀元前3300年前頃、文字が使われはじめたことだったかもしれない。書くというアイディアが、エジプトのような比較的近いところへ伝わるのは容易だったと考えられる(紀元前3500年にはエジプトにラピスラズリ(瑠璃)が伝わっており、それはおそらくシュメールよりもっと遠いアフガニスタンから来たらしい。そこが最寄の供給源だった)。しかし確かなことはわかっておらず、エジプト人が独自に、音表という原理にたどりついた可能性も否定できない。実際、エジプトの初期のヒエログリフとシュメールの絵文字の間には大きな違いがある。第一に記号の形が違う。またメソポタミアの音節的表記に対して、ヒエログリフは子音だけを書き、母音を書き表さない。またエジプトではシュメールより、はるかに音表的な書き方がなされている。とはいえ古代エジプト人が音表文字という基本的なアイディアをシュメール人からもらったという考えも、否定するのは難しい。」

 「ヒエログリフが何世紀もかけて進化してきたのではなく、紀元前3100年頃、ちょうどエジプト第1王朝が始まる少し前、突然、ほとんど完成された形で出現したようにみえる」ようになったのは、”書く”という方法が確立される以前、【銀河各部の形状】が【最初のヒエログリフ・聖刻文字】だったからにちがいない。というのも【最初のヒエログリフ】が【銀河各部の形状】であったならば 紀元前3100年頃に”書く”というアイディアが発生すると、突然のごとく、ほとんど完成された形でヒエログリフが出現するような状況となるからである。

 初期のシュメール・アッカド楔形文字は絵文字である。この初期のシュメール文字の少数例しか私は見ていない。この少数例の中に銀河の形状に類似するものがあった。ゆえに、シュメール文字も銀河各部の銀河から作られたと 私は推理している。しかし、シュメール文字の研究は本格的におこなっていないので 確信するものではない。

 たとえシュメール文字が銀河から作られたとしても、上記のごとく「ヒエログリフとシュメール の絵文字の間には大きな違いがある。第一に記号の形が違う」ということであるから、 互いに独自の発達を遂げて 銀河の形状から絵文字を図案化したと考えるべきことになる。
 ゆえに、ヒエログリフの最初の文字は、シュメールの楔形文字ではなかったと私は考えている。

 ヒエログリフの【最初の文字】は、漢字と同じく【銀河各部の形状】であったにちがいない。 

 エジプトには、中国の『易経』のごとく「天象すなわち銀河各部の形状から文字が作られた」と記述する文献史料は存在しない。
 しかし、古代エジプトでは天文学が発達し、ヒエログリフは「神のことばを文字にしたもの」と伝わる。
 古代エジプトの神々は天に存在する。天には銀河が存在し、エジプトの神々の姿は銀河各部の形状に相似する。
 だから、ヒエログリフの「神のことばを文字にしたもの」という伝承は、中国の『易経』の「文字は天象から作られた」と説明する記述に適合する。また、古代エジプトでは天文学が発達したゆえ銀河各部の名称があって当然であろうが、エジプトには中国同様に、銀河各部の名称が存在しない。
 ということは、エジプト王朝の強大な権力と莫大な富の基盤は【銀河から作られた文字】であったにちがいない。 

 今から約4000年前頃の文字とされるABC・アルファベットのルーツと考えられる碑文(ひぶん)の文字がエジプト南部のルクソールの北西にある”ワディ・エル・ホル谷”から発見されて、”ワディ・エル・ホル文字”と呼ばれるようになった。
 この文字の幾つかはエジプトのヒエラティック(ヒエログリフをくずした文字)によく似ている。
 このワディ・エル・ホル文字のすべての字形は銀河各部の形状から図案化されたという証明を、私はインターネットの掲示板に公開した。ゆえに、この証明は「ワディ・エル・ホル文字」と検索していただければ閲覧することできる。
 幾つかの字形がエジプトのヒエラティックに酷似(こくじ)するワディ・エル・ホル文字のすべての字形が銀河各部から作られたと証明できるゆえ、ヒエログリフも銀河各部の形状から作られたにちがいない――というより、私はヒエログリフが銀河から作られたと確信したゆえ、ワディ・エル・ホル文字も銀河から作られた証明をおこなうことにしたのである。 

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”漢字は銀河から作られた”と証言する・2〕にて解説したように、〔北半球の地に人々が見える銀河の範囲において、最も輝いて見える銀河部〕は「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれている。
 この北天の最輝部は、左に表示した幻冬舎ルネッサンスから出版された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料B・資料Cが示すように、私が「人の横顔に酷似する銀河」と名づけた銀河の額(ひたい)の部分に在る。
 白鳥座の中心部は「人の横顔に酷似する銀河」に漬(つ)かる。〔白鳥座のγ(ガンマ)星から南の白鳥座の28、29、36と番号がつく星たちがある銀河部〕が「北天の最輝部」がある箇所となる。
 この「北天の最輝部」は銀白色にまばゆく輝く。この「銀白色に輝く北天の最輝部」が「銀河」または「銀漢」と語源となった。この「北天の最輝部」は[弥]の字源となった。というのも 「北天の最輝部」は「カンムリカイツブリの正面形」に類似すると見立てられたからである。 ゆえに、[弥]の金文形は「北天の最輝部」と「カンムリカイツブリの正面形」を図案化したものである。「カンムリカイツブリの首以下の体下面(腹部)」は白い絹のような美しい銀白色である。「北天の最輝部」はカンムリカイツブリの首から下の腹部のように銀白色に輝くので、[弥]の字源は「カンムリカイツブリ」と「北天の最輝部」となった。
 白砂を敷きつめる竜安寺の石庭は、この「北天の最輝部」のまばゆい銀白色をあらわしている。

 銀白色にまばゆい北天の最輝部は、朱鷺(とき)色の霧がかかったように、桃色の靄(もや)がかかったように、かすかに桃色が彩(いろど)る白い一片の花弁(はなびら)のような形となる。
 ゆえに、わが国では「朱鷺」を「桃花鳥」と表記する。朱鷺は、翼の裏面と風切羽と尾羽が美しい桃の花のような色をしている。  

 この朱鷺の頭を有する神を、古代エジプトでは「トト神」と称し、ヒエログリフをあつかう書記および筆記する行為の守護神とした。 また、朱鷺とむすびつくトト神は月の神でもあった。わが国でも朱鷺は月とむすびつき、「桃花鳥」を「月」と同じく「つき」と読んだ。月は朱鷺色というより銀白色に輝くゆえ、銀白色に輝く北天の最輝部にもとづいてトト神は月の神となったにちがいない。 

 このように、ヒエログリをあつかう書記および筆記する行為の守護神のトト神は、日本の「桃花鳥」と記す朱鷺の頭を有する神であり 漢字の[弥]の字源や「銀河」の語源とむすびついている。
 だから、【最初のヒエログリフ】は【銀河各部の形状】であり、字数は600~700(あるいは約800)といわれるヒエログリフは銀河から作られたにちがいない。

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